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立ち話・雑談スレッド
1
:
副管理人Z★
:2010/11/25(木) 22:35:03
特にテーマを絞らないフリートークのスレッドです。
241
:
堅皇
:2011/02/15(火) 08:41:55
信じることも祈ることも一緒だよ。
宗教とは何かに執着することを基本とするから仏法は先ずこの執着を解く為の脱却を図ったわけ。
方便品で言う「無数方便。引導衆生。令離諸著。」
「無数の方便を使って衆生を引導してきて諸の執着を離れさせてきた」ってね。
と言うわけで法華経以前の仏法には執着に繋がる「信」の文字はない。
しかし、法華経では一見相反するかのように思われる執着する事無く「信じる」という行為を取り入れたわけです。
「信」はどうしても一転すると執着に変わってしまいます。
故に法華経は「難信難解」の法と呼ばれるわけですね。
で、何故に法華経のみが執着せずに「信」を用いる事となったかと言えば簡単な話
独一法門に執着することなく諸法を信じるからであり、一仏に執着することなく事無く諸仏を信じるからです。
要は凝り固まった一辺倒な物に執着せずに視野をもっと大きく広げ世界を見渡せと。
そして信じるのはその全てを信じて判断しろと言う事なんですね。
そうすれば1つの物事に執着する事無く「信」を得る事が出来ると言う話です。
自身が生まれ育って得てきた物、それが全て正しいと思って信じていても
世の中が急転してしまった時に如何にその価値観に付いて行けるかと言う話。
執着を捨てきれずにいればその判断力を大きく見誤ってしまう。
解るかな、この「難信難解」の法の理論が。
> 何か池田先生を指導者と仰いだらまずいと言う勢力でもあるんですかね
しげきょんさんの思考回路は完全に創価学会と言う考え方だけに執着している状態です。
政財界に多く進出していてマスコミに対してもスポンサーとなっている創価学会だ。
利益を考えて守る事はあっても攻撃を加える理由はあまりにも希薄です。
もし、攻撃を加えるとすればそれは利益を考えない人たちの力と言う事でしょうね。
242
:
堅皇
:2011/02/15(火) 08:53:32
世間の池田さんに対する評価は比較的適切なものと思われます。
逆に創価学会内での池田さんの評価の方が異常と思えるのが妥当な判断と言えるでしょう。
池田さんにはどうしてもファシズムの匂いがしてなりませんね。
243
:
堅皇
:2011/02/15(火) 09:57:42
法華経は諸法の中に実相があると言う教えなので広く世間を見つめ
様々な意見を多く取り入れその中で真実を見つけようとするものです。
対し創価学会の指導は真実は聖教新聞にしか書かれていない世間一般に書かれている事は全て嘘だあるから
見るな聞くな惑わされるなと言います。
さて、この法華経に書いてあることと創価の指導を二つ並べてみて
あなたはどちらを信じますかと言う話だけですからね。
僕は間違いなく法華経を信じますね。
それに対してしげきょんさんは創価学会を信じていると言う話。
僕からすればしげきょんさんは創価の執着から逃れられずにいて苦しんでいるように見えますが
それはあくまでも第三者から見た個人的意見です。
それによって苦しんでいるか楽しんでいるかは当人にしか解りませんからね。
今の日本では信仰は自由ですのでどちらを選んでもそれは自由と言う話です。
244
:
堅皇
:2011/02/15(火) 13:23:42
そうそう、あと「一生成仏」と言う言葉ね。
これは「一生成仏抄」から来る言葉であり僕も一生成仏抄は書かれている内容でも
個人的にはかなり好きな部類での御書であります。
しかしこの「一生成仏」と言う言葉は一生成仏抄でしか用いられておらず
更にこの一生成仏抄も贋作であると言う説が濃厚となっていると言う事も言っておきますか。
さて、その理由ですが
一生成仏抄は富木常忍に宛てられた御書であるとの話ですがこの富木常忍と言う人は
日蓮が亡くなった後に出家し日常となり御書を収集された人としても有名な方ですよね。
その富木常忍に宛ての御書はすべて格護されているにも係わらず、一生成仏抄は真蹟が残っておらず
また、常修院聖教緑にも記載なし。同年代の御書とも法門の内容が合わず。
との指摘をされた段階ではこれを日蓮の真作と捉えるには確かに矛盾が生じるものと思えます。
となると「一生成仏抄」が日蓮の真作であると言う思い込みの執着から逃れるべきであると
僕はそう判断するわけですけどね。
これ一本だけに執着する事無く信じれる日蓮の真蹟は他にも多数存在するわけですから。
その中で日蓮の真意と言うものは汲み取っていくべきだと僕は考えますが。
245
:
しげきょん
:2011/02/15(火) 16:31:29
何か堅皇氏は創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような
印象を受けるような事書いてらっしゃるが何か事実でもあるのですか?
246
:
しげきょん
:2011/02/15(火) 16:55:56
堅皇氏こそ 依法不依人せよ
それはただの人師の堅皇氏が読むところの法華経解釈であり堅皇氏独自の解釈である
247
:
堅皇
:2011/02/15(火) 18:07:36
> 創価学会がマスコミを支配しているような大手スポンサーのような
充分大手スポンサーですよ。
ちなみに地方の広告代理店に勤めていた事があるわけでテレビのCMの放送料がいくらで
新聞の広告費がいくらかぐらいは大体想像が付きます。
特にテレビCMに関してはローカルスポットだけではなくなったので
どれぐらいのお客さんかと言う事も解る訳ですよ。
特に今は娑婆は不景気ですからね、ハッキリ言って上得意様の部類ですね。
俺が営業マンだったらあれだけのCM打ってくれるスポンサーは正直言って神様ですよ。
248
:
堅皇
:2011/02/15(火) 20:13:16
ところで「人師」とは、なんじゃらほい。
ざっと検索を掛けてみたけど
「経師は遇い易く人師は遇い難し」(資治通鑑)
経書の文や章句の講釈をしてくれる師は沢山いるが、人の行うべき道を教えてくれる師はいないものだということ。
「名利に人師を好むなり」(親鸞)
自自分は有名になりたいし師匠と仰がれたい思いがある。
ここから察するに人の道を教えてくれる師匠と言う事ですか?
そんな立派なもんではありませんよ。
249
:
怖くて名乗れません<m(__)m>
:2011/02/16(水) 02:27:49
一見、普通の女の子の日記ですが、
ある事をした後に更新しています。
かなり中毒性が高いので注意が必要かもしれないです。
ttp://prof9pop.web.fc2.com/hrk/
250
:
しげきょん
:2011/02/16(水) 23:47:27
そんなに立派なもんじゃありません
そのとおり仏の真意から 己義流の解釈の人のことを
人師という折伏の言葉として大聖人が使われている
人師=我流の人文証もなく自分勝手みそな見解を立てる人のこと
251
:
しげきょん
:2011/02/17(木) 01:04:56
創価に執着も諸法の一つではないでしょうか?
252
:
堅皇
:2011/02/17(木) 01:05:21
でさー、どこがどう独自の解釈か言ってみてよ。
ちゃんと法華経から文証出してる訳ね。
逆に本因妙を文証出して説明してみてよ。
253
:
しげきょん
:2011/02/17(木) 01:21:51
↑訂正創価の信仰も諸法即実相に入るのではないか
それが僕個人の執着だとしても
それを度外視しても創価の人自体は 意識があろうとなかろうと
諸法即実相に自然に生きてるのじゃないか?
そりゃ諸法実相に生きる人が多い少ないッ論議
省いても 世法の中で仏法を得て生きなさいという仏法だから
人生道の諸法に実相ありきじゃなきゃ仏法自体嘘になる
ただ迷い無く実相と思えるか迷うか宿業によるけどね
254
:
しげきょん
:2011/02/17(木) 01:42:13
一生成仏抄が真筆じゃないと誰にいつ教わったのか?
その証拠は
255
:
しげきょン
:2011/02/17(木) 02:17:33
文証またいつか遠い日にね〜〜〜
正直言って堅皇の話さっぱわからないし読んでて面白くないのよ
なんか二乗の人相手にしたら〜〜て感じ
てなことでばあい〜〜
256
:
堅皇
:2011/02/17(木) 07:49:11
当然、俺は創価の信仰も諸法の一つと捉えているよ。
ただ、創価の方々がそれ自体が実相として捉えているから誤りだと指摘しているわけよ。
一生成仏抄は御書を見ても解るように真蹟の存在が記されてないでしょ。
そこへ持ってきて
>>244
の理をぶつけられたら納得せざる得ないでしょう。
確かに「一生成仏」という言葉自体が一生成仏抄にしか出て来てない事も事実だし。
それを単に嘘だと主張してもそれを覆すだけの確固たる証拠が必要でしょ。
それと別に一生成仏抄がなくても題目の必要性を説く事は幾らでもできるわけだから。
さっぱり解らなくてつまんないと思うなら他人の事をいちいち誹謗するなよ。
折角題目唱えても誹謗していては無意味になるからね。
しげきょんさんの場合はもう誹謗する事が信心と捉えてしまっているところにあるから。
257
:
しげきょん
:2011/02/17(木) 08:35:19
僕が誹謗するのが信心ならばそれも諸法でしょうね
つまんないと言う赤裸々な実相があるからね
258
:
堅皇
:2011/02/18(金) 01:05:34
今の生活がつまんないと思うからという現実がそうさせるのだと思いますよ。
259
:
EUPA
:2011/02/26(土) 10:58:22
理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?
