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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

1 尾崎清之輔 :2007/11/04(日) 22:20:25
まず、はじめに、このスレッドのタイトルを付けるにあたって、数日ほど悩んでしまった。

当初は、秋という季節にちなんで『芸術と読書と食について』というような名称にして、そこから徐々にリベラルアーツへ展開していくことを目論もうと考えたが、『食』については長い間このテーマを文明論的な視座で捉えられている素晴らしい塾生の方がいらっしゃるし、読書については既に『戦後日本の十大名著とは』と『最近読んで印象的だった本』の2つのスレッドが存在しているため、残りは『芸術』ということになるが、これも既にフィボナッチ数列やラチオについて語られているスレッドが存在していること、芸術のサブセットである音楽ひとつとっても、たかが1000枚程度のクラシックCDやDVDの所有と、実際の鑑賞に出向いた数が100回にも満たないくらいではこのようなテーマを専門にして語ることは誠に恐れ多い。
更に「秋という季節にちなんで」という考え方では、一過性もしくはそのシーズンにならないと盛り上がらなくなってしまいかねない危険性がある。
よって、このようなタイトルを付けさせて頂くに至ったが、良く考えてみたら(…というより実は考えるまでもなく)最も大層なタイトルを付けてしまったため、提唱者である私にとっては文字通り『無謀な挑戦』となること必定であろうが、このテーマを出来るだけ長期に亘り続けていくことで、藤原さんの近著(KZPやJZP)で触れられていたリベラルアーツに少しでも近付くことができるよう、私自身、修養を重ねていきたいと思うが、実際のところ本場のリベラルアーツである「自由七科」を学んだわけではないので、教養(リベラルアーツ)とカッコ付きにさせて頂いたことをご了承願いたい。

もう1つのテーマである場創り(共創)については、これまでも何度か取り上げられてきた内容ではあるが、本来あるべき姿としての「場」は広がりを持つ系であり、私が「場」と言われて出向いたその多くについては、残念ながら閉じた系である「空気」でしかなかったことだ。
従って、これも前者の教養や修養と密接に関わりを持つことで、開いた系としての「場創り」に向けられるのではないかと考えたことから、この2つのテーマを一緒にさせて頂くことにした。

さて、前置きが長くなり過ぎて辟易としたでしょうから、そろそろ本論(まずは序文)に向かいたいと思う。
「共創」と言えば同音異義語に「競争」があるが、これは、いみじくも正慶孝さんが自著で看破されていた、現代のIT社会を司る「Communication」「Control」「Computation」といった3つの「C」に対して、私からもう1つ「Covetous(貪欲な)」を加えさせて頂くと、たちまちにして「賤民資本主義(パリア・キャピタリズム)」という人造ダイヤの4℃を構成することになってしまい、これが現代における「競争」の本質を示しているのではないかと考える。
日本におけるマックスウェーバー研究の泰斗である中村勝巳慶大名誉教授が20年前から仰せのように、まともな躾を受けぬまま「カバレリア・ルスティカーナ」の限りを尽くし続けてきたことが、最近のクライシスの根底にあると私も考えているが、これは亡国云々以前に、人間のあり方そのものの問題として捉えられるべきではないかという意味で、中村博士の意見に共鳴を覚える。
尚、蛇足だが、今夏来日したパレルモ・マッシモ劇場の「カバレリア・ルスティカーナ」を観て、これまで何度も同じ作品を観たにも関わらず、中村博士の仰った意味が漸く正しく理解できた気がする。
場創り(共創)に向けては、同じ「Communication」という言葉であっても、「通信(としての手段)」ではなく「人間同士の意思の疎通」が肝要であり、これに「Confidence(信頼、信用)」「Conscience(良心、分別)」「Coexistence(共存)」または「Covivence(共生。但しsymbioticという意味とは関係ない)」を加えて磨き続けることによって、自然が創り出した原石である天然ダイヤに4℃の輝きが増していくのではないかと思っている次第だ。

※上記の「ダイヤ」はメタファーとして使わせて頂いた。

148 尾崎清之輔 :2008/01/20(日) 22:59:32
No.141から143にかけて展開させて頂いた、『場』を形成できる素養を持つ方々について少し触れさせて頂きましたが、既に着々と『場創り』の地歩を固めつつある方々については、申し上げるまでも無く、目に見える形となって現れてきておりますが(…とは言っても70年以上前にオルテガ先生が喝破した「凡俗な生」に溺れる大半の方々はそういうことに全く気が付かないか、または気が付いてもあえて無視している…)、「これから」徐々に成長して地歩を固めていくことができると思った方々については、若干説明不足のところがあると思いましたので、その補足をさせて頂きたいと思います。

『場』を形成できる素養を持つ『資質の高さ』を感じる方々の共通項として、前者と後者いずれの方々にも共通していると私が感じる重要な要素の一つに、『丸山眞男 音楽の対話』から何度か引用させて頂いている『精神の貴族性(アリストクラシー)』があると思っており、これはオルテガ先生(オルテガ・イ・ガセット)が述べたところの『精神の貴族』または『高貴な生』にも繋がっていると考えます。

まずは、毅然たる態度、凛とした音楽(姿)、背筋をピンと伸ばして、孤高を守り抜いたという『精神の貴族性(アリストクラシー)』とは、丸山博士ご自身にとってどのようなものであったか、『丸山眞男 音楽の対話』の以下の文章に表されております。

◆私生活にあっては簡素を旨とし、「贅」という言葉の入る余地のない日常を送っていた丸山であるが、彼の生き方で最も見事だと思うのは、彼自身が生涯「精神の貴族性」を守りぬいたということ、その一事である。そして丸山は、そのような生き方を貫いた人が大好きであった。

そして、オルテガ先生の『精神の貴族』がどのような意味を持っているかについては、自著『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)の第七章『高貴な生と凡俗な生 − あるいは、努力と怠惰』において、以下の通り述べております。

◆貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の同義語である。かくして、高貴なる生は、凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されている生、と対置されるのである。

従って、オルテガ先生は人間の凡俗なあり方を「大衆」と呼んでいることはご存知の通りです。

(この項、続く)

149 尾崎清之輔 :2008/01/20(日) 23:38:58
(No.148より続きます)

この『精神の貴族=高貴なる生』について敷衍させて頂くために、同じく『大衆の反逆』の『高貴な生と凡俗な生 − あるいは、努力と怠惰』から以下に引用します。

◆選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生−高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige)のであり、「恣意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ[「庶出の娘」、「続篇のための構想」])のである。

そして「原注」には以下の重要な補足がございます。

◆なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。

150 尾崎清之輔 :2008/01/21(月) 00:11:04
(No.149より続きます)

ここまで読んでこられて、これまでにご紹介させて頂いた、丸山博士や清水博士の言説との共通性に気が付くことは必定であると思います。

そして、精神の貴族ないしは高貴なる生を、自らの時間と努力で獲得し、享受していくための第一歩としては、やはり『自らの人生と正面から向き合うこと』が肝要であり(…前にご紹介したドラマの「楽譜と正面から向き合え!」もその一環…)、そこから(…人には滅多に明かすことが無いものの、対話などを通して感じることの出来た…)幾つかの自問自答や悩みを繰り返しながらも、同じように成長していくことへコミットメントして、歩み出せる方々(…まぁ、そういう方々は実際なかなか居ないのが実情ですが…)との対話などを通じて、お互いの中に『共鳴場』や『共鳴力』が生まれ、それらを継続していくことが、いずれは本格的な『高貴なる生』へと至り、自然と『精神の貴族性』を身に付けることになると考えております。

「これから」徐々に成長して地歩を固めていくことができると思った方は、大抵の場合、人へは「自分らしく」と言いつつも、実は同じところに安穏として留まることがなく、常に新たな目標の設定や挑戦を行っていくために、あえて自らそのような場所を求め、そこで自ら課したテーマに向かって邁進しようとしているエネルギーが見え隠れしていることを、私は見逃していないつもりです。

その結果、いずれは地歩を固めて「自らの道」の獲得へ至るのであると考えており、そのような方は、未だ目には見えない形ではあっても、上記で述べたエネルギーとか、その人が持っているポテンシャル、または時折ですが垣間見せるパフォーマンスなどから『資質の高さ』を十分感じ取ることが出来ましたので、先に申し上げた「素養」について言及させて頂いた次第です。

151 尾崎清之輔 :2008/01/22(火) 00:07:14
今夜は、お片付けと整理整頓の話題に変わりますが、現在、いろいろな物事を片付けて(または削ぎ落として)いく過程において、他のいろいろな物事を受け入れられる自分があることに、少しずつですが気が付き始めております。

確かに、今年に入ってから、身の回りに起こっていることを含めて、いろいろと大きな変動が生じていることから、上記のような心情にもなりつつあるようで、この辺りにつきましては、珪水さんが仰せの「質と格」にも若干繋がるのではないかと思っている次第でおります。

元来、いろいろなことを広い心で受け止められたら、どれだけいいだろうと思って過ごしてきてはいましたものの、実際その局面に立たされたとき、果たしてどれだけ受け入れることが出来たのか、またはそういう心の持ち方であったのか、その当時はもちろんのこと、今でもはっきりとは分かりませんが、いずれにしても、自らの心の垣根を取り払っていくことで、広がっていく自分に気が付くのであれば、日々を過ごしてきた甲斐があったというものです…

152 尾崎清之輔 :2008/01/23(水) 00:58:30
No.151で言い忘れてしまいましたが、お掃除とお片付けと整理整頓を続けていくと、そう遠くないうちに、身の回りに何か大きな変動が生じるか、またはこれまでとは別の大きな物事(しかも時には全く想定していないような…)がやってくることは確かであると、最近実感しております。

…なので、時折ものすごい時間帯に書き込んでおりますが、その辺りはご想像下さい。(笑)

そして、これが本当に自らにとって良い方向、すなわち納得できる方向となるか、それとも大きな変動にただ漠然と流されてしまうか、大きな物事に押しつぶされたりするかは、『場』全体を見る目である『観』と、そこの『場』で自らが主体的創造的に起こす『行』を、日々どれだけ意識して自らを高位の次元へ上げていくことができるか、またその過程を辿っていくことができるか、が肝要と思っております。

これを出来るだけ平たく、分かりやすく申し上げさせて頂けますと、例えば、寝る前とかの瞑想による、自分と自分の周りの未来、近未来、直近、の、それぞれに対するイメージ創り、そして翌日以降に(自らを含めた場で)起こる、瞬間々の動き(≒働き)、を全て楽しみながら、主客非分離として捉えていくことに重要な鍵がある、と考えます。

また、先の投稿で、『場』の意味について説明させて頂きましたが、No.150でも述べた、高位の次元へ上がるための『共鳴場』や『共鳴力』を互いの関係性の中で生じさせ、継続させていくことにより、『高貴なる生』や『精神の貴族性』が自然と身に付くと考えますので、それが延いては他者との間に生まれる『共創』へと至ることにもなり、その辺りについては、『場の思想』から引用する形で再び整理しますと、以下の通りになると思います。

