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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

167尾崎清之輔:2008/01/31(木) 02:26:32
少し話は戻りますが、田中さんがNo.164で仰せの通り、江戸城から見て丑寅の方角にある寛永寺に相当の鬼門封じが為されていたであろうことは、その建立に天海僧正が関わっていることからしても明らかであると思っており、「万物の終わりを成すところで、かつ始めを成すところ」という易経の意から、戊辰戦争や第二次世界大戦後のアメ横の話など、示唆的な内容を幾つか列挙して頂いておりますが、私の方からもう一つだけ敷衍させて頂けますのならば、第二次世界大戦における当時の日本=大日本帝国の崩壊、すなわち敗戦直前直後に発生した昭和陸海軍の最後の悪足掻きとも言える三大徹底抗戦の一つである「水戸教導航空通信師団事件(通称:上野公園占拠事件)」も付け加えておきたいと考えます。

これは、敗戦直前直後に発生した様々な大変動からすると、非常に地味な事件に過ぎませんが、その少し前に発生し、後に文藝春秋より書籍化(大宅壮一のノンフィクションとして知られているが執筆したのは半藤一利)され大ベストセラーとなり、三船敏郎をはじめとした当時の大スターたちをふんだんに使って映画化までされた『日本のいちばん長い日』で知られる『宮城事件』とも若干関係していることを念頭に置くならば、宮城事件の発生した皇居の位置から丑寅の方角にある上野公園近辺(より正確には現在の東京藝術大学の美術学部あたり)で蹶起した陸軍一部将校たちの行動と、宮城事件では、なぜ蹶起行動に参画したかが今一つ不思議であると一部で言われており、上野公園占拠事件では逆に蹶起将校たちの説得にあたった結果、血気に逸った若手将校に射殺されてしまった石原少佐(近衛第一師団参謀)の行動は、石原少佐ご本人が死に場所を求めていたという通説のみでなく、歴史の大きな濁流の中で「終わりを成すところで始めを成すところ」に招かれてしまったと考えるのは余りにも飛躍し過ぎでしょうか。

ちなみに『宮城事件』そのものにつきましては、昨年夏に発売された一冊の書籍が語られている内容ならびにそれに呼応した多くのレビューと、先の『日本のいちばん長い日』(こちらは「半藤本」とも呼ばれる)との対比の中で、特に一次情報や一次資料にあたることの重要性や、そこから考察を重ねていくことに関して、いろいろ指摘すべき点が多いと考えており、それは「教養」というキーワードから「歴史に対する冷徹なる観察を通して普遍性を学び洞察力を身に付ける」ことが根底に存在していると考えておりますので、いずれ時間に余裕が持てたとき、簡単にではございますが、改めて私なりの見解を述べさせて頂きたいと思っております。


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