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哲学・宗教質問箱
1
:
:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?
2
:
:2005/05/10(火) 06:37:22
(無題)
私は、フランス人に日本語を教えるときは基本的に標準語アクセントを使うよう努力しました。たとえば日本人がマルセイユのなまりで下手なフランス語を話していたら、違和感が大きいので、そういうことがないようにです。( もちろん完璧なマルセイユ語で話したら、そこで育ったんだと思えますが。)イントネーションだけに限ると、関西なまりはTVでもよく聞くし、アナウンサーになるのでなければそれほどハンディにならないのでは?
フランス人の生徒には最初から丁寧語だけ教えました。「書く」「読む」とか、原型を覚えても、実際の生活では、原型ではおかしいし、生徒が若い人たちだから、日本に行っても目上の人と話すことの方が絶対多いと思ったので。丁寧な言い方を崩す方は、簡単だと思うので。ちなみに私はフランス語でGros motsと呼ばれる「悪い言葉」はもちろん、くだけた表現も一切使わないようにしてきました。そういうものは環境によって身についたなら別ですが、大人がわざわざ習って口にするものではないと思うので。それで、うちはそういう言葉をまったく使わなかったので、子供達まで、口に出来なくなり、友人関係でハンディになっていると文句を言われました。私は、うちと外で適当に使い分けているとばかり思っていたのですが。娘達のボーイフレンドから、彼女らがきれいな言葉しか使わないといい意味で指摘されたこともあります。
リセの生徒には、たとえば、目上の人に絶対2人称を使わないように徹底的に訓練しました。たとえば、フランス語でも、たとえばデザートを食べた招待客に、「これ、おいしいですね。誰がつくったの?」と問われたら、母親の方をむいて、「C’est elle(彼女です)」と答えるのは失礼で、「C’est maman」というのが丁寧です。これを納得、確認させてから、日本語では母親に2人称も使えないことを説明しました。基本的な敬意の気持ちがあれば、いいのではないでしょうか。後、いわゆる接客用語とかはマニュアルを見て訓練するしかないのでは?
私はフランスに暮らしてからの方が関西なまりがよく出ます。東京にずっといたら東京風がすぐうつりますが。でももともと、親代々が関西というのではなく、父は鹿児島出身でしたし、神戸生まれの母も、両親が関東大震災で焼け出されて神戸に出てきたので、祖父母は東京なまり、それで生活用語に関東イントネーションが伝えられました。私は、今でも覚えていますが、マッチとか、ガソリンとか、白菜とかいう単語を発音すると関西の友人に「変だ」と言われ続けたので、そういう言葉を口にするときは緊張していました。
田辺聖子さんのような流ちょうな関西弁などもとよりしゃべれないので、今は、イントネーションでちょっとローカルを味わうくらいです。でも、関西で講演したりすると、自然に関西なまりになります。そして、何より、外国で長く暮らしていると、母国語のなまりなんか相対化され、全部なつかしい日本語という気になります。イントネーションは話し言葉におけるヴァリエーションであって、話す内容があり、コミュニケーションしたいという心があれば大きな障害にならないのでは。それにこの頃は、特に若い人は、そもそもイントネーションをあまりつけずにフラットに話すのが流行りみたいだし・・・ やっぱり、相手をリスペクトする心と、話す内容と、伝えたい意思の3つが重要では? それと、堂々と話すとそれがその場の標準語になるってケースも見ました。話者に個性とカリスマ性があればね。
また、イントネーション云々以外にも、鈴を振るようなきれいな声の人とか、魅力的な表情で話す人とか、もともと条件のいい人も世の中にはいるし、羨ましいこともありますが、ないものはないし、与えられたものでやっていくという思い切りも必要なのでは? 逆に、世の中には、声をうばわれた人や、コミュニケーション障害の人もいます。美記さんのように美しい声で歌ったり曲を奏でたり出来る恵まれた人は、方言を消したいという後ろ向きな気持ちより、フランスでフランス語を習ったように、今は新しい場所で新しいコミュニケーションの可能性を広げていこうという楽しい気持ちで過ごしてください。そしたら、美記さんとお話をする人にもきっとその楽しさが伝わっていくのではないでしょうか?
3
:
:2005/05/11(水) 11:18:31
福知山線事故で助かった乗客の発言について
福知山線の列車事故で、助かった方が取材インタビューで「なくられた方の分も生きよう」という発言をよくされていて、違和感を禁じ得ません。
その場に居合わせた同士がある事件・事故に巻き込まれて、何かの縁を感じるにしても
「生き残った人だけがそれを感じ、そしていえる」という状況がとてもつらいのです。
周囲にそう漏らすと「わかるような気がする」といわれてしまいます。
マイクを向けられると「そのようなことを自分もいってしまうかもしれない」
というのです。私にはまったく理解できません。
鎮魂の気持ちをこのように表現してしまうのは日本特有な心性なんでしょうか?
竹下先生はどのように感じられますか?
4
:
:2005/05/12(木) 02:57:46
生かされることの「気づき」
「亡くなった人の分もがんばります」という言葉が受け入れられる場面は、普通、志を同じくした仲間同士がいて、そのうちの何人かは志半ばにして捨て石として亡くなり、「自分たちの死を無駄にしないで志を果たしてほしい」と言い残し、それを受けて、残された仲間ががんばることを誓う、というシーンではないでしょうか。だから、別に互いの面識のなかった事故の犠牲者同士が、「亡くなった人の分も生きよう」というのは、本来、誤用というもので、違和感を感じる方がいらっしゃるのは当然だと思います。しかし、誤用であろうとなかろうと、大事故から生還した人がそのショックから立ち直るためとか、理由のない罪悪感から逃れるためとかの「手立て」としてそのフレーズが機能するならば、それはそれで良いと思います。
また、大事故の生還者は少なくとも一時的には出来事の「証人」として生きることを要請されてしまいます。匿名でなく、突如としてパブリックな存在になるわけです。つまり一種の「責任」が生じてくる。世間は、こんな人に、一週間後に酔っ払って線路に転落して死ぬとか、児童無差別殺人をやるとかしてもらいたくないわけです。「あんなやつならあの時死んだ方がよかったんだ」とか「あんなやつがあの時生き延びて、別の立派な人が死んでしまったのは不条理だ」とか、世間から価値判断が下されることを、「証人」はプレッシャーとして感じていて、「生還した」という「選ばれた人間」に恥じないように生きます、という意味もあるのでしょう。そうするとその裏には、亡くなった方は「選ばれなかった人」という価値判断が入ってくるので、それに違和感を感じることもあるのだと思います。(もっともアウシュビッツでランダムに餓死刑を宣告されたユダヤ人男性が自分には家族があって、と助命を乞うた時、コルベ神父が私には家族がないから私を、と身代わりを申し出て代わりに死んだという有名なエピソードがあります。この時助かったユダヤ人だって、結局ガス室で死ぬ確率は高かったわけですが、ホロコーストを生き延びた上、すごく長生きして、コルベ神父が福者や聖人の称号を獲得する度に証人として登場しました。こういう話を聞くと、「いただいた命を大切に」という言葉がぴったりですし、死んだ者が「負け組」という単純な判断は崩れてしまい、それが人間ドラマのおもしろいところですが。)
ともあれ、そのような価値判断を保留するとしたら、この言い回しのもとには、もう一つ、「幸不幸の総和は同じ」という、よく知られた人生観があります。どんな人も死ぬときにはプラスマイナスゼロになるようにできている、若くして大きな幸運を得た人は晩年に苦しむとか、金があっても家庭運に恵まれないとかいうやつです。これを敷延して、ひとつの家族の中で、若くして死んだメンバーがあれば、残った人がその人の分も長生きする努力をするとかになりますし、同じ事故に遭遇した人々の寿命の合計は遭遇しなかった場合と同じで、生き延びた人は夭折した方の寿命の分をいただいたのだから体を大切に、という発想にもつながるわけです。これも、人生における「不当感」を納得するための「手立て」として多くの人に共有される知恵の一つとして機能しているのでしょう。
