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スピノザ『エチカ』読書会

1ムラタ:2019/04/22(月) 22:16:33
6月23日(日)よりスピノザ『エチカ』の読書会を新たにはじめることになりました。
新規参加者を募集します。
参加希望者はこの掲示板に書き込むか、久保またはムラタに連絡を下さい。大阪哲学同好会以外の方であっても、どなたでも歓迎いたします。

テキストは中公クラシックスの翻訳『エティカ』(工藤・斎藤訳)を標準のものとして使用しますが、どうしてもこの訳本でなければならないというわけではありません。
第一回の範囲は第一部のはじめから定理15まで(P3〜34)です。
各自読んだ上で参加されることが推奨されます。

日時:6月23日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部最初〜定理15(p3〜34)
会場費1000円を参加者で等分して負担

2ウラサキ:2019/04/23(火) 08:07:15
参加希望致します。

3ムラタ:2019/04/23(火) 22:16:44
了解です、ウラサキさん

4久保共生:2019/04/23(火) 23:28:17
ムラタさん、スレッド立てていただいてありがとうございます。
ウラサキさん、今後ともよろしくお願いします。

範囲に関して一点補足しておくと、定理15の後の、やや長めの注解も範囲に含みます。
よろしくお願いします。

5ムラタ:2019/04/28(日) 20:59:54
GWに入って本格的に『エティカ』を読み始めたけれど、予想していた以上に面白い。
第一部「神について」を読んで、ヘッセの『シッダールダ』でとても印象に残っていた一文を思い出しました。

「この石は石である。動物でもあり、神でもあり、仏陀でもある。私がこれをたっとび愛するのは、これがいつかあれやこれやになり得るだろうからではなく、ずっと前からそして常に一切であるからだ。」(新潮・高橋健二訳)

スピノザが「神」と表現しているのは、言い方は違うかもしれないけれど、古来賢者たちが洞察していたものと根本においては共通したところがあるのかもしれません。

6則天去私:2019/05/06(月) 07:23:42
まだ変更の可能性はありますが、参加する予定です。

7久保共生:2019/05/06(月) 16:25:29
則天去私さん

歓迎いたします。
もし参加されるなら、当日13時50分くらいに出来島駅の改札前でお待ちください。
会場まで案内します。

8横山:2019/05/10(金) 22:24:41
第1回6.23に参加させてください。

2回目以降はこの掲示板での質問させてもらうだけの参加しかできないかもしれませんが、それを有効なものにするためにも1回目は是非とも参加したいと思ってました。
それが、なんとかなりそうです。

よろしくお願いします。

9久保共生:2019/05/10(金) 23:19:22
横山さん、参加歓迎します。
会場まで案内しますので、当日13時50分くらいに出来島駅の改札前でお待ちください。
楽しみにしています。

10則天去私:2019/05/12(日) 05:12:13
いろいろ考えたのですが、6月のエチカ読書会に参加するのは無理があります。

11則天去私:2019/05/12(日) 06:24:24
エチカ読書会を、どれくらいの頻度で開催するかにもよりますが。

12則天去私:2019/05/12(日) 07:22:49
実は今月、追突事故を起こしたので、疲れに対して慎重になっているんです。

13ウラサキ:2019/05/12(日) 07:40:05
則天去私さん、

読書会は大体月一回の開催になると思います。
遠距離で交通費もかかるとの事ですし、あまり無理をなさらず、
掲示板上で参加して頂いたらどうでしょうか?

14則天去私:2019/05/12(日) 19:07:06
うらさきさん
ありがとうございます。検討してみます。

15則天去私:2019/05/12(日) 20:05:28
エチカの指定箇所を、岩波文庫版で読んでみましたが、かなり難しいです。かろうじて、神が実体であることはわかりました。

16則天去私:2019/05/12(日) 20:06:55
そういえば、ドゥンス・スコトゥスも幾何学で哲学しているらしいですね。

17野口:2019/05/19(日) 23:03:20
「エチカ」読書会楽しみにしております。
しかし、6月19日から7月11日まで予定が入っています。
そこで、第一回目は残念ながら出席できません。第二回目以降からの出席を希望します。
よろしくお願いいたします。

18ムラタ:2019/05/20(月) 09:06:02
野口さん

了解致しました

19久保共生:2019/05/20(月) 18:16:31
野口さん

こちらこそ楽しみにしています。
第二回の日程と範囲は、第一回終了後にここに書き込みますので、よろしくお願いします。

20野口:2019/05/21(火) 00:28:25
ありがとうございます。

21横山:2019/05/22(水) 00:06:05
「エティカ」の読みで気になるところを挙げていっても良いでしょうか?
もし分かるところがあれば教えてもらえるとありがたいです。

第一部の最初ページの
「定義3、実体とは、それ自身のうちに在り」(岩波文庫p37)
「公理1、すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、」(同p39)
の、「それ自身のうちに在る」ってどういうことを言ってるのか?

「定義7、・・一定の様式において存在し作用するように他から決定されるものは必然的である」(同p38)
の《必然》の定義と、
同じ「定義7」の「自己の本性の必然性のみによって存在し自己自身のみによって行動に決定されるものは自由」の《必然》や
「定義8」の「存在が永遠なるものの定義から必然的に出てくると」の《必然》は、
一義ではないように思われる。《必然》には(わざわざ定義されているのに)二つの意味が使い分けられてると考えて良いのか?

22横山:2019/05/22(水) 06:57:13
「それ自身のうちに在る」は、

例えば、
「この赤い何か」は、ここにそれが在るということ自体がその「赤い何か」の存在となるから、それ自身のうちに在るものと言える。
けれど、
「赤い」については、何かの赤い存在者が在ったとしてもそれは「赤い」そのものがあるのじゃないから、それ自身のうちに在るものとは言えない。

ってそんな感じでしょうか?