◆世界の枠が閉鎖しているときに、その中に生まれる「我々」は場に束縛されると同時にその枠を守ろうとする。このために創造が生まれない。この束縛された「我々」が存在する場が「群れ合いの場」である。

◆世界の枠が開かれてその世界の中に生まれる場で異質の人々が出会うときに「我と汝」の関係が生まれる。その場こそが「出会いの場」である。人々が出会いの場で出会うことで場に位置づけられた両者のあいだに新しい関係が生まれて個の活きが統合され、両者が開かれることが創造の必要条件である。両者が開かれれば新しい自己表現が創造されて場も新しく変わるからである。この出会いのときに異質の「我と汝」が「我々」として統合されさらに開かれることが共創の必要条件である。

153 尾崎清之輔 :2008/01/25(金) 04:46:31
都合により一回休み

◆Teo Torriatte(Let Us Cling Together)
http://www.youtube.com/watch?v=vJpLV38i3FI

154 尾崎清之輔 :2008/01/26(土) 01:22:08
以前から何度も引用させて頂いております、藤井尚治博士の『アナログという生き方』を基にした一部投稿が、掲示板上のみならず、個別にも良いとか印象に残ったというレスポンスを頂いたことから、今夜もまたまた引用しつつ、若干ですが愚見を添えさせて頂きます。

自分の個性をどのように創り上げ、磨き上げていくかについて、藤井先生は以下のように明朗に語っております。

◆個性とは、どこから生まれてくるのか。それは自分の中の基準であり、確信である。1人ひとりの人生とは本来、手作りのはずなのに外側の基準に合わせて生きようとするから、息苦しくなる。学歴、大企業、肩書き、男や女といったアイデンティティに頼るから、標準化や画一化の波に飲み込まれてしまう。
 ひとは人生の設計者であると同時に、作り手でもある。とくに日本人は人生の設計と製造が未分化のままで、他人任せになっているから、生き方に確信がもてない。
(中略)
人生も同じことだ。生きることが目的だから、学歴や肩書きがなくても大丈夫である。家がなくてもお金がなくても心配は不要。その日のごはんが食べられていれば、本来いいはずである。これを原点に、自分なりの人生ストーリーを描ければいい。ただし、今日明日のストーリーはだいたい決まっている。選択の幅は少ない。しかしながら5年後10年後になると、大胆なストーリーが描けるはずである。
 いやもう5年先も10年先も決まっているという人は、自分でストーリーの幅を狭めているだけだ。もしくは今の収入を確保しながら、ストーリーを描こうとしている。そんな都合のいい話はない。 (…中略…) 自分は違うという反論が返ってきそうだが、そんな日和見の保守主義こそ捨てなければならない。保守もときには必要だが、それで何か新しいものを作り出したことはない。古いものを捨てなければ、新しいことは出てこないのである。


先の投稿でも述べさせて頂きましたように、やはりここでもお片付けと整理整頓の重要性(=古いものを捨てることで新しいことが出てくる)が語られておりますね。

155 尾崎清之輔 :2008/01/26(土) 01:45:25
(No.154の続きです)

また、藤井博士は『情報とは信頼の関数』という名言をはさみながら、続けて以下のように展開されております。

◆他人の信頼を得るためには、懐深く生きなければならない。きっぷの良さ、こだわりのなさ、骨太、腰がすわっている人、と言い替えてもいい。デジタルな人は二者択一の世界に生きているから、他人のことをすぐ判断し、批判する。利口か馬鹿か、能力があるかないか、仕事ができるかできないか、出世をするかしないか、という判断や批判は、仕事をするうえで、役に立たない。何故なら、すべてが相対的な問題だからである。
(中略)
 私たちは当然のことながら、起こり得ることのすべてに対処することはできない。だから、必ず失敗をする。その失敗は自分たちの何かが欠けているから、起こるのである。欠けている何かに気づけば、その失敗は成功のもとになる。気づかなければ失敗し続ける。名人の失敗というのもある。定跡にはまってしまった時だ。猿も木から落ちるのだから、「そんなこと、いいよ、君」と自分にも言い聞かせたい。

◆真実はいつも中庸にある。自分を知れば知るほど、極端な考え方や意見に偏らないで済む。自分の力や限界がわかっているから、悲観論や楽観論に捉われない。(※イチローが)打てなくても淡々としていたり、負けてもくさらないのは、その原因がつかめているからだ。敗因がわからなければ、悔しい思いをするし、次回も同じ負け方をする可能性がきわめて高い。

※引用者にて付加

◆戦争は勝つことも負けることもあるから、本当は負けにこだわる必要はない。しかし負けたことにこだわっているから、「普通の国」や「小さな国」という発想になるのだ。
 人生はゲームそのものである。負けないゲームなんてない。だから負けにこだわっていないで、先に進めばいい。ただし、誰が考えても負けることがわかっているゲームは初めから降りておいた方がいい。負け戦を知っていて、始める馬鹿はいない。ゲームは勝つと嬉しいから、勝つに越したことはない。「己を知れば、百戦危うからず」。百戦百勝の名人は負け戦をしないだけだったのかも知れない。

156 尾崎清之輔 :2008/01/26(土) 02:24:23
(No.155の続きです)

そして、藤井先生は新たなる時代に対し、『大局観』を持って歩んでいくことの重要性を、以下の通りズバリと語っております。

◆大局観とは、情勢判断である。終わりつつ始まる時代に悲観論と楽観論が出てくるのは、新しい時代への不安が人びとの心の中にあるからだ。従来の経験論でものごとが測れない時代になってきたのである。それは、高度経済成長時代の明るい舗装道路を走っていたクルマがいきなり夜中に舗装されていないガタガタ道を走るようなものである。
 そこまで行ったら舗装道路にたどりつけるかどうか、わからない。道がこの先、途切れているかも知れない。明かりを点けて、確認しながら走りたいと思う。この明かりが悲観論であり、楽観論なのだ。しかし、真実は明かり(イメージ)でなはい。もの(実体)そのものである。こういう時代は手探りで行くしかない。大局観があれば、手探りでも怖くない、間違ったら、道を引き返せばいい。ものごとを鳥瞰していれば、それができる。


この『大局観』を持った人生を歩んでいくためには、バランスをとることが大事であると藤井先生は仰っており、その過程においては、お茶を飲む、食事をする、マッサージをする、散歩をする、お酒を飲む、などといったアイドリング時間を持つことが必要ということになり、『人生は効率ではない。非効率な遊びをすることで、バランスが自然ととれてくる』ことになると仰っておられます。
これは、過日ご紹介させて頂いた、太田朋さんのイラスト&メッセージのひとつ『明日の船でもよいのです』にも繋がると考えます。

157 尾崎清之輔 :2008/01/26(土) 02:39:46
(No.156の続きです)

この終わりつつ始まる時代は、要するに新しい価値観や場を創る絶好のチャンスということになりますので、藤井先生も仰せのように、焦らず、諦めず、勝てると思ったときに全力を尽くす、といったことを念頭に置いて、長く歩んでいきましょう。

158 尾崎清之輔 :2008/01/27(日) 00:44:08
余談ではございますが、先に引用させて頂いた藤井先生の書籍の『真実はいつも中庸にある』の『中庸』という言葉から、同音語である『中洋』という概念を思い出しました。
これは、文明論的な視座から多くの書籍を残されている梅棹忠夫博士の、通念として知られている東洋的文明史観や西洋的文明史観ではない、生態学的な観点から捉え直した独自の文明論からきている概念だったと思いますが、この件に関して触れられている梅棹博士の著書が確か拙宅の蔵書のどこかに埋もれていた記憶があるので、いずれこの場で展開させて頂こうと思います。

159 村山 :2008/01/27(日) 11:00:41
尾崎さんの精力的で熱のこもった書き込みに敬意を払います。きっと音楽絵画という芸術の世界に対して趣味を持ち、心の余裕があるために平常心できちんとしたことを書けるのでしょう。
そういえば藤井先生の「アナログという生き方」の中に、「ストレスの状態が長く続くと、だんだん無反応になってくる」と書いてありましたね。
猛烈社員を良いことだと思ってがむしゃらに働き、経済大国らしいものを作った結果として、日本の男は「燃え尽き症候群」で反応力がなくなってしまったようです。

160 尾崎清之輔 :2008/01/27(日) 23:52:36
村山さんからご紹介のあった、藤井先生の『アナログという生き方』に書いてあった「ストレスの状態が長く続くと、だんだん無反応になってくる」ことに、私も同意いたします。

仕事やプライベート、先に挙げた様々な会合、勉強会、研究会などで、実際そういう現場を数多く目の当たりにしてきており、これらが社会的な病理現象として顕現化していることは、心ある幾人かの方々からご指摘されている通りですが、これは短くとも戦後から現在に至る中で、もう少し長いスパンで捉えると明治維新から現代に至るまで、一貫して続いている歴史の流れの中で発生し、派生してきているある種の要因が根底の一つに存在していることは確かでしょうから、既に対症療法的な手段(…まだこのようなことでしか対処できない多くの藪医者には驚くばかりですが…)のみでは解決できないことは申し上げあるまでもなく、同種療法や予防医学などからもヒントを得て、先の歴史から導き出される病理現象と要因について正しい診断を施した上で、長い時間をかけて体質改善を行っていく、すなわち「脱構築」に向けた準備を整えていかねばならないと思っております。

更に、コンピューター、マルチメディア、インターネット、という存在を背景にした現代という時代においては、情報交換のスピードと一方的に垂れ流されてくる情報量の莫大さが加速度的に更新されてきていることから(…と言っても、その殆どはゴミ同然か、精々がタメにする情報)、何も考えず条件反射的に反応しているに過ぎないことになり、この具体的な症状として、「ひとの話を聞かない人」、「無反応な人」、「すぐキレる人」などの増加に繋がっていることは良く知られている通りです。

この辺りは藤井先生の『アナログという生き方』でも以下のように触れられております。

◆朝から晩まで年がら年中、情報をたれ流すことによって、私たちの思考時間を奪っている。もう少し隙間の時間を作らないと、私たちは煮詰まってしまう。煮詰まると考え方が堂々巡りするから、悩みやすくなり、時としてバランスの悪い結論を出す。投げやりになって、何でもよくなってしまう。
 「短兵急」というのも、ストレスレベルが高い結果として出てくる。事前の情報選択がうまくいかないため、意思決定がコロコロと変わってしまう。“朝令暮改”である。根拠のはっきりしない情報に振り回され、青くなったり、赤くなったりする。情報をよく見て考えれば、わかるのに、その時間を作らないから、状況判断を間違えてしまう。

特にここ数年は、“朝令暮改”ならず、“朝令朝改”も是であるような、無責任で且つ戯けたことを平気で言って憚らない、企業や組織の経営者や同等クラスの方々も相当増えてきており(もちろん政治家や高級官僚は言わずもがなですが)、その余りの程度に低さには辟易としております。
時代が時代なら、こういう方々こそ真っ先に『お家取り潰しの上、切腹』か、昔の小室直樹博士流に言わせて頂くと、『市中引き回しの上、獄門』といったところでしょうか。(笑)

