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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

25Miki:2005/12/28(水) 00:25:41
クリスマス1
竹下さん、お元気ですか?もう今年のクリスマスも終わりました。実は私、クリスマスのちょうど一ヵ月前に虫垂炎になって、(それもあまり軽くない)順天堂大学付属病院で手術したのです!その時入院手続きの書類に、順天堂関係の知り合いがいれば書いてくださいと書かれてあったのでリーズの名前を書かせて頂きました。そのせいかとても親切にして頂き、手術には副院長も携わったんです。ありがとうございましたとリーズにお伝えください。このサロンにいらしてる人たちより、とても低レベルな質問ですが、クリスマスって本当は何をするべき日ですか?

26Miki:2005/12/28(水) 00:43:17
クリスマス2
(続き)日本ではクリスマスは社会現象といってもいいほど恋人達のイベント化してます。今年も好きな人とすごせなかった私。そのせいかあんなにメダイユのマリア様に助けて頂いてるのにクリスマスなんてなくなれ!って思ってしまいました。今ではイエス様に申し訳ない思いでいっぱいです。クリスマスってカトリックでは何をするべき日なのですか?どんなふうにお祈りして、どんなものを食べるのかなどさっぱりわかりません。チキンを食べるのはキリスト教の教えですか?私はクリスマスに対して疑問だらけです。よかったら何か教えてください!

27Sekko:2005/12/29(木) 14:30:14
クリスマスについて
 今、日本に来ているので、「チキンを食べるのがキリストの教え」って何?と居候先に聞いてみると、クリスマスにはKFCとか、チキンマクナゲットとか、がすごい宣伝だったそうで、クリスマスは「フライドチキンとショートケーキ風クリスマスケーキ」がスタンダード、と言われてびっくりしました。チキンを食べるのはケンタッキーの教えでは?
 まあ七面鳥というのはありえます。コニャックで味付けした七面鳥にマロンを飾るとか。狩が解禁されているので、ジビエもよくクリスマスの食卓に出ます。普通の若鶏は少なくて、シャポン(去勢した雄鶏)が立派で柔らかいのでクリスマスっぽいですね。復活祭と同じく、イエスの象徴である子羊も良く出ます。イヴの夜の食事とクリスマスの昼の食事と両方が家族の集まリのメインです。
 カトリックではクリスマスの前の4週間が、伝統的には肉を断って地味に暮らすみたいな期間になっていて、その間のミサでは、将来のイエス再臨と最後の審判に備えるような、どちらかというと暗いテキストが読まれます。年間の典礼のどこかで、こういう終末観を入れて、心構えをさせるのですが、これがクリスマス前というのは良くできていると私は思います。今のカトリックでは、「最後の審判は近い、悔い改めよ」と脅すというより、再臨するイエスを迎えるために、うちをきれいにしてお花を飾るような、うきうきして、ケーキを焼くような、そんな準備をしよう、という呼びかけのトーンになっています。そして、その「再臨」の禁欲期間はけっきょく、赤ちゃんの誕生という形でクリスマスに結実するので、明るくかわいく楽しいです。もともと、冬至で、太陽がもっとも低く日照時間が短くなることで、その後、日が長くなります。つまり太陽神の死と再生という古代からの祭りをクリスマスに置き換えたので、4週間の間、日がだんだん短くなり、暗くなる間に、死とか最後の審判とかに思いをはせ、それが最高に達した時に、新しい光、赤ちゃんが誕生してくれる、というイメージがぴったりです。日が冬至の21日とずれているのは、グレゴリウス歴で今の計算をするまで、クリスマスが定着したユリウス暦のヨーロッパでは25日が冬至だった名残です。ヨーロッパにいると、冬の日が短くて、日光不足性のうつ病になる人も多いので、11月末からクリスマス前までの一番暗くて苦しい時期に街にイリュミネーションが灯ることは、心理的なサポートとなります。クリスマスのあとは、寒くても、光の春というか、日がどんどん長くなるのは、生まれた子の成長のようで楽しいです。
 はじめは、33年後に無残な殺され方をすることをみんなが知っているのに、どうしてこの「幼子」をみなが幸せそうに見られるのかと疑問でした。この子は皆の犠牲となって死ぬのに。死ぬために父から送られてきたのに。花祭りのお釈迦様ならもうすっと立って、「天上天下唯我独尊」と偉そうなので、長生きすることも分かってるし悲劇性はないけれど、赤ん坊のイエスというのは馬小屋で、無邪気に寝てるだけ。不憫だと思ってもいいはずだけど、人々は喜んでいる。これは、やはり、その前の4週間における「終末」への思いを経て、たとえ終末があろうとも、いや、終末が視野にあるからこそ、人は誕生を喜び、真に生きるのかもしれないと思えます。そして喪失の予感を抱きつつ真に生きるからこそ、人は愛することもできるのです。Mikiさんに好きな人がいるということそれ自体が生の証で、生のプレゼントだと思います。クリスマスは、好きな人のため、そしてMikiさんのことを好きである多くの人達のため、お祈りしてください。 そしてそういう出会いを用意してくれたことへの感謝を、馬小屋に無心に寝かされている赤ちゃんに投影してみてください。日本ではあいにく、25日を過ぎるとクリスマスは姿を消しますが、教会などに行くとまだ赤ちゃんが飾ってあるのでは? 私は、年々、クリスマスの赤ん坊イエスがかわいく思えてきました。
 イヴのミサではいろいろな歌が歌えるので、教会の音響が良ければ、本当に楽しいです。お祈りもまとめてできるし。でもとりあえずは、「家族のお祝い」というエッセンスを尊重して、貴方を愛するご家族のためにお祈りください。まだ遅くないですよ。1月6日までは「誕生祝」はつづくので。ではよいお年を。

28古川利明:2006/01/16(月) 17:35:45
男系の起源とは
 日本滞在中は、竹下さんの知人の方とも一緒に表参道のカフェで、例によっていろいろなお喋りを楽しめて、満足しています(笑)。その中で竹下さんに伺った中に「結婚制度の起源にあるものとは」という問いに、「父親の画定である」との答えに「なるほど」と思いました。といいますのは、今、「女性(女系)天皇の論議」がウルサイですが、要するに「男系天皇の血」をこれまでに維持できてこれた最大の理由は「側室(制度)」の存在ゆえなんですよね。つまり、これまでは「オトコの天皇」は、「男子」が生まれるまで側室を何人も持って、子作りをすることができたから、「男系の血」というのは保たれてこれたんですよ。しかし、近代の「一夫一婦制」のもとでは、そんなことはできませんから、「天皇制(王政)」と「近代(の婚姻制度)」はそもそも両立しえない運命にあるんですよ。ここの部分は敢えてというか、「わざと」一連のギロンから避けているんですよね(右派・保守も、左派系フェミニストも)。これは竹下さんの領域ですけど、キリスト教にはマリアの「処女懐胎」のエピソードがありますよね。あまりうまく質問ができなくて申し訳ありませんが、そこらのあたりから「婚姻制度」と「男系」というものを斬っていったら、竹下さんの目からはどのように映りますか。欧州にまだ存続している王政のあるところもあるので、そこらあたりも睨みつつ、ぜひ、竹下さんのお考えを聞かせてください。

29Sekko:2006/01/18(水) 02:50:19
男系について
 仕事が押せ押せになってきて、じっくり書けないのですが、このテーマは確かに面白いですよね。あの時お話ししたように、「男が自分の財産や権威を子孫に継承させる」必要が生れた時に、「子孫の確定」のために制度としての婚姻がどの文化でも生れているので、要は
妊娠の管理であり、「一夫一妻」の「一夫」の部分が重要なのですね。「一妻」かどうかは経済力によるだけだったりします。あるいは「一妻」が子供を生産できない時ですね。女性の結婚はたいてい、ヴァージンロードを父親に連れられて夫に渡されるのに典型的に見られるような、「財」の移動でした。
 確かにそういう意味では、聖母マリアが処女であり続けたというのは、「父なる神」の権威を「子なる神」に移行させるためには絶対必要だったのでしょう。それから言うと、男であるイエスには、子供がいては困るという論理は必ずしも成り立ちません。イエスは「教会」と結婚し、キリスト教徒はみなイエスの子というイメージ、聖職者や修道者の独身制や「イエスの花嫁」という表現も、「一夫」が重要なのであって、「妻子の数」はどんなに多くても問題ないのでしょう。
 一神教が「一夫」への貞節をベースにしているとしたら、多神教社会では、もっと母系が残ってもよさそうでしたが、結局、財と権威の蓄積が男系を生むのですね。ヨーロッパでは、財と権威の継承権としての王家の系図はいつまでも残しているから、傍系はいくらでもあって、あまり直系にこだわらないというのはあります。フランスでさえ、今王政復古しても全然平気というか、誰が王になるかという順番は自明のものとしてあります。
 感動的だったのは、敬虔なカトリックだったベルギーの先王ボードワンで、愛する妃(スペイン人)との間に子供ができず、すごく悩んだ末、「ベルギー国民の父」となる道にたどりついたことです。一妻を守ることを、一神を守ることに重ねて霊的な権威を増幅させていき、霊的な財を増やして、弟だったか、次の王に無事引き渡すことができたという感じですね。これがサウジアラビアとかになると、部族国家をまとめるために、アブドルアジズが各部族と姻戚関係を作り、何十人という子孫がいまやネズミ算式に1万人を越す王族になって、強固な消費者のマーケットを形成し、まあ、事実上「一神」を守るというイメージも薄れ、それが、原理主義者を刺激して、という事態になっているので、ベルギーとは対照的です。
 カトリックが国教のモナコは、独身で即位したアルベール公が、他に子供もいる黒人女性と婚外子(男子)をもうけていたことが分かったのですが、これをすり抜けるレトリックも面白いものでした。まあ、ヨーロッパの王家は、王権神授説時代から、独身制の聖職者に対抗して霊的権威をいかにシェアするかというのが課題でした。
 日本では、天皇家はそのまま祭司としての権威を保持し、しかも一神教じゃないから、教会との拮抗や一神教の霊的権威の獲得のために知恵をしぼってきたヨーロッパの王家のような基礎体力がないのかも。王族の「臣籍降下」という感覚はなく、プリンセスは結婚してもプリンセスのままだし「臣籍」じゃなくて「親戚」の世界。分かりやすいのか分かりにくいのかよく分かりませんよね。他に考えることもないではないのですが、とりあえず無難なセンでやめときます。

30古川利明:2006/01/20(金) 20:52:40
いろいろと考えさせられます
 「一夫一婦制」をベースに置く「婚姻制としての男系」の根っこにあるものとして、「財と権威の蓄積」という分析は、「うーむ」と考えさせられます。結局、集約的な農業生産の開始とともに、財産の蓄積、そしてそれとリンクしている貨幣が生み出され、そこから貧富の差や統治機構、さらには「システムとしての男系」が生まれてきているんでしょうね。私の大好きなジャン・ジャック・ルソーしかり、また、レヴィ・ストロースなんかもそうだと思うのですが、そういった「文明の進展(?)」という視点から、婚姻(家族)制度をみているんですよね。本来はそうした研究を専門にしているアカディミシャンこそが、現在の「女性(女系)天皇制」のギロンに一石を投じてもよさそうなのに、例によって、「見ざる、言わざる、聞かざる」ですものね(笑)。「天皇」と聞いただけで勝手に「タブー」だと思い込んでしまっているんですから。「諸君」や「正論」「SAPIO」といった「マッチョ大好き雑誌」はそもそもああいうノリなのは、私はアレで全然、かまわないと私は思うのですが(桜井よしこ等の主張も含めて)、「世界」や「論座」あたり(のツッコミ)がヒドイですよね。フランス同様、いまの日本の左派が腰抜けなのも、こういうところにも一因があるように、私には思えるのですが(笑)

31yoshi:2006/01/26(木) 19:53:13
落ち込むこと
竹下さんでも落ち込むことってありますか。

32くみん:2006/01/26(木) 19:57:34
あこがれ
ピアニストです。フランス人にどうして日本人のピアニストはロマン派が好きなのかと聞かれ、「ロマン派に憧れているから」と答えようとして辞書を引き、J'aspire と答えたら、全然通じませんでした。なぜですか。

33Sekko:2006/01/29(日) 02:17:44
落ち込むことんついて
 一日って、年平均したら、半分は夜ですよね。それで、普通の人は、日没の後も人工の光でまだ起きていて、睡眠というブラックアウトを日に7、8時間に抑えているわけですが、昼ばかりだと地球は焦げつき、夜ばかりだと凍りつくというわけで、起きている時間も、その半分くらいは暗くても自然かなあと私は思うのですが。そう、「普通の状態」があってそこから落ち込むというより、光になったり陰になったりするのっぺりした一日の中で、ブラックアウトの睡眠を楽しみ(小さい頃から、毎日やってくる、寝ることの不思議が、気になって気になってしかたなかったんです)、その中で、たまに他人との関係で、傷つけられたり、元気ををもらったりというのはあります。傷ついた時は、猫みたいに傷口ぺろぺろやって寝て治し、元気なときはそれをおすそ分けするためにわりと外へ出しちゃう方なので、外から見てると「いつも元気」っぽく見えるのかも。でも基本的に今落ち込んでるとか元気とか、「自分の状態」の把握に興味を持たないようにし、あるべきモデルも想定せず、自分の心身状態に関して、ぼーっとした距離感しか持ってません。もちろん病気になったら薬を飲むとかの最低限の対症療法はしますが、健康法もなし、健康診断もせず、です。
 最近、エルサレムから数キロのアブー・ゴシュの修道会の院長が変わりました。この修道会は、12世紀にマルト騎士団が建てた教会にあって、現在10人の修道士が住み、今年創立30年を祝います。30年前に、ノルマンディのベネディクト修道会の院長が、世界の分裂の元は、初期キリスト教とユダヤ人の分裂のせいだと言って、ユダヤ、イスラム分け隔てなく門戸を開き地域社会に尽くそうと、この地に4人の修道士を派遣したのです。今回新院長になったのは、最初の4人の生き残り2人農地の一人、シャルル・ガリシェ師です。
 何で、急にこんなことを書いているかといいますと、このガリシェ師の略歴が紹介されてるのを見てちょっとびっくりしたからです。「1976年、アブー・ゴシュ着任」の後、「1993年、鬱病」とあるのです。その後は、「1996年、パリ、サンタンヌ病院精神科看護師」「1999年、サンテ刑務所付き司祭」「2004年、イスラエルへ帰還」「2005年、アブー・ゴシュ修道院の院長に選ばれる」です。
 聖職者(しかも修道院長)の略歴に、鬱病なんて病名を書くなんて・・・でもわざわざ書くということは、それが彼のキャリアにとって大きい意味を持ち、最終的にはポジティヴだったからだろう・・・それにしても・・・一昔前なら、ここは「信仰の夜」と書かれるところだったろうに・・・と感慨を覚えました。逆に、十字架のヨハネからリジューのテレーズまで、聖人聖女を訪れ苦しめた「信仰の夜」、あれも今なら、鬱病と診断されかねない。信仰にも、昼もあれば夜もある。輝く光に照らされる人ほど、夜の冷たさも、睡眠でブラックアウトできずにひっそり絶えなければならないこともあるのだろう。アート評論のところで書いた12月の展覧会で、メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、鬱病へと変化していくさまをいろいろ見ましたが、神学にまでなっている「信仰の夜」も、ひょっとして鬱病に?
 それで、このガリシェ師がどうして欝になったかといいますと、ノルマンディから一緒に来てイスラエルで17年苦を共にしたアラン修道士の死を看取ったからです。それを振り返って彼は、「信仰は死別の時に役に立たなかった、死はいつも試練だ。しかし、英雄的に喪を生きない、とあきらめて、抵抗せずに受け止めたら、死は新しい生をくれる」と言っています。彼は、2004年にイスラエルに戻り、もう一人の同士である前院長の死を看取り、今度は「欝に落ち込む」ことなく、新院長の任を引き受けたわけです。
 ヴァチカンの聖人認定審査の基本は、英雄的な徳性とか、英雄的な信仰です。だから殉教者などはそれだけで、英雄性が認められるわけですが、この「ヒロイック」というのは、他者のために身を捧げると思えばいいのですが、「強い」とか、「負けない」とかと解釈しちゃうと、夜が来たとき眠れなくなって、「信仰の夜」や欝に突入するのですね。
 ちなみにこのガリシェ師は、1997年の復活祭の夜、ひどい狂乱状態で精神科に運ばれてきた女性が叫んだのを聞いた時に、本当に立ち直ったと言います。看護師がその女性の身につけていた十字架だか聖画のメダルだかを取り外そうとすると、彼女はすごい勢いで、「だめ、これは私の全部だから!」と拒否したというのです。狂乱の中でも残る分かりやすい信仰、小さなオブジェの中にでも自分の全部を託すことができる人の心の不思議、そこにガリシェ師は夜明けの匂いをかぎつけたのでしょう。
 そんなわけで、ショックはできるだけ抵抗せずにやり過ごし、夜が来たら目を閉じ、それでも体調や体質やらの具合で落ち込んでしまったら、それを厳しい目で見ないで、ぼーっと育てていけば、いつか新しい光が差してくるかもしれない、というのが、ガリシェ師に学ぶ欝の正しい過ごし方、でしょうか。
 くみんさんの憧れの質問の答えは、フランス語の質問箱のほうにしますね。

34Masako:2006/01/30(月) 22:08:49
メランコリア考
>
メランコリアの概念が、神や創造と結びついた後、神を失った近代に、ついに体質と病に矮小化され、
最近どうしてこんなに「鬱病」が増えているのだろうと思っていたのですが、「神なき時代の病」とみると、納得できるようなところもたしかにありますね。「存在」の病がprescribeされるレヴェルへと矮小化されたというか。でもそれなら、「神」について西洋人ほど突き詰めた思弁をしない日本人に鬱病が増えているのもちょっと不思議な気もします。生きる意欲の希薄さというのが日本的な「鬱」なのかもしれません。日本人の近年の自殺率の高さを「日本人総鬱病」説で説いている人もいますが、それはあたらないにしても、高率な原因は巷間いわれるような経済的な問題やリストラ云々でなく、現代日本人にはjoie de vivreが欠けているからではないかと推測しています。何でもmake loveの年間回数の最高がギリシャ人で最低が日本人だとかいう、ちょっと笑える統計が最近出ていました。このひとつをもって日本人総鬱病とはいえませんが(joieにはいろいろあるので)、少子化の一因は社会システムだけでなくここにもあるのでは。

35Masako:2006/01/30(月) 22:16:46
下記、1行目のみ引用です
すみません、下記の1行目のみ、その下の竹下さんの言葉の引用です。
<マークがわかりにくくてすみません。

ガリシェ師のお話たいへん感動的でした。
「信仰の暗夜」、十字架のヨハネとか思い起こさせられて、懐かしい気がしました。
「暗夜」とは何の関係もありませんが、少しは体調も回復したので今年は久々に渡欧して
憧れながら行ったことがなかった、コルマールへ行ってみたいななどと
考えています。イーゼンハイムの祭壇画を一度見てみたくて。

36Sekko:2006/02/01(水) 02:50:46
アルザスは・・・
 アルザスは冬すごく寒くて、夏すごく暑いので、春か秋がお勧めです。時期がわかれば、パリの宿泊先とかアレンジできますよ。アルザスはホンと、フランスじゃないですね。長崎も日本じゃないなあと思いましたけど。日本の自殺率の高さと少子化とセックスレスが関係していて、Joie de vivre が欠けているという推測は怖いです。実は私も、「それを言っちゃおしまい」というので言うのを控えていますが、日本って決定的に変と思うことがいくつかあります。
 熟年離婚のことなどはこちらでも報道されてショックだという人がたくさんいます。昔よく「亭主丈夫で留守がいい」とか「仕事とSEXは家庭に持ち込まない」などという言葉がありましたが、この二つもすごく深いところで怖いですよね。
 まあ病気としての欝はもう人生のアクシデントとしか言いようがない側面もあるので、ケースバイケースで対応し、自傷や他傷を事前に防ぐため周囲がベストを尽くすしかないとは思いますが。でも適切な言葉のコミュニケートによって回復することもあるので、そういう言葉を模索していくことは大切だと思います。

37古川利明:2006/02/01(水) 21:16:22
私もアルザスは・・・
 竹下さんの「アルザスはフランスではない」という発言に思わず驚いてしまって(笑)、哲学・宗教の話題から外れてしまいますけど、ひとこと。私もフランス国内はだいたい回った(つもりな)のですが、それでも「空白域」がまだ少しあって、その一つがアルザスです。東部地域のミュルーズまでは行ったというより、クルマでかすっただけですけど、その北、例えばストラスブールなんかは自慢ではないですが、一度も行ったことがありません。そもそもドイツ自体、まともに滞在したことがなくて(それはイギリスも同じ)、ポーランドは何度も行っているのに、ドイツはいつもワルシャワから(直通の夜行バスで)通過してしまうため、自分の中にはドイツはベルリンも含め、「街の記憶」というものがありません。ストラスブールあたりだと、食事なんかもドイツ料理そのものだ(じゃがいもにソーセージ、サワーキャベツ)とか聞きますし、「最後の授業」じゃないですけど、「フランスの中のドイツ」なのでしょうかね。しかし、そんなことを言ってしまったら、ペルピニャンはスペインですし、マントンはほぼイタリアですので、「国境」っていうのも、人間が便宜上、人工的に引いたものに過ぎないんだなあと思います。ユーロも流通して、前みたいな両替の煩雑さやパスポートコントロールもなくなったことですし、今度そっちに行ったら、たまにはフランスの国境の外に出てみようかなあ、と思っています。

38Fusako:2006/03/07(火) 23:43:53
鬱の話
たまたま竹下さんのご本を読んだので。フランスの少子化対策、じゃあない(「少子化対策」は日本での用語でした)「家族政策」について調べていて、ついでにあれこれで、竹下さんの本に行き当たりました。
で、家族政策と離れて、「鬱」の話。日本で鬱、自殺は増えています。で、欝はたいてい職場がらみか、或いは、これはあまり表に出ていませんが、家庭がらみですね。職場の問題は、教員・公務員・自衛隊に鬱が多い。企業にも増えていて、要するに仕事が回らないので問題になっています。民間ならとっとと首にするのを、公務員では解雇できないので、公務員の鬱が問題になるわけです。
自殺は経済問題。自殺も、「死んだことになっている」、つまり、戸籍から抹消されたホームレス(フランスで言えば、SDF、sans abris)も、借金(消費者金融という「金貸し」)苦からの逃避が、これも、仕事がらみですが、多いようですね。
フランスや北欧もけっこう「鬱」があるとはききますが、日本とはかなり違うのでは?

