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Web誌友会 板/2

3325a hope:2013/11/17(日) 16:15:50 ID:/9IAdiFk

復興Gさま トキさま みなさま こんにちは

ひたすら聖典「生命の實相」の拝読に励む a hopeです。
今月は、第六巻が範囲なので、第六巻を読み返していてちょっと疑問に思ったことがあったので質問させていただきます。

「生長の家の教え」は、自己内在の神(内在のキリスト)を祈る、
つまり「実相礼拝」する教えであることは、今までお勉強してきたので頭では充分理解しているつもりです。

ですが、一方、「生長の家」の祈りや神想観やの中には『日本国実相顕現の祈り』や、『住吉大神宇宙浄化の祈り』のように、
「住吉大神あれましぬ。住吉の大神あれましぬ。」「住吉の大神出でまして宇宙を浄め給う…」
「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」というように、
あたかも、住吉の大神さまが自分とは離れた存在(絶対的存在ではなく、相対的存在)であり、
宇宙浄化やわたしたちの生命浄化をしてくださるという表現がされているのがとても気になるのです。

わたしが、なぜこの事に疑問をもったかというと、今回のテキストの中のある文章を拝読したからです。以下謹写させていただきます。
(つづく)

3326a hope:2013/11/17(日) 16:17:16 ID:/9IAdiFk

(つづき)
生命の實相 第六巻 P35 5行目〜
『・・・では、人の病を癒やすにはどういう祈りがよいのでしょうか。「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」と厳かに声を出して、患者に聴こえるように唱えて大いに効果を奏することもあります。

しかし、これは、神というものは人間みたいな人格的なものであって、頼めばきいてくださるし、頼まなければきいてくださらないというような、神と人間とが相はなれた観念を与えやすいのであります。

このような祈りだけでは人間が「神の子」であり、本来無病である真理がわからないのであります。神と人間とが対立的になって、人間は本来病気になるものであって、人間と対立した神秘的な人格神があらわれて、その病気を治してくださるだろう、という自分の期待と信念によって治るのであります。

そのような期待の念と深い信念とは、「環境は心の影」という心の法則によりまして、われわれの周囲に、われわれに働きかけて治してくれる人格神を引き寄せることになるのであります。この人格神というのは聖典『生命の實相』に説いてある第三義の幽神(かみ・ゆうしん)、すなわち「個性ある何かの霊魂」であります。

いわゆる信心深いというという人で、お宮やお厨子(ずし)を飾りたてて、その中に住んでいられる神秘的人格神の冥護(めいご)を常に祈っているような人たちの周囲には、この「個性ある何かの霊魂」が感応して、ある程度の守護をしてくれる場合が多いのであります。ふつう「守護神」といわれるもののうちには、自己の祖先霊のほかにこの種の霊魂がおうおうあります。


かく、悟りによらず、祈願による場合は、(1)祈りに対する自己の期待と信念によって病気が治る。(2)前記のごとき「個性ある何かの霊魂」に感応して病気を治してくれる。この二者の一方または両方が作用しまして、ある程度まで確かに効きますが、その治るのは吾が実相の無限神性が現れるからではなく、実相の絶対神が作用するのではなく、病気の人間が「第三者」に治してもらうというように相対的に働くのであって、「病気でない神性の自覚」ではないのでありますから、根本的癒しとはならないのであります。

詳しくいえば、それは「病気あり」と認めて、霊魂の医者にかかって治してもらうということになっているのであります。こういう相対的に働く霊的治療と、自己の絶対神性を悟って、神の子本来の「無病の実相」があらわれるのとは別であります。・・・』

以上、謹写終わり

感謝 合掌

(つづく)

3327a hope:2013/11/17(日) 16:19:12 ID:/9IAdiFk
(つづき)
「住吉の大神宇宙を浄め給う」「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」という祈りは、
「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」という祈りと、
同質の相対神(人格神)に対する祈りのような気がしてしまうのですが・・・。

つまりは、自己内在の神に対する祈りではなくて、住吉の大神さまという、
個性ある働きをする人格神に対する祈りのように感じてしまうのです。

それとも、生長の家の神さまであるという「住吉の大神」さまも、キリストと同じく、
自己内在の神であると理解していいのでしょうか?

住吉の大神さまのお働きと、「生長の家の実相礼拝」との関係を教えていただけるとありがたです。

3328a hope:2013/11/17(日) 20:06:22 ID:/9IAdiFk
>>3327 つづき

復興Gさま

先ほど、住吉の大神さまについては、以前復興Gさまからご指導いただいていたことがあったのでその所を探してきました。
この、web誌友会板/2の>>724から>>737までです
、復興Gさまが過去の投稿文をわかりやすくまとめて説明くださっていました。


とても難しい内容なので、わたしは良く理解できていなかったようです。

もう一度拝読しなおしてみたいと思います。

3329a hope:2013/11/17(日) 20:28:54 ID:/9IAdiFk

>>3328 訂正

住吉の大神さまについてのご説明は、web誌友会板/2の『>>723』から>>737までです。
過去のユタカさまのご質問に復興Gさまがお答えくださっています。

本当に、とても高度な内容だと思います。
わたしたちは、このweb誌友会で復興Gさまご指導の下、すばらしお勉強をさせていただいているのだと思います。
当時はわからなかったことも段々わかるようになってきていて、本当にうれしいです。

3330トキ:2013/11/17(日) 23:15:37 ID:aZGVb0iM
 招神歌の話題です。

 詳説 神想観では、招神歌は生長の家の大神の導きをいただくための大切なものである、と
いうご説明がされています。実際、招神歌により護られた、という体験は多数あります。

 通説では、招神歌により、生長の家の大神のご守護をいただき、結果、悪い波長が合わない
というものです。が、招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの
だ、という解釈をする人もいました。これは、その人の独自の解釈ですが、ある部分、面白い
解釈だな、と思いました。

 ただ、最近、招神歌の意義を尊重する精神が忘却され、単に儀礼的に招神歌を唱える傾向が
ありますが、これは気をつけないといけないかもいけないかと感じます。

3331神の子さん:2013/11/18(月) 09:45:50 ID:???
ブラジルをはじめ海外では、雅宣氏の命令により
招神歌をうたう事が禁じられています。

3332復興G:2013/11/18(月) 09:58:44 ID:AB6RqYXc

 a hope さま

 生長の家の 「生命の実相哲学」 の根幹に関わる貴重な重要な問題提起と、過去のweb誌友会記録資料掲示までしてくださって、ありがとうございました。

 生長の家の 「生命の実相哲学」 の根幹は、「現象なし」 「実相独在」 ――

 「完全なる神の 『心』 動き出でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る」

 というこにあると思いますが、これは、

 「生命は時間・空間の枠組みの中に誕生したものではなく、時空間以前の、時空を超えたものであり、生命が時空間を創り出したのである。人間そのもの、自分そのものもまた生命であって、時間・空間の枠組みの中に誕生したものではなく、時空間以前の、時空を超えたものであり、時空間を生み出した主体者なのである」 という、驚くべき真理の自覚につながること。

 時空間が本来ないものだから、時空間の中に現れて見える現象も、一切が影にすぎず、「ない」 ものなのである。

 時空間をも生み出した元のところを 「未発の中」 と言い、「久遠の今」 と言い、そこに 「実相」 すなわち

 「完全なる神の 『心』 動き出でてコトバとなれば 一切の現象展開して万物成る」

 ところの完全理念がある。それが根本実在であり、そのほかに真実の実在はないということですね。

 このことについて、もっと書きたいのですが、今日はこれから出かけなければならない予定がありますので、また夜にでも書かせて頂きたいと思います。

 ありがとうございます。

3333復興G:2013/11/18(月) 19:39:22 ID:AB6RqYXc

>>3332 のつづきです。

 私は学生時代に、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルの主著 『意志と表象としての世界』 (磯部忠正訳・創元社刊) をちょっと読んで、びっくりし、目が覚めた思いがしました。その冒頭に、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 というジャン・ジャック・ルソーの言葉が掲げてあり、本文は次のように始まっています。――


 << 「世界はわが表象である」(“Die Welt ist meine Vorstellung”)――これは生き且つ認識する凡てのものに妥当する真理である。

 ところがこの真理を反省的抽象的に意識することの出来るのは人間だけであって、人間が実際に斯く意識する場合、そこに人間の哲学的思慮というものが生じたのである。

 してみると、人間が太陽を知り、大地を知るのではなくて、ただ太陽を見る目があり、大地に触れる手があるにすぎないということ、人間を取り囲む世界は表象としてのみ存在する、即ち全く他者即ち人間自身であるところの表象者に関係してのみ存在する、ということが明白に且つ確実になる。もし何らかの先天的真理なるものが言われるとすれば、これこそその真理である。

 何となれば、この真理は時間とか空間とか因果とかいう凡ゆる他の形式より一層普遍的な、凡ゆる可能なそして考えられ得る経験の形式を言い表わしたものだからである。(中略)

 此の真理ほど確実にして、凡ゆる他の真理に依存せず、また証明を要しないものはない。即ち認識に対して定在する一切のもの、即ち此の全世界、は主観との関係に於ける客観にすぎず、直観する者の直観、約言すれば表象に他ならないという真理である。

 勿論此の真理は現在にも、また過去や未来にも、遠いものにも近いものにも妥当する。何となれば、この真理はこれら凡てのものの区別が生ずる唯一の基たる時間や空間そのものにも妥当するからである。およそ此の世界に属するもの、また属しうるものは凡て不可避的にこのような主観による制約にとりつかれているのであって、すべてのものは主観に対してのみ定在する。世界は表象である。(中略)

 およそ現前する凡ゆる対象をば、自分の身体をも、率直にただ表象とみなし、単なる表象と名づける必要がある。ここで度外視してあるのは、世界の他の唯一の面をなす 「意志」 に他ならない。何となれば、世界は一面では徹頭徹尾 「表象」 によっているが、他面では徹頭徹尾 「意志」 によっているからである。

 この両者の何れでもなく、客観自体であるというような実在は、夢想の怪物であり、そのようなものを想定することは、哲学に於ける鬼火である。>>


 ――ここにいう 「表象」 とは、原語のドイツ語では “Vorstellung(フォアシュテルング)” となっている。この語は “vorstellen(フォアシュテレン)” <前に立てる、前に置くという原義から、思い浮かべる、心に描くという意味にも使われる語> の名詞形で、 「心像」 「観念」 「概念」 などの意味で、哲学用語としては 「表象」 と訳されているわけです。

 「表象」 という言葉は普段ほとんど使われない言葉ですから、「心像」 とか 「心の影」 と置き換えて読んでみると、わかりやすいかも知れません。

 ショーペンハウエルは、「この真理は、決して新しいものではない。インドの賢者たちが疾くに認識した根本真理である」 とも言っています。

 私は、このショーペンハウエルの哲学の第一歩に、深い影響を受けました。

 ただ、彼は 「唯神実相」 の真理には到らず、世界は存在しうる最悪の状態だとし、厭世哲学とも言われ、生長の家とは正反対の結論を出したのだということで、私はこの冒頭の部分だけに深い影響を受けたけれども、後の方は読んでいません。

 それにしても、ジャン・ジャック・ルソーの言葉のように、

 「幼稚を脱却せよ、友よ、目覚めよ!」

 ということは、目に見える現象をそのまま 「あり」 と考えるような幼稚性からは脱却しなければならないということで、それは肝に銘じたいと思います。

3334トキ:2013/11/18(月) 20:39:47 ID:pV28pxMg
>>3333

復興G様

 素晴らしいご指導、ありがとうございます。「唯神実相」論の奥義とも言うべき部分
で、拝読して、自己の心境を反省するのみであります。

 眼に見えない部分・・・・というと、普通は霊界を想像しがちですが、それよりも
ずっと上の世界こそが本当に学ぶべき世界と痛感します。

 あらためて感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3335復興G:2013/11/19(火) 09:54:41 ID:AB6RqYXc

トキ様、ありがとうございます。


a hopeさま

>>3327
>> 「住吉の大神宇宙を浄め給う」 「住吉の大神ここにあつまれるすべての人々の生命を浄め給う」 という祈りは、「神よ、この者の罪を赦して病(やまい)を取り去り給え」 という祈りと、同質の相対神(人格神)に対する祈りのような気がしてしまうのですが・・・。
つまりは、自己内在の神に対する祈りではなくて、住吉の大神さまという、個性ある働きをする人格神に対する祈りのように感じてしまうのです。
それとも、生長の家の神さまであるという 「住吉の大神」 さまも、キリストと同じく、自己内在の神であると理解していいのでしょうか?
住吉の大神さまのお働きと、「生長の家の実相礼拝」 との関係を教えていただけるとありがたいです。<<

などのご質問の答えは、a hopeさまが過去の記録を探してくださった

「この、web誌友会板/2の>>724から>>737までです、復興Gさまが過去の投稿文をわかりやすくまとめて説明くださっていました。」

や、web誌友会参考文献板の >175

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1372208204/175

同 >181

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1372208204/181

などをお読み下さると、納得される点があるのではないかと期待しています。

いや、すでにわかってくださっていると信じます。

ありがとうございます。

3336a hope:2013/11/20(水) 09:06:54 ID:/9IAdiFk

>>3330 トキさま

<< 通説では、招神歌により、生長の家の大神のご守護をいただき、結果、悪い波長が合わない
というものです。が、招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの
だ、という解釈をする人もいました。これは、その人の独自の解釈ですが、ある部分、面白い
解釈だな、と思いました。>>

そうなのですか?
わたしは、聖典「生命の實相」を拝読している限り、
<<招神歌により、自己内在の神様と直結する事で、悪い波長が合わないの>>という解釈の方が正しいような気がします。
自己内在の神(実相)以外に、外に神を求めてしまった時点で、それは生長の家の「唯神實相」から外れてしまうような気がするのですが・・・。

だから、神招歌というのも、本来は自分の中に内在する「生長の家の大神」に呼びかけている歌ということになるのではないでしょうか・・・?