161 田中治 :2008/01/28(月) 13:03:08
尾崎さんの連日のご投稿には村山さん同様、頭が下がる思いであり、日々更新されるその文章を目で追いながらも活発に反応できない自分の非力を思い知るが、時々でも駄文だがこうして投稿を試みてみる次第です。

年が明けてまもなく慌しい日々が続いていたが、この週末は久しぶりにゆっくり時間が取れ、また天気も上々だったので家人と共に上野界隈を散歩した。上野仲町通りにある明治の文豪達も通ったという江戸時代からの老舗の蕎麦屋で昼食を取った後、カモメが飛び交いたくさんの鴨が泳ぐ不忍池の周りを散歩して、池之端にある横山大観の旧住居(今は記念館になっている)を訪ねた。ビルが立ち並ぶ池之端の大通りに面した一画に、土塀に囲まれた日本家屋がひっそりと立っているのがそれであるが、建物自体は東京大空襲で消失しているので戦後再建されたものらしいのだが、門をくぐり建物の中に入ると外の喧騒が嘘のようにひっそりと静まり返っている。庭に面して広く窓が取られた一部屋に、大観が生前から所有していたという藤原時代の不動明王が安置されている。私はこのさほど大きくもない古い木造の不動明王が大好きで時折ここに来てその像の前に座っては手を合わせるが、今回は身心が疲れていたこともあり、不動明王の表情に深く見入りながら、庭と家屋全体に流れている静寂さの中で、過剰な頭の働きが自ずと鎮まり、しばし時の過ぎるのも忘れて庭や所蔵されている作品を眺めて廻った。たまたまこの記念館の研究員の方が大観の人となりなどについて語って下さったのでしばらくその説明に耳を傾けた。大観の師であった岡倉天心は「模倣はいけない。模倣にとどまらず己の創作を重ねねばならない。またそこに立ち止まるのもいけない。常に進化せねばならない」といったようなことを常々言っていたそうだ。思えば岡倉天心も横山大観も維新の頃に生まれて明治の御世に形としての西洋文化が押し寄せる中、日本画を世界の中に位置づけようと理想を掲げ研鑽を積み、インドやアメリカ・ヨーロッパにも旅を重ねて、日本画における精神の背骨としての思想や信念は作品の中に見事に実を結び、また新しい日本画の確立につながったのだった。大観は英語も流暢に話し、漢籍に親しみ、ニューヨークで「茶の本」を発表した岡倉天心の弟子でもあり・・・研究員の方の話を聞きながら、私はそこで、明治時代の、真に国際的な日本人をまたひとり発見した思いになった。

162 田中治 :2008/01/28(月) 13:08:13
ゆっくり時を過ごし記念館を後にして、日没までにはまだ時間があったので、そこからほど近い旧岩崎邸を訪れることにした。大観の家から5〜6分ほど歩いてゆるやかな坂を登ると、黄色に塗られた壁の洋館が建っている。イギリス人の建築家ジョサイア・コンドルの設計だという。玄関前には背の高いやしの木が数本植えられていて館の黄色い壁が午後の青空に映え一瞬南欧風(イタリアあたりの)を思わせるが内部に入ると一転して暗く重厚な雰囲気であり、ジャコビアン様式が主調ではあるが、細部は様々な折衷様式であり、その趣味には正直なところいささか辟易としてしまった。洋館の中を一通り見学して進路にしたがって歩むと、突然日本家屋につながってゆく。洋館から日本家屋につながる廊下を歩き狩野派の襖絵が描かれた大広間へ抜けるとなんとも奇妙な感覚が襲ってきた。ある民族ないしは文明がその地において長い時間をかけて醸成してきた生活洋式の結果である建築を、裏打ちされた精神の背骨としての思想なしに簡単にくっつけてしまうその感覚、その中を普通に歩いている私を含めた見物客の群れの中で、なんとなく息苦しくなり外に出て深呼吸をしながら明治から大正・昭和・そして平成と今に至るまでの、自分の知る限りの知識を総動員して歴史の流れを遡ったり追ったりしながらいろいろ考えてしまった。つい先ほど眺めた大観の作品とその裏に流れている思想、そのような歩みの一方で黒田清輝や藤田嗣二といった洋画家たちの歩みをも併せて思い出し、明治から現在に至るまでの日本人の精神の所在とその変遷に想いを馳せ、上野から御徒町の雑踏している繁華街の中で妙な気分はしばらく続いた。そんな気分を払拭して強い気概を得るのには、絵画ならば、500年も前に西洋の宗教画の金箔の技法を見事にモノにした上で独自の強烈な美の世界を描いた狩野永徳や、鎖国時代であっても世界の遺産になるべき素晴らしい作品を遺した伊藤若冲の繊細だが力強い作品に触れたいと思った。ただの散歩のつもりがいろいろ考える一日になってしまったのだが、この日もっとも貴重だったのは結局、大観の家で過ごした静寂のひとときであったかもしれないと思う。現代の都会の生活の中で「静けさ」ほど貴重な要素はないのではないか?ひとたび街にでれば物も情報も色も音も雑多にあふれかえっており、それらはストレッサーとして過剰に作用し、活き活きとした感性をしだいに失わせるように思う。まずは一度静けさを取り戻し、その中で落ち着きを取り戻し・・・・・家庭でも都市空間でもそのような場を意図的に創りだすことが何よりも急務であるように思える。

163 尾崎清之輔 :2008/01/29(火) 00:52:05
またまた田中さんの叡智に富んだ書き込みへ改めて敬意を表すと共に、いずれは取り掛からねばと思いつつ、未だ私が不得意としている日本画の世界や、明治から大正時代にかけた建てられた洋館や和館、また日本家屋といった建造物の世界に対し、冴えた目で捉えられていることには深い感銘を受けました。

特に、旧岩崎邸に対する評価、つまり、辟易としてしまうほど細部に渡って様々な折衷様式が存在しているという悪趣味的な感覚と、『ある民族ないしは文明がその地において長い時間をかけて醸成してきた生活洋式の結果である建築を、裏打ちされた精神の背骨としての思想なしに簡単にくっつけてしまうその感覚』という文面から、私の脳裏にスグに浮かんだのが『鹿鳴館』と申し上げておきます。

それにしても、上野という地域は不思議な場所で、このたび田中さんが訪れられ、コメントされた西側は、湯島の最北にあたる不忍池の南側から、根津を経由して、北へ足を伸ばせば谷中へと至りますが、(最近は足を伸ばしていないので今でも同じかどうか分かりませんが)この辺り一帯は閑静な場所が多いことで知られており、まさしく「静寂」という言葉が相応しいと思われます。

更に根津へ向かう途中で西を見渡しますと、世界では200番目くらいの評価でしかない大学が、「我こそは日本一」とばかり君臨しており、その滑稽さはともかくとして、そういった土地へ建てられたことについては、やはり何かの意味を感じざるを得ないほどです。

また、上野公園へ足を伸ばすと、北東から東にかけて、東京国立博物館、東京国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館、そして数多くの名のあるクラシックコンサートやオペラまたバレエなどが上演されている東京文化会館が聳え立っており、これらは他の追従を許さないほど、芸術を堪能できる場所であることはご存知の通りです。

それに対して、東側、つまり不忍池の最南端から御徒町を経由して上野駅に至る辺りは、雑踏とした街並が一種独特の雰囲気を醸し出しており、これと、先に挙げた「静寂」と「精神の高揚」とが同居している上野という地域が持つ不思議な感覚は、上野が江戸城(皇居)からみて鬼門にあたる丑寅(艮)の方角にあることから、怪僧『天海』が建立したと言われている『上野寛永寺』と何かしら関係しているのであれば、また歴史を紐解くことの楽しみが一つ増えるものであると思います。

尚、この辺りにつきましては、嘗て、藤原博士や珪水さんから、この年齢になってから本格的に取り掛かるのは『ミイラ取りがミイラ』になるから止めておけと言われた、『弥盛地(イヤシロチ)』と『気枯地(ケガレチ)』の世界が入り混じっているようでなりません。

164 田中治 :2008/01/29(火) 19:28:05
週末の散歩の感想文であった小生の投稿に対して、早速にも東京という都市レベルの観点から上野界隈について俯瞰していただき、この界隈の持つ不思議さについてまで話をつなげていただいた尾崎さんには誠に感謝申し上げます。

小生が旧岩崎邸で感じた違和感について「鹿鳴館」を即座に思い浮かべられた尾崎さんの暗黙知はさすがで、いわずもがな旧岩崎邸も鹿鳴館も同じジョサイア・コンドルの設計による建築であり、明治期のお雇い外国人であったイギリス人のコンドルの銅像は世界で200番目と評価された大学(工学部)の構内に現存しております。

尾崎さんが寛永寺へと話を繋げてくださったわけだが、江戸城から見て丑寅の方角、つまり東北の位置にある寛永寺は今でこそほんの一部しか残っていないが、江戸時代には今の上野公園一帯すべてが寛永寺の範囲だったようであり、それは相当な広さであることからも江戸城から見て東北の位置つまり鬼門に位置する場所に相当の鬼門封じがなされていたことは明らかであるが、易経によれば、この鬼門の方角には「万物の終わりを成すところで、かつ始めを成すところ」という意があることを考えると、幕末から明治にかけて上野の山一帯は戊辰戦争中の激戦の末に新政府軍が勝利を治めて江戸から東京と名が変わったし、また第2次世界大戦後は現在もアメ横の名で親しまれる一画があるように焼け野原から闇市が立ち並び戦後のスタート地点のひとつになり、また当時は上野駅が東北地方などへの玄関口として機能していたことは江戸城を中心として見た際の上野の歴史の一端として示唆的と言えると思う。

体制が変われども首都としての東京も江戸城という建物も未だ現存していることから鬼門封じは今も機能していることになるのであろうが、徒然草の第82段にあるように「しのこしたるを、さて打置たるは面白、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」という一文を思い出しながら、尾崎さんが的確に表現されたように上野界隈が持つ不思議さは古代よりつづく秘伝の仕掛けの相似象かもしれない。

丑寅はまた一年365日という時間の中においては、12月と1月に当たるようであり、現在はまさにその時の真最中であることに気づく。もうじき立春を迎えることもあり、寒さの中で今はまだ不毛に思える土中深く、既に春へ向かって芽を出そうとする植物のわずかな生命力の兆しを個々人のレベルでも察知されながら過ごされている方も多いことと思う。まだまだ寒い毎日が続きそうだが、養生しつつ新しいステップに思いを馳せながら毎日を過ごしたいと思う。

165 尾崎清之輔 :2008/01/30(水) 02:56:55
上野という不思議な空間への散歩を通して、公共という「場」における静けさと落ち着きを取り戻すことの重要性を述べられた田中さんの趣旨に対して、やや脱線気味となってしまった私の投稿内容から、更に話を発展させて頂きまして、誠に有難うございます。

