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漫画・ライトノベル以外の書籍スレ

1真ナルト信者:2017/02/08(水) 19:12:46 ID:???
漫画・ライトノベル以外の書籍なら純文学でも文庫でも新書でもレピシ本でも攻略本でも難しい本でもOK
感想を書いたり、内容をまとめたりとかしてみたらどうでしょう

284修都:2022/03/17(木) 21:59:45 ID:AY2wDrvM
吉本道雅「「中華帝国」以前」『岩波講座世界歴史5』
前2500年ころに始まる龍山期には階級分化、都市・文字の出現などがほぼ出そろっている→前1900年からの二里頭文化は中国本土全域に影響力
→夏王朝は二里頭期以降の諸王権に関わる伝説が春秋戦国時代に一個のイメージに結晶したもの
→前1600年頃、殷王朝成立→前1350年頃から甲骨文出現。甲骨文で殷王朝は大邑商と自称→邑とは城壁で囲まれた集落
殷王の支配が及ぶのは河南北部・南部(内服)、諸侯に対する支配は緩やか→殷王朝は王位継承が不安定だった→2大支族が交代で王位
天の観念は周人にはじまり、周王は天子を称する。周公旦は中原支配の拠点として成周(洛陽)を建設、天下の中心
王が諸侯に賜与すべき邑田の枯渇→権益や家産の分配→権益創出のため外征→内紛や紛争の中で西周王朝滅亡→東遷(東周)
→中原の有力諸侯国は小国を併合して領域を拡大→有力諸侯国の紛争慢性化→諸侯は最有力の諸侯を盟主に戴く同盟を結成し、紛争停止を図る
→前中原的な覇者(盟主)体制と各同盟国の世族支配体制→中原覇者晋が中原外の斉・楚・秦に対抗するという構図が前4世紀戦国中期まで持続
中原諸国は晋に貢納することを義務づけられていたが、前546年晋楚講和の結果、根拠が失われる→内乱続発。晋の覇者体制解体の危機
孔子は客観的規範(道)に基づく君臣関係を主張、君主が道を逸脱した場合、臣下は自由にやめることができるとした→官僚制
前453年晋の正卿知伯敗死→ここから戦国とする研究者が多い
趙・韓・魏(三晋)は晋から実質的な独立→それぞれ斉・楚・秦と提携。趙・韓は周を東西に分裂される→周王朝・晋侯を奉じて覇者体制を維持することは不可能
春秋期から郡・県はあったが、秦漢的郡県制の形成は戦国中期
前349年、晋断絶→周王朝は秦を覇者に認証→前334年、斉と魏は王号を相互に承認、周王朝と秦の覇権を否定。前325年、秦は独自に王号を称す
孟子が新たな政治的秩序(王道)を提唱。王の1人が天下を統一し、新しい王朝を開くことを期待
秦の独走→前256年、周王朝が断絶すると昭襄王は周に代わる王朝樹立を宣言し、秦を天子とする封建制を志向→統一はなかなか進まなかったが前221年天下統一
→郡県制施行、全領域を皇帝の直轄領とした→前206年、秦滅亡で封建が復活
中国→官僚制が編成、礼によって秩序づけられた支配層、高い農業生産力、他国との外交関係を持続しうる存在→夷は政治的文化的未成熟
『論語』は異民族にも適応しうる儒家的倫理の普遍性を強調、異民族同化の可能性を主張

285修都:2022/03/21(月) 17:13:16 ID:AY2wDrvM
宮宅潔「軍事制度からみた帝国の誕生」
中国史上最初の帝国とされる秦は軍事的な拡大傾向を持ち、幾多の戦役を勝ち抜いた
荀子は秦の軍功褒章制度を評価
春秋時代、兵役は士以上の階層が特権的に担っており主役は馬の戦車→前6世紀後半から主力は歩兵に→広い階層の人間を徴発→戸籍がつくられる
秦の兵力→職業軍人・専門兵・応募兵・徴集兵・刑徒
新占領地には罪人、一般人を移住させる→兵站の拠点になり、兵員徴発地となる
秦王政は6国との共存を放棄し、16年で斉を滅亡させ戦いは終結→それまでの戦いとは違う全面的な総動員
→台所事情が苦しくなる、限界→拡大した領土を支配する軍事体制は確立できなかった
漢の皇帝が直接支配したのは秦の元々の支配領域を中心とした帝国の西半→劉邦最大の脅威は帝国東半の諸侯王、功臣たち→粛清後も直轄化されず、親族が封建された
→諸侯王にある程度の自由裁量を認め、間接的に統治するやり方→軍事力動員において、各王国が兵を徴発・組織し、費用も各王国が負担する
→皇族出身諸侯王との関係も悪化し、前154年呉楚七国の乱が起こる→皇帝は全土の直轄地化を進めてゆく→ただし、軍事費の一定部分を王や列侯が負担するという体制は存続する

286修都:2022/03/22(火) 21:43:53 ID:AY2wDrvM
鷹取祐司「漢帝国の黄昏」
漢帝国は物資と労働力を民衆から徴発した→民衆はたやすく逃亡する存在→帝国存続のためには民衆の生活を守ることが必須
武帝崩御、昭帝即位→武帝期の軍事的成果からの負担軽減と休息が政治課題→次の宣帝期頃までに夷狄が帝国西北辺の諸郡に少なからざる規模で移住していた
→一部は選抜されて漢軍に編入
元帝は節約、税の減免を実行→儒学が政治に深く入り込んでいたので経済振興による民衆の生活向上が推進されることはなかった
→元帝が崩御すると王皇后の実子成帝が即位→外戚王氏が権勢→哀帝は高級官僚や豪族が広大な田宅と多くの奴婢を保有していることを問題とした
前漢晩期には辺境防備の傭兵化が進行
王莽が皇帝となると改革が強行されたため、混乱に陥る→文書行政が徹底していたため、その命令は確実に遂行されていた→王莽の混乱で多くの人々が逃亡、流民化
光武帝は郡国の常備兵を廃止→移住していた夷狄の軍事利用が加速→中華と夷狄の混淆
章帝→10歳の和帝→13歳の安帝。安帝の代行として鄧太后→鄧太后が生きている時は鄧氏の専横は抑制されていたが、死去すると外戚と宦官の横暴
安帝の時代107年、羌の大反乱→西域遠征に使役されたことがきっかけ→鎮圧するも帝国の国庫は空となる→134年にも反乱
→郡国の常備兵が廃止されているので鎮圧の戦力は夷狄と募兵
儒学が政治に深く浸透しているので経済積極政策はできない→財政状況は改善しない
安帝期以降、漢人の反乱も発生するようになる→反乱はいずれも帝号や王号を称する→漢帝国はすでに民衆から見限られている
→漢帝国立て直しの最後の希望は清流士大夫→専横を極める宦官を批判→逆に排除される
疫病の流行→人々の不安→太平道などに救いを求める→184年、太平道信者大反乱(黄巾の乱)→各地で反乱
190年、多くの胡兵を率いた董卓が献帝擁立→実質的に後漢王朝滅亡→220年、献帝が曹丕に禅譲、後漢王朝滅亡

287修都:2022/03/23(水) 20:25:50 ID:AY2wDrvM
石井仁「漢人中華帝国の終焉」
曹操直属軍が地方の要地に駐留し、治安維持を開始したのが都督府の始まり→都督制は魏晋南北朝期を通して基幹的な制度・体制
董卓、曹操が勢力をのばしたのは偶然ではない→後漢帝国の最重要課題だった西方・北方政策、非漢人対策を担った人材だった
三国時代、中国の勢力は南北に拡大した→非漢人との関係が多様化、深化
州都督は支配地域の官民に人員・物資の供出を強要できる→流民、非漢人にも支配の網→都督制は後漢末以来の社会変動に対応し、人の直接把握を狙った統治体制
→定住民と流民、漢人と非漢人を区別しない平等な制度→北宋まで残存。魏晋の都督制は普遍的、完成度の高い政治制度だった
漢末の群雄、三国政権は漢人中華帝国維持という点で一致している→一方、都督制は都市から農村への人口移動、胡漢の雑居を前提に適用される政治制度→漢人中華帝国の終焉

288修都:2022/03/24(木) 19:27:14 ID:AY2wDrvM
髙村武幸「漢代地方官吏の日常生活」
漢の官僚機構の基礎は戦国期から発展した秦の官僚機構。漢代の地方行政機構は郡と県→郡は前4世紀末までに秦で設置されたと考えられ、県を管轄
郡県の長官・次官は中央政府が任命。この他、諸侯王国・列侯国もある→紀元前154年、呉楚七国の乱以後は、諸侯王国は郡、列侯国は県と大差ない権限しかない
県の下に郷と里。郷の主要業務は民衆の把握と徴税。前106年、全国は13の州に分けられてもいる
下級官吏は各官府長官が任用→経済的に中流以上が多い→長官・次官らは地域事情に詳しいとは限らず地域に影響力を行使できる人物を任用する傾向
優れた地方長官の転任→地域性の均質化。ただし、地方長官は地域の事情に詳しいとは限らないので地方少吏らが地域社会の利害を優先しても抑えられないケースが多々
→地域有力者との関係は党派として機能
前漢末以来広域地域社会成立→184年、黄巾の乱以後、漢の統治能力が著しく低下すると州を単位とする地域意識

289修都:2022/03/25(金) 20:12:44 ID:AY2wDrvM
釜谷武志「漢魏晋の文学に見られる華と夷」
前漢の詩歌として伝わる烏孫公主の歌→西域の烏孫王国に嫁いだ女性の歌→中国の生活習慣と異なる住と食の例を挙げる
北方の匈奴に嫁いだ王昭君の物語→烏孫公主の物語も王昭君の物語も望郷の念にかられながら異国で生涯を終える同一の類型
西晋時代の王昭君を題にした歌→異民族は人以外の動物に相当しているという表現
後漢時代、南匈奴に連行されて王の妾となった蔡琰の物語→北方の陰鬱さ、ことばの通じない人種の野蛮性
南朝の梁では北方の地や民族を内容とする歌がたくさん制作された→北方を異民族から奪還したいと願いつつ、かなわないことからノスタルジアを覚えるしかない

290修都:2022/03/26(土) 16:36:24 ID:AY2wDrvM
古勝隆一「礼秩序と性差」
殷以来の礼制があり、孔子と後継者が礼を革新し思想的に深め、後世へと引き渡した→殷王には帝に対する信仰があり、それが西周王の天信仰のもと
周の礼→天命が王の権力の源泉で、王は臣下や諸侯に青銅器を下賜し、その命を再分配していた
中国を統一した秦は、周の天命を完全に断ち切ったという意味で礼においても画期→始皇帝は東方の名山をめぐり祭祀→礼による権力の誇示
漢は武帝期以降、儒教が漢の制度に導入された→後漢から西晋にかけての諸王朝も礼制の整備に熱心→秦漢に作られた統一王朝的な礼制が引き継がれた
春秋時代、男女の別は社会通念だった→孔子の前から成立していた→秦代の思想家には中国の太古や異民族には男女の別がないという思想がある
婚姻は男系の家を中心とした視点のもと、礼において重視される→中国古代では、夫婦は対等ではない
礼の基本的な構想は、それぞれの人が与えられた立場(分)に応じて行動すべきというもの→男女の役割分担
新石器時代では男系ではない双系的な社会→二頭里文化の儀礼は男性中心だったのではないか→殷時代の王妃は王陵区に埋葬されていない
→西周時代は夫人墓が王墓と並んでおり地位が上昇したと思われるが男性優位は変わらない
春秋時代の男女の服喪規定は対等に近い→戦国時代の夫婦墓は妻の墓が小さくなる

291修都:2022/03/27(日) 16:47:07 ID:AY2wDrvM
田中俊明「楽浪と「東夷」世界」
中国東北にいちはやく置かれた遼東郡は戦国時代、燕の時代(前300年前後)→郡設置以前から燕人の入植があった
漢の時代、燕国は諸侯廃絶策で瓦解し、燕王に仕えていた満は朝鮮に逃げ、王となった→衛氏朝鮮国成立→朝鮮は漢の外臣として認められる
→前108年、外臣にふさわしくないとして武帝に滅ぼされる。国としては王を中心に土着中国人と在地首長層が結集したものだった
→武帝は楽浪・真番(後に廃止)・臨屯(後に廃止)・玄菟郡を置く→後漢末、董卓の遼東太守公孫度が自立→子の公孫康が帯方郡を設置
高句麗には公孫氏に通じる勢力と魏に通じる勢力とがあった→魏が公孫氏を滅ぼし楽浪・帯方郡を接収→魏と高句麗の対立
卑弥呼は魏が公孫氏を平定した時に使者を送っている

292修都:2022/03/28(月) 20:39:30 ID:AY2wDrvM
荒川正晴「漢晋期の中央アジアと中華世界」
紀元前後頃、パミール以東のタリム盆地周辺に大小様々なオアシス国家。パミール以西には一都市一国家的なオアシス諸国
秦漢代、中央アジアの草原地帯に現れたのが、遊牧国家匈奴
シルクロード→中央アジアを中心にしたユーラシア大陸における前近代の交流・交易のネットワーク
遊牧国家はオアシス国家を支配していた→漢の武帝は匈奴を討滅する目的でパミール以西まで使者として張騫を派遣→これ以後、漢は西域に進出→西域支配は比較的安定
クシャン朝勃興→シルクロードの主要ルートはイランへ延びるルートではなく、インドへ南下してゆくルートに
後漢の班超はクシャン朝の勢力進出を押しとどめる→班超が中国本土に帰還すると西域経営が急速に悪化、西域から完全撤退。クシャン朝全盛時代
中国への仏教伝来は、クシャン商人の東方活動が活発化し始める時期
タリム盆地周縁のオアシス国家は中華世界の政治的な統治を受け入れても、文化・宗教的にはインド文化の影響下。オアシス国家では仏教を信奉
三国魏の時代に中国と西域との関係は再構築される→大月氏(クシャン朝)に新魏大月氏王を授与(この称号は知られている範囲では大月氏以外では倭国のみ)
→当時、呉の孫権が皇帝になり、東南アジアとの結びつきを強めていた→呉との対抗上、魏は西域の大月氏、東方の倭国に称号

