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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

684避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:44 ID:FuSmha0U0
(つづき)
脚注
556
557 出典不明。
558出典不明。
559 従属儀軌によって命じられている従属祭が祭式に用いられるものあるいは用いられたものを浄化するためのものであることについては脚注541参照のこと。
560「アーハヴァニーヤ祭火において護摩を行うべきである」と儀軌によって命じられている場合に、アーハヴァニーヤ祭火とは何か」という疑問が生じたとき、「バラモンは春に祭火を設置すべきである」等の儀軌から、浄化によって限定された祭火 がアーハヴァニーヤ祭火だと理解されるのである。

561ヴィシュヴァジット祭の原則が、それに続いて、ラー トリサットラ祭の原則が述べられている。ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。それに対して、儀軌には果報が述べれていなくても、ラートリサットラ祭の場合のように釈義に述べられてい れば、それを果報と考えるべきである、というのがラートリサットラ祭の原則である。そして両原則の関係については、ヴィシュヴァジット祭の原則も天界という果報について述べている釈義(ラートリサットラ祭の場合と異なり実際には存在しない)を想定することによって、天界が果報だと考えられているのだ、とされるのである。従って、このラートリサットラ祭の原則に従えば、ブラフマンの知識の場合にも、儀軌中にはブラフマンを知ることの果報が述べられていなくても、「ブラフマンを知る者はブラフマンとな る。という釈義に基づいて、ブラフマンになることすなわち不死となることが果報であることになるのである。
562ピンダ・ピトリ供犠とは、新月の日の午後に行われる祖霊に対する供養であるが、これは従属祭ではなくて主要祭である。従って独自の果報をもつはずであるが、それが儀軌はおろか釈義にも述べられていない。従ってこの場合には、先のヴィシュヴァジット祭の原則に従って、天界が果報であることになるのである。ただしここで「ヴィソユヴァジット祭の原則に従えば」となっていないのは、ヴィシュヴァジツト祭は、本来はサットラ祭を執行する決意をして開始した人がそれを継続できなかったときに行われる贖罪祭であって、天界が果報というわけではないからである。
563「ブラフマンは真実(実在)であり、知識であり、歓喜である。」という聖典句を、ブラフマンが永遠であることを示すものとして、すなわちブラフマンが無常であるという推論と矛盾する聖典句として挙げている。
(´・(ェ)・`)つ

685鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 00:11:25 ID:Jj0/owdk0

 反対主張に対する反論なのじゃ。
 何故附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 反対なのじゃ。
 アートマンの性質の附託されたものは、アートマン以外のものを確定するので、それよって、アートマンの知識が確定されることはないというのじゃ。
 このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのじゃ。

 儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 シャンカラはたとえば云々と述べているのというのじゃ。
 「柱に獣をつなぐ[べきである]」と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それが通常知られていないものとしてたとえるのじゃ。
 「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典から、浄化されて特定の形をした木がその柱であると理解されるのじゃ。

 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 その言葉は遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 う二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている

 遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく駆り立てられている人資格のある人、遂行する人が存在しなければならないので、駆り立てられている人の区別が述べられて いるのじゃ。

 「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても駆り立てられている特定の人が予期されるので、駆り立てられている特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのじゃ。
 天界を望む者が駆り立てられている人であると想定されることになるが、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」釈義は、天界という目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからなのじゃ。

 不死であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、ブラフマンを知ることで生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな いというのじや。
 何故ならば、聖典と矛盾するから゛というのじゃ。

686避難民のマジレスさん:2022/11/05(土) 02:23:14 ID:ZhLKcSFQ0
3.2.ダルマの考究とブラフマンの考究には違いがない および 先の理由(3)と理由(4)の説明  p380- 381 192左/229

  [反対主張に対る反論]考究の対象に違いがあると述べられていたではないか564。すなわち、祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 一方、ここ(知識部)では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのである。従って、ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報一[それには]遂行が必要である一とは違っているはずである。
   [反対主張]そういうふうにはなりえない。何故なら、遂行しなければなら ないこと(行為)を命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからである。すなわち、「実にアートマンは見られるべきである」 565「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」566「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」567「アートマンのみを世界として念想すべきである」568「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」569等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずる。その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、それ(ブラフマン=アートマン)の本性を教えるのに役立つのである。[すなわち]ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓 喜である云々570というように。さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば、解脱という果報一[それは]聖典からは知られるが、[通常の 手段では]知られないものである一が生ずるであろう、と[も教えるのである]。[だが]もし、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、遂行しなければならないこと(行為)を命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、[そこには]取捨という行為がありえないので、ウパニシャッドの諸聖典旬は、「大地は七州からなる」「かの王が行く」等の文章と同じように、無意味であることになろう。
  [反対主張に対する反論]事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の[文章の]場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されている。同じように、この[ウパニシャットの諸聖典句の]場合も、輪廻することのないアートマンという事物について語ることによって、[アートマンが]輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのであろう。
   [反対主張]もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が[取り去られる]ように、ブラフマンの本質について聞いただけで[自己を]輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのなら、あなたがた[反論者]の言う通り であろう。だが、[輪廻者であるとする錯誤が]取り去られることはない。何故なら、ブラフマンについて聞いた者にも、[それ]以前と同じように、楽し み・苦しみ等の輪廻者の属性が見られるからであり、また、「[アートマンは]聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきである」571と、[アートマンについて]聞いたのちに[それについて]思惟・瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるからである。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であるのは、[ブラフマンが、それについて]知ることを命ずる儀軌の対象だかわらなのである、と認めるべきである。

脚注
564 本訳300頁参照。
565 566 567 568 569
570「云々」には、真実(実在)、知識等が含まれる。
571
(´・(ェ)・`)
(つづく)

687鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 23:11:54 ID:6HX6rPH60
 答えたのじゃ。
 考究の対象に違いがあると述べられていたというのじゃ。
 祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 知識部では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報とは違っているはずなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 遂行しなければなら ないことを命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからそうではないというのじゃ。
 「実にアートマンは見られるべきである」
 「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」
 7「アートマンのみを世界として念想すべきである」
 8「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」
 等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずるじゃろう。
 その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、その本性を教えるのに役立つというのじゃ。

 ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓喜である云々というようにのう。
 アートマンを念想すれば、解脱という果報が生ずるであろうと。

 もしウパニシャッドの諸聖典句が、遂行しなければならないことを命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されているのじゃ。
 同じように、この場合も輪廻することのないアートマンという事物について語ることによってアートマンが輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのじゃ。

 反対なのじや。
 もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が取り去られるように、ブラフマンの本質について聞いただけで自己を輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのならその通りなのじゃ。
 しかしそれで輪廻者であるとする錯誤が取り去られることはないじゃろう。
 ブラフマンについて聞いた者にも、以前と同じように、楽しみや苦しみ等の輪廻者の属性が見られるのじゃ。
 さらにアートマンは聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきであると、聞いたのちに思惟や瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるのじゃ。
 聖典がブラフマンの認識根拠であるのは、ブラフマンが、それについて知ることを命ずる儀軌の対象だからと認めるべきだというのじゃ。

688避難民のマジレスさん:2022/11/06(日) 01:15:59 ID:mFE37tps0
(つづき)   p381-382
  先に述べられていたように、ダルマの知識とブラフマンの知識は異なるので、[ブラフ マンの知識は]儀軌の対象ではない、という反論を[反論者が次のように]提示してい るのである。[考究の対象に違いがあると述べられていたではないか]云々と。[それを反対主張者が次のように]退けている。そういうふうにはなりえないのである云々と。
  [反対主張]さて、アートマンを直接見ること(darśana)は、儀軌によって命じら れるようなものではない。というのは、[直接見ることという語の語根である]/drśが 知覚を表しているので、それ(直接見ること)とは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかだろうからである。さらに直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかであろう。これらのうち[まず]、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(聴聞)は、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからである。また、一 般に経験されているような直接知覚(すなわち「私」という観念)も、[儀軌によって 命じられるようなものではない。というのは、それ(「私」という観念)は生得のものだからである。さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(このような明析さ)は、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生ずるるものだからである。[それは]ちょうど、[クリームを作るために、牛乳にヨーグルトを入れると、副産物として乳漿[が生ずる]ようなものなのである572。従って、ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という 命令の執行者に対して、命じられていることになる。一方、「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのである。まさに以上のことが、[『註解』本文中では]、さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば 云々と述べられているのである。
  なお「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には]意味があり、思惟等[を命ずる文章が]認められるので」573ということに関して、[『註解』本文中に見られる]わその他の説明については自明である。

脚注
572「熱いミルクにヨーグルトを入れ、[生じた]凝乳は神々ヴィシュヴァデー ヴァたちに、乳漿は神々ヴァージンたちに捧げるべきである」という聖典の文章の解釈をめぐって、熱いミルクにヨーグルトを入れる目的は、凝乳を生ずることなのか、それとも乳漿を生ずることなのかということが問題となっており、結論としては、目的は凝乳を生ずることであり、乳漿は副産物として生ずるのだとされている。
573 本訳374頁24行以下参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

689鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/07(月) 00:12:29 ID:EJMTWIUA0
 反対なのじゃ。
 アートマンを直接見ることは、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 直接見ることという語の語根が知覚を表しているので、それは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかじゃろう。
 直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかじゃろう。

 これらのうちまず、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではないのじゃ。
 それは、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからなのじゃ。

 一般に経験されているような直接知覚、すなわち「私」という観念も、儀軌によって 命じられるようなものではないのじゃ。
 「私」という観念は生得のものだからだというのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 このような明析さは、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生じるものだからなのじゃ。

 ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という命令の執行者に対して、命じられていることになるのじゃ。
 「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのじゃ。

690避難民のマジレスさん:2022/11/07(月) 04:28:31 ID:br8FubL20
4.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではないという答論  193左/229
4.1.祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なる ーーーブラフマンの知識の果報は解脱であるーー p382-385

   [答論]これ(以上の反対主張)に対して答えて言う。そうではない。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからである。
  天啓聖典と聖伝書から知られる身体的・言語的・心的行為がダルマと呼ば れ、その(ダルマ)を対象とする考究が、「さて、この故に、ダルマの考究が [開始されるべきである]」574と、スートラに述べられていたのである。また、 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、[それを]捨て去るために考究の対象となるのである。そして、これらダルマと非ダ ルマーー[それらはともに]教令によって規定されているが、[一方は]好ま しい事柄であり、[他方は]好ましくない事柄である一ーの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られてい る。また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いている575。従って、その(楽しみの)原因であるダルマにも、程度の差があると理解される。さらに、ダルマに程度の差があれば、[ダルマを遂行する]資格をもつ人にも程度の差があることになる。そして、[ダルマを遂行する]資格をもつ人の程度の差が、[その人の果報への]欲求や能力[の差]によることは周知の事実である。
  また、供犠(yāga)の執行者たちの場合には、[その]知識と三味が優れているので、北道を通って行き、単に儀式(ista. stの下に・)、慈善(apūrta)、布施を行ったにすぎない場合には、煙となって云々という順序で南道を通って行くのであるが576、その場合にも同じように、楽しみやそれ[を得る]手段に程度の差 があることが、「[行為の果報が]尽きるまで[そこに]留まって」577という 聖典句から理解される。同様に、人間から地獄や草木に至るまで、[その]わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、[その]程度に差があると理解される。また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その(苦しみの)原因である非ダルマーー[それは]禁止を命ずる教令によって規定されているー一およびそれ(非ダルマ)の遂行者にも、程度の差があると理解される。このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのである。
  同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」578と、先に述べた輪廻の性質に再び言及(anuvāda)している。[次に]「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」579と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であるということは、否定されているのだと理解される。というのは、[解脱すなわち身体のない状態が]ダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからである。

脚注
574 575 576 577 578 579
(´・(ェ)・`)
(つづく)

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 00:24:25 ID:z.9F0lN20
答えたのじゃ。
 祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるから、それらの主張は間違いだというのじゃ。
 天啓聖典と聖伝書から知られる身体的、言語的、心的行為がダルマと呼ばれ、ダルマを対象とする考究が、「さて、この故にダルマの考究が [開始されるべきである]」と、スートラに述べられていたのじゃ。
 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、捨て去るために考究の対象となるのじゃ。

 これらダルマと非ダ ルマの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られているのじゃ。
 また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いているのじゃ。
 そうであるからその楽しみの原因であるダルマにも、程度の差があると理解されるじゃろう。
 さらに、ダルマに程度の差があれば、ダルマを遂行する資格をもつ人にも程度の差があることになるのじゃ。
 そして、ダルマを遂行する資格をもつ人の程度の差が、欲求や能力によることは周知の事実であるのじゃ。

 同様に人間から地獄や草木に至るまで、わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、程度に差があると理解されるじゃろう。
 また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その苦しみの原因である非ダルマとその遂行者にも、程度の差があると理解されるのじゃ。
 このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのじゃ。

 同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」と、先に述べた輪廻の性質に再び言及しているのじゃ。
 次に「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であることは否定されているのじゃ。
 解脱すなわち身体のない状態がダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからなのじゃ。

692避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 00:34:21 ID:fXYFUQkc0
(つづき)   p384-385
   [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

  以上の一部の[先師たちの]見解を、[師シャンカラは次のように]批判している。 これ(以上の反対主張)に対して答えて言うと。一部の[先師たちの]見解は[正しく]ない。何故か。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからで ある。すなわち、善業と悪業の果報は[それぞれ]楽しみと苦しみである。このうち楽 しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、[その]程度がますます高まってゆく。同じように苦しみにも、人間の世界から[地獄の]アーヴィーチィ界に至るまで程度に差がある。そしてこれら(楽しみと苦しみ)すべては、生み出されたものであって滅してゆくものである。一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非 身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではない。実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのである。
  その趣旨は以下の通りである。すなわち、ウパニシャッドの諸聖典句が念想を命ずる儀軌に従属していると認めているあなた[反対主張者]ですら、個人存在の本質が本来的にブラフマンーー[それは]永遠で清浄で悟っている等を本質としているーーであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めている。だがそれ(個人存在の本質がブラフマンであるということ)は、念想を対象とする儀軌の果報ではない。何故なら、[個人存在の本質がブラフマンであるということは]常にそうなので、[儀斬の命ずる念想によって]生み出されるようなものではないからである。また、無始の無明という覆いを取り除くことが[儀軌の果報であるということ]もない。何故なら、それ(無明の覆いを取り除くこと)は、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからである。また、明知が生ずることが[儀軌の果報であるということ] もない。というのは、それ(明知が生ずること)は、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからである583。

脚注
580 581 582
583この点に関しては、本訳284貢参照
(´・(ェ)・`)つ

693鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 22:39:55 ID:JQGnxcCQ0
 反対なのじゃ。
 身体のない状態こそがダルマの結果ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 違うというのじゃ。
 身体のない状態はアートマンにとって本来の状態だからなのじゃ。
 「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」
 「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」
 「実にこのプルシャは無執着である」
 等の天啓聖典句によって証明されているのじゃ。
 
 以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのじゃ。

 シャンカラは一部の先師による反対主張の見解は正しくないと批判しているのじゃ。
 何故ならば祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからなのじゃ。

 善業と悪業の果報は楽しみと苦しみであるのじゃ。
 このうち楽しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、その程度がますます高まってゆくじゃろう。
 同じように苦しみにも、人間の世界から地獄のアーヴィーチィ界に至るまで程度に差があるのじゃ。
 そしてこれら楽しみと苦しみすべては、生み出されたものであって滅してゆくものなのじゃ。

 一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではないのじゃ。
 実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのじゃ。

 反対主張者ですら個人存在の本質が本来的にブラフマンであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めているじゃろう。
 だが個人存在の本質がブラフマンであるということは、念想を対象とする儀軌の果報ではないのじゃ
 何故ならば個人存在の本質がブラフマンであるということは常にそうなので、儀斬の命ずる念想によって生み出されるようなものではないからなのじゃ。

 無始の無明という覆いを取り除くことが儀軌の果報であるということもないのじゃ。
 何故ならば明の覆いを取り除くことは、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからなのじゃ。

 明知が生ずることが儀軌の果報であるということ もないのじゃ。
 何故ならば明知が生ずることとは、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからなのじゃ。

694避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:49:57 ID:21ocOwHE0
4.1.1.新得力と念想と直証との関係 p385-387 194右/229

  [反対主張]念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、[明 知が生ずる際に]心の手助けをするのではないか。儀軌によって命じられたことを遂 行した結果生ずる果報が、[来世ばかりでなく]現世で生ずることも実際に経験されて いるではないか。たとえば、カーリーリー祭やチトラー条等を命ずる儀軌(niyoga)の 場合には、[前者の]果報は[現世でと]決まっており、[後者の]果報は[現世でとも 来世でとも]決まっていないのである584。
  [答論]そうではない。音楽理論について修練(upāsanā)することから生ずる潜在印象が、新得力を必要とすることなしに、シャドジャ等[の音階]585を直観的に知るのに力があるように、ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、[新得力を]必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に対して力があるのである。また同じように、念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人がそれ(新得力)を遂行すべきものだと理解している、などということはありえないのである。何故なら、Aを望んでBを遂行するという矛盾が生ずるからである。
  [反対主張]それ(不死性)を望む人は、[念想という]行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を[そうだと理解しているの]ではないのであろう。
   [答論]それは正しくない。それ(念想という行為)がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から586知られるので、儀軌が無意味となるからである。また [念想を命ずる儀軌は籾を]つくこと等を命ずる儀軌と同じではない。何故なら、それ (籾をつくことを命ずる儀軌)の場合には、制限新得力(niyamāpūrva)が[儀軌]以 外のものに基づいて理解されることはないからである587。さらにもし、[ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられていれ]ば、それ(不死性)を望む者に念想を行う資格があるということもあろうが、ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはない。一方、ヴイシュヴァジット祭の原則588に従って、天界[が念想の果報]だと想定すると、それ(天界)は、それより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになる。従って、 (1)ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、(2)無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる 一に基づいてのみ可能であり、(3)念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは[儀軌]以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」589というのは儀軌ではないのである。そうではなくて、それは儀軌に似たものにすぎないのである。[それは]たと えば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等[の聖典句]が、儀軌に似てはいるが儀軌ではない ようなものである590。以上が[『註解』本文の]趣旨なのである。
  [『註解』本文に]天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのであるとあった が、[師シャンカラは]、そのうち天啓聖典を、同じ趣旨で天啓聖典は云々と示している のである。[そして]論理を、以上のような理由で云々と述べているのである。すなわち、「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」 [という論理なのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

