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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

152尾崎清之輔:2008/01/23(水) 00:58:30
No.151で言い忘れてしまいましたが、お掃除とお片付けと整理整頓を続けていくと、そう遠くないうちに、身の回りに何か大きな変動が生じるか、またはこれまでとは別の大きな物事(しかも時には全く想定していないような…)がやってくることは確かであると、最近実感しております。

…なので、時折ものすごい時間帯に書き込んでおりますが、その辺りはご想像下さい。(笑)

そして、これが本当に自らにとって良い方向、すなわち納得できる方向となるか、それとも大きな変動にただ漠然と流されてしまうか、大きな物事に押しつぶされたりするかは、『場』全体を見る目である『観』と、そこの『場』で自らが主体的創造的に起こす『行』を、日々どれだけ意識して自らを高位の次元へ上げていくことができるか、またその過程を辿っていくことができるか、が肝要と思っております。

これを出来るだけ平たく、分かりやすく申し上げさせて頂けますと、例えば、寝る前とかの瞑想による、自分と自分の周りの未来、近未来、直近、の、それぞれに対するイメージ創り、そして翌日以降に(自らを含めた場で)起こる、瞬間々の動き(≒働き)、を全て楽しみながら、主客非分離として捉えていくことに重要な鍵がある、と考えます。

また、先の投稿で、『場』の意味について説明させて頂きましたが、No.150でも述べた、高位の次元へ上がるための『共鳴場』や『共鳴力』を互いの関係性の中で生じさせ、継続させていくことにより、『高貴なる生』や『精神の貴族性』が自然と身に付くと考えますので、それが延いては他者との間に生まれる『共創』へと至ることにもなり、その辺りについては、『場の思想』から引用する形で再び整理しますと、以下の通りになると思います。

◆世界の枠が閉鎖しているときに、その中に生まれる「我々」は場に束縛されると同時にその枠を守ろうとする。このために創造が生まれない。この束縛された「我々」が存在する場が「群れ合いの場」である。

◆世界の枠が開かれてその世界の中に生まれる場で異質の人々が出会うときに「我と汝」の関係が生まれる。その場こそが「出会いの場」である。人々が出会いの場で出会うことで場に位置づけられた両者のあいだに新しい関係が生まれて個の活きが統合され、両者が開かれることが創造の必要条件である。両者が開かれれば新しい自己表現が創造されて場も新しく変わるからである。この出会いのときに異質の「我と汝」が「我々」として統合されさらに開かれることが共創の必要条件である。


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