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(´・_ゝ・`)白天、氷華を希うようです('、`*川
1
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:00:05 ID:yFlHhZ5Y0
四方八方から聞こえる楽しそうな歓声に耳を塞ぎつつ、人にぶつからないように道を歩く。
三年間の高校生活を華々しく飾るはずのメインイベント、修学旅行。
そんな素晴らしい機会を一人寂しく消費していただけの私は、運良く空いていたベンチを見つけるやいなや、そこにゆっくりと腰掛けた。
眼前には、明るい色の私服に身を包んだ高校生たちが和気藹々と走っていくのが見える。
どの子も見覚えのある顔ばかり。
一度も話したことはない、普通科クラスの男子たちだ。
ポケットから取り出したスマホを一瞥する。
“一緒に回ろう”と約束をしたものの、今朝突然体調を崩し、ホテルで一人休んでいる数少ない友人からのメッセージはなかった。
そもそも電波を示すアンテナは小さな一本が辛うじて立っているのみ。おそらく、この人込みのせいで繋がりにくくなっているのだろう。
"これが遊園地というものか"と新たな学びを得たことに嘆息しつつ、私は使い物にならなくなったスマホをカバンに戻した。
2
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:02:31 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川(……流石に、いくらなんでも)
('、`*川(あれに一人で乗るのもなぁ)
夕暮れの茜に染まっていく観覧車を見ながら、私はふぅと溜息を吐く。
11月後半かつこの地域特有の冷たい外気が溜息という名の憂鬱を可視化させたかのように、白く濁って霧散した。
先ほどまではまぁまぁ楽しかったのにな、と今日の出来事を思い返す。
ゴーカートやお化け屋敷、バイキングにジェットコースター。
幼少期からずっと憧れていた施設とアトラクションに、それも修学旅行というイベント中に一人で挑むというのはそれなりに物悲しいものがあったが、それ以上に楽しさが勝った。
“普通の家の子”は、こういう経験が出来るのか、とも感じた。
3
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:04:01 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川(……父さまが見たら、怒るんだろうけど)
楽しい思い出に水を差すが如く、父の仏頂面が脳裏に浮かぶ。
事あるごとにやれ家柄だの品位だのと壊れたテープレコーダーのように口にしては、昭和染みた下らない価値観で物を言う父。
そして、それに頷くばかりの母と、下らない見栄の張り合いと家財を食い潰すことにしか能がない親戚たち。
高い位置にある園内の時計を見ると、時刻は既に17時を回っていた。
あと30分もしないうちに集合時間となり、それなりに楽しかった修学旅行は終わりを告げる。
一人じゃなかったとしてもそもそも観覧車に乗る時間なんてなかったのだと、サワーグレープのような言い訳を心中で呟いた。
明日から、いや、正確には今日の夜から。
またあの息苦しい家での生活が再開するのかと思うと、途端に両脚が鉛にでもなったかの如く重く感じた。
4
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:05:36 ID:yFlHhZ5Y0
ふと、一組の家族が目に入った。
未だ小学校にも入っていないだろう女児の両手を、優しそうな顔をした男女が握っている。
両親としっかりと手を繋いだ少女は、こちらを一瞥することもなく目の前を通り過ぎて行った。
( 、 *川(……みっともないな、私)
あんな小さな子に嫉妬したところで、何の意味もないというのに。
なんだか自分がひどく矮小に思えて、視線を眼下のアスファルトへと下げる。
すると、年頃の女の子らしいネイルも手入れも、何も施されていないガサガサの手が視界に入った。
クラスメイトの女の子たちがやっていて、こっそりネイルを試してみようとした日の記憶が唐突に脳裏に浮かぶ。
いつの間にか、居間に出されていたネイル用具とファッション雑誌。
無駄に記憶力だけは良い脳が、覚えていたくない父の言葉を一言一句、違えることなく勝手に再生する。
5
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:08:26 ID:yFlHhZ5Y0
『伊藤家の女が、そんなみっともない――』
『爪の装飾だと!?飯に入ったらどうするのだ!全く、いつまでも馬鹿みたいなことを――』
『伊藤家の人間として0点だな、兄たちを見習って――』
うるさい、うるさいうるさいうるさい。
耳を塞いで丸まったところで、紙をビリビリに破くような、頭の内側から響く声は塞ぎようがなくて。
せっかくの修学旅行だったのに。
ずっとずっと、憧れてた遊園地に来れたのに。
楽しかったはずの思い出を、海馬から離れない父の怒号がかき消していく。
ちょっと一人で回っただけで。ちょっと、乗りたかった乗り物に乗れなかっただけで。
たったそれだけでこんな風になる自分が、惨めで、恥ずかしくて、明日が辛くて。
何の温もりもない家に帰りたくなくて。独りぼっちになりたくなくて。
(;、;*川
ああ、もう、いっそのこと。
もういっそ、あの夕日がこのまま、沈まないでいてくれたら――。
6
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:11:41 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「――何してるんだ、お前」
ビリビリに裂かれて捨てられた紙をそっと拾うような、
そんな声が、頭上から響いた。
7
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:13:18 ID:yFlHhZ5Y0
('、`;川「……盛岡、くん」
顔を上げると、上背のある青年が無表情で立っていた。
パッと見ただけでも本能的に“汚してはならない”と思わせるような、上質な紺のコートに身を包んでいる。
『盛岡デミタス』、同じクラスの男子生徒だ。
(´・_ゝ・`)「数日前から散々“楽しみだ”のなんだの言っていたくせに、一人でなにを休んでいるんだ?」
(´・_ゝ・`)「お前が乗りたいと言っていたアトラクションがそのベンチのことなら合点がいくが」
私の心中を慮ることなど一切する素振りすら見せず、ズケズケとした物言いが頭上から降りかかる。
修学旅行でも、彼は普段通りであった。
いつもと同じ通常運転だ。彼が誰かを気遣った場面など、この高校三年間の生活で一度も見たことがない。
8
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:15:07 ID:yFlHhZ5Y0
('、`;川「え、えっと…ちょっと、疲れちゃって」
('、`;川「スマホも、誰とも連絡つかないし」
そう言って、私は言い訳をするかのようにスマホを取り出す。
アンテナが一つしか立っていない私のスマホを見た彼は、フンと小馬鹿にするみたいに鼻を鳴らした。
(´・_ゝ・`)「そんなオンボロスマホ使ってるからだ。買い替えを勧めると言った筈だが…」
(´-_ゝ・`)「いよいよ自慢の記憶力もなくなったか?そうなら俺としては嬉しいんだがな」
癇に障る言葉をあえて使いながら、彼はどすんと遠慮会釈なく私の隣に座り、偉そうに腕と足を組む。
彼の態度と無駄に良いスタイルに少しムッとした私は、カウンターのカードを切ることにした。
何もない空の左手を目一杯開き、「ん」と言って彼の方に差し向ける。
私の手のひらを見た彼は、不思議そうに目を細めてこちらに視線を向けた。
9
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:16:58 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「なんだこの手は。お前に渡すものなんてなにも…」
('、`*川「“第二回全国模試”」
(´・_ゝ・`)
(;´・_ゝ・`)
澄ましたような表情に陰りが差す。
まさに好機。ここぞとばかりに私は追撃をしていくことにした。
('、`*川「全科目?理系科目だけ?総合点?偏差値?別に私はどれでもいいけど」
('、`*川「負けた方は勝った方に…なにするんだっけ?」
みるみる渋くなっていく彼の表情とは対照的に、私はなんだか楽しくなる。
('ー`*川「しまったど忘れしちゃったなぁ、君が言ったように記憶力悪くなっちゃったかもなぁ」
これはもちろん真っ赤な嘘だ。
意気揚々と出した彼の試験結果は、それこそ偏差値から点数にいたるまで、小数点や端数までしっかりと記憶している。
どの科目も、私にギリギリ届かなかったことも、彼の校内順位の欄に記された“2位”という順位も、私の“1位”という順位も。何もかもハッキリ覚えていた。
そして当然、その後にしていた"約束"のことも含めてである。
10
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:19:29 ID:yFlHhZ5Y0
('ー`*川「ごめんね盛岡くん、負けた方って……何しなきゃいけないんだっけ?」
('ー`*川「あ〜〜なんだか寒いなぁ、喉も乾いたなぁ〜?」
さっきまでの陰鬱な気分はどこへやら。
私のわざとらしい声色とジェスチャーを前に、彼は小さく舌打ちをした後、ガサゴソと鞄を漁る。
再び現れた彼の右手に握られていたのは、黒いパッケージが特徴的な缶コーヒーだった。
(´・_ゝ・`)つ□「………ん」
('ー`*川「あら、あらあら!」
('、`;川「………えっ、うわ、冷たっ」
満足げに受け取ったそれのヒンヤリした感触に、意図していなかった声が反射的に上がる。
今の時期への考慮も人への配慮も一切感じられないその温度に、私は些かの反感を覚えながらプルトップを開けた。
11
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:21:25 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川「普通、この時期にこんな冷たいモノ買う?それも人に渡すのにさぁ……」
(´・_ゝ・`)「俺が好きなのはソレだ。恨むなら俺じゃなく、温かいバージョンのそのコーヒーを用意していなかったこの遊園地の管理者に言ってくれ」
('、`*川「なら、温かい別の飲み物買うって選択肢はないわけ?」
(´・_ゝ・`)「俺はコーヒーが飲みたかった」
('、`*川「15点。次はあげる人を主体で考えるように。それとブラック以外でお願いね」
「覚えていたらな」とぶっきらぼうに呟く彼を尻目に、コーヒーを飲む。
期待はしていなかったが、当然のように無糖だ。私には少し苦すぎる。
一口で飲むのを中断し、未だ不満そうな彼の横顔を盗み見る。
端正で、同い年とは思えないほどに大人びて見えるその造詣。
芸術品という例えすら烏滸がましく思えるそれを歪ませたのが自分だと思うと、形容し難い優越感のような、達成感のようなものが胸の中に広がった。
(´・_ゝ・`)「なんだ、じろじろと。お前が望むような飲み物は他にないぞ」
いつの間にか取り出していたコーヒーに口をつけつつ、彼が言う。
なんだ、やっぱり私にあげるように二本買っていたのか。
そんなことに気が付きつつも口にはしないまま、私は慌てて視線を逸らして再び缶コーヒーを飲んだ。
12
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:22:36 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川「…ところで、森岡くんこそどうしたの?一人でいたのは君も同じじゃない」
私にまた言及されるのが嫌で、今度はこちらから質問をしてみる。
(´・_ゝ・`)「…デルタとの合流中にお前を見かけたんだ」
('、`*川「あぁ、関ケ原くん?やっぱり彼と回ってたんだ。何乗ったの?」
(´・_ゝ・`)「別に。ジェットコースターとか、ゴーカートとか、その辺だ」
(´-_ゝ-`)「どれも子供じみたものばかりで然程面白くはなかったな。これなら前に行った夢の国の方が多少は――」
('、`*川「うわ、20点。斜に構えたお坊ちゃん発言がアウト」
缶コーヒーから口を離した彼が恨みがましそうな目をこちらに向ける。
私は素知らぬ顔をしたまま視線を明後日の方向へと変えた。
(´・_ゝ・`)「いつも思ってるんだが、お前のその採点方式はどうにかならないのか?」
('、`*川「減点方式なもので。というか、いつまで経っても無礼な君が悪いのよ」
(´・_ゝ・`)「この俺を勝手に採点するお前は無礼じゃないのか…」
子どもみたいに不貞腐れる彼を尻目に、私は良い気分のままコーヒーを飲む。
口を開けばとにかく失礼な彼との会話は、何だかんだで嫌いではなかった。
13
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:24:20 ID:yFlHhZ5Y0
“盛岡デミタス”。
江戸時代から続く豪商をルーツに持ち、戦後の財閥解体後も主にユーラシアやアジア諸国との貿易で財を成した家の跡取り息子。
要するに、私の家とは比較することすら不敬に値するレベルの、“本物”の御曹司である。
世間的には上の方とはいえ、うちの高校も所詮は“庶民の私学”に属する学校だ。
それなのに彼のような人物がうちにいるのは、話を聞くに“家の方針”らしい。
“事実は小説より奇なり”とはよく言ったものだと感心する。
彼のような人物と接するなど、本来なら私程度の人間にはあり得ないことだ。
14
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:25:28 ID:yFlHhZ5Y0
彼と出会ったのは、高校一年生の夏頃だった。
一学期の終わり際、帰り支度を済ませて自習室を出たその瞬間、自分よりずっと背の高い少年にいきなり道を塞がれた。
ただでさえ異性に慣れていない私にとって、上背のある、それでいて校内でも有名人だった彼にどれだけの恐怖を覚えたのかは容易に想像できることだろう。
(´・_ゝ・`)『あんたか、伊藤ってのは』
('、`;川『……へ…?』
(´・_ゝ・`)『だから、あんただろ。学期末1位だった“伊藤ペニサス”って』
最初は、氷の精霊のようだと思った。
女の私からも羨ましくなるくらいに色素の薄い肌、短く揃えられていながらも艶やかさが分かる黒の髪。低音ながら、どこか安心感のある声。
そして吸い寄せられるように透き通った大きな瞳。シュッと通った高い鼻。
美しく、儚く、脆そうながらしっかりとした、相反するはずの様々な魅力を全て包含しているような。
家柄も見た目も才能も、何もかも中途半端だったり、人並み以下だったりする私とは全く違う。
そんな、“選ばれた”って感じの人。
だが、私の一連の感想は次の瞬間、薄氷を割られたみたいに儚く散ることになる。
結論から言えば彼はまるで、孤独な旅人すら容赦なく凍てつかせる、猛吹雪のような人だった。
15
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:26:11 ID:yFlHhZ5Y0
“さっさと学生証見せろ、本人か?”だの、“思ってたより地味な顔してるな”だの、とにかく失礼なことばかりを呼吸するみたいに口にする。
ほぼ初対面に近い女子生徒に向ける言葉ではないような発言を、マシンガンみたいに羅列してきたのだ。
その時の心持ちをサッカーで例えるなら、そうだ。
試合開始30秒でレッドカードを食らったにもかかわらず、図々しくも退場しないままフィールドを走る選手を見るようなものだろうか。
そんな無意味な妄想をしたまま、呆けていた私の口から出たのは、
('、`*川『……………0点』
という、極めて簡素な採点結果であった。
16
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:26:55 ID:yFlHhZ5Y0
彼との交流が始まったのはそれからだ。
いや、果たして“交流”と呼べるのかどうかという点については疑問が残る。
少なくとも、友人同士が日常的にするような取り留めのない話などはしない。ましてや年頃の男女がするような、休日に何処かに二人で出かけるといったこともない。
では何をしていたのか。それは“点数の競い合い”であった。
一応は進学校であるうちの高校で、日常的に行われる小テスト。
それから期末試験は勿論、強制的に受けさせられる全国模試まで。
“1点でも勝った方が、相手の簡単なお願いを聞く”というルールの下、3年もの間、そんな下らないにも程がある小競り合いが行われてきたのである。
盛岡くんは、非常にプライドの高い人間だ。
彼がとにかく、“自分の上に誰かがいること”を嫌う。家の方針なのか彼自身の生来の性格なのかは分からないが、兎角、自尊心が高いのだ。
厄介なのは、そのプライドに相応しい才能を持つことだった。
事実、容姿や要領の良さ、運動神経に勉学まで、遺憾なくその存在感を現した。
“道徳”という一科目を除けば、まさに“天才”と呼ぶに相応しい実力とポテンシャルを発揮する。
“天は二物を与えず”という言葉がいかにハリボテなのか、私は齢18にして知ってしまった訳なのである。
17
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:29:07 ID:yFlHhZ5Y0
('ー`*川「……結局、最後まで私の勝ち、だったわね?」
私の言葉に彼の眉間のシワがより一層深くなる。
超が付くほどのお金持ちで、家柄が良いなんてものじゃない。
勉強も運動もなんでも出来る、なんでも持ってる盛岡くん。
そんな彼に対して、私が唯一持っているアドバンテージ。
(;´-_ゝ-`)「…たった1点の違いで、よくもまぁそんな自慢気に出来るものだな」
('、`*川「あら、99点と100点満点の差は1点じゃないってこと、ご存じないの?」
私の言葉にまた押し黙る。
ちなみに、今の理屈は二年生の頃、彼自身が突っかかってきたクラスメイトに向かって放った言葉だ。
本人も覚えがあるのだろう。いつものようにサッと反撃に出ることなく、悔しそうに口元をモゴモゴと動かすばかりであった。
18
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:29:59 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川「ちなみに、今までの勝負ぜーんぶ合わせた私と君の差点、知りたい?」
(;´-_ゝ-`)「要らん。……全く、ちっとも劣る気配がないな。なんなんだ、お前のその化け物染みた記憶力は」
いつもと違ってこれっぽっちもキレのない皮肉に、私の口角が自然に上がった。
“完全記憶能力”と呼ばれる代物。それこそが、私の持ちゆる唯一の才能。
“これは覚えよう”と少しでも意識したものは絶対に忘れない。まるで映像を再生するかのように、自分が視界に収めた風景をいつまでも覚えていることが出来る。
それこそ、教科書の小さな句読点から、今朝すれ違った車のナンバーまで。完璧にいつでも暗誦可能だ。
もっとも厳密に言えば、“完全”という訳ではない。
オーストラリアにいるらしい女性は、生まれる前の頃から記憶を保持しているという。私の記憶力というのは流石にそこまでではない。
とは言っても、少なくとも高校生が受けるテスト程度なら、いつでも満点が出来る程度の代物ではあった。
19
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:30:42 ID:yFlHhZ5Y0
幼い頃から自覚していた、唯一の長所。
だが私は、昔からずっと、この才能が嫌いだった。
『こんなことも出来ないのか』
『伊藤家の恥だな全く。0点だ。辛気臭い顔をしおって』
『何度言えば分かる、いいからお前は大人しく隅で座っておけばいいんだ』
『余計な口を挟むなと言わなかったか。黙ってニコニコすることも出来んのか、女としても使えん奴だな』
覚えていられるということは、つまり、忘れられないということ。
言われた嫌なことも、痛いことも、辛いことも全て、風化しないということ。
そもそも女の私がテストで多少良い結果を残したところで、うちの人間は誰も良い顔をしない。
それどころか、『女の癖に生意気だ』だの、父や兄に小言を言われる始末。
母にすら『男を立てろ』と言われるだけのあの家では、私の才能は“祝い”ではなく、“呪い”だった。
それが、初めて役に立った。初めて認められた。
中学でも“気味が悪い”だの“がり勉”だのと揶揄されるだけだった日々が、急に色づいて見えた。
憎まれ口ではあるものの、正面から認めてくれたのは盛岡くんが初めてだった。
20
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:32:09 ID:yFlHhZ5Y0
(;´∩_ゝ・`)「…いや、まだだ。まだセンターが残ってる」
('、`*川「え〜まだやるの?どうせ結果は変わんないと思うけど?」
(;´・_ゝ・`)「いいや今度こそ俺が勝つ。多少記憶力が良くても、計算ミスとかはあり得るだろう。この俺が負けっぱなしで終わるなんてあり得ない。なんなら国立の二次試験でも…」
('、`*川「25点。しつこい男は嫌われるって、お家で習わなかった?」
(#´・_ゝ・`)「おまっ…意趣返しのつもりか?自分だって家のこと突っ込まれると嫌がるくせして…!」
('、`*川「人の嫌がることは言っちゃいけないって忠告したのに、一向に治る気配がないからですー」
いつの間にかすっかり空になった缶コーヒーを置く。
さっきまで一人寂しく落ち込んでいた少女はどこへやら。いつの間にか、楽しそうな私の笑い声と、悔しそうな盛岡くんの声が遊園地の中で響いていた。
21
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:33:16 ID:yFlHhZ5Y0
('、`*川「将来人の上に立つって人が、そんな喋り方じゃダメだって言ったでしょ?その絶望的な語彙のチョイスはもう諦めるとして…」
('、`*川「せめて一人称くらいはねぇ。君、ただでさえ威圧感凄くて人を怖がらせるんだから」
(´・_ゝ・`)「なんでお前の言う通り矯正しなきゃならんのだ。俺は俺だ。好きなようにやるし、好きなように人を使う」
('、`*川「そんな頑固だから、私に負けっぱなしなんじゃないの?」
(´・_ゝ・`)「関係あるか――…いや、まさか、あるのか…?」
顎に手を当てて何か深慮する素振りを見せた彼を見ながら、私はじっくりと彼を見る。
本来ならこうして話なんて出来ない人。本当なら、私は彼の隣にいる資格のない人間だ。
それを、嫌っていたはずの記憶力という才能と、クラスメイトという地位に甘んじて手にしている。
こんな都合のいい時間が、長く続くはずがない。
さっさと離れた方が彼の為でもあると、痛いくらいに理解しているはずなのに。
('、`*川「……?」
ふと、何か冷たいものが鼻先に触れた。
さっと指で払うと、指先に小さな白い粉みたいなものと水滴が付いているのが見て取れた。
22
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:34:04 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「―――雪、か」
空を見上げた彼がボソッと呟く。
同じように視線を上にやると、曇った空から、ゆっくりと雪が降ってくるのが分かった。
別にこの地方なら雪はそう珍しいものではないが、やはり少し時期外れではある。
上を見たまま、今朝の天気予報を想起する。
あの笑顔が素敵な女性キャスターは、雪が降るなどとは一言も発さなかった筈だ。
(´・_ゝ・`)「…というか、そろそろ時間だな」
('、`;川「そ、そっか。もうそんなに経っちゃったのね」
森岡くんの左手首に付けられた時計がキラリと視界の隅で光る。
そこらの軽自動車なら買える代物だ。そんなものを修学旅行に付けてくるなと思うと同時に、やはり自分とは住む世界が違うのだと改めて認識した。
23
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:34:51 ID:yFlHhZ5Y0
近くのゴミ箱に、空になった缶を二人揃って投げ入れる。
振り返ると同時に、降ってきた雪が直で目に入る。
慌てて目をこすって再び視界を開くと、ちょうど視界の中心に、大きな観覧車が現れた。
('、`*川(……結局、乗れずじまいで終わっちゃった、か)
呆けた目で観覧車を眺める。
昔、無駄に広い居間でテレビを見ていた時。
画面の向こうに映し出されていた大きな観覧車と、乗っている楽しそうな人々。
そして、頂上から撮影したらしい、空から見下ろした街並みの風景。
忘却という機能がなく只管積まれる記憶の中でも、“それ”は特に眩く光っていた。
いつか私も乗ってみたい。ビルよりも高い景色から、荘厳な街を見下ろしてみたい。
…まぁ、そんな期待を胸に膨らませて臨んだ修学旅行も、目標は果たせないままに終わりを告げてしまうのだが。
(´・_ゝ・`)「おい、何ぼーっとしてるんだ。放っていくぞ」
振り返った盛岡くんがこちらに寄ってくる。
はっと意識を引き戻された私は慌てて「ごめん、今行く」と返事をした。
24
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:36:01 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「……なんだ、あれに乗りたかったのか?」
彼の言葉に、私は少し恥ずかしくなりながらコクリと頷く。
すると彼は、面白いモノを見たとでも言うように、意地の悪そうな笑みを浮かべた。
(´-_ゝ・`)「あんなモノにか?夢を壊すようで悪いが、そんな御大層な景色は見えないぞ?」
(´-_ゝ-`)「そもそも一人で回っていたのなら乗るチャンスなど幾らでもあったろうに。…あ、あれか?“観覧車に一人で乗るのは嫌〜”ってやつか?」
( 、 ;川「……っ」
(´・_ゝ・`)「おいおい図星か。お前がそんな意志薄弱の女子高生みたいなことを思うとは、全く計画性も合理性もあったもんじゃないな。お前がそんな奴だったとは、やはり俺にもまだまだ勝機が――」
立て板に水を流したように喋りだす盛岡くん。
随分と脂がのっていると見えるその舌と無駄に整った顔に対して、私は精一杯の悪意を瞳に込めて口を開いた。
25
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:37:50 ID:yFlHhZ5Y0
( 、 #川「……0点」
(;´・_ゝ・`)「なっ…!?ふ、ふん。一人で観覧車にすら乗れない女子からの採点など今更別になんとも――」
('、`#川「えぇそうね、私も“同い年とのテスト勝負に一度も勝てないボンボン”に、何言われたって響かないわ」
途端に彼の言葉が止まる。
ざまーみろと舌を出し、スタスタと彼の前を通り過ぎる。
そろそろ集合時刻。遅れて無駄に怒られるなんてまっぴらごめんだ。
(;´・_ゝ・`)「ま、待て!いいか、今までのは偶然だ。そもそもな、たかが数点の差異でよくもまぁこの俺にドヤ顔出来たもんだ。まったく、その厚顔がもはや尊敬に値するが、次こそ…」
('、`*川「30点。負け続けた言い訳としては面白いけど、そろそろ別のパターンが聞きたいかな。“次こそ勝つ”なんてもう87回は聞いてるけど?」
(#´・_ゝ・`)「と、というかなんだ、たかが観覧車如き!俺は将来、あんなチンケな観覧車よりも更に高いビルに腰を落ち着けるんだ!それに比べればあんな…」
('、`*川「22点。たらればの話だけはお上手ね、私に勝てないお坊ちゃんに出来るかしら?」
(#´・_ゝ・`)「〜〜っ!!…あぁ、なら、次はこうしよう!」
彼はぐるっと私の前に先回りしてくる。
次は何を言うのだろう。今までのパターンだと、なにかとんでもないものを賭けの対象にしてくるだろうな。
前は土地を賭けようと言われたのだったか。もちろん勝ったのは私だし、律儀に権利書や登記移転の契約書を持ってきた彼に“そんなもの貰えない”と突っ返したのだが。
26
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:38:08 ID:pxLFC9gs0
支援
27
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:39:29 ID:yFlHhZ5Y0
さて、今回はなんだろう。
余裕綽々の態勢で、彼の次の言葉を持つ。
すると、彼は突然、私の肩をぐっと掴んだ。
('、`;*川「…………へ」
大きな二つの手が、私の両肩をがっちりホールドしている。
常日頃から、それこそ三年間見続けて、見慣れているはずの彼の両手。
――その手が随分とゴツゴツしていることに気が付いたのは、間抜けにも今日が初めてだった。
28
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:40:47 ID:yFlHhZ5Y0
(#´・_ゝ・`)「いいか!次はセンターだ。センターの合計点で勝負するぞ!」
('、`;*川「…へ!?ちょ、ちょっと、ち、ちか――」
(#´・_ゝ・`)「どうせお前と俺なら大学には余裕で受かる。なんなら二次試験の結果でもいい!どうせそっちも点数の開示はあるだろうしな。いや、その合計で勝負しよう!それで…」
( 、 ;*川「わ、わ、わかった!する、勝負、するか、ら!離して――」
(#´・_ゝ・`)「それで、もし、それでも、お前が勝ったら」
ぱっと肩から手が離される。
ようやく解放されたという安心感と、ほんの少しの名残惜しさに胸をなで下ろす。
勝ったら、何だ。一体なんだというのだ。
無駄に動悸が激しくなった心臓を押さえながら、改めて彼の方を見る。
すると、彼の長い腕は、集合場所とは全く別の方向に伸びていた。
29
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:42:17 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「――あれに、一緒に乗ってやる」
彼が示した先には、雪が舞う中でも関係なしにゆったりと廻る、大きな観覧車があった。
(´-_ゝ-`)「別に俺はあんなものに興味など全くないが、お前は違うんだろう?」
(´-_ゝ・`)「“一人で乗りたくない”なんて考えも理解できないが、お前がもし高校最後の勝負も勝ったのなら、ま、協力してやらんこともない」
(´-_ゝ-`)「なんなら、もっと大きいやつを用意してやる。それも1周だけじゃないぞ。お前が満足するまで、何周でも付き合ってやる」
(*´・_ゝ・`)「この俺がだ!どうだ?俺にとっては詮無いことだが、お前にとっては好条件だろう!」
('、`;川「……………」
世紀の大発明をしたかのような、そんなドヤ顔で話を続ける盛岡くんを見つめ続ける。
降りしきる雪も、迫る集合時間も気にせずに喋る彼から、私は視線を逸らせずにいた。
30
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:44:46 ID:yFlHhZ5Y0
――彼は、自分が何を言ったのか、理解しているのだろうか。
私だって一応、平凡な年頃の少女だ。
それが、クラスメイトの異性から、“二人きりで観覧車に乗ろう”などと誘われたら、どう思うか。
彼が私のことをどう思っているのかは分からない。というかそもそも、私自身、彼のことをどう思っているのかも判然としない。
女の子として意識されたと思えるようなイベントなんて今まで一度もなかったし、”友人”と思ってくれてるかどうかについてすら自信はない。
だが、でも、この申し出は、誘いは、傍から見れば、まるで――。
31
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:47:23 ID:yFlHhZ5Y0
一瞬、一際強い風が吹いた。
少量の雪を含んだそれは、火照った私の頬を撫でるように通り過ぎる。
その冷たさにハッとなった私は、何かを誤魔化すように髪をいじった。
( 、 *川「………いい、よ」
ポツリと、決して大きいとはいえない承諾の返事。
それでも、せめて、風の音には負けないくらいの声量で。
( 、 *川「……次、もしまた、私が勝ったら」
( 、 ;*川「…………絶対、乗せてもらうからね」
どうにもこうにも気恥ずかしくなって、顔を逸らす。
声は上ずっていなかっただろうか。震えていなかっただろうか。
最後の方に呟いた“忘れないでね”という言葉まで伝わったのかは分からない。
それを確かめるため、意を決してちらりと彼を見た。
32
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:48:18 ID:yFlHhZ5Y0
(*´・_ゝ・`)「――よし、決まりだ!」
(*´・_ゝ・`)「次こそ、次こそ絶対に、お前に勝ってみせるからな!」
森岡くんは、プレゼントを貰った子どものような笑顔を浮かべていた。
楽しみで堪らないといった様子で、再び私の前を歩き始める彼。
……なんだか、意識していた自分がバカみたいに思えた。
恥ずかしさが怒りに転じるのに、要した時間は秒もない。
自分よりずっと広い背中目掛けて、私は力強く握りしめた拳を当てる。
「ぐふっ!?」という彼の驚いた声にだけは、100点あげてもいいな、と思った。
33
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:49:42 ID:yFlHhZ5Y0
*
('、`*川「……なんてことも、あったなぁ」
壁に背を預けたまま、もはや日課のルーティンと化していた記憶の整理を中断する。
また随分と、懐かしいことを思い出した。
あれは高校三年生の頃であるから、逆算すれば今からもう、10年も前のことになる。
高層ビルの28階。そこらの遊園地の観覧車よりも高い位置の窓からは、ミニチュア模型かと勘違いするほど小さな無数のビルが見える。
しばらくその景色を見つめた後、焦りを覚えた私はエレベーターの前へと移動した。
左手首につけた腕時計は、午後4時半を過ぎている。
私が想定していた時間から、とっくに30分は経過していた。
34
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:51:02 ID:yFlHhZ5Y0
('、`;川(……!やっときた!)