最近おかしいのか? もともとおかしいのか?
考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか? 理想の創価の在り方を願う心は、尊いと思います。
(これだけ世界的に大きな団体は、影響力は大きいし、方向性を間違えば、世界を不幸にするかも知れない。)
創価は、堅皇さまの意見を謙虚に聞くべきかも知れませんね。
私は、創価学会員ですが、こういう考え方もあるのかと、勉強させてもらい、
堅皇さまの話を大事に受け止めています。
私の場合、中から変えて行こうと思いますので、よろしくお願いします。
しげきょんさま はじめまして
堅皇さまは、創価を潰そうと思われていないと思いますので、
理想の創価を語り合うことで意見が合ってくるのではないでしょうか?
ぶしつけな事を言って申し訳ありません。
260
:
しげきょん
:2011/02/27(日) 01:10:00
EUPAさん はじめまして 堅皇氏の意見も(感情的に拒絶しなければ)創価の中から
改革する前提で聞けば建設的であると思います
ただ自分のペースやモチベーションを保ちながら聞く余裕をもって聞くことが大切です
広宣流布といっても僕らの運動であるから主体的精神は大切です
主体性を尊重しないものは拒まれてもしかたありません
むしろ主体性に 意味や価値を深めてく知識などは好まれます
そのようにありたいと願うものです
261
:
EUPA
:2011/02/27(日) 11:47:43
主体的精神……大事なことだと思います。
1. 組織は、人々を従属させるために存在するのか?(組織のために)
2. 組織は、人々の可能性を拓くために存在するのか?(人々、民衆のために)
指導する側が、2. の姿勢でも指導される側が、1. の従属しようとする姿勢で臨んでいたら?
指導する側が、1. の姿勢で臨んでくる人々をいかにして、主体的精神に立たせるか?
錯覚もありますよね。
聖教新聞の会合や、幹部会の写真。
軍隊のように集団で、従属しているように。
しかし違いますよね。
結果を出してる人も、出せなかった人も、(能動的に、積極的に、)励まされに来ている。より自分の可能性を引き出せるように。(能動、受動の観点から述べていますが、出席されている人たちは、それぞれのしっかりした目的を持たれて参加されている。)
聖教新聞の読み手側も、従うために読んでいるのか? 自分に対して励み励まされるために、自分の可能性を引き出すために読んでいるのか?
そんなの意識しないでいいのかもですが、生命力が弱っているとどうしても、受動的になり、従属する方向にならないかと。
従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
(質問以前に、答えを誘導しているような文章で、すみません。)
262
:
堅皇
:2011/02/27(日) 12:36:03
> 理想の創価学会の姿とは、どういう姿なのでしょう?
この場合創価学会と言う組織が何を理想に置いているかで変わりますね。
池田さんの思想を理想とするのか、法華経の題目を理想とするのか。
純粋に理想を追うとするなら全くの条件を付けずとも誰彼なく集まってくるものと言う事が理想なのではないかと思いますね。
> 最近おかしいのか? もともとおかしいのか?
日蓮宗及び日蓮正宗が、もともとおかしいと思いますから日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
また、近年にいたっては誰が見てもおかしいと思うから会員の減少や非活の増加が目立っているといえるのではないでしょうか。
認めようが認めまいが衰退の事実が組織のあからさまにおかしいという証明とも言えますね。
> 考えていくと、教義を間違ってとらえているのか? いや教義自体に間違いはないか?
これは両者共にあるものと思います。
事実、本因妙抄等は学術的にも日蓮の真作ではない事が証明されていますし創価もこれを明確には否定しておりません。
しかし、戸田さんの御書の編纂目的を見るとこの本因妙抄等の収録が最大の目的であるとの趣意が発刊の辞にも述べられています。
つまりこの時点でも創価は過ちを犯しているという事になります。
また日蓮を本仏、御書を聖典と捉え文証とする考え自体も日興門流特有の考え方であり
これらもまた本因妙抄を機軸とした考えであるという事を言わざるを得ません。
この様な歴史的事実を踏まえ創価学会と言う組織が今後どう転換するかと言う事に掛かっているかと思います。
目指す方向は法華経の行者なのか、それとも阿鼻地獄なのかと言う事ですね。
今のままでは確実に後者のほうだと言わざるを得ないですね。
263
:
しげきょん
:2011/02/27(日) 13:46:23
理想の創価と言っても、一人一人の内面に希望が燃えてるか、どうかだと思います
希望をさえぎる 魔性の奪命を破る希望でなければ、ならないと思います
要は理想の創価は希望の信仰によって一人から始める一人立つ信仰であると思います
一人に続く二人三人の原理だと言えます
264
:
しげきょん
:2011/02/27(日) 14:05:07
組織に従属とは苦しい境涯でありますね
むしろ仏法者は依報(環境周囲など)に対し主体者であり主人公であり
自由自在で在り続けるのが理想です
265
:
しげきょん
:2011/03/01(火) 00:19:44
EUPAさん>従属の反対は、率先 ?
では、師弟の理想の関係とは ?
従属の反対は自由自在の境涯だと思います
一つ仏法は、元品の無明からの解放です
266
:
東(空)
:2011/03/04(金) 13:39:34
昭和32年 [戸田先生] 生きていることが、楽しい状態だよ。私が、もし、ふつうの教授やなんかでありまして、ここで講義をしておったら、何時間講義しなきゃならん、どうしなきゃならんと思うでしょうが、私はイヤならやめちゃう。
私は生きて楽しんで講義してるんです。あなた方に義理なんか立てていませんよ。だからご遠慮なく(笑)
私は自分で生きているんです。講義をしたいから、しているので、イヤになったらやめてしまうだけのことだよ。
それを三身即一身の境涯というのだよ。
イヤならやめる、好きならやる。それで人に迷惑はかけないぞ。人に迷惑はかけちゃいかん。
自分だけのことは、自分が楽しんでおればいい。
今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)
それを、三身即一身、自我得仏来の境涯というのだよ。それを習って帰って
「おれは、自我得仏来だ、一パイ出せ」なんて、女房に言ったら承知しないぞ(爆笑)
わが心の境涯は、広々として、天空をわたるような境涯でなければならぬと、私は思うのだがな。
だから、僕は、講義していても楽しいのです。
267
:
堅皇
:2011/03/04(金) 18:09:27
> 今日の講義なんかも、自分で好き放題のことを言っているんです。こういったら、ほめられるか、
> こういったら嫌がられるか、そんなことは微塵(みじん)も考えてないぞ。
> 僕の思い通りの講義してるんだから。それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないか(笑)
これはもうジャイアンの言い分ですね。
リサイタルをやりたいからやる、それがイヤなら君ら来なきゃいいじゃないかと言われても
のび太くんたちには選択権は無いわけですから。
「イヤならやめる、好きならやる。」
こんな無責任な態度であれば、確実に人に迷惑はかける状況を生んでしまいます。
「妙法」はもちろん自分が楽しむ事が大事であるとも言ってるのですが
と同時にそれによって周りも楽しむと言う事も大事であると言うことですね。
「依報 正報ともに妙経を宣ぶ」であり、どちらか一方が欠けても妙法では無いと言う事ですね。
禅は依報と関わりを断ち正報のみで仏性を見出そうとするもので
真言は正報が依報を支配するというものでありますから戸田さんの理論は真言と言う事になるかと思います。
ちなみに、依報のみに走るのが念仏と言う事になりますね。
ですからこの場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。
で、戸田さんが何故にこんな事を口走ったかと言えば他でもない
日蓮正宗が発する「本因妙抄」と言う偽書に魅入られてしまったからであり
妙法とは正報を指す事だと思われたのでしょう、だから自分が楽しければ周りも楽しい筈だと思い込んでしまった。
これに関してはしょうがないところだと思います、なんせ日蓮正宗の教義はこの時点で偽書まみれだったわけですから。
端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。
268
:
東(空)
:2011/03/05(土) 03:43:20
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。
[戸田先生 質問会より]
「初代会長が罰論をいったとき、罰論は創価学会がかってにつくったものだといって、
坊さんのあいだにもずいぶん非難がありましたが、これは創価学会がつくったものでもなんでもなく、
御本尊様がきちんとおっしゃっているのです。うそだと思ったら、御本尊様をよく拝んでみなさい。
右のかたには 『若し悩乱せん者は頭七分に破れん』と罰論が、きちんとあります。
また左のかたには『供養すること有らん者は福十号に過ぐ』と功徳論が厳然としてあるのです。
戸田第二代会長が執筆された「寸鉄」より
昭和28年
・或る僧侶云く「此の頃少し罰と功徳の事がわかって来たよ」と、おそいおそい。
・御僧侶たりとも、信心および折伏の指導に誤りありと思わば直ちに会長に報告すべし。
・御僧侶に望む。現時の御僧侶は尊敬されるべき何物も持合せていないと思う。
若し、尊敬を受けたら自ら御自身に言い給え「衣の功徳と御本尊の御威光である」と。
・僧侶にして信心なしと云わば毛のなき猿が衣をつけたようなものである。
・なげかわしきかな魔の僧侶よ、大御本尊様は大慈大悲の大聖人様が凡夫マルだしの
その凡夫に賜わった事を知らざるか、僧衣をぬいで速かに地獄へ行け。
騙されたどころか戸田先生は坊主を諌めていらっしゃいます。
269
:
東(空)
:2011/03/05(土) 03:44:29
>これはもうジャイアンの言い分ですね。
てんとう虫コミックス、ドラえもん 全45巻 及び ドラえもんプラス全5巻において、
ジャイアンが「リサイタルに来るのが嫌なら来なければいい」といった趣旨の発言をしてるシーンは、
どこにもありません。したがってジャイアン、キャラクターと同列に論じるのは無理があります。