293修都:2022/03/29(火) 21:47:05 ID:AY2wDrvM
佐川英治「十六国北朝隋唐政権と中華世界」
十六国期ほど華北が分裂した時代はない→劉淵が漢の劉氏の後裔として皇帝に即位→漢の将軍だった石勒は趙王になるが撤回されたことで袂を分かち、漢は分裂(漢と前趙)
→劉氏を倒し石勒が皇帝に即位(後趙)→やがて内乱が起こり、好機として前燕が河北に進撃→皇帝に即位
関中では後趙の滅亡後、前秦が建国される→皇帝に即位→前燕を滅ぼす→やがて華北を統一→東晋に敗れる
→皇帝・天王が複数いたのは前燕と前秦が対峙した18年間のみ→前秦敗北後は皇帝・天王を称する国が常時併存する状況
鮮卑の拓跋部は曹操の時代に勢力を築き、4世紀の初めには晋から援軍を要請されるようになっていた→338年、後趙の人質だった什翼犍が戻って王となると君健安定
→376年、前秦に滅ぼされる→386年、前秦崩壊後、魏を名乗る→398年、皇帝に即位(北魏)→北魏は十六国のなかで唯一モンゴル高原の草原世界に君臨
436年、北魏が華北の全域を支配、北は柔然、南は宋と対峙した。北魏では皇帝と可汗の称号を併用(これまでは併用されなかった。可汗は非漢民族の称号)
十六国期は華北に仏教が普及。仏教振興は前秦崩壊後。中華を相対化する仏教を王権に取り込む素地は北魏にはあった→皇帝・可汗を併用する北魏はもともと中華を相対化している
466年、宋の皇位継承をめぐる乱で逆臣となった人物が北魏に降伏してきたことで北魏の領土拡大→膨大な兵力が必要→兵役の公平化と租税の負担軽減→均田制
→兵力を民に担わせる反対給付としての均田制
孝文帝は洛陽に遷都し、宮中での鮮卑語を廃止、漢化政策
北魏内で爾朱氏の力が強くなる→爾朱氏を高歓が倒す→孝武帝が宇文泰の下に出奔→高歓は孝静帝を擁立(東魏)。宇文泰は孝武帝を殺し、文帝を擁立(西魏)
東魏では高歓の子が即位(北斉)。西魏では宇文泰の子が即位(北周)→574年、北周の武帝は仏教と道教を禁止→577年、北斉を滅ぼす
→幼帝を補佐した楊堅は仏教・道教禁止を解く→581年、楊堅が即位(隋)→589年、陳を滅ぼして中国統一
都城制は北魏の洛陽城にはじまる

294修都:2022/03/30(水) 20:10:34 ID:AY2wDrvM
鈴木宏節「トルコ系遊牧民の台頭」
遊牧民についてはウイグルを過渡期として遊牧社会が古代から中世に移行したという時代区分が共有通認識
トルコ系遊牧民も世俗王権は世襲。君主はカガン(可汗)
遊牧国家ではカリスマ的な君主のもと、強大な王権の求心力が発生する→時代の経過とともに中央の権力は分散
突厥はユーラシア東西に勢力拡大→部族集団をつなぎとめるための方策としてタルカン制

295修都:2022/03/31(木) 21:27:20 ID:AY2wDrvM
辻正博「隋唐国制の特質」
隋の文帝は州と県の間の郡を廃止、州―県とした→地方間の任免権を中央に回収→地方統治は中央派遣の官員が担う
煬帝は二百数十年ぶりに統一された中華の皇帝だった→李淵は煬帝の母方の従兄弟。北方防衛を任されていた李淵は突厥と結び、長安に進軍→入城すると煬帝の孫を皇帝に擁立
→煬帝が死ぬと自身が皇帝に即位(唐の高祖)→隋朝官人は別の煬帝の孫を皇帝とする→隋が滅亡しても鄭や夏では隋の官制を用いた→唐は差別化を図るため律令で独自色
隋唐は身分秩序で成り立っていた
文帝は各地に置かれていた軍府を大幅に削減、兵籍につけられていたものを民籍に編入
唐王朝は軍役を課した→衛士に選抜されなかったものは防人→負担に耐え切れなくなった農民は逃亡しだす
衛士は宮城の警備で戦闘要員ではない。防人は辺境警備。戦時にのみ行軍を召集・組織して兵員を大量動員する→8世紀前半になると職業兵士が中心になる
北周から隋、隋から唐への変革はそれまでと違い、前朝国制の継承を拒絶するものだった

296修都:2022/04/01(金) 20:41:48 ID:AY2wDrvM
戸川貴行「南朝の天下観と伝統文化」
4世紀初頭、永嘉の乱→騎馬遊牧民が西晋の都を攻略し、皇帝を殺害→漢族は江南に避難、東晋が成立→国家儀礼と雅楽の大部分が失われたと思われる
→中原を恢復するまでは国家儀礼や雅楽の整備を控えるべしとされた→東晋につづく宋の孝武帝は中原恢復をあきらめ健康を新たな天下の中心にしようとした→国家儀礼の整備
北魏では530年、権臣の爾朱栄が孝荘帝に殺された後、従子の爾朱兆が洛陽を襲撃→雅楽器が略奪・燃やされた→新たな雅楽がつくられた

297修都:2022/04/03(日) 20:13:57 ID:AY2wDrvM
桃木至朗「東南アジア世界と中華世界」
東南アジアが歴史学会の市民権を獲得したのは、1990年前後
東南アジアで、仏教・ヒンドゥー教やサンスクリット語などインド文明の摂取が始まるのは4世紀末以降→国家成立
紀元前千年紀から10世紀までに形成された東南アジアの諸歴史圏は現代の諸国家の記憶の中に残っていない→9〜14世紀(憲章時代)の諸国家は歴史叙述の中に多くが姿を見せる
→憲章時代は唐宋変革の時代とほとんど重なる
東アジアの一部と見なされていたベトナムは、80年代の東南アジア地域研究の発展で東南アジアの一員であることが強調されるようになった
ベトナムは陳朝になると中国と対等な南国(南の中華帝国)というイデオロギーと歴史を練り上げていく

298修都:2022/04/04(月) 20:42:48 ID:AY2wDrvM
岩尾一史「チベット世界の形成と展開」
吐蕃の中核となったのはヤルルン川周辺のプゲェル氏、東チベットコンポのコン・カルポ、チベット東南部の諸勢力
ソンツェン・ガンポが統一→この後、チベットは拡大路線。唐軍に勝利して一時期はタリム盆地を支配→皇位継承をめぐり国内が安定しないなか、唐軍により押さえ込まれた
→755年、安禄山の乱が勃発すると吐蕃が再び進出。763年には吐蕃軍が長安を2週間占領→790年代、唐軍に大敗。9世紀初めには拡大路線は手詰まり
→唐と長慶会盟→吐蕃は最大の版図、吐蕃とウイグルが崩壊するまでユーラシア東方に平和
吐蕃は農耕の経済的安定性と牧畜民の機動力を併せ持つ国家。チベットは多民族国家
吐蕃が仏教を公式に受け入れたのは779年→普遍的な宗教権威による王権正当化のため世界宗教を選んだ
→ただし、吐蕃期は仏教がチベット社会に完全に浸透する前段階。古代信仰が残っている
842年以降、後継者をめぐって南北に対立→分裂していき吐蕃の栄光を取り戻すことはなかった→ただし、吐蕃崩壊後も支配地域ではチベット語が利用され続け、チベット仏教文化圏が残った

299修都:2022/04/05(火) 21:31:04 ID:AY2wDrvM
李成市「朝鮮史の形成と展開」
韓国と北朝鮮は936年の高麗王朝を最初の国家統合としている→新羅の時代の渤海を朝鮮史の一部とみなし、南北国時代とするから
高句麗の広開土王は永楽太王と号した→中国の冊封体制では通用しない独自の王号→高句麗を中心とする政治秩序→独自の天下観は五胡十六国時代という華北の変動のなかで生まれた
百済は360年代末、近肖古王の時代、高句麗に勝利→372年、東晋に朝貢。支配層は高句麗系、新羅系、倭系、中国系など多様な出自
新羅は377年、前秦に朝貢→高句麗に朝貢を強いられるが、百済と同盟を結び、高句麗に抵抗→漢江下流域を奪取→564・568年、南北朝(北斉・陳)に外交
642年、高句麗の権臣泉蓋蘇文と百済の義慈王は連携して新羅を攻撃→新羅は唐の支援を求める→唐は女王統治を非難→女王廃位・唐依存派と自立派(春秋)の対立→春秋の勝利
→春秋は衣冠制を唐制に改め、唐年号を採用→政治的実権は権力を掌握した金春秋と一部の近親者集団のもとに
新羅は670年から6年にわたって唐と抗争、それに勝利→684年、朝鮮半島全土を支配
景徳王は759年、官司を名を唐風に改める
新羅後半期は王位争奪戦がくり広げられ、地方では反乱が頻発→高句麗の再興を訴えた勢力は朝鮮半島独自の年号を用いた

300修都:2022/04/06(水) 21:43:18 ID:AY2wDrvM
冨谷至「中華と日本」
2000年に及ぶ帝政中国で中華帝国が周辺諸国に賜与した称号は一貫して王
後漢光武帝の時代、倭の首長は倭王の称号を与えられた→「漢倭奴国王」は漢の倭奴国の王と読むべき
6世紀に入ると、倭と中国南朝の交渉は疎遠
『日本書紀』には隋からの国書に「倭皇」と書かれている→倭王を隠ぺいするために書きかえている。倭王の称号は、もはや忌むべきものとなっていた
→もとから倭皇だったのではなく、『日本書紀』が書写されていく過程で書きかえられた可能性が高い
倭が日本に国号変更したことを唐へ正式に告げたのは702年第8回遣唐使→701年に初めての年号大宝を制定した翌年
すでに漢語として存在していた日本を倭国が東方の国である自国の国名に転用した
天皇の称号が飛鳥浄御原令に記されていた可能性。少なくとも天智朝では日本という国号も天皇号も成立していない→天武朝に天皇号、国号日本。読みとしては日本もヤマト
中国王朝は一貫して王・日本国王という呼称を維持→天皇の読みスメラミコトを姓・号と見なした可能性

301修都:2022/04/07(木) 20:45:55 ID:AY2wDrvM
下倉渉「交拝する夫婦」
経書の婚礼→男家が女家に婚姻を申し込む→女性の名前を聞く→占う→結納→輿入れの日を決める→新郎が女家に向かう→花嫁が男家に至る
→男家に至るまでに婦が夫に付き従う存在であることを可視化したパフォーマンスが行われる
漢の時代は皇帝の娘公主と結婚するときは公主の居宅に通った→魏の時代に公主であっても夫尊妻卑の論理が適用されていく
後漢代後期あたりから夫婦交拝の儀式→通常は身分差のある者同士で交わされる拝礼ではない→宋代は新郎の寝室で行われ、元代以降もこれに準じていた
男尊女卑・夫尊妻卑を基本理念とした儒家的な婚礼は婚礼儀礼上における絶対的なスタンダードではなかった
→宋代以降、新郎の寝室で行われるようになった→成婚の儀礼が儒家の説くものになっている(夫尊妻卑)

305真ナルト信者:2022/07/08(金) 11:16:51 ID:???
age

306修都:2022/07/09(土) 16:45:35 ID:sO0X8N3w
佐々木憲一「北アメリカにおける先史時代社会の諸相」
アメリカ大陸へはベーリング海峡が陸地であった氷河期末期にシベリアから現生人類が大型哺乳類を追いかけて移動してきたというのがアメリカ考古学会のほぼ一致した見解
極北(アラスカ州北部からカナダ北部、グリーンランド沿岸地域)→ヨーロッパ人入植まで海獣や海鳥の狩猟と若干の漁労→極北東部域で人々が生活を始めたのは紀元前2500年頃
北西沿岸(アラスカ州南端からカリフォルニア州北端)→気候変動のため多くの遺跡が水没
北部では唇飾りを装着した人々、南部では頭蓋変形を受けた人々が社会的に高位の人々→社会的不平等。北部海岸地域では戦争の証拠
→ヨーロッパ人がこの地を初めて訪れた時には社会的な階層分化が存在
南西部のチャコ・キャニオン遺跡群には食人の習慣も含めて暴力の考古学的証拠が顕著
ヨーロッパ人入植以前の北アメリカ大陸先住民は金属器の鋳造技術を有することはなかったが、自然銅で道具を作ることはできた
紀元前10世紀頃、土器の使用の開始は北東部と南東部で大きな変革→定住化が起こったからこそ土器製作が容易になった
紀元前1050年頃、南東部のミシシッピ文化→マウンド(墳丘墓)築造に精魂を傾けた時代→大遺跡をトップとする階層構造は地域ごとに完結
→地域を超えて築造規格が共有される日本の古墳時代とは違う
北アメリカ大陸の多くの地域はヨーロッパ人入植のときも狩猟採集経済で土器もなかったが、南西部・南東部・北東部(北部を除く)は紀元前4世紀までに農耕、定住化