おかげさまで、ジョサイア・コンドルの銅像が世界で200番目として評価された“最高学府“の構内に現存していたことを初めて知りました。ここに重ねて御礼申し上げます。
確かにコンドルは明治時代のお雇い外国人として来日した当初は、工部大学校(後の工学部)の教師として迎え入れられたのですから、そういうことになりますね。

また、寛永寺の話から少し続けさせて頂けますと、江戸城から見て同じ丑寅の方角には、寛永寺より数百年以上も昔から存在している浅草寺があり、天海僧正と徳川家をキーワードに、寛永寺と浅草寺の関係とか歴史的な位置付けを捉え直して考察すると、先の投稿でも若干触りの部分のみ挙げさせて頂いた「聖俗の世界」の存在をはじめとして、なかなか興味深い発見や、表面の歴史には決して出てこないような繋がりがあることはよく知られており、その極々一部については「カムイ伝」(特に二部以降)の世界でも展開されているようです。

更に、後の寛永寺の貫主が輪王寺宮(皇子ないし天皇の猶子といった直宮が歴代務めた)であったことから、その後の歴史と関係性までをも辿っていくと、またまた深遠な歴史の時間になってしまいますが、この辺りにつきましては、紙面の都合と物理的な時間の制約から、今後よく熟考した上で、いずれ項を改める形で展開できたら幸いと思っている次第です。ちなみに「宮崎駿さんの作品群」に対する深遠な世界への言及もまだまだでした。

それにしても、徒然草の第82段の引用につきましては、日本文化の持つ独特な美学とでもいうのでしょうか、現時点の私には詳しく述べられるだけの素養を持つに至っておりませんが、作者の吉田兼好こと卜部兼好がその名の通り「卜部氏」の出自であることから、卜占(ぼくせん)を業としていたことは間違いなく、そのあたりに古代より続く秘伝の仕掛け云々が関係しているのではないでしょうか。

尚、余談ですが、この徒然草の一文から「足るを知る」という言葉を思い出し、更にこの一文とは直接的には全く関係ないものの、シューベルトの「未完成交響曲」の美しさも脳裏に浮かんだことで、あえて(意図的に)完成させなかった美しさとか、これから成長しようとしている未完の方々が持っている一種のポテンシャルの美しさにまで想いが広がり、そういったことが、いずれそう遠くないうちに、冒頭での私の発言を含めた「場創り」の具現化に向けて、お互いが何らかの形で寄与していけるだけの土台を創り上げていきたいと思っております。

166 尾崎清之輔 :2008/01/31(木) 01:16:46
No.165の私の投稿の後半部分にある『そういったことが…』以降の文章につきまして、言語系三学を司る「文法」「修辞学」「弁証法」における明らかな欠陥が見られ、本来申し上げたかったことを正しく伝え切れていないと思ったことから、以下の通り訂正させて頂きます。

◆そういったことが、冒頭での私の発言を含めた「場創り」の具現化に向けて、静態における(未完の)美と、動態における(未完の)美の両方を鑑みつつ、お互いが成長しあい、何らかの形で共創しあえる関係性を確立させていくための土台を創り上げていきたいというのが、未完の一人である私の切なる願いであり、且つ考えでございます。

167 尾崎清之輔 :2008/01/31(木) 02:26:32
少し話は戻りますが、田中さんがNo.164で仰せの通り、江戸城から見て丑寅の方角にある寛永寺に相当の鬼門封じが為されていたであろうことは、その建立に天海僧正が関わっていることからしても明らかであると思っており、「万物の終わりを成すところで、かつ始めを成すところ」という易経の意から、戊辰戦争や第二次世界大戦後のアメ横の話など、示唆的な内容を幾つか列挙して頂いておりますが、私の方からもう一つだけ敷衍させて頂けますのならば、第二次世界大戦における当時の日本=大日本帝国の崩壊、すなわち敗戦直前直後に発生した昭和陸海軍の最後の悪足掻きとも言える三大徹底抗戦の一つである「水戸教導航空通信師団事件(通称:上野公園占拠事件)」も付け加えておきたいと考えます。

これは、敗戦直前直後に発生した様々な大変動からすると、非常に地味な事件に過ぎませんが、その少し前に発生し、後に文藝春秋より書籍化(大宅壮一のノンフィクションとして知られているが執筆したのは半藤一利)され大ベストセラーとなり、三船敏郎をはじめとした当時の大スターたちをふんだんに使って映画化までされた『日本のいちばん長い日』で知られる『宮城事件』とも若干関係していることを念頭に置くならば、宮城事件の発生した皇居の位置から丑寅の方角にある上野公園近辺(より正確には現在の東京藝術大学の美術学部あたり)で蹶起した陸軍一部将校たちの行動と、宮城事件では、なぜ蹶起行動に参画したかが今一つ不思議であると一部で言われており、上野公園占拠事件では逆に蹶起将校たちの説得にあたった結果、血気に逸った若手将校に射殺されてしまった石原少佐(近衛第一師団参謀)の行動は、石原少佐ご本人が死に場所を求めていたという通説のみでなく、歴史の大きな濁流の中で「終わりを成すところで始めを成すところ」に招かれてしまったと考えるのは余りにも飛躍し過ぎでしょうか。

ちなみに『宮城事件』そのものにつきましては、昨年夏に発売された一冊の書籍が語られている内容ならびにそれに呼応した多くのレビューと、先の『日本のいちばん長い日』(こちらは「半藤本」とも呼ばれる)との対比の中で、特に一次情報や一次資料にあたることの重要性や、そこから考察を重ねていくことに関して、いろいろ指摘すべき点が多いと考えており、それは「教養」というキーワードから「歴史に対する冷徹なる観察を通して普遍性を学び洞察力を身に付ける」ことが根底に存在していると考えておりますので、いずれ時間に余裕が持てたとき、簡単にではございますが、改めて私なりの見解を述べさせて頂きたいと思っております。

168 田中治 :2008/01/31(木) 12:08:30
尾崎さんのご投稿により、丑寅には「万物の終わりを成し、かつ始まりを成すところ」の意があることからそれを示唆する事件として通称「上野公園占拠事件」を挙げていただき、いまだ真実が明らかでない昭和史の一端にまで話を深化していただき誠にありがとうございます。

小生も知人や書籍を通じてこの事件について触れたことがあり、奇妙な感覚を覚えていたが、こうして「江戸城から見た上野」の視点で俯瞰すると実に興味深く、改めてこれら一連の事件の不思議さに気づかされた次第である。因みに東京から見て水戸は丑寅の方角に存在し、先の投稿で触れた横山大観は水戸の出身で父親は水戸藩士である。その長い人生の中で日本画壇に貢献した功績は素晴らしいものだと認識しているが、昭和に入ってから有名な冨士の絵を多数描き、皇室にも度々その絵を献上しており、偉大な画人が国粋主義的な流れの中に位置づけられてしまうことは今となっては誠に惜しいことではあるが、実際には戦中の諸々の活動に対し、戦後GHQより戦犯として取調べを受けた事実があるようだ。もっともこの事件が東京美術学校の敷地で起こったからといって、大観とこの事件を結びつけようなどとは考えておらず、焦土と化した当時の東京では文化的施設が多く残る上野界隈といえども他に立て篭もる場所はなかったのかもしれない。しかしあえて「東京美術学校」に焦点を合わせれば、明治から終戦まで、特に昭和初期から終戦にかけてこの美術学校が輩出した芸術家の中にはその芸術活動以外の行動にも興味深い人物が少なくないようであり、当時の東京美術学校またその向かい側の東京音楽学校で学ぶ者たちの中には当時の社会の上層部の子女子弟が数多くいたし、一般には知られていない歴史上重要な人間関係の繋がりも想像に難くないと思う。
通称「上野公園占拠事件」もそして繋がりがあるとされる「宮城事件」も、明らかにされていないのは、真の首謀者は誰かということであり、昭和史は戦後60年も経つというのに未だ謎が多すぎる。

明治初期に行われた「神仏稀釈」も、単に国家神道から敗戦に至るまでの精神史として片付けるにはあまりにも大きな問題を含んでいるように見え、特にこの仏教受難の時代における真宗や日蓮宗の動きには、まだまだ知られざる側面があるようである。
図らずも先の投稿で触れた大観の家にある藤原時代の不動明王を思い出し、「神仏習合」により醸成された平安時代のスケールの大きさに再び思いを馳せ、日本が再び場としても内容としてもダイナミックな第2の平安京を築けるのかは、平和憲法を持つ現代の我々がユーラシア大陸との長く深い歴史を見直しもう一度日本列島の歴史を評価しなおすことがポイントのひとつになるように思う。2月3日は節分だが「福は内、鬼は外」で鬼にされたのは誰だったのか、福とされたのは誰だったのかについても、あのお面の顔を思い出しながら、日本における支配階級と被支配階級の歴史、強いてはより高い次元であるユーラシア大陸を主にアジアにおけるそれをも包括的に捉えなおしていくのも未来へ進化するには必要なイニシエーションかもしれないと思う。

169 田中治 :2008/01/31(木) 12:27:34
訂正:神仏稀釈→廃仏稀釈

170 尾崎清之輔 :2008/02/01(金) 01:19:19
田中さんが敗戦直後の「上野公園占拠事件」に関連して、丑寅の方角という観点から水戸へと話を繋いで頂き、しかも横山大観が水戸出身で父親が水戸藩士であることに触れて頂いたおかげで、江戸と水戸との重要な関係を思い出しました。

徳川御三家といえば、尾張、紀州、水戸、とくるのが一般的ですが、徳川宗家(江戸)、尾張家、紀州家、が本来の御三家で、水戸家は欧州における選帝侯の役割にあたり、そのために学問の裏付けがある見識を保持する必要性から「水戸学」が生まれたことにつきましては、『宇宙巡礼』(東明社)を一読された方々でしたらご存知の通りです。

この辺りにつきましては、『宇宙巡礼』での対談以外にも、過去スレッドに若干ですが言及されておりますので、ご参考までに以下にURLをご紹介させて頂きます。

◆回天−月にふたつあり
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/mb/board/kaiten.htm

そして、「上野公園占拠事件」を起こした「水戸教導航空通信師団」は、「陸軍航空通信学校」が前身であり、昭和20年5月に本土決戦に備えて改編され、陸軍航空本部隷下の師団となりましたが、通信学校時代には現在の水戸市住吉町近辺にその場所がございましたものの、連日の空襲により、師団改編後に偕楽園脇の山林へ総移転を行うことになりましたが、この移転場所が、元は水戸藩の二代目藩主「徳川光圀」の別荘地であったことを考えますと、ここにも光圀公の薬だか猛毒だかが効きすぎたのか分かりませんが、300年近くもの時を経ているにもかかわらず、何という歴史の因縁でしょうか、顕密の「密」の部分への理解も含めた深遠なる世界について感じざるを得ませんでした。

