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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
148
:
尾崎清之輔
:2008/01/20(日) 22:59:32
No.141から143にかけて展開させて頂いた、『場』を形成できる素養を持つ方々について少し触れさせて頂きましたが、既に着々と『場創り』の地歩を固めつつある方々については、申し上げるまでも無く、目に見える形となって現れてきておりますが(…とは言っても70年以上前にオルテガ先生が喝破した「凡俗な生」に溺れる大半の方々はそういうことに全く気が付かないか、または気が付いてもあえて無視している…)、「これから」徐々に成長して地歩を固めていくことができると思った方々については、若干説明不足のところがあると思いましたので、その補足をさせて頂きたいと思います。
『場』を形成できる素養を持つ『資質の高さ』を感じる方々の共通項として、前者と後者いずれの方々にも共通していると私が感じる重要な要素の一つに、『丸山眞男 音楽の対話』から何度か引用させて頂いている『精神の貴族性(アリストクラシー)』があると思っており、これはオルテガ先生(オルテガ・イ・ガセット)が述べたところの『精神の貴族』または『高貴な生』にも繋がっていると考えます。
まずは、毅然たる態度、凛とした音楽(姿)、背筋をピンと伸ばして、孤高を守り抜いたという『精神の貴族性(アリストクラシー)』とは、丸山博士ご自身にとってどのようなものであったか、『丸山眞男 音楽の対話』の以下の文章に表されております。
◆私生活にあっては簡素を旨とし、「贅」という言葉の入る余地のない日常を送っていた丸山であるが、彼の生き方で最も見事だと思うのは、彼自身が生涯「精神の貴族性」を守りぬいたということ、その一事である。そして丸山は、そのような生き方を貫いた人が大好きであった。
そして、オルテガ先生の『精神の貴族』がどのような意味を持っているかについては、自著『大衆の反逆』(ちくま学芸文庫)の第七章『高貴な生と凡俗な生 − あるいは、努力と怠惰』において、以下の通り述べております。
◆貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度をもっている勇敢な生の同義語である。かくして、高貴なる生は、凡俗で生気のない生、つまり静止したままで自己の中に閉じこもり、外部の力によって自己の外に出ることを強制されないかぎり永遠の逼塞を申し渡されている生、と対置されるのである。
従って、オルテガ先生は人間の凡俗なあり方を「大衆」と呼んでいることはご存知の通りです。
(この項、続く)
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