[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
哲学・宗教質問箱
113
:
Sekko
:2007/02/24(土) 23:55:52
聖霊について
なかなか微妙な問題です。特に近頃、たましいがどうとか前世がどうとかという言説が日本で無批判に出まくっているので、「実証不可能なこと」との関係性についてすごく気になってます。「実証不可能なこと」、たとえば先祖霊の姿とか聖霊とか守護天使とかオーラとか、そういうのを信じること自体は人間性の一部だと思ってます。自分が霊に接触したとか御出現を見たりお告げを聞いたと信じることも、人間の認知のメカニズムから言っても、大いにあると思います。でも、ある特定のAさんにだけその能力がありAさんの言うことだけが真実だと、Aさんでない多数の人に信じさせるのは、組織や制度の問題だと思うんです。
西方カトリック教会に関しては、はじめは使徒による洗礼を受けていない人には後から使徒が按手して聖霊を与えるというやり方から、聖霊は堅信(confirmation)にシフトしていきました。
堅信の歴史については研究書があります。洗礼でも聖霊パワーをもらえますがそれは神の子にしてもらえることで、その後「霊的な成熟」を経てから、堅信式で司教によって、キリスト者の使命を果たせるように聖霊パワーをもらいます。聖霊の七つの賜物といって、イザヤ書(11.2−3)にインスパイアされたもの(知恵、分別、力、思慮、勇気とか)を受けることになってます。
とにかく制度化された聖霊の授与はこの司教による堅信式がメインになっていて、これについては司教が聖霊の授受を管理しているわけです。その他に、確かに、気のように、宇宙エネルギーのように遍在している聖霊のイメージも確かにありますが、組織できない個人の体験は、普通は「実をもって木を判断する」と処理されるのでしょう。あと、集団で聖霊が降りてくるのを待って、口々に異言を発するってのも、聖霊降臨以来、キリスト教系世界でいまだにいろいろな形である現象ですね。しかし問題は、そのような聖霊の降り方とか受け方が、人々をばらばらにするのか、結びつけるのか、ということではないでしょうか。旧約の神がバベルの塔を壊して人間たちが互いに言葉が通じなくなったというエピソードと、キリスト昇天後の聖霊降臨で人々が世界中の言葉を話せるようになったエピソードは、一種「対」になっていて、聖霊ユニヴァーサリズムの可能性を語っているものとして平和への希望を抱かせてくれます。聖霊降臨に異宗教間対話の根拠を見ようとする本を読んだことがあります。参考にコピーします。
De Babel à Pentecôte. Essais de théologie interreligieuse, Claude Giffré, Paris, Cerf, Coll. "Cogitatio Fidei" n° 247, 2006, 363 p., 39?.
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板