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スピノザ『エチカ』読書会

100横山信幸:2019/09/23(月) 22:21:16
無限の話に、参加します。

僕の勝手な解釈イメージでは、
「絶対無限」が「実無限」、「自己の類においてのみ無限なもの」が「可能無限」に当たるもののように思えています。

さらに、僕の勝手なイメージなのですが、
ある対象を「類・種」でもって分析するとき、僕はベン図みたいなもので考えます。そして、個物の対象がそのベン図のなかの要素として「点」で表されるようなイメージを僕は持っています。それは面積のまったくない点なので、面としての「類」からそれを切り出す作業をするのに実無限な情報が必要になります。
しかし、「類」は、それを細かく分析分類を尽くして、それが何者なのかを細かく細かく示そうとしても、どこまでも面としての分類枠でしかないものなので、その作業は「実無限」には到達せず「可能無限」でしかないものになる。

だから、
個物であるところの実体そのものは実無限であるところの「絶対無限」によってその本性を持ち得て、
「自己の類においてのみ無限なもの」は、人が可能無限な分析でもって、世界の様態を分節化することになるのじゃないか。

なので、「自己の類においてのみ無限」はその無限を施した後もさらに新たな無限な様態のあり方を許すものでしかないものになるって感じになるのではないか。

って、そんな捉え方をしています。
やっぱり、自分勝手な偏った捉え方かもしれませんが、久保さんの捉え方とも齟齬なく、捉えることができるようなモデルになってるんじゃないかなぁ、とも思っています。
どうでしょう?

101久保共生:2019/09/23(月) 23:20:47
横山さんにも、無限様態が議論になった経緯をご説明しておきます。
スピノザは「無限」という語を、多くの場合「他のものに限定されない」というような意味で用いています。
あるいは、定義2において、有限とは、他のものによって限定されるもののことだと述べています。

ところで、様態とは、定義5より、他のもののうちに存在し、他のものによって考えられるもののことを意味します。
しかし、それならば、様態は他のものによって限定されていると解釈されねばならないのではないか。
だがそうだとすれば、様態は常に有限でなくてはならないのであり、「無限様態」なる表現そのものが語義矛盾になりはしないか?

今日の読書会では、このようなことが問題になりました。
結局、未解決のままになったのですが。

102横山信幸:2019/09/23(月) 23:28:23
久保さん、ありがとうございます

103横山信幸:2019/09/23(月) 23:46:58
実体と様態とではまったく別な話なので、それに対応する無限もまったく別のものになる、っていう風に単純に無限の語義が異なると考えてはつまらないですか。

それだけのことと解釈しても良いのかなと、何となく感覚的な思いとして思いました。

104久保共生:2019/09/23(月) 23:54:47
>103

本文を少し読み返してみて、僕もそう思いました。
おっしゃる通りだと思います。
ただ、無限の語義が具体的にどのように違うのかは、結構難しい問題ですが。

105横山信幸:2019/09/24(火) 00:09:03
実体の原因てある無限は、定義からすでにその個物の原因であるので、すでに無限の向こう側まで到達した実無限としての無限を備えているはずである。
それに対して、様態の方はそれをあとから一般化された概念として分節するだけのものなので、どんなに頑張っても無限の向こう側には到達することができない可能無限としての無限でしかない。

という感じではどうでしょう?

106ウラサキ:2019/09/24(火) 08:15:59
横山さん、
「実無限」と「可能無限」の違いをもう少し(出来れば実例を挙げて)説明していただけませんか?

107横山信幸:2019/09/24(火) 10:34:21
【実無限】たとえば、2の平方根1.414…の「…」において無限に続いていく先の「全て」がすでに決定しているのだとする立場。この1.414…の先は終わりがなく無限に続いている。そして終わりがない永遠のその「全て」がすでに決まっているのだとする。限りなくどこまでも終わらないはずの無限の、その無限の全てがすでに実在しているのだとされるので、この無限は「実無限」と呼ばれる。
【可能無限】たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。終わりがない永遠のその「全て」がすでにあるというのは、矛盾でしかなく、神であろうとそれを知ることはできないとするのである。無限とは、その全てが初めからあるのではなく、どこまでも掘り起こすことができるその手順や可能性だとされるので、この無限は「可能無限」と呼ばれる。

という感じです

108ウラサキ:2019/09/24(火) 14:11:17
横山さん、
とすると、同じ2の平方根の値を、実無限とみる立場と可能無限と取る立場があるわけでしょうか?
で、スピノザはその2つの立場を使い分けている、という事でしょうか?

109横山信幸:2019/09/24(火) 15:37:00
ウラサキさん、
スピノザが実無限と可能無限を、意識的に使い分けて分析してたというのは考えにくいかもしれません。でも、
神であるところの実体における無限と、その単なる別のものとしての属性でしかないところの様態における無限とは、異なるイメージを持っていたとは十分に考えられますし、
それが実無限と可能無限に当たるものだったのではないかとする解釈ももしかすると結構妥当なものなんじゃないか、
と、ちらっと思ってるのです。
でも、これは、単なる思い付きですので、僕も確信があって言ってるものでもありません

110ウラサキ:2019/09/24(火) 16:59:18
横山さん、
『エチカ』読んでて思うのですが、「幾何学的秩序に従って論証された」と題しているにも関わらず、
あまり論理的とは思えない記述があちこちに散見されるという事です。
何しろ17世紀のヨーロッパで書かれた文書ですから、語彙が現在とは異なった意味で使用されていたり、
「神」の存在が大前提とされているなど、すんなりとは理解できません。

111久保共生:2019/09/24(火) 17:46:57
横山さん

神=実体を実無限と解釈するのはなんとなく理解できますが、無限様態を可能無限と解釈するのは適切ではないような気がします。
横山さんの可能無限の説明で「無限の答えが初めから決定されているわけではない」と書かれていますが、スピノザは決定論なので、可能無限的な無限の捉え方は支持しないのではないでしょうか。

112横山信幸:2019/09/24(火) 18:47:36
久保さん、
僕の理解がずいぶんと自分勝手に偏っているのだと思います。それで僕は、

スピノザの世界では、実体は神としての原因であることによって、すべてがすでにして無限に決定しているというのはその通りだと思います。でも、
様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。
そして、もしそうであれば、様態に対しては、実体の無限がストレートに対応するものであるとは限らないのじゃないか。それはまたストレートに決定論的に確定されるものだとも限らないのではないか。と疑われそうな気もしています。

確かに、久保さんの言われる通り、無限様態の無限が可能無限だとするのは、短絡的すぎてまずいように思います。(無闇に可能無限を採ってしまったら、排中律を排除する世界モデルになってしまうかもしれません。)
でも、(実体の無限には認知と無関係な無限であるけれども、)様態の無限には、認知との関連を考える余地がありそうにも思われて、しかたありません。

113横山信幸:2019/09/24(火) 21:01:10
そう考えると、
神の「絶対無限」はまさしく「実無限そのもの」を意味するのに対し、
「自己の類において無限」の方は、「人間のコントロールの下で扱えるように処理した実無限」を意味する、
とするのはどうでしょう?

それは、デルタイプシロン論法みたいな仕組みで可能無限として扱えるようにした実無限的なもの、と捉えるとするなら、
「自己の類において無限」を可能無限だとしたのは言い過ぎだったとしても、あながち間違いとも言い切れないとも、考えられるような気もします。

すいません。エライしつこく強引な書き込みになってしまいました。

114ムラタ:2019/09/24(火) 23:14:44
「神=実体=自然に関わる無限」と「無限様態に関わる無限」が異なるというということはスピノザ自身も述べていることですし、実際何となくそうかもな、そうだよなという感じです。

ただ、>>97で紹介したスピノザの手紙の内容自体が難解で、何が言いたいのかいまいち不明瞭です。

久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

ついてにちょっと訂正ですが、>>97の(3)の無限は間接無限様態だけでなく有限様態に関わる無限性でもあるようです。なんじゃそりゃという感じですが、そう分類されています。

115久保共生:2019/09/25(水) 00:41:42
>>114

>久保くんと横山さんは「絶対無限の無限」と「自己の類における無限」を分けて考えていますが(私もそのように考えたいのですが)スピノザに言わせると、それらは共に>>97の(1)の無限に相当するようです。

いや、もしかすると少し分かったかもしれません。

まず神は絶対無限であり、本性上、限界を持たないものです。そして、それは無限の属性から成り立っています。
一方神の属性は、自己の類における無限ですが、例えば延長という属性は、同じ本性を持つ如何なるものからも限定されないので、やはり、本性上、限界を持たないものと言えると思います。

ところで、神=実体は、延長という属性のみにおいて考察されるではなく、他の属性、例えば思惟という属性においても考察されえます。
とすれば、神の属性の無限性とは、各々の属性が、それぞれその属性の本性上限界を持たないということになるはずです。(延長なら延長の本性上限界を持たないし、思惟ならば思惟の本性上限界を持たない)
思うに、これが「自己の類における無限」ということなのではないか。
一方、これら無限の属性を全て包摂した唯一の実体が神であり、それこそが「絶対無限」ということになるのではないか。

いかがでしょうか?

116久保共生:2019/09/25(水) 07:34:18
もう一点。
直接無限様態に相当する>>97

(2)その原因ゆえに限界を持たないもの 

についてですが、まず直接無限様態とは、属性の絶対的本性から生ずるものですよね。
そして、属性はその本性上、無限なので、その本性が直接的原因となって生ずる直接無限様態もやはり無限だということになるのではないでしょうか。
原因が無限ならば、その結果も無限という理屈は、少し疑問ではありますが、属性の本性がそのまま反映されたものが直接無限様態だと考えると、一応納得できそうには思えます。
(3)はよく分かりません。

117久保共生:2019/09/25(水) 07:48:07
横山さん

>様態は、神ではない他のものとして(人の視点におけるものとして)の世界認識のアイテムなのじゃないかと、僕は考えてるのです。

横山さんの解釈では、人間の認識は神という実無限には到達できないというふうになりはしないでしょうか?
しかしスピノザは、人間精神は、神の本質に到達しうると考えていると思われます。
というのも、スピノザの神は超越的ではなく、内在的だからです。(第1部定理18)
実際、第2部の定理47では、

人間精神は、神の永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている。

と述べられています。
ですから、横山さんの言い方で言えば、人間の認識はむしろ実無限に到達しうるということになるのではないでしょうか。

118横山信幸:2019/09/25(水) 14:12:38
久保さん、
たしかにスピノザは、様態がことごとく実体に対応するとしているようで、その無限には違いがないと言ってるように思えます。
しかし、中公クラシックス「エティカ」4ページの図のスピノザの属性について「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」としてるのをみると、
様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。
もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
という風な感じの話のような気がしました。

来月の大阪哲学同好会ドゥルーズの発表で、「存在の一義性」についても取り上げたいと思ってるのですが、この「十全な認識」は個物や神や存在自体が一義的ではないとしたアリストテレスやトマスに対して、つまり、世界の個物を語る言葉は一般的な存在者を語る言葉で語れるものだけがそのすべてだと、つまり一義的でなければならないはずだということを言っている「存在の一義性」についての主張なのではないのかって、思ったのですがどうなのでしょうか。

119久保共生:2019/09/25(水) 17:26:43
横山さん

>様態はやはり人間の認識アイテムであって、実体の無限と様態の無限には明らかにレベルの違いがあるようにも思われます。

様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?よく分かりません。

>そうすると、「定理47人間は永遠・無限の本質についての十全な認識をもっている」の「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって考えたのですがどうでしょうか。

スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。
本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

120久保共生:2019/09/25(水) 17:31:16
それと、

>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。

というのも、全く意味が分かりません。
上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

121横山信幸:2019/09/25(水) 19:36:45
久保さん

>様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?

実体は分割されず部分を持たない。だから、実体の、ここの部分がどうだとか何個あるとか何色でどのくらいの量があるとか、それについて語ることも考えることもできないですよね。なので、人間が世界を認知し認識するためには、そこから延長や思惟のついての属性を取り上げて考えて語るしかなく、それを為すことが認識することになるだろうと、そしてだから、それを為すには様態が必須アイテムになるだろうと考えました

>>「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって……
>スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

中公クラシックス「エティカ」p17図2「属性はその存在に関して言えば実体と見なされる。しかし、その実体を認識するために側から見れば属性は一つの面を表しているに過ぎない。従って、知性が実体について延長と私意の二つの属性を認識するならば、その二つの属性は二つの実体の存在を表すのではなく、同一の実体の二つの面を表している。つまり、属性は実体の部分ではない。同一の実体は異なる見地あるいは異なる面から考察される」
とあります。僕はここで語られていることを表現したかったのですが、具合の悪い表現をしてしまってたみたいで、申し訳ないです。
表現しなおしてたところで、さらに泥沼のぐだくだになりそうですが、無謀に挑戦してみます。
「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」
ということを言いたかったのです。ダメですね。やっぱりぐだぐたになってしまいました。これは、もう無視してください。


>>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
>というのも、全く意味が分かりません。上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

これについても、超越者の存在は全然想定してない話だったのに変な言い方をしてしまって上手くなかったです。
すみません。
ここで、僕はウィトゲンシュタイン「論考」を思い浮かべながら語っています。様態が人間の認識アイテムであったとすると、言語が存在そのものに到達すると言った「論考」と考え方が馴染むもののように思ったのです。「論考」の「語り得ないもの」というのは、私秘的な心的内容や個物を語り得ないと解釈されることが多いですが、僕はウィトが「到達する」と言ったのは個物にまで届き得るものだと考えています。なので、まるで、スピノザの汎神論とウィトの世界モデルとがまるで似通った話だと思えたのです。
しかし、ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。
もし、スピノザの様態が認識アイテムという捉え方が正しくて、その認識が人間の考える文によって構成されるものとするのであれば、そこで扱われ得る情報量はたかだか可能無限でしかないのじゃないか、とそう考えた訳です。
一方、実体の方はそのような可能無限とは一線を画した、まさに実無限の情報量かあるいは情報量という捉え方からはみ出してしまうような、レベルの違うものとして考えるものなのじゃないかって気がして仕方ないのです。

もう、僕の考察というよりほとんど妄想ですので、伝わらなくて当たり前なことを言ってしまってると思います。笑って流してください。

122久保共生:2019/09/25(水) 21:13:13
横山さん

丁寧な説明ありがとうございます。おかげで少し分かってきました。

>「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」

なるほど、そういうことが仰りたかったのですか!そして、その通りかもしれません。
つまり横山さんの考えは、人間が神=実体の本質を認識するとは言っても、その都度、何らかの特定の属性において考察するしかなく、無限の属性全てを包摂してしまうような認識は不可能ではないか、ということですよね?
本文をちゃんと読んでいないので断言はできませんが、その考えは僕もおそらく正しいと思います。
そして、おそらく実体それ自体と、人間がその都度認識する実体とのレベルの差が、絶対無限と自己の類における無限の差に当たるのだと思います。

ただそれならば、「様態は人間の認識アイテム」というよりも、「属性は人間の認識アイテム」といった方がよいのではないでしょうか?