307修都:2022/07/10(日) 15:45:22 ID:sO0X8N3w
関雄二「アンデスとメソアメリカにおける文明の興亡」
メソアメリカ→メキシコ中部からホンジュラス、ニカラグア、コスタリア西部。アンデス→ペルーとボリビアの一部
更新世の末頃、アジアからアメリカ大陸に人類到達、拡散→完新世初期に植物栽培は開始されるが、農耕に依存した社会は4000年以上も後
アンデスは定住、公共建造物の出現でメソアメリカに先行→平等性が高い社会で、埋葬に差異が認められない。いずれの遺跡でも、王宮や王墓などが見つからない
→公共建造物が出現して、2000年以上経って集団内の差異が明確化
メソアメリカは公共建造物よりも土器の出現が早い→前1400年頃オルメカ文化では大規模な公共建造物の建設と支配者の存在を示唆する証拠
アンデスでは国家が誕生していなかった時期、オアハカ地域では国家レベルの社会。マヤでは王権が成立
前100〜後700年のナスカ文化(ペルー南海岸)→国家ではない。地上絵は儀礼の際に歩いた通路とする見方が強い
マヤは各都市に王を戴く国家が成立。都市国家間で同盟が結ばれ、抗争も絶えなかった→マヤの崩壊。人口急増による環境破壊、戦争による社会疲弊などによると考えられている
アンデスでは国家や都市は限られた地域であり、王はいない→ワリ文化。アンデスの広い範囲を影響下においた初めての政体、帝国とする論もある
スペイン人が到来した当時、アンデスのインカ帝国は地球上最大の帝国→中央集権的ではなく間接的支配→王の親族集団の生活は私有地からの物資
インカ帝国は1532年、160名あまりのスペイン人との数時間の戦いで崩壊
マヤはスペイン人が到来してもすぐに征服されず、滅ぼされたのは1697年
メキシコ高原のアステカは人身供犠を行ったことで知られる→1521年、スペイン人に滅ぼされる
アメリカ大陸の古代文明では財を蓄えていくような王があらわれない→軍事行動においても祭祀や世界観の具現化を求めた行動が底流。祭祀の精緻化に伴って階層構造

308修都:2022/07/11(月) 20:06:16 ID:sO0X8N3w
大越翼「マヤ人から見たスペインによる征服と植民地支配」
マヤ文明の王や貴族らと平民との間に財に関して大きな差はない→王の権力基盤は労働力の多寡→王は人口の大多数を占める農民の意向を無視することができない
→王は一方的な収奪を行っておらず、農民への還元がある→農民が王権をくつがえすほどの力を持っている
ユカタン半島東海岸のマヤ人はスペイン人を平和に迎えスペイン国王に忠誠を誓った→1527年のモンテホの征服は成果を得られず、ユカタン半島を放棄
→半島西海岸から進軍、北部低地西半分の王国群を支配下に収めた→モンテホは先住民同盟軍の必要性を認める→1546年、北部低地の征服終了
マヤ地域の主だった征服戦は16世紀半ばまでにすべて終了→南部低地の大半は手つかず→南部低地はスペインが実効支配していた地域から逃れてくる人々が住む地域
スペイン側の思惑通りに先住民社会が改編され、スペイン王国の臣民としてのキリスト教原理に基づいた社会が創造されたわけではない
マヤ人すべてが、暗黙のうちに2つの宗教を矛盾することなく生きていた→スペイン人による征服がマヤ社会を崩壊させたのではない、マヤ人が主体的に新しい時代を乗り切っていこうとした
ピラミッドは壊され教会が建てられたが、道は手をつけられなかった→先住民にしてみれば、道の行きつく先が異教の教会だろうと、既知の精神世界に教会を包摂していく行為
マヤの人々は、スペイン人邸宅で働く者が多く、女性はスペイン料理に伝統的なマヤ料理を組み合わせた新しい料理を作りだした
乳母はスペイン人の子供たちにマヤの伝統や儀式などを語り聞かせた→事実上、子供たちはスペイン語とマヤ語のバイリンガルとなった
スペイン人がマヤ人たちを冷酷に扱い、人とも思っていなかったというのは必ずしも正しくない
マヤ地域の征服はスペインとメソアメリカの人々との共同事業

309修都:2022/07/12(火) 21:50:53 ID:sO0X8N3w
網野徹哉「トレント公会議とアンデスにおける先住民布教」
インディオを委託されたエンコメンデーロには先住民の教化義務が課せられ、聖職者を雇う必要があった
アンデスの伝統的宗教実践については、一概に排毀するのではなく、積極的に取り込んでゆくという柔軟な適応精神
1545〜1563年トレント公会議→公共要理を土着の言葉で伝える方針→先住民言語の習得が義務づけられた
インディオは法務文書を運用する能力も身につけている→司祭を訴えるインディオたち

310修都:2022/07/13(水) 20:50:56 ID:sO0X8N3w
横山和加子「一六世紀メキシコからみたグローバルとローカル」
メキシコ市は西半球随一の都市であった→スペイン人は都市、先住民は村という住み分け→異人種間の婚姻に法的な問題は無し。先住民女性との結婚は珍しくない
アステカ王国モクテスマ二世娘イサベル・モクテスマはアステカ王の血と姓をスペインの貴族の中に注ぎ込んだ
17世紀、多くのカシケ(先住民首長)がメスティーソ(先住民とスペイン人の子)、カスティーソ(メスティーソとスペイン人の子)だった
自由な黒人(征服に同行した黒人奴隷)と先住民の混血も始まる→17世紀半ば、メキシコ市に黒人は一定割合いたが、18世紀になると減少、ほぼゼロ→混血者の中に吸収された
混血の複雑化と白人化の可能性→北米とは異なる緩やかな人種観の形成

311修都:2022/07/14(木) 21:32:05 ID:sO0X8N3w
金井光太朗「「先住民の黄金時代」とセトラー・コロニアリズムの衝撃」
セトラー・コロニアリズム→「野蛮人」を殲滅排除して勤勉なる入植者が定住を進めて文明社会を再現するのが正当だというイデオロギー
アメリカ先住民の黄金時代→季節に応じて生態系をめぐり移動しながら生きる生活
オランダは宗教的寛容や経済的繁栄により多民族・多文化社会で、植民地入植者も多様
フランス入植者にとっては封建的な農地の生活より野蛮人生活の方が魅力的だった→先住民首長との結婚に積極的
オランダもフランスも先住民と入植者の相互関係に落ち着いていた
イギリスのヴァージニア植民地は入植から数年間危機的。入植者の半分以上が一年経たずして死亡→入植者による先住民からの強奪→1609年、アングロ・ポーハタン戦争
→1614年、ポカホンタスがイギリス人ジョン・ロルフと結婚して一旦は和平成立→1622年、第二次アングロ・ポーハタン戦争→32年、イギリス勝利、民族浄化
ニューイングランド植民地→(入植者にとって)「空いた土地」への入植侵入→1634年、ピークォト戦争→1637年、イギリス勝利、民族浄化

312修都:2022/07/18(月) 16:11:59 ID:sO0X8N3w
大峰真理「一七世紀フランスの初期植民会社と小アンティル諸島」
16世紀半ばまで中南米地域にむかう船団の積み荷は、カリブ海域の船乗りたち(フリビュスティエ)の格好の略奪対象だった→スペインの覇権は略奪者集団を存続させる要因
1626年フランス王国史上初めて植民のための特権会社サン=クリストフ会社→サン=クリストフ島をイギリスと二分割していたがフランスの植民は上手くいかなかった
→国家から許可を与えられ敵国の船を襲撃して積み荷を奪う私掠をフランスのブランはイギリスに行い、イギリスとの勢力均衡を図った→結局、植民は失敗。1634年サン=クリストフ会社は解散
→1635年アメリカ諸島会社設立→グアドループ島の開墾を目指す→年季奉公人と黒人奴隷労働力を投入する典型的なプランテーション社会

313修都:2022/07/19(火) 19:57:35 ID:sO0X8N3w
小原正「アメリカ植民地の経済とスペイン黄金世紀」
17世紀スペインは文化的には黄金世紀。一方で有力貴族が深刻な財政難の時代→疫病による農業危機、銅貨改悪による通貨危機、国債利払い停止→銀の価値上昇
→アメリカ植民地の銀を入手できるエンコミエンダの権利に注目→スペイン本国の有力貴族にエンコミエンダの権利が与えられるようになる
→現地の商人がエンコミエンダの管理を委託される→責務を果たさない商人もいた

314修都:2022/07/20(水) 21:28:35 ID:sO0X8N3w
清水有子「徳川家康のメキシコ貿易交渉と「鎖国」」
文禄元年(1592)、豊臣秀吉がルソンに投降を呼びかけた→ルソンの修道士が使節として日本に来る。日本とスペインの関係の契機
→秀吉の死後、倭寇がルソンに跋扈→家康はそれに対処。1606〜09年、マニラ市内で日本人暴動が起きると家康は日本人暴徒の処刑を命じた
家康は慶長7年(1602)禁教を表明したが、宣教抜きでの外国人の日本滞在は認めた→ルソン側は名目的なものと誤解した可能性。家康も積極的な宣教取締りはしていない
家康はルソンに関しても格下の国から進物が送られていると都合よく解釈→日本型華夷意識の萌芽
1609年、ビベロ漂着→家康と貿易交渉→協定案謝絶。家康は南蛮通行全般を見直し始めている→オランダ人との通行関係が成立している
1611年、使節ビスカイノ冷遇→貿易構想放棄。1612年、禁教令。1615年、スペイン使節を無視、スペインとの外交は途絶えた

315修都:2022/07/25(月) 21:36:15 ID:0jMA5iFU
三田昌彦「南アジアにおける国家形成の諸段階」
前6世紀頃ガンジス川中流域に都市→前3世紀マウリヤ朝が南アジアほぼ全域を統合。マウリヤ帝国は湿潤な稲作地帯から発した世界的に特異な帝国
首都パータリプトラは世界最大級の都市。マウリヤ朝は画一化を目指す施策をほとんど行っていない
マウリヤ帝国はガンジス川流域と重要地点とを結ぶ点と線の統治。領域内の経済的格差は極めて大きい
マウリヤ帝国崩壊→デカンにサータヴァ―ハナ朝、中央アジアから北インドにクシャーナ朝→4世紀初頭グプタ朝が北インド統合
グプタ朝崩壊→7世紀前半ハルシャが北インド統合→崩壊後、小勢力割拠→8世紀後半プラティーハーラ朝、パーラ朝、ラーシュトラクータ朝並立期
北のプラティーハーラ朝は辺境勢力。中央部のラーシュトラクータ朝は南アジア最大勢力→10世紀後半、地域国家並立→この時代の王朝は安定的で約300年継続

316修都:2022/07/26(火) 20:58:07 ID:0jMA5iFU
鈴木恒之「インド洋・南シナ海ネットワークと海域東南アジア」
前2世紀末、漢の武帝はベトナム北・中部を支配下に置き3郡を置いた→南シナ海交易の玄関口→ローマ、インド、中国を結ぶ海上交易路海のシルクロード
8世紀、マラッカ海峡域でスマトラ南東岸のシャリーヴィジャヤ王国が交易ネットワーク形成。中部ジャワではシャイレーンドラ家がマハーラージャを名乗り、シャリーヴィジャヤの王位に就く
877年、東西交易の拠点だった広州が黄巣の反乱軍に襲撃され、居留していた外国人12万人が殺される→ムスリム商人の拠点はクダーに
1025年頃、南インドのチョーラ軍の襲撃でシャリーヴィジャヤは中心的役割を失う→北隣のスマトラのジャンビ王国が中心に
13世紀末から東南アジアのイスラーム化→ムスリム商人の活動を反映

317修都:2022/07/27(水) 21:38:22 ID:mLoZKEwA
馬場紀寿「サンスクリット語とパーリ語のコスモポリス」
サンスクリット語が政治の言語として用いられ、サンスクリット語の聖典をもつヒンドゥー教と仏教が主要な宗教→サンスクリット・コスモポリス
インドではアラビア語のクルアーンを正典とするイスラム教が浸透。スリランカから東南アジア大陸部にはパーリ語の仏典を伝承する仏教→パーリ・コスモポリス
1世紀から3世紀、外来民族の王朝である北インドのクシャーナ朝でサンスクリット語の使用が始まる
4世紀、北インドのグプタ朝は本格的にサンスクリット語を政治的発話に採用→4世紀から13世紀、南アジアと東南アジアの関係の緊密化とともにサンスクリット語が広まる
密教は儀礼をもたなかった仏教の弱点を克服し、仏教がサンスクリット・コスモポリスの主要宗教となる原動力となる
→7,8世紀、サンスクリット仏教は南アジア・東南アジアという地域を超え(中国・日本など)、サンスクリット語すら超えて(翻訳)世界最大の宗教となった
サンスクリット化に抵抗する仏教の一派による変革がスリランカで起こり、影響が東南アジア大陸部に波及→パーリ語こそが正しい仏典の言葉であるという言語論
11〜12世紀、アフガニスタンのガズナ朝やゴール朝がインドへ進出→北インドを中心にペルシア語が知識人の言語としての地位を獲得→ゴール朝によってインドの仏教拠点も破壊される
13〜14世紀、東南アジア大陸部の新たな王権は改革後のスリランカ仏教を導入。パーリ語はサンスクリット語とは異なり、仏典言語にとどまった

318修都:2022/07/28(木) 21:52:08 ID:mLoZKEwA
二宮文子「南アジアにおけるムスリムの活動とイスラームの展開」
ムスリムはインド洋の海の道を利用して南アジアに進出。アフガニスタンに拠点を置いたガズナ朝は10世紀末から11世紀に南アジアへ侵攻。ゴール朝は北インドを中心に征服活動
デリーを根拠としたムスリム政権はスルタンを称した(デリー・サルタナト)→13世紀末から14世紀初頭、征服活動→トゥグルク朝の時代にデリー・サルタナトは南アジア最南端以外を支配下
南アジアのムスリム社会は異なるルーツを持つ多様な人々から構成。デリー・サルタナト時代の農村部の人口の大部分は非ムスリム→支配は多くの非ムスリムに支えられている
後宮の女性たちの中にも非ムスリム出身者がいた。宗派の違いが政治的・社会的な対立に必ず結びつくわけでもない
デリー・サルタナトにおける行政や文芸活動は主にペルシア語。14世紀以降は各地の言語を用い、地域文化に根ざした素材を用いる文学作品がムスリムによって著される

319修都:2022/07/29(金) 22:16:13 ID:mLoZKEwA
小磯学「南アジアの古代文明」
前2600年〜前1900年頃、南アジア北西部で興亡したインダス文明→西南アジア交流圏の東方に展開した諸文化を結び付け統一したのがインダス文明
→交流圏の中の関係性が失われたことが文明が衰退し崩壊した原因と考えられる
インダス文明では長文の文書資料が発見されていない。王宮・王墓に否定できる建築物や遺構も不在・未発見。紛争の痕跡も欠如している
周壁をもつ都市ともたない都市が存在しており、文明内に一定の社会的格差はあった