>日蓮正宗が発する「本因妙抄」
創価学会版御書に「本因妙抄」(P870)が記載されています。
>「イヤならやめる、好きならやる。」
例えて言えば、嫌な会社を辞めて、好きな会社に移り仕事をする事を「無責任」とは言わないでしょう(笑)
>この場合講義を行っている戸田さんが真言であり講義を聞いてる人たちが念仏と言う事になりますね。
この場合、戸田先生は師匠であり講義を聞いてる人たちは弟子です、師弟不ニ。
270
:
堅皇
:2011/03/05(土) 11:09:02
師弟不ニとは如何なる理論か。
単純な話、日蓮の師匠は道善房となる訳ですから日蓮は念仏を唱えなければならないと言う事ですね。
ま、法華経を第一とすれば「捨てた方便」の1つであり
法華経を受持し未だこの師弟不ニに執着していると結果的に謗法者となり阿鼻地獄と言うところですね。
法華経を理解するには真言、念仏はある意味誰もが通る道なのかもしれませんね。
空海、法然、日蓮と続くように
また、若き日の日蓮も真言がもっとも素晴らしいのではないかと誓いを立て
その後釈迦仏に念仏をした後、ようやく法華経に辿り着きましたからね。
正宗教義も日有さんの「本因妙」という真言思想から
日寛さんの「独一本門」という念仏思想による題目の解釈。
戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会い
ようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。
歴史は本当に繰り返されているものだと思いますね。
そう考えると
空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さんにも感謝するべきだと言う事は
最近は特に感じるところです。
271
:
東(空)
:2011/03/05(土) 12:20:31
>師弟不ニとは如何なる理論か。
師弟不二とは、師匠が持っている智慧を弟子がそっくりそのまま感じ取ることができるのか否かになる。
師匠は自分の持っている智慧を 惜しみなく全部弟子に分かち与えたいと考えている。弟子はその智慧を欲しいと思うか思わないかという立場になる。
戸田先生が生命論で述べている文章
「自分自身が死に直面したらどうか(中略)キリスト教の信仰にはいったり、
または阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、
心の奥底(おうてい)から納得するものはなにひとつ得られなかった。」
「道を求めてきた」というところが要点。
>戸田さんの真言的解釈から始まり創価学会が流布した南無妙法蓮華経と言う念仏と言うものに出会いようやく法華経の意味を理解する事が出来たわけですから。
>空海(日有)さん、法然(日寛)さん、極楽寺良観(池田)さん
↑これはもう酔っ払っている泥酔者の言い分ですね。昼間から酒盛りですか?(笑)
んで、
>日蓮正宗から教義を得た創価学会は創設時点からおかしかったものだと思います。
>端的に言えば戸田さんは日蓮正宗に騙された被害者の一人と言う事でしょう。
に対して、
>>268
に書いた事に関しては、反論出来ない、とみていいのかな。
272
:
堅皇
:2011/03/05(土) 14:37:55
「真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚だしく、到底之を信頼する事が出来ない上、
最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、
宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」
と言うのは戸田さんが御書全集発刊に置いて書かれた発刊の辞でありますね。
つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが
「宗祖の御真意」だと思われたと言う事ですね。
この時点で大間違いって事ではないですかね。
>>268
で戸田さんが日蓮正宗内に説法した内容は「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」と言う事なのかと。
と言う事はこの偽書中心の教学を植えつけた戦犯の中心人物であったと言う事になりますね。
この辺は創価学会の齊藤教学部長の方が良くご存知の事だと思います。
ただ、表立って戸田さんは間違いを犯していると言う事は言えないですね。
自身の保身の事を考えたら。
即組織から追われる立場になってしまいますからね、可哀想に。
これから出す御書全集に関しては発刊の辞を消す必要があるかもしれませんね。
こう言った改ざんや黙って消去すると言う行為は創価では日常に行われてきた行為ですから。
ただ、ここまで出回ったものを今更そんな事ぐらいで消せるものとは思えませんが。
273
:
東(空)
:2011/03/05(土) 16:57:21
御書 発刊の辞より抜粋 昭和27年
「大聖人唯一の正統であり大権威である日蓮正宗の発刊になる御書全集が皆無に近い現状であり、やむを得ず巷間流布されている御書に拠つていたが、相伝なき流流・学者等の編纂した書は観心本尊抄を始めその他種種の重要なる御抄に於て大聖人の御真意に叛く読み方をなし、或は誤をその儘伝え又は偽書を真書となし、真書と偽書と歪曲する等読者を迷わす事甚しく、到底之を信頼する事が出来ない上、最も重要なる血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄は巳に上梓を見た如何なる御書全集にも掲載されず、宗祖の御真意を拝せんとひたすら念願する者として久しく遺憾の念を抱かしめていたのである。」
>つまるところ戸田さんは偽書である「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」こそが
戸田先生は当時、は巷に出回ってる学者などの出した御書に、偽が出回っていることや、最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄が巷のどの御書にも載っていない、宗祖の御真意を拝したいと念願する者をして、遺憾の念を抱いた、と言っているのであり、
>>272
のような「切り文」でもって相手を騙そうとする手口はホケコーの十八番なのだ。
発刊の辞をよく読み直すことですな「血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」が偽書とはどこにも書いてないぞ、まだ酔いが覚めてないのかい?(笑)
274
:
堅皇
:2011/03/05(土) 17:29:14
全文載せてみたところで
「最も重要な、血脈抄・本因妙抄等日蓮正宗門外不出の御抄」との表現は覆い隠す事は出来ませんね。
何故ならこの「血脈抄」「本因妙抄」があってこそ日興唯一論、日蓮本仏論といったものから
日寛さんの六巻抄を始め文底独一本門といった
日蓮正宗特有の石山教学が成り立っていると言えるわけですから。
ハッキリと申し上げて僕は日蓮仏法を否定しているわけではありませんよ。
日蓮正宗の教義と未だ日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。
いくら齊藤教学部長がそのほころびをせっせと埋め繕い見せ掛けだけで誤魔化そうとしても
もうそろそろ限界なんではないですかと言う話ですよ。
学会のお掛けで念仏を唱えても、ある一定の功徳と言うものは得られると言う事は学ばせていただきました。
これが「魔の通力」と言う奴ですね。
しかし、あまりにも念仏が過ぎるとそのうち自身の未を滅ぼす結果になってしまいますよと警告しているだけですから。
そもそも真言と念仏と題目ではその発生する音の違いだけではなく、その理論がそれぞれに異なっています。
真言とは宇宙の真理、真如を指し示す言葉です。
つまり、題目を本因妙や宇宙のリズムと捉えること自体が真言と言う事ですね。
また、念仏とは仏に念ずると言う行為の事を指す訳ですね。
つまり、人本尊である日蓮に対し念ずる、法主に対して念ずる、創価三代を永遠の指導者として念ずる。
いずれにしても題目を念仏として捉え唱えていると言う事になりますね。
275
:
堅皇
:2011/03/05(土) 17:47:49
かたや題目とは何か。
その名と通り「お題目」つまりはタイトルの意味を指します。
つまりは法華経に書かれている法自体を信じる事になるわけです。
当然、文底独一本門といった物により書き換えられた法華経ではなく
ありのままの法華経を信じると言う事。
法華経では権実大小のあらゆる経文を賛美し、またこれから現れるであろう法も全てが一乗に帰する事が書かれています。
だからこそ、法華経の題目を唱える事によりあらゆる法を自らの力で得る事が出来るわけですね。
これを文底独一本門を義によって捨閉閣抛する事によって
この題目は法華経の題目ではなく文底独一本門の題目となってしまい。
結果的にあらゆる法を誹謗し謗法の輩に転じる事となってしまうということですね。
正に文底独一本門とは法然の記した「選択集」と同じ理論が綴られています。
ただ「南無妙法蓮華経」と唱えたところで肝心な理屈が念仏と同意なら全く持って意味を成さない。
行き着く先は当然見えてくると言う話です。
276
:
東(空)
:2011/03/06(日) 08:23:09
>日蓮正宗の教義に依存しきっている創価学会の教学を否定しているのですから。
初代会長、牧口先生のときから創価学会は坊主によらず、最初から御書を根本としてきた←聖教新聞社の、教学談話室という本にちゃんと書いてある
念仏だ真言だと、八百神信仰みたいなことを目指してるのかな?くだらんw
277
:
堅皇
:2011/03/06(日) 11:58:20
確かに牧口さんと戸田さんは最初から日蓮正宗とは別組織で出発しましたから
それは日蓮正宗と相まみえない部分はあったでしょうね。
また、牧口さんと戸田さんでもその方向性は若干違いますからね。
牧口さんは日蓮正宗とは距離を置いて付き合っていたのに対し戸田さんは宗内に入り込んでの付き合いですからね。
この辺を掘り下げると長くなりそうですから割愛しますが。
僕は聖教新聞社の本も読む事はありますがそれ以外の本も読みますからね。
やはり両者の物を読まない限り真実は見えてきませんからね、それこそ諸法実相で考えてますから。
真実は身に非ず土に非ず、身土にありってところでしょうね。
学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから
情報を鵜呑みにしてしまうと思います。
同じニュースを複数の角度から読んでいけば情報に騙される事はないと思っています。
278
:
東(空)
:2011/03/06(日) 13:04:33
>>269
のように私はドラえもん、も読んでいる
279
:
ぜんまい
:2011/03/06(日) 14:10:19
>>278
東さん、はじめまして。
私もドラえもんは読んでいました。
280
:
ぜんまい
:2011/03/06(日) 14:16:32
>>277
はじめまして。
>学会員の方は聖教新聞社系の本しか読まないし、アンチの方はアンチの本しか読まないから
私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。
またアンチ系のサイトを閲覧する事もあります。
281
:
東(空)
:2011/03/06(日) 19:37:43
ぜんまいさん、こんにちは(^ω^)
282
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 00:12:33
念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです
それを 師匠に念ずる 日蓮大聖人に念ずるとかて考えの概念を持つのは
創価学会員か元会員の堅皇氏lぐらいです
ごく一般的認識では 学会員は念ずるという言葉よりも
御祈念するという言葉を多用し、
決意を祈念する宗教的文化をもっています
御本尊に誓いを立てるyという行為は従来の阿弥陀思想のすがるという念仏思想からは
生み出されない民衆自立の文化です
それを学会指導者たちは現代語に訳し、一人立つ、と簡潔に訳されてます
仏典でも 師に誓いを立てる
釈尊の十第弟子のフルナの弘教の請願などがあるように
誓いを果たす弟子の力によって 教団の行く末を興隆するものです
大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)
の請願があります、修学時の請願が大聖人の青春であられたのでしょう
283
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 00:25:16
続き、大聖人の「一切衆生の智者と成らせたまえ」という請願は
即主師親の徳を因果具時に成就されたのでしょう
詳しくは省きますが
無作の三身の如来成就とも言えましょう
絶対の安穏の境智です
法難にあえども門下を慈しみ 親以上にも門下を大切にされ
末法の未来を託されたのです
284
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 00:37:04
>282 教団の行く末=サンギャ和合僧団の行く末
平たく言えば 日蓮門下の善智識の集いの行く末
とも訳されます
285
:
堅皇
:2011/03/07(月) 00:58:09
>>ぜんまいさん
はじめまして。
> 私は立ち読みを含めて、アンチ系の本を読むことはありますよ。
これは僕が学会員時代から基本の行為でしたね。
その昔は「週刊実話」なんかを読むと結構楽しい事が書かれていまして。
会館内の写真を掲載して、「この中で日夜幹部たちは宴会を繰り広げている」なんてね。
あーなるほど、あれだけだだっ広い畳敷きの部屋を見ると確かに知らない人が見ると宴会場に見えるわなと。
嘘もこれだけ書かれると気持ちが良いというのと相手に実状を説明するにはこういった記事を目にした方が
実際の答弁はしやすいものなんだと思いよく読んでいたと言う事はありましたから。
もっとも同時に組織内での体験発表や聖教新聞に載せるときの原稿に
幹部が赤ペンを入れて修正している事実も目の当たりにはしていたんですけどね。
まーある意味どちらの立場に置いても、その目的を考えた上である程度冷静な態度で
寛大に受け止めていたんですけどね、若い頃からそのへんだけは大人でしたから
水清ければ魚住まず、嘘も方便って事で。
このお互いの方便合戦に対して徐々にアンチ側からまともな指摘が入ってくる事が増えてきましてね。
それに対する創価の過剰反応に少し戸惑った時期もありました。
もっとも今はその戸惑いを通り越したものになってしまった訳でして
これでも昔はアンチからの指摘に対しある程度の弁護はしてきたつもりなんですけどね。
でも正直今は弁護が全く出来ない状況だと言う感じですね、残念ながら。
286
:
堅皇
:2011/03/07(月) 01:53:00
>>しげきょんさん
> 念仏と聞いて大体日本人は阿弥陀如来に 念ずるイメージです
そうですね、単なるイメージと言う事ですね。
つまりは思い込みと言う事になろうかと。
さてさて、仏は一体何の為に法を説いてきたと言うのでしょう。
毎日読んでいる方便品にはここ書かれています。
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
「私は仏と成っより已来(このかた) 種々の因縁、種々の譬諭をもって
広く言教を演べ無数の方便をもって衆生を引導して。諸の執着を離れさせてきた。」
だそうです。
つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。
> 大聖人の若きころも 虚空蔵菩薩への誓いなどが(一切衆生にとっての智者とならせたまえ)
その通りですね、若き日の日蓮は真言こそが第一と思われ、真言密教の菩薩である虚空蔵菩薩への誓いを立て
釈迦仏を本尊として念仏により経を読誦されました、間違いはございません。
この後に日蓮は法華経第一と悟られ立宗宣言を行ったわけですから。
ですから、真言も念仏も一度は通る道なのかもと言っているではないですか。
ただ、くれぐれも念仏が過ぎると行き着く先に気をつけましょうと言うことですね。
287
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 08:59:03
日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?
ひいては法華経しゃくもんの立場も破り去った本門上行の垂迹を払って
久遠以来の如来の境涯を開かれた
末法の衆生の主師親のを確立したのではないだろうか
288
:
堅皇
:2011/03/07(月) 10:44:02
> 日蓮は 真言念仏などの権教への執着をも絶たれたのではないでしょうか・?
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
更に言えば真言念仏は権経ではございません。
いずれも実教である法華経以後のものであり、その法華経の理に反し
尚且つ法華経を無視したり法華経より優れているとしているから謗法だと言う事です。
方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか説いてないわけですね。
舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。
また、比喩品では世尊は舎利弗に遊び場で此の法印を宣伝するのはダメだと説かれています。
何故ならば、この「以信得入」の此の法印は利益か大きいのと同時に大変危険だからと言う事ですね。
特に執着の強い人、依存の強い人(増上慢)に聞かせれば法を謗り阿鼻地獄へ落ちるとも言われているからです。
解ります?「以信得入」と言ってもただ何でもかんでも信じればよいと言う話ではないんですよ。
創価の指導では誰彼構わずにこの「以信得入」と言う言葉を宣伝してますが。
密教の始まりはこれらを元にして段階的に秘密裏に仏法の実践を行おうとしたわけですね。
もちろん密教の形態では、取り仕切り側のさじ加減で変わるものなので法華経の趣意を掴んでいるとは言いがたいのですが。
しげきょんさんの話は日蓮や法華経の理論ではなく日寛さんの理論ですね。
「選択集」と同様な理を立てた日寛さんは執着の強い人(増上慢)だったと言えると思います。
289
:
御意見番
:2011/03/07(月) 14:05:37
>>288
>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。
方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。
>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。
釈尊が十如是・世雄偈を説いた後、舎利弗以外の衆生が動執生疑を起こし、
舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりの後に「五千の上慢」が会座から
立ち去ってはいるけど、霊鷲山の会座には五千に留まらないほど数多くの
衆生が集ってたわけですが。
堅皇さん。
貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?
290
:
堅皇
:2011/03/07(月) 15:44:54
> 方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
> 霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが。
ちもろんその程度の事は理解しております。
但し、立ち去っていった上慢の比丘・比丘尼の存在があると言う事ですね。
更に加えて言えば、この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね。
彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから。
具体的に謗法者となるのは此の法を謗る事にあるわけですからね。
つまりは権経自体は法華経に近づけるための方便と言う事になり
法華経を知りつつ法華経を謗る真言念仏が謗法と言う事になりますね。
日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。
さて、法華経の何処に権経を誹謗して捨閉閣抛しなさいということが書かれているというのでしょう。
ましてや法華経を所破とはあるまじき行為であり正に念仏と同じく謗法であると言えますね。
291
:
御意見番
:2011/03/07(月) 17:16:11
>>290
>ちもろんその程度の事は理解しております。
堅皇さんは「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」と言ってたでしょ?