39Sekko:2006/03/08(水) 07:32:16
欝の比較文化
 北欧やフランスの特徴的な欝にはやはり、冬の日照時間が短くて、それがホルモンだか脳内物質の分泌だかに影響して、というのがあり、ハロゲンランプとかを毎朝2時間照らして治療したら緩和するというのはよく聞きます。ここのとこずっと天気が悪く、雨の翌日たまに青空が出ると、芽の出かけている木々が嬉しそうなオーラを出しているのに初めて気づきました。木は危険を察知すると化学物質を出してコミュニケートするとか聞いてましたが、嬉しい表現もあったとは、驚きました。全部の木じゃなくて、同種の木が集まっているところにたまに。
 というトンでも話はこれくらいにして、私は、このごろ、鬱病も自閉症などコミュニケーションと同じように、グラデーションを成していると思っています。普通に活動意欲のある部分から、まったくゼロになるところまで、漸進的にグラデーションがあると。それで、意欲の針が、職場の問題とか家族の問題とか、体の不調とか、日照時間の短さなどによって、どんどん、あるいは少しずつマイナスの方にぶれていく欝も確かに存在します。この契機は文化によってすごく差があり、カイロのスラムで何十年もヴォランティアをしていたシスター・エマニュエルが言っていたように、すごく貧しい生活でも、それが欝の契機にはならないで全員インがヴァイタリティに満ちている場所もあり、戦争中で空襲されて逃げているとか、収容所の中とか、サヴァイヴァルのアドレナリンが出ているような状況でも、欝への傾斜はないようです。何らかのきっかけでマイナスに傾斜していく場合も、少しずついい方に引っ張るより、ショック療法というか(たとえば家族が事故にあうとか、事件を起こしたとか、自分の体の方がSOS を出すとか、天災に巻き込まれるとか)、背に腹は変えられないというような状況にあって驚いて針がプラスの方へ向かうことの方が多いようです。欝に向かっていても、安定剤のような薬を飲んでいない限り、意識は明晰な人がほとんどですから、ケースバイケースで、カウンセラーを受けさせたり、原因を取り除く(太陽灯をあてるなどもふくめ)工夫を周囲の人ができればいいのですが。人の心をもっとも動かせるのは人の言葉だったりするので、適切な言葉を探して声をかけるというのが効果を発することもあります。
 しかし、体験のない人には想像しにくいかもしれませんが、欝の中には、意欲の針が、何の契機もなしに、グレーゾーンを通らずに、ぽんと、限りなくゼロに近いところに振れてしまうものもあるのです。これは前にも書きましたが、人生のアクシデントとしか言いようのないものです。ホルモン変化(つわりや更年期など)や他の病気が原因の時もあり、それは、じっとやり過ごして原因が取り除かれるとけろりと治ったりするのですが、うつ状態にいる人は、いつか治るという見込みや希望を自分では感じられないので、頭で理解できるように情報を与えるべきです。
 そうでなく、ただ、まるで遺伝子にプログラムされていたかのように、青空が広がろうと、健康状態がよかろうと、ただ、ぽんと針がマイナスに振れる時、これが一番、周囲の理解を得られにくいこともあってつらいし、文化や生活史から隔絶しているので、手のつけようがありません。活動意欲ゼロの上に孤独を抱え込みます。しかし、このタイプの中にも、周期性をつかんで、小康状態のときにいい仕事をするとか、意欲がなくても機械的に普通の生活をするとか、いわば「高機能鬱病」の人もいます。こういう人は、グレーゾーンを通過してきた個人的痛みやつらさがない分、一種抽象的な「死」と共存しながら、結構長く生きたりもできます。自殺する意欲もない時より、小康状態の時の方が危ないので、小康状態の時をどうやって管理するかが大事です。理由はなくとも、生れたからには生きて、自分の中の「生命」の部分に水をやって育て、他者との関係を結び、「死」の部分は覆いをかけて、繁茂しないようひ弱にしておく、と心がけるといいですね。
 って、あまり答えになってませんが、要するに、欝や自殺で比較文化が成立するような部分は、まだ、他者が助けになってあげられる段階なので、問題解決のためにみんなで力をあわせましょう。リストラや借金、老いや病気、私たちや私たちの大切な人にもいつでも襲いかかり得ることです。私で役にたつことがあれば、心の問題でもこのコーナーでどうぞ声をかけてください。

40Fusako:2006/03/09(木) 23:10:27
鬱、続き
お返事をありがとうございました。でも、わたしがおたずねしたかったのは、そう、日仏、ないし、日欧の違いですね。Joie de vivre という言葉を見て、日本でそれに当たるのは何かしら、と考えました。で思い浮かんだのが、全く逆の「生活苦」、で、日本人はこれで鬱になり、自殺するんですよね。もう一度ひっくり返すと「生活苦」という言葉がフランスにあるか、ということになりますね。
日本の鬱の場合、「生きる意欲」がなくなる、というより、「これでは生きてゆけない」と思いつめてのもの、で、欝であることがわかったらクビになる、と思いつめてひた隠しに隠してどんどん悪化する、とかね。病気ですから休みます、というAbsenteismeは日本ではあり得ません。
わたしは、あまり日本人ではないので、一時鬱になりましたが、それは友情の破綻によるものでした(ずっと後からわかった)。でも、たいていの日本の鬱、って(「メンタルヘルス」というのが最近の用語)、仕事や勉強がらみ、金がらみ、です。仕事がらみ、というのは、前回書いたように、業績不良だの、いじめ・セクハラで鬱になる現象。日本には、仕事をやめたらヨーロッパ型の生活扶助や失業手当がありませんし。そういうものがあって消費者金融というか「高利貸」に頼らないですめば、とか、フランスの家族手当ほどの現金給付(子ども一人に月額二万弱?)があればどれだけの子どもが育てられるか、とか、お金だけの問題ではないのですが(お金を出すシステムは国民の合意にもとづく社会政策から導き出されるわけですし)、考えています。これまた全然違う話題ですが、熟年離婚も、生活できるお金が保障されれば離婚する、という話です。

41Sekko:2006/03/10(金) 06:07:44
生活苦
 すみません。哲学宗教の質問箱だったので、欝は、理由のない、不条理な、「小さな死」のような、文化の比較を超絶したあの鉛のような鬱病を念頭においていたので。別に理由がはっきりしている欝の方が「軽い」とか治りやすいとかしのぎやすいと思っているわけではありませんが、理由なき欝の孤独は、社会状況や個々の生活史とは関係のない、人間の実存の深淵と結びついているようで、時々考えこんでしまいます。こういう欝の体験者がいらしたらコメントください。
 今TVのニュースを見てたら、フランス人の健康調査があって、自分が欝状態にあると感じているフランス人は8パーセントいて、その中の38パーセントが医者に通うとありました。言葉は低気圧と同じDepressionなので、イメージ的には「落ち込み」に近いですけど。
 昨日見た別の番組で、アメリカ人が自国とフランスとを比べて、アメリカは野心があればどんどん昇れるけれど、そこから落ちたりすると悲惨だ、それに比べるとフランスは負けたり失敗したりすることに寛容で、成功者の方がむしろ嫌われると言っていました。
 日本はむしろフランスの方に似てる気もしますが、日本の方が「世間体」を気にしてと言う要素は大きいでしょう。「生活苦」にぴったり当てはまる言葉は確かにフランス語にないし、「Joie de vivre 」にぴったりの日本的表現もすぐに思いつきません。きっと、フランスでは、きれいな服を着ておいしい物を食べて、飲んで、おしゃべりしてというのが長い間、王様から庶民までの分かりやすい幸せと善のコンセンサスだったのに比べて、日本では、武家に寡黙で質素な儒教文化が浸透して、着飾っておいしいものを食べるのは遊郭とかの「悪所」で、素直に喜びというより「遊蕩」のイメージがあったので、ずれているのですね。
 失業したりの純粋な生活苦というのはどの国にもあるし、そのために社会から疎外されるのは特に先進国の問題ですね。日本風の熟年離婚はあまりこちらでは聞きません。普通退職金というものはありませんし、相手が嫌になったら熟年まで我慢するという発想は多分ないです。日本は戦後の高度成長期に、専業主婦を夫婦のモデルのようにして社会が成り立っていたから、育児の途中で離婚したら母子の生活が成り立たない現実があって、それで熟年まで待ったりするんですね。フランスに5年住むアフガニスタンの学生が、初めてパリに来たときメトロの中でキスするカップルを見て驚いた、誰も気にしていないのにも驚いた、セクシャリテが楽しみのためにあるのだと知った、と言ったら、周りのフランス人は笑いました。彼らには楽しみ以外のセクシャリティが可能なのか一瞬分からなかったのです。アフガニスタンの学生は、僕の国では子供を作るためのものだと思っていたと答えました。フランス人たちはみんな虚をつかれた感じでした。彼らにとってはセクシャリティは「おいしい食事」と同じカテゴリーに入っていたようです。

42Masako:2006/03/10(金) 13:00:47
実存の深淵
下記のジャミソンの本は未読ですが、衝撃を受けたのでよく覚えているのですが、
パラパラと見たとき最初の方に、自分は深く鬱からくる自殺の誘惑と
戦っていて、同じ誘惑にさらされている友人ととにかく何らかの兆候が
相手にあったら何としてでも阻止しあうという約束をしていた、という
くだりがあって、ここを読んだ時、実存の深淵を垣間見たような、非常に深い
苦悩を感じ衝撃を受けたことを思い出しました。
「存在苦」と言えばよいのでしょうか、
そういう苦悩です。

ジャミソン自身、躁鬱病に苦しみながら、精神科医として素晴らしい仕事をしつつ
著作活動をしていて、アメリカでは非常に読まれています。

「早すぎる夜の訪れ―自殺の研究」
ケイ ジャミソン (著), Kay Redfield Jamison (原著), 亀井 よし子 (翻訳)

43Sekko:2006/03/12(日) 06:47:24
躁について
 ジャミソンの本、検索するとあまりにも面白そうだったので、今日早速、パリの本屋で仏訳を入手しました。彼女が躁欝で、躁の状態を知る故に、この病気を後悔しないみたいなことが興味深いと思ったのです。「普通」と「欝」の2状態の人には、欝からの回復が目標になりますが、「躁」の味を知っている人は欝のどん底にいても躁へのノスタルジーがひそかにうずいているので。そして、いったん躁になったときは、それも、周囲との状況とは全く隔絶してたりするので、欝のときに労わっていた家族は、ちょっと呆然として、躁を素直に喜んであげられない、「普通」を分け合えない断絶があります。「躁」は同情を得られない分、ある意味、欝より孤独であり、欝の予感があるので「生き急いでしまう」面もあります。この辺を
ジャミソンがどうとらえているか興味深々です。すべて「養生」は「中庸」にあり、それを侵犯して生きる躁鬱は、スリリングでもあります。(もちろん「生活苦」に由来する思いつめとは別の問題です。しかし、どちらも、あまりにも人間的な現象です。)

44Fusako:2006/03/13(月) 21:30:39
躁と鬱
鬱ときくと、ラフマニノフの曲をなぜか連想しますが、ラフマニノフには躁の要素はないような。昨年聴いたエレーヌ・グリモーのショパンがラフマニノフのような音で、色で言えばグレイでしたね。
こういうあっちこっち不安定に揺れ動くロマン派と違って、古い曲はバランスのとれた端正なものばかりのような印象があります。
忙しかった一日を終えての四方山話です。

45古川利明:2006/03/14(火) 13:15:43
面白いですね
 この躁鬱論議が面白かったので、私もチョット書きます(笑)。しかし、アフガニスタンから来た人への、フランス人の「楽しみ以外のセクシャリティにいったい、何があるんだ」との発言は何ともスペシャルですよね。もともと明治以前は日本のカルチャーもセクシュアリティに対して、もっとオープンだったと思うんですけど、例の「富国強兵路線」で、そういうものを「いかがわしいもの」と抑圧してきた部分はありますよね。かび臭い儒教的な発想を引っぱり出した部分もあるかもしれませんが、結構、アングロサクソン的なピューリタリズムもあるかもしれませんね。フランス人に比べて、日本人に鬱が多いというのは、そういった社会に存在するさまざまなタブーの存在とも関連があるような気がしますが。

46Sekko:2006/03/19(日) 01:35:33
ジャミソンの本
 私の買ったジャミソンの本はMasakoさんの書かれた自殺の本とは違う自伝のようです。一番よく読まれているという話だったので選びました。まだ全部読んでませんが最初はかなり違和感がありました。この本がこんなに人気を博したのは、「こんな病気を抱えている人でも社会的に立派に成功し幸せになれるんだ」と励みに思う人か、「こんなに立派な偉い人でも、実はこんなに苦労しているんだなあ」と自分を慰める人かどっちかに受けたような気がしたのです。躁の初期に一種の啓示を受けることへの著者の自覚にも、不思議に共感できませんでした。それに、躁で舞い上がって、浪費したら、頼もしい立派なお兄さんが飛んできて借金を清算してくれるんですよ。いや、別に、彼女が躁の落とし前をつけないことに嫉妬しているのではなくて、結局、彼女が金のあるWASPで、若くて頭がよくて、金髪碧眼の美女であることがすべてを変えるなあと思ったのです。
 どんなに躁鬱が実存的に苦しくても、金や権力やコネや若さがあれば、かまってもらえる。(アル中から復帰して大統領にもなれる。)しかし、年寄りや障害者や貧乏人の欝とか、女子供や凡人の躁は、無視されたり制裁されるだけ。結局、普通の世界の差別構造が、より先鋭化するのが「病気」というフィールドなんだなあという思いです。

47あんとに庵:2006/03/19(日) 09:19:54
十字架の聖ヨハネ
う〜む。鬱を巡るお話面白いです。わたくしも鬱傾向があるので。
「十字架の聖ヨハネ」が現代では鬱と診断されてもおかしくないというくだりに。おおう!と。
あのメンタルは画家が作品に悩む時によく体験する精神なんですね。「暗夜」を読んだ時の規視感といったら。
そしてアート論評に書かれた「怠惰との親和性」というのはもう痛いほど経験中と申しますか。(その辺り、怠惰とメランコリアについてもっと読みたいなぁ・・・)ダ・ヴィンチの作品の少なさも関係してるんでしょうか?ダ・ヴィンチのような天才ではありませんが、作品へ向えない、そのエネルギーの枯渇というのはよく体験します。ことに最近その傾向が強いのですが、鬱だな・・と思ったり致しますね。逆に作品を描くパワーってどの辺りから来るのかと自分でもわからない時がありますし。まぁマイブームがなんらの形で生じている時というのは作品に向える。そういう時は大抵操に入った状態かもしれません。マイブームの時の活動力は鬱時の10倍はあります。近年ではフィリッポ・リッピがマイブームだったことがありイタリアでリッピばかり見ていたりとんでもない分厚い画集を買い漁り、揚げ句の果てに絵柄までリッピになり、カルメル会にあこがれ、なんだかもう大変でした。しかし鬱になるとそういう意欲が全然無くなり草食動物化します。仕事の意欲も枯渇して困りますね
そういえば鬱の言葉が低気圧と関係があるとのこと。私は低気圧になると鬱状況に陥ります。何故かそうなりますね。かといって晴れたら操になるかというとそういうわけでもないのですが。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/

48Fusako:2006/03/19(日) 12:58:07
日本の若者の状態
鬱、とか、生活についてこちらに書くきっかけになった竹下さんの本は「カルトか宗教か」でした。「家族政策」と全然関係なさそうですが、風が吹いて桶屋になり、ついでに鬱となったのは、特に日本の失業者、とりわけ若年層を考えてのことでした。
フランスでは、今、暴動に続いて初期雇用契約で若者がまたまた行動していますね。日本では、ニート・フリーターという、若年の失業者・非正規雇用者がこれも大きな問題になっていますが、政策なんてないに等しいです。特に、これを「鬱」と言うべきか、「引きこもり」などの生きる意欲に欠けている若年が大量にいるのに対して、全国にNPO頼みの委託施設をわずかに数十箇所指定し、それも効果が疑わしいし、失業対策に本腰を入れるなら強化しないとならない職安は民営化し、そうでなくとも労働法と関係ない口入産業の派遣・請負業ばかりがはびこっています。人を転がす口入産業、金を転がす銀行(儲かる企業だけを向いている)と高利貸(セーフティネットのない社会で市民にはこれしかない「消費者金融」)ばかりが肥大化する社会。
特に若い層が、まともな賃金と労働時間でまともな生活ができる社会でなければ、子どもも持てないし、Joie de vivre なんてないですよね。
そういう中で、これは計量化できないけれど、日本の若者の「心」ってどうなってきているのか気になっています。欧米ほどの暴力的カルトではないけれど、もともと、あまりものを考えず、自力で生活できる意欲にも乏しく成長している日本の若年の中にはびこっている、あるいは、若年の中にできている空洞に入り込んでいるもの、それが気になっています。

49Nao:2006/04/10(月) 16:44:54
ユダの談合
????4/7,読売朝刊から。
????米国の科学教育団体「ナショナルジオグラフイツク協会」は6日、1700年前の幻の「ユダの福音書」の写本を解読したと発表した。イエス・キリストの弟子ユダがロ−マの官憲に師を引き渡したのは、イエスの言いつけに従つたからとの内容が記されていたという。解読したロドルフ・カツセル元ジュネーブ大学教授(文献学)は「真実ならば、ユダの行為は裏切りでないことになる」としており、内容や解釈について世界的に大きな論争を巻き起こしそうだ。

????イエスはほかの弟子とは違い教えを正しく理解していたとユダを褒め「お前は真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になる」と,自らを官憲へ引き渡すよう指示したという。

竹下先生
????このことはフランスでは、どんな議論になつているのでしょうか?これからなのでしょうが、フランスの論議がでてきましたら、是非ご紹介いただきたくぞんじます。

50Sekko:2006/04/10(月) 17:39:42
ユダについて
「ナショナルジオグラフイツク協会」は4月9日、15日、27日にこのテーマでTV番組を放映し、その後5月3日号でユダの福音書のダイジェストを発表するといっています。この中でユダは、裏切り者から「英雄」さらに「聖人」として復権という機運があります。
 しかしこの福音書はすでに2世紀からリヨンの司教エイレナイオスの異端論によって伝えられていて、325年にニカイアの公会議によって、他の30ばかりの外伝と共に正典から外され失われました。1978年になってエジプトの洞窟から農民が1部を発見、おそらくグノーシス派の一派カイン派のものだと思われています。カインの子孫と称するこの一派は、3世紀から4世紀ごろに、この「ユダの福音書」を手写したようで、元は、正典の4福音書と同時期(1世紀後半)にギリシャ語で書かれたものだと見られます。
 この手稿の現在の所有者で、エジプト政府に返還を決めているスイスのMaecenas財団で分析されるまでに手稿は痛みました。16年もアメリカ系銀行の金庫に眠っていたため、パピルスが乾いて、上部は裂けたそうです。キリスト教考古学者らが改めてユダの立場について研究しましたが、それ以来巷に出てきた「ユダ擁護」の本はすべて、イデオロギーの色のついたものです。ピエール=エマニュエル・ドザの『ユダからホロコーストへ』は、教会がユダをスケープゴートにして、反ユダヤ主義に必要だったユダヤ人像を生み出し、それがヒトラーにまでつながったとします。ニコラ・グリマルディ(『Le livre de Judas』Puf)によれば、ユダは、イエスの教えがモーセの教えと合致しているか審査してもらおうとしてイエスを司祭に引き渡したのだ、神の意思を確認したかったのだということです。今出ている本のたいていは、学問的考証の影に反教会主義が見え過ぎているものが多そうです。
 でも西方教会ではユダだけじゃなく、ユダヤ人全体が「イエス殺し」「神殺し」という汚名をずっときせられてきました。それは、西方教会を担うローマ人が、ローマ総督ピラトがイエスを有罪にしてローマ式の十字架刑を執行したというイメージを嫌って、「イエスの死を望んだのはユダヤ人」という印象を強める必要があったからでしょう。日本人などの眼から見たら、イエスだって、12使徒だってユダヤ人なのに変だなあと思うのですが、コスモポリタンでギリシャ的なパウロが普遍宗教のキリスト教を創っていったこともあって、イエスのユダヤ・ローカル性からローマ世界帝国領内の人々の眼をそらせるために、「イエスを殺したのはユダヤ人」という形を強調したのでしょうか。今もホロコーストの後遺症が大きいヨーロッパの反ユダヤ主義の根は、キリスト教の「神殺しのユダヤ人」史観そのものにあったので、「ユダ」という一人の裏切りにあったのではない、ユダの裏切りの物語は、イデオロギー的ではなくむしろ人間的な物語としてインパクトを持ち続けてきたと思います。でも私が『キリスト教』でちょっと書いたように、ユダの名前が「ユダヤ人」と重なるのが皮肉でした。彼がシモンとかヨハネという名だったら、大分変わってきたとおもうんですが。
 それで、またアメリカですが、アメリカのメディアが今急にこのことを大スキャンダルであるかのように言い立てるのは、ひとつにはユダヤ人コミュニティのロビーイングの力に支えられたイデオロギー的なものだと思いますし、キリスト教が原理主義的に政治勢力となっているアメリカだからこそ効果があるのですね。フランスでは、One of them という感じです。でも、『ダ・ヴィンチ・コード』の大成功以来、フランスでも、宗教無教養派がアメリカ由来の「スキャンダル」に飛びつく傾向があるので、この『ユダの福音書』を種にしてまたダン・ブラウン、または第二第三のダン・ブラウンがベストセラーを書けばいいなという雰囲気ですね。
 カトリック自体は、すでに4世紀の時点で、この福音書を正典とは認めないという立場を決めてしまっているわけですから、それを前提に発展しているので、個人の信者が動揺するとかは基本的にありません。信仰は考証や証明とかではないし、真実とは史実とイコールでもないのですから。

51Fusako:2006/04/10(月) 23:23:23
ユニヴァーサリズム
別のことを調べていて、フランスのユニヴァーサリズムについて触れた文章に行き当たりました。先日出ていたセゴレーヌ・ロワイヤルさんはPACSの方ですよね。で、これはフランスの同性愛者の問題についての研究者が書いたもののようですが、PACSは、フランスの実際的ユニヴァーサリズムの例である、というものでした。
http://www.ambafrance-jp.org/IMG/pdf/Pacs.pdf

52あんとに庵:2006/04/12(水) 18:56:25
ユダについて
sekkoさんのおっしゃられる通り、ユダが裏切り者だったからユダヤ人が・・・というのは本来的にはあまりないですよね。それよりもユダヤ人の中にある「反教会主義」の動向が気になりますね。何故なのでしょう?