320修都:2022/07/30(土) 20:12:38 ID:mLoZKEwA
山形眞理子「ドンソン文化とサーフィン文化」
ドンソン遺跡はベトナム北部、サーフィン遺跡はベトナム中部
ドンソン文化の紅河平野には中国の南下に圧倒される前に、東南アジアのどの地域と比べても複雑な社会が出現していたと思われる
地域ごとに成長した首長制社会の集合体がサーフィン文化の社会
鉄器時代の東南アジアには、考古学的な知見から推測される様々な道が交錯し、ネットワークが広がっていた
ドンソン文化とサーフィン文化は、交易ネットワークを通じて東南アジア各地の鉄器時代文化とつながっていた

321修都:2022/07/31(日) 23:04:43 ID:mLoZKEwA
田畑幸嗣「東南アジアの古代国家」
東南アジアは少なくとも紀元前4・5世紀以降にはインドとの明瞭な接触→インド的ないしはインドにインスパイアされた文化をもつ諸国家が成立するまでの約千年間は長い助走期間
漢籍に登場する扶南→真臘。扶南は後の真臘とよく似た価値観をもつ人々の政体。統一国家ではなく、カンボジア・ベトナム南部の政治的なまとまりの総称だったのではないか

322修都:2022/08/01(月) 20:02:57 ID:mLoZKEwA
横地優子「女神信仰とジェンダー」
日常生活に根ざした女神たち、普遍的な女神概念となった戦闘女神・死の女神、抽象概念を神格化した女神たち(シャクティ)の3階層が南アジアにはある
戦闘女神成立の中核は、ヴィンディヤ山の女神と水牛の魔神を殺す女神→『デーヴィー・マーハートミャ』では戦闘女神は最高神格であり、処女神であるため男性の神に従属することもない
死の女神は七母神の主神格→七母神はそれ以前の母神群たちをヒンドゥー化・サンスクリット化したもの→7番目の女神は対応する男性神格を持たない(死の女神)
戦闘女神と死の女神は軍事的・政治的権力や呪術的権力を求める者たちが力を獲得し維持するための有効な手段として信仰が受容され広まった
→女神信仰が野心的な男性に権力を授ける手段に変容した→女神信仰が力を求める男性に搾取された

323修都:2022/08/02(火) 20:45:46 ID:mLoZKEwA
松浦史明「アンコール朝の揺れ動く王権と対外関係」
802年、ジャヤヴァルマン2世が即位、王都をハリハラーラヤに定めた→15世紀ごろまでアンコール地方が国家の中心
1113〜1150年のスーリヤヴァルマン2世はアンコールワットを建立。この王の時代に814年から途絶していた中国との朝貢を再開
1181年に即位したジャヤヴァルマン7世の時代に王朝の最大版図。中国製品の流入と消費も大きく発展

324修都:2022/08/03(水) 21:28:53 ID:mBv4sMcs
和田郁子「インド洋海域史から見た南インド」
前2世紀前半、エジプトや西アジアと直接航路で結ばれていたのはインド北西部→前1世紀末にインド西岸中部へ直行することが可能に
ローマ帝国のエジプト船によるインド洋交易は1世紀末には衰退→3世紀、ササン朝のもとでペルシア湾沿岸が整備されると様々な商人が海上交易に
5世紀頃までにはインド洋の東西海域でモンスーン航海が発展
ササン朝時代、南アジアへ移住するキリスト教徒商人もいた。12〜13世紀にかけてムスリム商人の海上交易活動拡大、複数の港市にムスリムのコミュニティ

325修都:2022/08/06(土) 15:39:26 ID:mBv4sMcs
佐藤彰一「中世ヨーロッパの展開と文化活動」
西ヨーロッパ世界は8世紀にポスト・ローマ世界から離脱→寒冷多雨な気候から温暖で乾燥した気候へ→人口の増加、取引の活発化
カールが800年、西ローマ皇帝になったとき、領土は大陸では現在のEUに匹敵(カロリング帝国)→870年、東フランク王国(ドイツ)、西フランク王国(フランス)、イタリア王国に三分
カロリング帝国の政治は帝国貴族層の合意に基づく営みであった
8世紀、徴税は国王権力が直接所掌する事業となった→ポスト・ローマ的都市機能の停止。王権は教会を徴税対象から除外、徴税が不斉一に
→フランク国家は分節化された構造をもち、斉一的な統治、行政が困難

326修都:2022/08/07(日) 16:55:30 ID:mBv4sMcs
森山央朗「ウラマーの出現とイスラーム諸学の成立」
7世紀末から8世紀前半は、ウマイヤ朝の統治が安定した時代で、神に帰依する国家や社会とはいかにあるべきかをめぐる議論が本格的に開始された
→預言者ムハンマドと父祖たちの記憶を語る物知りとしてウラマー(学者たち)が出現
ムハンマドの死後、アラビア半島を出て広範な地域に移住していったアラブムスリムたちはアラビア半島では見ることのなかった事物や慣習を多く目にすることとなった
→それらを利用できるものは取り入れていった→ウラマーはコーランの啓示に言及されていないあまたの実利的な判断や裁定を神の意思と預言者の教えに照らして正当であることを示す作業
10世紀後半から11世紀は、ムスリムの多数派の中の学派や思想潮流が合流し、スンナ(慣行)派という宗派意識が確立・浸透していった時代
ウラマーは僧侶や神父・牧師などの役割をイスラム社会で担った。ウラマーとしての地位を支えるのは学識。都市富裕層出身の男性が多い
10世紀頃まで、ウラマーは家の財産や他の生業で生活を支えていた→マドラサ(学ぶ場所)の普及によって教員という職
政治・軍事支配者とウラマーとは緊張感をともなった協力関係

327修都:2022/08/08(月) 21:02:06 ID:mBv4sMcs
森本一夫「山々に守られた辺境の解放区」
ハサン・イブン・ザイドはカスピ海南岸タバリスターンを制圧、アームルに拠点を定めた→アリー裔政権→ハサン死去、娘婿アブー・フサインが君主に
→ハサン兄弟のムハンマドがアブーを倒し君主に。グルガーンを拠点に→サーマーン朝と戦い敗死、支配される→第一次政権終わり
ハサン・ウトルーシュがサーマーン朝の勢力を駆逐、アームルを拠点に→第二次政権→ウトルーシュ死亡→軍人のハサン・イブン・カースィムとウトルーシュ息子たちとの勢力争い
→ダイラム人武将マーカーン・イブン・カーキーによってカースィムが君主となる→サーマーン朝と戦ってカースィム敗死→政権争いの中、アリー裔政権は命脈が尽きていく
アリー裔政権の君主たちのほとんどはメディナからの移住者と子孫であった(ザイド派)→イスラーム圏東方の諸地域へのアリー一族の拡散と在地社会への定着を加速させる働きも持った

328修都:2022/08/09(火) 20:36:19 ID:mBv4sMcs
三佐川亮宏「ヨーロッパにおける帝国観念と民族意識」
ドイツ人・ドイツという民族的・地理的名称が初めて自称として使用されたのは、1000年頃。ドイツ王国・国王は1070年代以降
843年のヴェルダン条約でルートヴィヒ2世が得た東フランク王国がドイツの空間的枠組み。シャルル2世の西フランク王国はフランスの母胎→ドイツ人という概念はこの頃存在しない
885年、東フランク国王カール3世が西フランク国王の地位も獲得して大フランク帝国がよみがえる→887年、クーデター、再度分裂→東・西フランク、ブルグント、プロヴァンス、イタリアに
→東以外、カロリング家ではなかったが、東カロリング家も断絶する。東フランク王国はフランケン、ロートリンゲン、ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンの5つの分国から成る
→ザクセン、バイエルン、シュヴァーペンは非フランク系
919年、ザクセン人のハインリヒ1世がオットー朝樹立。西フランク王国では王位を取り戻した西カロリング王家がフランク的伝統の独占を主張→東の非フランク人国王はローマを志向する
962年、オットー1世が皇帝戴冠→1806年まで存続した帝国は13世紀半ば以降神聖ローマ帝国と自称するが、それ以前は単に帝国・ローマ帝国
オットー3世は、支配の中心をローマに移し、教皇との提携により普遍的・キリスト教的皇帝権を樹立するというローマ帝国の改新を構想→22歳で死去したため中断
オットー朝によるイタリア遠征への動員は南の大公領も巻き込んだ→対外活動を共に遂行する過程で、それまでの枠組みを超越した我々意識を育んでいった
北イタリアのランゴバルド人でオットー1世の側近となったクレモナ司教リウトプランドが東フランク王国の住民の総体をドイツ人と呼んだ
→イタリア人=他者による差異化の視点から、包括的に1個の言語=民族共同体として認識された他称概念→1000年頃、オットー3世と側近たちによってドイツ人が自称として受容される
イタリア人という語もオットー1世の遠征が始まる10世紀半ばまで存在しなかった
→ドイツ人のローマ帝国という現実に直面する中で、よそ者に対する差異化の裏返しとしてイタリア人という共通の民族感情
ドイツ王国という名称もイタリア人による命名→ローマ帝国を志向する皇帝権と、それをドイツ王国に限定しようとする教皇権の対立の中でドイツ王国という名称が使われる

329修都:2022/08/10(水) 11:09:27 ID:mBv4sMcs
中谷功治「聖像と正教世界の形成」
古代末期、聖遺物崇拝は批判的な言説があったものの確実にキリスト教社会に定着していった→7世紀にかけて、東ローマ帝国では聖画像が尊崇を集めるようになってゆく
→8世紀、イコノクラスム(聖なる画像であるイコンの破壊)、聖像論争→偶像崇拝の疑いを回避するため、イコンには厳格な様式が求められることになった

330修都:2022/08/15(月) 18:06:17 ID:mBv4sMcs
亀谷学「初期イスラーム時代の史料論と西アジア社会」
610〜730年のムスリムは、口頭で伝達したものを記憶し、口頭で別の者に伝えるという方法が主→中東各地を支配していくと、ギリシア語やペルシア語で行政文書
→ウマイヤ朝第5代カリフであるアブドゥルマリクの時代からアラビア語に
730〜830年、中国から紙の製法が中東へ伝わる
ムハンマド時代の記録はほとんど利用できない。また、考古学による発掘も進展していない
イスラム征服史料は年代や順序が正確に再構築できない。ウマイヤ朝はムスリムが書き残した歴史叙述は現存していない
ムスリム征服に関する考古学の成果では、ほとんどの都市に激しい攻撃や破壊の跡は見いだせない

331修都:2022/08/16(火) 21:54:11 ID:mBv4sMcs
佐藤健太郎「アンダルスの形成」
アンダルス→イスラーム期のイベリア半島
711年、イスラーム教徒軍がイベリア半島に上陸、西ゴート王国を滅ぼした→714年までには半島の大部分がイスラーム教徒の支配下
征服軍との間に和平協定が結ばれた場所では、西ゴート期の在来社会は大きな打撃を受けることなく存続
西ゴート王国を滅ぼしたのは、イスラームに改宗したばかりの兵士からなる軍勢
8世紀半ば、半島在来の有力家系はシリア軍征服者の家系に吸収される。言語や文化も変容、イスラームへの改宗者も増加していった
→9世紀後半から10世紀初頭に内乱。アラブ化・イスラーム化しながらも征服者集団との系譜や主従関係を持つことが出来ず、疎外されていた者たちの反抗
→国家が直接徴税する後ウマイヤ朝への所領貴族による反抗という見方もある

332修都:2022/08/17(水) 20:43:38 ID:mBv4sMcs
三村太郎「イスラーム科学とギリシア文明」
アッバース朝7代目カリフマアムーン(813〜833年)の頃からギリシア科学書のアラビア語翻訳が活発化→ギリシア語原典では失われてしまった作品の訳もある
→12世紀頃、これらの著作がラテン語へと翻訳される→12世紀ルネサンス
アッバース朝で政治権力者たちの助言者として活躍していた学者たちは、強力な議論法を求めており、見出したのが論証という議論形態
→アッバース朝宮廷は論証科学研究の受け皿、ギリシア科学研究が活発化→イスラーム科学は論証への関心から形成されたため、ギリシア科学を乗り越えて独自の論証科学の形成を目指す

333修都:2022/08/18(木) 21:28:27 ID:mBv4sMcs
高野太輔「初期イスラーム時代のカリフをめぐる女性たち」
カリフ世襲体制確立以前、正統カリフ時代の4人の正統カリフはいずれもムハンマドと姻戚関係→ウマイヤ朝時代はカリフは父系相続→父方の血筋がカリフとして即位する絶対条件に
ウマイヤ朝時代の特徴として、カリフの母親がアラブ人女性ということもある→アラブ至上主義→12代カリフから非アラブ人の母から生まれたカリフが出てくる
→12代カリフヤズィード3世はクーデタで即位→アラブ至上主義の形骸化→アッバース朝時代になるとほとんどのカリフが女奴隷を母にもつ。女奴隷は制限なく性的な対象とすることができた
前イスラーム時代のアラブ社会は、男性が女性の家に入る通い婚が多かった→これに対し、ムハンマドは女性の家を転々とすることはなかった
ウマイヤ朝カリフの娘はウマイヤ家の男性とアッバース朝カリフの娘はアッバース家の男性とのみ結婚している

334修都:2022/10/02(日) 22:14:15 ID:zAErYo6E
丸橋充拓「唐後半期の政治・経済」
唐の玄宗の時代710年代、常設の軍事指揮官として節度使が設けられ、辺境各地に派遣された→軍事力の調達は義務労働から雇用労働へと転換
玄宗の時代、本籍地で生産物と労働力を収取する方式から、市場経済を利用しつつ財物や労働力を臨機に調達する財政運営へ
北辺の六節度使のうち、東方の三節度使を安禄山が独占→755〜763年、反乱→ほぼ全土に節度使を布置→半ば独立した藩鎮化→反乱頻発→憲宗から穆宗の時代に鎮静化(805〜824年)
農業税に依存できなくなっていた唐は758年塩の専売制度を導入→格好の財源
780年、雑税を両税に一本化→夏・秋のいずれかに銅銭と穀類それぞれを納める→貧富に応じて負担に差、本籍地でなく現住地で納税者を把握→塩の専売とともに財源
憲宗が宦官に恨まれて殺されると後の歴代皇帝のほとんどは宦官によって擁立された→宦官は皇帝権に依拠することで力を持ち得る存在であるため、結果的に皇帝権は強化された
9世紀前半の40年間、唐の官僚は牛党と李党に分かれて対立
塩専売制に伴い塩の密売→密売商人は武装し、政府と時には武力衝突→社会不安→9世紀後半、各地で反乱→唐は長安周辺を実効支配するのみ