695避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:50:45 ID:21ocOwHE0
(つづき)
脚注
584カーリー祭とは、収穫が豊穣であるための雨乞いの儀式であり、その果報は現世において、すなわちこの祭式のほとんど直後に得られてしかるべきものである。一方、チトラー祭とは、家畜を得るために行われるもので、その果報がいつ得られるという点に関する決まりはない。家畜を得て繁栄するという果報は、現世において得られることもあれぱ、来世において実現されることもあるのである。
585脚注258参照。
586「別の方法」とは、肯定法と否定法であるとされている
587 制限新得力とは、制限儀軌に従って行われた祭式から生ずる果報 のことであるが、制限儀軌とは、次のようなものである。すなわち、「行為(祭式)が様々な手段によって達成しうる場合に、ある手段が確立されようとしているとき、それとは別のまだ確立されていない手段を確立させる儀軌」が制限儀軌なのである。たとえば、「穀粒を打っ[べきである]」という儀軌が制限儀軌である。穀粒を脱穀するという行為は、爪でむくとか穀粒を打つとか、様々な方法で達成しうる。この場合に、ある手段(すなわち爪でむくという手段)が採用されようとしているときに、それとは別のまだ確立(採用)されていない手段(すなわち穀粒を打つという手段)を確立させるのがこの儀軌なのである。この脱穀の場合に、爪でむいても打っても、脱穀されるという目に見える結果(果報)に変わりはないので、目に見えない果報(新得力)に違いがあることになる。すなわち、穀粒を打って脱穀すれば、爪でむくのとは異なって、目に見えない果報(新得力)が生ずるとされるのである。これが制限新得力であり、この制限新得力が生ずることは、この制限儀軌からしか知られないのである。
588 脚注561;562参照。
589
590 脚注517参照。
(´・(ェ)・`)つ

696鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/09(水) 22:43:46 ID:eBxtCfAg0
 反対なのじゃ。
 念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、心の手助けをするのではないかというのじゃ。
 儀軌によって命じられたことを遂行した結果生ずる果報が、現世で生ずることも実際に経験されて いるからのう。

 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、新得力を必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に力があるのじゃ。
 念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人が新得力を遂行すべきものだと理解しているということはありえないのじゃ。
 あるものを望んだのに、他のものが得られるという矛盾になるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 不死性を望む人は、念想という行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を遂行すべきものと理解しているのではないじゃろう。

 答えたのじゃ。
 念想という行為がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から知られるので、儀軌が無意味となるのじゃ。
 念想を命ずる儀軌は籾をつくこと等を命ずる儀軌と同じではないからのう。。
 何故なら籾をつくことを命ずる儀軌の場合には、制限新得力が儀軌以外のものに基づいて理解されることはないからだというのじゃ。
 
 ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはないのじゃ。。
 ヴイシュヴァジット祭の原則に従って、天界が念想の果報だと想定すると、天界はそれより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになるじゃろう。

 ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ることに基づいてのみ可能なのじゃ。、
 念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは儀軌以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」というのは儀軌ではないのじゃ。

 それは儀軌に似たものにすぎないのじゃ。
 ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等の聖典句が、儀軌に似てはいるが儀軌ではないようなものじゃ。
 以上が[『註解』本文の]趣旨なのじゃ。

 シャンカラは「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」[という論理を述べているのじゃ。

697避難民のマジレスさん:2022/11/09(水) 23:47:27 ID:eeZSdj9c0
4.2.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠なので行為に従 属しない p387 195右/229

  この(永遠なもの)のうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものであり、[それは]たとえば、世界は永遠であるとする論者にとっての地等[の元素]591や、サーンキヤ学派にとっての構成要素(guna)のように592、変異しつづけていても<同一のものである(tad evedam)>という認識が損なわれないもののことである。 しかし[解脱は]、最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく、 本性上自ら輝いている。それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、[過去・現在・未来の]三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が、解脱と呼ばれるのである。何故なら、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」593等の聖典句がああるからである。従って、それ(解脱)はまさにブラフマンであり、それ(ブラフマン)についてこの考究が開始されたわけだが、それ(ブラ フマン)がもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニ シャッドに]教示されており、さらに、その遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると、[解脱は]まさに無常であることになるであろう。そしてこのような場合には、解脱は、先に述べた祭式の 果報ーー[それは]程度の差が確立しており、無常であった一ーのうちの一種の優れたものであることになろう。だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているところなのである。従って、ブラフマンは、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニシャッドに] 教示されているのではない。

脚注
591ミーマーンサー学派等の見解である。
592純質(sattva)•激質(rajas)•翳質(えい質tamas)という世界を構成する三要素のことで、三要素か様々な比率で組み合わされることによって多様な世界か構成されているとされる。
593

4.2.1.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠である p388 196左/229

  実に他の者は、二種の永遠性について述べている。すなわち、変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることとである。このうち、[解脱が]永遠であると言う時には、それ(解脱)は変異しつつあるが永遠であるという[意味]ではないので、[師シャンカラは]この(永遠なものの)うち、あるものは云々と述べているのである。というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからである。詳論すれば次の通りである。すなわち、[ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば]、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかであろう。もし全体が変異するとすれば、その性質が損なわれずにはおかないことにる。またもし、一部が変異するのであれば、その[変異した]部分は、 それ(変異した部分以外の部分)とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかであ ろう。もし異なるとすれぱ、どうして、それ(ブラフマン=解脱)が変異することがあろうか。実にAが変異してもBは変異しないのである。何故なら、[もしAが変異すればBも変異するとすれば]、拡大適用という誤謬に陥るからである。またもし異ならなけれぱ、どうして全体が変異するといえようか。
(´・(ェ)・`)つ

698避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:42:45 ID:2xw.CApE0
>>694
ヴィシュヴァジット祭の原則
脚注561
・・・ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界をヴィシュヴァジット祭報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。

>>684

(´・(ェ)・`)b

699避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:47:59 ID:2xw.CApE0
>>698
訂正
ヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、
(´・(ェ)・`)b

700鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 00:02:57 ID:KTvQbUPE0
 この永遠なもののうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものだというのじゃ。
 たとえば世界は永遠であるとする論者にとっての地等や、サーンキヤ学派にとっての構成要素のように、変異しつづけていても同一のものという認識が損なわれないものなのじゃ。
 
  しかし解脱は最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく本性上自ら輝いているものじゃ。
 
 それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、過去現在未来の三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が解脱と呼ばれるのじゃ。
 何故ならば、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」等の聖典句がああるからなのじゃ。

 その解脱はまさにブラフマンであり、そのブラフマンについてこの考究が開始されたのじゃ。
 そのブラフマンがもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして教示されており、さらにその遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると解脱はまさに無常であることになるのじゃ。
 そしてこのような場合に解脱は、先に述べた祭式の果報のうちの一種の優れたものでしかないことになるのじゃ。
 だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているから違うのじゃ。
 従って、ブラフマンは遂行しなければならない行為に従属するものとしてウパニシャッドに 教示されているのではないのじゃ。


 他の者は、二種の永遠性について述べているのじゃ。
 変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることなのじゃ。
 このうち、解脱が永遠であると言う時には、その解脱は変異しつつあるが永遠であるのではないので、シャンカラはこのうち、あるものは云々と述べているのである。
 というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからなのじゃ。

 ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかになるじゃろう。
 もし全体が変異するとすれば、その性質が損なれるじゃろう。
 またもし、一部が変異するのであれば、その部分は、 他なの部分とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかじゃろう。
 もし異なるとすれぱ、それは変異しないのじゃ。
 実にAが変異してもBは変異しないのじゃ。
 何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからなのじゃ。
 またもし異ならないならば全体が変異することもないのじゃ。

701避難民のマジレスさん:2022/11/11(金) 01:51:14 ID:.FscfNds0
4.2.2.変異した部分と変異していない部分は異なっておりかつ異なっていないという反対主張 p388-389 196左/229

  [反対主張]それ(変異した部分と変異していない部分)は、異なっておりかつ異なっていないのである。詳論すれば次の通りである。すなわち、それ(両者)は、原因 を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっ ているのである。たとえば[金の]腕輪等は、金を本質とするという点では[原因である金と]異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では[原因である金と]異なるようなものである。
   [反対主張に対する反論]異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはない。
  [反対主張]それは正しくない。「矛盾する」というわれわれの認識は、いったいどこに存在するのであろうか。それは、認識根拠に反するようなところに存在するので ある594。一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で[正しいと認めるべきなのである]。[たとえば]「このイヤリングは金である」という同格関係に基づく認識には、[両者が]異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れて いる。詳論すれば次の通りである。すなわち[この場合]、両者が全く異ならないとすると、[「このイヤリングは金である」という文章は]同語反復であることになってしまう。一方、[両者が]完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関 係か成り立たないことになる。また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係(ādhāarāheyabhāva)の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係 (ekāśrayatva)の場合にも成り立たない。というのは、[ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について]、「鉢はナツメの実である」とは言わないし、また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからである。そしてまさに、この同格関係に基づく認識一[それは]否定されることがなく、疑問の余地がなく、すべての人が知っている一が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのである。このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているので、結果である世界は存在を本質とするという点では、[原因であ るブラフマンと]異ならないが、壼等の結果という姿では[原因と]異なるのである。 たとえば次のように言われている。「結果という姿では多様であるが、原因を本質とするという点では異ならない。たとえば、腕輪等の姿では異なるが、金を本質とすると いう点では異ならないのである」595と。

脚注
594
595 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

702鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 23:58:53 ID:qiL6aIhY0
 反対なのじゃ。
 変異した部分と変異していない部分は、異なっておりかつ異なっていないというのじゃ。
 それら両者は原因を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっていると言えるからなのじゃ。
 たとえば金の腕輪等は金を本質とするという点では原因である金と異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では異なるようなものじゃ。

 答えたのじゃ。
 異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはないのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 それは正しくないのじゃ。
 「矛盾する」というわれわれの認識はないというのじゃ。
 それは、認識根拠に反するようなところに存在するのじゃ。
 一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で正しいと認めるべきなのじゃ。
 たとえばこのイヤリングは金であるという同格関係に基づく認識には、両者が異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れているのじゃ。

 この場合、両者が全く異ならないとすると、このイヤリングは金であるという文章は同語反復であることになってしまうじゃろう。
 一方、両者が完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関係か成り立たないことになるのじゃ。
 また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係)の場合にも成り立たないのじゃ。

 というのは、ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について「鉢はナツメの実である」とは言わないのじゃ。
 また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからなのじゃ。
 この同格関係に基づく認識が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのじゃ。

 このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているのじゃ。
 結果である世界は存在を本質とするという点では、原因であるブラフマンと異ならないが、壼等の結果という姿では原因と異なるのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2022/11/12(土) 04:47:57 ID:O51dUIFk0
4.2.3.異なりかつ異ならないということはありえないので解脱は変異することなく永遠であるという答論 p389-391 196右/229

  [答論]以上の反対主張に対して次のように答える。もし、異なることが異ならないことと同じ場所に共存するとすれば、一体この異なることとは何なのか。もし互いに 存在しないということ(paraspārabhāva)であれば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのであろうか、それとも存在しないのであろうか。もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはない。もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはない。また、存在 と非存在が相反しないなどということもない。何故なら、共存することはありえない からである。あるいはもし、[共存することが]可能だとすると、異なることと異ならないこととが相反しないわけだから、腕輪と皿(vardhamānaka)596もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになる。さらに、[金の]腕輪が金と異ならないとすると、 [金の]腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じ ように、腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうであろう。何故なら、腕輪と金とが異ならないからである。とすれば、違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになろう。
  [反対主張][腕輪は]金であるという点では[イヤリング等と]異ならないが、腕輪であるという点では[異ならないわけでは]なく、その(腕輪であるという)点ではまさにイヤリングと異なるのである。
  [答論]もし[金の]腕輪が金と異ならないとすると、どうしてこれ(金の腕輪)が [金と同じように]イヤリング等に受け継がれることはないのか。またもし受け継がれ ないとすると、どうして[金の]腕輪が金と異ならないということになるのか。という のは、Xが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからである。ちょうど[花輪の]花が、[それを繋ぎとめる]糸とは異なるように597。そして、金であるという性質は、[腕輪やイヤリング等に]受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、「これはここにあるが、これはない」「これはこれとは[異なる]が、これはそうではない」「これは今あるが、これはそうではない」「これはこのようであるが、これは そうではない」等の区別が存在しないことになろう。何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。さらに[イヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、[だれも]そ のイヤリング等の区別を知りたいとは思わないであろう。何故なら、それら(イヤリング等)は金と異ならないうえに、それ(金)はすでに知られているからである。
   [反対主張][イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方では]イヤリング 等と金には違いが存在するので、[イヤリング等は]、金だと分かってもまだ知られてはいないのである。
   [答論][両者が]異ならないという面もあるのに、どうして[イヤリング等は、金だと分かっただけでは]すでに知られていることにはならないのか。それどころか、それら (イヤリング等)が知られることこそが、正しいはずなのである。何故なら、原因(金) が存在しない時に、結果(イヤリング等)が存在しないというのが原則(autsargika) であり、[ここでは]それ(結果が存在しないこと)は、原因が存在することによって否定されているからである598。そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになり、それ(イヤリ ング等)の考究および知識は無意味であることになろう。従って、Xが理解されている時にYが理解されていなければ、YはXとは異なるのである。たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるように。そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。

脚注
596
597 糸は花に受け継がれているが、それぞれの花は他の花に受け継がれない
598否定法による証明である
(´・(ェ)・`)
(つづく)

704鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 00:11:52 ID:Wm4lhuJQ0
答えたのじゃ。
 異なることが異ならないことは同じ場所に共存しないのじゃ。
 もし互いに 存在しないのならば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのか、それとも存在しないのかと問うのじゃ。
 もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはないのじゃ。
 存在しないということで同じなのじゃ。。
 もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはないじゃろう。
   
 また、存在と非存在が相反しないなどということもないのじゃ。
 何故ならば、それらが共存することはありえない からなのじゃ。
 もし、共存することが可能だとすると異なることと異ならないこととが相反しないから、腕輪と皿もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになるじゃろう。
 金の腕輪が金と異ならないとすると、金の腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じように腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうじゃろう。
 そうであるからそこには違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになるじゃろう。

 反対なのじゃ。
 腕輪は金であるという点ではイヤリング等と異ならないが、腕輪であるという点では異るというのじゃ。
  
 答えたのじゃ。
 もし金の腕輪が金と異ならないとすると、どうしてそれがが 金と同じようにイヤリング等に受け継がれないのかと問うのじゃ。
 またもし受け継がれ ないとすると、腕輪が金と異ならないということになるじゃろう。
 というのはXが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからなのじゃ。
 ちょうど花輪の花が、それを繋ぎとめる糸とは異なるようにのう。

 そして、金であるという性質は腕輪やイヤリング等に受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかないじゃろう。。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。
 またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、何の、どこに、いつ、どうやってという等の区別が存在しないことになるのじゃ。
 何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。
 さらにイヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、だれもそのイヤリング等の区別を知りたいとは思わないじゃろう。
 何故なら、それらのイヤリング等は金と異ならないうえに、金はすでに知られているからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方ではイヤリング等と金には違いが存在するので、それらは金だと分かってもまだ知られてはいないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 両者が異ならないという面があればイヤリング等は、金だと分かっただけですでに知られていることになるのじゃ。
 むしろイヤリング等が知られることこそが、正しいはずなのじゃ。
 何故ならば原因である金が存在しない時に、結果のイヤリング等が存在しないというのが原則であり、結果が存在しないことは、原因が存在することも否定されているのじゃ。
 そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになるのじゃ。
  
 たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるようにのう。
 そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていないのじゃ。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。

705避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:38:38 ID:fO1sW.K20
(つづき)    p391-392
   [反対主張]ではどうして、「イヤリングが金である」という同格関係があるのか。
  [答論]まず、基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないということは、すでに述べた通りである599。
  [反対主張]では、[金はイヤリング等に]受け継がれ、[腕輪等はイヤリング等に]受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのは、どのように[説明すればいいのか]。
   [答論]これらは、[両者が]異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たない、とすでに述べた通りである600。従って、異な ることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのであり、異なることに基づいて異ならないことが想定 されるのではない、と[考えるのが]正しいのである。すなわち、(1)異なることは異 なっているものに基づき、(2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいており、(3)同一のものがなけれぱ、[異なるものの]基体が存在しなくなるから、異なる ことが成り立たなくなり、(4)同一のものは異なることに基づかず、(5)「それはこれ ではない」という形の異なるという認識は、それと反対のもの(pratiyogin,すなわち 同一であること)601の認識に基づいており、(6)同一であるという認識はそれ以外の もの(すなわち異なるという認識)に基づかないので、異なること一[それは実在で あるとも非実在であるとも]表現し得ないものである一を想定するのは、異ならないこと(同一であること)に基づいているのである、というのが正しいのである602。同じ趣旨で、「粘土であるというのだけが正しいのである」603という天啓聖典句がある。従って、変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのは、そうではないのである。
  なお、虚空のようにという例は、他学派で604[永遠であると]認められているものである。というのは、われわれの見解では、それ(虚空)も結果なので永遠ではないからである。そしてここ(『註解』本文)で変異することなく永遠でありと言っている のは、[解脱が]実現すべき対象であることを退けているのである。また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを[退けているのである]。さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを[退けているのである]605。すなわち、穀粒の場合には、[水を]ふりかけることによって、浄化と呼ばれる部分(要素,amśa)が生ずるが606、ブラフマンの場合には、部分(avayava)がないので、すなわち要素(amśa)がないので、このような部分(要素)がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味である。[次に師シャンカラは、解脱が]人問の目的であることを[次のように]述べている。常に充足しておりと。充足[という語]によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているのである。というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからである。[さらに]楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、[師シャンカラは、解脱は]自ら輝いていると述べているのである。
  このように[師シャンカラは]、自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにして、[次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまう[ということを、次のように]述 べている。それ(ブラフマン)がもし云々と。さらに、[解脱が永遠であることは]聖 典によって否定されることはない。何故なら聖典は、これまで述べてきたような形で(すなわち解脱は永遠であると説いていると)理解し得るからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

706避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:39:20 ID:fO1sW.K20
(つづき)
脚注
599 本訳389頁参照。
600 本訳389頁19行以下参照。
601 602 603
604 たとえばヴァイシェーシ力学派等。
605 解脱が実現すべき対象、到達の対象、変化してできるもの、浄化されるべき対象という四種のものではないという点については本訳402頁以下参照のこと。
606 供犠において神に捧げる祭餅を穀粒から作る過程で、「穀粒に水をふりかける[べきである]」どいつ儀軌によって、穀粒に水をふりかけてから祭餅を作ることが規定されているが、水をふりかけなくても祭餅を作るのになんら支障はないので、この行為からは目に見える結果は生じないことになる。だが、ミーマーンサー学派によれば、ヴェーダのなかにはなんら無意味なことは述べられていないはずであるので、この「穀粒に水をふりかける[べきである]」というヴェーダの文章は、穀粒を浄化することによって、目 に見えない結果(果報)である新得力を生み出すのだとされるのである。なおこの場合には、穀粒に浄化と呼ばれる部分(要素)が生じたと考えられるわけであるが、ブラフマンには部分がないのでブラフマン が浄化されることはないのである。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 23:19:13 ID:l1uWjDFM0
 反対なのじゃ。
 どうしてイヤリングが金であるという同格関係があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 金はイヤリング等に受け継がれ、腕輪等はイヤリング等に受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのはなぜかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 これらは、両者が異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たないからというのじゃ。
 異なることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのじゃ。