53Sekko:2006/04/24(月) 01:22:42
ユダの福音書〈続き〉
ユダの福音書ですが、最近読んだコメントでは、それが「全ては宇宙的デザインにしたがってオーガナイズされていた」というグノーシス的世界観に傾くところが問題だとしていました。正典の福音書もよく見れば、イエスがユダに「しようと思っていることをしなさい」と言ったり、最後の晩餐のあの雰囲気で、ことの次第を見抜けなかった他の11使徒の方がお間抜けな感じです。オリーヴ山でのあの苦しみを見ても、イエスは次の日に逮捕されても「驚いた、ショックだったよ、弟子に裏切られて。晴天の霹靂。」というような状態じゃないですね。それにもちろん旧約の預言の成就というグランド・デザインがあるわけです。だから、『ユダの福音書』のようなテキストが嘗て流布していたことは不思議じゃないし、そんなにスキャンダラスじゃないですね。
 アングロサクソン国でまた騒ぐとしたら、ひとつは「復権ブーム」もあります。「ダヴィンチコード』が女性原理だの女神だのマグダラのマリアだのの「復権」を書いたように。
 また、ピューリタン系プロテスタントが、聖人伝系テクストを否定してきたので、「外伝」と聞くとすわ「秘密の伝承」と色めきたつ事情もあります。実際は、このユダの福音書が発見された洞窟文書は66ページ、13の手稿があり、そこにはヤコブの原福音書とかペトロの手紙とか、アロゲネスの書〈そのテキストの2つは1946年のナグ・ハマディ文書と重複)とかあるんですが、たとえばヤコブの原福音書が、ヨセフを老人の姿で描く伝統のもとになっていたり、別の、偽マタイ福音書とかが、イエスが馬小屋で生れ、馬やロバに囲まれていたという伝承を流布させたのだということは知られています。正典が採択された4世紀ごろには頃には、さまざまなテキストが出ていて、外伝となった後も実際は伝承の中で生き続けていたわけです。しかし、そういう枝葉を取り払ってできたプロテスタント世界では、外伝がメディアに出て来るたびにスキャンダルになったり、それを政治的宗教的に利用しようとするグループがでて来るわけですね。
 しかし、よく考えると、ユダの「裏切り」はすでに旧約の成就というグランド・デザインの中に位置づけられていたのですから、単純に「悪者」と見なされていたわけではありません。ボルヘスのように、「人類全てを救うためにもし神が屈辱を必要としていたのなら、真のメシアは沈黙のユダである」といった人もありました。裏切りもまた、神に対する人間の自由のひとつの表現だと見る意見もあります。ユダのおかげで、キリスト教世界の人は、いろいろな自問や思索を余儀なくされ、「裏切り=悪」という二元論的で単純な断罪の誘惑と戦ってきたのだと思います。
 裏切りといったら、他の11使徒も、イエスが殺されるまでちりぢりになって逃げて知らん顔していたのですから、これもひどい話です。80歳で弟子に囲まれ食あたりで死んだ釈迦に対して、33歳で弟子たちに裏切られて死刑になったイエス、それでそれが神の子で、そういうパラドクシカルなところがこの宗教の人間的魅力になってます。それを、「今まで悪人とみなされていたユダは、実は善人だった」という単純な「実はいいやつ」復権話で矮小化されたくないという感じですね。
 そして、ユダヤ教をキリスト教に接ぎ木するためのアクロバティックでパラドクシカルなグランド・デザインを、「全ては宇宙的な予定調和」という形でニューエイジ風に拡大希釈してしまうのも、また魅力を半減すると思います。それに危険でもあります。前世がどうとか先祖の霊がどうとかと言われるのと同じで、判断力や思考力の求められる余地がなくなるので。ユダやペトロのせいというか彼らのおかげで、キリスト教に陰影がもたらされて、永遠にじたばたするのは人間的でいいかも。

54Fusako:2006/05/12(金) 23:00:02
週末の四方山話
今週、フランスに住む友人と夕食を一緒にする機会がありまして、出かけるときに地下鉄に乗り、ちょうどその車両が「女性専用車」。「増えてるんですか。」とたずねられて「増えてます。」わたしは利用しませんし、良いと思えない傾向ですが、これってコミュノタリスム車両?
鬱話では、景気回復といわれていますが、日本の自殺は結局8年連続で3万人を超える、との報道がついさきごろ出ましたね。

55Sekko:2006/05/17(水) 02:24:02
女性専用車両
 女性専用車両、私は一度乗りました。ホームで待ってる時から華やかそうでなんだかわくわくしました。サウジアラビアみたいだと思いました。女性は他の車両でもOKなのに男性が乗れないのは気の毒な気もしました。歌舞伎座とかで女性トイレがいっぱいの時、女性(おばさんですが)は平気で男性トイレに入っても非難されないことを思い出しました。
 その後で、何かの雑誌で、この車両についてある男性作家が、どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさんまでが女性車両を利用していると書いていたので、驚きました。女性車両に乗るのは性的価値の自己申告だというのです。ひょっとして「若い女性」専用車両だったのかとびっくりしました。サウジアラビアの生活指針には、初潮からは顔や体を黒いアバヤで隠すのですが、閉経後も美しい人は隠さねばならないと書いてありました。リヤドでは、実際はおばあさんでも、いや、年配の女性ほど、家の中でも寝る時以外はヴェールをすっぽりかぶっている人が多いと聞きました。通りでは、全身黒で顔も見えないので、はっきり言って、老若や美醜どころか、性別も分かりません。ヴェールを外す人だけが、自分は男だとか女でも性的価値がないだとかカムアウトするわけです。(サウジでは性的価値というのは要するに男を誘惑する罪の根源ということです。) レイプは基本的に首切りの死刑なので、深刻です。
 本当に男が全て女を襲うのなら、確かにライオンとシマウマは同じ車両に入れられないとも言えますが、人間なんだから、すべては文化現象ですよね。でも、少なくとも東京とパリに暮らしたことのある女性はきっと、パリでは映画館やメトロで痴漢に会わないことに気づいていると思います。初めは、日本の映画館は自由に席を選べるけれど、パリでは(特にひと昔前までは)全て案内嬢が席を決めましたからそのせいで痴漢目的の人は来ないのかなあと思ってました。映画上映中の館内は日本よりも真っ暗になります。でもメトロでかなり込み合ってもまず痴漢はいません。
 別にフランス人の方が上品だとは思えないのですが、言えるのはフランス人女性だったら触られたら叫ぶ確率が非常に高く、そしたら周りにはそれに介入する乗客が多いだろうと言うことです。そういう予測がつくので、自然とブレーキがかかるのでしょう。リスクが大きすぎるということでしょう。それ以外にパリに痴漢が少ない理由は思いつきません。私も日本にいた頃は、映画館で何度も黙って席を替えたりしましたが、叫んだことはないです。フランスだったら叫ぶと思いますね。誰かがきっとフォローしてくれそうだから。日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか。逆に今は、狂言で叫ばれたら即男性の人生破壊というくらいインパクトが強くて、男性は戦々兢々、男性専用車両に乗りたい人もいるかもしれません。
 娘がルーマニアの学会に行ったとき、東欧の女性研究者はみな下着のような服で発表したと言って驚いていました。西欧ではみんな雑誌のグラビアのような服を着ていると思っているらしいというのです。フランスではむしろモノセックス的なカジュアルな服が多いです。白衣の下はジーンズにスニーカーでもOKで、日本で順天堂医大に研修に行った時はだめだったようで、黒い靴と黒いパンタロンを買ってました。体をどう包むかというのはジェンダーの大問題ですね。

56Fusako:2006/05/17(水) 23:14:44
女性専用車両(続)
これだけではなくて、今の日本の公共交通でのマナーの悪さ、ルールのなさ、に失望しています。空いている席をめがけて、若い人や子どもが、年上の人を押しのけてダッシュするのが普通の状態です。痴漢も多いようですね。わたしは流石に今は「どう見ても痴漢に襲われそうもないおばさん」であることと(でもこの表現は嫌いですよ、痴漢されるぐらいなら女として認められている、という言い方ですね)、そんな風に、女性用、高齢者用、障害者用、と分ければいいとは思えないのと、それにもう一つは、女性専用車両を使っていた娘が「あれもすさまじいものがあってね、化粧はし放題だし、同性だからという遠慮のなさか、ぐいぐい押してくるし・・・」という話にへえー、というのがありまして、使わないです。
男性、女性、あるべきように自然にいて、お互いに言うべきことはきちんと主張できるのが望ましいですよね。日本の男性と女性のあり方、ってとても不自然だし、対等でないです。毎日毎日、それにイライラしています。だいたい、男女が、自然に半々に近い組織というのがほんとになくて、仕事の組織では「オールブラックス」がいまだに大半。たまに女性の多い組織だと、女性の問題点がもろに出ます。重箱の隅をつつくような細かい揚げ足のとりあい、優等生志向、人間関係と仕事とが感情的にからまりあっている、視野が異様に狭い、・・・でわたしは、日本自体が、どうもそのような女性的社会ではないか、という印象を持っています。

57古川利明:2006/05/18(木) 20:40:55
女性専用車両
 この女性専用車両、私なりにいろいろと考えさせられるものがあります。一般的には「痴漢対策」ということなのでしょうが、それって痴漢は「男性から女性」というふうに捉えられていて(もちろん、それは事実だと思いますが)、でも、以前、東海道線の満員電車に乗っていて、私、脂ぎったオバハンに股間へ太ももを差し込まれたことがありますよ。向こうは気持ちいい表情をしていて、「カンベンしてくれ」と思いましたが、こうした「男性の被害者」もいることを知ってほしいのが一つ(笑)。でも、こうやって「男性」と「女性」という枠にカテゴライズさせて、問題解決を図ろうとする手法っていうのは、非常にコミュニタリズム的ですよね。それと、直接的には関係ないのかもしれませんが、映画の「毎週水曜日は女性だけ割引料金」というのも嫌ですね。ただ、世の中、男女差別がいろんなところではびこっているので、そういう「罪滅ぼし」なのかということで、自分を納得させてますけど。とりわけ日本の社会は「男女差別」というより、「男尊女卑」が徹底しているんですよね。女性という存在に対するリスペクトの念がない男はダメですよ。男女間に体力差は一般に存在しますけど、能力に関しては基本的に「格差」はない、という立場です。ただ、ジャーナリズムなんかは、3Kなんていう生易しいものではなくて、どぶ板というのか、現実という汚濁の中に入って、ネタを取ってくるのが仕事なので、一方でそういうハードなことを女性にさせてしまうというのは、いかがなものか、という思いはありますけどね。例えば、後輩の記者を鍛えるのに、男性だったらいくらでもシゴいたところで、「アホ、お前なんか辞めてしまえ」でいいですけど(笑)、なかなか女性にそういうふうには言い辛いですよね。やはり、「女の涙」には弱いですから。

58hiromin:2006/05/19(金) 00:00:28
女性専用車両
突然失礼いたします。
私も通勤のとき、時々女性専用車両を利用します。混んだ時間帯は女性専用の方が空いているんです。
なので私の場合は痴漢対策ではありません。何度も痴漢にあってしまう友人もいますが、私はこれまでに一度だけ痴漢にあいました。
竹下さんのお話「日本の女性がなかなか叫べないのは他の人が自分についてくれないと予測できるからじゃないでしょうか」を読んでそのときのことを思い出しました。
もう何年も前の朝の通勤電車の中でお尻を触られました。で、私は黙っているタチではないので「ちょっとアンタ何してんの?」と言い、一緒に乗っていた友人(女性)が「どないしたん?触ってんのか?」と言い、私は「次の駅で降りてもらうで」とにらみました。
それはものすごく気の弱そうな若い男で半分泣きそうになってたのですが、それを見た友人の闘志に火がついてしまい友人はその男をさらに責めました。そしたら周りの空気が若い男に同情的になったんです。もうびっくりです。だって私が被害者なのに。
(まあ確かに私をターゲットにしたその男はある意味で不運だったといえるかもしれませんが。結局次の駅でダッシュで逃げられてしまいました。)周りはほとんどが中高年のおじさんたちでした。なんか、こういう時誰も助けてくれないんだーと思うとちょっとショックでした。まあ我々のことを助ける必要はなかったんですが。。。
なんかこういうのって、今の日本の傾向を表してる、といえなくもない気がします。攻めやすいところを攻めるというか。
あまりいい例をいま思いつきませんが。

59古川利明:2006/05/19(金) 21:02:24
自己防衛の重要性
 確かに竹下さんの書き込みで思ったんですが、パリのメトロに乗っていても(別にメトロだけに限らないですが)、若い女性は服装がおしなべて質素というか、カジュアルですよね。だいたいジーンズで、そんなケバい化粧もしていないし、日本みたいにブランド物をチャラチャラさせてはいませんよね。少し話は逸れますけど、パリジェンヌ(&マダム) はやっぱキレイですよ。前、一度、ロンドンから入って、ドーバーを渡って、パリに着いたとき、ほんとに女性がキレイだと思いました(ただ、こういうことを書くとフェミニスト系のオバサンに猛抗議を受けそうですが)。フランスの女優はハリウッドのそれとは、全然、違いますもの。フランスの女性は30、40になってから美しいですね。その意味でいうと、セゴレーヌなんかよりも、ジョスパン内閣時代の司法大臣をやっていたギグー女史の方が私は好みです(笑)。で、話を戻しますと、痴漢だけでなくて、所詮、アカの他人なんて、「自分」を助けてなんてくれませんよ。見て見ぬフリ。とりわけ日本ではそうだと思います。ただ、私自身は、世の中、そんなもんだと思っているので、「私」(=古川)に関してはそれでいいと思っています。でも、自分から異議申し立ての声を上げないことには、なかなか周りの人もそれを支持してくれるふうには動いてくれなんじゃないか、と思うんですけど。

60Sekko:2006/05/20(土) 02:39:54
他人を助ける
フランスでは、「危険な目にあっている人を助けない」のは刑法上のDelitです。Crimeじゃないですけど。だから、助けて、と言いさえすれば、助けることが可能なのに助けない周りの人は互いにまずい立場になります。それで、助けようとしたけれど失敗しても、それはもちろん罪じゃありません。これにひきかえ、アメリカでは、たとえば急病の人をそばにいた医者が手当てして治らなくても後で、その介入がもっと悪くしたとか言われて訴訟を起こされることが多すぎて、一時期もう誰も他人を触らなくなりました。何もしなければリスクをかかえないということで。
 それで、確か聖書のエピソードから名をとった(今ど忘れしました。どなたか教えて下さい)法律ができて、緊急の場合に援助した行為の結果による法的責任は問われないことになったはずです。ちょうど、フランスのNon-assistance
罪と同じ頃の話だったので、あまりの差に驚いたことがあります。助けないと罪になる国と、助けた方が結果責任をびくびくしないように法律でフォローしないとだめな国があるんだと・・・
 ええと、エリザベット・ギグーは私も好き。好みが似てますね。セゴレーヌのことを友人(60代フランス人)が、「小学校の女の先生みたいだ」といってたので笑えました。もちろん小学校が悪いとか女の先生を軽く見てるんじゃないんですが、あまりにもぴったりだったので。ギグーは会ったこともありますが美人でシックで知性的でカリスマありました。
 ギグーなんかは別としても確かにフランスの女性は何か一生現役やっててそれはそれで気の毒に思えるとこもあります。「女性」としてはコミュニティ的にくくられますが独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜では分けられないですね。個人として評価される率大きいです。女性誌なら多少はターゲットが分かれますが、日本のように細かくないです。
 後、年配の女性ではバダンテールも好き。彼女もエリザベトです。

http://http

61Fusako:2006/05/20(土) 08:37:37
法律
GOOD SAMARITAN ACTでは?

62Sekko:2006/05/20(土) 21:28:02
法律
そうかもしれません。でもそれって、イギリス? 政教分離してない国っぽいネーミングですね。私が前に聞いたのはアメリカの話でちょっと違う名のような気がするのですが、手元に当時のやり取りが残ってないので・・・また分かったら書きます。

http://http

63Fusako:2006/05/22(月) 09:23:04
フランスの女性
前にもちょっと書きましたが、「独身とか既婚とか子供のあるなしや年齢や美醜」で分けずに、フランスでは大人の女性を「マダム」と言う、「おばさん」という言葉で大人の女性をくくる日本と、雰囲気が違う、と書いた本を読んだことがあります。この表現そのものにあらわれているのではないかと思うのですが、かわいい子どもであるよりも、成熟した大人であることを重視する文化、ってこれは別の欄にも書きましたが、がフランス?
「おばさん」がもっと年取ると「おばあさん」で、「かわいいおばあさんになりたい」と言う人は多いですね。何だそれ、青二才から「かわいい」なんざ言われたかぁねえ、がわたしの見解ですが。「おばさん」「おばあさん」、いずれにしても、呼びかけのことばとしては良くないですね。大人に対する敬意、のようなニュアンスがなくて。少し古い日本語には、「おかみ」「ねえさん」「刀自」等と、「マダム」にじゅうぶん比肩できる言葉があり、また、そういう方たちもいた、と思うのですが。

64Sekko:2006/05/22(月) 17:09:01
女性の呼称
 うーん、フランスは大人の女が尊敬されていて・・と書きたいところですが、呼称については問題ありだと思います。マダムとかの語源や使われ方の変遷はここで触れませんが要するに、どの男の持ち物であるかという基準ですね。公式文書では、A嬢がB氏と結婚したら、「B夫人A」となります。そして、B氏が死んだら、「B未亡人A」と書かれます。世間的にはマダムBのままですが。
 通称はマダムAでもマダムBでもOKですが、Bだけ書いていたら必ず「旧姓」を書き込まされ、それは 「Nom de jeune fille」というんです。父の名と言われることもあります。つまりマドモワゼルは何歳でも、どの男の娘であったかを名乗り、マダムはどの男の娘からどの夫の妻になったのかをあらわしているわけです。アメリカ人から古いヨーロッパの封建制だと攻撃されそうな呼称です。でも、フランス人はあまり目くじら立てず、いろいろ改正の動きはあるものの、呼称は文化だからと割り切って、実質を取るという感じかなあ。実態がよくなればいいと言うのでしょうか(B夫人といってもB氏は夫人の所有物という人もいますから)。アメリカとは逆の方向でプラグマティックだったりします。
 それに比べて、日本の呼称は、よく言われることですが、一番末の子供の視点から見た関係ですよね。家族での呼称がおばあちゃん、お母さん、お兄ちゃんetc・・夫婦も母さん父さんと呼び合うような。そしてこれは年齢と大体連動してますよね。子供から見て両親と同年輩のが「おじさん、おばさん」です。日本の子供が、友達のお母さんをシステマティックに「何とか君のおばちゃん」というのもこのせいですね。つまりフランスの女性の呼称はどの男の所有物かを基準、日本の呼称は年齢を「子供の視点」から見た疑似家族における位置基準。で、孫からおばあちゃんと言われるのはいいけれど、知らない人や、看護師やヘルパーから、おばあちゃんと言われたくない、という人は多いわけです。地域共同体が家族みたいになってた頃は受け入れたんでしょうが。それで、おばさんと言うのも、親と同年輩、から、おばあさん予備軍になり、どちらにしても、もともと「女性」と言うメタカテゴリーとは別の無性的家族カテゴリーです。そして全ての呼称は敬意を失ってレべルダウンします。(「お前」とか「貴様」から「Monsieur」「Madame」まで世界共通)
 とにかく「呼ぶ」と言うことにすでに神聖の侵しが内包されているのですよね。だから、王とか「偉い人」は2人称を避けて3人称で呼ばれます。日本語などは王でなくとも、目上の人は2人称で呼べない、それで、子供という最も「目下」から見た3人称を使い、それが、しかし、どんどん敬意を剥ぎ取られていくわけです。
 それにくらべると、なんと呼んでもイントネーションだけで反応してくれる猫たちは、神聖不可侵かなあ。

http://http

65古川利明:2006/05/22(月) 21:05:56
女性の呼称
 えっ、竹下さん、ギグー女史と知り合いなんですか?(驚)彼女はジョスパン内閣の司法大臣として、セクト対策にも力を入れていましたよね。何か、例えば、共謀罪法案審議でも、死刑執行なんかでも、法務官僚の言う通り以上の動きができない(つまり、官僚のロボット)日本の法務大臣とは大違いですよね.かつて、日本の自民党の法務大臣でも「私の信念として、大臣在任中は死刑執行のサインはしない」と拒否した人はいたんですけどね。民意に従って官僚をコントロールするのが大臣の仕事でしょう。そういう発想が皆無なんですよ。まあ、これは「男女の差」というよりも、「政治家としての資質の差」でしょうけど。で、ギグー女史については、私がパリに行った際には、ぜひ、紹介して下さい(笑)。ド・マゴーあたりでぜひ、お茶をしたいです。フランス語の女性の呼称でいうと、一般には「マダム」は既婚者、「マドマゼル」は未婚者ということですけど、ある一定年齢以上(30歳くらいより上?)になると、独身でも「マダム」を使いませんか。少なくとも、「マドマゼル」は失礼という感覚がありますよね。それと似た使い分けに「ムッシウー」と「ギャルソン」にもありますよね(例えば、カフェのボーイには「ムッシウー」を使うべきで、「ギャルソン」は失礼にあたるとか)。私は結構、「おねえちゃん」という呼称が好きですが、どうも、竹下さん掲示板だと「市民権」が得られていないので、使わないようにしてますが。でも、日本では、かなり年齢のいった女性に対しても、親しみを込めて、「お嬢さん」って言いますね(特に、おもいっきりテレビのみのもんた)。でも、そういう感覚で、ギグー女史に「マドマゼル」と呼びかけるのは、「C’est tres mal」なんでしょうね。

66Sekko:2006/05/22(月) 21:58:18
ギグー女史
 そうか、ギグーさんと政治的な話をするということはなぜか考えつきませんでした。彼女が私を覚えているかどうか知りませんが、彼女のENAの同級生が私の町に住んでいて、バロック音楽好きなので、私たちのコンサートにも来たのです。で、その人の奥さんがガボン出身のジャーナリストで、前のだんなさんがガボンで殺されたとか、その子供がうちの向かいの小学校に通ってて、そのガボンのジャーナリストが旦那の同窓生であるギグーを看板にして、アフリカの女性の会みたいなのをやってて、そこのテーマソングみたいなのを私のトリオの友人が作曲して、私の別の友人(いっっしょに踊ったことがある)に歌わせて、それにみんな当然ながら社会党が関わっていて、でもうちの町はUDF之市長で。ギグーは隣町から国会議員の選挙に出てて。しかし途中で私のダンスの友人である歌手とガボンが喧嘩して、そのうち作曲者である私の親友のゲイと歌手も冷たい関係になり、間に入った私もあわててと、なかなか複雑な関係になってまして・・ギグーみたいなビッグネームをつれて歩いてるとみんな権力とか利権に迷うようだし、特にガボンのジャーナリストはほとんど虚言癖だったんですよ。目いっぱいギグーを利用して。私の周りにはmilitants socialistes が多いのですが、EXPOをしてもコンサートをしてもギグーとか来ると即政治色ができて、私は敬遠しています。
 ギャルソンは黒人の奴隷や召使を何歳でもボーイとかガールとか呼ぶのと同じですね。アフリカのフランス人宅では今でも黒人をボーイとか平気で呼んでます。アメリカの初期、南部では、黒人の人口の五分の三が統計に入れられました。黒人男一人につき五分の三人前だったわけです。
 マドモワゼルだとはっきり分かってる知り合いにだったら、マダムと言って訂正されることもありますね。まあ普通はマダムですね。娘とお店に入って「ボンジュール、メドモワゼル」とか言われたら、うれしいというより不愉快です。財布を持っているほうを尊重しろ、と言いたくなります。朝市などに行ったら、誰にでも「マ・プチット・ココット」とか声をかけてますね。

67古川利明:2006/05/23(火) 20:37:40
ギグー女史
 そうですか、フランスも結構、狭いですね<特にENA人脈。ギグー女史は本来は何をやってる人なんですか?(弁護士とか、下院議員とか)。セゴレーヌの方はなぜか、脚光を浴びていますけど、ギグー女史に関してはその後、あんまりマスコミで取り上げられることもないですよね。ジョスパン内閣の閣僚になるくらいですから、社会党員なんでしょうけど、たぶん、セゴレーヌみたいな上昇志向はない人なんでしょうね。で、フランスの女性なんで、子供の4、5人くらいはいそうな気がしますが。しかし、そのガボン出身の「自称・ジャーナリスト」というのも、相当、胡散臭いですね。まあ、左派で票が割れてもしょうがないですけど、彼女あたりは大統領選への「色気」はないんですかね。セゴレーヌよりはいいんじゃないかと思うんですが。

68Fusako:2006/05/23(火) 22:11:29
女性専用車両
わたしは、「チカンがこわくて通勤電車に乗れるか、ってんだ」という見解ですので、女性専用車両は使いません。
で、今回、女性専用車両導入に際しての各社のお知らせをちょっと見てみましたが、「安心してご利用いただくために」というのが説明でしたかね。「痴漢」という言葉はなくて、明示的な説明はないままに日本人は全員でなんだか納得している(外国の方にはどう説明するのでしょうね。アラブとは全然違いますでしょ。)、というのが、「日本的」なのではないかと思った次第です。

69Sekko:2006/05/24(水) 16:07:36
なぜヴァティカンが?
どうもこのコーナーが宗教・哲学と関係なくなってきたんで、ちょいと戻して。
来週発売の読売系週刊誌からダ・ヴィンチ・コードについてのコメントを求められ短ですが、どの程度載せてもらえるか分かんないので、ここで宗教についての部分を敷衍しときます。
 『> ▽イエスとマグダラのマリアの関係にスポットをあてて、
> 物議を醸した映画は過去にもあったと思うのですが、
> 欧米ではどうして、こういう“異端”が受けるのでしょうか。

 キリスト教が欧米の成り立ちの根幹にあって、キリスト教権威との桎梏の中で「近代」を築いてきたという歴史があるので、基本教義について共通の了解があるからこそ、異説が意味を持つのでしょう。しかし、実際は、紀元4世紀頃までのキリスト教世界は、教義についてもいろいろな説を持ついろいろなグループがある多様なものだったのです。さまざまな「発掘」文書はそれを示しているに過ぎません。
 その中で、一定の聖典を採用したローマ・カトリックという宗派がたまたまヨーロッパの母胎になり、そこから派生した欧米文化が近代世界のスタンダードになった形です。でも別に「欧米キリスト教」以外のグループが無理に闇に葬られ「秘密」となったわけでなく、イスラムの勃興などによって自然淘汰されただけでしょう。そういう異説の文書が中近東で発掘される度に、やれ秘密だとかタブーだとか騒ぐのは、「欧米のキリスト教のみが正当な(正統の誤変換ではありません)キリスト教」という欧米中心史観が揺らぐからかもしれません。
 もう一つは、先のムハンマドのカリカチュア騒ぎのように、今の欧米には、うっかりフィクションにもできない本物のタブーのテーマがあります。イスラム教についてや、ユダヤのホロコーストについてです。これらについてはいくらフィクションだと言っても、威圧的なロビーはいるし、原理主義者テロリストはいるし、否定的なことは書けないのが現実です。
 これに対して、カトリックの教皇などは自由にカリカチュアにされています。いくらスキャンダルになったといっても、同じキリスト教文化圏の表現の自由ということで、宗教側の成熟や余裕が感じられます。
 もちろんキリスト教原理主義者もいるにはいますが、ダ・ヴィンチ・コードのスキャンダル程度では、所詮内輪ネタではないでしょうか。
 日本でも、過去に雑誌がホロコーストはなかった式のタブーを犯してユダヤロビーから叩かれたり、悪魔の詩の翻訳者が殺されたり、危機管理が出来ていないのを露呈してきました。でも、どうやらキリストネタやヴァチカンネタはお目こぼしの書き放題だと気付いて、ダ・ヴィンチ・コードに関するキリスト教側の反応をおもしろおかしく記事にしてるようですが、見苦しいです。日本のメディアにも皇室ネタをはじめとして厳然たるタブーがあると思いますが、多文化の内輪もめネタを垂れ流していると、タブーとそれをめぐる地政学からますます目をそらすことになるのではないでしょうか。
 キリスト教についてフィクションの中にある間違いや曲解について、それがある程度の影響力を超えたら、教会側が態度を表明するのは当然だと思います。権威とはそのためにあるのですから。それが結果的に本や映画の宣伝になったとしても、それをきっかけに、キリスト教の歴史などを知ってもらいたいというキリスト教メディアも少なくないようです。伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