23則天去私:2019/05/22(水) 07:17:44
横山さん
すごいですね。僕にはその発想は全くなかったです。スピノザは幾何学の方法を使いながら、厳密には成功してないわけですね。

24久保共生:2019/05/22(水) 18:12:19
横山さん

「それ自身のうちに在る」というのは、「他に依存しないで存在している」、「独立自存している」くらいの意味で僕は解釈しました。
ちなみに、中公版では次のように訳されています。

定義三 実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。いいかえれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。

「必然」についてですが、横山さんは具体的にどのような意味の違いがあるとお考えですか?
今読んでいる感じでは、スピノザに「必然」の意味を意識的に使い分けようとする意図はないように思われます。
むしろ彼に言わせれば、全て神の必然性ということになるのではないでしょうか。

25横山:2019/05/22(水) 19:32:23
久保さん、
ありがとうございます。


「それ自身のうちに在る」は「独立自存」。なるほど、です。
中公の訳を聞くと、大分分かりました。


「必然」も中公の訳を見るとすっきりするのかも。

岩波文庫の「定義7」はこう書かれてます。
「自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定される、ものは必然である、あるいはむしろ強制されると言われる。」(p38)

この文のなかで2ヶ所「必然」が出てきてます。

前者は、「自己の本性」の「(一般的な意味での)必然性」(つまり、自己の本性の、それ以外ではあり得なさ)について語られているように見えます。

一方、後者は、「ある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるもの」が「必然」や「強制」の定義(つまり「他から決定されて必ずそうであるもの」とされる)だと言っているように見えます。

これは、「定義」の話なので、他から決定されるもの以外の必然はここでは必然と見なさないと、されているようにも見えます。

それで、どうも変だなあ、と思っている次第です。
これも中公の訳を見ればそんな変な話ではないのでしょうか。

26ムラタ:2019/05/22(水) 19:33:30
横山さん

ご承知のように、公理1については、

それ自身のうちにある存在=「神(実体)」
他のうちにある存在=「非神(様態)」

という構造をしているのでしょう。

つまり、「それ自身のうちにある」というのは絶対無限であり自己原因である神の性質を言い表したものになるのだと思います。ちょっと形而上学的、我々の経験を超えたような存在のようにも思えますね。

27ムラタ:2019/05/22(水) 19:54:26
>>25
横山さん

中公の定義7は以下のように書かれています。

「自由といわれるものは、みずからの本性の必然性によってのみ存在し、それ自身の本性によってのみ活動するように決定されるものである。だがこれに反して、必然的あるいはむしろ強制されているといわれるものは、一定の仕方で存在し、作用するように他のものによって決定されるものである」

一文目の「必然」は神についての「必然」であり、二文目の「必然」は有限な存在者に関する「必然」ということになるでしょう。

二文目で「必然」という言葉を、むしろ「強制」なのだと言い換えていますが、必然性というものは有限的存在者の性格を表したものではなく、無限な存在者の性格を言い表すものだとしたいというところにスピノザは重きを置きたいのではないでしょうか。
中公の注に書かれているのですが、常識的には「自由」の反対語として「必然」があるのですが、むしろスピノザは「自由」と「必然」を同様のものとしてくくり、それらの反対語を「強制」としているというわけです。

28ムラタ:2019/05/22(水) 21:01:53
簡単に言うと
必然に逆らうのが自由なのではなく、
必然に従うのが自由だといいたいのでしょう。
則天去私のような境地。

神=実体との離反は自由でなく
むしろ神=実体にありつつそれに即して必然的にあるありかたこそ自由だと言いたいのでは。

29横山:2019/05/22(水) 21:12:20
>>26

ムラタさん、ありがとうございます。

「それ自身にある存在」というは、例えば、語「ウマ」でもって種「ウマ」であるところのすべての個体を指示するような感じの外延的指示で、個物に到達する感じなのかなぁと、だから、それは無限の指示を求めることになり、すなわち「神」による指示だということになるのかなぁと、

「他のうちにある存在」というのは、例えば、語「ウマ」でもって種「ウマ」を他の生物種(ウシとかシカなど)から分類する区分方法にしたがって指示する感じの内包的指示で、個物に達しない感じなのかなぁと、なので、それは有限の指示で済んでしまうので単なる「被造物」による指示だということになるのかなぁと、

そんな感じで考えたのですが、無限の神と有限の被造物の関係って、そんな理解で大丈夫でしょうか?

30横山:2019/05/22(水) 21:18:17
>>28
ありがとうございます。

「強制」が「自由」対立するものとして「定義」されているのであって、「必然」は「自由」と対立するものとして「定義」されているわけではない、と読み下せば良いということですか。

ここのところは、訳の悪さではなく、スピノザの書きようの曖昧さがあるのですかね。

31ムラタ:2019/05/22(水) 21:42:01
>>29
「それ自身のうちにある存在」というのは、僕のイメージでは「ウマ」のようなある概念というよりは、神であり、実体であり、自然であり、無限の存在であるというイメージなのですが。
「無限なるすべて」というイメージ。

違うかもしれません。

32横山:2019/05/22(水) 22:05:22
>>31
ムラタさん、
その感覚、わかる気もします。
ですが、

「定理11、神、あるいはおのおのが永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する」(岩波p47)
について証明がわざわざされてあります。
もし、実体が即ち神なのであれば、
「定理7、実体の本性には存在することが属する」
でもってすでに神の存在が言えていることになるので、証明の必要はないような気がします。
わざわざ「おのおのが永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」の存在の証明をしてるってことは、単なる「実体」と「おのおのが永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」は別のものだと考えているように思われるのです。

33ムラタ:2019/05/22(水) 22:28:19
>>32
横山さん

僕は神を完全に実体と等しいものだと考えていました。

というのも、例えば定理14に
「神以外にはいかなる実体も存在しえないし、また考えることもできない」

と記述されているからです。

なので、
「実体」=「おのおのが永遠無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体」
ということになるのではないでしょうか?