123横山信幸:2019/09/25(水) 21:59:23
久保さん、

「属性は人間の認識アイテム」でも正しいとおもいます。でも、

中公クラシックス「エティカ」4ページの図はスピノザの属性について、「神の属性は無限に多くあるが人間に認識しうる属性は思惟と延長だけ」とし、また、様態について「思惟の様態」と「延長の様態」があるとしてます。

それをみて、属性のなかでも人間の認識アイテムとして使えるのは、結果的に様態だけしかないのじゃないかと考えました。それで、「様態は人間の認識アイテム」と言ったわけですが、どうなのでしょうか。

124ムラタ:2019/09/25(水) 22:46:35
僕には自己の類における無限と無限様態の無限の違いがいまひとつ飲み込めません。
それらは共に様態の無限とはならないのでしょうか?

自己の類における無限というのは、例えば延長に関していうと、ある延長A、それを包括するより大きなB、さらにその延長Bを包括する延長C・・・と続いていって、その究極にあるところの、他の何者によっても限界付けられることのない延長の無限性を言うでしょう。
それはあくまで、神における、ある類に限定された無限であるわけで、神に限定されているという意味では有限とも言えると思います。
そして一方、無限様態の無限というのも、直接無限様態にしろ、間接無限様態にしろ、それは神の絶対無限(字義通り、本当にあまねくすべてであるところの無限)とは違って、それは神に含まれているので、やはりその意味では有限と言っていいように思います。

そして、スピノザは>>97の手紙において前者(自己の類における無限)を本性上の限界を持たない無限ということで絶対無限と共に>>97の(1)の無限にカテゴライズし、後者(無限様態の無限)とは別物と考えているようです。
多分その根拠は、無限様態は神という原因の結果として生じている様態だからでしょうが、無限様態を神が原因で生じたものというなら、自己の類における無限(例えば無限延長)だって神が原因といっていいようにも思えます。

「神から生ずる」ということの意味が分からないというのがこの疑問の根底にある気がします。

125久保共生:2019/09/25(水) 23:15:47
>>124

様態は、実体から産出されるので、実体を原因とするものと言えますが、一方で、属性は実体の本質を構成するものですから、実体をその原因と見做すべきではないのではないでしょうか。
神の属性は、神から産出された結果ではなく、神そのものの本質を構成していると見るべきだと思います。

126ムラタ:2019/09/25(水) 23:40:07
>>125
スピノザがそのように考えていることは分かるのですが、無限様態が実体を原因として産出されるということの意味がよくわからないんです。
このことはとりわけ直接無限様態についてそう思います。
スピノザは思惟の属性の直接無限様態が「絶対無限知性」で、延長の属性のそれが「運動」と「静止」と言っています。(定理21の注)
これらが実体を原因として産出されるとは?
このことの意味がよく分からないという感じです。

127久保共生:2019/09/26(木) 00:03:16
>>126

延長という属性の本性から必然的に「運動」や「静止」といったことが帰結してくるということでしょう。
抽象的過ぎていまいち実感が湧かないですが、一応形式的には理解できます。

128ムラタ:2019/09/26(木) 00:49:49
>>127
フーム・・・・
ありがとうございます。
もうちょっと考えてみます。

129横山信幸:2019/09/26(木) 16:45:15
また、思い付きで書き込みます。自分の思考を深く確かめないまま言ってしまってますので、使えそうじゃなかったら、即、笑い流してください。

「自己の類において無限」というのは「無限にある属性のうちの、一つの類としての一属性の中だけでしか言えない無限」で、「絶対無限」が「実体そのものが無限であるゆえに、あらゆる属性のすべてについて言える無限」と解釈するのはどうでしょう?
つまり、「自己の類において無限」と「絶対無限」の違いは無限のサイズや濃度の違いなのじゃなくて、その適応範囲の違いと考えるわけです。
定義6を素直に読もうとすると、どうもそのように読める気がするのです。
なので、これまでの僕の採っていた、無限のサイズ的な違いとする解釈は考え直した方が良いかと知れないと思っています。

「定義6説明 私は絶対無限と言い、自己の類において無限とは言わない。なぜなら自己の類においてのみ無限なものについては、無限に多くの属性を否定できるからである。だか絶対に無限なものについては、本質を表現しいかなる否定も含まないあらゆるものがその本質に属している」

130横山信幸:2019/09/26(木) 17:17:20
そして、

でも僕には、
実体の無限と無限様態の無限のあり方については、〈実体を認識するものとして様態がある〉という、実体と様態の成り立ちを考えるとスピノザの世界においても、〈実体が実無限で様態が可能無限である〉と言えるように思えます。
スピノザが「実体から属性が生じる」と言っていることも、その成り立ちの違いと何かしらの関係がありそうなことを言っているようにも思えます。

しかし、スピノザは、
その〈「実無限」と僕が解釈しているところの「実体の無限」〉と、〈「可能無限」と僕が解釈しているところの「直接無限様態ならびに間接無限様態」〉の無限のサイズや濃度には、それぞれどれも違いがない
と考えているのだ、

という風に考えられるようにも思われています。
「同様に必然的に無限に存在せねばならない」というのは、そういうことなのじゃないか、と考えました。

131横山信幸:2019/09/26(木) 18:13:30
つまり、

実体の無限と
直接無限様態の無限と
間接無限様態の無限には、
成り立ちの違いや様々なとらえられ方の違いがあり、もしかすると、実無限や可能無限とも関連する違いがあるかもしれない。
けれども、
サイズや濃度の違いはない。

と、解釈してみました。

132久保共生:2019/09/26(木) 18:47:05
横山さん

>>129 については、僕もほぼ同じ解釈です。
しかし、>>130については、理解できません。
なぜ直接無限様態ないしは、間接無限様態は、可能無限になるのでしょう?
そもそも可能無限と決定論は両立しうるのですか?

133横山信幸:2019/09/26(木) 19:01:25
久保さんは、可能無限と決定論は両立しないと考えられるのですね。

僕はそれが両立するのに不都合があるとは思われないのですが、なぜ両立できないのですか?

134久保共生:2019/09/26(木) 19:09:28
まず、可能無限なるものがよく分かっていないのですが、少なくとも横山さんの可能無限の説明では

>たとえば、1.414…の「…」の先は、どこまでも続いているというのは同じだが、それはどこまでも計算できる可能性があるというだけで、無限の答えが初めから決定されているわけではない。

と書いています。これは決定論に反しないのですか?

135横山信幸:2019/09/26(木) 19:15:13
なぜ無限様態が可能無限だと考えるのかというと、昨日書き込んだとおり僕は、様態が必ず人間の認識に関わるものだと考えているからです。
それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。
「様態」というものは、そのような捉え方をするのが適当であるような気がするのです

136久保共生:2019/09/26(木) 20:13:51
>>135
「様態が必ず人間の認識に関わる」と取り立てて主張される意図がよく分かりません。
確かに様態は人間の認識に関わると思いますが、それなら実体だって当然人間の認識に関わるでしょう。
様態だけを取り上げる意味が分からないです。

>それが人間の言語による認識に関わるものである限りにおいて、という話ですが、実体の無限の奥の奥の方は言語の揺らぎでゆらめいて見えてしまわざるを得ないという考え方をしてるからです。

何故、言語の話が出てくるのですか?
いくら何でも、ウィトゲンシュタインの『論考』に解釈が引っ張られ過ぎではないですか?
上で

>ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。

と書かれていますが、『エチカ』第2部を読む限り、スピノザの考える世界認識は、『論考』における文(命題)と世界とを対応付けるような見方とは全然別物だと思います。
少なくともこの点においては、両者は全然アナロジカルではないと思います。

137久保共生:2019/09/26(木) 20:23:20
だって、スピノザは、「人間精神は、身体の観念である」というような、かなり独特な認識論を展開するんですよ。
『論考』とは全然違うじゃないですか。

138横山信幸:2019/09/26(木) 20:51:45
>>134
これはまた、僕の表現のまずさのために不要な混乱を招いてしまいました。ご迷惑をお掛けしてすみません。
可能無限が決定論と両立できないとは限らないと僕が考えている理由を説明します。またさらにまずい説明をして、いよいよぐだぐたにしてしまうかもしれませんが、そこは大目に見てください。



野矢茂樹「無限論の教室」では、
実無限を土中から化石を発掘することに例えていて、
可能無限を木材から像を切り出すことに例えていたと思います。(細かいところは違ってたかも知れません。)
ここで、掘り出し切り出す作業は、数値化などの人間による分析作業を比喩します。

つまり、
実無限では掘り出されるべき分析結果が最初から決定しているとするのに対して、
可能無限ではそこにある素材ははじめから決定しているのだけれども、そこから切り出される分析結果は人間の分析方法や分析能力に左右されるものであるから、分析される以前に決定しているものではないとします。



スピノザの世界における実体が木材であるとしてみると、それは切り出されることなどなくても世界がどんなであるかを完全に決定しているものだと言える。
でも、人間が、そこにある世界が何者かを知るためにはそれを自らの言語というナイフで切り刻み、人間が理解できるような意味を切り出す必要がある。ところが人間は己のナイフの分析可能性をはじめから無限に知っているわけではないので、実際に切り出されるまではそこに何者が切り出されるのかが決定しているわけではない。
というイメージで考えるわけです。

「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

というように、可能無限とスピノザの世界がとてもしっくりするようにイメージできると思えました。

そんな感じで、僕はスピノザの世界を決定論として捉え、その決定論と可能無限とがとても馴染むものだと考えたのです。

139横山信幸:2019/09/26(木) 20:54:09
>>137
そうですね。「論考」に引っ張られすぎというのはそのとおりかも知れません

140横山信幸:2019/09/26(木) 21:03:20
>>136
そうですか。2部をみると、スピノザの考える人間の認識は「論考」的言語観とは無関係ですか。

これは、ずいぶんと早とちりな考えをしてしまってました。失礼しました。
その辺りの僕の主張をごっそりと忘れてください。
ちゃんと2部を読んでからまた考え直してみたいと思います。

141久保共生:2019/09/26(木) 21:23:07
>「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

様態というのは、実体の本性の必然性から生じてくるものですよね。スピノザは、

第一部定理29 自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている。

とまで言っているのですから、やはり様態が可能無限だというのはしっくりきません。
様態は実体から産出された結果であり、その結果は実体の本性の必然性によってあらかじめ決定されているのであれば、様態は人間の認識能力に左右されるわけではないということになるのではないでしょうか。

142横山信幸:2019/09/26(木) 22:10:17
>>141
久保さん、ありがとうございます。
なるほど、様態が可能無限ではないこと、少しわかってきたかもしれません。
しかし、もう少しこだわって可能無限的な捉え方ができないかという考えを無理して引っ張ってみます。


人間自身も世界のなかにある実体であるところの存在者なのであるから、その認識の仕方も認識の内容も最初から無限に完全に決定されている。だから人間の認識の様式としての様態も、(ある意味では人間の側の視点による「偶有性」があるとすることができたとしても、)すべてこの世界において完全に必然的なものである。
しかし、それはもしかすると「その人間の認識がその世界をどう理解するかが不完全で不十分なものでしかない」ということが、完全な必然性において決定されているものかもしれない。

そのように考えたとき、
その「様態の偶有性」というものは、
我々が神の視点にたって語ろうとするときには必然的な決定として語られ、
我々が幼子の視点にたって語ろうとするときには決定されるかどうか分からない偶然的なものとして語られるものになるでしょう。

そのように捉えるとするなら、そこで語られる「様態の偶有性」は、すでに決定されているわけですから、
もはや「可能無限」とされるべきものではないかも知れません。

しかし、僕はそこに、実無限でありながら、可能無限でもあるとするような捉え方が残されてるような気がして仕方ないのです。
木材から像を切り出す時のその切り出し方がすでにはじめっから決定されていたのだとしても、それでも、切り出す人間にとっては、切り出されない限りそこに像は隠されていず、発掘されるのではなく、切り出されて初めて発明される。



という捉え方は無理筋でしょうか。ある意味で、「様態の偶有性」を掴めてるんじゃないかって気も、まだちょっぴりとしてるのですが、ダメですかねえ。

143横山信幸:2019/09/26(木) 22:21:16
ずいぶんお騒がせな書き込みをしてしまっていますが、皆さんにご迷惑をお掛けしてしまったお陰で、僕としてはかなり理解が深められた感じがしています。(理解が進んだかどうかは怪しいですが。)僕としては、ずいぶん良い討論ができたと嬉しがっています。

なんか申し訳ですが、ご勘弁ください。

144ムラタ:2019/09/27(金) 00:13:24
横からスミマセン

ちょっと読み返していてびっくりしたのですが、中公クラシックスの『エティカ』のp.33の注に、しっかりとスピノザが無限を4つの種類に分けて考えているという説明があるのですね。

それによると無限様態の無限は
2.みずからの本性によってでなく、原因によって無限であるもの
とされています。
つまり、神の無限性によって無限であるのが無限様態の無限というわけですね。

さて、
「実無限」とは無限のものがそこにあるのだという立場から捉えたときの無限で、
「可能無限」とは可能性としてのみ考えられる無限
のことでしょう。

例えば、線分に無限の点がそこに含まれると考えるのが実無限派の無限解釈で、
線分から無限の点を切り取ることができると考えるのが可能無限派の無限解釈です。

なので、無限様態の無限は可能無限のことであるとか実無限のことであるという話は、スピノザからすると「そんな話をしてるんじゃない」ということになるのではないでしょうか?

145ムラタ:2019/09/27(金) 00:23:14
ただ、無限様態の原因である神の無限性はあきらかにスピノザは実無限的に考えていると僕には思われます。
すなわち、神が絶対無限の存在者というときの無限は実無限的な無限、つまり、そこには無限のものがあるのだと捉えられているでしょう。

146ムラタ:2019/09/27(金) 00:28:51
>>145の根拠は定義6です。

147横山信幸:2019/09/27(金) 01:18:51
ムラタさん、久保さん、ありがとうございます。
僕の可能無限による解釈はやはり無理があるようですね。
何かしら当たりのある読解アイデアかと思ってたのてすが、あきらめて考え直します。
僕は何でもウィトゲンシュタインに引っ張って読む癖があるので、どうといけませんね。

ドゥルーズ「差異と反復」のスピノザ論が、様態に深く関わることを言ってまして、そこでも僕の読みがウィトゲンシュタインに引っ張って読んでいましたので、そのままの勢いで、可能無限を問うてしまいました。
そこで僕が考えていたのは、スピノザの「神=自然」という世界把握によって、「実体と様態」と「個体と一般」の関係がそれぞれ双方向的なものとなったのじゃないかというものだったのですが、「可能無限」では、そこのところの問いと上手くリンクすることは難しいみたいです。再度、考え直します。

「差異と反復」のスピノザ論をウィトゲンシュタインに引っ張った僕の問いは、次回の同好会例会でも紹介させてもらいたいと思っています。
ttp://sets.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-13cc.html
にも挙げてますので、よろしければご覧ください。

148則天去私:2019/10/05(土) 18:40:56
かなり勝手な思いつきですが、唯物論と無神論は関係あるのでしょうか?もし関係あるならば、ヒュームは確か無神論だったので、唯物論になるのでしょうか?

