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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

149尾崎清之輔:2008/01/20(日) 23:38:58
(No.148より続きます)

この『精神の貴族=高貴なる生』について敷衍させて頂くために、同じく『大衆の反逆』の『高貴な生と凡俗な生 − あるいは、努力と怠惰』から以下に引用します。

◆選ばれたる人とは、自らに多くを求める人であり、凡俗なる人とは、自らに何も求めず、自分の現在に満足し、自分に何の不満ももっていない人である。一般に考えられているのとは逆に、本質的に奉仕に生きる人は、大衆ではなく、実は選ばれたる被造物なのである。彼にとっては、自分の生は、自分を超える何かに奉仕するのでないかぎり、生としての意味をもたないのである。したがって彼は、奉仕することを当然のことと考え圧迫とは感じない。たまたま、奉仕の対象がなくなったりすると、彼は不安になり、自分を抑えつけるためのより困難でより苛酷な規範を発明するのである。これが規律ある生−高貴なる生である。高貴さは、自らに課す要求と義務の多寡によって計られるものであり、権利によって計られるものではない。まさに貴族には責任がある(Noblesse oblige)のであり、「恣意につきて生くるは平俗なり、高貴なる者は秩序と法をもとむ」(ゲーテ[「庶出の娘」、「続篇のための構想」])のである。

そして「原注」には以下の重要な補足がございます。

◆なんらかの問題に直面して、自分の頭に簡単に思い浮かんだことで満足する人は、知的には大衆である。それに対して、努力せずに自分の頭の中に見出しうることを尊重せず、自分以上のもの、したがってそれに達するにはさらに新しい背伸びが必要なもののみを自分にふさわしいものとして受け入れる人は、高貴なる人である。


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