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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

665避難民のマジレスさん:2022/10/26(水) 00:28:22 ID:HJ/1Z6FU0
(つづき) p366-367
  ところが、[ウパニシャッドが]実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、(1)実現しなければならないもの、すなわち新得力(aparva)527は、[ウパニシャッド]以外の認識根拠の対象ではないし、(2)[新得力のように]これまでまった く経験したことのないものは、その本来の姿でにしろ附託された姿でにしろ、人間の意識にのぼることはないので、それ(実現しなければならないもの、すなわち新得力)を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は、作ることができなくなり、その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるから、[自ら以外のものに]基づかず、従って認識根拠である、と確定されるのである。このようなわけでわれわれ は、[ウパニシャッドが]認識根拠であること[を守る]ために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているの である。
  [答論]ああ、あなたは長生きするよ。[ではお尋ねするが]、この[あなたが]言わんとしている実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのか。
  [反対主張][目に見えない果報]新得力のことである。
  [答論]ああなんということを。これ(新得力)がどうして[命令等を示す接尾辞である]liń等の意味となれるのか。というのは、(1)[人間の]経験を超えたそれ(新 得力)が、[接尾辞liń等と]関係するという認識は、存在しないからであり、(2)ま た、通常[の言葉の用法]に従えば、接尾辞liń等からは、経験される行為が実現(遂行)しなけれぱならないものだと理解されるからである。
   [反対主張]「天界を望む者は供犠を行うべきである」という[儀軌]からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解され、さらにその者は、天界に[達するのに]適したことが実現(遂行)しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのである。また、瞬時に減する行為は、来世に属す天界[を得るの]には適しないので、必然的にヴェーダにのみ基づいて、「liń等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係しているのだ」理解される のである528。

脚注
527 新得力については、脚注243参照のこと。
528「天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌の場合、(行うべきである)が、これは「実現しなければならないもの(行わなければならないもの)」 を表示している。この「実現しなければならないもの」は、ヴェーダ聖典以外の通常の文章の場合には、聖典以外の認識根拠によって知ることのできる行為(「たとえば、牛を連れて来い」という文章の場合には、連れて来るという行為はすでにとこかで経験されている行為である)である。だが、ヴェーダ聖典の儀軌の場合には、この「実現しなければならないもの」は、祭式というような行為ではない。何故 なら、祭式という行為は瞬時に滅するので、死後に獲得される天界に達するのに適していないからであ孔る。従って、祭式の執行ののち天界を獲得するまで存続するものが天界に達するのに適したものとして必要とされ、これこそが「実現しなければならないもの」であることになるが、それが新得力なのである。このように命令の意味を表す接尾辞は新得力を表示しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

666鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/27(木) 00:06:45 ID:PiSGWw3I0
 ウパニシャッドが実現しなけれぱならないものを対象としているとすると、実現しなければならないもの、新得力はウパニシャッド以外の認識根拠の対象ではないことになるというのじゃ。
 これまでまったく経験したことのないものは、その本来の姿ででも附託された姿でも、人間の意識にのぼることはないじゃろう。
 それでは新得力を 対象とするウパニシャッドの諸聖典句は作ることができなくなるのじゃ。
 
 その結果、人問の 手になるものであるという性質が存在しないことになるのじゃ。
 そして自ら以外のものに基づかず、従って認識根拠であると確定されるのじゃ。

 そうであるからわれわれはウパニシャッドが認識根拠であることを守るために、ウパニシャッドの諸聖典句は実現しなければならないものについて説くためにあるのだと主張しているというのじゃ。


 答えたのじゃ。
 実現しなけれぱならないものとは、人間には知ることのできないものなのかと聞いたのじゃ。。

 反対なのじゃ。
 目に見えない果報、新得力のことだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 新得力なぜ命令等を示す接尾辞である等の意味となれるのか、というのじゃ。
 人間の経験を超えた新得力が、接尾辞等と関係するという認識は、存在しないからなのじゃ。
 また通常の言葉の用法に従えば、接尾辞等からは、経験される行為が実現しなけれぱならないものだと理解されるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 天界を望む者は供犠を行うべきである」という儀軌からは、実現しなければならない対象である天界によって限定された者が、供犠の執行者であると理解されるじゃろう。
 さらにその者は、天界に達するのに適したことが実現しなけれ ぱならないことなのだ、と理解するのじゃ。

 さらに瞬時に減する行為は、来世に属す天界を得るのには適しないのじゃ。、
 そうであるから必然的にヴェーダにのみ基づいて、・・等の接尾辞が、実現しなければならないもの、すなわち新得力と関係していると理解されるのじゃ。

667避難民のマジレスさん:2022/10/27(木) 06:27:26 ID:NYNmgcMQ0
(つづき)  p367-368
  [答論]ああなんということを。[もしそうだとすると]、チャイティヤ(仏塔)を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、「天界を望む云々」という語と結びついているわけだから、新得力が実現しなければならないものであることになる、という誤謬に陥ることになるであろう。そうなれば、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)も、[人間が]作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになってしまうであろう529。あるいは、もし、それら(チャイティヤを崇拝することを命ずる文章)は、人間の手になることがはっきりしているので、新得力のためのものであることが否定されるとすると、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの諸聖典句も、[同じく]文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論で.きることになり、その結果、[それらは]新得力のためのものではないことに なろう。一一方、「文章である等を理由に[ヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする]推論は誤りである」と、もし別の根拠に基づいて示せるとすると、この (ウパニシャッドの)場合に、それ(人問の手になるものではないこと)を示す根拠として、[それが]新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことであろう530。なお、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことについては、 [私はすでに]『ニヤーヤカニガー』のなかで説明したので531、ここでは[論議が]拡散することを恐れて論じないことにする。ともかくこのように、[ウパニシャッドが]人間の手になるものでないことが確定すれば、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、[自ら以外の認識根拠に]基づくことを理由に[その] 妥当性が損なわれることはないのである。また。もし[ウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれ]ば、[それは]認識根拠とはいえないだろうが、「[ウパニシャッドは]また理解されていないものを理解させるわけではない」532などということはないのである。何故なら、個人存在がブラフマンであることは、[ウパニシャッド]以外のものからは理解されないからである。以上のことが、[さてブラフマンは]本性上すでに存在している事物ではあっても云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。

脚注
529天界を望んでチャイティヤ(仏塔)が崇拝されることがあるが、このチャイティヤ崇拝は仏陀の死後に生じたものであるから、チャイティヤ崇拝を命ずる文章が人闇の手になることは明らかである。またこのチャイティヤ崇拝は仏教徒のものであり、仏教徒はヴェーダ聖典の権威を認めていないので、ヴェーダ聖典の儀軌に従って行った祭式の果報として生ずる新得力が仏教徒の場合にも実現しなければならないものであるというのは理に合わないのである。
530ヴェーダの文章が人間の手になるものではないことを証明する別の根拠として、「ヴェーダの場合にはその作者が思い起こせない」という理由を挙げている。ヴェーダの場合がそうなら、ウパニシャッドの場合にも、その作者が思い起こせないという同じ理由で、人間の手になるも のでないことが証明されるはずである。従って、新得力云々という理由を挙げるのは余分なことになるのである。
531
532 本訳257頁以下参照。
(´・(ェ)・`)つ

668鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 00:14:44 ID:d474Ayao0
 答えたのじゃ。
 反対論の通りならば、仏塔を崇拝することを命ずる文章等の場合にも、天界を望む云々という語と結びついているから新得力が実現しなければならないものになるのじゃ。
 そうするとそれも、人間が作ることは不可能であるということになるから、人間の手になるものではないことになるのじゃ。

 崇拝することを命ずる文章は、人間の手になることがはっきりしているから、新得力のためのものであることが否定されるのじゃ。
 ウパニシャッドを含むヴェーダの諸聖典句も、文章であるから等の理由で、人間の手になるものだと推論できるのじゃ。
 そうするとそれらは新得力のためのものではないことになってしまうのじゃ。
 矛盾に陥ってしまうのじゃ。

 一方、文章である等を理由にヴェーダの諸聖典句が人間の手になるものであるとする推論は誤りであると、もし別の根拠に基づいて示せるとするのじゃ。
 そうするとウパニシャッドの場合に、それを示す根拠として新得力のためのものだからであるという理由をあげるのは余分なことなのじゃ。

 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことについては、ニヤーヤカニガーのなかで説明したのじゃ。
 ウパニシャッドが人間の手になるものでないことが確定しているから、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としていても、自ら以外の認識根拠に基づくことを理由に妥当性が損なわれることはないのじゃ。
 
 もしウパニシャッドが、すでに他の認識根拠によって理解されていることばかり教えていて、まだ理解されていないことは教えないとすれば認識根拠とはいえないのじゃ。
 ウパニシャッドは理解されていないものを理解させるものであるのじゃ。
 何故なら、個人存在がブラフマンであることは、ウパニシャッド以外のものからは理解されないからなのじゃ。

669避難民のマジレスさん:2022/10/28(金) 00:45:38 ID:iCwPImq60
2.2.2.ウパニシャッドは取捨の指示が含まれていなくても有意義である   p368-370 186左/229

   次に[師シャンカラは]、反対主張の第二の論拠を[次のように]思い起こさせて、[それを]批判するのである。[ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので云々と。実に、儀軌の意味の理解からは、[そののち祭式を執行して新得力を得、その新得力が熟したとき天界に生まれるというように]、まわりまわって人間の目的が達成されるのである。一方ここ[ウパニシャッドの]場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる一から 直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのである。 ちょうど、「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から[直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、誤認が取り除かれる]ように。まさにこの点が、これ (ウパニシャッドの聖典句の意味を知ること)のほうが、儀軌の意味を知ることより優れているところなのである。
  その趣旨は以下の通りである。実に、人間の望むものには二種類ある。あるものは、 [これから行こうとしている]村等のように、まだ到達していないものであり、一方、 他のものは、首にかかっている[のにそれを忘れてしまった]首飾りのように、[実際 には]すでに獲得しているのに、錯誤のためにまた獲得していないかのように理解されているものである。同様に、捨てたいと思うものにも二種類ある。すなわち、ひとつ は、足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合であり、もうひとつは、足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられて いるものを捨てようとする場合である。このうち、まだ到達していないものに到達しようとする場合、および、まだ捨てていないものを捨てようとする場合には、[それらは]外的な手段を遂行することによって実現されるので、それら[を実現する]手段 について正しく知ったのちに、[さらにその手段を]遂行する必要がある。単なる知識 が、実際に存在するものを否定することは決してないのである。というのは、蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからである。 だが、到達したいと思っているもの、および捨てたいと思っているものが、附託された
ものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで、あたかも到達したかのように、あるいは、あたかも捨てたかのようになることが可能なのである。というのは、それら(すでに到達されているもの、および、すでに捨てられているもの)は、附託に基づいてのみ[まだ到達されていな(く→い?)かのように、あるいはまだ 捨てられていないかのように]存在しているのであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからである。同じようにここ、すなわち、実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という状 態が附託されている場合でも、附託に基づくその(個人存在という)状態は、「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること一[それは]悟りをもって終わるーによって、止滅するのである。そして、それ(個人存在であるという状態)が止滅する と、歓喜という状態は、すでに到達されていたにもかかわらず・まだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのである。
  従って、以上のことが、[『註解』本文では]、ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのである。実にそれは、生き物を苦しめるから苦悩なのである。そして、それ(苦悩)を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのである。
(´・(ェ)・`)つ

670鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/28(金) 23:42:21 ID:o6g4y7o20
 儀軌の意味の理解からはまわりまわって人間の目的が達成されるのじゃ。
 ウパニシャッドの場合には、「汝はそれなり」という聖典句の意味を知ることで直接に、外的な遂行努力になんら基づくことなく、人問の目的が達成されるのじゃ。
 「これは蛇ではない。これは縄である」という認識から誤認が取り除かれるようなものじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を知ることのほうが、儀軌の意味を知ることより優れているのじゃ。

 人間の望むものには二種類あるというのじゃ。
 ひとつはこれから行こうとしている村等のように、まだ到達していないものなのじゃ。
 他のものは、首にかかっているのを忘れてしまった首飾りのように、実際にはすでに獲得していながら錯誤のためにまだ獲得していないかのように理解されているものなのじゃ。

 また捨てたいと思うものにも二種類あるというのじゃ。
 ひとつは足にまきついた蛇のように、まだ捨てていないものを捨てようとする場合なのじゃ。
 もうひとつは足の飾りである足首飾りに附託された蛇のように、すでに捨てられているものを捨てようとする場合だというのじゃ。

 このうちまだ到達していないものに到達しようとする場合、およびまだ捨てていないものを捨てようとする場合には、外的な手段を遂行することによって実現されるのじゃ。
 それらを実現する手段について正しく知ったのちに、遂行する必要があるのじゃ。
 単なる知識が実際に存在するものを否定することは決してないのじゃ。
 蛇の観念が千集まっても、実際に存在する縄を別のものに変えることはできないからなのじゃ。

 到達したいと思っているもの、捨てたいと思っているものが附託されたものである場合には、外的な遂行に基づくことなく、単に真理を直証するだけで到達したかのように、捨てたかのようになることが可能なのじゃ。
 それは附託に基づいてのみまだ到達されていないかのように、あるいはまだ捨てられていないかのように認識されているからであり、附託されたものは真理の直証が根こそぎ滅ぼしてしまうからなのじゃ。

 同じように実際には歓喜であって悲しみや苦しみなどとは無縁なブラフマンに、無明によって個人存在という観念が附託されている場合も「汝はそれなり」という聖典句の意味を真に知ること、悟り、によって止滅するのじゃ。
 個人存在が認識が止滅すると、歓喜という状態は、すでに到達されていたのにまだ到達されていな かったかのように到達され、悲しみや苦しみなどは、すでに捨てられていたにもかかわらず、まだ捨てられていなかったかのように捨てられるのじゃ。

 ブラフマンがアートマンであると理解することによってのみ、個人存在のあらゆる苦悩が、すなわち潜在印象とともに錯誤が [滅せられて云々]と述べられているのじゃ。
 苦悩を完全に滅することで、苦しみの止滅と楽しみの獲得を特徴とする人問の目的が達成されるのじゃ。

671避難民のマジレスさん:2022/10/29(土) 00:31:49 ID:AJCsu82w0
2.2.3.ウパニシャッドは念想等のためのものではない p370 187左/229

  [反対主張]ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」533等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものである。
   [答論]このように[反対主張者が]述べていたが、それを[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、すなわちアートマン云々とのみ[言っているの]が、自己の聖典句中の (すなわち同じくウパニシャッドに説かれている)念想のためであったとしても、なんら矛盾はないと。
   [反対主張]もし矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。だが、ブラフマンも同じように[念想を命ずる儀軌に従属するということはありえ]ないのであると。すなわち、念想は、念想の対象、念想する人、念想[という行為]等の区別が確立していることを前提としている[ので]、あらゆる多様な区別が 取り払われているブラフマンー[それは]ウパニシャッドから知られるべきもので ある一を対象としては成り立たないのである。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、念想を命ずる儀軌に従属することはない。何故なら、[区別の存在しないブラフマ ンについて教える]ウパニシャッドの諸聖典句は、[念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている]それ(念想)とは矛盾するものだからである。

脚注
533
(´・(ェ)・`)つ

672鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/29(土) 23:46:42 ID:0jgPF.8Q0
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、「アートマンであるとしてのみ念想すべ きである」「アートマンのみを世界として念想すべきである」等の念想を命じる聖典句にでてくる神格等について説いているので、念想のためのものだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはパニシャッド中で神格等について説いてアートマン云々と言っているのが、自己の聖典句中の念想のためであったとしても、なんら矛盾はないというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 矛盾がないのなら、その場合には、ウパニシャッドの諸聖典旬は、神格について説くことを通して、念想を命ずる儀軌にのみ従属することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 念想は、念想の対象、念想する人、念想という行為等の区別が確立していることを前提としているのじゃ。
 あらゆる多様な区別が取り払われているブラフマンを対象としては成り立たないのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は、念想を命ずる儀軌に従属することはないのじゃ。

 区別の存在しないブラフマ ンについて教えるウパニシャッドの諸聖典句は、念想の対象、念想する人等の区別に基づいて成り立っている念想とは矛盾するものだからなのじゃ。

673避難民のマジレスさん:2022/10/30(日) 01:16:53 ID:6RSFdUD.0
2.2.4.ウパニシャッドと釈義との相違 p371-372 187右/229

  [反対主張]もし、ウパニシャッドの諸聖典句が、儀軌と無関係でも認識根拠であるとすると、その場合にはなんと、「彼は泣き叫んだ」534等の無関心であるべきことを説 く[聖典句]も、それ自身で認識根拠であることになろう。というのは、取捨しようとする気持ちだけが認識根拠から生ずる結果ではなくて、無関心であろうとする気持ちもそれ(認識根拠)から生ずる結果であると、認識識根拠について知る者たちによって認められているからである。とすれば、これら(「彼は泣き叫んだ」等の聖典句)が、 「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」等の禁令に従属するというの は余分なことになろう。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。またたとえ云々と。すなわち、実にヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されている。そこ(ヴェーダ)には、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのである。もちろん、「彼は泣き叫んだ」等の[字どころか]語の繁がり(すな わち文)は言うまでもない。だが、ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その(「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の)意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されない。従って、この(「彼は泣き叫んだ」という)語の繋がり(文)は、人 間の目的[との関わり]を求めている[ので、人間の目的と関わるようななにかを]予期していることになる。[一方]、「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではな い」というこの禁令も、自らが禁じていること(供犠で銀を供物として捧げること)を非難(する言葉)を必要としている。というのは、さもなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それ(銀を捧げること)を[人に] 思い止まらせることができないからである。従って、もし非難〔の言葉]が[ヴェーダ中のこの禁令のある箇所の近くは言うにおよぱず]遠くでさえも得られない場合には、 [「供犠において銀を供物として捧げるべきではない」というこの]禁令自身が、ダルヒホーマ祭のように、二種の能力一すなわち、銀の禁止に関する能力と非難に関する能力ーを備えることになるのである535。このような場合、「彼は泣き叫んだ」と「供犠において銀を[供物として]捧げるべきではない」という二つの文(語の繋がり)、 [それら両者は、互いの予期あるいは必要を充たそうとして求めあい]、あたかも燃えさかっているかのようである一は、[「彼は泣き叫んだ」という文によって]暗示されている非難を媒介とすることによって、まるで馬の死んだ[戦車]と戦車の燃えてしまった[馬]のように、互いに結びつくのである。だがウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この[「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句の]ような形では、人間の目的を必要としない。何故なら、それ(ウパニシャッドの聖典句)の意味を理解しただけで、[それ]以外にはなにに基づくこともなく、人間の最高の目的が達成されるからなのである。以上が[『註解』本文の]言っていることである。