149久保共生:2019/10/05(土) 19:28:45
>>148

ヒュームについてはよく知らないので何とも言えませんが、少なくとも無神論者だからといって、唯物論者とは限らないでしょう。
たとえば独我論は、普通無神論でしょうが、だからといって唯物論ではないですから。

150ウラサキ:2019/10/06(日) 05:06:56
ヒュームは無神論ですが、唯物論ではありません。感覚一元論という経験論の一種です。
また、バークリは独我論的な観念論ですが、有神論です。
唯物論者は定義上、「神」という精神的な存在は認めないので、無神論に傾きますが、
スピノザのように、「神=自然」という汎神論の立場を取る者も居ます。

151則天去私:2019/10/15(火) 05:34:49
おはようございます。
またかじりかけの知識ですみませんが、デカルトの『方法序説』は、平明な言葉で書かれているのに、スピノザの『エチカ』は、スコラ哲学の用語をふんだんにちりばめて、幾何学的構成という難しい構成にしたのは何故でしょう?用語や文体が時代に逆行している印象を受けます。スピノザの時代は、オランダ的用語改革や、オランダ的文体改革が進んでなかったのでしょうか?

152ウラサキ:2019/10/15(火) 07:52:36
スピノザの個人的趣味ではないでしょうか?
あるいは彼の思想の無神論的な側面を隠匿する目的もあったのかも知れません。

153おぐす:2019/10/26(土) 11:59:55
風邪をこじらせたようで明日10月27日(日)の読書会を欠席します。
該当範囲は読んだのですが難解でした。
掲示板では久保さん、ムラタさん、横山さんの鼎談風の論議にずいぶん啓蒙されました。
文章だと、ご意見を反芻できるのでうれしいです。

154久保共生:2019/10/26(土) 18:28:00
了解しました。
お大事になさってください。
次回の日程はまたここに書き込みます。

155ムラタ:2019/10/27(日) 21:53:01
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:12月1日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部付録〜第2部公理5(中公クラシックス p.68〜85)
会場費1000円を参加者で等分して負担

156ムラタ:2019/10/27(日) 22:02:32
完全に私事で恐縮ですが、どこかで家の鍵を紛失してしまいました。
もし教会内に落ちていたら、一報いただけないでしょうか。
ここに書き込んでも無意義な気もしますが。

157おぐす:2019/12/01(日) 19:40:52
エチカ読書会2月、3月の会場を下記の日時で予約しました。

2月エチカ読書会
場所 大阪市立浪速区民センター
    第6会議室
日時 2月23日(日)
    午後2時〜午後5時

3月エチカ読書会
場所 大阪市立浪速区民センター
    第6会議室
日時 3月20日(金)春分の日
    午後2時〜午後5時

いずれも使用時間は午後1時からの予約です。
訂正があればお願いします。

158ムラタ:2019/12/01(日) 22:22:58
次回の詳細をお知らせします。

日時:1月5日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第2部冒頭〜第2部定理13(中公クラシックス p.82〜105)
会場費1000円を参加者で等分して負担

159ムラタ:2019/12/01(日) 22:30:33
おぐすさんさん、早速ありがとうございます。

予約も取れたということで、
2月の会は2月23日(日)14時〜17時
3月の会は3月20日(金・祝)14時〜17時

となります。

2月より会場が浪速区民センターに変更になりますのでご注意を。
現在参加者5名程度ですが、新規参加者も引き続き募集中です。

160ムラタ:2019/12/03(火) 07:23:30
先の会で、因果関係について興味深い議論が起こりました。
神を直接原因として様態が産出されたという場合の因果関係をどのように理解すべきかという議論です。これは流れてしまうには勿体ない重要な論点だと思われますので、ここに僕の疑問と管見を書き残しておきます。

どのような疑問かというと、
疑問1.「スピノザは2種類の因果関係を想定あるいは混同しているのではないか?」また、
疑問2.「もし2種類の因果関係が認められるとすると、そのうちのひとつである、神を直接原因としてある様態が生じたというタイプの因果関係(下の因果関係B)についてはどのように理解すればいいか?」
というものです。

2つの因果関係について説明します。

因果関係のうち、ひとつはある有限様態を原因とし、その結果、ある有限様態が生じた因果関係(因果関係Aとします)です。これはふつう因果関係と呼ばれているものを指すものです。例えば、ビリヤードで運動する3番の球が静止した7番の球に衝突した結果7番の球が動き出す、といったような、因果関係です。
『エティカ(中公クラシックス)』では例えば定理28
「あらゆる個物、あるいは有限でかぎられた存在をもつあらゆるものは、自分と同じように有限でかぎられた存在をもつ他の原因から、存在や作用へと決定されることによって、はじめて存在することができるし(以下略)」
として語られる因果関係です。

もう一方の因果関係(因果関係Bとします)は、神から直接様態が産出されるという因果関係です。『エティカ(同)』においては、例えば、上と同じく定理28の注解において
「神は、神自身が直接に産出したものの絶対的な最近原因となる。」
として語られている因果関係です。

思うに、因果関係AとBは別に考えなければ、神を直接原因として産出するという因果関係Bの方が理解不可能、あるいはナンセンスなおとぎ話に堕ちてしまいます。では因果関係AとBにどのような相違があるかというと、今の所の僕の管見を述べさせてもらうと、因果関係Aは時間的な因果関係で、スピノザの用語を使えば持続的なものですが、それに対し、因果関係Bは無時間的な因果関係で、永遠的なものとして理解すべきではないかということです。無時間的な因果関係というのが著しく抽象的かつ形而上学的なのですが、そう捉えるしかないのではと考えています。しかしこのあたりはいまひとつ腑に落ちた感じがせず、また、自信もありません。
どなたか、特に疑問2についてご教示あれば幸いです。

161横山信幸:2019/12/07(土) 08:59:43
>>160
ムラタさん、

その議論をきちんと捉えられてないままに思い付きで返信していますので、
まったく見当外れの話をしてしまうかも知れませんが「またか」と笑い流してください。

もしかすると、そのAとBの因果は、必然性と偶然性のレベルの違いではないでしようか?
Aは有限なレベルで法則として捉えられているけれども神の無限のレベルから見るならまったく不確かな仮説的必然としての因果関係。
Bは神の無限から見ても確実で絶対的必然としての因果関係。みたいな感じて考えるのはどうでしょうか。

メイヤスーは偶然を次の2つに分けてました。
【hasardアザー 】その状況を実現させる諸法則を想定した上での可能性のランダムさ。何が起こるかは偶然だがその偶然は必然的法則に支配される
【contingenceコンタンジョンス 】アザーによって出来事が起こることを可能にする条件に影響を与える偶然性。アザーのカテゴリーに包摂することができない

それで、この2つの偶然性でもって判別して、

Aは、アザーを支配するけどコンタンジョンスを支配することはできない。
で、
Bは、コンタンジョンスさえ支配するかもしれない。
というような、「必然性の程度の違い」という感じで区別するってのはどうでしょう

162ムラタ:2019/12/07(土) 12:00:06
>>161 横山さん


>(因果関係)Aは、アザーを支配するけどコンタンジョンスを支配することはできない。で、
>(因果関係)Bは、コンタンジョンスさえ支配するかもしれない。
というような、「必然性の程度の違い」という感じで区別するってのはどうでしょう

hasardやcontingenceといった偶然性の概念でもってスピノザのふたつの因果関係の相違を理解するのは不合理だと思います。
というのも、スピノザの理論は偶然性を一切認めず、すべては必然と捉えているからです。

定理29「自然の中には何一つ偶然的なものは存在しない、いっさいは神の本性の必然性から一定の仕方で存在や作用へと決定されている」

163横山信幸:2019/12/07(土) 13:38:46
>>162
違いましたか("⌒∇⌒")

164ムラタ:2019/12/07(土) 19:59:49
>>163
いえ、今後もご意見いただけたらと存じます。

165則天去私:2020/01/03(金) 07:48:10
久々に投稿します。
どうもスピノザはエチカで、神が思惟する物と言ったり観念と言ったり、人間精神の観念の対象は身体と言ったり、物と観念を区別していないところが、デカルトと違うのかな、と思いました。

166ムラタ:2020/01/04(土) 09:01:49
やはり実家の用事で明後日5日は欠席します。
久保君、申し訳ないですが、次回の範囲ここに書き込んでおいてもらえますか。

167久保共生:2020/01/04(土) 18:50:16
ムラタさん

了解しました。

168久保共生:2020/01/06(月) 19:28:53
次回の詳細をお知らせします。

日時:2月23日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:第2部定理8〜補助定理7(中公クラシックス p.93〜113)
会場費1560円を参加者で等分して負担

169ウラサキ:2020/02/22(土) 11:18:57
すみません。学年末考査問題を作らなくてはなりませんので、2月23日(日)は途中退席させて頂くことになりそうです(^^;)

170ムラタ:2020/02/22(土) 11:41:42
ウラサキさん

了解いたしました

171ムラタ:2020/02/23(日) 19:55:47
次回の詳細をお知らせします。

日時:3月20日(金・春分の日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:第2部定理12〜定理17(中公クラシックス p.100〜120)
会場費1560円を参加者で等分して負担

172おぐす:2020/02/24(月) 15:50:44
ムラタさん

次回の日時の告知をありがとうございます。

余談ですが休憩時に芥川龍之介と漱石の全集が現代仮名遣いになっているという話を伺って、もはや世も末か(笑)とショックでした。
私蔵の全集は歴史的仮名遣いですが、以前のものなのでまさかと思いつつも、近所のジュンク堂で芥川龍之介全集と漱石全集の岩波の
最新版をおそるおそる覗いてみると、ふつうに歴史的仮名遣いになっていたのでホッとしました。

ただし漢字字体が新字体になっていたのでムラタさんのおっしゃっていたのは字体のことだったのだろうと思いました。
ちなみに昭和50年代に筑摩が「全集類聚」と銘打って現代仮名遣いで、日記、書簡もない全集とはほど遠い代物を出したことがあり、
営業のためとはいえ筑摩の見識を疑ったものでしたが、まだふつうの全集は安泰のようです。

現代仮名遣いの文庫本を卒論の底本にする剛の若者もいるらしい昨今(もちろん認められません)ですが、これからデータベースはネットで
という時代になっていくのかもしれません。自分みたくネット音痴のガラパゴスには世の中何が起こっても文句は言えないなあと慨嘆して
います。

173ムラタ:2020/02/24(月) 19:09:18
おぐすさん

新字新仮名か旧字旧仮名のどちらかだと思ってましたが、まさか新字旧仮名だったとは。新字の記憶があったのでてっきり仮名も新仮名だろうと思い込んでいました。すいません。
全集なんて読もうと思うのは研究目的かよほどのマニアなので旧字旧仮名で良いのでは?と思いますが、どうして岩波は新字旧かななんて中途半端なものを作ってしまったのでしょうか。自分も確か芥川全集を敢えて古いものを購入したのは旧字で読みたかったからでした。

昔の作家は今と違って一字一句に心血を注いでいるので、作家のためにもせめて全集は旧字旧仮名であってほしいですね。文庫本が新字新仮名なのは仕方がないですが。
特に芥川なんて極度に一字一句こだわって書いた作家だと思うのですが。彼の言葉遣いは精厳を極めています。

174ムラタ:2020/03/20(金) 21:29:56
次回の詳細をお知らせします。

日時:4月26日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第6会議室
範囲:補助定理6〜定理26(中公クラシックス p.111〜130)
会場費1560円を参加者で等分して負担

175ムラタ:2020/03/20(金) 21:34:08
今回、ニュートンの方がスピノザよりも先の人だという旨の発言をしましたが、
調べたところ事実はそれと反対でニュートン1643年生まれ、スピノザ1632年生まれでしたので訂正させていただきます。

176ムラタ:2020/04/11(土) 12:53:40
浪速区民センターのホームページに記載されていますが、4/11から5/6までの期間は施設の利用自粛を強くお願いするとのことです。
次回の4月26日はこの期間に該当しますが、予定通り開催しますか?それとも延期にしますか?
皆様のご意見承りたく存じます。
4/11現在、大阪府の人口882万人に対して感染者数589人、死者6人なので少なくとも現状は自粛するほど高いリスクだとは私には思われませんが、国・府・市・施設が自粛をお願いするのならそれに従ってもいいようにも思えます。

177ウラサキ:2020/04/11(土) 15:22:29
私は個人的には5〜6人の会合を自粛するまでも無いと思いますが、
もし高齢の方々が気になさるのなら延期でも構いません。

178久保共生:2020/04/11(土) 21:16:46
僕自身も、千人を超えるような大規模なイベントではない限り、今のところ大したリスクはないと考えています。
ただ、一応緊急事態宣言が出ていますし、高齢の方もおられますし、何より別に急ぎの用でもないので、念のため延期してもよいとは思います。

179ムラタ:2020/04/12(日) 12:16:42
野口さんとおぐすさん読んでないかな?

180おぐす:2020/04/12(日) 12:27:33
区民会館のホームページを見ました。
自粛に法的な制約ではないので無暗に従うことはないと思いますが「誓約書」を書かされる
のは個人的には厭ですね。
合意、了解すればいいレベルなのに「誓約書」を出せと言われる筋合いはないよという気持
ちです。「誓約書」を提出するくらいなら延期がいいです。

あとキャンセル料を免除、という物言いもおかしい。
キャンセル料というのは不履行に対するペナルティ、罰金の意味合いなので、今回の場合、
キャンセル料を免除というより、自粛をお願いする方から利用者に対して贖われるのが
ふつうでしょう。
単にキャンセル料は発生しませんとすればよいところを、免除とはなんぞや(笑)。こうい
うところで役所の体質というのは出るものです。

日本の感染者数は当てになりませんね。今月になってずっと喉の痛みと微熱があって、妻や
身内に感染させるのは避けたいので、検査をお願いしましたがダメでした。帰国者や濃厚接
触者でない限り、陽性が判明した時点で、その人は重篤の可能性がある。つまり重篤の入口
にある人しか検査は受けられません(笑)。
現在、自分が感染者であってもいたしかたないですが、他人に移すのは忍びないという思い
です。

オーストリア、クラーゲンフルト在住の知人によれば、外出禁止令が出ていて、許可なく街
中に出て職質にひっかかれば4000ユーロの罰金を徴収されるとのことです。日本円でなんと
約50万円です。クラーゲンフルトはイタリアに近いという事情があるのかもしれません
が。今は解除されているかも。

数日前から無聊を慰めるために「ペスト」を読んでいます。カミュではなくデフォーの方で
す。かの「ロビンソン・クルーソー」の著者ですね。「ペスト」といえばこちらが本元です
がなぜかあまり読まれていない。
1665年、ロンドンがペストに襲われ街は死臭の中に沈みます。生粋のロンドン子であった
デフォーは「死亡週報」等の資料を参照して「ペスト」というノンフィクション作品として
出版しました。ほぼ事実による惨事なので資料としての価値もあります。

ロンドン疫癘に病みたり
時に1665年
鬼籍に入る者、その数十万
されど、われ生きながらえてあり。

メメント・モリという言葉がリアリティを持っていた時代でした。

181おぐす:2020/04/12(日) 13:00:23
前のコメントの後ろに余白が大きくなってすみません。

もし延期にするのであれば区民センターは自宅に近いのでいつでも窓口には行けます。
5月は24日(日)を予約していますが、みなさんの都合がつく日で、次々回、6月の部屋をおさえるのであればやっておきます。

182ウラサキ:2020/04/12(日) 15:18:01
おぐすさんの体調を考えれば、延期した方が良いのではないかと思います。

183ムラタ:2020/04/12(日) 16:07:55
4月の会は中止にしておきましょうか。
あとは野口さんの意見ですが、ここを見られない可能性もあるので、
久保君、もし本日中に野口さんの書き込みがなければ、
申し訳ないですが野口さんに連絡入れてくれませんか?
僕は連絡先を知らないので。

184野口:2020/04/12(日) 21:20:44
野口です。皆さんのコメント読みました。
延期に賛成です。癌で免疫が下がっているようですので。
日時はお任せします。いつでもokです。

185久保共生:2020/04/12(日) 21:28:20
了解しました。
では4月の読書会は中止ということでお願いします。
念のため野口さんには連絡を入れておきます。

おぐすさん、体調が優れない中申し訳ありませんが、4月分のキャンセルをお願いしてもよろしいでしょうか?

