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聖典引用 板
2792
:
うのはな
:2014/03/28(金) 19:18:22 ID:9BQVgwDU
『神ひとに語り給ふ』を読めるようにしました。光明掲示板・第二
http://bbs7.sekkaku.net/bbs/?id=koumyou2&mode=res&log=1412
2793
:
トキ
:2014/03/29(土) 21:36:46 ID:th4mVDzM
「声なき声の導き」
人は神との一体感が深まって来るにつれて、「生命の本源」なる無限者との波長が一層ぴっ
たり合うようになって来、普通の肉体力や精神力では到底できないような奇蹟的な力を発揮す
ることができるようになるのである。
これに反して、あまりに心が物質的なものに捉われ、個人主義的な心の持ち主と
なり、「全体生命」又は「普遍生命」なる神との波長が普通以下になって来る
とき、普通の健全生活が出来なくなり色々の心配事や不調和な争いや病気や事業の
失敗等があらわれて来るようになるのです。吾々は常に心を調のえて、大生命の
”声なき声”の導きを心の耳で感じとることができるように修養しなければならない
のである。それは少なくても毎日1回(出来得べくんば早朝起床時と就床前との
二回)神想観を実修して心のチャンネルを神に振向け、神との交通の習慣をつけて
置くことが必要なのである。そうすることによって衝突する汽車電車自動車など
には自然に乗らなくなるのである。
新版 生活の智慧365章 48p谷口雅春先生より、謹写
2794
:
SAKURA
:2014/03/29(土) 21:49:12 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
投稿の続きです…。
光明思想普及会(この仕事は、現在財団法人世界聖典普及協会がしている)が成立いたしまして、
たくさんの働く人が要るからというので就職希望の人は、就職希望願いを出しておきなさいという
ふうに、広告が出ておりましたら、それに対して、就職願いをお出しになった方がたくさんある。
そのすべての人に対してまだ返事を差し上げていないのであります。写真をみな写真ブックに貼り
ましてそれに番号を付し、そうしておのおの経歴を表のようにして写真と経歴とを一目瞭然として
わかるようにして事業の伸張するに連れてこの人が欲しいなという人を一人来て下さいというふう
に通知をすることになっております。そうして現在ではもう百名以上も社員が出来ているのであります。
ところが、こんな人がある。「実はわたしは生長の家の誌友になって実に自信に満ちておる、自分の
願うことは必ず成就すると信ずる、それで光明思想普及会へ雇われようと思ったら必ず成就すると
わたしは信じて、今まで余所に働き口があっても、働かずに何にもしないで待っておりましたが、
とうとう一文も無くなりましたから、どうぞ使って下さい」という人があります。
なぜこの人は働き口があっても働かなかったのでしょうか。今自分が神の子であるということを
知ったら、今「神の子」を生きるということを知らなければならないのです。
この一枚の紙ですらも、この一枚の紙の使命を発揮させるということが生きるということである。
いわんやここに人間がいるのに、今を生きるということを知らないで「自分の希望は必ず成就さして
くれるであろうから、成就さしてもらったら、雇ってもらったら働こう、それまではまァ待命だ」と
こう思っている――会社や軍隊なら待命があるかもしれませんけれども、この宇宙という「大生命の
会社に」には待命の期間というものは一つもないのです。
今ここに自分が生命として現われている限り“も”う“常”に“現”職“です。現職ではない人は一人
もないのです。それを自分で勝手に休職にしているから金も入らなくなり、あるいは病気の人なら
どんどん身体が弱ってくるのです。
これは自分の生命を休職にさしているからです。生命を休職にさしていたら経済的には窮迫し、
肉体的は生命を生命を涸渇してくるのは当然のことです。
われわれは常にこの「宇宙大生命の大会社」の中に常に現職で雇われているということ
を知らなくちゃならないのです。そうすればどこにいても現職の社員であるから、一生懸命に
今働かなくちゃならない、これが肝腎であります。
今、普及会に働いておられる人でも、雇ってあげるといわないうちから、勝手にやってきて
一生懸命荷造りしたり外部で一生懸命に宣伝していたような人が多いのです。
その中に「あの人あんなに頼まないでも働くのだから入社させて上げたら」ということになって、
社員になっておられる人もあります。
こんな人は、光明思想普及会の就職の辞令はずっと後に出たかもしれないけれども、実相では宇宙
大生命の会社に就職していた人です。
ところが、じっとしないでいましたら、無一物になりました。生長の家を信じたら無限供給だと思
って、信じてじっとして待っていたのですからぜひやとって下さい」と、そういうようなのは、
ちょっと根本の解りようがまちがっているということになるのであります。
常にわれわれは自分の生命を、あるいは「物」の生命を、百%生かすということが必要なのであります。
人間雇われなくても、大生命に雇われて働けるような人でなければ、本当に雇ってみても本当に働けや
しないのであります。
つづく (次回は別の項目に入ります。)
2795
:
SAKURA
:2014/03/29(土) 21:51:24 ID:8WDNj1FI
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
*========*【 いっさいのものを拝め ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
投稿の続きです…。
PS:「トキ様」 へ 「観覧車の皆様」 へ
■“今を生かす…”は『生長の家の教え…』であり、
これは“今”生かす事とは、『心を生かす事…』に繋がるように思えてなりません。
そして、当時の『生長の家の職員…』のあり方が、よくわかります。…が?果たして?生かす事とは……
「信・者」に対しての“愛”は、何処まで実行されているのかしら〜〜〜ンと考えますと?
「過去」も「現在」も〜〜〜何一つ変わっていない感じですネ!!
■「言葉の表現…」一つでごまかすようにも、受け止められ、実に読んで複雑なる気分です。
「生長の家の職員同士」の世界観は?一人よがりでしょうか?同じ立場での『連・帯・感…』が?
どうしても?見え隠れてしまうのは、私だけなのでしょうか??
東京在中に、当時の副会長さんは「職員の方」は、本当に
『生長の教え…』よりサラリーマン的感覚での『雇・わ・れ・て・い・る…感覚』が多い感じで?〜〜〜と、
いわれていましたが、当時の私は、私なりの現状での捉え方で、それには「反・論…」したものです。
今だから笑い草となりますでしょうか?あれから時が過ぎ…現在の私は?といいますと〜〜〜ウ・フ・フ!
当時の副会長さんと同じような事を言っていますから、
何の変化も〜〜〜進歩も〜〜〜ない感じでしょうか?
つまり〜〜〜『 時間よ!そこに……停・滞… 』という事でしょうか?
更に!私も、現在の環境は「吸血鬼」「ゾンビ達…」更に「タタキ男…」は【黒幕デザイナー】からの
仕事が出来ないようにという指令での【行・動…】でしょう。??
■【障害者虐待…法的に持っていけるモノ】かと思います…。
此処昨今〜〜〜パートナーの叔父様が亡くなられてからは〜〜〜嫌がらせはすごいです。このような状態での
私は、“今”を生かす事とは〜〜〜“心”生かす事につなげないと〜〜〜前!に一歩も進めないのです。
…が?生かす事は〜〜〜「行・動…」にもなるのです〜〜〜ネ!!
更に【唯物論−−>物質】に対しても、そうなのです〜〜〜ョネ!
個人的にですが〜〜〜【東京在住の時は?履き道楽…】といいますか?モトモト……私自身【靴の購買】は
どちらかといいますと【履き道楽…族】という風に〜〜〜多い方です。収入が安定になりましてから、
【靴のバーゲン】を目にして見ますと、当時!若い私は〜〜〜そく【購・買…】になる方でした。
かといいまして〜〜〜それをすぐさま履くのかといいますと〜〜〜><逆で!当時の「環・境」で言いますと
歩道が舗装された“デコボコ道”履けないという拒否反応が〜〜〜潜在意識に!!!
■モッタイナ〜〜〜イ!!モッタイナ〜〜〜イ!!ツイツイ〜♫ タイミングが〜〜〜><
新しい靴を出してまでとか?今は履かないで先でといいといいます感じでの【先延ばし組】……
気がつきますと?年数がたち、また!それなりの流行が〜〜〜当時の流行とは異なり〜〜〜><
しかしも、私自身の体型が“フクヨカ”になりましたから、履く内容の条件が、随分と当時と比較しましても
縁遠いという感じで…気がつきますと【靴箱の中に〜〜〜箱の中に〜〜〜】そのままですし、それから
“年齢…”によります志向が変わり、今にして思いますと【唯物論=物質】も〜〜〜“今活かす事!”
改めて…痛感しております。
現在!【靴・箱…】から、また新たに「昔の靴を活かす事」…これに専念しての挑戦で〜〜〜す。
これも“心…”が入るのではと思えます。…が??皆さんもそのような体験はおありでは…?
「心…」が動けば「言葉…」に現われて「動…」になりそれが「活かす原・動・力」でしょうか??
「活かす事…」とは「心から〜〜〜働く」と思いましたが???皆様もそう思われませんか???
■□「トキ様」には【辛・口・論】ですが、「現職員」としての立場からの……
【 生長の家 】について……
“今”活かす事とは?「森のオフィスへの本部移転…」また「多々なる方針の変更」
そして「気候の変化による自然との共存」…etc総合的な観点での…現状の感想は如何でしょうかと??
このような質問をさせて頂きました次第です。…が??
再合掌
2796
:
SAKURA
:2014/03/30(日) 19:53:04 ID:Y2.AuFrY
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
投稿の続きです…
■>>生長の家の意義と誕生について<<
これから「生長の家家族の祈願および修養」の講義の概略を申し上げます。生長の家の家
族たち誌友たちの祈願として修養せんとするところの箇条書がこれに書いてあるのであり
ます。順々にそれを説明いたします。
■>>『生長の家』の誌友および読者はすべて「生長の家」の家族としてこの祈願に従いて、
生活し、修養し、おのおの隣人を照らす燈台たらんことを期す。<<
ここに書いてありますとおり『生長の家』の誌友および読者すべて生長の家の家族とい
うわけでありまして、これから述べる祈願および修養の道しるべに従って生活し、そうし
て隣人を照らす燈台となろうという光明の大願をもって各自の生活を出発せしめるのであ
ります。
そもそも、この生長の家というのは何であるかといいますと、最初はわたしが修養雑誌
を出したその雑誌にたまたま付けられた名前ではあったのですが、しかしながら本当の
『生長の家』というのはこの雑誌の名前ではない、といってまたわたしの個人の家の名前
でもないのであります。
「家」というと、何か屋根のある、ある一定の建物のような気がするのでありますけれども、
『生長の家』というのは『大宇宙』ということであります。「生長の家」というのは創造する
ことで、いくらでも無限に創造し伸びてゆくのが宇宙の実相である。だから大宇宙のことを
『生長の家』と申しますので、この大宇宙に満ちている生命創化の法則を研究し、その法則を
宣べ伝えて、広く人類を教化しようという目的の団体を現在「宗教法人生長の家」と称されて
います。
「宗教法人生長の家」と「大宇宙」そのものなる「生長の家」とは別物であります。で、こ
の「実相世界」のことをわたくしどもでは「生長の家」とこういっている。仏教では「寂光
土」という言葉を使っているのであります。これはその形容がなんとなく静的すぎる、ち
ょっと眠たいようなあんまり平和すぎるような、活気のないような言葉でございます。わ
たしは実相世界を形容するのに、そのように活気のない言葉を使いたくないのであります。
無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。
つづく
2797
:
SAKURA
:2014/04/01(火) 18:43:02 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
投稿の続きです…
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■或る人から「生長の家…の家族」との意味を、当時の私は、履き違えて解釈した事がありました。
ここで「亡き両親」のテキストの中には、一杯の“ボーダーライン”が引いてありました。
そこで「亡き父」は、当時の父なりの解釈に基づき「生長の家…の家族」と言うことで、
近所の方に、奉仕した事!!さらには、献金も……今にして思いますと、当時の「亡き両親」の時代は、
誰しもが〜〜〜素直な心であり〜〜〜理解力はと言いますと〜〜〜??
さて私の時代になりましてから、そう【日教組の教育論…利己主義…】ですから、
【すべて…合理的に思考する方が、実に多いのです。…が?】当時の私も、都合のいい解釈論でしたが、
今にして思いますと、もっと身近にこの「生長の家の書籍本」と「海外の哲学本」を拝読しておりましたならば、
このような遠回りには、ならなかったでしょう〜〜〜♫ と、改めて思う次第です。
>>無論、この寂光的な平和の極の世界だというような一面も「実相世界」にはあるのでありま
すが、そういう静的な、活気のないような状態をあらわす言葉では「実相浄土」の無限に光
明 輝く、伸び伸びしい生き生きした状態を現わすことができないきらいがありますので、、
われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<< (一部抜粋)
上記の文章から、本当に【実・相・浄・土】とは、何処までも“神と一体になれたか??”…が?
…ということではないのでしょうか?
つまりは『信じきる…神にゆだねきる心』そのモノでしょうか?
つづく
2798
:
SAKURA
:2014/04/01(火) 18:44:58 ID:.mG0mT4Q
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編…】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
投稿の続きです…
■ 私が当時東京在中の頃ですが、当時の「副会長」さんは、どれだけ『神と一体になれるか?』が、
『神様との連絡が出来るかが〜〜〜大事なのョ!』と言われました。当時の私は、まだまだ信仰が浅く、
【現象で物事を決定しやすい…真理の浅さ】が、如実に物語っておりましたかと…『反省…』なのです。
更に、どんなに表面上ごまかしても『心…』と言いますのは、その人の『心の目…をみればわかるのョ〜♫』と、
よく!私に言っておられました。…が?今にしますと〜〜〜本当にわかるのですネ!!
当時の「副会長」さんとは「会長候補」にあげられた方です。…確か?当時の教化部長先生であられました
(最近まで「大阪教化部長…妹尾先生」で…)が、推薦された方でもありましたのです。〜〜〜><
■『数・の・論・理…』で、残念ながら?「○本会長」が、選出されました時、妹尾教化部長先生が、
「○○副会長」として…補佐になりましたからと話された記憶があります。
今に思いますと、お会いするたびに〜〜〜「美しい人…」と言っていいのかしら〜〜〜ン!
「年・齢」は、まず!第一印象としては?感じられませんでしたが、最後にお会いしたのが〜〜〜
80歳近くなられていましたでしょうか?益々と〜〜〜モット!モット!それ以上に『心から聡明な感じ』を、
抱く方でした。…が?当時の私は、随分!「副会長さん」に甘えてばかりで……したかと。
一つ思い出したのが…当時「萩窪に在中の頃」の事なのです。【引っ越し…】がしたくて〜〜〜それでも
“年齢…”と言う制限があり、どうしても【保・証・人…は??】この事が直ぐ浮かんでしまいました。
このような時に「副会長さん」の誌友さんが…この先生に『賃貸の保証人』を依頼されたとか?その時に
「副会長さん」は
『まず〜〜〜「実・相・顕・現…」をしますと〜〜〜もう!すでに与えられたと
思って行動されなさい!そして、いつも神に、もう私は素晴らしい処に移り住んでいます〜♫ と…』
これを【言・葉・の・力…】で祈りきる事を指導されたそうです。
その後!半年後に『保証人も無く…夢のようなマンションに引っ越しが出来た事』この体験を話して下さいました。
更に!詳しい事情をお聞きしますと〜〜〜ご主人が会社を首になりまして、収入が無い最中での出来事で、
このような素晴らし〜〜〜い!住まいを与えられたと……それはそれは…当時の誌友さん達に、ご自分の事の
ように、うれしそうに話をされていましたのです…。
この時の私は「ひねくれ虫?」でしたから…ホントにホント!!〜〜〜作り話とか?思ったのです。…が?
■【神と一体=心地一体】とは、どこまで神にすがることが出来ますかと、そうなのです〜〜〜ョネ!
そこには「悩みも無い世界」が〜〜〜そこに現われる事になり…ようやく今の私は、理解出来た次第です。
今は【感・謝…】出来るし、嫌な出来事でも、それを理解することができる事…この事が、モット!
重要な気がしまして、その時に、「谷口雅春先生の言葉…」から 〜♫
>>われわれはこの実相浄土を表わすのに、常に老いぬ、無限に若いような、活気溌剌たる少
年のような感じを出す言葉を使いたいと思って、『生長の家』といい、仏教では「寂光土」
を現わしているのであります。<< (一部投稿)
■□【実相浄土…】に入って行くのは〜♫
【 私の心=神に何処まで信じきる事…が出来るかが?? 】…それは【神・想・観…】意外に無いと、
言いきるようになりました。でも〜〜〜なかなか〜〜〜難しい?修行中です。(微笑)
再合掌
2799
:
トキ
:2014/04/02(水) 21:06:34 ID:DmFbtC8k
>>2798
SAKURA様
立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。
今度は、SAKURA様がみんなの見本になるように、頑張って下さい。
期待しております。
合掌 ありがとうございます
2800
:
トキ
:2014/04/02(水) 21:24:31 ID:DmFbtC8k
「上役のやさしいコトバ」
人は本当に自由になったとき、責任感をもち、真面目に仕事をすることができるのである。
業主は従業員を自分の息子又は娘であると感じて、その幸福のために誠心を尽くしてやるべ
できである。誠心は誠心を招び出し、冷酷は冷酷を招び出すのである。冷酷なる親に対して
は子は親不孝になるのは当然である。子は親の愛を感じたら、親に対して反逆の心を起こし
たりすることはないのである。
従業員は概ね貧しいのである。その生活には苦労が多いのである。その上経営者から辛く
扱われてはたまらないのである。経営者はもっと従業員の生活の苦労を軽減してやるように
意を用いてやれねばならないのである。上役のやさしいコトバや、同情ある態度、思いやり
ある扱いが、これらの従業員を明るい温かいものにしてくれるのである。人は何の位置にお
かれても人に愛を施すことができるのである。
新版 生活の智慧365章 谷口雅春先生著、242pより謹写
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その前にちょっと考えて欲しいのは、大学病院の先生が全員、態度が悪いわけではない
ということです。ひとくちに大学病院としっても、医者の態度がものすごく悪い病院と
いい病院がある。その違いはどこからくるか?
以前、東北大学医学部の老年内科に行ったとき、その理由がわかりました。
と、言うのも、その老年内科の教授というのが、非常に人格者で、患者さん
にも若い医者たちにも、そのすごく愛想がいい。そればかりか、患者さんに
呼ばれたら、診察時間外でもいつでも、ホイホイと病棟に飛んで行くのです。
だからその老年内科では、医局員全員、とても愛想がよく、サービス精神が
行き渡っていました。
つまり、トップの問題だったのです。トップが患者さんにサービスするのが
当たり前だと思っていたから、それが全員に徹底されていたのです。それまで
威張っていたような人でも、自分より偉いトップの腰が低かったら、自分だけ
威張っているわけにはいきませんから。
「医学部の大罪」 和田秀樹著、ディスカバリー携書113 185pより
2801
:
SAKURA
:2014/04/02(水) 22:01:39 ID:CkiET3/Q
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。
■
>>2799
「トキ様」 から頂きました…“言葉…”(此処にての返事…申し訳ございません。…が?)