舎利弗を対告衆として、霊山の会座にいた一切衆生に説いたとされる方便品の経文と
異なる話をしておきながら、な〜にが「ちもろんその程度の事は理解しております」
ですか(呆)
>この立ち去っていった比丘・比丘尼の存在に対して世尊は謗法者とは扱ってないですね
>彼らはまだ此の法に出会ってないわけですから
「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。
その上で、十是実相の話に動執生疑を起こして霊山の会座から立ち去ったという
方便品の流れを理解出来ないで、な〜にが「彼らはまだ此の法に出会ってない」
ですか(呆)
292
:
堅皇
:2011/03/07(月) 17:28:52
ところでふと思ったのですが御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。
経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。
もしかして法華経の解説書などを目にされてそう思われたのですかね。
ちなみに僕はこの「妙法蓮華経」自体が方便であると捉えたから舎利弗と言う個人ではないとの判断なのですがね。
また訳を読むにあたって一人の訳では読んでないわけですね僕は
より現代訳に近い方が読みやすい理解しやすいと言う事はありますが同時に意味が若干異なる場合があります。
例えば「三昧」と言う言葉等を取り上げれば「瞑想」などと訳されているものもあります。
確かに解りいいと言うこともありますが、では「禅定」とは何か。
同じく「瞑想」と訳されていたり、「如来」と言う言葉も単純に「仏」と訳されている場合もあります。
「如来」と「仏」が同義であれば最初から書き分ける必要はないわけですね。
1つの訳文、解説書に依存してしまう事も同じく著に囚われる事だと思います。
御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると判断されたのかは解りかねますが
もし、解説書に書かれているからと言う理由であれば解説書に依存されている事になり
その状態こそが増上慢だと言う事になるかと思います。
と言うのも石山教学に触れている方々は南無妙法蓮華経という教相が真言であるとの考えですから
御書を読む場合でも教相で捉えるところがあると思います。
方便品を教相で捉えると単に舎利弗という二乗作仏の話と捉えられてしまいますが
これを観心で捉えると二乗作仏であるなら全ての衆生もまた十如是であるから自ずと「煩悩即菩提」の文字が浮かび上がってくるわけですね。
つまりは「煩悩即菩提」は確かに密教で表現された言葉ですが
法華経の文の底に既に沈めてあったということになります。
よく石山教学の方々も文証、理証、現証と言う言葉を使われますが、実際に用いられているのは文証だけですね。
理証となる考えはどこかの解説文書に依存して現証に至ってはまるで無視、これを増上慢と言わず何を増上慢と言うかですね。
293
:
堅皇
:2011/03/07(月) 17:34:15
> 「十是実相」は、五千の上慢も、一応は聞いてるわけですよ。
「十是実相」は法華経の触りですよ。
舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。
294
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 18:02:08
>方便品の十如是・世雄偈は、舎利弗を「対告衆」にして説いてるけど、
>霊鷲山の会座には舎利弗以外の衆生も数多くいたわけですが
それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ
295
:
御意見番
:2011/03/07(月) 18:03:17
>>292-293
>御意見番さんは何故にこの舎利弗が「対告衆」であると読み取られたのでしょう。
「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことを
いうわけでしょ。
>経文には何処にもそんな事は記されていないと思うのですが。
方便品の始めに
「爾の時に世尊、三昧より安詳として起ちて、舎利弗に告げたまわく」
で、「舎利弗に〝しか〟説いてない」「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟
世尊は語り始めています」とする堅皇さんは、釈尊が「舎利弗に告げたまわく」で
方便品を説き始めた時、霊山には「舎利弗一人しかいなかった」と解釈してたの
ですかい?
>「十是実相」は法華経の触りですよ。
>舎利弗が三度懇願した後にようやく世尊は説かれ始めていますよね。
舎利弗が三度懇願したのは「十是実相」の後でしょ。
堅皇さんの発言を再掲
>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。
>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。
堅皇さん。
貴方が有する法華経の知識、大丈夫ですか?
296
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 18:10:26
舎利仏は一人霊山会にいたのではありません
二乗を代表してその他の眷属一同釈尊の十如是方便を説いたのです
297
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 18:44:48
>日寛教学では権経、更には実教である法華経を捨閉閣抛するように促しております。
間違ってる事説きなさんな
しゃへいかくほうは法然の説いた謗法でしょう
混乱狂学は止めなさいよ
298
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 19:02:33
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
権教は欲望やエゴの生き方をセーブしてきたけど
末法に近くなり権教の僧が欲得や名声欲に溺れて着出してもはや方便の権教じゃ
治せなくなっており
日蓮は方便権教ではもはや成仏もかなわないし
社会も混乱して何も解決しないと説かれて南無妙法蓮華教の 大法をもって
根本的無明法の正しい道に暗き衆生にっとって太陽のように明るい希望の道を切り開いたのです
299
:
堅皇
:2011/03/07(月) 20:44:22
> 堅皇さんの発言を再掲
> >方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
> >説いてないわけですね。
> >舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
> >更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。
御意見番さんがどう解釈したか存じませんが
僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然
「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を指しているわけですよ。
つまりは三乗はなく全てが一乗であるというくだりの部分ですよ。
ここが世尊が説くのを最もためらった重要な箇所なんですから。
> 「対告衆」は「仏が説法する時の聴衆の代表者」(仏教哲学大辞典)のことをいうわけでしょ。
そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり
唱える題目も「南無妙法蓮華経」であるわけですからそれ以外は全ては参考程度と言う話ですね。
300
:
堅皇
:2011/03/07(月) 20:46:28
>>しげきょんさん
> それは確かに多いよ、現代で192カ国のSGIのメンバーが 御宝前で
> 異体で会座に連なっているもの まだ世界広布の前半だから
> 六万劫沙の数は地球の今の人口を超えるものだも
> これから陸続と地涌の菩薩がどんどん出て来るものだよ
創価学会も何時の間にか本当に傲慢な存在になってしまったもんですね。
創価学会は地涌の菩薩確定と言う話ですか。
俺がまだ子供の頃は「法華経に地涌の菩薩の事は書かれているが創価学会が地涌の菩薩のという確証はない
でも我々が地涌の菩薩だと言う事を信じて頑張ろう」という話をする幹部も沢山いたのですが
もうこう言った姿勢で捉えている人は誰もいないという話ですね。
もうこうなると「嘘も方便」ではなく「方便が真実」って事になってしまっているわけだ。
もっとも「本因妙」と言う言葉自体が「方便が真実」って話なのでしょうがないですけどね。
301
:
堅皇
:2011/03/07(月) 20:49:40
その勝手な思い込み、依存、執着の持ち主の事を「増上慢」と言うわけですよ。
302
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 21:27:18
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな
303
:
しげきょん
:2011/03/07(月) 21:28:22
なんか過去の指導者の言に拘ってますな
その当時の 幹部の言葉
も古いですな
304
:
御意見番
:2011/03/07(月) 22:25:13
>>299
>僕が「舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった」とするものは当然
>「爾時世尊。告舍利弗。汝已慇懃三請。豈得不説。」から
>最後の「随宜方便事。無復諸疑惑。心生大歓喜。自知当作仏。」までの事を
>指しているわけですよ。
堅皇さんの元発言を再掲
>吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
>は、権教が執着から離れさせてきたと言ってるわけですね。
>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。
>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です。
「吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。」
この経文は「汝已慇懃三請」の後ではなく、十如実相(十是実相は漢字間違いでした)
の前に説かれているわけでしょ。
>そんな事だと思いましたけど僕が信じるのは「妙法蓮華経」であり
七文字の題目を信じるのもいいけど、法華経の教学を語るならば、
法華経開結の読み下し文を読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。
305
:
堅皇
:2011/03/07(月) 22:54:55
>>御意見番さん
まいりましたね、ここでも切り文で来ますか。
>>286
僕の発言は
吾従成仏已来。種種因縁。種種譬諭。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。
この辺の説明では「此の法」とは言ってないですよ。
僕は「仏法とは」と表現してありますからね。
> つまりは仏法とは本来この様な衆生の思い込みと言う著(執着)から離れるために為に法を説いたという話ですね。
> 確かに思い込みによる判断と言うものは物事を見誤る危険性が高いと言えますからね。
そりゃそうですよ、毎日勤行で唱えている部分はこれまでの権経を褒め称えている部分であり
まだ核心部分に入ってないですからね。
何故に石山流の勤行が長行ではなく「十如是」までで終わっているかは
「十如是」が核心部分だと思ったか、増上慢の集まりの団体だからかは知りませんけどね。
方便品の一連の話をちゃんと最後まで聞いて初めて
「正直に方便を捨てて 但無上道を説く」となるわけですから。
いきなり権経の方便を取り去ってしまったら法華経にたどり着く事も出来ないわけではないですか。
つまるところ仏法の何たるかを理解する為にも権経は必要であり
また、法華経に辿り着いた人は権経の理に執着してはいけないという事でしょう。
石山教学は完全にその逆を行っていると申し上げたいわけですね。
306
:
堅皇
:2011/03/07(月) 23:50:27
>>しげきょんさん
> なんか過去の指導者の言に拘ってますな
指導じゃないよ、それだけ昔は御書を創価から配られた解説本だけを鵜呑みにしないで
ちゃんと考えて読んでいた人が多かったって話よ。
当事は、子供だったからそれこそ意味が全然解らなかったけど今になっていろいろと思い出すことが多いわけ。
「久遠元初」に対してなんか言い訳臭くて納得できないなと言う話や
日顕曼荼羅が謗法曼荼羅と言い出したのは危険な話だとか
「九識論」と「一念三千」は本来別次元の話だとか。
今となるとなんでこの様な議論をしていたかの意味が良く解るという話ね。
307
:
堅皇
:2011/03/08(火) 18:13:57
えーと、1つだけ僕の書き込みに関してのお詫びです。
勤行に関しての方便品での「十如是」と言う物は石山流に限った話ではないということ。
また、この「十如是」までを長行とする考え方もあるみたいですね。
これは一体何を所依としているかと言う根拠までは解りかねますが。
一宗派の問題に書いた事はお詫びいたします。
宗内の腐敗に関した事例も日蓮正宗だけに限らずその他の日蓮宗派でも多かれ少なかれありますからね。
もっとも広宣流布というものを目指しながら各門流と称し組織の分裂を繰り返しているのは
何も石山派だけに限った話ではないということでもありますからね。
308
:
御意見番
:2011/03/08(火) 23:16:09
>>305
>僕は「仏法とは」と表現してありますからね
ほぉ〜
>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。
「此の法」を「仏法」とした場合、
そうなると釈尊は「仏法」を「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」
ということなのなのかい?