335修都:2022/10/03(月) 20:12:46 ID:zAErYo6E
舩田善之「キタイ・タングト・ジュルチェン・モンゴル」
唐とモンゴル帝国との狭間の時代→多国体制、盟約の時代。キタイ(契丹)・ジュルチェン(満洲)が覇権国家として国際秩序の安定を主導
10〜13世紀、東アジアの覇権はキタイ、ジュルチェンを経てモンゴルへ
東北ユーラシアにおける政治と南北交通の重心は東へ移動、間隙を縫ったのがタングト→モンゴル高原の覇権を握ったテムジンは、1205〜09年、タングトを屈服させる
→モンゴルとジュルチェンは長い交戦、戦乱の時代が続くが覇権はモンゴルへと
クビライの時代、クビライは唯一のカーン位を保持するが、各ウルスの自立傾向が進む→各ウルスの統治に介入することはなく、帝国はウルスの連合

336修都:2022/10/04(火) 20:10:36 ID:zAErYo6E
井黒忍「宋金元代の華北郷村社会」
金代から家族の歴史が記された石碑が増える
宋代依頼、人口増加が継続。金代において山地や丘陵地の開発が加速。灌漑水利開発も進展→石碑には人々が村を基礎として結束を強める姿が描かれる
金元代、地縁的集団が基本単位となる中、村々に信仰の中心となる村廟が成立→村の信仰の伝統が石碑を通して後世に継承される
水利に関しての権利や主張も石碑に刻まれている

337修都:2022/10/05(水) 20:10:19 ID:f50dInU2
伊藤正彦「江南郷村社会の原型」
宋代、職役の重役化→土地所有額と成丁数の多い人戸から賦課される→大家族世帯の減少→族人が分散してゆく過程で族譜編纂
郷役賦課・負担→義役という社会組織を結成。人戸が結集し、穀物・金銭を共同出資し、共同の役田を設置し、その収益で役費を援助
宋・元朝以来の動きに商業的農業とは無縁の江南郷村社会の原型がある

338修都:2022/10/06(木) 19:56:27 ID:f50dInU2
金文京「士大夫文化と庶民文化、その日本への伝播」
本来、反権力、脱政治、超世俗的存在であったはずの隠遁は、時代と共に権力、政治、世俗と融和的になり、批判的視点を失う
宋代は士大夫、士人(官僚、またはそれを目指す人)の時代であると言われているが、実は隠遁の時代であった→在野の隠遁の士が重視される
隠遁の本来の場所である山林の大自然が都会に持ち込まれる→庭園文化の誕生。水墨山水画の誕生
官途につくことのできない多くの不遇士人は隠遁のポーズをとりながら、世俗の中で活動するようになり、山人と称し、称された
山人の生業→売薬。詩文などを献上し援助を得る。医術。音楽。書画。占術。法術。飲茶
鎌倉、室町期、宋元の最新文化、山人的・文人的な文化など新たな文学や朱子学などがもたらされた。人的交流は遣唐使の時代をはるかに凌駕した
→宋元代のサブカルチャーから生まれた山水画や茶道などが日本に伝来して、文化の主流になった
東アジアの近世は、社会階層の多様化が進み、中国の士大夫、士人、日本の武士、朝鮮の両班など中間的な知識階級が勃興、さまざまな文化を生み出した

339修都:2022/10/10(月) 18:13:37 ID:f50dInU2
山崎覚士「「五代十国」という時代」
907年4月18日、朱全忠は即位し後梁朝を建てた→後唐→後晋→契丹第2代皇帝が華北王朝の皇帝として君臨(大遼)→後漢→後周。華北王朝の直接支配する領域は中国と呼ばれた
華南で独自政権を築き上げたのは呉・呉越・閩・楚・蜀・漢→呉は乗っ取られて唐になる。呉・唐・蜀・漢は皇帝を称して華北王朝と対抗した。華北王朝より特別待遇を受けたのは呉越
分裂時代でも天下秩序は存続した。また、天下外で新たな国家構造を模索する国家・国家秩序が芽生える時期でもあった(契丹)

340修都:2022/10/11(火) 19:56:21 ID:f50dInU2
徳永洋介「宋代官僚制の形成」
北宋前半期、令の規定する官制は職責を失っても形骸を保っていた。律令官制の本質に関わる箇所には手をつけず、皇帝直属の行政機関を現状に即して再編していた
元豊の官制改革→既存の行政組織を大幅に分割、併合、改廃。官名と職務が一致する官僚組織に改めた

341修都:2022/10/12(水) 20:46:08 ID:f50dInU2
渡辺健哉「元の大都」
クビライは国号の典拠を経典に求めた→観念的な名称を国号としなければ、多様なエスシティや階層の心理的合一を図れないと制定に関わった人々が判断
北京地区が初めてチャイナプロパーの国都となるのが元の大都
漢族式の校祀に対してモンゴルは消極的→儀礼施設の建設は後回し。しかし儀礼施設の建設を拒んだわけではない
遊牧諸政権は季節に応じて移動を続ける→元朝も冬の大都と夏の上都(内モンゴル自治区)を移動している

342修都:2022/10/13(木) 20:02:40 ID:f50dInU2
川村康「法構造の新展開」
唐後半、戦乱と社会変動が律令格式の編纂の継続を不可能にした→社会変動への対応は制勅
漢人王朝では、刑罰法の基本法典は実質的には唐律であり続けた。非刑罰法では基本法典が唐令から『天聖令』へ変遷
遼は、遊牧民に適用する法と漢人に適用する律令があった→金王朝で漢人王朝の法構造へ→元王朝は漢人王朝の法構造に冷淡。元には単行指令があるだけで法典が存在しない
征服王朝では唐律は現行法ではなかったけれども、参照価値をもつ中核的存在であり続けた

343修都:2022/10/15(土) 12:52:58 ID:f50dInU2
佐々木愛「中国父系性の思想史と宋代朱子学の位置」
宋代以降、気はガス状の物質で、自己運動し、天地の間を周流し、凝固して万物を構成し、生命や活力を与えるエネルギーを意味する
宋代以降、気という概念が儒教思想の最重要概念の1つになる。宋代においては父系男子でなければ祭祀権がないという観念は徹底してはいない
気の概念では、母系親族や姻族などの祭祀を否定・排除することはできない→気は否定排除の理論を構成することはできない。男女がともに並列して儀礼に参加するのが当然の規定であった
儒教思想が中国社会の父系制強化を牽引したのではない。社会の方が父系制を望み、その影響をうけて儒教の理論上無理な父気の優越を説く人物が出現した

344修都:2022/10/16(日) 13:08:49 ID:f50dInU2
矢木毅「高麗国とその周辺」
918年、王建が高麗国を建てる→高句麗の継承を謳った。年号は天授→中国の冊封に頼らないことを意味する。936年、朝鮮半島を統一
933年には、中国5代の唐から冊封を受けており、天授の年号を停止している→その後も中国5代、北宋の冊封を受けている→一方で、独自の年号を使うこともあった
993年、契丹が高麗に侵攻→994年、契丹に朝貢し、契丹の年号を使う。高麗と北宋の国交は途絶→高麗国王は契丹の冊封を受けながらも国内的には皇帝を気取るようになる
1070年、高麗から北宋に使者が遣わされ、1071年、北宋に朝貢→一方で、女真族の金朝とも軍事同盟
→金とは対等な関係だったが、金が遼(契丹)を破ると朝貢を要求される→現実的な情勢判断として、1126年、金に朝貢
→遼や金に服属していた時代、国内的には高麗国王は皇帝を気取っている
→モンゴル(元)の冊封を受ける→遼・金の時代とは違い、国内的に皇帝を気取ることはしていない→遼や金と違い、元は中国本土・天下を統一している

345修都:2022/10/17(月) 20:12:17 ID:f50dInU2
中島楽章「大交易時代のアジアの海域世界」
13世紀後半以降、モンゴル支配の時代、中国から西ユーラシアへ銀が流出→気候寒冷化とペスト大流行による14世紀の危機→銀流出途絶。ユーラシア全域で銀不足
15世紀末以降になると温暖化、ユーラシア各地で経済が拡大、ヨーロッパにおける銀生産も急増
1570年前後、朝貢・互市(交易)などの多様な貿易ルートが併存するようになる。16世紀中期以降、貿易利潤の集積と西洋式火器の導入により、東アジア海域では軍事国家が成長
16世紀中期以降、日本銀・アメリカ銀の生産急増とともに膨大な銀が海域アジアに流入。特に中国は産品需要により銀が最終的に流れ込む排水口となる

346修都:2022/10/18(火) 20:11:53 ID:f50dInU2
岡本隆司「清朝をめぐる国際関係」
16世紀まで、モンゴルを除くと明朝に自立的な政治勢力は存在しなかった→17世紀、南海上の「倭寇」後裔・大陸北東のジュシェン(女真)が自立的な勢力に
1644年、明朝は自滅→清朝に。清朝は明朝の制度をそのまま受け継いだ→明朝からの対抗勢力を一掃するのに40年かかった→海上勢力も制圧すると交易を認める
→明朝は朝貢一元体制だったので交易は密輸にならざるを得なかったが、清朝では交易(互市)は現地の人間に任せた
18世紀半ば、現在の中華人民共和国の領域が清朝の領域になる→難局に対処をくりかえした結果、モンゴル・チベット世界も併せることになったにすぎない
→多元的な勢力は、多元的なまま存続し、共存する体制になった。従前の慣例・構成に手をふれない
18世紀後半、西洋貿易が拡大し、膨大な銀が流入、未曽有の好況となった→爆発的な人口増加→未開地の開拓→開拓民と現地民の摩擦、治安悪化

347修都:2022/10/19(水) 19:54:27 ID:f50dInU2
岩井茂樹「明朝の中央政治と地域社会」
明朝を建てた朱元璋の課題→中華の恢復。モンゴル語、トルコ語などや遊牧騎馬民の風俗禁止。皇帝独裁体制
宋代以降、郷や村などを賦税課徴の単位としようとしていた→明代、里甲が基層組織として全国画一に編成された。里は百数十戸からなる
徴税運搬を行う糧長の公務は代行役に請け負われ私的な営利事業となる。里をまとめる里長の職も請け負われるようになった→職務の負担が大きく、代行者に請け負わせた方が得だった

348修都:2022/10/20(木) 19:56:29 ID:f50dInU2
大木康「明代中国における文化の大衆化」
宋代までの科挙では、文学的な能力、政治家としての資質が試された→明代から安易な文章でもよい試験になる。詩人の大衆化
明末から文人趣味の指南書があらわれる→文人趣味なども庶民の間へ伝わっていく。新興成金が指南書を求めた。明末、経済的先進地域である江南地方では印刷の普及で大衆伝達社会が成立
『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』などは明末に完成

349修都:2022/10/21(金) 20:11:27 ID:f50dInU2
杉山清彦「マンジュ大清国の支配構造」
マンジュ国を興したヌルハチは、1616年ハン位について金という国号を立てた→ホンタイジは1635年ジュシェンからマンジュに民族名を定め、36年皇帝位につき、大清国の国号を定めた
八旗制→それぞれをまとめる旗王たちの代表として皇帝がいる
支配は在来の統属関係を維持し、現地支配層を統治組織に組み込み間接支配するもの。マンチュリア、モンゴル、チベット、東トルキスタンには漢人の入植・移住を禁じる
清代、マンジュ人支配層内部の反乱は一切起こっていない→強い求心力と厳格な統制→マンジュ人が区別される存在であり続けることが必須→漢人との通婚禁止、居住地も区別
大清皇帝はマンジュのハン、明皇帝を継承した天子、モンゴルを従える大ハーン、チベット仏教の保護者、ムスリムを是認する君主である
大清王権の政治は、独裁的な権力をもつ皇帝が、身辺に集めた側近によって運営する側近政治であった→その体制を自らは統御できない幼帝となったときが西太后らの時代

350修都:2022/10/22(土) 20:11:23 ID:f50dInU2
柳澤明「清朝時代のモンゴル社会」
1636年、ホンタイジが皇帝を称する頃には漠南モンゴルの大部分の集団は大清の傘下に入った→清帝国は満洲人と漠南モンゴル人が連合し、漢人勢力の協力を得つつ、中国内地を併合した
1696年、康熙帝が漠北に親征→清帝国とロシア帝国の勢力圏がモンゴルでも接触→1728年、キャフタ条約で国境定まる
18世紀前半から、モンゴル語ができないモンゴル旗人(八旗に構成されたモンゴル人)が目立つようになる
1881年、サンクトペテルブルク(イリ)条約→ロシア人のモンゴル全域での商業活動が認められる→漠北モンゴルがロシアとの連携のもとに独立を果たすことになる背景の一つ

351修都:2022/10/25(火) 19:56:14 ID:f50dInU2
岡田雅志「近世後期の大陸部東南アジア」
18世紀、中国経済成長と人口の増加→流出人口の受け皿が東南アジア→東南アジア諸政権は、財政を立て直す機会として中国商人を歓迎→華人の現地経済への関与が強まる
大陸部西部のビルマ、中央部のシャム、東部の大越は大国化していく
日本の銅輸出制限→雲南〜内陸山地にかけての鉱山開発進展→移住集団と在来社会の間に対立

352修都:2022/10/26(水) 20:47:00 ID:f50dInU2
六反田豊「朝鮮時代の国家財政と経済変動」
朝鮮史上最も高度な中央集権的支配体制を実現した朝鮮王朝は、経済への管理・統制が一層顕著だった
朝鮮初期の国家財政は徹底した現物主義→商業的な物資調達は抑圧
15〜16世紀、農地開発→官人・士族層の私有地拡大
様々な形態で賦課されていた税物は15世紀末以降、米・綿布へ一元化されていく→米や綿布の生産拡大
大同法→100年かけて各種負担を地税化