>> 立派な講師にお会いできて幸いでしたね。
こういうロールモデルに遭える事は、ものすごい財産だと思います。<< (一部抜粋)
本当にそうなのです〜〜〜ョネ!
私も、ここ最近まで、『感・謝…』は??と云いった感じでしたが〜〜〜><
「雅春先生」の今回の書籍本から、更に「カーネギーの書籍本」の中に〜〜♫〜〜
■【 神との一体感は〜〜〜〜? 】
そのように本を、拝読していきます内に、私の内部の“心の変化…”が生じてきたのです。
そして「副会長さん」のいつもの“言・葉”から、そのさりげない“シグサ”とかが、
思い出されます〜〜此処昨今でもあります。
本当に【素晴らし〜〜〜イ!素敵な講師】に会えたと思います。当時は、その認識が…不足していたように
思います。いつも!いつも!私達の身辺を心配されていたようです…。連絡を…一時とだえておりました時も
遠くから〜〜〜思念!聖使命…!こっそりして頂いておりました…。
実は!この「副会長さん」は〜〜〜【わたしの日時計日記】の管理人さんと同じ…
「津田塾…○期生」であられたそうで、そして、
当時の独身時代の職業は、『パン・アメリカンSW』でしたと…さらには「生命の実相」の中にも…
嫁がれた先の家……「家・名…も有名」のようなのです。…が?
「副会長さん」は、義理のお母さまが亡くならました時に、私どもに涙ながら…
私にも(副会長さん)にも、反対されていた結婚のようで【遺・産・の・分・与】を〜〜〜頂いてと!
反対されていると思っていましたら…このように、私にも分与の遺産を……泣きあかした事を…
それから〜〜〜必死に【生長の家の貢献…】をなされましたようです。…が?
■当時の私は【反・抗・期…】そのモノで…今にして思いますと、
当時!「副会長さん」の言葉!一つ一つが思い出されます…。
(当時の方針にて仕方なく動いていた事(上からの枠)が、此処の投稿させて頂いている内に、
理解する事が出来ました次第です…。)
今度!東京に上京しましたら、一番に〜〜〜お遭いしたい方だと、正直思っております…。
最後に…3年前に見ました時の姿が…印象的で…今でも、お元気なのでしょうか???
再合掌
2802
:
SAKURA
:2014/04/03(木) 22:07:33 ID:qG1K.PNs
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その4 ― 】*=======*=======* =======*=======*
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
>>2798
>>2801
投稿の続きです….。
■『法華経』の「寿量品」の「自我偈」には「衆生劫尽きてこの世が焼け尽くると見える時にも
わが浄土は壊せず」ということが書かれているのであります。が、その衆生がこの世を焼け
つくると見、憂苦が充ち満つると見ても、そういう憂苦満ち破壊満つると見える娑婆の
世界は、活動写真のような、念の化作した偽存在の世界であって、本当の世界には天人
が伎楽を奏している美しい堂塔伽藍が建ち並んでいる実に立派な世界、これが寂光土であ
る、そういうふうに書いてあるのであります。
寂光土といえば空な何もない静のほかには、何もない世界かと思ったら、天人が伎楽を奏し
歓楽が満ちている、喜びが満ちている、美しさが満ちている、無限の智慧が満ちている、
無限の喜びが満ちている、無限の楽しみが満ちている世界だと書いてある。そういう実相の
浄土を称して寂光土というのには相応しくないような気がする、やはり無限創造、無限伸展の
世界と言いたい、無限「生長の家」だと言いたい、それでわれわれはこの実相の浄土を無限
創造の「生長の家」と言うのであります。
この生長の家なる実相が仮に世界に影を投影して現われたのが、地上の「生長の家」で
あります。皆さんのお宅も実相の善さが顕現したら皆ことごとく生長の家であります。
この「実相の浄土」たる「生長の家」が地上に形を映して、文章に――その言葉の響きの現
われたのが、最初この『生長の家』という雑誌であったわけであります。その雑誌は最初、
昭和五年の一月に本当は誕生したのであります。その前年の十二月に、わたしがちょうど
関東大震災受難後二回目の泥棒に遭いまして、すっかり物がなくなって、それが機会に無
一物の「今」のうちに無限の力が宿っていることが本当に悟れて、「今」起たなければ、「今」
生きなければ生きる時機(とき)はないのである、現象的の条件が備わってから自分の使命
を遂行しようというふうな、そんな“あ”ま“い、”ま“だ”る“っ”こ“い”ことを考えて
いるようなことでは本当の生きる道はない、「今」の一瞬にいっさいが包蔵されているから、
「今」欲することに取りかかろうという大決心をいたしまして、十二月にさっそく家を移転
してそれから執筆を始めまして一月元旦には最初の第一号が出たのであります。
つづく
2803
:
SAKURA
:2014/04/06(日) 23:34:40 ID:bGw2IpeM
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
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投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その5 ― 】*=======*=======* =======*=======*
ちょうど、その頃のは、わたしの著書の読者や、友人の雑誌の書いたわたしの文章を読
んだ人でよく手紙をよこしておられたような人たちが百五十人ばかりありました。その百
五十人の人たちに、新しく印刷した雑誌『生長の家』をお送りしたのであります。千部印刷
いたしましたけれども、知っている人は百五十人ぐらいしかない。そうして、弘めようと
いってもむやみに無駄に振り撒くわけにもゆかない、因縁のない人にあげて紙屑にされる
のもつまらないことである。それで、百五十人ぐらいの人たちにニ、三回ぐらいずつ上げ
て、誰か知人にやってくれませんか、いくらでもほしい人には上げますからというふうな
具合にして送っておったのであります。
それがちょうど昭和五年の一月の初めのことでありましたが、納本後二カ月の余裕を持たし
て創刊号の発行日は三月一日として印刷しておいたのであります。『キング』や『日の出』
は発行日の前月五日頃の出る、『生長の家』は前々月末に出たといううようなことになって
いた。というのは、最初の創刊号によって誌友を獲得して、どれだけの部数が出るかだい
たい見当をつけてから次の号を出したいので、一ヵ月のうちに誌友を獲得することはとうて
いできないので、その間に二ヵ月間の余裕を置いておきたい、とこういうのでその年の一月
の終わりごろの納本された雑誌に三月一日発行と日付して出しておったので、公の創刊号
発行記念日は三月一日ということになっており、これが、三月一日なら時候もよいので、
春季の生長の家記念日と後に定められることになったのであります。
つづく
PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
当時の時代背景をみますと「創立者…雅春先生」が『生長の家…灯』をと立ち上がられました当時の
運動展開は〜♫ 正直申しますと…深い思慮の上で『無理難題が無〜〜〜イ』
そうなのです〜〜〜ョネ!『石橋を叩いて渡る…?と申しますか…地道に!シッカリとした光明化運動』を
感じる次第です…。
そうしますと…現在の【運・動・展・開…】は如何なモノなのでしょうか?
『2代目清超先生』からなのでしょうか?
■『数・の・論・理…優・先?』この事が…先行きの運動展開に陰りを…及ぼす事となり…敗因の一つでは?
しかも『少子化』この穴埋めをするように『光明化…国際運動』この事に…「栄える会を中心」に、
余りにも地盤である『日本国内の信者』を おろそかにした感が個人的には感じられます…。が?
毎回【 ボランティア… 】中心の行動のように「各本部講師のフェイス・ブック」を拝読しますと…
そのインパクトが…余りにも強く感じる次第です…。
理想としては〜〜〜やはり「真理の言葉…」「ご本人の体験談」…多少なりともその中に…取り入れて
「悩める人々へ」…【信仰団体としての…使命】を伝えて頂きたいものです〜〜〜ョネ!
従いまして「いつも…ボランティア!」感じますような…現状では?個人的には、この事は?
難しい〜〜〜問題のように受け止めている次第です…。
再合掌
2804
:
訊商業
:2014/04/07(月) 08:54:09 ID:???
『生命の實相』14巻31頁より謹写――
◇ 猫と雛鳥とはかくのごとく調和している
昭和九年五月六日、わたしは上京しまして、浅草富士小学校で講演しました際に、千葉の松崎武雄という人が来ておられまして、こういう話をされたのであります。数年前、松崎君は百姓愛道場の江渡狄嶺さんの著書『ある百姓の家』というのをお読みになった。その中にこういうことが書いてある。江渡さんが鶏の雛を飼っておられた。それを泥棒猫がねらって、ともすれば捉えて食べてしかたがない。そこで江渡さんはある方法を考えつかれた。それは「兄弟なる猫よ、兄弟なる鶏の雛を食うなかれ」と紙に書いて鶏舎に貼り付けて置かれた。するとその日から猫が鶏をねらわなくなった。そこまではよいのですけれども、数日後に付近の線路で轢き殺されている猫を見いだしたというのであります。これはまさか泥棒猫がその貼り紙を見て、もう今後鶏の雛を食べるわけにはゆかないと思って悲観の極自殺したわけではありますまいが、雛鶏との間は江渡さんの愛の念波で調和してしまったけれども、猫自身に不調和な心が残っていて、その不調和な念の具象化として、その猫は轢殺されてしまったのであります。
ところが松崎武雄君のお宅でも雛を飼っておられた。その雛を猫がねらってしかたがない。そこで松崎君は江渡さんのように貼り紙はせられなかったが神想観して、「猫と雛鶏とはその実相において完全に調和している。決して噛み合い殺し合いなどは存在しない」ということを念じられたのであります。すると不思議や、それ以来猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。しかしその場合は、江渡さんの場合のように猫が殺されてそこにいなくなったのではない。猫はちゃんとそこにいる。そして猫と雛鶏との間が調和して猫が雛鶏をねらわなくなったのであります。
<了>
2805
:
訊商業
:2014/04/08(火) 11:13:31 ID:???
『別冊 真理』108頁より謹写――
◇ 今迄の宗教は何故人類に平和を持ち来たさなかったのか
大体、生長の家の教が今迄の宗教と違う点は、今迄の宗教というものは、心を直すにしても、〝悪〟を認め、〝悪〟を認めて、そして、〝お前は斯う云う有様に現れているが、斯ういう有様でいてはいかんじゃないか〟と云うふうに、その現れている悪い姿を見詰めさせて、〝よくよく此処を直すようにしなければお前はいかんぞ〟とか、〝此処がお前は悪いんだ。こんな罪を犯していたぞ〟と言って責めて反省させますので、その人は〝自分は「罪の塊」じゃ〟と斯う云う観念が潜在意識に植えつけられて、その結果、自分は悪人だ、罪人だと云う観念が自働して、それが具象化して「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来て、人類を救おうと念願すれども愈々益々「悪」があらわれ、「罪」があらわれて来る結果となったのです。
◇ 教祖に背いたことを自覚せぬ弟子たち
だから釈迦牟尼世尊、イエス・キリストをはじめとしてその他無数の偉大なすぐれた宗教教祖が出て来ましてもそれで人類が道徳的に善くなったかと言うと決して善くなっておりません。それは何故かと言うと、釈迦牟尼世尊やイエス・キリストは真理を正しく教えたけれども、その教を祖述する弟子が、その教祖先生たる釈迦牟尼世尊や、イエス・キリストの教えられた真理を伝えるとき、それを歪めて伝えたからであります。すなわち人間の「実相」の完全さを観る様に教えることをわすれて、あべこべに現象の「悪」を見て、その「悪」を直せと教える様になったので、「悪」を見詰めれば、「悪」があらわれると云う心の法則によって「悪」が消えないことになっているのであります。キリストでも「我れ神の子なり」と説き、「我れ往きて汝ら来るなり」と説いて、すべての人間に「神の子」が宿っていて完全であると云う事を説いたのだけれども、その弟子なる牧師たちは「汝ら神の子よ」と説かないで、「汝等罪人よ悔い改めよ」と言った。だから、キリスト教の牧師はキリストの教とはあべこべのことを言ったのであります。
<了>
2806
:
神の子さん
:2014/04/08(火) 17:07:51 ID:5uCVw2y6
谷口雅春大聖師 御文章
http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18219673.html
2807
:
SAKURA
:2014/04/09(水) 23:36:41 ID:cjjCC9AE
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その6 ― 】*=======*=======* =======*=======*
ともかく、こういうふうにして、実相の浄土にあるところの、喜びの勝てる、光に満て
る実相の言葉が地上の雑誌として初めてこの世に現われてきたのであります。そうしてそ
の言葉に最初触れる人たちが、地上における「生長の家家族」ということになったわけであ
ります。
むろん、この「生長の家」の家族というのは必ずしも『生長の家』の誌友あるいは読者には
限らないのであります。本当に実相の浄土を地上に生きる人、この人はむろん生長の家家
族であるわけであります。だけれども、まず第一にここでは本当にこの生長の家すなわち
実相の浄土を地上に生きる第一世として現われた『生長の家』誌友が、この現世を照らす光
となり、おのおのの隣人を照らす燈台となるようにしようじゃないか、こういうのがわれら
の祈願の第一条の標識であります。
つづく
2808
:
SAKURA
:2014/04/09(水) 23:51:21 ID:cjjCC9AE
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その7 ― 】*=======*=======* =======*=======*
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
※「トキ様…」雅春先生の書籍を読んでいきますと、今の現状の『 生長の家 』でいきますと〜?
■「生長の家…2世」とは〜〜〜【廃・棄・物】つまり【不要の人・間】でしょうか??
更には〜〜〜「多国籍軍…信者(日本国内信者…?)」いかがなモノとお考えなのでしょうか??
今は「亡き両親」…当時の「誌友会員」の方々は、現状の【生長の家…】が、このような状況になると思って、
※「家族の反対を押し切り」 ※「ある面では御主人に内緒で献金」※「どうかしますと現在でも内緒での運動資金」…etc
■現在の『生長の家…』にはなるとは、ついひとつも思わずに、ひたすら『愛行…』すなわち
戦後の日本経済も含め【日・本・復・興】というスローガ―ンのもとに、当時の皆様は、
【生長の家の「家族」…】この言葉からの【愛の行動】をなされた事だと思います。…が?
現在の【生長の家…】は、ほとんど「和田一夫」さんから『栄える会』優先での運動が始まり…
当に、洪水の流れのように…… >< 語弊を抱かれますと困りますが?ある時期から…
「日・本」にかなりの方が流れ込んできた?連れてきた?【国際色豊かな国…日本】……変貌!
かといって?彼らの慣習は【自国の慣習・思想】そのままに、生活しているように見えます。そうしますと、
そこで【摩擦…】が生じ〜〜〜日本人の捉え方と異なりますから或る面では【並行線…】でしょうか?
このように地元の方々がおっしゃいました言葉を耳にしております。そうなのです〜〜〜ョネ!
つづく
2809
:
SAKURA
:2014/04/09(水) 23:53:05 ID:cjjCC9AE
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 われらの祈願および修養 ― その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■【 真理 】が人々の心を動かし…心を癒すのではないのでしょうか??
自己満足の【与えよ…さらば…与えられん!!】の流れに【少子化対策】も便乗と云いますか??
此処では「東南アジア圏の方々」が非常に多く感じられる光景が、日増しに強く感じます。
単に?今の運動の流れとしては【生長の家の教え…】は、どうしても?ただ【ボランティア…】という事を…
強調した感じに見受けられます。更に「現総裁先生の顔色(ご自分の考え発言する事が?受け入れる場が?)」
が全くない状況のようで…それでは【物事への前進】は如何なものでしょうか?
思いますに、やはり「人々の意見を聞く」「耳を貸す」…この事から始めて次なるステイタスに繋がるモノと
個人的には思うのです。
■現状では「職員の皆様?」及び「信者?」を見てますと【統一教会…】のように見えてしまいます。
本当に「現職員」の中にもどうしてもそのように見えて、そして今回の話題であります【先・祖・供・養?】
人それぞれでしょうが?あのような【儀・式…】をした事がないモノで???
これも【変・革…】された…今の【生長の家…】方針なのでしょうか?
更に【各教区…】にて“一月に一回の教区”の【先祖供養…】だけで、供養が出来ますのでしょうか?
この頃では??この考えが【生長の家…捉え方】となりますのでしょうか?複雑なる気分です。
■「雅春先生の時代」とは〜〜〜全く考えられない【先祖供養に対しての捉え方】なのですネ!
【 他・力 】で「供養」という事でしょうか?個人的には【先祖供養の意味】を理解されているのでしょうかとも。
■余談ですが〜【日蓮聖人のお母様の…供・養】
それは?「地・獄…」に行かれた方を救うには、確かに、大勢の【団体での供養】がいいと聞いております。
…が?それでも〜一番大切なのは【常日頃の…毎日の…個人先祖供養】も大事なモノと思います。
更には、【教・区…での白鳩会員の奥様方々の先祖供養の仕方】が〜〜〜当時と随分変わっているようで?
オカシイ感じが致します。でも【現状…生長の家】これに関しては或る処で「多くのイイ…ネ」表示を、
なされているようで、この事が〜〜〜【公・認…】なのでしょうか?
この事も【国際籍他国軍…カラフル化】にての運動方針という事なのでしょうか?「疑問??」
しかも【職員の皆様も先祖供養の唱え方】に関しては〜〜〜
賛否両論の意見すら【現生長の家…体制】では、「発・言・権…」が全く無いのでしょうか?
此処の投稿にて【誰一人…記載されない】のは、【現在の総裁先生の指導…】そのモノなのでしょう??