けれども、いかにあれこれ理屈をつけようと、人生の幸不幸や事故における生死を分ける規則は、多分、存在しません。ある人が、健康に気をつけようと、精進しようと、努力しようと、自堕落でいようと、害虫のように嫌われていようと、実は、幸も不幸も、病も事故も死も、大局的には「すべてランダムに起こる」のです。日ごろの行いも、血液型も、生まれ月の星座も生まれ年の干支も、みな異なる人たちが同時に、いっせいに命を失う航空機事故などを見ても明らかです。戦闘機に乗っても死なない人もいるし、自転車に乗っていて事故死する人もいます。もちろんそういう不条理の前で人は「運命」を口にしたり、「神のみ旨」を口にしたりして、何らかの「意味」を探るわけです。そして戦争や大事故などで生き延びた人は、そういう「運命」との取引の意識を強くし、処世観が変わるのでしょう。
たしか、90代で現役医師の日野原重明さんは、50代でよど号ハイジャックを経験した時に死を覚悟して、生きて帰れたら余生は人のために尽くそうと思われた、と読んだことがあります。大病から回復された方がその後で大きな仕事をするという話も聞きます。それはその人の個性でもありましょう。「もうけものの命だから、余生は思いきり享楽的に生きよう」と思う人だって多分いるに違いないからです。失くしたと思っていた大金入りの財布が思いがけず出てきた時に、一度失ったものだからと思って金を慈善事業に寄付する人も、ないものだと思って散在してしまう人もいるでしょう。しかしその「なくした財布」の物語が、「生と死がくっきり別れた大事故」などのように社会性を持っていたり、歴史的事件が個人の人生を横切ったような場合、人は個性だけで行動を決定できないで、何らかの「分かち合い」を必要とするのかもしれません。
ちなみに、この「亡くなった方の分も生きよう」というのが「日本的心性」かどうかを確認するため、数人のフランス人に聞いたところ、「そういう言い方は、ホロコーストを生き延びたユダヤ人がよく言っている」と言われました。ナチズムによる明らかな「人災」で無実の600万人の同胞が殺され、その犠牲を無駄にしないように、繰り返されないように努力しよう、というわけで、「長生き」もそこに入り、「犠牲」は同胞の長生きの「代価」でもあります。そこで「普通よりうんと長生きする」と決意するとしたら、それはナチスの平均寿命とユダヤ人の平均寿命の総和を同じにしようという、例の「総和は同じで納得する」バランス感覚による不当感の解消や、一種の報復意識もあるのでしょう。
ここでどうしても思い出すのは、田川健三さんが、今の大学生には全然理解してもらえないとおっしゃっている福音書の中の例の葡萄園のたとえ話です。朝から日没まで働いた人の日当が1デナリオンで、午後から働いた人も、日没の一時間前に雇われた人もまた1デナリオンもらえたので、一日中働いた人が文句を言ったという話です。葡萄園の主は、最初から1デナリオンの約束でその通り払うのに何の文句があるのか、自分は自分の金を好きなように支払う権利がある、というようなことを答えます。
田川さんは、たとえば1デナリオンは日雇労働者が一日生き延びる最低の賃金だと想定し、日没近くまで仕事にありつけなかった人は、その日飢えて外に寝るしかなかったところを、最後に雇ってもらえて最低賃金をもらえたのだという趣旨のを解説します。十分の一の賃金では生きていけないからです。キリスト教的発想は、たとえば労働量に見合う賃金というメリットの発想でなく、すべての人が人間らしく暮らせるように、一日中働ける強い人や朝に仕事を見つけた運のいい人は、働けない人や職のない人と賃金を分かち合っても当然だというのです。なぜなら運や力の強い人の強さは、自分の徳ではなく、たまたまそうであっただけであるからです。でもこの話を聞くたいていの学生は、一日中働いた人が一時間の人と同じ賃金では「働き損」という、損得勘定でとらえて不当感を抱くのだそうです。
聖書には「神は与え、神は奪う」という有名な文句もあります。幸福な生活から一転、全てを奪われた義人が決して神を呪わないで、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と受け入れる話です。確かに、どの人も、生まれ育って生きているのは、自分の意志や能力によるのでなく、世界や他者との関係性の中で生まれ、育ててもらい、生かされているのですから、個人の努力やメリットに応じて死生観を打ち立てるわけにはいきません。いろいろな宗教には、徳を積めば救われる、天国に行ける、解脱できるなどのいわばポイント制になった行動規範もありますが、この世における不当感を相対化して平穏と諦念に導く理論もたくさんあります。
ひとつ思うのは、たとえばユングが「宗教は心理療法のシステムであり、(教会は)精神的な問題の全体を表現する強力なイメージ群を所有する」と言ったとしても、宗教は治癒力や意味付けだけでなく、やはり、「我々はどこから来て、どこへ行くのか」、という永遠の問いを誘い、支え、その答え探しに同行する機能をもっているだろうということです。その問いは「私はどこから来てどこへ行くのか」でなく「我々」という関係性の中でしか深さを獲得できません。
事故の生還者が、「亡くなった人の分も・・・」と口にしてしまうのは、実は、事故があろうがなかろうが、自分は他者との関係性の中で生かされているのだという「気づき」の言葉でもあるのではないでしょうか。
5
:
Naomi
:2005/05/12(木) 14:12:18
一神教について
昨年以来、ずっと頭の隅にひっかかっていることがあります。昨年7月の朝日新聞に梅原猛氏の文章が載っていました。「人間による無制限な自然支配が環境破壊を起こし、やがて人類の滅亡を招きかねないという危惧がささやかれる。そして一神教は他の一神教と厳しく対峙して無用の戦争を巻き起こし、20世紀に起こった人間の大量殺戮が21世紀にはより大規模におこる可能性すらある。このような状況において、あえて人類の末永い繁栄のために西の文明の二つの原理である人間中心主義と一神教を批判する必要があろう。−中略− 一神教の批判はもっと難しい。なぜなら、多神教は人類の原始時代の盲信に過ぎず、一神教こそ真に理性的な宗教であるという通説が今なおあたかも真理であるごとく存在しているからである。私は、多神教は、もともと森に住んでいた人類が、森の中の様々な生きとし生ける者に人間の力の及ばない霊妙なものをみて、それを崇拝することによっておこったと思う。今もなお自然は人類の及びがたい霊性を持っていて、多神教の成立の地盤は決してうしなわれていない。また多者の信じる神をみとめる多神教は、人類の平和共存をはかるためにも一神教よりもはるかに有効な宗教であるとおもわれる。一神教は森が破壊されて荒野となった大地にうまれた種族のエゴイズムを神の意志に仮託する甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私はおもう。」
私は梅原氏がすでに、他を認めない矛盾に陥っているとおもいました。でもキリスト教者のおかしてきた、ホロコースト、十字軍、レコンキスタ、30年戦争などをおもいますと、頭がくらくらします。ではキリスト者を辞めるかといわれれば、おそらく、死ぬまでやめないでしょう。大文字のキリスト教はわからなくても、小文字の複数のキリスト者は魅力的です。竹下様のお考えをうけたまわれますと、幸いです。
6
:
:2005/05/12(木) 18:34:38
一神教の好戦性について
一神教に関するこのような、一種紋切り型の不信感というのは、確かにアメリカの
対イスラム政策を見ていて高まったような気がします。
ブッシュ大統領が「悪の枢軸」国を制裁する姿勢を打ち出した時、
その善悪二元論を単純だと思ったり、一神教的だと思った日本人は
少なくありませんでした
しかも、実際、イスラム原理主義の側もアメリカを「悪魔」だと決め
つけていることが知られているので、どちらも善悪二元論で自分たち
が善の側に立っていると信じているのだから、結局、融通の利かない
一神教同士の喧嘩じゃないかと短絡的に語りたくなるのです。
でも、一神教と善悪二元論はほんとうに関係があるのでしょうか。
確かに、一神教、特に世界の創造者としての神を戴く宗教は、それ
に拮抗する悪のキャラクターを作ってしまう傾向が多いのは事実です。
その理由は簡単です。全能で至善の創造神の創った世界は全き善で
あるはずなのに、この世には殺戮を初めてする悪や不和、秩序の乱れが存在します。その
悪はどこから来るのか? 神が悪を許すはずはないのだから、悪を押