353修都:2022/10/27(木) 19:29:08 ID:f50dInU2
松井洋子「近世日本の対外関係と世界観」
織田信長の天下は京都あるいは畿内を指す→信長後、日本全国を統一した秀吉は、ルソンや高山国(台湾)へ服属を求める書簡で統一は天命であるとしている
キリスト教に対峙する論理としては神国を持ち出す
秀吉の構想では明にかわって日本が中華となる→講和では秀吉は明の冊封を受けている→冊封が華夷秩序に入るものだと理解されていない
徳川政権が日本人と異国人を区別する指標となったのは住居や家族を持ち住み着いていること→支配領域に住み続ける人々が非キリスト教徒であることを証明することが制度化
徳川政権の対外関係の枠組みは関係修復が実現しなかった中国を中心とする華夷秩序の傍らに、日本中心の華夷の関係が存立しているというもの

354修都:2022/10/28(金) 19:47:17 ID:f50dInU2
太田淳「グローバル貿易と東南アジア海域世界の「海賊」」
マレー海域の貿易を主導したブギス人→オランダ東インド会社はこの貿易を敵視、攻撃→ブギス人のラジャ・アリはスカナダに要塞を備え貿易を行った
→オランダ東インド会社はラジャ・アリを海賊と呼んだ→しかし、海賊行為と商業活動が混然とした小規模な港市は数多くあり、スカナダだけがそうだったわけではない
実際のところ海賊は商業軍事集団であり、利益を長期的に得るために場合によって略奪か購入かを選んだ
イギリスの進出を警戒するオランダ→海賊の鎮圧は貿易促進のためであると同時に平和と秩序をもたらすために必要として植民地支配を正当化
→しかし、現地制圧のために海賊である現地有力者を近代的体制の中に取り込んでいる→海賊鎮圧のために商業軍事集団に独立国を与える

355修都:2022/10/31(月) 18:58:07 ID:f50dInU2
秋葉淳「オスマン帝国の諸改革」
19世紀、タンズィマート(改革)→課税の対象が地域ではなく個人に→免税特権を認めないことから有力者の反感、税負担が軽減されなかったことから農民層の不満
中央から地方に官吏を派遣し、評議会を組織してその協力のもと改革を進めた
1856年、官立学校が非ムスリムに開放される→オスマン国民の養成→しかし、非ムスリムには共同体の学校があり、外国の支援を受けた学校などもあったため政府の学校は魅力に乏しかった
1876年のオスマン帝国憲法公布と翌年の帝国議会開設はタンズィマート改革の一つの到達点→しかし、1878年ロシアとの対立で批判が高まると議会は閉鎖される
→スルタンのアブデュルハミトは専制体制→しかし、地方に官職が作り出され、在地の名望家や知識人が職に就いた→国家による統合と住民の国家制度への参入→地方社会のオスマン化
新しい教育→教育や儀礼などを通じて、また学校建築によっても地方社会もオスマン帝国の一部であるという事実を意識させる
マケドニアでは民族主義者の武装組織がゲリラ戦→オスマン政府は対処できず→この混乱の中でマケドニアに配属された将校の反乱から青年トルコ革命が始まる
19世紀の改革によりオスマン帝国の国家権力はかつてないほどに浸透した→しかし、マケドニアなどの農民が自らをオスマン国家の一員と意識したかどうかは疑わしい

356修都:2022/11/07(月) 19:28:31 ID:QPJxpke.
井坂理穂「一九世紀インドにおける植民地支配」
東インド会社は19世紀前半までに、インド亜大陸の大部分を支配下においた→1857年、インド大反乱→ムガル帝国滅亡、1877年ヴィクトリア女王がインド皇帝に即位
18世紀後半のインドにおけるイギリスの司法→刑事訴訟はイスラーム法。民事訴訟はヒンドゥーにはシャーストラの法、ムスリムにはクルアーンの法
→それまでのインドでは、統一的な法が無かったが、ヒンドゥーとムスリムはそれぞれ同じ法が共有されることとなった
1780年イスラーム法に通じた人材育成のためのカルカッタ・マドラサ設立、1791年ヒンドゥー法に通じた人材育成のためのサンスクリット・カレッジ設立
→それまでの知の伝統を引き継ぎつつ、東インド会社の統治体制や権威を築くという会社の方針
19世紀半ば以降、社会・宗教改革運動→推進派、反対派ともに訴訟に関わる→統治のために導入された司法制度は、在地社会の状況にあわせて利用され、インド社会に根づいていった
インド各地でヨーロッパ人と現地のエリートの協力のもとに教育活動発展→在地の知の伝統を重視する人々と西洋の知を積極的に取り入れることを目指す人々の両者がいた
もともとインドのエリート層は複数の言語に精通している→英語はそのなかに加わった一つの言葉にすぎない→英語を重視する主張が優勢に
→ただし、英語教育を受けることのできた層は限られている→そのエリートたちが集う場としてインド国民会議→のちにインド独立運動を率いる
インドでは、在地社会の構造や慣習などを反映しながら多様な教育活動が展開。特定の宗教コミュニティやカーストと結びついた教育機関が存在
在地エリートは女子校を設立→イギリスによるインド社会批判のなかで女性の地位の低さが強調されていたから→しかし、そのエリート達も女性が過度に西洋化することは警戒

357修都:2022/11/08(火) 21:05:35 ID:QPJxpke.
石川亮太「朝鮮の経済と社会変動」
17世紀半ば1000万人程度であった朝鮮の人口は、18世紀末に1800万人程度でピーク、19世紀初めの大飢饉で1600万人程度まで急減
→18世紀末までの人口増加が環境制約を悪化させた可能性→燃料材の需要や耕地拡大による山林の荒廃
19世紀に多発した民乱は租税の過重や不公平への不満を引き金としたもの。人口圧が高まり耕作地も零細化していた
商業では市場の秩序を維持し商人の権力を保証する役割を公権力が集中的に担っていた
1876年日朝修好条規→交隣関係の回復であり西欧的な条約体制への参加という意識は希薄。日清戦争勃発まで、清朝との宗属関係と条約関係は矛盾をはらみつつ併存
朝鮮と日本では、衣料品と食料品の分業=綿米交換体制が植民地化を待たずして形成→食糧需給との摩擦→防穀令(穀物搬出禁止措置)
→商品米の一部が日本に向かい、価格の上昇→人々の窮迫、地域社会の緊張

358修都:2022/11/09(水) 19:48:38 ID:QPJxpke.
黒木英充「変容する「アラブ社会」」
オスマン帝国では、総督と都市民との間に暴力的紛争が発生しても、都市民はイスラーム法官を通じて正義を主張し、秩序を維持していた
→19世紀には、その法官も社会の柱石たりえなくなっていた。シリア内陸部では徴税請負が浸透しており、農村の矛盾は都市の暴動で解決されることがあった
→19世紀半ば以降、タンズィマート改革で徴税請負が廃止され、直接的徴税の仕組みが整うと、大規模な都市暴動はなくなった
エジプトでは奴隷軍人マムルークが支配層を形成し続けていたが、アルバニア出身のムハンマド・アリーはマムルーク有力者層を一掃し、徴兵制など近代国民国家に特有の制度を導入
→エジプトの事実上の独立国家化→ムハンマド・アリーの息子イブラーヒーム・パシャはオスマン政府からの解放者としてシリアに乗り込み占領。キリスト教徒・ユダヤ教徒を優遇した
→イギリスはロシア、オーストリア、プロシアと連合し、オスマンも従えてエジプト軍を攻撃、シリアから撤退させた
レバノンでは、マロン派(カトリック)・キリスト教徒・エジプト軍・フランスとドルーズ派(イスラム)・ムスリム・オスマン・イギリスが対立・内戦→内戦後、行政会議定員が宗派別に配分された
→これがレバノンの政治体制を規定する宗派主義の起源
ムハンマド・アリーの支配権が認められた1840年以降、オスマン政府の言論統制を嫌う知識人らはエジプトに渡った。レバノンは30〜40万人規模の人口のうち10万人程度が流出した
→人口増による土地所有細分化、日本・中国産の安価な生糸との競争に敗れたのが移住の主要因
19世紀から第一次世界大戦までは南欧・東欧から膨大な人口が新大陸に向かった時代であり、レバノン・シリアからの移民もヨーロッパ移民と同じくニューヨークやリオデジャネイロなどを目指した

359修都:2022/11/10(木) 19:48:05 ID:QPJxpke.
阿部尚史「イランの一九世紀」
19世紀、イランを支配したのはトルコ系のカージャール朝。シーア派信徒の守護者としての統治理念を正当性の根拠においた
中央ユーラシア地域をめぐるイギリスとロシアの覇権闘争→イラン=ロシア戦争→第一次ではイランはイギリス・フランスの支援を受けた→第二次でコーカサス南東部を失う
→トルコマンチャ―イ条約は関税自主権喪失など不平等な内容→以後、ロシアは圧力をかける存在となる
19世紀イランでは、民事司法は法学者の独自な法廷で解決されていた→強制執行には国家権力に協力してもらう
イランで近代化改革を始めたのは、アゼルバイジャン州総督アッバース・ミールザー→軍制改革など→ミールザーの死後、継続しなかった
19世紀後半以降、イランの近代的知識人はイスラーム以前の起源を研究→シーア派信仰と並んで現在もイランの国民意識として機能
イランのナショナリズムは伝統と近代が絡み合うなかで創り上げられていった

360修都:2022/11/11(金) 20:03:09 ID:QPJxpke.
宇山智彦「ロシアと中央アジア」
ロシアは、ユーラシア国家としての性格を当初から持っていた→ピョートル1世期(1682〜1725)以降、ヨーロッパ諸国に倣った改革を進める→近代化と専制権力の維持という二面性
中央アジアでは、住民のほとんどが異族人の身分に入れられ、現地有力者が帝国の貴族層に組み込まれることは一部の例外を除いてなかった
大部分がロシア支配下に入っていた中央アジア民族はカザフ人だが、カザフ草原東部はロシアと清に両属していた→ロシアはカザフ人に対する支配権を確立していく
ロシアは、草原地帯では安全な国境線を設けられないために領土を広げたが、占領地を守るにはその向こうも占領しなければ安心できないということになり、拡張を続けていった
英露は中央アジアでは、大国中心の国際秩序、帝国競存体制を作ろうとしていた
ロシアは、イスラーム法の適用範囲を限定し、文書主義・判例主義を導入した→ヨーロッパ諸国に植民地化、圧力を受けたイスラーム諸国と共通
イギリスのインド統治に比べ、ロシアは現地人協力者の育成・活用に消極的
ロシアが中央アジアに領土を得たのは安全保障上の動機によるところが大きく、利益を集めることを重視したイギリスとは大きく異なる
→1880年代以降は、モスクワなどの繊維産業を支えるために中央アジアでの綿花生産が急速に伸びる
ロシア帝国のヨーロッパ部は人口増加・土地不足に直面しており、20世紀に入る頃には中央アジアへの移住を奨励→現地民との緊張が高まる→知識人を中心に自治運動
→国民国家形成の萌芽。ソ連の時代を経て、実際に独立国家が成立していく

361修都:2022/11/14(月) 19:35:29 ID:QPJxpke.
小林亮介「一九世紀の清・チベット関係」
ダライ・ラマ政権の母体であるチベット仏教ゲルク派は新興勢力→カルマ・カギュ派の勢力を打ち破り、1642年ラサにダライ・ラマ5世を最高権威とする政権樹立
→カムの東半分やアムドには多くのチベット系在地有力者が割拠、多くはグーシ・ハーン一族の支配を受けていた
乾隆帝の時代は清とダライ・ラマ政権の関係が良好に保たれた時代→背景にアムドの僧侶達の活躍→以後の皇帝には、乾隆帝のチベット仏教への敬意は必ずしも継承されていない
ダライ・ラマ九世以降はラサの一握りの寺院出身の僧たちが摂政として代々大きな力を振るうようになる
カムの争乱→中央チベットに対する清の影響力後退、内地との交通が阻害された。ダライ・ラマ政権も四川からの茶の輸入が断絶した
→カムの秩序回復が必要→チベットはカムの多くの首長に服属を誓わせた→管轄をめぐり、ダライ・ラマ政権と清四川当局の間で紛糾→イギリスがヒマラヤ・チベットで情報活動
→ダライ・ラマ政権は英軍に敗北→ダライ・ラマ政権は反英姿勢を貫いたが、清内部ではチベット喪失の事態に備えてニャロンを四川省へ回収すべきという強硬論→実行
→清はもはやチベット仏教の護持者ではなかった→ただし、清も関係悪化は回避すべきと判断し、ニャロンを返還→ダライ・ラマ13世はロシアと接触→イギリスはラサへ進撃、ラサ条約締結
→イギリスの経済進出。しかし、ダライ・ラマ政権にとって最大の脅威は、清だった→清はチベットを支配しようとした→ラサに進軍、ダライ・ラマ13世はインドに逃れる
1912年に誕生した中華民国は清朝版図の継承を唱え、チベットにも新国家への参加を呼びかける→1913年ダライ・ラマは独立宣言

362修都:2022/11/15(火) 19:49:02 ID:QPJxpke.
小泉順子「近代シャムにおける王権と社会」
19世紀前半のシャムは活発な交易を行う多数の中国人を有し、米や塩など競争力のある輸出品を有する国とイギリスに思われていた
1826年、イギリスと条約締結→米、武器、アヘンを除く貿易→1855年、バウリング条約。イギリスはシャム船・中国船と同じ条件で貿易参入。アヘンは徴税請負人以外に販売すること禁止
→アヘン税は賭博税に次ぐ財源に
シャムは英領との国境制定には関心が薄かったが、ビルマやベトナムなどには軍事力を行使→カンボジアはベトナムとシャムの両方に朝貢
1852年、第二次英緬(ビルマ)戦争が始まるとイギリスが戦う様子を見せてほしいと希望。フランスとはカンボジアをめぐって交渉→1867年、フランスのカンボジアに対する保護権を認める
1893年、フランスと衝突、イギリスの介入も得られず、メコン川左岸は仏領となった→英仏両国が国境制定交渉を行い、シャム中核域の中立化を宣言