堅皇さんの発言を再掲
>方便品を読むと解りますが世尊は此の法を声聞・辟支仏である舎利弗にしか
>説いてないわけですね。
>舎利弗以外が部屋を出て行ってから世尊は語り始めています。
>更にその舎利弗にですら此の法を説く事を最初はためらった訳です
舎利弗と釈尊の「三止三請」のやりとりは、会座にいる衆生を意識した内容に
なってるでしょ。
舎利弗「今者四衆、ことごとく皆疑い有り、唯、願わくは世尊、この事を敷演したまえ」
釈尊「もし、この事を説かば、一切世間の諸天及び人、皆当に驚疑すべし」
会座の衆生が十如実相の文を聴いて疑いを起こしたがゆえ、その衆生の心を知った
舎利弗が、衆生の疑いを晴らすため、代表して釈尊に教えを懇願し、
釈尊がそれを拒否するやりとりが「三止三請」なわけだろ。
だからこそ、舎利弗が、会座の衆生を代表する「対告衆」としての意義があるわけ
じゃんか。
「舎利弗に〝しか〟説いてない」
「〝舎利弗以外が部屋を出て行ってから〟世尊は語り始めています」は、
五千の上慢に入らなかった会座の衆生を無視した我見だぞ。
何度でも言うけど、法華経の教学を語るならば、法華経開結の読み下し文を
読み直して、経文の基礎知識を身につけなよ。
309
:
しげきょん
:2011/03/08(火) 23:24:15
堅皇氏の考えると言うのは疑うと言うことを意味している
つまり不信を合えてするという考えですね
不信こそ 迷いの主、、無明ですよ
以信得入以前の考えですよ 悟りから迷いへの転落ですよ 即身成仏から
歴劫修行への転落ですよ
310
:
堅皇
:2011/03/08(火) 23:50:09
>>御意見番さん
解んない人ですね。
仏法と言えば南無妙法蓮華経も権実大小も全て含まれるわけでしょう。
それに対する「此の法」と言う表現は見て取れば解るっしょ。
>>しげきょんさん
先ずは方便品を全部読んでみるとこ。
また比喩品に書かれている「以信得入」の前後をよく読んでみることですよ。
そうすればただ何でもかんでも信じればよいと言う事ではない事が解りますよ。
先ずは信と著の違いを見極める事ですね。
しげきょんさんのは信ではなく著だから。
311
:
しげきょん
:2011/03/09(水) 19:18:37
別に以信得入を説いたからと言って
なんでもかんでも 信じろと説いていません
貴方の脳内変換で 勝手に言われちゃ話になりませんわ
もちろん御本尊の当体であることを 強く信じ智恵へと転換することですよ
基本は御書御本尊大聖人です
312
:
しげきょん
:2011/03/09(水) 19:30:43
堅皇氏の説は 方便を説かなきゃ仏法に入れないという執着に囚われています
法華経の真実から法は説くべきです
勇気があれば、、、だが
313
:
しげきょん
:2011/03/09(水) 19:42:08
方便をごまかしごまかし説いていけば ごまかしが本当と思う人が出るでしょう
真実を説くから大聖人と同じ勇気慈悲が湧現するから人生が楽しいのでしよう
つまり方便は方便でしかないのです法華経は題目で得た真実の体験を説くものです
回りくどい方便なんか説いていたら広宣流布は大変立ち遅れてしまうものです
314
:
堅皇
:2011/03/10(木) 12:11:11
>>基本は御書御本尊大聖人です
かつては同じくそう思っていたんですけどね。
ただ、御書御本尊大聖人と言う事自体が、日蓮正宗が作り上げた「本覚思想」によって成り立っていますからね。
この「本覚思想」と言う物は秘伝や口伝主義が多発し比叡山の僧風を堕落させた中古天台と同じ思想ですからね。
また御書を基本と据える事が秘伝や口伝を持ち込むには都合の良い状況であるとも言えます。
簡単な話、秘伝や口伝を日蓮の御書だと信徒に触れ回れば良いだけの話になりますからね。
つまりは中古天台の悪しき時代に逆戻りと言う事になると言う事です。
仏法では「信」を段階的に捉えているわけですね。
シュラッダー:信 プラサーダ:浄信 アディムクティ:信解 バクティ:誠信
で、バクティと言う物は本来仏法にはないものでヒンドゥー教によるもので
まーバクティとは「絶対の帰依」と言う事ですね。
これに対する仏法はプラサーダ止まりと言う事でも仏法が宗教では無かったと言う事が物語れますね。
羅什の「妙法蓮華経」が逐語訳ではなく意訳と言う事はご存知かと思いますが
本来のプラサーダをバクティに意訳したのは他でもない羅什と言う事になります。
余程その書かれている内容に確信があったという裏づけにもなりますよね。
更にこのただでさえ「信」をより強調した羅什訳の「妙法蓮華経」に対し更に「南無」を加えて
更に「信」を強調したという事になります。
つまり日蓮にとっての「妙法蓮華経」と言う物は「絶対の絶対の帰依」と言う事になるわけですね。
そこまで日蓮が誠信を尽くした「妙法蓮華経」を何故に信じれなくて本覚思想の秘伝や口伝書を信じるのかと言う話。
であれば、「南無御書御本尊大聖人」でいいのではないですかね。
もっとも石山派の中ではそれ以前にやってる行為が「南無日寛上人」「南無六巻抄」「南無文底独一本門」ですけどね。
315
:
しげきょん
:2011/03/10(木) 22:56:22
所詮仏法が存在するのは
行学二道が行われるところしか存在しないのでは
折伏の行、教学の学の、二つを怠りなく進める人のいる場所が寂光土ではないかと
言えるのです
学だけでは観念的にしか仏法がありそうなだけで 実践の行に具体的証拠になる
仏法の実在が出てくるのではと思います
それは権益冥益の二つの利益があるのは当然ですが自身の命に実態として
どちらも行学の結果証拠として現れてくるものだと確信します
316
:
堅皇
:2011/03/11(金) 02:37:02
>>しげきょんさん
行学二道と言ってもねぇ。
その「行」をやるにしてもしげきょんさんの場合、体力も精神力も既に枯れ果ててるのではないですかね。
ぶっちゃけた話、両親が倒れてしまったらしげきょんさんはどうやって生きていくのか。
しげきょんさん自身の体調も去ることながら両親ももう若くないでしょうに。
一日も早く依存癖から抜け出せるようには願ってます。
と言う事で構うのはもうお仕舞い。
このままではもう何も変わらないと思うので、本当に困ったときが来たら
訊ねてきてくれればいいから。
それでは説教オヤジさんの復活も見込めそうに無いので
お元気じゃなさそうだけどお元気で。
317
:
しげきょん
:2011/03/11(金) 23:16:34
お構い無く、、、依存じゃなく親子互いに協力し合って生きています
これも創価のおかげです
仲良く協力し合っているのが 言葉だけで依存と断じられては
かなわないよ ほっといて下さいなとしか言いようがない
貴方は貴方の道を歩めばいいよ
320
:
首都高バトル01
:2011/09/30(金) 10:11:09
堅皇さんと説教オヤジさん〜 のスレで、
>50 より、たぶん勢いで書かれたと思うのですが、
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」とありますが、一念三千は、天台によってではないですか?
そのところ、すみませんが補足願えれば、ありがたいのですがよろしくお願いします。 しょうもないツッコミをしてすみません。
どこに書いていいのやら、ここのスレの皆さん、突然 申し訳ありません。
321
:
首都高バトル01
:2011/09/30(金) 11:14:08
ついでですので、十如是ってなんでしょう?
十の如是の語句の解説ではなく、華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。
十如是の映像を持って十界が顕れ、十界のそれぞれの一念によって十如是の映像が、顕れる。
依正の依、つまりまわりや環境、他人の一瞬のしぐさに十如是の映像を見る間もなく(本当は見ているが、めちゃくちゃ速い)、十界のどれかを観じ、
そしてそれに素早く反応しようと今観じた十界とは別に、対処しようと(依正の正)、自らに内在する十界が顕れ、どう対処するかの十如是の映像が意識に顕れる。これも瞬間なので内在する十界のどれかが顕れ、その強い一念で十如是の映像を確認することなく、その映像のとおりに行動しているのかもしれない。
つまり十界互具は、互具にとどまらず、互顕するのではないでしょうか?
まとめてみます。
「 十如是を持って、十界は顕現し、十界を持って、十如是は顕現する。南無妙法蓮華経を持って(唱えることにより)、仏界が湧現し、仏界を持って最高理想(具体的行動内容)の十如是が顕現する。
観心本尊抄講義で戸田先生曰わく、「 妙法蓮華経とは、即これ十界互具である 」
322
:
首都高バトル01
:2011/09/30(金) 11:28:53
では、仏界の一念とは、どのような生命状態なのでしょう?