しつけるキャラクターが必要になるわけです。最初のレトリックは、悪魔は神
に許しを得た範囲で人間に試練を与えるために悪を行使するというも
のでした。だから、現代世界の一神教の始祖であるユダヤ教における
悪魔であるサタンには「敵」という意味しかありませんでした。
しかし、人々は「サタン=悪魔」のイメージを増幅し、悪の力を増
大させていきました。善であるはずの世界の中で悪を位置付けるためには
それが一番効果的だったからです。果てには、悪魔を神のように礼拝す
る悪魔教まで現れて、ミサに対してその逆のことをする黒ミサ、魔女
たちが獣の頭を持つ悪魔と乱交するサバトなどのディティールが充実
していきました。イメージ化が進んで一種の偶像崇拝が生まれたのです。
多神教や陰陽二元論の世界では事情が少し違います。多神教の神は「神
人同型」が多く、その「人格」の中にすでに善悪二面性があると考え
られています。戦争のような集団的殺戮の「悪」も、神々同士の戦いと
いう形で表現されて納得されてきました。だから、人々は、神に拮抗する
ような突出した「悪の化身」を発明せずにすんだのです。また陰陽二元論な
どは、陰と陽が交替し得るし、互いに互いを支え合っているようなバ
ランスの関係なので、どちらかがどちらかを制圧するという展開には
なりません。
だから、多神教的世界よりも一神教の方が善悪二元論に陥りやすい
心理構造をはらんでいるのは事実だといえるでしょう。しかし、だからこそ一神教の歴
史はこのような二元論との戦いの歴史だったことを忘れてはなりません。
キリスト教は、その内部で次から次へと生まれる善悪二元論の誘惑を
執拗に断罪していきました。初期のキリスト教は、ギリシャ・ローマ的多
神教の世界の中で自分たちを差異化するために、多神教対一神教とい
う戦い方をしてきたのですが、その後のキリスト教が戦ってきた内なる
異端は、多神教ではなく、常に二元論に基づいたものです。といっても、
前述したように、異端となった二元論は、もともと、一神教における
「悪の起源」を説明しようとするいろいろな試みが、いつのまにか正
統を逸脱したものだといえます。
エジプトの太陽神が一神教の成立に影響を与えたとしたら、それ以
前からあったペルシャのゾロアスター教が世界は善と悪、光と闇の戦
いだという二元論に影響を与えたのは間違いがないでしょう。 一神教のはらむ
二元論の契機にゾロアスター教の遺産が拍車をかけて、多くのキリス
ト教二元論が生まれました。初期のキリスト教の異端であるグノーシス思
想にも、マニ教に発展したペルシャ型があり、善と悪は最初から対等
な対立原理でした。
これに対してシリア・エジプト型のグノーシス思想は、全能の神を
温存しながら何とか悪の起源を説明するために、平行ではなく縦型の
レトリックを駆使したものです。代表的なものに、悪を含むこの世を創造した
「神」を超えた上位世界を想定して、そこに至高神を置く体系があります。
そこからさまざまな要素が「流出」していき、ある段階で、アクシデ
ントのように、悪を含む物質的なものや人間的な心などが生まれたの
です。しかし、悪である心身の中にも、実は上位世界から流出した「霊」
が燠火のように隠れています。人にとって、悪の世界からの救済とは、
自己の中にあるこの霊を発見して、心身を捨てて上位世界に回帰する
ことであるわけです。このレトリックは今でも「本当の自分さがし」などという生
き方指南や、ある種のカルトの超人志向などと共通していますし、神性
はすべてのものに宿るという汎神論的な世界観にも通じています。
この考え方だと、一神教を維持しながら被創造界の悪を何とか説明
することができます。しかし、キリスト教はこのグノーシスを異端とし
て論破することによって正統の基礎を築くことになりました。なぜかというと、
この考え方では、はじめに「光りあれ」といって天地創造をした旧約
聖書のユダヤの神の説明がつかなくなるからです。実際、グノーシス派
は旧約聖書を切り捨てて、新約聖書のみを奉じ、イエス・キリストの
語った神こそが至高神にあたるという見解を示しています。これに対し
て、「正統」キリスト教の方は、たとえ矛盾をはらんでいても旧約聖
書と新約聖書のどちらをも聖典とする姿勢を守ったわけです。グノーシ
ス派のいう「霊」も、上位世界からの流出ではなくて、肉体とペアに
なって創造されたものだという立場を守ります。
しかし旧約と新約を共存させたせいで、キリスト教にはその後も二
元論的異端が絶えることがありませんでした。代表的なものは、中世キリスト
教最大の異端であるカタリ派です。カタリ派はグノーシスの系統で、魂
のふるさとである至高神のもとに回帰することが人の救済であるとし
ました。しかしカタリ派は旧約聖書を否定しないで、旧約の創造神は汚れ
た物質界を創造した「悪」であると考えたのです。こうして善なる至高
神と悪の創造神という善悪二元論が成立してしまいました。彼らには「完全
な人間」を目指して肉体を痛めつけ禁欲や苦行に走るという、これま
た今でもある種のカルトの修行にも見られるある意味で普遍的な「行
き過ぎ」がありました。 もちろんペルシャ型グノーシスの流れを受けるマ
ニ教の影響もあったでしょう。
実際、カタリ派的な善悪二元論は、中世に突然孤立して現れたわけ
ではありません。「正統」キリスト教としてのローマ・カトリックが一応安
定して精神界を独占したヨーロッパでは、紀元千年を過ぎた頃から終
末思想が流行るようになりました。「至福千年」思想というもので、新約
聖書の最後にある『ヨハネの黙示録』に基づいた一種の集団幻想です。
この世の終わる前に天使が降りてきて悪の化身であるドラゴンを
鎖でつなぎ、千年の間は至福の時代が続くというものです。ただし天使
とドラゴンの戦いの間は混乱が続きます。また千年後には封印が解かれて
混乱が再開し、最後の審判があるというのですから、終末思想の色合い
が濃いわけです。その成立や展開についてはここでは述べませんが、中世
ヨーロッパにおける飢饉や疫病や戦乱の中で至福の時に憧れる人々の
心性が、天使対ドラゴンの戦い、善による悪の征伐というイメージを
増幅していたという時代背景は強調できます。つまり、中世ヨー
ロッパにおいては、黙示録的イメージの中での善悪二元論はかなり支
配的なものであり、それが十字軍による聖地奪還のような好戦性にも
つながっていたということです。カタリ派はその鬼子に過ぎなかったのです。
カトリックの秘跡を排して独自の典礼や位階を作った上にそれなりの
経済的基盤を持ったことではっきりと「異端」の烙印を押されましたが、
二元論自体は、時代の潮流を反映していたわけです。ボスニアやブルガ
リアにも神の友団(ボゴモリスト)という同系の二元論教会が生まれ
ていたことも知られています。カタリ派は聖書(当時のヨーロッパでは
ラテン語聖書のみ使われていた)を地元のオクシタン語に訳してすべ
ての信者の手の届くものにしていたり、女性の聖職者や説教者を認め
るなど、後のプロテスタント運動の先駆のような立場でもありました。
しかし、結局、「正統派キリスト教」が、アルビ十字軍を派遣して
カタリ派を殲滅した(14世紀)という事実は、政治経済的な理由
(トゥールーズ伯の領地をフランス王領に組み入れる)は別としても、
ヨーロッパのキリスト教が、必死になって善悪二元論に抵抗し続けて
いたという証しにほかなりません。アリストテレスの影響を受けた主理
主義哲学と神学を融合させたりして、二元論を排した一神教の「正統」
を強化していったのです。
そもそも二元論は誘惑的に働きます。それは従属しない他者を悪として
排除することで強化される「権力」が自己を正当化するのに二元論が
便利だからでしょう。二元論の誘惑はしばしば権力の誘惑なのです。それ
を考えると、中世から近代にかけていつも権力の道具になっていたキ
リスト教が、善悪二元論に何度も足をすくわれながらもその都度、悪
は人間の自由意志に向けられた試練であり克服すべきものであるとい
う一神教の緊張を持ちこたえてきたことはほとんど感嘆すべきことです。
その結果、善と悪が裏表のように曖昧に共存していていたり浄不浄に
置き換えられたりする多神教的世界では発達しなかったような、厳密
で抽象的な理論(それが近現代の国際法や法治主義の基となった)が
試行錯誤の後に続々と生まれてきたからです。
現在のヨーロッパ風のユニヴァーサリズムは、そのように、二元論
を排除し続けた「正統キリスト教」の執拗な戦いの遺産を受け継ぎ、
それを非宗教化したものです。2千年にわたる言語化や理論化の努力が、