■□【言・論・の・自・由…】
この事に、自由に答弁できますのは【国際籍他国…】のみの方々なのでしょうか?【不思議な気分】で…
再合掌
2810
:
トキ
:2014/04/10(木) 21:08:41 ID:nb7s81UQ
”神の国”の遠さはサイクルの相違である
”神の国”が「汝の内に在り」であるならば、なぜ、「神の国に入ること能わず」とか、
「神の国に入ることができる」などというのだろうか。それは、”神の国”が今ここにあ
りながら、その今ここにある”神の国”に触れることもできないし、”神の国”に近づく事
ができない人もあるからである。
それは”神の国”を”神”という放送局から放送される”番組であると喩えるならばよく理解
し得るのである。”神の国”を放送している電波は、今ここにすでに来ているのである。
恐らくその電波はわれわれの身体の中にもあるであろう。すなわち”神の国”なるものは
すでに「汝の内にある」のである。しかしその「自己の内」にすでにある”神の国”は
肉眼で見える状態ではないのであるから、肉体としての自分はまだ”神の国”にいないの
である。今ここにありながら無限の遠さにその”神の国”はあるということができるので
ある。その遠さは空間的ひろがりの中にある距離の遠さではなく、サイクルの相違ま
たは次元の相違から来る遠さなのである。今ここに”神の国”の電波はありながら、そ
れは無限の遠さであって見ることも触れることもできないのである。
如意自在の生活365章 谷口雅春先生 267p より謹写
2812
:
SAKURA
:2014/04/15(火) 13:27:25 ID:JmNWDmlc
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こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 引用編… 】その2
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その8 ― 】*=======*=======* =======*=======*
≪われらはあらゆる宗教が大生命より発せる救いの放射光線なることを信じ、他宗を
そしらず、他人の尊崇の対象たるものに敬礼せんことをを期す。≪
いろいろの宗教がこの世に出ておりますけれども、その宗教はどれもみなこの世の
光となろうとする使命をもって生れているのでありまして、電燈の光も、ガス燈の光
も、ランプの光も、あるいはマッチの光もことごとくこれ照らさんがために現われている
のであります。照らさんがために現われているけれども、おのおの用途がちがう。小さな
懐中電灯は小さな懐中電灯として用途があり、大きな五百燭光の電燈はまた五百燭光
の電燈として用途があるというわけでありまして、床下の小さなところを照らすのに、
五百燭光の大きな電燈で照らしてみようとするとかえって邪魔になるというふうになる
わけでもあります。それで小さな電燈もわるいものでなければ、大きな電燈もわるいもので
ない。あるいは電燈の笠の形にも、スタンドの形にもいろいろある。そしてそのどれにも
特殊な美しさがある。けれども、その特殊の美しさもそれを用いる部屋とか、あるいはそ
の光を求める場所とか、それぞれに応じて適当な形をし、適当な美しさを備えているのが
よいのでありまして、部屋の中へつけるような装置の、構造の電燈が、いくら格好がよい
からとて玄関へぶら下げてみても、かえって変な格好になるし、あるいは四畳半の部屋に
こういう大講堂につけるようなシャンデリアを装置してみてもこれまた眩しくて、書物を
読んでも、紙面が光ってかえって読めないということになるかもしれないのです。
そういうわけで、光というものは照らす役目のものであるけれども、いろいろの程度の光
やいろいろの形の燈具がまた必要である。あるいはX光線のような人体を透視するような
光も必要である。あるいは紫外光線のような、目には見えないけれども、われわれに有効
な働きをするところの光もまた必要である。目には見えないからこいつはなんの光もない
のだとこういってある光を排斥してしまうということはできないのであります。
つづく
PS: 「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
どの「宗・教」も、確かに【光の言葉…】があります〜〜〜ョネ??
しかしながら、その人の心??の理解が何処まで理解力があるかしら〜〜〜ン!と…つい最近は思えるよに
なり〜〜私は、やはり「思考は書物から…」と思えますようになりましたのです。『生長の家の書物』を
読んで、その時に分からなくても?必ず「神様」及び「私の守護霊」が、導いてくださるように思えて
きます事が、この現象界で形として起きていま〜〜〜す、此処昨今なのです。
■近くの【 金光教の教祖の言葉 】から
>>信心せよ。 信心ということは 心 わが心
じんは 神なり わが心が 神に 向かうをもって
信心というなり 恩徳の中におっても
氏子 信 なければ おかげなし <<
上記の言葉からも【光…】が見えてきませんか??
そうなのです〜〜〜ョネ!【 心は、すべて光に導かれて行くのでしょうか!! 】
再合掌
2814
:
a hope
:2014/04/17(木) 10:20:22 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第12巻 p36 4行目〜
谷口―― 人間は神の子でありますから、神の道は人間の道、ふつうの道であって、難行苦行の道ではないのであります。「道というのは、すべてを捨てなければえられない」とあなたは今おっしゃいましたが、正(まさ)にそうであって、すべてを捨てる、すなわち難行苦行という道さえも捨てきったとき、本当の道がでてくるのです。その本当の道は、平凡の道であります。この平凡な道が歓んで歩めるようになったときに、その人は本当の生活に入ったのであります。
外面を見て花々しい生活をしたら生き甲斐があるとか、大いに世の中の人を助けたから生き甲斐があるとかいうのでは本当ではない。そんなことでは外面に花々しい生活ができなかった時や、大いに世の中を益することができなかったときには生き甲斐が感じられなくなります。そんなことではわれわれの生き甲斐というものは外の成績によって左右されているので、神の子たる生命の実相を知った人の「生き甲斐」ではなくなるのであります。
先日、東京へまいりました時に、非常に信仰の深い牧師が神経衰弱にかかっている話を承りましたが、その牧師が神経衰弱になった理由がなんであるかといいますと、予定どおり人数をキリスト教に導くことができないから、神様に対して申しわけないというものであります。つまりこのような人たちの生き甲斐というものは、外の成績に左右されているのであって、実相の悟りをつかんでいる生き甲斐ではないから、外から打ち負かされたら神経衰弱になるのであります。
キリストはこの点では実相を摑んでいたから、外の形の上、数の上で打ち負かされても、生き甲斐が感じられたのです。「右の頬打つものがあれば左の頬を打たせよ」とか「外衣(うわぎ)をとらんとする者には下衣(したぎ)も与えよ」とか「十里の公役(こうえき)を強いられなば二十里を往け」などと、キリストが言いえたのは、形の上で打ち負かされても負けるようなものが神の子たる人間ではない、本当に勝つとは形の上のことではないということをしっていられたからであります。
先刻有元さんの御紹介になった「有るものは皆吹き払え大空の無きこそ元の住みかなりけれ」という黒住教祖のお歌のように、キリストは「無きこそ元の住みかなれけれ」の心境に入っておられたから、形あるものの上で負けても、神の子たる本当の生き甲斐が感じられていたのであります。これがわかってくると、キリスト教も黒住教も、根本において同じ教えを説いたものだということがわかるのです。
(つづく)
2815
:
a hope
:2014/04/17(木) 10:21:03 ID:cEpBaIdo
(つづき)
われわれが、ひとから右の頬をうたれると、すぐに腹が立ってくるのは、自分というものが叩かれるくらいで傷つくような脆い肉身であると思って、どんなに叩かれても傷つくことのない金剛不壊の実相身であるということを自覚しないからであります。
自分がどんな体よりも堅い金剛不壊の実相身であるということが悟れると、誰が自分に対して殴って来ても、子供が金剛不壊の仁王様に対して打ちかかって行くようなものであって、腹の立ちようがない。われわれでも赤ん坊がわれわれの頬辺(ほおぺた)を叩いて来ても腹が立たない。腹が立たないのは、叩かれても負けないと思っているからです。
ところがわれわれが何によらず腹が立つのは、叩かれて来られると負けると思うからです。だから常にわれわれは赤ん坊と角力(すもう)をとるつもりでおれば腹が立たないのであります。
2816
:
a hope
:2014/04/17(木) 10:22:01 ID:cEpBaIdo
(a hope 所感)
わたしは「生命の實相」やその他の雅春先生の聖典を拝読していていると、内容はもちろんですが、その文章の流れ、リズムに引き込まれてしまいます。
そのリズムに乗って拝読していると全身がジンジンとしびれたように反応します。
本当に、すごい聖典だと感じ、昨晩などは聖典が拝読できる幸せに浸ってしまい、つい夜更かしをしてしまいました(笑)
2817
:
縹
:2014/04/17(木) 15:43:24 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます
こんにちは、遅くなり申し訳ございませんでした。
一闡提については、大般涅槃経解釈の冒頭から書かれていますので、直接お読みになられるのが一番間違いないと思います。
『生命の實相』を読み進めて行きますと、こういう時にどうすべきかを書かれてある部分も出て来ると思いますので、そのまま読み続けられると良いと思います。
私の方ですが、頼まれ事を依頼主から急いでほしいと言われ、時間が取れなくて、もうweb誌友会にお邪魔することが出来ないと思うのです。
a hope様の益々のご活躍をお祈り申し上げます。ありがとうございました。 再拝
2818
:
縹
:2014/04/17(木) 15:54:18 ID:oeUx5MQw
追伸:
ごめんなさい、場所を間違えたようです、web誌友板の内容でした。
2819
:
a hope
:2014/04/18(金) 09:59:43 ID:cEpBaIdo
>>2817
縹さま
お久しぶりです。
そして、ご指導をありがとうございます。 合掌。
先日、web誌友板で縹さまが「法華経解釈」より二乗・三条についての御文章を引用してくださったのでさっそくを購入しました。
時間のある時に、図書館などに行って静かに拝読したいと思っていましたが、
今回、「大般涅槃経解釈」もご紹介くださり嬉しい悲鳴をあげておりますヽ(*'0'*)ツ ワァオォ!!。
わたしは、もともと、仏教に興味があって、子育ての一番忙しい時から、近くのお寺の座禅会に参加し、
住職さんのご法話を拝聴するのを楽しみにしていました。
ですから、今、こうして谷口雅春先生のご解釈の「本物の仏教の真理」をお勉強できることが本当に嬉しいのです。
縹さま、お忙しくされているようで、web誌友会へのご参加は難しいそうですが、
わたしの「生命の實相」の解釈等があまりにひどいような場合は、どうぞご指摘、ご指導をよろしくお願いいたします。
わたしは、本当の「生長の家の教え」が知りたくてここでお勉強させいただいているのであって、他意は全くないのです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
2820
:
SAKURA
:2014/04/18(金) 14:16:58 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】その2
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
>>2798
>>2801
>>2802
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>>2807
>>2808
>>2809
>>2812
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−1 】*=======*=======* =======*=======*
■こんなわけで、この世の中のあらゆる宗教は、おのおの総ての電燈は照らす光として
働いているのと同じように、すべて人生の燈台となり、人の心を照らす光の輝きをしてい
るのであります。
それに、いちいち相手をけなして自分ばかり善いのであると、こういうような宗教争
いをするようなことでは実にみっともないことであります。
宗教は要するに愛を説くものである。愛とは、仏教でいえば慈悲と申しますが、キリ
スト教でいえばたいてい愛という。愛とは何であるかというと自他一体の実相の働きで
す。すべて生物および森羅万象を、その形容である物質的方面から見ると、自と他の対
立したように分かれているけれども、本来一つのものであるということを知ることが愛で
あります。たとえば、われわれが子供を可愛いと思うのはどうして可愛いのであるかとい
うと、それは自分から出たものである、本来自分と一つのものであるという気持がするか
ら自分の子供が可愛い。ところが、他人の子供は何となしに自分から出たような気がしな
い。すでに悟った人は別でありますけれども、肉眼で見たところ、どうも自分から出たよ
うな気がしない、自分と一体であるような気がしない、それで他人の子供はあまり可愛く
なくて自分の子供だけは可愛いという鬼子母神のようなかたよった愛になるのでありま
す。つまり、愛というのは自分と他とは一つのものであるということを知ることが愛であ
ります。この愛というものを宗教の上に押し広げてゆきます時には、自分の宗教と他の
>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<<
すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教が、宗教同志仲がわる
くて、互いに欠点をあばいて石を投げ合いして、あいつはわるい、あいつを撲滅しなけれ
ばならない、あいつが栄えたらわしの方の宗教が栄えなくなるというふうな利己的な観念
をもって、争いあうというふうでは本当に宗教がこの世を照らすために現われたという
目的に反くわけであります。
つづく
2821
:
SAKURA
:2014/04/18(金) 14:18:51 ID:GAUySuWA
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】その2
>>2778
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の 投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その9−2 】*=======*=======* =======*=======*
PS:「トキ様」へ 「観覧者の皆様」 へ
>>宗教とはやはり一つのものである。ということがわかった時にははじめて宗教とが愛
によって結ばれるということになるのであります。<< (一部抜粋言葉)
今の【生長の家のお家騒動…】は、何か本当の【真理の勉強の原点…】に戻る事を、つまり!
神様からのメッセージ…という事なのではないのでしょうか??
此処で言います【原・点】とは〜〜〜??
創立者『 谷口雅春先生 』の御教えがア〜〜〜ダ!コ〜〜〜ダ!その教えにならないとか?
そのようなちっぽけな『議・論』よりも
如何に人を救う事――>自体一体の意味である――>愛(慈愛)
最終的には、履き違えているように、思えます。今回!!私も【反・省】で〜〜〜す。
>すべての生きとし生けるもの、すべての人間を愛によって結びつけ自他一体であるという
実相を知らせ本当の相を悟らせるために現われたところのこの宗教<<
如何に!国内での【宗・教】同志の争い…私の知る限り…露骨にされる【宗・教…】が〜〜〜??
そして、同じ仲間だけ(同じ宗教信者)での…コミュニケーション!!
それでは本当の意味での【宗教】というよりも【醜・教】と改名した方がいいように思いますかしらン!!
それから、私も小さな〜小さな〜【心のケチ論の展開】があったようですので、まだ〜〜【反省の心】
まずは、【自分を優位に置く】のではなく、それよりも、まず【相手を生かす心の展開】に切り替えて
行こうと…此処からが【自他一体――>神は愛なり】の”心…神様”と共に私は、
生かされている〜〜満たされている〜〜”心の展開…再起動中 ”です。(微笑)
■□ 【 宗教 = 愛 = 自他一体の愛 】そのモノですネ!!この気付きに感謝申し上げます…。
再合掌
2822
:
縹
:2014/04/19(土) 01:36:09 ID:xPhLnWm.
2819番 a hope様
合掌 ありがとうございます
こんばんは、ご指導だなんてそんな私は先生ではないので…。もっと立派な方にご依頼されたほうが良いと思うのです。
法華経解釈を早速ご購入されたのですか、あれは大部分が佐藤氏の御文章ですので、私も引用をなるべく控えて、お勧めしなかったのです。多分、『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。
日常生活の中の真理仏典編のほうが読みやすいかも知れないと思うのですが、仏教に親しまれてらしたa hope様でしたら大丈夫なのでしょうか。
大般涅槃経解釈をご紹介させて戴きましたのは、一闡提の解釈について先生がとても苦しく思われたいきさつが書かれてありますので、それを直接お読みになられたほうが良いかも知れないと思っただけでして、全編をおすすめさせて戴いたのではないのです。
多分、『生命の實相』の最初の方を繰り返し読まれるのを先に重点的にされたほうが、より早くお幸せになられると思って、このようなことを申し上げさせて戴いておりますが、でもご自由にされて下さいね。
法華経に興味をお持ちになられますのは、本当に素晴しい事だと思います。
これは私一人が思う事ですが、生長の家創刊号をお手元に置かれますと(忘れないでいるとという意味です)、法華経を感覚的につかめるかも知れません?
a hope様の益々のご活躍をお祈り致します。
2823
:
a hope
:2014/04/21(月) 10:17:58 ID:cEpBaIdo
>>2822
縹さま
たくさんの貴重なアドバイスをありがとうございます。
さっそく、創刊号と日常生活の中の真理仏典編を購入しました。
大般涅槃経解釈は、後のお楽しみにしておきます。
わが家の実家は、詳しい宗派は言えませんがもともと仏教を信仰していて、
家には立派な仏壇もありますし、お葬式や法事なんかもすべて檀家になっているお寺にお願いしています。
だから、わたしも仏教徒なのです。
だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
とても良い先祖供養になると思うのです。
<<『生命の實相』の中に入っている雅春先生の御文章から法華経その他を感じ取られるほうが良いような気がするのですが…。>>
とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?
昨晩、法華経解釈の最初の方と、後ろの方を少し拝読してみました。
仏教用語がたくさん出てきますから、難しいと言えば難しいですが、
その内容はさすが雅春先生が尊敬していらっしゃったという佐藤勝身先生の御文章だけあって、
(さらに雅春先生がわかりやすく手直しもされているようです)わたしは素晴らしいと感じました。
ですが、ちょっと気になったのは、「創価学会」に関する言及です。
ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。
ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。
2824
:
縹
:2014/04/24(木) 20:09:05 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます
こんばんは、遅くなり申し訳ございません。
a hope様は、早速ご購入されたのですか、ご熱心で偉いですね。
『日常生活の中の真理 仏典編』の表紙カバーは、たしか、知恩院所蔵の仏画だったと思います。
知恩院は浄土宗ですね、京都の円山公園の枝垂桜の近くですね。まだ八重桜位は残っているでしょうか…。
創刊号をそばに置いてという意味は、ずっと後になって分かってくる事になると思います。
>だから、わたしがまことの釈迦の教え(仏教)をお勉強して悟れば、
>とても良い先祖供養になると思うのです。
先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。
>とのお言葉ですが、生長の家の教えは万教帰一ですし、その真理はまことの法華経と同じであると聖典に書かれていますから、
>聖典『生命の實相』を拝読することが、法華経やその他の仏教の真理を理解することにつながるということでしょうか?
『生命の實相』の中に、雅春先生が直接『法華経』の内容をご説明下さっている部分が出て参りますので、そちらのほうがよりおすすめですよ、という意味でした。
>ふつうに考えれば、万教帰一の生長の家が、なぜ「創価学会」のことを批判的に書いているのだろうか、との疑問が浮かぶと思います。
>ですが、これこそ、「悪はない しかし、『虚説』には和解してはいけない」 ということの本当の意味なのではないかと感じています。
>雅春先生は、宗教で「虚説」を説くことの危険性を、ご警告・ご教示くださっているように感じます。
これは、掲示板上で論を尽くされた内容ですね。
a hope様は、法華経にご関心をお向けになられて素晴らしいですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。
「自分とは何者か」
私は、頭脳では辿りつけない場所に感じます。
心の温かさの中にあると感じています。
2825
:
a hope
:2014/04/24(木) 23:14:31 ID:cEpBaIdo
>>2824
縹さま
ありがとうございます!
お忙しいのに、ご丁寧なお返事をいただきとてもうれしいです。
「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね!