軽快な機械音が、エレベーターの到着を告げた。
“どこで油を売っていたのか”とむかむかする気持ちを抑えて扉の前から退き、サッと手元の資料を確認する。
大丈夫、書類やデータ等に関する不備はない。
仮に想定外の事態に陥ったとしても、必要な情報の記憶は全てこの頭に入っている。
他になにか、心配事があるとするならば――。
最新型のエレベーターの扉が、静かに素早く開かれる。
スタイリッシュな内装の箱の中には、一向に出ようとしないまま呑気に話を続ける二人分の影があった。
35
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:52:44 ID:yFlHhZ5Y0
(´・_ゝ・`)「なぁ、やっぱり明日もう一回見に行ってもいいか?もしかしたらもう一つのほうが部屋に合う気がしてきたんだけど」
( “ゞ)「ダメだ。そうやってテーブル一つ選ぶのに何か月かけてる。今日だって2時間もかけた挙句に、無駄な家具まで選ぼうとして……」
(´・_ゝ・`)「僕はただ妥協したくないだけだ。この前の工場買収の時だって、僕のこの“妥協しない精神”があったお陰で上手くまとまったんだろう?」
( “ゞ)「インドまで行って責任者と実際に話をつけたのは俺だ」
(´-_ゝ-`)「いやいや、そもそもあそこに目を付けたのは僕であってだな――」
( 、 #川「――あのっ!!」
開ききったエレベーターに向かって大声を張り上げる。
壁に凭れたままの長身男性二人の肩がビクッと揺れる。
今になってようやく、エレベーターが到着していたことに気が付いたらしい。
36
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:54:40 ID:yFlHhZ5Y0
('、`#川「……もうアポの時刻から30分以上過ぎてますけど、どういうことです、社長?」
必死に冷静を装おうとしながらも、隠しきれない怒気が声に漏れる。
盛岡くん……いや、盛岡“社長”はポリポリとバツが悪そうに頬をかいたかと思えば、あっけらかんとした表情でこう言った。
(´・_ゝ・`)「……“迷子になってた”って、いけるかな?」
(‘、`#川「いける訳ねぇだろ」
エレベーターから無理やり社長を引きずり出す。
ちらりと隣のデルタさんを見ると、彼は申し訳なさそうに両手を合わせていた。
( 、 #川「デルタさん。貴方がいながら、なんでこんなに遅れたんですかね…?」
(; “ゞ)「いやぁ…面目ない。でも、君も知ってるだろ?デミタスの凝り性具合。ちょうどあいつの部屋にピッタリ合いそうなテーブルが二つもあってさ…」
('、`#川「もう五ヵ月と18日かけてるアレですか。それに注意してくださいと申し伝えた上で、本日のアポについて貴方にもお知らせしておいた筈ですが?」
私の非難染みた言葉に“そうだっけ?”と恍けてみせるデルタさん。
かつてはどこかのお坊ちゃんより紳士的だと思ったクラスメイトも、いつの間にか随分と毒されてしまったようだった。
37
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:56:27 ID:yFlHhZ5Y0
(´-_ゝ・`)「ま、デルタも伊藤も居るんだ。30分程度の遅刻、なんのハンデにもならないさ」
相応の地位を持つ社会人とは思えないような発言をしながら、呑気に伸びをする社長。
その隣にデルタさんが一切の焦りを見せない様子で並ぶ。
人を待たせているとは思えない二人の雰囲気に、私は一瞬押し黙ってしまった。
(-、-*川「…くれぐれも失礼のないように。前みたいなフォロー、私もうしませんから」
わざとらしい咳払いをしつつ、一応の注意喚起をする。
彼ら二人にしたこの類の勧告が役に立ったことなど一度もないが、立場上、言っておかねばならないのだ。
私の言葉に、デルタさんは笑いながら「大丈夫だよ」と言い、社長はヒラヒラと手を振ってみせる。
“こんなので本当に大丈夫にしてみせるからズルい”と思いながら、私は彼ら二人の背後に続いた。
38
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:57:10 ID:yFlHhZ5Y0
( “ゞ)「……よし、じゃあ」
(´・_ゝ・`)「行くか」
慣れた様子で、互いの拳を合わせる二人。
彼らに続いて廊下を歩くその最中、ふと、窓から見える大きな観覧車が目に入る。
この街のシンボルでもある、112.5mもある大観覧車。
――守られたの、”観覧車より大きなビル建てる”ってことだけだったな。
そんな10年も昔のことを思い出しながら、私はかつてのクラスメイトであり、今では上司となった二人の背中を追った。
39
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 00:57:59 ID:yFlHhZ5Y0
今回は一旦ここまで。
2024年最初のブーン系作品の座は貰ったぜ!
40
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 01:03:54 ID:rAYKjh6U0
乙!最初どうなるかなって思ったけど凄く良かった!
41
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 19:55:57 ID:xIIsttdA0
乙……続きものか!?
42
:
名無しさん
:2024/01/01(月) 23:09:14 ID:yFlHhZ5Y0
>>41
短編ですが、一応続きものです。
数日後にまた続き投下するので、よろしくお願いします〜。
43
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:06:17 ID:KKTQDt7.0
*
静かに、それでいて轟々と迅速に国道を駆ける車の助手席。
頬杖を突きながら、凄まじいスピードで窓の外を流れていく景色をじっと眺める。
かすかにガラスに映った自分の顔は、それはそれはさぞ不機嫌そうであった。
(´-_ゝ-`)「――さっきから、なにを不満そうにしているんだ」
社長の車に乗り込み、目的の駅に向かって走り出すこと数十分。
車内に充満する沈黙に耐え兼ねたのか、無言のまま車を運転していた社長がようやく口を開いた。
(‘、`#川「不満“そう”じゃありません。不満なんです」
窓から視線を外さずに返答をする。
視界の先では、この街を代表する観覧車がどんどん小さくなっていくのが見える。
ふと、見覚えのあるビルが通り過ぎるのが見えた。ということは、この車が目的地に到着するまであと十分といったところだろう。
44
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:08:21 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「だから、なんでだ。今回は何も問題なくスムーズに終わっただろう?」
('、`#川「商談自体はそうでしょうけどねっ」
溜息交じりの発言にカチンときて、私はさっと運転席に向き直る。
彼にとっては慣れた道だ。多少私が隣で文句を言ったところで、事故を起こすような集中力を切らすことはないだろう。
そう勝手に結論付けた私は、感情のまま言いたい事を言うことにした。
('、`#川「30分ですよ!?30分!あなた方お二人が呑気に家具選びをしている間、あのちょ〜大企業の社長さまと、その秘書の方を一人でお相手してたのは誰だとお思いで!?」
煮えくり返りそうになる腸を必死に理性で抑えつつ、言いたいことを吐き出していく。
うちの企業は確かに目を見張る急成長を続けているとはいえ、昭和の初めからこの令和に至るまで存在し続け、ついにはこの国を代表するほどになった大企業とは比べるべくもない。
そんな大企業を動かす社長と、それを支える秘書。対してこちらは役員でも重役でもないどころか、多少記憶力が良いだけのギリギリ30歳にすら満たない小娘。
サバンナを生き抜いたライオンたちを前に、動物園育ちのウサギが相対するようなものである。
どれだけ私の胃が痛んだか、人並みの優しさを持つ人なら想像は易いはずだ。
45
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:09:33 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「たかが30分程度雑談してただけで何を怒る必要があるんだ?そもそも、この国を代表する企業の代表取締役様が、数十分遅れた程度でキレるような人間な訳ないだろう?」
(-、-#川「……はぁ〜〜〜……」
あぁそうだ。残念ながら隣でハンドルを握っている彼は、“人並みの優しさ”すらない男なのであった。
淡い期待が弾けると共に、背凭れに預けていた背中がズリズリと滑る。とても一企業の代表権を持つ取締役の発言とは思えない。
“何百人もの従業員を雇っている社長としての自覚がまだ身に付いてないのか”と思うやいなや、腹の底からマグマのような熱がせり上がってきた。
('、`#川「普っっ通は!!キレるん!!ですよ!!私が怒らないようにず〜〜っと間を保たせてたから許して頂けただけです!!」
(;´・_ゝ・`)「ちょっ、痛っ……殴るな!運転中だぞ僕は!」
('、`#川「ならさっきからチラチラ株価見るのもやめなさいよ!」
ポカポカと彼の左肩を叩き、カーナビの前に置かれたスマホを取り上げる。
人が真面目に説教をしているというのに何を見ているのか。そもそも運転に集中しろ。
46
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:11:30 ID:KKTQDt7.0
('、`#川「ああいう人たちの…というか、他人の時間がどれだけ貴重なものかまだご理解が足りないんですか!?はぁ〜あ!」
(#´・_ゝ・`)「ちっ…たかだか数十分ご歓談してただけの身分で随分と偉そうだな!そもそも、今回の商談を取り付けたのも、無事円満に終わらせたのも、お前ではなく僕だろう!」
('、`#川「デルタさんにこっそりフォローしてもらってたくせに!」
(;´・_ゝ・`)「うぐっ…!い、いや、省庁とのやり取りについてはあいつの担当というだけで……」
('、`#川「それに社長、お相手さんの秘書の方のお名前、一瞬ド忘れしましたよね?助け舟を出したのはどなたでしたっけね?まさか、それもお忘れですか?」
(;´・_ゝ・`)「…いや、まぁ、それは……」
私の追加口撃に社長はにべもなく黙り込む。
別に、社長の記憶力が悪い訳ではない。というか、寧ろ良い方だ。
人格的欠点が多すぎるのは事実だが、単純な能力や才能という面から見れば、寧ろ彼に出来ないことや苦手なことを見出す方が難しい。
47
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:12:57 ID:KKTQDt7.0
だが、こと“対人関係”という点に着目すれば、あれよあれよと粗が見つかる。
一際特徴的なのが、人の記憶だ。
彼は昔から、興味のない人間の顔と名前を覚えようとしないのである。
大学生活を経て高校時代に比べれば随分とマシにはなったものの、それでも社会人としては合格と言えるレベルではない。
にもかかわらず一企業の社長業をしているのだから、傍から見ている私からすれば常にハラハラものだ。
毎日、薄氷の上でタップダンスをする子どもを見ている親のような心境である。
(-、-#川「……次回の会議は来月です。それまでに、向こうの取締役全員の顔と名前くらいは把握しておいてください」
(;´・_ゝ・`)「ぜ、全員!?いくらなんでも過剰だろ!どうせデルタやお前も出席するんだ、なんでそんな無意味なことを僕が……!」
喚く社長に何か言うことはなく、ただ無言で彼を睨みつける。
私の眼光に怯んだ彼は瞬時に押し黙り、悔しそうに眼前に視線を戻した。
48
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:13:33 ID:KKTQDt7.0
(;´-_ゝ-`)「……一応言っておくが、僕はお前が勤めている会社の社長だぞ?」
('、`#川「最低限のご自覚はあるようで何よりです。これからは、その役職に恥じない言動をより心掛けてください」
“より”の部分を厭味ったらしく協調し、私は再び口を閉じる。
ついに何か言う気力もなくしたのか、蚊の鳴くような声で彼は「……はい」と呟いた。どうやらお灸程度の効果はあったらしい。
ふんと鼻を鳴らして窓の外を見てみれば、既に目的地に入るところであった。
目に飛び込んできた、“新横浜駅”と書かれた大きな文字。
わざわざ東京まで行かなくても新幹線に乗れるのは、個人的にとてもありがたいことだった。
49
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:15:19 ID:KKTQDt7.0
車のスピードが落ち、路肩に止まる。周りにはタクシーやバスもない。
ようやく到着した、降りなければ。
そう思うと同時に、横から“なぁ”と声をかけられる。
隣に視線を移すと、社長は前を向いたまま、少し遠慮がちに口を開いた。
(´・_ゝ・`)「今日の僕は、何点だった?」
唐突な彼の質問に、私の口からはふふっと小さな笑い声が漏れた。
高校時代から変わらない。
彼が何かを成すたびに、その都度私に聞いてくる“採点結果”
私の悪癖である“採点”に端を発する、私と彼の“決まり事”だ。
('、`*川「うーん……“65点”!」
(;´-_ゝ-`)「…今回の減点事由は」
('、`*川「商談中にお相手の名前をド忘れ、スーツの背中側の汚れ、専門用語についての説明の欠如。…なにより、30分の遅刻で大幅減点です」
(;´-_ゝ・`)「…なぁ、そろそろ加点方式に変えてくれないか?受験生のニーズに応えてやり方を変えるのも採点側の義務だろう?」
('、`*川「採点の趣旨を鑑みると、減点方式の方が適切なので」
ハンドルに両腕をかけたまま、彼は小さな溜息をつく。
今までの最高得点は78点。これでも、企業を立ち上げた大学生の頃に比べれば、倍以上に点数は伸びた方だ。
50
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:16:34 ID:KKTQDt7.0
いつものやり取りも終わり、シートベルトを外す。
「ありがとうございました」と声をかけて車を降りようとした途端、視界の中心に大量の紙の束が差し出された。
('、`;川「……なんですかこれ」
女性の私ですら羨ましくなりそうなくらいに、白く、それでいて力強そうな手。
それに握られているのは、私の鞄にギリギリ入るか怪しいレベルの量のプリント。
(´・_ゝ・`)「デルタから頼まれてたんだ。明後日の会合に来る奴らのリストと、各部署への通達についての注意書きだ。全部暗記しておいてくれ」
('、`;川「……PDFにしてくれれば…」
(´・_ゝ・`)「あー、あとお前のサインが必要なやつも混じってるらしい。僕はよく知らないが、ま、それも含めて確認して欲しいんだろ」
悪びれもなく答える様子にまた苛立ちを覚え、軽く舌打ちをしてから奪うように紙の束を受け取る。
“デルタさんから頼まれた”ということは、少なくとも今日昨日に決まったことじゃない。遅くとも、1週間前には出来上がっていた書類だろう。
“もっと早く渡せ”と言いたいが、仮にも相手は上司、それも社長である。いくら元クラスメイトとはいえ、そんな文句を軽々しく言える立場ではない。
51
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:17:53 ID:KKTQDt7.0
('、`#川「もっと早く渡せやボケ…」
(´・_ゝ・`)「口に出てるぞ」
口に出ていたらしい。それも中傷も含めて。やっべ。
反射的に口を抑えたがもう遅い。というかまぁ、別に取り繕う意味もないだろう。
足元に置いていた鞄に書類を丁寧に入れ、車のドアに手をかけ開く。念のため、大きめの鞄にしておいて正解だった。
未だに少し慣れないヒールに少しふらつきながら、私はゆっくりと車を降りた。
最低限、二言三言かけてから行こうと車の方に振り向く。
夕暮れの茜色が車体に反射して少し眩しい。二ヶ月前に購入したばかりの社長の新車。
今回は赤。この前はコバルトブルーの車を買っていた。車など一台で充分だと思うのだが。
もう知り合って10年以上経つが、金持ちの思考、とりわけ“盛岡デミタス”という人物の思考は未だに理解できないままである。
('、`*川「それじゃ、行ってきま……」
(´・_ゝ・`)「待て」
開かれた窓から掛けた挨拶が、彼の低音に遮られる。
なんだろう。まだ何か用事があるのだろうか。
目を瞬かせながら待っていると、彼は先ほど渡されたものと同じくらいの紙の束を出してきた。
52
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:20:00 ID:KKTQDt7.0
('、`;川「うわっ…!?ま、まだあるんですか!?こういうのは早めに出してくれって言ってるでしょ!?まとめて一気に出されるのが一番困るんですって…!!」
(´・_ゝ・`)「仕方ないだろ。それは昨日やっと完成したばかりなんだから」
('、`#川「やっぱり最初のやつは早めに出せたんじゃないですか!バカ!無能!」
(;´・_ゝ・`)「む、む、無能!?こ、この僕が、む、むむ、無能!?おま、お前、お前な、言って良いことと悪いことが…!」
(-、-;川「あーもうはいはいすいません。…で、なんですか、コレ」
突然バグりはじめた社長を尻目に、渡された紙の束を見る。
そこで、ふと小さな違和感を覚えた。
('、`*川(……なんか、良い手触り)
ただのコピー用紙とは違う。ツヤツヤとしていて、それでいて丈夫さを感じる。
最初に渡された束や、普段から業務で使っているどの紙とも違う。
だが、覚えがあった。それも視覚だけでなく、触覚でも。
私は数回、こういう紙に会社で触れたことがある。
…思い出した。これは確か、大切な契約の締結の際に使うような――。
53
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:20:52 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「あぁ。婚約証書だ」
('、`*川「はぁ、婚約………」
“婚約”。オウム返しのように口に出してみた途端、脳が単語の意味を理解する。
私の言葉の認識に、誤りが齟齬がないのなら。
婚約、こんやく、つまり、要するに、それは――
('、`;川「――婚約!?」
自分でも驚くくらいの大声が、新横浜駅中に木霊した。
周りを歩いていた人たちの視線が、一気にこちらに注がれたのが分かる。
だが、社長はそんな周囲の様子にも、私の狼狽にも気付いていないかのように、「そうだ」とだけ言って頷いた。
54
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:21:59 ID:KKTQDt7.0
('、`;川「は、はぁ、そうですか…婚約…へ、へぇ……」
全く動じてなさそうな社長の様子に、却って冷静になってきた。
頭に昇った血と熱が、サッと引いていくのが分かる。
そうだ。いくら人の気持ちが分からない傍若無人な男といえど、世間から見れば江戸から続くあの森岡家の長男であり、御曹司。
そして今や、学生時代に立ち上げたベンチャーを10年足らずで時価総額3500億の企業にまで成長させた、天才若手社長。
寧ろ、そんな男がまだ結婚していないという、今までの状況がおかしかったのだ。
( 、 ;川「……お、おめでとう、ござい、ます。はは……」
なんと言っていいか分からず、形だけの祝いの典型文だけが零れ出る。
ふと、無意識に書類を力強く握っている自分に気が付き、慌てて書類を持ち替えた。
('、`;川「…で、でも、私なんかに知らせて、いいんですか?…こんなのまで、見せようとして」
声の震えを必死に隠そうとしつつ、書類を自分の顔の前に持ってくる。
……どうしてだろうか。気を抜くと、すぐにでも泣いてしまいそうだった。
55
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:24:48 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「……いや、だから、中身をお前にも確認しておいて欲しいんだが」
( 、 ;川「…私にではなく、デルタさんとかの方が、良いでしょう」
泣きそうな顔を見られまいとしながら、必死に言い訳を探す。
書類の内容のチェックなどは、私なんかより、いくらでも適任がいる。
誤字脱字のチェックも、PDF化した書類をスキャンすればすぐだろう。
それなのに、どうしてわざわざ私に見せようとするのか。
嫌がらせか。それともまさか今回も、本当に何も考えていないのか。
瞬きをする。世界が途端に水分で滲む。
あぁ、ダメだ。何か、何か違うことを考えなくては。
そうだ、もうそろそろ新幹線の時間なのではないか。
とりあえず、乗ったら化粧室に行かないといけないな。取引先に行くまでに顔、直さなきゃ。
別の思考を巡らせて自分を騙そうとするも、すぐに嫌な考えが脳を塗りつぶしていく。
水中に垂らされた墨汁のように、真っ黒な感情が広がってしまう。
……私、この後もちゃんと仕事出来るかな。向こうでいきなり泣いたりしないかな。
明日以降も、いつも通りでいられるかな。
56
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:25:40 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「…?いや、デルタにはもう見せた。後はお前の確認が欲しいんだ」
( 、 川「………」
あぁ、なんで、どうして、こんなにデリカシーがないの。
なんで今なの。こんな、意味分かんないタイミングで、意味分かんないもの見せようとしてくるの。
私が、本当に、ただの義務感とか元クラスメイトのよしみとかだけで、君の隣にいると本当に思ってるの。
( 、 川「………」
書類を握る手に力が籠る。大事な書類だと、丁寧に扱うべきだと、そんなことは理解しきっているのに。
目頭が熱い。胃の中のものが、全て逆流しそうになるような吐き気すら感じる。
地面のアスファルトが溶けたみたいに、立っていることすら辛くなってくる。
あぁ、いっそ、はっきりと。
「お前に興味なんかない」と、もうこの場で、言ってくれたら――。
57
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:26:40 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「…とにかく、読んで何も問題なければ、サインして持ってきてくれ」
( 、 #川「……っ、だから」
( Д #川「だから、なんで、わたしがっ…!?」
書類を下げ、顔を上げる。
瞳に溜まった涙が零れないよう、必死に上を向く。
眼前には、予習していない範囲について先生から質問された生徒のような、そんな困り顔をしている社長の顔がある。
彼は私の顔を見た後、ゆっくりと首を傾げる。
何を言おうか考える素振りを見せた後、彼はゆっくりと、瞬きをしながら口を開いた。
(´・_ゝ・`)「…なにをそんなに怒ってるんだ?そりゃあ、いるだろ。だって」
(´・_ゝ・`)「――お前との婚姻なんだから」
('、`;川「…………………へ?」
58
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:28:13 ID:KKTQDt7.0
溢れそうになった雫は垂れず、瞬きと共に奥へ引っ込んでいった。
今、彼はなんと言ったのか。
自慢の記憶力を頼りに、数秒前の発言を再生する。
まさか、この馬鹿社長は、目の前にいるこの唐変木は。
“お前との婚姻”と言ったのか?
“お前”とは誰だ。誰のことだ。
周りをキョロキョロと見る。人こそちらほらと見えるものの、みな我関せずといった風体で駅構内へと入っていく。
社長の視線も、まっすぐにこちらに向いている。
そして、社長と会話をしているとみられるような距離感に現在いる人間は、たった一人しか認識できない。
それは、なんというか、要するに、つまり。
彼の、婚約の相手というのは、それは――。
σ('、`;川「………わた、し?」
書類を下げ、社長を見る。
運転席に座ったままの彼は、まるで出来の悪い子どもを見るような目つきでこちらを睨んでいた。
59
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:29:37 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「他に誰がいる。そうでなければ、お前にわざわざ見せるはずないだろ」
(´・_ゝ・`)「…それじゃ、読んで文句なければ、サインと印鑑押してから持ってきてくれ。おかしな所があればその都度教えろ。どんな些細なことでもいい、遠慮するな」
放課後に公園で遊ぶ約束をした小学生みたいな声色で、とんでもないことを言う社長。
そして、その発言に理解が追いつかず、呆然としたままの私。
あれだけ零れそうだった涙はいつの間にか、一滴残らず引っ込んでいる。
(´・_ゝ・`)「…というか、あと10分足らずで新幹線出るぞ。急げよー」
間延びした声が鼓膜に届くと共に助手席の窓が閉まり、静かなエンジン音と共に発進する車。
瞬く間にスピードを上げ、駅から遠ざかっていく赤い光沢を、私は呆としたまま見つめ続ける。
('、`;川「…………え?」
左手にある書類の重さを感じながら、空いている方の右手で頬をつねる。同時に、鋭い痛みが頬の神経を伝って響く。
“痛い”と思うと同時に、コートのポケットに入れていたスマホが鳴る。
液晶画面を見てみれば、そこには今から乗る予定の新幹線の時刻のリマインドが表示されている。
11月の夕方特有の、少し肌寒い風が頬を撫でる。
“婚姻”と”婚約”という二つの熟語で茹った顔の熱がさっと冷えていく。
……少なくともここは、夢の中ではないようだった。
60
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:31:28 ID:KKTQDt7.0
*
从^―^从「はいはーい!それじゃ…カンパーイ!!」
( "ゞ)「かんぱーい」
('、`*川「……乾杯」
从'ー'从「いやテンションひっくぅ〜〜!!!」
義務的に上げたジョッキに勢いよく同僚のジョッキがぶつけられる。
テーブルに散らばったビールの泡も気にせず、彼女はその可憐な容姿からは想像もつかない飲みっぷりを発揮した。
“渡辺アヤカ”。年齢が1つ下の、大学時代の後輩であり、今はデルタさんの部下でもある。
その類稀な言語能力とコミュニケーション能力に目を付けたデルタさんが、既に幾つも内定を持っていた大学四年の彼女を口説き落としたというのは本当の話。
庇護欲を搔き立てられるそのふわふわとした見た目に反し、れっきとした才女である。
61
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:32:58 ID:KKTQDt7.0
从'ー'从「いえ〜い唐揚げいただき〜!あっ、お刺身も〜!!」
('、`*川「それ、ナベちゃんが頼んだやつ?」
( "ゞ)「いや俺のだね。あ、結構がっつり持っていくね…」
ジョッキの中身を一気に飲み干したかと思えば、稲妻の如きスピードで料理に箸を伸ばす彼女。
ちびちびとビールを含みながら彼女の隣を見ると、デルタさんがも黙々と電子パネルを操作しているのが見えた。
ちなみに、追加されていた生ビールの数は”3”。言わずもがな、全てナベちゃんの胃に入る予定である。
( "ゞ)「…まぁ、今月もお疲れ様でした。伊藤さんも」
('、`*川「あ、うん。ありがとう、デルタくん」
( "ゞ)「…やっぱり、タメ口の方が安心感あるタメ」
ジョッキをぶつけて軽く鳴らし、お互い顔を見合わせて笑う。
“関ケ原デルタ”。あの盛岡デミタスの右腕であり、弊社の取締役執行役員の副社長。
社長と同じくらいの背格好であるが、その大人びた顔つきと雰囲気は、応対した人間全てに安心感を覚えさせる。
謙虚さとハングリーさを併せ持ち、対局を見通すその目でずっと社長を支えてきた、うちの二本柱の一角。
彼もまた、社長に勝るとも劣らない時代の傑物の一人に数えられるだろう。
だが、それはあくまで世間からの評価の話。
私にとっては、尊敬する友人で、高校時代のクラスメイトで、大学の同期で、そして。
一人の傍若無人な天才に、10年以上振り回されている稀有な同士であった。
62
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:34:04 ID:KKTQDt7.0
从'ー'从「あ!先輩のそれ、美味しそう!いっこも〜らお!」
(; "ゞ)「だから、食べるなら自分で頼めって……」
苦笑いを浮かべながら、優しく後輩を嗜める彼の横顔は高校時代と変わらない。
優しい眼差しを後輩に向けつつ、空いた手で汚れたテーブルを巧みに拭いているその様は、なんとも手本にしたい見事な気遣いであった。
('、`*川(…こうして見ると、普通の人たち、だよねぇ)
真っ赤な顔でグビグビとビールを呷る後輩と、楽しそうに軟骨の唐揚げを咀嚼する友人。
こうして見ると、方や一企業の副社長で、方や五か国語を操るマルチリンガルだとはとても見えない。
能力だけの話に留まらない。
デルタくんは言わずもがな、ナベちゃんもまた目を見張るほどの美人だ。
首元まで丁寧に揃えられたサラサラの髪、パッチリとした二重に、通った鼻筋。
身長も150cm前半と小柄。まさに、“男性が想像する理想の女性像”をこれでもかと詰めたような外見だ。
楽しそうにケラケラと笑う後輩の指先を見た後、自分の手に視線を落とす。
彼女と違い、必要最低限に手入れしかされていない手。
可愛らしいネイルもない。さほど白くも細くもない。毎日大量の紙を捲ったせいか、よく見れば細かい傷跡が残っている。
…高校生の頃から、何ら進歩していないままの指先。
もし、私が彼女のような見た目なら。
彼女のように、女の子らしい長所が何か一つでもあれば。
もし、そうだったなら、あの人も――。
63
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:35:21 ID:KKTQDt7.0
从'ー'从「…せんぱーい、聞いてますかぁ?」
('、`;川「……へ?あ…ごめん、なに?」
从'へ'从「あ〜!やっぱり聞いてなかったぁ〜!」
いつの間にか呆けていたのか。
すっかり出来上がってしまっている後輩に向き直り、慌ててただ持っていただけのジョッキを置く。
あれほど綺麗に立っていた泡は既にほとんど消え去っていた。
どうやら自分はそこそこ長い間、物思いに耽っていたらしい。
从'ー'从「だからぁ、先輩は何か最近、面白い話ないんですかぁ〜!?」
('、`;川「お、面白い話…?」
おじさんみたいに枝豆を貪りながら、とんだむちゃぶりを投げかけてくる。
これが年配の男性上司なら舌打ちをした後すぐさま人事にぶちこむのだが、可愛い後輩となれば話は別だ。
顎に手を当て考える。
記憶力には自信がある。最近どころか、物心付いた頃からならば日付を含めた些末なことまで思い出せる。
だが、巡っても巡っても特に彼女の興味を惹けるような話など見当たらない。
ここ最近は、新しく決まった大型業務の対応で手一杯だったのだ。
それに加えて、省庁への応対や社長のスケジュールの修正まで並行してこれまで通りにやらねばならないのだから、それはもう大変で――。
64
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:37:16 ID:KKTQDt7.0
『婚約書類、確認したらサインと印鑑押して――』
('、`*川「――あ」
考えないよう、頭の奥底に仕舞っていた記憶を引き出してしまい、無意識に言葉が漏れる。
慌てて口を塞ぐも、もう遅い。
さきほどまで胡乱な目をしていた筈の後輩の両眼が、星空のような輝きを放って爛々とこちらを向いていた。
从*'ー'从「ちょっとその反応!なんですなんです!?」
('、`;川「い、いや…別に、面白くはないから…!!」
从*'ー'从「隠そうとするってことは、私が面白く感じる話でしょ〜!?白状して下さいよ〜!」
“迂闊”という漢字二文字がグルグルと脳内を回る。完全にやらかしてしまった。
“よく分からないプロポーズをされた”、そんな恋愛色の強い話は彼女の極上のエサになることなんて容易に想像がついたというのに。
少しでも情報を漏らせば最後。根掘り葉掘り聞かれることになるに決まっている。
そうなれば二軒目…いや三軒目までハシゴすることになるのは明白。
良くて終電逃しタクシー帰宅コース、下手すれば始発で朝帰りコースだ。
65
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:40:15 ID:KKTQDt7.0
視線を横に移し、助けを求めようとデルタくんにアイコンタクトをとる。
あの唯我独尊男の隣に10年以上立ち続け、果てには副社長となった男だ。
彼のその有望ぶりは仕事だけにとどまらず、人付き合いでも遺憾なく発揮される場面を何度も見ている。
あの頭の固い官僚や役人ですら忽ち篭絡させるその手腕、いま頼らずにいつ頼るのか。
私の念が通じたのか、デルタくんは小さく、それでいてしっかりと頷く。
よし、勝った。これで後は彼が話の流れを上手く私から逸らしてくれる筈。
その後はナベちゃんを飲ませ続ければ終電帰りも夢じゃない。
('ワ`*川(ごめんねナベちゃん……でも、勝った…!)