多文化共存の世界における共通のルール作りに役立ったわけです。いい
かえれば、二元論を排する論理にあまりにも知恵をしぼってきたので、
そこから「神」や「教会」を取り去って非宗教化しても、「普遍」の
体系が残ったのです。「普遍」を追求し、極めれば、論理の帰結として
非宗教化せざるを得ないともいえます。キリスト教世界の内側だけが思
想の土壌だった頃は「神」の名において構築された体系が、非キリス
ト教、特に非一神教世界との共存のツールとして使われる時に、「神」
を抜きにして有効であり続けたのです。だから、本来、今の世界を牛耳
る西欧起源の「近代理念」は非宗教的であります。「一神教が多神教より
理性的」だからその理念を押しつけているのではありません。しばしば欧米
の植民地主義や帝国主義と共に弄されたそのような言辞を捨て、宗教
や文化の優劣を問わないところに西洋近代理念の普遍性が生まれたの
です。ただ、その普遍主義を錬成し研ぎすませてきたものこそ、キリス
ト教と二元論との思想的戦いの歴史だったということなのです。
その点、アメリカの建国理念となったユニヴァーサリズムは、少し
違います。非宗教化の必要がなかったからです。アメリカの拠って立つピュ
ーリタン的なプロステタンティズムは、二元論との戦いで生まれたの
ではなく、ヨーロッパの「正統キリスト教」が陥ったもう一つの権力
の誘惑である非民主的ピラミッド型官僚主義との戦いで生まれたから
です。プロテスタント的な民主的宗教共同体の拡張としての「民主
的な神の国」の理想はありましたが、それはやはり「神の国」であり、非
宗教化には向かいませんでした。その中で、結局、強者が生まれ、強者の
権力の誘惑と共に二元論の誘惑が立ち現れてくる。その最も短絡的な
形が、民主的キリスト教社会は善、非民主的イスラム教社会は悪とい
うような二元論として現れ、世界中の非一神教世界からは、「一神教
同士の内輪争い」だとか「キリスト教優位の傲慢」だとか受け取られ
ているわけです。
この歴史のダイナミクスを見ずに、日本の文化人が、キリスト教=
狩猟民族の好戦的な文化と先入観を持つことがあるのは残念です。
司馬遼太郎の講演録か何かで、西洋人のカトリックの修道女が、日本のミッションスクールの
教室で教えていたときに、猫が紛れ込んできて、 修道女が、ヒステリックに、悪魔を追うように
追い払ったというエピソードを紹介したのを読んだことがあります。それで、愛の宗教といっても、所詮狩猟民族というか、
日本的なやさしい共存とは相容れない正体見たり、という論調が続くのでびっくりしました。どう見ても、これはたまたま
その修道女が猫嫌いだったとしか思えません。 こんなことを、司馬さんのような影響力の大きい人が
比較文化的考察の論拠にするなんて驚きでした。 しかし、こういう安易な結論への誘惑は誰にもあるかもしれないので、
自分も気をつけようとも思い、また、修道女のように、普通の人間であっても他者からはその宗教だのその国の人の代表者
とも見られるような立場にある人は、やはり、イメージを大切にして、自分の好き嫌いをぐっと抑えても、身分に期待される行動を
とるべきだなとも考えさせられました。
梅原さんの批判しているもうひとつの西洋近代思想「人間中
心主義」の方も私は絶対擁護です。人間中心主義が自然を破壊し云々という理屈
もすごく安易な論議ですが、バランスシートでいえば、この人間中心主義の
もたらした善の方が絶対大きいと私は思っています。正しい人間中心主義や
正しい普遍主義は人を自由に向かわせます。すごく単純に考えても、たとえ
ば日本人で、別に権力者の家系に生まれたわけでもなくしかも女性である私
が、今こうして自由にものごとを考え、書いて発表できるということ自体、
西洋近代理念が良くも悪くも世界に行き渡っているおかげですから。
長くなったのでここでやめます。なおこの二元論については、今執筆中の『犬の帝国と猫の共和国』
から一部を転用しました。
7
:
小浜
:2005/06/10(金) 22:25:05
B16の対中政策について
お久しぶりです、こんにちは!
竹下さんのB16へのフィーバーぶり、楽しく拝見しています。
さて、しばらく前、B16は台湾との国交関係を見直して、
中国との国交正常化へとシフトさせていく方針だという
ニュース記事を読みましたが、この動きはどのように
解釈されますか?
8
:
sekko
:2005/06/12(日) 05:14:56
ヴァティカンと台湾
JP2 が逝去したとき、中国の国営TVはニュースを流しませんでした。ヴェトナムもそうです。その後、中国政府は、一応哀悼の意を伝えましたが、台湾のヴァティカン大使が葬儀に招かれたことに抗議して、葬儀には出ませんでした。実のところ、ヴァティカンは、B16の前、JP2時代にすでに、中国との国交正常化の方針を打ち出しています。
ヴァチカンとの公使の交換、そのおかげでローマに外交官を駐在させておくことのメリットは、台湾にとって、とても大きなものなので、私も個人的には、続けてほしいと思います。しかし、問題は、やはり、今の台湾の憲法が、共産党から逃げてきた外省人による中華民国憲法であり、この憲法が、台湾が中国本土を領有しているという限り、他の国が、中国と台湾の両方と国交を結ぶのは、矛盾しているといわざるを得ません。共和党のブッシュが政権にいるうち、オリンピックの前に、台湾が、実情に合った台湾国の憲法を施行して民主的に独立を図ることが望ましく、ヴァチカンも、中国との国交正常化の条件として、台湾を武力制圧しないことを強調してくれていればいいですが。中国国内には、多分日本より多い隠れカトリック信徒がいるので、彼らを今の状態から解放して、愛国教会とも折り合いをつけるという課題ばかりをヴァティカンが優先させるとしたら残念です。中国の覇権主義に対抗するには、東南アジア諸国と独立台湾と日本がいい意味で連携することが必要だし、それは、対韓国や北朝鮮と違って、メンタリティ的にも可能だと思うのですが・・
私にはフランスで知りあった台湾や中国の友人や知人もいて、台湾問題には大いに関心があります。昨年末の立法委員選挙で与党連合が敗北したのにはがっかりしました。台湾のヴァティカン大使らが外交能力を発揮することを望みます。ヴァティカンは、経済や政治や国益の思惑なしに、平和を何よりの優先事項として国際関係を見てくれる唯一の外交大国なのですから。
9
:
:2005/06/19(日) 08:16:12
ロザリオに付いて
ルネッサンスの絵画集を見ていて気が付いたのですが、あの頃の絵に登場する聖職者達はロザリオを付けていませんね。またいろいろな絵にも十字架(磔刑図の十字架は別として)はほとんど描かれていないように思いました。いわゆるロザリオはいつ頃、何がきっかけで作られたのでしょうか?(多分、ロザリオの祈りができた時でしょうが・・)
10
:
sekko
:2005/06/19(日) 20:20:21
(無題)
お答えしまーす。ロザリオはもともと、聖母像の頭に、祈りひとつにつきバラひとつという計算で人々がバラの冠を
かぶせたことから始まり、12世紀くらいにはあったそうです。イエスの茨の冠の棘のない部分というか、それに拮抗するものだったんでしょうね。それから、ロザリオの祈りというものが出来て、バラ冠のロザリオが祈りの回数を繰っていく玉の輪になったのでしょうね。フランス語でロザリオを意味するシャプレ(chapelet)と言う言葉も帽子のシャポーと同じで、聖母の頭飾りから来ています。13世紀だかにドミニコ会を創設した聖ドミニコが、ロザリオを修道服の腰の紐にいつもぶら下げておくことを規則にしたので、ドミニコ会系の修道士をあらわした絵にはロザリオが描かれていることがあります。アクセサリーのように庶民にも蔓延したのは18、19世紀ではないでしょうか。ルルドのマリアが「出た」頃には、マリアが自分でロザリオを手にしていても違和感がなくなっていたのですね。「そんな新しいもの持つなよ」と突っ込みも入れたくなりますが・・・
私がサウジアラビアで買ったイスラムの数珠(らくだの骨製)は11個球が3つで33玉でした。これを3回やると、アラーの99の名を唱えられるわけです。これを一生やってたら、天国でやっと教えてもらえるという100番目の名が知りたくてうずうずしちゃいますよね。でもいわゆる数珠はヒンズーとか仏教の方が古いでしょう。祈りと、手の中でころころ玉を繰るという感触は相性がいいんでしょうね。
11
:
Hiromin
:2005/06/21(火) 11:04:59
生命は脳にある?