186おぐす:2020/04/13(月) 08:55:27
わかりました。今日にでも4月26日(日)のキャンセルをしておきます。

適当に運動しないとだめなのでけっこう散歩はしています。区民センターあたりが距離的にちょうどいいんです。
たぶん風邪が治りきらずにぐずついているのだと思うのですが、もともと蒲柳の質なので見極めがややこしい(笑)。
人前で咳をしないように気をつけています。

こういう時期なので皆さんも風邪など召しませんようにご自愛ください。

187ムラタ:2020/04/13(月) 11:34:24
>>186
お手数かけます。
おぐすさんもご自愛下さい。

188ムラタ:2020/05/15(金) 21:38:11
明日から浪速区民センターが開館するようなので、次回の会は開けそうですね。

詳細を貼っておきます。
日時:5月24日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第9会議室
範囲:補助定理6〜定理26(中公クラシックス p.111〜130)
会場費1560円を参加者で等分して負担

189おぐす:2020/05/16(土) 11:13:39
区民センターが開館したので6月以降の使用の受付も今日から可能になりました。
今なら6月7日(日)、14日(日)、21日(日)は空室があります、早めにおさえた方がよいかもしれません。
14日、21日あたりが適当かと思いますがいかがでしょうか。
皆さんのご都合が分かれば予約しておきますが。

190おぐす:2020/05/16(土) 11:21:45
失礼しました。
6月14日(日)は「カントの先天総合判断について」ですね。
なので7日、21日のいずれかではないかと思います。

191ムラタ:2020/05/16(土) 16:29:52
僕は6月はいつでも構いません。
ただ7日は少々早すぎるように感じます。
21日か、あるいは28日はいけないのでしょうか?
今、区民センターのHPで調べたら6/28は第5、第9、和室は空いているようでしたが。
これらは何らかの理由でよろしくない部屋なんでしたっけ?

192ウラサキ:2020/05/16(土) 18:22:30
6月28日(日)はPragmatism読書会につき、私は参加できません。
又、第5会議室と和室は利用料金が2,160円になります。

193ムラタ:2020/05/16(土) 18:34:02
なるほど、では21日がベストなのでしょうか。
ほかの方の都合はどうでしょう?

194おぐす:2020/05/16(土) 21:12:24
ムラタさんは21日がベストということですね。
わたしは7日でも21日でもOKです。
久保さん、野口さん、参加予定の方のご都合はいかがでしょうか。

195久保共生:2020/05/16(土) 22:22:52
僕も父も21日でOKです。
よろしくお願いします。

196野口:2020/05/17(日) 21:59:15
21日でOKです。お願いします。

197ムラタ:2020/05/18(月) 15:17:55
では6月は21日にしておきましょうか。
おぐすさん、毎度申し訳ありませんが、可能ならば予約のほうよろしくお願いします。

198おぐす:2020/05/18(月) 19:48:02
6月のエチカ読書会は6月21日(日)で本日予約しました。
2F第4会議室です。

ひとつ馬鹿げた情報です。
大阪府の緊急事態宣言は延長、ただし使用制限の一部解除により、5月末まで区民センター
の施設は「会議」での利用でのみ許可するが、読書会、研究会は許可できない旨を窓口で告げ
られました。
読書会、研究会はイベントの類いに該当するので不可で、「会議」はそれにあらず使用許可
ということです。
催しの規模、人数等は検討せず、議題によってはよほど三密、大声、唾き飛び交うの可能性
もあるいかなる「会議」であっても「会議」であればよろしいというわけ。

以上の経緯により5月24日(日)のエチカ読書会は「読書会」にあらず名目上は「会議」です。
読書会の「会議」に利用する旨の書面を提出すると、あっさり許可されました。議題はエチカ
ということで。やれやれ(笑)
まったく噴飯もののお役所仕事ですが、窓口の職員と議論しても疲れるだけなので止しました。
ただし小生の勝手な判断なので、読書会の皆様は了とせられるでしょうか。ダメなら取り消し
ます。

199ムラタ:2020/05/18(月) 21:27:55
>>198
おぐすさん

早速の予約ありがとうございました。
おぐすさんの対応で良かったと思います。
見事なまでの形式主義で、ちょっと笑ってしまいました。

僕は役人や政治家にも少し同情しています。
だって、役人は政治家の指示に従うしかないし、
政治家は票のため国民の感情におもねるしかないからです。
やっぱり国民が実際のリスク以上に怖がりすぎているのが根本的な問題のように思います。
死者数でいえばインフルエンザの十分の一以下なのですが、インフルエンザの十倍以上恐れているように見えます。

200久保共生:2020/05/19(火) 00:51:58
>>198

おぐすさん、ありがとうございます。
緊急事態宣言下とは言え、あまりにバカバカし過ぎて笑ってしまいました。

まあ今回はエチカ会議ということでやりましょう。(笑)

201おぐす:2020/05/19(火) 13:00:04
>>199
ムラタさん

良くも悪しくも、日本人は比較的みんなで同じ方を向くのは得意ですからね。
いわゆる個人と社会の関係は宗教的にも成立しずらくて、ネットの実態にも
ちゃんと日本的な「世間」が成り立っているのは面白い。
風土的にも民主主義とポピュリズムは表裏なのかもしれません。

>>200
久保さん

ちょっとした大喜利でしょ。少しでも笑いを提供できたのなら本意です。
エチカ会議というネーミングは素敵ですね。

202野口:2020/05/21(木) 18:07:50
次回のエチカは5月24日ですが、妻が入院する日で、参加できません。
申し訳ありません、6月21日は大丈夫です。

203おぐす:2020/05/21(木) 21:49:41
野口さん

了解しました。
奥様の入院でご心労のこと拝察いたします。
寛解し恢復なさることを願っています。

204ムラタ:2020/05/24(日) 19:39:18
野口さんとおぐすさん、7月の日程ですが

第一候補 7/26
第二候補 7/23
第三候補 7/24

となっております。
ご都合はどうでしょうか?

205おぐす:2020/05/26(火) 12:47:56
24日(日)はまったく失念しておりすみませんでした。
頭のカレンダーが1週間ずれておりました。生活ボケが進行しているようです。
6月21日(日)はちゃんとカレンダーにメモしておきます。

私は7月の候補のいずれの日もOKです。
皆さんの都合のよい日が決まりしだいすぐに予約します。

206ムラタ:2020/05/28(木) 16:09:27
野口さんの返信がありませんね。
久保君たびたび申し訳ありませんが、野口さんに連絡お願いしてもいいですか?

207野口:2020/05/29(金) 07:33:57
確認遅れてすみませんでした。私はいつでもokです。
よろしくお願いいたします。

208ムラタ:2020/05/29(金) 11:17:41
では、7月の日程は7/26(日)にしましょうか。
おぐすさん、もし可能ならばで構いませんが、予約できるのならお願いしてもよろしいでしょうか。
6月に予約してもおそらく問題ないと思うので、決してご無理なさいませんように。

209ムラタ:2020/05/29(金) 11:23:32
次回の詳細です。

日時:6月21日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第4会議室
範囲:第2部定理19〜定理39(中公クラシックス p.122〜141)
会場費1560円を参加者で等分して負担

新規希望者引き続き歓迎です。

210おぐす:2020/05/31(日) 14:15:52
7月のエチカ読書会を7月26日(日)で予約しました。
浪速区民センターの第4会議室です。

211ムラタ:2020/05/31(日) 19:50:37
おぐすさん

どうもありがとうございました。
助かります。

212ウラサキ:2020/06/18(木) 11:07:12
確認テストの採点が追い付かず、21日の読書会には参加できそうにありません。
すみませんが、欠席させて下さいm(_ _;)m

213ムラタ:2020/06/19(金) 09:54:09
ウラサキさん

承知しました

214ムラタ:2020/06/21(日) 01:28:22
ウラサキさん

8月のご都合はいかがでしょうか?

215ウラサキ:2020/06/21(日) 06:12:57
8月9日(日)哲学同好会以外は大丈夫です。

216ムラタ:2020/06/21(日) 23:33:28
今回読んだところは難解でしたね。

次回の詳細です。

日時:7月26日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第4会議室
範囲:第2部定理24〜定理40(中公クラシックス p.127〜147)
会場費1560円を参加者で等分して負担

尚、8月の会は16日となりました。第7会議室です。

217ムラタ:2020/07/25(土) 18:42:28
明日、ちと不都合があって欠席しようと思います。
九月の日程はいつでも構いません。
どうぞよろしく。

218久保共生:2020/07/28(火) 08:49:23
次回の詳細です。

日時:8月16日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 第7会議室
範囲:第2部定理38〜定理49(中公クラシックス p.139〜171)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

よろしくお願いします。

219ムラタ:2020/07/29(水) 00:39:12
久保君

ありがとうございます

220久保共生:2020/08/16(日) 07:51:30
ごめんなさい。
今日ちょっと用事ができたので、欠席します。
父は参加します。
よろしくお願いします。

221ムラタ:2020/08/16(日) 08:08:36
了解しました。

222ムラタ:2020/08/16(日) 19:47:54
次回の詳細です。

日時:9月27日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第2部定理41〜定理49(中公クラシックス p.147〜171)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

よろしくお願いします。

223野口:2020/09/14(月) 10:49:16
野口です。9月27日読書会、欠席させてください。
亡き姉の一周忌の法要と重なりました。

勝ってしますが、よろしくお願いいたします。

224ムラタ:2020/09/14(月) 21:54:53

野口さん

了解いたしました。

225ウラサキ:2020/09/25(金) 15:44:15
すみません。
試験作成に追われており、9月27日の会には出席できそうにありません。
欠席させてくださいm(_ _)m

226ムラタ:2020/09/26(土) 06:29:27
ウラサキ さん

了解いたしました。

227ムラタ:2020/09/26(土) 06:30:48
野口さんとウラサキ さん

11月12月で不都合な日程あれば教えていただけますか?

228ウラサキ:2020/09/27(日) 04:28:08
11月は15と22と29が✕、
12月は27が✕です。

229野口:2020/09/29(火) 14:36:16
特にないです。何時でもOKです。

230おぐす:2020/09/30(水) 12:42:34
久保さん、ご連絡ありがとうございました。
第一希望の12月13日(日)を予約しておきました。
3階の第6会議室です。

231おぐす:2020/09/30(水) 12:51:17
ムラタさん、また次回11月1日(日)の詳細をお願いします。

232ムラタ:2020/09/30(水) 15:36:22
おぐすさんありがとうございます。

次回の詳細です。

日時:11月1日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第2部定理46〜定理49(中公クラシックス p.155〜171)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

よろしくお願いします。

233ムラタ:2020/11/02(月) 07:01:18
次回の詳細です。

日時:12月13日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第2部定理49注解3段落目〜第3部要請(中公クラシックス p.162〜178)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

よろしくお願いします。

234おぐす:2020/12/12(土) 20:43:58
少し風邪気味なので明日は欠席します。

ムラタさん、2月以降の日程の希望が決まったら記入してください。体調がもどったら予約しておきます。

235久保共生:2020/12/12(土) 21:31:44
おぐすさん

了解しました。
お大事になさってください。

236ムラタ:2020/12/13(日) 00:17:21
おぐすさん

了解いたしました。

237ムラタ:2020/12/13(日) 20:09:28
今回で難解だった第二部が終了しました。
次回からは第三部に入ります。

次回の詳細です。

日時:1月24日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部序文〜定理2(中公クラシックス p.172〜187)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

今回はおぐすさんが欠席だったので、今回の出席者は次回会場費をおぐすさんに忘れず支払うようにしましょう。

238ムラタ:2020/12/13(日) 20:15:22
おぐすさん

2月のエチカ読書会の日程ですが、
第一候補が2/23(火・祝)
第二候補が2/28日(日)
となりました。
お身体が回復されたら、ご予約のほうよろしくおねがいします。
毎度恐縮です。

239おぐす:2020/12/16(水) 17:31:57
2月のエチカ読書会

2月23日(火・祝)浪速区民センター第2会議室で予約済です。

240ムラタ:2020/12/16(水) 18:03:20
おぐすさん

寒い中ありがとうございました。
助かります。

241おぐす:2021/01/24(日) 18:09:06
3月のエチカ読書会

3月7日(日)浪速区民センター 3F 第9会議室です。

242ムラタ:2021/01/25(月) 09:57:16
おぐすさん

ありがとうございます


次回の詳細です。

日時:2月23日(火・祝日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部定理2〜定理8(中公クラシックス p.179〜192)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

243ウラサキ:2021/02/21(日) 14:01:05
すみません、学年末考査問題作成に追われており、2月23日欠席させて下さいm(_ _)m

244ムラタ:2021/02/21(日) 16:44:22
ウラサキさん

承知いたしました。

245ムラタ:2021/02/23(火) 13:55:38
ウラサキさん

4月の都合の良い日程お教えいただけますか?