明日も定刻通り仕事なのだ。ただでさえ最近はまともに寝ていないし、少しでも睡眠時間は確保したい。
ナベちゃんには悪いが、ここで流れを断たせてもらおう――。
66
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:41:58 ID:KKTQDt7.0
( "ゞ)「…あー、そういえば」
( "ゞ)「伊藤さん、デミタスからのプロポーズどうだったの?返事した?」
('ワ`*川
('、`*川
('、`;川
从'ー'从「……………ぷろぽーず?」
一瞬だけキョトンとしたナベちゃんの顔が、みるみる内に明るく変わっていく。
まるで、花が開く瞬間をハイスピードカメラで見ているかのように。
騒がしい居酒屋の中、私たちのテーブルだけが途端に静寂に包まれる。
急に閑かになった雰囲気にようやく違和感を覚えたのか、デルタくんは「あれ?」とでも言いたげな顔をする。
彼が自身の発言のミスに気が付いたのと、ナベちゃんが立ち上がったのは、全くの同時であった。
67
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:43:27 ID:KKTQDt7.0
从;*'ワ'从「プロポーズ!?!?!?!?」
店の中で、一際大きな叫び声が響き渡る。
同時にこちらに向けられた驚きと非難を込めた視線の数々。
私とデルタくんは慌てて周りに頭を下げるも、ナベちゃんは構わず話を続けた。
从*'ワ'从「えっえっ、つ、ついにですか!?社長から!?うわ、うわうわうわ〜!!」
('、`;川「しっ、しーー!!ナベちゃん止めて!お店だからここ!ねっ!?」
わざとらしく口に手のひらを当てながら、少女のように燥ぐ彼女に頭が痛くなる。
隣に恨みがましい視線を向けると、デルタくんは縮こまりながら両手を合わせてこちらに頭を下げていた。
もう遅い。今度絶対仕返ししてやる。
68
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:46:24 ID:KKTQDt7.0
从*'ー'从「え〜!?どんな感じだったんですか!?やっぱりあの人のことだから、ちょ〜お高いレストランで…とか!?」
从*^ワ^从「あ、分かった!社長室だ!あそこからなら綺麗な横浜の夜景一望できますもんね〜!!うわわ、ロマンチック〜〜!!」
('、`*川「……え、あ、いや、そういうのじゃなくて」
('、`*川「なんか車で、“はい”って書類渡されただけだけど」
从*^―^从「え〜!?車で!?いいじゃないですかそういうのも……」
从'ー'从「……え、書類?何それ?」
火力を最大まで上げたヒーターよろしく盛り上がっていた彼女の熱が一気に冷める。
あぁよかった。あまりにも普通に渡してきたから、逆に私の感覚がズレているのだろうかと心配だったのだ。
('、`*川「いやだから…いきなり“サインと印鑑押しとけ”って言われて、書類の束渡されて…中身はちゃんとした、婚約についての文章だったけど」
从;'ー'从「へ……書類の束?え?花束の間違いじゃなくて?」
('、`*川「いや紙だったけど」
从#'ー'从「おいどういうことだ保護者」ドゴッ
(; "ゞ)「うぐっ!?」
無表情になったナベちゃんがノールックのままデルタくんを小突く。
彼の箸に捕まれていた唐揚げは無常にもテーブルを転がり、重力に従ってそのまま床へと落ちていった。
69
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:48:35 ID:KKTQDt7.0
(; "ゞ)「ど、どういうことって…そのままだよ。デミタスと伊藤さんが婚約関係になるにあたっての、色々細かい条件とかを決めた証書を……」
从'ー'从「いや諸々すっ飛ばしすぎでしょ。えっ、先輩ってもうあの人と付き合ってたんですか?」
('、`*川「ううん全然」
从#'ー'从「保護者、説明」
(; "ゞ)「いやそれは俺も言おうとしたけど…ちょっと待って箸を目に向けないで」
ナベちゃんの持つ箸先は、容赦なく、見事にその直線状にあるデルタくんの両目を捉えている。
彼の頬には本気の焦りの汗が伝っていた。ナベちゃんのことだ、彼女はマジで狙っている。
(; "ゞ)「と、とにかく…伊藤さん、結局なんて返事したの?俺も最近忙しくて、デミタスとはニアミスばかりで話聞けてないんだよね」
デルタくんの震えた声に、私は少し言い淀む。
脳裏に浮かぶのは、自室の机の上に置かれたままの婚約に関する書類のこと。
('、`;川「えっと、……それが、その」
('、`;川「……まだ、何も返事して、なくて」
私の返答に、デルタくんの目が丸くなる。
おそらく彼は、認容するなり却下するなり、何かしらの返答はした筈だと思っていたのだろう。
今までの私ならそうだ。面倒そうなことほど先に対応する。
だが今回に限っては、あの日から二週間以上たった今でも、私は何の結論も出せずにいた。
70
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:49:54 ID:KKTQDt7.0
( "ゞ)「…どうして?やっぱりなにか書類におかしなトコあった?一応、俺も確認したんだけど」
从#'ー'从「おい確認してたんなら止めろや!何そのままGoサイン出してんだ仕事しろぉ!」
(; "ゞ)「痛っ、ちょ、痛い痛い!!髪はやめて!!髪は!!」
助けを訴えるデルタくんを尻目に、受け取った書類の文章を脳内で暗誦する。
社長から書類を渡されたあの日の夜。泊まったホテルの部屋ですぐに内容を確認した。
最初こそとんでもないことが書かれているのではとか、ドッキリの類なのではないと勘繰ったが、中身は至って真面目な婚姻に関する契約書であった。
いや、真面目どころではない。
ただの婚姻についての同意に留まらず、互いの家が持つ資産への言及、婚姻後に私が“盛岡家”に縛られることのない旨の保障、万が一離婚した際の財産分与についての規定まで。
どれもが緻密に規定されており、それでいて、どれもが私に有利になるような文面だった。
彼の家柄のことも考慮すると、ここまで手が込んだ書類をイタズラでも作る訳がない。
それこそ成年になる前から、嫌と言うほどに由緒正しい家のお嬢さんとの縁談の話が持ち上がっていた筈だ。
“婚姻”という言葉の意味を、彼は単純な法的効力以上に重く捉えているはずなのに。
更には、最後のページに記されていた書類作成者の名義人には、大学の後輩で、今は東京で弁護士をしている友人、“新塚ニュッ”の名があった。
彼も関わっているということは、おそらく本当にこの書類に記されていることに誤りや、私を陥れる意図などはないのだろう。
71
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:52:08 ID:KKTQDt7.0
('、`*川「ううん、内容に問題はなかったの。そもそも新塚くんが作った書類なら大丈夫だろうし、一応私なりに確認したけど、大丈夫だった」
从'ー'从「うわ、ニュッのやつも一枚絡んでるんですか?うげ〜今度会ったらイタズラしてやろ」
( "ゞ)「一応聞くけど、具体的に何するつもりなんだ?」
从*^―^从「デレちゃんの前で“やっぱり私とは遊びだったのね”って泣き喚く♪」
( "ゞ)「聞いてよかった。絶対やるなよ」
('、`*川「新塚くんはマジで訴えてくるだろうね」
“半分冗談です〜”という発言の後、残っていたビールが不満げに飲み干されていく。
半分、という単語については聞かなかったことにしておいた。
“デレちゃん”というのは、新塚くんの幼馴染の彼女のことだ。
時々話を聞くが、実はこの中で私だけはまだ会ったことがない。
大学の時から話だけは聞いているのだが、いつか挨拶したいと思いながら数年の時が経ってしまった。
ナベちゃん曰く、“あんな根暗法律オタクにはもったいなさすぎる良い子”とのこと、
容姿と違って少し捻くれたところのある彼女にこれだけ言わせ、更にはあの新塚くんを心底夢中にさせるのだから、相当な良い子なのだろう。
72
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:54:08 ID:KKTQDt7.0
( "ゞ)「…でも実際、伊藤さんはデミタスのどこが嫌なんだ?」
('、`;川「い、嫌って訳じゃ……」
( "ゞ)「確かにデミタスはよく人のことバカにするし、社員たちの名前も碌に覚えないし、株主に対してもすぐ喧嘩売ったりするけど、悪いやつじゃ…いや悪いやつか……?」
途端に難しい顔をしながらテーブルを見つめ出すデルタくん。
こうして特徴を挙げていくと、寧ろプロポーズを断らない理由を見つける方が大変かもしれない。
というかアレがそもそもプロポーズといえるかどうかも疑わしい。
私が常日頃思っていることは間違いではないのだと思うと、少し心が軽くなった。
( "ゞ)「……でも、まぁ、結婚相手としては悪くないだろ?」
( "ゞ)「由緒正しい家の本物の御曹司だし。家に頼らずとも資産はあるし、何より……」
( "ゞ)「…あいつは、伊藤さんなら絶対大切にすると思うよ。これは副社長としてじゃなく、あいつの10年来の友人としての意見だけど」
真剣な眼差しと、真面目な声色が心に刺さる。
確かにそうだろう。社長は善人とは間違いなく言えないが、かと言って悪人でもない。
それぐらいのことは、いくら私でも分かっている。
73
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:55:39 ID:KKTQDt7.0
从'ー'从「…まーでも、確かに盛岡先輩はメチャ優良物件ですよね〜。喋らなきゃイケメンだし、背も高くてスラっとしてるし、お金持ちだし!」
从'ー'从「私の周りでもキャーキャー言ってる女の子ばっかりですよ?私はいくらお金持ちのイケメンでも、あんな変人まっぴらごめんですけど〜」
('、`;川「あ、あはは…まぁ、変わってはいるよね……」
ナベちゃんの言う通りだ。
家柄良し、見た目良し、学歴も社会的地位も良し、おまけに個人資産は優に200億を超えている金持ちときた。
あまりこの言い方は好きではないが、間違いなく極上の“優良物件”なのだろう。
彼が結婚する女性というのはどういう人なのだろうと、考えたことがないわけじゃない。
偶にだが、持ち込まれた縁談を面倒そうに断っている彼の姿を見たことがある。
一度だけ、こっそり相手の写真を確認したことだってある。そこには、自分では足元にも及ばないほどに、綺麗な女性が写っていた。
結局、どんな人が社長と結婚するかは検討がつかずに終わった。
事務次官の娘か、元財閥の令嬢か、海外のセレブの女性か。候補としてはこんなところだろうか。
…まぁ、少なくとも、私ではないということだけは、確実だろう。
そう結論付けてからは、あまり考えないようにしていた。
74
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:56:50 ID:KKTQDt7.0
そんな人が、意図は分からないが私に婚約を申し込んできた。
何の取り柄もない、強いて言うなら、気味の悪さすら感じるほどの記憶力だけ。
家柄は中途半端で、見た目もせいぜい十人並みの、可愛らしさの欠片もないこんな女に。
本来なら、こんな女を選んでくれたことに感謝すらするべきなのだろう。
…だけど。
从'ー'从「……というか、そもそも先輩は嬉しくないんですか?」
从'ー'从「だって、先輩、ずっとあの人のこと――」
ナベちゃんの質問は、終ぞ最後まで言われることはなかった。
愛想のいい店員のお兄さんが、これでもかと盛られた刺身の盛り合わせを持ってきたからである。
言葉を途中で止め、“待ってました”といわんばかりに箸を刺身へと伸ばす後輩。
彼女に苦笑いを浮かべつつ、心配そうにこちらに目を向ける副社長の視線には気が付いてないフリをする。
(-、-*川(………本当に)
(-、-*川(どうしたらいいのかしらね、私)
美味しそうに料理を味わう可愛い後輩を見ながら、すっかり温くなったビールを呷る。
冷たいのだが温かいのだか分からないそれは、ひどく苦いものに思えた。
75
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:59:19 ID:KKTQDt7.0
*
( "ゞ)「……じゃあ、俺たちはこっちだから」
('、`*川「うん。ナベちゃんのこと、お願いね」
( "ゞ)「伊藤さんも気を付けて。…やっぱり、伊藤さんの分のタクシーも呼ぼうか?」
('、`*川「ううん、ちょっと歩きたい気分だから。それに、まだ終電まで余裕もあるし」
( "ゞ)「…そっか。じゃあ、お疲れ様。おやすみなさい」
('ー`*川「うん、お休み。……ナベちゃんも、またね」
从- -从スピー グーー
背負われたまま、一向に起きる気配のない後輩の頭をサラッと撫でる。
長い睫毛とサラサラの髪に、なんとも言えない愛らしさ。
私がもし男性なら、このままお持ち帰りしていただろうなとも思った。それでも毎回酔いつぶれた彼女を送っていくのはデルタくんなのだから、彼の鉄の理性には恐れ入る。
店の前に止まったタクシーに乗り込んだ二人を見えなくなるまで見送ってから、私は踵を返して歩き出した。
ここから駅まで10分もかからない。改札までの距離と、最寄りについてからの徒歩を含めても午前1時前には家に着ける。
そこから化粧落としやシャワーの時間も考えると、ギリギリ5時間は眠れる筈だ。
76
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 00:59:59 ID:KKTQDt7.0
路地を抜け、大通りに出る。
日付が変わりそうなこの時間帯でも、私と同じような飲み会帰りの社会人がちらほら見られ、並ぶ店の前では若いお兄さんたちが呼び込みを続けている。
その賑やかさは、新宿や池袋などの都心と比べても遜色ないものだろう。
道中、一組のカップルが目に入った。否、よくよく辺りを見れば、一組どころではない。
道の端や、飲食店の入り口付近まで。少し離れたところで、色んなカップルたちが乳繰り合っているのが見えてしまった。
慌てて目を逸らすも、無駄に良い記憶力だけはいい脳が勝手に視界を思い返してしまう。
考えるなと自身に言い聞かせながら、必死に足を速く動かす。
('、`*川(………恋愛、かぁ)
いくら夜中とはいえ、街灯や建物の明かりがあるのによくやるものだ。
早くここを抜けてしまおうと速度を上げる両脚と共に、思考もまた速く巡り始める。
この28年間、全くといっていいほど私の人生において“恋愛”なんてものが入る余地はなかった。
77
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:01:19 ID:KKTQDt7.0
高校の頃も、大学に上がってからも、社会人になった今も。
いつの頃も、あの変人についていくだけで精一杯だった。恋愛なんて、縁もゆかりも、そもそも耽溺する時間的余裕すらなかった。
圧倒的経験不足。だからだろうか。
私は未だに、“彼”に抱くこの感情が、“そういうこと”なのかについても自信がない。
恋情なのか、尊敬なのか、少し特殊な友情なのか、はっきりと分けることが出来ないでいた。
言い訳にはなるが、それが当然だろうと開き直る自分もいた。
あれだけ強烈な個性を持つ異性がいれば、どうしたって意識してしまう。
もういい年した大人なのに。そんな自己嫌悪が胸中を纏わりついて離れない。
('、`*川(……父さまたちは、喜ぶんだろうな)
婚約証書と実家のことを思考の天秤に乗せる。家柄と金と体裁が大好きなあの家族のことだ。
“盛岡家”との繋がりが出来ると知ればすぐに手のひらを返し、地面に頭を擦りつけてでも私に言い寄ってくることだろう。
78
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:02:47 ID:KKTQDt7.0
……実際、一体私は何を不満に思っているのだろうか。
盛岡くんが、彼自身のことが嫌なのだろうか。
なら、彼が別の女性と結婚するのだと早とちりしたあの時、どうして私は泣きそうになったのか。
婚約証書に書かれていたことに文句があるのだろうか。
それもきっと違う。何度も何度も内容を確かめたが、盛岡くんに不利になりそうな規定はあれど、私が嫌な目に遭うようなことはなかった。
それこそ、些細な可能性すら重箱の隅をつつくかのように潰されていた。
じゃあ、私は一体、何をそんなに、迷って――。
('、`*川「…………あれ…?」
道中、ピタリと足が止まった。
それと同時に、視界内の照準がとある一点に固定される。
視線の先には、先ほどと似たような一組の男女がいた。
“またか”とか“よそでやれ”とか、内から湧いてくる怒りのなりかけみたいな感情を抱いたのは、ほんの一瞬。
足を止めたのは決して文句を言おうとしたからでも、別の道に進路を変えようとしたからでもない。
(´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ
その男女の片方に、ひどく見覚えがあるからだった。
79
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:04:24 ID:KKTQDt7.0
('、`;川(………だ、れ)
片方は、すぐに分かった。
見間違いであって欲しい。ただの他人の空似であって欲しい。
そんな淡い希望を、他ならぬ私の記憶力が全否定する。
暗がりなど関係ない。背格好も雰囲気も、着ている服も、視認できる全ての情報を基に、私の脳は彼を盛岡くんだと判断した。
社長だ。盛岡くんだ。私がよく知る、彼だ。
じゃあ、隣の女性は誰なのか。
私の記憶にはない。ということは、私が一度も会ったことのない人物ということだけは分かる。
ζ(゚ー゚*ζ
とても可愛らしい女性だった。
ナベちゃんに勝るとも劣らない。嫉妬すら欠片も浮かばないほどに、可憐な女の子。
私より若そうに見えたが、着ている服は色合いを含めてとても落ち着いている。
牡丹のような少女性と、芍薬のような大人の女性らしさを上手く両立しているような、そんな人。
80
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:05:48 ID:KKTQDt7.0
立ち止まったまま二人を見続ける。
どうしようか。このまま立ち去るべきだろうか。それとも、思い切って声をかけるべきだろうか。
そもそも私に、声をかける資格などあるのだろうか。
動かない両脚とは対照的に、脳は高速で回転する。
彼が綺麗な女性と並んでいるところを見るのなんて別に初めてじゃない。寧ろよくあることだ。
というかそもそも私は別に、盛岡くんの彼女という訳じゃない。
私はあくまで、ただの部下で、元同期で、元クラスメイトで、友人の一人に過ぎなくて――。
――だから、なんだ。
無意識に歩き出していた。
頭の中は未だごちゃごちゃで、整理なんて少しも出来ていない。
あの女性は誰なのか。
彼女なのだとしたら、なぜ私に婚約の誓約書など渡してきたのか。
どうしてこんな時間に、こんな所にいるのか。
私は、彼のことをどう思っているのか。
彼にとって、私は一体何なのか。
声をかける。かけてやる。
この10年で積もりに積もった疑問を、ありったけぶちまけてやる。
81
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:07:03 ID:KKTQDt7.0
死地に向かう兵士みたいに、速度を緩めることなく近づいていく。
もうそれほど距離もない。仮に石を投げたなら、私の筋力でも十分届く距離。
声をかけよう。そう思って息を吸い、吐き出そうとした、その瞬間。
(;´・_ゝ・`)ζ(゚ー゚*ζ
(;´-_ゝ・`)ζ(゚ワ゚*ζ
(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ
( 、 川
――私の記憶にない、顔が、見えた。
82
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:09:40 ID:KKTQDt7.0
( 、 川(あ)
( 、 川(あ、ああ、ああ あ)
声が出ない。それどころか、上手く息さえ吸えやしない。
足が止まったまま動かない。あれだけの勢いが、風船みたいにしぼんで消える。
( 、 川(なにか、いわなきゃ)
『何を言うの。お邪魔虫になるだけじゃない』
( 、 川(なにか、きかなきゃ)
『見て分かったでしょ?あなた、彼のあんな顔、一度だって見たことある?』
( 、 川(違う、そんな、でも、じゃあ、なんで)
『遊ばれたか、揶揄われたか。有力なのは、単なる“圧力をかけてくる家や世間への体裁作り”ってとこかしら』
脳裏に響く声が、幾重にも鼓膜で反響する。
今までの人生で一番聞いた声が、一番聞きたくないことを言おうとしている。
83
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:10:21 ID:KKTQDt7.0
『あなたみたいな凡人が、彼の隣にいられること自体、奇跡みたいなものだったのよ』
『ずっと昔から気付いてたでしょ?なのに、何年も気付いてないフリしてた』
『特に何かアクションを起こす訳でもなく、ただただ、ぬるま湯に浸かるみたいに隣にいられることに甘んじてた』
( 、 #川(やめて…やめて!うるさい!やめて!!)
『もう終わり。時間切れ。サッカーじゃないんだから、ロスタイムなんてものはない』
『…いえ。大学卒業から今までが、ロスタイムだったのかもね』
呼吸も瞬きも出来ないまま、頭に響く声を聞かされるまま。
目の前の景色は変わらない。ただひたすら、意中の男性が、仲良さげに私ではない女性と話し込んでいる。
動かなきゃ。逃げなきゃ。とにかく今は、ここにいちゃダメだ。
頭では理解しているのに、金縛りにあったように身体が動かない。
問い質したい。ここから逃げたい。彼と話したい。顔も見たくない。
相反する感情がごちゃ混ぜになる。動かなきゃいけないのに、脳が上手く身体を操作しない。
急げ、彼に気付かれる前に。早く、早く、一秒でも早く。
とにかく足を動かさなければ。祈るように、慎重に、右足を後ろに下げた、その瞬間。
84
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:11:46 ID:KKTQDt7.0
ζ(゚ー゚*ζ「………?」
―――目が、合った。
( 、 ;川「――――っ!!」
気が付けば、私は走り出していた。
今まで歩いた道を、泥棒みたいにみっともなく。
離れていく。駅から、家から、彼から、思い出から。
視界が滲む。街灯の明かりがぼやけて、自分がどこにいるのかも分からなくなっていく。
…一体どれだけ走ったのか。
息を切らしながら、痛む足を抱えながらよろよろと壁にもたれかかる。
周囲を見る。誰もいない。それどころか、全く見覚えのない場所だった。
85
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:12:41 ID:KKTQDt7.0
ぼやけた頭で、ほぼ無意識にスマホを取り出す。
表示された時間は午前1時に差し掛かろうとしている。
疾うに、終電はない。
(*;´・_ゝ・`)ζ(^ー^*ζ
少しでも気を抜いたその途端、あの二人の光景がフラッシュバックする。
消えろ消えろと呪詛を吐きながら、何度も何度も頭を叩く。
けれども消えない。消えてはくれない。
私には一度も向けてくれなかった彼の笑顔が、網膜に焼き付いて離れない。
( 、 川「……」
( 、 川「…………」
( 、 川「………………」
( 、 川「………………………」
( 、 川[決めた」
誰にも聞こえない、きっと、神様にだって聞こえない囁き声が口から洩れた。
86
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:13:16 ID:KKTQDt7.0
何を迷っていたのだろう。何を悩んでいたのだろう。
少し考えれば分かったことだ。最初から、私に選択肢など、必要なかった。
楽しい日々だった。夢のようだった。
振り回されるのも、怒るのも、呆れるのも、見惚れるのも、慕うのも、憧れるのも。
彼の隣にいられただけで、私はとても幸せだった。
けれど、もう、充分。
あまりに心地よかったから、いつからか、とんでもない勘違いをしていたみたいだ。
身の丈に合わない仕事をするのも。
必死に誰かをフォローする生活も。
目の下のクマを必死に化粧で誤魔化す日々も。
ロボットみたいに、機械的に淡々と彼を支えるのも。
ちょっとでも、彼の役に立てていると、自惚れながら息をする毎日も。
87
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:13:40 ID:KKTQDt7.0
( 、 川(夢は、もう、いいや)
――見るのも、醒めるのも、もう御免だった。
88
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:14:29 ID:KKTQDt7.0
*
(´ _ゝ `)「………」
('、`*川「…なにか、御用でしょうか、しゃちょ――」
(´ _ゝ `)「何だコレは」
社長室は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
12月の寒い空気が理由なのか、はたまた、空調が壊れているのか。
原因はどちらでもない。この空気を生み出している原因は、今まさに、社長が机に叩きだしたものだ。
私の言葉を遮りながら、乱暴に出された紙の束。
乱雑に丸められたそれは、処々に乱暴に破かれた痕が判然と見受けられる。
まるで、子どもがイタズラで破いた紙クズのよう。というか、もはやそれにしか見えない。
一種の執念すら見受けられるほどに破かれまくったそれを、私は冷ややかな目で見つめていた。
89
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:18:00 ID:KKTQDt7.0
('、`*川「…見てお分かりいただけませんか」
(´ _ゝ `)「お前こそ、僕が何を聞いているのか、本当に分かってないのか」
決して少なくない怒気を含んだ声が部屋に響く。
珍しいほどに怒っている彼を前に、私は一切怯まず言葉に応じた。
('、`*川「…それが私の返事です。一応、契約書の性質を有するものである以上、今後悪用されることのないように破いただけですが」
(´ _ゝ `)「………これが、“返事”?」
('、`*川「そうです。…他に用がないなら、これで失礼……」
(#´ _ゝ `)「ふざけてるのか」
彼が立ち上がると同時に、乱暴な音を立てて椅子が倒れる。
声も表情も、まるで何の感情も乗っていないみたいにのっぺりとしている。
それでも、彼がはっきりと怒っていることだけは分かる。
“こんなに怒っている彼を見るのは初めてだな“と、どこか冷静に見ている自分がいた。
90
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:18:50 ID:KKTQDt7.0
(´・_ゝ・`)「……僕は、内容を確認して、サインと印鑑を押して持ってこいと言った」
(´・_ゝ・`)「納得いかない箇所があれば、その都度教えろ、とも言った」
(´-_ゝ-`)「…お前は、記憶力が良い。頭も悪くない。だが、流石に法律は専門外だろう。何かを勘違いした可能性もある」
(´・_ゝ・`)「だから、もう一度だけ、確認する」
トントンと、彼は机の上の紙屑を叩いた。
(´・_ゝ・`)「…………これは、何だ?なんのつもりだ?」
氷みたいに冷たい視線が、容赦なく私の全身を射抜く。
けれど、私の心は動かない。
凪いだ海の波みたいに、いや、凍った化石みたいに、ピクリともその感情は動こうとしない。
視線を机上の紙屑にやる。
いくつもの文章の下に、ちらりと見える署名欄。
乱雑に破いたにしては、何故かそこだけ綺麗に残っている。
……無論、私のサインは、ない。
91
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:20:01 ID:KKTQDt7.0
('、`*川「……要するに」
('、`*川「“お断りします”、ということです」
一切の震えもないまま、何の想いも籠っていない声色で、そう言った。
('、`*川「質問には答えました。ご用件は以上ですよね」
('、`*川「それと、本日のスケジュールですが、今朝社内メールで連絡した通りです。詳細は関ケ原副社長か、私の部下の誰かにお聞きください」
('、`*川「それでは、私はこれで失礼しま――」
(#´ _ゝ `)「―――いい加減にしろ!!!」
一度だって聞いたこともない怒号が、周囲の全てをかき消した。
踵を返し、部屋を出ようとしていた足が静止する。
私は背を向けたままの体勢で、彼の次の言葉を待った。
92
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:21:02 ID:KKTQDt7.0
(#´ _ゝ `)「……断る、のは、別にいい。だが、これはなんだ。どういうことだ」
(#´ _ゝ `)「ただそのまま返せばいいだけの話だろうが。それを、なんだ」
(#´ _ゝ `)「…この一ヶ月、僕を避け続けた挙句、ビリビリに破いた紙屑を持ってくるとは」
(#´ _ゝ `)「一体、どういう了見なんだ」
背中を見せたまま、私は動かない。
後ろから伝わってくる怒りが、夕暮れ時の驟雨みたいに背に降り注ぐ。
だが、何も言わない。何の言い訳をすることもない。
私は人形のように黙ったまま、彼の怒りを聞いていた。
(#´ _ゝ `)「…言いたい事があるなら、はっきり言えよ!!」
(#´ _ゝ `)「いつも、ずっと、お前は僕にそうしてきただろうが!!それがっ…それが今更、なんだ!!」
( 、 川「………」
何も言い返さない。最初から、何か反論する気など欠片も持ち合わせていない。
どれだけ怒りをぶつけられようと、私の決断は変わらない。
93
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:22:21 ID:KKTQDt7.0
そもそも、もっと早くにこうするべきだったのだ。
心のどこかで分かっていたのに、今日までズルズルと伸ばしてきたのは、私の責。
( 、 川(…今日が、終われば)
胸に忍ばせた封筒をぎゅっと握った。
(#´・_ゝ・`)「……だんまりか」
(#´・_ゝ・`)「…あぁそうだ。昔からそうだな、お前は」
声のトーンが更に下がる。
無言のまま、私は眼前のドアを見つめ続ける。
言いたいことがあるなら、言えばいい。
私だってそうだ。やりたかったからやった。破りたかったから、破いた。
彼が怒ることなんて、分かり切っていた事象だ。
署名をせずに、“悪用されないため”なんて小学生のような詭弁を使って、破いて突っ返すなど怒るに決まっている。
94
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:23:06 ID:KKTQDt7.0
(#´・_ゝ・`)「頑固で、面倒で、言いたい放題言う癖に、本当に言いたい事は何も言わずに僕が察するのを待つんだ」
(#´・_ゝ・`)「それも、僕がそういうことを苦手なのを承知の上でだ。何度も何度も煮え湯を飲まされた」
言えばいい。ぶちまければいい。
何を言われたって、私の心は動かない、変わらない。
(#´-_ゝ-`)「確かに、僕はお前を振り回してきた。自覚はある」
(#´ _ゝ `)「……だが、それに見合う報酬や給料は与えてきたはずだ。世間から称賛されるような地位も、金も、仕事も!」
部屋にある家具が、彼の激高を反射して小刻みに震える。
彼の頭にある豊富な語彙が、怒りというフィルターを通して、全て私に向けられている。
別に何を言われようと今更堪えない。反応する必要もない。
固辞したまま、背を向けたまま、彼の裂帛をじっと聞いているだけの時間が流れていく。
答えは出た。これ以上ないほどに、100点満点の解答が。
あとは、案山子みたいに彼の癇癪を聞くだけでいい。
別に昔からやっていることだ。男性の怒号など、子どもの頃から慣れている。
それが、彼からの言葉でも、変わりは――。
95
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:23:36 ID:KKTQDt7.0
(´ _ゝ `)「……ずっと、今まで、そうやって」
(´ _ゝ `)「僕を馬鹿にしてたのか」
( 、 川
変わりは、ない。
そのはずだった。
96
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:24:09 ID:KKTQDt7.0
(#´-_ゝ-`)「…あぁ、そうだ。思い返せば、昔からか」
(#´・_ゝ・`)「お前に挑んでは、負けて、ムキになって勉強して、それでも最後まで負け続けて」
(#´・_ゝ・`)「…さぞ、面白かったろうな?懲りずに勝負を挑んでくる世間知らずのボンボンに、勝って、嗤って、変な採点して、馬鹿にする日々は」
純粋な怒りから一転、彼の話し声にヘラヘラとした薄笑いが混じる。
自嘲、後悔、羞恥、諦観、批難。
多種多様なマイナスの感情が、背中越しに伝わってくる。
だが、私はそんな変化にも対応できずにいた。
いや、正しくは。
…意味が、分からなかったのだ。
97
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:25:02 ID:KKTQDt7.0
(#´・_ゝ・`)「要するにこれは、僕に対する、お前の最後のあてつけって訳だ」
(#´・_ゝ・`)「なんだ。怖いお父上から、別の男との縁談でも決まってたか?…我ながら、咄嗟の推定にしては良い線いってそうだな」
(#´・_ゝ・`)「それを利用して、最後に僕がみっともなく喚く姿でも見ようってか。…ははっ、全くふざけた――」
さっきから、彼は一体何を言っているのだろうか。
脳は動いている。彼の言った言葉の意味を理解しようと、必死に稼働を続けている。
だが、演算処理が終わらない。ずっとずっと、一つの単語を認識したまま、その先に移行しようとしない。
何を言ってるのか。何を話しているのか。
何を主体にして話しているのか。誰に向かって言っているのか。
ずっと。ずっとずっとずっと。
人を、馬鹿にしてたのは。
98
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:25:54 ID:KKTQDt7.0
( Д #川「――馬鹿にしてたのは、どっちよ!!!」
叫び声が響いた。
同時にようやく後ろに振り返る。
すると、眼前には、目を白黒させた彼が一人。
刃物で引っかかれたみたいな痛みが喉を走る。
違和感を覚えて喉に手を伸ばそうとすると、その前に、手の甲にポタリと何かが落ちた。
落ちてきた“何か”を確認しようと、視線を下ろす。
同時に、手の甲だけでなく、ポタポタと何かが無数に零れて、床を濡らす。
(;´・_ゝ・`)「……い、伊藤……?」
突然、世界が滲んだ。
ガサガサの自分の手も、毎日我慢して履いているヒールも、見慣れた筈の、目の前に立っている彼の顔すら上手く見えなくなる。
ああ、そうか。
あまりにも久しぶりすぎて、理解が遅れてしまっていた。
(;、;*川
泣いてるんだ、私。
99
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:26:39 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「そっちこそ……!!そっちこそ、今まで、楽しかった!?
