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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
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:
田中治
:2008/01/31(木) 12:08:30
尾崎さんのご投稿により、丑寅には「万物の終わりを成し、かつ始まりを成すところ」の意があることからそれを示唆する事件として通称「上野公園占拠事件」を挙げていただき、いまだ真実が明らかでない昭和史の一端にまで話を深化していただき誠にありがとうございます。
小生も知人や書籍を通じてこの事件について触れたことがあり、奇妙な感覚を覚えていたが、こうして「江戸城から見た上野」の視点で俯瞰すると実に興味深く、改めてこれら一連の事件の不思議さに気づかされた次第である。因みに東京から見て水戸は丑寅の方角に存在し、先の投稿で触れた横山大観は水戸の出身で父親は水戸藩士である。その長い人生の中で日本画壇に貢献した功績は素晴らしいものだと認識しているが、昭和に入ってから有名な冨士の絵を多数描き、皇室にも度々その絵を献上しており、偉大な画人が国粋主義的な流れの中に位置づけられてしまうことは今となっては誠に惜しいことではあるが、実際には戦中の諸々の活動に対し、戦後GHQより戦犯として取調べを受けた事実があるようだ。もっともこの事件が東京美術学校の敷地で起こったからといって、大観とこの事件を結びつけようなどとは考えておらず、焦土と化した当時の東京では文化的施設が多く残る上野界隈といえども他に立て篭もる場所はなかったのかもしれない。しかしあえて「東京美術学校」に焦点を合わせれば、明治から終戦まで、特に昭和初期から終戦にかけてこの美術学校が輩出した芸術家の中にはその芸術活動以外の行動にも興味深い人物が少なくないようであり、当時の東京美術学校またその向かい側の東京音楽学校で学ぶ者たちの中には当時の社会の上層部の子女子弟が数多くいたし、一般には知られていない歴史上重要な人間関係の繋がりも想像に難くないと思う。
通称「上野公園占拠事件」もそして繋がりがあるとされる「宮城事件」も、明らかにされていないのは、真の首謀者は誰かということであり、昭和史は戦後60年も経つというのに未だ謎が多すぎる。
明治初期に行われた「神仏稀釈」も、単に国家神道から敗戦に至るまでの精神史として片付けるにはあまりにも大きな問題を含んでいるように見え、特にこの仏教受難の時代における真宗や日蓮宗の動きには、まだまだ知られざる側面があるようである。
図らずも先の投稿で触れた大観の家にある藤原時代の不動明王を思い出し、「神仏習合」により醸成された平安時代のスケールの大きさに再び思いを馳せ、日本が再び場としても内容としてもダイナミックな第2の平安京を築けるのかは、平和憲法を持つ現代の我々がユーラシア大陸との長く深い歴史を見直しもう一度日本列島の歴史を評価しなおすことがポイントのひとつになるように思う。2月3日は節分だが「福は内、鬼は外」で鬼にされたのは誰だったのか、福とされたのは誰だったのかについても、あのお面の顔を思い出しながら、日本における支配階級と被支配階級の歴史、強いてはより高い次元であるユーラシア大陸を主にアジアにおけるそれをも包括的に捉えなおしていくのも未来へ進化するには必要なイニシエーションかもしれないと思う。
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