246ウラサキ:2021/02/23(火) 16:16:23
哲学同好会の4月11日以外は大丈夫です。

247ムラタ:2021/02/23(火) 23:49:10
次回の詳細です。

日時:3月7日(日) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理9〜定理20 (中公クラシックス p.192〜207)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

尚、4月の会は29日(木・祝)となりました。

248ウラサキ:2021/03/06(土) 16:50:18
学年末考査の採点がまだ終わらず、すみませんが明日の読書会欠席致しますm(--;)m

249久保共生:2021/03/06(土) 21:13:40
ウラサキさん
了解しました。

250ムラタ:2021/03/08(月) 10:26:42
次回の詳細です。

日時:4月29日(木・祝) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理16〜定理27 (中公クラシックス p.201〜216)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)


5月の会は5月23日(日)となりました。

251おぐす:2021/04/11(日) 21:10:12
エチカ読書会の日程です。

5月23日(日)14時より 浪速区民センター 第6会議室です。

6月20日(日)14時より 浪速区民センター 第4会議室。

7月23日(金・祝)14時より 浪花区民センター 第6会議室。

252野口:2021/04/23(金) 16:38:34
この25日から緊急事態宣言が発令されます。そこで勝手ですがその間欠席させてください。
解除されましたらまた参加いたします。よろしくお願いいたします。

253ムラタ:2021/04/24(土) 14:17:04
承知いたしました。
緊急事態宣言もそうですが、早くコロナ流行以前の生活に戻りたいものですね。

254ムラタ:2021/04/24(土) 18:01:45
浪速区民センターが4月25日(日)から5月11日(火)まで休館になるようです。
場所を探せば開けなくもないでしょうが、緊急事態宣言も出ていることですし、
4月29日に予定されていた会は中止ということでいかがでしょうか?
ご意見承りたく存じます。

255久保共生:2021/04/24(土) 18:38:41
>>254

中止にして、次回は5月23日ということで良いかと思います。

256ウラサキ:2021/04/24(土) 19:43:09
中止に賛成です。

257おぐす:2021/04/24(土) 20:05:34
4月29日は中止が妥当でしょうか。次回は5月23日で良いと思います。

258ムラタ:2021/04/25(日) 00:55:23
では、4月29日は中止で、次回は5月23日ということにしましょう。

おぐすさん、もし支払い済みの使用料が返還されない場合(ないとは思いますが)はお知らせ下さい。

259おぐす:2021/04/25(日) 18:53:47
臨時休館の期間に利用予定の場合、当日の使用時刻までに取り消し手続きをすれば使用料は返還されます。

なお臨時休館中も区民センター窓口の業務は行っているとのことです。

260野口:2021/04/26(月) 12:37:53
5月23日には参加いたします。

261ムラタ:2021/05/11(火) 06:26:18
浪速区民センターの臨時休館が5月末まで延長されたようです。
次回5月23日はどうしましょうか?

262久保共生:2021/05/11(火) 23:54:56
やはりそうなりますよね。
あまりに間が空くのは良くないですが、新たな会場を探すのも面倒ですし、個人的にはとりあえず5月も中止で良いと思います。
尤も、今後もしも休館期間があまりに長くなりすぎて読書会に大きな支障をきたすようなことがあれば、改めて考え直す必要はあると思いますが。

263おぐす:2021/05/12(水) 09:49:16
私も5月は中止で次回は6月でいいと思います。
今は状況が流動的なので都度都度で考えないと仕方がないでしょう。

264ウラサキ:2021/05/12(水) 09:51:04
私もそれで結構です。

265ムラタ:2021/05/12(水) 12:33:43
では、5月の会も中止にしておきましょうか。
野口さんの意見がまだですが、おそらく納得して頂けるでしょう。
次回は6月20日ということで。

266野口:2021/05/15(土) 08:23:24
遅くなってすみません。
私もそれでいいと思います。

267ムラタ:2021/05/29(土) 15:33:45
浪速区民センターの臨時休館がまたもや6月20日まで延びたようです。
遺憾ながら次回の6月20日もやはり中止やむなしでしょうか。
皆さんどうでしょう?

268おぐす:2021/05/29(土) 21:23:12
区民センターからその旨連絡を受けました。
今は緊急事態宣言下なので、どこの施設もたぶん同様だと思うのでやむを得ないかと思います。
今回中止の場合、次回は7月23日(金・祝)ということになりますが。

269久保共生:2021/05/30(日) 12:44:55
まあ今回も中止にしましょうか。
7月23日はさすがに大丈夫でしょう。

270野口:2021/05/30(日) 14:17:25
了解しました。
7月23日は大丈夫であることを祈ります。

271ウラサキ:2021/05/30(日) 16:58:35
了解しました。

272ムラタ:2021/05/30(日) 21:22:43
7月の会は開けるといいですね

273おぐす:2021/07/11(日) 21:04:07
エチカ読書会の予定です。
7月23日(金・祝)第6会議室。
8月15日(日)第9会議室。
9月12日(日)第9会議室。
場所は浪花区民センター(14時〜17時)

274おぐす:2021/07/11(日) 21:10:38
ムラタさん

期間が少し開いたので確認のためにエチカの次回の予定範囲を記していただけるとありがたいです。

275ムラタ:2021/07/12(月) 20:45:34
おぐすさん
了解しました。
次回の詳細です。

日時:7月23日(金・祝) 14時から
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理16〜定理27 (中公クラシックス p.201〜216)
会場費780円を参加者で等分して負担(会場費が安くなりました。)

276ウラサキ:2021/07/16(金) 11:51:48
すみません。
自分の読解力に限界を感じましたので、今後の参加を控えさせて頂きますm(_ _)m

277久保共生:2021/07/16(金) 13:32:24
>>276
もし、僕に気を遣われてのことであれば、考え直していただけないでしょうか?
正直、別にそんなに気にしていないし、気にするタイプでもないので。
腹に据えかねてあのような返信をしたのではなく、単に思ったことを率直に、気遣いなしに、それこそ「無神経」に述べただけです。(ただ、こちらも結構ズケズケと失礼な言い方をしたので、もし不快に思われたのならば謝罪します。)
別にあの程度のことでウラサキさんに悪感情を抱いたりはしないので、その点はご心配なさらないようにお願いします。

僕としては変に気を遣われる方がイヤです。
というより、こんなつまらないことで関係がこじれるのは避けたいです。
ウラサキさんの発言はとても参考になるので、お嫌でなければ参加を継続していただける方が僕としてはありがたいです。

278ウラサキ:2021/07/16(金) 14:50:29
いえ、別に共生さんに気をつかっての事ではありません。
以前よりスピノザのテキスト読解には限界を感じておりました。
頑張って続けようかとも思っておりましたが、
数か月ブランクが空いたこともあり、意欲が尽きたという気持ちです。
申し訳ありませんが、休ませて下さい m(_ _)m

いつか、私にもついて行けそうなテキストで読書会があれば又参加させて頂きます。

279久保共生:2021/07/16(金) 22:24:52
>>278
そうですか、了解しました。
國分功一郎によれば、最初が難しくても第4部からならわりと読めるそうなので、もしよろしければその時に改めて参加を検討していただければと思います。
一応、本書のメインの倫理について論じられるところでもありますし。

280ウラサキ:2021/07/17(土) 02:48:13
>>279
有り難うございます。
 その時点での精神状態で又,判断させて下さい。

281おぐす:2021/07/23(金) 12:00:04
昨日ワクチンの接種をうけたのですが少し微熱があり思わしくないので今日の読書会は見合わせます。

282ムラタ:2021/07/23(金) 12:55:12
おぐすさん

承知いたしました。

283ムラタ:2021/07/23(金) 19:15:04
次回の詳細です。

日時:8月15日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理22〜定理30 (中公クラシックス p.209〜221)
会場費780円を参加者で等分して負担

今回の出席者は次回おぐすさんに忘れず会場費を支払いましょう。

284おぐす:2021/08/15(日) 10:07:32
数日体調がすぐれないので本日の読書会を休みます。

285ムラタ:2021/08/15(日) 10:34:37
おぐすさん

承知いたしました。
どうぞお大事に。

286ムラタ:2021/08/15(日) 19:58:11
次回の詳細です。

日時:9月12日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理29〜定理37 (中公クラシックス p.218〜230)
会場費780円を参加者で等分して負担

7月、8月の出席者は次回おぐすさんに忘れず会場費を支払いましょう。
尚、10月は31日(日曜)、11月は14日(日曜)となりました。

287おぐす:2021/09/04(土) 13:11:02
若年で逝った甥っ子の法事がお寺さんとの折衝で9月12日(日)になってしまいました。
今度は参加できると思っていたのに、残念ですが致し方ありません。
テキストの当該箇所はそのつど読んでいるので次回は用意して参加したいと思います。

288ムラタ:2021/09/04(土) 23:37:17
おぐすさん

そうですか、それは残念です。
第一部・第二部は基礎理論的で内容が抽象的であり、ゆえに難解で読解することに精一杯でしたが、
第三部は内容がやや具体的になり、そのおかげか割合読みやすくなり、
そうじゃないだろう、などと批判的に検討しつつガヤガヤと読んでいるというのが僕の印象です。
是非来月以降はご一緒できたらと思います。

290ムラタ:2021/09/12(日) 20:23:47
次回の詳細です。

日時:10月31日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理35〜定理42 (中公クラシックス p.225〜237)
会場費780円を参加者で等分して負担

※7月、8、9月の出席者は次回おぐすさんに忘れず会場費を支払いましょう。

291久保共生:2021/11/02(火) 17:57:24
次回の詳細です。

日時:11月14日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理40〜定理50 (中公クラシックス p.234〜245)
会場費1560円を参加者で等分して負担

なお、12月は12日(日)になりました。

292ムラタ:2021/11/14(日) 21:14:06
次回の詳細です。

日時:12月12日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理46〜定理54 (中公クラシックス p.240〜251)
会場費1560円を参加者で等分して負担

なお、1月は30日(日)になりました。

293名無しさん:2021/11/24(水) 00:55:53
NFTアートとNFTゲームとGameFiとDeFiとブロックチェーンゲームと
noteとVoicyに今すぐ提供する側・作る側として参入しよう。
DAOとPlay-to-Earn(遊んで稼ぐ)が世界の未来になる
特にNFTアートとNFTゲームとGameFiは今なら先行者利益取れるぞ
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294ムラタ:2021/12/12(日) 20:28:37
次回の詳細です。

日時:1月30日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理52注解〜定理57 (中公クラシックス p.248〜260)
会場費1560円を参加者で等分して負担

なお、2月は20日(日)、3月は21日(月・祝)となりました。

295野口豊太:2022/01/28(金) 19:34:18
基礎疾患が有りますので、今回の読書会休ませてください。次回はワクチン3回うちますので参加できます。
勝ってしまして申し訳ございません。
よろしくお願いいたします。

296ムラタ:2022/01/28(金) 22:50:31
野口さん

了解致しました。
大阪はコロナがかなり流行しているようですね。
どうぞご無理なさらず。

297野口豊太:2022/01/29(土) 19:56:49
ありがとうございます。

298ムラタ:2022/01/30(日) 19:10:54
次回の詳細です。

日時:2月20日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第3部 定理57〜定理59、第4部 序文,定義,公理 (中公クラシックス p.258〜265,294〜303)
※第3部の最後に収録されている諸感情の定義は省略します。
会場費1560円を参加者で等分して負担

なお、4月は24日(日)、5月は22日(日)となりました。

299おぐす:2022/02/19(土) 19:39:51
昨日打ったワクチンの副反応気味で体調もすぐれないので明日の読書会を休みます。

300ムラタ:2022/02/19(土) 21:47:44
おぐすさん

承知致しました。
どうぞご自愛ください。

301ムラタ:2022/02/20(日) 19:44:59
次回の詳細です。

日時:3月21日(月・祝) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 序文(善と悪〜の段落)〜定理9 (中公クラシックス p.298〜313)
会場費1560円を参加者で等分して負担

2月の参加者は次回おぐすさんに忘れず料金を支払うようにしましょう。
久保さん、財布忘れ、助けて頂いてありがとうございます、次回忘れず返します。

302ムラタ:2022/02/22(火) 14:25:32
僕が参照しているwikisourceのethics(英訳)のリンクを載せておきます。
右上のdownloadのボタンからいろいろな形式でダウンロードできます。
ttps://en.wikisource.org/wiki/Ethics_(Spinoza)

303ムラタ:2022/03/21(月) 19:22:23
次回の詳細です。

日時:4月24日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定義8〜定理9 (中公クラシックス p.302〜313)
会場費1560円を参加者で等分して負担

304ムラタ:2022/03/21(月) 19:55:07
次回4月の会からオンラインに対応することになりました。
大阪浪速区民センターに来られない方でもオンラインで読書会に参加可能です。

読書会の開始時刻前に、このスレッドにGoogle Meetの会議コードあるいはリンクを貼ることにします。
ttps://meet.google.com
上のアドレス(先頭にhを追加して下さい)のサイトから会議コードあるいはリンクを入力すれば読書会のMeetに入ることが出来ます。
Googleのアカウントがなくとも参加が可能です。
是非奮ってご参加下さい。

305ムラタ:2022/03/22(火) 00:14:48
>>304↑について訂正です。
Googleアカウントは不要ではなく必要です。

306ムラタ:2022/03/30(水) 22:33:26
エチカ読書会の宣伝用Twitterアカウントを作成しました。
ttps://twitter.com/Ethics_bookclub

307ムラタ:2022/04/24(日) 13:50:47
本日の読書会はこちらからお入りください。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/fbz-begy-vcp

コードはfbz-begy-vcpです。

308ムラタ:2022/04/24(日) 18:52:45
次回の詳細です。

日時:5月22日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理4〜定理17 (中公クラシックス p.306〜321)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

309おぐす:2022/04/25(月) 15:26:57
先日の読書会では久保さんの紹介された「中動態」の概念とスピノザの十全、非十全の連関が私には上手く理解できませんでした。
國分巧一朗の著書は数年前「暇と退屈の倫理学」を読んだことがあります。「暇」や「退屈」が正面から哲学的に論じられることの新鮮さと面白さがありました。この頃の國分氏の論考には「中動態」というものはまだ登場してなかったと記憶しています。
私見では「暇」とか「退屈」という状態や気分は、近代以降の資本主義に要請される「勤勉さ」(絶えざる技術革新と創意工夫)と裏腹のもので、資本主義の本質はベンジャミン・フランクリンの頃からそれほど変わっていないような気がします。
「退屈」するにも教養(倫理)が必要という國分氏が、その後自らの「暇」と「退屈」の練度をとのように高めていったのかを伺う意味でもいずれ「中動態の世界」も読んでみようと思っています。

310ムラタ:2022/05/22(日) 13:40:42
本日の読書会google meetはこちらからお入りください。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/fbz-begy-vcp

コードは前回と同様fbz-begy-vcpです。

311ムラタ:2022/05/22(日) 19:09:04
次回の詳細です。

日時:6月19日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理10〜定理18 (中公クラシックス p.313〜326)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

312ムラタ:2022/05/22(日) 19:56:39
今後の予定です。
6月19日(日)
7月17日(日)
8月21日(日)
9月18日(日)

313ムラタ:2022/06/19(日) 13:57:00
ビデオ会議に参加するには、このリンク(ttps://meet.google.com/pzf-seay-dkt)をクリックしてください

先頭にhをつけてください。

314ムラタ:2022/06/19(日) 18:52:57
次回の詳細です。

日時:7月17日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理18 注解 次に徳は…の段落 〜 定理28 (中公クラシックス p.322〜334)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

315ムラタ:2022/07/17(日) 19:41:35
次回の詳細です。

日時:8月21日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理26 〜 定理36 (中公クラシックス p.332〜345)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

316ムラタ:2022/07/17(日) 19:44:48
今後の予定です。
8月21日(日)
9月18日(日)
10月23日 (日)

317ムラタ:2022/08/21(日) 13:47:21
ttps://meet.google.com/uqp-zojr-sov
本日のmeetです。
先頭にhをつけて下さい。

318ムラタ:2022/08/21(日) 23:37:00
次回の詳細です。

日時:9月18日(日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理32 〜 定理37 注解1 (中公クラシックス p.337〜350)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎


今後の予定
9月18日 (日)
10月23日 (日)
11月23日 (水・祝)

319ムラタ:2022/09/17(土) 11:46:39
明日、所用ができたため欠席します。
久保君、代わりに十月の範囲をここに書き込んでおいてもらえるでしょうか?