34横山:2019/05/22(水) 23:08:50
>>33
ムラタさん、ありがとうございます。

ホントだ。ホントですね。
「神の他にはいかなる実体も存し得ずまた考えられない」とされてました。
すべての実体は神なのですね。

ならば、

すべての個物を指示してしまうような「すべてのウマ」とか、「ここにあるこのリンゴ」などという、個物としての存在はどうなるのでしょうか?

それは神の部分とされ得るのでしょうか?でも神は分割不可能なのですよね。
あるいは、それは単なる「様態」でしかないものなのでしょうか?

35ムラタ:2019/05/22(水) 23:23:46
>>34
横山さん


>すべての個物を指示してしまうような「すべてのウマ」とか、「ここにあるこのリンゴ」などという、個物としての存在はどうなるのでしょうか?
>それは神の部分とされ得るのでしょうか?でも神は分割不可能なのですよね。
>あるいは、それは単なる「様態」でしかないものなのでしょうか?

個物としての存在は、神から分割されたある別の存在というより、神によって産み落とされた神の「変様」ということになるかと思います。
神(実体)と個物的存在の関係は、例えば、海と波の関係にも似たものでしょう。
波は海から生み出され、かつ海でもある存在です。
いわゆる汎神論ですね。

36ムラタ:2019/05/22(水) 23:34:25
ちなみに>>35の海と波の比喩は中公の注に書いていたことで、僕の独創ではありません。

37久保共生:2019/05/22(水) 23:57:31
僕の今のところのイメージでは、神≒世界そのものです。
そう理解すると腑に落ちる部分が多いです。

神は唯一の実体であって、絶対無限、すなわちその外部を考えることが不可能なもの。
すべては神のうちに在り、その中に存在する個物は神の変容的様態である。

神を世界に変えても意味が通じるように思います。

38横山:2019/05/23(木) 00:04:33
>>34
ムラタさん、ありがとうございます。
その海と波という表現、良いですね。ちょっとだけ解ったかもしれません。
それって次のようなイメージで良いのでしょうか?すなわち、

世界のあらゆる実体は神であってそれは分割されない一つである。
なので、
実在のウマもリンゴも個物として存在するものはすべては神でもある。
それは、宇宙や現象的世界などあらゆる世界においての最終的で絶対的な物理法則を統一的に網羅してしまうようなものとして存在するものである。
だから、それがそこにウマとして存在していたとすれば、ウマという様相としての存在だと言えるかもしれないが、それはたまたま偶然的にもった「ウマ」の様態であるわけではない。
それはその状況における必然的な様相としてそのような現れになっているものであって、それは偶然的にウマであるわけではないのだ。
またそれは、その意味では神の一部であると言っても良いかもしれないが、それは神という存在において本質的に別の物として存在するという意味での「部分」ではない。
神そのものとして、そこに存在し、必然的に変様した姿を現したのとなっている。

そんな、感じですかね。
これであってたら安心なのですが。

39久保共生:2019/05/23(木) 00:06:19
>>25
必然、強制については、岩波版にも訳注で次のような解説が載っていて、結構参考になりますよ。

自由と必然とは一応対立概念をなしているが、必然が自己の内部の法則によるものであるときは自由と必然はむしろ合致する。この点から見て自由に対立するものは必然よりもむしろ強制なのである。

どうも、必然にも色々な様態があって、或る時にはそれが自由であり、或る時にはそれが強制になる、ということなのではないでしょうか。

40横山:2019/05/23(木) 00:08:38
>>34

最終的で絶対的な物理法則を統一的に網羅してしまうようなものとして

のところ

最終的で絶対的な物理法則・自然法則・現象的法則を統一的に網羅してしまうようなものとして

ぐらいに大きく広げて言ったほうがよかったかもしれません。

41横山:2019/05/23(木) 00:11:14
>>39
久保さん、ありがとうございます。
その注を読んでませんでした。

やっぱり、
自由と必然は対立しないのですね。
すっきりしました。

42横山:2019/05/23(木) 00:14:30
>>35
(すいません。返信の数字間違えちゃったので、同じようなもの繰り返します。たいへん失礼して申し訳ありません)

ムラタさん、ありがとうございます。
その海と波という表現、良いですね。ちょっとだけ解ったかもしれません。
それって次のようなイメージで良いのでしょうか?すなわち、

世界のあらゆる実体は神であってそれは分割されない一つである。
なので、
実在のウマもリンゴも個物として存在するものはすべては神でもある。
それは、宇宙や現象的世界などあらゆる世界においての最終的で絶対的な物理法則・自然法則・現象的法則を統一的に網羅してしまうようなものとして存在するものである。
だから、それがそこにウマとして存在していたとすれば、ウマという様相としての存在だと言えるかもしれないが、それはたまたま偶然的にもった「ウマ」の様態であるわけではない。
それはその状況における必然的な様相としてそのような現れになっているものであって、それは偶然的にウマであるわけではないのだ。
またそれは、その意味では神の一部であると言っても良いかもしれないが、それは神という存在において本質的に別の物として存在するという意味での「部分」ではない。
神そのものとして、そこに存在し、必然的に変様した姿を現したのとなっている。

そんな、感じですかね。
これであってたら安心なのですが。

43久保共生:2019/05/23(木) 00:16:41
>>38
僕もほぼ同じイメージで理解しています。

44ムラタ:2019/05/23(木) 00:29:46
>>42
横山さん

ちょっと読解できなかった部分もありましたが、僕の考えと大して相違ないように思われました。

45横山:2019/05/23(木) 00:31:51
>>43
ありがとうございます。

46横山:2019/05/23(木) 00:32:23
>>44
ありがとうございました。

47則天去私:2019/05/23(木) 18:12:09
かなり穿った疑問なのですが、一読して指定箇所の詳しい読解はよくわからないが、エチカが神から始まるのは、以下の全ての内容が神から必然的に流出するからで、神のみが実体、ということでしょうか?