今までは、仏像や仏画にはあまり興味がありませんでしたが、
こうして仏教の真理をお勉強していると、とても興味深く拝見できそうです。
「法華経解釈」が難しかったからでしょうか、「日常生活の中の真理」はとてもわかり易くすらすらと拝読できます。
第一章は「維摩経解釈」の解説のようになっているのですね。
実は、「維摩経解釈」は数年前に購入して手元にあるのですが、当時はまだ難しすぎてほとんど拝読していませんでした。
今ならだいぶ理解できるのではないかと思うので、早く拝読したいのですが、
わたしの机のまわりには、その他の読みたい聖典が山積みになってしまっていて、自分自身の欲深さに呆れています(笑)。
また、創刊号に関しては、予言的なお言葉をありがとうございます。
どのページを開いていても、とても力強い若々しい波動を感じます。
こちらも、拝読するのがとても楽しみです。
<<先祖供養が目的でしたら、『生命の實相』をご仏壇の前で、時間を決めて朗読されると良いですよとの谷口雅春先生の御指導です。>>
この事は、わたしも聖典のどこかで拝読していて知っていました。
先祖供養といったら「甘露の法雨」が定番のようになっていますが、
実は、わたしは神想観は大好きなのですが、「甘露の法雨」の読誦はあまり得意ではないので、
これからは『生命の實相』を朗読するようにしてみます。
その方が自分の真理のお勉強にもなるので「自他一体」の真理からすれば、そちらの方がいいような気もします。
今のわたしにとって、真理のお勉強はほんとうに楽しいです。
ですが、web誌友板でトキさまもおっしゃっていましたが、
そのお勉強した真理が生活に生きてこないと、本物とはいえないと思うのです。
ですが、ありがたいことに、自分には家族もいますし仕事もしていますから、
真理を生活に生かす機会にはとても恵まれているのです。
「生長の家」の教えをお勉強し始めてからも、色々な困難と感じられる出来事にぶつかって来ましが、
ですが、どんなに心配事や心の動揺があっても、聖典を拝読したり神想観をすることで自分の心が整えば、
全ての事がうまくいくようになってしまうから不思議です。
「生長の家」の教えって本当にすごいですよね!
それから、最後に縹さまからの
「自分とは何者か」
というご公案?ですが、わたしの心の中に、
「自分は神であり、神は全ての全てであり、そして愛である」
という言葉が浮かんできました。
縹さまのおっしゃる「心の温かさ」とは「愛」のことなのではないでしょうか?
わたしは、実生活のなかで、もっともっと神の愛を出していきたいです。
縹さま、また、こちらの板で「聖典」について、色々ご教示いただけると、とてもお勉強になります。
これからも縹さまの時間の取れるときだけでかまいませんので、ご指導をどうぞよろしくお願いいたします。
2826
:
縹
:2014/04/26(土) 00:53:02 ID:oeUx5MQw
a hope様
合掌 ありがとうございます
こんばんは、レスをありがとうございました。
a hope様はご熱心でそのご姿勢が本当に素晴らしいですね。
>「日常生活の中の真理」の表紙カバーは、知恩院所蔵の仏画なのですね
知恩院を調べましたら、浄土宗ですので阿弥陀様が御本尊様なのですね。
それで、開祖の法然上人が、以下のお歌を残しておられる事を知りました。
丁度、阿弥陀様と月光の関係について調べていた所でしたので驚きました。
以下は知恵袋からの転載です。
「 月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ 」
浄土宗の開祖として有名な法然の和歌です。
「月影」 、月の光とは、実は阿弥陀如来の光明、救済のこと。
“月の光はこの世をあまねく照らして、どんな辺鄙な里にも
届くけれど、それを眺める人の心が澄んでいるからこそ
その美しさが心に宿るんですよ”
心を澄ませる、つまり、阿弥陀の光に心を向けて、「南無
阿弥陀仏」 と念仏を一心に唱えてこそ、阿弥陀如来の光
(仏の救い) は人の心に “住む” んですよ。
「すむ」 = 澄む + 住むのダブルミーニング、掛詞です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11108072876
・・・転載以上です。
谷口雅春先生は、生長の家大神様(住吉大神様)は、阿弥陀如来様でもあらせられると教えて下さっていましたので、
澄む=住むですよ、という所は、少し嬉しいですね。
a hope様のお陰で、偶然知りました、本当にありがとうございます。
「」内は公案ではなく法華経についての言葉でした。
a hope様のご熱意にとても驚いています。
現代にもそのような方がおられるのですね。
益々のご活躍をお祈り申し上げます。 再拝
2827
:
SAKURA
:2014/04/26(土) 21:58:23 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは…… ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編… 】
>>2778
>>2779
>>2784
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>>2812
>>2820
>>2821
の 投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その10 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■かく、宗教というものはこの世を照らす光でありますから、どれだけ他にあってもよ
いのであります。自分は自分で光ればよいのであって、他はまた他で光ればよい。人類も
多種多様であるからその対象たる人類に適するように多種多様の宗教が現れてこれを
照らす、五百燭光の電燈がありさえすれば、懐中電燈は要らぬというわけではない、太
陽が出ている時でも、活動写真を映すときには電燈の光が要るのであります。
生長の家では決してたの宗教をわるくいわないのであります。みんな結構である――。
真宗の方が来られると、真宗ですか、阿弥陀様を信心されてたいへん結構でございます、
阿弥陀様をせいぜいしっかり信仰しなさい、こう申し上げるのであります。しかし、阿弥
陀様を西方十万億土の彼方に一国の城主のごとく一つの境界をめぐらして、そこに王様
のようにしているようなそんな小さな阿弥陀様だと思いなさんな。尽十方無辺の世界に満
ちているところの限りなき無礙光であり、大いなる生命であるこの無量寿の仏様を本当
に見なさい。これが真宗の本尊で、本当の救いは、この尽十方無礙光如来と本来一体であ
ることを知ることにある、と真宗の人にはお話するようなわけであります。
あるいはまたクリスチャンの方が来られると、ああキリスト教の神様は非常に結構な神
様である。キリスト教の開祖であるイエスを、たんに二千年前にユダヤに生まれ、そうし
て磔刑になって、三十三歳で死んでしまった、そんな生まれて死んだような、そんな
小さな肉体的存在だと思いなさんな、久遠の昔から生きている真理の顕現――これが本当
のキリストである。キリスト自身「アブラハムの生まれぬ前より我は在るなり」といわれて
いる――これが本当のキリストですが――あんたはもっともっと深くキリスト教の奥まで
入って、もっともっと大きくキリスト教の教祖を生かさなければなりませんぞ、というふ
うなぐあいに申し上げるわけであります。
つづく
2828
:
NANCY
:2014/04/26(土) 22:17:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
こんばんは… ローマ字(大文字)の【NANCY】で〜〜〜す。
■「管理人 トキ様」へ
お尋ねしたいことなのですが〜〜♫ あります。先日から閲覧させて頂いておりますが?
此処の『聖典ボード板』での…宗教に関しての議論?討論?
果して【主・旨…】にそぐわないモノと思うのですが…?如何でしょうか?
あくまでも【聖典の転載・引用】という名目上の意義になるモノと思う次第です…。・・・が?
再合掌
PS:「トキ様」へ
此処にこの様な上記投稿を致しました事…お詫び申し上げます…。正直なる思いでの投稿です。…が?
2829
:
a hope
:2014/04/26(土) 23:10:20 ID:cEpBaIdo
>>2826
縹さま
お返事を信仰/体験板2にさせていただきました。
>>SAKRAさま
いつも素晴らしい聖典のお言葉をご紹介くださりありがとうございます。
また、このたびはご忠告をありがとうございます。
縹さまへのお返事は別の板にさせていただきました。
合掌。
2830
:
縹
:2014/04/27(日) 18:48:17 ID:oeUx5MQw
聖典引用板の皆様へ
合掌 ありがとうございます
書き込む板を間違えてしまい、ご迷惑をお掛けして、大変申し訳ございませんでした。
場所を移させて戴きました。 再拝
2834
:
a hope
:2014/05/02(金) 22:41:32 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第36巻 幸福生活篇 p75
『無礙の大道』
五
この実例でもわかりますように、われわれはどんな時でも失望してはいけないのであります。そのままそこがありがたいと、その場その場を生かす生き方――これが一番大事のことでありまして、常に「今」を生きるということが必要なのであります。生長の家の生き方は「今」を生かす生活だと言われています。今ここに生活が植えつけられている。この地球上に生命が植えつけられているということは何か意義のあることでなければならない。
この地上のここでなければ果たすことのできない使命があるために、今ここに生かされているのだと思って、今あるがままをできるだけ百パーセント生きるということ、これが大切です。ひっくりかえって躓(つまず)いておろうと怪我しておろうとどうしておろうと、その時そのままでなければ得られないところの一番いいものが与えられているということを知るのが無礙の大道を生きることであります。
そうすると病気も幸福であるし、災難も幸福である、どんな苦しみも、困難も、みんなその時でなければ得られないところのものがその時自分に得られているというのでありますから、そこにいっさいの呪いがなくなる。初めて天地一切のものと調和するということができるのであります。
「これは嫌い」「あれは嫌い」ということがなくなってしまうのです。これが嫌いであるとかあれが嫌いであるとかいうことがありましたら、天地一切のものと調和できていない証拠であります。そのまま、そこのありがたいことがわからないと災難がやって来ると悲しまなければならない。あるいは病気になるとやはり悲しまなければならない。あの人はわたしにこういう仕打ちをしたから憎いとか恨めしいとか思ったりして、心がひっかかって苦しまなければならないのです。
そこで引っかからない道というのは、今の時今あることが一番いいのだと知ることでありまして、それには自分に「注文」というものがあってはいけないのであります。「注文」を出すと、自分の注文以上のものが出てくると悲しくなる。われわれは常に自分の注文以上のものがすべてわれわれに与えられているのであります。われわれはこれから起ってくるいっさいのことをことごとく予想して注文するわけにはゆかないのであります。注文しないでも注文するより余計に善いものをわれわれは常に与えられているということまず知るのが、自由を得る知恵であります。
2835
:
a hope
:2014/05/02(金) 22:42:10 ID:cEpBaIdo
そういうふうになりますと、すべてのもの、美しいものはもちろん、醜いものでも、人が嫌うようなものでも、いやらしいものでも、みんなそのままでありがたいということになることができるのであります。そのままありがたいということになりましたら、不平も、不満足も、腹立ちも何もなくなってしまいまして、ただただありがたいばかりである。苦しめられてもそこに本当にありがたいものがあるのだ、こんなにまでして、わたしを鍛えてくださるのである、ああありがたいと、こう思えるようになるのであります。
こうして天地一切のものと和解し仲よしになったら、本当に感謝の念が湧いてくるのです。世間普通の人はいいことを与えられた時には、「こんなにまでしていただくのだ、ありがたい」こう思うのでありますけれども、生長の家の生き方はいいことでも悪いことでも、「こんなにしてまでわれわれに体験を積ませていただくのだ、ああありがたい」とこう思わなければならないのです。雨が降ってもありがたいし、天気でもありがたい。
ところが天気なら天気ということばかり把(つか)まえておりましたら、雨が降る時にはうるさい、うっとうしいというような小言がでてくるのであります。ところがまた百姓さんが旱魃(かんばつ)の時に、雨が欲しい欲しい、こう思って雨が欲しいということばかり把まえておりましたら、せっかくいい天気でみんながうららかな天気だと思って喜んでいる時に、自分だけは悲しまなければならないでありましょう。
形の世界では、同時に二つのことはできないことが多いのです。雨が降って太陽が美しく輝いて道が渇いているということはできませんから、人間はなんでもこういう形がほしいと一つの形を把まえたらもうだめです。把まえたらもう自由ではなくなり苦しくなるのです。何も把まえないで手放しになってしまって、引っかかりをみんな外してゆく生活になります時、本当に自由自在な幸福の生活というものを送ることができるのであります。
2837
:
流氷
:2014/05/09(金) 19:29:16 ID:DvxQpm5c
人がどう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけているようなことでは心の苦しみは絶えぬものだ。
自分がどの位愛したか、自分がどんな仕事をしたか、そればかりを考えるが好い。肉体の人間は誤解するものだとあれほど
言いきかしてある。肉体は念の集積で出来たレンズ又はプリズムであるから、人によって其の『眼鏡』は違うから、どんな光線でもみんな屈折して
見えるし、人によって屈折の仕方も違うのだ。三角のものも丸く見えるし、丸いものも三角に見える。深切で言ったつもりが悪意にとられたり、失敗って言った
言葉でおかげを受ける人もある。誰が何と思っても、それは迷いで屈折して色々に観るのであるから、ただ神に知られることだけを求めて人に知られようなどとは
思わぬが好い。人間の苦しみの一つの元は上べを飾りたい心である。
(昭和七年三月十五日執務中神示
これは昭和七年五月号の『生長の家』誌の巻頭に発表されている神示である。特に「執務中神示」と但し書きが入っている。
まだ私がヴァキューム・オイル会社に勤務しながら『生長の家』誌を出していたころの神示である。何故「執務中」などという但し書きが入れてあるのか、
もう約三十年も前のことなので最初は充分思い出せなかったのであるが、やっと、こんなことであったろうと思い出したのである。執務中というのは、自宅で原稿を
とっていたときに、このような〝声なき声〟が聞えて来たものだということを想い起すのである。
その頃私はヴァキューム・オイル会社で、随分いそがしい翻訳の仕事をしていた。それは宣伝部に属する仕事で、機械の構造を詳しく説明してそれにかかる圧力、その圧力に
対抗するための油の性質などが説明してあるPR用の菊二倍判の相当部厚いパンフレット(それは大冊であって、テクニカル・ブレティンと言っていた)の翻訳をする、
そしてそれを印刷屋に注文して日本語訳の同じ大きさの同じ頁数の冊子をつくるのであった。その会社は宣伝部と技術部とが対立していて仲が悪く、宣伝部で翻訳したものが技術的に見て
間違ってでもいるものなら技術部から公けに集中攻撃を受けて大変なことが起るのである。
技術に関する文章の間違を技術部の人が指摘するので、問題は一層複雑だったのである。
私の前任者は、翻訳そのものの誤りではなく、〝弊社〟とあるべき印刷物が〝幣社〟となっていたので、技術部の誰かが「吾社は油の会社であるのに、幣社すなわち紙の会社と翻訳している、こんな出鱈目な
翻訳をする者は信頼できないではありませんか」と言って英国人の総支配人に投書したために、英国人には、その誤植の経路がわからないために大変な誤訳をする翻訳者だと思われて、馘になったのである。
その後任にやとわれたのが関東大震災後、郷里に帰っていた私であるから、単に翻訳だけでなく、校正なども余程注意しなければならないので、私は殆ど逐語訳のように完全に訳して原書と翻訳書をつかわねば文字が行にある位に
精確精密に翻訳をしたものだった。それは大変神経をつかはねばならなかった仕事であった。そのために私は殆ど神経衰弱のようになって、眼をつぶっても、校正中の印刷物の文字が空中で踊るのが幻想されるほどになっていたのである。
そのような肉体のピンチの中で、私は、使命感をもって『生長の家』の雑誌を書きはじめたのであった。
すると却って私の健康は増進し、神経衰弱の状態は消えて往った。しかし会社の仕事と、雑誌発行の仕事との二重生活をやっているので、
時間的に無理があった。徹夜して原稿を書くことも多かった。
私の会社の仕事は、そんな繁忙な仕事の一段落がすむと、次の仕事が来るまでに、片手間で出来る手紙の翻訳位のほかは閑な、何もしないで唯出勤していると
いうふうな時間に恵まれることもあった。そんな時に同僚の社員たちは、仕事がないのに、仕事をしているような顔をして、時間を無駄に過すのである。
それは勤務時間中の自分のいのちは、会社に買いとられたものであるから、時間が余っていても、自分のために使ってはならないという遠慮があるらしいのである。
そんな時に私には、その卑屈さが耐えられなく不快に感じられるのである。
仕事がないなら、仕事をしている真似などしないで、もっと有益なことに時間を利用すればよいではないか。
後略
『到彼岸の神示』 神示講義・自覚の巻 谷口雅春先生著
(投稿者 現代字変更謹写 拝)
2839
:
SAKURA
:2014/05/11(日) 13:39:12 ID:IQVHvpPo
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行 (その1)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*
あるいは神道の方が来られるとしますと、天照大御神といわれる神様は、たんなる有限
存在としてある過去の年代に、ある短い寿命をもって生れられ、今はすぐに在(いま)さずし
て、ただわれらの追憶を満足さすための記念としてお祀りしてあるというふうな、そうい
う短い寿命の神様だと思いなさんな。天照大御神とは高天原すなわち「光明遍照の実相
世界」に編満する万徳円満の大光明である、その万徳から一切の生物が生まれ出た。しか
し、動植物はその万徳の一部分を表現しているにすぎない。その万徳を完全に体現し
て生まれ出たのが人間である。だから人間の男性を日子といい、女性を日女という。だが
ら人間は神の全徳の最高顕現として実に尊いのであって、その元の大元の大きな生き通し
の編満十全の御徳、これが、天照大神様である。たんなる、過去の存在ではない、たん
に過去の存在を記念するためにのみ祭祀し、奉るというようなそんな小さな神様ではない。
本当に今もありありと生き通して、久遠の昔から今に至るまでありありと生き通しておら
れ、われわれに生命を幸延えたまい、われわれの生命を生かしていられるところの天地編
満の無限の天照、無限の生命の根源が、天照大御神様である。この親神様の全徳の天体的
表現が太陽である。われわれは太陽に生かされているのである。われらが神の子という
のは親神様の尊い生命の流れを受けて親子関係にあることであう、と申し上げる。つまりど
の宗教の方が来られても、もっともっとその宗教の奥へ這入りなさい、大変あなたの
宗教は結構であります、こう申し上げてすべての宗教を生かすのであります。
つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」へ
■【生長の家…真理】は、本当に“万国共通”のモノなのですョネ!!そして…現在まで、私自身
そのように、解釈していたわけなのです。…が?
今回!この頃では「3代目の総裁先生」の指導から〜〜〜特別!最近“頭”がオカシクなっているのです。
「現総裁の教え」の基本は、簡単な?素朴な?思考の【アラブの原理主義】に似ているようですかと?
どうしても思えて仕方がありません。
毎日!毎日!通勤の途中に『金光教の建物…・』があり、毎月!掲示板が…門の入口には、
【毎月の言葉】が貼っており、それを購読してみますと、さわやかな気分〜♫ そう!何となくそうなのョネ!
…と!一人でハミングしているので〜〜〜す。
そう!創立者「谷口雅春先生の教え」と同じ【解・釈】で、当時の昔の言葉からでも…
❤に伝わるモノがありますから、本当に【真・理・は一・つ】と思えるのです。
そして、フト!振り返った時に「そこの団体に、入信すれば?いいじゃないの〜〜♫…」と、誰かが?
耳元に…囁きかけるのです。ほほを…心地よい風が…その時「私は、そう〜〜〜ョネ」…
「でも、亡き両親が【生長の家…信者】でありましたし、素朴に!素直に!【信・仰】された事を…」
現在の私は、いろいろ考えて…やはり聞きなれた「お経」が一番!と「亡き母」が伝えてきます。
私も、そう〜〜〜そうなの〜〜〜このように思えるのです。
■さて現在の【生長の家の幹部理事】は、失礼ながら?まず「2世の信者の皆様」モット別の表現ですが…
「創立者 雅春先生時代からの2世の信者」が〜〜〜果たして【役・職】になられていないようですかと。
ですから?ある面…【本当の真理】は、何処までなのでしょうか??
■ダン!ダン!〜〜〜ダン!ダン!〜〜〜【ちゃんぽん】に見えて参り〜♫〜 複雑なる気分ですネ!