そんな風に感じました。

3337a hope:2013/11/20(水) 09:08:32 ID:/9IAdiFk

>>3332 〜 復興Gさま

ご指導をありがとうございます。
今、過去の投稿文や榎本恵吾先生の御文章を拝読中です。
そして「実相独在」や「唯神實相」の真理を頭で理解することと、まことに体得(悟る)ことの隔たりの大きさを実感しています。

たとえ頭では「自己の内部にすべてがある」と理解できていても、
それでも外に神を求めてしまい外にある大きな力に運命を支配されているように感じてしまっているのが、
釈迦やキリストや雅春先生のように悟り切れていないいわたしたちなのだと思います。


でも悟り切れば、

『実相を観ずる歌』のような状態が顕現するのでしょうね!

生長の家の教えって、ホントにすごいですよね!!!

だって雅春先生はわたしたち信徒に聖典「生命の實相」という形で「悟りへの道」への指針をハッキリ残してくださっているのですから、
わたしたち信徒は、ただただ「自己内在の神」の存在を信じて「生命の實相」心読すればいいのですから・・・。

わたしはこれからもひたすら、聖典「生命の實相」の拝読に励みたいと思います。

みなさま、今日も素晴らしい一日をお過ごしくださいね。

3338トキ:2013/11/20(水) 10:08:16 ID:LuR7Ta0I
>>3336

a hope 様
 
 ご投稿、ありがとうございました。

 『通説」的な理解の根拠は、招神歌の最後の言葉

 『生長の家の大神 まもりませ」

が、根拠だと思います。これに対して、『独自の解釈」は、『大実在たる
無限の生命」に精神を統一する(詳説 神想観 p78)で説明をします。
ただ、『独自の解釈」は、祈っている時に、霊感で感じた事だったみたい
です。個人的には、独自の解釈のほうに親近感を持ちますが、私はどちら
が正しいか、どうか、という点について、決定するだけの能力がないので
宿題にしております。

合掌 ありがとうございます

3340復興G:2013/11/27(水) 14:01:53 ID:AB6RqYXc

 さて、今月11月があと残り少なくなりました。

 今月のテキスト 『生命の實相』 第6巻には実に深い教えが説かれていて、うれしくなります。

 第3章 「無限能力をひらく道」 から、少し抜粋謹写し、思うことを書かせて頂きます。

 これは、昭和9年4月22日、生長の家本部(当時神戸近郊の御影(みかげ)元住吉にあった)で、谷口雅春先生を中心にした誌友たちの座談会記録です。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 南――われわれの心のうちには地獄もあれば極楽もある。心が悪を描けば地獄が出てくる、心に善を描けば極楽が出て来る。ひっきょう地獄も極楽も本来無いものであって、それは皆われわれ自身の心の中にあると悟るのが、実相を悟ったということになるのでございましょうか。

 谷口――それは 「現象の法則」 を悟ったというものであって、実在の実相を悟ったものではありませんねえ。

 南――なるほど、それは現象の法則を悟ったというものですか。はハア、なるほど。……

 谷口――現象界は心の展開として、いろいろに地獄にも極楽にも顕われて出て来るのであって、現象界は本来無いものじゃと悟る――これは 「現象の実相」 を悟ったものであって、まだ 「生命の実相」 を悟ったということにはならない。本来固定した相が無くて地獄にも極楽にも、心に従って顕われて来るのが現象界でありますが、実相界というものはただ 「極楽」 のほかはない、常楽妙々の世界なのであります。

 南――心に従って地獄にも極楽にも顕われて来るのを、心を浄めて極楽の状態のみを顕わそうとする、それがわれわれの心の修養というものでありましょう。

 谷口――そうです。それは修養でありますが、それはまだ悟りではない。「悟り」 というものは現象にとらわれないで、直接 「生命の至妙の実相」 を把握することなのです。「修養」 というものは現象(いまのあらわれ)の中で悪いものを、それを見わけてそれを握って捨てようとするのですから、けっこうには違いないが、現象をあるとして取り扱って、現象に依然としてとらわれるから、なかなか至妙常楽の実相を顕わすことができないのです。

 南――現象の雲を吹き払う風を作るということが必要ですねえ。

 原――風が吹くほど雲を起こすということにもなりはしませんか。

 谷口――だから雲など吹き払おうと思う必要はない。一躍して実相界に跳び入るのです。そこから無限の自由、無限の力が湧いて来るのです。雲はあっても無くとも好(よ)い、アルとかナイとかかかわっている間はだめだ。雲を跳び越えて、雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び入るのです。雲はあっても無くとも雲の彼方の世界は太陽で輝いている。その世界に跳び込んでしまっておれば、雲はわれわれの念の力で繋(つな)ぎ留めておかないから自然に散って消えてしまう。この雲、あの雲にとらわれて、その雲をどうかしないでは救われないなどと考えるのは、現象にとらわれているのです。

 原――先生のおっしゃるのでは、「本来、どうしないでも人間はすでに救われている」 のだよ。無限の自由、無限の力はすでに有る……

 南――その救われている事実を、すでにある無限の力を、現実にあらわすのには……?

 谷口――本来至妙の実相が屈折せずに、歪(ゆが)まずに現象界に映って来るようにすればよいのです。それには実相が現象界に映し現われるための 「念のレンズ」 を浄めればよいのです。「念のレンズ」 を浄めるには、今現われている現在不完全な相(すがた)にとらわれないで、実相完全な相(すがた)のみを見るようにすればよいのです。本来救われているわが実相を見るようにすればよいのです。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)と本来一体の自分を見るようにすればよいのです。

 南――現象にとらわれないで、ただ 「南無阿弥陀仏」 と称えて実相を見るようにしても、なかなか極楽的な状態を現象界にあらわしていない人がたくさんありますなア。南無阿弥陀仏にもいろいろの段階があるようです。南無阿弥陀仏と称えながら嫁いびりをする姑さんもありますなア。

 谷口――むろん 「南無阿弥陀仏」 にもいろいろの段階があります。阿弥陀仏とは木像(もくぞう)だとか金仏(かなぶつ)だとか考えていて、自分の実相ではないと考えている人もある。同じ 「南無阿弥陀仏」 でも 「帰一木像」 「帰一金仏」 では救われない。やはり 「帰一常楽実相」 の意味でないと、本来救われている実相が出て来ないのです。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

3341復興G:2013/11/27(水) 14:02:50 ID:AB6RqYXc

 ――以上、テキスト第3章のはじめの方のご文章(p.68~71)で、特に最初の南さんの質問

<< 南――われわれの心のうちには地獄もあれば極楽もある。心が悪を描けば地獄が出てくる、心に善を描けば極楽が出て来る。ひっきょう地獄も極楽も本来無いものであって、それは皆われわれ自身の心の中にあると悟るのが、実相を悟ったということになるのでございましょうか。>>

 に対して、谷口雅春先生は

<< 谷口――それは 「現象の法則」 を悟ったというものであって、実在の実相を悟ったものではありませんねえ。>>

 とお答えになっている。

 ちょうど、ちょっと前にある講師が、教区の「地方講師会だより」に、次のように書かれているのを見ました。

 「日時計主義こそ実相独在、唯心所現の生活実践です。現実にはまだ光明が十分現れていなくても、現象の背後にある実相を信じて、言葉を読んで、引き出すことで、地上に光明が現れる。そういう信仰と原理なくして、日時計主義は成立しません。」

 と。

 皆さま、どうお考えになりますか?

 「実相」 とは、現象の背後にあり、言葉を読んで、引き出すことをしなければ地上に現れないものなのでしょうか?

 それって、「二元論」 ではありませんか?

 谷口雅春先生は、

<< 「悟り」 というものは現象にとらわれないで、直接 「生命の至妙の実相」 を把握することなのです。「修養」 というものは現象(いまのあらわれ)の中で悪いものを、それを見わけてそれを握って捨てようとするのですから、けっこうには違いないが、現象をあるとして取り扱って、現象に依然としてとらわれるから、なかなか至妙常楽の実相を顕わすことができないのです。……

 ……雲など吹き払おうと思う必要はない。一躍して実相界に跳び入るのです。そこから無限の自由、無限の力が湧いて来るのです。雲はあっても無くとも好(よ)い、アルとかナイとかかかわっている間はだめだ。雲を跳び越えて、雲の彼方(かなた)にある太陽の輝く世界に跳び入るのです。雲はあっても無くとも雲の彼方の世界は太陽で輝いている。その世界に跳び込んでしまっておれば、雲はわれわれの念の力で繋(つな)ぎ留めておかないから自然に散って消えてしまう。この雲、あの雲にとらわれて、その雲をどうかしないでは救われないなどと考えるのは、現象にとらわれているのです。>>

 とおっしゃっています。

 「実相」 というのは、時間・空間が現れる元のところ、「久遠の今」 にある理念の世界であり、無限完全円満であって、それのみが実在である。時間・空間は仮想であって、ナイのである。したがって時間・空間のスクリーン上に現れて見える現象も、ナイのである。

 「日時計主義」 とは、

<< “I record none but hours of sunshine.”(われは太陽の輝く時刻のみを記録す)
 自分はこの標語を「日時計主義」だと言うのである。>>

 と 『生命の實相』 第7巻に書かれているが、この 「太陽」 は、自分の外にあるのではない。自分の内にあり、自分が太陽なのである。だから、「われは太陽の輝く時刻のみを記録す」 というのは、「われはわが輝く時刻のみを記録す」 ということである。

  ――私は、そう思いました。

3342復興G:2013/11/27(水) 14:54:35 ID:AB6RqYXc

 さて、>>3340 で謹写引用させていただいたご文章のつづきに、次のように書かれています。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 杉野――今日、日の本足袋の松並さんから一冊のパンフレットを送って来ました。ひらいて見ると高橋正雄さんの講演で、なかなかおもしろいことが書いてある。極楽というものは高い所にあるのかと思っていたら、地獄の釜の底にあったということが書いてある。

 地獄から逃げ出したいと思うから苦しいので、地獄の方へ突進して、地獄の底に衝突して、地獄の底をブチ割ってしまったら、その地獄の底の下に極楽がある。

 家庭の借銭問題でも、あいつは血も涙もない鬼のような奴じゃという、そこにはや地獄ができている。この地獄からのがれる道は、借銭を逃れようとすればするほど地獄の鬼が追いかけて来るので、借銭を愛するようにしなければならない。

 借銭を愛するというのは、その借銭のいうことをきいてやるようにしなければならない。借銭は何をしてくれというかといえば、その要求するところは、ただ「払ってくれ」ということである。だからこの借金の問題を解決するのは、借金を愛して、借金の要求たる 「払ってくれ」 ということをきいてやりさえすればよい。そして問題のまっただ中へ飛び込んで、それを払うように一所懸命に働けば、地獄の釜の底がブチ割れて、地獄だと見えていたところのものから極楽が出て来るというのです。(中略)

 ……というので高橋正雄さんは以前のままにその家に住むことになったのです。そしてそんな立派な家に住むことができるようになったのは、借金があったからこそのお蔭である。借金が恩人であるから、その恩人のいうことをきいてやらねばならぬ。借金はありがたい、借金の力でこうして住まわしてもらっているのじゃ。だから、その恩人のいうこと 「払ってくれ」 という要求を叶えねばならぬと決心した、そこに無限の働く力が湧いて来て、間もなくその借金を払ってしまったというのです。

 谷口――(前略) 高橋正雄さんは 「借金はありがたい、借金のオカゲでこの家に住まわせてもらえる。借金を忘れぬようにしなければならない」 と思って、毎朝 「わしには借金があるんだぞ、獅子奮迅(ししふんじん)」 と大声に叫んで、借金のことを忘れずに、獅子奮迅の努力をして行かれることにせられた。

 これは高橋さんのような道徳的天才にしてできたことで 「わしには三千円の借金があるんだぞ」 と思うだけで、ウンザリして意気沮喪してしまう人もたくさんあります。親の借金をこんなにたくさん背負わされてばからしいと思って、反対に自暴自棄になる人もある。それに、高橋さんは 「わしには借金があるんだぞ。獅子奮迅」 と毎朝大声で叫ぶという事によって、獅子奮迅の力が湧いてきた。