(;、;#川「記憶力しか取り柄のない地味なやつ煽てて、傍において、便利に使って、あんたの掌で踊ってるバカ女見てて、楽しかった!?」
(;、;#川「楽しいわよね!?こんなっ…こんな、紙切れごときに動揺してる小娘見て、自分は綺麗な女の子と夜まで一緒にいて!!」
(;、;#川「嗤って、馬鹿にして、困ったときだけ使って、それで、それで、今度は、こんな……」
言葉が嗚咽に詰まる。
口が脳についていかない。
言いたいことは上手く出てくれないのに、涙だけは溢れて止まらない。
あぁ。違う。そうじゃないのに。こんなはずじゃなかったのに。
出来るだけ穏便に済ませて、君の前から消えるはずだったのに。
…こんな情けない姿、最後まで、見せるつもりじゃなかったのに。
100
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:27:57 ID:KKTQDt7.0
( 、 #川「……君にとって、私ってなんだったの?」
10年間、ずっと聞けなかったことが、涙にまみれて口を零れた。
怖くて怖くて、聞きたかったけれど、聞けなかったこと。
(;、;#川「元クラスメイト?単なる知り合い?ちょっと便利なメモ帳?女除け?……それとも、全部?」
(;、;#川「別に……別に、なんだっていいわよ。友達だとすら思われて、なくても、女の子として、見られてなくて、も」
(;、;#川「……君の横にいられるなら、君の役に立てるなら、それだけで、よかった」
文脈の間に吃逆が混じる。秘めていた想いが、あまりにみっともなく漏れていく。
ずっと隠していた、言うつもりもなかった。
考えないようにすらしていた、そんな、本音。
101
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:28:49 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「それでも…それでも、ちょっとくらい、特別に想われてるかもって、浮かれてた」
(;、;#川「でも、違う。違った。君にとって私は、やっぱりただの、便利な道具でしか、なかったのね」
心の隅でひっそり抱えていた望みが、蝋燭の火みたいに容易く消える。
想っていた。望んでいた。少しくらいは私のことを、特別に見てくれてるんじゃないかと。
…そんな訳、なかったのに。彼の目に、私なんか、映るわけなかったのに。
あぁ、なんてみっともないんだろう。
“弁えてます”みたいな顔をして、一人でずっと舞い上がって。
その始末が、コレだ。
いい年した女が、ボロボロと涙を流して、顔をぐしゃぐしゃにして、夢見がちな女子中学生みたいな願望を嗚咽交じりに吐き散らす。
もういっそ、消えてなくなってしまいたいと思うほどに、自分が情けなくて仕方がなかった。
102
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:29:52 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「…家から、“結婚しろ”ってせっつかれた?ずっとそういう話はあったもんね。それくらい知ってたわよ」
(;、;#川「手頃な私で、済ませようと、したんでしょ?…私なら、他の女の子と遊んでも怒らないと思った?ついでに、便利な記憶装置を、傍におけると思ったの?」
(;、;#川「私の家の事情だって利用すれば、ずっと私のこと使えるものね。そもそも、私に有利な条件つけたところで、よく考えれば、君は痛くも痒くも、ないもんね」
言えば言うほど、吐けば吐くほど、自分の置かれた立場が鮮明になっていく。
言葉を紡げば紡ぐほどに、私と彼の違いを思い知ってしまう。
“婚約に関する契約書”。あれにどれだけ私に有利な内容が書いてあっても、彼にとってはなんてことはない。
父たちの圧力がかかるであろう私から、離縁など申し出る訳もない。例え理由が、不貞であったとしても。
百歩譲って離縁することになったとて、数千万の手切れ金など、彼にとっては少し良い万年筆を買う程度の出費だ。そんなこと、少し考えれば分かった筈だ。
それでも、分からなかった。考えないようにしていた。ずっと、意図的に目を逸らし続けていた。
少しでも長く、夢を見続けていたい一心で。
103
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:31:30 ID:KKTQDt7.0
(;、;#川「…一瞬、それでもいいって思った。君の助けになるなら、別に、それでも……って…」
“彼の役に立ちたい”。それは、偽らざる私の本心だ。
彼と同じ大学に進んだのも、彼が立ち上げた会社に入る道を選んだのも。
隣にいたい、彼のためになることがしたいと、心の底から願ったから。
それが叶うのならどんな形でもいいと、本気で思っていた“つもり”だった。
その覚悟で、10年以上、ずっと彼の近くにいようと、必死に走り続けていた。
なのに。
( 、 川「……でも、ごめんなさい。…やっぱり、無理、です」
……見てしまった。そして気付いてしまった。
あの夜に。迷いながら歩いていた、あの晩に。
彼が、自分に見せないような顔を、他の女性に向けているのを見た瞬間に。
自分の奥の奥にある、自分勝手で、あまりにも、黒く濁ったその感情に。
例え、君の隣にいられるとしても。
君の横を歩けるとしても。君の役に立てるとしても。
君が選んだのが、私じゃないのなら、もう――。
104
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:33:35 ID:KKTQDt7.0
( 、 川「…………今まで」
(;ー;*川「……今まで、お世話になりました」
震えた手で、胸元に入れていた封筒を出す。
表側には、“退職届”という三文字が、涙が落ちても消えないようにボールペンで書かれていた。
(;´・_ゝ・`)「はっ…?ちょ、ちょっと待て伊藤、"俺"は――」
(、; 川「………しつれい、しま、す………!」
(;´・_ゝ・`)「………っ!お、おい、待てっ………!?」
必死に声を絞り出しながら、彼のネクタイに無理やり封筒を押し付ける。
地面に落ちたそれを拾うこともなく、彼の制止の声に応じることもなく、私は走って部屋を出た。
105
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:34:57 ID:KKTQDt7.0
廊下を走る。
エレベーターに乗り、降りる。
廊下で色んな人から声を掛けられたが、全てを無視して自分のデスクに向かう。
この一ヶ月で、業務の引継ぎは終えていた。
無駄な書類や備品は、全て昨日までに処分しておいた。
鞄を手に取り、嵐のような勢いで部署を出た。
階段を転がるように1Fまで降りてロビーゲートをくぐり、無用の長物となったカードキーを投げ捨てる。
途中ですれ違った同僚にも、上司にも、後輩にも、警備員の人にも、一切挨拶しないまま逃げるように進んでいく。
106
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:35:19 ID:KKTQDt7.0
( 、 ;川「きゃっ………!?」
ふいに、足元が歪んだ。
地面に強打した膝を見てみれば、ものの見事に出血している。
痛みを感じながら振り向くと、ヒールが綺麗に折れていた。
いや、ただ痛いだけじゃない。なぜか顔だけじゃなく、足がべっとりと濡れている。
何故だろうと思いながら、足に走る痛みに歯を食いしばり、未だ目から溢れる涙を拭う。
鮮明になった視界を数度瞬きしてようやく私は、いつの間にか外に出ていることに気が付いた。
地面には、雪が積もっていた。
空を見上げると、ゆらゆらとした雪がゆっくりと、それでいて無数に降下してきているのが見える。
息を吐くと、瞬く間に白く濁り、空中へと霧散していった。
帰らなければ。一刻も早く、ここを離れなければ。
雪景色の中、脳内で繰り返される命令に従って足に力を入れる。
107
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:36:37 ID:KKTQDt7.0
( 、 ;川「…あっ……」
立ち上がろうとした、その瞬間。
運の悪いことに、全く雪が積もっていない地面に向かってポケットからスマホが落ちてしまった。
耳障りの良くない音を立てながら転がるスマホを追いかけ、拾う。
壊れたのか、ヒビは入っていないだろうか。確認しようと慌てて表を向け、液晶を表示させようとタップする。
( 、 川「……あぁ………」
『(´・”_ゝ・`)///v('ー`*川』
案の定、画面には大きなヒビが入っていた。
高校生の頃、修学旅行で訪れた遊園地で撮った、彼との写真。
覚えている。あれは、集合時間まであと5分もないと、二人で園内を走っていた時だ。
途中にあったフォトポイントが、夕日を反射する雪と相まって、あまりに綺麗に見えたものだから。
傍にいた遊園地のスタッフさんに頼んで、撮ってもらったのだ。
テストの点数勝負の結果と、たった一度の修学旅行という口実を使い、撮れた唯一のツーショット。
“写真は嫌いだ”と渋い顔をする彼と、にこやかにピースサインを掲げる私。
そんな過去の私たちを分断するように、中央を走る大きなヒビ。
108
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:37:29 ID:KKTQDt7.0
( 、 川「……うぅ」
(;、;*川「…あぁ、ああ………」
(;Д; *川「あぁ、あ、ああ、……ああぁ……!」
一瞬は止んだ雨が、更に強さを伴って、また降り注ぐ。
決壊したダムみたいに、ボロボロと涙が零れていく。
どうすればよかったんだろう。私は、一体どこで間違ったんだろう。
何も考えず、彼との婚約を受け入れれば良かったのだろうか。
彼の傍で働くことが、間違いだったのだろうか。
彼と同じ大学に進んだ時点で、失敗していたのだろうか。
あんな風に思われていたなんて、知らなかった。
馬鹿にしているなんて、そんなこと、彼に対して思ったことなんて一度もないのに。
109
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:38:29 ID:KKTQDt7.0
私なんかが、彼と会ったこと自体、ダメだったのだろうか。
いくら泣いても答えは出なくて。
擦りむいた膝よりも心が痛くて、鬱陶しい雪も涙も、一向に止んでくれなくて。
スマホに映る、幸せそうな過去の私が、彼の隣で笑っている私が、妬ましくて仕方がなくて。
( 、 川(――ごめんなさい)
( 、 川(あんなに怒鳴って、ごめんなさい。思い上がって、ごめんなさい)
どうしていいか分からない。
涙の止め方も、明日からの息の仕方も、何もかもの検討が微塵もつかない。
ぐちゃぐちゃになった思考のまま、ただ只管、祈るみたいに、想い人への謝罪だけが募っていく。
110
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:39:31 ID:KKTQDt7.0
(;、;*川(―――私、なんか、が)
(;、;*川(好きになって、ごめんなさい)
当然、答えはない。返答も、救いも、何もない。
勝手に期待しただけの痛い女には、部分点すら与えられる余地はない。
0点女のみっともない泣き声が、降り注ぐ雪に埋もれて消えた。
111
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 01:40:28 ID:KKTQDt7.0
前半はここまで。
来週くらいに後半を投下します。よろしくお願いします。
112
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 09:14:53 ID:6UqyCAwU0
乙
113
:
名無しさん
:2024/01/19(金) 13:11:55 ID:uELU9.uM0
乙、、、
114
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:32:07 ID:4hRpiPzg0
*
(´∩_ゝ `)「………」
机の上に置かれた書類をただ眺めるだけで、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
やらなくてはいけない業務も、目を通さなければならない書類も、文字通り山のようにある。
自分がやるべきことをやらなければどれほどの損害が出るのか。どれだけの人間が困るのか。その責任についても十分に理解している。
だというのにここ数週間、手も脳も、まるで意欲的に動こうとはしてくれなかった。
一年半かけて選んだ自分好みの椅子に深く背中を預ける。
目の前に置かれた書類の文章を手に取って読もうとするも、意味が全く頭に入ってこない。
これは“読む”とはいえない。ただ眼球が文字を追っているだけだ。
書類を手放し、如何とも言葉にし難いイラつきの衝動に駆られて頭をガシガシとかく。
そうこうしながら書類と詮無き睨めっこを続けていると、ガチャリとドアが開く音がした。
( "ゞ)「……まだ不貞腐れてるのか」
音がした方向に目をむける。そこに立っていたのは無二の親友であった。
115
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:33:10 ID:4hRpiPzg0
そもそも、顔を向けて確認せずとも分かることだ。
社長室兼作業部屋であるこの部屋に入るには、社員すら持ってない特殊なカードキーが必要である。
それを持っていて勝手にここに入れるのは自分を除けば、デルタと、あの口うるさい腐れ縁くらいのもので――。
脳裏に浮かんだ女性の姿を払うが如く、再び頭を掻きむしる。
考えまいとすればするほどより濃く影を落とす残像の、その存在感は日ごとに増していた。
(; "ゞ)「いい加減やることやってくれ、業務が滞って仕方ない。下からの苦情に取引先へのフォロー…社員たちを誤魔化すのもそろそろ無理だ。俺にも限界ってもんがある」
(´∩_ゝ `)「……やる気が起きない」
( "ゞ)「大学生みたいなこと言うな。ほら、追加だ。さっさと目を通せ」
ただでさえ山のように積まれていた書類の上に、更なる紙の束が置かれる。
ペーパーレスが進むこの時代に、何故こちらが古い企業に合わせて紙を使わなくてはならないのか。
若い頃に飲み込んだつもりの不条理だが、やはり如何とも理解しがたい。
116
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:34:26 ID:4hRpiPzg0
更なる苛立ちの泡が浮いてくると共にダラリと身体がずれる。
汚いモノでも摘まむかのように一番上の紙を捲ったのはいいものの、面倒な単語が並んだ文章に気が滅入ってすぐに戻す。
( "ゞ)「おい」
あからさまな溜息交じりの注意が耳に入るも、やる気が出ないものは仕方ない。
というか、やる気が出ないのは仕事に限った話ではない。
二週間以上前のあの日から、碌な生活を送っていなかった。
食事も、睡眠も、ただ服を着るという行為ですら面倒で仕方がない。
今では家に帰ることも億劫で、シャワーを社員用のものを使い、夜は社長室の隅にあるソファで寝泊まりする始末。
“どうでもいい”という感情のみが、自分の胸中を占めていた。
( "ゞ)「おいデミタス。まだやる気が出ないところ悪いんだが、お前にお客さんが来てるぞ」
(´∩_ゝ `)「…今日は面会謝絶だ。誰だか知らないが、帰ってもらって…」
「ここまで呼んどいてそれはないでしょう。先輩」
声が聞こえた瞬間、目を見開いてバッと上体を起き上がらせる。
デルタではない声色だった。だが、ひどく馴染みのある声。
そして、今は二番目に聞きたいと願っていた声だった。
117
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:35:23 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…うわ、なんすかこの無駄に広い部屋、入りづら…」
どこかいけ好かない細んだ目と、性格が伺える針金のように歪んだ口元。
一学年下の後輩であり、大学を卒業した今でも頼りにしている弁護士。
“新塚ニュッ”。
ロースクールに進むことなく在学中に司法試験を突破し、早期卒業制度を使って自分たちと同時期に大学を出た白眉である。
だが、何故このタイミングで奴がここに来たのかが疑問だった。
確かに聞きたいことはあったが、彼に連絡はまだしていない。
不思議に思いながらデルタの方を見ると、彼はさも当然といった様子でスマホを操作し、メッセージアプリのトーク画面を表示する。
そこには数日前になされたらしき、デルタとニュッの会話が記録されていた。
(*´・_ゝ・`)「〜〜っ!でかしたデルタ!よし、よく来たなニュッ!入れ!座れ!話聞け!!」
( ^ν^)「命令系のオンパレードかよ」
部屋の中心にあるソファに二人が座る間、机の引き出しに入れていた書類を取り出す。
出した紙の束を持ちながら早足で二人に近付き、自分との間にあるテーブルの上に置いた。
118
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:40:03 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…なんすか、このビリビリのゴミ」
(´・_ゝ・`)「お前に依頼して作ってもらった、伊藤との婚姻証書だ」
(; ^ν^)「はっ?……え、これが!?破ったんすか!?俺がどれだけ必死に作ったと…!」
( “ゞ)「違う。破られたらしい」
(; ^ν^)「破られっ…!?それってつまり、ふ、振られ…」
(;´・_ゝ・`)「わざわざ言うな!とにかく、もう一度これ全部見直してくれ!」
見るも無残なほどに、ビリビリに破られた紙の束。
紙の一片に至るまで念入りにズタボロにされたそれを、一つ一つ、丁寧に修復する作業には骨が折れた。
とんでもなくアナログな重労働と、そんな時代遅れな作業を他ならぬこの自分がやる羽目になったというストレスのお陰でここ数日は睡眠不足である。
119
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:41:05 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「…だから、何度も言ってますけど、完璧な契約書なんてこの世に存在しないんですよ」
(# -ν-)「そういう注文をするアホが未だに蔓延ってるから、俺ら弁護士はいつまでも苦しんで……」
(;´・_ゝ・`)「そんな話はいい!早く!」
心底嫌そうな顔を浮かべるニュッに、無理やり書類を押し付ける。一瞬だけ聞こえた舌打ちのような音は気のせいだということにして流した。
テープで継ぎ接ぎに修復されたそれを、彼は再び破れることがないよう、丁寧に一枚一枚確認していく。
時間にして、およそ30分ほどは経過しただろうか。
空調と紙が捲られる音だけが響く部屋を一新するかのように、長い長い溜息が流れた。
( -ν-)「……終わりました」
(;´・_ゝ・`)「…!ど、どうだった。一体どこに問題が…」
( -ν-)「ないっす」
ほぼ反射的に「は?」という声が漏れる。
ニュッは酷使した眼球を労わるように目頭を抑えながら、疲れた声色で話を続けた。
120
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:42:11 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「変なトコも、誤字脱字の類もないっすよ。形式的には何の問題もないと思います。婚約に関してって点に限ればっすけど」
( "ゞ)「…それじゃあ、つまり」
( ^ν^)「断言は出来ないっすけど、十中八九、この契約書が問題なんじゃない」
( ^ν^)「やっぱ、問題があるのは婚約云々じゃなくて、盛岡先輩の方――」
(#´ _ゝ `)「――ンな訳あるか!!」
社長室に罵声と、勢いよく机を叩いた音が響き渡る。
気が付けば、自分は無意識に立ち上がっていた。
(#´・_ゝ・`)「僕と……この僕との婚約だぞ!?一体、何の問題が、デメリットがある!?」
(; ^ν^)「うわビックリした……」
(#´・_ゝ・`)「僕には資産も、社会的地位もある!あいつがずっと苦しんでる家絡みの問題も解決できる!!」
(#´・_ゝ・`)「僕自身に問題なんてあるはずがない!!ここに、この書類になにか不備がある筈なんだ!!それさえ見つければ、そうすれば、アイツは……!!」
頭を掻きむしりながら、再び書類を手に取って睨む。
ここにこそ、何か原因があるはずなのだ。
121
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:42:37 ID:4hRpiPzg0
結婚相手の男性として、“盛岡デミタス”という人間にどれだけの価値があるか、それを伊藤が理解していない訳がない。
自分なら、盛岡家の力も借りず、散々アイツを無碍に扱っていた伊藤家から遠ざけてやれる。
アイツがずっと苦しんでいた原因を、根っこから取り除くことが今の自分になら出来るのだ。
日本で一番とされる国立大学に入り、死に物狂いで経営を学んだ。
空いた時間はほぼ全て、アプリ開発や起業に関することに費やした。
海外に向けて展開した学生向けのファイナンシャル事業も成功させ、自分の家に一切頼らなくてもよくなった。
欲しかった手札は集めきった。10年かけて、必要なものは全て揃えた筈だった。
なのに、ダメだった。一体何がダメなのかも分からず、部分点すら得られず、自分は今こうしてみっともなく地団駄を踏んでいる。
一体、どこに、この盛岡デミタスに、どんな失態があったというのか。
( ^ν^)「…つーか、そもそもどうやって伊藤先輩に告白したんですか」
ニュッが何気なく呟いたのであろう一言に、文字を追う眼球が止まる。
顔を上げると、ニュッは腕を組みながら不思議そうにこちらを見ていた。
122
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:43:54 ID:4hRpiPzg0
( ^ν^)「婚約証書(こんなもの)を俺に作らせたってことは、結婚してもいい段階まで来たってことでしょう?…そもそも俺は、お二人が付き合ってたことも最近まで知りませんでしたけど」
( ^ν^)「付き合う時はどんな風に言ったんです?こんな形式ばったもの使わなくても案外、その時と同じようにした方が上手くいくかも――」
(´・_ゝ・`)「……いや、付き合ってないが。何言ってるんだ?」
今度は、彼が「は?」と言う番であった。
急に彼の口から出てきた質問に、僕の脳は追いついていなかった。
付き合うも何も、僕と伊藤はそういう関係ではない。
関係性という観点から話すのであれば、色々と名前を付けることは出来る。
友人、元クラスメイト、大学の同期、上司と部下、知人、腐れ縁、その他諸々。
だが、その中に“恋人”という単語はない。そうであったことなど今までの人生で一秒すらない。
自分たちがそういう関係ではない事を、この後輩は知っていた筈なのに、一体どうしてそんな的外れな質問をしてきたのか。
それが自分には全く分からなかった。
123
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:47:31 ID:4hRpiPzg0
(; ^ν^)「……え?付き合ってすら、ないの?」
(´・_ゝ・`)「ない。そんな打診をしたことすらないな」
(; ^ν^)「………なのに、“結婚しよう”って言ったんすか?」
(´・_ゝ・`)「そうだが。身分関係の変更で重要なのは入籍だと言ったのはお前だろ?なら、わざわざ交際関係を経る必要ないだろ」
(´・_ゝ・`)「まぁ、流石に時間的担保はあった方が良いだろうから婚約という形にしたが」
僕の発言を聞き終わると、ニュッは再び長い溜息をつく。
顔を両手で覆った彼は、指の隙間から隣に座っているデルタを睨みつけた。
( ∩ν∩)「……どういうことですか」
(; "ゞ)「……違うんだ。その、こいつが聞く耳持たなくて……」
(# ^ν^)「そこをどうにか聞く耳持たせるのが関ケ原先輩の役割でしょう!?立派な任務懈怠ですよこれは!」
(; "ゞ)「いや、まさかここまで暴走するとは思わないだろ!?」
僕を置いてけぼりにして、二人は突如として言い合いを始める。
自分の発言が端緒であることは何となく察しているが、一体何か問題があったのだろうか。
124
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:49:36 ID:4hRpiPzg0
(# ^ν^)「いくらなんでも非常識すぎる!!何なんすかアンタは、人生RTAでもやってんすか!?」
(;´・_ゝ・`)「あ、あーる……??」
(; ^ν^)「意外な無知…!!」
( “ゞ)「こいつ、自分自身はゲームとかやらないからな」
僕の混乱を他所に二人は聞き慣れない単語を交えて会話を続ける。
何を言っているのか要領を得ないが、少なくとも褒められてないことだけは確実だろう。
( "ゞ)「とにかく…原因ははっきりした。間違いなく、書類云々じゃなくお前自身が問題だ」
( ^ν^)「ですね」
(;´・_ゝ・`)「はぁ!?デルタまで…!」
目の前のソファに腰掛けている二人から分かりやすい批難の視線が向けられる。
誰かのフォローを貰おうにも、配慮と記憶力に長けるいつもの部下はいない。
文字通りの孤軍奮闘。善戦を望みたいが、相手がこの二人となれば流石の僕でも分が悪すぎる。
125
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:51:01 ID:4hRpiPzg0
(;´-_ゝ-`)「…………何がダメだっていうんだ」
潔く白旗を上げ、降参の意を告げる。
この二週間、仕事も商談も放り投げて一人で考え込んだ結果、何も成果を挙げられなかったのだ。
ここで詰まらない意地を張っても仕方ないし、この二人に対してなら猶更というもの。
負け戦に挑むなどという詮無き趣味は、とうの昔に、高校時代で飽きている。
(; "ゞ)「…いや、何がダメっていうか」
( ^ν^)「もう、何もかもがダメですよね。常識なさすぎです」
(;´・_ゝ・`)「だ、だから何に問題があるんだ!?」
後輩からの辛辣な批評に思わず目が点になる。
フォローが得意なデルタからの支援もないどころか、深く頷いている始末。
( ^ν^)「普通、恋人って関係を経由してから結婚について考えるんですよ」
「何を今さら」とでも言いたげな様子で放たれる、溜息交じりの教え。
昔からこの生意気な後輩は言葉を選ぶということをしない。仕方なく敬語を使ってやっているという態度が見え見えの声色と話し方に青筋が立ちかける。
が、今回ばかりはそれを指摘する余裕も立場もない。
126
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:53:43 ID:4hRpiPzg0
(´・_ゝ・`)「……いや、それは知ってるが、要らないだろ」
( ^”ν^)「はぁ?要らない訳ないでしょう?」
(´・_ゝ・`)「だって、それは一般的な男女の場合だろ?僕と伊藤は高校からの知り合いなんだし、お互いのこともよく知ってる。なら別に、”恋人”って関係はスキップ可能な筈だ」
(´・_ゝ・`)「それに、”僕”だぞ?僕と結婚することのメリットなんて、それこそ伊藤が分かってない筈がないだろ。考える時間がそこまで必要か?」
(; "ゞ)「…本当にRTA知らないのか?走者じゃないのか?」
(;´・_ゝ・`)「だから何なんだその、あーるなんとかってのは!」
(#´・_ゝ・`)「…大体、ニュッだって大して長く付き合ってないくせに、もう結婚するつもりなんだろうが!僕に説教できる立場か!?」
(; ^ν^)「うげっ!?な、なんでもう知って……!?」
(´・_ゝ・`)「先月、偶然出会った津島さんに聞いた。お前、デルタには相談してたくせに僕には何も言わないようにしていたらしいな」
127
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:56:00 ID:4hRpiPzg0
ニュッの幼馴染であり、彼女でもある”津島デレ”さんと偶然出会ったのは一ヶ月以上前のことだ。
夜遅くにフラフラと歩いていた彼女を見つけ、「良ければ」と声をかけて駅の近くまで送り、少しだけ雑談をした。
お互いの近況や仕事の話、共通の知り合いであるニュッの話、そして付き合って一年が経った先月にニュッからプロポーズを受けたこと。
「まだ付き合って一年しか経ってないのに、せっかちですよねアイツ」と口では言いながらも、その表情は彼女が作る洋菓子のように甘ったるいものだった。
嬉しそうに式の予定を話す彼女に「自分、何も伝えられてないな」と後輩に不満を抱きつつも、そんな二人をよく見ていたからこそ、自分も結婚しようと思うようになったのだ。
(; ^ν^)「いや、その、盛岡先輩には式の日取りが決まってから話そうと…え、てか、来るんすか?えー?」
( "ゞ)「あ、本当に呼びたくないんだ……冗談かと思ってた…」
(´・_ゝ・`)「二度と僕に常識がどうだのとほざくなよお前」
(; ^ν^)「と、とにかく!俺らは幼馴染だから例外として、普通はちゃんと…」
(´・_ゝ・`)「おい何サラッと自分を棚に上げてんだ」
( "ゞ)「一気に説得力なくなったな」
先ほどまでの悠々とした態度はどこへやら。
恥じるように顔を両手で覆ったニュッはすっかりソファの隅に縮こまる。
一転して意気消沈してしまった後輩を見て、小さく息を吐いたデルタが身をこちらに乗り出してきた。
128
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:57:16 ID:4hRpiPzg0
( "ゞ)「まぁ、とにかく…世間一般の女性からすれば、交際相手じゃない異性からいきなり”結婚しよう”なんて言われても、“はい”なんて言う訳がないんだよ。付き合いが長いとか、そんなのは関係ない」
( "ゞ)「相手がお前みたいな金持ちであってもな。伊藤さんが至って普通の感性を持つ女性だっていうのは、誰よりもお前が知っているだろう?」
(´・_ゝ・`)「…………」
こちらの反論を想定しきった旧友の言葉に。僕は何も言えず黙り込むしかなかった。
いつもなら例え伊藤が居たとしても何かしらの反撃をするのだが、今回ばかりは何も反論が思いつかない。
本気で何の問題もないと思っていた。
自分にも、伊藤にも、大きなメリットしかない素晴らしいアイデアだと。
だが、どうやらまた失敗らしい。それも幾度も気を付けるよう注意を受けていた点を思いっきり突く形のミス。
つくづく自分の常識の無さが嫌になる。多少はマシになったと自負していたが、とんだ思い上がりだったようだ。
129
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 00:58:22 ID:4hRpiPzg0
(´ _ゝ `)「……僕は、ここからどうすればいい」
我ながら本当に情けない小声が、自慢の社長部屋の中に響いた。
今まで、どんな問題があろうともあの手この手で対処してきた。
会社を立ち上げた時も、銀行からの融資を渋られた時も、大手から足元を見られた時も。
「今度こそ終わりだ」と世間から指を差される度に、その都度、困難を乗り越えてきた。
だが、今回ばかりは何も浮かばない。本当に、何をどうすればいいのか分からない。
原因は分かっている。結局、僕は一人では何も出来ないのだ。
詰まるところ、僕は天才などではなかった。
どこかの誰かみたいな、圧倒的記憶力も、コミュニケーション能力も、情報整理能力も持ち合わせていない。
いつもいつも、近くにいる人の助けを得て進んできた。それは、一企業の社長となった今でも情けないことに変わらない。
たった一人の友人との仲直りする方法すら、僕は自分一人では思いつけないのだ。
130
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:02:10 ID:4hRpiPzg0
( "ゞ)「……連絡はしたのか?」
(´ _ゝ `)「…電話も、メッセージも、全部ダメだった。メッセージは既読すらつかない」
( "ゞ)「家には?」
(´ _ゝ `)「…一回だけ行った。居留守なのか、本当にいなかったのかは、分からなかったが…」
( "ゞ)「こういう時、どうするんだ?」