 (1)異なることは異なっているものに基づいているのじゃ。
 (2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいているのじゃ。
 (3)同一のものがなけれぱ、異なるものの基体が存在しなくなるから、異なることが成り立たなくなるのじゃ。
 (4)同一のものは異なることに基づかないのじゃ。
 (5)形の異なるという認識は、それと反対のものの認識に基づいているのじゃ。
 (6)同一であるという認識はそれ以外のものすなわち異なるという認識に基づかないので、異なることを想定するのは、異ならないことに基づいているというのが正しいのじゃ。

 変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのはないのじゃ。

 虚空も結果なので永遠ではないのじゃ。
 そして本文で変異することなく永遠でありと言っている のは、解脱が実現すべき対象であることを退けているのじゃ。
 また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを退けているのじゃ。
 さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを退けているのじゃ。
 ブラフマンは、部分がない、すなわち要素がないので、このような部分がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味なのじゃ。

 
 シャンカラは、解脱が人問の目的であることを次のように述べているというのじゃ。
 常に充足しておりと。
 充足という語によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているというのじゃ。
 というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからなのじゃ。
 さらに楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、シャンカラは解脱は自ら輝いていると述べているのじゃ。

 シャンカラは自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにしているのじゃ。
 [次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまうということを、述べているのじゃ。
 さらに解脱が永遠であることは聖 典によって否定されることはないのじゃ。
 何故ならば聖典は、これまで述べてきたような形で、解脱は永遠であると説いていると理解し得るからなのじゃ。


 解脱は永遠であり、全てであり、分裂していないというのじゃ。
 それはもとからあるもののであり、修行とかで人間の心が変異したりしてできるものではないというのじゃな。
 解脱とは変異ではなく、心の回帰であるといえるのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2022/11/14(月) 05:16:49 ID:loidiCpM0
4.3.ブラフマンとアートマンとの同一性を知れば行為を介在する ことなく即座に解脱する
  p.393-394 198右

  さらに、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」607「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」608「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」609「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」610「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」611「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷い
があろうか。どんな悲しみがあろうか」612等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しており、[ブラフマンの知識と解脱との]中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているのである。同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」613という[聖典句も]、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為が[介在することを]妨げるものとして引用しておくこ とにする。[それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じである。
  さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」614「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」615「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」616等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのである。また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられた[次のような]スートラがある。すなわち、 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱(apavarga)が[生ずるのである]」617と。そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのである。

脚注
607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617
(´・(ェ)・`)
(つづく)

709鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 00:33:25 ID:H1q7SeVA0

 さらに、
 「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」
 「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」
 「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」
 「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」
 「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」
 「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷いがあろうか。どんな悲しみがあろうか」

 等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しているというのじゃ。
 ブラフマンの理解と解脱の中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているというのじゃ。

 つまりブラフマンは観てしまえば解脱は自然に起こるというのじゃな。
 ブラフマンを理解すれば、即解脱が起こるのじゃ。

 同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」
 という聖典句も、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為がないことを示しているのじゃ。
 それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じようにのう。

 さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」
 「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」
 「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」
 等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのじゃ。

 また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられたスートラがあるのじゃ。
 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのじゃ。
 そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのじゃ。

710避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 07:41:43 ID:sfCtiVOE0
(つづき) p394-395
  さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもの[なの]で、儀軌 に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあることを、[師シャ ンカラは、次のように]述べている。さらに「ブラフマンを知る者は...」云々と。ま た、明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことにのみよるのであり、それ自身で[解脱の手段であるのでは]ないし、新得力を生み出すことによってでもないのである。このことに関しても、[師シャンカラは、次のような]諸天啓聖典句を引用している。さらに「実に汝はわれらの父であり...」云々と。さらに同じ趣旨 のものとして、ただ単に諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラ618も存在することを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。 また同じ趣旨で師が著し云々と。ところで師とは、プラーナに次のように定義づけら れている。「聖典の意味を集成し、[弟子たちに]良い行い(ācāra)をさせ、自らも良い行いをする(ācarate)ので、師(ācārya)と言われるのである」619と。そして、このような師によって[次のような]スートラが著されたのである。「苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消 滅するので、解脱が[生ずるのである]」と。[ここに]述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するのである。[それは]ちょうど、粘液が消滅すれば、粘液によって生じた熱が消滅するようなものである。[すなわち]、生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのである。そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのである。そしてそれ(無明)は、 [無明と]対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識一[それは]悟りをもって終わる一によって、滅せられるのである。従って、解脱とは・無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知(念想)の結果でも、それ(明知=念想)によって生じた新得力の結果でもない。 これがこのスートラの意味なのである。[ただし}このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味あいでのみ紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているわけではない。すなわち、 このように他学派の師も認めているので、この趣旨(つまり真理の認識に基づいて誤っ た認識が取り除かれるということ)が、確実なものとなるというわけなのである。

脚注
618アクシャバーダとは、ガウタマことである。
619 出典不明。ここでは師という語を、良い行いをする。という語源から説明しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 22:59:55 ID:V/tVZ63I0
 さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもので、儀軌に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあるとシャンカラは述べているというのじゃ。
 また明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことのみによるのであるとシャンカラは述べているというのじゃ。

 諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラも存在することシャンカラは述べているというのじゃ。
 師とはプラーナに次のように定義づけら れているのじゃ。
 聖典の意味を集成し、弟子たちに良い行いをさせ、自らも良い行いをするので、師と言われるのである」と。

 このような師によって次のようなスートラが著されたのじゃ。
 苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのであると。
 述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するというのじゃ。

 生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのじゃ。
 そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのじゃ。
 そして無明は、対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識によって、滅せられるのじゃ。

 解脱とは無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知、念想の結果でも、それによって生じた新得力の結果でもないのじゃ。
 これがこのスートラの意味なのじゃ。
 このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味で紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているのではないのじゃ。。
 このように他学派の師も認めているので、この趣旨が確実なものとなるのじゃ。

 この他学派とはニヤーヤ学派だというのじゃ。
 観察によって認識主体などを見極めることで、悟りを目指す学派なのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 23:57:56 ID:5XJU9Nfk0
4.4.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものであるという反対主張 p395-396

  [反対主張]もし[ブラフマンと個人存在(アートマン)が同一であるという認識が すでに存在する事物を対象として]いれば、それは、多様性の現われという誤った認識 を滅するであろうし、また、儀軌の対象となることはないであろうが、[ブラフマンと 個人存在が]同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではな い。そうではなくて、[その認識は]想像上の同一視(sampad)等の性質のものなので ある。従って、[そのブラフマンと個人存在が同一であるという認識は]、儀軌以前に は成立しておらず、人間の欲求によって成立するはずなので、儀軌の対象となるであろう。
  たとえば[次の通りである]。心(manas)は、無限に変化するという点で、ヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い 浮かべる。そして、心という[思い浮かぺるための]基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想する。そうすることに よって、無限の世界を獲得するのである。それと同じように、個人存在は、精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思う。そして、個人存在という [同一視の]基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想狐そう することによって、不死性という果報を獲得するのである620。
  一方、附託の場合には、[附託の]基盤が主なので、[それを]附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのである。たとえば、「心をブラフマンとして念想すべきである」621とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」622というように。そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」623とされるのである。

脚注
620ブラフマンと個人存在は精神という性質が類似している。この類似性に基づいてブラフ マンが個人存在という基盤の上に想定される。そしてその想像上の同一視の基盤である個人存在を無視し て、ブラフマンだけが主に瞑想され、それによって不死性という果報が獲得されるのである。
621 622
623附託場合には、その基盤が主要なものであり、それが附託されたものの性質をもつものとして瞑想されるのである。たとえば、真珠母貝に銀が附託される場合に、附託の基盤は真珠母貝であり、それに銀が附託される。真珠母貝を銀だと誤認するとき、基盤である真珠母貝が銀の性質をもつものとして瞑想さ れているのである。従って、心をブラフマンとして念想する場合にも、ブラフマンの附託されている心が ブラフマンの性質をもつものとして瞑想(念想)されるのである。同じく、ブラフマンと個人存在の場合にも、ブラフマンの附託されている個人存在が、ブラフマンの性質を持つものとして瞑想されるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

713鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/17(木) 00:43:48 ID:NIaONxU60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではないというのじゃ。
 その認識は想像上で同一視しているだけというのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、儀軌以前には成立しておらず、人間の欲求によって成立するから儀軌の対象となると主張しているのじゃ。

 心は無限に変化するという点で、神々であるヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い浮かべるのじゃ。
 心という基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想するのじゃ。
 そうすることによって無限の世界を獲得するというのじゃ。
 
 つまりは神々を観想して一体化するサマーディの状態を実現するのじゃな。
 聖典に記されているのはその行だと言うのじゃ。

 それと同じように個人存在は精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思念するのじゃ。
 個人存在という基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想することによって、不死性という果報を獲得するのというのじゃ。

 一方、附託の場合には基盤が主なので、それを附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのじゃ。
 たとえば、
 「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」
 という聖典の文句のように。

 そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」と聖典の言葉通り遂行するというのじゃ。

714避難民のマジレスさん:2022/11/17(木) 01:57:01 ID:3atWFrfo0
(つづき)   p396-397
  また、特定の行為との結合に基づいて[異なるものが同一視されることがある]。たとえば、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」624「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」625という場合のように。実に、外界に存在する風の神は、火等を飲み込むのである。というのは、世界の最終的な帰滅のときには、それ(風の神)は火等を飲み込んで、滅ぼし、自らのなかに存在させるからである。たとえば、ドゥラヴィ ダ・アーチャーリアは[次のように]述べている。「[すべてを]滅ぼすから、また[すべてを]取り込んで自己のものとするから、風は[すべてを]飲み込む者なのである」 626と。そして、内的な生気も[すべてを]飲み込む者である。すなわち、それ(生気) は言葉等のすべてを飲み込んでしまうのである。というのは、死ぬときに、それ(生気)がすべての器官を取り込んで旅立って行くからである。ちょうど、このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように627、[身体等を]成長させる(brhana)という行為を媒介として個人存在(アートマン)をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すのである628。
  以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為で ある。何故なら、[それらの行為は]新得力を対象としている(生み出す)からである。 たとえば、讃歌(Stuta)や讃詞(śastra)のように629。だがアートマンは、行為に従属する供物(dravya)なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているのである。たとえば、ダルシャプールナマーサ祭の章に、「ギーが[祭主の]妻によって 見つめられる[ぺきである]」630と述べられているが、その章に含まれている見つめることは、ウパームシュ祭に従属するギーという供物を浄化するためのものなので、従属 祭として命じられているのである631。同じように、「アートマンは実に見られるべきである」632というような、アートマンー一[それは祭式の]執行者であるから祭式に従 属している一ーを見ることは、従属祭として命じられているのである。何故なら、「一 方、ある行為によって供物が生み出される(準備される)とき、その[行為]は、従属祭だと見なされるのである」633という原則があるからである。

脚注
624 625
626 出典不明。
627 十方とは四方と四椎と上下である。
628 風や生気が、飲み込むという行為と結び付いているから飲み込む者と呼ばれるように、個人存在は成長させる(brhana)という行為と結び付いているのでブラフマンと呼ばれるのである。なお、ブラフマン(brahman)という語が、/brh (増大する、成長する)という語源 から説明されることについては、脚注375参照のこと。
629 旋律をつけて神を(試→讃)えるのが讃歌であり、旋律をつけずに神を讃えるのが讃詞である。これらの讃歌や讃詞を唱えることが従属祭なのか主要祭なのかということが問題にされている。まず、反対主張によれば、讃歌や讃詞を唱えることは、(1)供犠という主 要なものと神(それは讃歌や讃詞に言及されている)という従属するものとの関係を明確にし、(2)神の性質を明らかにするという目に見える結果を生ずるから、従属祭であるとされる。それに対する答論は次 の通りである。(1)もし、讃歌や讃詞を唱えるという行為が、神の性質を明らかにするという目に見える 結果しか生じないのなら、ある儀軌が無意味になってしまうし、また(2)讃歌や讃詞は神を(教→讃)えているのであって、神の性質を明らかにしているのではないから、神の性質を明らかにすることが讃歌や讃詞を唱えるという行為の結果ではない。従って、讃歌や讃詞を唱えるという行為は、神の性質を明らかにするという目に見える結果以外のもの、すなわち、目に見えない結果である新得力を生ずるはずである。このように讃歌や讃詞を唱えるという行為は、新得力を生ずる主要な祭式なのでる。
630 天啓経には必ず、ダルシャプルナマーサ祭を扱っている章があり、この文章はその中にでてくるものである。
631 ダルシャプルナマーサ祭で、火の神アグニに祭餅を捧げたあと、プラジャーパティーあるいはアグニとソーマあるいは、ヴィシュヌに黙ってギーを捧げるウパームシュ祭というものが行われる。このギーを祭主の妻が見つめて浄化するわけであるが、このギーを見つめるという行為(祭式)はウパームシュ祭に
従属する行為(祭式)である。
632 633
(´・(ェ)・`)つ

715鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 00:00:14 ID:O5lFzwTw0
まだ反対が続くのじゃ。
 特定の行為との結合に基づいて異なるものが同一視されることがあるというのじゃ。
 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」と「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」という場合のようになのじゃ。

 このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように、成長させるという行為を媒介として個人存在をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すというのじゃ。
 
 以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為だというのじゃ。
 何故なら、それらの行為は新得力を対象としているからなのじゃ。

 アートマンは、行為に従属する供物なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているというのじゃ。
 「アートマンは実に見られるべきである」というようなアートマンを見ることは、従属祭として命じられているのじゃ。
 何故ならば「一 方、ある行為によって供物が生み出されるとき、その行為は、従属祭だと見なされるのである」という原則があるからなのじゃ。

716避難民のマジレスさん:2022/11/18(金) 00:20:01 ID:et44OVjI0
4.5.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものではないという答論   p397-398

  さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心(manas)は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」634というような、想像上の同一視ではない。また、「心をブラフマンとして念想すべきである」635とか「太陽がブラフマンであるというのが教えでである」636いう場合に、ブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質 のものでもない。また、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもない。さらにまた、ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもない。というのは、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」639「私はブラフマ ンである」640「このアートマンがブラフマンである」641等の聖典句中の諸語の趣旨の一致一[それらは]ブラフマンとアートマンとが同一であるとい う事実を専ら明らかにしている一が、損なわれることになるからである642。 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することになろう。さらに、 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」644等の、 [アートマンが]それ(ブラフマン)の状態となることを説く諸聖典句は、正 しく理解されないことになろう。従って、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということ はないのである。

脚注
634
635 脚注621参照。→参照先省略
636 脚注622参照。→参照先省略
637 脚注624参照。→参照先省略
638脚注625参照。→参照先省略
639 640 641
642これらの聖典の文章は、ブラフマンとアートマンとが実際に同一であることを説いている。従ってもし、ブラフマンとアートマンとの同一性が想像上の同一視等であって、実際には同一ではないとすると、これらの聖典の文章が損なわれることになるのである。
643 644
(´・(ェ)・`)
(つづく)

717鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 23:25:52 ID:LUCU52Jw0
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」というような、想像上の同一視ではないというのじゃ。
 
 また「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」いう場合にブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質のものでもないのじゃ。

 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもないのじゃ。
 
 ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもないのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」とか「私はブラフマンである」とか「このアートマンがブラフマンである」等の聖典句中の諸語の趣旨の一致が損なわれるからなのじゃ。
 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することに
 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」等の諸聖典句は、正しく理解されないことになるじゃろう。

 そうであるからブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということはないのじゃ。

718避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 06:15:54 ID:gVdKmW6k0
(つづき) p398-400 201左/229
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して次のように]答えている のである。さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は云々と。 何故か。というのは、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだ[と認めると]云々だからである。
  確かに、ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、そ れ(ダルシャプールナマーサ祭)に従属するギーを浄化するというのは正しい。だが、 「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな[祭式に関する]章にも述べら れていない。また[確かに]、「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者は[自己に ついての悪評を聞くことがない]」645という[聖典句]は、特定の章で述べられてはいなくても(anārbhyādhīta)646、ジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈(vākya)によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになる647。だが、アートマンの場合に はそれとは異なる。すなわち、もし[アートマンが祭式と一定の関係に]あれば、それ(アートマン)を見ることは、祭式に従属することになり、また祭式のためにアー トマンを浄化することにもなるだろうが、アートマンは祭式と一定の関係にはないのである。従って、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、儀軌ではあっ ても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず (viniyogabhańga)、また未知の果報を対象としている(生み出す)ので、主要祭なのである。従属祭ではないのである648。
  以上の批判は、広範囲に渡るものなので、[『註解』本文には]述べられておらず、[そこではただ]すべての立場に共通する批判が述べているだけであるが、その意味は明白 なので説明の必要はない。

脚注
645
646 儀軌には、特定の祭式にのみ関係する特定儀軌と特定の祭式のみにかかわらない一般的な儀軌である不特定儀軌があり、後者は基本祭すぺてにたいして適用される。ここで述べられている「バルナ材云々」という儀軌は不特定儀軌であり、特定の祭式について述べている章のなかにでてくるものではないのである。
647文内文脈とは、「近接した発声のことであり、近接した発声とは[行為によって]実現されることを示す第二格等(の格語尾)が[そこに]存在しなくても、実際上主従の関係にあるものを述べている二つの単語 が同時に発音することである」とされる。たとえば、この「バルナ材でできたジュフー祭杓」という場合には、(バルナ材でできた)という語も(祭杓)という語 もともに主格であるために、第二格は行為によって実現されるもの、すなわち行為に対して主となっているものをあらわし、他の諸格はそれぞれ行為に対して従となっているものをあらわすと解釈して、従属関係を決定する方法を用いることができない。しかしながら、ここでは、これらの語は近接して発音されており、また実際上主従の関係にあるものが、これらの語によって述べられている。従って、バルナ材製であることがジュフー祭杓に対して従属関係にあることが知られるのである。
648 「金を身につけるべきである」という儀軌は、特定の祭式と無関係に聖典に述べられている文章である。まず、反対主張によれば、この儀軌は次のような理由で、アグニホートラ祭の祭式に従属する祭式だとされている。(1)主要祭であるために必要な供物や神格が述べられていない。(2)この儀軌は、アードヴァリヤ(アドヴァリュウ祭官に所属する)•ヴェーダに述べられているので、この行為はおそらくアドヴァリュウ祭官が行うものと思われる。すなわちその行為は、主要な祭式のためのものなのである。また、金を身につけるのは、祭式のために行われるものである。以上の反対主張に対して答論者は、次のような理由で、この金を身につけるという祭式は主要祭であるとしている。すなわち、(1)この祭式から生ずる独立した果報(未知の果報)、すなわち敵の顔が青ざめるという果報が述べられている。 (2)この儀軌が他の祭式に従属することを示すような関係儀軌(脚注505参照)が存在しない。このように「金を身につけるべきである」 という儀軌の命ずる祭式は、主要祭であって従属祭ではないのである。同じように、「アートマンは見られるべきである」という場合にも、これを儀軌だと考えると、(1)独立した果報(未知の果報、たとえ ばアートマンを知ること)を生じ、(2)この行為が他の行為(祭式)に従属することを示す関係儀軌が存在しないので、この行為(祭式)は主要祭であって従属祭ではないのである。
(´・(ェ)・`)つ

719鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/19(土) 23:51:21 ID:nrj4ujyY0
 ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、ダルシャプールナマーサ祭に従属するギーを浄化するというのは正しいというのじゃ。。
 しかし「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな祭式に関する章にも述べられていないのじゃ。

 「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者」という聖典句は、特定の章で述べられてはいなくてもジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになるのじゃ。

 しかしアートマンの場合に はそれとは異なるのじゃ。
 アートマンは祭式と一定の関係にはないののじゃ。

 この「アートマンは実に見られるべきである」という聖典句は、儀軌ではあっても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず、また未知の果報を対象としているので、主要祭だというのじゃ。
 従属祭ではないというのじゃ。
 
 つまり他の祭式に従属するものではないということじゃな。

720避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 23:57:48 ID:KKmI94.E0
4.6.ブラフマンの知識は人間の行為に基づかないブラフマンは知るという行為の対象ではない p400-401 202左/229

  従って、ブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではない。では何に基づくのか。直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのである。このようなブラフマンおよびその(ブラフマンの)知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものの中に含めることはできない。また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもない。何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」649とあるように、[ブラフマンが]知るという行為の対象であることは否定されているからである。また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。また同じく[次の ような、ブラフマンが]念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もある。すなわち、まず、「言葉によって表現されないものであり、それに よって言葉が現れてくるところのものである」651と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであると知れ。人がこれ(ブラフマン) であると念想しているものはそうではない(ブラフマンではない)」652と[述べられているのである]。

  [反対主張]ブラフマンが対象でなければ、聖典は[ブラフマンを知る]典拠とはなりえないであろう653。
  [答論]そうではない。何故なら、聖典は、無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているからである。実に聖典は、「これである」というような形で、ブラフマンを対象として明らがにしようとするのではないのである。ではどうするのか。[聖典は]、内的なアートマンであるから 対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象・認識主体・認識等の区別を取り除くのである。このような趣旨で、次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らないのであ る。[またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」654「見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」655と。従って、無明に よって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのである。

  さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するので、[師シャンカラが次のように]述べているのである。[「ブラフマンは]知るという行為の対象[たがら、行為によって将来実現されるべきもののなかに含まれる」ということも]ないと。

脚注
649 650 651 652 653 654 655
(´・(ェ)・`)
(つづく)

721鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/20(日) 23:57:15 ID:tlS1c7L.0
 さらに答えが続くのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではないというのじゃ。
 直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのじゃ。

 このようなブラフマンおよびその知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものではないのじゃ。
 また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもないのじゃ。
 何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」とあるように、知るという行為の対象であることは聖典で否定されているからなのじゃ。
 また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。

 また同じくブラフマンが念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もあるのじゃ。
 「言葉によって表現されないものであり、それによって言葉が現れてくるところのものである」と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであるというのじゃ。 
 「人があれとかこれとかと念想しているものはブラフマンではない」とあるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ、聖典は典拠とはなりえないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているだけなのじゃ。
 聖典は知識としてブラフマンを把握させるものではないのじゃ。

 聖典は内的なアートマンであるから対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象や認識主体や認識等の区別を取り除くのじゃ。
 このような趣旨で、次のような聖典が存在しているのじゃ。
 [ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らない」
 [またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」
 [見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」等と。
 従って、無明によって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのじゃ。

 さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するじゃろう。
 シャンカラが次のように]述べているのじゃ。
 [[ブラフマンは]知るという行為の対象ということも]ないというのじゃ。

722避難民のマジレスさん:2022/11/21(月) 05:21:39 ID:Ch4YNbew0
(つづき)   p401-402
  [反対主張][ブラフマンが]対象でなければ云々。すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊(Vetāla)が現われてきたようなものである、という意味である。
   [答論]そうではない。何故か。何故なら、[聖典は]、無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからで脇実に、すべての文章は、事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのである。というのは、[言葉では]砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないからである。他の場合にもすぺて同様であると考えるべきである。従って、[聖典の言葉]以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合に、もし言葉というものがこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合には何をかいわんやである。
  だが[言葉が]、あまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか[物事を]明らかにするのは、この(ブラフマンの)場合にも同じである。すなわち、「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を覆う(認識する)とされるが、これは無明に基づいて成立しているのである。従ってこれ(「汝」という語の対象)は、[「汝はそれなり」とあるように]、rそれ」 という語の対象である内的なアートマンー[それは]対象ではなくて無関心な存在である一と同格関係にあるので、認識主体ではないから、それ(すなわち認識主体であるという性質)が止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのである。実に、料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないのである。たとえば[同じ趣旨で、次のような]まとめの偈(antaraŚloka)がある。「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。そのとき、『汝』という語は、それ(『それ』という語)と同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺて一すなわち行為者性等一を捨て去るのである」 656と。[そして師シャンカラは]、まさに同じ趣旨で、[次のような]諸聖典句を引用しているのである。このような趣旨で次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは] 知らないという人には...」云々と。[そして、次のように]ここの主題を結論づけている。従って、無明によって誤って想定された云々と。

脚注
656 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

723鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/21(月) 23:57:27 ID:3UgX9Yj20
 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ云々とは、すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊が現われてきたようなものというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからのじゃ。
 そうであるからすべての文章は事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのじゃ。

 言葉では砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないようなものじゃ。
 他の場合にもすぺて同様なのじゃ。
 聖典以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合でもこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合にはさらに困難なのじゃ。
 
 言葉があまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか物事を明らかにしようとするのは、このブラフマンの場合にも同じなのじゃ。
 「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を認識するとされるが、これは無明に基づいて成立しているのじゃ。
 従ってこの「汝」という語の対象は、[「汝はそれなり」とあるように]、それという語の対象である内的なアートマンと同格関係にあるので、認識主体ではないから、それが止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのじゃ。
 三種とは認識主体、認識、認識対象の三種じゃな。
 

 料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないようなものじゃ。

 次のような]まとめの偈があるというのじゃ。
 「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。
 そのとき、『汝』という語は、それと同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺてを捨て去るのである」 と。

724避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:44:59 ID:G.ekUBlI0
4.7.解脱は入間の行為に基づかない   p402-409 203左/229

4.7.1.解脱は生み出されるべきものでも変化してできるものでも到達すべきものでもない    p402-404

  だが 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合には、当然のことながら[解脱を]、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えている。また、[解脱を]変化してできるものだとする人の場合にも同様である。[しかし]これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまう。というのは、ヨーグルト等の変化してできるものや、壷等の生み出されるものが永遠でないことは、世の中で経験されているからである。
   [反対主張][解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないか。
   [答論]そうではない。何故なら[それは]、自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないからである。またたとえ、[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではない。何故なら、ブラフマンは、遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからである。それはちょうど、虚空の場合と同じなのである。

  [師シャンカラは]、だが、[解脱は生み出されるものであるとする]人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになる[と述べている]。[このうちまず]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのにそれ(新得力)を必要とする、という意味である。またこれら両者の見解によればとは、[解脱が]達成されるべきもの(生み出されるべきもの)であるという見解と、変化してできるものであるという見解のことである。すなわち仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる。だが他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになる。たとえば、牛乳がそれまでの状態を捨てて、別の状態を獲得する一すなわち変化してヨーグルトになる一ようなものである。これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになる。何故なら[解脱が]、ヨーグルトや壷等の、ように、行為によって実現されるものであることになるからである。
  [反対主張]「さて、この天を超えたところで輝いている光が云々」657という天啓聖
典旬によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別[のあること]が理解される。従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるのであろう。それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのである。
   [答論][このような解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら[行為によって実現されるのではないかという反対主張に対して、師シャンカラは]そうではない云々と答えているのである。すなわち人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのである。たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとする。そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのである。[このように人は、自己自身以外の手段一たとえば船一によって、変形した場 所一たとえば海岸近くの海一を去り、変形していない場所一たとえば沖一に到達するのである]。だが個人存在は、[海岸近くの海と沖のような違いのある場合とは異なり]、ブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのだろうか。というのは、到達は区別に基づいているからである。以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのである。
  また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ(個人存在)がブラフマンに到達することはない。何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからである。このことを[師シャンカラが、次のように]述べているのである。またたとえ[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしそも云々と。

脚注
657
(´・(ェ)・`)つ

725避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:45:58 ID:G.ekUBlI0
くま質問。
>仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる

↑これが、仏教の見解であり、従って、仏教は解脱、或は、ブラフマンを無常であるとしているのでありましょうか?
一切無常でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:03:03 ID:VbeGsvBM0

 それは間違いなのじゃ。
 以前に解説した大乗起信論の真生不二の段にも、
 心は実に動ぜず、と書いてあるのじゃ。
 動じないから無常ではないのじゃ。
 仏教をよくしらないだけなのじゃ。

727鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:33:48 ID:VbeGsvBM0
 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合、当然のことながら解脱を、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えているというのじゃ。
 解脱を変化してできるものだとする人の場合にも同様だというのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまうというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱=ブラフマンは到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうではなくブラフマンは自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないというのじゃ。
 たとえ、アートマンの本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではないというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからなのじゃ。
 それはちょうど、虚空の場合と同じなのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのと同じじゃな。
 
 シャンカラはだが解脱は生み出されるものであるとする人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになると述べているのじゃ。
 ]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのに新得力を必要とする、という意味であるなのじゃ。
 またこれら両者の見解によれば、とは、解脱が達成されるべきものや生み出されるべきものであるという見解と、変化してできるものであるという見解のことなのじゃ。

 仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張しているというのじゃ。
 そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張しているというのじゃ。。
 従って解脱は、 達成されるべきものであることになるというのじゃ。

 他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになるのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになるというのじゃ。
 何故ならば解脱が、ヨーグルトや壷等のように行為によって実現されるものであることになるからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 「天を超えたところで輝いている光が云々」という天啓聖典によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別が理解されるのじゃ。
 従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるじゃろう。
 それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのじや。
 たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとするのじゃ。
 そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのじゃ。
 
 だが個人存在はブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのかというのじゃ。
 なぜならば到達は区別に基づいているからなのじゃ。
 以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのじゃ。
 
 また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ個人存在がブラフマンに到達することはないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからなのじゃ。

728避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:23:59 ID:67Dnd.II0
>>726

↓この辺りでありますね。
ありがとうでありました。(´・(ェ)・`)つ
>>293
若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。
若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

>>339
謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故

所謂一切の境界は、唯心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心にして、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故に。

729避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:26:09 ID:67Dnd.II0
4.7.2.解脱は浄化されて生ずるものではない p404-405 204左/229

  [反対主張]解脱は浄化されて生ずるものなので、[人問の]努力に基づくのではないか。
  [答論]そうではない。実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えることによって[実現される]か、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くことによって[実現される]かのいずれかであろう。[だが解脱は]、まず第一に、すぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはない。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからである。さらに欠点を取り除くことによって [解脱が生ずる]ということもない。何故なら、解脱の本質は、常に清浄なブ ラフマンにほがならないさらである。
   [反対主張]解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのか。それはちょうど、磨くという行為によって鏡が清められたときに、輝きという特性が現われてくるようなものなのであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、アートマンが行為の基体であることはあ りえないからである。すなわち行為は、その基体に変化を及ぼすことなしには成立しない。そしてもし、アートマンが行為によって変化を被るとすると、アートマンは無常であるということになってしまう。[そしてその場合には]、「これ(アートマン)は変化しないと言われている」658等の聖典の文章が否定 されることになる。そしてそれは、望ましいことではない。従って、自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのである。一方、[アートマン]以 外のものに基づく行為の場合には、[アートマンはその行為の]対象ではない わけだがら、そ[の行為]によってアートマンが浄化されることはない。

脚注
658
(´・(ェ)・`)
(つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:50:10 ID:3K0VgoIU0
最質問であります。
>清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。
↑この点が間違いでありましょうか?

それとも、そもそも「刹那滅」を否定すること自体が、間違いなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 22:41:51 ID:bumgdxTA0
>>730 そうじゃ、清浄な認識は生じるのではないのじゃ。
 もともとあるものじゃ。
 
 それはブラフマンと同じなのじゃ。
 心が変質するのではなく、無明がなくなればもとの清浄な認識があるだけになるのじゃ。

732鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 23:46:55 ID:bumgdxTA0
 反対なのじゃ。
 ]解脱は浄化されて生ずるものなので、人問の努力に基づくのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えるか、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くかのいずれかで実現されるのじゃ。
 まず第一に、解脱はすぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからなのじゃ。

 さらに欠点を取り除くことによって 解脱が生ずるということもないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、常に清浄な欠点のないブラフマンにほがならないからなのじゃ。

 反対なのじゃ
 解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのかと聞いたのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンが行為の基体であることはありえないからだというのじゃ。
 行為とはその基体に変化を及ぼすことなしには成立しないのじゃ。
 そしてもしアートマンが行為によって変化するとすると、アートマンは無常であるということになってしまうじゃろう。
 「これ(アートマン)は変化しないと言われている」等の聖典の文章が否定 されることになるからありえないのじゃ。

 自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのじゃ。
 一方、アートマン以外のものに基づく行為の場合には、対象ではないからそれでアートマンが浄化されることはないのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 23:58:55 ID:AjT8MWTM0
(つづき) p405-406
  [次に師シャンカラは、解脱が]浄化の対象であるという見解を[次のように]退けている。そうではない云々と。実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合があ る。すなわち、(1)すぐれた特性を付け加えることによって[浄化が実現される]場合、たとえば、シトロンの花にラックの汁を振り掛け、そうすることで、その(シトロンの)花が浄化されてラックと同じ色の実をつけるような場合と、(2)欠点を取り除くことによって[浄化が実現される]場合、たとえば、汚れた鏡の表面を磨き粉で磨けば、浄化されて輝きがでてくるような場合である。このうちまず、すぐれた特性を付け加えることは、ブラフマンには不可能である。すなやち、この特性とは、ブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるものであるかのいずれかであろう。 もし(ブラフマンの)本性であれば、どうして付け加えることができようか。何故なら、それ(ブラフマンの本性)は、永遠不変だからである。一方、もし[ブラフマンとは]異なるとすれば、[そのブラフマンの特性が]後に生じたことになるから、[ブラフマンの特性である]解脱は、永遠不変ではないことになる、という誤謬に陥ることになる。また、[ブラフマンとその特性との]違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係が存在するわけではない。また、[両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けた通りある659。 [そして師シャンカラは]、以上のような考察をふまえたうえで、[次のように]述べている。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないからであると。[そしてさらに]第二の見解を、[次のように]批判している。 さらに欠点と取り除くことによって[解脱が生ずる]ということもないと。鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには[汚れが]存在しないので取り除くことはできない。何故なら、[ブラフマンの場合、汚れは]常に取り除かれているから一である。以上が[『註釈』のこの箇所の]意味なのである。
  [師シャンカラは次のような]反対主張を想定している。[解脱とは]、自己のアートマンの隠れた特性なのであって云々と。すなわち、解脱とは、ブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに、現われてくるのである。生みだされるようなことはないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、アートマン(個人存在)の場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのである。
  [このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではないと。 何故か。何故なら、[アートマンが]行為の基体であることはありえないからである。 すなわち、無明の基体は、ブラフマン(=アートマン)ではなくて個人存在なのである。だがそれ(無明)は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]660表現できないと言われるのである。従って、ブラフマンは常に清浄なのである。しかしながら、[師シャンカラは、ブラフマンの]汚れを認めたうえで、[ それが]行為によって浄化されるという見解を、[次のように]批判してゆくのである。 実に行為は、ブラフマンに内属していてブラフマンを浄化するか(ちょうど、磨くとい う行為は、磨き粉とは何度も接触したり離れたりするが、常に鏡の表面からは離れないように)、それとも、[ブラフマン]以外のものに内属していて[ブラフマンを浄化する]かのいずれかであろう。まず行為は、ブラフマン[に内属する]属性ではない。 何故なら、それ(行為)は、その基体を変化させる原因なので、ブラフマンは永遠不変 であるということが損なわれてしまうからである。一方、[行為の]基体が[ブラフマン]以外のものであれば、その[行為]がどうして[行為の基体]以外のもの(すなわ ちブラフマン)に役だったりしようか。何故なら、[その行為の]適用範囲が広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。というのは、鏡が磨かれたときに宝石がきれい になるなどということは経験されないからである。
  そしてそれは望ましいことではないというのは、それという語で[聖典の文章が]否 定されることを指しているのである。

脚注
659 本訳389頁以下参照。
660
(´・(ェ)・`)つ

734避難民のマジレスさん:2022/11/24(木) 07:57:54 ID:ktPHY.zc0
>>731
鬼和尚、いつもありがとうであります。

解脱、ブラフマンは、存在の背景にある永続するもの、ないしは、刹那滅の例外という事でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

735鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:05 ID:zRHViatc0
>>734 そうじゃ、刹那滅とは、衆生の持つ謬見の一つである永続する自分という観念を否定するための観念なのじゃ。
 それもまた謬見を取り除くための方法であり、観念の一つに過ぎないのじゃ。
 悟りを得れば捨てられるものなのじゃ。

736鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:35 ID:zRHViatc0
 シャンカラは解脱が]浄化の対象であるという見解を次のように退けているというのじゃ。。
 実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合がある筈じゃ。
 (1)すぐれた特性を付け加えることによる場合なのじゃ。、
 (2)欠点を取り除くことによる場合じゃ。

 先ず一つ目のすぐれた特性を付け加えることはブラフマンには不可能なのじゃ。
 この特性とはブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるもののいずれかじゃろう。
 もしブラフマンの本性であれば、付け加えることはできないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの本性は、永遠不変だからなのじゃ。

 一方、もし異なるとすれば、そのブラフマンの特性が後に生じたことになるから解脱は永遠不変ではないことになるという誤謬に陥るのじゃ。
 ブラフマンとその特性との違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係はないのじゃ。
 また両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けたのじゃ。
 シャンカラは以上のような考察をふまえたうえで解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないと言うのじゃ。

 そしてさらに第二の見解を次のように批判しているのじゃ。
 欠点と取り除くことによって解脱が生ずるということもないと言うのじゃ。。
 鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには汚れが存在しないので取り除くことはできないからなのじゃ。
 何故ならばブラフマンの汚れは常に取り除かれているのじゃ。
 以上が[『註釈』のこの箇所の]意味だというのじゃ。

 シャンカラは次のような反対主張を想定しているのじゃ。
 解脱とは自己のアートマンの隠れた特性なのであってブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに現われてくるのじゃ。
 生みだされるようなことはないのじゃ。
 アートマンの場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのじゃ。