363修都:2022/11/16(水) 21:03:18 ID:QPJxpke.
村上衛「清朝の開港の歴史的位相」
18世紀の中国はかつてない規模の人口増大。しかし、農業の技術革新は緩慢で農業生産性の向上には限界
広州貿易に制限はなく、18世紀後半からの茶貿易発展で対欧米貿易が急速に拡大。貿易管理は困難になっていった。アヘン貿易も拡大し、銀流出を招き、中国経済の停滞を引き起こした
清朝は王朝創設期に設定された国家財政に拘束されていた→18世紀の物価の上昇により国家財政は縮小、小さな政府となっていった
→経費が不足していた地方政府は非公式の収入をおこなったが、それが不公平な徴税や腐敗を招いた
アヘン戦争後の南京条約→低関税による自由貿易が実現するはずだった→密輸と海賊により自由貿易は機能しなかった
貿易赤字は拡大し、銀と銅の交換レートは著しい銀高となり、農民や手工業者は打撃を受け、治安悪化→太平天国拡大の原因
イギリスは輸出拡大をねらい、フランスと第二次アヘン戦争を引き起こし、天津・北京条約で自由貿易を実現するための要求をほぼ実現した
密輸については、外国人税務司制度を導入し、概ね解決。清朝地方官がイギリスに依頼する形で海賊の掃討も進んだ
開港場は、業務を委託された欧米人を利用しつつ、中国におけるネットワークの中心となり、開港場システムが成立
1850年代後半から生糸と茶の輸出が本格化。国産アヘンの大量生産によってアヘンの輸入減少→1864年には貿易黒字。銀の流入をもたらし、中国経済復調。関税収入は増大し続けた
太平天国などの諸反乱による膨大な犠牲は人口圧を緩和した
東南アジアなどへの海外移民も大幅に拡大→19世紀後半以降、華南沿海諸都市は東南アジアからも米の供給を受けることが可能になり、食糧供給安定
中国の小農経営には制約が少なく、清末においても有利な商品作物を選択して作付けし、場合によっては移民先で生産を行い、多様な一次産品生産に貢献
華人は欧米や日本が開港場や植民地に張り巡らせた銀行などのインフラを利用してネットワークを拡大
開港場貿易を円滑ならしめたのは、開港前から存在した経済的制度であり、欧米の技術と制度をもとに生まれた開港場のインフラと結びついて開港場貿易の発展をもたらした
→しかし零細な生産体制に変化は無い→茶などの国際的な競争力の低下。外部の衝撃は内地に伝わらなかった
華人のネットワークは同郷・血縁関係をもたない人々には閉鎖的なネットワークであり、ましてや外国人は入り込めず租界に押し込められ、内地経済へのアクセスにはつながらなかった
義和団事件まで欧米は中国における権益を拡大したものの、影響力は点と線にとどまり、内地の利権構造に手をふれることは無かった
→イメージとは異なり、20世紀の世紀転換期、外国の影響力は中国内部に浸透するどころか、外縁に押し出されていく→日本のみが例外的に領域支配を拡大、内地への浸透を図る
→中国ナショナリズムと衝突することになる

364修都:2022/11/17(木) 20:46:30 ID:QPJxpke.
谷本雅之「日本経済発展の始動」
17世紀、近世日本は人口が顕著に増加→耕地面積の大幅な拡大。城下町の建設・拡充→18世紀に上限→肥料(魚肥)となる水産資源を求めて蝦夷地へ
18世紀、民間需要の拡大・成熟→海外との技術知識の交流は極めて乏しい→日本列島内での技術知識の普及。農村への生産の場の移動
関税自主権が無いという意味でも開港によって自由貿易が始まった→新たな生産受容(生糸)と中間投入財の供給源(輸入綿糸)
→1870~80年代以降、ヨーロッパの産業技術移転→1890年代半ば、国産綿糸による国内市場の輸入代替達成
農家は自家労働力の戦略的な配分先として工場労働を選択→繊維大工場も小農経営の論理の中に位置づけられている
維新政府の果たした役割は、西欧の産業技術導入。明治維新後の実際の産業発展を主導したのは民間
中央財政は軍事支出に傾斜。物的インフラや人的資本の形成で地方政府による財政支出の果たした役割は大きい
地方財政の基盤は在地の資産家の担税力→19世紀以降の農村・地方経済の活性化の中で影響力を強めた豪農が地方資産家・名望家層

365修都:2022/11/20(日) 15:41:56 ID:QPJxpke.
鶴島博和「中世ブリテンにおける魚眼的グローバル・ヒストリー論」
ローマ属州時代のブリテンでは淡水魚や沿岸の漁労が活発。魚食は一般的でなかった→8世紀、司教ウィルフリドが南サクソンで漁労を教えた
→漁業のためには防腐剤の塩が必要→製塩のためには燃料が必要→森から資源を切り取る。海岸線から目の前のある所までの水域は所領に属していた→漁場の成立
1000年、出土する海水魚の魚骨が急増。この時期は、温暖化が進み人口が増加した→鰊漁が主要産業に
中世のイングランドは塩の一大生産地。人間に必要な塩を除いても相当の余剰が発生しており、余剰が鰊漁を支えた
鰊漁師たちは武装集団であり海賊行為におよぶ可能性がある→海事に関する役務を課し、見返りとして漁業権を保証する

366修都:2022/11/21(月) 21:04:39 ID:QPJxpke.
藤井真生「帝国領チェコにみる中世「民族」の形成と変容」
現在のチェコの領域に国家が登場したのは9世紀後半→ボヘミア統一→東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)が進出→970年代、支配を受け入れる→ボヘミア大公領
→ボヘミアは部族連合から国として認識される政体に成長→チェコ族からチェコ人へ
チェコ東方はモラヴィアで別の領邦→皇帝への奉仕で遠征するとボヘミア人とモラヴィア人は一括して扱われる→チェコ人という区分。聖ヴァ―ツラフ崇敬でも両者は共通している
14世紀、ボヘミアの人口の6分の1はドイツ人植民者であったという→宮廷の高官、各地の領主層から都市の上層市民までが「外国人」を嫌悪の対象とした→外国人は「ドイツ人」とほぼ同義
1306年、9世紀以来続いてきたボヘミア王のプシェミスル家が断絶→国外勢力が入り乱れ、王位継承をめぐる争い→皇帝の長子を迎える→ルクセンブルク朝→チェコの貴族は2度の反乱
かつて、異端とされたフス派はチェコ人固有の信仰・思想とされた→実際はチェコ内部で等しく受け入れられたわけではない
フス派がチェコ語で説教などをおこなったのは重要だが、ラテン語やドイツ語でもチェコ人説教師は活動していた。フス派に参加するドイツ系住民も多数いた

367修都:2022/11/22(火) 21:02:14 ID:QPJxpke.
五十嵐大介「西アジアの軍人奴隷政権」
1000年から1500年頃まではアラブ系やイラン系ムスリム住人とは言語的にも民族的にも文化的にも遊離した外来の支配者集団が西アジアを支配
→支配の基盤はイクタ―制。徴税権を軍人に委ねる→イクター制で獲得した富をウラマー(イスラーム知識人)に寄進する
マムルーク朝(1250〜1517)はマムルーク(軍人奴隷)のみが支配層を占めていたわけでも、軍人奴隷という出自が重視されたわけでもなかった
有力軍人が実力でスルターン位を獲得した時代→カラーウーンの息子ナースィルが絶対的な権力を確立し、彼の血縁者が世襲した時代→ナースィル期を実力で変えようとした時代
→実力でスルターン位に就くことが確立した時代。これらの時代にマムルーク朝は分けられる
→ただ、実力で即位しても前任者と姻戚関係を結ぶことは地位に正当性を与える一つの手段だった
イスラーム法では、男性は4人まで妻を持てたが、15世紀のエジプト・シリアでは、一夫一婦制が主流→スルターンにもその波。妾を持たないスルターンもいた→ペストの流行もあり、少子化
→実力でスルターンになる背景には少子化があったのでは

368修都:2022/11/23(水) 19:24:29 ID:QPJxpke.
小澤実「異文化の交差点としての北欧」
スウェーデンを出自とする東方へ拡大した北欧人が東方ヴァイキング。東スラヴ人らを核とした集団がルーシ。ビザンツ帝国と関係を深めた集団がヴァリャーギ
9世紀、ノルウェーヴァイキングが拡大し、ブリテン諸島北部沿岸部と北大西洋諸島は北欧人が定住する空間に
グリーンランド植民(15世紀に放棄)→鷹の産地、シロクマの産地、セイウチの産地(牙が貴重)
中世アイスランドは「サガ」と総称される特異な文献を大量に生産した→一定程度以上の事実が物語の核になっている。異集団(中東や新大陸など)との接触と交渉が描かれている

369修都:2022/11/24(木) 19:13:38 ID:QPJxpke.
黒田祐我「レコンキスタの実像」
イベリア半島北に分立したキリスト教諸国が展開したアンダルス(イスラーム支配域)に対する軍事活動は十字軍運動の西方戦線
イベリア半島の征服では、既存のモスクを再利用する方法が採られた→教会へ転用→キリスト教が都市景観の主役であることを明示する
ムワッヒド朝が1212年の敗北後、内紛によって瓦解していくなか、大レコンキスタと称される征服活動が遂行されていく→この時期でもモスクは教会として再利用される
→大聖堂を建て直す事例もこの時期にはある
13世紀半ば、イスラームのナスル朝はカスティーリャ王の家臣として振る舞いつつ友好関係を維持しようとした。ナスル朝でも西欧化が進行した
1492年、グラナダ降伏でナスル朝は滅亡。約800年続いたアンダルスの終わり→それでもモスクは教会として再利用された

370修都:2022/11/25(金) 19:58:47 ID:QPJxpke.
三浦徹「宗教寄進のストラテジー」
イスラームのワフク→寄進(寄付)する行為
ワフクは11世紀以降に活発となり、一般民も家族や宗教・慈善を目的としてワフクを行っていた
ワフクの目的→来世での救済。名声・名誉の獲得。墓所の確保。財産の継承→財産の継承目的での寄進はヨーロッパではほとんどみられない
ワフクは市場経済的な合理性をもつ→ワフクの管財人は寄進財の収益を使って新たな財をワフクとすることができる。ワフクの特徴は、任意の規模で寄進や経営ができること

371修都:2022/11/26(土) 15:46:22 ID:QPJxpke.
久木田直江「「女性の医学」」
キリスト教では、人間が病から回復するには改悛と罪の赦しが不可欠と考えられた→キリストを霊的な医師、薬剤師と考える伝統
同時に西洋中世はギリシア医学を継承している→宇宙をマクロコスモス、身体をミクロコスモスと捉えて人体の働きを説明する。4大元素説→病気の原因は体液バランスの崩れ
4大元素説→男性は優れた性質、女性は劣った性質
キリスト教会は、霊の在り方において男女は平等であるとしながらも、人間の罪はエヴァに始まるという認識に縛られていた
神学者はヴァージニティ(処女性)を魂の救済と結びつけ、純潔を憧憬。古代以来、月経は有害と受けとめられ、女性蔑視の思想を先鋭化させた
中世における治療者のイメージは圧倒的に女性→しかし、女性に学問的権威が与えられることはない
女性の医学の男性化→女性医師が書いた女性の身体と健康に関する『トロチュラ』の大多数の写本は女性の生殖機能に関心を持つ男性読者に所有されていた

372修都:2022/11/27(日) 13:17:38 ID:QPJxpke.
辻明日香「イスラーム支配下のコプト教会」
アラブの支配者たちはエジプトで、村落共同体の内的自治に干渉することはなかった。キリスト教徒やユダヤ教徒は自治権を与えられた→ジズヤ(人頭税)を支払う限り教会法に従ってよい
8世紀、イスラーム教への改宗が増える→税回避目的→コプト教会(エジプトのキリスト教会)は殉教者の教会というアイデンティティを確立していく
教会とイスラーム政権との関係は良好とは言い難かったが、コプト(イスラーム支配下のエジプト人キリスト教徒)を官僚として積極的に登用
マムルーク朝期にはコプトの総司教は影の薄い存在になり、政権と教会の間を取り持つ信徒らが改宗していくと教会は窮地にさらされる
マムルーク朝の1301年、ズィンミー取締令→キリスト教徒は青、ユダヤ教徒は黄色のターバンを着用
→抵抗があったが、14世紀後半になるとターバンはキリスト教・ユダヤ教の証として誇りをもって受け入れられるようになる

373修都:2022/11/28(月) 19:55:59 ID:QPJxpke.
佐々木博光「中世のユダヤ人」
13世紀以前、ユダヤ人は商業特権によって保護されていた→13世紀以降、特権が剥奪され、やがて都市を退去させられる
→ユダヤ人の地位低下は11世紀末には始まっており、十字軍に襲撃されている。また、キリスト教徒のこどもの失踪や殺害があるとユダヤ人に嫌疑がかかった
→ユダヤ人の儀式にキリスト教徒のこどもの血が使われているという言い伝え
ユダヤ人は地域社会の一員として、キリスト教徒と共生関係にあった。しかし、激しい差別にさらされての共生→その共生もやがて破綻