48ムラタ:2019/05/23(木) 21:47:10
>>47
則天去私さん

友人に宛てた書簡(1665年)にも書かれているようですが、『エチカ』が神についての話から始まっているのは、倫理学の基礎づけとして汎神論の哲学的理論がどうしても必要であったからでしょう。

49横山:2019/05/23(木) 22:15:42
昨日の時点では、スピノザの実体が少しわかった気になってたのですが、今日になるとやっぱり分からないです。

定理17の備考の後ろの方で、
「物質はいたるところで同一であってその部分は物質がいろんなふうに変状すると考えられる限りにおいてのみ区別されるのであり、したがってその部分は様態的にのみ区別されて実在的には区別されない・・例えば水は水である限りにおいて分割されまたその部分は分離されると我々は考える。しかしそれが物体的実体たる限りにおいてそうではない。その限りにおいては水は分離されも分割されもしない・・水は水として生じかつ滅する。しかし実体としては生じることも滅することもない」(岩波p58)

この辺りを読むと、様態としてとらえられたときの世界の対象と、実体としてとらえられたときの世界の対象とは、同じものでありながら、まったく別の世界記述だとするべきように思われます。

例えて言えば、「非常口表示マークの緑の人は扉の外に出られる」という言い方も、「出られない」という言い方も、「出られるも出られないもない」という言い方も、それぞれあるのだけれど、そこで示される「出られる世界」と「出られない世界」と「どちらもない世界」は別の世界になってしまいます。

なんか、スピノザの実体と様態の関係がそれに似てる気がするのです。

つまり、「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

もし、そうであるなら、
実体としての世界を語るとき我々は、世界を現実にここに実存する個物として捉えられるかもしれませんが、分析不可能なものでしかないことにならないでしょうか?
また、様態として世界を語るときは分析して捉えられた世界を手にできるかもしれませんが、現実に実存する個物とは無縁の世界でしかないものにならないでしょうか?

なんか、量子力学の不確定原理みたいな、こちらを立てればあちらが立たず、あちらを立てればこちらが立たず的なつかみどころのなさを感じてしまい、どうも分からなくなってしまいました。

スピノザの世界観って、そんな感じのものなのでしょうか。それとも、僕の勘違いでしょうか。

50久保共生:2019/05/23(木) 22:52:46
おそらく、定理15の備考ではないでしょうか?

51ムラタ:2019/05/23(木) 22:55:59
>>49
横山さん

>この辺りを読むと、様態としてとらえられたときの世界の対象と、実体としてとらえられたときの世界の対象とは、同じものでありながら、まったく別の世界記述だとするべきように思われます。

その通りだと思います。
スピノザは第2部以降において、認識を
第一の認識・・・想像知
第二の認識・・・理性
第三の認識・・・直観知
と区別しています。

理性によって導かれ、ある個物を神(実体)の変容(かぎりの神)だとみなす認識(第三の認識)を直観知とし、一方、単に対象をそのまま認識(第一の認識)することを想像知だと表現しています。


>つまり、「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

示されているということになるでしょう。

52横山:2019/05/23(木) 23:00:39
>>50
あ、その通りでした。15でした。ありがとうございます。

53横山:2019/05/23(木) 23:02:34
>>51
やっぱりそうなのですね。
ありがとうございます。分かりました。

でも、なあんだ、って感じでちょっとつまらない気もします。

54久保共生:2019/05/23(木) 23:24:47
なんといっても第二部がやたらと難しいので、僕もよくわかっているわけではないのですが、

>「実体は分割され得ない」と言われるときに語られる世界と「様態としての物質は分割され得る」と言われるときに語られる世界とでは、別の世界が示されていることにならないでしょうか。

というのはどうなんでしょう?
世界はあくまで一つの実体と見るべきで、別の世界など考えられないと思うのですが。
ただし、一つの世界に対する別様の世界記述、認識様態というのは考えられるとは思います。

55ムラタ:2019/05/24(金) 00:31:05
>>54
久保君

正しく解釈できているのか甚だ怪しいのですが、久保君の主張は、
「個物(世界の対象)に関してはそれを神(実体)の様態と認識したり(直観知)、そうじゃないふうに、つまり単に認識したり(想像知)ということがありえるけれど、世界に関しては、それは実体としてしか考えることはできない」ということなんでしょうか?

