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スピノザ『エチカ』読書会

357nobunag:2022/10/27(木) 13:23:29
「Aである限り、Bである。」は、A⇒Bを表し、〜という解釈でよいのでしょうか?

>まず前提として
① P→Qという論理規則は、Pという存在が肯定されたならば、必然的にQという存在も肯定されるという事を示します。
(一般的に分析命題と呼ばれる、主語の意味の内に既に含まれている述語を示す命題等も
主語が肯定されれば主語の内に含まれる述語も肯定される為この形式を取ります。)
例 ソクラテス→人間である

以上を前提とし、「Aである限りにおいてBである。」という命題は、AはBが成り立つ為の条件である、という事が示されています。
従って、Bが肯定されたならば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→A
B→Aの対偶は
¬A→¬Bですから、
Aという現象が生じなければ、必然的にBという現象も生じない。
これは「Aである限りにおいてBという現象が生じるという」という命題なので当然です。

しかし「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
仮にA→B、即ち、Aが肯定された場合必然的にBも肯定される事になると仮定します。
しかし、A→BからB→Aは成り立ちません(論理規則より)。
しかし、これは先に提示したB→Aと矛盾する為、不条理です。
従って、「Aである限りにおいて、Bである。」という命題を
A→Bと仮定する事は出来ません。

例文として
「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題において
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一つである事を示す訳ですから
幸福と感じているならば、必ず生きているという事が肯定されます。
幸福と感じる事が出来る→生きている
しかし、仮に「生きている限りにおいて幸福と感じる事が出来る」という命題を
生きている→幸福と感じる事が出来るとしてしまうと、前提①より
生きているならば必ず幸福と感じている、という事になりますが
生きている事は、幸福と感じる為の条件の一である訳ですから、生きているからといって
必ず幸福と感じるとは限りません。
(生きていると幸福と感じる事も、不幸と感じる事も、幸福とも不幸とも感じていない事も、あるいは幸福とも不幸とも感じている事もある訳です)

久保共生様に提示して頂いた例文、
「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題ですが
「僕が君を許さない」という結果を、「君が謝らない」という原因として説明する際、
ご指摘された通り「君が謝らないならば、僕は君を許さない」と読み替える事は可能です。
(即ち人間は因果関係の元において、現象を捉えるわけです。)
しかし、これを論理式で示すと
君が謝らない→僕は君を許さない、とはなりません。
何故ならばAという結果がBという原因によって生じる時、即ち
「B(原因)ならばA(結果)である」という命題は
A(結果)→B(原因) という論理式によって示されるからです。
というのも、結果(A)は原因(B)という条件無しには有ることも考える事も出来ませんので
A(結果)という現象が肯定されたならば、必然的にB(原因)という現象も肯定されなければなりません。従って前提①より
A→B
しかし、原因(B)は結果(A)の現象に先立つ故に、原因(B)という現象が成立する為の条件は結果(A)ではありません。
従ってB(原因)という現象が必然的に肯定するのはBという現象を成立させているさらに前の原因(B´)が必然的に肯定される事になります
B→B´
故に「君が謝らない限り、僕は君を許さない。」という命題を
「君が謝らない(原因)ならば、僕は君を許さない(結果)」と読み替える場合
それを論理式で示す際は
僕は君を許さない(結果)→君が謝らない(原因)と記す必要があります。


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