竹下様。
カトリック・ウォッチングのコーナー、いつも新鮮な思いで拝読しています。
ところで、最新の記事の中に「受精卵はどこが脳になるか決まってないから生命とはしていない」というくだりがありますが、それが私にはちょっと不思議な感じがしました。私の中では生命(とか魂)って、必ずしも脳の中にはありません。私をもって日本人の典型とすることはできませんが、でも、そこのところに多少の違和感を持つ日本人は多いのではないかと思います。ヨーロッパの人にとってはやっぱり“脳”が生命活動の中心なのですか?
12
:
sekko
:2005/06/23(木) 18:49:20
受精卵について
ごめんなさい。私の言葉が足らなかったようです。言いたかったのは、どこが脳になるかの体軸の決定によって、他の全ての器官の場所も決まってくるということです。受精卵は、分裂して胚細胞になりますが、それが試験管の中での人工授精の段階では、その後どこに何が出来るのかわからず、それを決定するのは、受精卵を子宮に戻して着床したときだということです。つまり、子宮という環境のない受精卵は、それが志向している有機体を実在可能態として身体化する能力を自己のうちに持たない、確かに生きているが、魂を入れられた生命体ではないというのです。
ショウジョウバエとかの受精卵ではそういう位置信号が卵胞細胞から発せられますし、鶏では体軸は重力によって決定されるそうです(円盤状の胚が垂直線に対して45度の角度で卵黄の上に浮動し、その下方の突端が頭になる)。哺乳類では、卵が母体を離れないので、早い時期における体軸決定の必要がないそうです。だから、試験管の中でもう細胞が64分裂してても、その一部を任意に除去しても欠損が埋め合わされ、しかし一度体軸が出来たら、欠損は修復不可能なのです。
カトリック教会は、人は受精の瞬間から生命であり妊娠中絶は罪といってたのですが、1996年にイギリスで、冷凍していた3000の受精卵が廃棄された時に、それが堕胎かどうかが議論されました。結局、(体軸の)位置信号のない受精卵はまだ胚とは言えない、形成原理を受容する能力はあってもそれを生み出す能力はないからというのが合意になったようです。このレポートは、日本語では、上智大学神学会の『神学ダイジェスト』(1998年冬号No85)で読めます。ちなみに、この号は、生命科学と倫理の特集ですが、すばらしい論考がたくさんあります。
そんなわけで、脳が生命の中心というより、生命は環境とともにはじめて成立するという、含蓄ある話です。
それにしても、人工受精卵の廃棄が子宮外堕胎に相当するかどうかなんて、カトリック神学者以外にとってはどうでもいいようなことを真剣に考えて、詭弁を弄するのかと思えば、最新の発生学の成果を駆使してここまで深い洞察に達するイエズス会、あなどれません。
13
:
今紫
:2005/06/24(金) 22:58:34
はじめまして
拝啓、竹下節子先生。はじめまして今紫と申します。私はカトリックの洗礼に向けて勉強しています。先生の著書を拝読して聖人や聖母マリアの話に興味を持ち益々惹かれてゆきます。
ところでお聞きしたいのですが竹下先生、『ムー』という雑誌はご存知ですか? 今月発売された中の記事に「ローマ教皇」の特集がありました。内容によると、聖マラキ(アイルランドの司祭)がローマ教会、および教皇の未来を予言したことが書かれており、教皇レオ13世がイエズスと悪魔の会話を聞いて恐ろしい危機を抱いて祈りを作調しミサで披露した話と、聖ピウス神父が前教皇ヨハンネス・パウルス2世の誕生を予言したりと様々なことが書かれていました。
それと、日本も含めてカトリック教会が今、フリーメーソンに支配されているという噂も聞きますが先生はどう思われているのですか。私もそれが心配でなります。
もう一つ、ファティマの予言でフリーメーソンの活発、社会主義の台頭が述べられていますが私は(これはあくまで私の憶測ですが)こう考えてしまいます。聖母はひょっとすると、彼らのほかにキリスト原理主義、イスラム原理主義、エホバの証人、モルモン教、オウム真理教、リトル・ペブル、ラエリアン・ムーヴメントなどのカルト、そして、日本を中心に世界で「総体革命」の名の元で繰り広げ、政治、経済、芸能界、司法などに力を伸ばしている日蓮正宗(これも日蓮原理主義に属している)から分離した創価学会のことを警告しているのではないでしょうか? 信者の方には申し訳ないがもし、それが誠であれば私はそれに対し震えが泊まりません。そう考えるのは私一人だけでしょうか・・・・。
14
:
sekko
:2005/06/25(土) 08:50:11
心配ないです。
ご愛読ありがとうございます。もしこのご質問の趣旨が、そんなことはないですよ、と私に言ってもらって安心してカトリックの共同体に入りたいということであれば、とりあえず、大丈夫ですよ、と申し上げます。
今日、中公文庫から、『ローマ法王』を出しました。文庫用の後書きも入っているので、お読みください。1998年に朝日新聞社から出した『ノストラダムスの生涯』という本のなかで「聖マラキの予言」について書きました。聖マラキは実在しますが、予言は400年もあとに突如現れて、ローマ法王の選出にまつわる権力争いに使われました。他にもいろいろなエピソードはありますが、すべて噂の域を出ず、信仰の問題とは関係がないので、お話として読むか、気になるならまったくその手の雑誌や本から遠ざかったらいかがでしょう。
私は学生時代に、多分雑誌の特集だとかを読んで、突然、関東大震災の再来が怖くなって、こんな不安の中では暮らせないと真剣に考えた時期があります。80年代に世界各地の聖母のお告げを収集して、本当に聖母かどうかというより、これだけ多くの人が終末観にとらわれているなら、やがて核戦争が起こるに違いない、と確信してオーストラリア移住を計画したこともあります。99年の7月に東京にテポドンが落とされるという有名な噂がネットに広まったときは、ちょうどその日に東京で講演を頼まれていたのをキャンセルしようかとも思いました。
幸いどの時も、正気に返って日常生活を続けましたが、私はこのように、ネガティヴな予測だの流言蜚語などに一時的に迷わされた経験もあるので、陰謀史観に恐れる人たちを笑えません。しかし、フリーメイソンなどの陰謀史観は、底に差別主義や排他主義が流れていることが多いので、まず信じないで退けてください。この手の話には固定ファンがいて、売れるから再生産されるわけですが、はまるタイプでまだはまっていない人は気をつけてください。すでにはまっている人や自分でそういう話を作っている人は、私のこのサロンに来てくださる方にそういう話を広めたくないので遠慮してください。
特定の話題で、自分でいろいろ批判的に検討した末にどうしてもここが分からないというものについては答えます。でもたとえば陰謀史観を説く人には、同じ土俵で反論出来ないことが多いです。単純に言うと、「陰謀があった」というので、「その証拠は」と聞くと、「それが巧妙に隠蔽されているからこそ陰謀なのだ」、という感じですから。
私はこの世に陰謀がないとは言いませんし、宗教原理主義が世界の平和を脅かさないとも言いません。でも、多くの場合は、そんな不安を口にして再生産しても、まず害の方が大きいです。個人の生活の周りには、もっと緊急でかつ、自分の努力や采配で回避したり改善したりできる危機や問題がたくさんあると思います。また、私達を直接必要としている人が近くにいるかもしれません。そんな堅実な生活感覚を失わせるような言辞は批判的に管理なさることがお勧めです。
それにしても、いろいろな「警告」を同列に扱わずに、何が本当に危険なのか、それに対して何が出来るのかを見極めることは簡単ではありませんね。キリスト教風に言うと、それこそ聖霊が今紫さんを、より不安のない方へと導いてくれますようにお祈りします。
15
:
Masako
:2005/10/12(水) 13:43:01
現代のグノーシス
正教の図像表現については私も古典期のギリシャと正教化ギリシャの文化の
断絶を以前から非常に奇妙に感じていました。この点はまた別途ゆっくり考えてみたいのですが、竹下さんのレポートを読んでいて、アンティセミティズムに見られる
ような正教世界の負の側面に新に目を開かれました。ちょうどその頃、クルド人難民
(だったかちょっと記憶が定かではありませんが)の親がわからない子供を
ギリシャの片田舎の村のコミュニティで受け入れて、その理由が
「正教の洗礼さえ受ければ何人であろうとわれわれのコミュニティの子供だ」と
言ったという村の長の話をある人から聞いて、正教世界の懐の広さに関心した
ところだったからです。つまりこれはウラを返せば、正教以外のものに
対しては非常に排他的になるということですからね。
どうも我々(というか私は)近代主義や合理主義にむなしさを感じる
あまり、非近代的なものの暗部に対して甘くなるという欠点があることを
最近非常に感じています。
さて、表題なんですが、かつて政治学者の永井陽之助氏が20世紀をこれほど
悪くしたものとしてグノーシス主義を挙げていました。永遠に変わらない「本質」
顕現主義がその根底にあって、アクティブに現れれば地上に理想王国をつくろうという
大衆運動になるし、ネガティブにはわれわれの見ている世界はすべて幻である
という現世否定のシニカルなものとなると言っています。その極端なものとして
レーニンのボルシェビキ革命やナチズムが挙げられていますが、グノーシスの特徴は
人間世界を物理世界と同じようにパズルとして見る、それを解く解法があり、