 このような反対主張をシャンカラが次のように退けているのじゃ。
 アートマンが行為の基体であることはありえないのじゃ。
 無明の基体は、ブラフマン=アートマンではなく個人存在なのじゃ。
 だが無明は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]表現できないと言われるのじゃ。
 従ってブラフマンは常に清浄なのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 03:04:48 ID:u6sSneRk0
4.7.3.浄化されるのは身体等と結び付いたアートマンなのである一以上の理由で知識のみが解脱への道である p406-409 205左/229

  [反対主張]身体を基体とする行為一たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等一が、身体の主(アートマン)を浄化するのは、経験されているではないか。

  [答論]そうではない。何故なら[この場合には]、身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないからである。というのは、沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかだからである。従って、身体を基体とするという形でそれ(身体) と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのである。たとえば、身体に対する治療によって[身体を構成する]諸要素661の平衡状態が回復すると、それ (身体)と結び付いている者、すなわちそれ(身体)を[自己だと]思い込んでいる者に、健康という結果、つまり「私は健康である」という意識が生ずるが、それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのである。そしてその者は、まさに身体と結び付いているのである。何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者662によって、あらゆる行為が行われているからである。そしてまさにその者が、[以下の]真言にあるように、その[行為の]果報を享受するのである。「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」663「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」664と。また[以下の]二つの真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示している。「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」665「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」 666と。そして、[この]ブラフマンになることが、解脱なのである667。従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのである。
   [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解]以外には、話も、行為によって解脱に入る方法を示すことはできない。従って、知識という唯一[の道]以外には(すなわち行為によっては)、ほんのわずがでもここ(解脱)に入ることはできないのである。

脚注
661インド医学による身体を構成する要素。すなわち風(vāta)•胆汁(pitta)・痰(kapha)の三要ことで、これらが平衡状態にあるときが健康であるとされる。cf.矢野道雄,1988,pp12-13.
662これら三者が同一であるということに関しては、前田専学,1980a,p178参照のこと。
663 664 665 666
667本訳409頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

>>735
鬼和尚、ありがとうでありました。

738鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 23:46:39 ID:4FC5m1IE0
 反対なのじゃ。
 身体を基体とする行為、たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等が、身体の主のアートマンを浄化するのは、経験されているというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないから違うというのじゃ。

 ただ観念で浄化されたと思うだけで、アートマンは浄化されないのじゃ。

 沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかなのじゃ。
 従って身体を基体とするという形で身体 と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのじや。
 
 たとえば、身体に対する治療によって諸要素の平衡状態が回復すると、身体を自己と思い込んでいる者に、健康になったという意識が生ずるのじゃ。
 それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのじゃ。
 何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者によって、あらゆる行為が行われているからなのじゃ。
 そしてまさにその者が、以下の聖典の真言にあるように、その行為の果報を享受するのじゃ。

 「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」
 「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」と。

 また以下の二つの聖典の真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示しているのじゃ。

 「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」
 「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」  と。
 そして、ブラフマンになることが、解脱なのじゃ。
 従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのじゃ。

  [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解では話によっても、行為によって解脱に入る方法を示すことはできないのじゃ。
 従って、知識という唯一の道以外には、ほんのわずがでも解脱に入ることはできないのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 23:50:32 ID:5NILbnmo0
(つづき)   p408-409
  ここで[師シャンカラは、反対主張者の指摘する次のような]矛盾を提示する。身体を基体とする行為云々と。
  [そして、このような矛盾を次のように]退けている。そうではない。何故なら[この場合には]、身体と結び付いている云々と。ブラフマンは、無始であって[実在であるとも非実在であるとも]表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるのである。そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となる。従って、[ブラフマン=アートマンが]それら(身体等)と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの[属性]であるともされるのである。それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものなのである。従ってこの(アートマンの浄化の)場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっているもの(個人 存在)が浄化されるのであり、それ以外のもの(アートマン)が浄化されるのではない。それ故、矛盾は存在しないのである。しかしながら、本当のところは、行為も存在しないし浄化も存在しないのである668。ところで、[『註解』の]残りの箇所については、例も含めて、附託に関する註解のところですでに説明済みなので669、ここでは説明しない。
  「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を云々」という[箇所]で、ある者というのは「個人存在」のことである。そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことである。また、他の者は食べずにと[ある他の者と]は「最高のアートマン」のことである。そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのである。さらに[師シャンカラは]、ブラフマンの本性がなにものにも限定されない清浄なものであることを示すために、[次のような]二つの真言を引用している。「唯一の神であって云々」等と。[ここで]白く輝きというのは「光り輝く」ということである。傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということである。筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことである670。[そして最後に師シャンカラは、次のように]結論づけている。従って[解脱は]云々と。
   [反対主張][解脱は]、達成されるべき(生み出されるべき)対象等の四種に限られるわけではないであろう。そうではなくて、なにか第五の方法が存在していて、その 方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるのであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。 [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解]以外には云々と。これらの[四種の]方法以外の別の方法は存在していない。 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、[解脱が]行為の果報であるということは、[解脱がこれらの]四種 のもののうちのどれか一つであるということの中に含まれている(vyapata)わけだが、それ(これら四種のもの)は解脱から排除されている。[従って、解脱が行為の果報であるということをそのなかに]含んでいる(vyāpaka)(これら四種の)ものが認めら れないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのである671。
  [反対主張]では、解脱には672行為の余地が存在しないとすると、それ(行為)を目的として説かれた諸聖典やそれ(行為)を目的とする活動は、無意味であることになろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは]結論という形で、[次のように]答えているのである。従って、知識という唯一云々と。

脚注
668 身体等との同一性が附託されたアートマンに行為が附託されるのであり、その行為から浄化が生ずるのであり、行為も浄化も附託に基づいているので、本当のところは存在しないのである。
669 本訳260頁参照。
670 シャンカラ自身は、このウパニシャッドに対する註解のなかで、この箇所を粗大身を否定するものと解釈している。粗大身は人の死とともに消滅するが、微細身は消滅することなく来世において新たな粗大身を獲得するのである。
671ここでは、vyāptaを「含まれている」と、またvyāpakaを「含んでいる」と訳しておいたが、これらの正確な意味については、脚注14参照。
672
(´・(ェ)・`)つ

740鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/26(土) 22:54:04 ID:w87Rsang0
>>737 どういたしまして、またおいでなさい。

 シャンカラはブラフマンは、無始であって実在であるとも非実在であるとも表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるというのじゃ。
 そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となるのじゃ。
 そうであるからブラフマン=アートマンが身体等と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの属性であるという謬見も起こるのじゃ。
 それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものじゃ。

 従ってこの場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっている自我が浄化されるという観念があるだけであり、それ以外のアートマンが浄化されるのではないのじゃ。
 しかし本当は行為も存在せず、浄化も存在しないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。 

 聖典の「両者のうち、ある者は美味しいピッバラの実を云々」という所で、ある者というのは「個人存在」のことだというのじゃ。。
 そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことじゃ。
 他の者は食べずにという、ある他の者とは「最高のアートマン」のことじや。

 そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのじや。
 白く輝きというのは「光り輝く」ということであり 傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということじゃ。
 筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱は 達成されるべき、生み出されるべき対象等の四種に限られるわけではないというのじゃ。。
 なにか第五の方法が存在していて、その方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解以外にはないというのじゃ。

 これらの四種の方法以外の別の方法は存在していないのじゃ。
 およそ人が考える解脱の方法は、この四種に限られるというのじゃ。
 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのじゃ。

 なぜならば解脱が行為の果報であるということは、四種のもののうちのどれか一つによって得られるということになるじゃろう。
 しかしこれら四種のものは解脱から排除されているのじゃ。
 そうであるから排除されるものの中に含まれているこれら四種の見解が認められないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 では、解脱には行為の余地が存在しないとすると、解脱を目的として説かれた諸聖典や、解脱を目的とする活動は無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 このような反対主張に対して、シャンカラは結論という形で、理解という唯一の道で解脱は得られると示したのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2022/11/27(日) 06:21:14 ID:bfHYesdw0
4.8.知識は心的な行為ではない p409- 410 206右/229

  [反対主張]知識とは心的な行為ではないのか。
  [答論]そうではない。何故なら、[知識と行為は]本質的に異なっているからである。実に行為とは、事物の本質とは無関係に命じられるものであって、人間の心の努力に基づいている。たとえば、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げようと]手にしたとき、[ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきで ある」673等の場合がそうである。[このような]黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり することができる。何故なら、人間に基づいているからである。だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としている。従って 知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができ ないのである。それ(知識)は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかない。従って知識は、心的なものではあっても、[行為とは]本質的に大きくなっているのである。たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に[祭]火である」674「女性は実に[祭]人ある」675という場合、男性と女 姓とを火だと認識(瞑想)するのは心的なものである。そしてそ[の認識(瞑想)]は、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいている。だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかない。では何に基づくのか。直接知覚の対象である事物にのみ基づくのである。従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのである。認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解 すぺきなのである。

脚注
673 674 675
(´・(ェ)・`)
(つづく)

742鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/28(月) 00:01:57 ID:1H7AIWgk0
 反対なのじゃ。
 知識とは心的な行為ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為は本質的に異なっているから違うと言うのじゃ。
 実に行為とは事物の本質とは無関係に命じられるものであり、人間の心の努力に基づいているものじゃ。

 たとえば、「アドヴァリュウ祭官が神に供物を捧げようと手にしたとき、ホートリ祭官はヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきである」等の場合が行為なのじゃ。
 黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり、することができるから行為なのじゃ。
 何故なら、人間に基づいているからなのじゃ。

 だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としているものじゃ。
 従って知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができないのじゃ。

 知識は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかないものじゃ。
 従って知識は、心的なものではあっても、行為とは本質的に大きくなっているのものじゃ。

 たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に祭火である」「女性は実に祭人である」という聖典句の場合、男性と女姓とを火だと瞑想するのは心的なものじゃ。
 そしてそれは、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいているものじゃ。

 だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかないじゃろう。
 直接知覚の対象である事物にのみ基づくものじゃ。
 従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのじゃ。
 認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解すぺきなのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2022/11/28(月) 01:50:48 ID:u6sSneRk0
(つづき)  p410-411   
  [反対主張]心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのか。またどうして、その(知識)の果報である解脱が、達成されるべきもの(生み出されるべきもの)等のうちのどれか一つではないのか。このような反対主張を想定して、[師シャンカラは次のように]述べている。知識とは云々と。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けている。そうではないと。何故か。何故なら、[知識と行為とは]本質的に異なっているからである。そ の趣旨は次の通りである。知識が心的な行為であるというのはその通りなのだが、これ(知識という行為)はブラフマンに果報を生ずることができない。というのは、それ(ブラフマン)は、自ら輝いているので(つまり認識そのものなので)、認識行為の対象ではありえないからである。このことはすでに述べた通りである。
   [知識と行為との]このような本質的な違いを確定したのちに、さらに〔師シャン カラは、次のような]別の本質的な違いを述べている。実に行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものであって云々と。すなわち、たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在し、また、「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識(瞑想)が存在しているが、実にそれが行為なのである、というのが文の繋がりである。実に、神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」676というこの儀軌以前には生ずることはない。しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(語と意味との)関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば、「愛児よ。これ(宇宙)は[太初において]有のみ[であった]」で始まり 「汝はそれなり」で終わる章句から677、聖典の言葉という認識根拠のもつ力に基づいて生じてくるのである。それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものである。 実にこれ(壼の認識)は、もし[人間の欲求によって別のやり方で行ったりまた行わなかったりできれ]ば、この[壼の認識の]場合にも儀軌には意味があるであろうが、神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるもの なので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできない のである。また、念想も[念想が]開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではない。 何故なら、それら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので678、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからである。従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではない。なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、[その行為が事物の本質と]矛盾する場合もあれば事物の本質と矛盾しない場合もあるということである。[そのうち]前者の例が、神を瞑想するという行為の場合であって、この場合には[瞑想という行為は神という]事物の 本質と矛盾しない。また後者の例が、男性や女性を[祭]火だと認識(瞑想)する場合 である。このような違いがあるから、[『註解』には]例が二つ挙がっているので弧ある。また、[教令から生ずるのだから]まさに行為であって[人聞に基づいている]とある中のまさにという語は、事物に基づくことを排除しているのである。

脚注
676 677
678この点に関しては、本訳303頁および脚注325参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

744鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/29(火) 00:43:45 ID:38xWG5ck0
 反対なのじゃ。
 心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのかと聞いたのじゃ。。
 またどうして、その知識の果報である解脱が、達成されるべきものや生み出されるべきもの等のうちのどれか一つではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為とは本質的に異なっているからだというのじゃ。
 知識という行為ではブラフマンに果報を生ずることができないのじゃ。
 ブラフマンは、自ら輝いている、つまり認識主体であるから、認識行為の対象ではありえないからなのじゃ。

 アートマンは認識できない認識主体であると説かれているのじゃ。
 アートマンとブラフマンは一つであるから、ブラフマンも認識できない認識主体なのじゃ。
 それは主体であるから、知識の対象にはなり得ないのじゃ。
 対象ではないからそれを把握する行為もあり得ないのじゃ。

 行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものなのじゃ。
 たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在するのじゃ。
 「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識が存在しているが、実にそれが行為なのじゃ。

 神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」というこの儀軌以前には生ずることはないのじゃ。

 しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば生じるというのじゃ。
 それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものじゃ。
 壼の認識)は神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるものなので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできないのじゃ。

 念想も、それが開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではないのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからなのじゃ。

 従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではないのじゃ。
 なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、その行為が事物の本質と矛盾する場合もあれば、事物の本質と矛盾しない場合もあるのじゃ。
 前者の例が、神を瞑想するという行為の場合で、事物の本質と矛盾しないのじゃ。
 また後者の例が、男性や女性を火だと念想する場合なのじゃ。

 教令から生ずるのが行為であり、人聞に基づいているとある語は、事物に基づくことを排除しているのじゃ。

745避難民のマジレスさん:2022/11/29(火) 01:46:13 ID:FCj5jpwY0
4.9.以上の理由でブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではない p412-413 208左/229

  だとすれば、ありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかない。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾(liń等)が聖典で用いられていても679、それは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効である。それはちょうど、石などに 剃刀の刃等をあてたようなものなのである。何故なら、[この「すべきである」 等の意味の人称語尾は]取捨とは無縁な事物を対象としているからである。
  [反対主張]では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」680等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのか。
  [答論][人間の]自然な活動の対象さら[人を]引き離すために存在して いるのである。実に人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と[望んで]、外に向かって行動するものだが、 その場合には、究極的な人間の目的(解脱)を得ることはない。そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の[諸聖典句]が、このような究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果(身体)と手段(器官)の集合体681の自然な活動の対象から引き離して、[その心の]流れを682内的なアートマンに向けさせるのである。そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるのである。「このすべてがアー トマンなのである」683「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなっ たとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」684「このアートマンがブラフマンなのである」685等々と。
  さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 という[反対主張者の批判]686は、その通りなのだと[われわれの]認めるところである。何故なら「ブラフマンとアートマン[が同一であること]を悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからである。このような趣旨で、「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」687という天啓聖典句があり、また、「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」688いう聖伝書の句もあるのである。
  従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのである。

脚注
679 その例として、「アートマンを見るべきである」、「汝がブラフマンであると知れ」、「アートマンは見られるべきである」という文章を挙げている。
680 681 682 683 684 685
686本訳355頁参照。
687 688
(´・(ェ)・`)
(つづく)

746鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 00:34:31 ID:3r.9RLxg0
 そうであるからありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかないというのじゃ。
 たとえブラフマンに関して、「すべきである」等の意味の人称語尾等が聖典で用いられていてもそれは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効なのじゃ。
 この「すべきである」 等の意味の人称語尾は取捨とは無縁な事物を対象としているからなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 自然な活動の対象さら人を引き離すために存在しているというのじゃ。
 人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と、外に向かって行動するものであるから、それでは究極的な人間の目的である解脱を得ることはないのじゃ。
 そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の諸聖典句が、究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果と手段の集合体の自然な活動の対象から引き離して、心の流れを内的なアートマンに向けさせるのじゃ。
 そのために聖典句はあるというのじゃ。

 そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるの
 「このすべてがアー トマンなのである」
 「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなったとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」
 「このアートマンがブラフマンなのである」等々と。

 さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 というのはその通りなのじゃ。
 何故なら「ブラフマンとアートマンが一つと悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからだというのじゃ。

 このような趣旨で、
 「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」
 「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」という聖伝書の句もあるのじゃ。
 
 従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないというのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 06:07:59 ID:pRzFUgso0
(つづき)   p413-414
  [反対主張]「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」689等の儀軌が天啓聖典に述べられているが、[それらは]たわごとではない。何故なら、[それらの儀軌も他の儀軌と]同じように伝統によって受け継がれてきたものだからである。従って、この[アートマンの念想等を命ずる諸儀軌の]場合にも、[それらは]遂行するように命じられているもののために存在しているはずである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾が云々と。確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられている。だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではない690。何故なら、それ(遂行するように命じられているもの)が対象であれば、[「すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないので、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が]691妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからである。すなわち儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものである。そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものである。そして、 そんなふうにできる人(すなわち行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりできる人)が、行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り 立てられている人なのである。だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような(すなわち、行ったり、行わなかったり、 別なやり方で行ったりできるような)性質のものではない。従って、対象(すなわち、 行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすること)692とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vyāpaka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのである。それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、 [聖典中に]用いられていても、[このアートマン=ブラフマンの場合には、人を]行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのである。それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものなのである。

脚注
689 690 691 692
(´・(ェ)・`)
(つづく)

748鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 23:49:53 ID:0HHX.B5g0
 反対なのじゃ。
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」等の儀軌が天啓聖典に述べられているのは戯言ではないというのじゃ。
 何故ならばそれは伝統によって受け継がれてきたものだからというのじゃ。
 そうであるからこの場合も遂行するように命じられているもののために存在しているはずなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられているのじゃ。
 だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではないというのじゃ。
 
 それが対象であれば、すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないじゃ。
 そうであるから、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからなのじゃ。

 儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものじゃ。
 そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものじゃ。
 そんなふうにできる人が、行為者、資格のある人、駆り立てられている人なのじゃ。
 
 だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような性質のものではないのじゃ。
 従って、対象とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vy?・paka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのじゃ。
 それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、用いられていても人を行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのじゃ。
 それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものじゃ。