70あんとに庵:2006/05/25(木) 04:00:49
なんと
>伝統的にはカトリック国であるフランスでさえ、この本を読んだ30%の人が、キリストやキリスト教についての記述を真実だと思ったというアンケート結果が出たので、教会があわてているという話も聞きました。映画を家族で観て子供たちと話しあうようにと、親へのガイドも紹介されています。

そのアンケートの数字は頭が痛いですね。しかしフランスもキリスト教に関して無知な人が増えてきたということなのでしょうか?それとももともと潜在的にそういうのを信じやすい人がいるということなのでしょうか?
しかし、キリスト教の伝統のある、ある程度は教育が行き届いた国ですらそうなわけですから、アジアなどで教会が困って反ダ・ヴィンチ・コードを表明したのは無理もないかもしれません。ヴァチカンが重い腰を挙げた事情も分ります。
もっともお祭り好きのイタリア人はバチカンの反応で却って見に行く人が増えちゃったようです。それでもおっしゃる通り、これを機会に歴史を勉強するのも転んでもタダでは起きない的でよいかも。

71Fusako:2006/08/11(金) 09:13:39
東京新聞
本日の東京新聞朝刊25面にカルトに関連して竹下さんのコメントが載っていましたね。
東京新聞を手近で調達できない方は、Googleのニュース検索で、「カルト」で、今なら簡単に読めます。

72Fusako:2006/08/11(金) 09:14:43
追伸
「カルト」で、というのは、このタームで検索して、という意味です。言葉不足でしたので。

73Sekko:2006/08/15(火) 16:13:16
カルトのこと
 この東京新聞の取材は旅先に追いかけられてきたんですが、なかなか言い尽くせなくてあせりました。このことでラジオのインタビューも最近受けました。私の『カルトか宗教か』の本は、もちろんオウム事件を念頭において書いたのですが、それにしても、あの事件の後、日本人は全然学習してなさすぎ。ある人に、『あの事件で日本人が学んだのは[オウムは悪い宗教、だからオウムやその流れの宗教には入っちゃいけないし、その出身者やそこにいる人を排斥しよう]ということに過ぎない。別のカルトが別の教義でやってきたら免疫がないのだ』と言われました。ピンポイント学習で応用力はゼロ。ショックです。
 社会における宗教は何らかの意味で、共同体の人間にとっての「超越」(人はどこから来てどこへ行くのかなどの問題)のモデルを提供しオーガナイズする社会的サービス機関であり、宗教の仮面をつけたカルトは、その中の特定の人間やグループの利益を図る営利グループです。そもそも「人はどこから来てどこへ行くのか」などの問題は、思春期にすでに発見する問いであるはず。そんな頃に受験のスキルばかり教えないで、問いの立て方や、伝統宗教における答えのモデルを教えておくことで、青年期にそれに反発したり問い続けたりできるわけです。試験の設問の答え方だけ習った優等生が「いい大学」に入って、実存的な問いをよそおったカルトにやすやすと取り込まれるのを見るとがっかりです。でも、いい大人だって、こうやって脳を鍛えろとか、こうすれば人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るとか、(実はその裏に、そうしないとボケるとか、嫌われるとか、下流になるとか、老けるぞとかいう脅迫的言辞が張り付いてるんですが)ハウツーものや奇跡のメソードやお得な製品に心を惹かれ、「だめもと」で信じている人が多いんですから、若者を愚かだと笑う気もしません。マインドビジネスはビジネスのとこに本質があるんですから。変なカルトの原動力になるのは大抵金か性欲か権力欲のどれか又は複合で、ある意味単純なのですから、みなさん、バランス感覚を養い合いましょう。ダヴィンチコードでキリスト教に関心を持つようになった若者をキリスト教系カルトが狙うというのも情けないことです。まずまともそうな本を読み、話を聞きたくなったら、日本基督教団かなんかのお墨付きの老舗の教会などに行って気軽に質問してみましょう。日本のキリスト教業界の方、すでにいる信者の世話ばかりではなく、人生における問いの立て方と答え方のモデルを広く啓蒙してください。そう、正しい問いの立て方は、「どうやったら脳を鍛えられるとか、人に好かれるとか儲かるとか成功するとか、肌がツヤツヤになりハリが出るのか」とかいうのではなく、どうやったら他者の役に立てるのか、自分より弱い人の力になれるのかということなんです。ちゃんとした宗教はみんな究極には「利他」を説いてますよ。自分の問題は自分のできる範囲でできるだけ他者を悲しませないようにクリアして、後は、自分より喉の渇きを訴えている人をみつけて水を分けましょう!

74Fusako:2006/08/17(木) 22:34:59
日本の宗教
日本は緩やかな多神教の国、と思っているのですが、緩やかな=強制の少ない、多神教の=多元的な価値が共存する、だったら、それはけっこう素晴らしい状態でしょうに、なぜかそういう社会でもないような感じがします。一見強制ではないけれど同調への圧力が極めて強くて個人を個人として活かさない、とか、多元的な議論が成り立ちにくく、「和」が良しとされる、とか。
そういう同調の「和」の仲間内的組織からはじき出される、あるいは、そういうものを求める心性に、「マインドビジネス」がつけこむように思います。
わたしは特定の宗教は信じていないのですが、個人を超えたものがあるという感覚を持つ、という意味での宗教心はとても大切だと思っています。そういうのは、教育の中の宗教教育で教えられるものなんでしょうか。
日本で、「ご先祖さま」とか「お天道様」「世間」といった言葉で表現してきた「個人を超えるもの」に対して敬虔である心、これが本来の宗教心に近いような気がしますが。

75Sekko:2006/08/20(日) 15:36:12
日本の多神教
 新陳代謝=外部とのエネルギー交換のない「仲間内組織」はそうしても全体主義に傾斜しますよね。日本の多神教とは、単に神が多数あるというのではなく、複数の神を信仰してもOKというので、先祖神、氏神、自然神、竈神、道祖神、その他、何とかに効く神、と多様性を認めることで、一神教とは、「他の神を拝むな」という排他性に本来の特徴があります。だからこそ、巧く機能すれば「神の前の平等」のような人工的な一種、逆説的「非宗教」空間ができるんで、キリスト教もローマ帝国内では「無神論」だと非難されていたんですね。
 なんにしても、生きた人間の欲望が作る恣意的な規範でなく、個人を超えたシンボリックな規範を提示して、それに敬虔な気持ちを抱かせるようにするという工夫や演出の積み重ねが人間の知恵であり続けたのでしょう。その意味では、集合的「ご先祖様」や「お天道様」はいいとして、「世間」の規範は、あまりにも人間的すぎて、ちょっと、と思います。人は世に連れ世は人に連れ、というんで、時代や所や力関係によって変わりながら抑圧的に働くことの多い「世間」は、一番厄介かもしれません。
 また、宗教心とか霊性というのは、多くの人間が二律背反的に意識してしまう「心と体」や「生と死」を統合するものとしての「超越」をさすのでしょう。そんな「統合のモデル+規範+期待の空間」が宗教の基本なのかも。

76Sekko:2006/08/29(火) 18:27:03
一元論と仔猫殺し
 個人のメールの方に、近頃ネットを騒がせている(?)女流作家の猫殺しについての意見を求める質問が来ました。猫を避妊手術する代わりに自然な出産をさせて、生れた仔はがけから落として殺すと言う話だそうです。
もうひとつおしゃべりルームに『バカの壁』を読んだ方からこんなコメントが。

{「一元論を超えて」ですが、ここでの「一元論」は竹下先生の論考の「善悪二元論」に相当します(と思います)。
「一元論」(竹下先生の論考の「善悪二元論」)を否定するのであれば、我々は別の普遍原理を提示しなければならない(p,201)、という「常識」重視の立場、論考から結論を得てられます。}

それを受けて
{「一元論」「ニ元論」「それを超える論」について、竹下先生に整理していただき、解説していただきたいものです。}
というコメントも。

それで、まとめてここに日頃の考えを書きます。

 まず私は真実はひとつでないとか、全ては相対的であるというポストモダン的言説に組しません。
 もちろん真実は皿の上に盛られて出されてくるようなものではなく、我々と対象の係わり合いの中に生れ、ものさしともなり、それを導いてくれるもの、のような感じです。養老さんの話で「一元論」というのは、「許容できる真実はひとつしかなく、よってそれに反するものは全て偽である」という意味で、つまり一元的価値によって「裁く」という善悪二元論につながるということなのでしょう。一元論とは全体主義的ともいえます。一神教が善悪二元論に傾きやすい傾向を持つことは『アメリカに・・・』の本にも書きましたが、この二つは必ずしも一致しないので、気をつけてください。善悪二元論は権力保持者が一般に陥りやすい傾向です。
 そして一元が悪いから多元がいいという話も要注意です。多元による分割はコミュノタリスムの罠に陥りやすく、多元間の対立や競争を招くからです。
 それで、どうしたらいいかというと、類として(つまり生物学的な条件を共有する人類として一元的で普遍的な価値観を中心に共有して、その周辺部は個人レベルまで徹底的な「多様」を許容し、保護し、残すという立場に私は賛成しています。共有すべき価値観というのは、国際倫理規定にある『全てのヒトの誕生と死を含めた生命のサイクルを安全に全うさせることが善で、それを阻むものが悪』というやつです。
 その際、ヒト以外のものの生死や、あるいはヒトの誕生する前や、前世や、死んだ後のことは、それぞれの文化や文明や伝統や革新や流行や趣味の多様性に任せる。ただ、生れて息をした瞬間から最後の息を吐く時まで、この間は、いかなる理由でも互いに傷つけあったり殺しあったりせず、できるだけ守りあい助け合って、それぞれの寿命をまっとうできるようにしようということです。
 死んだ後の審判とか生まれ変わりとか、前世が何とか、そういうのはそれぞれの文化や宗教の任せです。しかしどんな古い伝統でも、権力の都合でも、「他のヒトを生贄にする」とか「典礼として特定のヒトを傷つける」とか、「ヒトにヒトを殺させる」とかはやめていこうとするものです。
 ヒト以外の動物はというと、唯一、「ヒトから固有名詞で呼ばれている動物についてはヒトに準ずる」とありました。(逆にヒトなら名もないAさんでも権力者や家族でも軽重はつけない)
 ヒトには生れて間もない仔猫を食べる飢饉の状態もあれば文化もあるかもしれないし、犬猫を食べるとか、毛皮のために動物を殺すとか、牛は聖なるものだから食べないとか、豚は穢れてるから食べないとか、まあ、食物連鎖だけから言っても、ものすごい殺生のうちにたいていのヒトは生きているので、罪のないもの、石もてこの女を打て」じゃないですが、かなり同じ共同体に生きてるヒト(私の場合は自分の子が仔猫殺しをしたら大問題にすると思います)同士以外には批判的なことはとても言えません。
 いったん固有名詞をつけちゃったタマとかポチには責任が生じるのですが、それでも、うちの固有名詞つきの猫たちに牛だとか羊だとか豚だとかのキャットフードを与えていると、食物連鎖からいっても不自然だなあ、牛が猫に食われていいのか、などと嫌な思いをしてます。また私は蚕の幼虫系がすごく嫌いなので、タイの市場などで、それがゆでられて食用に山盛りになっていたら、吐き気です。益虫でも姿が怖いと殺虫剤です。それは個人的なので、他のヒトに不快を与えないように気をつけますが。(蚕の幼虫を食べるタイのヒトを見て叫ぶとか顔をしかめるとかしないように。)そしてうちの固有名詞猫でない猫の仔を間引く作家を批判などしません。もちろん「タマや、こっちへおいで」といいながら毒を盛るのはだめで、そういう人はヒトへのリスペクトも問題ある可能性大です。
 とにかく、「中心になるルールは守る、周辺は多様を受け入れてリスペクト」、これが大事です。簡単に聞こえますが、今も、毎日戦争やテロヤ死刑でヒトがヒトを殺したり殺せと命令したり、そうかと思うと、ちょっと他人と違うヒトや弱いヒトを差別したりいじめたり搾取したり、そういうことが茶飯事なのですから、毎日このテーマを反芻して肝に銘じていかないと、と、永遠のテーマになっています。

77:2006/09/06(水) 10:20:47
ポストモダン的言説
 養老,『バカの壁』にはポストモダン的言説が散見されます。メモには一つしか記していないのですが、   NHKのモットー「公平・客観・中立」   を俎上に上げて、NHKは神か?と論じています。公平・客観・中立などできる筈がない、という訳です。そうしたらNHKはどんな報道・言論をすれば良いのか、思考中止に追い込まれます。
 中教審の報告でも「人は平等である筈がない」という驚くべき言説がされていたと思います。人の個性を見れば、人権宣言を持ち出してきても、福沢諭吉の「人の上に人を造らず、」と言っても、二の句がつげないのですね。
 この点に関して、竹下先生から次のような敷衍する助言を貰っています(おしゃべりルーム 8/15 )。

    社会に依存しなくては生きられず、さまざまな不公平な運命を背負う人間をみな    「自由で平等」だと言い切ることは、今でこそわりと普通に聞こえますが、目くるめ   くほど不自然です。これは事実の言明ではなくて、生き方を導く志向なのですね。

 ポストモダン的言説は「生き方を導く志向」を軽視ないし毀損する可能性もあるように思いました。

78古川利明:2006/09/19(火) 12:43:12
ローマ法王の発言
 ご無沙汰しています。例のローマ法王の「ムハンマドは邪悪」発言で、イスラム圏を中心に大騒ぎになっていますね。特にイスラム原理主義系の連中にしてみると、「待ってました! 格好の脅しのネタが入った」っていう感じで(いちおう、法王は後で謝罪したので)、そのへんのヤクザとあんまり変わらないという感じですが(笑)、しかし、法王も「軽率の謗り」は免れないでしょう。彼は何であんなに脇が甘いというか、はっきり言って、「アホ」なんですか。ヨハネ・パウロ2世だったら、「ありえなかった」んじゃないですか。で、カトリックの信者は誰もこのことを批判しようとしないのですが。別に法王は「神」ではなく、ただの「オッサン」ですよね。で、竹下さんのファンもだれ一人、これだけアクチュアルな話題にどうして質問を寄せないんですか。組織や共同体の中にいて、その組織や、さらには「己」を自己批判できてこそ、「真に自由な精神」だと私は思うのですが…。

79Sekko:2006/09/19(火) 23:47:47
やっぱこういう質問は古川さんから来るんですねえ。
 私がこの話題に飛びつかなかったのは、質問がなかったこともありますが、いくつか理由があります。
 まず、日本で、「一神教同士の喧嘩」と一部で見られるほどには、フランスでは、キリスト教徒とイスラム原理主義の温度差が大きすぎて、争いになっていないことです。伝統的なカトリック国はまた伝統的なガリア教会の国でもあって、ローマ法王の存在はあまりにも希釈されています。JP2は確かにメディアティックでしたが、涜神とか冒涜とかいうコンセプトそのものがフランスではアナクロニックになっていて、教皇という存在はJP2の頃から、辛らつなカリカチュアや悪趣味なゴシップ記事やスキャンダルにさらされるのは普通でした。
 同じことが他宗教のシンボルや教祖はもちろん、個人やセレブに向けられていたら名誉毀損で大問題になるようなものが、カトリック系では野放しで、だから逆にインパクトもなく、そこには、今のカトリックの鷹揚さと共に、長い間カトリック教会が権力を持って社会を検閲してきた歴史に対する購いみたいな暗黙の了解があるかのようです。涜神罪の復活だけは避けたいという了解でしょう。
 今回の話も、面白いギャグにこういうのがありました。誰かがジダンに、
「知ってるかい、全イタリア人が、ムスリムに非難されているB16を支援しているそうだ。」と言う。
「いったいそいつは何をしたんだい?」
「ムスリムの兄弟を侮辱したんだ」
「なに、今度は姉妹じゃなく兄弟を? 捨て置けないな、よし、そいつの
ナンバーは16だな、行って懲らしめてやる」
 という感じです。
 ギャグになることのもう一つは「教皇の無謬性」というやつで、今回の件に関して、B16は謝罪したわけではなく、遺憾の意を表明しただけですが、それを揶揄して、教皇は謝らない、なぜなら教皇は「無謬」で絶対に間違わないからだ、というので、ギニョールなどでもからかっていました。
 もちろんこれはわざとした誤解で、近代カトリック教会は教皇と公会議(司教会議)のどちらが権威があるかということでいろいろもめたのですが、一応、教皇は公会議の承認を受けなくとも新しい教義を公布できるという意味の教皇の無謬性が1870年に決まりました。でも条件はいろいろあり数回しか使われていず、聖母マリア好きのJP2が聖母がイエスを助ける救済者であるという教義を出すかと思われていたのも出さずに終わり、ましてや普通のことでは、教皇が、この前言ったことは違っていた、と誤りを認めることがあるのは当然です。
 まあ、今回のB16の発言は、歴史上の発言を引用しただけで、全体の趣旨は異宗教間の平和的な対話を望んでいることなので、「遺憾」でOKだったと私は思います。最も彼はドイツ人でホロコーストの責任問題を民族的に背負っているので、ユダヤ人とユダヤ教への配慮が繊細な分、イスラムへの脇が甘かったのかもしれません。(といっても今回のババリア訪問では当地ユダヤのラビの面会希望に対して返事しなかったそうです。中東情勢と関係があったのかは分かりません)
 しかしこの教皇は、ともかく、神の名において人の命を奪うのはいかなる文脈でも全て誤っていると明確に言っています。「冒聖」や「涜神」を理由に人を殺すのは悪だというのです。
 教皇が「遺憾」の意を示した同じ日、ソマリアの病院で、イタリア人の看護修道女が侵入したイスラム過激派に狙い撃ちで殺されました。70歳の修道女です。カトリックである以外に彼女に非のないのは明らかです。教皇の責任は、むしろこのような罪のない犠牲者を出したことでしょう
 しかし、今回のことは、単に「アホなおっさん」が「空気を読めなかった」というようなことでは決してありません。今年初めの例のデンマークのムハンマドのカリカチュア騒ぎと同じ根を持っています。デンマークのカリカチュアも、今回の教皇の発言も、普通に見たり読んだりして、どうして問題になるのか理解できないのです。
 フランスに、アラブ系のモアメド・シファウイというジャーナリストがいて、イスラム原理主義のプロパガンダに対する西欧諸国の政治家の温い態度を批判する著作をすでにいくつか出しているのですが、カリカチュア事件の真相を暴いた本を最近出しました。ようやく冒神罪のコンセプトを捨てた西洋に、イスラムがらみでまたその基準を蘇らせようとする政治家は、近代が獲得した精神と表現の自由に反するものだという動機ですが、彼の取材の結果は驚くべきものです。要約するとこうです。
 デンマークの事件では、新聞デンマーク一の部数を持つ日刊紙が、まるでゴシップ誌のようにムハンマドを揶揄して、良心的なムスリムがそれに傷つき怒り、西洋の他の国が軒並みそれにあわてて襟を正したという風に見えました。
実は、この新聞Jyllands-Postenは、コペンハーゲンのイスラミストのモスクでの説教を継続して録音し、翻訳して、掲載することで、すでにイスラミストから嫌悪されていたというのです。フランスでも、過去に、モスクでの説教を公開してムスリムのヒステリーを引き起こして中止されたことがあったそうです。金曜日のモスクでのアラビア語の説教はそれほど過激だそうです。
 そして、コペンハーゲンのイスラム過激派のトップは、アフメド・アブー・ラバンというエジプトのイスラム兄弟団の人で、エジプトから追われた後、ナイジェリアとアラブ首長国で働き、その後デンマークに政治亡命を認められた人物です。モアメド・シファウイは、シンパを装ってこの人物に取材して、ことの真相を知りました。アブー・ラバンは、オランダの映画監督テオ・ヴァン・ゴーグが2004年に惨殺されたことに共感していて、1993年のワールド・トレード・センターのテロの指導者でアメリカに投獄されているオマール・アブデルラーマンら、過激派のイマムたちとも関係があり、デンマークのムスリムのメディア代表の地位にあります。
 それで、カリカチュアが載った時、デンマークのムスリムを扇動しましたが、あまりにも大したことがなかったせいか、3パーセントしか動員できませんでした。フランスのムスリムもそうですが、ほとんどは、モアメド・シファウイと同じ穏健派で、一部過激派に批判的だからです。
 そこで、ことを国際的に広げようとしたアブー・ラバンは、実際のカリカチュアに、もっと猥雑で汚らしい偽物を付け加えて、関係者に送り、その偽物がアラブ世界の公式リアクションを誘発したというのです。その最初はエジプトでした。デンマークのエジプト大使がプロパガンダをアラブ連盟の書記長でもと外務大臣のアムル・ムッサに送り、それが2005年の10月から2006年2月までダマスからジャカルタに至る、大使館放火やテロや過激抗議につながったのです。皮肉なことに過去にアブー・ラバンを追放したエジプト政府はこのプロパガンダを規制したそうです。この事件の最中に元のカリカチュアを掲載した勇気あるジャーナリストもヨルダンやエジプトにいましたが、投獄された人もいるそうです。
 フランスで掲載した風刺週刊誌(そのおかげで私も目にすることができた)に対する訴訟はこの秋再開されます。
 ちなみに、このモアメド・シファウイの本のカヴァーにはアルジェリア系のイラストレーターのラモが、カリカチュアを描いています。彼らの身辺が心配ですが、「共和国の自由」のためにフランスのムスリムががんばってくれるのは楽しみです。

 この本の表紙はここで少し見れます。
http://www.amazon.fr/L-Affaire-caricatures-Dessins-Manipulations/dp/2350760316/ref=sr_11_1/171-2743065-3291405?ie=UTF8

長くなったので、一応これで。

80Sekko:2006/09/20(水) 00:05:24
あんとに庵さんち
 今、あんとに庵さんのブログを見たら、今回の教皇発言について他の方のブログも借りて分かりやすく解説してありました。私はこういうことを書くのは面倒だったんで、よかったらそちらをお読みください。9月19日のとこです。http://d.hatena.ne.jp/antonian/
 とにかく、この国にいたら、原理主義の足音があらゆるところから響いてくるんで、ほんと怖いです。今回モロッコに行って、相対化できてよかった。レポートをまた書きます。

81あんとに庵:2006/09/20(水) 22:06:54
ベネディクト16世問題
sekko様>いつもお世話になっております。
ご紹介戴き恐縮です。

信者からすると、「あの強面な学者教皇がなんとも脇の甘いアホかましたな。意外に抜けてるのな。」以上の感想しかないんですが。部外者である世の人のほうが教皇の無謬を信じているかのような反応にこれまた鼻白むことしきり。

古川さんだけでなく、ヨハネ・パウロ2世と比較する人も多いようですが、時代が違いますがな。笑)それくらい今難しい時代になっている。政治の現場ですら複雑化し、20世紀の指導者のようなカリスマが出にくい状況になっています。

ヨハネ・パウロ2世のカリスマ性を重視するのは危険です。そういう構造は実はカルト化しやすい。劇場型政治がどれくらい危険かはわが国の例を見てもわかるとおりです。その点脇が甘く、なおかつハンス・キュングという教皇と真っ向から対立する神学者を友人に持っているベネディクト16世の方がいいかもしれません。我々はその意見の対立の中でどのようにあるべきか思考することが可能になります。

まぁ閉じた場である神学校の講義があたかも公的に発せられたもののごとき扱いこそおかしいなとは思いますが、それでも教皇職というのはもう一学者ではいられないということを、今度こそラッツィンガーは自覚したでしょうね。

もとよりイスラム教が暴力を内在する宗教などとは思ってませんね。普通信者はみなそう思ってるでしょう。だから余計に反応が冷ややかではあるかもしれません。信者や司祭からは「教皇はポカやらかしたな」という感想しか聞きませんです。一部の第二バチカン公会議前の宣教師ぐらいか「教皇のいう通りや」などという了見の狭い反応していたのは。

82古川利明:2006/09/24(日) 17:20:27
場の空気
 竹下さんの書き込みを読みながら、ふと、思ったんですが、「9・11」以降、例の「文明の衝突」というロジックで、アメリカが旗振り役となって、イスラム原理主義を中心に、イスラム社会を必要以上なまでに叩いて、虐めている状況があるじゃないですか。確かに、法王の発言問題は、その説教の一部を引っ張り出し、過剰に反応しているという側面はあると思いますが、今、イスラム教徒がキリスト教文化圏(特に米英)で、どういう状況に置かれているか、「場の空気」が読めなかったのかなあ、と思います。都合が悪くなると、素人にはなかなか入っていけない「神学論争」で逃げるのはナンセンスだと思います。本来のアカデミズムも、明晰に、かつ、平易に語りうるものだと、私は思うのですが。

83古川利明:2006/09/26(火) 21:44:11
一過性の問題でしょうか
 それと、たまたま、昨日の毎日新聞の朝刊(25日付け)で、国際面の「東論・西談」という記事で、ローマ支局の海保真人記者が書いています。彼は私が毎日の大阪社会部にいたときの同じ持ち場のキャップだった人で、いちおう、それなりの取材力とニュースセンスを持っているとは思います。私自身は今のバチカンについて、細かいことはよく知らないのですが、ただ、記事では、一つに前法王との比較で、「ヨハネ・パウロ2世は、イスラム原理主義に潜む暴力的脅威を察知していたゆえ、世界のイスラム指導者と接し、共に祈り、平和を唱えた。結果、イスラム社会から尊敬され、『西側の敵』とみなされることはなかった」とあります。そして、その後段で、「西欧主義的かつ保守的な法王の今回の発言は一過性の問題ともいえない」とも。竹下さん、そのへんのあたりは、どういうふうに捉えておられますか?