脚注
534 脚注496参照。
535 ダルヴイホーマ祭とは火に供物を捧げる護摩の一種であるが、この護摩を命ずる次のような儀軌がある。「供物を一つ捧げようとするときには、ダルヴィホーマ祭を行うべきである」。そしてこの儀軌は、ダルヴィという祭杓によって、火に供物を捧げることを命ずる従属儀軌ではなくて、ダルヴィホーマ祭そのものを命ずる根本儀軌であるとされている。しかしこの儀軌の前後には、この祭式に従属する要素等について命じている従属儀軌等も見当たらないし、またこの祭式の意義を説明する釈義も見当たらないのである。従って、このような場合には、この儀軌自身が従属儀軌等の働きはもちろん釈義の働きもしていると解釈されるのである。すなわち、釈義に関して言えば、この儀軌はダルヴィホーマ祭を命ずるとともにダルヴィホーマ祭を賞賛してい るとされるのである。
(´・(ェ)・`)つ

674鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/31(月) 00:01:18 ID:K6UW1Jvw0
 反対なのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の無関心であるべきことを説 く聖典句も、それ自身で認識根拠であることになるというのじゃ。
 無関心であろうとする気持ちも認識根拠から生ずる結果であると、認められているからなのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」等の聖典句が、「供犠において銀を捧げるべきではない」等の禁令に従属するというのは余分なことになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴェーダ全体は、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解されるように、人間の目的を達成する手段であるとすでに理解されているのじゃ。
 ヴェーダには、一字といえども人間の目的に役立たないものはありえないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句とは異なり、その「彼 は泣き叫んだ」というヴェーダ聖典句の意味を理解しただけでは、なんら人問の目的は達成されないのじゃ。
 「彼は泣き叫んだ」という文は、人 間の目的を求めているから、人間の目的と関わるようななにかを予期していることになるのじゃ。
 
 文を切り取っても無意味だというのじゃな。
 
 「供犠において銀を捧げるべきではない」というこの禁令も、自らが禁じていることを非難することを必要としているのじゃ。
 もなければ(供犠において銀を供物として捧げることを非難する言葉がなければ)、それを思い止まらせることができないからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、この「彼は泣き叫んだ」というヴェーダの聖典句のような形では、人間の目的を必要としないのじゃ。
 ウパニシャッドの聖典句の意味を理解しただけで、人間の最高の目的が達成されるからなのじゃ。

675避難民のマジレスさん:2022/10/31(月) 06:36:03 ID:tAeos4UY0
2.2.5.ウパニシャッドは儀軌と無関係であっても正しい認識根拠である  p372-373 188左/229

   [反対主張]ヴェーダの[ウパニシャッド]以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていない。従って、どうして、それ(儀軌)と無関係なウパニシャッドの諸聖典句が、それ(認識根拠)でありえようか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのである。また...推論がら理解されるようなものではない云々と。そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるところにある。そして、それ(認識根拠)は、すでに説明したよう に536、自らに基づいている。たとえ、これら(ウパニシャッドの諸聖典句)がこのような認識を生ずるということが、結果(すなわち生じた認識)からアルダーパッテイ によって理解されるとしても537、そのような認識を生ずる際には、[自ら]以外の認識根拠に基づくことはないのである。さらに、[ウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際に]、まさにこのアルダーパッティに[基づくことも]ない。何故なら、[認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという]相互依存の誤謬に陥ってしまうからである538。従って、[ウパニシャッドの諸聖典句は]自らに基づいていると言ったのである。諸儀軌が、遂行しなければならないことに関して、このような(否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない)認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのである。従って、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのである。さもなければ、 [目]以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだと[いうことになってしまうであろう]539。以上の主題を[師シャンカラ は、次のように]結論づけているのである。従って云々と。

脚注
536 本訳357頁以下参照。
537アルダーパッティ関しては、脚注435参照のこと。
538
539 直接的な経験によって確立しているものが、それ以外のところすなわちすでに存在する事物に関する釈義等に見られないからという理由で否定されるとすれば、その場合には拡大適用という誤りに陥ってしまうのである
(´・(ェ)・`)つ

676鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 00:01:38 ID:EtNGimwU0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダのウパニシャッド以外の箇所では、儀軌と無関係な箇所が、認識根拠であるとは認められていないというのじゃ。
 そうであるから儀軌と無関係なウパニシャッドの諸聖典句は認識根拠と認められないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そもそも認識根拠の妥当牲は、(1)否定されることがなく、(2)まだ知られていなくて、(3)疑問の余地のない認識を生ずるという三つの条件で証明されるのじゃ。
 そして、認識根拠は自らに基づいているものじゃ。

 たとえウパニシャッドの諸聖典句がこのような認識を生ずるということが、アルダーパッテイ によって理解されるとしても7、そのような認識を生ずる際には自ら以外の認識根拠に基づくことはないのじゃ。
 さらにウパニシャッドの諸聖典句は、そのよう な認識を生ずる際にアルダーパッティに基づくこともないのじゃ。
 何故ならば認識が生じた時に、認識根拠がその認識を生みだしたことをアルダーパッティ によって理解し、そのアルダーパッティから認識が生ずるという相互依存の誤謬に陥るからなのじゃ。

 インドの教義は、ある主題が相互依存とか循環理論に陥れば、間違いであったとみなされるからなのじゃ。

 そうであるからウパニシャッドの諸聖典句は自らに基づいていると言ったのじゃ。
 諸儀軌が遂行しなければならないことに関して、否定されることがなく、まだ知られていなくて、疑問に余地のない認識を生ずるように、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンに関して、このような認識を生ずるのじゃ。
 それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が、ブラフマンに対して認識根拠であるということは、例証に基づくことなく確立されるのじゃ。
 そうでなければ目以外の感覚器官が色形を明らかにしないからという理由で、目も色形を明らかにしないのだということになってしまうじゃろう。

677避難民のマジレスさん:2022/11/01(火) 03:18:06 ID:lt1ibQ2.0
3.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対 象であるという反対主張 188右/229

3.1.ウパニシャッドはすでに存在するブラフマンの性質について 教えるものではない p373-375

  これに対してある人たちが540[次のような]反対主張を提示する。
  [反対主張]たとえ聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠であったとしても、ブラフマンは、[ブラフマンについて]知ること(pratipatti)を命ずる儀軌の541対象だからこそ、聖典が教示しているのである。たとえば、[供犠で供物として捧げる獣をつなぐ]柱やアーハヴァニーヤ祭火等542は、確かに通常は知られていないものではあるが、儀軌に従属するものだから、聖典が教示しているのであり、[ブラフマンの場合も]それと同じなのである。それは何故か。聖典の目的は、[人を]活動へ向かわせ、[人を]活動から退かさせるところにあるからである。たとえば、聖典の趣意を知る人々は[次のように] 言っている。「実に、祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」543「教令というのは、行為を促す言葉のことである」544「それ(ダルマ)の知識が教示(upadeśa)である」545「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」546「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」547と。従って聖典は、人をある特定の対象に向がわせ、あるいは、ある特定の対象から退かせるところに、意味が あるのである。そして、[人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令]以外の諸聖典句548は、それ(儀軌と禁令)に従属するものとして利用される。[従って]、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダの諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向がわせたり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろう。そして[このように、ウパニシャッドの諸聖典旬が]儀軌のため
のものであれば、[ヴェーダでは]天界等を望む者に対してアグニホートラ祭等549の手段が命じられているように、[ウパニシャッドでは]不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているのである[と考えるのが] 正しいのである。

  [師シャンカラは]、[立場の]近い先師たちの見解を、[次のように]提示している。 これに対してある人たちが[次のような]反対主張を提示すると。詳論すれば次の通 りである。
  [反対主張]「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの]関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等[を命ずる文章]が認められるので、 ブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのである」550。
[その意味は以下の通りである]。

脚注
540「ある人たち」をBhāmatīは、「立場の近い先師たち」と取り、Ratnaprabha,
は「註解作者たち」と解している。
541ここで、「知ることを命ずる儀軌」とは、もともとミーマーンサー学派の述語で、祭式に用いられ たものを投棄すること(たとえば祭式で神に捧げた供物の残りものを食べること等)を言う。たとえば、 従属祭が、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分けられており、そのうち前者が 知ることを命ずる儀軌と呼ばれている。しかしながら、『註解』にでてくる獣をつなぐ桂やアーバヴァニーヤ祭 火の例は、明らかにこれから祭式で用いられるものであるから、この説明はここにはあてはまらない。pratipattiという語はもともとは知るとか理解するという意味なので、ここ では文字通りにブラフマンを知ることを命ずる儀軌の意味に解しておいた。
542アーバヴァニーヤ祭火は、供犠に用いられる三つの祭火のひとつである。この祭火や柱がどのように儀軌に従属するのかという点については本訳378貫以下参照のこと。
543 544 545 546 547 548
549脚注340参照。
550 出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

678鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/01(火) 23:57:41 ID:CED49D/k0
 反対なのじゃ。
 たとえ聖典がブラフマンの認識根拠であったとしても、ブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象だから聖典が教示しているというのじゃ。
 聖典の目的は、人を活動へ向かわせたり、活動から退かさせりするところにあるからというのじゃ。
 
 聖典の趣意を知る人々は次のように言っているというのじゃ。
 「実に祭式について教えることが、それ(ヴェーダ)の目的で あると認められている」
 「教令というのは、行為を促す言葉のことである」
 「それ(ダルマ)の知識が教示である」
 「これら(事物) を示す[語つまり名詞]は、行為を意味する[動詞]と同時に発せらるのである」
 「聖典は行為(祭式)のためのものであるがら、それ(行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」
 等なのじゃ。

 従って聖典は人をある特定の対象に向がわせたり、ある特定の対象から退かせるところに、意味があるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり、活動から退かせたりする ヴェーダの諸聖典句、すなわち儀軌と禁令以外の諸聖典句は、それらに従属するものとして利用されるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句も、ヴェーダの諸聖典句と同じなのじゃ。
 ウパニシャッドでは不死であることを望むものにはブラフマンの知識が命じられているというのじゃ。


 さらに反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の場合には、ブラフマンとの関係が知られておらず、聖典であり、意味があり、思惟等を命ずる文章が認められるのじゃ。
 そうであるからブラフマンは遂行しなければならない事柄を教える章句から確知されるのじゃ。

679避難民のマジレスさん:2022/11/02(水) 06:24:28 ID:MlNBE9Z.0
(つづき)    p375-376
3.1.1.理由(1)言葉とブラフマンとの関係が一般には知られていないからである

  実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではない。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、それ(すでに存在するブラフマン)と関係しているとは知られていないからである。実に世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのである。 さらに賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものである。何故なら、それ(取捨とは無関係な単なる事物)について知りたいとは思 わないからであり、また、知りたくもないことを[人に]教えたとすると、[その人の] 賢さが損なわれることになるからである。従って、世の賢い人たちは、[人が]知りたいと思っていることを教える[ので、人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのである。そして、遂行しなければならないことが知られれ[ば、それが]それ(人を活動に向かわせたり活動から退けたりすること)の原因なので、それ(遂行しなければならないこと)のみを教えるのである。このように[人は]、年長者の言葉の用法から、言葉が遂行しなければならないことを伝えるものだと理解するのである。このうち、ある[言葉]は、遂行しなければならないことを直接に表示し、ある[言葉]は、遂行しなければならないことに従属するような形で[その言葉]自身の対象を表示するが、言葉が、すでに存在する事柄[のみ]を伝えることはないのである。 さらに、言葉がそれ(認識)の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、それ(対象の認識)が言葉の存在・非存在と対応していることを理解することによって、確定されるのである。そして、他人の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には、[その認識を推論しこのような対応関係を理解する]てだてがなんら存在しないが、他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する]原因一すなわち、[言葉が人を]活動に向かわせ活動から退かせるということ一が存在するのである。従って、[ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのである。

3.1.2.理由(2)聖典とは人を活動に向がわせたり活動がら退かせたりするものだがらである

  さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダ[の一部]なので、聖典であることは周知の事実である。そして聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とするもろもろの[語の]繋がり(諸文章)のことなのである。[そのことは]たとえば[次のように]述べられている。「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」551と。従って、[ウパニシャッドが]聖典であることは周知の事実なので、それら(ウパニシャッ ドの諸聖典句)が[ブラフマンの]本性について教えるということは否定されるのである。

3.1.3.理由(3)ブラフマンの性質を専ら教示するウパニシャッドは無意味だからで ある

  さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれら(ウパニシャッドの諸聖典句) に意味があるとは認められない。「これは縄であって蛇ではない」という場合には、間接表示機能によってなんとか[その]文章の真の意味が確定すると、恐れや震えなどが 止まるということがあるが552、「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはない。何故なら、[その]文章の意味を聞いた人の 場合でも、それら(輪廻者としての諸属性)はそのままだからである。

脚注
551
552 間接表示機能とは、言葉本来の意味を表す言葉の機能(直接表示機能)に対して、言葉本来の意味以外の意味を間接的に表示する言葉の機能のことを言う。たとえば、「ガンジス河に牛飼部落がある」と言ったとき、河の中に牛飼部落があるはずはないので、「ガンジス河」という語が間接的に「ガンジス河岸」を意味しているような場合がそうである。ここでは、「これは縄であって蛇ではない」という文章がただ単にそのような事実を述べているだけでなくて「だから恐れるは必要はないのだ」というような意味も間接的に表示しているような場合がそうである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

680鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/02(水) 23:56:07 ID:XBbd4tCc0

 さらに反対が続くのじゃ。
 
 ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するブラフマンの性質について教えるものではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句が、すでに存在するブラフマンと関係しているとは知られていないからなのじゃ。
 世の人々は、言葉との対応関係が理解されていないものに対しては、言葉を用いることはないのじゃ。

 賢い人は、取捨とは無関係な単なる事物についてなんら述べようとは思わないものというのじゃ。
 世の賢い人たちは、人が知りたいと思っていることを教えるのじゃ。
 人を活動に向かわせたり活動から退かせたりする原因となる事物についてのみ教えることになるのじゃ。
 遂行しなければならないことが知られれば、それが人を活動に向かわせたり活動から退けたりすることの原因なので、それを教えるのじゃ。
 
 ある言葉は遂行しなければならないことを直接に表示し、又ある言葉は遂行しなければならないことに従属するような形でその言葉自身の対象を表示するのじゃ。
 言葉がすでに存在する事柄を伝えることはないのじゃ。

 言葉が認識の対象を伝えるものであるということは、語意を習得している他の人の対象の認識を推論し、対象の認識が言葉の存在や非存在と対応していることを理解することで確定されるのじゃ。
 他人 の行う、すでに存在する事物の単なる性質についての認識の場合には理解するてだてがなんら存在しないことになるのじゃ。
 他人の行う、遂行しなけれ ぱならないことについての認識の場合には、[その認識を推論し言葉と認識の対応関係を理解する原因が存在するのじゃ。
 ブラフマンとの]関係が知られていないので、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について教えるものではないのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドの諸聖典句は、ヴェーダの一部なので、聖典であることは周知の事実なのじゃ。
 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりすることを目的とする諸文章のことなのじゃ。
 それはたとえば次のように述べられているのじゃ。
 「常にあるいは臨時に、活動に向かうことあるいは活動から退くことを人に教示するものが、聖典と言われる」と。
 つまりウパニシャッドが聖典であることは周知の事実なので、ウパニシャッドの諸聖典句がブラフマンの本性について教えるということは否定されるのじゃ。

 さらに、ブラフマンの性質を専ら教示しているこれらウパニシャッドの諸聖典句に意味があるとは認められないというのじゃ。
 「汝はそれなり」という文章の意味を理解しても、輪廻者としての諸属性が止滅することはないからなのじゃ。
 何故なら、その文章の意味を聞いた人の 場合でも、輪廻者としての諸属性はそのままだからなのじゃ。

681避難民のマジレスさん:2022/11/03(木) 00:55:18 ID:OgyPC/Yw0
(つづき) p376-377 190左/229
3.1.4.理由(4)思惟等を命ずるウパニシャッドの活聖典句が無意味となるからである

  さらに、もし、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのなら、どうして聖典には、聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのであろうか。従っ て、それら(思惟等を命ずる聖典句)が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのである。そして、この遂行しなければならないもの(kārya)は、[遂行 しなければならないもの]それ自身へと駆り立てられる者(niyojya)を駆り立ててい るので、駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれ、また、[儀軌]以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの(apūrva,新得力)と呼ばれるのである553。さ らに、対象(アートマンの知識)を執行することなしには、それ(遂行しなければならないもの)は実現しないので、まさにその遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自ら[を限定する]対象でありかつ[自らを実現する]手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのである。また、遂行しなければならないものは、自ら[を限定する]対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定される のだが、それと同じように知識も、自己[を限定する]対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、それ(知識)を確定するためにそのようなアートマンを暗 示しているのである一 Bすなわち、それ(アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなのである554。たとえば同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていること(すなわち暗示されていること)も、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」555と述べられている。そして、儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの(新得力、遂行しなければならないもの)[を限定する]対象であ る知識にとっては、[新得力を]生ずるために執行しなければならないということであり、一方、それ(知識)[を限定する]対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのである。

脚注
553
554 ミーマーンサー学派のプラバーカラ派によれば、儀軌の文中の動詞のうち、願望法の接尾辞の語は、kārya(遂行しなければならないもの)を表示し、このkārya は、apūrva (新得力)および駆り立てるもの(niyoga)と同義であるとされている。一方、動司の語根の表示する意味は、様々な行為から生ずるをその供犠という行為から 生ずるものという形で一定のものに限定するという意味で対象と言われる。さてここで「知るべきであるという動詞について考えてみると、知るという動詞語根の意味する知識(知るという行為)が対象であり、この知識が生じてくるapūrvaを一定のものに限定しているのである。次にアートマンの知識について考えれば、知識には対象が必ずあり、知識はその対象によって限定されているのであるから、この知識は対象であるアートマンによって限定されていることになる。従って、ちょうど、供犠や知識などの対象によって限定されているapūrvaが遂行しなければならないものであるように、アートマンという対象によって限定されている知識もまた遂行しなければならないものなのである。ただし、供儀や知識の場合には、それが限定している遂行しなければならないもの(新得力)を生ずるためには、それらの行為を執行しなければならないが、アートマンの場合には執行する必要はなく、ただその存在が確定されるだけなのである。
555
(´・(ェ)・`)つ

682鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/03(木) 23:43:20 ID:nwQZKQi60
 反対が続くのじゃ。
 さらに、ブラフマンについて聞けば輪廻者としての諸属性が止滅するのならば、なぜ聖典には聴聞に加えてさらに思惟等が命じられているのか、というのじゃ。
 思惟等を命ずる聖典句が無意味になってしまうという誤謬に陥るという理由からも、ウパニシャッドの諸聖典句は、ブラフマンの性質について専ら教えるものではないというのじゃ。
 そうではなくて、アートマンについて知るという、遂行しなけれぱならないものについて専ら教えているのじゃ。

 この遂行しなければならないものは駆り立てるもの(niyoga)と呼ばれているのじゃ。
 儀軌以外の認識根拠によって まだ知られていないので、未知のもの,新得力と呼ばれるのじゃ。

 対象であるアートマンの知識を執行することなしには、遂行しなければならないものは実現しないのじゃ。
 その遂行しなけれぱならないものは、自らを実現するために、自らを限定する対象であり、自らを実現する手段であるアートマンの知識の執行を、暗示しているのじゃ。