 ブラフマンは遂行の対象ではないから、聖典にそのように書かれていても、無効だと言うのじゃ。
 それはただ言葉の慣習として述べられているだけなのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 23:59:01 ID:2/E10Xqw0
(つづき)   p414-415
  命じられるはずのないものを対象としているからだというのは、次のような意味である。すなわち、[行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったり]できる人が、 行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り立てられている人である。だが、[行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりする]能力がない場合には、行為者という性質は存在しない。従って[その人は、行為の]資格のある人ではなく、それ故、[行わなわけれぱならないことへと]駆り立てられている人ではないのである693。
  [反対主張]もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、 では、一見儀軌のように見えるこれらの[「すべきである」等の意味の]聖典の言葉は、 なんのために存在しているのか。このような意味で[反対主張者が]、ではなんのために云々と尋ねているのである。すなわち、「[それらの一見儀軌のように見える聖典の言葉が]無意味であるのは理に合わない。何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからである694という意味である。
   [答論〕[このような反対主張に対する]答えが、[人間の]自然な以下なのである。確かに聞くこと(聴聞)等は、[「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章]以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのである695。だが[それは]、再言及(anuvāda)ではあっても無意味ではない。何故なら、優れた活動を生み出すからである。すなわち、詳しく論ず れば以下の通りである。あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができない。だが、アートマンについて聞くこと等[を命ずる]、儀軌に似た聖典の文章によって、[外界の]対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのである。このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味がある。従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのである。
  また、「アートマンの知識は[祭式等の]遂行に従属しないので、人問の目的ではない。696という反対主張があったが、それは正しくない。それ(アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが[祭式等の]遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではない。だから[師シャンカラが]さらに云々と述べているのである[そして]悩んだりしようかというのは、苦しんでいる身体につられて苦しんだりしようか、という意味である。〔なお・『註解』の]その他の箇所については、容易に理解されるのである。[そして最後に師シャンカ ラは、次のように]主題を結論づけている。従って[ブラフマンは、ブラフマンについて]知ることを命ずる[儀軌の対象だとはされないのである]と。

脚注
693『註解』本文では、儀軌が「命じられるはずのないもの(ブラフマン)を対象としている」と解したが、ここで『バーマティー』は、「[行わなければならないことへと]駆り立てられている人」の意味に取り、その人の行為の対象ではないという意味に解しているのである。
694 脚注500参照。
695 再言及(anuvāda)については脚注499を参照のこと。
696 本訳355頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

750鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/01(木) 23:12:29 ID:gkEggVEs0
 行為をできる人が、 行為者、資格のある人、駆り立てられている人た゜というのじゃ。
 行為を実行する能力がない場合には、行為者という性質は存在しないのじゃ。
 従ってその人は、行為の資格のある人ではなく、駆り立てられている人ではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、一見儀軌のように見えるこれらの聖典の言葉は、 なんのために存在しているのかと聞いたのじゃ。
 それらの聖典の言葉が無意味であるのは理に合わないのじゃ。
 何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聴聞等は、「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのじゃ。
 だが[それは]、再言及(anuv?・da)ではあっても無意味ではないのじゃ。
 何故なら、優れた活動を生み出すからなのじゃ。

 あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができないじゃろう。
 だが、アートマンについて聞くこと等を命ずる、儀軌に似た聖典の文章によって、外界の対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのじゃ。
 このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味があるのじゃ。
 従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのじや。

 アートマンの知識は遂行に従属しないので、人問の目的ではない、という反対主張があったが、それは正しくないのじゃ。
 アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではないのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは、ブラフマンについて知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのであると結論づけているのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2022/12/01(木) 23:54:03 ID:AEudjEh.0
5.ウパニシャッドはブラフマン:アートマンを教示する  p415- 209右/229

5.1.ウパニシャッドはすでに存在する事物(ブラフマン=アート マン)を教示する  p415-416

  またある人が言う。
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。

脚注
697この反対主張を、「真理の一部しか知らない論者」と解している。
698「生みだされるべきもの」等の四種のものとは、「生みだされるべきもの」、「変化してできるもの」、「到達すべきもの」、「浄化されて生ずるもの」のことである。なお詳しくは、本訳402頁以下参照。
699
(´・(ェ)・`)つ

752鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/02(金) 23:42:51 ID:Wh2ImBZQ0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダには活動を促したり停止させたりする儀軌、およびそれらに従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから間違いなのじゃ。
 何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであるのじゃ。
 ブラフマンは「生みだされるべきもの」等の四種のものとは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないのじゃ。
 
 このプルシャは、存在しないとか理解されないとかいうことはできないのじゃ。
 何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであるのじゃ。
 また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからなのじゃ。

 アートマンは全ての観念を否定することで実現するのじゃ。
 アートマン自体は認識できない認識主体であるから、否定はできないのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2022/12/03(土) 07:33:01 ID:8TA1s7920
5.1.1.言葉は行為と無関係にすでに存在する事物を表示しうる  p416-417

  [ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当するのだという]700主題を確実なものとしようとして、[ 師シャンカラは]、真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために[次のように]紹介している。またある人が言う云々と。[そして]そうではない云々と批判しているのである。
  その趣旨は以下の通りである。「遂行しなけれはならないものを認識する際には、活 動が徴標(lińga)であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が[徴標]である。このように、[すでに存在するものについて述べることには]目的(意味) があるのである。[また、すでに存在するもの=ブラフマンを教示する諸ウパニシャッドは、有益なことを教示しているから聖典なのである]701と。すなわち、実にもし、遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性一[それは]受け入れたり捨て去ったりできるものではない一を教示するためのものではないであろう。何故なら、語にそれ(すでに存在するブラフマン)[を表示する]能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それ(語にブラフマンを表示する能力があることに対する無理解)702を前提として、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの意味が理解されるからである。だがもし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合には、「諸ウパニシャッドがそれ(すでに存在するもの=ブラフマン)を教示するために存在するということは、[それらの文章の]前後関係を考察することによって理解されるのだ」ということを否定して、「[それら諸ウパニシャッドは]遂行しなけれはならないもののために存在するのだ」と想定することはできないだろう。何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからである。
  このうちまず、このような遂行する必要のないもの(すでに存在するもの)と[語と]の関係は、(1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、また、(2)それ(遂行する必要のないもの)の認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、[世間一般]で知ら れていないことになるであろう703。だが、(1)それ(遂行する必要のないもの)を表示する語の用法は、世間一般で認められないというわけではないのである。何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなくて、喜び[を生み出し]恐れを取り除くために、文章(語の繋がり)が用いられることは、世間一般にしばしば認められるから である。たとえばその例としては、「山のなかの王スーメル(須弥山)はインドラを 始めとする護方神の群の棲家であって、シッダ、ヴィディヤーダラ、ガンダルヴァ704、天女が周りを囲んでおり、ブラフマ界から下って来たマンダーキニー(ガンジス)河の 水の流れによって洗い清められた貴重からなる岩ででき、ナンダナ705などの庭園で戯れる宝石でできた鳥たちの美しい声で魅惑的でなのである」(喜びを生み出すための用法)とか、「これは蛇ではない。これは縄である」(恐れを取り除くための用法)等がある。また、(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することはできない」などということもない。何故なら、推論の理由である喜び等が[拍手に]生ずるからである。

脚注
700 701 702
703 以下の議論がプラバーカラ派の言語習得理論を前提としている。
704 ともに天界に住む神々に準ずる存在。
705ナンダナとは、天界にあるインドラ神の森で、そこにはpārijātaという木が生えているとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

754鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 00:14:46 ID:tmlAUPt60

 シャンカラは真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために紹介しているというのじゃ。
 それはウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当だという主題を確実なものとするためなのじゃ。

 遂行しなけれはならないものを認識する際には、活動が徴標であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が徴標であるというのじゃ。
 
 遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性を教示するためのものではないというのじゃ。
 何故なら、語にそれを表示する能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それを前提として、ヴェーダの意味が理解されるからなのしゃ。
 
 もし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合にはブラフマンを教示するために存在するということは、文前後関係を考察することによって理解されるということを否定して、ウパニシャッドは遂行しなけれはならないもののために存在することにはできないじゃろう。
 何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。

 つまりは以前の用語は誤りであり、ヴェーダの原典の意味を正しく解釈すればブラフマンを教示するために存在するとわかるというのじゃ。
 
 このうちまず、このような遂行する必要のないものと語との関係は、
 (1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、
 (2)それの認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、世間一般で知られていないことになるのじゃ。

 だが、(1)それを表示する語の用法は、世間一般で認められているのじゃ。
 何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなく、喜びを生み出し恐れを取り除くために、文章が用いられることは、世間一般にしばしば認められるからなのじゃ。
 
 そして(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することができるのじゃ。
 何故なら、推論の理由である喜び等が生ずるからなのじゃ。

755避難民のマジレスさん:2022/12/04(日) 02:59:47 ID:c7AEJwJA0
(つづき)   p417-418  
  詳しく論ずれば次の通りである。アーリヤ人の言葉の意味を知らないドラヴィダ人706が、都市へ行こうとして、幹線道路近くのデーヴダッタの家に泊まり、[そこで] 父親(デーヴァダッタ)にとって喜びの原因である息子の誕生を知り、使いの者と一緒 に、都市にいるデーヴァダヅタのもとへやって来る。そして、使いの者が赤ん坊の赤い足型のついた布(patavāsa)707をお祝にあげたのち、「あなたに息子さんがお生まれになって、これからますます繁栄されますように」と言うの聞くとすぐに、デーヴァダッタが、喜びのあまり皮膚の毛を逆立たせ、蓮の花のように目を輝かせ、満開の蓮の花のように満面微笑を浮かべているのを見て、彼に喜びが生じたのを推論する。そしてさらに、[使いの者の言葉]以前には存在していなかった喜びが、その(使いの者の)言葉を聞いた直後に存在するのは、それ(使いの者の言葉)が理由なのだということも〔推論するのである]。すなわちまず、この者(使いの者)が、喜びの理由となることを伝えなければ、喜びを生ずることはできないので、この者(使いの者)が喜びの理由となることを述べたのだと理解され(肯定法)、さらに、[それ]以外に喜ぶ理由が見当たらないので、息子が生まれたことがその理由であると理解される(否定法)から、まさにそれ(喜ぶ理由となること)を使いの者が述べたのだ、と確定するのである。そして、恐れや悲しみ等についても、同じように例を挙げることができるはずである。このように、すでに存在するものについて述べることには目的(意味)があるので、[世間の]用心深い人たちが[すでに存在するものに対して]言葉を使用することも成り立つのである。
  また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的[を実現する]原因なので、諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているわけであるから、聖典なのである、と確定するのである。従って、次のことが確定されたことになる。(主張)現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としている。(理由)何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからである。(実例)どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としている。たとえば、色形を対象とする目等のように。(適用)それら(現に論争の的となっている聖典の文章)もそうである。(結論)従ってそうである(現に論争の的となっている聖典の文章はすでに存在するものを対象としている)。

脚注
706
707「赤く染めた息子の足(方→型)のついた布」としているのに従った
(´・(ェ)・`)つ

756鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 23:59:06 ID:E187Oe2.0
すでに存在するものについて述べることには目的があるので、用心深い人たちがそれに言葉を使用することも成り立つというのじゃ。

 また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的を実現する原因なので諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているから聖典であると確定するというのじゃ。
 現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としているのじゃ。
 何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからなのじゃ。
 どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としているのじゃ。
 たとえば、色形を対象とする目等のように。
 それら現に論争の的となっている聖典の文章もそうであるというのじゃ。

757避難民のマジレスさん:2022/12/05(月) 00:10:56 ID:PMD8GnZc0
5.1.2.ウパニシャッドは行為と無関係にすでに存在する事物(ブラフマン=アートマ ン)を教示する  p419 211右/229

  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

脚注
708ウパニシャッド(upanisad )という語は、upa-ni/sadと分解され、upaは「近くに」の意味、niは「確定」の意味であり、最後にsadの後にkvip接尾辞(動詞を名詞化する接尾辞で語の形の上には現れない。)がついたものと説明されている。
709 自ら以外のものに従属する祭式すなわち従属祭。ミーマーンサー学派によれば、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分類されているが、「祭式用の杭を削る」という場合には、削ることによって杭が浄化されているのだから、この「祭式用の杭を削る」という祭式は、従属祭である。しかし、「小麦粉を捧げる[べきである]」という場合には、この段階ではまだ小麦粉は祭式に用いられていないので、すでに浄化されているということはないし、また火に捧げたあとで灰になって残(り→っ)ていないのだから、これから浄化されるということもな(い)。従って「小麦粉を捧げる[べきである]」と命じられているこの祭式は、「祭式用の杭を削る」という祭式とは異なり、従属祭ではなく主要祭なのである。従って、従属祭とは違って他の祭式に役立つということはないのである。なお「金を身につけるべきである」と命じられている祭式が主要祭であることに関しては、脚注648参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

758鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 00:10:18 ID:h8Py/qcM0
 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから反対意見は間違いだというのじゃ。
 「ウパニシャッド」という語は語源的には、「破壊する」という意味と「近くに」という意味の接頭辞と「確定」という意味の接頭辞がついているというのじゃ。
 それは本来ブラフマンの知識を意味しているというのじゃ。
 何故ならば不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからだというのじゃ。

 だがウパニシャッドの諸聖典句も、ブラフマンの知識の原因なので、ウパニシャッドと呼ばれるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのじゃ。
 
 シャンカラはプルシャを輪廻することのないものであり、「私」という観念の対象とは異なるとしているのじゃ。
 だからこそプルシャは、行為とは無縁であり、そのため四種のものとは本質的異なっているというのじゃ。

 四種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがないのじゃ。
 自ら以外のものに従属しないものは、すでに存在するものという性質があり、他の祭式には役に立たないのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/12/06(火) 00:37:21 ID:32hlEMW.0
(つづき)   p420-421
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないので、[語と]関係する(語によって表示される)とは[世間一般には]知られていない。従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえない。とすれば、どうして、ウパニシャッド[という文章]の対象でありえようか。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えているのである。何故なら、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』 [と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであると。アートマンは、[直接知覚の対象である]牛などとは異なり、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている(認識そのものである)ので、[それを覆う]あれこれの添性を滅してゆけば、[ブラフマンを]文章の対象として表現す ることが可能なのである。それはちょうど、腕輪、耳飾り等[の添性]を破壊すれば、 金[という輝けるもの]が[現れてくる]ようなものである。実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない(認識されない)ということはなく、また、 それ(自己認識=ブラフマン=アートマン)を限定している身体・器官等の集合体が[輝かない(認識されない)]ということもないのである。従って、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのである。
  [反対主張]添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。アートマンは、[その存在を否定するその者のアートマンなので]、否定することはできないからであると。実に輝きが、万物のアートマンなのである。何故なら、それ(アートマン)は現象世界という虚妄の基体だからである。基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのである。何故なら、縄(基体)が存在しないのに、縄を 蛇だとか水の流れだとか誤認(虚妄)するなどということは、これまで全く経験されたことがないからである。さらに、現象世界の認識はアートマンの輝き[が発する]光なのである。たとえば、天啓聖典に「その(アートマンの)光に基づいてすべてが輝き、 その(アートマンの)光がこのすぺてを輝かせる」712とあるように。だから、アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのである。従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質一[それはウパニシャッ ド]以外の認識根拠の対象ではなく、あらゆる添牲と無縁である一についての理解(悟り)は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのである。

脚注
710 脚注646参照。
711 本訳399頁参照。
712
(´・(ェ)・`)つ

760鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 22:56:47 ID:OLmpJp6.0
 反対なのじゃ。
 では何故、プルシャは自ら以外のものに従属することはないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 特定の祭式と無関係に学習される諸ウパニシャッドは、文章の前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだと分かるので、この箇所は、主にプルシャにのみ関係しているというのじゃ。
 プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのじゃ。
 以上のような性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるプルシャが、存在しないなどと言うことはできないというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 ブラフマンは、聖典以外の認識根拠の対象ではないので、語と関係する語によって表されると世間一般には知られていないのじゃ。
 従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえないのじゃ。
 とすれば、どうして、ウパニシャッドという文章の対象でありえるじゃろうかと、聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』と説かれ云々]」とあるように、天啓聖典中にアートマンという語が用いられているからそれもありえるのじゃ。
 アートマンは、牛などとは異なり、聖典以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている、認識そのものであるので、あれこれの添性を滅してゆけば、文章の対象として表現することが可能なのじゃ。
 腕輪、耳飾り等を破壊すれば、 金があるようなものじゃ。
 実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない、認識されないということはなく、また、 それを限定している身体・器官等の集合体が認識されないということもないのじゃ。

 まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのじゃ。

 つまり実体として言葉で表すことはできないが、そこへ辿り着く法として言葉に表すこともできるというのじゃ。


 反対なのじゃ。
 添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、否定することはできないからなのじゃ。
 実に輝きが、万物のアートマンなのじゃ。
 何故なら、アートマンは現象世界という虚妄の基体だからなのじゃ。
 基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのじゃ。

 とえば縄が存在しないのに、縄を蛇だとか水の流れだとか誤認することはないようにのう。
 現象世界の認識はアートマンの輝き、光なのじゃ。
 たとえば、天啓聖典に「その光に基づいてすべてが輝き、 その光がこのすぺてを輝かせる」とあるようにのう。
 
 アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのじゃ。
 従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質についての理解は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/12/07(水) 01:06:33 ID:3wstc7Bc0
5.2.ブラフマン=アートマンはウパニシャッドにおいてのみ認識される  p421- 423 212右/229

   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。

脚注
713 714 715
(´・(ェ)・`)
(つづく)

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 00:04:35 ID:ctNYYH960
 反対なのじゃ。
 アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンとは私という観念の観照者なので違うというのじゃ。
 その観照者とは、「私」という観念の対象である行為者とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 ヴェーダの儀軌部や論理に基づく教義からは誰も理解できないのじゃ。
 
 誰もそれを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできないのじゃ。
 さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆくのじゃ。

 プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはないものじゃ。
 また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在なのじゃ。
 だからこそプルシャは、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのじゃ。

 従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それは最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」とか、
 「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」というように、「ウパニシャッドに説かれている」
 という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明されているからと理解できるじゃろう。

 それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という主張は間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者だというのじゃ。
 何故なら、世間一般の人々や論者たちは、「私」という観念の対象に対してのみアートマンという語を用いているからなのじゃ。
 世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである筈だから、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることができるというのじゃ。

 インドでは一般的に輪廻するものがアートマンとされているのじゃ。
 

 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないから違うというのじゃ。
 何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからなのじゃ
 「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その なにものにも限定されない清浄な姿が観照者なのじゃ。
 それはウパニシャッド以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/12/08(木) 07:00:27 ID:bsNDPAaU0
(つづき)   p423-424
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。

脚注
716
717 本訳204頁参照。
718本訳204;265;369頁参照。
719 本訳335頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 23:17:18 ID:lBbJcM520
 また、アートマン儀軌に従属させることもできないものじゃ。
 アートマンは、それ以外のもののために存在するのではないからなのじゃ。
 それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのじゃ。

 聖典にも書いてあるのじゃ。
 「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」と。
 
 さらに万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマンであるからなのじゃ。
 本性は捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもないのじゃ。
 捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのじゃ。
 それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのじゃ。

 シャンカラはプルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと言っているのじゃ。
 実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な実在なのじゃ。
 
 啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。
 だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではないのじゃ。
 そして、究極的な実在が現象世界の資料因なのじゃ。
 