(;´・_ゝ・`)「いや、だからそれが分からないから」
( "ゞ)「違う。お前じゃない」
顔を上げ、デルタの顔を見る。
そこには自分の右腕ではなく、ましてや副社長でもなく、自分のただの友人としての顔をしたデルタの姿があった。
( "ゞ)「伊藤さんも落ち込んでる筈だ。泣いてたんだろ、彼女」
( "ゞ)「彼女は落ち込んだ時、何をするんだ。どういう所に行くんだ。どういうものに縋るんだ」
( "ゞ)「この10年、お前は彼女の何を見てきたんだ。どういう所を好きになって、どういう所に焦がれたんだ」
( "ゞ)「……お前が一番、伊藤さんのこと知ってるんじゃないのか」
131
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:04:37 ID:4hRpiPzg0
(;´・_ゝ・`)「……」
(;´-_ゝ-`)「……………」
目を瞑り、思考を巡らせる。
確かに。そうだ。そうだった。言われて今更思い出した。
自分が一番、彼女のことを見てきた。知ろうとしてきた。
何が好きなのか。何が嫌いなのか。
喜んでいる時の笑みも、怒っている時の表情も、悲しんでいる時にすることも、気を抜いて居眠りをする時の横顔すらも、何一つ取りこぼさないように見てきた筈だ。
彼女は昔から、嫌なことがあったら一人で抱え込むタイプだった。
他人を責めることに慣れていない彼女は、自省するため、静かな所で一人で泣こうとする。
それでも、無音に耐えられるほど強くはないから、少しだけ外の音や誰かの声が聞こえるような場所を選ぶ。
高校生の頃はよく、グラウンドに近い教室の隅で放課後、偶にこっそり佇んでいた。
132
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:05:16 ID:4hRpiPzg0
あとは何だ。何で絞れる。
思考を進ませ、大学生の頃の記憶を漁る。
そうだ、確か地元から彼女の両親が口を出しに来た日があった。
その日の夜、少し心配になって電話をかけたら、酔っぱらったような声色で当たり障りのない返答をされたことがある。
あの時、自分はどう思ったのか。
酒に逃げると安直だなとぁ、口調がへべれけだとか、他の人の声が少しうるさいとか。
聞き慣れないジャズのせいで、彼女の声が聞き取り辛かったとか――。
(´・_ゝ・`)「………なぁ、デルタ」
頬から手を離し、顔を上げる。
すると、目の前に座っていた彼は、僕が何かを言う前にひらひらとスマホをこちらに向けていた。
( "ゞ)「とりあえず、明日の午前までは空けたぞ」
相変わらず、痒い所に手が届く奴だと内心で舌を巻く。
やるべきことは思いついた。それを実行するための時間も、今まさに有能な旧友が確保してくれた。
あとは、自分がなりふり構わず動くだけ。
133
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:06:12 ID:4hRpiPzg0
(´・_ゝ・`)「ありがとう。…あと、一つだけ、用意して欲しいことがある」
( "ゞ)「なんなりと」
演技染みたニヒルな笑みを浮かべる彼に、こちらも自然と口角が上がる。
僕はポケットからスマホを取り出し、一枚の画像を見せた。
(´・_ゝ・`)「これ、用意しておいてくれないか」
僕が見せたスマホの画面を見て、ニュッは嫌そうに顔をしかめ、デルタは嬉しそうに破顔した。
( ^ν^)「…相っ変わらず常識知らずですね……いや、外れって言った方が正しいか?」
( "ゞ)「それでも”やると決めたらやれる”ってのが“盛岡デミタス”だよなぁ。…いいよ、なんとかしてみる」
(´・_ゝ・`)「ありがとう、任せた」
( “ゞ)「任された。行ってこい」
134
:
名無しさん
:2024/03/19(火) 01:06:37 ID:4hRpiPzg0
互いに作った握りこぶしを合わせ、僕は勢いよく立ち上がった。
デルタが「なんとかする」と言ったのだ。それならば、例えどれだけ無茶な注文でも確実に実現してみせる。
僕がそこに注意を向ける必要も心を配る必要もない。
社長室を出て廊下を進み、早朝のサラリーマンみたいにエレベーターへ乗り込んだ。
上着や最低限の現金が入った予備の財布など、大事な物は車の中。
スマホは今持っているから、外で動くのに支障はない。
液晶パネルに表示されていた、階数の下の時刻を見る。
今は夕方の17時。そろそろ日が沈み始め、冬空の茜が瞬く間に黒へと変わる頃。
エレベーターの液晶パネルが地下の駐車場を示し、静かに扉が開く。
今までにないくらい高鳴る心臓を自覚しながら、僕は止めてある自分の愛車へと走り出した。
135
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:52:46 ID:VP0Da38U0
*
グラスの中で、カランと甲高い音が鳴った。
項垂れていた視線を向ける。さっきまで綺麗に積まれていた筈の氷塔が崩れていた。
中に入っていた琥珀色の液体は、溶けだした氷の水と混ざって薄くなっている。
手を伸ばし、中途半端に残っていた酒をやるせなさと共に一気に飲み干す。
“ズブロッカ”という酒がある。
ポーランドにある“パイソングラス”という非常に珍しい草を使用して作られたウォッカのことだ。
特徴的なのは、洋酒であるにもかかわらず桜餅のような爽やかな風味。高いアルコール度数とは裏腹に、酒にあまり慣れていない私でもスルリと飲める。
酒好きにも、普段はあまり飲まない私のような人間にも人気の酒だ。
( 、 *川「……すいません、おかわり。ダブルで」
¥・∀・;¥「…伊藤ちゃんどうしたの?流石に今日は飲みすぎじゃない?」
(-、-*川「だーいじょうぶです。どーせ明日も、明後日も、ずーっとお休みなんで」
この店の店主であるマニーさんからの注意にも耳をかさず、手をひらひらと泳がせるのみ。
すると、1分もしないうちに新しいグラスが二つ眼前に置かれた。
右は私が頼んだズブロッカのお代わり。左は頼んだ覚えのないミネラルウォーター。
136
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:55:52 ID:VP0Da38U0
¥-∀・¥「せめて合間に飲んで。酔った女の子の相手はいいけど、アル中患者の相手は御免だから」
( 、 *川「………どうも」
以前、両親から口を出されて嫌な気分になった時もここに来たことを思い出す。
その時もこうして水を貰ったなと思いながら、苦笑いと共に差し出された気遣いを一口含む。
酒で火照った身体と脳の熱が、キンキンに冷えた水で中和されていくのを感じた。
少し冷えた頭でぼんやりと最近の日々を振り返る。
会社から、あの人から逃げた日から既に二週間以上の時間が経過していた。
最初の数日こそ楽しんでいた。
昼間に起き、化粧も碌にせずに近所をあてもなく散歩し、ずっと気になっていた店に入って食事を楽しむ。
特に理由も無く高いホテルに泊まったり、大浴場に浸かったり、プロのマッサージを受けたり。
多忙な日々の中、無駄に貯まっていた蓄えはまだまだある。しばらくは何も考えず、今までしたくても出来なかったことをしてみよう。
そう思い、色んな物を食べたり、色んな所を巡る悠々自適な甘い生活。
……まぁ、そんな夢に見た生活も僅か7日目で、見事に終わりを告げたのだが。
137
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:56:27 ID:VP0Da38U0
社会人になってからずっとやってみたいと思っていたことは、蓋を開けてみると僅か1週間で済んでしまうことだった。
私はこれほどまでに詰まらない人間だったのかと落胆すると同時に、無常にも襲ってくる不安感。
勢いで会社を辞めたが、これからはどうするのか。
貯蓄こそ確かに平均以上はあるだろうが、それでも一生分には到底満たない。なんとなくしていた投資や定期預金も、すぐに現金に変えられるものではない。
再就職はどこにするのか。いつするのか。その目途が立ってから辞めるべきだったのではないか。
家にいると、そんな考えばかりが埃のように湧いて出てくる一方であった。
かといって外に出る用事も大して思いつかない。家で出来る趣味を見つけようと思ってなんとなく買った最新ゲームも、操作が複雑すぎて想像していたほど楽しめなかった。
何をすればいいのかに対して答えは出せないどころか、何がしたいのかについても模範解答は出てこない。
ただただ家で、形容し難い将来への不安と過去への後悔が積もっていくのを眺める日々。
そんな毎日に嫌気がさし、こうしてデルタ君から以前紹介されたお気に入りのバーで一人寂しく酒をかっくらっている訳である。
138
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:57:01 ID:VP0Da38U0
(-、-*川「…あー、おいしくない……」
¥-∀-;¥「ならもう止めときなさい。はいお水二杯目」
(-、-*川「やだぁ、現実はもっとおいしくない……」
マニーさんからの注意も耳に入れず、ちびちびとだが確実に酒を減らしていく。
明日はどうしようか。次は日本酒でも飲みにいってみようか。
そんな詮無いことを考えていると、ふと、周りの喧騒に耳が向いた。
意識していた訳ではない。だが、なんとなく聞き慣れた単語が聞こえた気がしたのだ。
グラスから視線を外し、いつの間にか来ていた人たちの集団に目を向ける。
そこでは、私と大して年が変わらなさそうな人たちが、スーツ姿で騒いでいるのが見えた。
139
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 21:59:19 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・*)「でさ、けーっきょく俺の案が採用されたんだよ!あんだけ時間かけといてそれってマジ無駄じゃん!?頭悪いっつーかさー」
リハ*´∀`ノゝ「えーマジー?」
(・∀ ・*)「マジだって!つーか普通にやばいやつ?つーの?」
バーの中心にある大きなテーブルを囲むグループの中、一人の男性が大声で何かしら話しているのが分かる。
ちらりと目をやる。先ほどの声の主であろう男性と、その周りに数人の男女。誰もかれも、遠目からですら分かるような愛想笑いのオンパレードだ。
察するに、おそらくあの男性が彼らの上司か、同期の出世頭か、何かしら一番影響力がある人なのだろう。
ただ、全員相当酔っているのは事実らしい。
彼以外の人たちも相当大きな声で喋ったり、オーバーな身振り手振りをしている。今のところ注意をするレベルではないし、幸いか不幸か、今日は私以外にお客さんもいない。
気にせずこのまま飲もう。どうせならあまり味わったことのないものがいい。
そう思って眼下のメニューに目を滑らせる。そうだ、次はストリチナヤでも頼もうか。昔、20歳になりたての頃に一度だけ飲んだきりの筈だ。
凝りもせずまだまだ蒸留酒に凭れかかろうとしていた、ちょうどその時だった。
140
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:01:10 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・)「やっぱさ、全然大したことなかったわ!マジふっつーのボンボンだよ」
(・∀ ・)「――“盛岡デミタス”って奴はさ!」
( 、 *川
グラスを持つ手が、スルリと滑った。
氷がテーブルに転がる音でハッと我に返り、慌てて落ちた氷を拾う。
唐突に飛び込んできた名前に意識を奪われたのは刹那、既に液体は飲み干していたのが幸いした。
心配そうにこちらを見るマニーさんに「大丈夫」と小声で返し、水を啜りながら平常心を保とうとするも、聴覚だけが勝手にしっかりとあの社会人集団に向かってしまう。
何よりも私の興味を惹く名前。いや、耳が向かう理由はそれだけじゃない。よく聞くと、彼の声色にも覚えがある。
アルコールで侵され切っていない脳の部分を何とか起こし、必死に記憶の底を漁る。
思い出した。彼は確か、二ヶ月ほど前にうちに商談に来た、大手の通信会社の人だ。
確か名前は”斎藤またんき”。
141
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:01:43 ID:VP0Da38U0
うちに来た時の彼はあくまで補佐役で、実際には彼を連れてきた精悍な顔立ちをした”高岡”という男性が殆どのやり取りをしていた。
うちの社長相手に一歩も引かず話をする人間は、大手どころか省庁にも滅多にいない。
相当なやり手だと感心していたのだが、どうやらその付き人はそこまででもなかったらしい。
聞いてないフリをしながら水を飲む。というか、意識せずとも勝手に耳に入る声量だ。
話の内容は、酔った今の私でも容易に理解できるものだった。
要するに、彼は有名人である“盛岡デミタス”の讒言と、自分の虚栄心を満たすために喋っているらしい。
話の内容のどれもが、彼の上司の言動に脚色を加えたものばかり。
果てにはうちの社長をこき下ろすような発言もちらほら伺えた。
まぁ、社長が世間から嫌われているのは今に始まったことではない。
高校生の頃からクラスメイトにも先生たちにも煙たがられていたし、大学生になってすぐ起業してからも数多の人たちとコミュニケーション上のトラブルを引き起こしていた。
デルタ君と私がいなければ一体いくつもの民事訴訟を抱えていたのかは想像に難くない。
会社を大きくし、一躍時の人となった今でも、彼をよく知らない世間からの評判もこんなものだ。
やれ“詐欺師”だの、“親の七光り”だの、彼に対する悪口を挙げていけば枚挙に暇がない。
寧ろ彼に純度100%の好感を抱いている人の方こそいない。彼を好意的に捉える人など、それこそ鳥取砂丘から米粒を見つけるくらいには見つけられないだろう。
142
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:05:38 ID:VP0Da38U0
( ゚¥゚)「え、でもさ、実際あそこまで会社を大きくしたのってあの人なんだろ?この前テレビでやってた」
リハ´∀`ノゝ「確か私たちと年変わらないよね。やばいよね〜」
(・∀ ・)「いやいや、あれは間違いなく親からのお小遣いっしょ!あの社長って有名なトコの御曹司なの、知ってる!?」
こんな悪口、私にとっては浴び慣れたビル風のようなものだ。
実際に働く中ではもっと直接的な嫌味や誹謗を聞いたこともある。
それに比べればこんな酔っ払いの戯言など、いちいち目くじらを立てるまでもない。
<(' _'<人ノ「え、あれってマジなの〜?」
(・∀ ・)「そうそう!つーか実際話したけど、大したことなかったしな。敬語も碌に使えないの!ホントに大卒って思ったわ。でっけーガキって感じ」
凪いだ心持ちでマニーさんに追加の水を頼む。
そもそも、私はもうとっくに会社を辞めた身なのだ。
疾うに部外者である私が彼を注意する義務も責任もない。
143
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:06:19 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・)「どーせ大学もコネだよアレ。苦労とか努力とか、知らなそーなツラしてたし」
(・∀ ・)「時価総額だの個人資産だの、やっぱ嘘吐きは数字使うって本当なんだなって思ったわ」
寧ろ、良い気味だと嗤う権利すら私にはあるかもしれない。
散々こき使ってきた挙句、意味の分からない契約書のようなものまで持ち出してきたのだ。
そうだ、あんな人、そもそも皆から嫌われて正解なのだ。
他者を気遣わない。露骨に出来ない人を見下す。生まれた時から人が羨むものを全て持っていて、それなのに人に合わせようともせず周囲を振り回すだけ振り回す。
終には、自分は綺麗な女性と夜に仲良さげに話ながら、身近にいただけの女を都合よく利用してくる始末。いっそ、本当に地獄に落ちた方がちょうどいいくらいだろう。
(・∀ ・)「そもそも盛岡がやってることって、なんか目新しいとか斬新とか言われてるけど、どれもよく見ればなんかの焼き直しだぜ?社長っつーか、もう詐欺師だよ。さーぎーし!」
(・∀ ・)「商談の時もさぁ、なんか横にいた女に会話投げてたし、かっこわりぃっつーか……」
( 、 *川(……………)
144
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:10:41 ID:VP0Da38U0
あぁ、そうだ。まさにその通り。もっともっと言ってしまえ。
そこの調子に乗った青年よ。もっと吐き出せ。酒の勢いに身を任せろ。
私が言いたかったことを、世間が思っている妬み恨みをより代弁してみせろ。
グラスから口を離し、席を立つ。
なにが社長だ。なにが代表取締役だ。肩書こそ立派になったのだろうが、貴方の本質は変わらない。
意地悪で、プライドが高くて、不親切で、無愛想で、無神経。
( 、 *川「………」
世間からの悪評判も、彼を煙たげにする人達も、何も間違っちゃいない。
彼は最低だ。ひどい人だ。人間の風上にも置けないような、人の上に立っちゃいけないような人非人だ。
そんな人を。彼を。盛岡デミタスなんて人を、好意的に捉える物好きなどいる訳がない。
蓼食う虫も好き好きというが、あれは蓼なんて比喩では収まらない毒物だ。
そんな彼を好きになる人などいない。そんな感情、間違いだ。幻覚だ。気の迷いで、不正解。
仮にこれがテストなら、部分点すら与えられないほどの不出来。
どんなに控えめに採点しても、経済的視点という項目でせいぜい1点か2点貰えるかどうかが関の山。
だから、あの人の普段の行動にすら、そんな評価が妥当だとするのなら。
145
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 22:11:58 ID:VP0Da38U0
(・∀ ・;)「――――へ?」ビチャ
( 、 *川
私のこの行為も、きっと0点なのだろう。
(・∀ ・#)「は、はあぁ!?な…なにすんだよアンタ!?」
頭から水を滴らせた男性が、顔を真っ赤にしたまま私に叫ぶ。
私の右手に握られているのは、すっかり空になったグラスが一つ。
( 、 *川「………すみません。随分酔っぱらってらっしゃるようなので」
('、`*川「お水、少しは飲んだ方がいいですよ」
なんてことはない。
私はただ、騒ぐ彼の頭上で水の入ったグラスを一回転させただけである。
146
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 23:57:17 ID:VP0Da38U0
¥・∀・;¥「ちょっ…!?伊藤ちゃん!?」
マニーさんが慌ててカウンターから飛び出てくる。
まぁ、さっきまで大人しく一人で酒を呑んでいた女が、いきなり席を立って歩き出したかと思えば、何の躊躇もなく水を他の客にぶっかけたのだ。そりゃあこんな風に慌てもするだろう。
けれど不思議なことに、そんな彼とは対照的に私はひどく落ち着いていた。
(・∀ ・;#)「は、は!?うっわびっちょびちょ…!ふっざけんなよオイ!!」
('、`*川「さっきからずっとふざけていたのは其方ではありませんか」
(・∀ ・#)「あぁ!?なにスカしたツラしてんだ!?絶対弁償させてやっからな!言っとくけどな、このスーツはお前みたいな女には到底払えないような…」
('、`*川「斎藤またんきさん、でしたよね?どうも、お久しぶりです」
彼の本名を口にした瞬間、生まれたてのヒナみたいに囀っていた彼の口が止まる。
ウォッカのアルコールに浸された脳とは言え、別に過去の記憶が失われる訳ではない。
酒如きで飛ぶ記憶力なら、私はもう少し前向きな人間になっていた筈だ。
147
:
名無しさん
:2024/04/03(水) 23:59:18 ID:VP0Da38U0
('、`*川「二ヶ月と13日前はお世話になりました。私、盛岡デミタスの部下だった、伊藤ペニサスと申します」
(・∀ ・;)「……あ…アンタ、まさか……」
('、`*川「あぁそういえば、上司の高岡さんはお元気ですか?確かあの日は、お二人でいらっしゃったと記憶していますが」
(・∀ ・lii)サァー
私の追撃に、周りの人たちは戸惑い、彼の顔は青くなる。
よかった。どうやらこの人は口こそ悪いものの、どこぞの変人社長ほど記憶力が悪い訳ではないらしい。
あの日、二言三言しか口を開かなかった私のことも思い出してくれたようだった。
(; ゚¥゚)「…え、なに、このおねーさん、知り合い?」
(・∀ ・lii)「い、いや、まぁ、その」
(-、-*川「あぁ、そうそう」
('、`*川「不躾ながら貴方のお話が聞こえてしまったのですが、数点、誤解があるようでしたので訂正しておきます」
人の顔色というのは比喩ではなく本当にここまで変わるものなのかと、どこか他人事のように感心している自分がいた。
だがしかし、病人のような顔色になった青年に気を遣う気は一切湧いてこない。
どこか機械的な心持ちのまま記憶を辿り、埃のようにたまったモヤモヤの悪感情を敬語という名のオブラートにせっせと包むことにした。
148
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:01:16 ID:kBWnHJag0
('、`*川「一つ目。うちの盛岡は金銭の授受を親にねだったことは一度もありません。会社の運営はおろか、学生時代の学費すらも自身で工面していました」
紛うことなき事実である。
会社を立ち上げるにあたって、登記にかかる細かいお金から始まる全ての費用を彼は自分で工面していた。
奨学金を元手にすると言い始めた時は流石に眩暈がしたが、結局彼は今日にいたるまで一度も自らの家を頼ることはしなかった。
('、`*川「二つ目。盛岡はコネで大学に入ってはいません。高校時代は毎日こっそり使われてない教室の隅っこにギリギリまでいて勉強していました。国立はコネが通るほど甘い機関ではありません」
これも事実。
高校三年生の頃、変にプライドが高い彼は、他の生徒のように自習室に入り浸ることをしなかった。
かと言って家にも帰りたくなかった彼が選んだのが、別棟の奥にあった、使われてない教室である。
碌に掃除もされておらず只管に埃が積もる中、彼は黙々と過剰なまでの勉学に励んでいた。
149
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:03:06 ID:kBWnHJag0
確かに、彼は本当に嫌味なやつだ。
生まれは裕福で、才覚もある。私たちのような人間とはそもそも住む世界が違う。
性格はお世辞にも良いとはいえないし、いつまで経っても人の名前と顔を覚えようとはしない。
少しでも納得ができないことがあれば、相手が誰であろうが、ビジネスの場であろうが途端に暴走し始める。彼の特徴を羅列していけば、どうやったって批判の方は多くなるだろう。
それでも。
( 、 *川「最後の三つ目ですが」
それでも、最低でも、デリカシーがなくても、それでも。
眼前にいる人のように、あることないことを平気で口にする人なんかよりも。
いや、なんなら。
色んな言語を自在に操る、ふわりとした自慢の才女よりも。
大学在学中に司法試験に受かった優秀な後輩よりも。
どんな人とも円滑なコミュニケーションを送れる、凄くスマートな同僚よりも。
150
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:05:17 ID:kBWnHJag0
( 、 *川「うちの盛岡は、人並みの優しさなど持ち合わせてもいません。それは事実です」
( 、 *川「が」
ずっと見てきた。十年以上、誰よりもずっと近くで社長を、盛岡君を見てきた。
深夜になって従業員が全員帰った後でも、一人ぽつんと部屋に籠って仕事をする姿を見てきた。
手の打ちようがないと言われた案件も、どうにか結果を出そうと苦心しながら一人で抱え込む彼を見てきた。
( 、 *川「どんな困難な問題も自分の力で切り抜けます。例えそれがどんなに泥臭い方法でも」
( 、 *川「どれだけ世間から後ろ指を指されようと、自分で決めた道を振り返ることなく歩けるような人間です。」
それを、そんなに頑張ってきた人を。好きな人を。
( 、 *川「カッコ悪くなどありません。寧ろ、誰よりもずっと、ずっとずっと、カッコいい人です」
( 、 #川「……少なくとも」
下らない法螺話で人をこき下ろすような奴なんかに。
人の悪口を楽しそうに、嗤いながら話す奴なんかに。
こんな何も分かってない奴なんかに、馬鹿にされてなるものか。
( 、 #川「陰口で人を貶めた挙句」
( 、 #川「頭から無様に水をかけられた、どこかのお間抜けさんよりは、ずっと!!」
151
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:06:42 ID:kBWnHJag0
言い終わると同時に、周りが静かになった。
そう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。
顔を真っ赤にした斎藤さんに、胸倉を捕まれる。
何を言っているのか、アルコールに浸された頭では上手く理解できない。
まるで壊れたラジオみたいに不快な雑音が絶え間なく発信される。
ただ、私への非難であることだけは辛うじて分かった。
手が振り上げられる。
同時に、彼の後ろにいた人たちの顔が一変したのが見えた。
マニーさんの焦った声も聞こえる。勢いよく振り下ろされる腕が、何故かスローに映る。
周りが騒然とし、視覚から得られた情報を処理した脳が緊急事態であることを懸命に叫ぶ中。
私はただ、あぁ、殴られるのかと、どこか他人事のように思うだけだった。
152
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:07:53 ID:kBWnHJag0
( 、 *川(懐かしいな、なんか)
走馬灯みたいに過去の思い出が沸き上がる。
何が気に食わなかったのか、私に手を上げる父の姿。
それを止めることなく、気付いていないフリをしつつ家事に従じる母の背中。
庇うどころか、嘲るように嗤ってこちらをみる兄たちの顔。
何年経とうが、大人になろうが変わらない。
言わなくていいことを言って、人を不愉快にして、叩かれる。
身の丈に合わない努力をしたとて、大した成果は出せないまま空回りして終わる。それが私の人生だ。
そういう星の元に生まれたのだと、とっくの昔に諦めはついている。
だが、今の気持ちはいどうしてか幾分晴れやかだった。
なるほど。言いたいことを言うって、こんなにスッキリするものなのか。
今まで社長の悪口や陰口を言っていた人たちの気持ちがようやく分かった。
反省はない。後悔もない。
よく考えれば当然だ。好きな人の好きな部分を褒めて何が悪いのか。
好きな人を大した理由もなく貶されて、それを怒って何が悪いのか。
開き直りと言われればそれまで。ただ私の胸の中には不思議と不安も恐怖もなく、今まで感じたことのないような満足感だけが渦巻いていた。
腕が感情のまま私目掛けて下ろされる。
大した防御姿勢を取ることもないまま、風に凪ぐ波のような心持ちのまま。
私はただ、数秒後の衝撃に備えて慣れた様子で目を瞑った。
153
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:09:29 ID:kBWnHJag0
(´ _ゝ `)「僕、どっかのクソ生意気な後輩と違って法律には詳しくないんだけどさ」
(´ _ゝ `)「暴行罪って、未遂の処罰規定、あるんだっけ?」
予期していた衝撃は、いつまで経ってもこなかった。
そして、まるでその代わりだとでもいうように、予期していなかった声が聞こえた。
(´・_ゝ・`)「…まぁ、でも、多分、伊藤にも非はあるんだろうな」
(´・_ゝ・`)「相変わらず、優等生のフリして意味分かんないことするよなぁ、お前は」
恐る恐る目を開ける。天井の明かりが、誰かの背に隠れている。
一番会いたくなかった人が、呆れた目で私を見降ろしていた。
154
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:12:07 ID:kBWnHJag0
('、`;川「…………しゃ、ちょう?」
(´・_ゝ・`)「他の誰かに見えるのか、酔っ払い」
目をパチパチと瞬かせるも、眼前の景色はまるで変わらない。
もう十年以上毎日見ていて、ここ十数日一度も見ていなかった顔がそこにあった。
いつ入ってきたのか。いつから居たのか。
いや、そもそもどうしてここに来たのか。まさか、私を探しに来たのか。
無数の疑問符が脳内を踊り出す。だが、私の口から何か言葉が出るよりも、周囲が騒然となる方が早かった。
<(' _';<人ノ「えっ、盛岡デミタス!?本物!?」
リハ;´∀`ノゝ「うっわ…雑誌とかテレビで見るまんまじゃん、やば…!」
¥・∀・;¥「も、盛岡くん…!?」
(´・_ゝ・`)「やぁマニーさん、お久しぶりです、僕から奪ったテーブルたちを使って営む飲食業は順調ですか?」
¥・∀・;¥「あ、あぁ久しぶり…いや奪ってないよ!君が2年以上も買い渋ってたのが悪いんでしょ!?」
(´・_ゝ・`)「その2年にも渡る深慮を台無しにしたのが貴方だ。あぁ、もし経営が難しくなったすぐにご相談を。つい最近コンサル事業も立ち上げたばかりでしてね…」
¥・∀・;¥「えっまさかの営業トーク!?この状況で!?怖っ!!」
155
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:13:29 ID:kBWnHJag0
魂を抜かれたように呆けた私やざわざわとし始めた周りの人たちも気にせず、社長はマニーさん相手に笑顔で話を始めようとする。
この二人、面識あったのか。いや、そういえばここを教えてくれたのはデルタ君だ。そりゃあ繋がりがあって当然か。
当事者である私まで、呑気にそんなことを考える始末。だが、無論そんな歪な状況がいつまでも続くはずがない。
( ∀ #)「―――おいっ!!」
事実、社長の流れるような営業トークは、とある怒号によって中断された。
(・∀ ・#)「なに俺のこと無視して喋ってんだよ!!これが見えてねぇのか!!あぁ!?」
斎藤さんが自らの服を見せつけるように引っ張ってみせる。
シャツの袖や彼の前髪からは未だにポタポタと雫が零れているのが伺えた。
(・∀ ・#)「そこの女…おたくの社員がさぁ、いきなり水ぶっかけてきたんだよ!!」
(・∀ ・#)「部下の責任は上司の責任だよなぁ!!一体、どう落とし前つけてくれる――」
(´・_ゝ・`)「…えっ、まだいたのか君?」
まるで、下校チャイムがなったのにまだ校内にいる生徒を見つけた教師のような。
朝の登校中に見かけた猫が、その日の夕方の下校中にもいた時のような。
そんな、本当になんでもないことのような声色だった。
156
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:14:21 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;)「………は?」
(´・_ゝ・`)「普通、人を殴ろうとしていたところを見られたらすぐに謝るか、面倒ごとになる前にさっさと立ち去るものだと思うんだが…変わった人だな」
(´・_ゝ・`)「あぁ、まさか僕に何か用なのか?仕事の話ならちゃんとアポをとってから後日に頼む。僕には今から個人的かつ、とてもとても大事な用があるんだ」
至って平坦な音程の声が店に響く。
私とマニーさん、そして周りの人たちの顔はどんどん青白くなり、それらと反比例するみたいに斎藤さんの顔は更に赤くなる。
そんな中、社長の顔色だけは一切変化がないのが、殊の外奇妙に思えた。
(・∀ ・;#)「ふっ……ふっっざけんな!!」
予想通りの裂帛が沈黙を破った。
157
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:16:39 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「ざけんなよマジで!!ありえねぇ、ありえねぇ!!はぁ!!お、お前、おかしいだろオイ!!いきなり水ぶっかけて、そんで、そんで…はぁ!?」
(´・_ゝ・`)「初対面の人にお前って言うのも中々ありえないと思うが」
(・∀ ・#)「しょ、初対面だと…!?」
(´・_ゝ・`)「……あ、もしかして話したことあった?しまったな、やっぱりデルタも連れてくるべきだった。今のナシで」