 遂行しなければならないものは、自らを限定する対象に基づいて確定するので、対象である知識によって確定されるのじゃ。
 同じように知識も、自己を限定する対象であるアートマンが存在し なけぱ確定しえないので、その知識を確定するために、アートマンを暗示しているのじゃ。
 アートマンの知識)こそが、遂行しなけれぱならないものなの

 同じ趣旨のことが、「しかし、それ(儀軌によって 命じられたこと)を実現するために認められていることも、儀軌によって命じられていることのなかに含まれる、というのが聖典における 用法である」と述べられているのじゃ。

 儀軌によって命じられているということは、駆り立てるもの、新得力、を限定する対象である知識にとっては、それを生ずるために執行しなければならないということなのじゃ。
 その知識を限定する対象であるアートマンにとっては、自己の存在が確定されるということなのじゃ。


 つまり聖典が説いているは遂行できるアートマンであり、ブラフマンではないというのじゃな。
 梵我一如ではないというのじゃ。
 反対するものがそう言っているのじゃ。

683避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:05 ID:FuSmha0U0
3.1.5.ウパニシャッドは不死を望む者にブラフマンを知ることを命ずる儀軌なのである  p378-379 191左/229

   [反対主張に対する反論][どうして、附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのか。]556
   [反対主張]それ(アートマン)の性質の附託されたものは、[アートマン]以外のものを確定するので、それ(アートマンの性質の附託されたもの)によって、それ(アートマンの知識)が確定されることはないであろう。従って、このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのである。以上のことすぺてが、[『註解』本文中に]たとえ [聖典がブラフマンを知る認識根拠であったとして]も云々と述べられているのである。
  儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 [師シャンカラは]たとえば云々と述べているのである。「柱に獣をつなぐ[べきである]」557と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それ(柱)が通常知られていないものであるので、「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典句558一[それらは、「柱に獣をつなぐ[きである]」という]儀軌に従属するものである一から、浄化されて559特定の形をした木がその柱であると理解されるのである。アーハヴァニー ヤ祭火の場合も、同じように理解すべきである560。(1)聖典とは、[人を]活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、[事物の]本性について教えるものではなく、(2)[言葉は]、遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、〔事物の]本性に[関係するものでは]ないという二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている。すなわち、[聖典の目的は人を]活動に 向がわせ活動がら退かせるところにあるで始まり、従って、ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ヴェーダ諸聖典句)と同じなので、そういったもの(人を活動に向かわせ たり活動から退かせたりするもの)としてのみ、意味があるのであろうで終わる[箇所]でである。そして、遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく、[遂 行しなけれぱならないものへと]駆り立てられている人、[遂行する]資格のある人、遂行する人が存在しなければ[成り立た]ないので、[『註解』本文中に]、[遂行しな けれぱならないものへと]駆り立てられている人の区別が、[次のように]述べられて いるのである。そして、[このようにウパニシャッドの諸聖典句が]儀軌のためのものであれば云々と。「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても、[その場合に は、ブラフマンとなるように儀軌によって]駆り立てられている特定の人が予期されるので、ラートリサットラ祭の原則561に従って、[儀軌によって]駆り立てられている 特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのである。というのは、一方、ピンダ・ピトリ供犠の原則562に従えば、天界を望む者が[ブラフマンとなるよう儀軌によって]駆り立てられている人であると想定されることになるが、[「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という]釈義は、[天界という]目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからである。そして、ブラフマンとなるということは、不死であるということだから、不死であ ることを望む者には云々と[『註解』本文中に]述べられているのである。また。不死 であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、[ブラフマンを知ることで]生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな い。何故なら、聖典と矛盾するからである563。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

684避難民のマジレスさん:2022/11/04(金) 05:50:44 ID:FuSmha0U0
(つづき)
脚注
556
557 出典不明。
558出典不明。
559 従属儀軌によって命じられている従属祭が祭式に用いられるものあるいは用いられたものを浄化するためのものであることについては脚注541参照のこと。
560「アーハヴァニーヤ祭火において護摩を行うべきである」と儀軌によって命じられている場合に、アーハヴァニーヤ祭火とは何か」という疑問が生じたとき、「バラモンは春に祭火を設置すべきである」等の儀軌から、浄化によって限定された祭火 がアーハヴァニーヤ祭火だと理解されるのである。

561ヴィシュヴァジット祭の原則が、それに続いて、ラー トリサットラ祭の原則が述べられている。ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。それに対して、儀軌には果報が述べれていなくても、ラートリサットラ祭の場合のように釈義に述べられてい れば、それを果報と考えるべきである、というのがラートリサットラ祭の原則である。そして両原則の関係については、ヴィシュヴァジット祭の原則も天界という果報について述べている釈義(ラートリサットラ祭の場合と異なり実際には存在しない)を想定することによって、天界が果報だと考えられているのだ、とされるのである。従って、このラートリサットラ祭の原則に従えば、ブラフマンの知識の場合にも、儀軌中にはブラフマンを知ることの果報が述べられていなくても、「ブラフマンを知る者はブラフマンとな る。という釈義に基づいて、ブラフマンになることすなわち不死となることが果報であることになるのである。
562ピンダ・ピトリ供犠とは、新月の日の午後に行われる祖霊に対する供養であるが、これは従属祭ではなくて主要祭である。従って独自の果報をもつはずであるが、それが儀軌はおろか釈義にも述べられていない。従ってこの場合には、先のヴィシュヴァジット祭の原則に従って、天界が果報であることになるのである。ただしここで「ヴィソユヴァジット祭の原則に従えば」となっていないのは、ヴィシュヴァジツト祭は、本来はサットラ祭を執行する決意をして開始した人がそれを継続できなかったときに行われる贖罪祭であって、天界が果報というわけではないからである。
563「ブラフマンは真実(実在)であり、知識であり、歓喜である。」という聖典句を、ブラフマンが永遠であることを示すものとして、すなわちブラフマンが無常であるという推論と矛盾する聖典句として挙げている。
(´・(ェ)・`)つ

685鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 00:11:25 ID:Jj0/owdk0

 反対主張に対する反論なのじゃ。
 何故附託されたものが、儀軌によって命じられたものに関する認識の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 反対なのじゃ。
 アートマンの性質の附託されたものは、アートマン以外のものを確定するので、それよって、アートマンの知識が確定されることはないというのじゃ。
 このようなアートマンについて知ることを命ずる儀軌に従属するウパニシャッドの諸聖典句によって、このようなアートマンが確定されるのじゃ。

 儀軌に従属するものからでも事物の真の姿が確定される、ということに関する例を、 シャンカラはたとえば云々と述べているのというのじゃ。
 「柱に獣をつなぐ[べきである]」と、つなぐために儀軌によって命じられた柱に関して、それが通常知られていないものとしてたとえるのじゃ。
 「この柱とはいったい何か」という疑問が生じた時に、「カデイラ木でできた柱である」「柱を削る」「柱を八角にする」等の聖典から、浄化されて特定の形をした木がその柱であると理解されるのじゃ。

 聖典とは、人を活動に向かわせたり活動から退かせたりするためのものであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 その言葉は遂行しなけれぱならないことにのみ関係しているのであって、本性について教えるものではないというのじゃ。
 う二つの理由が、聖なる註解作者によって[次の箇所で]説明されている

 遂行しなけれぱならないものは、独立したものではなく駆り立てられている人資格のある人、遂行する人が存在しなければならないので、駆り立てられている人の区別が述べられて いるのじゃ。

 「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」という釈義から、ブラフマンになることがすでに実現されたものであるかのように理解されても駆り立てられている特定の人が予期されるので、駆り立てられている特定の人、すなわちブラフマンになりたいと望んでいる人が、必要とされるのじゃ。
 天界を望む者が駆り立てられている人であると想定されることになるが、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」釈義は、天界という目的と結びつかないので、全く間接的な意味しかもっていないということになるからなのじゃ。

 不死であるのは、不死であるという理由にのみ基づくのであるから、ブラフマンを知ることで生じたものであるという理由に基づいて、無常であると推論することはできな いというのじや。
 何故ならば、聖典と矛盾するから゛というのじゃ。

686避難民のマジレスさん:2022/11/05(土) 02:23:14 ID:ZhLKcSFQ0
3.2.ダルマの考究とブラフマンの考究には違いがない および 先の理由(3)と理由(4)の説明  p380- 381 192左/229

  [反対主張に対る反論]考究の対象に違いがあると述べられていたではないか564。すなわち、祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 一方、ここ(知識部)では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのである。従って、ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報一[それには]遂行が必要である一とは違っているはずである。
   [反対主張]そういうふうにはなりえない。何故なら、遂行しなければなら ないこと(行為)を命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからである。すなわち、「実にアートマンは見られるべきである」 565「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」566「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」567「アートマンのみを世界として念想すべきである」568「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」569等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずる。その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、それ(ブラフマン=アートマン)の本性を教えるのに役立つのである。[すなわち]ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓 喜である云々570というように。さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば、解脱という果報一[それは]聖典からは知られるが、[通常の 手段では]知られないものである一が生ずるであろう、と[も教えるのである]。[だが]もし、[ウパニシャッドの諸聖典句が]、遂行しなければならないこと(行為)を命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、[そこには]取捨という行為がありえないので、ウパニシャッドの諸聖典旬は、「大地は七州からなる」「かの王が行く」等の文章と同じように、無意味であることになろう。
  [反対主張に対する反論]事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の[文章の]場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されている。同じように、この[ウパニシャットの諸聖典句の]場合も、輪廻することのないアートマンという事物について語ることによって、[アートマンが]輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのであろう。
   [反対主張]もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が[取り去られる]ように、ブラフマンの本質について聞いただけで[自己を]輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのなら、あなたがた[反論者]の言う通り であろう。だが、[輪廻者であるとする錯誤が]取り去られることはない。何故なら、ブラフマンについて聞いた者にも、[それ]以前と同じように、楽し み・苦しみ等の輪廻者の属性が見られるからであり、また、「[アートマンは]聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきである」571と、[アートマンについて]聞いたのちに[それについて]思惟・瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるからである。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であるのは、[ブラフマンが、それについて]知ることを命ずる儀軌の対象だかわらなのである、と認めるべきである。

脚注
564 本訳300頁参照。
565 566 567 568 569
570「云々」には、真実(実在)、知識等が含まれる。
571
(´・(ェ)・`)
(つづく)

687鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/05(土) 23:11:54 ID:6HX6rPH60
 答えたのじゃ。
 考究の対象に違いがあると述べられていたというのじゃ。
 祭事部では、将来実現すべきダルマが考究の対象であり、 知識部では、すでに存在し、永遠に実現されているブラフマンが、考究の対象なのじゃ。
 ブラフマンの知識の果報も、ダルマの知識の果報とは違っているはずなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 遂行しなければなら ないことを命ずる儀軌と関係する限りにおいて、ブラフマンが教示されているからそうではないというのじゃ。
 「実にアートマンは見られるべきである」
 「アートマンは罪とは無縁であるが、それが探究されるべきであり、それが考究されるべきである」
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」
 7「アートマンのみを世界として念想すべきである」
 8「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」
 等の儀軌が存在する時、「このアートマンとはなにか」「そのブラフマンとはなにか」知りたいという気持ちが生ずるじゃろう。
 その時、あらゆるウパニシャッドの諸聖典句が、その本性を教えるのに役立つというのじゃ。

 ブラフマンは、常に充足し、本性上永遠で、全知で、悟っていて、解脱しており、認識であって、歓喜である云々というようにのう。
 アートマンを念想すれば、解脱という果報が生ずるであろうと。

 もしウパニシャッドの諸聖典句が、遂行しなければならないことを命ずる儀軌と無関係であって、事物についてのみ語っているとすると、無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 事物についてのみ語っていても、「これは縄であ る。これは蛇ではない」等の場合には、錯誤から生じた恐れを取り去るので、意味があることが経験されているのじゃ。
 同じように、この場合も輪廻することのないアートマンという事物について語ることによってアートマンが輪廻者であるという錯誤を取り去るから、意味があるのじゃ。

 反対なのじや。
 もし、縄であるということを聞げば蛇だという錯誤が取り去られるように、ブラフマンの本質について聞いただけで自己を輪廻者であるとする錯誤が取り去られるのならその通りなのじゃ。
 しかしそれで輪廻者であるとする錯誤が取り去られることはないじゃろう。
 ブラフマンについて聞いた者にも、以前と同じように、楽しみや苦しみ等の輪廻者の属性が見られるのじゃ。
 さらにアートマンは聞かれるべきである。思惟されるべきである。冥想されるべきであると、聞いたのちに思惟や瞑想すべきことを命ずる儀軌が見られるのじゃ。
 聖典がブラフマンの認識根拠であるのは、ブラフマンが、それについて知ることを命ずる儀軌の対象だからと認めるべきだというのじゃ。

688避難民のマジレスさん:2022/11/06(日) 01:15:59 ID:mFE37tps0
(つづき)   p381-382
  先に述べられていたように、ダルマの知識とブラフマンの知識は異なるので、[ブラフ マンの知識は]儀軌の対象ではない、という反論を[反論者が次のように]提示してい るのである。[考究の対象に違いがあると述べられていたではないか]云々と。[それを反対主張者が次のように]退けている。そういうふうにはなりえないのである云々と。
  [反対主張]さて、アートマンを直接見ること(darśana)は、儀軌によって命じら れるようなものではない。というのは、[直接見ることという語の語根である]/drśが 知覚を表しているので、それ(直接見ること)とは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかだろうからである。さらに直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかであろう。これらのうち[まず]、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(聴聞)は、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからである。また、一 般に経験されているような直接知覚(すなわち「私」という観念)も、[儀軌によって 命じられるようなものではない。というのは、それ(「私」という観念)は生得のものだからである。さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではない。というのは、それ(このような明析さ)は、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生ずるるものだからである。[それは]ちょうど、[クリームを作るために、牛乳にヨーグルトを入れると、副産物として乳漿[が生ずる]ようなものなのである572。従って、ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という 命令の執行者に対して、命じられていることになる。一方、「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのである。まさに以上のことが、[『註解』本文中では]、さらに、それ(ブラフマン=アートマン)を念想すれば 云々と述べられているのである。
  なお「[ウパニシャッドの諸聖典句の場合には]意味があり、思惟等[を命ずる文章が]認められるので」573ということに関して、[『註解』本文中に見られる]わその他の説明については自明である。

脚注
572「熱いミルクにヨーグルトを入れ、[生じた]凝乳は神々ヴィシュヴァデー ヴァたちに、乳漿は神々ヴァージンたちに捧げるべきである」という聖典の文章の解釈をめぐって、熱いミルクにヨーグルトを入れる目的は、凝乳を生ずることなのか、それとも乳漿を生ずることなのかということが問題となっており、結論としては、目的は凝乳を生ずることであり、乳漿は副産物として生ずるのだとされている。
573 本訳374頁24行以下参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

689鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/07(月) 00:12:29 ID:EJMTWIUA0
 反対なのじゃ。
 アートマンを直接見ることは、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 直接見ることという語の語根が知覚を表しているので、それは、聴聞のことであるか、直接知覚の ことであるかのいずれかじゃろう。
 直接知覚も、一般に経験されているような「私」という観念のことであるか、修習が優れたものとなった果に生ずるもののことであるかのいずれかじゃろう。

 これらのうちまず、聴聞は儀軌によって命じられるようなものではないのじゃ。
 それは、祭式に関する聴聞と同じように、ヴェーダの学習を命ずる儀軌のみによっても実現されるからなのじゃ。

 一般に経験されているような直接知覚、すなわち「私」という観念も、儀軌によって 命じられるようなものではないのじゃ。
 「私」という観念は生得のものだからだというのじゃ。

 さらに、ウパニシャッドに説かれているアートマンを対象とする修習によってもたらされる明析さも、儀軌によって命じられるようなものではないというのじゃ。
 このような明析さは、念想を命ずる儀軌からのみ、副産物として生じるものだからなのじゃ。

 ウパニシャッドに説かれているアートマンを念想すべきことが、不死性を望む人という命令の執行者に対して、命じられていることになるのじゃ。
 「[アートマンは]見られ るべきである」等は、儀軌に似てはいるが、儀軌ではないのじゃ。

690避難民のマジレスさん:2022/11/07(月) 04:28:31 ID:br8FubL20
4.ウパニシャッドの説くブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではないという答論  193左/229
4.1.祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なる ーーーブラフマンの知識の果報は解脱であるーー p382-385

   [答論]これ(以上の反対主張)に対して答えて言う。そうではない。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからである。
  天啓聖典と聖伝書から知られる身体的・言語的・心的行為がダルマと呼ば れ、その(ダルマ)を対象とする考究が、「さて、この故に、ダルマの考究が [開始されるべきである]」574と、スートラに述べられていたのである。また、 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、[それを]捨て去るために考究の対象となるのである。そして、これらダルマと非ダ ルマーー[それらはともに]教令によって規定されているが、[一方は]好ま しい事柄であり、[他方は]好ましくない事柄である一ーの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られてい る。また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いている575。従って、その(楽しみの)原因であるダルマにも、程度の差があると理解される。さらに、ダルマに程度の差があれば、[ダルマを遂行する]資格をもつ人にも程度の差があることになる。そして、[ダルマを遂行する]資格をもつ人の程度の差が、[その人の果報への]欲求や能力[の差]によることは周知の事実である。
  また、供犠(yāga)の執行者たちの場合には、[その]知識と三味が優れているので、北道を通って行き、単に儀式(ista. stの下に・)、慈善(apūrta)、布施を行ったにすぎない場合には、煙となって云々という順序で南道を通って行くのであるが576、その場合にも同じように、楽しみやそれ[を得る]手段に程度の差 があることが、「[行為の果報が]尽きるまで[そこに]留まって」577という 聖典句から理解される。同様に、人間から地獄や草木に至るまで、[その]わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、[その]程度に差があると理解される。また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その(苦しみの)原因である非ダルマーー[それは]禁止を命ずる教令によって規定されているー一およびそれ(非ダルマ)の遂行者にも、程度の差があると理解される。このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのである。
  同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」578と、先に述べた輪廻の性質に再び言及(anuvāda)している。[次に]「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」579と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であるということは、否定されているのだと理解される。というのは、[解脱すなわち身体のない状態が]ダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからである。

脚注
574 575 576 577 578 579
(´・(ェ)・`)
(つづく)

691鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 00:24:25 ID:z.9F0lN20
答えたのじゃ。
 祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるから、それらの主張は間違いだというのじゃ。
 天啓聖典と聖伝書から知られる身体的、言語的、心的行為がダルマと呼ばれ、ダルマを対象とする考究が、「さて、この故にダルマの考究が [開始されるべきである]」と、スートラに述べられていたのじゃ。
 殺害等の非ダルマも、禁止を命ずる教令によって規定されているので、捨て去るために考究の対象となるのじゃ。

 これらダルマと非ダ ルマの果報、すなわち知覚される楽しみと苦しみは、対象と感覚器官が接触することから生じ、身体・ 言語・心によって経験され、ブラフマー神がら草木に至るまで広く知られているのじゃ。
 また聖典は、人間らブラフマー神に至る身体をそなえた者には、楽しみに程度の差があると説いているのじゃ。
 そうであるからその楽しみの原因であるダルマにも、程度の差があると理解されるじゃろう。
 さらに、ダルマに程度の差があれば、ダルマを遂行する資格をもつ人にも程度の差があることになるのじゃ。
 そして、ダルマを遂行する資格をもつ人の程度の差が、欲求や能力によることは周知の事実であるのじゃ。