もしそうなら、「世界」という言葉の意味が問題になってきそうです。

56久保共生:2019/05/24(金) 00:47:47
僕は、今のところ、世界そのもの≒神と解釈しています。

57ムラタ:2019/05/24(金) 01:25:01
なるほど、そのように世界という語を解釈するなら納得です。
世界≒神=実体なのだから
世界が非実体(様態)であるはずがない。

58横山:2019/05/24(金) 08:32:26
「実体と様態が別の世界」という僕の問題提起の言い方がイマイチだったような気がします。

僕が問題にしたかったのは、

眼前にあるリンゴをリンゴだと分析して捉えたいならば、それに対して同時に個物としての捉え方をすることができなくなる、

ってところなのですよね。
でも、スピノザはそれを神の力でもってできるようにしたかったのじゃないのかという気がして仕方ないのですよね。
それで、どうにももやもやしてるのですよね。

59横山:2019/05/24(金) 09:24:47
実体としての世界記述と様態としての世界記述がまったく独立で別のものだと考えたメタファとして、僕は非常口表示の緑の人を挙げましたが、
ムラタさんが紹介してくださったように、海と波の関係であるのなら、まったく独立だと考えるのも、もしかすると違うのかも知れないと、

そんな気もしています

60横山:2019/05/24(金) 13:42:24
それで今度は、場の量子論をメタファとして考えられないかと考えています。

例えば量子論でいうとありとあらゆる電子は全てまったく同じもので、2つの電子に電子a、電子bと名付けることは意味がありません。
なので、ある一つの電子について、それだけを取り出して、その個別の、個物を、語ることは、意味がないはずです。

しかし、そうなのですが、電子の場合、ある一つの電子を取り出してその電子が電子としていかなる様態であるかを語りながら、その個物を語ることができるような気がするのです。
つまり、その一つの電子の様態を語りながらその一つの電子を語ることによって、宇宙に存在するすべての電子の個物を語る、というようなことはできないか、ということです。

もし、それが可能なら、
実体を語る世界記述と様態を語る世界記述が、別なものであることを受け入れながら、様態を語る語り口で個物を語ることが可能になるような、そういう世界モデルがあり得るのじゃないか、って思われるのです。

スピノザはもしかすると、そのような視点で汎神論を考えたのではないかって、その辺りを疑いながらエチカを読み進めたいな、と思ってます。

61ムラタ:2019/05/24(金) 20:31:11
非常口表示の緑の人の話が分かりませんでした。
どうスピノザの議論(定理15の備考の最後)と対応しているでしょうか?

62横山:2019/05/24(金) 21:16:26
>>61
ムラタさん、

定理15備考を、僕は、

同じ対象を二つのしかたで記述するときに、それぞれ正しくその対象の記述でありながら、互いに矛盾することがあって、実体と様態がそれである

という話だと読みました。
そのように読むならば、実体を語る記述と様態を語る記述は、連言として同時に同じ世界を表すことができないもののはずだと考えました。

それが、緑の人について「戸の外へ出る」と「出ない」と「出るも出ないもない」という記述があり得て、それぞれ矛盾しあい、決して連言にならないものになるというところで、
その比喩になるかな、
と考えた。

そういう感じです。

63横山:2019/05/25(土) 16:42:47
また別の疑問。

「定理25.神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、物の本質の帰省原因でもある。
「証明.これを否定するなら、神は物の本質の原因でないことになるので、物の本質は神なしに考えられ得る。しかしこれは不条理。ゆえに神はまた物の本質の原因でもある。」

僕には、この証明において証明されるのは、「神が物の本質の必要条件」ということでしかないように思えます。
「必要条件であること」のみでなく「原因であること」までが証明できたとされているのは、
これが神の話であって、神の話である限りにおいて、その対象は無限であるので、「因果関係」と「相関関係」の違いがなくなってしまうことによるのかなあ。って、
それゆえ、「原因」と「必要条件」が同じになってしまうからなのかなあ。って、

そういう感じで穿っています。

64横山:2019/05/25(土) 16:44:35
>>63
打ち間違い、スミマセン。

物の本質の帰省原因



物の本質の起成原因

65ムラタ:2019/05/26(日) 11:01:14
横山さん


せっかくお答えいただいたのに返信遅れて申し訳ありません。
かなり熟考したのですが、やはり僕の理解を超えているようです。
非常口の緑の人の比喩は、連言が偽となるという共通点があるということだけがかろうじて分かり、その他のことは何も分かりませんでした。

また、>>63の定理25の横山さんの疑問も自分には?です。
もしかして横山さんは「神は物の本質の原因でなく、一因にすぎない」と主張されているのでしょうか。
スピノザは他からの原因を持たない(自己原因)のが神で、持つのは神でないと主張しているのだから、定理25は証明も含めて僕には筋が通っているように読めましたが。

66横山:2019/05/26(日) 12:15:42
>>65

緑の人の話と電子の話になぞらえようとしたのは、結局、
世界の様態としての記述と実体としての記述が、連言で語り得るか否か、
という感じの疑問だったのですが、うまく表現できてなかったです。申し訳ないです。読書会当日に直接そのへんも皆さんにご意見をお聞きできるくらい、説明できるようになってたいと思います。

それから、

定理25の話は、
「証明.・・神が存在しなくても物の本質を考えられ得るが、それは定理15に矛盾する。ゆえに・・」

というのは、
「ゆえに、神がなければ物の本質はない(神は物の本質の必要条件である)。」
の証明でしかなくて、
「ゆえに、神は物の本質の原因である。」
は、言い過ぎじゃなくのか?

ということを疑問に思ったのです。

67横山:2019/06/18(火) 07:25:21
4月のショーペンハウアーに来られていた松本さんが、エチカ#1に参加されるそうです。

68久保共生:2019/06/23(日) 01:15:07
>>67
ごめんなさい。
見落としてました。
了解しました!

