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哲学・宗教質問箱

110Sekko:2007/02/18(日) 21:18:19
ラテン語ミサについて
 どうも、バロックの本から変なとこ引用しないでくださいよ、ぐずぐずだらだらなんて、誰のことかと思ったら、私なんですね。赤面。今はそんな生活卒業、といいたいところですが、今もだらだらモードは基本で、もともと脱力系なんです。しかもだんだん猫化して、自己嫌悪もなくなりつつあります。
 それで、ラテン語典礼ミサですね。『ドリアングレイの肖像』を例に引いておられますが、私の場合は、仏文に近くてキリスト教に興味を持った普通の日本人ならかなりの確率でそうだと思いますが、ユイスマンスの『出発』(田辺貞之助さんの訳あり)に出てくる、カトリックに改宗したユイスマンスの分身であるデュルタルという主人公がこれでもかこれでもかと書く、パリのサンシュルピスやサンセブランの典礼の美しさに強い印象を受けました。彼は礼拝の華麗さの中に神の恩寵とか召命とかを聴くのですが、まあ美に淫しているのと霊的幻想を自分で統合した面もあります。
 個人的には、音楽や歌が充実してる礼拝はもちろん好きです。と言うより、全然自分で歌うチャンスのない典礼って苦しいのではないかと想像します。特に修道会なんかで、来る日も来る日も、日に何度も聖務があるとしたら、コーラスの充実してるとことか音楽への関心の高いとこを基準に選ばないと私には無理です。もし自分で修道会を作るとしたら、フランス・バロックのモテットとかを駆使した、歌手や楽器奏者の充実した典礼にして、収入源は修道者による音楽教授とコンサートにしたいです。私がこういうと、そこに入れて、という仲間が何人かいました。そういうバロック時代のモテやミサ曲はみなラテン語ですから、そういう意味では当然ラテン語に親近感があります。また日本からルルドに来る人に、ラテン語で祈ると他の巡礼者と共通語になり、連帯感ができてうれしいという話も聴きました。隠れキリシタンのオラショとか、ラテン語の名残をきっちり伝えてて感動ということもあります。
 そういうことは別として、私は古式豊かなミサを特に探していくということはないです。ミサ曲のコンサートには行きますが。なぜなら、やはり、フランスでは、B16になってからやや変わりつつあるわけですが、ラテン語ミサ=教条主義者という図式があって、そういうとこに集まる人には違和感を感じ、警戒心を覚えるからです。何ごとも、「こだわる」と「とらわれる」ことになりがちで、そこに単なる美意識だけでなく宗教心が加わると、なおさらやっかいだと言う認識もあります。
 第一、典礼だけ言うと、カトリックよりも東方教会のほうが壮麗豪華なものが多いですし、実際、清貧の中で福祉活動をしているパリのカトリックの修道院でも、礼拝は東方教会風で「この世で天国を垣間見る」風の立派なものにこだわっているところもあります。また、貧しい国の教会も、儀式の壮麗さで非日常的な祝祭空間を提供し、信仰心の支えとなっているところもあります。時代や場所や、人それぞれの欲求に応じていろいろなチョイスがあるのがいいのかもしれません。私の個人的な状況では、戦争も飢饉もない場所で、劇場にも美術館にもアクセスのいい年中祝祭のような大都市でばかり生活してきたので、宗教にまで美を要求しようとは思わず、典礼はニュートラルでシンプルで分かりやすくてさりげないのでOKです。その点フランス語の普通のミサは日常と乖離してないのでナチュラルかなあと思います。日本語のミサは翻訳のカタカナ世界で外界と比べて特殊感が残るかもしれません。文語の祈りとかはそれなりに伝統感があって好きですが、一度イグナチオのフォークミサに顔を出しましたが、美的には「けっ」という人もいますが、私は何でも歌えたら好きです。要求水準が高くありません。後は、massimoさんと同じく、フォークロリックな興味はすごくあるので、そういう意味では、ローカルでディープな典礼を拝見するのは大好きです。
 でもスピリチュアルなものと美しいものを結びつけようとする人間の心理は重要な意味を持っていますね。真善美が一体化するという直感はすてきですが、それがまた真善美原理主義みたいなものに傾かないよう要注意かなとも思ったりします。


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