その暗号解読のキーワードを発見すればこの世がよくなるというビジョンが
根底にあるという説明です。
私のグノーシスのイメージは永遠の真理、隠された叡智を一握りの
人たちが持っているというエリート主義、秘教主義的なものですが、
−ここで話がちょっと飛躍しますが−もし竹下さんが難病に
かかって苦しんでいて、その力を持った人があらわれてその病気を半分ぐらい
実際に治すことをしてくれた場合(秘教的なやりかたで)、
どうされますか?変な質問ですみませんが、たとえば代替療法のあるものが持つ負の
側面がグノーシスと関連しているような気がしての質問です。
16
:
Sekko
:2005/10/14(金) 23:40:22
グノーシスについて
「代替療法のあるものが持つ負の側面がグノーシスと関連しているような気がして」というところは興味深いですが、質問との関連がいまひとつ分かりません。フランス語でagnostique といえばほとんど無神論と同義なので、誤解されると困りますが、私は基本的に、「超越的なもの」は感じてもいるし認めてもいるし、必要だとも思っていますが、地上的な形では私には理解不可能だとも思っているので、理解しようとも思わず、アグノスティックで暮らしています。だから「グノーシス的知識」を所有している(と称する)人を探そうとも頼ろうとも特に思いませんし、自分の中の「神的なもの」を抽象しようとも発展させようとも別に思いません。ニューエイジ思想と親和性があるせいか、グノーシス系カルトがあまりにも多いので、警戒心の方が強いです。私にとってはグノーシスの代替になっているのが理性とか知性です。信仰がそこに加われば磐石ですが、信仰の方は、私からはアクセスできないけれど、向こうからはアクセスしてくれている呼びかけを認めることで知性に意味ができる、といったものでしょうか。
それで、もし秘教的スキルを持った誰かに難病を治してもらったらということですが(半分じゃやな気もしますが)、もちろん感謝すると思いますが、それでその人を宣伝しまくるとか、人に勧めて回るとか、帰依するということは多分ないと思います。ただし好奇心に駆られて、他のケースを観察したり、その人のウオッチングを続けたリ、「意味」を探ろうとはするかもしれません。これまで、難病はないですが、身体的な危機に陥った時が二度あり、その時に思ったのは、何とか治りたいとかこれが治れば魂を売り渡してもいいなどということではなく、これが楽になるなら死んでもいいとか、こんな状態だったら生きている意味はないなあかのどちらかでした。同時に、こんなにあっさり生の執着がなくなるなら、本当に死ぬ時も、割と楽かも、と自分で驚いていました。
私も痛いのや苦しいのはもちろん嫌ですが、薬や手術もほんとは嫌だし、巡礼や奇跡のグッズや奇跡の療法とかにも全然惹かれません。シスターとかのお手伝いをして感謝される時には、これからもお手伝いできるように、私ができるだけ長く「頭がはっきり、体がしっかり」の状態でいられるよう祈ってくださいとはお願いしますが、そして、少なくとも何人かの方は多分ほんとに祈ってくださっているはずなので、そういう「プロ」の祈りが効かなくなればあきらめもつくかと思ってます。
そういえば、MLにこの夏に会った人の話を書いたことがあるので、ここに一部再録します。
「私はこの夏、癒しの超能力を持っているという男性に出会いました。能力に気づいたのは40歳で、今78歳で、生きているうちにそのメカニズムを私に伝えたいという話でした。そのとき、原因不明の全身の痛みに何年も苦しんでいる女性を救った話を聞きました。治療を施す前に、今までの生き方を反省して世界観を変えてもらうことが必要だそうです。それがあまりシビアな話なので、本当にそれをクリアする人なら治っても不思議じゃないと思いました。それくらい「なんとしてでも治りたい」という本人のモティヴェーションが要るのだそうです(軽いのは簡単に治せるらしいのですが)。私は「自分が
苦しんでたとしたら、こんなおじさんに説教されて自己批判するような気力はないだろうな、」とすでに負け組の気分で聞いてました。同行した友人のTVのディレクターは腱鞘炎がひどいからといってその場で治してもらってました。私も、痛いとこはなかったのですが、しいて言えば、唇にできたメラノーゼ(老人性のシミ)をとりたいけど、といいますと、水の入ったペットボトルを開けて手をかざしながら彼に携帯で電話したら、水にエネルギーを注入してあげるから、それでシミをなで続けると必ずとれる、と言われました。ほっとけば真っ黒になる、完全に真っ黒になった人も治したことがあるとも言われました。広がったらメラノーマで癌の一種ですから、ちょっと違うと思いましたが。
それで私がどうしたかと言いますと、ご想像通り、シミが消えなくても別にいいや、と思って、携帯に電話しなかったのです。せっかくエネルギーを入れてもらっても、毎日手当てするのも面倒だし、そんなに努力する気があるなら、私のところにはルルドの水やザムザムの水や各種聖水「癒し水」がすでにいろいろあるのですから。
(顔の欠点がすべて消える確かな方法は鏡を見ないこと、とも言われてますし)
母には、自分が使うからやってもらっといてよ、と言われたのですが、母は昨年病気をして以来、自分の健康が世界の最優先事項になってしまっていて、「生き方の反省」なんて不可能な自己チュウのモードで生きてるので効かない気もしたので。でも、母はルルドの水で毎日マッサージをしてるというので、モチヴェーションは高いかもしれません。まあ、何をしても治る人も治らない人もいて、たまにすごい根性で病や痛みをねじ伏せる人もある、といった感じでしょうか。ちなみに母は西式健康法の信奉者で、幼いころ右手を心臓の上に45分上げているという「行」をして、それから右手を上げるたびに「電気がきて」、それで子供たちのちょっとした傷や痛みをいつも取ってくれたそうです。そんな行をしたから神経がおかしくなったんじゃないかとも思えますが。」
というものです。この夏ご親切に提案してくださったNさん、ご期待に添えなくてすみません。でも、絶対治せるという人に会ったり、そういう話を聞く度に、私が感じるのは目くるめくような不公平感なのです。そういうチャンスもなく苦しみながら死んだ信仰深い人とか、痛い治療を繰り返してよくならず絶望したり、医療過誤や薬物中毒の被害を受けた人とかのことが思われて。
それに、癒しの能力がある人のことを認めると、呪いというか、人を病気にする能力がある人のことも認めざるを得なくなります。まあ、癒しの方が、相手に治りたいというモチヴェーションのレセプターがある分、能力が発揮しやすいと期待しますが。もし、私に突然、癒しの能力が授けられたら、不公平感に苦しめられながらも、できるだけたくさんの人を助けたいと思いますが、そこにセレクションの観点が入ってくるかもしれず、まあ、だから、そんな誘惑につながる能力は私にはない方がいいと思います。そして、そんな癒しの恩恵を受けられない大多数の人たちの側に立って、それでも、生には何か超越した意味があって、痛い人と痛くない人、苦しんでいる人と苦しんでいない人、そして多分死んだ人と生きている人の間にも同じ風が吹き渡っていると語っていければと思います。あまり返事になってないかもしれませんが、また他の皆さんの考えもお聞かせ下さい。
17
:
Masako
:2005/10/16(日) 23:56:44
癒しの超能力
竹下さん、お返事有難うございます。私の質問はちょっと変でしたね。実は、身体の不調からたまたま受けたある代替療法がたしかに効いて、その結果自体はかなり快適なものだったのですが、そのプロセスがどうにも秘教的なもので、続けるべきかどうかジレンマに陥っていたという個人的な事情からの質問だったのですが、難病云々という極端な設定をしてわかりにくくなってしまってりました。
この件については自分の中で結論が出てもうやめることにしていたのですが、竹下さんのお返事の
最後の部分「生には何か超越した意味があって・・・」以降がそれをもう一押ししてくれたようです。お世辞ではなく、こういう聡明な友人の一言を聞ける幸せを感じました。
当該代替療法はインドの伝統医学アーユルヴェーダで、おそらくアーユルヴェーダ医にもいろいろなスクール、タイプがあるのでしょうが、たまたまというか運悪く、私が関わったのが今になって気づくとかなりエソテリックなもので、これは相当やばいんじゃないかと思うようになった次第です。そしてそれでも治療を止められないのは単に効果があったというだけではなく、私の中にも「この病気にはどこかに完全解があるはずだ」といったような気持ち、また、自分の中に「病気の状態から健康な自分になりたい」という思いがあり(これは自然なことではありますが)、そこに完成型を前提とし、志向する不健全さを発見した次第です。
そしてもちろんその私の志向が引き寄せたということもいえますが、相手方の志向にもそれが強くあり、アーユルヴェーダ医学というのは心身ともにバランスがとれた状態を目指すものではありますが、いろいろ歴史等を見ていると、エントロピーの法則に逆行するような若返りの医学という
面も非常に強く持っているのではないかということに気づきました。これはマヤラジャなどの治療が中心だったことを考えればうなづけることです。
こういったものが大衆化によって今は日本でもアーユルヴェーダはかなり広まっています。いわばマハラジャ対象のような手のかかる治療が大衆化されOLにまで流布し、あくことなき健康とアンチエイジング志向の波に乗ってやってきているのが今の日本なのかもしれません。