84あんとに庵:2006/09/27(水) 23:11:12
神学の講義を「神学に逃げる」とはこれいかに?
神学論争に逃げるもナニも、それが為されたのはカトリックの神学校という閉じた場であり、原文読めば神学の話でしかない。つまりイスラム批判などではなく、あくまでも「主意主義」批判の話です。イスラム云々はタマタマ彼が最近読んだ本にあった記述で、そこに見出される事例から読み取れる神観はフランシスコ学派の「主意主義」にあるものでもあり、それがやがて宗教改革のちの神学世界、或いは西洋思想の世界に通じるという話であり、主知主義の再発見を促しているものです。つまり彼の主題は西洋に蔓延するニヒリズム的な思想や、或いは自由主義神学への批判でしょう。寧ろリベラルなプロテスタント神学、或いはリベラルなカトリック神学批判です。あと「信仰と理性」を強調している背景には、カトリック世界が今、このリベラル(理論が先に立つ)と保守(信仰がどっぷり系)が二分しているような傾向もありますから、後者をも批判しているのでしょうね。
この彼の神学論が果たして妥当か?否か?についてはわたしは沈黙する神の時代にどうなのか?と懐疑的ではありますし。教会至上主義な教皇の思考の一端を見たという感じで微妙に批判的になりますが、とにかくカトリックギョーカイ内の神学のミニマムな話であることに変わりはありません。

その「神学論争の場における神学の話」を、政治的な場に持ち込む発想そのものがいかにも宗教を政治的なものとしか捉えられない「ナンセンスな」発想でしかない。そういう場の言葉を一部切り取り取り上げ、政治利用し大げさに騒ぎ立てるマスコミの二分化した発想こそ、先ずアカデミズムへの侮蔑と聖域(神学世界)に生きているものの価値をまったく評価しない、ある種、原理的な視点を感じざるを得ませんね。

85Sekko:2006/09/28(木) 10:19:32
B16発言再び
 以下は『カトリック・ウォッチング』のコーナーにアップするつもりで書いたものです。でもこのコーナーでも引き続きコメントがあるので、長いですが、まずここに入れておきます。

B16の問題発言騒動について(2006・9・22)

 宗教哲学質問箱(2006・9・19)に、9月12日のB16がドイツで神学について講演した内容についてのイスラム世界の抗議行動への感想を書きました。B16の発言内容そのものについてはあえて触れなかったので、やや沈静化した今、内容についてコメントします。これについて、いろいろなフランス人のコメントを読みましたが、リベラルなキリスト教の立場からのものと、無神論哲学者の立場のものが同じことを別の角度と照明で観ているのが興味深いでした。
 B16の講演内容は、難しいと思われるかもしれませんが、今、西洋無神論の系譜についての本を準備している私には、とてもよく整理された分かりやすい内容だと思えて、参考になりました。同時に、それに対する無神論者の反応が、私のテーマの内容を検証するようなものであり、ますます自分的にはタイムリーなものでありました。全貌は私の「無神論の系譜」が仕上がってから読んでいただくとして、この欄でB16を擁護してきた私として、今回の話をこれまでの彼についてのこの欄とどう関係付けるかをコメントしたいと思います。
 まずフランスのリベラルキリスト教者の見方に沿ってみましょう。
 B16の講演の論点は、三つあります。
 a)キリスト教はユダヤ教の子供であると同じくらいギリシャ思想の子供でもある。つまり「信仰」と「理性」のバランスの上に立つ。
 b)次に、すべての宗教は暴力を排除して精神の自由を尊重しなくてはならない。
 c)最後に、行き過ぎた合理主義と共に、非合理的な狂熱に陥るような信仰を斥けなくてはならない。
 この三点は、B16がすでに主張してきたことで一貫しています。ここで注意してほしいのは、a)です。
 日本では、日本的アニミズムや多神教を差異化したいせいか、キリスト教とイスラム教とユダヤ教の問題というと、「一神教」内部の問題だとくくりがちですが、ユダヤ世界で生まれたキリスト教が普遍宗教として発展したのはギリシャ語を共有するヘレニズム世界とそれを継承したローマ帝国でした。つまり、多神教世界だったのです。それから一時、同じ多神教のケルトやゲルマン世界の宗教と集合していくのですが、中世にもう一度、アリストテレスを再発見して、今日まで多大な影響を与えているトマス神学が成立したのです。
 これに対してユダヤ教は民族単一神から一神教に発展しましたが、多神教社会で何度も「偶像崇拝」の誘惑に負けては神に罰せられています。最後に現れたイスラムと言えば、一神教としてはかなり厳格なすっきりした偶像拒否のものですが、アベロエスやアビセンナというような大学者を輩出して、古代ギリシャ思想を復権させました。ヨーロッパのキリスト教は、彼らのおかげでアリストテレスらのギリシャ思想を再発見したのです。だから、思想的には、キリスト教もイスラムも、主知的なギリシャ哲学の洗礼を受けているということです。つまり信仰と理性のバランスをどうとるかという問題は、キリスト教にもイスラムにも共通のものであって、一神教同士が自分らの神の優越性を競っているという単純な話ではありません。
 明治の日本は和魂洋才を建前にしましたが、理性=科学=テクノロジーが世界に遍く力を持つ近代以降には、どの国のどの文化も、テクノロジーと産業のツールである理性に対して信仰や伝統をどう折り合いをつけていくのが大問題であるわけです。
 次にb)ですが、歴史上、宗教はたいてい権力装置と結びついていましたから、暴力装置を内在し、さまざまな蛮行を繰り返しました。それは別に「宗教」だからの蛮行ではなく、覇権主義独善主義に向かう人間の蛮行で、「人間だもの」の蛮行なんですが、テクノロジーが発展して蛮行の規模が大きくなり共倒れの全滅の潜在力を得た時分から、まあ平和への外交の智恵も進んできました。特に西欧カトリックなどの老舗宗教は、世界が非宗教化されていく過程で、権力装置と宗教を分けるという智恵に到達し、まあ、もう宗教の名で暴力を発動しないという合意にようやく達したわけです。
 しかし、イスラム世界は、もともとキリスト教風の政教分離が難しい上に、南北問題のあおりや、石油利権の問題、イスラエル問題もからんで、宗教の名のもとに暴力を発動する原理主義グループや戦闘的グループが生まれているので、理性と狂信や暴力の折り合いは今現在の大問題になっているわけです。しかも数からいうと少数であるはずの原理主義者たちは、情報社会のネットワークをフル活用して、少しでもネタ(カリカチュアにしろB16発言にしろ)あると、正確な「情報」でなくプロパガンダの「狂熱」をあっという間にイスラム世界全域に広げてしまいます。
 原理主義者でないムスリムはもちろんこの状況を憂慮しています。
 フランスのムスリムへのアンケート調査では、宗教にかかわらず全ての人間の平等を認めるというのが94パーセント、政教分離に賛成するのが73パーセントとあります。ここでのフランスのムスリムとは三分の二がフランス国籍(移民の二代目や三代目が多数派)で三分の一が外国籍の、両方を含みます。成人の半数が三〇歳以下です。男女平等には91パーセントが賛成、たとえフランス以外のイスラム国においても一夫多妻や不倫女性の石撃ち刑には反対というのがそれぞれ79パーセントと78パーセント、88パーセントがラマダンを守り、43パーセントが日に5回の祈り、週一モスクへ行くのは17パーセントだそうです。フランスのカトリックで毎週教会へ行く人よりは多いという程度でしょう。
 問題は、ムスリムがキリスト教に改宗することについて、受け入れられない、許さないとするのが45パーセント、自由だとするのが46パーセント(無回答9パーセント)というところです。
 これは、近代ヨーロッパの理念の一つで基本的人権の一つとされる「信教の自由」の問題です。人は必ずどこかの共同体の中で生まれますから、普通は当然「親の宗教」を受け継ぎます。成人してからもその宗教を捨てたり離脱したりすることはどこの社会でも許されませんでした。異宗教間の婚姻が不可能だったり、棄教者は共同体から追放されたり殺されたりもしたのです。ヨーロッパでは異宗教間どころか同宗教間でも新旧争いで血を流した時代を経たので、この「信教の自由」を抜きにしては「近代」理念は成立しませんでした。「信教の自由」のある空間、これがフランスでは「非宗教空間」という仮想の共和国聖域なわけです。
 このフランスにおいて、ムスリムの45パーセントも互いのイスラム離脱を許さないと答えているのを、共和国主義に反する由々しきことと見るか、イスラムでさえ46パーセントが他宗教への改宗を自由としているのはさすがフランスだと見るか、難しいところです。どちらにしても、「信教の自由」は、「寛容」と結びついています。「親の宗教」は家族や親族の価値観や先祖をどう祀るかという問題と関わっているので、それを捨てるか捨てないかというのは情緒的な問題でもあります。そこで「個人の自由」を基本的人権と認めるのは、情緒を制御して平和に他者と共存する理性の働きでした。情緒からはなかなか「寛容」は生まれません。
 また宗教そのものが寛容と相いれないとする考えもあります。それは宗教が基本的に「蒙昧」であって理性とは相いれないと言うことにつながります。それに対して、B16は、キリスト教はギリシャ哲学の理性とパレスティナ宗教の信仰という二つの流れを持っているのでバランスがいいと言っているわけです。今回の発言の要旨は、信仰は、蒙昧頑迷ではなくて、人間に共通である普遍的な理性に従わなくてはいけない、ということです。そして理性に従うことは決して神の意志に反することではなくむしろ神の本性につながるというのです。
 これに対して、イスラムでは、キリストのような「人になった神」をたてないので神はまったく抽象的超越的であるから、理性という人間的なものは意味をなさない、という議論が古来からあったという例をB16が引いたので大騒ぎになったのです。この文脈で、イブン・ハズムという人が、絶対超越者である神は、自分の言ったことに責任を持つ必要もない、何でもありだ、と言っていたと孫引きしたのですが、このイブン・ハズムという人は、実は非常に主知主義的なイスラム神学を批判した人だったわけです。前述したように、キリスト教神学がギリシャ理性主義を取り入れたのは、イスラムの学者たちによる古典ギリシャ哲学の発見のおかげであったぐらいですから、イスラム世界はすごく知的で理性的な流れの伝統(アヴィセンナやアヴェロエスなど)があり、蒙昧とはほど遠かったのです。しかし誰かが理性的になると、原理主義や狂信の側にふれる人も必ず出てくるわけで、神は絶対不可知の存在だからすべての理性的議論を無化するという人も出るのです。
 B16は、アヴィセンナなどが信仰を理性的に語ったことに触れずにイブン・ハズムの言葉を出したものですから、まるで、イスラムは理性的でない、キリスト教は理性を重んじる、みたいにとられてしまったということですが、別に一般向けの講演でなかったのでそのへんが誤解されるとは思わなかったのですね。趣旨は、宗教や信仰の問題を力で解決してはならない、理性で解決しようということで、宗教者としての自戒だったのですが。
 ややこしいのは、B16は、蒙昧主義は原理主義や聖戦主義(これはイスラム原理主義やテロリストに限らずキリスト教原理主義や十字軍の侵略や異端審問の蛮行も含めて)批判しているのですが、同時に、理性主義や近代主義の行き過ぎが招いた信仰やモラルの喪失や相対主義の罠に対しても、同じくらいの危機感を持って批判していると言うことです。 特に、ヨーロッパ近代は、キリスト教自体を母胎にして生まれた事情があります。絶対的一神教とちがって、キリスト教の特徴は、人であり神であるというイエス・キリストという仲介者をたてて、そこに聖霊も加えて三位一体の神を信じるところです。
 「絶対神」対「人間」の関係の時は、神が絶対王権みたいなもので、神の言葉は一方的に通告、神罰も一方的、だったのが、人間であるキリストを通じて、少しずつ人類という議会が王と交渉できるようになったという見方もあります。王権の一部委譲、立憲君主制みたいになって、教義の解釈や適用に柔軟性が出てきた。悪く言えばご都合主義、良く言えば時代や人類の文化、政治、科学の発達などの条件に合わせて宗教を発展させてきたわけです。しかし、こうして民衆を王宮に招き、人間を神の領域に招いていると、少しずつ、民衆は王を必要としなくなり、人間の「理性」は「超越的な神」を必要としなくなっていきます。近代理念を生んだ「啓蒙主義」の時代は、無神論をも生んだのです。
 そして、それが「西欧の神」と「西欧の無神論」であった次代は、まあ同じことの裏表というか表裏一体をなしていたので、互いに支え合って共存できたわけです。しかし、ポストモダンの時代になって、多文化多宗教が混在してくると、文化相対主義というのが生まれ、西欧的キリスト教にとっては、実は、これが「無神論」よりも深刻でやっかいなものでありました。なぜなら、すべてを相対化してしまうと、「絶対神」も、「絶対善」も「真理」も、「絶対理念」も、「民主的多数派の支配」も意味をなさなくなってしまうからです。それでもまだ冷戦のイデオロギー対立があった時代は、仮想敵や善悪がはっきりしていたのですが、そしてJP2も自由陣営側で戦えたのですが、冷戦が終わると、「キリスト教無神論」よりもっと始末の悪い「相対主義的無神論」が自由陣営に蔓延している現実に目を向けざるを得ませんでした。それと戦うために、冷戦下の自由の戦士だったJP2は、晩年には頑迷な保守主義者と言われてしまうのです。
 B16もそうです。主知主義のインテリで、第二ヴァティカン公会議でもカトリックの近代化のためにがんばった彼は、JP2が倒すことに成功した「マルクス主義的無神論」の後で、今度は資本主義世界の「ポストモダン無神論」と戦わなくてはなりませんでした。B16は教皇になってから大きく言って三点で「反動」姿勢を打ち出しています。
 まずJP2が認めたダーウィン主義の見直し、科学の中に「知性ある摂理」を盛り込もうとするニュアンス、遺伝子医学への批判などです。第二に啓蒙主義批判、理性はキリスト教的限界と共存すべきであること。第三に、政教分離の侵犯というか、遺伝子治療に関するイタリアの国民投票で信者にボイコットを呼びかけたことです(効を奏しました)。
 まあ、大手宗教のトップがこの手のことを言うのは、ノーマルというか、それはまあいいのです。問題は、「西欧近代」とともに、少しずつ政教分離して非宗教化してきたと思われていた世界で、1970年代の終わり以降、イランのホメイニ革命に象徴されるような原理主義的傾向があちこちで台頭してきたことです。そして、「ポストモダン的無神論」と戦って保守化するキリスト教も原理主義的カラーを帯びて、イスラム原理主義と競合するように見えることです。それで、「一神教同士の内輪争い」などと言われたり「宗教が悪い」と言われたりして、「ポストモダン無神論」の倫理なき拝金主義や歯止めなく環境を破壊する産業主義が野放しになる現実があります。

 この状態を、近代主義理念を創った「キリスト教無神論」の哲学の側から見てみると次のようになります。
 世界のコンセプトには二つあり、その一つは、宇宙は精神と物質とに分けられるというものです。たいていの独裁者や独裁体制はこのコンセプトを採用します。なぜなら、独裁を、従属させられている側が「理性的に批判」するのを封じるために、自分たちの独裁の権利は「超越的なもの」によって保証されていると言うためです。それが無神論の共産主義国家でも同じです。彼らの独裁を保証するのは神でなくとも、イデオロギーでもいいのです。だから法治国家によって追われることを恐れる独裁的指導者たちは、キューバでもボリビアでもイランでも、けっこう連帯し合ったりするのです。
 もう一つのコンセプトは宇宙には一つの実体しかなく、エネルギーも精神もマチエールの中に含まれているというもので、社会をオーガナイズするには、その宇宙の調和を自分で考え出さなくてはなりません。これが宗教指導者や理想主義者や国家主義者や民族主義者を含むグループで、自分たちが価値観やルールを創出できると信じています。それを押し付けるために血を流すのもいといません。
 しかし、この世界の諸問題、政治的暴力や経済的不公平を解決するには、そのような原理主義者や独善主義者や覇権主義者たちに殺し合いをさせて多くの犠牲者を出すほかないのだろうか。我々は、火にかけた牛乳が煮こぼれるのを防ぐために見張るように、彼らの暴走を常に見張っていなくてはならない。

 このキリスト教無神論の見方では、B16の反動もイスラム原理主義者の反応も同じカテゴリーで、神の代理人のような宗教指導者やイデオロギーの化身みたいな扇動者は等しく「要注意」ということのようです。「我々」という彼らの宇宙のコンセプトがどちらなのかははっきりしません。これは『シャルリィ・エブド』(風刺週刊紙)のフィリップ・ヴァルの意見で、彼は、『シャルリィ・エブド』がムハンマドのカリカチュアを掲載したのは、キリスト教側からのイスラム批判のためではなく、価値観の押し付けに対する表現の自由のためだけであったことを強調したいわけです。確かに『シャルリィ・エブド』はキリスト教や教皇や政治家のカリカチュアはもっと派手に、時には悪趣味に出し続けています。

 理性と信仰のバランスの問題は確かに大きな問題ですが、バランスの問題だけではないような気もします。精神と物質とか精神と肉体の問題も同じです。それが離反していると自覚してしまう人間だけがその統合も必要とするのかもしれません。「知・情・意」という言葉がありますが、知性と感情の他に、意志をもって進んでいくには、ある光に照らされる必要があるのでしょう。その光を求めたのが「啓蒙」思想だったのだとしたら、その光を守っている限り、啓蒙思想のいろいろな展開は、キリスト教無神論もふくめて価値を持ち続けていると思います。
 同じ光が宗教のリーダーたちを照らしてくれることを願いましょう。

 さて、ヴァティカンは、時期外務大臣にフランス人のマンベルティ枢機卿を任命しました。彼はコルシカ人の父を持ち、モロッコのマラケシュ生まれ。イスラムにも強く、ラテンにも強い頼りのありそうな人物で、パリの政治学院を卒業、パンテオンのパリ第二大学法学部で公法の学位も持っています。
 今回のB16の「失言」について、B16は発表するすべての文を自分で書き、最後の最後まで自分で推敲するので、担当官がチェックする暇がないという指摘がなされていました。現在の世界の宗教的緊張の中で、一国の首長がその発言にどんなに気を使っても使い過ぎでないというのは正論です。しかし、教皇は政治ではなく聖霊によって選ばれ聖霊によってインスピレーションを得ているはずの宗教の長でもあるので、外務担当官の用意した無難なコミュニケばかり読み上げるとしたら、たとえ「失敗」や「揚げ足取り」を避けられたとしても、何か大切な部分を失う気がします。
 馬鹿げた自主規制や行き過ぎた政治的公正がはびこる世界では批判的精神は痩せてしまいます。B16は経験ある神学者で、理性の行き過ぎと信仰の行き過ぎの両方を戒めて試行錯誤している人なので、信ずるところを自由にしゃべってもらうのは悪くないと思います。「次の選挙」だの「お世継ぎ養成」だのを心配しなくていい世界で唯一の首長なのですから、時々メディア的に墓穴掘っても、それで世界中の人にようやく注目してもらえるのだから、どんどん平和主義的正論を言ってほしいですね。JP2は二〇世紀末にカトリックの蛮行をいちいち謝罪して回っていました。その後から出発するB16にはまた彼なりの使命があるのでしょう。
 ともかく、誰がどこでどんな「失言」をしたとしても、「復讐」を唱えて暴力を行使するのは間違いなのは確かです。それを言うのすら遠慮しなくてはならないとしたら、表現者が生きていくことはできないでしょう。これからのB16の言説に引き続き注目したいです。しかし「失言」だけじゃなくて聞くべきことをたくさん言っているのに、最も注目されるのが「失言」とは皮肉ですね。

86古川利明:2006/09/28(木) 21:29:34
法王の発言の重み
 あんとに庵さん、一つだけ意見を言わせて頂いても宜しいですか。私はこの発言が、例えば、現場の無名の神父さんの発言でしたら、「あー、そうですか」で済みますし、そもそもニュースにもならなかったと思うのですよ。しかし、法王はバチカンのトップで、法王庁はいろんな国とも外交関係を持っているわけですよね。そうした「立場」にある、いわば「公人」たる法王の発言は、例え、神学校の場であっても、もう少し慎重であるべきじゃなかったんでしょうか。法王の発言というのは、ものすごい重みがあると私は思います。それはおそらく、バチカンの歴史的、政治的、そして宗教的な重みの中から出てきていると、私は思うのですが。

87Sekko:2006/09/29(金) 19:56:50
命を狙われる言論人
 今朝、ラジオで、イスラミストから家族(妻と娘)もろとも命を狙われる哲学教師Robert Redeker が2日ごとに引越しする潜伏先でインタビューに答えているのを聞きました。B16がらみで、9月19日にFigaro紙の論壇で「イスラミストの脅しに対して自由世界は何をすべきか」という論考を載せたからです。次の日、チュニジアの内務省がこのフィガロを発禁処分にし、続いて、原理主義グループからの弾劾判決ファトワが発せられたのです。
 私がショックだったのは、これについて、教職員組合が彼を支援しなかったことです。フランスには「哲学教師=無神論者=反カトリック=左翼=親アラブ」という根強い伝統があり、誰かがカトリックを批判することで教会や保守主義者から弾圧や統制を受けると、すぐに連帯して表現の自由のために戦います。しかし、そういう左翼インテリの伝統のせいでイスラム原理主義には脇が甘く、しかも、攻撃されたのが伝統的に彼らの敵であるローマ法王ということで、そのローマ法王をかばう形になったルデケールの記事に冷たかったということです。この哲学者は2001年の11月、の「ル・モンド」でもイスラム原理主義の批判をして、普通なら9・11の後でもあり無難だったはずが、やはり「イスラム嫌い」ということで哲学教師組合から追放されかねない騒ぎになりました。
 ところが、実際、ルデケールは、フランスの「哲学教師=無神論=左翼」の一人ですから、今回のことも、別にローマ法王をかばったのでなく、表現の自由に対する暴力的反応に怒ったのだと思われます。確かに表現は少し過激でしたが、それによって、彼と彼の家族が命を狙われるというのはまったくの理不尽であるのは言うまでもありません。ルデケールは記事の内容については後悔していない、自分は充分に言葉を選んで書いた、と言っています。もちろん誰かが信念を持って何かを書いても、それが一部の人に忌み嫌われたり、誰かを傷つけたり、社会的に抹殺、糾弾、無視などされることはあり得るでしょう。しかし、それでも、少なくとも身体の安全は守られるというのが自由世界の最低の保障であるべきです。
 たとえ、責任ある一国の長や大手宗教の長が「失言」しても、その個人や彼が代表する国やグループを即攻撃するなどが許されていいはずはなく、話し合いによる解決に向けて努力するべきで、ルデケールもそういう意味で論じたわけです。ラマダンの期間に入ったこの時期、一人の哲学教師が、共和国の中で、仕事も捨てて潜伏を余儀なくされ、妻子もおびえなくてはならないとしたら、まさに異常事態です。
 だから私は、むしろローマ法王みたいに、独身で、選挙区や跡継ぎなど個人的に守るものが何もない人に、リスクを負って平和の正論をどんどん言って欲しいのです。でも、そのせいで罪もない修道女がアフリカで殺されることや、カトリック教会が過去に自由の敵で弾圧と暴力の装置だったからといって、今の状況に連帯せずに口をつぐむフランスの「左翼インテリ無神論者」には我慢できません。「失言」のもとがローマ法王だからといって、「宗教同士のいがみ合い」と矮小化しているうちに、怖いことになりそうです。日本でもすでに禁書の訳者が暗殺された事件もありました。危機管理だけの問題ではないと思うのですが・・