また、東京藝術大学の前身である「東京美術学校」と「東京音楽学校」につきましても触れられておりましたが、確かにこの美術学校が輩出した芸術家の中には、芸術活動以外の特殊な活動に携わっていた方々もそれなりにいたようで、その中の一人が田中さんの先の投稿の中に含まれていることは、落合莞爾さんが連載中の「吉薗周蔵日記」を読まれてこられた方々でしたら即座に分かることと思います。

ちなみに、こういった辺りの昭和史を穿り出してしまうと余りにも波及が大きくなってしまうからでしょうか、正面切って対峙している書籍や論文には殆ど出会えませんが、明治初期の「廃仏稀釈」から「国家神道」に至る仏教受難時代の歴史の流れにおいても、上つ方の一部が陰に日向に仏教へ関わっていた事実からも、日本からアジア、更にはユーラシア大陸へと続く、長くて広い歴史観から捉えなおしたくなるほど、知られざる側面が多々あることは確かだと思います。

171 尾崎清之輔 :2008/02/01(金) 02:29:50
ところで話は全く変わりますが、ご存知の通り、ここ最近の私が深夜の遅い時間帯にも(…時には未明にも渡って)投稿を行っているということは、そもそもこのスレッドを立ち上げようとした頃から若干前兆は現れておりましたものの、No.152でも申し上げた通り、お片付と整理整頓を通じてやってきた大きな変動や大きな物事の発生ということを意味しており(…これは一般的には物理的時間的に相当の制約を与えかねない大仕事が同時期に幾つもやってきたと捉えて頂いたら分かりやすいのではないかと思います…)、これらは自らにとって必ずしも(…というより必ずと言って良いほど)即時的な満足を得られるものでは決して無く、寧ろ大きく聳え立つ山を登りきることや、大きな濁流に飲み込まれないよう、ビッグ・ウェーブのような波を乗り切っていくことを試されているようで、下手をすると嘗てのガダルカナルやインパール、またサイパンや沖縄などといった戦時中の悲惨な状況に巻き込まれないとも限らないため、今後これらをこなしていくための一環として、まずは交通整理を行い(つまり別の意味での整理整頓をして)、優先度付けを行い、しかも藤原博士が過去の書籍群で提唱されたエネルギー史観から私なりに感じ取られた重要な意味をベースにして、中には状況に応じてソフトランディングさせるか、それともハードランディングさせるかといったことも含めた覚悟が必要であると認識しつつ、まだほんの少しずつではございますが、実際の行動へ繋ぎ続け始めているところです。

もっとも、歴史の深層海流に横たわる普遍性について若干なりに学んできた身としては、まずは(過信ではない)自らを信ずるという基本中の基本からはじまり、藤原博士や珪水さん、またこの場を通して対話をさせて頂いた多くの賢者の方や、このスレッドを立ち上げるに至り継続していく中である種の暗黙知的な影響を与えて下さった方のおかげで、私なりに培われつつある「精神における背骨」としての思想をもとに日々を大切に過ごしていくため、更なる修養を重ねつつ飛躍へと向かうつもりでおりますので、今後ともご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。

172 尾崎清之輔 :2008/02/03(日) 00:30:10
大きな変動や大きな物事の発生を切っ掛けにして、より高位の次元へ上がっていくために、清水博博士の「即興劇モデル」をベースに少し深めていきたいと思います。

先述の通り、「自らを信ずること」をもとに蘇生の遺伝子をスイッチONさせるには、自己が持つ旧さの徹底的な否定を経て、その根底から自己を一新させるという、自らの創造的破壊が肝要であると考えており、すなわちこれは、自己のみならず、自己が活躍する「場」がより広がりを持つ系として変化を遂げていくことにも繋がり、更にはその「場」を通じて直接的にまた間接的に影響を与えていく、より大きな枠組みとしての「場」である「社会」へ連鎖を起こしていくことにより、旧い秩序構造を内側から徹底的に壊して新しい秩序構造への置き換えに至ると思います。

これに関連して、清水さんの著書『場の思想』から印象に残った文章を以下にご紹介させて頂きます。


◆人間は逆境に置かれることによって精神を自己変革し、厳しい環境にも精神的に耐えて生きることができる人間に成長していく。もしも逆境を避けていたら、自己の精神的成長はない。大切なことは生き続けていける形をとることであり、それ以上でもまたそれ以下でもないのである。

◆私は弱い人間である。私の中には自分自身を変えようとしない自分がいて、それが自己変革に抵抗して、さまざまな言い訳を思いついて勇気を奪おうとする。私が否定しなければならないのは、このように変化に抵抗をする自分なのである。そこでこのように方針を決めておけば、悩むことも少ない。

173 尾崎清之輔 :2008/02/03(日) 00:48:21
(No.172に続きます)

自己の創造的破壊と高位の次元に向けたステップアップを通じて、自己のみならず、自己が直接的間接的に関わる様々な「場」が広がりを持つ系へ変革していくよう影響を与えていくことにより、自らの楽しみや喜びが、「社会」という「場」の楽しみや喜びへと繋がり、これが21世紀の理念創りの基礎となり、そこから理想を生かせる社会へと至り、また自らに何倍もの楽しみや喜びとして返ってくる循環的作用について、清水さんは以下の通り述べております。


◆私は社会を大きな劇場と見て、その動態を舞台で演じられる即興劇とみなす「社会の即興劇モデル」を考えてきた。社会という劇場の舞台の上で即興的な演技をする役者として人々は互いに関係し合いながら、それぞれの心の状態を表現していくことが人間の社会的活動であると考える。このモデルの特徴は、人間の集まりにおける人々の内面(身体化された心)の働きを重視して、その心の状態が外へ表現されて、社会的現象を引き起こし、その現象が再び人間の内面に影響を与えて次の現象を生み出す循環的変化が社会の動態の本質であると考えるところにある。一口に云えば、社会の動態とは、人間の心の状態と社会的現象の間を循環しながら生まれる即興的なドラマであると考えるのである。人々の社会的活動は、さまざまな社会的拘束の下で、それぞれの主体的な判断にしたがっておこなわれるシナリオのない即興劇的演技であり、その演技は身心の主体的な自己表現であるとしている。

◆この即興劇モデルの対極にある社会モデルが機械論的社会モデルである。これは、学習したプログラムを内側にもち、人間を指示情報と環境情報にしたがって自動的に動く一種の「知能機械」と見て、社会をその集まりによって構成されるシステムと見なす機械論的(システム)モデルである。機械論的モデルでは人間の心に刻々と生まれる生成的変化を取り扱わないために、人間の個性を平均値の周りの揺らぎという形で取り扱うが、即興劇モデルでは、人間を相互に置き換えたり、平均値をとったりすることができない個性(個物性)をもつ存在として取り扱う。

174 尾崎清之輔 :2008/02/03(日) 01:36:28
(No.173の続きです)

この即興劇モデルにおいては、日々に起こる様々なドラマ(出来事)に対して、自らが主体的即興的に進行させていくことが重要であり、これが延いては社会の健康な状態に繋がることを意味しております。

また、主体的即興的に進行させていくにあたり、自らがより良い未来へ向かって通るべき道を自己決定することを、清水さんは「自己ナビゲーション」と呼んでおられますが、これを更に『社会的な即興劇の場合でも、舞台の上のさまざまな状況を勘案して、役者が即興的に自分の行動のシナリオを決めることが自己ナビゲーションである。』と、広義の意味として用いることで、自己ナビゲーションが上手く出来ない理由を以下の3種類に分類されております。

1.舞台の上に自分の現在の状態をうまく位置づけられない。
2.最初に設定した目標の位置が誤っている。
3.自分の位置と目標との位置との間の空間が複雑であるために、なかなか目標に近づけない。

このうち3については、清水先生や藤井先生も仰せの通り、焦らず、諦めず、時間をかけて知恵を働かせ、勝てると思ったときに全力を尽くし、そして「継続は力なり」ということを信じていくことで、いずれは必ず目標へ到達することができますので、即興劇が進行しない閉塞的な状況へ陥ってしまうといったことはございません。

このあたりにも、先に申し上げた藤井先生の仰っておられる『大局観』を持つという、ものごとを鳥瞰することの重要性があり、自らがこうありたいという明確なイメージ創り(目標)を行いつつも、現在の自分の位置、すなわち真実はイメージでなく実体そのものであるとことを客観的に冷徹に見詰めて手探りで進み、たとえ間違ったとしても失敗したとしても、そしたらそれらの失敗から学んだり、単に道を引き返したりすればいいくらいの大らかさや心の余裕を常に持ち続けていけば良いだけのことであると思います。

(この項、更に続く)

175 尾崎清之輔 :2008/02/03(日) 02:58:24
No.174から更に発展させて頂く前に、私事で恐縮ですが、若干述べさせて頂きたいと思います。

ここ数日で私の身の回りに起こっている大きな物事の発生や変動に対して、より良い方向へ運ぶことも出来れば、ミスリードしてしまうこともあるのが実状ですが、それらのミスに対しても、ここの掲示板で展開させて頂いている内容を瞬間的に思い出すことで、ミスした後も引きずること無く、逆にその失敗から学んだことでその後を思った通りの結論へ結び付かせることも少しずつ出来るようになってきております。

そんなとき、ほぼ同じ時期に似たような実状(=情報)について発信して頂いた方がいらっしゃったことから、このとても自然体に感じ取られた発信内容が私の琴線に触れ、私なりに思うところがございましたので、それら個々人の実状をもとにGeneralizeし、普遍的な概念の創出へ寄与していくことが出来るよう努めていくことで、個々人が素敵な人生を送ることが出来るよう、またそういった方がより良い「場」の形成に繋げられることや、そこから新たな楽しみが生まれる循環的作用にまで至ることが出来るよう、所見を述べさせて頂きたいと思ったことから、先述の「即興劇モデル」をベースに考察を続けていきたいと思った次第です。

176 尾崎清之輔 :2008/02/03(日) 23:05:20
No.174において、清水さんは自己ナビゲーションが上手く出来ない理由を3種類に分類されておりますが、3につきましては、先述の通り閉塞的な状態に陥ることはございません。
従って、1と2が閉塞的状態の起きる原因ということになりますが、この辺りについて清水さんの著書より引用しながら若干敷衍させて頂きます。

まず、1につきましては、『空間(舞台)を全体的に摑むことができないために、自分で自分を空間にうまく位置づけることができない状態』、すなわち『自己言及ができない状態』であり、『この状態で動き回るために、ますます迷路の中に入り込む−ますます自己言及ができなくなる−という状態に陥っている』ことが閉塞的状態であると述べております。
尚、ここで『自己言及』という言葉が出てきますが、これは『自分自身が舞台のどこでいま何をしているかを自覚して、それを舞台へ表現する』ことを意味しております。

そして、これを敷衍する形で、社会モデルにおける自己展開という一般化した問題として捉えるために、以下のように分かりやすい説明を加えつつ、こうした状態へ陥ってしまうことに対して、根本から克服していくことについても述べております。