 同様に人間から地獄や草木に至るまで、わずかな楽しみは、教令によって規定されたダルマによってまさに実現されるので、程度に差があると理解されるじゃろう。
 また同様に、高級なあるいは低級な身体をそなえた者たちには、苦しみに程度の差があることが見られるから、 その苦しみの原因である非ダルマとその遂行者にも、程度の差があると理解されるのじゃ。
 このように、楽しみと苦しみの程度の差は、身体をそなえていることを前提として、ダルマ・非ダルマの程度の差に基づいて、無明等の欠陥のある人たちに生ずるのだが、[それは]無常であって輪廻に属すものであると、天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのじゃ。

 同じ趣旨で天啓聖典はまず、「実に身体をそなえている限り、好悪が滅せられることはない」と、先に述べた輪廻の性質に再び言及しているのじゃ。
 次に「実に身体がなければ、好悪に影響されることはない」と、好悪に影響さることを否定しているので、解脱と呼ばれる身体のない状態が、教令によって規定されたダルマの結果であることは否定されているのじゃ。
 解脱すなわち身体のない状態がダルマの結果であれば、好悪に影響されるのを否定することはありえないからなのじゃ。

692避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 00:34:21 ID:fXYFUQkc0
(つづき)   p384-385
   [反対主張]身体のない状態こそがダルマの結果ではないのか。
  [答論]そうではない。[身体のない状態は]、それ(アートマン)にとって本来の状態だからである。というのは、「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」580「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」581「実にこのプルシャは無執着である」582等の天啓聖典句があるからである。以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのである。

  以上の一部の[先師たちの]見解を、[師シャンカラは次のように]批判している。 これ(以上の反対主張)に対して答えて言うと。一部の[先師たちの]見解は[正しく]ない。何故か。何故なら、祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからで ある。すなわち、善業と悪業の果報は[それぞれ]楽しみと苦しみである。このうち楽 しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、[その]程度がますます高まってゆく。同じように苦しみにも、人間の世界から[地獄の]アーヴィーチィ界に至るまで程度に差がある。そしてこれら(楽しみと苦しみ)すべては、生み出されたものであって滅してゆくものである。一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非 身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではない。実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのである。
  その趣旨は以下の通りである。すなわち、ウパニシャッドの諸聖典句が念想を命ずる儀軌に従属していると認めているあなた[反対主張者]ですら、個人存在の本質が本来的にブラフマンーー[それは]永遠で清浄で悟っている等を本質としているーーであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めている。だがそれ(個人存在の本質がブラフマンであるということ)は、念想を対象とする儀軌の果報ではない。何故なら、[個人存在の本質がブラフマンであるということは]常にそうなので、[儀斬の命ずる念想によって]生み出されるようなものではないからである。また、無始の無明という覆いを取り除くことが[儀軌の果報であるということ]もない。何故なら、それ(無明の覆いを取り除くこと)は、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからである。また、明知が生ずることが[儀軌の果報であるということ] もない。というのは、それ(明知が生ずること)は、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからである583。

脚注
580 581 582
583この点に関しては、本訳284貢参照
(´・(ェ)・`)つ

693鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/08(火) 22:39:55 ID:JQGnxcCQ0
 反対なのじゃ。
 身体のない状態こそがダルマの結果ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 違うというのじゃ。
 身体のない状態はアートマンにとって本来の状態だからなのじゃ。
 「賢者はアートマンを、身体の中にあって身体のないもの、変化するものの中にあって変化しないもの、偉大にして遍在するものと知って、悲しむことがない」
 「アートマンは生気を備えず、思考器官をもたず、清らかである」
 「実にこのプルシャは無執着である」
 等の天啓聖典句によって証明されているのじゃ。
 
 以上のような理由で、解脱と呼ば れる身体のない状態は、執行すべき祭式の果報とは異なり、永遠であると確定したのじゃ。

 シャンカラは一部の先師による反対主張の見解は正しくないと批判しているのじゃ。
 何故ならば祭式の知識とブラフマンの知識は果報が異なるからなのじゃ。

 善業と悪業の果報は楽しみと苦しみであるのじゃ。
 このうち楽しみは、人間の世界からブラフマー神の世界に向かうにつれ、その程度がますます高まってゆくじゃろう。
 同じように苦しみにも、人間の世界から地獄のアーヴィーチィ界に至るまで程度に差があるのじゃ。
 そしてこれら楽しみと苦しみすべては、生み出されたものであって滅してゆくものなのじゃ。

 一方、アートマンの知識の果報は、絶対的、非身体的で、これ以上優れたものはなく、本来的に完成されているので、永遠であって、 生み出されたものではないのじゃ。
 実にそれは、果報のごときものであって、無明を取り除くだけで現れてくるのじゃ。

 反対主張者ですら個人存在の本質が本来的にブラフマンであることは、ウパニシャッドから理解されるのだと認めているじゃろう。
 だが個人存在の本質がブラフマンであるということは、念想を対象とする儀軌の果報ではないのじゃ
 何故ならば個人存在の本質がブラフマンであるということは常にそうなので、儀斬の命ずる念想によって生み出されるようなものではないからなのじゃ。

 無始の無明という覆いを取り除くことが儀軌の果報であるということもないのじゃ。
 何故ならば明の覆いを取り除くことは、無明と対立する明知が生じることでのみ、起こるものだからなのじゃ。

 明知が生ずることが儀軌の果報であるということ もないのじゃ。
 何故ならば明知が生ずることとは、聴聞・思惟を前提とする念想から 生じた潜在印象に助けられた時にのみ、心に生ずるからなのじゃ。

694避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:49:57 ID:21ocOwHE0
4.1.1.新得力と念想と直証との関係 p385-387 194右/229

  [反対主張]念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、[明 知が生ずる際に]心の手助けをするのではないか。儀軌によって命じられたことを遂 行した結果生ずる果報が、[来世ばかりでなく]現世で生ずることも実際に経験されて いるではないか。たとえば、カーリーリー祭やチトラー条等を命ずる儀軌(niyoga)の 場合には、[前者の]果報は[現世でと]決まっており、[後者の]果報は[現世でとも 来世でとも]決まっていないのである584。
  [答論]そうではない。音楽理論について修練(upāsanā)することから生ずる潜在印象が、新得力を必要とすることなしに、シャドジャ等[の音階]585を直観的に知るのに力があるように、ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、[新得力を]必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に対して力があるのである。また同じように、念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人がそれ(新得力)を遂行すべきものだと理解している、などということはありえないのである。何故なら、Aを望んでBを遂行するという矛盾が生ずるからである。
  [反対主張]それ(不死性)を望む人は、[念想という]行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を[そうだと理解しているの]ではないのであろう。
   [答論]それは正しくない。それ(念想という行為)がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から586知られるので、儀軌が無意味となるからである。また [念想を命ずる儀軌は籾を]つくこと等を命ずる儀軌と同じではない。何故なら、それ (籾をつくことを命ずる儀軌)の場合には、制限新得力(niyamāpūrva)が[儀軌]以 外のものに基づいて理解されることはないからである587。さらにもし、[ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられていれ]ば、それ(不死性)を望む者に念想を行う資格があるということもあろうが、ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはない。一方、ヴイシュヴァジット祭の原則588に従って、天界[が念想の果報]だと想定すると、それ(天界)は、それより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになる。従って、 (1)ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、(2)無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ること一[それは]悟りをもって終わる 一に基づいてのみ可能であり、(3)念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは[儀軌]以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」589というのは儀軌ではないのである。そうではなくて、それは儀軌に似たものにすぎないのである。[それは]たと えば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等[の聖典句]が、儀軌に似てはいるが儀軌ではない ようなものである590。以上が[『註解』本文の]趣旨なのである。
  [『註解』本文に]天啓聖典・聖伝書・論理によって確定しているのであるとあった が、[師シャンカラは]、そのうち天啓聖典を、同じ趣旨で天啓聖典は云々と示している のである。[そして]論理を、以上のような理由で云々と述べているのである。すなわち、「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」 [という論理なのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

695避難民のマジレスさん:2022/11/08(火) 22:50:45 ID:21ocOwHE0
(つづき)
脚注
584カーリー祭とは、収穫が豊穣であるための雨乞いの儀式であり、その果報は現世において、すなわちこの祭式のほとんど直後に得られてしかるべきものである。一方、チトラー祭とは、家畜を得るために行われるもので、その果報がいつ得られるという点に関する決まりはない。家畜を得て繁栄するという果報は、現世において得られることもあれぱ、来世において実現されることもあるのである。
585脚注258参照。
586「別の方法」とは、肯定法と否定法であるとされている
587 制限新得力とは、制限儀軌に従って行われた祭式から生ずる果報 のことであるが、制限儀軌とは、次のようなものである。すなわち、「行為(祭式)が様々な手段によって達成しうる場合に、ある手段が確立されようとしているとき、それとは別のまだ確立されていない手段を確立させる儀軌」が制限儀軌なのである。たとえば、「穀粒を打っ[べきである]」という儀軌が制限儀軌である。穀粒を脱穀するという行為は、爪でむくとか穀粒を打つとか、様々な方法で達成しうる。この場合に、ある手段(すなわち爪でむくという手段)が採用されようとしているときに、それとは別のまだ確立(採用)されていない手段(すなわち穀粒を打つという手段)を確立させるのがこの儀軌なのである。この脱穀の場合に、爪でむいても打っても、脱穀されるという目に見える結果(果報)に変わりはないので、目に見えない果報(新得力)に違いがあることになる。すなわち、穀粒を打って脱穀すれば、爪でむくのとは異なって、目に見えない果報(新得力)が生ずるとされるのである。これが制限新得力であり、この制限新得力が生ずることは、この制限儀軌からしか知られないのである。
588 脚注561;562参照。
589
590 脚注517参照。
(´・(ェ)・`)つ

696鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/09(水) 22:43:46 ID:eBxtCfAg0
 反対なのじゃ。
 念想から生ずる潜在印象と同じように、念想から生ずる新得力も、心の手助けをするのではないかというのじゃ。
 儀軌によって命じられたことを遂行した結果生ずる果報が、現世で生ずることも実際に経験されて いるからのう。

 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句の意味について念想することから生ずる潜在印象は、新得力を必要とすることなしに、個人存在がブラフマンであるという直証に力があるのじゃ。
 念想から生ずる新得力は、不死となる原因ではないので、不死性を望む人が新得力を遂行すべきものだと理解しているということはありえないのじゃ。
 あるものを望んだのに、他のものが得られるという矛盾になるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 不死性を望む人は、念想という行為のみを遂行しなければならないことだと理解しているのであって、新得力を遂行すべきものと理解しているのではないじゃろう。

 答えたのじゃ。
 念想という行為がそれ(直証)の手段であるということは、別の方法から知られるので、儀軌が無意味となるのじゃ。
 念想を命ずる儀軌は籾をつくこと等を命ずる儀軌と同じではないからのう。。
 何故なら籾をつくことを命ずる儀軌の場合には、制限新得力が儀軌以外のものに基づいて理解されることはないからだというのじゃ。
 
 ブラフマンになることとは別に不死性が釈義に述べられているなどということはないのじゃ。。
 ヴイシュヴァジット祭の原則に従って、天界が念想の果報だと想定すると、天界はそれより優れたものがありかつ滅してゆくものなので、念想の果報は永遠ではないことになるじゃろう。

 ブラフマンとなることは、無明の覆いを取り除くだけで実現され、無明の除去は、ウパニシャッドの諸聖典句の意味を知ることに基づいてのみ可能なのじゃ。、
 念想が潜在印象の原因であって、潜在印象は直証が生ずる際に心の手助けをするということは儀軌以外の方法によっても確定できる ので、「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」というのは儀軌ではないのじゃ。

 それは儀軌に似たものにすぎないのじゃ。
 ウパームシュ祭に関する聖典句の場合に、「ヴィシュヌ神がウパームシュととも に供犠に供せられるべきである」等の聖典句が、儀軌に似てはいるが儀軌ではないようなものじゃ。
 以上が[『註解』本文の]趣旨なのじゃ。

 シャンカラは「本来的なものはすぺて永遠である。たとえば純粋精神のように。そしてこれは本 来的なものである。それ故永遠である」[という論理を述べているのじゃ。

697避難民のマジレスさん:2022/11/09(水) 23:47:27 ID:eeZSdj9c0
4.2.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠なので行為に従 属しない p387 195右/229

  この(永遠なもの)のうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものであり、[それは]たとえば、世界は永遠であるとする論者にとっての地等[の元素]591や、サーンキヤ学派にとっての構成要素(guna)のように592、変異しつづけていても<同一のものである(tad evedam)>という認識が損なわれないもののことである。 しかし[解脱は]、最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく、 本性上自ら輝いている。それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、[過去・現在・未来の]三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が、解脱と呼ばれるのである。何故なら、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」593等の聖典句がああるからである。従って、それ(解脱)はまさにブラフマンであり、それ(ブラフマン)についてこの考究が開始されたわけだが、それ(ブラ フマン)がもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニ シャッドに]教示されており、さらに、その遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると、[解脱は]まさに無常であることになるであろう。そしてこのような場合には、解脱は、先に述べた祭式の 果報ーー[それは]程度の差が確立しており、無常であった一ーのうちの一種の優れたものであることになろう。だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているところなのである。従って、ブラフマンは、遂行しなければならない行為に従属するものとして[ウパニシャッドに] 教示されているのではない。

脚注
591ミーマーンサー学派等の見解である。
592純質(sattva)•激質(rajas)•翳質(えい質tamas)という世界を構成する三要素のことで、三要素か様々な比率で組み合わされることによって多様な世界か構成されているとされる。
593

4.2.1.解脱(ブラフマン)は変異することなく永遠である p388 196左/229

  実に他の者は、二種の永遠性について述べている。すなわち、変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることとである。このうち、[解脱が]永遠であると言う時には、それ(解脱)は変異しつつあるが永遠であるという[意味]ではないので、[師シャンカラは]この(永遠なものの)うち、あるものは云々と述べているのである。というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからである。詳論すれば次の通りである。すなわち、[ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば]、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかであろう。もし全体が変異するとすれば、その性質が損なわれずにはおかないことにる。またもし、一部が変異するのであれば、その[変異した]部分は、 それ(変異した部分以外の部分)とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかであ ろう。もし異なるとすれぱ、どうして、それ(ブラフマン=解脱)が変異することがあろうか。実にAが変異してもBは変異しないのである。何故なら、[もしAが変異すればBも変異するとすれば]、拡大適用という誤謬に陥るからである。またもし異ならなけれぱ、どうして全体が変異するといえようか。
(´・(ェ)・`)つ

698避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:42:45 ID:2xw.CApE0
>>694
ヴィシュヴァジット祭の原則
脚注561
・・・ここで問題となっているのは、祭式の果報が儀軌に述べられて いない場合には、何を果報と解すればいいかという点であるが、このような場合にはヴィシュヴァジット祭におけるように天界をヴィシュヴァジット祭報と考えるべきである、というのがヴィシュヴァジット祭の原則である。

>>684

(´・(ェ)・`)b

699避難民のマジレスさん:2022/11/10(木) 06:47:59 ID:2xw.CApE0
>>698
訂正
ヴィシュヴァジット祭におけるように天界を果報と考えるべきである、
(´・(ェ)・`)b

700鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 00:02:57 ID:KTvQbUPE0
 この永遠なもののうち、あるものは変異しつつあるが永遠なものだというのじゃ。
 たとえば世界は永遠であるとする論者にとっての地等や、サーンキヤ学派にとっての構成要素のように、変異しつづけていても同一のものという認識が損なわれないものなのじゃ。
 
  しかし解脱は最高の実在であって、変異することなく永遠であり、虚空のように遍在しており、あらゆる変化と無縁で、常に充足し、部分がなく本性上自ら輝いているものじゃ。
 
 それには、ダルマ・非ダルマおよびその果報(楽と苦)が、過去現在未来の三時に渡って伴うことはなく、そのような身体のない状態が解脱と呼ばれるのじゃ。
 何故ならば、「ダルマとも異なり、 非ダルマとも異なり、原因や結果とも異なり、過去や未来とも異なる」等の聖典句がああるからなのじゃ。

 その解脱はまさにブラフマンであり、そのブラフマンについてこの考究が開始されたのじゃ。
 そのブラフマンがもし、遂行しなければならない行為に従属するものとして教示されており、さらにその遂行しなければならない行為によって解脱が実現されるのだと認めるとすると解脱はまさに無常であることになるのじゃ。
 そしてこのような場合に解脱は、先に述べた祭式の果報のうちの一種の優れたものでしかないことになるのじゃ。
 だが解脱が永遠であることは、すべての解脱論者によって認められているから違うのじゃ。
 従って、ブラフマンは遂行しなければならない行為に従属するものとしてウパニシャッドに 教示されているのではないのじゃ。


 他の者は、二種の永遠性について述べているのじゃ。
 変異することなく永遠 であることと、変異しつつあるが永遠であることなのじゃ。
 このうち、解脱が永遠であると言う時には、その解脱は変異しつつあるが永遠であるのではないので、シャンカラはこのうち、あるものは云々と述べているのである。
 というのは、変異しつつあるが永遠であるというのは、究極的なものではないからなのじゃ。

 ブラフマン=解脱が変異しつつあるが永遠であるとすれば、それは、全体が変異するかあるいは一部が変異するかのいずれかになるじゃろう。
 もし全体が変異するとすれば、その性質が損なれるじゃろう。
 またもし、一部が変異するのであれば、その部分は、 他なの部分とは異なるか、あるいは異ならないかのいずれかじゃろう。
 もし異なるとすれぱ、それは変異しないのじゃ。
 実にAが変異してもBは変異しないのじゃ。
 何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからなのじゃ。
 またもし異ならないならば全体が変異することもないのじゃ。

701避難民のマジレスさん:2022/11/11(金) 01:51:14 ID:.FscfNds0
4.2.2.変異した部分と変異していない部分は異なっておりかつ異なっていないという反対主張 p388-389 196左/229

  [反対主張]それ(変異した部分と変異していない部分)は、異なっておりかつ異なっていないのである。詳論すれば次の通りである。すなわち、それ(両者)は、原因 を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっ ているのである。たとえば[金の]腕輪等は、金を本質とするという点では[原因である金と]異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では[原因である金と]異なるようなものである。
   [反対主張に対する反論]異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはない。
  [反対主張]それは正しくない。「矛盾する」というわれわれの認識は、いったいどこに存在するのであろうか。それは、認識根拠に反するようなところに存在するので ある594。一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で[正しいと認めるべきなのである]。[たとえば]「このイヤリングは金である」という同格関係に基づく認識には、[両者が]異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れて いる。詳論すれば次の通りである。すなわち[この場合]、両者が全く異ならないとすると、[「このイヤリングは金である」という文章は]同語反復であることになってしまう。一方、[両者が]完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関 係か成り立たないことになる。また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係(ādhāarāheyabhāva)の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係 (ekāśrayatva)の場合にも成り立たない。というのは、[ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について]、「鉢はナツメの実である」とは言わないし、また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからである。そしてまさに、この同格関係に基づく認識一[それは]否定されることがなく、疑問の余地がなく、すべての人が知っている一が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのである。このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているので、結果である世界は存在を本質とするという点では、[原因であ るブラフマンと]異ならないが、壼等の結果という姿では[原因と]異なるのである。 たとえば次のように言われている。「結果という姿では多様であるが、原因を本質とするという点では異ならない。たとえば、腕輪等の姿では異なるが、金を本質とすると いう点では異ならないのである」595と。

