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スピノザ『エチカ』読書会

358nobunag:2022/10/27(木) 13:26:13
「Aである限り、ただその限りにおいてBである」はA⇔Bを表すという解釈でよいのでしょうか?

>「Aである限り、ただその限りにおいてBである」という命題からは
A⇔Bが成立すると思われます。
というのも
「Aである限りにおいてBである。」
という命題からは、Aは、Bという現象が成立する為の条件の一つである事が示されてる為、Bという現象が生じれば、必然的にAも肯定される事になります。従って前提①より
B→Aとなります。
しかし、Bである限りにおいてAであるとは述べられていません。
従ってA→Bとはなりません。
A→Bが成立する為には、Aという現象が肯定されれば、Bという現象も必然的に肯定される必要があります。(前提①より)
従って、Bという現象が成立する為の条件をAが全て満たしている場合、Aが存在すれば、必然的にBも肯定される事になります。
Aである限りにおいて〜Bである、という命題は、AはBが成立する為の全ての条件である事は読み取る事は出来ず、AはBが成立する為の条件の一つである事が読み取れる。
しかしAである、ただその限りにおいて〜Bである、という場合、『ただ』=『唯一の〜』という意味を含む為、AはBが成立する為の、全ての条件を含んでいる事が示される。
従ってAが存在するならば、必然的にBも存在しなければならない。故に前提①より
A→Bという事になる。

では、第四部定理35「理性の導きに従って生活する限り、『ただその限りにおいて』本性上、常に必然的に一致する。」という命題は
人間同士が本性上、常に一致する→理性の導きに従って生活する
という事は正しいとしても
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
という事まで言えるかというと、そうは言えないと思います。
というのも、第四部定理35より前に既に、存在に固執する力は外部の本性によって無限に凌駕される以上、受動である事は免れる事は出来ない事が証明されており(第四部定理三、四)、それを前提とする限り、理性の導きに従って生活していても、何らかの受動的な状態を免れる事は不可能である為、人間同士が常に必然的に一致する事もまた不可能である事になる為です。
従って、第四部定理35は、理性の導きによって生活し、かつ(外部の本性を考慮しない限りにおいて)という前提の下において
「理性の導きに従って生活しているならば、必然的に、人間同士は本性上、常に一致する」即ち
理性の導きに従って生活する→本性上、常に一致する
と言える事になると思います。


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