320久保共生:2022/09/17(土) 21:48:44
>>319
了解しました。

321ムラタ:2022/09/17(土) 23:43:01
久保君
ありがとうございます。

322久保共生:2022/09/19(月) 22:51:35
次回の詳細です。

日時:10月23日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理37 〜 定理43(中公クラシックス p.345〜359)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

323久保共生:2022/09/19(月) 22:53:06
今後の予定

10月23日 (日)
11月23日 (水・祝)
12月25日(日)

324おぐす:2022/10/22(土) 11:14:11
明日は姪っ子の結婚式のため欠席します。

325ムラタ:2022/10/22(土) 12:08:04
おぐすさん
承知しました。

326野口豊太:2022/10/23(日) 10:53:24
野口です。
休養が出来ました。勝手ですが本日休みます。すみません。

327野口:2022/10/23(日) 10:53:55
急用でした。

328ムラタ:2022/10/23(日) 11:48:27
野口さん
了解致しました。

329ムラタ:2022/10/23(日) 13:46:22
本日のGoogle meetのurlになります。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/nsw-jsuz-xes

330ムラタ:2022/10/23(日) 20:37:05
次回の詳細です。

日時:11月23日 (水・祝) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理41 〜 定理56 (中公クラシックス p.357〜373)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
11月23日 (水・祝)
12月25日(日)

331ムラタ:2022/10/25(火) 18:01:55
昨日twitterにてムラタが
『精読して分かったこととしては、エチカは当然内容自体が難解ではあるのだが、証明の論理破綻がその読解の難しさに輪を掛けているということだ。読解の困難の責任は、読者ばかりに帰するわけではない。』
とツイートしたところ、@nobunag59186833さんから
『証明の論理破綻の箇所、良ければ教えて下さい。』
と返信があったので、
『全てを指摘する事は出来ないので前回の範囲の中でも一部を挙げるならば、第4部定理37の一段落目「ゆえに」の論理飛躍、定理38の証明で定理本文一文目の身体が外部に刺激を与える方の証明がなされていない、定理40の一文目「この部の定理35により」は根拠にならない、等です。』
と返したところ、
それに対してnobunagさんから以下の一連の返信がありました。

『返信ありがとうございます。
第4部定理37の一段落目「ゆえに」の論理飛躍
>これは、定理37証明の1段落目、〜人間にとって最も有益である。の後に続く「ゆえに」の箇所ですか?』(返信Aとします)

『定理38の証明で定理本文一文目の身体が外部に刺激を与える方の証明がなされていない
>第二部定理十四にて、人間人体は〜極めて多くの仕方で外部の物体を刺激する様な状態にされる、と書かれています。』(返信Bとします)

『定理40の一文目「この部の定理35により」は根拠にならない
>定理35にて、理性的に生活する限り、人間は相互に一致する事が証明され、続く系において、人間同士が相互に一致して働きを為す限り、最も有益である事が証明される。故に理性は人間を和合して生活する様にさせる事になる。従って定理40の仮定「人間が和合して生活する事」が「有益なもの」である事が、定理35で証明された事になる。』(返信Cとします)

前回の読書会で議論の末、おそらくスピノザの間違いだろうということで片付けられた箇所であります。
返信A、B、Cのそれぞれに対し、応じようと思います。
遅筆ゆえ、気長にお待ち下さい。

332久保共生:2022/10/25(火) 23:40:45
>>331
とりあえず、返信Cにおける明らかな誤りを指摘しておけば、

>理性的に生活する限り、(中略)最も有益である事が証明される。故に理性は人間を和合して生活する様にさせる事になる。従って定理40の仮定「人間が和合して生活する事」が「有益なもの」である事が、定理35で証明された事になる。

というのは、明らかな誤りですね。
仮定1:「理性的に生活することは有益である」
仮定2:「理性は人間を和合して生活する様にさせる」

から、

「人間が和合して生活することは有益である」という結論は導かれません。

この誤謬を形式的に整理すれば、
「A⇒B」と「A⇒C」という仮定から、「B⇒C」を結論したことになります。

「私は男である」と「私はピアノが弾ける」という仮定から、「男はピアノが弾ける」と結論するのと同じ構造ですね。

333久保共生:2022/10/25(火) 23:53:27
『エチカ』には上のような明らかに誤った推論がしばしば見られるので、僕は、スピノザは論理にあまり強いタイプではないと思っています。
論理的記述が極めて杜撰であるにもかかわらず、形式だけユークリッド原論の真似をしているので、それが分かりにくさに拍車をかけているのは間違いないと思います。
尤もそれを我慢して読めば、それなりの面白さや奥深さがあって、決して軽んじられるべき著書ではないとは思うのですが。

334ムラタ:2022/10/26(水) 02:24:09
返信Aについてです。

>これは、定理37証明の1段落目、〜人間にとって最も有益である。の後に続く「ゆえに」の箇所ですか?

その箇所ではなく、一段落目最後の一文「ゆえに徳を熱心に追い求める各個人は〜」の「ゆえに」であります。
よろしければこの「ゆえに」が論理としてどう繋がっているのかご教示頂けたら幸いです。
「善とはものを認識することである」ということがどうして「徳を熱心に追い求める者が、善を自分以外の他の人々のためにも欲求する」ことに繋がるのでしょうか?

335ムラタ:2022/10/26(水) 02:36:26
返信Bについてです。

>第二部定理十四にて、人間人体は〜極めて多くの仕方で外部の物体を刺激する様な状態にされる、と書かれています。

その第二部定理十四は「精神はますます理解力を増す」根拠として挙げられているのであって、第四部定理三十八の根拠として挙げられているわけではありません。
それから、そもそもnobunagさんが上で引用された箇所は第二部定理十四ではなく第二部定理十四の証明の箇所です。

336ムラタ:2022/10/26(水) 03:24:45
久保君が既に指摘されていますが、返信Cについてです。

>従って定理40の仮定「人間が和合して生活する事」が「有益なもの」である事が、定理35で証明された事になる。

スピノザが定理40の証明で述べているのは、定理35によって「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせるものである」ことが言え、ゆえに定理26と27によって善だと言える、ということです。
私が定理35が根拠になっていないと書いたのは、それが定理40の根拠になっていないという意味ではなく(そもそもそんなことはスピノザも主張していない)、「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせる」ことの根拠になっていないという意味です。
どうして定理35が「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせるものである」ことの根拠にならないかということを説明すると、定理35はその逆のことを述べている為です。
定理35は「人間が理性の導きに従って生活している⇒彼らは本性上一致する」ということを述べています。
一方、定理40の証明部分「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせる」であるというのは逆のことを言っています。
A⇒Bが真だからといって、B⇒Aが真になるとは言えないということです。

337nobunag:2022/10/26(水) 05:12:55
ムラタ様
一段落目最後の一文「ゆえに徳を熱心に追い求める各個人は〜」の「ゆえに」であります。
よろしければこの「ゆえに」が論理としてどう繋がっているのかご教示頂けたら幸いです。
「善とはものを認識することである」ということがどうして「徳を熱心に追い求める者が、善を自分以外の他の人々のためにも欲求する」ことに繋がるのでしょうか?

>これは、定理37の証明をたどると、①理性の導きに従う限り、人間にとって人間は最も有益な存在である(第四部定理三十五より)
しかも、理性的な人間にとって、理性的な人間は最も有益な存在であると第四部定理三十五及びその系に明言されています。
従って、②理性の導きに従う場合、人間を理性の導きに従って生活させるように努めるであろうと続き
③有徳的に働く人=理性の導きに従って生活し自己の有を維持する人、が欲求する善は、(妥当な)認識である事が、定理二十六によって確認されます。
以上より、有徳的な人=理性の導きに従って生活する人が、善=即ち妥当な認識を自分以外の人にも求める事になります。
なぜならば、理性的な人間にとって理性的な人間は最も有益な存在である為、理性的な人間は他の人間もまた理性の導きに従って生活させる様に努める事になるからです。

338nobunag:2022/10/26(水) 05:15:07
『定理38の証明で定理本文一文目の身体が外部に刺激を与える方の証明がなされていない』
>第二部定理十四にて、人間人体は〜極めて多くの仕方で外部の物体を刺激する様な状態にされる、と書かれています。

その第二部定理十四は「精神はますます理解力を増す」根拠として挙げられているのであって、第四部定理三十八の根拠として挙げられているわけではありません。
それから、そもそもnobunagさんが上で引用された箇所は第二部定理十四ではなく第二部定理十四の証明の箇所です。

>第四部定理38の理解の前に、人間精神は身体の変状の観念である以上、身体が変化しなければ、いかなる知覚、即ち観念も生じません(第二部定理十二、十三より)。
また、観念の秩序及び連結はものの秩序及び連結と同一なのですから(第二部定理七より)、以上の事を前提とする限り、身体がより多くのものにより多くの仕方で変状する=それだけ多くのものを知覚するのに適するという事になります。
従って、第二部定理十四は、「身体はより多くの仕方で影響(変状)するのに適する。
そしてこの適正は人間精神がきわめて多くのものを知覚するのに従ってそれだけ大である。」とも読み替え可能です。
従って、既に証明済みの第二部定理十四を引用しているという事は、読者はその証明の内容も当然理解しているという前提の元に、第四部定理38の証明を進めている訳ですから、
定理38の主張内容の前提となっている、身体が外部のものに刺激を与える事の証明は、第二部定理十四を引用するだけで十分なのです。

339nobunag:2022/10/26(水) 07:24:09
どうして定理35が「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせるものである」ことの根拠にならないかということを説明すると
定理35はその逆のことを述べている為です。
定理35は「人間が理性の導きに従って生活している⇒彼らは本性上一致する」ということを述べています。

>少し、論理形式的な話になりますが、
Aである限りにおいてBである。
という命題は、Bが肯定されたならば必ずAも肯定される事になります。
なぜならば、AはBが成立する為の条件である事を示している為です。
例文を述べると、
貴方が行く限りにおいて皆も行きます。この命題は
「皆が行く」という事が肯定されたならば→「貴方も行く」、という事も肯定されます。
皆が行く→貴方も行く
となりますが、皆が行くからと言って、貴方も行くとは限りません。
従って
皆が行く→貴方も行く
は間違いとなります。
この命題では、皆が行く事の条件が、貴方が行く事なのであって
貴方が行く事の条件は、この命題では述べられていませんから。
では、定理35に戻りますが、この命題では
理性の導きに従って生活する「ただその限りにおいて」本性上、常に一致する。
と述べられています。ポイントは「ただその限りにおいて」と強調している点です。
従って、この定理は
本性上、常に一致しているのであれば、理性の導きに従って生活しているという事が述べられている事になります。
つまり、先ほど示した例文の様に、
理性の導きによって生活する事は、本性上、常に一致する為の条件な訳ですから
本性上、常に一致している→理性の導きに従って生活している
という事になります。
しかし、理性の導きに従って生活していれば、必ず本性上、常に一致するとは限りません。
(例えば自分が理性的でも、相手が受動的、つまり非理性的に生活していれば、互いに常に一致する事はできません)
従って第四部定理35は
人間が理性の導きに従って生活している→彼らは本性上、常に一致する
ということを述べているのではなく、
彼らが本性上、常に一致している→理性の導きに従って生活している
という事が述べられている訳です。
従って第四部定理35は第四部定理40の証明の箇所である
人間を和合して生活させるもの→人間を理性の導きに従って生活させるものである。
の根拠となりうる訳です。

340nobunag:2022/10/26(水) 08:13:54
私の書きこんだレス339ですが、一部、記入ミスがありました。
正しくは以下になります。

どうして定理35が「人々が心を和して生活するようにしむけるもの」が「理性の導きによって生活させるようにさせるものである」ことの根拠にならないかということを説明すると
定理35はその逆のことを述べている為です。
定理35は「人間が理性の導きに従って生活している⇒彼らは本性上一致する」ということを述べています。
>少し、論理形式的な話になりますが、
Aである限りにおいてBである。
という命題は、Bが肯定されたならば必ずAも肯定される事になります。
なぜならば、AはBが成立する為の条件である事を示している為です。
例文を述べると、
貴方が行く限りにおいて皆も行きます。この命題は
「皆が行く」という事が肯定されたならば→「貴方も行く」、という事も必ず肯定されます。
何故ならば、貴方が行く事は、皆が行く事の条件なのですから。従って
皆が行く→貴方も行く
となります。
しかしこの命題では、皆が行く事の条件は提示されていますが、貴方が行く事の条件は提示されていません。
従って皆が来なくとも、貴方一人で行く事は可能です。故に
貴方が行く→皆が行く
は間違いとなります。

では、定理35に戻りますが、この命題では
理性の導きに従って生活する「ただその限りにおいて」本性上、常に一致する。
と述べられています。ポイントは「ただその限りにおいて」と強調している点です。
従って、この定理は
本性上、常に一致しているのであれば、理性の導きに従って生活しているという事が述べられている事になります。
つまり、先ほど示した例文の様に、
理性の導きによって生活する事は、本性上、常に一致する為の条件な訳ですから
本性上、常に一致している→理性の導きに従って生活している
という事になります。
しかし、この命題は、理性の導きに従って生活する事は、本性上、常に一致する為の条件である事が示されている訳ですが、理性の導きに従って生活する事の条件は述べられていません。
従って第四部定理35は
人間が理性の導きに従って生活している→彼らは本性上、常に一致する
ということを述べているのではなく、
彼らが本性上、常に一致している→理性の導きに従って生活している
という事が述べられている訳です。
従って第四部定理35は第四部定理40の証明の箇所である
人間を和合して生活させるもの→人間を理性の導きに従って生活させるものである。
の根拠となりうる訳です。

341久保共生:2022/10/26(水) 18:46:16
>>340
nobunagさん、コメントありがとうございます。
証明の妥当性について議論する前に、一点確認しておくべきことがあると思うので述べておきます。

>Aである限りにおいてBである。
という命題は、Bが肯定されたならば必ずAも肯定される事になります。

と仰っていますが、さすがにこれは変ではないでしょうか?
例えば「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という文は、「君が謝らないならば、僕は君を許さない」と解釈すべきであり、「僕が君を許さないならば、君は謝らない。」と解釈する人はおそらく誰もいないと思います。
「Aである限りにおいてBである。」を「B⇒A」と解釈するのはかなり無理筋かと思われます。

342ムラタ:2022/10/26(水) 19:30:17
>>341
僕もそうかと思って>>336を書いたのですが、これに関してはnobunagさんが正しいと思いました。
というのも、我々が読んでいる中公クラシックスではされていませんが、先ほど岩波文庫訳を確かめてみると、「ただその限りにおいて」と強調が入っておりました。
そしてnobunagさんが仰る通り、その強調がまさにポイントで、そのために>>339のnobunagさんの解釈が正当ということになりそうなのです。

343ウラサキ:2022/10/26(水) 19:59:55
>>341
ラテン語でどう表現されているのかは分かりませんが、
論理学には ⇔(双条件法、iff, if and only if)」という(A→B)∩(B→A)と同値の結合子があり、
「Aである限りにおいてBである」という表現は「A⇔B」のことではないでしょうか?
その場合、Bが真なら、Aも真となります。

344久保共生:2022/10/26(水) 20:15:17
>>342

>「ただその限りにおいて」と強調が入っておりました。

その点については僕も既に確認していますが、強調があるのとないのとで、特に解釈が変わるとは思えないのですが。
「Aである限り、Bである。」という強調のない文はA⇒Bを表し、「Aである限り、ただその限りにおいてはBである。」という強調のある文は、B⇒Aを表すとでも言うでしょうか?
全く同意できません。

345ウラサキ:2022/10/26(水) 20:20:20
戸田山和久『論理学をつくる』p.42で双条件法⇔の日本語対応表現として、
「AであるのはBであるとき、そしてそのときに限られる」が紹介されています。

346久保共生:2022/10/26(水) 20:23:25
>>343

>「Aである限りにおいてBである」という表現は「A⇔B」のことではないでしょうか?