88あんとに庵:2006/09/30(土) 09:40:26
古川様
表現の自由を謳うマスコミが、表現者の意図を曲解し間違ったイメージを流布した。そういうマスコミこそ批判されてしかるべき一件でしょう。まぁマスコミ人が国語力がまったくないというか、知性がないというか、哲学思想の知識がかけらもないので理解できるトコに反応しただけかもしれませんが、そうでないなら意図的にそこを切り取って政治の場に教皇を引きずり出そうとしたことになりますね。そういう動きのほうを警戒したくなります。

これが逆転していたらどうだったんでしょうね。イスラム教徒の指導者がキリスト教に関する批判的とも言えることを言ったために西側諸国の人が暴力に出た。という構図だと。日本人なら暴力に出た西側の人間に怒りをぶつけるでしょうねぇ。

教皇発言は批判されてもいいけどそれはその言論、つまりここではあの神学講義に対して為されるべきであって、「周りに気を使え」倫理を持ち出すのは知的放棄の何者でもない。ましてやsekkoさんが仰るとおり言論に暴力を持って応じるはたとえどんなものであっても愚の骨頂です。

ただ。わたくしもブログに書きましたが、古川さんの仰るとおり「教皇職」というのは神学者でいることは赦されない。その辺りどう振舞うかは確かに問われるものではあるでしょう。(ただ、カトリック神学校の講義まで公的な対象者向け的なものとして扱われるってのは学の現場としては激しくつまらないなぁ。)

また、前教皇との比較、ステロタイプな評価等は、チョムスキーのいうまさになんらのコントロール下に置かれているとは言えます。前教皇は現教皇と保守性においてナニも変わりはない。表象に見えるポーズに騙されちゃ駄目です。前教皇はレーガン、もしくは小泉並の演技者です。

89あんとに庵:2006/09/30(土) 09:44:26
いや流石です
しかしsekkoさんの16発言への所感は流石です。
べね16さんのあの回りくどいうにゃうにゃした文章よりずっと整理されていて判りやすいです。

90Sekko:2006/10/10(火) 06:38:38
公務員の責任
 前回書いたロベール・ルデケールの話(組合の支援を得られないことについて)をフランス人にしましたら、公務員の発言は中庸で穏健であるべきだという教育大臣の言葉にあるように、公務員だからそういうことを書くべきではなかった、と猛烈に反論されました。国家公務員はある意味でフランスを代表する立場にあるのですから、外国にいる同国人(この場合はイスラム国にいるフランス人)を危険に陥れるような言動は許されなかった、と言うのです。確かに日本でも教員や裁判官はプライヴェートでも風俗に行ったり賭け事をしてはいけない、とかあったのを思い出しますが、それは品位の問題で、危機管理とは違いますね。イスラム原理主義がらみで殺された方は国立大学の先生でした。彼の場合は自分だけの被害でしたが。ルデケールの書いたものは確かにいたずらに原理主義者を刺激する口調でしたが、それが彼の信ずるところだったとしたら、署名記事だったのですから、書く権利はあったと思うし、新聞社が載せたということ自体の責任も大きいと思います。
 B16もそうですが、つくづく、テキストとコンテキストということを考えさせられます。文と文脈。文も発言も、どういう時期にどういう場で誰に向かって発させられたのかを抜きにしては存在しません。その意味ではコーランの内容がどうとか言うのも同じで、福音書の中の平和主義者のイエスの言葉だって、文脈を無視して取り出したら、その辺のカルト宗教と変わらないものもありますから。B16がコンテキストを曖昧にしたまま歴史文献を引用したのは不用意であり、その発言をまた、コンテキストを抜きに取上げてプロパガンダに使う原理主義者は卑怯であり、その緊張状態の最中に、危機状況を読まず火に油を注ぐような発言をフランス公務員が書いて、それを載せた新聞も挑発と取られても仕方ないのかもしれません。
 先週の月曜、ヴァチカンはヴァティカンにいるイスラム国の外相を全て招いて、対話路線の続行を強調しました。こういう対応を見ると、B16がただの「宗教の長」や「公務員」でなくて独立国の元首であることの強みを感じます。彼がぽかをしても百戦錬磨のスタッフがついてるし、テロに萎縮したり居直ったりしないで、逆に話し合いのきっかけにもって行くのはいい対応でした。B16のトルコ訪問も含めてこれからどう展開するか注目です。
 トルコと言えば今日シラクがアルメニアで、アルメニア人のホロコーストを認めないとトルコのEU参加は不可能みたいなニュアンスでしゃべって、アルメニア人を喜ばせていました。ジャック・シラクでJ・C、イエス・キリストと同じイニシャルなので、その気になってすっかり博愛主義になったと揶揄されていました。

91古川利明:2006/10/02(月) 21:21:03
よくわかりません
 ひとつは竹下さんの意見も読ましていただいたのですが、あまりにも長すぎて、主張されたいポイントが掴めないのが、まず、あります。「法王の発言の趣旨自体は正しい。しかし、引用等に不適切な部分があったのではないか」ということなのでしょうか? 明快さとわかりやすさを求めようとしている、竹下さんにしては、いつもの歯切れのよさがないように感じます。それはそうと、あんとに庵さんですが、「表現者の意図を曲解し、間違ったイメージをマスコミは流布した」とありますが、これはいったい具体的には何を指すのですか? 要は「マスコミの一連の報道は、ただの揚げ足取りで、そのことにより、神聖なる法王の名誉を傷つけたことは、許せない」という趣旨なのでしょうか。私はこの世に100%正しく、善なる人間はいないし、逆に100%間違っていて、悪い人間もいないと思っています。しかし、あんとに庵さんの考え方を推察するに(竹下さんも、このカトリック問題に関しては、どうも、少しそういう傾向があると思いますが)、「法王の言ってることは100%正しいのだ」という独善性のようなものを感じます。そこには、「批判」を受け入れる寛容性があまり感じられないのです。ひょっとして、今度の問題も「私たちは、いわれのない迫害を受けているのだ」というふうに感じておられるのでしょうか? そして、これだけ世界を巻き込んだアクチュアルな話題だというのに、ほかの竹下さんのファンの方々の書き込みがないのも気になります。賛成、反対、批判等々、いろんな立場から談論風発があっていいように思うのですが……。私自身の立ち位置、そして、意見はありますが、いろんな意見、もちろん「反対意見」を言う権利と自由だけは、絶対に守らなければならないと思っています。私は法王発言の存在まで否定しているのではないんです。でも、その発言を巡って物議を醸した背景にあるものは何なんだろうと、そこについていろいろと意見をぶつけることが大事ではないのか。そういうふうに思っているだけです。

92Sekko:2006/10/02(月) 23:18:05
私の立ち位置は明快です
 B16発言内容についての解説は、カトリック・ウオッチングに入れるために書いたもので、もともとカトリックの動きやB16の「文脈」に関心を寄せている人のためです。
 今回の事件、カリアチュアからルデケールも含めて、私の信ずるところは単純です。なんびとも、その表現が犯罪を構成しない限りは、表現の自由を有するというものです。フランスで言うと、私文書、公文書の偽造や詐欺や誇大広告などはもちろん、人種差別撤廃法に触れるなどもそうです。名誉毀損は親告罪でしょう。しかし、フランスでは、カトリックの力が強かったことと戦ってきたという歴史があるので、宗教についての表現の規制は現在ありません。涜聖罪もありません。つまり、宗教や神や教祖や聖者について、どんなに悪口や偏見を書いてもそれだけでは罪を構成しません。特定の宗教リーダーについての悪口なら、その教祖が名誉毀損で訴えることも可能ですが。
 つまり、今のフランスでは、たとえばアラブ人がアラブ人だということを理由に侮辱すれば差別罪に引っかかりますが、ムスリムと原理主義者とテロリストを混同しても、それは信教や思想のグループなので、罪になりません。言論上で議論がなされればいいことです。同時にイエスやマリアやマホメットや仏陀について悪意を持って書いても罪になりません。
保護する対象になるのは、自分で自由に選べないこと(障害者であったり、女であったり、肌の色が違ったり特定民族であったり、など)です。
 フランスでも、王や神や教会の悪口や批判を書いて冒涜罪や涜聖罪になった時代がありました。今は違います。
 聖書のここがひどいとか、コーランは暴力的だとか言うことは、間違いではありえても罪ではありません。公務員も、哲学教師のルデケールが学校で生徒や学生にイスラムの悪口を言ったら問題ですが、それでも、教育大臣は、内輪の勧告をすればよかっただけです。公に批判すべきではありませんでした。ましてや公務員といえども、一公民として、生徒でなく一般読者に向かい、一般新聞に署名入りで自分の考えを(たとえそれが妥当なものでなくとも)発表する自由はあるし、それがフランスで罪を構成していない限り、そのことで自由や安全をおびやかされてはなりません。
 フランスの教育大臣は、その自由の保障こそ、世界に向けて発信すべきでした。世界には、特定権力の押し付ける冒涜罪や涜聖罪のある国がたくさんあり、そのような国で、権力を批判したり、基本的人権や男女平等を主張して投獄されたり殺されたりする人は多く、さらにもっと多くの人が、言論を封じられたり恐れながら生きています。自由と安全を望んでいるそんなサイレント・マジョリティたちは、ヨーロッパで起こっていることをどう見るでしょう。「空気を読む」ことや「原理主義者を刺激しない」ことが、表現の自由(挑発する自由、失言の自由、間違いを犯す自由も含むみます。古川さんの言うように、100パーセント正しい人はいないのですから。)に優先するかのような昨今では、原理主義的な少数者の独裁下で自由を奪われている人たちを絶望させるでしょう。そりゃあ、フランス人は、自国の大使館が焼き討ちにあったり、パリにテロが仕掛けられるのは嫌なので、原理主義者の神経を逆なでするのはよくないと思うでしょう。でもそれは、恐怖に負けたエゴイスティックな保身ですよ。
 力がまかり通ると法は引っ込むんです。「法的な罪を構成しない限り表現は表現者の責任において自由である。」この基本に到達するために、キリスト教ヨーロッパは何世紀も血を流してきたんですよ。
 だから、私は、その原則に立って、B16には謝罪の必要がないと言っているのです。内輪的には、巻き添えになって焼かれた教会や殺された修道女のためにも反省すればいいと思いますが、彼のように、内容的(イスラムを弾劾するものではなかった)にも文脈的(カトリック神学部内部での講義)にも、本質的な間違いを犯していない場合、彼が保守的宗教人間だからというだけで、その表現の自由と安全が制限されるものではないと思います。ましてや、過去にカトリックが異端審問や火刑や十字軍などいろいろな蛮行を犯してきたという理由で、今のカトリックのリーダーが基本的人権を制限されるべきではありません。それなのに、法王を糾弾しないとカトリック・シンパだからだと思われたり、あるいはルデケールのように、イスラムを糾弾すると狂信的なやつだ、原理主義者と同じ穴の狢で危険人物だと叱責されたりするのはおかしいのではないでしょうか。
 宗教の経典がそれを生きる人間の世界と連動していくのは当たり前で、こんなにひどいテキストがあるなどと、外側からや内側から疑問や批判の声が上がることで、自己批判したり、解釈を変えたり、民主主義や基本的人権といった普遍的価値と折り合いをつける試行錯誤がなされていくものでしょう。モーツアルトのオペラでクレタの王がマホメッド(他の賢人もですが)を批判しているので上演禁止とか、シェイクスピアの「ベニスの商人」が反ユダヤ的だから上映禁止とか、歴史的文脈を無視して芸術表現を規制する動きもあります。心と精神を拡張しないと自由はありません。
 宗教や軍事やイデオロギー独裁の多くの国で恐怖のうちに生きている多くの人々と連帯するために、今のフランスや日本のように表現の自由を保障されているはずの法治国家の表現者は、恐怖に負けずに正論を唱え続けるべきではないでしょうか。

93あんとに庵:2006/10/07(土) 05:12:22
バイアスがある
古川さんは、教皇文書を読まれたのでしょうか?
普通に国語力があればあれがイスラム批判が主眼ではないことはわかることです。

尚、私は教皇も当然批判しますよ。「神聖な教皇」なんてチャンチャラおかしいですね。教皇も間違いを犯す人間に決まってます。私の文を読んで教皇批判が出来ない人間だと判断を下すようなそういう感想しか抱かれないというのはきついようですが読解力を疑います。どうして今回の事件に関してマスコミ報道の仕方がおかしいといっただけで、そういうものの見方になるのか不思議です。それこそまさにある種のメディアコントロール下にあるというか、洗脳されたものの見方ではないかと思ってしまいます。

まずもって、イスラムの暴力を引き起こした報道の仕方は果たして正しい為され方だったのか?これは教皇文書をきちんと読むならば、イスラムに関連した文書のみ特化して持ち出し煽った方法論こそ問われるものではあるでしょう。
日本の報道に関してはあまりにも酷いとしかいいようがありませんね。これが逆にイスラムの識者、もしくは無神論者が同じようなシュチュエーションで糾弾されても私はその人をかばうでしょう。問題は「カトリックの教皇が批判された」ことではなく(教皇がくそなことを言えばわたくしも容赦なく叩きます)「発話者の意図を曲解」して反応した原理主義者やマスコミの受け止め方です。発話者がどういう立場であれ、本人の意図と関係なしに物事が一人歩きしてしまい、それが既成事実化するというのはメディアによく見られる現象です。

ですので今回の事件に関してはまさに報道の問題がまずあるでしょうね。
尚、教皇の影響力を大切に考えているのは寧ろ古川さんだという感じなのが面白いです。わたくしは教皇なんぞのいうことは普段はあまりいうこと聞かないほうなので、下らないことをいうならスルーしてしまうから今回も初めは真剣に受け止めませんでしたが、世の中のほうが大騒ぎになったので、真面目に注視してみたという感じです。

94あんとに庵:2006/10/07(土) 05:30:00
教皇職ということ
sekkoさんと意見が多少異なるのですが、教皇職というのは一神学者ではいられないという厳しい立場であるとは思います。この点に於いて古川さんの仰る「果たして教皇として適切であったか」という問いには、やはり「教皇」として脇が甘かったというしかない。本来は自らの意見を述べる自由があるのは理想なのですが、現実としては人の命に関わるという難しい立場ですね。ですので古川さんの主張もよくわかります。

しかし暴力を前にいうべきことをいえないということは例えば信徒達が人質に取られているかのごとき状況下で暴力化していくナチズムへの批判が出来なかったあの時代へ逆戻りしてしまうといえます。この点に於いてsekkoさんが主張なさっている暴力を否定し、言論の自由を守るべきというご意見に賛同します。

一部の暴力的な人々のせいによって、ムスリムが誤ったイメージをもたれることもまた懸念します。

95KAORU:2006/10/10(火) 12:07:27
B16がくれたもの
古川様、あんとに庵さま、竹下先生。B16の発言に関する皆様のやりとり、勉強になります。
しかしながら(古川さんの疑問に答えることになりますが)、ものすごい論客たちを前にして話すべき内容を持ち合わせていないというか。
ただ、古川さんの『教皇として発言は慎重であるべきだった』というところは分かる気がします。どっかの知事が大学などの講演でこんな発言をしてた、というのを批判する記事はよくあるし、それを読んで私たちはいろんなことを判断します。でも、もちろん、皆さんのおっしゃるようにだからといってそれを暴力に結び付けてはいけないと思います。
B16の発言について、新聞などではほとんど詳しい内容は分かりません。たぶん私が読み落としているだけなのだと思うのですが、新聞を軽く読む限りでは『教皇の発言が一部のイスラム教徒に批判されて教皇は遺憾の意を表した』ぐらいにしか読めませんでした。だからマスコミの報道の仕方がおかしいというお話もなんだかピンと来なかったです。ただ、私はマスコミというものについてあまり信用していないので(つまりその報道の仕方は往々にして偏りがあり、世論を煽ろうとする傾向もままあると思っているので)、これがとても興味のある話題であったならいろんな方面から調べただろうなぁとは思います。そして、マスコミを判断する材料をまた増やしたことでしょう。
で、私は、宗教の世界もこの掲示板のようにガシガシ言いたいことが言えたらいいのにと思いました。暴力とかじゃなくて、例えとっかかりは揚げ足取りだったとしも、こんな風な言葉によるバトルはいいことではないかと思います。いろんな立場の人がいていろんな考え方があって、立場を変えればこうなるんだなぁ〜って考える想像力ってとても大切で、それがなければ互いに寛容になれはしないですよね。暴力のない平和な世界を築くためのキーワードのひとつは寛容ではないかと思っています。
なんだか、脈絡のない文章でスミマセン。自分で言いたいこともよく分かってないし、それにも増して文章力がないんですけど、私も何か書きたくなっちゃって口を挟みました。
考える機会を与えてくれたB16に感謝です。

96古川利明:2006/10/10(火) 21:53:38
相変わらずよくわかりません
 皆さんの書き込みを読みながら、非常に世の中の現実から遊離しているなあと感じます。まあ、竹下さんはジャーナリステックなところもきちんと踏まえているので、たぶん、今度の教皇発言問題が、どういうところで世間を騒がせているかというのはわかっていると思います。教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。すごく私は、とりわけ左派的な市民運動にありがちな独善性と排他性を感じます。「反戦平和」だとか、「憲法改悪反対」だとか、誰の目から見ても文句がつけようのないフレーズを、目を吊り上げて言って、それで満足しきっているっていうのか(そういうのは、案外、女性が多いですよね。でも、別に女性一般がすべてそうだとは全然、思っていませんので、念のため)。たとえ説教のうちの全体のごく一部であれ、あのムハンマドの引用に、どうしてイスラム系の人たちが過敏に反応してしまったのか、そこに目をやって考えてみようとする精神のしなやかさと、想像力が欠けているのではないかと、私は思います。まあ、「マスコミ報道は低劣だ」と言うことで、自己を正当化するしかないんでしょうが、そんな姿勢でいると、より世の中から遊離してしまいますよ。なんていうんですかねえ、もう少し「清濁合わせ呑む」ようなキャパを期待するのは、私のないものねだりというものなのでしょうか(苦笑)

97Sekko:2006/10/10(火) 23:57:49
あるジャーナリストの死
 日本では多分北朝鮮の核実験(地震とか誘発しないのですか?)のせいで目だっていないと思いますけど、先週末、チェチェンを支援しプーチンの批判をしていたロシア人女性ジャーナリストが自宅の前で銃弾を4発受けて暗殺されました。都合の悪いことを言われたら力で圧殺、ペンを剣で斬って捨てるというのは、宗教原理主義だけではありません。
 「教皇のお話は、要は「汝の隣人を愛せよ」とか、「民族、宗教の違いを超えた連帯を」とかいう宗教的理念を述べたものですよね。誰が聞いても「ごもっとも」という話でしょう。」と古川さんは書いておられますが、これが誰が聞いてもごもっともでないところが問題なんですよ。「隣人は牽制、うちだけが大事」、「民族、宗教が違うと連帯なんて不可能だし、する気もない」、と思う人のほうが多いし、動物としての生存戦略としてもほとんど自然です。
 そこを、あえて「不自然」な理想を唱えるのが宗教家だの「左派市民運動の女性」だのだとしたら、それは貴重なのではないかと今は思います。私も「市民運動家」とか風紀委員とか委員長みたいなのって苦手だったのですが、この時代、もしあらゆる宗教のリーダーがそろって「汝の隣人を愛せよ」と信者に言ってくれたら嬉いですよ。ローマ法王、あんたが目を吊り上げて暴力を糾弾し平和を唱えなくてどうする。
 清濁併せ呑むキャパばかりが支配すれば、目を吊り上げて清を唱える人はいつの間にやら濁から殺されるのです。
 まあ、実際の戦略は、突撃で解決するものではなく、交渉、取引、妥協とか、雌伏とか、いろいろやらざるを得ないのは当然ですが、それこそ、役割分担の妙があってもいいと思います。宗教家と称する人は、神の名で人を殺さず、理性と愛が大事と説けばいいし、感情をむき出しにして市民運動をする人や、ヒューマニズムに駆られて戦地に赴き人質になって国に迷惑をかける人がいてもいいのです。そんな人がまったくいなくなっちゃったら、その方が怖いですよ。だって、「清濁併せ呑む」技は、それこそ微妙なバランス感覚を研ぎ澄ませ続ける必要があって、「清」や「濁」に振れる人あってこその高度な技ですから。そして、「清」に振れる人を揶揄するより、「濁」に振れる人をきっちり批判しましょう。
 まあ、古川さんの言ってること(相変わらずわかんないと言ってること)はなんとなく分かりますけど。でもまあこの話題はこの辺ですね。考えるタネに移民と奴隷の話を近くUPしますので、それについてまた感想を聞かせてください。

98聖アシジのフランシスコ(前世):2006/10/30(月) 01:38:55
本来の環境保護に目覚めましょう。
私の独り言2006/最終内容。より多くの人に愛が届きますように!
これから私が話すことは、ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
何が正しくて、何が違っているという内容ではなく、まず私の主観をおつたえします。経済そのものが生きずまり、大変な状況のように思えますが、
景気も回復し大丈夫のように見た目ではそう思います。しかし、地球環境からして考えるに、起こっている社会の実態とスクラップ・アンドビルドは
個々の気づきを促し、それぞれのカルマが刈り取られ成功しているようにみえます。しかし、地球環境=経済の実態は密接な関係にあります。用は
日本国内においては多くの人が無駄に働き(非効率)、環境を破壊しながらエネルギーを生産、それを稼ぐために余分に働いているのが実態です。
神から出た無限のエネルギー(ソーラーパネル)は活用されず、金儲けの手段に成り下がり、豊かな国であるはずなのに、貧乏を好んでいます。
多くの国で稼いだお金は預金され、金が金を生むと金貨極上のごとく信じています。
無限のエネルギーを活用しなかったら、今後必ず、危機を生むことでしょう。
私が思い、涙が出てた内容は、悪の連鎖の行き着く先は、地球の崩壊はもとより宇宙の崩壊にいたることでいす。今の宇宙は7度目の宇宙です。
近隣の惑星の方に迷惑をかけることとなるでしょう。
全人類のカルマを日本人が全て刈り取るか、そのまま見ていて、最後の審判を拡大させ、多くの方の命を消し去るか。地上に天国を作るか、多くの人を本人が気づくまで待つて手遅れになるかです。
多くの富を抱え込んだまま、滅んでいく日本の姿は、世界の7不思議となるでしょう。
地球環境から見てもう時間がありません。お金もうけで地球は救えないのです。
まずは地球あっての、各個人のカルマの刈り取りが可能であり、地球あっての審判です。
スクラップ・アンドビルドとは悪の国アメリカのやり方です。
神の国日本は、創造的・破壊です。言葉の通り受け止めるべきだと思います。
創造が先です。でなければ、悪のエネルギー連鎖反応がおこり、その後は誰にも止められません。
経営上はスクラップ・アンドビルド有効です。
しかし、地球を消し去ってから取り戻せないと思うのです。


私のような若いものでも、財政赤字、北朝鮮核問題、省資源、過労働、殺人、犯罪。これらのすべての原因は一つだとわかります。、神の無限のエネルギーの蛇口をひねれば、地球は救われるのです。自分たちを救う前にまず地球が先です。地球あっての私たちです。ファチマ第3の予言も、因果の理法、エネルギー連鎖反応からして、地球の最後を女性の宇宙人が通告した内容です。
タイムリミットは、マヤ暦が終わる2012年12月22日、このタイムリミット地球崩壊をさすものではありません。
しかし、地球が崩壊しないとも言い切れません。私たちの未来は不確定性理論です。
これらのことは、地球に住まわせてもらっている私たちと宇宙との約束事です。
その約束を果たす時が来たということです。

ある人には空想に、ある人には理想論に、またある人には、現実的に、またある人には、生活には困らない。ひとそれぞれの見方見え方をする内容です。
ですから、人の話は、半分聞いておいてください。全てを信じたらだめです。あなたらいしすばらしい個性が無くなるからです。
あなたの良きインスピレーションにお役立てください。

一消費者より、無限の愛をこめて。

99Sekko:2006/10/30(月) 05:30:07
これ何ですか?
下のこれって、「宗教」というキーワードに反応して来るスパムですか?
それとも、善意の警告メール? 「私のような若い者でも」とあるから若い方なんですね。
どうかもう少しリラックスして楽しいことを考えたりしてみてください。「無限の愛」ありがとうございました。

100:2006/12/26(火) 02:26:14
Massimo from Amsterdam
Shu no go-koutan oyobi shin-nen no o-yorokobi moushi agemasu. Watakushi wa ahita kara Roma de shin-nen o sugoshi masu. Takeshita-sama no rainen no go-takou to go-katsuyaku o o-inori moushiage masu.
Koko suujitsu, watakushi wa, "ika ni shinu ka?" to "ika ni ikiru ka?" itsuite kangaete imasu. Kitto sono hutatsu wa onaji koto ka, arui wa sugoku chikai mono dato omoi masu.
Tanoshii kyujitsu o!