 これは語尾の 「獅子奮迅」 という言葉の力が働いていることは見のがせないのであります。これとは反対に 「わしには借金があるんだぞ。意気沮喪」 とか、「わしには借金があるんだぞ。失望落胆」 と呼ぶようにしてごらんなさい。失望落胆、意気沮喪して働く勇気が出て来ないのであります。だから借金という悪いものを背負っている自分だということを思い出したのが、高橋正雄さんに獅子奮迅の力を出させたわけではない、この事実を見のがしては真相を見のがすことになるのです。

 それでは高橋正雄さんが 「わしには借金があるんだぞ、獅子奮迅」 と、偶然に 「獅子奮迅」 という言葉をつけたから、単に言葉の力だけでそんな獅子奮迅の力が出て来たのであるかと申しますと、それだけでもない。わしにはこんなに借金があって逐(お)い出されてもしかたのない自分であるのに、こんなに良い家に住まわせてもらっているのは、これ天地から生かされているのである、ただありがたい、自分の力で生きているのではない。

 天地をつらぬく生命が自分に宿って生かそうとしているのである――というありがたいという気持ち この実相を知るありがたい気持ちは、小我の力を否定して、「大生命われに宿って生きる」 の自覚である。この自覚があってこそ 「獅子奮迅」 という言葉も自然に出て来たのであり、その言葉の力も生きて来たのであります。(後略)

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

3343復興G:2013/11/27(水) 14:55:11 ID:AB6RqYXc

 ――以上のご文章も、胸に響くものがありました。

 私たち、いろいろな問題をかかえている。言わば大きな借金をしているようなものです。その 「借金」 から逃げ出そうとしたら、苦しくなって、今ここが地獄になる。「地獄の方へ突進して、地獄の底に衝突して、地獄の底をブチ割ってしまったら、その地獄の底の下に極楽がある」 という杉野さんの発言は、今の私のためにあったのだと思わせて頂きました。

 借金は、「払ってくれ」 と言っているのです。その言うことをきいて、払ってやればいいのです。「私には借金があるんだぞ。獅子奮迅! 天地から生かされているんだぞ。獅子奮迅!」 と毎朝叫んで(声には出さなくても)、問題のまっただ中へ飛び込んで、それを払うように一所懸命働いて行きたいと思います。

 ありがとうございます。

3344復興G:2013/11/27(水) 15:34:13 ID:AB6RqYXc

 テキストp.112〜113 の、以下のご文章(佐瀬さんのご発言)も、うれしくなるご文章です。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 わたしは近ごろ 「生長の家」 の宣伝の方法を変えました。今までは誰にでも会う人ごとに 「生長の家」 の話をしなければ気がすまない。相手を見ず、人を見ず、遮二無二、神様の話をいたしますので、かえって反感を持たれていましたが、今では自然に向こうから求めてくる機会を掴むような気持ちになりました。すると不思議に向こうから話してくれと求められるようになりました。

 またある時にはわたしは 「生長の家」 というのはむずかしい宗教ではない、したいままをする教えである、こんなやさしい教えはない。「生長の家」 はコレをしてはならぬ、アレをしてはならぬとはいわない。あなたのしたいままをしなさいというのです。なんでもあなたのしたいままをしなさい。しかし一つの条件がある、それは 「自分は神の子である」 という自覚を持った上でというのです。

 デパートで物を買うにしても、何を買っても叱られるということはない。多く買えば買うほど百貨店から喜ばれる。しかし懐中にお金をもっていないで買えば万引きだといわれるでしょう。それと同じように 「自分は神の子だ」 という自覚がなしに、したいままをすればまちがいができる。ところが 「自分は神の子だ」 という自覚をもってすれば、自然によいことばかりできてきて皆様から喜ばれるのは、懐中にたくさんのお金をもっていて百貨店で買い物をすれば皆から喜ばれるのと同じことです、とお話しますと、「なるほどよく解る」 といわれる方が多うございます。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 ―― 「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。それが、「神ながら」 ということなのでしょう。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 (『生命の實相』 第22巻 p.10) も、しっかり守ってまいりましょう。

3345トキ:2013/11/27(水) 18:56:42 ID:QsleMvcs
>>3344

復興G 様

 今月は、生命の実相第6巻がテキストなので、毎日、繰り返し拝読しております。

>>「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。

という部分は重要であり、同時に気をつけないといけない部分かと感じます。

 過去の宗教などでは、「あれをしてはいけない」「これをしなさい」という部分が
多くて、ずいぶん窮屈な印象がありました。あまり具体的な事例をあげると誤解をう
けて問題になるので止めますが、特定の信仰を持っている私から見ても、「いったい
神様がそんな窮屈な事を言うかしら?」としか思えないような教えもあります。

 その意味では、谷口雅春先生のこの部分はたいへん重要で、かつ大切な部分だと
思います。最近の生長の家では、こういう部分があまり重視されていないみたいで
すが。

 反面、「自分は神の子である」自覚がないまま、ニセモノの自分が神の子である、と
誤解して、好き勝手をすると、これも大変な事になるかと感じます。

 すると、最低限は「行」をきちんとする事が前提のような気がします。ただ、その辺り
の基準は自分もまだ勉強中であります。

 素晴らしい部分をご紹介下さった復興G様に心から感謝申し上げます。

合掌 ありがとうございます

3346a hope:2013/11/28(木) 00:07:49 ID:/9IAdiFk

復興Gさま 

ご指導をありがとうございます。
>>3344にご紹介の文章には、わたしも赤線を引いてありました。

このお話をされている佐瀬さんという方は、小さいお子さんもいらっしゃるお母さんですね。
この文章の前にも、ご自分のお心の持ち方を反省されることで、養母さんと和解されたお話や、
良いい引越し先が見つかったお話、お子さんの脱臼が治ったお話など、数々の奇跡が紹介されています。

この方は当時はとてもお若いお母さんではなかったのかと思われますが、
すべての自分の周りで起こる出来事を自分の心の陰であると反省することができる素晴らしい方だと感じました。

そんな、彼女が伝道をされるときに、
<<「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。>>
というようなことを言われたのですね。

ですが、この言葉がですが、>>3345でトキさまも

<<「自分は神の子である」自覚がないまま、ニセモノの自分が神の子である、と
誤解して、好き勝手をすると、これも大変な事になるかと感じます。>>

おっしゃっていますが、わたしも相手を見て慎重に判断して言わないといけない言葉なのではないかと感じました。
なぜなら、まことの「神の子の自覚」とは、そう簡単に得られるものではないと思うからです。

わたし自信も「人間は神の子だ」ということは頭では理解していますが、実際それを体得しているとはとても言えません。

これは「生長の家の教え」の基本ですが、まことに悟り、復興Gさまのおっしゃるような「神ながら」の行動をとれるようになるには、
トキさまのおっしゃるように『最低限は「行」をきちんとする事』とても大切な気がしました。

復興Gさま、わたしはこのように感じました。

ご指導をどうぞ、よろしくお願いいたします。

3347復興G:2013/11/28(木) 10:33:11 ID:AB6RqYXc

>>3345 :トキ様

>>3346 :a hope様

 ありがとうございます。

 本当に、おっしゃるとおりですね。

>>「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば、したいままをすればよい。<<

 というところの、前のところ、“「自分は神の子である」 という自覚をもってすれば” というところが、大切なところであると思います。

 しかしながら、その 「神の子の自覚」 とは、たしかにa hope様がおっしゃるように、「そう簡単に得られるものではない」 とも言えましょう。けれども、また 「決して難しいことではない」 とも言えると思います。なぜなら、「自分が、自分が」 と掴んでいた自分はなかったんだ、ただ神に生かされている、天地に、大生命に生かされていたんだと、自分を空っぽにするだけでいいんです。難しい自力の修行は要らないんです。

 『生命の實相』 第6巻第3章の座談会に出てくる佐瀬さんは、たしかにa hope様がおっしゃるように、

<<ご自分のお心の持ち方を反省されることで、養母さんと和解されたお話や、良い引越し先が見つかったお話、お子さんの脱臼が治ったお話など、数々の奇跡が紹介されています。
この方は当時はとてもお若いお母さんではなかったのかと思われますが、すべての自分の周りで起こる出来事を自分の心の陰であると反省することができる素晴らしい方>>

 ですね。その佐瀬さんは、

<<わたしは今まで養母(はは)から叱られるのは、養母がわたしを無理解だからだとのみ考えていましたが、それが 『生長の家』 を読ましていただくようになりましてから、養母は決して無理解なのではない。神は無理解な養母を造り給わないから、そんな無理解な母は決して存在しない。それはわたしの心が映ってそう見えるだけである。実相の養母は、理解ある知恵と愛とを円満具足した存在であると気がつきました。それからというものは、わたしは養母が急に前よりいっそう懐かしくなり、養母に会いたい、母に会って養母の実相を見たいと思う念が切々と動いてきたのでございます。>>

 というように変わられたとき、

<<今まではこうしたら、叱られやしないか、悪くとられやしないか、とハラハラしながら養母に気に入るように務めながらも、悪くとられて叱られていましたのが、今度はどうでしょう。のん気にしたいままをして、それが自然に気に入るのでございます。わたしの心が養母の実相を見たから、養母の本来の善いところばかりが出て来るのでございました。今まで現象に見えていた 「無理解の養母」 は本来無いのであって、こちらの念の影で、あるように見ていたのだということがハッキリわかりました。>>

 とおっしゃっているわけですね。

 こちらが素直になって神の無限の愛を信じたとき、周囲のすべてが素直に調う。

 それで私は、トキ様がおっしゃってa hopeさまが同意されている

>>『最低限は 「行」 をきちんとする事』 がとても大切<<

 という言葉は、もっともだとも思われますが、ちょっと違和感を感ずるところがあります。

 それは、その言葉にはなにか <自力で 「行」 をきちんとしなければ、私たちは神の子になれない> ――神の創造にまだ作りそこないがあり、われわれの自力修行を必要とするような不完全なつくり方をされているという、神に対する不信があるのではないか――というな感じがするんです。

 「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

 という 「智慧の言葉」 の、「二人の主に仕える」 ことになっていはしないか、ということです。

 私は、毎朝の神想観・先祖供養を当り前のこととして、習慣的に、よろこんでやっています。

 それは、無条件に神に、先祖に守られ生かされているのだから、あたりまえに感謝とよろこびを忘れないで出発するためです。自分はまだ不完全だから、修行して神に近づくためだとは思っていません。

 すでに、完全である。だから、ありがたいのみである。

 感謝とよろこびが神想観であり、感謝とよろこびが先祖供養なのです。

3348トキ:2013/11/28(木) 15:57:33 ID:5Wa7vmvU
>>3347

復興G様

 丁寧なご指導深く感謝申し上げます。

 青年会の頃などは、神想観や聖経読誦が苦手な時期もありまして、どうも内心忸怩たるものが
ありました。ある程度続けると、楽しみに変わります。まだまだ復興G様の域には達しませんが、
精進を重ねたいです。生長の家信徒行持要目の最後、『毎日一回は神想観を実修して心を光明化
すべし」ですが、神の子たる自分を思い出す事の大切さを感じます。

 生命の実相第6巻には、巻末に体験談が掲載されていますが、あれは修行者のありかたを別の
角度で説かれたもので、選りすぐりの体験だと思います。

 今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3349a hope:2013/11/28(木) 22:11:31 ID:/9IAdiFk

>>3347 復興Gさま 

ご指導をありがとうございます。

おかげさまで、わたしにとって今や「神想観」は快感です(笑)
いつもは40分くらいですが、たまに1時間以上することもあります。
リビングのフローリングの床に薄い敷物を敷いてしていますが、最近はまったく足がしびれなくなりました。

聖経読誦は神想観ほど熱心にはできませんが、黙読するようにしてから以前より集中できるようになりました。
なによりも、ご先祖さまやご縁のあった御霊さまたちに感謝の気持ちを込めるようにしています。

生長の家の、三正行は、「神想観」、「聖経・聖典の拝読、、そして「愛行」ですが、
わたしは、「愛行」は主に家族に対してや、仕事を通して実行してます。


Gさまご紹介の智慧の言葉

「善とは生命の実相に仕えること、生命の実相の催しのままに生きることである。物質的手段に頼ってみたり、時には生命の実相に頼ってみたり、フラフラするようなことではなんの甲斐もない。人は二人の主に仕えることはできない」

を実行するには、まずは「生命の実相」を悟らなければ話にならないのではないでしょうか?
(むしろ、生悟りのままこれを実行するのは、自分の経験から危険であると感じています。)


復興Gさま、わたしも、生長の家の三正行は、<<自分はまだ不完全だから、修行して神に近づくため>>のものだとは思ってしていません。

自己内在の神を観ずる「神想観」、潜在意識を浄めるための聖経・聖典の拝読、そして、自他一体感を自覚する「愛行」、すべては、「生命の実相」「人間神の子」を大悟するための、完璧な「行」であるとわたしは信じています。

