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スピノザ『エチカ』読書会

121横山信幸:2019/09/25(水) 19:36:45
久保さん

>様態が人間の認識アイテムとはどういう意味ですか?

実体は分割されず部分を持たない。だから、実体の、ここの部分がどうだとか何個あるとか何色でどのくらいの量があるとか、それについて語ることも考えることもできないですよね。なので、人間が世界を認知し認識するためには、そこから延長や思惟のついての属性を取り上げて考えて語るしかなく、それを為すことが認識することになるだろうと、そしてだから、それを為すには様態が必須アイテムになるだろうと考えました

>>「十全な認識」というのは、「人間がそこに持ち得る認識以上に世界の無限の本質を認識できることはあり得ない」という感じの意味でしかないのじゃないかって……
>スピノザが言いそうにもないことだと思うのですが。本文のどこの記述を根拠におっしゃっていますか?

中公クラシックス「エティカ」p17図2「属性はその存在に関して言えば実体と見なされる。しかし、その実体を認識するために側から見れば属性は一つの面を表しているに過ぎない。従って、知性が実体について延長と私意の二つの属性を認識するならば、その二つの属性は二つの実体の存在を表すのではなく、同一の実体の二つの面を表している。つまり、属性は実体の部分ではない。同一の実体は異なる見地あるいは異なる面から考察される」
とあります。僕はここで語られていることを表現したかったのですが、具合の悪い表現をしてしまってたみたいで、申し訳ないです。
表現しなおしてたところで、さらに泥沼のぐだくだになりそうですが、無謀に挑戦してみます。
「人間がそこで認識した世界がすでに無限の本質そのものの実体であるのだから、人間はその世界の外側を認識できることはあり得ない。その意味で人間の認識としては十全だといえるものだ。ただし、それは、実体の無限性に対する認識としての十全である」
ということを言いたかったのです。ダメですね。やっぱりぐだぐたになってしまいました。これは、もう無視してください。


>>もちろん神の無限と人間の認識の無限にはレベルの違いはあるのだろうけれども、そんな超越的な存在者があるとか無いとかを問うことに意味があるはずもなく、それゆえ人間の認識の無限は常に神の無限に到達可能である。ただし、それは到達可能だというだけで、すでにもっているとは限らない。
>というのも、全く意味が分かりません。上でも言いましたが、スピノザの神は超越的ではなく内在的ですよ。

これについても、超越者の存在は全然想定してない話だったのに変な言い方をしてしまって上手くなかったです。
すみません。
ここで、僕はウィトゲンシュタイン「論考」を思い浮かべながら語っています。様態が人間の認識アイテムであったとすると、言語が存在そのものに到達すると言った「論考」と考え方が馴染むもののように思ったのです。「論考」の「語り得ないもの」というのは、私秘的な心的内容や個物を語り得ないと解釈されることが多いですが、僕はウィトが「到達する」と言ったのは個物にまで届き得るものだと考えています。なので、まるで、スピノザの汎神論とウィトの世界モデルとがまるで似通った話だと思えたのです。
しかし、ウィト「論考」の分析においては、世界の認識は必ず文によって為され、それは文によるものであるがゆえに必ず有限な範囲かあるいは可能無限の範囲までしかカバーすることができません。
もし、スピノザの様態が認識アイテムという捉え方が正しくて、その認識が人間の考える文によって構成されるものとするのであれば、そこで扱われ得る情報量はたかだか可能無限でしかないのじゃないか、とそう考えた訳です。
一方、実体の方はそのような可能無限とは一線を画した、まさに実無限の情報量かあるいは情報量という捉え方からはみ出してしまうような、レベルの違うものとして考えるものなのじゃないかって気がして仕方ないのです。

もう、僕の考察というよりほとんど妄想ですので、伝わらなくて当たり前なことを言ってしまってると思います。笑って流してください。


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