69おぐす:2019/06/23(日) 19:55:42
スピノザ「エチカ」読書会1回目。出だしからスピノザの世界に導かれた感じでした。
スピノザとはじっくり向き合いたかったので今後も難解ながら楽しんで読みたい。

次回が7月28日(日)なら文楽前売りチケットの日附と重なっていたので残念です。
参加できなくても個人的にしっかり読んでおきます。

70横山:2019/06/23(日) 23:06:06
ありがとうございました。なかなかハードな時間でした、もう頭痛しそうなくらいでしたがとても面白かったです。

今後はここの掲示板で質問をさせてもらいますのでご意見をもらえたら嬉しいです。よろしくお願いします。

今日の会のなかでも、少し出しましたが、まだ上手く質問にはできない感じのもやもやした疑問を幾つか持ってますので、なんとかそれを伝えられる形にできるようにしたいと思っています。

71ムラタ:2019/06/24(月) 01:34:38
次回の詳細です。

日時:7月28日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理11〜定理17(中公クラシックス p.18〜41)
会場費1000円を参加者で等分して負担

72ウラサキ:2019/06/24(月) 07:39:30
7月27日(土)〜30日(火)京都にて勉強合宿中ですので、次回参加できません。
又、疑問点など、こちらの掲示板にUPさせてもらいます。

73則天去私:2019/06/24(月) 07:53:58
スピノザは実体が分割されないことにこだわっていますが、これは、実体は神しかいないのだから、神は分割出来ないということでしょうか。それでは神を信じない人はどうなるのでしょうか?

74ウラサキ:2019/06/24(月) 10:00:05
則天去私さん、

エチカを読んでいくとわかりますが、
スピノザの「神」はキリスト教の神とはかなり異なった、
いわば「自然の摂理」みたいなもののようです。
むしろ唯物論、機械論に近いと思います。

75ムラタ:2019/06/25(火) 07:16:45
ゲーテの戯曲『ファウスト』にスピノザ的な神を感じさせる美しい一節があるので、参考に載せておきます。
恋人に信仰心を疑われた際、ファウストが返したセリフです。

“神の名を唱えて、自分は神を信ずると告白できる人がいるだろうか。
心に神を感じていながら、自分は神を信じていないなどと果たして言い切れるものだろうか。
すべてを包むもの、すべてを保つもの、その神は君をも私をも自分自身をも包み支えているのではあるまいか。
大空は大きな丸天井を作っているし、大地は足の下にしっかりと横たわっていて、やさしい眼差しで星々が永遠に差昇ってくる。
君と眼と眼を見合わせていると、すべてが君の頭、君の心に押しせまってきて、君のかたわらでは、すべてが見ゆるが如く見えざるが如くに、永遠の神秘のうちに動き働いているではないか。その気分で君の胸をいくらでもふくらませるのがいいのだ。
そうして君がその気持に浸りきって、もう何も言うことがなかったならば、その気持をなんとでも呼べばいいのだ、幸福とも、まごころとも、愛とも、神ともね。
それをなんと呼んでいいか、私にはわからない。
気持が一番大切なのだ。
名など、天の炎を霧のように包み隠す空虚な響き、煙のようなものにすぎない。”
(ゲーテ『ファウスト』マルテの家の庭より、高橋義孝訳)

76おぐす:2019/06/27(木) 13:59:26
ムラタさん

マルガレーテはファウストに貴方は神を信じているのか信じていないのかと問い質し、それ対するファウストの応答の部分ですね。
ファウストは自分は神を信じるとも信じないとも言及せずに、ただ「私の言うことを誤解してはいけないよ」と前置きしてから述べるセリフです。

>すべてを包むもの、すべてを保つもの、その神は君をも私をも自分自身をも包み支えているのではあるまいか。

この辺りがスピノザの説く汎神論的な神の概念と重なっているような文言なのですが、神が「自分(神)自身」をも包み支えている、という部分は、
「エチカ」の冒頭「神について」の定義にある「自己原因」が念頭にあったのかもしれません。

補足ですが、この場面は「罪と罰」のラスコーリニコフとソーニャの鬼気迫る応答の場面を彷彿させますね。役者と雰囲気はずいぶん違いますが。
自らの犯罪を告白する男に対して女は、今すぐ街中の四つ辻に立って大地に接吻し、それから「私は人を殺しました」と大きな声で告げなさいと
迫ります。「そうすれば神様があなたに命を授けてくれます。行きますか?行きますか」

面白いのは、ソーニャはラスコーリニコフにキリスト教会での告白(懺悔)を促してはいないということです。女は教会に行きなさいとは言わない。
大地に接吻せよ、その後で世界にに自分の罪を打ち明けよと告げていることです。

ドストエフスキーの中の汎神論的なロシアのナロード(民衆)が持つ宗教性は、ロシア正教的な観念とない交ぜになったままソーニャの抱く宗教観念
として現れています。

スピノザとゲーテ、スピノザとドストエフスキーの思想的、哲学的な連関はあまり論じられてきませんでしたが、読み深めれば中欧、東欧の神観念も
含めて、興味深い場所であると思います。

77ムラタ:2019/07/01(月) 22:29:54
おぐすさん

おぐすさんに指摘されるまで、僕はドストエフスキーをそんなふうにスピノザと結びつけて読んだことはありませんでしたが、思い返してみると、ドストエフスキーにも定型的なキリスト教を超えた、普遍的な宗教的感情が作品の中に表現されていたように思います。クリスチャンでもない日本人でもドストエフスキーを多数愛読するのは、そういったある特定の宗教を超えた普遍的感情が琴線に触れるというのが、その理由の一つなのかもしれません。
もっとも、僕はスピノザの文学的影響を学的に整理することには何の興味もなく、また力量として不可能でもあり、単純に読んで面白がっているだけですが。


蛇足ですが、去年の夏にラスコーリニコフが大地に接吻したサンクトペテルブルクのセンナヤ広場を訪れました。小説では感動的な場面として描かれていますが、実際目で見たそれは、どこにでもあるような平凡な駅前の広場という感じで、なんだか呆気なかったですが、それと同時に、この何の変哲もない平凡な広場があの偉大な作品につながっているということが、かえってどこか感動的でもありました。これは矛盾したことではないと思います。