 縄という真理が変化してできた蛇という虚妄の質料因であるようなものじゃ。
 現象世界は実在であるとも非実在であるとも決定できないせいで、その本性が不安定で滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なので滅しないのじゃ。
 
 プルシャは、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。
 そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じ

 ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものはすべて、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのじゃ。
 プルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのであるからなのじゃ。
 そして、プルシャは無終なので、減することがないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャにも減することはあるじゃろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラプルシャは、滅する原因が存在しないから滅しないと言ったのじゃ。
 原因が千集まっても、あるものを別なものにすることはできないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャは、本質的に捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないのはその通りというのじゃ。
 だが、プルシャのある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるじゃろうと言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると言ったのじゃ。
 三種の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないからなのじゃ。

 さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それはアートマンの場合と同じように、諸原因によって別なものに変えることはできないのじゃ。
 属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのじゃ。

 シャンカラが変化する原因が存在しないといったのは、このような意味だというのじゃ。

765避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 01:35:20 ID:SDbF0agI0
6.ヴェーダの目的は行為(祭式)を教示することだけではない  214左/229

6.1.理由(1)現にウパニシャッドではすでに存在する事物(ブラフマン=アートマン)が教示されている  p424-426

  また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シァヴァラスヴアーミン)の[次のような言葉、すなわち]「実に祭式について教えることがそれ(ヴェーダ)の目的であると認められている」720が引用されていたが、それらは、祭式の考究に関係するものなので、儀軌と禁令を説く聖典(祭事部)の趣旨を述べているのだと解すべきである。またもし、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」721というこの[文章]を、絶対的なものだと認めると、[聖典が実際に]すでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになる、という理論的欠陥に陥ることになろう。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、[聖典が]すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在(すでに存在するもの)を教示しない理由は 存在しないであろう。何故なら、[聖典が]教示しているすでに存在するものは、行為(祭式)ではないからである。
   [反対主張]すでに存在するものは、行為(祭式)ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するのである。
   [答論]このような批判はあてはまらない用故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているからである。すなわち、確かに、それ(教示)の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのである。
  [反対主張][すでに存在する事物が聖典で]教示されているとして、それがお前にとって何の意味があるのか。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも(ca)[<行為を実現する手段としての事物>について教示することと]同じように、[意味(目的)がある]はずである。すなわち、それ(アートマン)を理解(悟る)ことによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられること、[それが]目的だとされるのである。このように、[すでに存在する事物についての教示は]、<行為を実現する手段としての事物>に関する教示に劣らず、意味(目的)があるのである。

  またある者[反対主張者]が、聖典を知る者の言葉を[自己の主張の]根拠として引 用していたが、それを[師シャンカラは次のように、反対主張者とは]別の形 で解釈している。また[先に]、聖典の趣旨を知る者(シャヴァラスヴァーミン)の[次のような言葉]が引用されていたが云々と。「それ(ヴェーダ)の目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」722と述べるべきところを、[そこでは]ダルマの考究が主題となっており、かつ、ダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているので ある。しかしながら、[この引用文が]、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはない。何故なら、ソーマシャルマンが主題となってい る箇所で、その(ソーマシャルマンの)美点を述べることは、ヴィシュヌシャルマンが 美点を備えていることを否定することにはならないからである。また、儀軌[を述べる]聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令[を述べる]聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、[儀軌と禁令の]両者はともに、祭式を教示するためのものなのである723。

脚注
720 本訳374頁参照。
721 本訳355頁参照。
722 ダルマが「教令によって規定されている好ましい事柄がダルマである」と定義されており、その注釈では、教令とはヴェーダにほかならないとされているが、ここの論議はこの箇所を前提としているのである。
723「禁令」以下の箇所は、「諸々の禁令は遂行すべきことを認識させるわけではないのにどうして祭式を教示するためのものであるのか」という反対主張に対する答えであるとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

766避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:44:00 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』ジャンカラの言及 1/4
>>471
内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょうど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。

>>489
[「天界を望む者はジュヨーティシュトーマ祭を執行すべきである」とい う、祭式を執行する]資格について[述べている]聖典は、天界を望む者が天 界と関係していなければ成り立たないということを暗に意味しているだけであって、 これ(天界を望む者)が輪廻の主体ではないということを[も暗に意味しているわけ では]ない。というのは、それ(輪廻の主体ではないという性質)は、[祭式を執行す る]資格と合わないからである172。また、ウパニシャッドの説くプルシャ(=アートマン)は、行為の主体でも経験の主体で(古をい✖️)もない[ので、祭式を執行する]資格と矛盾するからである。

>>491
ウパニシャッドの説くプルシャについての理解が、[祭式を執行する]資格と矛盾するというのは確かにその通りである。しかし、 それ(ウパニシャッドの説くプルシャについての理解)以前には、祭式[の執行を命ずる]諸儀軌は、自らに適した日常的活動を行うのであって、[それらが]未だ生じて いないブラフマンに関する知識によって妨げられることはありえないのである。

>>692
  [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

>>751
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

767避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:47:34 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 2/4
>>757⭕️
  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

>>759
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

768避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:48:52 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 3/4
>>761
   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

769避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 07:49:47 ID:WCE8/RIU0
『プルシャ』シャンカラの言及 4/4
>>763
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。
(´・(ェ)・`)b

770鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/09(金) 23:33:44 ID:DGDxIUq.0
 聖典の趣旨を知る者、シァヴァラスヴアーミンの「実に祭式について教えることがヴェーダの目的であると認められている」という言葉が引用されていたが、それらは祭式の考究に関係するものなのじゃ。
 それは儀軌と禁令を説く聖典の趣旨を述べているのだと解すべきなのじゃ。
 またもし、「聖典は行為)のためのものであるから、それを目的としない[諸聖典句]は無意味である」というこの文を、絶対的なものだと認めるとすでに存在するものについて教示しているのは無意味であることになるのじゃ。
 
 もし、活動を促したり停止させたりする儀軌およぴそれらに従属するものとは別に、すでに存在する事物をこれから実現しなけれはならないものとして教示しているとすると、 変異することのない永遠な存在を教示しない理由はないのじゃ。
 何故なら、聖典が教示しているすでに存在するものは、行為ではないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものは、行為ではないが、行為を実現する手段であるから、すでに存在するものについての教示は、行為のためにこそ存在するといのじゃ。

 答えたのじゃ。
 たとえ行為のためであるにせよ、行為を実現する力のある事物が、現に教示されているのじゃ。
 確かに、教示の目的は行為のためではあるが、たからといって、事物について教示していないことにはならないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物が聖典で教示されているとして、それが汝にとって何の意味があるのかと問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンという、まだ理解されていない事物について教示することにも同じように、意味があるはずなのじゃ。
 アートマンを理解することによって、輪廻の原因である誤った知識が滅せられることが目的なのじゃ。
 このようにすでに存在する事物についての教示は、行為を実現する手段としての事物に関する教示に劣らず、意味があるのじゃ。

 ある反対主張者が、聖典を知る者の言葉を反対の根拠として引用していたが、それをシャンカラは次のように、別の形で解釈しているというのじゃ。
 ヴェーダの目的は明白である。有意義な結果をもたらす好ましい事柄を教示するところにあるのである」と述べるべきところを、ダルマの考究が主題となっており、かつダルマとは祭式のことにほかならないので、「祭式を教示するところにあるのである」と述べられているのじゃ。
 この引用文が、すでに存在するブラフマンを教示するという ヴェーダの働きを妨げることはないのじゃ。
 あるものの美点が述べられることが、他のものの美点を否定することにはならないからなのじゃ。
 儀軌聖典句の対象は、儀軌によって命じられている祭式であり、禁令聖典句の対象は、禁令によって禁じられている祭式ではあるが、両者はともに祭式を教示するものというのじゃ。

771避難民のマジレスさん:2022/12/09(金) 23:44:50 ID:wgpj1qQI0
(つづき)   p426-427
  [反対主張]ところで、「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉がある。ここでもし、「ためのもの (意味、対象artha)」という語を言葉の対象(abhidheya)を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、[聖典の]言葉の対象ではないという意味で無意味であることになろう。何故なら、それらは行為(祭式)を言い表してはいないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えて いるのである。またもし、「聖典は...」云々と。
   [反対主張]行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのである。そして、実体や性質を表す[聖典中の]言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、[それらが行為(祭式)]に役立つ(目的とする)からなのであって、[実体や性質] 自身を表すためではないのである724。たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、[将来存在す るであろうもの、微細なものを教示するのである]」725と述べている。その意味は以下の通りである。すなわち教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それ(行わなければならないこと)に役立つすでに存在しているものをも理解させるので ある。
   [答論]これ(反対主張)に対して[師シャンカラは、次のように]答えている。[さらに]もし、活動を促したり停止させたりする儀軌[およびそれらの儀軌に従属するもの]とは別に726、[聖典が]すでに存在する[事物を]云々と。その趣旨は以下の通りである727。まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られているわけではない。このことについては、「[語は)すでに存在するものをも表示する」 ということを示そうとした人々によって、すでに明らかにされた通りである728。さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのである729。もしそうなら(語が固有の意味しか表さないとすれば)、文章の意味は認識されないことになるであろう。何故なら、[文章の語の意味が]それぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、[それらが]一つの文章を構成することは経験されなくなるからである。従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、[文章の意味という] 同一の目的をもった<語の意味>をも表示するからである。そしてこのようにして、一 つの文章の意味一 [それはその文章の意味を]構成する個々の[語の]意味によって限定されている一についての認識が成り立つのである。たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が[次のように]述べている。「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない。語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。それはちょうど、料理の際に薪の炎が[必要不可欠である]ようなものである」730と。従って、[語が固有の意味]以外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになる。とすれば、[語が]変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのである。
  [ところで]これから実現しなけれはならないものとはこれから行わなけれはならないことのことである。

脚注
724 725 726
727 以下の論議は、語には、(1)行わなけれはならないことと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、(2)語自身の意味を表示する能力があるのか、(3)行わなければならないこと以外のものと結び付いた語自身の意味を表示する能力があるのか、という問題に対す る解答であるとされている。
728 本訳416頁以下参照。
729
(´・(ェ)・`)
(つづく)

772鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/10(土) 23:28:05 ID:9N5aHE1w0
 反対なのじゃ。
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるから云々」という、 聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の言葉があるというのじゃ。
 ここでもし、「ためのもの」という語を言葉の対象を示すという意味に取れば、 その場合には、実体、性質、運動というすでに存在するものは、言葉の対象ではないという意味で無意味であることになるというのじゃ。
 何故なら、それらは行為を言い表してはいないからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはすでに否定しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 行為(祭式)のためのものというのは、行為(祭式)を言い表しているという意味ではなくて、行為(祭式)を目的とするという意味なのじゃ。
 そして、実体や性質を表す言葉が、すでに存在する実体や性質について述べているのは、それらが行為(祭式)に役立つからなのであって、自身を表すためではないのじゃ。
 たとえば、聖典を知る者(シァヴァラスヴアーミン)は、 「実に教令は、すでに存在するもの、現に存在しているもの、」と述べているのじゃ。
 教令は、行わなけれはならないことを理解させると同時に、それに役立つすでに存在しているものをも理解させるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず、「語は]、その固有の意味のなかでも、行わなけれはならないことに 役立つものだけに関係するのであって、それ以外の意味とは関係しない」と知られていないのじゃ。
 さらに語は、[他の語の意味と無関係に]語固有の意味だけを表しているのではないのじゃ。
 もしそうなら文章の意味は認識されないことになるじゃろう。
 何故なら、語の意味がそれぞれ独立した形で主要なものであれば、主要な意味とそれに従属する意味という関係が存在しないことになり、一つの文章を構成することは経験されなくなるからなのじゃ。
 
 従って、 諸語が固有の意味を表示しながらも一つの文章を構成するのは、同一の目的をもった語の意味をも表示するからなのじゃ。
 このようにして、一 つの文章の意味についての認識が成り立つのじゃ。

 たとえば、聖典の意味を知る者(クマーリラバッタ)が、
 「文字は直接に語の意味を明らかにするが、そんな無意味なことだけで終わるわけではない
 語の意味を明らか にすることは、それら(文字)が文章の意味を生み出すために機能する際に必要不可欠なのである。
 それはちょうど、料理の際に薪の炎のようなものである」と述べているのじゃ。

 従って、語が固有の意味]外の意味との関係を表示するだけで、文章の意味についての認識が成立するとすれば、語が行わなけれはならないことの関係を表示するという決まりは存在しないことになるのじゃ。
 とすれば、語が変異することなく 永遠なブラフマンの性質を表示するのも理論的欠陥とはならないのじゃ。

 これから実現しなけれはならないものとは、これから行わなけれはならないことのことなのじゃ。

773避難民のマジレスさん:2022/12/10(土) 23:53:15 ID:KkFqgyN60
(つづき)  p428-429
  [反対主張]これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが 教示されているとすれば、それはすでに存在するものではない。何故なら、これから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものにはかならないからである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。[何故なら、聖典の]教示している[すでに存在するものは、行為(祭式)では]ないからであると。その意味は[次の通り]である。まず[この]結合とは同一性のことではない。そうではなくて、これから行わなけれはならないことと[すでに存在するものとが]、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのである。ところが、それ(目的とその目的に役立つものという関係)を対象とする< これから生ずるもの> (bhāvārtha,活動)とすでに存在するものとは、行為と〈行為 に関係する要素> (kāraka)という[関係]にあるのである。従って、すでに存在するものは行為のために存在するのではない731のである。
  [反対主張][すでに存在するものは]行為(祭式)ではないが云々。従って、変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たない[ので]成り立たない、という意味である。
  [答論]このような批判はあてはまらない。何故なら、たとえ行為(祭式)のためであるにせよ云々。すなわち、すでに存在するものは、行為のために教示されるとすでに存在するものではなくなる、などということはない。そうではなくて、それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのである。また言葉は、 すでに存在するものを表示する力(śakti)があると確定しており、かつ、ある場合には固有の(行為とは無関係な)すでに存在するものを表示すると経験されていれば、やせてもかれても、行為を表示することを[人に]理解させるなどということは決してありえない。実に、[行為に]限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのである。そしてまた、現に存在しているものについての教示(たとえば森 の描写)は、存在という行為によって[のみ]限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのである。同様に、関係だけを以て終わる(表示する)[言葉]のなかには、行為(動詞)を表示していないものもあ る。たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうである。同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもある。たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうである。[このような場合に]質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではない。そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を[知りたいと思っているのである]。そして、質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのである。それが存在することを[答えるわけ]では決してない。何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからである。なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りである732。
  [反対主張]すでに存在するものが[聖典で]教示されているとして、[それが]お前にとって、すなわち教示者あるいは聞き手にとって何の意味(目的)があるのか[意味などないであろう]。だから、すでに存在するもののなかでも、意味のあるものだけが教示されるべきなのである。意味のないものがではない。だがブラフマンは、意味のないものである。何故なら、それは、無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので、役に立たないからである。以上が[『註解』中の反対主張の]趣旨である。
   [答論]アートマンという、まだ理解されていない[事物]について教示することも(Ca)、同じようである、すなわち意味(目的)があるはずである。[ここで用いられている]Caという語は、「もまた」という意味である。[『註解』のこの箇所の]趣旨は次の通りである。すなわち、ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識一つまり悟りを以て終わる明知一は、自己と対立するもの一つまり輪廻の根本原因である無明一を断ち切るので、意味(目的)があるのである。

脚注
731 行為に関係する要素については、脚注151参照のこと。
732 本訳416頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

774鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/11(日) 23:02:46 ID:4UdMzx4g0
 反対なのじゃ。
 これから実現しなけれはならないもののために、すでに存在するものが教示されているとすれば、それはすでに存在するものではないというのじゃ。
 何故ならばこれから実現しなければならないものと結合した姿をしているので、それもこれから実現しなけれはならないものであるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 まず結合とは同一性のことではないのじゃ。
 そうではなくて、これから行わなけれはならないことと、目的とその目的に役立つものという関係にあるということなのじゃ。

 それを対象とする< これから生ずるもの>とすでに存在するものとは、行為と行為 に関係する要素という[関係]にあるのじゃ。。
 すでに存在するものは行為のために存在するのではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 変異することなく永遠なブラフマンについての教示は、行為に役立たないから成り立たない、というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは、行為を実現する力を備えてはいるが、まさにすでに存在するものなのじゃ。
 また言葉は、 すでに存在するものを表示する力があると確定しているのじゃ
 かつ、ある場合には固有のすでに存在するものを表示すると経験されていれば、行為を表示することを理解させるなどということは決してありえないのじゃ。

 限定されたものを百回見ても、[行為に]限定されていないものをどこかで見たことがあれば、[それが]見たことのないものに変わるということはないのじゃ
 現に存在しているものについての教示は、存在という行為によって限定されており、行わなけれはならないことには役立たないが、世間一般にしばしば見られるのじゃ
 
 同様に、関係だけを以て終わる言葉のなかには、行為を表示していないものもあるじゃろう。
 たとえば、「この人はだれのものか」という質問に対する答え「王の」がそうじゃ。

 同様に、名詞語幹の意味のみを表示するものもあるじゃろう。
 たとえば、「木々はどのよう なものか」という質問に対する答え「実をつけたもの」がそうなのじゃ
 質問者は、人や木々の存在・非存在を知りたいと思っているわけではないじゃろう。
 そうではなくて、その人の特定の主人や木々の特定の様子を知りたいと思っているのじゃ

 質間者が期待していることを知っている人は、特定の主人や特定の様子だけを答えるのじゃ。
 それが存在することを[答えるわけ]では決してないじゃろう。
 何故なら、その人(質間者)が知りたいと思ってはいないからなのじゃ。
 なお、「語は、意味 (目的)のあるものであればすでに存在するものをも表示する」ということについては、 すでに明らかにした通りなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものが教示されているとして、教示者あるいは聞き手にとって何の意味があるのかと聞くのじゃ。
 ブラフマンは意味のないものというのじゃ。
 何故ならば、それは無関心な存在であって、あらゆる行為と無縁なので役に立たないからだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが無関心な存在ではあっても、それを対象とする言葉の認識は、自己と対立するものを断ち切るので、意味があるのじゃ。
 アートマンも同じなのじゃ。

775避難民のマジレスさん:2022/12/11(日) 23:56:43 ID:130rHkDU0
6.2.理由(2)ヴェーダの目的が行為(祭式)を教示することのみにあるとすると、活動の停止を教示するヴェーダの文章(禁令)が無意味であることになる   p429-431 216/229