(その2)に…続く
2840
:
SAKURA
:2014/05/11(日) 13:45:34 ID:IQVHvpPo
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の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行 (その2)
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その11 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■□ 話は元に戻りますが…・…・
先程の「現総裁先生」の【基・本…は、原・理・主・義】といいましたのは、
全てにおきましての【言・葉】から〜〜〜
■しょうがない!しょうがない!神のお導き〜〜〜アラーのお導き〜〜〜と…
そのような言葉が、この頃では「連続的」に記載投稿されております。
■なぜ!なぜ!「しょうがな〜〜〜い」と、いいます“表現”が多いのかしら〜〜〜ン!と…
思っていましたら、「或る書籍本」に?
【アラビアロレンスの影響】で…云々…この方はの体験を、記載投稿させて頂きます。
>>私はロレンスのすすめに従い、アラビア人ともに住むことにした。今の私は、そうし
て良かったと思っている。彼らアラビア人は、悩みを克服する方法を私に教えてくれた。
略〜〜〜私がサハラ砂漠に住んでいた時に経験したシロッコという猛烈な熱風の話をしよう。
この熱風は三日三晩ものすごい勢いで吹き荒れた。あまりに強烈をきわめたので、サハラ砂漠
は遠く地中海を隔てて数百キロの彼方にあるフランスのローヌ川流域を真っ白に染めたほどだった。
風の熱気も強烈をきわめ、頭髪が焼け落ちるのではないかと思った。のどは焼けつき、目は燃えた。
歯の間には砂がいっぱいたまった。まるでガラス工場の炉の前に立っているような感じであった。
私はもう少しで気が狂うところで」あった。しかし。アラビア人は決して不平を言わなかった。
彼らは肩をすくめて言った、「メクトウブ!」……「すでに書かれている」と。けれども嵐が
収まると、彼らはすぐに活動を開始した。まず小羊をすべて殺した。いずれにしても死ぬことを
知っていたからだ。即刻小羊を殺すことによって、母羊を救おうと考えたのだ。そして小羊を
殺し終わると、羊の群れを南の水場へと誘導していった。彼らは自分たちの受けた被害を悔やむ
でもなく、何の不平も悩みもない様子で、静かにこれを実行したのであった。
■アラビア人の族長は言った。「まぁまぁだね。一切合切を失うところだったのに神のおかげで、
四割の羊が残ったのだから、また新しく出直しさ」
また、こんな出来事もあった。自動車でサハラ砂漠を横断中、タイヤがパンクしてしまった。
運転手はスペア・タイヤの修理を忘れていた。それで、我々は三つのタイヤしか使えないことになった。
私はジリジリし、興奮して、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、興奮
したところで何にもならない、いったいどうするつもりかとアラビア人に尋ねた。すると彼らは、
興奮したところで何にもならない、一層暑くなるばかりだ、タイヤがパンクしたのは、アラーの神の
思し召しであるから、どうにもならないと言うのだ。そこで、我々はタイヤを外し」、リムのまま
地を這うようにして進みはじめた。やがて車が動かなくなった。ガソリンは切れたのだ。族長は
「メクトウブ!」と言っただった。そして」、またしても皆は、十分にガソリンを入れてこなかった
運転手を非難せずに、相変わらず静かな態度で、歌を歌いながら目的地へと歩いていったのだ。<<
■ 上記のように【D・カ−ネギ−】の書籍から……実は、投稿させて頂きましたのです…。
「閲覧者」の皆様の中では…この【 D・カ−ネギ− 】の投稿言葉の中には?
どのように受け止められましたでしょうか?
ところで【 D・カ−ネギ−】自身、最終的には…全てはイイとは限らないが…
【避けようもない事態に対して愉快に服従する】……この様な内容の記載がありましたが…
「現総裁先生」も【原理主義…しょうがない!しょうがない】という事の解釈論になりますでしょうか?
唯!アラブの於かれた環境と…現状の国内日本の環境とは…異なるように思います…。
この【原理主義…解釈論】でいきますと
「総裁先生の捉え方」は?――>本部職員(召使い)−−>信者(奴隷)
この様に見られているのでしょうか???そうしますと、これが【幹部役員もトップに見習え…】
この様な捉え方となりますと…実に!複雑なる思いでありますネ!!!
■【 あの素晴らし〜〜〜イ! 真理は何処へ〜〜〜飛んでいったの? 】 フ〜〜〜ゥ!再合掌
2841
:
a hope
:2014/05/13(火) 08:25:15 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p66〜67
倫理の基礎としての人格の自由
「愛行生活も、物質的環境が逆らえば不幸な実際生活を生む」とか、愛行の生活と物質の法則とが相衝突する時、愛行の生活が、物質の法則に打ち破られ、悲惨に打ち挫(ひし)がれて、惨々に叩き据えられてしまうということになりますと、人間は外界から押し寄せる物質的盲目的力に左右されているということになりますので、本当の自由は得られないということになります。
「行為者の本当の自由」というものが確立しなければ、人格的行為というものは成り立たないのであります。人格的行為というものが成り立たず、機械的行為というものならば善も悪もないのであります。
心だけ正しければ、外界はその心のとおりに現れなくとも「善」である。人格の自由というものは「心だけの自由」のことであって、外界の自由ということではないというようなことになれば、内外一貫した人間の道徳的自由というものは存在しなくなり、自由といい善というのはひっきょう、心の中ではかなく描かれた空想にすぎないということになります。それでは人間の「善」というものは本当には成り立たない。現実には成り立たないということになります。
ところが、われわれが外界にも生きて行く上に「善」を云為(うんい)し、魂が一種の善(ただ)しさを要求し、「善」とか、「人道」とか、「愛」とか、「憐憫」とかいうものに関心をもたずにいられないというのは、自己の存在の根底において、われわれは内界において自由であるとともに、外界においても自由であるとの根本自覚をもっているからであります。
『創世記』の第一章に、その作者が霊感によって人間の本性を描いて、人間は神の像(すがた)に創造(つく)られ、すべてのものを支配する権能(けんのう)を与えられていると説いているように、われわれはいっさいのものを外界をも完全に支配する自由を与えられているのであります。
外界と内界とを対立させて、善なる主体が悪なる客観に働きかけるというような考えをしている限りにおいては、人間には内外両面相(あい)貫いた自由さはない、内外両面相貫いた本当の自由のないところには、内外両面相貫いた善というものは存在しないということになり、そこにはただ「空想だけの善」が、現実生活では惨めに「踏み躙(にじ)られた善」しか存在しないことになります。
だから、人の世に内外両面、主客相(あい)貫いた「善」というものの価値と権威を確立するには、心の自由は同時に行為の自由であり、心に描かれたことは必ず客観世界にも実現する、心の世界と客観世界とはただ一つのものの両面である――客観世界は心の世界の影であるという、「生長の家」の所説に基づいてこなければならない。
倫理学は要するに、「生長の家」に来なければ主客両面、内外相貫いたその本当の根拠がつかめないということになるのであります。
2842
:
SAKURA
:2014/05/13(火) 20:03:58 ID:3/pn4/Pc
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■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その12 ― 】*=======*=======* =======*=======*
あるいは金光教の方が来られると、金光教の神様は天地金の神といわれる神様である。
天地金の神というと、金の字がついているから、拝んだら金でも儲かる神様である、こう
いうぐあいに思って、御利益信心で詣っておられるような人もあるけれども、そんな“けち”
な神様がこの金光教の神様ではない。金の神というのは「金剛不滅の実相の神様」というこ
とである。天地編満の金剛不壊実相の神様、これが金光教の天地金の神であります。その
金の神という名前がついているから、どうぞ金を儲けさしてくださいなんて、頼む奴には
金を儲けさして、頼まぬ奴には儲けさせぬ、そういう依怙贔屓のあるような神様が金光教
の神様ではない。金光教の神様は、金光教祖がいわれたように「頼まいでもおかげはやっ
てある」こういわれる。これは面白い言葉である。頼まいでもお陰はやってある――これ
は「生長の家」の教えと同じことであります。すでにわれわれは神の子として、無限者の後
継ぎとして神の命じ給えるいっさいのものを与えられているのである。いっさいのものを
与えられているのであるから、「頼まいでもおかげはやってある」とこういううぐあいに金光
教祖はその御理解の中で説いておられるのであります。「たのまいでもおかげはやってあ
る」――それをまちがえて、どうぞ金を儲けさしてくださいと、頼みに行く先が金光教の
神様であるように思ったりしていては教祖が嘆かれる、あんたの宗教の本来の教えはよ
いのだけれども、取りようがまちがっている、だからもっともっと金光教の奥深く這入っ
てゆきなさい。こういうふうに申し上げるのであります。金光教の教えは実によい教えで
ありまして、「神は宮の中におらぬから、わたしを拝みたければ外へ出て拝め」というふ
うな徹底した教祖の御理解もあります。それにもかかわらず立派なお宮をこしらえて、そ
うして蝦で鯛を釣るつもりで、わずかなお賽銭を上げて金を儲けさせてもらおうと思って
拝んだりしている者があるから先般のような金光教の大騒動が起こってくるということに
なる。あれは金光教祖の教えではない。金光教祖の教えは実に立派な教えである。神は宮
の中におらぬ。天地編満の金剛不壊実相の神様がお宮の中に、物質という箱の中に入っ
て、そうしてお賽銭を貰って、お賽銭の多寡によって御利益に大小があるなんて、そんな
馬鹿なことがあるはずない。それをちゃんと金光教祖は喝破しておられたのでありま
す。だから「頼まいでもお陰はやってある」とか「疑いを離れて見よ、われらは神徳の中
に生かされてあり」とか言っておられるのであります。われわれは神徳の中に今、このま
ま生かされているものを、眼をつぶってまだ貰っていないようなきがしておる、そうして
どうぞお陰を与えてください。どうぞお陰を与えてください、こういうぐあいにいってい
るのです。だから、金光教祖は「疑いを離れて広き大道を開き見よ、われらは神徳の中に
生かされてあり」と喝破しておられるのであります。
つづく
Ps:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
出勤途中に、【金・光・教】の伝言板に…毎月の言葉が掲示されています…。
確かに…私の心の中に〜〜〜ス〜〜トン!…と入って来ます。
その後!心…心そのモノが、軽〜〜くなり?足取りも?リズム〜♫が出来るので納得でしょうか??
本当に【真理】を理解するにしても、間違った捉え方での行動は、どうなんでしょうか??
2843
:
a hope
:2014/05/14(水) 09:07:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p67〜71
「善」の一般的要素
倫理の基礎として「人格の自由」ということが確立せられましたら、ついでにその自由の主体たる人格が何をなすか、人として善であるか悪であるかの問題に移らねばならない順序となるのであります。
われわれは子供の時から善と悪との区別を教えられているので、善とはなんぞや、悪とはなんぞやということは誰でも知っているはずでありますが、さて、ひとかどの成人に対(むか)って「人のある心または行為が善と認められる要素はなんであるか、またそれが悪と認められる要素はなんであるか」と尋ねますと、ちょっと返事に困るでありましょう。
では「善とは何?」「悪とは何?」これを「生長の家」の倫理学で解説しますとなんでもないのであります。「生長の家」で申しますと、善というものは固定した「律」ではないのであります。善の確立する根本原理は、
唯一の「善」は神のみである。
ということであります。「善(グッド)」は「神(ゴッド)」の別名なのであります。「神」のいます処、そこに、「善」があり、「神」のいまさない処、そこに「善」がないということになるのであります。
「生長の家」で申しますところの神とは、すべてのものの創造主(つくりぬし)であります。言い換えれば、神があらわれてすべてのものとなったのであります。だからすべてのものは、神において一体なのであります。すなわち「創造(せいちょう)の宇宙(いえ)」においては神はその御親(みおや)であり、すべてのものは、その御親より出でたる御子(みこ)であります。すべてのものは、御親の生命の分化でありまして、神において一体なのであります。
自と他と、我と彼と、心と物と相離れているように見えますけれども、実は相離れているのではない、本来、自他一体なのであります。神を愛するには、神と、神より出でたるものすべてを愛さなければならない。それで、『マタイ伝』二十二章にもイエスの言葉としてこう書いてあります。
「一人(ひとり)の教法師、イエスを試むるために問う『師よ、律法(おきて)のうち、いずれの誡(いまし)めが大なるか』イエス言い給う『なんじ心を尽(つく)し、精神を尽し、思いを尽して主なるなんじの神を愛すべし。これ大にして第一の誡なり、第二もまたこれにひとし、おのれの如く、なんじの隣(となり)を愛すべし。律法(おきて)全体と預言者とはこの二つの誡によるなり』」(『マタイ伝』第二十二章三十五―四十節)
2844
:
a hope
:2014/05/14(水) 09:09:09 ID:cEpBaIdo
(
>>2843
つづき)
パウロもまた『ロマ書』の中で、
「汝等(なんじら)互いに愛を負うのほか何をも人に負うな。人を愛する者は律法を全うするなり。それ『姦淫(かんいん)する勿(なか)れ、殺すなかれ、盗むなかれ、貪(むさぼ)るなかれ』と云える、この他なお誡命(いましめ)ありとも『おのれの如く隣(となり)を愛すべし』と云う言葉の中にみな籠るなり。」(『ロマ書』第十三章八―九節)
「兄弟よ、汝らの召されたるは自由を与えられんためなり。ただ其の自由を肉に従う機会となさず、反(かえ)って愛をもて互いに事(つか)えよ。その律法(おきて)の全体は『おのれの如く、なんじの隣を愛すべし』との一言(げん)にて全うせらるるなり。」(『ガラテヤ書』第五章十三―十四節)
といっています。
「愛」のうちにこそいっさいの人倫は含まれているのであります。イエスは、その弟子のパウロに、「おのれのごとく、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」と申しましたが、「生長の家」では「自他一体なるがゆえに、なんじの隣を愛すべし」というのであります。他をおのれのごとく愛するのではまだ足りない。自己と他とは一体なるがゆえに、自己はすなわち他なるがゆえに自己を愛するということは、必然他をも同時に愛しなければならないのであります。
使徒ヨハネは、
「愛する者よ、われら互に相(あい)愛すべし、愛は神より出ず、おおよそ愛ある者は、神より生まれ、神を知るなり。愛なき者は神を知らず、神は愛なればなり。」(『ヨハネ第一書(だいちのふみ)』第四章七―八節)
といっているのであります。「神は愛である」とは、『ヨハネ第一書』以来今日にいたるまで、神について下された最も要領を得た定義であります。では愛とは?「おのれのごとく隣人を愛すべし」何故(なにゆえ)であるか。答えて曰く、神はすべての親であるから、自己と他とは一体であるから、その答えは大いによろしい。自他包容の渾一体(こんいったい)――すなわち「自他一体」そのものが神なのであります。自他一体を生きるということが神を生きるということ、神をこの世に顕現することであります。
自他一体を生きることが神を生きることになるのでありますから、軽くいえば自己のごとく他を愛する。いっそう切実にいえば自己そのものとして他を愛することが、神を生きることになるのでありまして、「神を生きる」すなわち永遠価値の生活を生きることは「愛」を生きることにほかならないのであります。
2846
:
a hope
:2014/05/15(木) 09:17:46 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p71〜72
「神を愛なり」とは何を意味するか
「神は愛なり」とヨハネは申しました。有島武雄氏は「惜しみなく愛は奪う」と申しました。これは愛とは一体と感ずる、換言すれば「自己のものとして観る」ということであります。「神は愛なり」とは、神は万物の本源でありますから、「神はすべてのものを自己そのものとして観給う」――これが「神は愛なり」という意義であります。
「われわが子を愛す」といえば、「われそのものとして観る」ということであります。子を愛する母は、わが子の噛んだものを口移しに食べても「穢(きたな)い」と感じない、それはわが子をわれそのものとして観るからであります。「穢い」などという感じ、すべての軽蔑の感じは自と他と相疎隔した感じによって起るのであります。
われわれは口中に常に若干の唾液を持っているものでありますが、その唾液を穢いともいやらしいとも感じたことがない、それはその唾液を「自己」そのものとして感じているからであります。いったんその唾液を吐き出して自分と離れた所に置きますと、もうその唾液は穢くて再び自分の口へ入れる気にはなれますまい。これは自己と離れているという感覚的印象に従って、自分と離れた感じ「穢い」という感じを起こさせるのであります。
また、もう一つ例をいえば、われわれは常に自己の腸管内に多少の糞便を溜めているのでありますが、それを誰も穢いと思ったものはない、また糞便があるということを知らぬのでもない、しかし穢いとは思わない、これは自己の腸管内にあるうちは糞便をも自己そのものの一部として観じているからであって、ひとたび体外に排出して、自己と離れた感じを受けるに到れば、その糞便は「穢い」として感じられてくるのであります。
こういうように、どんなものでも「自己そのものとして感ずる」ときには穢いとは感じないのであります。「美とはそこに生命があらわれていることである」と『智慧の言葉』にありますが、ある種の美術はちょっと見るとどこが美しいのかわからない、じっと見ていると美しさがわかってくる、それはその美術に顕れている「生命」を見いだし、その「生命」を自分の「生命」と同じものとして感じる、すなわち自他一体の感じを受けるから「美しい」と感ずるのであります。だから「美」も「愛」も「生長の家」から観れば同じことでありまして、自己と同じ生命を見出すとき、そこに美を感じ愛を観ずるのであります。
2847
:
a hope
:2014/05/15(木) 09:19:40 ID:cEpBaIdo
>>2846
訂正
「神【を】愛なり」とは何を意味するか→「神【は】愛なり」とは何を意味するか
2848
:
SAKURA
:2014/05/15(木) 20:03:22 ID:3/pn4/Pc
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>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
>>2798
>>2801
>>2802
>>2803
>>2807
>>2808
>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
>>2840
>>2842
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その13 ― 】*=======*=======* =======*=======*
それからまた、たとえば天理教の方が来られますと、天理教はたいへん結構な教えで
す、こう申し上げる。天理王命といわれる神様はこれは天地の理法が神様として人格化
して顕われられたものである。これはたいへん結構な神様である。生長の家でもやはり天
理教のように『心の法則』ということを説いている。天理教の教えは、生長の家でいう「心
の法則」、仏教でいう因果の法則を「理」として取り扱ったもので、一方にはやはり人間本
来神の子であって、完全な水晶球のような汚れない霊(みたま)である、それにちょいと塵がつい
ただけである、こういうぐあいに天理教祖の「筆さき」の中に書いてあります。天理教
祖の「筆さき」の主なる解釈は『生命の実相』全集「萬教歸一篇」の中に書いておきましたか
ら見てくださればいいのでありますが、要するに、天理教も実に立派な教えである。そん
な立派な教えを本当に立派なものにしないで、取りようがまちがって、そうしてもっとも
っと一段と低いものに変えてしまった、それが気の毒である。それで生長の家では天理教
をわるくいわない。天理教は実に立派な教えだが、あなたが今思っているようなそんな下
らない迷信的分子のあるものだと思いなさんな、もっと教えの本体を見て立派なものだと
思いなさい。金を持ってこなければ御利益をやらぬぞ、そんなけちを言うような教会宗
教だと思いなさんな。こういうぐあいに申し上げるのであります。
つづく
2849
:
a hope
:2014/05/16(金) 09:20:48 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p73〜76
「神を愛する」とは神と一体と感ずること
「神は愛なり」「愛の感じは自他一体の感じである」といたしますと、愛の反対は自他疎隔の感じであります。自他疎隔することは、すべてなんに対しても吐き捨てた唾液のように、「あれは自分自身ではない」という感じを持つことであります。
われわれ「生長の家」の家族が「神と一体である、神の子である、神と同体である」と申しますと、「人間が神の子であってたまるものか、人間と神と一体であるとは不遜なことをいう。神は人間の主(しゅ)であり人間は神の僕(しもべ)にすぎない」といって、われわれが「神と一体である」ということを大変謙遜でないといって攻撃される人がありますが、特にそういう攻撃をされる人がキリスト信者に多いのでありますが、キリスト教の開祖はなんといったかといいますと、