ですからわたしは、トキさまのご発言『最低限は 「行」 をきちんとする事』には、何の違和感もありませんでした。

むしろ、「生長の家」の講師の方々が三正行の必要性を信徒にきちんと説かなくなってしまう方が問題だと感じています。

復興Gさま、 a hopeのたいへんな生意気をお許しください。
ですが、復興Gさまの大きな胸をお借りして、素直に感じたことを述べさせていただきました。

引き続き、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。

3350トキ:2013/11/28(木) 22:48:27 ID:5Wa7vmvU
 今読み直すと、私の先の投稿は支離滅裂で、申し訳ないです。

 まず、行についての復興G様のご指導は、私の考え方が、形式的というか、
掛け声だけだったのをご注意下さったものかと感じております。この点、
気をつけるべき点だと反省しております。

 それと、a hope様のご投稿は、楽しくて、とても励まされます。いきいき
していて、嬉しくなるような内容ですね。

今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3352復興G:2013/11/29(金) 19:33:01 ID:AB6RqYXc

>>3349 :a hope さま

 ありがとうございます。

 さて、「行」 について思うことをもう少し書かせて頂きます。

 私の知る限りでは、生長の家で 「行」 を最もひたむきに激しくきびしく実践した人は、榎本恵吾先生ではないかと思っています。

 榎本先生は高校生の時、アパートの一室を借りて住んでいた親友のところに一週間、居候をさせてもらって、その間ずっと神想観をつづけたことがあったそうです。焼きおにぎりを7個買ってきて、1日に1個食べ水を飲むだけの食事で、只管神想観を続けていた。友人は登校して帰って見ると、出かける前と同じ姿勢で神想観をしている。それが一週間続いた。友人は、「この男はすごい男だ」 と舌を巻いたそうです。

 この話は、恵吾先生の一年祭・追善供養の集いをしたときに、その友人(当時、榎本先生の郷里和歌山県のある町の町長になっていた)から聞いた話です。

 高校卒業後、飛田給道場で 「練習生」 (徳久克己総務の許で道場に住み込み、昼間は奉仕しながら夜間大学に通って勉強させてもらう研修生) となって修行された。道場ではもちろん早朝行事(神想観・聖経読誦)から毎日が始まる。そして当時道場で飼っていた鶏の世話をする仕事を与えられ、それも一所懸命されていた。

 先輩から、「鶏に愛の心を注いで世話をすれば、卵をたくさん産むようになる」 と言われ、真剣にそうしているつもりなのだけれども、産卵数はいっこうに増えない。それは自分の修行努力が足りないからだと反省し、自分を責めてばかりいた。

 そうしているうちに、高校時代の友人からは、「お前は生長の家を知らない時の方がよっぽど明るかった。生長の家をやるようになってから、雰囲気がどんどん暗くなって行った」 といわれたそうです。

 「生命の実相を悟りたい、悟りたい。まだだめだ、まだだめだ」 と一所懸命に 「行」 をすればするほど真理から遠ざかるように 「暗く」 なって行ったというのです。

 その榎本先生が、ある日聖歌を歌っているとき、フッと 「悟りは明日にしよう」 と思った。「悟りたい」 と思う心を捨てたのです。そしたらパッと 「今、生かされている! そのままでよいのだ!」 という喜びの光が心を満たした。

 それから、「行」 は真理を悟る 「ため」 のものではなく、ただ光が光する行となった――と聞きました。

 そして、「自然の美しい花などは、神想観をしてから咲いたのではないでしょう。人間も神想観をしてから生まれてきたのではないでしょう。そのまま喜んでいいのですよ。修行をしなければ救われないと思うところには、神が自分を不完全につくった、つくりそこないをしたという不信があることになる。すでに完全につくられていることを喜ぶのが神想観ですよ」 と説かれた。

 私は青年時代に先輩講師などから、「神想観をしなければ真理はわからない。神想観をしなければ救われない」 と言われて、疑問を持ち反撥を感じたことがあります。

 生長の家はまだ立教後たかだか ○十年だ。谷口雅春先生が現れられ、生長の家が始まるまでの人には、救われる道がなかったのか? 神は、そんな不完全な創造りかたをされたのか?――と。

 それで、神想観といえば形のことだとしか受けとっていなかった私は、なにか反撥を感じていました。

 a hope さまは、神想観・聖経、聖典の読誦・愛行の三正行を喜んで素直に行じていらっしゃるのは、すばらしいと思います。が、私はやはり、『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、かえって人間を縛ることになり、真理から遠ざかることになる可能性があると危惧します。

 「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。

 三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。

3353復興G:2013/11/29(金) 19:56:33 ID:AB6RqYXc

 web誌友会参考文献板の >183 に、このテーマにぴったりの、榎本恵吾先生のご文章がありました。

 ありがとうございます。

3354復興G:2013/11/29(金) 22:28:32 ID:AB6RqYXc

a hope さま、聖典引用板の >2678〜2684 に抜粋謹写された 『生命の實相』 第36巻 第3章 「無礙の大道」、すばらしいと思います。

また、信仰/体験板2 の >1471〜1482 で 「訊け」 様との対話、そして >1484 の トキ様が 『神真理を告げ給ふ』 p.44 からの謹写引用をされての締めは、まさに神が真理を告げ給うたお言葉だと感じました。

ありがとうございます。

3355a hope:2013/11/29(金) 23:33:14 ID:/9IAdiFk

>>3352 復興Gさま

キリストも釈迦も雅春先生も恵吾先生もお悟りになるために厳しい修行を積まれたのですね。
でも、その結果、そんな苦しみの伴う修行は必要ではなかったと実相世界の完全円満を悟られた。

でもそれって客観的にみたら、やはり厳しい修行があったから「大悟された」ということになるような気がするのです。

今、信仰/体験板で 訊け管理人さまやトキさまと、恵吾先生の「罪すらも『光』なんだ!」発言について、お勉強させていただいているのですが、
その内容から考えると、恵吾先生は『ご自分の経験された「悟りを求める修行」を間違いだった』とは思われていなかったのではないでしょうか?

その暗(やみ)の修行(一度、真理から遠ざかること)があったからこそ、まことの「実相独在」を悟ることができたのでると、
「あの辛い修行も光だったんだ!必要なことだったんだ!」と感謝されているような気がします。



ところで、復興Gさまが危惧されている、

<<『最低限は 「行」 をきちんとする事』 ということは、“掛け声だけの形式的な 「行」 の勧め” になるおそれがあり、>>

ということに関しては、>>3350でトキさまもご自分自身で反省されているようなので、わたしも納得させていただきました。
ご指導をありがとうございます。


ですが、

<<「三正行」 も、“……のために” となると、たとえそれが “「人間神の子」を大悟するため” であっても、ちょっとちがうのではないか。すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、という榎本先生のような生き方が本当だと私は思っています。
三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行であることを説くことは必要でしょうが……。 >>

という御文章中の、『すでに完全がある、すでに一切が与えられている、だから行じなくてはいられない、』という生き方ができるのは、
やはり「実相世界の完全円満さ」を完全に悟られている恵吾先生や復興Gさまだからだと感じてしまいます。


それに「詳説 神想観」の中で、「三正行」について、雅春先生がご指導くださっている御文章があるのですが、
それを拝読する限り、「三正行」はやはり真理を体得するためにする「行」であるとわたしは感じてしまいます。

わたしは、どんな人間にも、「真理を知りたい」という欲のようなものはあるのではないかと思うので、
「三正行」を真理を体得するために行ずるという考え方も間違えではないような気がします。
少なくともわたしはそういう理由でしています。

3356a hope:2013/11/29(金) 23:34:52 ID:/9IAdiFk
>>3355の文章は復興Gさまのご投稿>>3354を拝見する前に作成しました。)

>>3354 復興Gさま

お褒めくださりありがとうございます。
聖典「生命の實相」の素晴らしさに、毎日魂を震わせています。

3358復興G:2013/11/30(土) 13:58:37 ID:AB6RqYXc

>>3355 :a hope さま

>>今、信仰/体験板で 訊け管理人さまやトキさまと、恵吾先生の「罪すらも『光』なんだ!」発言について、お勉強させていただいているのですが、その内容から考えると、恵吾先生は『ご自分の経験された「悟りを求める修行」を間違いだった』とは思われていなかったのではないでしょうか?<<

――その通りだと思います。

すべては光、罪すらも光だと、榎本先生は悟られたと思います。

>>「詳説 神想観」の中で、「三正行」について、雅春先生がご指導くださっている御文章があるのですが、それを拝読する限り、「三正行」はやはり真理を体得するためにする「行」であるとわたしは感じてしまいます。<<

――それは、現象の側から見ればそうで、実相(光)の側から見れば、すでにある 「完全」 が、現れたくて、生まれ出たくて胎動を起こしている状態なのではないでしょうか。

3359a hope:2013/11/30(土) 17:14:12 ID:/9IAdiFk

>>3358 復興Gさま

<<実相(光)の側から見れば、すでにある 「完全」 が、現れたくて、生まれ出たくて胎動を起こしている状態なのではないでしょうか。 >>

実相世界の状態は、わたしにはわからないのです。

だからそれを悟りたいから、「人間神の子」の本物の自覚を得て、人類光明化に全力で取り組みたいと思うから、
だから、わたしは毎日神想観をして、聖典・聖経を拝読して、愛行をしているのです。

復興Gさまの

<<三正行は、三度の食事のように当り前の、ただうれしい素晴らしいありがたい行である。>>

このような境地にはわたしはまだ達していないのです。


たしかに、榎本恵吾先生のご文章を拝読したりご講話を拝聴したりすると、心が軽くなって元気になります。
それは、恵吾先生が、まことに実相独在を悟られていてそれに徹していらしたからだと思います。

また、直接個人指導を受けたりご講話を聴いたりすると、その波動がより強く伝わってさらに実相世界を悟ったような気がするのかもしれません。

ですがそれは、「悟り」のきっかけを与えられただけであって、その後は、やっぱり自分自身の修行が大切になるのだと思います。

生長の家の「三正行」はそのためにあるのだとわたしは思うのですが・・・。

違うのでしょうか?


詳説 「神想観」の雅春先生の「三正行」のご指導文を、聖典板に謹写させていただきます。

3360復興G:2013/11/30(土) 20:35:48 ID:AB6RqYXc

a hope さま

詳説 「神想観」の雅春先生の「三正行」のご指導文を、聖典板に謹写してくださって、ありがとうございました。

プリントアウトして、赤線を引いてしっかり拝読させていただいています。

三正行の大切さが、よくわかります。

もっともっと、精進しましょう。

ありがとうございます。合掌

3364a hope:2013/12/01(日) 11:05:35 ID:/9IAdiFk

>>3360 復興Gさま 

わたしの思いを理解してくださりうれしいです。感謝 合掌。

実相世界は確かに存在していて、それが唯一の実在だということは、
生長の家の信徒だったら、雅春先生の聖典を拝読されていらっしゃる方だったら、
ほどんどの方が頭では理解されていることなのだと思います。

ですが、それを『体得する』というのは、全く別の次元のお話なのではないかと思うのです。

聖典引用板 >>2691に謹写させていただいた【真理を完全に悟るには――生長の家の三行】
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1322022766/2691

わたしは、これを成し遂げることが「まことの法燈継承」なのだと感じています。

3365a hope:2013/12/01(日) 11:09:12 ID:/9IAdiFk

みなさま こんにちは

聖典 「生命の實相」や「生長の家の教え」をもっともっとお勉強されたいみなさまにうれしいお知らせです!