78おぐす:2019/07/03(水) 11:04:11
ムラタさん。

おっしゃるようにドストエフスキーの信仰は、カトリックともロシア正教とも異質ですね。
自分は棺を覆われるまで「不信と懐疑の子」だと言いながら「実際に真理がキリストの外にあったとしても、私は真理よりもむしろキリストと共にあることを望む」と述べる時の
ドストエフスキーのキリストは聖書のキリストを逸脱しています。「私はむしろナロード的だ」という宣言は、ロシアの農村共同体の民衆の素朴な大地信仰が背景にあるように思います。

キリスト教は中世を通じてヨーロッパ各地のさまざまな神々を習合しますが、マリア信仰が10世紀以降に異常に普及するのも、民衆の地母信仰とマリアが結びついた結果とも考えられます。
キリスト単独では民衆の信仰の受け皿にならないので、大勢の聖人たちへの信仰をもって多神教の世界に対応したのでしょう。

スピノザの「神即自然」の概念が「エチカ」の中にどのような方法で、どのように表現されているのか。難解な「エチカ」の叙述ですが、自分なりにスピノザの世界を楽しみながら読みたいと
考えています。

79名無しさん:2019/07/20(土) 12:00:36
新しい疑問点

第1部,公理6「真の観念はその対象と一致しなければならない」

第2部,定義4「十全な観念とは、観念が対象との関係を離れてそれ自身において考えられる限り、真の観念のあらゆる特質あるいは内的な特徴をもっている観念のこと」

を合わせてよむと、

「十全な観念とは、対象との関係を離れて考える限りで、対象と一致していると考えられる観念の特質特徴をもっている観念」

となりそうに見えます。

「対象から離れて考える限りで、対象と一致してると考えられるもの」って、意味がわからないです。

80名無しさん:2019/07/20(土) 12:01:08
ごめんなさい。↑横山です

81ムラタ:2019/07/28(日) 07:00:45
胃が少し痛いので今日欠席することにします。
無理したら行けなくもない程度ですが、明日の仕事の影響もあるので。
久保くん、申し訳ないですが、次回の詳細の書き込みお願いします。

82久保共生:2019/07/28(日) 09:21:47
了解しました。
8月の予定を教えてください。

83ムラタ:2019/07/28(日) 10:56:57
久保

8月も残念ながら参加できません。
最終週以外は外国にいるし、最終週も勉強合宿に参加しているので。
僕のことは気にせず8月の予定を組んで下さい。

84ムラタ:2019/07/28(日) 11:20:26
>>83
間違えて呼び捨てになってました。スミマセン

85久保共生:2019/07/28(日) 23:12:02
今日は参加者が、僕と父と前回参加されていなかった野口さんの3人だけになってしまったので、前回の範囲をもう一度読み直しただけで、次には進みませんでした。
ですから、次回は今回予定していた範囲になります。
よろしくお願いします。
以下詳細です。

日時:8月25日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理11〜定理17(中公クラシックス p.18〜41)
会場費1000円を参加者で等分して負担

86久保共生:2019/08/26(月) 20:58:37
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:9月23日(月・祝) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部定理16〜定理29(中公クラシックス p.34〜56)
会場費1000円を参加者で等分して負担

87名無しさん:2019/08/27(火) 10:26:42
久保くん

どうもありがとうございます。

88ムラタ:2019/08/27(火) 10:27:41
↑の書き込みはムラタによるものです。

89則天去私:2019/09/19(木) 13:30:46
該当箇所を読んだら、無限とか永遠とか持続とか存在とか論じてますが、要するに、エチカ全般が神を讃える内容なのでしょうか?

90ウラサキ:2019/09/19(木) 21:12:00
則天去私さん、
17世紀のヨーロッパで神を否定するのは有り得ない選択でしたので、
スピノザは神という名を借りて、極力機械論的世界観を展開したのでは無いでしょうか?
彼の「神」は「自然の摂理」みたいなものです。

91ムラタ:2019/09/22(日) 18:56:26
今回の範囲では、定理21から23が難解だと感じます。
様態化のプロセスを説明した箇所です。直接無限様態、間接無限様態云々。
重要なところだと思うのでなんとか理解したいと思うのですが・・・
定理21の証明の前半は、直接無限様態が有限のものだと仮定すると(背理法の仮定をすると)矛盾すると言いたいのでしょうか。

92則天去私:2019/09/23(月) 17:21:19
うらさきさん
『エチカ』のどの辺りが機械論なのか、僕には読み取れないので教えて頂けませんか?

93ウラサキ:2019/09/23(月) 18:01:03
万物は神の摂理の現れです、ってな所でしょうか。

94横山信幸:2019/09/23(月) 19:06:48
>>91
ムラタさんの問いに対して、まったく見当外れのことを考えているのではないかと心配しながら、書き込んでいます。
ズレたことを言ってしまっていたら、笑って読み流してください。

日本大百科全書の「様態」の説明で次のように書かれています。
「ところでこの属性(本質)と様態(偶有性)との区別はアリストテレスにまでさかのぼるが、中世、近世の哲学でもさまざまに議論されている。たとえばデカルトでは精神と物体が実体とされ、思惟(しい)と延長がおのおのの属性とみなされるとともに、情意、判断、欲求が精神の様態として、また位置、形、運動が物体の様態として考えられている。またスピノザでは神が唯一の実体であり、思惟と延長がその属性であり、それらの変容したもの、すなわち個々の人の心や個々の物体が様態とされている。さらにロックでは、様態は印象や単純観念から合成された複合観念の一種とされている」