脚注
594
595 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

702鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/11(金) 23:58:53 ID:qiL6aIhY0
 反対なのじゃ。
 変異した部分と変異していない部分は、異なっておりかつ異なっていないというのじゃ。
 それら両者は原因を本質とするという点では異ならず、同時にまた結果を本質とするという点では異なっていると言えるからなのじゃ。
 たとえば金の腕輪等は金を本質とするという点では原因である金と異ならないと同時に、腕輪であることを本質とするという点では異なるようなものじゃ。

 答えたのじゃ。
 異なることと異ならないことというのは矛盾するから、同一の場所に共存することはないのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 それは正しくないのじゃ。
 「矛盾する」というわれわれの認識はないというのじゃ。
 それは、認識根拠に反するようなところに存在するのじゃ。
 一方、認識根拠によって理解されたものは、そのままの形で正しいと認めるべきなのじゃ。
 たとえばこのイヤリングは金であるという同格関係に基づく認識には、両者が異なっておりかつ異なっていないということが明確に現れているのじゃ。

 この場合、両者が全く異ならないとすると、このイヤリングは金であるという文章は同語反復であることになってしまうじゃろう。
 一方、両者が完全に異なっているとすると、牛と馬の場合のように、同格関係か成り立たないことになるのじゃ。
 また同格関係は、基体とその基体の上にあるものとの関係の場合にも、また同じ基体の上にあるものどうしの関係)の場合にも成り立たないのじゃ。

 というのは、ナツメの実とそれが置かれている基体である鉢について「鉢はナツメの実である」とは言わないのじゃ。
 また、同じ席にいるチャイトラとマイトラについて、「チャイトラはマイトラである」とは言わないからなのじゃ。
 この同格関係に基づく認識が、原因と結果は異なっておりかつ異なっていないのだということを確定するのじゃ。

 このように、もろもろの結果は原因を本質としており、さらに、原因の本質が存在であることは、すべてに認められているのじゃ。
 結果である世界は存在を本質とするという点では、原因であるブラフマンと異ならないが、壼等の結果という姿では原因と異なるのじゃ。

703避難民のマジレスさん:2022/11/12(土) 04:47:57 ID:O51dUIFk0
4.2.3.異なりかつ異ならないということはありえないので解脱は変異することなく永遠であるという答論 p389-391 196右/229

  [答論]以上の反対主張に対して次のように答える。もし、異なることが異ならないことと同じ場所に共存するとすれば、一体この異なることとは何なのか。もし互いに 存在しないということ(paraspārabhāva)であれば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのであろうか、それとも存在しないのであろうか。もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはない。もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはない。また、存在 と非存在が相反しないなどということもない。何故なら、共存することはありえない からである。あるいはもし、[共存することが]可能だとすると、異なることと異ならないこととが相反しないわけだから、腕輪と皿(vardhamānaka)596もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになる。さらに、[金の]腕輪が金と異ならないとすると、 [金の]腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じ ように、腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうであろう。何故なら、腕輪と金とが異ならないからである。とすれば、違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになろう。
  [反対主張][腕輪は]金であるという点では[イヤリング等と]異ならないが、腕輪であるという点では[異ならないわけでは]なく、その(腕輪であるという)点ではまさにイヤリングと異なるのである。
  [答論]もし[金の]腕輪が金と異ならないとすると、どうしてこれ(金の腕輪)が [金と同じように]イヤリング等に受け継がれることはないのか。またもし受け継がれ ないとすると、どうして[金の]腕輪が金と異ならないということになるのか。という のは、Xが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからである。ちょうど[花輪の]花が、[それを繋ぎとめる]糸とは異なるように597。そして、金であるという性質は、[腕輪やイヤリング等に]受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、「これはここにあるが、これはない」「これはこれとは[異なる]が、これはそうではない」「これは今あるが、これはそうではない」「これはこのようであるが、これは そうではない」等の区別が存在しないことになろう。何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。さらに[イヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、[だれも]そ のイヤリング等の区別を知りたいとは思わないであろう。何故なら、それら(イヤリング等)は金と異ならないうえに、それ(金)はすでに知られているからである。
   [反対主張][イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方では]イヤリング 等と金には違いが存在するので、[イヤリング等は]、金だと分かってもまだ知られてはいないのである。
   [答論][両者が]異ならないという面もあるのに、どうして[イヤリング等は、金だと分かっただけでは]すでに知られていることにはならないのか。それどころか、それら (イヤリング等)が知られることこそが、正しいはずなのである。何故なら、原因(金) が存在しない時に、結果(イヤリング等)が存在しないというのが原則(autsargika) であり、[ここでは]それ(結果が存在しないこと)は、原因が存在することによって否定されているからである598。そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになり、それ(イヤリ ング等)の考究および知識は無意味であることになろう。従って、Xが理解されている時にYが理解されていなければ、YはXとは異なるのである。たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるように。そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていない。従って、それら(イヤリング等)は金とは異なるのである。

脚注
596
597 糸は花に受け継がれているが、それぞれの花は他の花に受け継がれない
598否定法による証明である
(´・(ェ)・`)
(つづく)

704鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 00:11:52 ID:Wm4lhuJQ0
答えたのじゃ。
 異なることが異ならないことは同じ場所に共存しないのじゃ。
 もし互いに 存在しないのならば、それは金と腕輪のような原因と結果のあいだに存在するのか、それとも存在しないのかと問うのじゃ。
 もし存在しないとすれば、まさに同一であることになり、異なるということはないのじゃ。
 存在しないということで同じなのじゃ。。
 もし存在すれば、まさに異なっているのであって、異ならないなどということはないじゃろう。
   
 また、存在と非存在が相反しないなどということもないのじゃ。
 何故ならば、それらが共存することはありえない からなのじゃ。
 もし、共存することが可能だとすると異なることと異ならないこととが相反しないから、腕輪と皿もそれ自体異ならないという誤謬に陥ることになるじゃろう。
 金の腕輪が金と異ならないとすると、金の腕輪、王冠、イヤリング等は、金を本質とするという点で異ならないのと同じように腕輪を本質とするという点でも異ならないということになってしまうじゃろう。
 そうであるからそこには違いというものが現れないことになるから、金のみが実在であって、腕輪等は実在ではないことになるじゃろう。

 反対なのじゃ。
 腕輪は金であるという点ではイヤリング等と異ならないが、腕輪であるという点では異るというのじゃ。
  
 答えたのじゃ。
 もし金の腕輪が金と異ならないとすると、どうしてそれがが 金と同じようにイヤリング等に受け継がれないのかと問うのじゃ。
 またもし受け継がれ ないとすると、腕輪が金と異ならないということになるじゃろう。
 というのはXが受け継がれている時に、Yが受け継がれていなけれぱ、Y.はXとは異なるからなのじゃ。
 ちょうど花輪の花が、それを繋ぎとめる糸とは異なるようにのう。

 そして、金であるという性質は腕輪やイヤリング等に受け継がれていっても、イヤリング等は受け継がれてはいかないじゃろう。。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。
 またもし、存在性が受け継がれているからすぺての事物は異ならないとすると、何の、どこに、いつ、どうやってという等の区別が存在しないことになるのじゃ。
 何故なら、何の、どこに、いつ、どうやってという形で区別をする原因が存在しないからである。
 さらにイヤリング 等が金と異ならないとすると、それらは]遠くから見て金だと分かれば、だれもそのイヤリング等の区別を知りたいとは思わないじゃろう。
 何故なら、それらのイヤリング等は金と異ならないうえに、金はすでに知られているからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 イヤリング等は金と異ならないとはいっても、一方ではイヤリング等と金には違いが存在するので、それらは金だと分かってもまだ知られてはいないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 両者が異ならないという面があればイヤリング等は、金だと分かっただけですでに知られていることになるのじゃ。
 むしろイヤリング等が知られることこそが、正しいはずなのじゃ。
 何故ならば原因である金が存在しない時に、結果のイヤリング等が存在しないというのが原則であり、結果が存在しないことは、原因が存在することも否定されているのじゃ。
 そして、[両者が]異ならない時には、原因が存在する のだから、金が知られた時にはイヤリング等も知られていることになるのじゃ。
  
 たとえば、ラクダが 理解されている時に理解されていないロバは、ラクダとは異なるようにのう。
 そして、遠くから見て金だと理解されている時には、そのイヤリング等の区別は理解されていないのじゃ。
 従って、それらイヤリング等は金とは異なるのじゃ。

705避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:38:38 ID:fO1sW.K20
(つづき)    p391-392
   [反対主張]ではどうして、「イヤリングが金である」という同格関係があるのか。
  [答論]まず、基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないということは、すでに述べた通りである599。
  [反対主張]では、[金はイヤリング等に]受け継がれ、[腕輪等はイヤリング等に]受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのは、どのように[説明すればいいのか]。
   [答論]これらは、[両者が]異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たない、とすでに述べた通りである600。従って、異な ることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのであり、異なることに基づいて異ならないことが想定 されるのではない、と[考えるのが]正しいのである。すなわち、(1)異なることは異 なっているものに基づき、(2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいており、(3)同一のものがなけれぱ、[異なるものの]基体が存在しなくなるから、異なる ことが成り立たなくなり、(4)同一のものは異なることに基づかず、(5)「それはこれ ではない」という形の異なるという認識は、それと反対のもの(pratiyogin,すなわち 同一であること)601の認識に基づいており、(6)同一であるという認識はそれ以外の もの(すなわち異なるという認識)に基づかないので、異なること一[それは実在で あるとも非実在であるとも]表現し得ないものである一を想定するのは、異ならないこと(同一であること)に基づいているのである、というのが正しいのである602。同じ趣旨で、「粘土であるというのだけが正しいのである」603という天啓聖典句がある。従って、変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのは、そうではないのである。
  なお、虚空のようにという例は、他学派で604[永遠であると]認められているものである。というのは、われわれの見解では、それ(虚空)も結果なので永遠ではないからである。そしてここ(『註解』本文)で変異することなく永遠でありと言っている のは、[解脱が]実現すべき対象であることを退けているのである。また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを[退けているのである]。さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを[退けているのである]605。すなわち、穀粒の場合には、[水を]ふりかけることによって、浄化と呼ばれる部分(要素,amśa)が生ずるが606、ブラフマンの場合には、部分(avayava)がないので、すなわち要素(amśa)がないので、このような部分(要素)がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味である。[次に師シャンカラは、解脱が]人問の目的であることを[次のように]述べている。常に充足しておりと。充足[という語]によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているのである。というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからである。[さらに]楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、[師シャンカラは、解脱は]自ら輝いていると述べているのである。
  このように[師シャンカラは]、自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにして、[次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまう[ということを、次のように]述 べている。それ(ブラフマン)がもし云々と。さらに、[解脱が永遠であることは]聖 典によって否定されることはない。何故なら聖典は、これまで述べてきたような形で(すなわち解脱は永遠であると説いていると)理解し得るからである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

706避難民のマジレスさん:2022/11/13(日) 13:39:20 ID:fO1sW.K20
(つづき)
脚注
599 本訳389頁参照。
600 本訳389頁19行以下参照。
601 602 603
604 たとえばヴァイシェーシ力学派等。
605 解脱が実現すべき対象、到達の対象、変化してできるもの、浄化されるべき対象という四種のものではないという点については本訳402頁以下参照のこと。
606 供犠において神に捧げる祭餅を穀粒から作る過程で、「穀粒に水をふりかける[べきである]」どいつ儀軌によって、穀粒に水をふりかけてから祭餅を作ることが規定されているが、水をふりかけなくても祭餅を作るのになんら支障はないので、この行為からは目に見える結果は生じないことになる。だが、ミーマーンサー学派によれば、ヴェーダのなかにはなんら無意味なことは述べられていないはずであるので、この「穀粒に水をふりかける[べきである]」というヴェーダの文章は、穀粒を浄化することによって、目 に見えない結果(果報)である新得力を生み出すのだとされるのである。なおこの場合には、穀粒に浄化と呼ばれる部分(要素)が生じたと考えられるわけであるが、ブラフマンには部分がないのでブラフマン が浄化されることはないのである。
(´・(ェ)・`)つ

707鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/13(日) 23:19:13 ID:l1uWjDFM0
 反対なのじゃ。
 どうしてイヤリングが金であるという同格関係があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 基体とその基体の上にあるものとの関係、あるいは、同じ基体の上にあるものどうしの関係の場合には、同格関係は成り立たないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 金はイヤリング等に受け継がれ、腕輪等はイヤリング等に受け継がれないという違いや、金が知られている時にもイヤリング等が考究されるというのはなぜかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 これらは、両者が異ならないということが絶対的にそうである時と、絶対的にそうでない時には成り立たないからというのじゃ。
 異なることと異ならないことのうちどちらかを放棄するとすると、異ならないことに基づ いて異なることが想定されるのじゃ。

 (1)異なることは異なっているものに基づいているのじゃ。
 (2)異なっているものはそれぞれ同一のものに基づいているのじゃ。
 (3)同一のものがなけれぱ、異なるものの基体が存在しなくなるから、異なることが成り立たなくなるのじゃ。
 (4)同一のものは異なることに基づかないのじゃ。
 (5)形の異なるという認識は、それと反対のものの認識に基づいているのじゃ。
 (6)同一であるという認識はそれ以外のものすなわち異なるという認識に基づかないので、異なることを想定するのは、異ならないことに基づいているというのが正しいのじゃ。

 変異することなく永遠であることだけが、究極的なものであって、変異しつつあるが永遠であることというのはないのじゃ。

 虚空も結果なので永遠ではないのじゃ。
 そして本文で変異することなく永遠でありと言っている のは、解脱が実現すべき対象であることを退けているのじゃ。
 また、遍在しておりと言うのは到達の対象であることを、あらゆる変化と無縁でと言うのは変化してできるものだということを退けているのじゃ。
 さらに、部分がなくと言うのは、浄化 されるべき対象であるということを退けているのじゃ。
 ブラフマンは、部分がない、すなわち要素がないので、このような部分がなんらかでも行為によって生ずることはないのである、という意味なのじゃ。

 
 シャンカラは、解脱が人問の目的であることを次のように述べているというのじゃ。
 常に充足しておりと。
 充足という語によって、苦しみとは無縁な楽しみが暗示されているというのじゃ。
 というのは、飢えという苦しみの止滅と結びついた楽しみが、充足だからなのじゃ。
 さらに楽しみは、認識されていなければ、人間の目的ではないというので、シャンカラは解脱は自ら輝いていると述べているのじゃ。

 シャンカラは自己の見解によれば、解脱と呼ばれる果報は永遠であるということを、天啓聖典何等によって明らかにしているのじゃ。
 [次に]解脱は行為によって 実現されるとすれば無常であることになってしまうということを、述べているのじゃ。
 さらに解脱が永遠であることは聖 典によって否定されることはないのじゃ。
 何故ならば聖典は、これまで述べてきたような形で、解脱は永遠であると説いていると理解し得るからなのじゃ。


 解脱は永遠であり、全てであり、分裂していないというのじゃ。
 それはもとからあるもののであり、修行とかで人間の心が変異したりしてできるものではないというのじゃな。
 解脱とは変異ではなく、心の回帰であるといえるのじゃ。

708避難民のマジレスさん:2022/11/14(月) 05:16:49 ID:loidiCpM0
4.3.ブラフマンとアートマンとの同一性を知れば行為を介在する ことなく即座に解脱する
  p.393-394 198右

  さらに、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」607「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」608「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」609「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」610「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」611「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷い
があろうか。どんな悲しみがあろうか」612等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しており、[ブラフマンの知識と解脱との]中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているのである。同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」613という[聖典句も]、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為が[介在することを]妨げるものとして引用しておくこ とにする。[それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じである。
  さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」614「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」615「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」616等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのである。また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられた[次のような]スートラがある。すなわち、 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱(apavarga)が[生ずるのである]」617と。そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのである。

脚注
607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617
(´・(ェ)・`)
(つづく)

709鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 00:33:25 ID:H1q7SeVA0

 さらに、
 「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」
 「高くかつ低い者を見た時、彼の行為は滅するのである」
 「ブラフマンの歓喜を知る者 はなにものも恐れない」
 「ジャナカ王よ、汝は無畏に達したのである」
 「それはまさに自らを『私はブラフマンである』と知った。それ故、それは一切となったのである」
 「[万物が]唯一であることを知った者にどんな迷いがあろうか。どんな悲しみがあろうか」

 等の天啓聖典句は、ブラフマンの明知の直後に解脱を示しているというのじゃ。
 ブラフマンの理解と解脱の中問に、遂行しなければならない他の行為が介在することを妨げているというのじゃ。

 つまりブラフマンは観てしまえば解脱は自然に起こるというのじゃな。
 ブラフマンを理解すれば、即解脱が起こるのじゃ。

 同じように、「実にこれを見て、聖仙ヴァーマデーヴァは、『私はマヌであったのだ』『私は太陽であったのだ』と理解したのである」
 という聖典句も、ブラフマンを見ることと万物のアートマンとなることとの中間に、遂行しなければならない他の行為がないことを示しているのじゃ。
 それは]ちょうど、「立っていて歌う」という言えば、立っていることと歌うこととの中問に、同じ行為者の別の行為が存在しないことが分かるのと同じようにのう。

 さらに、「実に汝はわれらの父であり、われらを無明の彼岸へ渡らせてくれるのである」
 「実に私は神聖なる聖仙たちから『アートマンを知るものは悲しみを超越する』と聞いたのです。神聖なる者よ、この私が悲しんでいるのです。神聖なる者よ、その私を悲しみの彼岸に渡らせてください」
 「神聖なるサナトクマーラは、汚れが滅した者に対して、暗闇の彼岸を示すので ある」
 等の聖典句は、アートマンの知識の果報が、専ら解脱の障害となるものを止滅することにあるということを、示しているのじゃ。

 また同じ趣旨で、師が著し論理で支えられたスートラがあるのじゃ。
 「苦しみ、生、活動、過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのじゃ。
 そして誤った知識は、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識によって取り除かれるのじゃ。