今にも殴りかかってきそうなほどに興奮している彼とは対照的に、社長は心底面倒そうな表情を隠そうともしないまま頬をポリポリと掻くのみ。
相手の反応は当然である。私でも、あんな風に煽られたら正気を保てる自信はない。
(´・_ゝ・`)「しかしそうか…変な人じゃなくて、単に知能とプライドが釣り合ってないタイプか。本当、どこにでもいるなぁ君みたいなの。量産型か?」
(・∀ ・#)「う、訴える、訴える!!裁判だ裁判!!お前の会社ごと訴えてやる!!マジだぞ、マジでやってやる!!」
(´・_ゝ・`)「何を理由に訴えるんだ?」
間髪を入れない社長の言葉に、斎藤さんの勢いがほんの一瞬だけ止まる。
だが、すぐにまた彼は再び大声で怒鳴り始めた。
158
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:17:38 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・#)「だから…見て分かんねぇのか!?水かけられて、何十万もするブランド物のスーツもずぶ濡れだ!!どうしてくれるっていう話を…!」
(´・_ゝ・`)「いや、それそんな大した値段しないだろ。見れば分かる。そもそもかかったのって只の水だろう?」
(´・_ゝ・`)「仮に金銭で解決するとしても精々クリーニング代の数千円だ。それをどうして数十万なんて額に増やしたんだ?どういう計算なんだ?」
(・∀ ・#)「……ッ!あ、あれだ、損害賠償――」
(´・_ゝ・`)「それなら尚の事、今この場で主張して支払いを要求するものじゃないだろう。…まさか、それを踏まえた上で大声で“訴訟”と口にしたのか?脅迫や名誉棄損とかのリスクを考えず?社会人なのに?嘘だろ?」
何を言われても、社長の声のトーンは微塵も変化がみられない。
それは一企業の束ねる経営者の冷静な声というよりも、駄々をこねる幼稚園児を諭すような、そんな声色をしていた。
159
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:18:23 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「じゃ、じゃあ、いきなりその女が俺に喧嘩売ってきたのは、どう言い訳すんだよ!?あぁ!?」
(・∀ ・;#)「な、なぁお前ら!!見てたよな!?なぁ!!」
怒号と共に後ろを振り向き、一緒に来ていた人たちを睨みつける。
いきなり話を振られた彼らはオロオロとしながらも、首を縦に振ろうとする者は一人もいなかった。
(´・_ゝ・`)「…あぁ君たち、無理に話合わせなくていいよ。正直、ここに居るのもしんどいでしょ」
(´・_ゝ・`)「大丈夫。そのあたりは、店にあるカメラ見せてもらえばいい話だから」
さらっと言った社長の言葉を聞いて、斎藤さんは汗を浮かべてままマニーさんの方を見た。
¥・∀・;¥「……え、カメラあるって教えたことあるっけ?」
(´・_ゝ・`)「入口と、カウンターの奥に見つけ辛いけどあるでしょ。あれ、昔うちでも導入してたことあるんだ。映像だけじゃなくて音声も拾ってくれるヤツ。レンタル料高くてすぐ外したけど」
(´・_ゝ・`)「ある程度余裕がある個人の飲食経営者が、カメラの一つや二つ、店に置いてない方がおかしいでしょ。必要になったら後で見せてくれ」
¥・∀・;¥「全部バレてる!?会社経営者って皆こんななの!?怖っ!出禁!!」
世間話をする時のノリで話す二人と、さっきまでの勢いがすっかり無くなってしまった斎藤さんという構図が、いやにアンバランスに視界に映る。
また二言三言会話をした後、「あ、そうだ」と思い出したように社長は私の方を向いた。
160
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:19:41 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「…で、なんでお前は水なんてかけたんだ」
( 、 ;川「……っ」
何を考えているのか分からない双眸が、真直ぐにこちらを射抜いた。
気が抜けていた私は即妙に返事をすることが出来ず、口を真一文字に閉じながら目を逸らす。
意地を張った訳ではない。純粋に、どう答えていいか分からなかったのだ。
いきなり会社を辞め、暴言を吐いて逃げた元部下がどの口で「貴方の悪口を言われたから」などとほざくのか。
(´・_ゝ・`)「だんまりか。まぁ、ある程度は予測がつくが」
(´・_ゝ・`)「…さて、君の望む通りに事を進めたら君が不利になりそうだけど、どうする?まだやる?」
( ∀ ;#)「……ッ」
一瞬だけ呆れたような目をした後、私から斎藤さんへと視線が移される。
斎藤さんの後ろでは既に同僚らしき人たちは気まずさを通りこしてやや苛々しているようにも見える。
知り合いたちの前で水をかけられ、挙句に先ほどまでこき下ろしていた本人にここまで理屈詰めされては立つ瀬がないだろう。ほんの少しだが同情する。
161
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:21:52 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「君が失礼をした。それに対して伊藤も失礼をした。それであいこだ。それなのに、君は相場以上の見返りが自分に来ることを期待してる。仮に上手くいったとしたって、別に君自身の人生が劇的に変わる訳でも、救われる訳でもないのに」
(´・_ゝ・`)「君さぁ、もう二十代後半とか、それなりの年齢だろ?それなりに生きてるだろ?なのに何故こんな詰まらないことに拘るんだ?何の根拠もない他人の悪口を外で言うなんて、ダメなことだって知らないのか?」
(´・_ゝ・`)「教えてくれる人がいなかったのか、それを理解できない頭を持って生まれたのか、どちらにせよ可哀そうだな」
(´・_ゝ・`)「…僕も伊藤に会うまでは、周りから君みたいに見られてたのか。なるほど、ぞっとする」
社長の視線は既に私にはない。ここからでは彼の目の色は伺えないし顔も見れない。
それでも、只の声色だけで十分なくらい、彼の声には気の毒なまでの憐憫の情が含まれているのが分かる。
彼は挑発で言っている訳でも、ましてや真っ青な顔をしている男性を馬鹿にしている訳でもない。
本当に心から、”救えない”と、”どうでもいい”と思っているのだ。いっそただ馬鹿にされた方が、素直に見下された方が斎藤さんにとってはよっぽど楽だったろうに。
162
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:22:19 ID:kBWnHJag0
(・∀ ・;#)「ば、馬鹿にしてんのか!?お、お前、いい加減に――!!」
(´ _ゝ `)「いい加減にするのはそっちだろう」
声の温度が一気に低くなった。
同時に、ずっと前のめりだった斎藤さんがほんの少しだけ後ずさる。
バーの中は外と違って暖かく、適切な温度に保たれている。それは社長がやってきた前と今とで変わりはない筈なのに。
社長の声のトーンが一変したと同時に、空調全てが壊れたのではないかと錯覚するほどに。
それほどに底冷えする空気が一気に部屋の中を満たしていった。
(´ _ゝ `)「僕はな、これから恐ろしく難しい交渉に臨むんだ。今までやった、国や政治家、大手企業の役員共を相手にした商談が、飯事に思えるくらいの交渉だ」
(´ _ゝ `)「なにせ相手が相手だ。この僕…あらゆる才能や環境に恵まれた僕ですら一度も勝てない相手。もちろん、相応の準備も、覚悟もしてここに来た」
(´ _ゝ `)「それを、自分にも非があるような詰まらないことで、やれ謝罪だの訴訟だのほざく蒙昧に邪魔された僕の気持ちが分かるか?なぁ?」
心臓がキュっとなるような低い声。少なくとも、私には今まで一度たりとも向けられたことのないタイプの怒り。
社長が一歩踏み出す。それに応じて斎藤さんは後ろに退く。
斎藤さんの口は開いたまま、そこからは言語化された声など一切発される様子はない。
163
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:23:10 ID:kBWnHJag0
(´ _ゝ `)「…隠し通すつもりだったけどな、結構いま、怒ってるんだ、僕は」
(´ _ゝ `)「お前みたいな取るに足らない凡百が、僕が決めた予定を邪魔した。それだけならまだいい。今の僕なら笑って水に流せる」
(´ _ゝ `)「…でもお前、なんで伊藤に強く出たんだ?伊藤には暴力を振るおうとしてたのに、僕には口だけで、何もしようとしないよな?なんでだ?」
(´ _ゝ `)「まさかとは思うが、こいつを下に見てたりしないよな?この僕ですら一度も勝てないこいつを、僕ですら百点取れなかったテストで百点が取れるこいつを、お前如きが?なぁ?」
(・∀ ・ill)「い、いや……そ、そ、その、ちが」
(´ _ゝ `)「違うのか?違うなら何だ?どういう理由で、どういう了見でこいつを殴ろうとしたんだ?お前は、こいつに暴力を振るえる理由か立場があるのか?こいつの何を知ってるんだ?」
( ∀ ill)「……す、みま、せん、その、ちょっと、まちが、ったっていうか、その」
(´ _ゝ `)「”間違った”?」
低音が響くと同時に、店内にいる人間が全員肩を震わせた。
164
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:24:19 ID:kBWnHJag0
誰でも分かる。今に至るまでに斎藤さんが口にした言葉の中で、それは間違いなく一番の失言だった。
彼の口から訂正や謝罪の言葉は出ず、ただただ恐怖の息が漏れるのみ。
社長に守られている立場の私ですら、今すぐここから逃げ出したいと願ってしまうほどのプレッシャー。
(´・_ゝ・`)「伊藤、こいつはどこの誰だ」
('、`;川「えっ…?」
こちらに振り向かれることはなく、怒りの滲んだ声だけがかけられる。
いきなりの呼び声に上手く反応できないでいると、社長は苛立ちを隠そうともしないまま話を続けた。
(´・_ゝ・`)「こいつ、僕と会ったことがあるってことは、うちと何か関係のある会社の人間なんだろう」
(´・_ゝ・`)「”間違え”でお前を…うちの社員を殴ろうとするような奴がいるトコとなんて取引できるか。どんなメリットがあっても願い下げだ。」
(´・_ゝ・`)「お前、覚えてるんだろ。こいつは誰だ、言え」
165
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:24:51 ID:kBWnHJag0
暖房が効いている筈の部屋の中だというのに、一滴の冷や汗が首筋を流れた。
もはや斎藤さんの顔色は悪いとか青いを通り越して、雪を思わせるように白い。
死刑宣告を裁判官から言い渡された被告人のような、人生の崖際に立たされたような、恐ろしく気の毒な表情をしている。
どうしよう。どうすればいいのか。
どうするのが正解なのか、何がこの場の模範解答なのか、どうすれば100点なのか。
私が彼のことを覚えているのは、もう彼らに知られている。さっき私は斎藤さんの名前を口に出し、更に言えば、彼がうちに来た時の話まである程度鮮明に喋ってしまった。
(´・_ゝ・`)「おい、どうした。何を黙ってる」
考えがまだ纏まっていないところに促しの声をかけられる。
ちらりと社長の向こう側を見る。斎藤さんは、今にも泣きそうな顔をして下を向いている。
166
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:25:27 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川(……”知らない”って、言ってしまえば…)
口を開こうとして、そのまま何も発さずに閉じ、心の中で首を横に振る。
社長のことだ。私がここでその場しのぎの嘘を吐いたところで、彼はきっと今日のうちにも斎藤さんのことを調べ上げるに違いない。
そして、斎藤さんを原因として彼がいた会社を非難し、契約を切る。そうなれば、斎藤さんが置かれる立場や受ける叱責は想像に難くない。
社長が生半可な処置で終わらせる訳がない。
ただ自分を馬鹿にされただけなら笑って終わらせるだろうが、その矛先が自分の会社や従業員に向かうとなれば話は別だ。
不確定要素が詰まった不安の種を、彼が摘まない訳がない。徹底的に、根も種も、なんなら土ごと掘り返す。そういう人だ。
正直に言ってしまおうか。焦りにまみれた思考の中で、そんな考えがじわじわと浮かんできた。
どうせ結末は変わらない。早いか遅いか、私がこの場で真実を告げることで変わるのはそのくらいだ。
それに、社長の言い分だって一理ある。
斎藤さんは事実無根の噂や讒言を口にしていたのは本当のことだ。例えそれが、お世辞にも広いとはいえない個人経営のバーの中でも。
けれど、彼だけが悪い訳じゃない。私だって、ただ注意すれば良かったのに酒の酔いに任せて頭から水をかけるなんて暴挙に出たのだ。
しかし、彼はその後、私に暴力を振るおうとした。
でもそれは私が余計なことを言ったからであって。
167
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:26:19 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「さっさとしろ。早く言え」
('、`;川「い、いや、わたし、は……」
ぐるぐると思考が回る。
理想的な答えを探そうと脳を動かしても、結局は同じ所に辿り着いてしまう。
答えが見えない。分からない。
私はどうしたいのか。この状況が、どうなればいいのか。
私は、私はただ。
社長の悪口を聞きたくなくて、それを訂正して欲しくて。
水をかけたことはやりすぎだったから、それは謝りたくて。
殴られそうになったのは、本当は凄く、凄く怖くて。
社長が来てくれたのが嬉しくて。
私が傷付けられそうになったことに怒ってくれているのも嬉しくて。でもそれを喜んでいる自分が女々しくて嫌で。
何よりも。
何よりも、本当は、私は、社長が。
盛岡くんが怒っている姿を見たくなくて。
168
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:26:55 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川「……覚えてません」
口から無意識に漏れた答えは、あまりにも浅慮なものだった。
私の呟きを聞いて、盛岡くんはじろりとこちらを見下ろす。
何も追加の言葉が言えないまま、私はただ黙って地面を見ていた。
(´・_ゝ・`)「…お人よしもそこまでいけば、もはや天然記念物だな」
(´・_ゝ・`)「こんなのを庇って何になる?将来的にうちの会社にも、他の数多の人間にも迷惑をかける可能性が高い人間だ。守る必要性がどこにある?」
(´・_ゝ・`)「どうせ社会的にも求められてないこんなのを放っておく方が、よっぽどだろう?」
溜息交じりの注意が遥か頭上から浴びせられる。
私はただじっと、両手の拳を握ったまま震えている。
169
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:28:33 ID:kBWnHJag0
( 、 ;川「……知りません、私には、分かりません。覚えて、ません」
答えは変わらない。
情けなく震えた声を隠す余裕もないまま、されど答えは変えたくない。
盛岡くんの気持ちは分かるし、その理屈も理解できる。
だけど、理解は出来ても、納得が出来ないことがあるのだ。
(#´・_ゝ・`)「おい、いい加減にーー」
( 、 #川「……………さい」
(´・_ゝ・`)「…は?今なんて――」
('、`#川「うるっっさいわね!!覚えてないっつってんでしょ!!」
もはや、今日何度目の怒号なのか分からない大声がバーに木霊した。
叫んだのは、震えながら立っている斎藤さんでも、苛立っている盛岡くんでも、ましてや店主であるマニーさんでもない。
どこか吹っ切れたような大声の主は、他ならぬ、この私であった。
170
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:29:21 ID:kBWnHJag0
(;´・_ゝ・`)「い、伊藤……?」
('、`#川「何よ!もっともらしい理由つけて、上から睨んで!今更君なんか怖くないわよ!」
('、`#川「……そもそも、もう君の部下じゃないから君の言うことなんて聞く義理ないし!!何が会社のためよ!!私、関係ないもん!!無職舐めんな!!!」
数週間前のように、ふたたび盛岡くんを怒鳴りつける。
なんだかデジャブを感じるが、そんな違和感はこの際どうでもいい。
そうだ。私はもう彼の部下でも何でもない。会社のことなど知ったことではない。
今更私に失うものなんて何もないのだ。というか、一度啖呵を切った身なのだ。
それならば思う存分、好き勝手言ってやろうじゃないか。
171
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:30:25 ID:kBWnHJag0
('、`#川「結局、君もこの人とやってることは変わらないじゃない!自分の気に入らないことをしたから、相手の立場とか、自分の持ってる力とかを利用して、陥れて、スッキリしたいだけじゃない!」
('、`#川「何が会社のためよ!!社員のためよ!!一々綺麗な言葉で取り繕うな!!君の意地悪に、私を利用しようとしないでよ!!」
溢れそうになる感情を必死に言語化していく。
そうだ。私は別に、あの人に怒ってなどいない。
盛岡くんに裁いてもらおうとも思っていない。そもそも、彼がどうなろうが心底どうでもいい。
私はただ、盛岡くんがまた酷いことをしているという事実が嫌なのだ。
彼が誰かを傷つけようとしている景色が、心から腹立たしいのだ。
そして何より、その原因が他ならぬ私にあることが、どうにも我慢ならないのだ。
172
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:31:13 ID:kBWnHJag0
('、`#川「何度でも言ってやるわよ!私は、その人のことなんて知らない!会ってたとしても、顔も名前も覚えてない!」
('、`#川「疑うなら疑えば!?嘘だと思うなら後で気のすむまで調べればいい!!」
嘘なんていくらでも吐いてやる。それが、どれだけ脆い嘘だったとしても。
私が好きなのは、どんな難しい問題にも立ち向かう人だ。
あの手この手で結果を出して、誰にもバレないように研鑽を積んで、その苦労は誰にも見せないように強がる人だ。
だから手伝ってきた。力を貸してきた。
こんな中途半端な才能でも、身の丈に合わない記憶力でも、貴方が歩く道を少しでも舗装出来るならと答えてきた。
それを、それを今更なんだ。何を恰好悪いことをしているのか。
私は。
('、`#川「今の君なんかに、誰かに嫌な事をする気の人なんかに、私の記憶は教えない!!」
そんな目をして誰かの嫌がることをする人の手伝いをした覚えなど、一秒もない。
173
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:32:30 ID:kBWnHJag0
言いたいことは言い切った。
というか、これ以上胸中に沸く感情を言語化できそうになかった。
熱暴走してキーボードが反応しなくなったパソコンよろしく、私は激しく動かしていた口を止める。
しばらく沈黙が流れた。
盛岡くんは数秒、ただ何も言わずに私をじっと見ていた。
呆れたような、驚いたような、なんとも分からない瞳の色。
何を言われるのだろうか。まだ、彼の気は変わらないのだろうか。私の言葉は、想いは伝わらなかったのだろうか。
恐る恐る、彼の顔を覗き見る。そして目が合う。
すると、彼は顔を天井に上げ、長い長い溜息を吐いた。
(´-_ゝ-`)「……………そうか」
ボソリと、何かを諦めたみたいな呟きが零れた。
どうしたのかと私が疑問に思うより先に、彼はゴソゴソとコートのポケットを探る。
ポケットから出ていた彼の手には、数回しか見たことのない財布が握られていた。
確か、彼が車の中に常備しているサブの財布の一つだ。
財布を開いた盛岡くんが小さく「おい」と呟く。
私にではない。もはや小動物のように縮こまってしまっている斎藤さんに向けての呼び声だった。
174
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:33:02 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「これで、君が言うクリーニング代と、迷惑料にあたる不法行為に基づく損害賠償ってことで、いいか?」
「天は人の上に人を作らず」とかなんとか宣った有名人が描かれた紙幣が無造作にテーブルに置かれる。
遠目から伺う限りでもその数はおそらく10を軽く超えているように見えた。
(・∀ ・;)「えっ……?い、いや、その…」
(´・_ゝ・`)「よく考えれば、水をかけるというのも広義的には暴行と捉えられるかもしれない。それにまぁ、僕の先ほどの発言も脅しと言われれば否定は出来ない」
(・∀ ・;)「い、い、いいですいいです!!こんな大金…!」
(´・_ゝ・`)「いらないなら店に置いていけ。君がここに居る全員の飲み代と迷惑料を払ったという体にしたらいい。もう面倒だから、僕としてはこれで何もかも手打ちにしたい」
そう言いながら、盛岡くんはちらりとこちらを見た。
まるで「これでいいんだろう」と聞いてくるような視線だった。
175
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:33:39 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「これで君の矜持が満たされるかは知らないが、まだダメなら後日改めて訴訟でも何でもするといい。正直、僕は君の憤懣も目的も、どうでもいい」
( ∀ ill)「あ、あの、ほ、本当に、すみませ……」
(´・_ゝ・`)「謝罪に興味はないからもう黙っててくれ。どうせ明日の僕は君の顔も声も覚えちゃいない」
うわ、また余計なことを言ってやがる。減点だ。
変わらず失礼な言動をする彼にヒヤリとしながらも、私のほっと胸を撫で下ろしていた。
どうやら、大事にする気はすっかり彼の中から無くなったらしい。
斎藤さんはしきりにずっと頭を下げている。彼の同僚らしき人達は、心底ほっとした表情を浮かべていた。
とんでもない事になるかもしれないと恐れていたが、どうやらその心配は杞憂に終わりそうだった。
これで一安心。何事もなく店を出れる。
気を抜いた、その一瞬に。
176
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:34:32 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「僕の興味は」
('、`*川「へ」
突然、無遠慮に、腕をがしっと掴まれた。
(´・_ゝ・`)「最初からこいつだけだ」
('、`;川「えっ?えっ?」
私ではいくら鍛えたって出せそうにない力が腕に込められる。
痛くはないが、抜けられない、そんな絶妙な力加減。
(´・_ゝ・`)「じゃあマニーさん、お邪魔しました。本当はテーブルも貰いたかったけど欲張りはいけないのでね。今日は本命だけで良しとします」
('、`;川「な、なに!?何よ!?」
¥・∀・;¥「えっ?あ、あぁ、お、お気を付けて…?」
(´・_ゝ・`)「そこのテーブルの上の諭吉は好きなだけ取って下さい。万が一足りなかったり、テーブルに飽きが来たらすぐにご連絡を。それでは」
私の叫び声も、頭を下げたままの斎藤さんも、呆気にとられたままのマニーさんも放ってずんずんとドアに向かっていく。
言いたいことを言うだけ言って、周りへのフォローも後片付けもせずに去る様はまさに嵐のようであった。
177
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:35:36 ID:kBWnHJag0
足早にバーを出ると、冬の夜特有の寒風が頬に当たった。
緊張とアルコールで火照った今の頬には丁度良く、気持ちが良い。
…と、いつもならそう思いながら呑気に駅まで歩いていただろうが、今回は違った。
('、`;川「ちょ、ちょっと!離してよ!」
(´・_ゝ・`)「ダメだ。逃げるだろ」
空いている方の手でペシペシと抗議するも、彼の歩みは止まる様子はない。
店の前には、明らかに道交法を無視した止め方がなされている車があった。
夜の街灯を反射しながら主を待っていたそれは、紛れもなく盛岡くんの愛車である。
('、`;川「い、いいよ!私、一人で歩いて帰るから…!」
(´・_ゝ・`)「勘違いするな。帰らせるつもりはない」
え、と思った瞬間にようやく腕が解かれる。
車の前で立ち止まった彼は、少しぎこちないスピードで私の方に向き直った。
178
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:36:13 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「…どうせ、明日も用事なんてないだろ。なら、少しだけ僕に付き合ってくれないか。話があるんだ」
(´・_ゝ・`)「行く場所も、ここからそんなに遠くはない。少なくとも、日付は変わる程にはかからない筈だ」
最低限の夜を照らす傍光が彼の整った横顔を照らす。
こうなるのが嫌だから、隙を見てこっそり帰ろうとしていたのに。
舌打ちは心の中にどうにかとどめ、どう返事をしようか考える。
確かに、特に用事はない。明日だって昼過ぎまで寝て、また何処か適当な店にお酒を呑みに行こうと思っていた。
勢いで無職になった女の用事など、そんなものである。
179
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:37:02 ID:kBWnHJag0
('、`;川「…い、いきなり言われても……」
ただ、”予定がない”と一様に断じられるのも少し気分が悪い。
無職になった今の私に張る見栄など微塵もないが、このまま彼と話をしたくないというのも本音だ。
いきなり激情のまま怒りをぶつけた上に、勢いで退職願までぶん投げてきたのだ。それなのに二人きりで話など、気まずいことこの上ない。
どこか怯えたような彼の瞳にどう答えようか迷っていると、
(´ _ゝ `)「………頼む」
彼は遠慮がちに頭を下げた。
('、`;川「えっ…!?ちょ、ちょっと!?」
頭を下げる。別に、人が人にお願いをする時の普遍的な行動だ。
それでも、私は時間帯も気にせず間抜けな声を上げてしまった。
私の記憶には、盛岡デミタスが人に頭を下げるシーンなど、仕事の場ですら見たことがなかったからである。
180
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:38:11 ID:kBWnHJag0
(´・_ゝ・`)「前の、婚約云々についてのことはその…全面的に僕が悪かった、と思う。すまなかった」
“すまなかった“なんて、ありきたりである筈の言葉が延々と脳内に響く。
控えめではあるものの、車の前で頭を下げたままの彼の姿から目が離せない。
“何に謝っているのか”、”謝るなんてことが出来たのか”、なんて失礼な考えまで浮かんでしまう。
(´・_ゝ・`)「ただ、その……情けないことに、僕はまだ、お前が怒った理由が分からない」
(´・_ゝ・`)「僕なりにずっと考えてはみたが、お前があの時、どうしてあんなに怒ったのか、僕の元から去ったのか、結局今日まで分からなかった」
(´・_ゝ・`)「だから一度、ちゃんとお前と話したい。……僕は…その、なんというか……」
顔が上がった。
端正な瞳が忙しなく左右に動いている。時々私を捉えては、すぐにまた違う方向を見て、また私を中心として捉えに戻る。その繰り返し。
そんな彼の目とは対照的に、ピタリと言葉は止まった、
181
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:39:15 ID:kBWnHJag0
何が言いたいのだろう。何を言うつもりなのだろう。いつもなら、どんな難しい商談の時でも、誰が相手の時でも淀みなく流暢に話すのに。
寒空の下、私から何か促すのはどうしてか少し違う気がして、只じっと彼の次の言葉を待つ。
数秒の沈黙の後、彼はまるで言いたくないことを仕方なく言うかのように、漫然と唇を動かした。
(´ _ゝ `)「………お前だけには、嫌われたくないんだ」
それは、ひどく弱々しい呟きだった。
私よりずっと背の高い筈の彼が、いつも自信満々でそれに見合う能力のある彼が、今だけはひどく幼い子どものようにも見える。
既に日は落ちきり、周りには人も居らず、冬特有のしんとした静けさだけが空間に満ちている。
こんな状況でなければ、満足に聞き取れもしなかったであろう声。
私の記憶にない程に縮こまった彼を前に、私は一切の語彙を失っていた。
なんと言えばいいのか分からない。どう反応していいのか皆目見当もつかない。
182
:
名無しさん
:2024/04/04(木) 00:40:34 ID:kBWnHJag0
“私にだけは嫌われたくない”という言葉に、喜んでいいのか。
未だ私が怒った理由が分からないという彼に、怒ればいいのか。
とにかく何か言わなければ。このまま黙ってこんな所にいても仕方ない。
ただ、依然として気の利いた言葉は出てこない。
口を無理やり動かそうにも、そこから漏れるのは只の空気の塊と化した単語のなりそこないだけ。
なんと言っていいか分からなくて、けれど、もしこのまま私が帰ったらもう、二度と彼と話せない気がして。
( 、 *川「……あんまり、遅くならないなら」
なんて。
私の口から零れたのは、なんとも面白みのない返事だった。
盛岡くんの顔が少し明るくなる。
そんな彼の様子にちょっと浮かれそうになりつつも、顔を逸らしてなんとか気が付かれないようにする。
無言のまま車に乗り込む。仕事でもプライベートでも、何度も乗った彼の車。
普通の車より大きくて、広々とした車内空間がウリな筈なのに。
どうしてか今日だけは、隣の運転席がひどく近くに思えた。
183
:
名無しさん
:2024/04/06(土) 13:38:34 ID:12yTjduw0
おつです
固唾を呑んで見守っています
184
:
名無しさん
:2024/04/06(土) 16:47:28 ID:0nitWrEg0
乙
185
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:58:15 ID:LBBiok2U0
*
車の中でも、降りてからも、私たちはお互いに無言だった。
話したくない訳じゃない、と思う。少なくとも私は、彼に聞きたいことが山ほどある。
けれど、心の中とは裏腹に、どうにも言葉は出てこなかった。
車での移動中、彼はじっと黙ったまま前を見て運転するばかり。私もまた、黙って窓から景色を手持ち無沙汰に眺めるばかり。
そんな気まずい空気を破ったのは、「着いたぞ」という彼の呟きだった。
適当な場所に停まった車から降り、スタスタと歩く彼の後ろを追う。
彼は脚が無駄に長いし体力もあるから、数分も歩けば、自然と私が彼を追いかける形になるのが昔からのお決まりだった。
でも、今日はいつもほどの速さじゃない。色々あって疲れた今の私でも難なくついていくことが出来ている。
186
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:59:15 ID:LAgS5lhk0
ktkr
187
:
名無しさん
:2024/12/31(火) 23:59:49 ID:LBBiok2U0
('、`;川「……えっ?ちょ、ちょっと!?」
ふと、自分たちが今歩いている場所に気付き、反射的な声を上げてしまう。
酒に酔い、暗い周囲の状況も相まって気付くのが遅れてしまった。
前を歩く盛岡くんが入ろうとしているのは、この街を代表する遊園地であった。
(‘、`;川「どこ入ろうとしてるの!?勝手に入ったら…!」
(´・_ゝ・`)「大丈夫だ。許可はとってる筈だから」
やっと口を開いたかと思えば、盛岡くんの口から出てきた言葉はまたしても要領を得ないものだった。
私の呼びかけにもまともに応じず、彼は堂々と園内に入る。
慌てて彼の後ろに続いて私も入園したがいいが、周りの街灯や建造物は一切灯りがついていない。
強いていうなら、所々にポツンと置かれている自動販売機たちが唯一の光源だった。
('、`;川(大丈夫には見えないって!)