◆即興劇にこの自己言及の問題をもち込むと次のようになる。まず、一人の個人としての役者と即興劇という劇をしているときの舞台における役者とは異なっている。これは私たちがひとりでいるときと、企業なり、大学なり、グループなりの場にいるときとでは、振る舞い(自己のあり方)が異なっているということを云っているのである。舞台の上にいるときとは、自分の存在を即興劇の舞台の上に位置づけているときのことである。もしもこの位置づけができないときには、即興劇の舞台の上には存在していないことになるから、舞台から外れて故人になっていることを意味している。したがって舞台の上での迷子の状態は、個人としての役者が舞台から外れて迷子になっている自分自身−個人になっている役者−に「お前はいまどこで何をしているか」と訊ねることになるから、自己言及のパラドックスがおきてしまう。当然、筋の通った答えは出てこない。いまなすべきことが自分に見えないから、存在の喪失状態ということになる。

◆存在の回復にとって重要なことは、これまでの経緯にとらわれる自分から離れて、いま自分が存在している舞台ではそのようなドラマが演じられようとしているのかを落ち着いて摑むこと、そしてその舞台そのものを知ることである。これは一歩高い観点に自分自身を上げることに相当する。

ちなみに、私はここでも藤井先生が仰せの『大局観』を持つことの重要性について、感じざるを得ませんでした。

177 尾崎清之輔 :2008/02/04(月) 00:06:39
(No.176の続きです)

そして、2につきましても、1と同様に「自己言及のパラドックス」を生成していることになるのですが、1との違い(実はそこには非常に重要な違いというか問題の背景があるのですが)を説明させて頂けますと、これまでの社会においては、大枠としての道筋が明確になっていたことから、その上で自己の道筋、すなわち目標が立てやすかったのですが、今世紀に入ってから(より正確には20世紀末あたりから)は、社会全体が不健康な状態(ハッキリ云ってしまうと既に病膏肓へ至っている状態)のため、これまでの目標設定の仕方や方法では通用しないため、「未知の空間」へ出て行かねばなりません。

この辺りにつきましては、以前も申し上げたように、正慶孝さんが『ジャパン・レボリューション』(清流出版)において『テレオクラート』という『遠い将来を見通すことのできる専門家』の存在が必須になると喝破しており、これは、今後いろいろと起こり得る多くの試練や現実的な問題に対して、これら全ては自らが高位の次元に上がるための過程であるくらいの(リラックスした)気構えとほんの少しの勇気と実行が肝要であると考えております。

実際、いまの社会が置かれた現状を正しく分析すると、私が今更申し上げるまでもなく、超国家的な存在である様々な組織体や機関などによる国際経済における寡占体制の確立、すなわち世界経済の実質的な支配と、それに応ずるが如く、各々の国家においては、公共部門の「民営化」という名の「私営化」により、営利企業の領域を広げられてしまったことで、公共的な存在や社会的な存在を解体していく過程が顕著に現れてきており、これが『グローバリゼーション』の特徴ということになりますが、そのようにして形成されたグローバルな秩序体系において、国家の役割は今や殆ど無きに等しく、逆にそのグローバルな秩序の下請け機関に貶められてしまったことで、現代の民主的国家における憲法の主軸のひとつである、「個人の生存権利の保護」より、「グローバルな秩序体系の維持のための管理と統制」が主な役割を果たすことになってしまったため、個々人が自らの判断のもとに決めた目標であったとしても、どこかで必ず「たった一つ」の体系に吸収されてしまいかねない問題が存在しております。

…とは云っても、このグローバルな秩序体系が生み出す「大いなる閉塞的状況」も、所詮は「天地人」の人の次元で作り出しているのに過ぎませんので、同じく人の手で創造的破壊を起こすことで、より良き未来を創り上げていくことは十分可能ということになると思います。

178 尾崎清之輔 :2008/02/04(月) 00:39:23
さて、若干固い話題を続けてまいりましたので、ここでリラックスして頂くために、前にもご紹介した、この正月に二夜連続で放送されたクラシックをテーマにしたコメディタッチのドラマにおいて、主人公の一人が欧州の指揮者コンクールで一度は失敗し、その失敗から過去の同様の出来事を思い出し、そこから立ち直ってもう一度同じ曲で挑戦して見事指揮者コンクールの優勝をさらった曲である、R・シュトラウスの交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」から、今夜はフルトヴェングラー指揮による「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」をお楽しみ下さい。

◆Furtwangler conducts R.Strauss Till Eulenspiegel PartⅠ
http://www.youtube.com/watch?v=QdljBugBiN4

◆Furtwangler conducts R.Strauss Till Eulenspiegel PartⅡ
http://www.youtube.com/watch?v=p9dB0Hy0Gp0

179 尾崎清之輔 :2008/02/04(月) 23:34:52
昨日2月3日は節分でしたが、田中さんが先述の投稿で仰せのように、ここ千数百年以上に渡る日本(延いてはアジア圏やユーラシア大陸)の歴史において、支配階級と被支配階級の位置づけが、長い時間の中でどのように形作られ、また変遷してきたかに思いを馳せつつ、それが現代に至って顕密の世界における曼荼羅を描いていることは、知る人ぞ知る話であり、その一端は『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)や、『朝日と読売の火ダルマ時代』(国際評論社)、また『夜明け前の朝日』(鹿砦社)などにも書かれており、暗示的には『KZP』や『JZP』でも触れられておりますが、このあたりをより深く見据えて包括的に捉え直していくにあたっては、やはり一度は喜田貞吉氏の書籍群を手にしてみる必要性を感じており、例の宮崎駿さんの作品群に対する深遠な世界への言及を行うにあたっても、前に野田さんからご紹介のあった書籍群以外に、同様のアプローチが必要であると思ったことから、このテーマに関しては当分の間かかってしまいそうです。

180 尾崎清之輔 :2008/02/04(月) 23:48:11
さて、昨日まで『場創り』に向けた重要なキーワードである「即興劇モデル」を中心に、少し論考を続けさせて頂きましたが、更にこの『場』を司る個々人という生命体と、それら生命体が自発的に働く(≒動く)ことで、お互いの間に共鳴場や共鳴力などが発生し、そこからより大きな広がりを持つ系としての『場』へと成長していくシナジー効果に着目する必要がございますが、これこそが非線形理論の基本を示していると考える意味では、何度か話題に出てきた奥義書『生命知としての場の論理』(清水博著:中公新書)はもちろんのこと、その原点とも云われる『生命を捉えなおす』(中公新書)の精読も必須であり、これらの書籍群に対する深い認識と洞察とを通じて、漸く100年後に残る名著である藤原博士と藤井博士の対談『間脳幻想』(東興書院)の世界へ入るキップを手にすることになると考えております。

これまで藤井先生の書籍から何度か引用させて頂いた理由のひとつは、まさしくそこにあり、このスレッド名に『教養』という用語を使っている以上、やはり「そこ」への道に至るまでの過程と歴史を十分考察すること抜きにして『教養』は語れないと思っており、他の奥義書にあたる書籍群を読みつつ、この『間脳幻想』を何度も読み返すことの必要性を感じているところです。

そういう意味で、珪水さんが『間脳幻想』を数年前の時点で既に80回以上も読まれていたことは誠に敬服しております。

また、先の投稿では久しぶりに『グローバリゼーション』の話題にも若干言及させて頂いたことから、私が何年も前からご紹介させて頂いている『ル・モンド・ディプロマティーク』のイグナシオ・ラモネ編集主幹の論説を思い出しましたので、まだまだ若輩者ではございますが、ミクロな生命体の世界とマクロな宇宙の世界を考察しながら、人の次元で発生している社会的事象に対しても論考を重ねつつ、例によって愚見ではございますが、私なりの観点から、皆様へ出来るだけ分かりやすく噛み砕いて書くことができるよう、頑張っていきたいと思います。

そのための一環として、まずは意味論への正しい理解が重要になると考えますので、『間脳幻想』の藤井先生のあとがきで触れられております、一般意味論の中興の祖であるサミュエル・ハヤカワ氏の『思考と行動における言語』(岩波書店)を精読し始めたところであると申し上げておきます。

◆間脳幻想(まえがき&目次&あとがき)
http://www2.tba.t-com.ne.jp/dappan/fujiwara/books/brain.html

181 尾崎清之輔 :2008/02/05(火) 00:14:58
ところで話は全く変わりますが、先日までのお片付けでスッキリした拙宅にガーベラを主としたフラワーアレンジメントを飾りました。

ご存知の方々もいらっしゃることと思いますが、ガーベラの花言葉は「希望」「常に前進」などがあり、拙宅の部屋にあるピンクのガーベラは「崇高美」という意味もございます。

ちなみに同じガーベラでも黄色は「究極美」だそうですが、「崇高美」の方が、これまで展開させて頂いている内容にも相応しいと思ったことから、こちらの言葉の方が私個人としては好みですね。

182 尾崎清之輔 :2008/02/06(水) 00:23:08
先に挙げたサミュエル・ハヤカワ氏の『思考と行動における言語』は、日曜から読み始めて3割程度のため、内容のご紹介や読後感などについては、まだ先にさせて頂きますが、今夜は『間脳幻想』の世界へ入るキップを得る手掛りの一つと考えております、『生命を捉えなおす』(中公新書)に関して、私の古い記憶を頼りに若干お話させて頂こうと思います。

清水博士は、「生きている状態」の「共通分母」を探す過程において、まずは遺伝子レベルからゲノム、そして細胞から各器官、そこから生命ないしは生物に至り、更には生物社会から生態系、といった各々の段階における要素には全く依存しない「グローバルな性質」があると仮定して、部分(個々の要素)の総和が全体(生命)になるとは限らないという意味から、生命という存在、つまり『生きている』ということの重要な性質をズバリと言い表しており、この生命という系こそ、『非線形』であると看破していたと思います。

…とここまで書いて、よく考えてみましたところ、藤原さんが前に『生命を捉えなおす』に関する書評を掲示板のどこかでご紹介して頂いたことがあり、それが松岡正剛さんの書評であったことを思い出し、「非線形」の部分が非常に分かりやすく書かれていると仰っておられましたので、ここでは松岡さんの書評から「非線形」に関するポイントのみご紹介させて頂くに留めて、詳細は松岡さんのサイトのURLを再掲させて頂きます。

◆非線形というのは、原因と結果のあいだに足し算が成り立たないような性質をいう。たとえば、aとbという原因がそれぞれ単独にはたらいたときにあらわれる結果をそれぞれAとBしたとき、原因a+bがA+Bという結果になるのが線形性で、A+B+XやCというまったく変わった結果になるのが非線形である。(…中略…)生命現象はこういう非線形的な性質を本来的にもっているのではないかということになる。