710避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 07:41:43 ID:sfCtiVOE0
(つづき) p394-395
  さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもの[なの]で、儀軌 に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあることを、[師シャ ンカラは、次のように]述べている。さらに「ブラフマンを知る者は...」云々と。ま た、明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことにのみよるのであり、それ自身で[解脱の手段であるのでは]ないし、新得力を生み出すことによってでもないのである。このことに関しても、[師シャンカラは、次のような]諸天啓聖典句を引用している。さらに「実に汝はわれらの父であり...」云々と。さらに同じ趣旨 のものとして、ただ単に諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラ618も存在することを、[師シャンカラは次のように]述べているのである。 また同じ趣旨で師が著し云々と。ところで師とは、プラーナに次のように定義づけら れている。「聖典の意味を集成し、[弟子たちに]良い行い(ācāra)をさせ、自らも良い行いをする(ācarate)ので、師(ācārya)と言われるのである」619と。そして、このような師によって[次のような]スートラが著されたのである。「苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消 滅するので、解脱が[生ずるのである]」と。[ここに]述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するのである。[それは]ちょうど、粘液が消滅すれば、粘液によって生じた熱が消滅するようなものである。[すなわち]、生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのである。そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのである。そしてそれ(無明)は、 [無明と]対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識一[それは]悟りをもって終わる一によって、滅せられるのである。従って、解脱とは・無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知(念想)の結果でも、それ(明知=念想)によって生じた新得力の結果でもない。 これがこのスートラの意味なのである。[ただし}このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味あいでのみ紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているわけではない。すなわち、 このように他学派の師も認めているので、この趣旨(つまり真理の認識に基づいて誤っ た認識が取り除かれるということ)が、確実なものとなるというわけなのである。

脚注
618アクシャバーダとは、ガウタマことである。
619 出典不明。ここでは師という語を、良い行いをする。という語源から説明しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

711鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/15(火) 22:59:55 ID:V/tVZ63I0
 さらに、「解脱は、知識から生ずる新得力によって生み出されたもので、儀軌に基づいている」というこの見解を妨げる天啓聖典句がたくさんあるとシャンカラは述べているというのじゃ。
 また明知が解脱の手段であるのは、二種の無明という障害を取り除くことのみによるのであるとシャンカラは述べているというのじゃ。

 諸天啓聖典句ばかりでなく、師アタシャパーダ作の論理に基づくスートラも存在することシャンカラは述べているというのじゃ。
 師とはプラーナに次のように定義づけら れているのじゃ。
 聖典の意味を集成し、弟子たちに良い行いをさせ、自らも良い行いをするので、師と言われるのである」と。

 このような師によって次のようなスートラが著されたのじゃ。
 苦しみ、生、活動、 過失、誤った知識のうちで、それぞれ後のものが消滅すると、その直前にあるものが消滅するので、解脱が生ずるのであると。
 述べられている順序によれば、 後のものが原因であり、前のものが結果であって、原因が消滅すれば、結果は消滅するというのじゃ。

 生が消滅すれば苦しみが消滅し、活動が消滅すれば生が消滅し、過失が消滅すれば活動が消滅し、誤った知識が消滅すれば過失が消滅するのじゃ。
 そして、誤った知識すなわち無明は、食欲等を生ずるというまさに経験されて いるような形で、輪廻の根本的な原因となっているのじゃ。
 そして無明は、対立する真理の知識、すなわちブラフマンとアートマンは同一であるという認識によって、滅せられるのじゃ。

 解脱とは無明が成することによってブラフマンの本質が顕現することなのであって、明知、念想の結果でも、それによって生じた新得力の結果でもないのじゃ。
 これがこのスートラの意味なのじゃ。
 このスートラは、真理の認識に基づ いて誤った認識が取り除かれるのだという意味で紹介されているのであり、ここでアクシャバーダの見解が真理の認識だと認められているのではないのじゃ。。
 このように他学派の師も認めているので、この趣旨が確実なものとなるのじゃ。

 この他学派とはニヤーヤ学派だというのじゃ。
 観察によって認識主体などを見極めることで、悟りを目指す学派なのじゃ。

712避難民のマジレスさん:2022/11/15(火) 23:57:56 ID:5XJU9Nfk0
4.4.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものであるという反対主張 p395-396

  [反対主張]もし[ブラフマンと個人存在(アートマン)が同一であるという認識が すでに存在する事物を対象として]いれば、それは、多様性の現われという誤った認識 を滅するであろうし、また、儀軌の対象となることはないであろうが、[ブラフマンと 個人存在が]同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではな い。そうではなくて、[その認識は]想像上の同一視(sampad)等の性質のものなので ある。従って、[そのブラフマンと個人存在が同一であるという認識は]、儀軌以前に は成立しておらず、人間の欲求によって成立するはずなので、儀軌の対象となるであろう。
  たとえば[次の通りである]。心(manas)は、無限に変化するという点で、ヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い 浮かべる。そして、心という[思い浮かぺるための]基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想する。そうすることに よって、無限の世界を獲得するのである。それと同じように、個人存在は、精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思う。そして、個人存在という [同一視の]基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想狐そう することによって、不死性という果報を獲得するのである620。
  一方、附託の場合には、[附託の]基盤が主なので、[それを]附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのである。たとえば、「心をブラフマンとして念想すべきである」621とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」622というように。そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」623とされるのである。

脚注
620ブラフマンと個人存在は精神という性質が類似している。この類似性に基づいてブラフ マンが個人存在という基盤の上に想定される。そしてその想像上の同一視の基盤である個人存在を無視し て、ブラフマンだけが主に瞑想され、それによって不死性という果報が獲得されるのである。
621 622
623附託場合には、その基盤が主要なものであり、それが附託されたものの性質をもつものとして瞑想されるのである。たとえば、真珠母貝に銀が附託される場合に、附託の基盤は真珠母貝であり、それに銀が附託される。真珠母貝を銀だと誤認するとき、基盤である真珠母貝が銀の性質をもつものとして瞑想さ れているのである。従って、心をブラフマンとして念想する場合にも、ブラフマンの附託されている心が ブラフマンの性質をもつものとして瞑想(念想)されるのである。同じく、ブラフマンと個人存在の場合にも、ブラフマンの附託されている個人存在が、ブラフマンの性質を持つものとして瞑想されるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

713鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/17(木) 00:43:48 ID:NIaONxU60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、すでに存在する事物を対象としているのではないというのじゃ。
 その認識は想像上で同一視しているだけというのじゃ。
 ブラフマンと個人存在が同一であるという認識は、儀軌以前には成立しておらず、人間の欲求によって成立するから儀軌の対象となると主張しているのじゃ。

 心は無限に変化するという点で、神々であるヴィシュヴァデーヴァたちと類似しているので、ヴィシュウァデーヴァたちを心のなかに思い浮かべるのじゃ。
 心という基盤を存在しないかのように見なして、主に思い浮かべたヴィシュヴァデーヴァたちだけを瞑想するのじゃ。
 そうすることによって無限の世界を獲得するというのじゃ。
 
 つまりは神々を観想して一体化するサマーディの状態を実現するのじゃな。
 聖典に記されているのはその行だと言うのじゃ。

 それと同じように個人存在は精神という性質が類似しているので、ブラフマンと同一であると思念するのじゃ。
 個人存在という基盤を存在しないかのように見なして、主にブラフマンを瞑想することによって、不死性という果報を獲得するのというのじゃ。

 一方、附託の場合には基盤が主なので、それを附託されたものの性質をもつものとして瞑想するのじゃ。
 たとえば、
 「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」
 という聖典の文句のように。

 そして同じように、ブラフマンではない個人存在を「ブラフマンとして念想すべきである」と聖典の言葉通り遂行するというのじゃ。

714避難民のマジレスさん:2022/11/17(木) 01:57:01 ID:3atWFrfo0
(つづき)   p396-397
  また、特定の行為との結合に基づいて[異なるものが同一視されることがある]。たとえば、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」624「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」625という場合のように。実に、外界に存在する風の神は、火等を飲み込むのである。というのは、世界の最終的な帰滅のときには、それ(風の神)は火等を飲み込んで、滅ぼし、自らのなかに存在させるからである。たとえば、ドゥラヴィ ダ・アーチャーリアは[次のように]述べている。「[すべてを]滅ぼすから、また[すべてを]取り込んで自己のものとするから、風は[すべてを]飲み込む者なのである」 626と。そして、内的な生気も[すべてを]飲み込む者である。すなわち、それ(生気) は言葉等のすべてを飲み込んでしまうのである。というのは、死ぬときに、それ(生気)がすべての器官を取り込んで旅立って行くからである。ちょうど、このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように627、[身体等を]成長させる(brhana)という行為を媒介として個人存在(アートマン)をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すのである628。
  以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為で ある。何故なら、[それらの行為は]新得力を対象としている(生み出す)からである。 たとえば、讃歌(Stuta)や讃詞(śastra)のように629。だがアートマンは、行為に従属する供物(dravya)なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているのである。たとえば、ダルシャプールナマーサ祭の章に、「ギーが[祭主の]妻によって 見つめられる[ぺきである]」630と述べられているが、その章に含まれている見つめることは、ウパームシュ祭に従属するギーという供物を浄化するためのものなので、従属 祭として命じられているのである631。同じように、「アートマンは実に見られるべきである」632というような、アートマンー一[それは祭式の]執行者であるから祭式に従 属している一ーを見ることは、従属祭として命じられているのである。何故なら、「一 方、ある行為によって供物が生み出される(準備される)とき、その[行為]は、従属祭だと見なされるのである」633という原則があるからである。

脚注
624 625
626 出典不明。
627 十方とは四方と四椎と上下である。
628 風や生気が、飲み込むという行為と結び付いているから飲み込む者と呼ばれるように、個人存在は成長させる(brhana)という行為と結び付いているのでブラフマンと呼ばれるのである。なお、ブラフマン(brahman)という語が、/brh (増大する、成長する)という語源 から説明されることについては、脚注375参照のこと。
629 旋律をつけて神を(試→讃)えるのが讃歌であり、旋律をつけずに神を讃えるのが讃詞である。これらの讃歌や讃詞を唱えることが従属祭なのか主要祭なのかということが問題にされている。まず、反対主張によれば、讃歌や讃詞を唱えることは、(1)供犠という主 要なものと神(それは讃歌や讃詞に言及されている)という従属するものとの関係を明確にし、(2)神の性質を明らかにするという目に見える結果を生ずるから、従属祭であるとされる。それに対する答論は次 の通りである。(1)もし、讃歌や讃詞を唱えるという行為が、神の性質を明らかにするという目に見える 結果しか生じないのなら、ある儀軌が無意味になってしまうし、また(2)讃歌や讃詞は神を(教→讃)えているのであって、神の性質を明らかにしているのではないから、神の性質を明らかにすることが讃歌や讃詞を唱えるという行為の結果ではない。従って、讃歌や讃詞を唱えるという行為は、神の性質を明らかにするという目に見える結果以外のもの、すなわち、目に見えない結果である新得力を生ずるはずである。このように讃歌や讃詞を唱えるという行為は、新得力を生ずる主要な祭式なのでる。
630 天啓経には必ず、ダルシャプルナマーサ祭を扱っている章があり、この文章はその中にでてくるものである。
631 ダルシャプルナマーサ祭で、火の神アグニに祭餅を捧げたあと、プラジャーパティーあるいはアグニとソーマあるいは、ヴィシュヌに黙ってギーを捧げるウパームシュ祭というものが行われる。このギーを祭主の妻が見つめて浄化するわけであるが、このギーを見つめるという行為(祭式)はウパームシュ祭に
従属する行為(祭式)である。
632 633
(´・(ェ)・`)つ

715鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 00:00:14 ID:O5lFzwTw0
まだ反対が続くのじゃ。
 特定の行為との結合に基づいて異なるものが同一視されることがあるというのじゃ。
 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」と「生気は実に[すべてを]飲み込む者である」という場合のようになのじゃ。

 このように風や生気を飲み込む者だと瞑想することが、十方の世界を明らかにするように、成長させるという行為を媒介として個人存在をブラフマンだと瞑想することは、不死性という果報を生み出すというのじゃ。
 
 以上の三種の見解においてはともに、アートマン認識のための念想等が主要な行為だというのじゃ。
 何故なら、それらの行為は新得力を対象としているからなのじゃ。

 アートマンは、行為に従属する供物なので、アートマンを見ることは浄化として命じられているというのじゃ。
 「アートマンは実に見られるべきである」というようなアートマンを見ることは、従属祭として命じられているのじゃ。
 何故ならば「一 方、ある行為によって供物が生み出されるとき、その行為は、従属祭だと見なされるのである」という原則があるからなのじゃ。

716避難民のマジレスさん:2022/11/18(金) 00:20:01 ID:et44OVjI0
4.5.ブラフマンとアートマンとの同」性の認識は想像上の同一視 等の性質のものではないという答論   p397-398

  さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心(manas)は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」634というような、想像上の同一視ではない。また、「心をブラフマンとして念想すべきである」635とか「太陽がブラフマンであるというのが教えでである」636いう場合に、ブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質 のものでもない。また、「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもない。さらにまた、ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもない。というのは、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」639「私はブラフマ ンである」640「このアートマンがブラフマンである」641等の聖典句中の諸語の趣旨の一致一[それらは]ブラフマンとアートマンとが同一であるとい う事実を専ら明らかにしている一が、損なわれることになるからである642。 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することになろう。さらに、 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」644等の、 [アートマンが]それ(ブラフマン)の状態となることを説く諸聖典句は、正 しく理解されないことになろう。従って、ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということ はないのである。

脚注
634
635 脚注621参照。→参照先省略
636 脚注622参照。→参照先省略
637 脚注624参照。→参照先省略
638脚注625参照。→参照先省略
639 640 641
642これらの聖典の文章は、ブラフマンとアートマンとが実際に同一であることを説いている。従ってもし、ブラフマンとアートマンとの同一性が想像上の同一視等であって、実際には同一ではないとすると、これらの聖典の文章が損なわれることになるのである。
643 644
(´・(ェ)・`)
(つづく)

717鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/18(金) 23:25:52 ID:LUCU52Jw0
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は、「実に 心は無限である。ヴィシュヴァデーヴァたちは無限である。それ によって彼は、まさに無限の世界を勝ちとるのである」というような、想像上の同一視ではないというのじゃ。
 
 また「心をブラフマンとして念想すべきである」とか「太陽がブラフマンであるというのが教えである」いう場合にブラフマンのイメージが心や太陽に附託されているのとは異なり、附託という性質のものでもないのじゃ。

 「風は実に[すべてを]飲み込む者である」637「生気 は実に[すべてを]飲み込む者である」638というのとは異なり、特定の行為との結合に基づいているわけでもないのじゃ。
 
 ギーを見つめること等の行為とは異なり、祭式行為に従属する要素の浄化という性質のものでもないのじゃ。

 ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだと認めると、「汝はそれなり」とか「私はブラフマンである」とか「このアートマンがブラフマンである」等の聖典句中の諸語の趣旨の一致が損なわれるからなのじゃ。
 また「心のこだわりが解けて、あらゆる疑いが断たれる」643等の、無明の止 滅という果報を説く諸聖典句が矛盾することに
 [ブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が]想像上の同一視等であるとする見解に立つと、「ブラフマンを知る者はまさにブラフマンとなる」等の諸聖典句は、正しく理解されないことになるじゃろう。

 そうであるからブラフマンとアートマンとは同一であるという認識が、想像上の同一視等の性質のものであるなどということはないのじゃ。

718避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 06:15:54 ID:gVdKmW6k0
(つづき) p398-400 201左/229
  [答論]だから[師シャンカラは、以上の反対主張に対して次のように]答えている のである。さらに、ブラフマンとアートマンとは同一であるというこの認識は云々と。 何故か。というのは、ブラフマンとアートマンとが同一であるという認識が想像上の同一視等の性質のものだ[と認めると]云々だからである。
  確かに、ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、そ れ(ダルシャプールナマーサ祭)に従属するギーを浄化するというのは正しい。だが、 「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな[祭式に関する]章にも述べら れていない。また[確かに]、「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者は[自己に ついての悪評を聞くことがない]」645という[聖典句]は、特定の章で述べられてはいなくても(anārbhyādhīta)646、ジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈(vākya)によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになる647。だが、アートマンの場合に はそれとは異なる。すなわち、もし[アートマンが祭式と一定の関係に]あれば、それ(アートマン)を見ることは、祭式に従属することになり、また祭式のためにアー トマンを浄化することにもなるだろうが、アートマンは祭式と一定の関係にはないのである。従って、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、儀軌ではあっ ても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず (viniyogabhańga)、また未知の果報を対象としている(生み出す)ので、主要祭なのである。従属祭ではないのである648。
  以上の批判は、広範囲に渡るものなので、[『註解』本文には]述べられておらず、[そこではただ]すべての立場に共通する批判が述べているだけであるが、その意味は明白 なので説明の必要はない。

脚注
645
646 儀軌には、特定の祭式にのみ関係する特定儀軌と特定の祭式のみにかかわらない一般的な儀軌である不特定儀軌があり、後者は基本祭すぺてにたいして適用される。ここで述べられている「バルナ材云々」という儀軌は不特定儀軌であり、特定の祭式について述べている章のなかにでてくるものではないのである。
647文内文脈とは、「近接した発声のことであり、近接した発声とは[行為によって]実現されることを示す第二格等(の格語尾)が[そこに]存在しなくても、実際上主従の関係にあるものを述べている二つの単語 が同時に発音することである」とされる。たとえば、この「バルナ材でできたジュフー祭杓」という場合には、(バルナ材でできた)という語も(祭杓)という語 もともに主格であるために、第二格は行為によって実現されるもの、すなわち行為に対して主となっているものをあらわし、他の諸格はそれぞれ行為に対して従となっているものをあらわすと解釈して、従属関係を決定する方法を用いることができない。しかしながら、ここでは、これらの語は近接して発音されており、また実際上主従の関係にあるものが、これらの語によって述べられている。従って、バルナ材製であることがジュフー祭杓に対して従属関係にあることが知られるのである。
648 「金を身につけるべきである」という儀軌は、特定の祭式と無関係に聖典に述べられている文章である。まず、反対主張によれば、この儀軌は次のような理由で、アグニホートラ祭の祭式に従属する祭式だとされている。(1)主要祭であるために必要な供物や神格が述べられていない。(2)この儀軌は、アードヴァリヤ(アドヴァリュウ祭官に所属する)•ヴェーダに述べられているので、この行為はおそらくアドヴァリュウ祭官が行うものと思われる。すなわちその行為は、主要な祭式のためのものなのである。また、金を身につけるのは、祭式のために行われるものである。以上の反対主張に対して答論者は、次のような理由で、この金を身につけるという祭式は主要祭であるとしている。すなわち、(1)この祭式から生ずる独立した果報(未知の果報)、すなわち敵の顔が青ざめるという果報が述べられている。 (2)この儀軌が他の祭式に従属することを示すような関係儀軌(脚注505参照)が存在しない。このように「金を身につけるべきである」 という儀軌の命ずる祭式は、主要祭であって従属祭ではないのである。同じように、「アートマンは見られるべきである」という場合にも、これを儀軌だと考えると、(1)独立した果報(未知の果報、たとえ ばアートマンを知ること)を生じ、(2)この行為が他の行為(祭式)に従属することを示す関係儀軌が存在しないので、この行為(祭式)は主要祭であって従属祭ではないのである。
(´・(ェ)・`)つ

719鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/19(土) 23:51:21 ID:nrj4ujyY0
 ダルシャプールナマーサ祭の章に述べられているギーを見つめることが、ダルシャプールナマーサ祭に従属するギーを浄化するというのは正しいというのじゃ。。
 しかし「アートマンは実に見られるべきである」等は、どんな祭式に関する章にも述べられていないのじゃ。

