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哲学・宗教質問箱

108Sekko:2007/02/11(日) 03:27:14
聖人について
 キリスト教(といっても特にローマ・カトリックの話ですが)の聖人信仰は確かにそれ以前にあった多神教の神々を置き換えた面があって、得意分野別というのがあるにはあります。そして、その分野別やら、また自分の洗礼名や出身地や職業などの守護聖人をひいきにして祈願するというのはよくあることですし、この病気にはこの聖人が効くという本なんかも出ていますから、気軽に(あるいは必死に)祈ってる人もいるでしょう。別にその聖人のチャペルのあるところに行ってろうそくを捧げなくてはいけないということもないです。でもそうしたら、もっと「効く」ような気がするのは東西を問わず同じですね。ただ自分と相性のいいマイ聖人を信仰している人もいます。詳しくは『聖者の宇宙』をご覧ください(今年中に文庫化される予定あり)。
 それで、話の核心はこれからです。実際、困ったときの神頼みという民衆のレベルでは、自助努力や自己責任のピューリタンや無神論者と違って、カトリックの人や大多数の日本人は、まあとりあえず祈願しとこう、いいということには何でもすがろうという、同じ行動をとります。でも、今は21世紀、ちょっと考えたら、合格祈願することでみんな合格するなら試験は存在しないようなものだし、年に一回5円や10円の賽銭を投げてすべての人が学業成就とか病気の平癒とか商売繁盛とか、機会均等にかなえてもらえるとは、だれもすごく真剣に信じてませんよね。この辺のあまりのムシのよさというのを、みなどう処理しているのか、あえて考えないでスルーしているのか、私はいつも疑問でした。初詣の人ごみの中で、中には病気の快癒など真剣に祈って千円札を投げている人もいるのに、私のどうでもいいような願いを神が気にとめるはずがない、優先順位というものがあるはずだ、あるいは人事を尽くして天命を待てというように、まず努力をし尽くしてどうにもならなかった人が救われるべきだ、となんとなく思っていたのです。
 ところが、キリスト教の聖人信仰には、その基盤に「代祷」というのがあるのです。その根拠がはっきり現れてるのは旧約のヨブ記の42−7〜9 です。簡単にいいますと、ヨブは神の前にすごく善人で、彼の3人の友人たちは、悪いやつなんです。それで神は悪い友人たちに腹を立ててます。当然彼らは神に懲らしめるだろうと思いきや、神はこういいます。「私はお前たち3人に対して怒っている。・・・・しかし、今、雄牛と雄羊を7頭ずつ私のしもべのヨブのところに引いて行き、自分のためにいけにえを捧げれば、私のしもべヨブはお前たちのために祈ってくれるであろう。私はそれを受け入れる。・・・お前たちに罰を与えないことにしよう。」そして彼らはそれを実行し、神はヨブの祈りを受け入れました。
 分かります? 神の怒りをかっている悪いやつでさえ、聖人にとりなしてもらえたら、助かるんです。代祷システムとはこういうことです。そこを踏まえないと、何か、聖人信仰は多神教みたいでまずいから、ヒエラルキーをちゃんとするために、聖人に祈るのは聖人を通して神の恵みを祈っているという建前にして一神教の筋を通してるんだろうとか考えがちです。でも、代祷の本当の意味は、救いに値しない罪ある者も聖人の徳に免じて(あるいは便乗して)救ってもらおうというところなんです。日ごろ何の努力もせずに自業自得で窮状に陥った、日ごろ神に感謝を捧げていたわけでももちろんない、常の行いも正しくない、むしろ、後ろ暗いところがあるし、たたけば埃も出る、そんな人が、それでも、願いをかなえてほしい、と直に、神に祈願したらどうなります? なんか、だめに決まってるというか、やぶへびで、罰が当たりそう、大体、今の窮状がすでに神に下された罰だったりして・・・ と私なんか思っちゃいます。
 そこで、聖人の登場。私はこの通り、救いに値しない人間ですが、聖人さま、生前苦労をしのび、神に仕え、我欲を捨てたあなたさま、ちょいと神さまに無理をきいていただけませんでしょうか・・・・というのが、代祷のプロセスなんです。これ、わりと好きです。自分が神の覚えがいいとはとても思えないけど、仲介人として評判のあの聖人に頼めば・・と、もちろんこれもムシがいいんですが、それなりに腰が低い。祈願の根底には、どこかに謙虚がないと落ち着かないと思うんです。そうでないと、お金がほしいと神に頼んだ、帰り道で1万円拾った、わーい、ラッキー、ということになり、ラッキーは自分の幸運で、別に神に感謝という心につながらない(というか、1万円ネコババしていいのか?)。ともあれ、「神と私」ってなんか勝手に特権関係を幻想して、願いをきいてもらえて、とか思い込むより、全然へたれの私、ツールとしての立派な聖人、ルールとしての祈りや捧げ物、その向こうに立ち現れるかもしれない神、コミュニケーションとしての恵み、という複合した関係がいいなあと思うんです。
 ちなみに、それでは、凡夫は祈りにおいて、ひたすら聖人に便乗してればいいのかというと、それはたとえばこう言われております。イエズス会のルイ・ブルダルー(1632−1704)という人がその著作『万聖節の説教』という本の中で、「神は、天国にいる聖人たちに、地にいる信者のために祈るように命じられた。そして、地にいる信者たちは、煉獄で苦しんでいる死者たちのためにとりなしの祈りをするよう命じられた」と言ってます。つまり、生きてる人たちは、罪を重ねつつ、聖人にとりなしてもらうことで、なんとか生き延びていますが、死んでしまうとさすがにこれまでの悪行があるので、天国へ直行というわけにはいかない、煉獄で、懲役みたいにお勤めしています。それを見越して、生き残った人たちが、死者のその刑期が短くなるように祈るのです。これは直接神に祈ってもOK。なんといっても自分のことじゃないから、無私の徳で効果も期待できます。日本の仏教で、生前何の戒律も守らず煩悩に溺れて殺生しまくっていた人たちが、死ぬとあわてて戒名をもらって、49日の中宥の期間に、残された人たちががんばって回向して供養して、晴れて成仏してもらうというのと似てます。カトリックの死者もこうやって、煉獄から出してもらって、無事天国にたどり着き、今度は自分も聖人の端くれとして、生きてる人の祈願のとりなしをする側に回るわけです。祈りの連鎖、救いの連鎖です。
 人は自分のためには有効に祈れない、という感じがします。いつも他人のために祈り、また自分のためには他者や、聖人たちが祈ってくれる。「神と私」ではなかなか無理な気がするし、他のもっと必死な人や有徳の人の「神と私」にまけそうな気がする、しかし、自分の犠牲や自分の善行を他の人のために役立てるのなら、少し有効かも、と思えます。祈りや恩寵は、こうしたネットワークの中で大きな力を持っていくのかもしれません。
 自分のことはできるだけ自助努力、困ってる人、苦しんでいる人、死んだ人たちのためには祈る、利他の祈りなら有効だと信じる、これはすなわち、聖性というものを認めるということです。たとえ普段は聖性と正反対の生き方をしていても、聖人がどうして神の覚えがよいのかをみんながどこかで納得している。利他を聖として認める、こういうスタンスがすきです。


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