「なんじ心を尽し、精神を尽し、思いを尽して主なる汝の神を愛すべし。これ大にして第一の誡(いましめ)めなり。」(『マタイ伝』第二十二章三十七 ― 三十八)
といっているのであります。ここに「主なる」とあるのは、僕(しもべ)に対する主人のような疎隔した意味でいっているのではなく、至高者(いとたかきもの)というような意味の形容でなければならない。だからこれは「いと高きなんじの神を愛すべし、これ大にして第一の誡めなり」という意味であります。
2850
:
a hope
:2014/05/16(金) 09:22:32 ID:cEpBaIdo
(
>>2849
つづき)
では「神を愛する」とはなんであるかと申しますと、「愛する」とは自己と一体として認めることであるという一般定義に従いますと、「神を愛する」とは神と一体であると認めることをもって第一とするのであります。妻を愛するとは妻と一体であると認めること、子を愛するとは子と一体であると認めること、隣人を愛するとは隣人と一体であると認めること、この「一体であると認める」すなわち愛するということが第一であっていろいろの律法――「殺すなかれ」とか、「盗むなかれ」とか「姦淫するなかれ」とか、「偽りの誓いを立つるなかれ」とかいういろいろの外形的な細目は、「神と一体であると認める」(すなわち「神を愛する」)という中心自覚とがととのえば自然にととのってくることなのであります。
「われ神と一体である」との中心自覚がととのわねば、神を愛しようと努力しても本当に神を愛することはできないのであります。それはちょうど、子を愛しようと努力しても、「その子は本当に自分の実子である。自分とこの子は一体である」という自覚ができねば、本当に愛することができないのでありまして、「この子は継子(ままこ)である、自分の生命はこの子につながってはいない、この子の生命と自分の生命とは一体でない」と自覚しているようなことでは、いかに愛しようと努めても愛することはできるものではない。
それで「神を愛する」ということでも同じことであって、本当に「神を愛する」ためには、「神とわれとは一体である」との中心自覚がなければならないのであります。これを神と人間とを主人と僕婢(ぼくひ)の関係に見立てて、「神を愛しなければ叱られる、罰せられる」と思って愛しようと努力し、愛したと同じ行いを、外に顕わしたにしましても、それは努力して「愛する外形を真似た」というだけであって、 本当に「神を愛した」ということにならない。
2851
:
a hope
:2014/05/16(金) 09:25:27 ID:cEpBaIdo
(
>>2850
つつき)
では神を愛するとは、「自分が神の子である。神の子である神の生命とは一体である」なお、極言するならば、「自分は神そのものである」との中心自覚がととのってこそわれらは完全に神を愛しうるのであります。この中心自覚がととのわないで「神を愛する」などということは、たとえば「継子を愛する」のと同様、自分と一体でない生命を愛しようといういたずらな努力の愛になってしまって、本当に完全に愛することはできないのであります。
だからわれわれの目指すべき中心善はなんであるかといいますと、イエスの口調を借りていえば、「なんじら、まず神と一体であることを認めよ、これ大にして第一の誡命(いましめ)なり。この中心善を認めよ、すべての善はおのずからなんじに調うべし」であります。われらが、「神と一体である」と認めることが決して神を冒涜するゆえんにあらず、かえって、「神と一体であると認めないことが神を愛しないことになることがわかったでありましょう。
わたしはこの序論の冒頭に、「人生の目的とは、要するにこの世の神の生命を顕現することにある。神がこの世にあらわれた生活を示現(じげん)することである」と書きましたが、われわれがその本来相において「神と一体である」という事実を肯定しなければ、われらはこの世に神の生命を顕現することもできず、神がこの世にあらわれた生活を示現することもできないのであります。
ただ、神なるもののみ、神なる生命をこの世に示現することができるのであります。本来、人が神でないならばいくら努力しても神の生命をこの世に示現することはできない。そして「神」のみが「善」であるから、本来、神でない人間がもしありとすれば、彼らはいつまでも善に到達することはできないということになるのであります。
ところが幸いに、人間は本来神の子であり、その本性において神そのものであるがゆえに、「本当の人間(リーアル・マン)」が生活されたならば、そこに「神がこの世にあらわれたことになり、神なる生命がこの世に示現した」ことになるのであります。
2853
:
SAKURA
:2014/05/16(金) 21:52:16 ID:3/pn4/Pc
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>>2803
>>2807
>>2808
>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
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>>2839
>>2840
>>2842
>>2848
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その14 ― 】*=======*=======* =======*=======*
「生長の家」へも時々天理教から、病気が癒らぬので治してほしいといって来られて、うったえ
られるのです。わたしは「あなたは天理教で心の持ち方を教えてもらったでしょう。
そのとおりの心の持ち方になれば、三界は唯心の所現ですから治るんですよ」と申し上げると、
「運びが足らぬと天理教の先生がおっしゃいました」と、こういうふうなことをよくいわれるのです。
天理教布教師はなんのつもりで、なんの運びのつもりで言われたのか知りませぬけれども、その人が
言われるには、「あまり運んでおると財産も何もなくなってしまいますので、もうとうていやりきれぬ
というのでやめにしました」と言われるのです。
ところが天理教の布教師が、「あなたは運びが足らぬ。何もかも神様に上げてしまいなさい。
そしたらあなたは救われるのだ」とこういうぐあいにいわれるのは、それは真理なのです。
「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。
「何もかも神様に上げてしまいなさい」ということは、要するに、「何もかも、神の他のものは何
もないということを知りなさい」ということなのです。われわれが百万円の金を持っているとして、
何もかも神様にお上げしようと思って、百万円すっかり上げたってまだ何もかも上げたということには
ならない。やはり着物も着ているし、肉体も持っているし、いろいろ茶碗と箸ぐらいは持っている。
それをみな、肉体のみんな上げなさいと言ったって、それはできることじゃないこととなってしまう。
では「みんな何もかも神様に上げてしまいなさい」ということはどういうことかというと、これは自覚(さとり)である。自覚の転換である。今までは「そこらにあるものは自分のものだ」と思っておったのだが、
「何もかも上げてしまいなさい」とこういいうふうにいわれて「本当に全部上げてしまった」と
いうことになると、今ここにこのままいながら、自分というものは何も無い、本来無一物、ただ神
だけがあり、神のものだけがある。この体も、生命も神のものであるということが覚れる。こいつ
が肝腎なんです。この自分の生きている生命も神のものである。
そうすると、言い換えると自分すら神のものだということになるのであります。
いろいろと財産を持ち運んで行ってその報酬に御利益を貰うのではないのです。自分が今このまま
神のものである。神のほかに何ものない、神のみが実在である。この自覚こそすべての持ち物をみな
神様に上げてしまうということなのです。
つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
>>「運びが足らぬ」というのは心の運びが足らぬのです。心がスッカリと転向していないのです。<<
そうですョネ!!
『心…』がもしかして“曇り空”になれば…それは「神よりも悪魔…」の
しわざかしら〜〜〜ン?? そこで、本当に【神地一体】とは、神に振り向ける…つまり!
『心の往復切符…それは“幸福の切符”』でしょうかと??
モ〜〜〜ゥ!何もかも委ねるそうですョネ!!神に任せ切る“心”なんです…ネ!…
「三界は唯心の所現」は、【心・の・法・則】の基本なのです〜〜〜ョネ!!
現在!私は、現象=>実相に映る過程の道…「神に任せる…心を神様に振り向ける心」これが、
今の私たちの“今”生きる事とは「神様に任せ切る心…」
この事を認識することが出来まして…本当に「神様に委ねる…甘えて行く事」なんです〜〜〜ネ!!
【 再・発・見!!再・認・識 】 この【気づき】に感謝いたします…。 再合掌
2854
:
a hope
:2014/05/16(金) 23:07:16 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p125
第五章 実相を隠蔽する驕慢と自卑
第一の神性隠蔽(罪)としては「神我一体」の実相を包んで見ざること、第二の神性隠蔽としては「自他一体」の実相を隠して見ざること、第三の隠蔽としては「隠蔽(つみ)の隠蔽(いんぺい)として自己弁解すること、第四の隠蔽としては外界がただ自心の展開なる事実を観ず悟らず、外界をもって自分に対立するところの有限の世界だとして観じ、自心の整理を先にせず、物に執し物を奪い合わんがために、兄弟と相争い――ここにこれら四つの根本的神性隠蔽が相寄り相混じて、種々なる罪を構成するにいたるのであることは、前節までにおいて詳細説明せるところであります。
「物あり」と思うがゆえに、物に執着し迷うのであります。「物」が自心の展開であるということが判れば、自心を整えるよりほかに物を得る道はないので執着が破れてしまうのであります。
「自他一体」の事実が悟れないゆえに、利己主義が生じ、利己主義が、「物あり」という迷いと混合して、貪欲、怒り、憎み、嫉妬、虚栄などの諸罪を構成するのであります。・・・
2855
:
a hope
:2014/05/18(日) 10:12:31 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p82
宗教争いは偶像崇拝より起こる
物質的な形あるものを礼拝の的にするようになりますと、物質的な形あるものは有限でありますから、ここまでは自分の領分であって、お前の領分ではないというような争いができてくるのであります。人間を和合させる働きをせねばならぬ宗教でさえも、肉体キリストという物質的顕現に捉えられていましては、顕現せられましたそれぞれの応身または報身は異なりますから、互に信者争い、領分争いをしなければならぬようになってくるのは当然であります。
その宗教が偶像崇拝教である程度は他教を排斥する程度でわかるのであります。
つまり、すべての争いの第一の萌芽(ほうが)は、物質的な形あるものを崇拝すること――すなわち偶像崇拝――よりくるものであります。
すなわち「すべての罪のうち最も重きものはなんであるか」と問う人がありますならば、「偶像崇拝をもってその第一とす」と「生長の家倫理学」は答えるのであります。
キリストでもこれを肉体イエスという「物質的形体」に見いださず、「アブラハムの生まれぬ前よりわれは在り」といわれた「永遠神性」にこれを見いだし、仏でもこれを肉体釈迦に見いださず、「過去の諸仏は皆わが弟子なり」と阿難答えた「久遠の釈迦」に見いだし、「生長の家」でもこれを肉体谷口の家に見いださず「すべての教えわれに流れ入りて生命を得ん」と示された「久遠実在の生長の家」に見いだすとき、すべての教えは、ここからあすこまでは自分の領分だなどという縄張り争いをする必要がなくなるのであります。
2856
:
SAKURA
:2014/05/18(日) 19:32:11 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…引用編】
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>>2853
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 各宗教に対する生長の家の立場 ―その15 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■「われのもの」であると思っているが、その「われ」というものすら無いものだとすっかり何も無く
なってしまって、もう“神様だけである”、神様のみが実在である。
ここに神様がいる、あるいは親兄弟姑さんとか、意地悪の小姑さんとかがいるとしても、そんな悪いよ
うに見えるものは、アルように見えても何もない。みんな神である、神以外のもは一つもない。そうい
うことがわかるのが「みんな神様に上げてしまいなさい」ということである。
存在のすべてを神に託したのですから、みんな神に献げたことになる。所有財産中の一部の百万円や、
五百万円や、財産残らず持って行ってもそんなことでは全部を神様に献げたことにならない、そんな
不徹底なやり方ではいけないのです。もう生きているこの生命の元さえも少しも残るところもなく全
部神様に上げる。そしてここに「神だけがある」というふうにしなさい。
これが本当に全部神様に捧げるということであります。こういうふうに説いてあげますから天理教の
信者たちも、あの自分の信じた天理教はそんなに立派な教えであったのか、と喜んでお帰りになるの
であります。
天理教もこう見てくると実に立派なものである。仏教の極地の「ただ実相のみがある」という仏教の
極地と天理教の極地とは実にぴたりと一つになれる。
天理教を病気だけ治してもらう宗教だと思って病気を治してもらうことばかりを思うのはまちがいで
ある。もっとあんたは自分の信ずる宗教を立派な宗教と思いなさい、と、信者自身が思っていりより
ずっと立派なものであると、おう称えてあげるのが生長の家であります。宗教というものは、ずっと
その奥堂へ入ってゆくと、こういうふうに実相の世界へ入ってゆく、実相の世界とは先刻申しました
おり、「生長の家」でありますから、天理教は天理教のままで生長の家に入れ、仏教は仏教のままで
神道のままでみんな生長の家に入れるのです。
それで、聖書にも「父の国には住居多し」と書いてある。
つまり、生長の家は、アパートみたようなもので、天理教の住まう家もあれば仏教の住まう家もあると、
まぁこういうふうな一切包容の「家」であります。
つづく
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
分かりやすく説いてくださっています。
【神に全托なさる事】とは、もう【無限供給の門】を一歩踏み出した事と!!この様に解釈しました。
「神様」にすべてにお任せして〜現在の掟ます事も含んで、まず!「マザーテレサなみになる事」かと。
私自身の「魂の向上」に向けて下さって居ます事の「お知らせ…配信」つまりは、
【神様からの配信…】と、只今思えるようになりました。
複雑な現在社会構造の中で、益々【心のよりどころ】は、まず!当然ながら【心の形成を建てなおす事】
でしょう!!もう少し私自身の【心を大海原に走って行こう…!】と思います。
「雅春先生」…ますますと、この自覚が入りました事に、ありがとうございます!! 再合掌
2857
:
a hope
:2014/05/19(月) 09:22:42 ID:cEpBaIdo
(
>>2855
つづき)
「生命の實相」第13巻 p83
人間の不自由の萌芽(ほうが)
ところが、これに反して、少しでも物質的形体に捉われはじめますと、人間は本来の「自由」をわれとわが念で固定して「不自由」ならしめるのであります。「争い」というのも「不自由」の一面のすがたであります。すなわち本来の全体としての自由を失っているから「争い」が起こりのであります。
時計の歯車でも全体としての自由が失われていなければ、どの歯車も不自由にカチ合い争うなどということはないのでありますが、全体としての自由が失われると、歯車と歯車とが互いに調和して運行しないで、カチ合って時計が止まってしまうのであります。
この全体としての自由を失った「カチ合い」が、「争い」なのであります。
宗派争いをして仏教を罵ったり、キリスト教を排斥したりして、和協合同しえないのは、この「カチ合い」でありまして、人類の和協合同を説くべき宗教みずからが、和協合同を失っているという矛盾を演じているのでありまして、これというのも礼拝の本尊をば、「永遠の神性」とか、「久遠本仏」とかに見いださず、物質的形体のイエスに見いだしたり、肉体釈迦に見いだしたりして、「第一の神性隠蔽」に捉われているからであります。
宗教でさえも礼拝の本尊を「物質的形体」においたならば、このように争いが起こるのでありますが、個人の生命を「久遠の生命」の流れの中に見いださず、それを「肉体」に置き換えた原罪(第一の神性隠蔽)から出発して諸々の罪悪が発生するのであります。
2860
:
SAKURA
:2014/05/20(火) 22:58:27 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
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>>2839
>>2840
>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その1 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■>>われらは自分を神の子(または仏子)なりと信じ、常にけだかく人生の道を歩み、内な
る魂の誇持“ほこり”(きょうじ)を傷つけざらんことを期す。<<
さて、この自分は神の子であるということがわかりましたならば、そのわかった神の子
を今生きて行くということが必要なのであります。「自分は神の子である」とわかりながら
それを今生きて行かないというのは、これは実に矛盾したことであります。そういう人は
実際は、本当に神の子であるとわかっていないのであります。そういう人が神の子である
と思うのは、偽存在“にせもの”の自分を神の子であると思っている場合にそうなるのでありま
す。偽存在の自分、我の働きが神の子であるとこう思っている、その場合には、いくら聖
典を読んでも実際に神の子らしき行ないとしてそこに現れてこないのであります。偽存
在の自分をいくら磨いても本物になるわけはないのであります。真鍮の指輪をもってき
て、磨いたら黄金になるであろうと思っていくら磨いたって、真鍮はやはり真鍮なのであ
ります。それと同じく、この偽存在の自分をもって「神の子である、神の子である」とこう
思っても、なかなかわれわれは神の子になれっこはない。それでわれわれは神の子である
という自覚を実相から出してくるということが必要であります。
つづく
2861
:
a hope
:2014/05/21(水) 08:48:04 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p88
久遠神性にある救い
何人の肉体的顕現を通さなくとも、「久遠の実在」としての実相人間を信ずる者には、永遠の生命が与えられる、これが「生長の家」の発見した真理であります。すべての人間が「久遠の実在」の顕現であり、現象世界が善かろうと悪かろうとそんなことは写真の映りが善いとか悪いとかの問題であって「実際の人間(リーアル・マン)は悪くはないのであります。
この事実を知らないから、人間は自己軽蔑する。「自分などはとても駄目なものだ」と思って「神性隠蔽」(罪)をするのであります。神性隠蔽をしておいて現象界も映し出しても、完全な神性が映るはずはないのであります。
人間を風呂敷で包んでおいて写真をとってごらんなさい。完全な人間の姿は写りますまい。それと同じく、自己の「神性」を包み隠しておいて、「自分はとても駄目だ」などという念のレンズで現象界を造り出したのでは、完全な現象界は出現するはずはないのです。
それで「自分は罪人だ」という観念はすべて現象界の罪悪の母胎であり、自分は神の子だという観念は善き現象界を造る母胎となるのであります。
2864
:
a hope
:2014/05/24(土) 20:12:58 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻
隣人に対する罪 p102
・・・その次にイエスがあげた第二の誡命(いましめ)はなんであるかといいますと、「おのれのごとくなんじの隣人を愛せよ」ということであります。
そこで隣人に対する罪とは、この第二の誡命を破るということにあたるのでありますが、なぜおのれのごとく隣人を愛しないことが罪であるかと申しますと、それはわれと隣人とは本来一体であるからであります。
「われと隣人は本来一体である」という事実は、どこから来るかといいますと、「われは神と一体である」との第一最大の真理から必然生まれてくるのであります。
甲も神と一体であり、乙も神と一体であり、丙も神と一体である。
かかるがゆえに甲も乙も丙も神と一体であることになるのであります。
隣人を愛しないというのはこの自他一体であるという実相を見ないからであります。
それは五官の眼で自分と他人とを見ますと、自分というものは他と離れ離れのものであるということを結論しなければならない、肉体は一人一人別々である、頭は一人一人離れている、手足は一人一人離れているということになるのでありますけれども、それは五官のまどわしに捉えられているからであります。
五官を離れて、あるいは五官を深く掘り下げてゆきますならば、自と他とは本来一体であるということがわかってくるのであります。
2865
:
a hope
:2014/05/26(月) 08:25:03 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p105〜
利己主義すなわち自他一体の実相の隠蔽
・・・だから、より大いなる自他一体に進展しようとしないところの、小さな自他一体の団体は、一時は大いに発展するようにみえましても、やがては全体からの生命の供給を
はばまれ、それ自身たつことができぬようになるのであります。