  さらにまた、[ヴェーダには]「バラモンは殺すべきではない」(brahmano na hantavyah)等の活動の停止が教示されている。そしてそれ(活動の停 止)は、行為(祭式)ではない。また、行為(祭式)を実現する手段でもない。 もし、行為(祭式)を目的としない[ヴェーダ]の教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示する[ヴェーダの文章] は無意味であることになる。だがそれは望ましいことではない。
  [反対主張]否定詞nañは、[「殺す」という語根から]自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という、[行為に対して]無関心な状態[を表すの]ではなくて、[語根から自然には]知ら れない行為(すなわち殺すこと以外の行為)[を命ずる]ためのものだと考えることができるのである733。
  [答論]そうではない。この否定詞 nañの本来の性質は、否定詞nañと結び付いたものが存在しないことを認識させるところにある。そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのである。さらにそれ(存在しないという認識)は、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのである734。従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等735の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという、[積極的な行為に対して]無関心な状態こそが、その否定の意味 なのである、とわれわれは考えている。それ故、「[行為(祭式)を目的としな い諸聖典旬は]無意味である」という[『ミーマーンサー・スートラ』の]言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義(arthavada)736等に関するものだと理解すべきなのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

776避難民のマジレスさん:2022/12/12(月) 05:48:47 ID:C52H0cTM0
(つづき)
脚注
733「殺すべきではない」の意味の解釈に関して、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題が前提となっている。すなわち、否定詞の機能が定立否定にあるのか、それとも非定立否定にあるのかという問題である。そのうち、否定詞の機能は定立否定にあるというのが、ここの反対主張の趣旨であるが、その場合には、「殺すべきではない」という文章は次のように解釈されることになる。すなわち、否定詞は「殺すべきである」という語の語根の意味(殺すこと) と結びついてその意味を否定し、そうすることによって逆に、語根の意味以外の意味(殺すこと以外のこと)を定立するのだとされるのである。説明の都合上、語根の意味を表す(殺すこと)と接尾辞の意味を表す(「すべきである」)に分けて考えてみると、語根の意味と結びつくわけであるから、置き換えられることになるが、この際は (殺すこと)以外のこと(たとえば、叩くことや、あるいは『バーマティー』の例に従えば殺さないという決意等)を意味すると解釈されるのである。従って、叩くことや殺さないという決意等を行うことを命じていることになり、その結果「バラモンを殺すべきではない」という文章 は、前後の文脈に応じて「バラモンを叩くこと」とか「バラモンを殺さないという決意」などをを行うこと(すなわち行為)を命じているとされるのである。それに対して、否定詞nañの機能は非定立否定にあるというのが、答論の立場であるが、それによれば、「殺すべきでない」という文章は次のように解釈され ることになる。すなわち、否定詞nañは「殺すべきである」という語の接尾辞の意味(すべきである)と結びついてその意味を否定するのだとされるのである。先と同じように、置き換えると、naは接尾辞の意味を表す語と結びついて、行わないこと(行為の停止)を命じていると解釈されるのである。従って、「バラモンを殺すべきではない」 という文章は、定立否定による解釈とは異なり、なんら行為を命ずるものではなく、「バラモンを殺すことを行わないこと」すなわち「バラモンを殺すという行為の停止」を命じているとされるのである。
734この箇所は、nañと結びついたものすなわち活動が存在しないという認識が消滅したあとに、再び無関心な状態に行為が生じて来る余地があるのではないか」という反論に対するる答えであるとされる。すなわち、行為が存在しないという認識は、活動を完全に根絶やしにしたのち、自らも消え去っていくから、再び活動の生ずる余地はないということを言ついるのだとされているのである。
735プラジャーパティに対する誓いとは、学生期を終えた若者が家住期に入る際に、創造神プラジヤーパティに対して行う誓いで、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見るべきではない」等の内容の ものである。この場合には、誓いという積極的決意を示すものであるという性貢上、この「べきではない」 という否定を、積極的な活動を停止するという非定立否定の意味に解釈することは適当ではない。従って、 この文章中の否定は、定立否定の機能を持ち、「昇りつつある太陽あるいは沈みつつある太陽を見ないとい う決意」を間接的に表示しているのだと解釈すぺきであるとされるのである。
736釈義に関しては、脚注493;496参照。
(´・(ェ)・`)つ

777鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/12(月) 23:04:34 ID:ySja09TI0
 さらにまたヴェーダには「バラモンは殺すべきではない」等の活動の停止が教示されているというのじゃ。
 それは行為ではないじゃろう。
 また、行為を実現する手段でもないのじゃ。

 もし、行為を目的としない教えが無意味であれば、「バラモンは殺すべきではない」等の、活動の停止を教示するのは無意味であることになるのじゃ。
 だがそれは望ましいことではないのじゃ。
 戒律が無意味になってしまうからのう。

 反対なのじゃ。
 否定詞は殺すという語根から自然に知られる「殺す」という意味と結び付いているので、殺すという行為の停止という無関心な状態を表すのではないというのじゃ。
 語根から自然には知られない行為、すなわち殺すこと以外の行為のためのものだと考えることができるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 この否定詞本来の性質は、否定詞と結び付いたものが存在しないことを認識させるところにあるというのじゃ。
 そして、存在しないという認識は、無関心な状態の原因なのじゃ。
 さらにそれは、薪の燃えてしまった火のように、自ら消え去ってゆくのじゃ。

 従って、「バラモンは殺すべきではない」等の場合には、プラジャーパティに対する誓い等の場合とは異なり、積極的な活動を停止することという無関心な状態こそが、その否定の意味なのじゃ。
 それ故に、「[行為を目的としな い諸聖典旬は無意味である」という『ミーマーンサー・スートラ』の言明は、人問の目的に役に立たない物語等からなる釈義等に関するものだと理解すべきなのじゃ。。

778避難民のマジレスさん:2022/12/13(火) 00:32:17 ID:J2AF3r0.0
6.2.1.儀軌は行為を命ずる p431-432 217右/229

  あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでさえ、「バ ラモンは殺すべきではない」とか「酒を飲むべきではない」等[の文章]が、行わなければならないことを表現していると認めることはできない。何故なら、行わなければならないことは、その領域が意欲(krti)によって限定されている[ので]、意欲の存在 する領域のなかに含まれている(vyāpta)からである737。[従って]、その(意欲)が なくなれば、[行わなければならないことも]なくなるのである。それはちょうど、木という性質がなくなれば、シンシャパー738という性質も[なくなる]ようなものである。ところで、意欲とは人の努力のことである。そしてそれ(意欲)は、対象に基づいて決定される。そしてその(意欲の)対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるもの(bhāvārtha,活動)一[それは]前後関係のある[多くの行為からなり]、他のものを生み出すのに適してしいる一でしかありえないはずであり739、実体や性質では[ありえ]ない。何故なら、意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからである。そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはない。だからこそ、聖典(『ミーマーンサー・スートラ』)の作者の[次のような]言葉があるのである。「行為を表す言葉(動詞)は生ずるもの(活動)を表しており、[新得力が] 生ずることはそれ(生ずるものを表す動詞)から認識されるのである」740と。
  [反対主張]実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には(naimittikavāsthā)、 行わなければならないことと関係するではないか741。

脚注
737 要するに、行わなければならないのだという意欲が存在していてはじめて行わなければならないことが遂行されるのだということ。なおvyāptaに関しては、脚注14参照。
738アショーカ樹のこと。
739たとえば、御飯を炊くという料理を例に取れば、それは、まず鍋を火にかけて温めるという行為から始まって、最後に御飯が炊きあがるという行為までの前後関係のある多くの行為からなっており、またそれは、料理という行為以外のものすなわち炊きあがった御飯を生みだすのに適しているのである。この点で壼等の実体とは異なっているのである。
740
741「語によって思い起こさせられたものと結び付かないものが原因であるときに、生ずるもの(活動) と結び付いている状態が、なにか原因がある場合であり、その場合には、すでに実現されているものである実体や性質も、行為と結び付くことによってこれから実現しなけれぱならないものとなる。従って、実体・性質・生ずるもの(活動)を表す言葉はともに、これから実現しなけれぱならないものを表し、かつこれから実現しなけれぱならないものを対象としているので、[それらの語の]用法はともに[語を]用 いた対象を実現するところにあるのである」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

779鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/14(水) 00:03:53 ID:OkPEYBXc0
 あらゆる語は行わなければならないことを表示すると認めている人たちでも禁止を命じる文章を、行わなければならないことを表現していると認めることはできないというのじゃ。
 何故ならばそこには意欲が欠けているからなのじゃ。
 意欲とは人の努力のことであるというのじゃ。

 意欲は対象に基づいて決定されるものじゃ。
 そして意欲の対象は、これから実現しなければならないものという本性を備えているので、生ずるものでしかありえないのじゃ。
 実体や性質ではないのじゃ。

 何故ならば意欲の対象は、意欲の存在する領域のなかに直接的に含まれているからなのじゃ。
 そして、実体や性質というすでに実現されているものが、意欲の存在する領域のなかに含まれることはないからなのじゃ。

 聖典『ミーマーンサー・スートラ』の作者の次のような言葉があるのじゃ。
 「行為を表す言葉は生ずるものを表しており、新得力が 生ずることはそれから認識されるのである」と。

 
 反対なのじゃ。
 実体や性質を表す言葉も、なにか原因がある場合には行わなければならないことと関係するではないかと聞いたのじゃ。

780避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:15:15 ID:3G6klO0I0
(つづき)   p432-433
  [答論]ところが、生ずるもの(活動)[を表す言葉]は、それ自体で行わなけれぱならないことと関係しているのに、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するのである。従って、生ずるもの(活動)を表す [言葉]からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではない。 また、「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」742とか、「絶え間なくギーを振り掛ける[べきである]」743等の場合にも、[ヨーグルト等の]実体(供物)が行わなけれぱならないことの中味ではない。何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなければならないことの中味だからである。[だが]だからといって、「[『ヨーグルトによって護摩を行うべきである』とか『絶え間なくギーを振り掛けるべきである』という儀軌が]、『ソーマによって供犠を行う[べきで ある]』という[儀軌]の場合と同じように、ヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラ [という護摩]を行う[べきである]』とか『ギーを振り掛けることを行う[べきである]』という[文章]は、それら(護摩やギーを振り掛けること)に再び言及している のである」744というわけではない。何故なら、[確かに]この場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるもの(護摩やギーを振り掛けること)ではあるが、実体 (供物すなわちヨーグルト)や性質(すなわち絶え間ないこと)は、[行わなければならないことの]中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのである。というのは、生ずるもの(活動)は、<行為に関係する要素> (kāraka)の単なる働きにすぎないという形で特(教→)徴付けられることはないが、特定の〈行為に関係する要素> (たとえば実体等)によって特徴付けられているので、実体等がそれ(生ずるもの)と関係している(の)からである745。従って、生ずるもの(活動)が命じられているときには、それ(生ずるもの)自身が、それ(生ずるもの)と関係しているもの (たとえば実体や性質等)とともに命じられるので、実体や性質は、[行わなけれぱならないことの]中味ではないが、それ(行わなければならないこと)と関係するものとして命じられているのである。だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなる(gaurava)746という恐れがある。従って、 [このような儀軌は]、その対象(生ずるもの)がそれ以外の[儀軌]から知られるので、それ(生ずるもの)に再言及することによって、それ(生ずるもの)と関係のある 実体等を述べているのである747。それ故儀軌は、まさに生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

781避難民のマジレスさん:2022/12/14(水) 00:16:10 ID:3G6klO0I0
(つづき)  p432-433
脚注
742 出典不明。 743出典不明。
744「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」とい う儀軌の場合には、この儀軌以外にそれぞれ祭式そのものを命じている儀軌(根本儀軌)「アグニホート ラ[という護摩]を行う[べきである]」「[火に]ギーを振り掛けることを行う[べきである]」があるので、「ヨーグルト云々」「絶え間なく云々」という儀軌は、これらの祭式に付属する供物(ヨーグルト)や性質(絶え間ないこと)を命じている従属儀軌(で)あるとされる。だが、「ソーマによって供犠を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌以外に祭式(供犠)そのものを命じている儀軌が存在しないので、 ソーマによって限定された供犠を行うべきことを命じている限定儀軌であるとされる。すなわち、この儀軌は、(1)供犠そのものを行うべきことと同時に、(2)その際ソーマを供物として捧げるべきことをも命じているのだとされるのである。さてここで、「ヨーグルトによって護摩を行うべきである」とか「絶え間なくギーを振り掛けるべきである」等の儀軌の場合に、護摩やギーを振り掛けることという生ずるもの(活動)が、行わなけれぱならないことの中味であるとすると、これらの儀軌はそれぞれ、「ソーマに よって供犠を行う[べきである]」という儀軌同様、(1)祭式(ギーを振り掛けること)そのものを命ずると同時に、(2)その際ヨーグルトを供物として用いるべきこと、絶え間なく捧げるべきことをも命じ ている限定儀軌であることになる。すなわち、言い換えれば、ヨーグルトによって限定された護摩や、絶え間ないことによって限定された振り掛けることを命じていることになる。そしてもしそうだとすれぱ、 これらの儀軌によってすでに、護摩を行うべきこと、振り掛けることを行うべきことはすでに命じられてしまっているわけであるから、今度は逆に、「アグニホートラ[という護摩]を行うべきである」「ギーを 振り掛けること行うべきである」という文章は、すでに命じられた護摩やギーを振り掛けることに再度言 及していることになり、未知のことを命ずるものである儀軌ではないことになってしまうのである。
745 行為に関係する要素(kāraka)については、脚注151参照。
746 論理学上の誤りの一つで、より簡潔な方法があるのに、まわりくどい方法を用いることを言う。
747「ヨーグルトによって護摩を行う[べきである]」という儀軌を例に取れば、この儀軌は、その対象 (生ずるもの、活動)すなわち護摩が、それ以外の儀軌(すなわち「アグニホートラ[という護摩]を行う [べきである]」)から知られるので、それ(護摩)に再言及することによって、それ(護摩)と関係のある 実体(供物)であるヨーグルトを述べているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

782鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/15(木) 00:25:38 ID:awZraiYk0
 答えたのじゃ。
 生ずるものはそれ自体で行わなけれぱならないことと関係しているが、実体や性質を表す言葉は、活動と結び付くことによって行わなけれぱならないことと関係するというのじゃ。
 生ずるものを表す言葉からのみ新得力が理解されるのであり、実体や性質を表す言葉からではないのじゃ。

 また、「ヨーグルトによって護摩を行う]とか、「絶え間なくギーを振り掛ける」等の場合にも、実体が行わなけれぱならないことの中味ではないのじゃ。
 何故なら、この場合にも、護摩や振り掛けることという生ずるものが、行わなければならないことの中味だからなのじゃ。

 しかしそれらの儀軌がヨーグルトによって限定された護摩や絶え間ないことで限定された振り掛けることを命じているので、『アグニホートラを行う』とか『ギーを振り掛けることを行う』という文章でそれらに再び言及しているわけではないというのじゃ。
 何故ならばこの場合にも、行わなければならないことの中味は、生ずるものではあるが、実体や性質は中味ではなくても生ずるものと関係しているので、それが命じられているのじゃ。

 生ずるものは特定の行為に関係する要素によって特徴付けられているので、実体等がそれと関係しているからなのじゃ。
 従って、生ずるものが命じられているときには、それ自身が、それと関係しているものとともに命じられるのじゃ。
 そうであるから実体や性質は行わなけれぱならないことの中味ではないが、それと関係するものとして命じられているのじゃ。

 だがこのように、儀軌が生ずるものを媒介として実体等 と結び付くというのは、まわりくどくなるという恐れがあるのじゃ。
 従ってこのような儀軌は、その対象がそれ以外の儀軌から知られるので、それに再言及することによって、それと関係のある 実体等を述べているのじゃ。
 それ故儀軌は、まさに生ずるものを対象としているのじゃ。

783避難民のマジレスさん:2022/12/15(木) 02:46:59 ID:CejTC7aE0
(つづき)   p433-435
  以上の理由によって、「『八つのかわらけ(くま注)に盛られた[祭餅]を[火の神アグニに]捧げるアーグネーヤ祭は、[新月の日と満月の日に決まっているの]である』748という場合には、この儀軌は、[供物と祭神との]関係を対象としている(述べている)」という[主張も]退けられたことになる。
   [反対主張]儀軌の対象は生ずるものではない。何故なら、生ずるもの(bhavitr,生み出されるもの=活動)がすでに存在しているとすると、そのすでに存在の確立している<生ずるもの>には、それを生み出すものが存在しないからである。実に、[すでに存在している]虚空が生ずることはないのである。また、[生ずるものが]存在しない場合にも、[儀軌の対象は生ずるものではない]。何故なら、虚空に浮かんだ花のような非存在に対して、儀軌が適用されることはないからである。従って、儀軌の対象は、[動作や心の動きを]引き起こすもの(prayojaka)、すなわち、生じさせる者(bhavayitr) の心の働き(vyāpāra)であり、その心の働きは、生むもの(bhavanā)、すなわち引き 起こされる心の動きや動作から暗に知られるのである。そしてこの心の働きが、志向 (bhāvanā)、意欲(krti)、努力(prayatna)なのである749。そして、これ(心の働き) は、その対象が存在しなければ認識できないので、その対象が必要である。そのとき、「アーグネーヤ祭」(āgneya,文字通りには火の神アグニに関係するもの、すなわち捧げ られるものという意味)という言葉から思い起こされる、実体(供物)と祭神との関係 こそが、これ(心の働き)の対象となるのである。[従って、儀軌の対象は供物と祭神 との関係なのである]。
  [答論]人間の努力の対象は働き(vyāpāra)であるのに、働きではない関係がどうして人間の努力の対象となろうか。何故なら、「壷を作れ」という場合も、人間の努力は、名詞が表現している壷を直接に対象としているのではなくて、[壷を作るのに用いる]棒などを手などで動かすのである。従って、壷を作ろうという意欲は、[手などで棒などを動かすという]働きこそを対象としているのだと理解されるのであって、直接に壷を対象としているのではないのである。すなわち壼は、[「壷を作れ」という文章が命じているもの(すなわち手などの働き)と関係するもの(uddeśya)として、 それ(壷を作ろうという意欲)のなかに存在しているのであって、[この文章が命じている]対象としてではないのである750。[「壷を作れ」という文章が命じている]対象としては、手などの働きだけが存在しているのである。従って、「アーグネーヤ祭は」 というこの場合にも、儀軌が命じている内容は、行わなければならないこと、すなわ ち、実体(供物)と祭神との関係から暗に知られる供犠という行為なのである。では、「アーグネーヤ祭が...である(行われるべきである)」というのは、どういう意味なの だろうか。「アーグネーヤという供犠によって[好ましい事柄すなわち天界を]生ずるべきである」という意味なのである。従って、「このように知る者は、プールナマーサ 祭を行うべきである」とか、「このように知る者は、ダルシャ祭を行うべきである」と いうのは、「アーグネーヤ祭は云々」等の儀軌がすでに命じた六種の供犠に再び言及しているのである。そしてまさに同じ理由で、すでに儀軌によって命じられた(アーグネーヤ祭)に再び言及しているそれ(「このように知る者はプールナマーサ祭を行うべ きである」 「このように知る者はダルシャ祭を行うべきである」)が、「天界を望む者はダルシャプールナマーサ祭によって供犠を行うべきである」という[儀軌に述べられている]執行資格と結び付くのである751。従って儀軌は、どんな場合でも必ず、意欲を媒介として、生ずるもの(活動)を対象としている(命じている)のである752。
(´・(ェ)・`)つ


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