つまり、デカルトにおいて、存在は形相的なものと数的なものが一体となったものであった。それに対して、スピノザにおいては、実在的区別は形相的であって数的区別ではないとされ、数的区別は様態的区別であって実在的区別ではないとされる。
このことは、スピノザにおいては、実体が何者であるかを示す本質の形相に関することは形相的区別のみがすべてであり、その実体がいまたまたまどんな状態であるかという様態に関することは様態的区別のみがすべてである、ということを言っていると思います。
この点こそに、デカルトモデルからスピノザモデルへの大転回があるのじゃないかと、そして、スピノザとしては力説したかった部分なのではないかと思います。
つまり、それが今、たまたま気体になっている、たまたま流体になっている、たまたま複数の物に分かれている、たまたまその状態になっている。というようなことを様態的区別として語ることができる。しかし、それをその状態にさせた原因はすべてが無限に必然な形相的本質的において神の下に決定していて、その環境にあったからそれは必然的に気体なのであり、必然的に流体だったのであり、必然的に複数の物としてあったのであり、必然的にそのような状態にあった。というようなことも、同時に形相的区別として語ることもできる。
そして、この世界モデルにおいては、その様態は、神の絶対的本性から必然的に無限なものとして確定されていなければならない。

というような話として、僕は「無限様態の定理」を解釈したのですが、どうなのでしょう。

もしかすると定理21〜23とはまったく無関係なことをまた妄想してしまったかもしれません。

95ムラタ:2019/09/23(月) 20:04:13
次回の詳細です。よろしくお願いします。

日時:10月27日(日) 14時から
集合場所:阪神なんば線 出来島駅近くの教会
範囲:第1部 定理24〜定理36 (中公クラシックス p.48〜68)
※第一部終わりの付録は含みません。
会場費1000円を参加者で等分して負担

96ムラタ:2019/09/23(月) 20:06:03
>>94
横山さん

返信ありがとうございます。
少し考えて返事したいと思います。

97ムラタ:2019/09/23(月) 20:19:31
今回の会の終わりのほうで「無限」という言葉の多義性の話が出ましたが、
家に帰って、ドゥルーズの『スピノザ』を調べてみたら、スピノザがある書簡で「無限」を
次のように3つに区別していたことを知りました。

(1)本性上、限界を持たないもの
(2)その原因ゆえに限界を持たないもの
(3)大小の違いを持ち、その大きさ自身にも最大・最小はあるが、
どんな数をもってしても数では算定することができないもの

そして、スピノザに言わせると

(2)が直接無限様態の無限
(3)が間接無限様態の無限

ということになるようです。

説明が長く全部打つわけにもいかず、
詳しいことを知りたい方は該当箇所を何らかの方法で読んでみてください。

98久保共生:2019/09/23(月) 21:30:14
今回議論になった無限様態なるものの解釈について、考えてみました。
定義6にて、スピノザは、「絶対無限」と「自己の類における無限」とを区別しています。
さらに、定理16の証明にて次のようなことを述べています。

ところで、神の本性は、そのおのおのが自己の類において無限の本質を表現する絶対無限数の属性を持っているから、……

絶対無限数という表現が若干気になりますが、それは不問にするとして、スピノザは「自己の類において無限の本質を表現する属性」と述べています。
とすれば、属性は「自己の類における無限」ということなのでしょう。
僕が思うに、神のみが「絶対無限」であるのに対して、属性、さらには、そこから生じる無限様態も、「自己の類における無限」と理解すべきなのではないでしょうか。(村田さんが書き込んでくださった分類で言うと、(1)が絶対無限、(2)と(3)が自己の類における無限になるのかな?)

99久保共生:2019/09/23(月) 21:53:40
「自己の類における無限」というのをどう解釈するかですが、僕なりに考えを述べれば、「それ自身の本性において限定されないもの」というほどの意味なのでないでしょうか。
例えば、消しゴムという個物は、同じ本性を持つ文房具によって限定されうるので有限であるが、「延長」という属性は同じ本性を持つ他のものに限定されないので、自己の類において無限なのではないか。
また、延長の絶対的本性から生じる運動と静止という直接無限様態も、あるいは、宇宙の総体と理解すべき、延長の「間接無限様態」も、他のものに限定されないという意味では自己の類における無限なのではないでしょうか。

以上の解釈は帰りに読み返していてふと思いついたものなので、確証はありませんが、個人的にはそれなりに腑に落ちるような気がします。
皆さんはいかがでしょうか?

100横山信幸:2019/09/23(月) 22:21:16
無限の話に、参加します。

僕の勝手な解釈イメージでは、
「絶対無限」が「実無限」、「自己の類においてのみ無限なもの」が「可能無限」に当たるもののように思えています。

さらに、僕の勝手なイメージなのですが、
ある対象を「類・種」でもって分析するとき、僕はベン図みたいなもので考えます。そして、個物の対象がそのベン図のなかの要素として「点」で表されるようなイメージを僕は持っています。それは面積のまったくない点なので、面としての「類」からそれを切り出す作業をするのに実無限な情報が必要になります。
しかし、「類」は、それを細かく分析分類を尽くして、それが何者なのかを細かく細かく示そうとしても、どこまでも面としての分類枠でしかないものなので、その作業は「実無限」には到達せず「可能無限」でしかないものになる。

だから、
個物であるところの実体そのものは実無限であるところの「絶対無限」によってその本性を持ち得て、
「自己の類においてのみ無限なもの」は、人が可能無限な分析でもって、世界の様態を分節化することになるのじゃないか。

なので、「自己の類においてのみ無限」はその無限を施した後もさらに新たな無限な様態のあり方を許すものでしかないものになるって感じになるのではないか。

って、そんな捉え方をしています。
やっぱり、自分勝手な偏った捉え方かもしれませんが、久保さんの捉え方とも齟齬なく、捉えることができるようなモデルになってるんじゃないかなぁ、とも思っています。
どうでしょう?


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