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Web誌友会 板/2

3419曳馬野:2013/12/09(月) 18:21:57 ID:TUEhTkAQ

 1、少女の供養により生かし合いの世界であると悟った。のか

 2、明けの明星を一目見た時に、何を悟ったのか

 が問題なのです。

ひとりが悟ればという以上、悟るという事が無ければ人間神の子と云えども観念の遊戯になります。
ですから禅では竹に小石が当たったその音を聞いた瞬間の様子、星の輝きを一目見た瞬間の様子、ここで瞬間と言葉では言いますが、
瞬間という現象時間をどんどん切り取って、前後裁断した、無時間の世界の様子をはっきり自覚した時を見性としているようです。

佛教の教えはこうこうであると、いくら生長の家で云っても、相手の方ではいやそうではない、ということであれば、
法を伝えるということでは万教帰一と云うことは実現できないことになります。ですから禅で説くこと、その悟り、見性、
また悟後の修行を成し遂げて大悟したとは、生長の家で云えばどのようなものであるかを言えるようでなくてはなりません。

ですから生長の家で実相を悟ったと言い切る人がいますかと聞いたのです。

【「悟り」 とは、「無限」 の自覚でしょうから、それを現象の言葉で表現し尽くすことはできない。
 また、「悟り」 は時間・空間を超えたものの自覚でありますから】

これが悟りとして、あなたのこの悟りで禅の悟りを得た人を納得させる自信がありますか。
出来なければ万教帰一の宗教界の調和は実現しません。

生長の家の中でさえ分派が出来るのですから、無理だと思っています。
日蓮宗を、学会を折伏できますか。

実相は、でも現実はでは、すべてのものは今を生きている、それを意識で認識と云う作用を通してから生きているのが普通の人間であると、する
禅をわかるには、対称を認識するとはどのようなことなのかをはっきり自覚しなくてはなりません。

見るものとみられるものとの分離の無い状態にならなければいけません。これは生長の家でも説かれています。
そのようになった人にとっての自然とは如何なるものなのでしょうか、これ今の教えになりませんでしょうか。


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