その可能性はあると思います。
さらに言えば、僕は、スピノザの論理的記述のいい加減さから見るに、スピノザは必要性と十分性の区別をあまりきちんと考えずに書いているように見えます。

347久保共生:2022/10/26(水) 20:39:36
>>345

情報ありがとうございます。
ただ、「Aである限りにおいて、Bである」と「AであるのはBであるとき、そしてそのときに限られる」を、果たして同値命題と解釈してよいのか若干疑問ですね。
もう少し考えてみようと思います。

348ムラタ:2022/10/26(水) 20:47:52
>>347
「限り(if)」と「限り、ただその限りにおいて(if and only if)」はただ強調しているだけでなく、論理的に違う働きをするように思います。
岩波訳のように「Aである限り、ただその限りにおいてBである」ならB⇒Aを導いても良いように思われました。

349ムラタ:2022/10/26(水) 20:51:34
>>348の訂正】

>>347
「限り、ただその限りにおいて(if and only if)」は「限り(if)」をただ強調しているだけでなく、論理的に違う働きをするように思います。
岩波訳のように「Aである限り、ただその限りにおいてBである」ならB⇒Aを導いても良いように思われました。

350久保共生:2022/10/26(水) 21:09:03
>>349
なるほど。
英語を見ると、if and only ifとifは確かに違うような気がしてきました。
戸田山和久の著書からも察するに、ウラサキさんの仰るようにA⇔Bと考えるのが妥当に思えてきました。

351久保共生:2022/10/26(水) 21:20:46
「Aである限り、Bである。」は、A⇒Bを表し、
「Aである限り、ただその限りにおいてBである」はA⇔Bを表すという解釈でよいのでしょうか?

352ムラタ:2022/10/26(水) 23:09:05
>>351
そうなるのでしょうかね。
「限り」が「ただその限り」という特殊な場合のみA⇒BではなくA⇔Bになるように思います。

353ムラタ:2022/10/26(水) 23:16:03
nobunag様

返信Cについてはこれで良かったでしょうか?
>>337(返信Aについて)、>>338(返信Bについて)も意見させてもらおうと思います。
ものぐさゆえ気長にお待ち下さい。

354久保共生:2022/10/26(水) 23:38:17
>>352
ただ、A⇔Bという主張の証明をするのであれば、当然A⇒Bの証明とB⇒Aの証明を両方書くはずですが、少なくとも定理35ではそのような書き方がされていないので、その点については腑に落ちませんね。
スピノザに必要十分性を主張しようという意図が本当にあったのかはやや疑問が残ります。

355久保共生:2022/10/27(木) 00:13:19
これまでの議論を踏まえた上で、改めて返信Cにおける定理40の証明に関して、僕の意見を述べておくと、やはり証明にギャップがあると思います。
証明の一文目の「なぜなら、人間を和合して生活するようにさせるものは、同時に人間を理性の導きに従って生活するようにさせるものである」という推論の根拠を定理35に求めていますが、定理35は「人間は、理性の導きに従って生活する限り、ただその限りにおいて、本性上必然的に一致する」という主張であり、全くかみ合っていないと思います。
もしかしてスピノザは「人間が本性上一致する」ことと、「人間が和合して生活する」ことが同値であると考えているのでしょうか?
もしそう考えるのならば、これについての証明が必要ですが、それらしい証明は見当たらないと思われます。

そもそも、僕は「人間が和合して生活しているならば、彼らは本性上一致している(あるいは理性の導きに従って生活している)」という主張は常には成り立たないと考えます。
なぜなら、本性上一致していなくとも、彼らに不和をもたらすような外部の原因が偶然に存在しない場合は、彼らは和合して生活していると言えるからです。
(勿論、逆が成り立つことは認めます。すなわち、「本性上一致しているならば、和合して生活している」というのは真だと思います。しかしここから定理40は導出できません。)

356久保共生:2022/10/27(木) 00:16:20
nobunagさん、色々と横槍を入れてしまいすみません。
失礼いたしました。

357nobunag:2022/10/27(木) 13:23:29
「Aである限り、Bである。」は、A⇒Bを表し、〜という解釈でよいのでしょうか?

>まず前提として
① P→Qという論理規則は、Pという存在が肯定されたならば、必然的にQという存在も肯定されるという事を示します。
(一般的に分析命題と呼ばれる、主語の意味の内に既に含まれている述語を示す命題等も
主語が肯定されれば主語の内に含まれる述語も肯定される為この形式を取ります。)
例 ソクラテス→人間である

以上を前提とし、「Aである限りにおいてBである。」という命題は、AはBが成り立つ為の条件である、という事が示されています。
従って、Bが肯定されたならば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→A
B→Aの対偶は
¬A→¬Bですから、
Aという現象が生じなければ、必然的にBという現象も生じない。
これは「Aである限りにおいてBという現象が生じるという」という命題なので当然です。

しかし「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
仮にA→B、即ち、Aが肯定された場合必然的にBも肯定される事になると仮定します。
しかし、A→BからB→Aは成り立ちません(論理規則より)。
しかし、これは先に提示したB→Aと矛盾する為、不条理です。
従って、「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
A→Bと仮定する事は出来ません。

例文として
「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題において
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一つである事を示す訳ですから
幸福と感じているならば、必ず生きているという事が肯定されます。
幸福と感じる事が出来る→生きている
しかし、仮に「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題を
生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より
生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一である訳ですから、生きているからといって
必ず幸福と感じるとは限りません。
(生きていると幸福と感じる事も、不幸と感じる事も、幸福とも不幸とも感じていない事も、あるいは幸福とも不幸とも感じている事もある訳です)

久保共生様に提示して頂いた例文、
「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題ですが
「僕が君を許さない」という結果を、「君が謝らない」という原因として説明する際、
ご指摘された通り「君が謝らないならば、僕は君を許さない」と読み替える事は可能です。
(即ち人間は因果関係の元において、現象を捉えるわけです。)
しかし、これを論理式で示すと
君が謝らない→僕は君を許さない、とはなりません。
何故ならばAという結果がBという原因によって生じる時、即ち
「B(原因)ならばA(結果)である」という命題は
A(結果)→B(原因) という論理式によって示されるからです。
というのも、結果(A)は原因(B)という条件無しには有ることも考える事も出来ませんので
A(結果)という現象が肯定されたならば、必然的にB(原因)という現象も肯定されなければなりません。従って前提①より
A→B
しかし、原因(B)は結果(A)の現象に先立つ故に、原因(B)という現象が成立する為の条件は結果(A)ではありません。
従ってB(原因)という現象が必然的に肯定するのはBという現象を成立させているさらに前の原因(B´)が必然的に肯定される事になります
B→B´
故に「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題を
「君が謝らない(原因)ならば、僕は君を許さない(結果)」と読み替える場合
それを論理式で示す際は
僕は君を許さない(結果)→君が謝らない(原因)と記す必要があります。

358nobunag:2022/10/27(木) 13:26:13
「Aである限り、ただその限りにおいてBである」はA⇔Bを表すという解釈でよいのでしょうか?

>「Aである限り、ただその限りにおいてBである」という命題からは
A⇔Bが成立すると思われます。
というのも
「Aである限りにおいてBである。」
という命題からは、Aは、Bという現象が成立する為の条件の一つである事が示されてる為、Bという現象が生じれば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→Aとなります。
しかし、Bである限りにおいてAであるとは述べられていません。
従ってA→Bとはなりません。
A→Bが成立する為には、Aという現象が肯定されれば、Bという現象も必然的に肯定される必要があります。(前提①より)
従って、Bという現象が成立する為の条件をAが全て満たしている場合、Aが存在すれば、必然的にBも肯定される事になります。
Aである限りにおいて〜Bである、という命題は、AはBが成立する為の全ての条件である事は読み取る事は出来ず、AはBが成立する為の条件の一つである事が読み取れる。
しかしAである、ただその限りにおいて〜Bである、という場合、『ただ』=『唯一の〜』という意味を含む為、AはBが成立する為の、全ての条件を含んでいる事が示される。
従ってAが存在するならば、必然的にBも存在しなければならない。故に前提①より
A→Bという事になる。

では、第四部定理35「理性の導きに従って生活する限り、『ただその限りにおいて』本性上、常に必然的に一致する。」という命題は
人間同士が本性上、常に一致する→理性の導きに従って生活する
という事は正しいとしても
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
という事まで言えるかというと、そうは言えないと思います。
というのも、第四部定理35より前に既に、存在に固執する力は外部の本性によって無限に凌駕される以上、受動である事は免れる事は出来ない事が証明されており(第四部定理三、四)、それを前提とする限り、理性の導きに従って生活していても、何らかの受動的な状態を免れる事は不可能である為、人間同士が常に必然的に一致する事もまた不可能である事になる為です。
従って、第四部定理35は、理性の導きによって生活し、かつ(外部の本性を考慮しない限りにおいて)という前提の下において
「理性の導きに従って生活しているならば、必然的に、人間同士は本性上、常に一致する」即ち
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
と言える事になると思います。

359久保共生:2022/10/27(木) 19:11:03
>>357
nobunagさん、返信ありがとうございます。

まず、解説していただいた基本的な論理規則は僕も理解しております。(一応数学科出身なので。)
その点は問題ないのですが、僕が納得できないのは、

>「Aである限りにおいてBである。」という命題は、AはBが成り立つ為の条件である、という事が示されています。

という部分です。
まず「AはBが成り立つ為の条件である」と仰っていますが、その条件というのが必要条件なのか十分条件なのかが重要です。
おそらく文脈上、「AはBが成り立つ為の必要条件である」と仰りたいのでしょうが、なぜそのような解釈が出てくるのか理解できません。
もし、「Aである限りにおいてBである。」はB⇒Aを意味するということを明言している論理学書があれば、教えてください。

「君が謝らない限り、僕は君を許さない」という例についてですが、因果関係ではなく、普通に条件文として解釈可能だと思います。(具体的な集合を考えづらい上に、否定が入っているのであまりわかりやすい例ではなかったかもしれませんが。)
すなわちこの例は、謝ることが君を許すための必要条件である、という主張として解釈可能です。
つまり、「僕が君を許すのは、君が謝るときである」と換言可能です。
ここで、P:許す Q:謝る とすると、P⇒Qの主張と言えるので、¬Q⇒¬Pを主張しているとも言えます。
(ただし、Q⇒Pは主張していません。すなわち、謝ったからといって絶対に許すとは言っていません。)

まとめると、「君が謝らない限り、僕は君を許さない」というのは、「¬Qである限り、¬Pである」の形の文であり、この意味するところは上でみたように「¬Q⇒¬P」であるわけです。
いま、¬QをA、¬PをBに書き換えると、「Aである限り、Bである。」は「A⇒B」を意味することになるので、nobunagさんの主張とは異なる結論が得られるわけです。

360久保共生:2022/10/27(木) 19:15:17
>>357
もう一点、「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という例文についてですが、僕はこれも「生きているならば、幸福を感じることが出来る」と解釈すべきだと考えます。

>生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが(中略)生きているからといって必ず幸福と感じるとは限りません。

と仰っていますが、これには明らかな間違いが含まれていると思います。
すなわち、「生きているならば、幸福を感じることが出来る」という命題と、「生きているならば、(常に)幸福を感じる」という命題を混同していると思われます。
もし後者のような解釈をするのであれば、元の例文も「生きている限りにおいて(常に)幸福を感じる」としなければならないはずです。

361久保共生:2022/10/27(木) 19:37:47
nobunagさん、余計なお世話かもしれませんが、もし必要条件、十分条件の意味をご存じでなければ、youtubeに上がっている解説動画を貼っておきますので、ご覧ください。
この動画はわりと明快な説明をしていると思うので。

ttps://www.youtube.com/watch?v=CltFYLDV5sM&ab_channel=%E8%B6%85%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%EF%BC%81%E6%8E%88%E6%A5%AD%E5%8B%95%E7%94%BB
(頭にhをつけてください)

362久保共生:2022/10/27(木) 20:11:46
もう少しわかりやすい例を挙げておきます。
「いくら彼が優れた格闘家であるとはいえ、彼も人間である限り、象には勝てない」という文は、
「人間であるならば、象には勝てない」ということを意味するのであり、「象に勝てないならば、人間である」ということ言っているのではありません。
「Aである限り、Bである」は、やはりA⇒Bを意味すると考えるのが妥当かと思われます。

363nobunag:2022/10/28(金) 02:09:56
久保共生様
>>360

すなわち、「生きているならば、幸福を感じることが出来る」という命題と、「生きているならば、(常に)幸福を感じる」という命題を混同していると思われます。
もし後者のような解釈をするのであれば、元の例文も「生きている限りにおいて(常に)幸福を感じる」としなければならないはずです。

>「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題、即ち
「Aである限りにおいBである。」という命題が
A→Bとして示される、即ち前提①より
「生きている」という事が肯定されれば、必然的に「幸福である」という事も肯定される、即ち
生きている→幸福である
となるのは、「生きている限りにおいて(常に)幸福である。」という命題において可能です。
なぜなら前提①より
生きているという現象が肯定されれば、必然的に幸福であるという事も肯定されるからです。
(別の言い方をすると、幸福であるという意味は、生きているという主語の内に既に含まれている、と言ってもかまいません。)
しかし、「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」
即ち「Aである限りにおいてBである」という命題は
「Aである限りにおいて『常に』Bである。」とは言っていません。
従って、Aである限りにおいてBである。
という命題を
A→B
と誤った論理規則で表記してしまうのは
Aである限りにおいてBである。という命題を
Aである限りにおいて(常に)Bである。と過剰な読み込みをしてしまっているからだと推測されます。

364ムラタ:2022/10/28(金) 03:38:09
「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?