◆グローバルな状態をつくっている系には、いくつかの共通の性質がある。そのひとつは非線形ということだが、もうひとつは「相転移」をおこしているということである。その系では「相」が劇的に変わっていく。
 たとえば氷と水と水蒸気は成分は同じでも、まったく異なる「相」をつくっている。層状に流れていた雲がいつのまにかウロコ雲になっているのも、水道の蛇口を少しずつあけていくと、水が糸状から急にねじり状になり、さらに棒状になって、そのうえで突然にバッと開いていくのも、「相」が変わったせいだった。逆に、コーヒーにミルクを垂らしたばかりのときはまだミルクをスプーンで引き上げることは不可能ではないかもしれないが、これがいったん交ざってしまったらミルクは二度と引き上げられない。こうした「相」の変化はあるところを境にして不連続におこる。劇的でもある。それが相転移である。
 おそらく生命現象もこういう相転移をおこしているのではないか。

183 尾崎清之輔 :2008/02/06(水) 00:29:03
(No.182より続きます)

◆相転移をおこしている系には何がおこっているのかといえば、構成要素の変化では説明しきれない何かがそこに発現していると考えざるをえない。
このことを最初に考えたのは反磁性や超伝導体を研究したレフ・ダヴッイドヴィッチ・ランダウで、ランダウはその発生している何かを「秩序」とよんだ。たとえば磁石が強い磁力を発現するのは、構成要素が変わったからではなくて構成要素間の関係が変化したからである。原子磁石の並び方が変わったからなのである。ということは相転移では無秩序なものから秩序のある状態が形成されているということになる。そうならば、生命はまさしくこのような「秩序をつくっている系」なのではないか。


◆松岡正剛の千夜千冊『生命を捉えなおす』清水博
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1060.html

184 尾崎清之輔 :2008/02/06(水) 01:45:01
今夜は踊る識者として知られた、故カルロス・クライバーのベートーヴェン交響曲第七番の第一楽章から第四楽章までのライブ(アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団)をお楽しみ下さい。
このライブは1983年10月に行われた、クライバーにとって絶好調の頃の貴重な映像です。

尚、ご存知の通り、この曲は日本のクラシックブームの火付け役となった連続ドラマのテーマ曲でもあり、劇中でもコンサートシーンで何度か使われた曲ですが、そのあたりも対比しながら鑑賞しますと楽しみが一層増すことと思います。

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.1(1)
http://www.youtube.com/watch?v=s1qAWcd4rr0

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.1(2)
http://www.youtube.com/watch?v=MzHt-_i_FcE

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.2
http://www.youtube.com/watch?v=bqtPVEuAbzM

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.3
http://www.youtube.com/watch?v=OiEt9y_r-og

◆Carlos Kleiber -Beethoven symphony No.7, Op.92 : mov.4
http://www.youtube.com/watch?v=VLkZvsp62iU


ちなみに、愛妻家としても知られたクライバーは、ある時期(90年代以降)から妻との生活を優先し、指揮台に立つことは滅多になくなってしまったことから、文字通り「冷蔵庫が空にならないと」指揮をしないとまで言われておりましたが、あのダイナミックな指揮ぶりは、ある年齢を経てからは相当困難なことであったと個人的には考えており、仮に指揮台へ立つ機会があっても、ご本人にとって果たして満足いくものであったかどうか分かりませんが、いずれにしても、先述のプライベートにおけるクライバーの生活スタイルには、深く感銘を覚えており、敬愛の念も抱いております。

185 尾崎清之輔 :2008/02/06(水) 01:53:21
訂正:踊る識者→踊る指揮者

186 野田隼人 :2008/02/06(水) 19:33:47
尾崎さんの精力的な書き込み、頭が下がります。

ところで、尾崎さんは喜田貞吉の著書について言及されていましたが、私も喜田の書籍群にあたることについて賛成です。私も以前から喜田の論文に関心を寄せていました。ご存じと思いますが、幸い河出書房新社から三巻シリーズで喜田貞吉の復刊本が出るようで、既に発行された『先住民と差別』が漸く今日届いています。時間を見て目を通すつもりであり、今後出版が予定されている残りの二冊、『被差別部落とは何か 』と『賤民とは何か』も楽しみです。
http://www.kawade.co.jp/np/author/10945

なお、上記とは関係はないのですが、横田めぐみさんを拉致した犯人と兄弟のように付き合っていたという人物の本が出ました。テーマが横田めぐみさんを拉致した朝鮮人の話ですので、これも見方によっては喜田の著書と根底で繋がるものがありそうだな…と最初の数十ページを読み進めて感じています。
http://310inkyo.jugem.jp/?cid=5
『招魂の海 故北朝鮮工作員の「号泣の遺言」』(笹谷洋一著 PHP)

187 尾崎清之輔 :2008/02/07(木) 00:36:29
野田さん。私の具にも付かない雑文に対して、適切なフィードバック並びに参考情報を提供頂きまして、誠に有難うございます。

先に申し上げましたように、これらの世界と歴史に対して深い考察を重ねて洞察力を身に付け、包括的に捉え直していくにあたっては、相当の努力とそれなりの強い覚悟が必要になることは、いみじくも落合莞爾さんが「ワンワールド」というひと言で片付けてしまう最近の連載記事の傾向に対して、その前までの「まともだった」頃の、非常に冴えていた筆力に顕されているのではないかと考えております。

尚、正確にはこの辺りの現況についても、若干ではあるものの、私としては今後の期待を込めた異論を持っており、それは「薩摩」をキーワードとして、単に「ワンワールド」云々と呼ぶには相応しくなく適切でもない別ルートの存在形態(≒表面化していない歴史の流れ)にまで言及し、それが維新直前直後の薩摩と京都の関係(特に遷都した後)、延いては東京との関係性や満蒙の歴史にまで至るのであれば、また楽しみが一つ増えるものと考えておりますので、今後の落合さんに期待したいところです。

ところで、八切止夫氏の書籍群は私も幾つか読破しましたが、彼独特の種本の背景思想が垣間見られてしまうこと、小説風に描くことが主となっているため、それがあの独特の文体と折り重なって、一部の方々へしか伝え切れていないという現実があると思います。

また、鹿島昇氏の書籍群の多くはもとより、『結社と王権』(講談社学術文庫)や『被差別部落一千年史』(岩波文庫)など比較的手に入りやすい書籍もさっと一読しましたが、分かっていても書けないのかどうかは全く不明なものの、後者2冊については三角寛史観から脱却できていないと思われたのが残念であり、前者の書籍群においては、喜田貞吉氏の話題は幾つか出てくるものの、それ以上の深い部分にまでは余り考えが至っていないか、優先度を下げているようにも感じられ、そこは残された者たちの今後の課題かもしれません。

その過程では、日本の衆道史の名著と呼ばれている『本朝男色考・男色文献書志(合本)』(原書房)という観点から「役小角」にも触れねばならないとも考えており、その道はなかなか険しそうですね。

いずれにしても、この辺りを敷衍している書籍や論文の少なさには、日本(アジア圏もそうですが)における歴史の浅さというか、人類共通資産と考える(精神としての)思想体系が存在してこなかったという意味で、現在のテクノロジー万能主義(全て技術で解決できる可能性があるという原理主義)や市場万能(原理)主義、または賤民資本主義などにも繋がっており、現代社会の最重要課題の一つとして顕著に現れてきているとも考えます。

188 尾崎清之輔 :2008/02/09(土) 23:45:25
No.159の村山さんの提起を受けて、No.160で私の愚見を披露しましたが、今夜は更に敷衍させて頂きたいと思います。

まず、戦後から今日(こんにち)までを振り返りますと、高度経済成長時代や安定成長時代と呼ばれた時期を経て、バブル狂乱と後のバブル崩壊、そして冬の時代を迎えて現在に至っており、(今も大手とか多国籍と呼ばれる組織に属する人間は特にそうですが)その間、猛烈社員を良いことだと思ってがむしゃらに働き、『経済大国らしいもの』を作った結果として、日本の男性の殆どが「燃え尽き症候群」で反応力が無くなってしまったことについては、私も極めて同意であり、それは文字通りの「濡れ落ち葉」という意味だけではなく、創造力の欠如はもちろんのこと、想像力の欠陥も露呈していることに顕れており、その具体的な症状が、「ひとの話を聞かない」、「無反応」、「すぐキレる」などの病理的現象に繋がっていることは先述の通りですが、更には求心的で縮み思考的な発想の一つである「おたくテクニシャン」ぶりにも表されていると考えます。
これは、産業社会の発展形態において、労働集約型と技術集約型が未分化のまま進んできたと考えられる、日本の製造業の生み出した様々なオモチャ的な機器への憧憬にも明らかではないかと思われるからです。

そして、『経済大国らしいもの』とは、本来の経済大国を意味すると考える、後の歴史に耐えうるほど長期に渡るインフラの整備や、経済成長を遂げていく中で作り上げてきた多くの内部留保を次世代に向けて還元していくことでなかったことは、『不毛な成果』として現在の歴史が示している通りであり、これまでの成長の過程で「本来存在するはずの資産」が、実際には何処へ何に使われてきたか、今や政財官業界すべてひっくるめて不明となってしまったことは、余りにも大きな本質的問題であり失敗ではないかと考える次第です。

個別に誰某が何千万円とか何億円とか手にしたとか使ったとかいった話は、醜聞的な話題として、時折マスメディアの表面に出てくることはあっても、国家予算とか自治体予算、またそれに匹敵するような何兆円以上のお金が、マネーゲームの中で一瞬のうちに消え去ってしまったことについて、はっきりと言及している方々は、藤原さんとか落合(莞爾)さんのようなごく一部の方々を除いて皆無に等しいのが事実と考えます。
あれだけ市井の民が汗水流して稼いできたはずのお金や資産などは果たして一体どこへいってしまったのでしょうか。

この辺りは、藤原ブッククラスターの方々や、Ratioに熟知されている賢者の方々など、本質を見極められる直観力を持つ方々でしたらご存知のように、今一度、戦後から今日に至る歴史を総括し、正しく認識して日々の行動へ反映させていくことにより、次世代の負債として残さないよう努めていくことが、我々の最重要課題ではないかと考えます。

189 尾崎清之輔 :2008/02/11(月) 00:46:16
このスレッドを立ち上げて早3ヶ月強ほどが経ちましたが、その間、この場を通じた叡智と機知に富んだ書き込みや、陰ながらの応援を頂きまして、このたび、同名のブログを立ち上げることに致しましたので、ここにご連絡申し上げます。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

相変わらず雑文や稚拙な論説が続くことになるとは思いますが、今後とも、ご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します。

尾崎清之輔 拝

190 尾崎清之輔 :2008/02/11(月) 20:50:49
先程、ブログ『教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて』の方へ書き込ませて頂きましたように、このスレッド並び掲示板と、ブログとの連携を図っていきたいと思います。

掲示板の持つ特性とブログの持つ特性(それぞれのメリット / デメリット)につきましては、「ブログと掲示板の連携」と題した記事としてまとめさせて頂きましたので、そちらをご確認下さい。

暫く試行錯誤しながら、ということになると思いますが、ブログと掲示板それぞれの持つ特性と利点を考慮しつつ、連携に向けた実験的な試みを幾つか行なっていきたいと思います。
現時点では以下のような案を持っておりますが、他にも良案がございましたら、ご提案を頂けますと誠に幸いです。