もと宇治別格本山の大人気講師だった大熊先生が、ご自身のブログでとてもおもしろい講義をしてくださっています。
3D形式(?)で、臨場感満載です(笑)
また、今日は、この掲示板で話題になっている榎本恵吾先生との秘話(素晴らしいエピソード)もお話してくださっています。

最近、やっとコメント欄を発見できたわたしもコメントしていますよ!(笑)

http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151/folder/172638.html

3366復興G:2013/12/02(月) 10:15:31 ID:AB6RqYXc

a hope さま
皆さま

私は昨日は朝から夜遅くまでリアルの世界で息つく暇もないほど4つの意義ある行事をこなし、このネット掲示板は開いてみることも出来ませんでした。充実した、私にとって忘れられない一日になったと思います。

さて、12月に入りました。

おもえば、今までこのトキ様が立ち上げ運営してくださっている掲示板で、たくさんの書き込みをさせていただき、たくさんの方々と心の交流をして真理を深く学ばせて頂きました。それによって私は素晴らしい魂の生長をさせていただいたと、深く感謝しています。

トキ様には、日夜ほとんど心のやすまるいとまもないくらい、この掲示板の運営にはご心労もあったのではないかと思います。深いご愛念に、ただ感謝あるのみです。

いま私は、この12月を区切りとして、この掲示板から退場させて頂きたいと思っています。

来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい。

a hope さまが聖典引用板に謹写して下さった

<< 「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。>>

とご教示いただいている愛行を、新たな場で、全生命をかけて実践して行きます。

ここはトキ様が運営して、生長の家あり方を真剣に考える皆さまのために開放して下さっている、万人のための掲示板です。このweb誌友会板で、私は昨年5月から約1年半にわたり、皆さまに推されて司会者とか、指導者とみなされるような立場におかれて勉強させていただいてきましたが、これは私の掲示板ではありませんから、私の色が濃くでてしまうのはよくないと思います。で、このあたりで退場させて頂いて、トキ様、皆さまにお返しするのが適当であると考えました。

今月、12月は、これまでのつづきとしては、『生命の實相』 第7巻を勉強することになりますが、第7巻に限らず、『生命の實相』 全巻および全聖典をテキストと考えて、私としては最後のweb誌友会とさせていただきたいと思います。

なにとぞよろしくお願い申し上げます。

合掌 ありがとうございます。

3367トキ:2013/12/02(月) 11:58:11 ID:vniWpnlU
復興G様

 今月いっぱいでこの掲示板を卒業されるとの事、驚きました。
今まで、素晴らしいご指導を賜っていたので、私達後進としてはたいへん寂しく、また、
残念です。今まで賜ったご恩に深く感謝申し上げます。

 復興G様は教えの大先達ですが、ご多忙の中、私達後進のために貴重な御時間を使い、
ご指導を賜った事は、神界から谷口雅春先生もお慶びかと拝察する次第であります。
 本当にありがとうございました。

 しかし、今後は、もっとすばらしい場所で、生長の家と信徒のために、もっと素晴らしい
活動を展開されると確信をしております。

 あと一月ですが、これが復興G様ご指導の誌友会は最終回になります。どうか、皆様、
奮ってご参加のほど、お願いを申しあげます。

 また、残り一月ですが、復興G様のご指導のほど、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

3368志恩:2013/12/02(月) 12:13:24 ID:.QY5jUA6
復興G様

12月いっぱいで、ここの掲示板を卒業されるのですか。びっくりです。
私も、復興G様に、たくさんたくさん教えて頂きましたご恩を忘れません。

誠に、ありがとうございました。

>>来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、
私の生命表現、使命実現をして行きたい。<<

と、おっしゃっておられますが、
“リアルの世界とネット空間の双方ともに“....ということは、
ネットでも 新しいことを始められるということでしょうね。

楽しみに期待させて頂きます。

卒業とおっしゃっても、たまにでもいいですから、また、「特別ゲスト」として、
いらして下さって 教えて頂けましたら、有り難く存じております。

3374復興G:2013/12/02(月) 19:36:46 ID:AB6RqYXc

トキ様

志恩様

ありがとうございます。合掌

3375a hope:2013/12/02(月) 21:36:15 ID:/9IAdiFk

>>3366復興Gさま


<< 「知」が「信」によって生命を吹き込まれ、更にそれを愛行によって実践するとき真理が生動するものとなるのです。>>
とご教示いただいている愛行を、新たな場で、全生命をかけて実践して行きます。


上の復興Gさまの御決意に心からの拍手を送らせていただきます。
そして、今までとてもレベルの高い魂のこもった丁寧なご指導をしていただいたことに心から感謝します。

わたしは自分ほど、復興Gさまご指導のこのweb誌友会で生長させていただいたものはいないと自負しています。


復興Gさまは、この掲示板を引退されても

<<来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい。>>

と仰っていますから、これからは、わたしもトキさまや志恩さま同様、そちらに期待させていただきたいと思います。


とはいいましても、12月いっぱいはまだこのweb誌友会でご指導いただけるわけですから、今回も精一杯学ばせていただきたいと思います。

復興Gさま どうそよろしくお願いいたします。

感謝 合掌

3376a hope:2013/12/02(月) 21:38:19 ID:/9IAdiFk

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第20回 web誌友会

期間  12月1日〜12月31日まで
テキスト 「生命の實相」全範囲および、全聖典

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3377あさひ:2013/12/02(月) 22:02:53 ID:u9w/1zYY

復興Gさま

色々教えて頂いておりましたが、卒業されると聞き驚いています。

卒業されても、時々同窓会に出てきてください。

どこにおられても 雅春先生の弟子としての先輩、同志ですから。

ありがとうございます。

ますますのご活躍で更に大きくお国のためになられることでしょうね。
                   
                  合掌

3378ユタカ:2013/12/03(火) 05:43:55 ID:???
復興G様がいなくなるなんて考えられない!!

もうユタカは生きていられない!!

3379復興G:2013/12/03(火) 07:46:23 ID:AB6RqYXc

a hope 様

あさひ様

ありがとうございます!

ユタカさま

>>復興G様がいなくなるなんて考えられない!!
もうユタカは生きていられない!! <<

大丈夫ですよ、私はいなくなるわけではありませんよ。
今まで以上に、私はユタカさまともひとつの心で、今まで以上に力強く前進して行きたいと思っていますから。

ありがとうございます!

3380a hope:2013/12/03(火) 08:34:17 ID:/9IAdiFk

みなさま、第20回web誌友会が開会いたしましたので、開会の祈りをさせていただきます。

    ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

住吉大神様 住吉大神様  谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
  生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ 
  吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
  吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
  天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
  
  住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
  生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための  必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
  住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
  参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
  有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます

世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、
すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。

光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり

3381a hope:2013/12/03(火) 08:39:00 ID:/9IAdiFk

つづきまして、聖経 『真理の吟唱』より
 「神に世嗣(よつぎ)を完(まっと)うする祈り」を謹写させていただきます。

「神に世嗣を完うする祈り」

わたしは今 〝神の子〝 であることを悟ったのである。
神はわが父であり給い、私たち人間を神の世嗣として地上に顕現せしめ給い、
神の御心を地上に実現するための 〝神の子〝 として地上天国建設の使命を授け給うたのである。
この大使命を自覚するまでの私たちは、いわば 〝漂流(さすらい)の子〝 〝放蕩息子〝 とも譬(たと)うべきものであったのである。
しかし今はもう私は 〝漂流(さすらい)の子〝 でも 〝放蕩息子〝でもないのである。
わたしは今、父の御許に立還(たちかえ)ったのである。
父はわたしが郷里に還ったことを悦びたまうて、父のもち給える一切の善きもの、
美しきもの、悦ばしきもの、楽しきものを与え給い、私を神の世嗣とし給うのである。
神の大いなる清く健やかなる生命の流れが滔々として、今わが内に流れつつあるのである。
それゆえに、私は今、無限に健やかであり、溢るるばかりの生命の豊かな躍動を内に感じ、
地上天国建設のために、
私に割当てられたる仕事にいそしむことができるのである。

私は今、ゆるされて神の世嗣となったのであるから、神の明らかなる智慧は常に神の御蔵あ(みくら)より私に流れ入って、
何時、如何(いか)になすことが、繁栄の道に叶い、健康の道に叶い、人類の福祉の道となり、
地上天国建設に役立つ道であるかを明らかに知ることができるのである。
わたしの努力することは必ず実を結び、わたしの計画することは必ず善き協力者を得て、成就することは明らかなのである。

わたしは今、神の世嗣として、わが内部に神の大生命が還流し、素晴らしい生命の輝きを発揮していることを自覚するのである。
それゆえに私は常に心明るく楽しく愉快で、光明の雰囲気を身辺に放散しているのである。
したがって、私の身辺にきたる人々は、ことごとく明るくなり、楽しくなり、愉快となり、幸福となるのである。
したがって、私は多くの良き協力者を得、共鳴者を得、いよいよ益々繁栄せざるを得ないのである。

わたしは今、自分がまことにも神の世嗣であることを自覚したのである。
今、ここに、私の体に神が満ちていますのである。
永遠の生命、永遠に疲れず、老いず、病まず、働きてやまざる生命、
――これが神の生命であり、私の生命であるのである。
その生命の貴(とうと)さを自覚するとき、わが生命はその高貴さを現実に発揮するのである。
その生命の貴さを自覚して行動するとき、神が現実に、この 〝私〝 を通して顕れ給い、
奇蹟と見ゆるごとき大業をもやすやすと成就することができるのである。
人間が神の世嗣であるということは、人間は自己を通して神の一切の善徳がこの世に実現する機関であるということである。
自覚せよ、自覚せよ。
〝私は 〝神の子〝 であり、神の世嗣であり、神の最高の自己実現であることを。
ありがとうございます。


以上 謹写 終わり 

感謝 合掌。

それでは、復興Gさま、トキさま、みなさま、今回もどうそよろしくお願いいたします。

3382復興G:2013/12/03(火) 09:19:34 ID:AB6RqYXc

 a hope さま、ありがとうございます。

 「神の世嗣を完うする祈り」 を拝読して、身の引き締まる思いと、悦びに打ち震える思いです。

 感謝 合掌

3383トキ:2013/12/03(火) 20:29:08 ID:1.ZeCdy2
"神 真理を告げ給う”の16pには、以下のご文章があります。

 「あなたが『生命の実相」をよむとき、あなたの内にあって眠っていた”わたし”の
分身が、実相を語るコトバの力によって目覚めしめられる。その程度は人によって
異なるのであるけれども、その目覚めの程度にしたがって、或は病気が消えたり、
その人の経営する事業が、実相円満の展開として、繁栄して来るなどの体験があら
われて来る。(後略)」

 今回もテキストとして、生命の実相を拝読します。素晴らしい成果が生まれる事
を確信しております。

 復興G様、a hope様、よろしくお願いします。皆様のご参加を心からお待ちして
おります。

合掌 ありがとうございます

3384復興G:2013/12/03(火) 22:16:24 ID:AB6RqYXc

トキ様

皆さま

ありがとうございます。

私は書き込みたいこともたくさんありますが、今ちょっといそがしいので、

土曜日以後に書かせて頂きます。

『生命の實相』 第7巻に関する話題を書きたいと思っています。

よろしくお願いいたします。

合掌

3385ユタカ:2013/12/03(火) 22:33:07 ID:???

復興Gさま、これからもずーーーっと一緒にいさせて下さい。
ほんとに、本当に!  みんなともこれからもずーーーっと一緒にいて下さい。

今日一日は・・・・

上をむいて歩こう・・・
涙がこぼれないように・・・
泣きながら歩く一人ぼっちの夜・・・

って歌の通りでした。。。

3386復興G:2013/12/04(水) 09:59:48 ID:AB6RqYXc

ユタカさま

あなたと私は、離れたくても離れることのできない、いつも一体の命ですよ。

「泣きながら歩く一人ぼっちの夜・・・」

なんて、夢ですよ、夢!

夢から覚めて、笑いましょう! ワッハッハ・・・・・・!

ありがとうございます!

3387a hope:2013/12/04(水) 22:02:36 ID:/9IAdiFk
>>3381訂正 

「神に世嗣を完うする祈り」→「神の世嗣を完うする祈り」

3388a hope:2013/12/04(水) 22:03:17 ID:/9IAdiFk

>>3385ユタカさま

お久しぶりです。
最近書き込みが少ないのは、お勉強にお仕事に忙しくされていらっしゃるからだと拝察しています。

復興Gさまはこちらに書き込みをされなくなっても、
<<来年1月から、新たな場(リアルの世界とネット空間の双方ともに)で、私の生命表現、使命実現をして行きたい。>>
おっしゃっていますから、お別れするのとは違うと思いますよ。
だから、わたしはちっとも悲しくないのです。
わたしは、来年からは、復興Gさまからの「新たな場」でたくさん学ばせていただくつもりでいます。

わたしは、ユタカさまともまた一緒にお勉強できるのを楽しみにしていますよ!

3389a hope:2013/12/04(水) 22:06:06 ID:NQ9J2d7w

みなさま こんばんは。

わたしはもう4年前くらいになりますが、聖典「生命の實相」という素晴らしい聖典に巡り合って教団の信徒になりましたが、
今の教団の教えになじめず体調を壊し、その時に当時の「本流掲示板」で教団の現状知りました。
その後、2年間以上もの間、こちらのトキ掲示板で自分の感じたことを素直に発言させていただいてきました。

わたしが、初めて復興Gさまとお話したのはトーキングスティックボードで、復興Gさまが榎本恵吾先生のお話をされているときだったような気がします。
真理を知りたい一心で、当時、わたしにはとても難しく感じられた復興Gさまの「実相独在」の話について行こうと頑張っていました。

今朝、久しぶりにそこのところを再拝読してみましたが、その内容がすごいので驚いています。

復興Gさまは、とても丁寧に「実相独在」の見解からの「大調和の神示」「人類光明化運動発進の宣言」『因果、昧(くらま)さず』の解釈をしてくださっていました。
わたしは、2年間以上ここでお勉強させていただいて、やっと、その本当の意味が理解できるようになってきたようです。
そして今、その内容の素晴らしさにあらためて感動しています。

昨晩、風笠さまがトーキングスティックボードに久しぶりに登場されていましたが、
当時の風笠さまと復興Gさまの『無門關解釋』第二則「百丈野狐」に関するやり取りなどは、
当時のわたしにはほとんど理解できていなかったようです。

もう一度ゆっくり拝読しなおして、お勉強させていただきます。感謝 合掌。

皆さんもよかったら、ご覧になって下さいね。

本当に、素晴らしい内容ですよ!