口には出さないまま心中で文句を垂れつつ、置いていかれまいと懸命に彼を追いかける。
このままでいいのか。不法侵入ではないのか。やっぱり今すぐにでも彼を連れて引き返すべきでは。
だが、私がそう言ったところで今の彼が素直に従うだろうか。そもそも、彼は私に何の話をするつもりなのか。
一貫性のない考えを巡らせていると、ぽんと何かにぶつかった。
僅かな痛みに額をさすりながら前を向く。どうやら、私は急に立ち止まった盛岡くんの背中にぶつかったらしい。
188
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:02:12 ID:TcObiKy60
「突然止まらないでよ」。そう言おうとした私の口からは結局何の声も出なかった。
急に酔いが回って気分が悪くなったからではない。無論、盛岡くんの意味不明な言動に怒りが突如沸いたからでもない。
立ち止まった私と盛岡くんの眼前には、未だ煌々と光る観覧車が聳え立っていたからである。
('、`;川「えっ…!?な、なんで……」
この遊園地の閉園時間は遥か昔に一度調べたことがある。
確か、冬の時期はどんなに遅くても20時には閉まる筈。
そして現在の時刻は今更調べるまでもない。そろそろ日付が変わるかどうかというところ。
事実、ここに至るまでの園内の施設は一つの例外もなく閉まっていた。
…にもかかわらず、観覧車だけは眩いほどに輝いている。
何度瞬きをしてもその光景は変わらないことから、見間違いでもなければ酔っ払いの幻覚でもなさそうだ。
(´・_ゝ・`)「よかった、ちゃんと用意してくれてたな」
私とは違って然程驚いたような様子も見せず、彼は迷いなく観覧車の方へと歩を進める。
観覧車の下、受付らしき場所には従業員と思われる方が一人。
まさか、こんな時間でも本当に観覧車だけ動いているのか。
189
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:04:19 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「すいません。連絡した盛岡です」
( ´∀`)「うん…?あ、どうもどうも。お待ちしてましたモナ」
温厚そうな男性はペコリとこちらに一礼すると、通常業務だと言わんばかりに私たちを通した。
困惑したままの私を放って、盛岡くんは従業員の男性と共に前へと遠慮なしに歩いていく。
「一体どういうつもりなのか」と口を開こうとするより先に、彼は観覧車のゴンドラ乗り場の前に辿り着く。
そして、彼はゆっくりと私の方を振り向いた。
(´・_ゝ・`)「ほら」
('、`;川「…?」
(´・_ゝ・`)「何色がいいんだ、好きなの選べ」
('、`;川「えっ…?す、好きなのって…」
190
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:06:15 ID:TcObiKy60
「急に選べと言われても」と心中で毒づきつつ、慌てて上空を回る観覧車に目を凝らす。
青や赤、緑に黄色、よく見れば少し淡いライトブルーやお洒落な紫といった色のゴンドラまである。
昔、高校の頃に修学旅行で訪れた遊園地の観覧車を思い出す。
あそこの観覧車も中々壮大ではあったが、ここまでカラフルではなかったし大きくもなかった。
あの日は確か、そうだ。
集合時刻が迫っていたせいで乗れなくて、盛岡くんと一緒に慌てて集合場所まで走って。
それと確か、観覧車を見ている時に、白い雪が降ってきて――。
('、`*川「……あ」
ふと、一台のゴンドラが目に留まった。
他のカラフルなゴンドラとは違い、あの日を思い出させるような、真っ白で綺麗なゴンドラ。
素早く観覧車全体を俯瞰するように眺めても他に白のゴンドラは見つからない。
あれだけはなにか、特別な一台なのだろうか。普段なら特別料金を要求するような、そういうタイプの物だろうか。
不思議な気分のまま、私はじっとこちらにゆっくり降りてくる白のゴンドラを見つめる。
周囲の光を眩く反射するそれは、私の目には一際魅力的に見えた。
191
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:08:04 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「……よし。じゃ、あの白いのでお願いします」
( ´∀`)「畏まりましたモナ。どうぞー」
('、`*川「ちょ、ちょっと!私はまだ何も…!」
(´・_ゝ・`)「さっさと乗れ。この寒い中、また一周待つのは御免だ」
にこやかに手早く開かれたゴンドラの扉に向けてグイグイと背中を押される。
従業員さんの柔和な笑みと盛岡くんからの物理的な圧に負け、抵抗も空しく、私は容易くゴンドラの中へと押し込まれてしまった。
(´・_ゝ・`)「よいしょ…うわ、見た目より狭いな」
( ´∀`)「いってらっしゃいませモナ〜!」
狭い室内で体勢を立て直しているうちに後方からガチャという音がする。
振り向くと既に扉は閉まっており、ゴンドラはゆっくりと地上から離れようとしているところであった。
192
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:10:00 ID:TcObiKy60
('、`;川「えっ!?ほ、本当に乗るの!?何これ、どういうこと!?」
(;´・_ゝ・`)「ちょ…暴れるな。さっさと座れ、危ないだろ」
半ばパニック状態の私に、冷や水のような正論がかかる。
さっきから何なんだこの人は。
いきなり人を車に乗せてどこへ行くのかと思えば、とっくに閉園時間は過ぎている筈の遊園地に連れ込んで。
挙句の果てに既に営業は終わっている筈の観覧車に連れてきて、「さっさと乗れ」だのなんだのと。
彼が突飛なことをするのを見るのは別に珍しいことじゃない。その対象が私であることも含めて。
だが、ここまで意図も目的も見えないのは初めてだった。
「早く座れ」と目で促す彼に私は何も言えないまま対面に腰を落ち着ける。
全くもって意味が分からない。さっきから彼は一体何がしたいのだろうか。
193
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:12:04 ID:TcObiKy60
( 、 *川「………どういうつもり、なの」
腕を組んだままじっと斜め下を見つめる彼に痺れを切らして話しかける。
やけに真剣そうな表情で「話がある」と言われたかと思えば、車中では何も言われず、既に閉園した筈の遊園地へと入れられ、挙句には観覧車に押し込められたのだ。
それ相応の理由があるに違いない。というか、そうでなければ困る。
(;´・_ゝ・`)「……どういうって…言ったろ。話がしたいって」
('、`*川「その話ってなんなのよ」
(;´・_ゝ・`)「だから……その、あの時、なんであんなに怒ったのかって…」
('、`*川「はぁ?…まだ、本気で分かんないの?」
無意識に荒げてしまった声が狭いゴンドラに響く。
目を左右に激しく泳がせる盛岡くんはそれ以上口を開こうとせず、小さく頭を垂れるだけ。
(´ _ゝ `)「……決して、ふざけたつもりはなかったんだ」
追撃しようとしていたその矢先、零れるような呟きが静かに私の鼓膜を揺らす。
彼は顔を上げないまま、雨だれからポツポツと落ちる雫のようにゆっくりと語り始めた。
194
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:15:13 ID:TcObiKy60
(´ _ゝ `)「本気で、僕と婚約することが、お前の為になると思った」
「この国の”婚姻”は、法的にも持つ意味が強いから」と、か細い声がゴンドラ内に転がる。
盛岡くんに相応しくない、ひどく自信のない声色だった。
(;´・_ゝ・`)「万が一何かあってもお前の得になるように、証書まで用意して…。揶揄うとか騙そうとか利用しようとか、本当に、そんな気はなかった」
(´ _ゝ `)「……だから、あんなにお前が拒絶するなんて思ってもみなかった。お前には、メリットしかないと思ってたから」
石像みたいに固まったままの静かな語り。
いつもなら決して見えない彼の後頭部がやけに小さく見える。
(´ _ゝ `)「…理由を考えた。何時間も、何日も、何週間も。僕はまた、お前を傷つけたんだと」
(´ _ゝ `)「それでも、情けないことに何も分からなくて……今、このザマだ」
(´ _ゝ `)「…………すまなかった」
私よりもずっと背の高い筈の彼が、今は一回り小さい子どものように見える。
目を瞬かせても眼前の光景は変わらない。盛岡くんは教会に訪れた罪人みたいな姿で、じっと私に頭を下げたままであった。
195
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:17:04 ID:TcObiKy60
質問に質問で返す。口述の試験なら間違いなく落第に値する対応だ。
答えを言ってもいい。彼の望む模範解答は今すぐにでも出せる。
それでも、私の口から出たのは、まるで答えになっていない質問だった。
盛岡くんの顔がゆっくりと上がる。その表情には困惑の色が見て取れる。
彼はその端正な瞳を丸くしながら、数回戸惑うような瞬きをしてみせた。
(;´・_ゝ・`)「…何でって……昔、言ったろ?」
(´・_ゝ・`)「大きい観覧車、乗せてやるって」
「何を言っているのか」。そう言おうとした矢先にピタリと私の唇は動きを止めた。
“昔”という言葉が脳内で何度も反芻する。
今日じゃない。最近でも、先月でもない。
ずっとずっと昔。私と彼が只のクラスメイトだった頃。
修学旅行の終わり際に彼が、私に言った約束。
196
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:18:11 ID:TcObiKy60
('、`;*川「………覚えて、たの?」
(´・_ゝ・`)「…今更になって、申し訳ないが」
記憶力に自信のある私でさえ、今の今まで忘れていた。
正直に言えば忘れていたのではない。諦めていたのだ。
あの頃以上に私とは比肩し得ない成長していた彼が、今更あんな取るに足らない約束を覚えている筈がないと。
話の流れでしただけの、あんな大した意味もない只の口約束。
期待するだけ無駄だと思った。口にしたところで、貴重な彼の時間を奪うだけだと。ただ彼の横に居られるだけで満足するべきなのだからと。
それを彼は、今の今まで覚えていたのか。
覚えてくれていた、のか。
197
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:24:30 ID:TcObiKy60
(´・_ゝ・`)「……あのなぁ、お前に比べれば大したことないだろうが、一応僕も記憶力には自信がある方だぞ」
('、`;川「で、でも君昔から、人の名前とか顔とか、した会話とか、全然……」
(´・_ゝ・`)「それはそうだろ、好きでもない人間のことなんて一々覚えるか。どんなにコストを費やせたとしても顔と名前くらいで精一杯だ」
一瞬だけ合った目が、すぐに景色の外へと向けられる。外から見える景色はまだビルが近く、未だ最高点には到達していない。
どこか罰の悪そうな彼の横顔に、ゴンドラ内の照明が反射していた。
そういうものか、と一人静かに納得して足元を見つめる。
確かに、彼が私を頼る時は大抵、「さっき喋ってたの誰だ?」だの「今日来る人の名字なんだっけ」だの、人間関係についての事柄だった。
それも、あまりに人として最低限弁えるべきことばかりを聞いてくるものだから、すっかり彼はあまり記憶力が良くないと勘違いしてしまっていた。
うっかりしていた。そうだった。そういう人だ。
彼は別に物覚えが悪い方ではなく、ただ特定の人間にしか興味を示さないだけで――。
ぱっと顔を上げる。
普段なら、整っているなぁと感嘆していたであろう、見慣れた横顔。
だが、私が口を数秒噤んだ理由は、そんなことが理由ではなかった。
('、`*川「――君」
('、`*川「 私のこと、好き なの?」
198
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:31:34 ID:TcObiKy60
脳が動くより先に、文章が整理されるよりも前に、言葉という最低限の形だけを繕っただけの感情が口先からぽろりと零れた。
(´・_ゝ・`)「…?」
彼はちらりと、ほんの一瞬だけ私を見る。
そして数秒、自分がさっき何を言ったのか、ゆっくりと思い出すように目を泳がせる。
しばらくして、ピタリと瞳の動きが止まる。
次の瞬間。
(*;´・_ゝ・`)「……………っ!?」
夏に咲く彼岸花みたいに、頬にぱっと赤みが差した。
(*;´ _ゝ `)「違う!!!」
いつも冷静な彼の口から出たとは思えない大声が、ゴンドラを揺らした。
(;´・_ゝ・`)「……あっ、いや、違う!いや、その、違うというのが、違くて」
(;´ _ゝ `)「ええと……なんだ、その、今のは……あれ、だ。二重否定と、いうか」
(;´・_ゝ・`)「つまりだな、俺は あ、いや…その、僕は… あれ、というか、その……」
全く要領が掴めない言葉が濁流と化す。
一瞬勢いよく立ち上がったかと思えば、目をザバザバと泳がせながら必死に文章未満の何かを羅列している。
女の私ですら羨ましくなるほどの白を纏った頬の肌は、普段とは一転して、一目で分かるほどの濃い朱に染め上がっている。
199
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:33:39 ID:TcObiKy60
どんな相手でも、『盛岡デミタス』は冷静だった。
学生の頃も、ゼロから起業した時も、事業が軌道に乗る前の頃も、ずっと。
大企業の役員だろうが、官公庁のお偉いさんだろうが、彼はその不遜な態度を崩すことなく、自身の要望を通してきた。その姿に、私含め、何百もの人間が憧れたのだ。
だが、今はどうだろう。そんな姿は見る影もない。
私の目の前にいる男は、まるで好きな人をバラされた中学生みたいに、慌ただしく狼狽しているではないか。
( 、 *川「………いいよ、別に」
零れるように、短い言葉が漏れた。
失望の意を含んだものでもなく、宥めるようなものでもなく。
私の口から漏れたのは、まぎれもない“諦観”の声だった。
(;´・_ゝ・`)「…え……な、なにが…?」
('、`*川「だから…変に言い訳しなくたっていいよって」
(;´・_ゝ・`)「い、言い訳というつもりじゃなくてだな…。ちょっと、待ってくれ。今は適切な言葉を探してる途中で…」
( 、 *川「だからさ、もう、いいんだよ」
( 、 *川「別に君、好きじゃないでしょ、私のこと」
200
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:34:53 ID:TcObiKy60
盛岡くんの声がピタリと止まる。
さっきまでは夏の曼珠沙華みたいに紅く染まっていた彼の頬が、一気にその熱を失っていくのが見て取れた。
(;´・_ゝ・`)「……は?」
静かな視線が降り注ぐ。
怒りではない。ただただ困惑の色だけが浮かんだ瞳。
無理しなくていいのに、と、私はどこか他人事のように心中で溜息を零した。
嬉しくない。そう言えば真っ赤な嘘になる。
多少なりとも、長年ずっと片思いしていた異性から特別に想われていたのだ。それが嬉しくない筈がない。
けれど、分かっている。私は既に見てしまっている。
それはあくまで、「他の人と比べれば」程度の特別に過ぎないということに。
201
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:37:10 ID:TcObiKy60
('、`*川「……他に、大事な人、いるんでしょ?」
一月と二週間余り前の映像が頭に浮かぶ。
記憶することだけに特化した無駄な脳が、視界の隅の街灯ですら鮮明に脳裏に映し出す。
(*;´・_ゝ・`)ζ(^―^*ζ
深夜。嫉妬すら浮かばないほどに可愛らしい女の子と、その近くで照れたようにしていた盛岡くんの姿。
碌に恋愛経験を積んでない私でも、あの場面を目にすれば流石に察せられる。
見たことのない顔だった。
彼の後ろを必死について来たこの10年の間で、一度も見たことのないような。
どんなに綺麗な女性の前でも、ましてや私の前でなど見せてくれたことのない表情。
記憶力だけが取り柄だった。そして、この10年間ずっと、たった一人のことだけを見ていた。
だから、分かってしまった。理解してしまった。ただの腐れ縁には決して見せない、見れない表情だったから。
そういう顔を見せられる女の子がいたんだ、と。
202
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:41:16 ID:TcObiKy60
(;´・_ゝ・`)「…ま、待ってくれ、何の話……」
('、`*川「見ちゃったんだ。前に、一回だけ」
重力に負けないよう、やや斜め下に顔を逸らす。
直接彼の顔を見れば、若しくは真下を向けば、すぐにでも涙が溢れてしまいそうだった。
('、`*川「……綺麗な人と、楽しそうにしてたの。先月の、真夜中」
出来るだけ無感情を装おうとした言葉を吐き出す。
暖かな空調が効いているのに、なぜだか急に寒く感じる。
それでも冬の夜に回るゴンドラの中はひどく静かで、自分でも震えが隠しきれていないのが分かった。
203
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:44:01 ID:TcObiKy60
(;´・_ゝ・`)「……先月…?」
('、`*川「流石にさ、あんな風にしてる君見たら、いくら私でも察するよ」
(;´・_ゝ・`)「…い、いや待て。それは…」
分かりやすいくらいに狼狽し始めた彼の言葉に、被せるように口を動かす。
こんな惨めなこと、口にしたくなんてない。それでも冷静さを失った私の口は止まるという選択肢を選んではくれなかった。
('、`*川「私のことを君なりに気遣ってくれたのは、嬉しい。でも さ」
(;´・_ゝ・`)「待て、待ってくれ、たぶん違う。おそらく勘違いだ」
('、`*川「やっぱり、そういうのはダメだよ。きちんとしないとさ」
204
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:49:21 ID:TcObiKy60
目の前に座る彼にじゃなく、自分に言い聞かせるように言葉を吐き出していく。
分かってる。これでいい。人にはやっぱり身分というものがある。
私みたいな地味な女が選ばれる訳も道理もない。こうして一緒に観覧車に乗るという約束を守ってくれた。それだけでもう充分だと笑って満足すればそれでいいのだと。
(;´・_ゝ・`)「聞いてくれ、まずは落ち着け。いいか、おそらくお前が言ってるのは」
( 、 #川「落ち着いてる!分かってるよ!私、勘違いとかしないから…!」
(;´・_ゝ・`)っ□「だからっ…違う!お前が言ってるのは、この子だろ!」
ヒステリックな私の声と、珍しく焦燥の色を浮かべた彼の声がゴンドラ内で反響する。
クラシックにはほど遠い余韻がゴンドラ内を巡ったのは、私も彼もピタリと声を止めたから。
言い争いが止まったのは、とある一枚の写真が私の目に留まったから。
盛岡くんが見せつけてきたスマホを見て数秒フリーズし、おずおずとそれを受け取る。
渡された液晶画面の中に映し出されていたのは、楽し気に笑っている二人の男女。
『(*;^ν^)ζ(^ワ^*ζ』
片方は見覚えのある、以前、盛岡くんの隣にいた可愛らしい女性。
そしてその彼女の隣には、女性とは比べ物にならない程に見覚えがありすぎる後輩が映っていた。
205
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:53:21 ID:TcObiKy60
('、`;川「……新塚くん?」
大学が同じだった、一学年下の後輩。
この世の全てが気に食わないみたいな仏頂面をいつもしていた彼が、見たことのない腑抜けた顔をしている。
昔、デルタくんの悪ふざけに嵌り酔った新塚くんからされた話が、頭の中で鮮明に再生されていく。
パティシエをしている幼馴染がいること、彼女に褒められたくて弁護士になったこと、時間はかかったがようやく恋人という関係になれたこと。
大量の日本酒に負けて珍しくふにゃふにゃになりながら、幸せそうに語る後輩の姿は私じゃなくてもしっかりと覚えている。それくらいあの姿は衝撃的だったし面白かった。なんならナベちゃんのスマホには映像証拠だって残っているはずだ。
('、`;川(……え、待って)
(;´・_ゝ・`)「流石に、これで分かったろ」
呆れたような盛岡くんの声が鼓膜を揺らすと同時に、バラバラに散らばっていたピースが高速で一人でに完成していく。
見せられた写真の中で、無愛想な後輩は見たことがないくらいに締まりのない顔をしている。そして、その横にいる女性はこれ以上ないくらいに幸せそうな笑顔を浮かべている。
まさか。というか、ほぼ間違いなく、これは。
私はずっと。一人で。勝手に。
206
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:54:50 ID:TcObiKy60
('、`;川「………この、人って、まさか…」
(´・_ゝ・`)「こいつの恋人だ。…いや、もうすぐ奧さんになるんだったか」
(;´-_ゝ・`)「先月のあの日は、挙式の予定日について聞いてて…そもそも、離れていただけで他に人もいたんだ。お前がどの瞬間を見かけたのかは知らないが」
最後のピースがかちりと頭の中で嵌った音がした。
頭の中が一瞬、雪原のように真っ白になる。
あぁそうか。あの人は、新塚くんの彼女さんだったのか。
そういえば確かに私は、新塚くんから偶に惚気話を聞くことはあれど、彼女さんの写真などは一度も拝見したことがなかった。いくら記憶力に自信があると言えど、一度も見たことのない人の顔は思い出しようがない。
盛岡くんは、後輩の彼女さんと話していただけなのか。なるほど、親しい後輩の恋人で既に面識もあるのなら、話の内容如何によっては遠目からだと親し気に見えても不思議じゃない。
つまり、ようするに、今の今までずっと。
ただ私が1人で、勝手に盛大な勘違いをしていた、だけで。
207
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 00:56:36 ID:TcObiKy60
(;´-_ゝ-`)「まったく…これでいいか?まさかこんな甘ったるい写真が役に立つとは思わなかった。とにかく、これで改めて話を…」
( 、 *川「……………さ」
(´・_ゝ・`)「ん?なんだ」
( 、 *川「……さっさと」
(´・_ゝ・`)「だからなんだ?もう少しはっきり――」
( Д #川「――さっさと!!言ってくれればよかったじゃないのよーー!!」
真っ白なゴンドラの中で、真っ赤な顔をした女の怒号が爆音で響き渡った。
208
:
名無しさん
:2025/01/01(水) 01:02:21 ID:TcObiKy60
('、`#川「なん…っっで何も言わないの!?誰にいつ、何の要件で会うか!スケジュールの報告は漏れなく伝えてってあれほど口酸っぱく言ってるのに!!」
(;´・_ゝ・`)「は、はぁ!?なんだ急に!なんで僕が逆ギレされなきゃいけない…」
('、`#川「昔っから何も変わってないじゃない!いつもずっとそう!君の気紛れとうっかりに苦労する人間の気持ち考えたことある!?」
(#´・_ゝ・`)「それを言うなら、いきなり長年の付き合いがある部下から退職届持ってこられた上司の気持ちを考えたことがあるのか!?僕がそれでどれだけの時間を無駄にしたと思ってる!時価総額3500億の会社が、一瞬とはいえお前一人のせいで止まったんだぞ!!」
('、`#川「死ぬほどあるベンチャー企業の一つや二つ止まったってこの国には何の影響もないわよ!本っっ当に人の言うことなんにも聞かない…そうよ、4600円とかいう強気すぎる価格で上場した時だって、無名の大学生が描いた絵を一億出して買おうとした時だって!」
(#;´・_ゝ・`)「あ、あれは、その…というか、お前に言われた通り最終的には買わなかっただろうが!」
('、`#川「京都のご令嬢に競り負けただけでしょ!ていうかもし競り勝っちゃってたらどうしてたのよ!ばか!!」
209
:
名無しさん
:2025/01/20(月) 23:33:46 ID:o.436vFo0
その酸っぱい口でレモン味のチッスをだな
210
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 00:34:15 ID:/V6cX1oM0
『侃侃諤諤』という、試験以外の日常では一度も使ったことのない四字熟語が脳裏をよぎる。
学生の頃、数えるのも馬鹿らしくなるほど日常的に彼から挑まれた勝負。その中でも特にポピュラーだったのが知識対決。
四字熟語や諺、果ては国旗など無為としか思えない勝負に幾度も付き合わされた。
お陰で随分と語彙は増えたが、大人になった今でも用途は変わらず口喧嘩という事実に我ながら情けなくなってくる。
(#;´・_ゝ・`)「そもそも僕は負けてない!アレは落札者が元々あの画家のことを知っていて……」
そこらの政治家の口より回る彼の舌が、どうしてかゆっくりと減速していった。
私が発した理屈に納得したのかと思いたくはあったが、今までの経験が違うと告げる。
では何故彼は急に口ごもったのだろう。疑問に思いながら伺うように彼を見た。
一瞬私のことを見ているのかと思ったが違う。彼の視線は私の僅か上を通り過ぎて、窓の外へと向けられている。
後ろを振り返り、背中側からの景色を見る。
するとそこには、満天の星空と見紛うような、美しい夜景の街並みが広がっていた。
211
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 00:37:14 ID:/V6cX1oM0
('ワ`*川「わぁ……!!」
口から勝手に、感嘆の息が漏れた。
普段自分たちが働いているオフィスからでも見られない高度からの景色。私たち二人がみっともない口論を交わしている間に、ゴンドラはほぼ頂点にまで動いていたらしい。
既に日付は変わっているはず。それでもこの港町に並ぶビルや建物は未だ力強い輝きを煌々と保っている。
まるで、星空をカーペットにしたみたいだった。
('、`*川「綺麗……観覧車って、こんな景色が見られるのね」
あれほど学んだ語彙もまるで役には立たず、言語化できたのは陳腐で平凡な感想のみ。それでも、ずっと憧れていた以上の光景が眼下にあった。
この感動を共有しようと誘ってくれた本人に声をかける。しかし、先ほどからずっと彼は石化したが如く何も言おうとしない。
どうしたのか。そう聞こうとしたその瞬間だった。
(;´・_ゝ・`)「………ミスった」
('、`*川「へ?」
(;´・_ゝ・`)「失敗だ!失敗してる!!」
('、`;川「きゃっ……ちょ、ちょっと揺らさないでよ!危ないでしょ!?」
手すりを掴んだまま激しく狼狽し始めた盛岡くんを慌てて制止する。
一体彼は何に慌てているのだろう。これほどの夜景を見て感動して静止するのなら分かる。網膜を焼く光の一つ一つに興奮して表情が明るくなるのも分かる。
だが、憤慨して暴れ出すというのは全くこれっぽっちも分からない。彼が感情的になるシーンを見るのは別に初めてではないが、その表情には怒りというよりも、後悔の色が強く出ていた。
212
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:19:53 ID:/V6cX1oM0
('、`;川「し、失敗って何?これだけ綺麗に見えてるのって寧ろ珍しいんじゃ……」
(;´・_ゝ・`)「過ぎてるんだよ!僕としたことが……乗ってからの時間も計るべきだったのに!」
('、`;川「過ぎてるって……ちょうど今てっぺんなんじゃないの?」
(;´・_ゝ・`)「違う! 本当に頂点なら、僕らの会社のビルが下に見えるはずなんだ!」
悔しそうな顔をしながら、彼は座らずにピンと立てた手のひらを外の景色に向ける。