周囲に反対して無理に成就せしめた恋愛などが、一時は大変好都合にゆくように見えましても、いつの間にか夫婦の愛に異常を生じて破綻をきたしたりする例がおいおいありますが、それはやはり全体からの生命の供給をはばまれた結果、その恋愛が正常の発達を遂げることができず、歪(いびつ)に不自然になってしまった結果でありあす。
恋愛そのものが悪いのではなく周囲との不調和がわるいのであります。
なぜわれわれが利己的動機に陥るかと申しますと、五官をもって事物を見る結果、その印象にあざむかれて物質有限の感を抱くにいたるからであります。
物質が「心の影」だとわかったならば、心にしたがってどんなにでも、多くでも少なくでも顕すことができるのでありますから、他を制して自分の方へ集めましても、物質無限でありますから、「他を制する」必要だけは全然なくなるのであります。
この「他を制して自分の方ばかり集める」という利己主義の展開としてやる商売や職業は、結局行き詰まってくるのであります。
2866
:
SAKURA
:2014/05/26(月) 21:52:23 ID:3/pn4/Pc
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こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【 転載編…】
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>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2 ― 】*=======*=======* =======*=======*
■よく病気の方などで、あんた『生命の実相』をよく読んでおられますかというと、よく読んで
います、朝から晩まで『生命の実相』ばかり読んでそうして疲れてしまって何もできません(笑声)
とこういう人があります。
こういう人は『生命の実相』の真理をどこへ滲み込ませようとしているのであるかというと、偽存
在の自分の中に滲み込ませようとしているのあります。だから何か金粉のようなものを付け加えて
磨いておったらしまいには金になるであろう、こういうふうに思って朝から晩まで真鍮を磨いてい
る方である。
それじゃいけないのであります。それでわれわれは神の子であると知るということは、結局は
“神の子を生きる“ということで、「知る」ということと「生きる」ということと別にあると思うと
まちがいであります。つまり「知る」とは「生きる」ということである。
親鸞聖人が「信心よろこぶその人を如来とひとしとときたまう。
大信心は仏性なり。仏性すなわち如来なり」ということを『弥陀和讃』の中で説いておられる。
という意味は、信心を起こす心、この本当の信心というものは、如来と同じものであるということである。
では、如来はどういう働きをしたかというと、一切衆生を生かさんがために、いろいろ無限の愛を
もって超載劫の永い間行をして、今西方に安楽国という浄土を建設して、そうしてそこに、わたし
を頼むと利他的な念願で働きをしておられるのであります。その仏の働きが自分の中に出てきたら
これが信心である。
信心というのはただ南無阿弥陀仏とこう口先にいって、「偽存在の肉体の自分」が蓄音器のレコード
みたいに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」といいながら、行の上で嫁いじめをしているというふうな
ことではこれは信心ではない。
“信心とは仏の心が自分の中に生きる“ことである。金光教祖は、「日に日に生くるが信心なり」と
こういわれた。日に日に生くるが信心なり――そうしますと、この南無阿弥陀仏というのは何である
かというと、「南無」というのは帰命である、弥陀の命に帰一するということです。
阿弥陀様の生命のままに生きましょうというのが南無阿弥陀仏であります。
つづく
2867
:
SAKURA
:2014/05/26(月) 21:59:50 ID:3/pn4/Pc
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>>2840
>>2842
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>>2856
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>>2866
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その3 ― 】*=======*=======* =======*=======*
ところが、阿弥陀様の生命のままに生きましょうと口に唱えて、その――阿弥陀様は慈悲の権化で
あるのに、その阿弥陀様の生命のままに生きましょうといいながら、嫁をいじめてみたり、欲ばっ
て泥棒してみたり、無理なことをして儲けてみたり、「このくらいのことはよいだろうから、ちょっ
とだけ猾いことをしよう」とそういうふうなことを考えているようなことでは、「阿弥陀様の生命の
ままに生きましょう」とこういいながら、阿弥陀様に背を向けている、どこにも阿弥陀さまに帰命し
ていない。これではその人は信心じゃないのであります。
本当の信心というのは「ここに神が生きる」「ここに仏が生きる」この自覚で生ききるのが信心であります。
今まで仏様というものをまちがって解釈して、なんでも涅槃寂静であって、力のない、空のなんにも
ないようなものである、とこういうふうに考え、なんの力なく、死んだように、空になったように
遁世してしまう。これが仏様の命令のままに生きるのだと考えたらまちがいなのであります。
仏様は無礙自在の働きをして、少しも休む暇なく働いていられるのであります。人のために休む暇も
なく働いて働いてやまない、これが仏様の心をわが心とし、仏様に帰命することであります。
この世、現世は無常であって、本来ない空であると仏典はいう。そして仏様も空である、みんな空で
あるからどうでもよいのだと、したいままをして、結局空に帰して、それで一生涯であるというふう
な考え方をして、この世をつまらなく否定してしまうことを本当に仏道を生きることだと思っていると、
それはまちがいなのであります。現代の仏教が本当の教祖たる釈迦の御教えから外れてしまって、ただ
この現世は無常である。空々漠々である、仏様も空である、みんな空であって、その空から阿弥陀如来
というものが現われて、そうして西方極楽浄土に報土を作って、この南無阿弥陀仏と口の先だけで称え
ておったら、死んでからそういう極楽浄土で楽をさしてもらうのだというような、そんな馬鹿な考えを
もっている似而非仏教信者があるために、せっかくの尊い釈迦の教えが死んでしまい現実を生かさない
という残念なことになっているのであります。
この釈尊の御教えを本当に生かし、同時にすべての善き宗教の教祖の御教えの神髄を生かすのが
生長の家であります。
本当の信心は、今自分が仏子であり、神の子であるということを知る、そうして、今自分がその仏なり
神の子なり生きることであります。
つづく
2868
:
SAKURA
:2014/05/26(月) 22:02:05 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
>>2798
>>2801
>>2802
>>2803
>>2807
>>2808
>>2809
>>2812
>>2820
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>>2840
>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
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>>2866
>>2867
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その2・3の引用編 ― 】*=======*=======*
>>2866
>>2867
投稿の続きです…。
PS:「トキ様」・ 「観覧者の皆様」 へ
『人間の真理』について書かれています。〜〜「複・雑・感…」でしょうか??
当時の信者もどれくらいの理解力が〜〜〜><と思いつつ、そうこうしております、現代の私達の
置かれています【生長の家のお家騒動…】を思いながら〜〜久しぶりに閲覧しますと?
「皆様」は、こうなければ〜〜〜こうだったとか〜〜〜??色んな捉え方が〜〜〜??
しかしながら今回の「雅春先生の言葉」から、やはり【信・仰】について詳しく取り上げて頂き、
この本は「信者に向けての中身…」でしょうか??
今回!私も「総裁先生」を応援しながら〜〜始めて【ネット…】での『生長の家のグループ』に、
参加……その後!その後!〜〜〜の私の見方が〜〜〜180度変化したのです。
そこでは、私は、いろんな“形でのアクシデント…”から、【フェスブックの友人達】を、意を決して、
かなり白紙と致しました。残ったのは〜〜〜ごく【少・数…】でしたし〜〜〜更に!!
パートナーの「ナンシーさん」のフェイスブックの問題があり、いろいろな形で〜〜〜「総裁先生」に、
一言〜〜〜言いたいで〜〜〜す。
■【他人まかせ…】で、行きますと〜〜〜怖いですネ!!ある時!〜〜〜><
【ネット関連の方達の信頼度】は〜〜〜不思議と閲覧していますと、此処で、私は、ある面では、
彼らからの被害者という事になりますでしょう。…が?
お陰さまで【神・想・観…】中に 気をつける事とのメッセージを頂く事となり、色々考えたすえ、
【決・断】した行動は〜〜〜「フェイスブック研究会…49のグループ」は脱退しました。
詳しくは、また後に……そして【信・仰】しながらの、相手の『悪・口・論・争』のコソコソは??
…と、改めて思いました。
やはり【生長の家は信仰】ですので、まず【真・理】からが大事!!しかも〜〜〜
間違った解釈は??でしょうか?
■まだ!まだ!私も!!【真理=実行】の私にと…【有・言・実・行】当に勉強中で〜〜〜す!!
再合掌
:
2870
:
トキ
:2014/05/28(水) 18:44:06 ID:K6oful.2
>>2868
生きて居る限り、誤解をされるのは仕方がないです。
釈尊はダイバダッタに背かれ、キリストはユダに裏切られました。
谷口雅春先生ですら、弟子に裏切られています。
でも、それでも、以上の方々は人類に多大な貢献をしました。
「倒されし 竹はいつかは 起き上がり、 倒せし雪は いつかは 消え去る」
頑張って下さい。
2871
:
SAKURA
:2014/05/28(水) 21:12:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
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>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*
>>2866
>>2867
投稿の続きです…。
「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。
これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。
ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。
それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。
仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。
活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります
だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。
つづく
2872
:
SAKURA
:2014/05/28(水) 21:15:02 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
>>2796
>>2797
>>2798
>>2801
>>2802
>>2803
>>2807
>>2808
>>2809
>>2812
>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
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>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
>>2871
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<
人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??
例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??
■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?
例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】
■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。
もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。
■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。
余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?
再合掌
2873
:
志恩
:2014/05/29(木) 08:24:09 ID:.QY5jUA6
藤原敏之先生著・「あなたは必ず救われる」より
【人生とは 魂向上のための 学校の様なものでありますから、何も問題がなくなるということはないのであります。
人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。】
{人生は魂修行の道場}
ものには裏と表があるように、人生観にも表(実相)から観た人生観と裏(現象)から観た人生観とがあります。
この自分の側(現象面)から観た人生観でありますが、それは人生とは魂修行の場であり、道場であるとする観方であります。
私達の霊魂は永遠に不滅でありまして無限に向上を続けているのであります。
若い方が私に良く質問されることの中に、「人間死んだらどうなるか」というのがよくあります。
そんな時私は「死んでから先のことを知ろうとすれば、今を見たらよろしい」と申します。これは類推といって、今ある現実を通して未だ来ておらないことを予知して、予見する方法であります。
「君は今のあることを認めるかね」と言いますと「いまあることは認める」と言われますか「それでは死んだ先にも今と同じように世界があり、続きの世界があり、続きの生活があるよ」と申します。
今日があることを認めるものは明日のあることを認めるでしょう。
今年のあることを認めるものは来年のあることを認めるでしょう。今日があるということは昨日があった証拠であります。
してみれば今があるということは未来、死んだ先がある証拠でありますよと申しますと大抵は納得せられます。
その様に私達は仏教でいう始めなき始めから終わりなき終りと無限に続く旅路のようなものでありまして、向上への道程なのであります。
従って人生とは魂向上のための学校の様なものでありますから、
何も問題がなくなるということはないのであります。
ですから人生とは問題のあるところだと考えた方がよろしいのであります。
学校には上級になればなる程、勉強の内容が難しくなるのであります。決して楽にはならないでしょう。それは力に応じて問題が与えられるからであります。
小学生には必ず小学生にあった教科書や授業が行われれます。中学生には中学生、高校生には高校生と段々に難しくなり、それに合った科目や授業が課せられます。
その様に私達も魂の向上の程度に従って、最も合った問題が与えられることになるのであります。
つづく
2874
:
志恩
:2014/05/29(木) 08:27:02 ID:.QY5jUA6
つづき
そのことが分らないと、やたらと問題が苦になり逃れることばかり考えるようになります。
そうなりますと、やれば出来る力がありながら力を発揮することが出来ず、
逃れることばかりに力を入れることになります。
これは大変な間違いであります。
中学生の教科書が与えられ、中学生の試験問題がでるのは中学生の力があるからです。高校生の教科書が与えられ、高校生の試験問題が出るのは高校生の力があるからです。
それを忘れて努力しようともせず、中学生が小学生の問題を見て「小学生はいいな!」と羨んだとしたら中学生でありながら、中学生であることを忘れて中学生の資格を放棄することになります。
高校生が中学生の問題を見て中学生が羨ましくなり、こんな難しい問題は嫌だといって試験を逃れようとすることは
試験をボイコットすることになり、逃げ出そうとすることであります。
この様に自分に与えられた問題を他人に比べて、私だけが何でこのような目に合わなければならないのだろうかと愚痴を言ったり、不平不満ばかり言っている人は、
ちょうど学生が下級生の試験問題を羨んで試験を受けようとしないのと同じように落第することになり、落第すれば何遍でも及第するまで同じ試験を受けなければならないことになるのであります。
同じ問題で何時まで経っても解決しないで悩み続けている人は、この学生の試験ボイコットと同じであります。
どんな問題でも、ちょっと大変だと思われるような事件でも、ああ私の魂は修行のために、
向上のためになくてはならない尊い問題が今与えられたのだ、これは私に必ず解決する力がある証拠だと信じて
「ありがとうございます」と感謝して受けたとき、どんな問題もスラスラと解決するのであります。
人間はもともと神の子であって無限力が与えられてありますから、どんな問題でも逃れようと思わず、
「ありがとうございます」と感謝で受けたとき必ず良くなるのであります。
向う倍力といって、逃れようと思わなければ、5の問題が与えられたら必ず10の力が湧き、10の問題が与えられたら20の力が湧いて来て必ず処理出来るのであります。
このことを信ずることが大切であります。
全て何でも他人と比べる位無駄なことはないのであります。人間の不幸の原因はみんなこの比べたがる心から起るのであります。
比べることは相対でありますから、不足はあっても感謝はありません。
感謝とは絶対のもの、必要なものとして、また神様からの授かりものとして受ける心であります。
「私だけが何故であろうか」と考える時、有る力も失われ苦しみは増すばかりであります。
2875
:
a hope
:2014/05/29(木) 10:26:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第13巻 p109
第三の神性隠蔽としての罪の弁解
神と一体であるところの自己の実相を知らないことは第一の神性隠蔽であり、他と一体であるところの自己の実相を知らないことは第二の神性隠蔽となるのでありますが、これらの神性隠蔽を弁解してごまかしてしまう心は第三の神性隠蔽を生ずるのであります。
罪があればそれを隠して放さずにおくようなことをしないであからさまにして放置すれば、(知られまいとして「念」の力で繋ぎとめておかなければ)神性は「実」であり神性隠蔽は「虚」でありますから、自然に隠蔽は消え神性は顕れて出るのでありますが、なんとかいって神性隠蔽を(罪)でないと言いくるめようとするならば、弁解は隠蔽を生み、隠蔽は弁解を呼び、ツミ相(あい)相続して、実相の神我はますます深く隠蔽されてしまうのであります。
これに反して隠蔽(つみ)を罪と正直にみとめてそれを懺悔してしまい、謝罪(あやま)りきってしまいますと、それはちょうど夏の夕立が過剰の空中水分を泄瀉(せっしゃ)してしまいますように、あとにはすがすがしい神の子たる己(おの)が実相があらわれるようになるのであります。
罪の弁解は良心の麻痺を伴います。良心とは罪を犯しているところの肉我(にくが)の叫びではなく、自己に宿っているところの神(すなわち真我)の叫びなのであります。
だから、自己の罪の弁解は必然「真我」をくらますことになるのであります。
真我をくらませばますます真我の浮かぶ瀬がなくなるのであります。
だから、自己の罪を弁解して言葉で言いくるめましても、その勝つものは「偽りのわれ」のみでありまして、真我はますます覆いかくされ、内なる敗北はとうていそれをくらますことはできないのであります。
しかし、真我は敗北したのではない、内なる敗北は依然として「ニセ物のわれ」のみであります。
どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。
2876
:
a hope
:2014/05/29(木) 10:27:23 ID:cEpBaIdo
トキさま、みなさますみません。
今、web誌友会板は志恩さまがわたしの質問にお答えくださっていますので、こちらでテキストのお勉強の続きをさせていただきます。
最初にもいいましたが、今回のテキスト第13巻14巻には現在の「生長の家」の問題を解決する大切なヒントが隠されていると思っているので、
中断したり、飛ばし読みしないように、丁寧にお勉強を続けてさせていただきたいのです。
トキさま、ですが不都合がありましたら、別の板に移動しますのでその時はご指示くださいね。
2877
:
a hope
:2014/05/29(木) 10:29:14 ID:cEpBaIdo
(
>>2875
a hope所感)
ここで言う「罪」とは、
1、 神と一体であるところの自己の実相を知らないこと
2、 他と一体であるところの自己の実相を知らないこと
になるのだと思います。
そして、
<<どんなにか罪を弁解しても、どんなにか罪を隠蔽してみても、心の奥底には蔽(おお)えば蔽うほど隠せばかくすほど、圧力を与えれば与えるほどハネかえる圧搾空気のように、良心の叫びというものは力強くなり、それをさらに潜在意識の底の方へ推し込んで忘れてしまえば、それはさらに肉体の病気というような別の姿で表面にあらわれてくるのであります。>>
とあります。
「神我一体」「自他一体」の真理こそ生長の家の『唯神実相』なのだと思いました。
それでは、「罪の弁解」「罪の隠蔽」とは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?