◆当該掲示板で既に投稿済みの私の記事については、空間的他所への啓蒙等を趣旨として、一部追加修正を施した上、ブログへ再掲する。

◆当該テーマに関する皆様からの主体的創造的な課題提起、または即興的な意見やコメントについては、主にこのスレッドや関連する他の掲示板を通して行い、必要に応じてブログの方へも展開し、他の優れたブログとの連携も視野に置いて発展させていく。更にその過程で掲示板へフィードバックループさせていく。

191 尾崎清之輔 :2008/02/16(土) 11:22:04
ブログをはじめて1週間ほどが経ち、日々更新しておりますが、その分、掲示板の書き込みの方が疎かになってしまい、誠に恐縮です。

さて、藤原博士が仰せのように、正慶孝さんも数少ない現代のルネサンス人のひとりであり、小生も正慶さんの素晴らしい思想には大変敬服しておりました。
現在、小生のブログで「正慶孝さんの偉大なる功績」と題した連載を行っておりますので、お暇なときにご一読頂けますと幸いです。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

192 尾崎清之輔 :2008/03/31(月) 01:28:07
先程「 デリバティブバブル崩壊後の新世界秩序」スレッドでも申し上げましたように、堤未果さん著による『貧困大国アメリカ』(岩波新書)をもとに、拙ブログで『日本という「場」』として展開させて頂きました。
相変わらず雑文拙文レベルの内容ではございますが、様々なテーマに渡って日々記事を掲載しておりますので、お時間ございましたら、ご一読頂けますと誠に幸いです。

◆教養(リベラルルアーツ)と場創り(共創)に向けて
http://blog.livedoor.jp/ratio8008/

193 首藤尚丈 :2008/04/17(木) 23:21:18
いろいろとご心配をかけて申し訳なく思っています。私の名前が目に留まりましたので一言申し上げます。会社のことはさておき現在私は数学を用いて宇宙の構造に挑戦中ですーその結果我々の宇宙のそとに別の宇宙が取り巻いていることを発見しました。此の発見が重力の統一につながるもののようです。重力が次元に関係していてシュトーレンの数列を一般項にまとめあげればいいようです。ドキッとするような話ではありませんがディラックの物理の先の世界を開けます

194 尾崎清之輔 :2010/01/05(火) 00:24:52
小生が嘗てご紹介させて頂き、後に自身のブログを立ち上げる切っ掛けの一つとなったtoxandoriaさんのブログから、記事とコメントが引用された阿修羅の素晴らしいレポートを見つけたことは先に他のスレッドで述べた通りですが、このレポートの引用元であるtoxandoriaさんの記事と、ブログ主を凌駕していると感じられたコメント主の如意輪観音さんの鋭い指摘には正しく目から鱗が落ちる思いでした。

以前も申し上げましたように、toxandoriaさんは芸術の世界に造詣が深く、欧州の歴史や哲学にも精通しているブロガーであり、その文面から醸し出される心の余裕と高貴なる精神性は、“似非”ないし“やまいだれ”の知性を撒き散らす“文化人”とは異なり、冴えた論評を行なうことのできる方として敬服しておりますが、そうであるからこそ如意輪観音さんのような叡智に満ちたコメントが為されるのでしょう。

政治批判の能力を失ったメディアへの告別の発言
http://asyura2.com/09/senkyo73/msg/767.html

特に、toxandoriaさんが指摘された、アメリカ発グローバリズムの枝葉の一つである「小泉=竹中劇場」あたりから始まる“暴政”の本性であるグローバル市場原理主義を、“限界効用カルト”、即ち、“限界効用関数の微分係数へのカルト的信仰”、と喝破したあたりは流石であり、これぞまさしく前世紀までを司り、今世紀に入って益々その行状が荒々しくなってきた賤民資本主義の成れの果てではないかと思う次第です。

さて、私事で誠に恐縮ですが、思えば昨年の小生は湯武放伐にほんの僅かながら関わったものの(…爪先以下ですが…)、決して寄与したと言えるレベルにはなく、とある事情もあってBusinessの世界に軸足を置かざるを得ない状況にありましたが、気が付けばいつの間にか文字通りの「Business Person⇒忙しい人⇒心亡びた人」になっていたことを、身をもって体験したと申し上げておきましょう。

昨年後半から、“教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて”少しずつリハビリ(笑)を行ない、暮れ頃になって、Businessの世界にのみ軸足を置いている階層から、教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けたScholē(スコレー)な階層へ、未だ片足の先だけですが置くことができるようになってきたことで、漸く“まともな世界”へ戻れる兆しが見えてきたと思います。

時折また愚見を述べさせて頂くことになるかと思いますが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

195 尾崎清之輔 :2010/03/24(水) 00:59:13
暫く前、ある方のブログのコメント欄で愚見を述べさせて頂き、また別の方々へは口頭でお話した内容に対して幾つかフィードバックを頂き、中には非常に興味深いコメントもあったことから、折角なのでこちらの掲示板でも僅かな手直しを施した上で再掲させて頂きたいと思います。

なお、このテーマは当初『Once upon an Olympian time』のスレッドでその触りを述べさせて頂いたことから、そちらで続きを行なおうかと思いましたものの、こちらは別の観点から話題提起させて頂いたことから、嘗て小生が立ち上げたスレッドを久々に活性させる意図(笑)も込めて、『教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて』の方で行なわせて頂くことを予めご了承下さい。

それでは早速本題に移らせて頂きますが、小生のブログのリンク先の一つである“マヨの本音”にて過日愚見を述べさせて頂きましたように、前回2006年冬季五輪の開催地トリノでの開会式では、イタリアはトスカーナ出身の作曲家プッチーニのオペラ『トゥーランドット』から「誰も寝てはならぬ」を、今は亡きパヴァロッティが高らかに歌い上げ(実際は口パクでしたが…)、フィギュアでは同曲を使った選手が金メダルを獲得するに至りましたが、ご存知の通りオペラ『トゥーランドット』の舞台は北京であることから2年後の北京五輪を推測させることは容易であり、そのAnalogyからすると、今回2010年バンクーバー冬季五輪のフィギュアの曲目を知った時点で2年後のロンドン五輪を推測させる選手の勝ちが見えてしまいましたが(笑)、加えてバンクーバーは(英国が国家元首でその代理である総督を置いている)カナダの一都市であることを考えると、余計そう思わざるを得なかったと申し上げておきましょう。

従って、小生が銀に泣いた選手の曲目を選べる立場、つまりブレーンなりコーチ陣の一人であったとしたら、迷うことなくプロコフィエフのバレエ音楽「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたことでしょう。

バレエ音楽としての「ロミオとジュリエット」はプロコフィエフの作品ですが、元はシェイクスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」であること、英国にとってシェイクスピアとジェームスボンドとでは比較にならないレベルであることは、欧州のBlue Bloodや教養人でなくとも当たり前の話ということになるからです。

また、プロコフィエフはロシアの誇る作曲家の一人であり、彼の出生地が4年後の冬季五輪の開催地ソチから北北西に350〜400キロほどの位置にあることを考えると更にイマジネーションが掻き立てられるでしょうし、金メダリストとなった選手のフリー曲である、ガーシュインの「ピアノ協奏曲へ長調」をプロコフィエフが批判的に捉えていた(但しこの件については異なる2つの説があるためどちらが真実かは調査検討要)ことも考えると、もし銀メダリストが「ロミオとジュリエット」をフリー曲に使ったならば、別の意味での真のライバル対決が可能になったのではないかと思った次第です。

196 尾崎清之輔 :2010/03/24(水) 01:11:28
(前項に続きます)

この辺りを敷衍させて頂きますと、曲の選び方、より正確には、『曲の持つ歴史や世界観また哲学などといった背景を含めた選び方に対して、それらを熟知している方々によって勝敗が左右』されることに本筋があるのではないかと小生は考えておりますが、無論オリンピックという場における競技の一種であることから、そもそもお話にならない技術やレベルでは誰もまともに評価することは出来ないものの、いみじくも藤原肇さんが『オリンピアン幻想』(東明社)その他の自著において、オリンピックとは貴族達の4年ごとのサロンと看破されていたように、また、小生が親交を暖めている、嘗てまたは現在欧州に長く居住してそれなりの階層とお付き合いのある何人かの方々も同様のことを仰っておられましたように、中世の教会を中心とした宗教音楽の時代から、ルネサンス期を経て、バロック、古典派、ロマン派、新古典派、そして近代音楽といった西洋(クラシック)音楽の長い歴史の流れの中で、これら音楽の主な庇護者とは一体どういう階層の方々であったかを考えれば、自ずと答えは導き出されるものと思います。

また、勿論その間の音楽家の立場や地位の変遷についても見逃せないと考えます。

それらを踏まえた上でオリンピックの意味論を考えるならば、藤原肇さんの『Mountain of Dreams』やそれに先立つ『オリンピアン幻想』を読まれた方々でしたら、選手達の位置付けが一体どこにあるかは賢明な諸兄であればピンと閃くことでしょうし、競技や演技に伴う曲目の選択が意味することとは、先に述べた階層の方々に対するメッセージ(及びそういうメッセージを発せられる日本人が存在するという意味)として捉えれば、欧州(特に英国とその実質的な影響下にある地域)のBlue Bloodや教養人(と自負する者達をも含めて…)らが、まさかシェイクスピアのことを(ジェームスボンドより下と)冒涜するわけにはいかないでしょうから(笑)、もっと面白い展開になったでしょうし、仮にパリア・キャピタリズムの力学による働きが重きを置かれることになったとしても、例えば僅か0.1ポイント差の銀ということであれば、「ボン・サンス」が働いたかなと推察できたことでしょう(笑)。

また、小生が銀メダリストに対してプロコフィエフの「ロミオとジュリエット」をフリーの曲目に薦めたであろうことは先に述べた通りですが、そこには二重の意味が込められており、ラフマニノフの「鐘」を演じるには年齢的にも経験的にも未だ少々早いのではと思われた銀メダリストが、「ロミオとジュリエット」で演じる、親同士の争いや確執などの犠牲になった少女の、美しくも哀しい“ひたむきな恋”を演じることは、彼女の年齢や見た目などからより相応しかったのではないかと考えていたことから、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

なお、最後に蛇足となりますが『抗菌は銀なり』という一文でこの場を締め括らせて頂きます。
(“菌”を同音異字の“金”と読み替えて下さい)

197 尾崎清之輔 :2010/03/24(水) 01:36:42
前項196.で述べた文章の一部にごく僅かですが追記させて頂きます。

>この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

上記の“この戯曲の悲劇性というAnalogyから、”の前に、“それでも銀に泣いた結果になったとしても、”という一文を加えさせて頂くことで、

◆それでも銀に泣いた結果になったとしても、この戯曲の悲劇性というAnalogyから、先述と同様、パリア・キャピタリズムの力学に対する僅か「0.1」ポイント差の“銀”という意味でのアンチテーゼになったのではないかと思った次第です。

とさせて頂きます。


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