トーキングスティックボード>109 〜>185までです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/11346/1311691486/109n-

3390復興G:2013/12/05(木) 10:21:11 ID:AB6RqYXc

>>3389 :a hope さま

2年前のトーキングスティックボードまで読み返して下さって、ありがとうございました。

合掌

3391トキ:2013/12/05(木) 19:44:35 ID:SC0VGwQQ
 生命の実相第7巻は分かりやすくて、青年会などではよくテキストに使っていました。

 ただ、ある程度、勉強をすると、このテキストは、第1巻から第6巻まで読んで、その
内容を咀嚼しないと、これはこれで捉え方が変わって来るという印象を感じています。
唯神実相論を前提にしないと、単なる啓発書と誤解されるかもしれません。

 しかし、逆に、真理を生活に生かす、という目標から考えると、第7巻はその点をよく
とらえた内容かと感じています。この当たり、まだ、勉強中でわからない点が多々ありま
すので、復興G様のご指導をお願いする次第であります。

3392ユタカ:2013/12/05(木) 23:13:13 ID:R1D4Jmeg

>>ユタカさま
夢ですよ、夢!

夢から覚めて、笑いましょう! ワッハッハ・・・・・・!<<

===============================

ハッ!!
夢か!! 夢だ! 夢だったんだ!!!

汝らの先づ悟らざるべからざる真理は、
『我』の本体がすべて神なることなり、
汝ら億兆の個霊も、
悉くこれ唯一神霊の反映なることを知れ。

喩へば此処に一個の物体の周囲に百萬の鏡を按きて
これに相対せしむれば一個もまた百萬をの姿を現ぜん。
斯くの如く汝らの個霊も
甲乙相分れ、丙丁互に相異る相を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば

これを汝ら互いに兄弟なりという。



生長の家が分裂しているように見えるのは夢だ!! 夢だ!!夢だった!!

異なる姿をしていても全て谷口雅春先生の生長の家だ!

みんな兄弟だった! どこに所属していてもそこが生長の家だった。

外形に捉はるること勿れ。
分かち難く一体なる事を知り、

おのづから愛と賛嘆の心湧き起こらん。



そうか!!!! そうだったんだ〜〜〜〜〜!!!!

復興Gさま、 卒業試験の問題を解答できたような気分です。それか、長い悪夢からの覚醒。??
自分の中で納得できればそれが最高です!!

復興Gさま、ありがとうございます!!! 

a hopeさま
どうもありがとうございます。
一緒に復興Gさまと永遠に勉強していきましょうね。

3393復興G:2013/12/06(金) 09:50:27 ID:AB6RqYXc

ユタカさま!

あなたは素晴らしい!

あなたは、私よりも一歩先を行ってらっしゃる!

私も、あなたに遅れないように、永遠に一緒に勉強していきます!

ありがとうございます!

3394a hope:2013/12/07(土) 23:19:08 ID:/9IAdiFk

みなさま こんばんは

>>3392ユタカさまの

<<ハッ!!
夢か!! 夢だ! 夢だったんだ!!!

汝らの先づ悟らざるべからざる真理は、
『我』の本体がすべて神なることなり、
汝ら億兆の個霊も、
悉くこれ唯一神霊の反映なることを知れ。

喩へば此処に一個の物体の周囲に百萬の鏡を按きて
これに相対せしむれば一個もまた百萬をの姿を現ぜん。
斯くの如く汝らの個霊も
甲乙相分れ、丙丁互に相異る相を現ずるとも
悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
これを汝ら互いに兄弟なりという。

生長の家が分裂しているように見えるのは夢だ!! 夢だ!!夢だった!!
異なる姿をしていても全て谷口雅春先生の生長の家だ!
みんな兄弟だった! どこに所属していてもそこが生長の家だった。

外形に捉はるること勿れ。
分かち難く一体なる事を知り、
おのづから愛と賛嘆の心湧き起こらん。  

そうか!!!! そうだったんだ〜〜〜〜〜!!!!>>

というお悟りの心境ですが、なんかお釈迦さまの悟りに似ているような気がしましたよ。

以下、謹写させていただきます。

3395a hope:2013/12/07(土) 23:20:55 ID:/9IAdiFk

「生命の實相」第39巻 佛教篇 P41 8行目〜

…悟ってみれば、天地間のものことごとくが生かし合いならざるものはない、実にありがたい世界だったのであります。
すべてのもの一つ一つに仏の命が現れている、仏の慈悲が現れている、神のいのちが現れている、神の愛が現れていることが悟れるのです。
神の生命(いのち)が現われ、仏のいのちが現われているからこそすべてのものが互いに愛し合い生かし合っているのです。
今まで殺し合いだと思っていた世界は神の、仏の、無限の生命(いのち)、愛、智慧に満たされているところの立派な世界だったのです。
互に憎しみ合い争い合っていると見えた生命(いのち)も、その敵と見えたものは、
自分にとっては自分をみがく砥石であってわれわれの生命(いのち)がだんだん砥石にかけられて、
いっそう立派な霊性が啓(ひら)かれてゆくために仕組まれている仏の慈愛、神の愛の現れだったのです。
天地間、ありとあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、
憎しみ合っているかのごとく見えている者同志さえも生かし合っている世界なのです。
みんな愛し合いの世界なのです。
みんな解け合いの世界なのです。
そういうことが釈迦に解ってきたのであります。
そこで釈迦は、十二月八日の暁(あけ)の明星を見ながら、「「有情非情同時成道、山川草木土悉皆成仏」と悟られたのであります。
すなわち「有情」――生きとし生けるもの、「非情」」――ありとしあらゆるもの、悉く今仏になっている。
山も川も草も木も悉く仏の姿である。
みんな生かし合い、拝みあいの相(すがた)である。
今まで地獄の相(すがた)だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。
これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。

以上 謹写 終わり

感謝 合掌


明日12月8日は、釈迦が悟りを開かれた日なのですね!

3396ユタカ:2013/12/08(日) 05:35:13 ID:R1D4Jmeg
復興Gさま

ありがとうございます。復興Gさま、これからも違う形かも知れませんが、これからも「生長の家の御教えの御導き」を頂けると分かりましてとても安心出来ました誠に、有難うございます。
私は、復興Gさまとのお勉強が大好きで・・・「ストカー」にでもなりかねないところでした? かも?? (冗談です、ごめんなさい)

復興Gさま、私は復興Gさまの先になど、とても、とても行けません。
今回も、夢ですよ。と復興Gさまに教えて頂いたので眼が覚める事ができました。かといって、a hopeさまが謹写下さいました生命の実相のような

自分を磨く砥石 にかけられて磨かれている自覚もまだまだ希薄です。

ですので、復興Gさま、ユタカはまだまだ勉強しないといけない事が沢山あります、これからも御教えのご指導ご鞭撻の程をよろしくお願い申し上げます。


a hopeさま

心を打つような素晴らしいご謹写を有難うございます。本当に実相世界って素晴らしいですね。
私達が住んでいる本当の世界なのですね。有難うございます。
今、私は何も出来なくてごめんなさい。

3397ユタカ:2013/12/08(日) 05:47:06 ID:R1D4Jmeg
>>夢ですよ、夢!

夢から覚めて、笑いましょう! ワッハッハ・・・・・・!<<



復興Gさまの言葉って本当に素敵ですね、明るく嬉しくなってしまいます。

そして、実相と現象の区別を常にできる簡単で明るい優しい良い言葉ですね。

3398復興G:2013/12/08(日) 11:05:43 ID:AB6RqYXc

>>3394・3395 :a hope さま

 ありがとうございます! 今日が、そのお釈迦様成道の日なのですね! 素晴らしい!
 おめでとうございます!

 「一人(いちにん)出家すれば九族天に生まる」 と言いますが、本当は、「九族」 (4代前の先祖から4代後の子孫まで) だけではなく、「有情非情同時成道」 なのですから、

 「自分ひとりが浄まったなら、世界は浄まるのである」
(『叡智の断片』 p.127)

 「一即多・多即一であり、相即相入であり、皆さんのいのちは、私のうちにあり、私のいのちは皆さんのうちにあり、相即相入していることがわかるのであります。これが華厳の真理であり、生長の家の真理でもあり、法華経にもそれが説かれているのであります。

 そのように人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。

 ……一人出家すれば九族天に生まる ということが書かれておりますが、九族どころじゃない、一人が悟れば、人類全部みんなの者が悟るのであります。これこそが、実相世界の素晴らしい状態なのであります。もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります。」
(『新版 真理』 第7巻 p.16〜17)

 とお教え頂いています。迷っている者があると見ていたのは、実は夢だったのですね!

 バンザーイ! 夢から覚めて、笑いましょう! ワッハッハ・・・・・・!

 ありがとうございます!


>>3396・3397 :ユタカさま

 ユタカさまのような方にストーカーされたら、うれしくて、舞い上がって昇天してしまいますよ(笑)。
 バンザーイ! です。

3399a hope:2013/12/08(日) 12:14:52 ID:/9IAdiFk

>>3398 復興Gさま

昨晩「生命の實相」第39巻 佛教篇を拝読していて、偶然、12月8日が釈迦の悟った日だと知りました。
「えっ? 今日って何日?」って、カレンダーで確認したら、前日の7日でした!

聖典『生命の實相』の拝読を続けていると、そんな偶然(シンクロニシティ現象)が、頻繁に起きるようになってきました。


<< 「一即多・多即一であり、相即相入であり、皆さんのいのちは、私のうちにあり、私のいのちは皆さんのうちにあり、相即相入していることがわかるのであります。これが華厳の真理であり、生長の家の真理でもあり、法華経にもそれが説かれているのであります。
そのように人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。
……一人出家すれば九族天に生まる ということが書かれておりますが、九族どころじゃない、一人が悟れば、人類全部みんなの者が悟るのであります。これこそが、実相世界の素晴らしい状態なのであります。もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります。」
(『新版 真理』 第7巻 p.16〜17)
>>

↑これが「同時成道」なのですね!


また、今朝「光明掲示板」へ行ったら、伝統さまが、「釈迦成道会に因みて (3367)」というスレッドで、釈迦のお悟りについて詳しくお話くださっていました。
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=716


なんて真理のお勉強は楽しいんでしょう!!

バンザ―――――イ!!!

3400復興G:2013/12/08(日) 12:59:32 ID:AB6RqYXc

 トキ様 皆さま

>>3384で (12月3日)
>>私は書き込みたいこともたくさんありますが、今ちょっといそがしいので、土曜日以後に書かせて頂きます。
『生命の實相』 第7巻に関する話題を書きたいと思っています。<<

 とお約束していました、その土曜日(7日)を過ぎています。遅くなりましたが、それを、これから書かせて頂きます。

>>3391でトキ様が

>> 生命の実相第7巻は分かりやすくて、青年会などではよくテキストに使っていました。
 ただ、ある程度、勉強をすると、このテキストは、第1巻から第6巻まで読んで、その内容を咀嚼しないと、これはこれで捉え方が変わって来るという印象を感じています。唯神実相論を前提にしないと、単なる啓発書と誤解されるかもしれません。<<

 と書いて下さっていました。
 『生命の實相』 第7巻 生活篇は、宗教臭くなくて、誰が読んでも生命が鼓舞されるような力強いご文章で書かれており、青年・壮年の新人に愛行贈呈すると必ず喜ばれると言ってよい、素晴らしいご本だと思います。

 では、唯神実相論を説かずレベルを落としてあるのかというと、そんなことはないと私は思います。

 この巻の最後のところには、次のように記されています。

<< 「生長の家」 の出現とともに、人間は 「新しい生命」 を見いだしつつある。今まで、人間は物質で造られているもの、死すべきもの、有限なるもの、病むべきもの苦しむべきもの、罪人として報いを受けねばならぬもの、かくあるべく運命づけられているものとされていたのである。ところが、「生長の家」 の出現とともに、人間は別の自分―― 「本物の自分」 を発見したのである。

 彼は霊で造られているもの、不死なるもの、無限なるもの、病まざるもの、苦しむこと能わざるもの、本来清浄(しょうじょう)にして罪に汚染し難きもの、円満に、幸福に、健康に、豊富に、生きることのほかは何事もできないように運命づけられているものであるところの自分を見いだしたのである。

 なんという人類全体の更生であろう。なんという人類全体の福音であろう。「真理はなんじを自由ならしめん」 と聖書にあるように、人類は 「生長の家」 によって、真理を与えられて、自己本然(ほんねん)の生命の円相を奪還したのである。>>

 と。

 この 「本物の自分」 を生かす道、「自己本然(ほんねん)の生命の円相」 を実生活に現し出す道を、雄渾無比の力強いご文章で書きあらわされたのが、この第7巻 「生活篇」 であると思います。

 私自身、青年時代から、この 「生活篇」 によってどんなに大きく影響を受け、育てられたことか、計り知れないものがあります。今日の私の幸福は、この 「生活篇」 によるところがまことに甚大です。

 例えば、私が結婚できたのも、「生活篇」 のおかげです。(のちほど、詳細を書かせて頂きましょう。)

 小学校から高校までの同期生と何十年ぶりかに会ったとき、かつてはまったく意気地なしで おとなしく非社交的だった私の 変わりように驚嘆されることが多いです。
 「人間って、こんなに変われるんだ」
 と。

 それは、この 「生活篇」 によって育てられたところが極めて大きいのです。それを思うと、感動で涙が出るくらい、ありがたいことです。

 ――つづきは、また後に。

3401復興G:2013/12/08(日) 13:45:37 ID:AB6RqYXc

>>3399 :a hope さま

>> 聖典『生命の實相』の拝読を続けていると、そんな偶然(シンクロニシティ現象)が、頻繁に起きるようになってきました。<<

 ―― 「一即多・多即一であり、相即相入」 で、「同時成道」 なのだから、それが当り前なのでしょうね。

 ありがとうございます!

