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スピノザ『エチカ』読書会

138横山信幸:2019/09/26(木) 20:51:45
>>134
これはまた、僕の表現のまずさのために不要な混乱を招いてしまいました。ご迷惑をお掛けしてすみません。
可能無限が決定論と両立できないとは限らないと僕が考えている理由を説明します。またさらにまずい説明をして、いよいよぐだぐたにしてしまうかもしれませんが、そこは大目に見てください。



野矢茂樹「無限論の教室」では、
実無限を土中から化石を発掘することに例えていて、
可能無限を木材から像を切り出すことに例えていたと思います。(細かいところは違ってたかも知れません。)
ここで、掘り出し切り出す作業は、数値化などの人間による分析作業を比喩します。

つまり、
実無限では掘り出されるべき分析結果が最初から決定しているとするのに対して、
可能無限ではそこにある素材ははじめから決定しているのだけれども、そこから切り出される分析結果は人間の分析方法や分析能力に左右されるものであるから、分析される以前に決定しているものではないとします。



スピノザの世界における実体が木材であるとしてみると、それは切り出されることなどなくても世界がどんなであるかを完全に決定しているものだと言える。
でも、人間が、そこにある世界が何者かを知るためにはそれを自らの言語というナイフで切り刻み、人間が理解できるような意味を切り出す必要がある。ところが人間は己のナイフの分析可能性をはじめから無限に知っているわけではないので、実際に切り出されるまではそこに何者が切り出されるのかが決定しているわけではない。
というイメージで考えるわけです。

「実体」は、決定論的に、はじめからしっかりと固定的なものとして存在してるのだけれども、それを認識し分析するナイフとしてのアイテム「様態」の切り方は必ずしも事前に決定されてないかも知れず、分析されてみて初めてはっきりするだけである。

というように、可能無限とスピノザの世界がとてもしっくりするようにイメージできると思えました。

そんな感じで、僕はスピノザの世界を決定論として捉え、その決定論と可能無限とがとても馴染むものだと考えたのです。


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