 「バルナ材でできたジュフー祭杓を用いる者」という聖典句は、特定の章で述べられてはいなくてもジュフー祭杓が祭式と一定の関係にあるので、「ジュフー祭杓」という語は文内文脈によって祭式を思い起こさせるから、バルナ材製であるということは祭式に従属することになるのじゃ。

 しかしアートマンの場合に はそれとは異なるのじゃ。
 アートマンは祭式と一定の関係にはないののじゃ。

 この「アートマンは実に見られるべきである」という聖典句は、儀軌ではあっても、「金を身につけるべきである」という場合と同じように、関係儀軌が適用されず、また未知の果報を対象としているので、主要祭だというのじゃ。
 従属祭ではないというのじゃ。
 
 つまり他の祭式に従属するものではないということじゃな。

720避難民のマジレスさん:2022/11/19(土) 23:57:48 ID:KKmI94.E0
4.6.ブラフマンの知識は人間の行為に基づかないブラフマンは知るという行為の対象ではない p400-401 202左/229

  従って、ブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではない。では何に基づくのか。直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのである。このようなブラフマンおよびその(ブラフマンの)知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものの中に含めることはできない。また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもない。何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」649とあるように、[ブラフマンが]知るという行為の対象であることは否定されているからである。また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。また同じく[次の ような、ブラフマンが]念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もある。すなわち、まず、「言葉によって表現されないものであり、それに よって言葉が現れてくるところのものである」651と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであると知れ。人がこれ(ブラフマン) であると念想しているものはそうではない(ブラフマンではない)」652と[述べられているのである]。

  [反対主張]ブラフマンが対象でなければ、聖典は[ブラフマンを知る]典拠とはなりえないであろう653。
  [答論]そうではない。何故なら、聖典は、無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているからである。実に聖典は、「これである」というような形で、ブラフマンを対象として明らがにしようとするのではないのである。ではどうするのか。[聖典は]、内的なアートマンであるから 対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象・認識主体・認識等の区別を取り除くのである。このような趣旨で、次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らないのであ る。[またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」654「見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」655と。従って、無明に よって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのである。

  さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するので、[師シャンカラが次のように]述べているのである。[「ブラフマンは]知るという行為の対象[たがら、行為によって将来実現されるべきもののなかに含まれる」ということも]ないと。

脚注
649 650 651 652 653 654 655
(´・(ェ)・`)
(つづく)

721鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/20(日) 23:57:15 ID:tlS1c7L.0
 さらに答えが続くのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は人間の努力に基づくものではないというのじゃ。
 直接知覚等の認識根拠の対象である事物に関する知識と同じように、事物に基づくのじゃ。

 このようなブラフマンおよびその知識は、どんな論理に基づこうとも、行為によって将来実現されるべきものではないのじゃ。
 また、「ブラフマンは、知るという行為の対象だから、行為によって将来実現されるものの中に含まれる」ということもないのじゃ。
 何故なら、「それ(ブラフマン)は、知られるものとは異なっており、また知られていないものをも超えている」とあるように、知るという行為の対象であることは聖典で否定されているからなのじゃ。
 また[同じ趣旨で]、「あるもの(ブラフマン)によってこの一切を認識するとき、それを何によって認識できようが」650という[天啓聖典句]もある。

 また同じくブラフマンが念想という行為の対象であることを否定する天啓聖典句もあるのじゃ。
 「言葉によって表現されないものであり、それによって言葉が現れてくるところのものである」と、ブラフマンは対象ではないことを論じて、それがブラフマンであるというのじゃ。 
 「人があれとかこれとかと念想しているものはブラフマンではない」とあるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ、聖典は典拠とはなりえないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された 区別を止滅させることを目的としているだけなのじゃ。
 聖典は知識としてブラフマンを把握させるものではないのじゃ。

 聖典は内的なアートマンであるから対象ではないのだという形で、ブラフマンを明らかにし、無明によって誤って想定された認識対象や認識主体や認識等の区別を取り除くのじゃ。
 このような趣旨で、次のような聖典が存在しているのじゃ。
 [ブラフマンは]知らないという人には知られており、知っているという人は[ブラフマンを]知らない」
 [またブラフマンは]認識している人には認識されておらず、認識してい ない人に認識されているのである」
 [見ることを見る者を見ることはできない。認識を認識する者を認識することはできない」等と。
 従って、無明によって誤って想定された輪廻者という性質が取り除かれれぱ、永遠に解脱しているアートマンの本質が明らかになるので、解脱には無常であるというような欠陥は存在しないのじゃ。

 さらに、これ(「アートマンは実に見られるべきである」)は、[アートマン=ブラフマンが]知るという行為の対象であることを命ずる儀軌であるとすれば、多くの天啓聖典句と矛盾するじゃろう。
 シャンカラが次のように]述べているのじゃ。
 [[ブラフマンは]知るという行為の対象ということも]ないというのじゃ。

722避難民のマジレスさん:2022/11/21(月) 05:21:39 ID:Ch4YNbew0
(つづき)   p401-402
  [反対主張][ブラフマンが]対象でなければ云々。すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊(Vetāla)が現われてきたようなものである、という意味である。
   [答論]そうではない。何故か。何故なら、[聖典は]、無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからで脇実に、すべての文章は、事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのである。というのは、[言葉では]砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないからである。他の場合にもすぺて同様であると考えるべきである。従って、[聖典の言葉]以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合に、もし言葉というものがこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合には何をかいわんやである。
  だが[言葉が]、あまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか[物事を]明らかにするのは、この(ブラフマンの)場合にも同じである。すなわち、「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を覆う(認識する)とされるが、これは無明に基づいて成立しているのである。従ってこれ(「汝」という語の対象)は、[「汝はそれなり」とあるように]、rそれ」 という語の対象である内的なアートマンー[それは]対象ではなくて無関心な存在である一と同格関係にあるので、認識主体ではないから、それ(すなわち認識主体であるという性質)が止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのである。実に、料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないのである。たとえば[同じ趣旨で、次のような]まとめの偈(antaraŚloka)がある。「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。そのとき、『汝』という語は、それ(『それ』という語)と同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺて一すなわち行為者性等一を捨て去るのである」 656と。[そして師シャンカラは]、まさに同じ趣旨で、[次のような]諸聖典句を引用しているのである。このような趣旨で次のような聖典が存在している。「[ブラフマンは] 知らないという人には...」云々と。[そして、次のように]ここの主題を結論づけている。従って、無明によって誤って想定された云々と。

脚注
656 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

723鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/21(月) 23:57:27 ID:3UgX9Yj20
 反対なのじゃ。
 ブラフマンが対象でなければ云々とは、すなわち、悪霊を鎮める儀式の最中に悪霊が現われてきたようなものというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は無明によって誤って想定された区別を止滅させることを目的としているからのじゃ。
 そうであるからすべての文章は事物どうしの違いを、「これである」というような形で理解させることはできないのじゃ。

 言葉では砂糖きび、牛乳、蜂蜜等の甘味の違いを表現することはできないようなものじゃ。
 他の場合にもすぺて同様なのじゃ。
 聖典以外の認識根拠によって確知される世俗的な対象の場合でもこのような運命のものであれば、非世俗的な内的なアートマンの場合にはさらに困難なのじゃ。
 
 言葉があまりにも掛け離れているというほどではない間接的な方法で、 なんとか物事を明らかにしようとするのは、このブラフマンの場合にも同じなのじゃ。
 「汝」という語の対象である認識主体が、認識根拠に基づく認識を通して、壷等 の認識対象を認識するとされるが、これは無明に基づいて成立しているのじゃ。
 従ってこの「汝」という語の対象は、[「汝はそれなり」とあるように]、それという語の対象である内的なアートマンと同格関係にあるので、認識主体ではないから、それが止威したときには、認識根拠等の三種のものも止滅するのじゃ。
 三種とは認識主体、認識、認識対象の三種じゃな。
 

 料理人が実在しなければ、料理されるもの・料理されたもの・料理は実在ではありえないようなものじゃ。

 次のような]まとめの偈があるというのじゃ。
 「『それ』という語は、外界に存在する対象を宿さない場合には、『汝』という語と同じ対象を指す。
 そのとき、『汝』という語は、それと同じ意味、すなわち清浄な純粋精神であるアートマンを指すことになり、[『汝』という]語の指す対象のもつ生来の汚れすぺてを捨て去るのである」 と。

724避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:44:59 ID:G.ekUBlI0
4.7.解脱は入間の行為に基づかない   p402-409 203左/229

4.7.1.解脱は生み出されるべきものでも変化してできるものでも到達すべきものでもない    p402-404

  だが 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合には、当然のことながら[解脱を]、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えている。また、[解脱を]変化してできるものだとする人の場合にも同様である。[しかし]これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまう。というのは、ヨーグルト等の変化してできるものや、壷等の生み出されるものが永遠でないことは、世の中で経験されているからである。
   [反対主張][解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないか。
   [答論]そうではない。何故なら[それは]、自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないからである。またたとえ、[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではない。何故なら、ブラフマンは、遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからである。それはちょうど、虚空の場合と同じなのである。

  [師シャンカラは]、だが、[解脱は生み出されるものであるとする]人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになる[と述べている]。[このうちまず]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのにそれ(新得力)を必要とする、という意味である。またこれら両者の見解によればとは、[解脱が]達成されるべきもの(生み出されるべきもの)であるという見解と、変化してできるものであるという見解のことである。すなわち仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる。だが他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになる。たとえば、牛乳がそれまでの状態を捨てて、別の状態を獲得する一すなわち変化してヨーグルトになる一ようなものである。これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになる。何故なら[解脱が]、ヨーグルトや壷等の、ように、行為によって実現されるものであることになるからである。
  [反対主張]「さて、この天を超えたところで輝いている光が云々」657という天啓聖
典旬によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別[のあること]が理解される。従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるのであろう。それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのである。
   [答論][このような解脱=ブラフマンは]到達すべきものだがら[行為によって実現されるのではないかという反対主張に対して、師シャンカラは]そうではない云々と答えているのである。すなわち人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのである。たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとする。そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのである。[このように人は、自己自身以外の手段一たとえば船一によって、変形した場 所一たとえば海岸近くの海一を去り、変形していない場所一たとえば沖一に到達するのである]。だが個人存在は、[海岸近くの海と沖のような違いのある場合とは異なり]、ブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのだろうか。というのは、到達は区別に基づいているからである。以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのである。
  また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ(個人存在)がブラフマンに到達することはない。何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからである。このことを[師シャンカラが、次のように]述べているのである。またたとえ[それがアートマンの]本質とは異なるものであったとしそも云々と。

脚注
657
(´・(ェ)・`)つ

725避難民のマジレスさん:2022/11/22(火) 06:45:58 ID:G.ekUBlI0
くま質問。
>仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張している。そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。従って解脱は、 達成されるべきものであることになる

↑これが、仏教の見解であり、従って、仏教は解脱、或は、ブラフマンを無常であるとしているのでありましょうか?
一切無常でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

726鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:03:03 ID:VbeGsvBM0

 それは間違いなのじゃ。
 以前に解説した大乗起信論の真生不二の段にも、
 心は実に動ぜず、と書いてあるのじゃ。
 動じないから無常ではないのじゃ。
 仏教をよくしらないだけなのじゃ。

727鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 00:33:48 ID:VbeGsvBM0
 解脱は生み出されるべきものであるとする人の場合、当然のことながら解脱を、心的・言語的・身体的行為によって実現されるものだと考えているというのじゃ。
 解脱を変化してできるものだとする人の場合にも同様だというのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は確実に無常であることになってしまうというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱=ブラフマンは到達すべきものだがら、行為によって実現されるのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうではなくブラフマンは自己のアートマンの本質なので、到達されるようなことはないというのじゃ。
 たとえ、アートマンの本質とは異なるものであったとしても、ブラフマンは到達すべきものなどではないというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは遍在しており、そのためすべての人にいつでも到達されているからなのじゃ。
 それはちょうど、虚空の場合と同じなのじゃ。

 衆生は本来仏であるというのと同じじゃな。
 
 シャンカラはだが解脱は生み出されるものであるとする人の場合には云々と、反対主張者の見解によれば解脱が無常であることになると述べているのじゃ。
 ]行為によって実現されるものとは、供犠等の執行によって生ずる新得力のことであり、解脱はそれが生ずるのに新得力を必要とする、という意味であるなのじゃ。
 またこれら両者の見解によれば、とは、解脱が達成されるべきものや生み出されるべきものであるという見解と、変化してできるものであるという見解のことなのじゃ。

 仏教徒は、認識(識)は瞬時に滅するものであると主張しているというのじゃ。
 そして 同じく、清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張しているというのじゃ。。
 従って解脱は、 達成されるべきものであることになるというのじゃ。

 他の学派の場合には、輪廻の状態を捨ててアートマンが独存の状態を獲得することが解脱であるので、解脱は変化してできた ものであることになるのじゃ。
 これら両者の見解によれば、解脱は無常であることになるというのじゃ。
 何故ならば解脱が、ヨーグルトや壷等のように行為によって実現されるものであることになるからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 「天を超えたところで輝いている光が云々」という天啓聖典によれば、ブラフマンには変化した場所と変化していない場所という区別が理解されるのじゃ。
 従って、念想を命ずる儀軌によって、ブラフマンの変化していない場所へ到達することが実現されるじゃろう。
 それ故ブラフマンは、到達すべき目的であることになるのじゃ。

 答えたのじゃ。
 人は、自己自身以外の手段によって、変化した場所を去り、変化していない場所に到達するものなのじや。
 たとえば、海岸の近くでは、寄せては返す波が互いにぶつかりあって生ずる大量の泡のために、海が変形しているが、沖のほうは、まったく波がなくて静かなありのままの姿をしており、一定なので変形していないとするのじゃ。
 そして、その変形していない沖の方へ、船員は船で到達するのじゃ。
 
 だが個人存在はブラフマンにほかならないのだから、一体何によって何に到達するというのかというのじゃ。
 なぜならば到達は区別に基づいているからなのじゃ。
 以上が[『註解』のこの箇所の]意味なのじゃ。
 
 また、たとえ個人存在がブラフマンと異なっていたとしても、それ個人存在がブラフマンに到達することはないのじゃ。
 何故なら、ブラフマンは遍在しているので、常にすでに到達されているからなのじゃ。

728避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:23:59 ID:67Dnd.II0
>>726

↓この辺りでありますね。
ありがとうでありました。(´・(ェ)・`)つ
>>293
若風止滅動相則滅。濕性不壊。如是衆生自性清浄心因無明風動。心與無明倶無形相。不相捨離。而心非動性。若無明滅相續則滅。智性不壊故。
若し風、止滅すれば、動相は則ち滅するも、湿性(しっしょう)は、壊せざるが如くなるが故に。かくの如く、衆生の自性(じしょう)清浄心も、無明の風に因って動じ、心と無明と、ともに形相(ぎょうそう)無く、相捨離せず、而も心は動性に非ず。若し無明滅すれば、相續は則ち滅し、智性(ちしゃう)は壊せざるが故に。

>>339
謂一切境界唯心妄起故有。若心離於妄動。則一切境界滅唯一眞心無所不徧。此謂如來廣大性智究竟之義。非如虚空相故

所謂一切の境界は、唯心の妄に起こるが故に有り。若し心、妄動を離るれば、則ち一切の境界滅す。唯一の眞心にして、徧せざる所無し。此を如來廣大の性智究竟の義と謂ふ。虚空の相の如きに非ざるが故に。

729避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:26:09 ID:67Dnd.II0
4.7.2.解脱は浄化されて生ずるものではない p404-405 204左/229

  [反対主張]解脱は浄化されて生ずるものなので、[人問の]努力に基づくのではないか。
  [答論]そうではない。実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えることによって[実現される]か、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くことによって[実現される]かのいずれかであろう。[だが解脱は]、まず第一に、すぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはない。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからである。さらに欠点を取り除くことによって [解脱が生ずる]ということもない。何故なら、解脱の本質は、常に清浄なブ ラフマンにほがならないさらである。
   [反対主張]解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのか。それはちょうど、磨くという行為によって鏡が清められたときに、輝きという特性が現われてくるようなものなのであろう。
  [答論]そうではない。何故なら、アートマンが行為の基体であることはあ りえないからである。すなわち行為は、その基体に変化を及ぼすことなしには成立しない。そしてもし、アートマンが行為によって変化を被るとすると、アートマンは無常であるということになってしまう。[そしてその場合には]、「これ(アートマン)は変化しないと言われている」658等の聖典の文章が否定 されることになる。そしてそれは、望ましいことではない。従って、自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのである。一方、[アートマン]以 外のものに基づく行為の場合には、[アートマンはその行為の]対象ではない わけだがら、そ[の行為]によってアートマンが浄化されることはない。

脚注
658
(´・(ェ)・`)
(つづく)

730避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 07:50:10 ID:3K0VgoIU0
最質問であります。
>清浄な認識(識)が生ずることが解脱であると主張している。
↑この点が間違いでありましょうか?