3402曳馬野:2013/12/08(日) 16:46:19 ID:TUEhTkAQ

a hopeさん、復興Gさん、その他本流派の方にお聞きします


** それが丁度12月の8日。
あたかも暁の明星が東の空に輝かしく光を放っていたのです。

(中略)

** 釈迦は尼連禅河で沐浴して、ゆあがりのサッパリした気分で初めて6年振にバラモンの少女から
供養を受けて牛乳のお粥をお喫りになった時にとても美味しかった。



  この伝統さん引用文の件です。

 雅春先生は後半の少女の供養により悟りを得たと説かれます、しか禅門では一見明星により悟りを得たと云われています。

 その一見明星の様子を己の上に体験することを悟りとします。

 釈迦の悟りはどちらでしょうか?


** 一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。
……一人出家すれば九族天に生まる ということが書かれておりますが、九族どころじゃない、
一人が悟れば、人類全部みんなの者が悟るのであります。これこそが、実相世界の素晴らしい状態なのであります。
もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります(復興Gさん引用文)

迷っている者があると見ていたのは、実は夢だったのですね!(復興Gさん)


 【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り)

 【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)

 【 一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。】これは現象界が変化する、ということではないですよね。

  雅春先生が悟られても、本流派のお偉い方が悟られているような物言いをされても、雅宣先生は悟りとは関係ない人だと云われて

  いるのですから。

  【 迷っている者があると見ていたのは、実は夢だったのですね!】と高笑いされても現実は何ら変わっていないですよね。

  生長の家の悟りとはどのようなものなのでしょうか?

  有情非情同時成道と意識の世界で実相論を振りかざしても、教団を現象悪の権化のように見ることはどういうことなのでしょうか?


 観念の世界で実相を捉え喜んで、現実には現象悪と感ずるものに口汚く対応する、これが生長の家の救いなのですか?

 こんな救いであるならば、雅宣先生でなくとも私も御免こうむります。

3403復興G:2013/12/08(日) 19:00:26 ID:AB6RqYXc

>>3402 :曳馬野さん

私は “本流派” ではありません。

<< もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります。>>

だから、
>>教団を現象悪の権化のように見る<<
ことはしておりません。

また、
“本流派” を悪現象の権化とも見ません。

>>3392で ユタカ様が

<< ハッ!!
夢か!! 夢だ! 夢だったんだ!!!

  汝らの先づ悟らざるべからざる真理は、
  『我』の本体がすべて神なることなり、
  汝ら億兆の個霊も、
  悉くこれ唯一神霊の反映なることを知れ。

  喩へば此処に一個の物体の周囲に百萬の鏡を按きて
  これに相対せしむれば一個もまた百萬をの姿を現ぜん。
  斯くの如く汝らの個霊も
  甲乙相分れ、丙丁互に相異る相を現ずるとも
  悉くこれ唯一神霊の反映にしてすべて一つなれば
  これを汝ら互いに兄弟なりという。

生長の家が分裂しているように見えるのは夢だ!! 夢だ!!夢だった!!
異なる姿をしていても全て谷口雅春先生の生長の家だ!
みんな兄弟だった! どこに所属していてもそこが生長の家だった。

  外形に捉はるること勿れ。
  分かち難く一体なる事を知り、

  おのづから愛と賛嘆の心湧き起こらん。

そうか!!!! そうだったんだ〜〜〜〜〜!!!!

復興Gさま、 卒業試験の問題を解答できたような気分です。それか、長い悪夢からの覚醒。?? >>

――と書いて下さったように、

また a hope さまが >>3395で 「生命の實相」 第39巻 佛教篇 P41〜から謹写引用してくださったように、

<<…悟ってみれば、天地間のものことごとくが生かし合いならざるものはない、実にありがたい世界だったのであります。

すべてのもの一つ一つに仏の命が現れている、仏の慈悲が現れている、神のいのちが現れている、神の愛が現れていることが悟れるのです。

神の生命(いのち)が現われ、仏のいのちが現われているからこそすべてのものが互いに愛し合い生かし合っているのです。

今まで殺し合いだと思っていた世界は神の、仏の、無限の生命(いのち)、愛、智慧に満たされているところの立派な世界だったのです。

互に憎しみ合い争い合っていると見えた生命(いのち)も、その敵と見えたものは、自分にとっては自分をみがく砥石であってわれわれの生命(いのち)がだんだん砥石にかけられて、いっそう立派な霊性が啓(ひら)かれてゆくために仕組まれている仏の慈愛、神の愛の現れだったのです。

天地間、ありとあらゆるもの、生きとし生けるもの、みんなこうして愛し合っている者はもちろん、憎しみ合っているかのごとく見えている者同志さえも生かし合っている世界なのです。
みんな愛し合いの世界なのです。
みんな解け合いの世界なのです。

そういうことが釈迦に解ってきたのであります。
そこで釈迦は、十二月八日の暁(あけ)の明星を見ながら、「「有情非情同時成道、山川草木土悉皆成仏」と悟られたのであります。

すなわち「有情」――生きとし生けるもの、「非情」」――ありとしあらゆるもの、悉く今仏になっている。
山も川も草も木も悉く仏の姿である。
みんな生かし合い、拝みあいの相(すがた)である。
今まで地獄の相(すがた)だと思っておったのはまちがいだったとお悟りになったのであります。
これが釈迦のお悟りになった縦の真理であります。>>

――と、そういう世界がすでに実在することのみを、ただひたすら観じております。

ありがとうございます!

3404a hope:2013/12/08(日) 20:16:50 ID:/9IAdiFk

>>3402曳馬野さま

<<雅春先生は後半の少女の供養により悟りを得たと説かれます、しか禅門では一見明星により悟りを得たと云われています。その一見明星の様子を己の上に体験することを悟りとします。
釈迦の悟りはどちらでしょうか?>>

とのご質問ですが、わたしは、「禅門の一見明星による悟り」に関しての知識がないのですが、
伝統さまの謹写された雅春先生の御文章をよく拝読すると、どちらもお釈迦さまの悟りだったのではないかと感じます。


以下、光明掲示板より「釈迦成道会に因みて (3367)」部分転載させていただきます。
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&amp;mode=res&amp;log=716

―――――――――――――

ウルビルワーの林の中で6年間苦行を続けられましたが、結局得るところなく、又山を下りて来られた
のであります。それが所謂「出山(しゅっせん)の釈迦」でありまして、『出山の釈迦像』として彫刻
とか絵などに表現せられているところの、瘠せさらばうたお釈迦さんの姿であります。

山から下りて来られた後、苦行は悟のたねにあらず、斯うお悟りになったのです。
苦しんでみたところが、本当に悟が開けるものではないんだ。
そこで一遍気持を変えようというので、尼連禅河という河に沐浴をされたのであります。

全身を沐浴せられて6年間の垢をお落しになると
綺麗さっぱりとした清々しい気持ちになられたのであります。

それが丁度12月の8日。
あたかも暁の明星が東の空に輝かしく光を放っていたのです。

(中略)

釈迦は尼連禅河で沐浴して、ゆあがりのサッパリした気分で初めて6年振にバラモンの少女から
供養を受けて牛乳のお粥をお喫りになった時にとても美味しかった。

お釈迦さんはその美味しい味はどこから来るか考えられたのであります。
そして是は物質の味ではないということが本当にお分りになったのです。

此の世界は、殺し合いの世界ではなかった、と悟られたのであります。
拝みあっているのだ、というように釈迦の心の中で「観」が転回したのでした。
みんな生かし合いの世界なのである、斯う云うように観る心が変わったのであります。

その時に、万物が本当に生命に満ち輝いて仏の生命そのものの顕現のように思われたのである。
そこでお釈迦さんは「有情非情同時成道、山川国土草木悉皆成仏」と悟られました。

情(こころ)ある者も、情なき草木も山も川も悉く同時に今、仏を成就している。
皆仏のいのちが輝いている、仏の命でないものはない。
だから「みんな一体」の世界である。斯ういう風に悟られたのであります。

――――――――――――――

「悟り」は、「小悟」「大悟」合わせて何回も訪れると言われていますから、どちらの悟りもお釈迦さまのまことの「悟り」だったのではないでしょうか?


それから、その後の曳馬野さまのご質問に関しては、よく理解できないのですが、
たぶん曳馬野さまは、雅宣先生や教団のことに関して質問されているのではないかと思います。

ですが、わたしは以前、>>3320で、

<<わたしはこれからはこちらのweb誌友会では、雅宣先生や教団の問題には触れず、真理のお勉強を中心にさせていただきたいと思っています。
曳馬野さま、わたしはこれからは批判的な発言は控えますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします。>>

と、発言しています。
ですから、その件に関してはお答えしかねます。

お答えできず、申し訳ありません。

3405復興G:2013/12/08(日) 20:47:31 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

 もう一度言いますが、

 私は “本流派” ではありません。

 人を、“本流派の方” などと十把ひとからげにしていうことは、やめてください。

 人間はみな実相において平等な神の子であるとともに、現象においては一人一人みなちがう個性、ちがう体験、ちがう考え方を持ち、ちがう使命をもった、尊い神の子です。

 『光明法語』 <十月一日の法語> には、「異なる者の渾一調和」 と題して次のように書かれています。

 << 異なる個性あるものがその個性を没却せずして互いに協力しつつ完全なる 「一」 となるとき其処に無限の美があらわれるのである。その完全なる美の極致の一つは交響楽である。各々の楽器はその個性を発揮し、その各々の吹奏が巧妙であればあるほど全体の音楽は一層妙なるものとなるのである。

 それと同じく、各民族、各人種も、各民族の個性、各人種の個性を発揮しながら渾然たる調和が発揮されるとき、そこに最も美しき文化が建設せられるのである。>>

3406ユタカ:2013/12/08(日) 21:19:47 ID:R1D4Jmeg

おお、皆様、どの方もどの方も素晴らしい!!

皆様が光輝いているようです。復興Gさま、交響楽団の比喩はさらに判り易くて素晴らしいですね。

実相側に立って全てを観れる素晴らしさ!! 生長の家万歳!!! 日本国万歳!! 天皇陛下万歳!! 

復興Gさま、とても感謝しています、ありがとうございます。

3407トキ:2013/12/08(日) 23:28:38 ID:WeeA/EAo
>>3402

曳馬野 様

 ご投稿、ありがとうございます。

 以前、私が、「百万運動をしていた人でも、総裁援護をする人がいる」と書いたら、ある人から
たいへんお叱りを受けた記憶があります。しかし、曳馬野様を拝見していると、どうやらあの議論
は私の勝ちだったという事は言えるかもしれません。閑話休題。

 さて、復興G様は、登場当初、どちらかと言えば援護派と言われていたし、途中でも「靖国見真会
参加者」様から、きびしく非難されていたのも事実です。復興G様をいわゆる本流復活派というの
は、私個人はかなり違和感を感じる次第であります。

 それと、今、教団がたいへんな混迷状態にあるのは、周知の事実です。私は本流復活派を支持する
ものではないですが、しかし、本流復活派が教団を批判する意見には相当根拠があるものが含まれる
のも事実です。この状態で「何もしない」ことが、「悟り」と言えるか、私には理解ができないとこ
ろであります。

 私が見る所では、復興G様の言動は、あくまでも真理に指導に留まるものであり、本流復活派を支持
するものは含まれていないと思っています。

 さらに、a hope様も、本流復活派とは一線を画して言動をされています。

 以上は個人的な意見ですので、その点、ご理解下さい。

では、よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

3408曳馬野:2013/12/09(月) 05:27:09 ID:TUEhTkAQ
【a hopeさん、復興Gさん、その他本流派の方にお聞きします】

 私は “本流派” ではありません。
 もう一度言いますが、 私は “本流派” ではありません。
 人を、“本流派の方” などと十把ひとからげにしていうことは、やめてください。

 書きようがまずかったでしょうか、【a hopeさん、復興Gさん、本流派の方にお聞きします】に訂正します


a hopeさんが伝統さんの投稿文を紹介し、そこには生長の家での悟りについて書かれていますが、禅の世界での悟りとは違うものであります。

でありますから釈迦の悟りとは如何なるものかとの質問なんですね。


そして復興Gさんの引用による雅春先生の書きようが、【悟れば】、と条件を付けていること自体が現象についてのように見えるのです。
 
【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り)

【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)

【 一人が悟ればすべての人が悟るということになっでいるのであります。】

 「これは現象界が変化する、ということではないですよね。」の私の感想の理由が


【雅春先生が悟られても、本流派のお偉い方が悟られているような物言いをされても、雅宣先生は悟りとは関係ない人だと云われて

いるのですから。】なんです。ここの【本流派のお偉い方が】は復興Gさんのことではありません。文字どおり本流派の元本部講師の人の

ことです。


分派の人は救いを与える生長の家でなくてはならない、と云い、分派の元本部講師方は救われているから、自分たちと同じように信徒を

しなくてはならないとして、教団を糾弾しています。ですから


【情同時成道と意識の世界で実相論を振りかざしても、教団を現象悪の権化のように見ることはどういうことなのでしょうか?