そして私は(あくまでも私の関わったアーユルヴェーダ関係者限定ですが)彼らの中に到達点としての理想型へ患者を当てはめようとする志向という意味でグノーシス性を、また何か非常に乾いていて非人間的なもの、つまり治療対象とされた私へのコンパッションを欠いたものを感じたのです。それは普通の日本の西洋医でよくいる感じの悪いよくない医者というのと全く違う、ある種哲学的不快さでした。ここでまた飛躍してしまうかもしれませんが、ヴェーダ・ウパニシャッド哲学というのはそんなものなのかもしれないと感じています(あまり勉強したことがないので断言は危険ですが)。うまく表現できませんが、今回の体験を通じ、いままであたりまえのように思っていたlove とかcompassionという西欧キリスト教世界の価値を再発見した気持ちです。
18
:
Sekko
:2005/10/20(木) 05:32:27
それなりに
なるほど、そういうわけだったのですね。哲学的不快さというのは、すごいですね。でも、ある意味、傷ついてる人は感受性が強くなっていて、直感的にそういうことを見抜くのかもしれません。フランスで仏教の講義をしてるフランス人と話したときに、慈悲をcompassion と訳すのはよくない、キリスト教では、イエスがともに苦しんでくれるからcom+passion でいいが、仏教では、苦しみが取り除けるのだから、もっと優れているのだ、と言われたことがあります。でも、よく聞くと、苦しみの原因になっている執着を取り除くとか、痛みのある実相の世界を虚と認めるというような、精神のアクロバットがあって、今ここで苦しんでいる人の多くはそんな努力をする気力がそもそもあるだろうかと疑問に思ったことがあります。イエスが一緒に苦しんでくれるというのも、ただのレトリックだと思えるかもしれませんが、同病の体験談を読んだだけでも、気が軽くなったりすることはありますから、誰かがずっと痛みに寄り添ってくれていると思えるのは、悪くありません。「希望は捨てずに、期待はするな」が、最近の私の生活哲学と前に書きましたが、「期待をするな」が不幸の回避の第一の智恵かなあと思うことがよくあります。
ある状態が、悪化したとき、以前できていたことができなくなったとか、何かが壊れたとか、傷ついたとか、失くしたとかいうとき、まあ、できる範囲で部品を変えたり、修理するのはもちろんいいにしても、どこかで、「別に前のとおりに戻らなくてもいいじゃないか」と認めるのは、大事なことだと思います。確かに人間の自己イメージには慣性が働いていて、たとえば「若くてきれいで健康で」あった自分のイメージを結構引きずっているのに実際は多くのものが変化しています。そのずれも把握しないうちに、世の中には「もっと美しい、もっと能力のある本当の自分があるはず」などという言辞があふれているので、多くの人は、「前にあって今はないもの」の幻想と、「あるけれどまだ見えていないもの」の幻想の狭間で、「あるがまま」を2重に収奪されているのではないでしょうか。
私の「あるがまま」「とりあえず」「それなりに」快適にやっていくお手本は、やはりうちの3匹の猫たちです。あちこちからたたき出されても、ティッシュ1枚落ちているのを見つけたら、とりあえず、その上に丸くなって、それなりに満足。2匹がいがみ合い、すごいストレスの基に生きているはずで、こちらもはじめは何とか昔の平和を回復しようとして、ありとあらゆることをやり、疲れ果て、もうあきらめてしまって、ふと見たら・・・別に解決したわけでなく、悪いままなんですが、なんと言うか慣れてしまって、
別に開き直ったとかいうのでなく、抵抗するのをやめたら、別の見え方もあるし、そのうちその実態に近い低レベルの「自己イメージ」ができて、いやあそれなりに落ち着いて、新たなちょっとした喜びとかもあるもんだ・・・というのが私の現実です。というと、あまりにもさえませんが、そこはそれ、それなりに、エントロピーを上げられるところは上げているんですよ、ほとんどニューロン・レベルだけですが。でも、外部が崩壊していくと、結構内部は充実していって、悪くないですよ。とにかく、paraitre から etre へ、
これが「真実があなたを自由にする」ってことの意味じゃないかなあとか思います。
19
:
:2005/12/04(日) 13:38:25
全免償
今日ミサにゆきましたら、教皇B16が12/8、無原罪の聖マリアの祝日にミサ,告解、教皇のための祈りをすると、全免償(有限の罪を全部許す?)を与える、と言われたとききました。まるで、中世にかえつたような、時代遅れの宣言におどろきました。また一方妙に懐かしい感覚もあり、いつてもいいなあ、そういう機会もないと、教会にゆかないし、なんて考えもうかびました。竹下先生は教皇の発言をどのようにお聞きになりましたでしょうか?お聞かせいただきますと,幸いにぞんじます。
20
:
Sekko
:2005/12/05(月) 23:11:54
全免償について
実は日本語の用語はよく分からないのですが、おそらく、フランス語のIndulgence pleniere 昔で言ういわゆる免罪符だと思います。それなら、2000年の大聖年のときには1年中やってたと思います。金で買える免罪符はさすがに反宗教改革時代になくなりましたが、金でなく愛によって免償できるということになり、完全に消えたことはありません。第2ヴァチカン公会議前のフランスでは、色々な特別の祈りのカードがあって、これを祈れば30年の免償とか書いたのがたくさんあります。罪障消滅の後に課せられる償いの部分が大きすぎ長すぎて、免償なしには一生かかっても償えなかったのですね。でも、第二ヴァチカン公会議以降は、償いが軽くなり、告解に行く普通の人には、事実上、すぐ償えるか、あまり感心を抱かれなくなりました。でもパウロ6世とか、JP2は、この全免償を、多分、信者のコミュニオンの道具として復活させたかったように思います。つまり、個人の罪と罰とかではなく、免償と一人一人の回心が、少しずつネットワーク全体を強くするようなイメージ、です。
全免償がもらえるような機会に指定された場所で指定された手続きを経て祈ると、そこに参加できなかったすべての人に少し手をさし述べることができる、と思います。大聖年の免償も昔はローマのどこそこの教会とか決まっていましたが、今は、世界中で、司教が指定した場所でもOKとなっています。パリでは、そこかしこで、ここの教会は全免償認定とか書いてありました。私は、時代遅れというより、場所にとらわれなくてすんで、民主的というか、コミュニオンのヴァーチャル力が充実したなあと思いました。
この時代、心のべクトルを、謙虚に他者に向けることができるような機会があれば、どんな手段でもあり、と私は思います。今のカトリック教会にとっては、免償は金儲けでもなく、脅しでもなく、自らの栄光の確認でもありません。多くの人が、現実のあまりにも物質的な世界から、少しでも頭を霊的な方に向けて、秘蹟の中で、他の人との連帯を感じあえるチャンスがあるなら、アメを差し出すことがあってもいいのではないのでしょうか。少なくとも、ある種のカルト教団が、こうしないと地獄に落ちるとか世の終わりだとか行って、恐怖のムチで、人を宗教に引っ張るやり方よりも健全です。
今年はパリの不思議のメダイのチャペルの御出現の175年の聖年で、その最後の日が12月8日です。楽しそうなので行こうかなあと思ってます。ともかく、全免償を、なんだか、自分の罪悪感や不幸感に対して、お得感のあるようなものとして捕らえず、ましてや厄除けや願望成就みたいなものとは混同せず、思いを他の人と分かち合うこと、というのが、今のカトリック教会の狙いだと私は理解してます。
21
:
:2005/12/08(木) 16:29:17
お返事ありがとうございました。
「心のベクトルを謙虚に他者に向けるような機会」「思いを他の人と分かち合うこと」という発想にうなりました。日本の場合全免償という言葉自体、半世紀前に信者になつたものにしか、つうじません。これで他の人とおもいを分かち合うことが、とにかく、教会で出会う機会がふえる、といつたことから、できるのだとすると、確かに意味のあることかなあ、とおもつたことでした。黙想会にでても全免償になるときくと、いつてみよう、とおもえてくるのですから、効果はあるのですね。ともかく、教会に行かない私が次の日曜の黙想にはでかけることになりました。友達が行こう,行こうというものですから。やはり他者とであい、心をわけあう機会になるのですから、全免償は少々、薬みたいなものかな、とおもいました。ただ、カトリツクが極端に少ない日本ではカトリツク内の少数にしか、こんな言葉はつうじません。これもバチカン内思考のようにおもえてくるのもたしかです。先生の思考の表現力には舌をまきます。だから、お礼もしどろもどろな私をおゆるしください。
22
:
hiromin
:2005/12/24(土) 12:02:36
聖母マリアについて
竹下様。
ちょっとおかしな質問なのですが。。。
この間キリスト教に関する本を読んでいて、ふと思いついたことがあります。
それはマリアさんはいつから聖処女になったのだろうか、ということです。
というのは、イエス・キリストがもし人間の男女の子どもでないなら、つまり人間世界の父親の子どもでないなら、
キリストは神の遺伝子を純粋に受け継いだ人で、変な言い方ですがマリアさんはお腹を貸しただけで、マリアさんの遺伝子も入ってないのではないのか?純粋な神の子であることにするためにマリアさんは聖処女でなければならなかったのではないか?
