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Web誌友会 板/2
3411
:
復興G
:2013/12/09(月) 07:11:38 ID:AB6RqYXc
曳馬野さん
>> a hopeさんが伝統さんの投稿文を紹介し、そこには生長の家での悟りについて書かれていますが、禅の世界での悟りとは違うものであります。
でありますから釈迦の悟りとは如何なるものかとの質問なんですね。<<
この答えは、a hopeさんが
>>3404
で書かれているように、
>> 「悟り」は、「小悟」 「大悟」 合わせて何回も訪れると言われていますから、どちらの悟りもお釈迦さまのまことの 「悟り」 だったのではないでしょうか? <<
に私も同意します。
もっと言えば、「この時に悟った」 「これが悟りだ」 と一つの現象、一つの形にとらわれてしまうのは本当の悟りでも何でもない。実相は無限であり、無限は現象知で知り尽くすことはできない。「悟り」 とは、「無限」 の自覚でしょうから、それを現象の言葉で表現し尽くすことはできない。また、「悟り」 は時間・空間を超えたものの自覚でありますから、『生命の實相』 第20巻 自伝篇に
<< 『法華経』 の中で、釈迦自身が、
「我実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由他劫(なゆたこう)である」 と言ったその久遠の仏のみが実在であったのである。>>
<< 自分もまた、明治二十六年十一月二十二日に母の肉体より誕生したのではなかった。そして、現在の今はじめて悟ったのでもなかったのである。ここのままで、久遠の昔、そして久遠の今、はじめなき始めから仏であった自分であったのだ。>>
と書かれていることが悟りであり真理であると思います。
曳馬野さん
>>復興Gさんの引用による雅春先生の書きようが、【悟れば】、と条件を付けていること自体が現象についてのように見えるのです。
【ひとりが悟れば】は条件に聞こえますよね、(一見明星による悟り)
【もう既にすべての人類が悟っている】は悟る悟らないには関係しないですよね、(有情非情同時成道)<<
は、その通りであると思います。
悟っても、悟らなくても、【もう既にすべての人類が悟っている】 が実相ですね。それを悟ると、「バンザーイ!」 と叫びたくなる。ただそれだけのことだと思います。
【観念の世界で実相を捉え喜んで、現実には現象悪と感ずるものに口汚く対応する、これが生長の家の救いなのですか?】
――もちろん、それは違います。
ありがとうございます。
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