観念の世界で実相を捉え喜んで、現実には現象悪と感ずるものに口汚く対応する、これが生長の家の救いなのですか?】

この様な分派の行動が救いを得た人のすることであるならば、これが生長の家の救いなのですか?との質問となりました。


 【 迷っている者があると見ていたのは、実は夢だったのですね!】と高笑いされても現実は何ら変わっていないですよね。

  生長の家の悟りとはどのようなものなのでしょうか?


これは復興Gさんまたあなたに同調する人への質問であります。

最初に掲げたあなたの抗議には【怒り】があるように感じます。
他人が何か言ったことで感情が揺さぶられるようで何の悟りでしょうか。

師が弟子を印可証明するとは言われますが、正しくは弟子が師を証明しなければならないのです。
己が悟ることにより、やはり師の云っていたことは正しかった、と。
それが連綿としているのが禅の世界です。

生長の家に有りますか?大日本神国観で云われている世界を自分で確認した人がいますか?
私はいないと思っています。であれば真理追求派のあなたは、また分派の元本部講師方は何を信徒に伝えようとしているのでしょうか?

3409復興G:2013/12/09(月) 06:05:05 ID:AB6RqYXc

曳馬野さんにお尋ねします。

あなたは、禅の世界での悟りが正しく、生長の家での悟りは正しくないとおっしゃるのですか?

3410ユタカ:2013/12/09(月) 06:53:19 ID:R1D4Jmeg
>>3408
曳馬野殿

曳馬野さんの実相は神の子で素晴らしい!
だけど、現象は宗教の救いの部分で言われれば、お前は「後回しの部分」に属しているな。。。。
特に曳馬野さんの「現実が変わらない」なんて発言には「お気の毒さま」 と言ってあげる、その発言には大宇宙の偉大さの認識が欠乏と言うか、脱落しているから。。。

眼に見えない事を判らないでしょ。曳馬野さん?

ランナーで言うなら、まだ、スタートにも立っていない。 観客席で走っている人を批判しているように見える。

3411復興G:2013/12/09(月) 07:11:38 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

>> a hopeさんが伝統さんの投稿文を紹介し、そこには生長の家での悟りについて書かれていますが、禅の世界での悟りとは違うものであります。
でありますから釈迦の悟りとは如何なるものかとの質問なんですね。<<

この答えは、a hopeさんが>>3404で書かれているように、
>> 「悟り」は、「小悟」 「大悟」 合わせて何回も訪れると言われていますから、どちらの悟りもお釈迦さまのまことの 「悟り」 だったのではないでしょうか? <<

に私も同意します。

もっと言えば、「この時に悟った」 「これが悟りだ」 と一つの現象、一つの形にとらわれてしまうのは本当の悟りでも何でもない。実相は無限であり、無限は現象知で知り尽くすことはできない。「悟り」 とは、「無限」 の自覚でしょうから、それを現象の言葉で表現し尽くすことはできない。また、「悟り」 は時間・空間を超えたものの自覚でありますから、『生命の實相』 第20巻 自伝篇に

<< 『法華経』 の中で、釈迦自身が、
「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫(なゆたこう)である」 と言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。>>

<< 自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。>>

 と書かれていることが悟りであり真理であると思います。

曳馬野さん
>>復興Gさんの引用による雅春先生の書きようが、【悟れば】、と条件を付けていること自体が現象についてのように見えるのです。
【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り)
【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)<<

は、その通りであると思います。
悟っても、悟らなくても、【もう既にすべての人類が悟っている】 が実相ですね。それを悟ると、「バンザーイ!」 と叫びたくなる。ただそれだけのことだと思います。

【観念の世界で実相を捉え喜んで、現実には現象悪と感ずるものに口汚く対応する、これが生長の家の救いなのですか?】

――もちろん、それは違います。

ありがとうございます。

3412ユタカ:2013/12/09(月) 07:20:11 ID:R1D4Jmeg
本部の先生にこう言われるよ、

「曳馬野さんはまだ、復興G様と直接話すより、繰り返し練成会に参加しなさい。」

って指導されるレベルなんだよなぁ。いわゆる唯物論のカタマリ。

あなたの持論には、眼に見える物しか見えない、感じないことばかりで不自由さを感じて窮屈だな〜〜。せま〜〜い!!

「本当の人間は霊だよ、神だよ」って言ったって「霊ってあ〜だこうだ神と仏とは違うだの」と持論をもって人の話をきくつもり無いんだろうが・・・・

じゃ、行ってきまーす。

3413復興G:2013/12/09(月) 07:25:38 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん
>>復興Gさんの引用による雅春先生の書きようが、【悟れば】、と条件を付けていること自体が現象についてのように見えるのです。
【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り)
【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)<<

に対して、「その通りであると思います」と書きましたが、それは、
>> 【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね <<
に対するお答えで、

>> 【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り) <<

の、(一見明星による悟り) と書かれている、( ) 内の注との関連はよくわかりません。説明していただけますか?

「一見明星」 をネットで検索してみたら、次のようなのが出てきましたが……

http://www.geocities.jp/kajiwara20288/newpage18.html

http://page.freett.com/kajiwara8/newpage43.html

3419曳馬野:2013/12/09(月) 18:21:57 ID:TUEhTkAQ

 1、少女の供養により生かし合いの世界であると悟った。のか

 2、明けの明星を一目見た時に、何を悟ったのか

 が問題なのです。

ひとりが悟ればという以上、悟るという事が無ければ人間神の子と云えども観念の遊戯になります。
ですから禅では竹に小石が当たったその音を聞いた瞬間の様子、星の輝きを一目見た瞬間の様子、ここで瞬間と言葉では言いますが、
瞬間という現象時間をどんどん切り取って、前後裁断した、無時間の世界の様子をはっきり自覚した時を見性としているようです。

佛教の教えはこうこうであると、いくら生長の家で云っても、相手の方ではいやそうではない、ということであれば、
法を伝えるということでは万教帰一と云うことは実現できないことになります。ですから禅で説くこと、その悟り、見性、
また悟後の修行を成し遂げて大悟したとは、生長の家で云えばどのようなものであるかを言えるようでなくてはなりません。

ですから生長の家で実相を悟ったと言い切る人がいますかと聞いたのです。

【「悟り」 とは、「無限」 の自覚でしょうから、それを現象の言葉で表現し尽くすことはできない。
 また、「悟り」 は時間・空間を超えたものの自覚でありますから】

これが悟りとして、あなたのこの悟りで禅の悟りを得た人を納得させる自信がありますか。
出来なければ万教帰一の宗教界の調和は実現しません。

生長の家の中でさえ分派が出来るのですから、無理だと思っています。
日蓮宗を、学会を折伏できますか。

実相は、でも現実はでは、すべてのものは今を生きている、それを意識で認識と云う作用を通してから生きているのが普通の人間であると、する
禅をわかるには、対称を認識するとはどのようなことなのかをはっきり自覚しなくてはなりません。

見るものとみられるものとの分離の無い状態にならなければいけません。これは生長の家でも説かれています。
そのようになった人にとっての自然とは如何なるものなのでしょうか、これ今の教えになりませんでしょうか。

3420復興G:2013/12/09(月) 20:59:51 ID:AB6RqYXc

>>3419 :曳馬野さん

3419は誰宛なのか、書いてありませんが、復興G宛であると受けとらせてもらい、レスを書きます。

>> 1、少女の供養により生かし合いの世界であると悟った。のか
 2、明けの明星を一目見た時に、何を悟ったのか
 が問題なのです。

ひとりが悟ればという以上、悟るという事が無ければ人間神の子と云えども観念の遊戯になります。<<

――それは、根本前提が全くちがいます。

>> 1、少女の供養により生かし合いの世界であると悟った。のか
 2、明けの明星を一目見た時に、何を悟ったのか<<

――そんなことを知ることは不可能(お釈迦さんに聞いてみるしかないけれども、そんなことは出来ないのだから)であるし、それがわかったとて何の意味もないことだと私は思います。

【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)】
>>3408

 それが実相ですね。現象は、ナイ。

<< 時間及び空間というものは本来ない。実相世界は超時空的存在の世界であるからである。時間の観念、空間の観念は物質的存在を心に描くための謂(い)わば “画布(カンバス)” として必要なので “わたし” が人間に与えたところの架空的観念である。>>
(『神 真理を告げ給う』 p.45)

 で、時間も空間も架空的観念であり本来無いものでありますから、その時空間上に現れて見える一切のものは当然架空的観念であり本来無いものであります。

 ですから、悟る、悟らないは現象であって、無いものである。【もう既にすべての人類が悟っている】 ところの実相には関係ないことですね。

 神はその肖像(にすがた)として人間を創造(つく)られた、ということは、悟っても悟らなくても人間は本来皆完全であるということでしょう。そうでなければ、神はつくりそこないをされた、ということになる。

<< 人間の生命の実相は互に一体でありますから、一人が悟ればすべての人が悟るということになっているのであります。

 ……「一人出家すれば九族天に生まる」 ということが書かれておりますが、九族どころじゃない、一人が悟れば、人類全部みんなの者が悟るのであります。これこそが、実相世界の素晴らしい状態なのであります。もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります。>>

 と 『新版 真理』 第7巻 p.16〜17には書かれていて、一見それは 「もう既にすべての人類が悟っている、それが実相であるのであります」 ということと矛盾するようですが、これは最後のお言葉が本命の結論なのだけれども、いきなりそれを言っても、「現象あり」 と思っている多くの人にはわかりにくいから、段階を踏んで、はじめの方では 「一人が悟れば、人類全部みんなの者が悟る」 という言い方をされているのだと思います。

 それは、『神 真理を告げ給う』 のp.12〜13に

<< 人間には在来からもっていた先入観念や薫習(くんじゅう)というものがあって、人間を通して真理を説く場合、どうしても、それによって“わたし”の説く真理が歪められ、賦彩(いろづけ)されて、“純粋なる真理“ そのままであることはむつかしい。併し、それはそれでよいのである。

 “純粋なる真理” は恰も無色透明の空気みたいなものであって、人間の五官には見えず、聴えず、捉えることが出来ないのである。高い段階の悟りに入った人でない限り、“純粋な真理” よりも多少、賦彩(いろづけ)された真理の方が一般の人々には分り易いからである。>>

 とある通り、神の御言葉として、そのように説かれているのだと思います。

 その、“純粋な真理” を説くための前段階である
「一人が悟れば] というところにばかり引っかかっているようでは、話にならないと思いますが、いかがですか?

 お釈迦さんが悟られて、「有情非情同時成道」 とおっしゃったのですから、もう 「既にすべての人類が悟っている」 というのが本当でしょう。ちがいますか?

3421復興G:2013/12/09(月) 22:45:30 ID:AB6RqYXc

曳馬野さん

>> 日蓮宗を、学会を折伏できますか。<<

曳馬野さん

 生長の家で 「折伏できますか」 なんていう言葉を私ははじめて聞きました。

 生長の家でいう 「万教帰一」 というのは、折伏して帰一させようなどというのとちがうのではありませんか。

 「『生長の家』家族の祈願および修養」 の第2項に、

 「吾らは凡ゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なる事を信じ、他宗をそしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことを期す」

 とあり、聖歌 「生長の家の歌」 は1番が基教讃歌、2番が仏教讃歌、3番が古事記讃歌、4番は万教帰一讃歌となっており、この全歌詞の中に一度も 「生長の家」 という言葉が出てきません。あらゆる教えの神髄を讃え拝むことによって、おのずから 「万教帰一」 が成就するのが生長の家の素晴らしいところであると私は信じていますが・・・・・・。


>> 見るものとみられるものとの分離の無い状態にならなければいけません。<<

 すでに、「見るものとみられるものとの分離は無い、一体である」 というのが生長の家の教えなのではありませんか。

 『新版 真理』 第7巻の第1章にも、「華厳の相即相入の哲学」 として、「外界と内界とは互いに相即相入――即ち互いに一つのいのちであります」 と、詳しく説かれています。

 自然は、外界ではなく、自己そのものです。

 自然と人間が対立して争いあっているなどと見るのは、迷いであると私は思います。自然と自己は一体で、すでに大調和している、という実相を説くのが生長の家の教えなのではありませんか。


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