一つの方向から、また機会があれば述べてみたいです。
一応まとめていますので...。
323
:
説教オヤジ
:2011/09/30(金) 22:14:57
開目抄上
「法華経方便品の略開三顕一の時仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う、」
開目抄下
「宗宗互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり
天台の一念三千これなり」
一念三千法門
「法華経は念念に一心三観一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され
無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身煩悩具縛の身即本有常住の如来となるべし、」
一念三千法門
「法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観一念三千と云う事あり、」
まだ、言わせるか?
324
:
堅皇
:2011/09/30(金) 23:07:08
>>首都高バトル01さん
一念三千は、天台によってではないですか?
これは説教オヤジさんに対しての質問だと思いますがその通りで
一念三千は法華経の諸法実相、十如是を天台が釈したものですね。
更に言えば十界論も天台の釈ですね。
ただあえて言うならば諸法実相も十如是も一念三千も十界論も同義であると言えますね。
天台は法華経最上の元で釈されてますので
全てが一乗と言う事で法華経の義に反してないと思われますから
「 釈尊は法華経方便品に於いて十如是を説き、一念三千を明かした 」と言う文には
僕は指した違和感は感じません。
厳密に言うのであれば釈迦は法華経は説いてませんし
法華経を説いたのは釈迦滅後の僧集団であり
更に天台や日蓮が指す法華経とは、その梵本法華経の事ではなく
鳩摩羅什訳の妙法蓮華経を指すわけですから
「釈尊は法華経方便品に於いて」の時点で釈尊は法華経を説いてないだろうとなりますし
「法華経方便品に於いて十如是を説き」の時点で法華経では十如是は説いてないだろうと言う話になりますからね。
325
:
堅皇
:2011/09/30(金) 23:07:45
> 華厳教にある「こころは、工(たくみ)なる画師」とあるように、
> 一念を強く持つところに、意識に顕れる映像も生命内において、十如是ではないでしょうか。
これは違うと思います。
と言うより妙法蓮華経第一の解釈ではないと言えます。
華厳経にある義を妙法蓮華経の義により釈すのは妙法蓮華経第一となりますが
妙法蓮華経の義を華厳経の義により釈すとそれは華厳経第一となってしまいます。
例えるならそれは「煩悩即菩提」を「菩提即煩悩」としてしまう様なものですね。
これは真言宗が妙法蓮華経第一と捉えずに大日経等を第一と据えてしまった事と同じ過ちに思います。
日蓮の言い分によりますと真言は天台の一念三千を用いているにも拘らず
妙法蓮華経の義(もちろん諸法実相)から外れているので、語だけを用いるのは泥棒だと揶揄しているわけですね。
もっとも妙法蓮華経よりも華厳経が第一であると捉えられているのであれば
華厳経より妙法蓮華経がどれだけ優れているかと言う話から始めなければいけなくなりますが。
でもって天台の一念三千、三千一念は当然一念が実相であり三千が諸法と言う事が当て嵌まりますが
その一念とは何なのかと言われれば、やはりそれは諸法実相と言う事になろうかと思います。
つまりは、諸法実相の実相とは諸法実相であり、その実相もまた諸法実相で形成されていると言う事。
人間は何により形成されているかと言えば細胞の集合体であると言う事
その細胞は何により形成されているかと言えば細胞を形作っているものの集合体。
何処まで言っても諸法実相は諸法実相で形作られており実相と言う単体の存在はない
無限の無始無終と言う話であると言う事であると言えますね。
この妙法蓮華経の諸法実相に反し全ての宗教は始まりを見出そうとして
その始まりを神や本仏と言うもの作り出しているわけで
真実は諸法実相、十如是と言う縁起によって成されると説かれているのは
妙法蓮華経以外に現時点では存在していないと思いますから僕は妙法蓮華経を信じているわけです。
326
:
説教オヤジ
:2011/10/01(土) 05:44:57
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
>一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う、
十法界事
>本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、
まだ挙げろってか?
327
:
堅皇
:2011/10/01(土) 18:38:53
説教オヤジさん
「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」も「十法界事」も単なる日蓮の釈ですよ。
ここでの質問は法華経(妙法蓮華経)に一念三千や十界論と言う物が出てきているのかと言う話です。
一念三千や十界と言うものはあくまで天台が妙法蓮華経の「義」によって表現された「語」であるという事です。
328
:
首都高バトル01
:2011/10/02(日) 02:05:11
遅くなって申し訳ありません。
説教おやじさんへ
いっぱい書いてくださいまして本当にありがとうございます。
勉強になりました。 子どもがおぼえたての言葉を連発するように、こういう指摘をすると言うことは、まだまだ未熟者です。ご勘弁のほどを。
堅皇さんへ
諸法実相の言葉は、そのとおり諸法実相なんですが、しかしその言葉は、指すゆびですよね。この世の中というか、十法界、森羅万象という大きな視点というか、全体像で視ると、諸法実相の実体は、生命ですよね。
それからご指摘の文章が、華厳経第一(私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)にならないようにするには、どう書き換えるかということですよね。
(1)引用文が見当たらない。
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。
(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?
(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?
(5)とにかく妙法蓮華経こと法華経第一にしたいので、文章をどう組み立てたらいいか考えてみます。、、、文章をあとさき逆にしてもなぁ〜、五陰もな〜、難しいです。ハイ。
329
:
首都高バトル01
:2011/10/02(日) 02:42:28
付け加えて〜
諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。
330
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:23:54
首都高バトル01さん
> (私は、妙法蓮華経こと法華経が第一だと思っておりますので)
とのお話ですが基本的に日蓮信者の方々は法華経が第一ではなく
日蓮及び御書第一と捉えられている方が多いと思います。
更に言えば日興門流では日興第一であり御書に外れる義であっても遺誡置文にあればこれが第一
もっと言えば、日蓮正宗で言えば歴代法主の書にあればこちらの方が第一となり
御書や妙法蓮華経から外れる義であっても、これを第一として捉えているわけです。
これが正解か不正解かと言う議論はその内容を精査する必要があるとして
言えるのは妙法蓮華経が第一と言う事ではなくなってしまっていると言う事です。
その際たるものが「久遠元初の自受用報身」や「文底独一本門」と言う事ですね。
妙法蓮華経にある語は「久遠実成」に「諸法実相」ですから
この義に照らせば「久遠元初」は「久遠実成」と義が異なりますし「文底独一本門」は「諸法実相」と義が異なりますよね。
異なる義が交差する時にどちらの義を根本に第一として捉えるかと言う事ですね。
僕は妙法蓮華経を第一と据えますから「久遠元初」や「文底独一本門」と言う方便は法華経を理解した時点で捨方便しますが
日蓮正宗及び創価学会の方々は歴代法主の書を第一と捉えてますから逆に
「久遠元初」や「文底独一本門」を持ってして「久遠実成」や「諸法実相」の方を捨方便していますよね。
ちなみに天台の「一念三千」は「諸法実相」に義が異なるものではありませんが
「一念三千」の「一念」もまた「諸法実相」ではなく「実相」と言う単体のものと解釈するならば
妙法蓮華経と義が異なるものとなり、禅宗や真言宗の様な捉え方となってしまうということです。
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
331
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:24:37
また、十界論では仏性は人々の中に久遠の昔から既に内在する事を表現されているわけですから
「久遠実成」の義を解りやすく表現されたものであるといえますが
「久遠元初」では九界の境界を超えた仏性はある日突然一人の人物によって発生させたという考えであり
天台の「十界互具」と言う事にも義が異なると言えると思います。
以下ご質問の回答です。
(1)引用文が見当たらない。
僕は妙法蓮華経を第一として考えていますので文証は基本的に妙法蓮華経及びそれを証明させるための諸経です。
加えて妙法蓮華経を第一と捉えた上で妙法蓮華経を守らんがための第二に大般涅槃経を用います。
日蓮信者の方々はどうしても「語」に拘る方が多いようですが
僕は「義依不依語」の観点から「語」ではなく「義」を追求しているわけです。
「語」に拘り音読、丸暗記を基本として考えているのは真言密教の考え方ですね。
対する羅什、天台、日蓮に共通する事は「語」に依らず「義」に依り解りやすく意訳して伝えているところにあります。
これが仏法がインド、中国、日本へ渡って使われる言葉や表現方法が異なれど
その「義」が伝わるものだと言えますが
密教が用いた音訳は発声自体は継承されても「義」が全く異なり
仏法が仏法で無くなってしまった所以であるとも言えると思います。
大切な事は「語」なのか「義」なのか、その両方を比べた時
僕は間違いなく「義」が大切なものであると思っています。
意味の解らない丸暗記の文章を羅列するよりは、その「義」を汲み取り
少しでも理解しやすいように伝える事が本命だと考えています。
332
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:25:26
(2)法華経寿量品の神通力如是あたりから〜雨曼陀羅華.散仏及大衆は、仏の目や境涯を通せば(これは大事なことなのですが)、そう見えるということで
全体ではないですよね。
先にも説明しましたが人は「十界互具」であり「久遠実成」であるわけですから
「仏の目や境界(境涯ではなく境界)を通せば」で言う「仏」とは人々に内在するものですから
なにも偏った思想では無いと言うことです。
「仏の目や境界」とは誰もが既に用いているものであると言えますから。
これを引き出せるか引き出せないかと言う話であり、仏とは人間を超える何かと言う事ではありませんから。
(3)天台大師は、華厳経を引用しているのは、どうとらえればいいのか?