と、妄想したわけです。これは、マリアの母もまた聖処女であった、という話をどこかで聞いたことと合わせてそう思ったわけですが。。。
マリアさんが聖処女であるというのは最初から(キリストのいた時代から)言われていたことなのですか?
23
:
Sekko
:2005/12/26(月) 08:56:02
聖処女の話
面白い質問です。というか、普通は、イエスは少なくともマリアの子供であることは間違いないといわれているので、もし遺伝子が片方だけなら、マリアの遺伝子は少なくとも受け継いでると思われています。だからこそ、マリアは母親の胎に宿ったときに現在を免れていたとかいう理屈付けをみなが考えたのですから。
そして、母親の遺伝子だけなら、当然女性ですよね。イエスが男であったことは、Y染色体を持っていたことで、それはマリアから来ません。これだけでも両性生殖だということが分かります。トリノの聖骸布やオヴィエドの布や、アルジャンターユの長衣など、受難関係の聖遺物に付いた血痕はみなAB型で、これも、両性生殖でしかあり得ません。
でも、キリスト教の関係者は、このことをあまり気にしてないと思います。マリアが処女じゃなかったとか、イエスがマリアとヨセフの子だったとか、そういうことが「ばれて」、それを隠すための陰謀とか刺客とかいうのは、安手のミステリーにはありがちですが、大事なのは、神が100%人間になってくれたというところで、人間ならAB型もあり、両性生殖も当然なので、「それがどうしたの?」ってとこもあると思います。たとえていえば、カトリックで聖体がイエスの体になるといっても、大事なのはPresenceプレザンスであり、聖体の成分を分析して「小麦と水」であっても困らないのと同じです。ワインに赤血球が入ってなくても平気。
聖処女信仰は2世紀頃が起源のようで、教義の変遷については私の『聖母マリア』(講談社選書メチエ)とかを読んで見てください。「合理的解釈」をしたいなら、日本でも子供は神からの授かりものというように、1世紀のユダヤ世界では、子供のことを「神の子」と呼ぶことは珍しくなく、父母がそろっていて同時に神の子というのは矛盾しないという人もいます。でも聖処女信仰は、単に「単性生殖」とか、マリアと聖霊の合体だとかいうところから、受胎の時も出産のときも出産の後も処女だったとかエスカレートするので、もうそうなったら、「合理的解釈」は不可能です。
でも、ここが、実は、キリスト教の面白いところです。エデンの園で、神のいうことをきかなかったアダムとイヴだとか、堕落する天使とか、悪いことばかり繰り返す人間だとか、外から見てると、「全能の神なら、もっと被造物を管理しろよ」と突っ込みを入れたくなるほど、神は、なぜか「自由意志」を尊重することになっているのです。
ある人が誰かに自分への愛を強要しようとしたら二つの方法があるとアベ・ピエールは言います。ひとつは、一種のマインド・コントロールで、依存関係を作り上げること、お前は私なしではだめなんだよ、という類のもので、カルトの教祖とか、親子やカップルにも見られます。もうひとつは、人が愛さずにはいられないような完璧な存在であることが明らかな場合。もし、全能で愛である神が、白日の下にそれを表したら、人間は、神を愛する他に選択肢がありません。
しかし、人間の自由意志にこだわる神は、だからこそ、ちょっと間接的に、身を隠しているというのです。そして、この暗闇の部分が、信仰を必要とするのです。神を触ることも見ることも直接知ることさえなく、それでも、信仰の中で神を愛することが可能だというのが神の望んだ人間の偉大さであり、それが実現するには「完全な自由」が保障されている必要があります。神は「自由な選び」を創造に組み入れたのです。専制君主とか、さまざまな暴力装置を必要とする国家や、カルト教団の教祖や、愛を強要する母親や恋人などと全然違います。多分、自由は、真実と関係があるからでしょう。「真実は人を自由にする」というのもそういうことではないでしょうか。
だから、たとえば今のカトリックが、「処女受胎」を含む、検証不可能なさまざまなディスクールを掲げながら、それを万人に納得させるために無理につじつまを合わせることなく、AB 型でも、両性生殖でも単性生殖でも細かいことにはこだわらない、グレー・ゾーンは多い、でも自由意志で、まとめて信じてくださいね、と言っているのは、キリスト教的な神のやり方を踏襲していることになります。私は、個人的には、好きです。ご利益があるとか、良いカルマをつんで、良い来世を目指すとか、すごく偉い超能力の教祖様がいるとか、ましてや信じなければたたりがあるとか言われて、「信心」に誘われるのではなくて、まったく自由だと言われたいのです。
アベ・ピエールは、ただし「人になった神」というのを一度信じたら、その人(キリスト教徒)には、イエスに倣う一種の責任が生じてくると言います。聖母マリアの話を信じる、という人は、自分や自分の愛する子供までを他者のために捧げたマリアの生き方に何らかの形で共感して寄り添っていく義務を自由に選択したということかもしれません。たとえば、自分や自分のエゴの投影である子供よりも優先される他者があり得ることを認めるとか。
神が人間の「自由」を尊重したおかげで、人は悪からも逃れられずに苦しみまくっていますが、自由な信仰が他者の苦しみへと視野を広げてくれたら、苦しみは分かち合いへのトランポリン(これもアベ・ピエールの言葉)にもなると言われます。
話が広がりましたが、そういうわけで、キリスト教は別にイエスが「人間の男女の子でない」と言ってないのに注意してください。まあいろいろな教派的、文化的理由でマリアが神格化していった歴史はありますが、人間マリアの子というのは大体のコンセンサスなので、マリアは別に代理母ではなく、イエスの少なくとも半分の遺伝子提供者だと思ってOKです。
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:2005/12/27(火) 09:00:41
お二人の会話に感激
ひろみんさんの質問はカトリツクである私をうならせました。なにも考えずただ、信仰が先にたつたものの盲点を指摘してくださり、考えがひろまりました。竹下先生の回答は見事というほかありません。『自由は真実と関係がある』『『信じるということは義務を自由に選択したということ』これは実にすつきりした、回答で自由意志で信仰を受け入れた、そのこと自体に神の愛と私に課せられた、責任を強くかんじました。そして、そんなすごい責任を果たす目標をあたえてくださつた、神に新たな感謝がわきおこつてきました。全国のかたに、ひろみんさんと竹下先生の問答を読んでいただきたいとおもいました。
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