101Sekko:2006/12/26(火) 08:36:16
よいお年を
 ローマでお正月、いいでしょうね。私は、母と石垣島でお正月です。私は沖縄は初めてです。3年前に私の息子が母に那覇での正月をプレゼントしたので、今度はもっとディープなところになったみたいです。
 今、聖ヨセフについての本を書いているんですが、聖ヨセフはカトリックで早いうちから「善き死」の守護聖人だったんですよ。死のシーンは福音書には出てこないんですが、聖書外典などを通してすごく有名だったんですね。イエスは彼の実子じゃなさそうだし、妻ともセックスレスの関係だったとされていて、普通に考えたら味気ない人生にも思えるんですが、血縁とか結婚じゃなくても、他者(聖母子)の人生に親密にかかわって他者の命の役に立てたということで、生と死が充実して完結したのかもしれません。イエスの生と死はそれをさらに先鋭化したと言えるのかも。血を分けた子を得て自分の財産を継承させたいなんていう願いの方がよくあることですが、そんな基準をぶっとばしている彼らが「聖家族」としてキリスト教社会のモデルになっていたことって、なんか新鮮だなあとこのごろ思ってます。
 いかに生きるかといかに死ぬかは一続きなんでしょうけど、そしてキリスト教の伝統の中には善き死の準備みたいなのがずっとありましたが、事故とか天災で死ぬこともあるし、終わり方はなかなかコントロールできないと思うので、とりあえず生き方にポリシーを持っとくべきだなあ、とか思ってます。

102:2007/01/08(月) 22:24:33
S.Etienne
Sei Joseph ni kansuru go-hon o kaite orareru tono koto, totemo tanoshimi desu.
Joseph to iu sei-ja wa chimei-do no takasa no wari ni minkan shinkou no level dewa jimi na sozai to iu ki ga shimasu. Gensei-teki na gan-kake niwa imahtotsu yowai youna....
1962nen ni toki no houou JohnXXIII ga missa no shiki-bun no naka de sei-jin namae o rekkyo shita inori-bun (Communicantes)??ni Joseph no namae o kuwaeta toki no kyoukai naibu no han-nou mo sorehodo ookiku nakatta youdashi.
Sonna jimi na kare no shirare zaru bubun o, mata sude ni shirarete iru bubun mo atarashi shiten de shoukai shite itadaketara kitto tanoshii deshoune.
Tokoro de, Watakushi no temoto ni Etienne to iu sei-ja no sei-ibutsu ga arimasu. Kin-iro no youki no chuuou no garasu goshi ni sono hone to nahuda(?) o miru tabi ni "Ittai donna hito?" to omoi, kensau suruto machi no namae shika dete kimasen.
Sokode shitsumon desuga, Takeshitai-sama wa sonna sei-jin kiita koto arimasuka? Moshi?? St.Etienne ni tsuite nanika go-zonji deshitara oshiete kudasai.
Yoroshiku onegai itashimasu.

103Sekko:2007/01/09(火) 13:04:14
St.Etienne
サン・エチエンヌは、町のサッカーチームが強いので、検索しても真っ先に町の名が出るんでしょうか。でも、すごくメジャーな聖人というか、使徒です。最初の殉教者といわれる聖ステファノ、ステパノのフランス語読みです。石打刑で死に、使徒言行録に書いてあります。聖人の名はヨーロッパ各国でそれぞれ読み方が違いますが、(ペトロがピエールとかピーターとかピョートルとかパブロとか・・・)確かに、ステファノとエチエンヌは想像つきませんね。ステファノは有名だから、フランスにもステファンヌという男の名があります。Stephanと書くんですが、an はフランス風鼻母音でなくアンで、フランス人は「ン」をうまく発音できないので、ステファヌと聞こえます。ドイツならシュテファン・ツヴァイクとかいますよね。英語圏ならStephen となり、ステファン・キングとか。とにかくメジャーな名です。フランスではエチエンヌもステファヌも女性名っぽい響きですが、一応男性名です。女性ならStephane と語尾にe がつきますが発音は同じですね。なぜ、ステファンがエチエンヌなったかという音韻変化の話はまた別のことです。Massimoさんが最初の殉教者の骨を持ってらっしゃると想像するのは楽しいですね。

104:2007/01/09(火) 21:21:17
Bikkuri shimashita
Sou dattn desuka. Etienne wa Stephen datta towa souzou mo shite imasen deshita. Benkyou ni narimashita. O-tazune shite yokatta desu. Totemo kuwashii o-kotae o arigatou gozaimashita.
Jitsu wa, nafuda niwa tsuzuki ga atte, "S.Etienne de Mur???" to aru node, sakihodo "stephen" no keyword de kensaku shita tokoro, kare wa St.Stphen of Muret (St.Etiennede muret) to iu10seiki no shikyou datta koto ga wakari mashita.
Saishyo no junkyou dewa nakatta keredo, mattaku betsu no jidai, betsu no bashyo de ikita hito no jinsei no konseki to kakwatte iru nnoga totemo fushigi na kanji desu.
Itsuka St Etienne no yukari no chi o otozurete, jimoto no kyoukai ni sei-ibutsu o kizou dekitara kuyou ni narukana, nadoto kangaeru watakushi no seishi-sei wa kanari nihon-teki desune.

105ふじやさだすみ:2007/02/09(金) 08:19:10
不思議の国
サウジアラビア」読了。P.187[常住坐臥」は行住坐臥では? 然し、坐臥に常住はアラビアならでは。ともあれ、ペラペラに軽い著作の濫発は玄侑宗久に変る所無し。HPが派手な所も共通。とはいえ、開けて看る様では、やはり浮薄。慙愧。

106Sekko:2007/02/09(金) 18:30:56
ミスです
 ご指摘ありがとうございます。タイプミスによる誤変換がそのまま通ってしまったケースですね。残念ながら、どの著作にもこのような単純ミスはもちろん、勘違い、思い違いを含めいろいろなミスがあります。こちらで把握してるものも読者に指摘してもらったものもあります。重版で訂正できたものもありますが、いずれ、正誤表をこのサイトに載せるつもりです。単純ミスはまあいいのですが、事実関係の誤認もたまにあって、申し訳なく、気になっています。ミスに気がついた方は、質問箱ではなく、著作紹介の感想コーナーに入れてください。正誤表に反映させます。なお、この質問箱では、人生相談などはOKです。このサイトは、ネット上の健康相談に感激した後、自分も質疑応答のボランティアができたらという動機から作ったものなので、そのへんをよろしく。

107Greencurry:2007/02/10(土) 21:38:17
合格祈願
こんにちわ。いつも楽しく拝読しています。日本は今受験シーズンです。この時期に神社などへ行くと「合格祈願」だとか「合格お守り」だとかの文字がよく目に付きます。
で、ふと疑問に思ったのですが、キリスト教の方々は目的に応じて行く教会を選んだりするんですか?「聖女の条件」の中でリタを聖人としている教会に訪れる人が多いというお話は載っていましたが、例えば私なんかは学問の神様は菅原神社、病気平癒ならここ、縁結びはあっち、という風にいろいろ使い分けていますが(←神様に失礼?)そういうことをキリスト教徒の方もするのですか?
私は聖人の話を読んで、日本の神道の神様みたいだなぁと思いました。聖人も神様も得意分野があって、それにあわせて人々に利益を与えている感じがして。
でも、フランスでどこの教会へ行っても、神社のように看板があって「聖人:○○、○○に効きます」なんていうのは見たことないし。日本のように気軽な感じではないのでしょうか?

108Sekko:2007/02/11(日) 03:27:14
聖人について
 キリスト教(といっても特にローマ・カトリックの話ですが)の聖人信仰は確かにそれ以前にあった多神教の神々を置き換えた面があって、得意分野別というのがあるにはあります。そして、その分野別やら、また自分の洗礼名や出身地や職業などの守護聖人をひいきにして祈願するというのはよくあることですし、この病気にはこの聖人が効くという本なんかも出ていますから、気軽に(あるいは必死に)祈ってる人もいるでしょう。別にその聖人のチャペルのあるところに行ってろうそくを捧げなくてはいけないということもないです。でもそうしたら、もっと「効く」ような気がするのは東西を問わず同じですね。ただ自分と相性のいいマイ聖人を信仰している人もいます。詳しくは『聖者の宇宙』をご覧ください(今年中に文庫化される予定あり)。
 それで、話の核心はこれからです。実際、困ったときの神頼みという民衆のレベルでは、自助努力や自己責任のピューリタンや無神論者と違って、カトリックの人や大多数の日本人は、まあとりあえず祈願しとこう、いいということには何でもすがろうという、同じ行動をとります。でも、今は21世紀、ちょっと考えたら、合格祈願することでみんな合格するなら試験は存在しないようなものだし、年に一回5円や10円の賽銭を投げてすべての人が学業成就とか病気の平癒とか商売繁盛とか、機会均等にかなえてもらえるとは、だれもすごく真剣に信じてませんよね。この辺のあまりのムシのよさというのを、みなどう処理しているのか、あえて考えないでスルーしているのか、私はいつも疑問でした。初詣の人ごみの中で、中には病気の快癒など真剣に祈って千円札を投げている人もいるのに、私のどうでもいいような願いを神が気にとめるはずがない、優先順位というものがあるはずだ、あるいは人事を尽くして天命を待てというように、まず努力をし尽くしてどうにもならなかった人が救われるべきだ、となんとなく思っていたのです。
 ところが、キリスト教の聖人信仰には、その基盤に「代祷」というのがあるのです。その根拠がはっきり現れてるのは旧約のヨブ記の42−7〜9 です。簡単にいいますと、ヨブは神の前にすごく善人で、彼の3人の友人たちは、悪いやつなんです。それで神は悪い友人たちに腹を立ててます。当然彼らは神に懲らしめるだろうと思いきや、神はこういいます。「私はお前たち3人に対して怒っている。・・・・しかし、今、雄牛と雄羊を7頭ずつ私のしもべのヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえを捧げれば、私のしもべヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。・・・お前たちに罰を与えないことにしよう。」そして彼らはそれを実行し、神はヨブの祈りを受け入れました。
 分かります? 神の怒りをかっている悪いやつでさえ、聖人にとりなしてもらえたら、助かるんです。代祷システムとはこういうことです。そこを踏まえないと、何か、聖人信仰は多神教みたいでまずいから、ヒエラルキーをちゃんとするために、聖人に祈るのは聖人を通して神の恵みを祈っているという建前にして一神教の筋を通してるんだろうとか考えがちです。でも、代祷の本当の意味は、救いに値しない罪ある者も聖人の徳に免じて(あるいは便乗して)救ってもらおうというところなんです。日ごろ何の努力もせずに自業自得で窮状に陥った、日ごろ神に感謝を捧げていたわけでももちろんない、常の行いも正しくない、むしろ、後ろ暗いところがあるし、たたけば埃も出る、そんな人が、それでも、願いをかなえてほしい、と直に、神に祈願したらどうなります? なんか、だめに決まってるというか、やぶへびで、罰が当たりそう、大体、今の窮状がすでに神に下された罰だったりして・・・ と私なんか思っちゃいます。
 そこで、聖人の登場。私はこの通り、救いに値しない人間ですが、聖人さま、生前苦労をしのび、神に仕え、我欲を捨てたあなたさま、ちょいと神さまに無理をきいていただけませんでしょうか・・・・というのが、代祷のプロセスなんです。これ、わりと好きです。自分が神の覚えがいいとはとても思えないけど、仲介人として評判のあの聖人に頼めば・・と、もちろんこれもムシがいいんですが、それなりに腰が低い。祈願の根底には、どこかに謙虚がないと落ち着かないと思うんです。そうでないと、お金がほしいと神に頼んだ、帰り道で1万円拾った、わーい、ラッキー、ということになり、ラッキーは自分の幸運で、別に神に感謝という心につながらない(というか、1万円ネコババしていいのか?)。ともあれ、「神と私」ってなんか勝手に特権関係を幻想して、願いをきいてもらえて、とか思い込むより、全然へたれの私、ツールとしての立派な聖人、ルールとしての祈りや捧げ物、その向こうに立ち現れるかもしれない神、コミュニケーションとしての恵み、という複合した関係がいいなあと思うんです。
 ちなみに、それでは、凡夫は祈りにおいて、ひたすら聖人に便乗してればいいのかというと、それはたとえばこう言われております。イエズス会のルイ・ブルダルー(1632−1704)という人がその著作『万聖節の説教』という本の中で、「神は、天国にいる聖人たちに、地にいる信者のために祈るように命じられた。そして、地にいる信者たちは、煉獄で苦しんでいる死者たちのためにとりなしの祈りをするよう命じられた」と言ってます。つまり、生きてる人たちは、罪を重ねつつ、聖人にとりなしてもらうことで、なんとか生き延びていますが、死んでしまうとさすがにこれまでの悪行があるので、天国へ直行というわけにはいかない、煉獄で、懲役みたいにお勤めしています。それを見越して、生き残った人たちが、死者のその刑期が短くなるように祈るのです。これは直接神に祈ってもOK。なんといっても自分のことじゃないから、無私の徳で効果も期待できます。日本の仏教で、生前何の戒律も守らず煩悩に溺れて殺生しまくっていた人たちが、死ぬとあわてて戒名をもらって、49日の中宥の期間に、残された人たちががんばって回向して供養して、晴れて成仏してもらうというのと似てます。カトリックの死者もこうやって、煉獄から出してもらって、無事天国にたどり着き、今度は自分も聖人の端くれとして、生きてる人の祈願のとりなしをする側に回るわけです。祈りの連鎖、救いの連鎖です。
 人は自分のためには有効に祈れない、という感じがします。いつも他人のために祈り、また自分のためには他者や、聖人たちが祈ってくれる。「神と私」ではなかなか無理な気がするし、他のもっと必死な人や有徳の人の「神と私」にまけそうな気がする、しかし、自分の犠牲や自分の善行を他の人のために役立てるのなら、少し有効かも、と思えます。祈りや恩寵は、こうしたネットワークの中で大きな力を持っていくのかもしれません。
 自分のことはできるだけ自助努力、困ってる人、苦しんでいる人、死んだ人たちのためには祈る、利他の祈りなら有効だと信じる、これはすなわち、聖性というものを認めるということです。たとえ普段は聖性と正反対の生き方をしていても、聖人がどうして神の覚えがよいのかをみんながどこかで納得している。利他を聖として認める、こういうスタンスがすきです。

109:2007/02/18(日) 06:06:28
Amsterdam kara
"Katazukeru beki shigoto ga takusan ari, karada no guai mo waruku nai noni guzuguzu daradara to sugoshite jiko-ken-o ni naru toki ga aru."---'Barokku ongaku wa naze iyasunoka'??182page--
Masashiku koko suu-shuukan no watakushi no shinkyo desu. Tabun Oranda no tenki sei deshou ne.
Jitsu wa 3 shuukan mae ni, hisashiburi ni Paris de shuumastu o sugoshimashita.
Nichi-youbi niwa, yuujin ni sasowarete St.Gervais St.Protais Kyoukai no missa ni shusseki shimashita. Fransu-go ga wakaranai nagara mo jikken-teki na reihai wa srenari ni omoshiroi mono deshita.
Hontou wa, watakushi hitori de Raten-go (latin) no missa ni yuku tsumori??de imashita. Watakushi ni totte Fransu-go yori wakari yasui koto mo saru kotonagara, dentou-teki na Raten-go no missa wa esoteric na miryoku ga arimasu.
Oscar Wilde no "The Picture of Dorian Gray" no naka de, Dorian ga Katorriku no tenrei ni miryou sareu byoushya ga arimasu ga, choudo ano youna kanji o oboe masu.
Motomoto mizoku-gaku (folklore) ni kyoumi ga atte,kirisuto-kyou ni kagirazu shuukou-girei o miru nowa suki nano desu ga, sore towa betsu ni, Takeshita-san no "Seijyo no Jouken" no naka de shoukai sarete iru, Garia-tenrei no St.Rita kyoukai ya, Quartier Latin ni aru St.Nicolas du Chardonnnet kyoukai nado, koshiki ni nottota reihai ga totemo suki desu.
Fransu dewa, dentou-teki na tenrei ni kan shite dokuji na kangae kata ga aru you ni kanji masu. toki niwa??sono utsukushi-sa no tame ni Uyoku (Right wing) no propaganda ni tsukawaretari...
Soko de shitsumon desu ga, Takeshita-sama wa dento-teki na tenrei (reihai) ni tsuie don-na fuu ni o-kangae desuka? Kore, jitsu wa mae kara ukagatte mitakatta koto desu.
Itsumo nagara yominikui roma-ji deno shitsumon go-youshya kudasai mase.

110Sekko:2007/02/18(日) 21:18:19
ラテン語ミサについて
 どうも、バロックの本から変なとこ引用しないでくださいよ、ぐずぐずだらだらなんて、誰のことかと思ったら、私なんですね。赤面。今はそんな生活卒業、といいたいところですが、今もだらだらモードは基本で、もともと脱力系なんです。しかもだんだん猫化して、自己嫌悪もなくなりつつあります。
 それで、ラテン語典礼ミサですね。『ドリアングレイの肖像』を例に引いておられますが、私の場合は、仏文に近くてキリスト教に興味を持った普通の日本人ならかなりの確率でそうだと思いますが、ユイスマンスの『出発』(田辺貞之助さんの訳あり)に出てくる、カトリックに改宗したユイスマンスの分身であるデュルタルという主人公がこれでもかこれでもかと書く、パリのサンシュルピスやサンセブランの典礼の美しさに強い印象を受けました。彼は礼拝の華麗さの中に神の恩寵とか召命とかを聴くのですが、まあ美に淫しているのと霊的幻想を自分で統合した面もあります。
 個人的には、音楽や歌が充実してる礼拝はもちろん好きです。と言うより、全然自分で歌うチャンスのない典礼って苦しいのではないかと想像します。特に修道会なんかで、来る日も来る日も、日に何度も聖務があるとしたら、コーラスの充実してるとことか音楽への関心の高いとこを基準に選ばないと私には無理です。もし自分で修道会を作るとしたら、フランス・バロックのモテットとかを駆使した、歌手や楽器奏者の充実した典礼にして、収入源は修道者による音楽教授とコンサートにしたいです。私がこういうと、そこに入れて、という仲間が何人かいました。そういうバロック時代のモテやミサ曲はみなラテン語ですから、そういう意味では当然ラテン語に親近感があります。また日本からルルドに来る人に、ラテン語で祈ると他の巡礼者と共通語になり、連帯感ができてうれしいという話も聴きました。隠れキリシタンのオラショとか、ラテン語の名残をきっちり伝えてて感動ということもあります。
 そういうことは別として、私は古式豊かなミサを特に探していくということはないです。ミサ曲のコンサートには行きますが。なぜなら、やはり、フランスでは、B16になってからやや変わりつつあるわけですが、ラテン語ミサ=教条主義者という図式があって、そういうとこに集まる人には違和感を感じ、警戒心を覚えるからです。何ごとも、「こだわる」と「とらわれる」ことになりがちで、そこに単なる美意識だけでなく宗教心が加わると、なおさらやっかいだと言う認識もあります。
 第一、典礼だけ言うと、カトリックよりも東方教会のほうが壮麗豪華なものが多いですし、実際、清貧の中で福祉活動をしているパリのカトリックの修道院でも、礼拝は東方教会風で「この世で天国を垣間見る」風の立派なものにこだわっているところもあります。また、貧しい国の教会も、儀式の壮麗さで非日常的な祝祭空間を提供し、信仰心の支えとなっているところもあります。時代や場所や、人それぞれの欲求に応じていろいろなチョイスがあるのがいいのかもしれません。私の個人的な状況では、戦争も飢饉もない場所で、劇場にも美術館にもアクセスのいい年中祝祭のような大都市でばかり生活してきたので、宗教にまで美を要求しようとは思わず、典礼はニュートラルでシンプルで分かりやすくてさりげないのでOKです。その点フランス語の普通のミサは日常と乖離してないのでナチュラルかなあと思います。日本語のミサは翻訳のカタカナ世界で外界と比べて特殊感が残るかもしれません。文語の祈りとかはそれなりに伝統感があって好きですが、一度イグナチオのフォークミサに顔を出しましたが、美的には「けっ」という人もいますが、私は何でも歌えたら好きです。要求水準が高くありません。後は、massimoさんと同じく、フォークロリックな興味はすごくあるので、そういう意味では、ローカルでディープな典礼を拝見するのは大好きです。
 でもスピリチュアルなものと美しいものを結びつけようとする人間の心理は重要な意味を持っていますね。真善美が一体化するという直感はすてきですが、それがまた真善美原理主義みたいなものに傾かないよう要注意かなとも思ったりします。

111Greencurry:2007/02/23(金) 00:40:11
聖人のお話で
Sekko様、ご回答ありがとうございました。(って、いつの話〜?!という感じですが。すみません、なかなか時間がとれなかったのと、あまりのご名答に頭が固まってしまいました。。。)
で、拝読して、連想したのですが、仏教においてのお地蔵様の役割です。あまり仏教に詳しくないので確かではないのですが、お地蔵様は衆生を天国(?)へと導いてくれる存在らしいです。
なんでも、悪いことをして閻魔様によって地獄行きを決定されたときなども、「そこをなんとか」と閻魔様をとりなしてくれて、地獄に落ちないように努力してくれて、「今度は正しく生きるのやぞ」と導いてくれるそうなのです。
あと、ダライ・ラマ法王さんがよく「慈悲の心、利他の心」と言ってます。
人を救うのは常に慈悲の心なのかなぁと思いました。
ありがとうございました。

112:2007/02/24(土) 21:07:43
聖霊
Sekko様、「ヨーロッパの死者の書」「聖女伝」「聖者の宇宙」を読んで啓発されることが多く、とても感銘しました。
ところで質問ですが、イエスの死の後で使徒や信者に自分たちの信仰に確証を与え、勇躍困難な伝道に赴かせた最大の原因となる事件は、五旬祭における聖霊降下の体験だったと思われます。そして使徒たちは、その後の伝道において、聖霊を受ける体験を重視し、祈りや按手などで、信者に聖霊を受けさせようとしたことが使徒行伝からわかります。
しかし聖霊を受ける体験は、その後次第に下火になっていったようです。その理由はどこにあると思われますか? またその経緯に関する研究がありますか?
このことは、その後三位一体説によって聖霊をいわばイエスに限定しようとした問題含みのニケヤ公会議、そのなかに聖霊への言及がない信者信条を定めた第2回公会議への流れと密接に関係するように私には思われます。
さらに聖霊との直接接触を望む聖者願望者を修道院に囲い込もうとしたカトリックの方針とも多分関係するでしょう。

113Sekko:2007/02/24(土) 23:55:52
聖霊について
 なかなか微妙な問題です。特に近頃、たましいがどうとか前世がどうとかという言説が日本で無批判に出まくっているので、「実証不可能なこと」との関係性についてすごく気になってます。「実証不可能なこと」、たとえば先祖霊の姿とか聖霊とか守護天使とかオーラとか、そういうのを信じること自体は人間性の一部だと思ってます。自分が霊に接触したとか御出現を見たりお告げを聞いたと信じることも、人間の認知のメカニズムから言っても、大いにあると思います。でも、ある特定のAさんにだけその能力がありAさんの言うことだけが真実だと、Aさんでない多数の人に信じさせるのは、組織や制度の問題だと思うんです。
 西方カトリック教会に関しては、はじめは使徒による洗礼を受けていない人には後から使徒が按手して聖霊を与えるというやり方から、聖霊は堅信(confirmation)にシフトしていきました。
堅信の歴史については研究書があります。洗礼でも聖霊パワーをもらえますがそれは神の子にしてもらえることで、その後「霊的な成熟」を経てから、堅信式で司教によって、キリスト者の使命を果たせるように聖霊パワーをもらいます。聖霊の七つの賜物といって、イザヤ書(11.2−3)にインスパイアされたもの(知恵、分別、力、思慮、勇気とか)を受けることになってます。
 とにかく制度化された聖霊の授与はこの司教による堅信式がメインになっていて、これについては司教が聖霊の授受を管理しているわけです。その他に、確かに、気のように、宇宙エネルギーのように遍在している聖霊のイメージも確かにありますが、組織できない個人の体験は、普通は「実をもって木を判断する」と処理されるのでしょう。あと、集団で聖霊が降りてくるのを待って、口々に異言を発するってのも、聖霊降臨以来、キリスト教系世界でいまだにいろいろな形である現象ですね。しかし問題は、そのような聖霊の降り方とか受け方が、人々をばらばらにするのか、結びつけるのか、ということではないでしょうか。旧約の神がバベルの塔を壊して人間たちが互いに言葉が通じなくなったというエピソードと、キリスト昇天後の聖霊降臨で人々が世界中の言葉を話せるようになったエピソードは、一種「対」になっていて、聖霊ユニヴァーサリズムの可能性を語っているものとして平和への希望を抱かせてくれます。聖霊降臨に異宗教間対話の根拠を見ようとする本を読んだことがあります。参考にコピーします。

De Babel à Pentecôte. Essais de théologie interreligieuse, Claude Giffré, Paris, Cerf, Coll. "Cogitatio Fidei" n° 247, 2006, 363 p., 39?.