また日蓮大聖人は、天台大師が華厳経を引用することを、どうとらえられているか?
諸法の引用はしますよ、妙法蓮華経では一切の諸法を認めているわけであり
また、それらの諸法の中に実相があると言っているわけですから引用しないわけがないです。
但し、天台も日蓮も諸法の段階的な優劣は説いています。
これは妙法蓮華経を守り広めるための大般涅槃経の義ですね。
どちらも間違いではないと言う観点に立ち、どちらが最上かを計るためのものですね。
A案しかなければA案を選択するしか道はないですが
A案とB案が存在すれば、どちらがベストであるか計る必要があるでしょう。
互いに逆の方向を目指せばまとまるものもまとまらない。
そこで優劣を決め考えを纏める必要があるということです。
その中で最も優れていると判断されたのが妙法蓮華経であるわけですから
華厳経の義を妙法蓮華経で解釈すれば最上の解釈となり
逆に妙法蓮華経を華厳経の義で解釈すれば最上の解釈ではなくなるということですね。
333
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:26:04
ちなみに華厳経では仏とは盧舎那仏と言う一仏に集約されていると言う教えであり
妙法蓮華経では仏とは一切衆生に内在するものであり全ての人々が仏であると言う教えです。
妙法蓮華経を華厳経で解釈すれば一切諸仏は一仏に集約すると言う考えになり
華厳経を妙法蓮華経で解釈すれば一仏(盧舎那仏)とは一切諸仏の集合であると言う考えになります。
日蓮は本尊と言う形をとり華厳経の一仏信仰の様な形を取っていますが
その実は曼荼羅と言う形で本尊の中に一切諸仏が描かれているわけで
妙法蓮華経の義に異なる事無く一切諸仏を敬う形に纏め上げているわけです。
これは華厳経を妙法蓮華経で解釈しているという事になりますね。
逆に曼荼羅を用いて、これこそ御本仏(盧舎那仏)、日蓮大聖人のお姿だと解釈するなら
妙法蓮華経を華厳経で解釈したと言う事になります。
もともと法華経を突き詰めると華厳経に逆戻りしてしまう事は良くある話です。
日本でも過去に聖徳太子の時代に広まった法華経が聖武天皇の時代では華厳経に陥ったと言う。
縦軸で考えるところでは一番遠いところに位置しているように見えるが
実のところ、らせん状に繰り返し輪廻している事が解ります。
(4)そもそもこの文章が、堅皇さんの言われる、華厳経第一になってしまうのか?
妙法蓮華経の持つ義を華厳経の義を持って解釈するならそう言う事になりますね。
「変毒為薬」や「煩悩即菩提」と言う考え方も妙法蓮華経の義に即していると言えます。
薬を成す為に毒を用いるわけであり、毒と言われるものでも使いようによれば薬として活用できるわけです。
と言う事は毒の中に薬となる成分が既に内在していると言う事ですね。
ですからここでも「十界互具」や「久遠実成」と言う義は当て嵌まるわけです。
毒と言う存在を「捨閉閣抛」してしまうと薬を得ることも叶わなくなってしまいます。
334
:
堅皇
:2011/10/02(日) 14:26:51
と言う事は逆も言えるわけですね、薬を持ってして毒を作り出す事だって出来るんですから。
薬の中には毒の成分も内在しているわけですから逆に用いると
薬を飲んでいるように思っていても実はどんどん毒を盛り込んでいる事にもなりかねない。
「即」と言う事でイコールと考え逆に用いても同じだろうと考えがちですが
「変薬為毒」や「菩提即煩悩」と使い方を間違えれば浮かばれる事はありませんからね。
> 付け加えて〜
> 諸法実相は、文底の立場で言うと、御本尊であり、そして究極するところ十如是は、御本尊であると言うこと。
これも逆の捉え方だと思います。
「究極するところ十如是は、御本尊」ではなくて
「究極するところ御本尊は、十如是」なのだと思います。
以上、大変長くなってしまいましたが。
335
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 11:02:22
堅皇さんへ
長い文章でのご説明ありがとうございます。
まだまだ勉強不足なもので、仏教用語で理解できてないものがいっぱいありすぎて、難しいです。 しかし勉強になります。
「 諸法の実相は、南無妙法蓮華経 」この文章で、実相と南無妙法蓮華経は、一緒だと思うのですが、よくよく考えてみると同じものでありながら、別物にみえてくるのですが。つまり実相は、南無妙法蓮華経を指す言葉であると言うことが。 私の見解ですみません〜 十如是は、御本尊と思えてなりません。
語より義が第一 〜 堅皇さんの言われるとおりだと思います。
では、義は、何を指しているのでしょうか? まだ先があるように思えるのですが、行き止まりまで行ってないような...。義と言う文、語の先と言うより、義の言葉の中の底へ突き当たる、行き止まりまで。そこが、その言葉の、その文の底、一番深いそれより行きようがないところがあるように思えるのですが。義は義だから何ものでもないと言われればそれまでなのですが...。
あまり詳しくないのですが、天台大師の十乗観法の中に、禅のような瞑想の修行があったり、もっとすごいのは、ぐるぐるお堂の中を歩きながら、念仏を唱える修行、四種三昧の中の常行三昧で、般舟三昧経によって設けられたものだそうです。まず道場を荘厳して阿弥陀仏の像を本尊として安置し、九十日間外出しないで、沐浴しつつ本尊の阿弥陀仏のまわりを、阿弥陀仏の名を唱え、念じ歩きながら歩き回る修行だそうです。天台大師が止観(の中の円頓止観)を修する為に行う修行の一部だそうです。
天台大師は、どのように瞑想や念仏を唱える修行をとらえているのでしょう?
また日蓮大聖人は、天台大師のこのような行いをどうとらえられているのでしょうか?また天台大師が瞑想や念仏を修行に取り入れているのに、大聖人の時代、日本の天台宗が真言はさておき、(どういう意図の流れで真言を取り入れたかは、勉強不足でまだわからないないので、すみません)、念仏を取り入れたことに反対され曲解と言われるのでしょうか?
336
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 11:38:14
その状況が大変なら大変なほど、この先どうなるんだろうという思いを強くした時、この先の状況が意識に映像とまで言わなくても、「これから、ああなって、こうなって行きそうだ」と思いますよね。最悪ならば状況打開の案を考えますよね。一見、状況をもとに、打開案が根本みたいですが、状況を捉えるもの、打開案が出てくる先、というか捉えるところと、出てくるところが元であり、もっとも状況打開案が出てくるところが大事と思っていますので、義はそこにあるとして、そのことを文章にすると華厳経第一には、ならないですよね。華厳経の文を引用しても。 しつこくてすみません。
普段人間が行っていることですよね。そういう機能というか、、、
大変になればなるほどそのような状態が命の中から起こってきますよね。
337
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 12:17:48
すいませんもうひとつ。真言宗で一念三千を取り入れると泥棒と、日蓮大聖人は言っていますが、例えば五智(十八円満抄の中の)は、弘法大師によるものですよね?違いましたら訂正して下さい。すいません。
とにかく日蓮大聖人が真言宗からの引用は、なぜいいのか?
法華経は主だから、全て法華経よりのものだから法華経の持ち物(爾前.権教)だから許されると言う考え方?
338
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 13:12:16
ほかに判ずる本門(法華経の)より次元の高い経がないから「 但真実の依文判義は本門に限るべし 」ですが、まだ奥がありますよね。
「 」の文の上ならそこまでですけど、もっと奥の文の底の行き止まり、これ以上ないところ、つまり文底独一本門の義によって文上の本門は判ぜられる(依義判文)ほかないと言うこと。
したがって、文底独一本門の南無妙法蓮華経のみが他の義を借りずに、そのまま真実・究極の義を示す「 依文判義 」であると言うこと。
339
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 13:44:54
究極するところ「 義 」は、文底独一本門の南無妙法蓮華経であると言うこと。
340
:
首都高バトル01
:2011/10/03(月) 15:27:10
南無妙法蓮華経は、万能薬なので、変毒為薬や、変なんですが変薬為薬になることはあっても、変薬為毒にはならないですよね。(ほうぼうや曲解するとあるかな〜?) ほうぼうの漢字が出てこなくてすみません。
九界即仏界は煩悩即菩提に、 仏界即九界は菩提即煩悩 (たえず煩悩が前なのかな〜?、仏界所具の九界や、仏界所具の地獄もあるし煩悩があとにくることはあるでしょう。)に、皆、お題目を唱え、悩み苦しみながら闘い、またお題目を唱え闘う、そのくりかえしのなかに、より強靭な煩悩即菩提になっていくように思ったりします。九界即仏界と煩悩即菩提を同じ意味にとるのは、まずかった?
まだまだ教学力は、この程度なのですみません。
死に金と生き金という考え方(NHKの龍馬伝より)
その場でなくなる金の使い方か、使うことによって何倍もの大金になって帰って来たり、大きな価値を生み出す金の使い方。
こんな言葉はないですが、死に教学と生き教学というものは、どのようなものなのでしょう?
さらに、死に人生と生き人生とは?
破壊のための行動なのか、創造する行動なのか?
生き金を使い、生き教学を実践し、生き人生であゆみ、破壊する人ではなく創造する、創造していく、人でありたいです。
ちなみに生き教学(本当の教学の実践)には、励ましと激励は、必要ですよね。
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