自身の長くがっしりとした指を指標にしながらじっと景色を睨むこと数秒、黙ったまま続けていたらしい何かしらの計算が終了したのか、彼はがっくりと項垂れて倒れ込むように椅子へと凭れた。
('、`;川「ちょっと……だ、大丈夫?」
(;´ _ゝ `)「……大丈夫じゃない。こうなったら、また降りてもう一周……」
('、`;川「はぁ?無理でしょそんなの!いくら何でも我儘が過ぎるわよ!」
本来ならこの時間に観覧車が回っているなどあり得ない。十中八九、盛岡くんが色んな関係各所に手と金を回して無理やり動かしてもらったのだろう。
この街の景観や条例などを加味すれば、おそらく一度動かしてもらえただけで相当破格な待遇に違いない。それを更にもう一回など、無茶を言うにも程がある。
213
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:21:33 ID:/V6cX1oM0
('、`*川「ほら、外見なさいよ。まだこんなに綺麗な夜景が見えてるんだし別に失敗なんかじゃ……」
下を向いて落ち込む盛岡くんへの言葉を途中で切ったのは、彼の足元で何かがキラリと光ったのが見えたからだった。
なんだろうかと思い、ゆっくりと手を伸ばす。
ゴンドラの床に転がっていたのは、細やかかつ、瀟洒な意匠がなされた白い小箱だった。
□⊂('、`*川「……なに、これ」
手に取って見ると、見た目よりもずっしりとした重さが指先から伝わってきた。
中は空洞じゃない。間違いなく何かしらが入っている。
箱自体がそもそも随分と手が込んだ代物であろうから、もしかしたら中身も相応な物なのではないだろうか。
□⊂('、`*川「ねぇ、これ君のじゃない?」
今まで見たことがない程に落ち込んでいる盛岡くんの肩を叩き、そっと手に持っていた小箱を差し出した。
私の手に握られたままの小箱を見た瞬間、彼は慌てて服のポケットを探り始める。
そして、奪うように私の手から白い小箱を取り上げた。
214
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:22:03 ID:/V6cX1oM0
(;´・_ゝ・`)っ□「も、もう中見たのか!?」
('、`*川「は?まだ見てないけど」
私の正直な返答に、彼は再び俯いて長い溜息を吐いた。
安堵の表情を浮かべる彼と裏腹に、私の胸中では再び怒りの炎が揺らぐ。
この小箱が彼の物だということは分かった。だが、それを渡したというのにお礼の言葉の一つもないのかと。
('、`#川「……『ありがとう』くらい言ったらどうなの」
(;´・_ゝ・`)「あ、あぁ、すまん」
('、`#川「謝れなんて言ってないでしょ。いつになったら普通にお礼の言葉が言えるようになるのよ」
そっぽを向きながら、嫌味たっぷりにそう告げる。
窓の外は未だ輝かしい夜景が広がっているが、先ほどと比べるとどこか見劣りするように思えた。
記憶の中に残っている景色と比べれば、その理由はすぐにでも分かる。さっきよりも高度が下がっているのだ。現在私たちが搭乗中のゴンドラは既に頂点を通過し、今はゆっくりと下に降りているのだろう。
つまり、あともう少しで、この遊覧はおしまいだということだ。
('、`*川「……?」
なんとなく違和感を覚えて、ぼんやりと外を見ていた視線を眼前に戻す。
どうせ間を置かず放たれるだろうと思っていた口撃がいつまで経っても来ない。
不思議に思って前を見ると、盛岡くんは随分と悲痛な面持ちで小箱をじっと見つめていた。
215
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:22:49 ID:/V6cX1oM0
(;´-_ゝ-`)「……すまなかった」
('、`;川「……えっ?」
(;´∩_ゝ-`)「あぁいや、違う。『ありがとう』か……また間違えた、すまん」
('、`;川「い、いや別に……どうも……」
今までの彼からはとても想像がつかないような、か細くて小さい声。
その姿があまりに見覚えのないものだったから、私もどう声をかけていいのか分からず、曖昧な返事だけを発する。
ここまで落ち込んでいるところは見たことがない。
株主によって事業計画を変更せざるを得なかった時も、二年かけて獲得しかけた土地を結局、別の大手に取られた時も。今まで一度だって彼は、下を向いて落ち込むなんてことはしなかったのに。
('、`*川「……ねぇ」
('、`*川「君、なにを失敗したの?」
秘書として、友人として、声をかけなくてはならない。
何かしらの鼓舞や慈雨の言葉を発しなくてはならない。
それでも、こういう時に自慢の記憶力は何も役には立ってくれず、喉に力を込めてようやく出たのは単なる質問だった。
(´ _ゝ `)「……こんなハズじゃなかったんだ」
小箱を握っている大きな両の手が、細かく震えたのが見て取れた。
216
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:24:16 ID:/V6cX1oM0
(´ _ゝ `)「十年以上かけた。考えて、行動して……ここまで来るのに十年もかかった」
目はこっちを向いていない。それどころか、今彼が発している言葉すら私に向いているのかも分からない。
けれど、絞り出すようにポツポツと零れる言葉があまりにも真剣で、私は何も言葉を挟めないでいた。
(´ _ゝ `)「家を出て、事業を始めて、親友を巻き込んで……理由を作ってお前を傍に置いて」
(´ _ゝ `)「あの日の観覧車より大きなビルを建てた。一生どころか三生くらいは遊んで暮らせるくらい金も儲けた。これでやっと……やっと、堂々とお前の横に立てると思った」
(´ _ゝ `)「でも、駄目だなやっぱり。お前が絡むと、どうにも俺は駄目になる」
いつの間にか一人称まで戻っている。
大学に入ると同時期に、彼がなぜか突然変えた呼称。
(;´-_ゝ-`)っ□「……本当は、一番高い所で、渡す予定だったんだ」
盛岡くんの手のひらに、白い小箱が乗っている。さっき床を転がったそれが、ゆっくりと開かれる。
中から現れたのは、小さなダイヤモンドが付いた指輪だった。
.
217
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:24:52 ID:/V6cX1oM0
('、`;川「……え」
自分が発したとは思いたくない程に間抜けな声が漏れる。
指輪に付いたダイヤモンドにゴンドラ内の照明が反射して、目が眩む。
それでも私の視線は、煌めきを放つ指輪を捉えて動かなかった。
('、`;川「…………なに、コレ」
続けて出た声も、ひどく気の抜けたもの。
いや、指輪なのは分かっている。付いている宝石と、収められていた小箱の意匠からも、どういう用途に使われるものなのかも察しがついている。
私が絞り出した声に、盛岡くんはひどく戸惑った表情を浮かべた。
(;´・_ゝ・`)「……もしかして。結婚に指輪っていらないのか?」
('、`;*川「いやいるけど!!い、いるけど……ちょ、ちょっと待って!!」
慌てて両手を前に出して拒絶する。
いや別に嫌という訳ではないが、こちらにも心の準備というものが必要なのであって。いきなりそんな物を出されても困るというか。
差し出された指輪を見る。
アクセサリーや宝石などに関する格別な知識はないが、指輪に施された細やかな意匠や、付いている宝石の光の反射具合、なにより、用意したのが他の誰でもない盛岡くんということから、偽物の類でないことは分かる。
だからこそ困惑する。まさかそんな代物を、本当に用意してくるだなんて。
218
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:25:48 ID:/V6cX1oM0
( 、 ;*川「い、いきなりそんな凄いの出されても、信じられないというか、色々通り過ぎてちょっと怖いというか……」
('、`:*川「…………正気?」
何かを誤魔化すように髪をいじりながら、ちらりと眼前に座る彼の様子を伺う。
慌てる私の顔を真直ぐ見ながら、盛岡くんは至って真面目な顔をしていた。
(;´-_ゝ-`)「……正気かどうか問われるとあまり自信はないな。観覧車まで貸切るなんて、行き過ぎた行動だというのは流石に自覚してる。相談したデルタにも言われた」
視線が一瞬、手元の指輪に注がれる。
純白の光を放つプラチナの輪と、小さいながら立派な光沢を有したダイヤモンド。
(´ _ゝ `)「でも、本気なんだ。冗談でも、揶揄いでもない」
(´・_ゝ・`)「俺は……僕は本気で、お前のことが欲しいと思った」
(´・_ゝ・`)「……いや、違うな。『欲しい』っていうのは、ちょっと違う」
少し震えた真摯な声が、私の鼓膜を揺らしている。
今まで聞いたどんな声よりも、真直ぐな声。
(´・_ゝ・`)「僕が、お前の隣にいたいんだ」
(´・_ゝ・`)「金よりも、地位よりも名声よりも何よりも、お前の隣を堂々と歩ける、その権利が何よりも欲しいんだ」
「だから」という小さな呟きと共に、指輪が入った箱が少しだけ前に出る。
219
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:26:44 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)っ□「――僕と、結婚してくれないか」
私の薬指にピッタリと合うように調整された白銀の指輪が、満月のように光って見えた。
220
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:27:18 ID:/V6cX1oM0
*
('ワ`*川「……あ、見てみて!雪ちょっと積もってる!」
(´-_ゝ-`)「走るな。転んでも助けないぞ」
('、`*川「なによケチ。その長い腕は飾り?」
(´・_ゝ・`)「少なくとも酔っぱらいを支えるために長くなった訳じゃない」
桜の花びらみたいにゆっくりと宙を舞う雪の中、子どものようにはしゃぐ伊藤の後ろを歩く。
足元を見れば、ところどころに穢れのない真っ白な雪の塊が点在していた。
221
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:27:49 ID:/V6cX1oM0
('、`*川「マイナス5点。世間一般の彼氏はこういう時、嘘でも支えるって言うものよ」
伊藤の口から出た『彼氏』という言葉に、ほんの一瞬だけ足が止まりそうになった。
動揺したことを一々悟られるのも嫌で、「いいから前見て歩け」とだけ返した一方、頭の中で『恋人』という新たな関係の名前を復唱する。
長い時間をかけた上、あれこれと面倒な根回しと準備をした結果得られた地位と関係性は、当初予定していたものより少しグレードは下がるも、まぁ、どこか悪くない響きに思えた。
222
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:28:25 ID:/V6cX1oM0
一世一代の覚悟を持って挑んだプロポーズは、結論から言うと、ものの見事に失敗した。
シチュエーションが問題だったのではない。
場所も時刻も、理想とまでは言えないものの彼女が好みそうな状況には限りなく近づけられた。
用意した指輪が問題だったのでもない。
あまり高価すぎるのも文句を言われるだろうから、世間一般の基準らしい、自分の年齢の平均月収三か月分の物を用意した。個人的には随分質素になってしまったと物足りなさを感じていたが、彼女にとってはその方がいい筈だ。
にもかかわらず失敗した。
至極業腹ではあるが、プロポーズについては玉砕という形で見事に終結した。この僕が考えたプロポーズが、である。
理由は彼女曰く
('、`*川『……いや、交際すっ飛ばしていきなり結婚とかありえないでしょ』
とのことだ。
今更僕らにそんな期間が必要なのかは正直よく分からないが、彼女が言うなら世間的にはそういうものなんだろう。納得こそしていないが、とりあえずは飲み込むことにした。
金、容姿、社会的地位。世の人間が交際相手に求めるらしいトップスリーの要素を全て満たしているこの僕のプロポーズは、呆気ない言葉で儚く失敗した。
だがまぁ、そんなにショックかと問われると別にそうでもないというのが本音だ。
彼女が僕の想定通りに動かないことなど昔からだし、今こうして雪の中を楽しそうに跳ねる姿を見ていると、失敗ではあったが、無駄ではなかったと感じる。
223
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:29:39 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)「……ん」
視界の先、彼女の足元付近で何かが煌めいたのが見えた。
歩く速度を少しだけ早め、コートのポケットに突っ込んでいた手を出す。
('、`;川「きゃっ…!?」
案の定、地面で固まり始めていた雪に足を滑らせて転びかけた彼女をギリギリ腕で支える。
覗き込んだ彼女の顔は、月光しか光源がないこの暗闇でも分かるほどの紅で染まっていた。
酒か、それともこの寒さのせいか。どちらにせよ、あまり他の男に見せたいような顔ではない。
('、`;*川「あ、ありがと……」
(´・_ゝ・`)「だから言ったろう。間抜け」
しっかりと両方の脚で立たせ、腕を放して、手を繋ぐ。
ただでさえ足元が暗い上にこの雪だ。慎重に歩いていたって転ぶ可能性は十二分にある。
だからまぁ、五指を絡めて手を繋ぐということは、安全配慮という観点からしても妥当な筈だ。
('、`;*川「……へっ!? ちょ、ちょっと、手……!」
(´-_ゝ・`)「なんだ。彼氏が彼女と手を繋いで歩くのも、非常識なことなのか」
僕の言葉に、伊藤はしばらく水族館の魚のように口をパクパクと動かしたが、結局なんの言葉も発さないまま下を向く。
そして、手は繋がったまま何も言わずに、ただゆっくりと歩くのみであった。
224
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:30:14 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)「……どうした。何も言わないのか。気持ち悪いな」
('、`;*川「き、気持ち悪いってなに」
(´・_ゝ・`)「いつもなら僕の発言1つに、10や20で応戦してくるだろう。それが突然いやにしおらしくもなれば、この季節じゃなくても悪寒で体が震える」
(-、-#川「……ちょっとはマシになったと思った私が間抜けだったわよ!」
「怒っていても手は離さないのか」、なんて言葉は口にせず、腹中に戻す。
ここで何か追加で物申したところで穏便な流れには繋がらないし、何より、初めて得た口喧嘩での勝利だ。それも言い訳の余地なく、紛うことなき、こちらの勝ち。
下手に問答を続けて辛酸を舐めるより、余裕ある大人の対応をした方が遥かに良い。朱に染まった彼女の頬を横目に歩きながらなら、猶更だ。
黙ったまま遊園地内を歩いていると、ふと、ペニサスの視線が忙しなく動いているのに気が付く。
一体何をチラチラ見ているのかと様子を伺うと、その疑問をすぐに氷塊した。
繋がれていない方の彼女の左手。その薬指。
観覧車のゴンドラ内で渡した指輪が、彼女の左手薬指でキラリと光っているのが見えた。
225
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:30:58 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)「……一応言っておくが、無くすなよ」
指輪を気にしていることがバレたのが恥ずかしいのか、彼女は勢いよくこちらを向いて睨みつけてきた。
('、`#川「無くす訳ないでしょ。ちゃんと家で大事に仕舞うわよ」
(;´∩_ゝ-`)「……昔から、変なところで察しが悪いな。お前は」
握っている手にやや力を込め、彼女の両目をしっかりと見つめ返す。こちらがどういう意図で言ったのか本当に理解していなさそうなその様子に、少し頭が痛くなる。
テストで彼女に一度も勝ったことのない自分が述べられる所見ではないのだろうが、出来の悪い生徒を持った教師というのはこんな心持ちなのだろうか。
(´・_ゝ・`)「いいか。それは結婚指輪ではなく、婚約指輪になったんだ。どこぞの頭カチカチ女が僕のプロポーズを拒否したお陰でな」
('、`#川「嫌味ったらしい言い方しなくても分かってるわよ。めちゃくちゃ高価な指輪なのも分かってるし、だから、家でちゃんと……」
(´-_ゝ-`)「分かってない。自分があげた指輪を家に飾る女を見て、喜ぶ男がどこにいる」
('、`*川「……?」
('、`*川「なんでよ。大事にしてるんだから、少なくとも嫌ではないんじゃないの?」
ここまで言ってもまだ分からないかと視線で訴えるも、彼女は未だ首を傾げたまま。
現代文でも古文でも漢文でも満点続きだった女が、今更なにを無知ぶっているのか。
226
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:31:30 ID:/V6cX1oM0
(;´-_ゝ-`)「……お前、指輪をつけた女を会社で見て、どう思う」
('、`*川「えっ?そりゃあ……既婚者なんだな〜って」
(´-_ゝ・`)「他には」
('、`*川「他って言われても…お洒落だなぁとか……恋人からのプレゼントなのかな、とか?」
(´・_ゝ・`)「それだ」
端的に答えを示す。
数秒遅れて、伊藤の頬が更に赤くなる。
鈍い彼女でもようやく理解してくれたようで、僕は顔に感情を出さないまま、ホッと胸を撫で下ろした。
『虫除け』という効果など、一々口に出したくはない。
227
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:32:30 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)「……なぁ」
黙ったまま、園内の出口に向かって歩くこと数分。改めて沈黙を破ったのは僕の方からであった。
何かを期待したような顔がこちらに向く。関係性が新しくなったからか、もう十年以上見慣れた筈の彼女の表情が、いつもと何処か違って見えた。
(´・_ゝ・`)「今日の僕は、何点だった」
伊藤と過ごした日の終わりに、いつも尋ねている決まり事。何もかもに点数を付ける彼女の癖を基にした、自分への評価。
いつからか、彼女から告げられる点数が人生の指標になっていた。
('ー`*川「うーん……80点?今日なら、それくらいはあげてもいいかもね」
上機嫌そうな彼女の横顔を見ながら、告げられた点数を心中で復唱する。
80点。今まで聞いた点数を更新する、最高得点。
普段なら飛び上がるほどに喜んでいただろう。家に帰って、祝いと称して秘蔵のワインを開けていたことだろう。
だが今の自分は、そんな点数では満足できなかった。
(´ _ゝ `)「……いい加減、減点方式はやめてくれないか」
僕の声に、伊藤は困惑したようにこちらを向いた。
握ったままの手に少し力が入る。以前にも歎願した、採点方式の変更願い。
228
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:33:18 ID:/V6cX1oM0
(´・_ゝ・`)「加点方式なら、何点つけてくれるんだ」
歩みを進めていた足が、二人同時にピタリと止まる。
伊藤は空いていた左手を口元に当て、何かを考える素振りを見せた。
左手に輝く指輪を見る。さっき自分があげた、婚約指輪の代わりとなった円輪。
道に積もった雪に反射した光がダイヤに当たって、その存在が一際目立っている。
('、`*川「……加点で………?」
('、`*川「……」
(-、-*川「………」ウーン
(;´・_ゝ・`)「………」ハラハラ
裁判官からの判決を待つ被告人の気分とは、こんな気持ちになるのだろうか。
空いている方の手が顎に当てられ、目を閉じ、真剣に何かを考えている伊藤の顔をじっと見る。
自分も彼女も無言のまま。雪が降る深夜、他に何の音も聞こえてこない閑静とした空間。
229
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:33:46 ID:/V6cX1oM0
数分か、それとも数十分は待っただろうか。
('、`*川「………99点、かな」
口元に寄せられていた左手が下げられ、判然とした声で、点数を告げられた。
思わず耳を疑ってしまった程の高得点。
そして、それを告げた張本人は慈愛のような優しさを含んだ目で、微笑を湛えたまま僕を見つめていた。
('ー`*川「……うん。加点方式なら、それくらいあげてもいいかも」
楽し気な歩幅でこちらとの距離が詰められた。
改めて、彼女の小柄さを意識する。自分とは比べ物にならない程に細くて、華奢な身体。
こんな、少し自分が力を込めて抱きしめてしまえば忽ち折れてしまいそうな体躯で、ずっと自分を支えてくれていたのかと今更思った。
230
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:34:43 ID:/V6cX1oM0
(;´・_ゝ・`)「……なら、あと1点は何が足りないんだ」
ふと鼻腔を甘い香りが擽って、ハッと意識を引き戻される。
(;´・_ゝ・`)「自分で言うのもなんだが、今日の僕は結構頑張っただろう」
(;´・_ゝ・`)「これだけやって一体、何がまだ足りないって言うんだ?」
百点満点を目指して今まで頑張ってきた人生なのだし、この際だ。採点基準を聞いたって別に試験官の、彼女からの心象は悪くなったりしないだろう。
クラスメイト、友人、仕事仲間ときて、恋人になった彼女を見下ろす。
すると伊藤は、少し俯き気味のままゆっくりと口を開いた。
('、`*川「そうね。助けてくれたし、観覧車の約束も守ってくれたし……ちょっと非常識だったけど、ムードの良いプロポーズだってしてくれたし」
('ー`*川ドキドキして、凄く嬉しかった。心臓がプラスチックみたいに、溶けそうになったくらい」
(´・_ゝ・`)「なら、別に百点くれたって……」
( 、 *川「でも、さ」
また一歩、伊藤がこちらに詰め寄る。二人の間にあった距離がほとんどゼロになる。
そして、彼女はひどく紅くなった顔をこちらに上げてみせた。
( 、 *川「……恋人らしいことが、まだ、足りません」
未だに空からは雪が降っていて、少しでも言葉を発すると、空気が白く濁るほどに寒い。
それほどまでに冷えているからか、伊藤の囁くような言葉はスッと耳に響き、彼女の頬は林檎のように紅く染まっていた。
231
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:35:36 ID:/V6cX1oM0
数秒、互いに見つめ合う。すると、伊藤の目がゆっくりと閉じられる。
いくら人の感情の機微に疎い僕でも、彼女が何を望んでいるのかは流石に理解出来ていた。
(;´・_ゝ・`)「い、いや……ここでか?」
(-、-*川シーン
僕の戸惑いにも伊藤は反応することなく、地蔵のように目を瞑ったまま動こうとはしなかった。
いくら人がいない深夜で、貸切り状態だといっても、ここは遊園地。公共の場だ。
そんな所でするなどと、それこそ伊藤が昔から嫌う非常識な行動ではないだろうか。
(;´-_ゝ・ `)「………あとで、文句言うなよ」
数十秒ほど固まってから、僕はようやく、彼女の後頭部に手を沿えた。
絹のような髪が手に触れてくすぐったい。改めてまじまじと彼女の顔を見ると、記憶の中よりずっと長い睫毛や、薄く小さい唇に驚く。
少しだけ腰を屈める。彼女の髪に少し積もった雪を手で払う。
一度の深呼吸をした後、ゆっくりと、彼女の唇に顔を寄せた。
232
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:36:42 ID:/V6cX1oM0
⊂( 、 *川「――あぁもう、じれったい」
ぎゅっと、抱きしめられるように顔を引き寄せられる。
突然、重力が強くなったみたいに首を引っ張られる。
唇に触れたのは、唇であった。
.
233
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:37:27 ID:/V6cX1oM0
( ー *川「……これで、一点追加ね」
ゆっくりと唇が離される。冬の夜とは思えないほどに、顔全体が火照っている。
すぐ目の前には、蕩けたように笑う恋人の顔があった。
(*´・_ゝ・`)「……………は」
( 、 *川「………えへへ」
('ー`*川「また、私の勝ちだ」
悪戯っぽく、それでいてどこか妖艶な笑みが浮かんでいる。
舌の先を少しだけ出して笑う彼女を、呆けたまま見る。
間抜け面をしたままの僕を見て満足したのか、彼女は子どもみたいにくるっと回り、また、僕の先を歩きだした。
234
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:38:46 ID:/V6cX1oM0
――あぁ。きっと、最後まで僕はこれだ。
どれだけ努力しようと、頭を捻ろうと、計画を企てようと、ちょっとした触れ合い一つで盤面を一気にひっくり返される。
何度も彼女に挑んだ。一度でも勝てることが出来たのなら、きっとその時、彼女に認めてもらえると。褒めてもらえるのではないかと思ったから。
試験でも、小テストでも、口喧嘩でも、ちょっとした知恵比べでも、その全てを僕から挑んで、今の今まで負け続けてきた。
きっと、この関係はこのまま変わらないのだろう。
クラスメイトから友人になった。
友人から同僚になった。
同僚からようやく、恋人になった。
季節が巡る度に道端で咲いている花の色が変わるように、コロコロと変わっていく関係性。もしかしたら今の関係だって、遥か未来にはまた変わっているのかもしれない。
当然だ。ずっと変わらないものなんてない。生きている限り、この世界に存在している限り、不変なんてものはありえない。ずっとそのままなんて、映画や小説の中にしか存在しない。
それでも、例外というものはある。その最たるものが、きっとこれだ。
僕はずっと彼女に勝てない。どれだけ高いビルを建てようが、どれだけ恵まれようが、何年経とうがきっと、僕は彼女に負け続ける。
そして、そんな日々に悪態をつきながら、僕はずっとこれからも、君の隣で笑うのだろう。
月に住むウサギみたいに、跳ねるように先を歩き出した彼女の後を追う。
フラフラと揺れていた彼女の左手に月光が差し込み、街を覆う純白の雪みたいな光が一瞬だけキラリと光る。
僕は駆け足気味に彼女に近寄り、その右手をぎゅっと握った。
235
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:39:46 ID:/V6cX1oM0
(*´・_ゝ・`)「――帰るぞ。ペニサス」
('、`*川「………」
('ー`*川「――うん。デミタスくん」
愛しい人の名前を呼び、愛しい人から名前を呼ばれる。
再び手を繋ぎ直し、指を絡ませる。
雪が積もった道の上を、二人でゆっくり歩き出す。
左手から伝わってくる体温が、火傷しそうに熱く感じた。
236
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 01:40:09 ID:/V6cX1oM0
終わりです。
読んでいただき、ありがとうございました。
237
:
名無しさん
:2025/05/08(木) 03:33:04 ID:5cpWK4ZQ0
おつ!
238
:
名無しさん
:2025/05/14(水) 13:48:46 ID:HhbaojF.0
おつです!
待ってました!
やっぱりデミペニは最高!!
239
:
名無しさん
:2025/05/15(木) 14:48:58 ID:b1euYwaM0
完結してたのね、おつ
こんなに砂糖入ったデミペニは1週まわって新鮮でよき
240
:
名無しさん
:2025/06/11(水) 09:33:54 ID:FNQNs.CI0
乙!
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