114:2007/03/02(金) 15:04:37
(無題)
Sekko様、お忙しいでしょうからお返事は2,3週間後だろうとチェックしていなかったので、すぐのご返事に驚きました。ありがとうございました。
 聖霊付与まで人間(司祭)がコントロールし得るものとされて、ある意味で制度化されていることを知って、少々驚きました。聖霊はおのれの欲するところに吹く、というような言葉があったような気がしますので。私は若い頃から聖書は好きで新約は繰り返し読みましたし、旧約も通読いたしましたが、キリスト教のドグマのため、また形骸化したとしか思われないため、教会には足を踏み入れたことがなく、そんなことも知りませんでした。
 (なお、私は若い頃、一種の宇宙意識的な見神体験 ― W.ジェームスの「宗教経験の諸相」の分類では突発的回心と言われるようなもの ― をいたしましたが、それはどんな準備もなしに突然訪れ、どのような宗教教義とも結びついていませんでした。)
 聖霊体験がほんものかどうかを簡単に識別する客観的手段がない以上、おっしゃるとおり、果実を見てその木を知る、のが最も確実な方法と言えるでしょうし、その際「神の力は人々を結びつけ、悪魔的な力は人々を分かつ」というのが一つの基準になるだろうという考えには、私もまったく同感です。(なお私は感情を刺激するなどの人間的手段によって生じる、いわゆるエクスタシー体験は信用していません。)その意味で、たとえばマザー・テレサは、間違いなく聖霊の働きを受けていたのだろうと感じます。彼女は宗教によって人々を分けませんでしたから。
 ところで、ご返事がいただけたので、もうひとつまったく別の質問をさせてください。
 最近、トマス福音書や、マリア福音書などに関する研究の書物を興味ふかく読んでいますが、最近の報道では、「イエスの墓」(イエスに子供がいたという推測を示唆するらしい)に関するテレビ番組が米国で近く放映されるらしく、インターネット上に、早速それに関するサイトがつくられています。
 キリスト教教会は(カトリックもプロテスタントも)もちろんこれらの報道や、教会のドグマの正当性をおびやかしかねない学問的研究に対して、(中世のように弾圧はできないでしょうから)完全無視の態度をとり続けるのではないかと私は思いますが、Sekkoさんはどう予想されますか? また最近の研究の進捗状況から考えると、これらの説に対していつまでも反発や無視ではすまされなくなり、(決定的な証拠はなかなかでないでしょうから)時間はかかるかもしれませんが、かたくなな態度だけでは、将来ガリレオの天動説に対して地動説を守り続けようとした教会のような立場におかれる危険があるのではないかと思いますが、どう思われますか? もちろん個人的なお考えで結構です。

115:2007/03/02(金) 15:19:23
(無題)
すみません、地動説と天動説を反対にしてしまいました。もちろんガレリオの地動説に対する教会の天動説です。

116Sekko:2007/03/02(金) 17:40:43
イエスの墓について
 ちょうど2日前に、ある編集者からそのイエスの墓についての話を教えてもらい、意見をきかれました。その時に返事したのをまずコピーします。

「知らなかったですよー。
ネットで検索したら、確かに今日のフィガロの朝刊に載っていました。
ドキュメンタリーのダイジェスト版も見ました。
 ヨセフとイエスとユダって親子の骨があって、DNA鑑定で親子だったってだけで、その名の刻み方も考古学者からみたら「?」で、たとえ、ほんとでもヨセフもイエスもユダもマリアも当時最もありふれた名なので、このタイプの墓所と骨箱を作れるくらいに裕福な(ナザレのイエスさんちはそうでなかったし、代々の墓がベツレヘムならともかくエルサレムにあるのも無理がある)一家族の墓だったというだけですね。家族の骨に親子関係があるのは当然だし。
ドキュメンタリーの中でも、インタヴューされたまともな学者はまともに答えてました。
 それに確かオカルト世界でのイエスの子供は女の子では? その方がなんとなく納得いきます。
まあ、このドキュメンタリーの背景には商業主義はもちろんですが、エルサレムに対するユダヤの所有権を正当化するイデオロギーと政治的意図があるので、前のユダの福音書なんかのヴァリアントだと思われます。結局、天の父なる神のDNAを採取して鑑定する以外、「科学的証拠」は挙げられないわけで、屏風の虎をまず出してくれ、という話になりますね。
 ジェームズ・キャメロンって、そんな変なやつだったのか、というほうが印象的です。 」

 私には、イエスの「体」をそんなに気にする人がいまだにいて、それがメディアのマーケットになること自体が不思議です。教義の事実性を確認したいというならまだ分かりますが、聖書の内容や教義は実証とは関係なくそのまま受け入れるかどうかが信仰なので、基本的には「事実性」は問われません。それでも考古学的にちらほら「ほんとだったらしい」という発見みたいなのが今でもニュースになります。でもたいてい商業性はないですね。逆に、「教義は嘘で事実はこうだ」みたいなものが商業価値を持つのは、まあしょうがないです(今度のドキュメンタリーも、キリスト教最大の行事である復活祭前の四旬節の真ん中を狙ってるんですし)。
 でも実際は、今となっては、教義の事実性も、反事実も、「科学的に検証」というのは不可能な気がします。「事実」じゃなくて「真実」を標榜する信仰のディスクールには合わないし、意味がないし・・・ 私が興味を持つのは関係性とその文脈、その変化なので。
 4月の復活祭に、講談社からトリノの聖骸布についての本(解説を書いてます)が出ます。実物大の精密写真付です。こちらは、受難や復活のストーリーが「事実」だったんだ、という逆のベクトルですね。モノが介在してるので、昔からフェティッシュな信仰が寄せられ、巡礼者に多くの回心や、「奇跡」を起こしてきました。「事実」がどうあれ、そういう信仰を生んだダイナミズムがおもしろいです。私の興味を引くには、つなぎ、結びつける要素が必要です。聖骸布は、20世紀後半からむしろモノとしての信憑性を次第に増してきたので、そういう好奇心も刺激されますが。
 今回の「イエスの墓」の骨では、復活昇天を信じる人々の信仰心の基盤と合わないので、それをありがたがって祈る人もなく、したがって「奇跡」も起こらないでしょう。ただの否定の材料なので、私にはあまり意味はありません。
 その墓のイエスさんのDNAと聖骸布の血痕のDNAが合ってたりしたら、俄然、野次馬としての興味はわきますが。

117:2007/03/05(月) 09:43:55
日本から
久しぶりの里帰りです。私も竹下さんのフランス・バロック修道会に対抗(?)してルネサンス・ポリフォニー&マドリガル修道会を創立しようと思います。
 冗談は別として、竹下さんの典礼についてのお考えがうかがえて、とてもうれしかったです。「年中祝祭」、なるほど私達の日常は非日常的なものがあふれていますね。「ハレ」に囲まれた「ケ」、とでもいうような。
 私個人としては、典礼にもっと多様性があって、それらが共存しあっていたらもっと楽しいかなと思います。英訳聖書に例えれば、わかり易い New Revised Standard Version が普及している一方で、翻訳の下敷きになった King James Version が今でも健在なように。極端な強迫性革新主義と同様に教条原理主義も私の好むところではありません。

118Sekko:2007/03/06(火) 18:13:56
Massimoさんへ
おしゃべりルームの方にいれます。

119:2007/04/23(月) 21:18:49
竹下先生はカトリック信者ですか?
先生のご著作を多年にわたり読ませさせていただき(最近では「カトリック生活」の「スピリチュアルとカトリック・ライフ」)、カトリックのリッチさ、人間臭さ、可愛いさなどに心惹かれます。先生のように、カトリックを歴史的、社会的、文化的に広く、鋭く研究され、透徹した見解をお持ちになると、いわゆるカトリック教義をそのまま信じることは困難になるのではないか、と推察します。先生の信仰のよりどころを教えてくだされば、助かります。小生は、9年まえ家内に迫られてカトリックの洗礼をうけましたが、その後、カトリックを研究すればするほど、自分が異端的になっていくのを感じます(キリストは、人間として生まれ、苦悩のうちに死んだが、その愛を説いた生と死は多くの人を感動させ、「神」を感じさせた、というのが小生の信じる核心です。カトリックが成立の初期に切り捨てた、異端の中に、より素直な、生々しいキリスト像があったのではないか、と思えてなりません。その意味で、「異端」研究の先生の最近のご著作を期待しております。吉田重信

120Sekko:2007/04/23(月) 22:32:09
ご愛読ありがとうございます。
 私もカトリックってちょっと可愛いかなと思ってます。B16も可愛いと思えてしまうので。最近彼がイエス評伝を出しまして、イエスはキリスト教世界の所有物ではない、と言ってました。今「無神論の系譜」というテーマで書いていて、こわもての無神論者の本をいろいろ読んでいるんですが、彼ら(ヨーロッパ人)は、西洋の倫理規範はみんな「ユダヤ−キリスト教」に呪縛されているからよくない、と糾弾するんですが、日本人の私から見ると、他の文化でも宗教や表現は違っても同じような倫理規範はあるので、何を基礎にしていてもそれを非宗教化したフィールドで、共存を図ればいいと思うんです。交通標識をグローバル化しても、事故なく移動しあえるという目的が果たされれば、それがもとは特定文化のシンボルだったとしても別に目くじらたてなくてもいいんじゃないか、という感じです。
 人間の共同体としての教会や教義は、世に連れ人に連れ変わっていく面もありますから、それもあまり気にしません。自分がど信じるかとか、あまり自分を主体に考えないんです。ツールであれば充分です。私をどう使うかということは、きっと大きい力が導いてくれると信頼しています。教義のあれこれについて納得しなければツールとして自分を差し出せないという危機が訪れれば、その時には回心の体験があることを期待しますが、ぬるいままでもツールとして見切り発車したまま一生を終えても別にいいです。
 知り合いのシスターや神父さんで、「竹下さんを聖霊の光が導いてくれますように」とか、「頭がよすぎて道を踏み外さないようにお祈りしてます」とおっしゃってくださる方がいますので、安心してます。私が自分で祈っても無理でしょうが。全体として、自分よりも弱い人とか、困ってる人とかのお役に立てるよう心がけてさえいれば、教義的に異端とかたいそうなことにならないと思います。
 次に出るのは講談社選書メチエから8月10日に聖ヨセフの本です。タイトルは未定。聖ヨセフって、なかなかすてきですよ。B16の名前もヨゼフですね。

121:2007/05/01(火) 01:12:45
お礼
間髪を入れず、実に含蓄のある回答をいただき、感激しました。長年の「わが信仰」に対する後ろめたさが、和らぐとともに、少し安心できる気になりました。
日本のカトリック神父の中には、井上洋二神父や、藤原直達神父(内観運動を指導)のように、カトリックを日本文化の中に当てはめたり、類似性を見つけて、説くひともおられますが、やや牽強付会の感がぬぐえない思いでした。他方、梅原猛先生のように、「西欧の多神教は行き詰っているが、日本は多神教なので救いがある」との説も、本当かナと考えていました。竹下先生は、西洋文化に心身的に文字通り肉薄して、その理解の中で、カトリックの人類共通性を説いておられるようで、日本人の西洋文化、その表象としてのカトリック理解もここまで進み、普遍的になってきた、と心強く感じます。−−−偉そうな言い方でごめんなさい。
他方、「バロック音楽は何故いやすのか」をワクワクしながら読んでおります。とくに、バロック・ジェスチュエル、振り付け譜の紹介は、目から鱗が落ちる気がしました。オードレーの母親、マルティーヌとのやり取りには、涙が出ました。
吉田重信

122迷える大羊:2007/05/11(金) 00:21:48
カトリックへのためらい
 皆さん、こん??は。ノンクリスチャンですが、結婚前提に付き合っている彼女がクリスチャン(福音系)である関係でキリスト教に関わりを持つこととなりました。彼女はできれば、私にクリスチャンになってもらいたい思いがあるようで、私も彼女の教会(プロテスタント福音派)に通ってみましたが、どうにも感覚や考えが合いません。

 独自にいろいろ教会を訪ねてみた結果、カトリック教会が当初思っていたのとは違い、意外とリベラル(他宗教の慣習に対し寛容、逐語霊感説のような硬直した聖書解釈をしないなど)な部分に惹かれ、クリスチャンになるならカトリックがいいのかなぁ、と思っています。しかし、ひっかかる点がいくつか・・・。

 1.自殺、離婚に対する厳しい姿勢。近くのカトリック教会や信徒の方々に聞いたとこ    ろ、さすがに今は葬儀をしないとか、離婚は何がなんでも認めない(婚姻の無効宣言   で対処するそうですが)みたいなことはないみたいですが、それでも「罪人」として   これらをやってしまった人は肩身の狭い教会生活を送るのか?聖体拝領停止などのペ   ナルティを課せられてしまうのでしょうか?

  別に今から離婚や自殺の心配をしているわけではないけれど、人生何があるかわからな いし、この二つをせざる得ない事態に陥ることもあるかもしれません。ある意味、一番神 や教会の救いが欲しいときに罪人扱いされ疎外されるのは酷いし、これでは何のために神 や宗教に関わるのかわからない、と思ってしまいます。実際はどうなのでしょうか?

 2.他の教派の信徒との結婚はどうなのか?ダメってことはないでしょが、ある意味ノン   クリスチャンとの結婚以上に面倒かも。お互い 、同じ神を信じる者同士という思い   込みがあるだけ、却って考えの違いが鼻につく、なんてことがありそうな気がする。
   まあ、彼女は福音派といっても比較的緩いところではあるけれど、それでも、カトリ   ックにはやや冷淡な傾向があるような感じがします。
   これまた、どなたかパートナーがクリスチャンだけど他教派、なんて方がいらっしゃ   れば、メリット、デメリット併せて聞かせていただきたいものですが。

 3.あと私が心配してもしょうがないことですが、神父、信徒ともに高齢化が著しく、将  来大丈夫かしら?なんて思ってしまう(大きなお世話ですが・・)

 最後、3はともかく、上の1、2が気になります。実際のカトリック国の現状なども含め
 どなたか体験、見聞、御意見などをいただければ幸いです。

123Sekko:2007/05/11(金) 07:25:49
大羊さんへ
 私は身近にはフランスの例しか分からないので、これを読んでる方のなかで、カトリックとノン・カトのカップルの方やカトリックで離婚された方がいらっしゃれば情報ください。
 私の知ってるフランスの例では、カトリックで、法律的に離婚した女性で、聖餐を続けられるように再婚しないという人がいます。つまり宗教の秘蹟としての結婚は生きているので(取り消しは結構手続きが大変なので)、法律上再婚しなければ、不倫の立場に陥らないそうです。それで、いったん離婚したら、後は事実婚だけ、で教会には行き続けているわけです。もちろん教会法にのっとった結婚取り消しがない限り、秘蹟としての結婚はもうしてもらえません。
 欺瞞じゃないかと思われるでしょうが、大半のフランス人は、洗礼を受けていても、教会に定期的には出入りしてないので、離婚したら教会とも縁が切れます。でも再婚で生まれた子に洗礼を受けさせるのは可能です。不倫で生まれた子になりますが、子には罪はないので。再婚しないで教会に行き続けている人はミサにあずかることにそれだけこだわっているわけですから、本当は別の相手と暮らしてるだろう、とか勘ぐられて追い出されることはありません。そんなことしたら誰もいなくなります。今の教皇は離婚者の聖体拝領OKの方向で動いてるようですから、実際、緩和されるでしょう。DVの被害を受けて離婚する女性などは確かに被害者であって、教会から罪人あつかいされると困ります。聖体拝領は、資格の問題ではなくて「必要」の問題だから、といわれるのを聞きました。絶望した人の「緊急避難」としての聖体拝領は、責められません。まあ、法律婚した後で、教会で結婚しようという人は、神を仲人にしようと思うわけですから、結婚生活で何か困難に出会った時、二人で仲人に相談、という初心に帰る方法ができます。
 カトリックの結婚式は、その前に何度か通って、結婚についてのレクチャーを受けることが課せられているので、それなりの覚悟や準備もできますから、悪くはないと思います。片方がカトリックでない場合は、生まれる子供はカトリックの教育を受けさせるという夫婦の合意に署名させられるケースもあります。でも、なんというか、少なくともフランスでは、老舗の伝統宗教なので割と大まかです。特に都会ではコミュニティ感があんまりないので。離れても追ってこないのは確かです。他の宗派間の結婚は昔はややこしかったのですが一時楽になり、今また他宗派との共同ミサは認めないとか、保守化も一部始まっています。
 日本ではキリスト教はマイノリティだし、それだけに同じ教会に属する人の共同体意識も強くて、離婚などで「肩身の狭い思い」とかが出てくるのかどうか、私にはよく分かりません。
 今は自殺者は全然ペナルティがないです。立派な葬儀ミサも可能です。まあ、自殺はやめて下さい。離婚は相手のあることなので、自分の努力だけではどうにもならないケースがありますけど、自分の生殺与奪の権力への誘惑には負けないでください。もちろん病気その他で判断力がなくなり、衝動的に自殺ということはあっても、それは事故みたいなもので、残された人があまり罪の意識にとらわれないように願います。キリスト教によって、「自分の主人は自分ではなくて、命は神から授かった不可侵のものだ」と思うことで少しでも自傷や自死の歯止めになるのならいいのですが。
 神父、信徒の高齢化、これは難しい問題ですが、ゼロになって「営業停止」ということにはならないでしょう。中南米やアフリカではカト人口も増えているので、外国人神父の「調達」というのは必ず可能ですし。そういう「開かれたコミュニティ」に向かっていくほうが健全ですし、ユニヴァーサルなところがカトリックの魅力でもありますから。
 でもフィアンセの方が福音派ということですが、今の日本で若い方が福音派というのはこだわりが大きいと思うので、大羊さんの感覚や考えが合わない場合、将来それがつまずきにならないようにちゃんと話し合っておいた方がいいと思います。ちゃんとした宗教には必ず「利他」とか「自己犠牲」の要素が入ってるはずで、結婚にもそのテイストが必要ですから、互いがそういう感覚を持つのは結婚がうまくいく秘訣かもしれませんし。以上、とりあえず書いてみました。

124迷える大羊:2007/05/11(金) 15:44:50
ありがとうございます
 Sekkoさん、早速、ありがとうございます。

 >事実婚

 日本の浅はかなおフランスかぶれの一部マスコミや識者は、これを「形にとらわれない新しいライフスタイル」みたいなふうに取る人々がいますが、実際は離婚、再婚が宗教的に難しい(非カトリック国に比べ)という理由も大きいのですね。

 結婚式については、彼女の母教会で行う予定ですので、あまり問題はないかな?とは思いますが。まだ、クリスチャンならカトリックがいいかな?くらいの認識で、結婚の時点では私はカトリックにはなっていないでしょうし。
 仮に私がカトリックになった場合、問題は幼児洗礼など子供の問題でしょうか?何やらもめそうなイヤな予感がします。

>福音派

 意外に思われるかもしれませんが、福音派は若者比率が結構高いです、私の知る限り。プロ・カト問わず他の伝統的な教会が軒並み高齢化している中で、福音系の教会だけは若者(20、30代)比率が高めなんですよね。私にとってはよくこんなこと(聖書はすべて真実、聖書に反する進化論は邪道みたいな)を素直に信じられるなぁ、って感じですが。まあ、率直に言って、何も深く考えなければ、福音派の教会の方が楽しいかもしれません。ゴスペル歌ったり、フォークソングの礼拝があったりするし、新参者に対する対応も細やかだったりするし(それが煩わしい、という方も当然いますが)。

 別に高齢者ばっかりがいけない、ってわけではないですが、奉仕の負担が大きくなりそうだなぁ、とか俺が老人になった頃には誰も仲間がいなかったりして、なんて不安にかられますね・・。

 >神父

 近くのカトリック教会の神父さんの働きぶりなどを見て感じますが、こんなハードな仕事(いろいろな意味で)、果たして成り手がいるのか?いつも疑問に思っていました。カトリックは信徒には寛容(離婚問題を除いて)な宗教ですが、その分、聖職者に対する要求がハードになっているシステムなのだな、と感じます。

 特に独身制は納得できるところと、いいのか?これで?って思うところとがありますね。確かに妻子を抱えての聖職者生活は大変だし、独身ならば貧乏しても、とんでもない僻地に飛ばされても平気、というメリットがありますが、一方で健康な男性なら沸きあがってくる異性への欲望をどう抑えるのだろう?孤独感はどう克服するのか?そういう煩悩を克服できても世俗の一般人と付き合えない「変人」になったので困るし・・、とある意味矛盾するような条件を神父は兼ね備えていなくてはならないですよね。そんな人、日本人、外国人問わず、そう何人もいるものなのか?と思ったりもします。

 何より問題なのは、カトリックは結婚、離婚に関する考え方が他教派に比較して堅いわけですが、果たして結婚生活を送ったことがない聖職者が離婚問題、男女や家庭の微妙な問題に適切な判断を下せるものなのか?という疑問が大きいですね。この辺り、カトリックの方々はどう考えているのでしょう?
 まあ、修道士なら独身でも全然OKだと思いますけど、神父、司祭は世俗の一般信徒と付き合わないといけませんからね。

 自殺の問題に関しては、安心、納得できました(いや、今自殺したいなんて考えてませんよ、念の為(笑)) 。もちろん、そんなことは無いほうがいいに決まってますけど、もしも、ってことはありますからね。大体、自殺を企てる場合、心は壊れていて、まともな判断などできないでしょうし。

 問題は結婚に関する事柄ですね。他教派に関する態度が保守化していることは気になります。また、近くのカトリック教会や信徒の方々、こういうBBSなどでもう少し広く詳しく、事情を探ってみたいところです。

 彼女は私のカトリック志向については特に何もいいません。「同じ神様信じてくれるだけでありがたい」てな感じなのかな?でも聖餐が一緒に受けられないのが気になるみたいです。彼女自身は思想的にカトリックと合わないというより、礼拝のスタイルや福音派の家族的な人間関係に慣れた身からすると愛想がない、そっけなく映るところがダメみたいですね。
 今のところ、結婚にまつわる諸問題がカトリック道への障害ですね。聖公会あたりの方が無難かな?と思ったりもします。

 カトリックの知人、友人がいない、私にとってこのサイトは貴重です。これからも、お相手いただければ幸いです。


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