このまま聖典をお勉強して行けば、より深く理解できるような気がしています。
2878
:
トキ
:2014/05/29(木) 10:44:17 ID:hDbyuNQo
>>2876
いえいえ。何も問題はありません。よろしくお願いします。
2879
:
志恩
:2014/05/29(木) 13:01:57 ID:.QY5jUA6
トキ様
本流のお方から a hopeさんに お返事がなかったので、本流の代わりに、
少し、出させて頂きましたが、
すみませんけれど、私は、卒業したので、もう、消えたいのです。
あとの続きは、トキ様、ご指導を よろしく。
…………………………………………………...
a hope様
お返事は、私宛でなく、トキ様にお願いしましたので、私宛でなく、
できましたら、トキ様宛で、お願いします。
2880
:
SAKURA
:2014/05/29(木) 17:56:19 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
>>2778
>>2779
>>2784
>>2786
>>2794
>>2795
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>>2798
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>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4 ― 】*=======*=======*
>>2866
>>2867
投稿の続きです…。
「日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである。仏様は衆生を救わんが
ために千変万化していられることを知ったら、自分もそのとおりに生きることです。
これが本当の信心なのであります。
たとえばわれわれが百万長者であるということを本当に知ったら、その百万円の金をじっとさして
おくはずがなにのであります。あれも買いたい、これも買いたい、あの人にもちょっとやって喜ば
してやりたい、こういう事業も起こしたいと、これは本当に百万円を持ったということを知った人
のことです。だけれども百万円親が遺産として残しておいてくれても、そいつを見つけない間は、
百万円持っていてもそういう働きが起こってこないのです。
ところが、われわれが本当に百万円を持っているということを知ったら、そこに百万円の活動が
始まってくる。知るということは活動することである。われわれが仏の子であり、神の子である
ということを知ったならば、その仏を生活に生き、神を生活に生きるということになってこなけ
ればならないのです。
それを生活に移さないのはまだ本当に知らないということです。だからわれわれは仏の心を行動に
移すということによってはじめて仏をここに実現したということになるのです。
仏は法である、法は「宜」であり「述べる」であり、コトバである。また聖書のいうとおり、神も
コトバである。コトバとは何であるかというと震動である。震動とは何であるかというと活動で
ある。活動が神であり、仏である。仏は涅槃寂静で、空で何にもない――そんなことじゃないのです。
活動が仏である。法藏菩薩は活動せられて極楽浄土を建立せられた、今もまだ働き給うのです。
仏の本願とは、仏の活動です。仏とは“ほどける”ことで、縛りがなくなって自由自在になること
であって、無礙自在な働きができなくては、これは仏ではない、神ではないということになるので
あります
だから今、皆さんが神の子であるという実相を「生長の家」によって知らして頂いたならば、た
だちに、即刻、今日から、今から、この瞬間から「神の子」を活動させる、愛によって隣人に
働きかけてこれを光明化し救うということが必要なのであります。
つづく
2881
:
SAKURA
:2014/05/29(木) 17:57:57 ID:Do8GpIFQ
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんばんは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【引用編】
>>2778
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>>2796
>>2797
>>2798
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>>2820
>>2821
>>2827
>>2839
>>2840
>>2842
>>2848
>>2853
>>2856
>>2860
>>2866
>>2867
>>2871
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 神の子の生活を今生きよ ―その4の引用編 ― 】*=======*=======*
PS:「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
■>>日に日に生くる信心なり」を本当に知ったならば今生きることである<<
人間…生まれた以上は、まず!「働く事」と〜〜〜そう!!そうなのです!!
日日!!活かす事が全てを生かすモノに繋がる事でしょうか??
例えば「百万円の価値観」は、その人の中身…“心”からスタートと思います。ですので…
ユダヤの長者のお話??【バビロンの大富豪のお話】からも〜〜〜♫
【お金の価値観は、まず活かす事】から…そうしますと?私達の「生活習慣」も…
■【時は金なり〜〜〜】と言われます様に、すべて“心”からでしょうか??
■昨日私の「フエイスブックの友人」から【 祈りの招待状 】が舞い込みました。
正直な話…いつもなら、私の偏見が〜〜〜どうしても先に脳裏に浮かぶのです…。…が?
例えば…「整形しているから子供…その“業”として…子孫にきたのョ」と、いつもの私が…
ところが?昨日の「友人の招待」から…WEB投稿記事を見ますと…
■母親の“愛”に動かされたのです。「霊界の法則」にも〜〜〜いわれます様に【 “愛”!! 】
■創立者「雅春先生」が【真・理】・【光・明】・【智・慧】・【絶・対・の“ 愛 ”】この言葉から…
〜♫ 汝ら天地一切のものに感謝せよ ♫〜の冒頭が浮かんで…
そして、子供に対するひたむきなる母親の【 愛…の・姿 】…涙が…心を動かされました。
もう一度!もう一度!「皆様」の……【集団の祈り】
【集団の祈り】が〜〜〜??そうです。必ず!必ず!必ず!【叶・う!】
〜〜そして、主催者が「四万人の呼びかけ運動」なのです。
■【祈りリレ−】が、今!今!世界中に始まっているのです〜〜〜??
それで、此処【2チャネルに投稿】更に【わたしの日時計日記】にも呼びかけました。
昨日の結果は「5人の皆様のイイネ」を頂きました。【 感謝 】です。…が?
【祈りあい神想観】という「雅春先生の時代から…隣人愛」への素晴らしい【祈り方】…
それで、当時は、多々なる【奇・蹟】がありましたと思います…。
この事は「生長の家」…【光明化運動】に置けます【専売特許??】みたいにも思えるのですネ!
お忙しいと存じますが「皆様」……宜しくお願い致します…。
余談ですが〜〜〜何と!何と!この信仰に「無関係の友人の名前」が〜〜〜すばらしい方!!
本当に“活かす事”は、ここから!そうなのです!【愛…】からと思いました。
これこそ…【祈りにての…想念で…救済】すばらしい〜事と思うのです。…が?
この事は?「トキ様」全く!【信・仰…】とまったく無関係な事と思われますのでしょうか〜〜〜?
再合掌
2882
:
a hope
:2014/05/30(金) 08:41:33 ID:cEpBaIdo
「あなたは必ず救われる」藤原敏之先生著
『正しい人間観とは何か』p90〜
生長の家の『生命の實相』第一巻(頭注版)の七九ページに、「真理はなんじを自由ならしめん」という見出しで次のように書かれてありますが、これが生長の家の救いの根源なのであります。
<<「『生命』自身の力で治すには『生命』とはいったいどんなものであるかということを知らねばなりません。
表面の心で知るだけではなく、奥底の心で知らねばなりません。
『生命とは神の子である』―― 一言にしてこういえばなんでもないけれども、なかなかこの真理が本当にわかる人が少ない。
本当にこれがわかれば自分で自分を治すことができる。病気だけでなく境遇でも運命でも自分で治すことができる。
治すだけでなく、真理を本当に知ったときひとりでに治っているのである」 (p92 8行目〜)>>
<<谷口雅春先生も常に、「私が発見したことは字の数にすればたった五文字でありますよ」と申され、それが「人間神の子」の五文字なのであります。
このことをはなれて生長の家はありません。
他に沢山のことが書かれていますが、みんなこの「なぜに人間が神の子であるか」ということをあらゆる角度から説明せられているだけであります。
せんじ詰めれば、あくまでもこの五字なのであります。
ですからこの五文字の意味が頭の先だけでなく腹の底(魂)までわかったとき、救いが成就するのであります。(p93 5行目〜)>>
(つづく)
2883
:
a hope
:2014/05/30(金) 08:44:43 ID:cEpBaIdo
(
>>2882
つづき)
<< 影は影である
このように人生は神様からの尊い御使命であると同時に、自己の魂の向上のための道場でもありますから、何でも「ありがとう」と感謝して受けることが肝心なのであります。
生長の家は「天地一切のものに感謝せよ」との教えでありまして、都合のいいものだけや、よくしてくれるものだけに感謝するのであれば楽でありますが、そうではなく最も都合のわるいものや、自分を苦しめるものにまで感謝せよというのでありますから、ちょっとむずかしいのであります。
以上が生長の家の御教えの根本であるところの縦の真理であり、実相直視、本当のことを観ることによってどんな難問題でも立ちどころに解決する根本真理であります。
これを抜きにして現象だけを処理し解決しようとすることは、夢の中で夢を無くしようと努力するようなものでありまして、正しい解決法ではないのであります。
宗教の救いは無い現象を無くすことではなく、実相を現すことによってもともと無い現象が消えていくのであります。
それはもともとない暗(やみ)を無くしようと努力することではなく光をもってくることによって、あるかのごとく現れていた暗が自然に無くなるのと同じであります。
救いが現実に現れないのは、実相と現象、実体と影の関係を明確にしないで混同するからであります。
影は影であるとわかるとき、何が現れても心配がなくなるのであります。(p149 後ろから4行目〜)>>
感謝 合掌。
2884
:
a hope
:2014/05/30(金) 09:04:54 ID:cEpBaIdo
>>2882
訂正
【<<】を付ける位置を間違えました。
文章の始まりに付けてお読みくださいm(__)m。
2885
:
a hope
:2014/05/31(土) 22:29:24 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 案内 ☆ ☆ ☆
期間 5月 6月
テキスト 「生命の實相」第13巻 及び 14巻
場所 聖典引用板
※管理人のトキさまから御承認いただきましたので、こちらでweb誌友会板でしていた聖典「生命の實相」のお勉強の続きをさせていただきます。
13巻と14巻は両方とも倫理篇ですので、6月になりましても第25回web誌友会をそのまま継続させていただきます。ご了承ください。
みなさまも是非ご参加くださいね!
2886
:
a hope
:2014/05/31(土) 22:30:58 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆
第四章 自心の展開としての客観世界 p111〜
第四の隠蔽は、三界唯心の理(り)を隠蔽すること
前節までにおいて、わたしは「罪」とは神性隠蔽であり、その第一は自己と神とが一体なる「神我一体」の実相の隠蔽であり、第二は自己と他己とが一体なる「自他一体」の実相の隠蔽であり、第三の隠蔽は隠蔽を生んで、自己弁解という第三の隠蔽を生ずるということを説いてきました。
「罪」とはじつは実相の隠蔽なのでありました。
なぜ「罪」というものができ上がるかと申しますと、外界は一見自己の外にあるように見えますから、外界というものが内界の投影であるという事実を忘れて、外界そのものとして、自己とは独立した存在であると思い込んでしまうところに、「罪」すなわち「実相隠蔽」ができ上がるのであります。たとえば
・・・(略)・・・
仏教では「三界は唯心の所現であり、心外に別に存在無し」と申しますが、それを徹底的に実生活の上でも実証せしめているのが「生長の家」であります。
キリスト教でも「口に入るものはなんじを汚さず、口より出(い)ずるものなんじを汚す」とイエスがいっていますのは、外にあるように見えているものは、本当は外に独立性をもっているものではないから、それ自身で穢す力はない、外の物で穢されるとか穢されぬとかいうけれども、実は外は内界の投影であるから、もし汚されるならば、内から出るものすなわち「心」によって、および心によって発せられる「言葉」によって汚されるのだといっているのであります。
われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。
それは理論ではなく、事実なのであります。
2887
:
a hope
:2014/05/31(土) 22:33:27 ID:cEpBaIdo
(
>>2886
a hope所感)
第四章には、とても厳しい真理が述べられていると思いました。
ここのところを拝読すると、「生長の家」の信仰とは、決して生易しいものではないということがわかります。
<<われわれは日常生活において、「これは外界だ、われわれの心ではどうすることもできない」と思っている事件や、周囲の人々の行為や心持ちが、われわれ自身の一個の心を変えることによって、事件が変わっていき、人々の行為や心持ちが変わってくる事実によって外界はわれわれ自身の内界の投影だということがわかってくるのであります。
それは理論ではなく、事実なのであります。>>
この文の内容を素直に解釈すると、
自分にとって「不都合」であったり、「間違い」であると感じられる三界(現象世界)の出来事や、悪人と思える人物の所業ですら、
すべて自分の心の投影であるということになってしまいます。
そしてさらに雅春先生は、
『それは理論ではなく、事実なのであります。』
と断言されているのですから、ただならぬ気迫を感じてしまうのは、わたしだけでしょうか?
2888
:
a hope
:2014/06/01(日) 07:45:42 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ 出張 第25回 web誌友会 ☆ ☆ ☆
「生命の實相」第13巻 p117〜
子供は母親にとって一見すれば外界の存在のように見える。外界の存在だと思って、外界扱いして、内界をうっちゃらかして、外界ばかりを治そうとしてみても治らないが、内界を治してしまうと、外界と見える子供の病気が治ってしまう。
すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。
で、罪とは「自他一体」の実相を知らないことであるとともに、「三界はただわが心の所現である」との真理を隠蔽して知らないことをいうのであります。
客観世界からただ自心の展開であることを悟らないために、外界に見える事物を「内界(こころのうち)の存在」だと知らず、外界に心を捉えられ、心をひっかからすために、ここに「五官的存在」に捉われる罪(隠蔽)が顕われてくるのであります。
2889
:
a hope
:2014/06/01(日) 07:53:44 ID:cEpBaIdo
(
>>2888
a hope 所感)
<<すなわちこの二人の母親にとっては、彼女の子供は彼女の「外界」ではなく「内界」だったのであります。
これを押し広めて考えてみますと、彼女の子供だけなく彼女の周囲いっさいの人々が、彼女の外界の存在ではなく、彼女の内界の存在であることが判明するのであります。
さらにこれを押し広めて考えてみますと、すべて「外界」というものは無い。
すべてが自己の「心内の存在」だといいうるのであります。
こういうようにしてすべてが自己の心内の存在であるということを悟るのが、本当の知恵というものなのです。
すべてが自己の心内であるということが解ると、本当に「自他一体の実相」がわかってくるのであります。
言葉の便宜上、自他一体と仮に申しますけれども、「他」は本来無い、「自」ばかりなのであります。彼Aも「自分」であり、彼Bも「自分」であり、彼Cも「自分」なのであります。
三界は「ただわが心の所現」であることがわかるのであります。>>
仏教で説く「三界唯心所現」の真理も、万教帰一の生長の家が解釈すると、「自他一体」の真理に行きつくようです。
ここの部分を拝読すると、生長の家の「心の法則」つまりは「唯心所現」の真理は、家族などの身近な人間だけではなくて、
自分の周りのすべての人々にあてはまってしまうのが本当の生長の家の教えのようですね。
2890
:
SAKURA
:2014/06/02(月) 14:57:24 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編】
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>>2871
>>2881
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ―その1の転載編 ― 】*=======*=======*
>>われらは野を、野の花を、み空を、み空の星を、青海を、大地を、火を、いっ
さいの大自然と生物とを観るに、その背後に神の生命の円相を観、その生命を敬し、
礼し、愛し、いやしくも浪費せざらんことを期す。<<
■そこで、自分自身が神の子であると自覚した時に、次いでこの神の自覚が発動し動き出
した場合に神の子が活動する環境はどういう世界であるかというと、これは第一カ条のと
ころでいったとおり、無限創造の宇宙すなわち「生長の家」であります。
仏教でいうと寂光土である。寂光土というとちょっと平和すぎるので、」活気溌溂たる
「生長の家」すなわち無限創造の宇宙だとわれわれはいうのですが、この無限創造の宇宙た
るやどういうものであるかというと、聖教『甘露の法雨』の講義の時に申しましたように、
それは無限次元の世界である。
われわれの住んでるいるこの三次元(縦・横・厚みの三つの広がり)の世界だけでもこんなに
美しい世界であるのに、それが無限次元の妙なる世界である。
その妙なる世界が、この五官にはその全体の貎は見えないけれども、妙なる世界のうつしとし、
写真とした見える。
(たとえば写真ですが、実際のわれわれ人間の相は写真と比べると、もっと複雑な相をし、も
っと複雑な次元を備え、もっと複雑な色彩を備えているのであるけれども、写真にはただ一色
の平面の姿に写っている。)
つづく
2891
:
SAKURA
:2014/06/02(月) 14:59:15 ID:3/pn4/Pc
「トキ様」 へ 「観覧者の皆様」 へ
こんにちは……ローマ字(大文字)の【SAKURA】で〜〜〜す。【転載編&引用編】
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>>2890
の投稿の続きです….。
■□ 【 生長の家とは 如何なるものか 】
(生長の家家族の祈願および修養) 谷口雅春著 昭和46年初版発行
*========*【 いっさいのものを拝め ―その2の転載編&引用編 ― 】*=======*=======*
□それと同じに、われわれの五官で認識める三次元の世界では実相の世界の複雑微妙な無限次元
の妙なる美しい世界が平凡な世界に見えているのであります。
かれどもわれわれはこの肉眼で見るところの野を、野の花や、み空の星や、蒼海や大地や、火や、
水や、いっさいの大自然や、生物や、いっさいの現象を見るのに、この第三次元の「縦横厚み」
厚みのこんな下らない、単純な、味のすくない世界とは見ないで、その奥の奥を観て、実相を観て、
もっと無限に美しい円満な、完全な神の生命というものを観る、そうしてそれを敬し、礼し愛し、
いやしくも浪費背せざらんことを念願とするのが生長の家の生き方であります。
(その3)につづく
PS:「トキ様」・「観覧者の皆様」へ
『生長の家』の教義について、今回!私自身のフエス・ブックにて、前回より、こちらのコーナーで、
『絵本の「ジュリアの音信」…』を、シリーズで投稿しておりますが、やはり!やはり!
【人間の心…で決まる事】が、更に【霊・界】でも、それは「生前の行為」…更に、
【その奥の〜〜〜奥の潜在意識】とかが、全て!ごまかしが出来ないのが【霊界の世界】なのですネ!!
つまり【スケスケ〜〜〜の「神様」が全て…見通し】ということですネ!!
毎日の通勤にて【金光教の教祖のお言葉】が毎月!月初めに…「掲示板」に貼られていました。
そうです!“今月…6月も〜〜〜新しい〜「コトバ」がその掲示板に…!!それを読んで、やはり、
同じ事を〜〜〜今!現に「教え=心の訓練」を現実界で訓練していかないと…いけない!!
今!今!しか出来ない!!
■それは「ジュリアの音信」の本文の書籍本が入手出来まして、その本からも、
【人間は、霊的人間ですから…一日必ず!瞑想が大事です。その時間を無駄にされる事は???
更に、正しい固定観念の理念も…】と…言われています。
□【信・仰】しながら、媚を打つ事が【信・仰】ではない!!!更に、悪口とかも〜〜!
【信・仰は正しい理念をもつ事】なのではないでしょうか!!
では、次の続きを〜〜〜また!次回投稿させて頂きます…。
今回、私は「総裁先生」は、ある面では「エコ運動」が全面的に打ち出されています解釈になり、
従いまして【唯・物・論…】に見えてきます〜〜。
□■【人の心】は何処へ〜〜〜と…
この奥深い思考回路は??いかようにお考えなされていますのでしょうかと??「考える人」です。
再合掌
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