命題A「xが素数である限り、xは自然数である。」
命題B「xが素数である限りにおいて、xは自然数である。」

僕には命題Aは
「xが素数である⇒xは自然数である。」
という真の命題、
一方、命題Bは
「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」
という偽の命題としか読めません。

「限りにおいて」と「限り」が同じ論理的働きをするのならこんな事態は生じないはずです。

365nobunag:2022/10/28(金) 11:28:19
>>364
「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?
「限りにおいて」と「限り」が同じ論理的働きをするのならこんな事態は生じないはずです。

>同意見です。「限りにおいて」と「限り」を同じと扱ってしまうと、意味が全く変わってしまうと思われます。
何故ならば、
「Aである限りBである。」
というと、通常
「Aである限り(常に)Bである。」
という意味合いが強く
A→Bとなりますが、
「Aである限り(において)Bである。」
という意味合いは弱いです。
一方「Aである限りにおいてB」という命題は先の説明の通り
B→Aとなります。

幸福と感じる→生きている
という事を表現したい場合
「生きている限りにおいて、幸福と感じる」と表現しますが、
「生きている限り幸福と感じる」と表現してしまうと
「生きている限り(常に)幸福と感じる」と通常読み込んでしまう為
生きている→幸福と感じる
と反対の意味になってしまいます。

従って
Aである限りにおいてBである、という命題を
Aである限りにおいて(常に)Bである。や
Aである(ただその)限りにおいてBである。と過剰に読み込んだり
Aである限りBである。と解釈してしまうと
意味が変わってしまいます。
ただスピノザも、「限りにおいて」「限り」「ただその限りにおいて」を曖昧なまま使用している感はいなめませんので
都度、前後の文脈からどの意味で使用しているのか判断する必要はあるかと思います。

366久保共生:2022/10/28(金) 18:25:27
>>363
こちらの主張が伝わっていないと思われるので、もう一度説明いたします。
僕が間違いだと指摘している箇所をもう一度引用しておきます。

しかし、仮に「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題を
生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より
生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一である訳ですから、生きているからといって
必ず幸福と感じるとは限りません。(>>357より)

nobunagさんは、「生きているならば幸福と感じる事が出来る」という文を「生きているならば必ず幸福と感じている」という事になると解釈していますが、両者は全く異なる命題ですよね。
もう少しわかりやすい例に置き換えると、

A:「20歳以上の人ならば煙草を吸うことができる」
B:「20歳以上の人ならば必ず煙草を吸う」

は全く違う命題ですよね。(Aは真で、Bは偽でしょう)
議論の途中で命題の内容をすり替えているので、間違いだと言っているのです。

367久保共生:2022/10/28(金) 18:26:55
>>364
>「限りにおいて」と「限り」って同じように扱っていいのでしょうか?

少なくとも、岩波訳では同じように扱っています。
その証拠となるのが、第四部の定理32です。
定理32は「人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致するとは言われえない。」と書かれています。
しかし一方で、その証明の最後の結論文を見ると、「このゆえに人間は受動に従属する限り本性上一致するとは言われえない。」となっています。
定理の主張とその証明の結論の意味が違うわけはないので、少なくとも岩波訳においては、「限りにおいて」と「限り」は同じ意味を表すものと理解しなければならないはずです。

ムラタさんの挙げておられる、命題B「xが素数である限りにおいて、xは自然数である。」という例についても言及しておきます。
ムラタさんは命題Bを「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」と解釈されていますが、おそらく「のみ」という条件を付けて解釈してはダメなのではないでしょうか。
すなわち単に、「xが素数である場合、xは自然数である。」と解釈すべきなのだと思います。
一方、「xがただ素数である限りにおいてのみ、xは自然数である。」という表現であれば、「xがただ素数である場合のみ、xは自然数である。」と解釈してよいと思います。

ムラタさんが感じておられる違和感は僕もなんとなく分かりますが、これはおそらく日本語という言語の脆弱性によるものではないかと思います。
実際、数学では「限りにおいて」などという論理構造が不明瞭な表現は用いられないですし。

368久保共生:2022/10/28(金) 18:41:39
第四部定理32についてもう一点。
もしもnobunagさんの説が正しければ、
定理32「人間は受動に従属する限りにおいては本性上一致するとは言われえない。」は、
「本性上一致すると言われない⇒受動である」と解釈されるはずです。
ところが証明の内容を見ると、

ある物が本性上たがいに一致すると言われる場合、それは(中略)受動の点で一致するという意味ではない。

と書かれています。
これは明らかに「本性上一致すると言われる⇒受動でない」という命題の証明であり、これは
「受動である⇒本性上一致すると言われない」という命題の待遇の証明になっています。

やはり、nobunagさんの説に反して、『エチカ』本文も「Aである限りにおいてBである」を「A⇒B」として取り扱っています。

369久保共生:2022/10/28(金) 20:19:00
>>368
変換ミス

×待遇→〇対偶

370ムラタ:2022/10/29(土) 00:03:23
>>367
確かに岩波訳第4部定理32を読む限り、両者は同じ意味で用いられていますね。
「限りにおいて」という言葉は、
「ただ専らその限りにおいて」という意味と、
「であるなら」という意味を含み持った曖昧な言葉なのかもしれません。
厳密な論理が求められる場面では用いない方がいいのでしょうね。

原文や英訳も参照してみたのですが、
日本語で「限り」「限りにおいて」となっている箇所は、
原文では「quatenus」
英訳では「in so far as」
と区別がつけられていませんでした。

おそらく日本語で「Aである限りBである」あるいは「Aである限りにおいてBである」と訳されている箇所は、「A⇒B」という意味あいで書かれていて、「A⇔B」という意味を強調したい場合のみ定理35のように「Aである限り、ただその限りにおいてBである」(英訳では「in so far only as〜」とonlyが入っていて、原文でも「eatenus tantum」という限定の強調があった)という表現をしているのだと思います。

371久保共生:2022/10/29(土) 01:09:15
>>370
詳細な情報ありがとうございます。
その解釈で僕も異論ありません。

372nobunag:2022/10/29(土) 09:17:10
ムラタ様
>>370
詳細な情報ありがとうございます。
原文で区別がつけられていない以上
「限り」と「限りにおいて」は同じ意味と判断する必要がありますね。
翻訳者がどのような意図をもって、両者を使い分けて訳したのかは引っかかる所ではありますが、ムラタ様の考えに全面的に同意します。

久保共生様
>>366
議論の途中で命題の内容をすり替えているので、間違いだと言っているのです。

>ご指摘ありがとうございます。

私が「Aである限りにおいてBである。」という命題を
B→Aと謝った論理式で示していた原因は
「Aである限りにおいてBである(事が出来る)」あるいは
「Aである限りにおいてBである(事が可能である)」と過剰な読み込みをしてしまい
AはBが成立する為に必要な条件として解釈していた事に気づきました。

ご指摘頂いた通り
①Aである限りにおいてBである
という命題は
A→Bとなりますが
②Aである限りにおいてBである事が出来る(可能である)
という命題は、Aが肯定された場合、Bが必ず肯定される訳ではないので
A→Bとはなりませんが
Bが肯定された場合、Aが必然的に肯定される事になりますから
B→Aとなりますので
①と②の命題はまったく意味が異なりますが
私は①の命題をすべて②に解釈していたという事になります。

以上まとめるとエチカを読む際は

Aである限りBである。
Aである限りにおいてBである
A→B

Aである限りにおいてBである事が可能である
Aである限りにおいてBとなる事が出来る
B→A

Aである、ただその限りにおいてBである
A⇔B

という事でよろしいでしょうか。

373久保共生:2022/10/29(土) 10:56:45
>>372
>Aである限りにおいてBである事が可能である
Aである限りにおいてBとなる事が出来る
B→A
という事でよろしいでしょうか。

一般には成り立たないと思います。
「人間である限り、死ぬことが可能である。」は真ですが、
「死ぬ⇒人間である」は偽になりますから。

374ムラタ:2022/10/29(土) 15:25:01
それにしても中公クラシックスの第4部定理35の訳はひどいと言わざるを得ません。どうして「ただその限りにおいて(eatenus tantum)」という重要な箇所を訳出しないで省略してしまったのでしょうか。おそらくその重要度が分からないで何となくくどいように見えたから省略したんでしょうが。
これを省略してしまうと定理40証明一文目の根拠としては成り立たなくなってしまうのだから、必ず訳出する必要があったでしょう。些細な表現の間違いなどは大して気にはなりませんが、論理的に全く成り立たなくなるような訳出ミスは勘弁してもらいたいものです。

375nobunag:2022/10/30(日) 09:26:48
373>>
一般には成り立たないと思います。
「人間である限り、死ぬことが可能である。」は真ですが、
「死ぬ⇒人間である」は偽になりますから。

>ありがとうございます。
確かに「Aである限りBである」という命題が真ならば
「Aである限りBである事が可能である」という命題も真である
と言えますね。
もちろん厳密な理論を構築する際は、わざわざその様な言い回しはしないでしょうが。
ポイントは、可能的なものを、必然的なものとするのは偽ですが
必然的なものを可能的なものにしても問題ないのは
スピノザが言う様に、可能性とは、その存在を必然的に定立させているものの無知により生ずるものなのだからでしょうね。
必然的に存在するものでも、その存在を定立させているものについて知らなければ、私たちは可能的なものとして認識してしまう。

376ムラタ:2022/11/23(水) 13:48:25
本日の Google Meetになります。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/dob-xxnv-qig

377ムラタ:2022/11/23(水) 19:03:56
次回の詳細です。

日時:12月25日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理51 〜 定理60 (中公クラシックス p.367〜382)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
12月25日 (日)
1月22日 (日)
2月26日 (日)

378久保共生:2022/12/27(火) 22:42:19
次回の詳細です。

日時:1月22日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理58 〜 定理67 (中公クラシックス p.376〜390)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
1月22日 (日)
2月26日 (日)

379ムラタ:2023/01/22(日) 13:48:42
本日の読書会はこちらです。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/izm-pkxe-dpp

380ムラタ:2023/01/22(日) 19:17:48
次回の詳細です。

日時:2月26日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第4部 定理64 〜 第5部 序文
※第4部付録は除く
(中公クラシックス p.386〜419)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
2月26日 (日)
3月21日 (日)
4月29日(日)

381ムラタ:2023/01/22(日) 21:32:43
『エチカ』の次のテキストについて、ここで議論できたらと思います。
現メンバー以外の方も是非。
とりあえず本日話題に挙がったのは
・デカルト的省察
・ライプニッツの著作
・論理哲学論考
・和辻哲郎の著作
・純粋理性批判

あたりでしょうか。

どれも面白そうではありますが、個人的には『論考』と『純理』がやや相対的に興味が強いです。

382ムラタ:2023/02/26(日) 13:49:12
今回のオンライン配信はこちらです。
先頭にhをつけて下さい。
ttps://meet.google.com/pyr-gouu-yyt

383ムラタ:2023/02/26(日) 20:40:14
次回の詳細です。

日時:3月21日 (火・祝) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 序文(デカルトも〜) 〜 第5部 定理10
(中公クラシックス p.414〜432)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
3月21日 (火・祝)
4月29日(日)

384ムラタ:2023/02/26(日) 20:56:39
『エチカ』の次のテキストとして『哲学探究』がその候補の筆頭に上がっており、ほぼ決定となりかけております。
現在『哲学探究』の邦訳としては、
全集の藤本訳、岩波の丘沢訳、講談社の鬼界訳、産業図書(?)の黒崎訳
があるようです。
手に入りやすさと本のサイズの読みやすさから丘沢訳か鬼界訳が良いかと考えていましたが、アマゾンのレビューをざっと読む限り、丘沢訳は酷評されておりました。

どの訳が良いのでしょうかね?

385久保共生:2023/02/26(日) 23:21:50
丘沢氏は、専門が哲学ではなくドイツ文学者だそうですし、アマゾンレビューで翻訳を比較しているものを見る限り、結構問題がありそうな訳に思いました。
鬼界氏の訳については、現段階では優れたものかどうか判断できませんが、相当ウィトゲンシュタインの研究をされているようなので、少なくとも訳者の無理解にうんざりさせられるようなことはないはずだと思います。
やはり鬼界訳が無難なのではないでしょうか?

386ムラタ:2023/03/21(火) 13:52:23
今回のオンライン配信はこちら。
先頭にhをつけてください。
ttps://meet.google.com/iut-maee-mue

387ムラタ:2023/03/21(火) 19:39:48
次回の詳細です。

日時:4月29日 (日) 14時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理5 〜定理20
(中公クラシックス p.424〜441)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
5月28日 (日)
6月25日 (日)

388ムラタ:2023/04/26(水) 15:19:28
>>387の訂正です。

誤・4月29日(日)
正・4月29日(土・祝)

389ムラタ:2023/04/29(土) 13:48:56
本日のGoogle meetはこちらです。
先頭にhをつけてください。
ttps://meet.google.com/mfo-ghrb-eaz

390ムラタ:2023/04/29(土) 19:33:05
次回の詳細です。

日時:5月28日 (日) 13時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理14 〜定理29
(中公クラシックス p.433〜448)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
6月25日 (日)

※次回から開始時刻が13時からとなります。お間違えなきよう。

391ムラタ:2023/05/28(日) 12:54:48
本日のGoogle Meetはこちらです。
ttps://meet.google.com/jaj-nqns-ffk

392ムラタ:2023/05/28(日) 21:09:30
次回の詳細です。

日時:6月25日 (日) 13時から17時
集合場所:浪速区民センター 
範囲:第5部 定理30 〜定理42
(中公クラシックス p.448〜463)
会場費1560円を参加者で等分して負担
オンライン参加者は無料、オブザーバーも歓迎

今後の予定
7月23日 (日)
8月27日 (日)

393かわべ:2023/06/09(金) 23:21:35
6/25 参加希望します。急用発生の際はごめんなさい

394久保共生:2023/06/10(土) 00:53:27
かわべさん、お久しぶりです。

歓迎いたします!
テキストはお持ちでしょうか?
一応、中公クラシックスの訳をメインで使っていますが、他の訳でも大丈夫です。
あるいはもしテキストをお持ちでないならば、当日に範囲のコピーをお渡しするという形でも構いません。

395かわべ:2023/06/12(月) 09:18:46
こんにちわ 久保さん 中公はアマゾンで買いました

396かわべ:2023/06/12(月) 12:46:46
残念ながら・・・仕事の関係で行けなくなりました。またの機会に参加したいと思います

397久保共生:2023/06/13(火) 22:39:12
かわべさん、それは残念です。
実は『エチカ』読書会は次回で最終回の予定で、次々回からはウィトゲンシュタインの『哲学探究』を扱う予定です。
またご興味があれば、連絡ください。

398おぐす:2023/06/25(日) 10:47:43
本日、所用のため遅れて参加します。

399ムラタ:2023/06/25(日) 10:49:27
おぐすさん
承知いたしました。

400ムラタ:2023/06/25(日) 12:54:22
本日のGoogle meetはこちらです。
ttps://meet.google.com/zii-ahrz-uwb
先頭にhをつけて下さい。


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