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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて
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:
田中治
:2008/01/29(火) 19:28:05
週末の散歩の感想文であった小生の投稿に対して、早速にも東京という都市レベルの観点から上野界隈について俯瞰していただき、この界隈の持つ不思議さについてまで話をつなげていただいた尾崎さんには誠に感謝申し上げます。
小生が旧岩崎邸で感じた違和感について「鹿鳴館」を即座に思い浮かべられた尾崎さんの暗黙知はさすがで、いわずもがな旧岩崎邸も鹿鳴館も同じジョサイア・コンドルの設計による建築であり、明治期のお雇い外国人であったイギリス人のコンドルの銅像は世界で200番目と評価された大学(工学部)の構内に現存しております。
尾崎さんが寛永寺へと話を繋げてくださったわけだが、江戸城から見て丑寅の方角、つまり東北の位置にある寛永寺は今でこそほんの一部しか残っていないが、江戸時代には今の上野公園一帯すべてが寛永寺の範囲だったようであり、それは相当な広さであることからも江戸城から見て東北の位置つまり鬼門に位置する場所に相当の鬼門封じがなされていたことは明らかであるが、易経によれば、この鬼門の方角には「万物の終わりを成すところで、かつ始めを成すところ」という意があることを考えると、幕末から明治にかけて上野の山一帯は戊辰戦争中の激戦の末に新政府軍が勝利を治めて江戸から東京と名が変わったし、また第2次世界大戦後は現在もアメ横の名で親しまれる一画があるように焼け野原から闇市が立ち並び戦後のスタート地点のひとつになり、また当時は上野駅が東北地方などへの玄関口として機能していたことは江戸城を中心として見た際の上野の歴史の一端として示唆的と言えると思う。
体制が変われども首都としての東京も江戸城という建物も未だ現存していることから鬼門封じは今も機能していることになるのであろうが、徒然草の第82段にあるように「しのこしたるを、さて打置たるは面白、生き延ぶるわざなり。内裏造らるるにも、必ず、造り果てぬ所を残す事なり」という一文を思い出しながら、尾崎さんが的確に表現されたように上野界隈が持つ不思議さは古代よりつづく秘伝の仕掛けの相似象かもしれない。
丑寅はまた一年365日という時間の中においては、12月と1月に当たるようであり、現在はまさにその時の真最中であることに気づく。もうじき立春を迎えることもあり、寒さの中で今はまだ不毛に思える土中深く、既に春へ向かって芽を出そうとする植物のわずかな生命力の兆しを個々人のレベルでも察知されながら過ごされている方も多いことと思う。まだまだ寒い毎日が続きそうだが、養生しつつ新しいステップに思いを馳せながら毎日を過ごしたいと思う。
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