374修都:2022/12/17(土) 18:01:46 ID:QPJxpke.
寺嶋秀明「狩猟採集民の世界」
アフリカは地球上のどこよりも早く人類が登場し、今日まで生き抜いてきた大陸→多様性
現在のピグミー人口は、およそ20~30万人で、世界で最も多い狩猟採集民。今日では生活のあり方は一様ではない→小柄なのは森林に適応したからではないかという説
アフリカ狩猟採集民では、男は狩猟、女は採集といった分業が普通→ただし、女も参加する狩猟や女だけの漁もある。男も採取を手伝うし、子守する。ほとんどが一夫一婚
食物はバンド(生活集団)全体に分配される。バンド内は平等主義、個人や家族の自立が尊重される。元来リーダーはいないが、現在、行政上の理由で名目的に代表とされる人がいる
バンド内での争いの有効な解決方法は、バンドを離れること→ほとぼりがさめると戻ってくる。バンド間にも優劣はない
このようなあり方は、世界各地の狩猟採集社会で認められる
テレビで砂漠の狩猟民と紹介されてきたサン(ブッシュマン)は、実際は草や灌木におおわれた砂の大地に住んでいる→外来勢力の迫害によって極限的な環境に追いやられたが生き抜いてきた
→1970年代から始まったボツワナ政府の定住化政策で試練の時代→原野に分散して自由に暮らしていたのが、指定された地区に集住して暮らすことになった
数千年かかった熱帯雨林への農耕民進出→ピグミーとの混血。ピグミーは農耕民を通して鉄器やバナナを入手した→農作物と森の産物との交換→ピグミーの農耕民への隷属化には至らなかった

375修都:2022/12/18(日) 13:53:13 ID:QPJxpke.
坂井信三「トランスサハラ交易と西アフリカ諸国家」
サハラが砂漠化するにしたがってアフリカ南北の交流は制限されていった。7世紀のイスラーム勢力による北アフリカ征服以後、サハラ越え交易→南北の人種的・文明的対比は鮮明
希薄な人口、低い生産力、文字記録の不在などのためサハラ以南は未開とみなされた
トランスサハラ交易の上に立って統一交易国家が繫栄した時代がアフリカにはあった(マリ王国など)→マリが衰退すると政治権力が拡散していく

376修都:2022/12/19(月) 19:31:53 ID:QPJxpke.
鈴木英明「沿岸部スワヒリ世界の形成と展開」
1世紀半ばには沿岸部スワヒリ(アフリカ東岸)で渡海者男性と現地女性との通婚が一定程度あり、そうした人々が媒介者となって遠隔地交易が展開されていた
11世紀前後、アフリカ大陸東部沿岸は海洋資源や海上活動に高く影響されている→サンゴやマングローブを建築に用いる→内陸部との文化的紐帯は弱まる
18世紀までの沿岸部スワヒリ世界は外部と接触する機会も相手も限られていた→19世紀、ブー・サイード朝がザンジバル島に拠点形成
→欧米商人の大陸沿岸での商業活動を認めない一方、ザンジバル島ストーン・タウンからの輸出を無税にし、一極集中を試みる
沿岸部の港町では象牙などの需要が増加するに伴い、沿岸部の人々がアフリカ奥地まで赴くようになる→沿岸部と内陸の長距離交易網
沿岸部からの奴隷輸出は19世紀に最盛期。奴隷は他の商品と異なり、ザンジバル島を経由しなかった
奴隷供給については、奴隷狩りと同程度に自らや家族を奴隷として売ることで生き延びようする事例も少なくなかった
1880年代以降、植民地化が進んでいくとザンジバル島は商業の中心で無くなっていった
1879年、ザンジバル島とペンバ島で奴隷制廃止→解放証明書を受け取ったのは全奴隷の1、2割→元奴隷は納税の義務、居所と収入源を証明する必要
→奴隷たちにとっては、自由身分と奴隷身分を天秤にかける行為だった

377修都:2022/12/20(火) 19:57:52 ID:QPJxpke.
網中昭世「植民地主義の展開」
アフリカの植民地建設初期の抵抗と弾圧は第一次世界大戦前後まで続いた。植民地軍や警察の側にもすでに相当数のアフリカ人が組み込まれていた
イギリスとオランダ系アフリカーナーとの南アフリカ戦争後、イギリスはアフリカーナーの共和国トランスヴァ―ルとオレンジ自由国を軍政下に置く
→1910年、2つの共和国とケープ、ナタール植民地をそれぞれ州として南アフリカ連邦成立。ドイツの植民地だった南西アフリカは第一次世界大戦後、南アフリカの委任統治領となる
→1946年、南西アフリカを事実上併合。南部アフリカでは、第二次世界大戦後、脱植民地化に逆行した植民地国家が形成された
南アフリカはイギリス植民地最大の金産地であった→南部アフリカでは1920年代には、金産地への移民労働を経験することが一人前の男として確立する儀礼とみなされていた
農村部では生産手段を奪われて鉱山の労働市場に参入せざるを得ない→移民労働システムの廃止を求めはしなかった
南アフリカでは、2017年時点でも白人所有の農地がアフリカ系南アフリカ人に移転されたのは10%程度

378修都:2022/12/21(水) 21:06:50 ID:QPJxpke.
武内進一「中部アフリカ」
中部アフリカの熱帯雨林周辺部には、植民地期以前、数多くの国家があった→16世紀以降、大西洋奴隷貿易が本格化すると奴隷獲得のための戦争や混乱で、これらの国々は衰退
熱帯雨林では、集権的な王国は成立しなかった
ルワンダの内戦でクローズアップされたトゥチとフトゥは社会階層を含意する言葉→トゥチが貧困化すればフトゥ、フトゥが豊かになればトゥチ
ルワンダ王国周辺部の人々がそうした自己認識を強く持つこともなかった→19世紀後半、トゥチの支配が強まると集団間対立が起こるようになる
中部アフリカ北部にはイスラームを受容した王国が多数存在したが、熱帯雨林地域への浸透は限定的。ヨーロッパ勢力の侵入も遅れた
コンゴ自由国を誕生させたベルギーのレオポルド2世はアフリカ人に狩猟・採集させ、低価格でゴム・象牙を買い付けた
→1890年代以降、ゴムの採集は義務化され、量を集められなければ刑罰が科せられた→糾弾の国際世論が高まると1908年正式な植民地であるベルギー領コンゴとなった
→ベルギー領コンゴではコンゴ自由国の反省からアフリカ人の保護と生活改善がうたわれた→中部アフリカでは多様な集団が移動を繰り返していたが、領域とメンバーシップが固定化された
ヨーロッパではトゥチがフトゥを征服して国家が成立し、人種が異なると考えられていた→ベルギーは両者を明確に区別し、トゥチに行政ポストや近代教育を与え、フトゥをそこから排除した
1960年、コンゴの独立が決まるが、洞掘採集の権益が独立国家の手に渡ることを恐れたベルギー資本が政治指導者チョンベを焚き付けた結果、コンゴ動乱が起こる
ルワンダでは、政治権力が一部トゥチに独占されていることが好ましくなかったベルギーはフトゥと親密な関係を築く→フトゥがトゥチ達を襲撃、追放→10万人を超えるトゥチが国外に放逐された
コンゴ動乱を収拾したのはアメリカの支援を受けたモブツだった→モブツ個人が国家を操作する仕組みをつくり、国名はザイールとなった
ルワンダなど中部アフリカでは一党体制の国々が次々と成立。いずれもモブツ政権と同様の性格で冷戦体制のなか、先進国から支えられた
→冷戦が終結すると西側諸国は民主化しない国には援助しない政策を打ち出したので、複数政党制に移行する国々が続出
1990年、30年前にウガンダに亡命したルワンダ難民の第2世代(RPF)が祖国に侵攻した→一旦は戦いは止まったが、94年ルワンダのハビャリマナ大統領の搭乗機がロケット砲で撃墜された
→政権はRPFによると主張し、報復→民兵らがRPFとトゥチを同一視し、トゥチ市民を無差別に殺戮。少なくとも50万人が殺害された
→和平協定を訴えたフトゥ政治家も多数暗殺されている→RPFと交渉するかどうかの対立が、エスニックな装いをまとって急進化した→殺戮が進むなか、RPFは首都を制圧し、新政権樹立
→政権側の勢力がザイールなどに逃亡。多数の難民キャンプが建設される→RPFがザイール国内ルワンダ系住民(AFDL)を動員して難民キャンプ掃討作戦
→AFDLはザイールのモブツ政権打倒を掲げて進軍開始。モブツ体制崩壊→カビラが政権を握り、国名がコンゴに戻った→政権の軍事部門はルワンダとウガンダが掌握
→カビラは両国と衝突、内戦→アフリカ大戦→2002年に紛争が終結したが、東部の治安は現在も回復していない
ルワンダは、RPFの統治下で軍事的性格を帯びるようになった。社会変革への強烈な指向があり、ルワンダの国会議員の女性比率は世界最高水準

379修都:2022/12/25(日) 18:23:02 ID:QPJxpke.
米田信子「歴史言語学からみるバントゥ系移民の移動」
アフリカ大陸の言語はアフロアジア大語族、ナイル・サハラ大語族、ニジェール・コンゴ大語族、コイサン大語族の4つに分けられる
バントゥ諸語はニジェール・コンゴ大語族に属するベヌエ・コンゴ語派の中のバントイドと呼ばれる語群の下位に分類される言語群→しかしアフリカ大陸の赤道以南に広く分布
ニジェール・コンゴ大語族の歴史は1万~1万2000年と推定。ベヌエ・コンゴ語派からバントゥ諸語という分派が始まったのは6000~7000年前
バントゥ諸語は祖地カメルーン西部から1500~2000年かけて200キロ程度移動。熱帯雨林の手前まで→その後、南アフリカまで移動
バントゥ移民は干ばつによって熱帯雨林にサバンナが出現すると南側へ移動した

380修都:2022/12/26(月) 18:01:42 ID:QPJxpke.
苅谷康太「アラビア語史料から見るアフリカ」
8世紀からアフリカに関する外部史料はあったが、12世紀頃からの外部史料はアフリカとそこに住む人々を劣った存在とみなす思想がより強固になっている

381修都:2022/12/27(火) 19:31:51 ID:QPJxpke.
杉山祐子「女性・ジェンダーからみるアフリカ史」
狩猟採集社会で肉を獲るのは男性だが、権力を行使するわけではない。子どもの養育も共同
アフリカの王国では王族女性が政治的な権力を与えられ、重要な官職を担っていた。女性の政治権力は、霊的な力と深く結びついていた
11世紀以降、イスラーム化の進展→父系原理が持ち込まれ、13世紀頃までに多くの国々が父系制に移行。それでも母系親族は力をもちつづけた
植民地化→出稼ぎに行った農村男性が現金を持ち帰ることで発言力が強まり、地域や世帯の長とされていく。女性よりも男性労働力に価値が置かれる
植民地政府は女子割礼を前近代的で野蛮として廃絶に動き出す→女性たちは自己割礼をして抵抗
植民地からの独立後も女性の位置づけは変わらなかった→それでも「伝統」(女性婚という女性同士の結婚など)を応用して女性の連帯がつくられている

382修都:2023/01/03(火) 17:05:22 ID:QPJxpke.
正木響「植民地経済の形成とアフリカ社会」
ヨーロッパでは18世紀後半には反奴隷貿易運動も盛んだった→アフリカ社会では奴隷制は一般的であり、奴隷制のような野蛮な制度を文明化するという植民地化を正当化する論拠となった
ヨーロッパはアフリカ側の首長と協定を結んで河口部を確保し、川を遡る戦略をとった→多くの川が大西洋に流れ出る西アフリカでは、主な河川ごとに支配国が異なる
セネガルではアフリカ内陸部に親族関係を持つメティス(ヨーロッパ化したアフリカ系住人)がアフリカの君主や商人との間で関係を形成し、植民地政府やフランス商人との間に介在した
1830年、セネガルで生まれた自由民の男性をフランス市民と同等に扱う政令。フランス市民でないものは臣民となり、アレテ(省令)やデクレ(政令)が適用
→フランスで共和制の実現に燃えるリーダー達は、植民地の住民にも自由・平等の精神を認めた。一方で、植民地拡張政策
フランスは、アフリカの君主に貢納を支払って領土を利用させてもらう立場だったが、徐々に保護協定で支配地を拡大。保護協定が締結されない場合は武力で征服
セネガルはフランスに植民地化されたが、セネガルの人々は内陸部の植民地化に加担→歩兵部隊への入隊は社会的上昇を可能とする
1912年、コルベと呼ばれる労働賦役が導入される→成年男性に1年に1〜2週間無償労働を義務づける→フランスは1930年、強制労働を禁止するILO強制労働条約採決を棄権
→1937年に批准するが、強制労働を義務労働という言葉に置き換えて第二次世界大戦終結まで制度を維持

383修都:2023/01/04(水) 20:02:51 ID:QPJxpke.
荒木圭子「パン・アフリカニズムとアフリカ」
19世紀以降、ロンドンには多岐にわたる分野で黒人たちが集った→人種差別的待遇を共有し、パン・アフリカニズム的思考を形成・発展させた
1897年、ロンドンにアフリカ協会が設立される→1900年、ロンドンでパン・アフリカ会議→米国内の黒人への参政権等の付与、ハイチやリベリアといった黒人国家の独立保障などが求められた
→会議後、パン・アフリカ協会となるが、数年後に活動休止
第一次世界大戦後、黒人たちは連帯して人種主義的な国際秩序の是正を求めた→従軍して連合国の勝利に貢献した見返りとして、黒人たちは自決権を旧ドイツ領アフリカへ適用することを訴えた
1919年、パリでパン・アフリカ会議→政治的権利に関しては、漸進的にアフリカ人に参政権を付与することが求められたのみ
1921年、第二回パン・アフリカ会議→黒人労働者問題への注意喚起、委任統治委員会への黒人任命などを求める程度
パン・アフリカ会議は欧米のエリート黒人、植民地経営に取り込まれたアフリカ人エリートによる会合という性格が強い
1914年、マーカス・ガーヴィーが英領ジャマイカで万国黒人向上協会(UNIA)設立→ガーヴィーは旧ドイツ領アフリカの独立を求める
19世紀末、教会における人種差別に不満を抱いたアフリカ人牧師は独立教会を設立、エチオピアニズムと呼ばれる黒人教会独立運動を広めた
→エチオピアニズムはアフリカ人たちを政治化し、主体的に参加する初めての組織抵抗運動となる
南アフリカではアフリカ内で最も多くのUNIA支部が設立される→異なる民族集団に属するアフリカ人がひとつの集団として地位向上を目指すとき、ガーヴィーのメッセージは有効だった
南アフリカの黒人たちの関心事はあくまで国内の人種問題だったが、パン・アフリカニズム的要素を含みながら展開された


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