それとも、そもそも「刹那滅」を否定すること自体が、間違いなのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

731鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 22:41:51 ID:bumgdxTA0
>>730 そうじゃ、清浄な認識は生じるのではないのじゃ。
 もともとあるものじゃ。
 
 それはブラフマンと同じなのじゃ。
 心が変質するのではなく、無明がなくなればもとの清浄な認識があるだけになるのじゃ。

732鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/23(水) 23:46:55 ID:bumgdxTA0
 反対なのじゃ。
 ]解脱は浄化されて生ずるものなので、人問の努力に基づくのではないかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 実に浄化とは、浄化されるべき対象にすぐれた特性を付け加えるか、あるいは、浄化されるべき対象から欠点を取り除くかのいずれかで実現されるのじゃ。
 まず第一に、解脱はすぐれた特性を付け加えることによって生ずるということはないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンだからなのじゃ。

 さらに欠点を取り除くことによって 解脱が生ずるということもないのじゃ。
 何故ならば解脱の本質は、常に清浄な欠点のないブラフマンにほがならないからなのじゃ。

 反対なのじゃ
 解脱とは、自己のアートマンの隠れた特性なのであって、アートマンが行為によって浄化されたときに現れてくるのではないのかと聞いたのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 そうではないというのじゃ。
 何故ならばアートマンが行為の基体であることはありえないからだというのじゃ。
 行為とはその基体に変化を及ぼすことなしには成立しないのじゃ。
 そしてもしアートマンが行為によって変化するとすると、アートマンは無常であるということになってしまうじゃろう。
 「これ(アートマン)は変化しないと言われている」等の聖典の文章が否定 されることになるからありえないのじゃ。

 自らに基づく行為がアートマンに生ずることはないのじゃ。
 一方、アートマン以外のものに基づく行為の場合には、対象ではないからそれでアートマンが浄化されることはないのじゃ。

733避難民のマジレスさん:2022/11/23(水) 23:58:55 ID:AjT8MWTM0
(つづき) p405-406
  [次に師シャンカラは、解脱が]浄化の対象であるという見解を[次のように]退けている。そうではない云々と。実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合があ る。すなわち、(1)すぐれた特性を付け加えることによって[浄化が実現される]場合、たとえば、シトロンの花にラックの汁を振り掛け、そうすることで、その(シトロンの)花が浄化されてラックと同じ色の実をつけるような場合と、(2)欠点を取り除くことによって[浄化が実現される]場合、たとえば、汚れた鏡の表面を磨き粉で磨けば、浄化されて輝きがでてくるような場合である。このうちまず、すぐれた特性を付け加えることは、ブラフマンには不可能である。すなやち、この特性とは、ブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるものであるかのいずれかであろう。 もし(ブラフマンの)本性であれば、どうして付け加えることができようか。何故なら、それ(ブラフマンの本性)は、永遠不変だからである。一方、もし[ブラフマンとは]異なるとすれば、[そのブラフマンの特性が]後に生じたことになるから、[ブラフマンの特性である]解脱は、永遠不変ではないことになる、という誤謬に陥ることになる。また、[ブラフマンとその特性との]違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係が存在するわけではない。また、[両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けた通りある659。 [そして師シャンカラは]、以上のような考察をふまえたうえで、[次のように]述べている。何故なら、解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないからであると。[そしてさらに]第二の見解を、[次のように]批判している。 さらに欠点と取り除くことによって[解脱が生ずる]ということもないと。鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには[汚れが]存在しないので取り除くことはできない。何故なら、[ブラフマンの場合、汚れは]常に取り除かれているから一である。以上が[『註釈』のこの箇所の]意味なのである。
  [師シャンカラは次のような]反対主張を想定している。[解脱とは]、自己のアートマンの隠れた特性なのであって云々と。すなわち、解脱とは、ブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに、現われてくるのである。生みだされるようなことはないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、アートマン(個人存在)の場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのである。
  [このような反対主張を、師シャンカラが次のように]退けている。そうではないと。 何故か。何故なら、[アートマンが]行為の基体であることはありえないからである。 すなわち、無明の基体は、ブラフマン(=アートマン)ではなくて個人存在なのである。だがそれ(無明)は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]660表現できないと言われるのである。従って、ブラフマンは常に清浄なのである。しかしながら、[師シャンカラは、ブラフマンの]汚れを認めたうえで、[ それが]行為によって浄化されるという見解を、[次のように]批判してゆくのである。 実に行為は、ブラフマンに内属していてブラフマンを浄化するか(ちょうど、磨くとい う行為は、磨き粉とは何度も接触したり離れたりするが、常に鏡の表面からは離れないように)、それとも、[ブラフマン]以外のものに内属していて[ブラフマンを浄化する]かのいずれかであろう。まず行為は、ブラフマン[に内属する]属性ではない。 何故なら、それ(行為)は、その基体を変化させる原因なので、ブラフマンは永遠不変 であるということが損なわれてしまうからである。一方、[行為の]基体が[ブラフマン]以外のものであれば、その[行為]がどうして[行為の基体]以外のもの(すなわ ちブラフマン)に役だったりしようか。何故なら、[その行為の]適用範囲が広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。というのは、鏡が磨かれたときに宝石がきれい になるなどということは経験されないからである。
  そしてそれは望ましいことではないというのは、それという語で[聖典の文章が]否 定されることを指しているのである。

脚注
659 本訳389頁以下参照。
660
(´・(ェ)・`)つ

734避難民のマジレスさん:2022/11/24(木) 07:57:54 ID:ktPHY.zc0
>>731
鬼和尚、いつもありがとうであります。

解脱、ブラフマンは、存在の背景にある永続するもの、ないしは、刹那滅の例外という事でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

735鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:05 ID:zRHViatc0
>>734 そうじゃ、刹那滅とは、衆生の持つ謬見の一つである永続する自分という観念を否定するための観念なのじゃ。
 それもまた謬見を取り除くための方法であり、観念の一つに過ぎないのじゃ。
 悟りを得れば捨てられるものなのじゃ。

736鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 00:49:35 ID:zRHViatc0
 シャンカラは解脱が]浄化の対象であるという見解を次のように退けているというのじゃ。。
 実に浄化が実現されるのには、次の二通りの場合がある筈じゃ。
 (1)すぐれた特性を付け加えることによる場合なのじゃ。、
 (2)欠点を取り除くことによる場合じゃ。

 先ず一つ目のすぐれた特性を付け加えることはブラフマンには不可能なのじゃ。
 この特性とはブラフマンの本性であるか、あるいはブラフマンとは異なるもののいずれかじゃろう。
 もしブラフマンの本性であれば、付け加えることはできないのじゃ。
 何故ならばブラフマンの本性は、永遠不変だからなのじゃ。

 一方、もし異なるとすれば、そのブラフマンの特性が後に生じたことになるから解脱は永遠不変ではないことになるという誤謬に陥るのじゃ。
 ブラフマンとその特性との違いには、牛と馬の場合と同じく、基体とその属性というような関係はないのじゃ。
 また両者が]異なっておりかつ異なっていないというのは矛盾であるから、すでに退けたのじゃ。
 シャンカラは以上のような考察をふまえたうえで解脱の本質は、それ以上にすぐれた特性の付け加えようのないブラフマンにほかならないと言うのじゃ。

 そしてさらに第二の見解を次のように批判しているのじゃ。
 欠点と取り除くことによって解脱が生ずるということもないと言うのじゃ。。
 鏡には汚 れが存在するので取り除かれるが、ブラフマンには汚れが存在しないので取り除くことはできないからなのじゃ。
 何故ならばブラフマンの汚れは常に取り除かれているのじゃ。
 以上が[『註釈』のこの箇所の]意味だというのじゃ。

 シャンカラは次のような反対主張を想定しているのじゃ。
 解脱とは自己のアートマンの隠れた特性なのであってブラフマンの本性ではあるが、無始の無明という汚れ覆われているので、念想等の行為によってアートマンが浄化されたときに現われてくるのじゃ。
 生みだされるようなことはないのじゃ。
 アートマンの場合には、輪廻の状態にあって無明のために汚れているので、常に清浄であるという性質は確立していないのじゃ。

 このような反対主張をシャンカラが次のように退けているのじゃ。
 アートマンが行為の基体であることはありえないのじゃ。
 無明の基体は、ブラフマン=アートマンではなく個人存在なのじゃ。
 だが無明は、[ブラフマンに附託されているので、ブラフマンがその基体であるとも]表現できないと言われるのじゃ。
 従ってブラフマンは常に清浄なのじゃ。

737避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 03:04:48 ID:u6sSneRk0
4.7.3.浄化されるのは身体等と結び付いたアートマンなのである一以上の理由で知識のみが解脱への道である p406-409 205左/229

  [反対主張]身体を基体とする行為一たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等一が、身体の主(アートマン)を浄化するのは、経験されているではないか。

  [答論]そうではない。何故なら[この場合には]、身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないからである。というのは、沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかだからである。従って、身体を基体とするという形でそれ(身体) と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのである。たとえば、身体に対する治療によって[身体を構成する]諸要素661の平衡状態が回復すると、それ (身体)と結び付いている者、すなわちそれ(身体)を[自己だと]思い込んでいる者に、健康という結果、つまり「私は健康である」という意識が生ずるが、それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのである。そしてその者は、まさに身体と結び付いているのである。何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者662によって、あらゆる行為が行われているからである。そしてまさにその者が、[以下の]真言にあるように、その[行為の]果報を享受するのである。「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」663「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」664と。また[以下の]二つの真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示している。「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」665「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」 666と。そして、[この]ブラフマンになることが、解脱なのである667。従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのである。
   [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解]以外には、話も、行為によって解脱に入る方法を示すことはできない。従って、知識という唯一[の道]以外には(すなわち行為によっては)、ほんのわずがでもここ(解脱)に入ることはできないのである。

脚注
661インド医学による身体を構成する要素。すなわち風(vāta)•胆汁(pitta)・痰(kapha)の三要ことで、これらが平衡状態にあるときが健康であるとされる。cf.矢野道雄,1988,pp12-13.
662これら三者が同一であるということに関しては、前田専学,1980a,p178参照のこと。
663 664 665 666
667本訳409頁参照。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

>>735
鬼和尚、ありがとうでありました。

738鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/25(金) 23:46:39 ID:4FC5m1IE0
 反対なのじゃ。
 身体を基体とする行為、たとえば、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等が、身体の主のアートマンを浄化するのは、経験されているというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 それは身体等と結び付いているアートマン、すなわち無明に担われているアートマが浄化されるにすぎないから違うというのじゃ。

 ただ観念で浄化されたと思うだけで、アートマンは浄化されないのじゃ。

 沐浴やうがい等が身体に内属するものであることは、明らかなのじゃ。
 従って身体を基体とするという形で身体 と結び付いているもの、すなわち無明のせいでアートマンだと考えられているものが、浄化されるのだとするのが正しいのじや。
 
 たとえば、身体に対する治療によって諸要素の平衡状態が回復すると、身体を自己と思い込んでいる者に、健康になったという意識が生ずるのじゃ。
 それと同じように、沐浴、うがい、聖紐を身につけること等によって、ある者に「私は清浄であり、浄化されたのだ」という意識が生じたとき、その者が浄化されているのじゃ。
 何故なら、私という行為主体=私という観念の対象=[私という] 観念の担持者によって、あらゆる行為が行われているからなのじゃ。
 そしてまさにその者が、以下の聖典の真言にあるように、その行為の果報を享受するのじゃ。

 「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を食べ、他の者は食べずに見ている」
 「賢者は、身体・感覚器官・思考器官と結びついているものを享受者と呼んでいる」と。

 また以下の二つの聖典の真言は、ブラフマンがそれ以上にすぐれた特性の付け加えようのないものであって、常に清浄であるということを示しているのじゃ。

 「唯一の神であって、あらゆる存在の中に隠されており、すべてに遍在し、あらゆる存在に内在するアートマンである。行為の観察者であって、すべての存在の中に住み、観照者、純粋精神、 独存者であって、属性を持たない」
 「彼はすべてに行きわたっており、白く輝き、身体がなく、傷がなく、筋がなく、清浄で、罪に汚されることがない」  と。
 そして、ブラフマンになることが、解脱なのじゃ。
 従って解脱は、浄化されて生ずるということもないのじゃ。

  [(1)解脱は生み出されるべきものである、(2)解脱は変化してできるものである、(3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという以上の四つの見解では話によっても、行為によって解脱に入る方法を示すことはできないのじゃ。
 従って、知識という唯一の道以外には、ほんのわずがでも解脱に入ることはできないのじゃ。

739避難民のマジレスさん:2022/11/25(金) 23:50:32 ID:5NILbnmo0
(つづき)   p408-409
  ここで[師シャンカラは、反対主張者の指摘する次のような]矛盾を提示する。身体を基体とする行為云々と。
  [そして、このような矛盾を次のように]退けている。そうではない。何故なら[この場合には]、身体と結び付いている云々と。ブラフマンは、無始であって[実在であるとも非実在であるとも]表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるのである。そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となる。従って、[ブラフマン=アートマンが]それら(身体等)と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの[属性]であるともされるのである。それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものなのである。従ってこの(アートマンの浄化の)場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっているもの(個人 存在)が浄化されるのであり、それ以外のもの(アートマン)が浄化されるのではない。それ故、矛盾は存在しないのである。しかしながら、本当のところは、行為も存在しないし浄化も存在しないのである668。ところで、[『註解』の]残りの箇所については、例も含めて、附託に関する註解のところですでに説明済みなので669、ここでは説明しない。
  「両者のうち、ある者は美味しいピッバラ[の実]を云々」という[箇所]で、ある者というのは「個人存在」のことである。そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことである。また、他の者は食べずにと[ある他の者と]は「最高のアートマン」のことである。そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのである。さらに[師シャンカラは]、ブラフマンの本性がなにものにも限定されない清浄なものであることを示すために、[次のような]二つの真言を引用している。「唯一の神であって云々」等と。[ここで]白く輝きというのは「光り輝く」ということである。傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということである。筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことである670。[そして最後に師シャンカラは、次のように]結論づけている。従って[解脱は]云々と。
   [反対主張][解脱は]、達成されるべき(生み出されるべき)対象等の四種に限られるわけではないであろう。そうではなくて、なにか第五の方法が存在していて、その 方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるのであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。 [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解]以外には云々と。これらの[四種の]方法以外の別の方法は存在していない。 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのである。その趣旨は次の通りである。すなわち、[解脱が]行為の果報であるということは、[解脱がこれらの]四種 のもののうちのどれか一つであるということの中に含まれている(vyapata)わけだが、それ(これら四種のもの)は解脱から排除されている。[従って、解脱が行為の果報であるということをそのなかに]含んでいる(vyāpaka)(これら四種の)ものが認めら れないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのである671。
  [反対主張]では、解脱には672行為の余地が存在しないとすると、それ(行為)を目的として説かれた諸聖典やそれ(行為)を目的とする活動は、無意味であることになろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは]結論という形で、[次のように]答えているのである。従って、知識という唯一云々と。

脚注
668 身体等との同一性が附託されたアートマンに行為が附託されるのであり、その行為から浄化が生ずるのであり、行為も浄化も附託に基づいているので、本当のところは存在しないのである。
669 本訳260頁参照。
670 シャンカラ自身は、このウパニシャッドに対する註解のなかで、この箇所を粗大身を否定するものと解釈している。粗大身は人の死とともに消滅するが、微細身は消滅することなく来世において新たな粗大身を獲得するのである。
671ここでは、vyāptaを「含まれている」と、またvyāpakaを「含んでいる」と訳しておいたが、これらの正確な意味については、脚注14参照。
672
(´・(ェ)・`)つ

740鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/26(土) 22:54:04 ID:w87Rsang0
>>737 どういたしまして、またおいでなさい。

 シャンカラはブラフマンは、無始であって実在であるとも非実在であるとも表現できない無明によって限定されているときに、「個入存在」とか「田地の知者」とか呼ばれるというのじゃ。
 そしてそれは、粗大身・微細身・感覚器官等と結び付き、それらの集合体の中に位置しており、それらと区別されないために、「私」という観念の対象となるのじゃ。
 そうであるからブラフマン=アートマンが身体等と異ならないと信じられているので、身体の浄化は、身体等の属性ではあるが、 アートマンの属性であるという謬見も起こるのじゃ。
 それはちょうど、化粧品の属性である芳香が、乙女のものだとされるようなものじゃ。

 従ってこの場合にも、世俗的な認識根拠の対象となる行為の基体となっている自我が浄化されるという観念があるだけであり、それ以外のアートマンが浄化されるのではないのじゃ。
 しかし本当は行為も存在せず、浄化も存在しないのじゃ。
 ただ観念あるのみなのじゃ。 

 聖典の「両者のうち、ある者は美味しいピッバラの実を云々」という所で、ある者というのは「個人存在」のことだというのじゃ。。
 そして、ピッバラというのは「行為の果報」 のことじゃ。
 他の者は食べずにという、ある他の者とは「最高のアートマン」のことじや。

 そして「[賢者は、]身体・感覚器官云々」という真言の言葉は、[身体等 と]結び付いている者が享受者であることを述べているのじや。
 白く輝きというのは「光り輝く」ということであり 傷がなくというのは「苦しみと無縁で」ということじゃ。
 筋がなくというのは、「消滅することがなく」とか 「破壊されることがなく」などのことじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱は 達成されるべき、生み出されるべき対象等の四種に限られるわけではないというのじゃ。。
 なにか第五の方法が存在していて、その方法によって、解脱が行為の対象であることが説明されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは [(1)解脱は生み出されるべきものである、 (2)解脱は変化してできるものである、 (3)解脱は到達すべきものである、(4)解脱は浄化されて生ずるものであるという四つ の見解以外にはないというのじゃ。

 これらの四種の方法以外の別の方法は存在していないのじゃ。
 およそ人が考える解脱の方法は、この四種に限られるというのじゃ。
 従って、行為によって解脱に入ることはありえないのじゃ。

 なぜならば解脱が行為の果報であるということは、四種のもののうちのどれか一つによって得られるということになるじゃろう。
 しかしこれら四種のものは解脱から排除されているのじゃ。
 そうであるから排除されるものの中に含まれているこれら四種の見解が認められないのであるから、解脱が行為の果報であるということも排除されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 では、解脱には行為の余地が存在しないとすると、解脱を目的として説かれた諸聖典や、解脱を目的とする活動は無意味であることになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 このような反対主張に対して、シャンカラは結論という形で、理解という唯一の道で解脱は得られると示したのじゃ。

741避難民のマジレスさん:2022/11/27(日) 06:21:14 ID:bfHYesdw0
4.8.知識は心的な行為ではない p409- 410 206右/229

  [反対主張]知識とは心的な行為ではないのか。
  [答論]そうではない。何故なら、[知識と行為は]本質的に異なっているからである。実に行為とは、事物の本質とは無関係に命じられるものであって、人間の心の努力に基づいている。たとえば、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げようと]手にしたとき、[ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきで ある」673等の場合がそうである。[このような]黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり することができる。何故なら、人間に基づいているからである。だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としている。従って 知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができ ないのである。それ(知識)は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかない。従って知識は、心的なものではあっても、[行為とは]本質的に大きくなっているのである。たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に[祭]火である」674「女性は実に[祭]人ある」675という場合、男性と女 姓とを火だと認識(瞑想)するのは心的なものである。そしてそ[の認識(瞑想)]は、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいている。だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかない。では何に基づくのか。直接知覚の対象である事物にのみ基づくのである。従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのである。認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解 すぺきなのである。

脚注
673 674 675
(´・(ェ)・`)
(つづく)

742鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/28(月) 00:01:57 ID:1H7AIWgk0
 反対なのじゃ。
 知識とは心的な行為ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為は本質的に異なっているから違うと言うのじゃ。
 実に行為とは事物の本質とは無関係に命じられるものであり、人間の心の努力に基づいているものじゃ。

 たとえば、「アドヴァリュウ祭官が神に供物を捧げようと手にしたとき、ホートリ祭官はヴァシャットと称えながらその神を心で黙想すべきである」とか、「夜明けに心で黙想すべきである」等の場合が行為なのじゃ。
 黙想すなわち沈思は、心的なものではあっても、人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったり、することができるから行為なのじゃ。
 何故なら、人間に基づいているからなのじゃ。

 だが知識は、 認識根拠から生じ、認識根拠はありのままの事物を対象としているものじゃ。
 従って知識は、行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすることができないのじゃ。

 知識は事物にのみ基づいており、教令にも基づかず、 また人間にも基づかないものじゃ。
 従って知識は、心的なものではあっても、行為とは本質的に大きくなっているのものじゃ。

 たとえば、「ダウタマよ、男性は実 に祭火である」「女性は実に祭人である」という聖典句の場合、男性と女姓とを火だと瞑想するのは心的なものじゃ。
 そしてそれは、教令のみから生ずるのだから、まさに行為であって人間に基づいているものじゃ。

 だが、周知の火を火だと認識することは、教令にも基づがないし、また人問にも基づかないじゃろう。
 直接知覚の対象である事物にのみ基づくものじゃ。
 従ってそれは、まさに知識なのであり行為ではないのじゃ。
 認識根拠の対象となっているあらゆる事物に関して、このように理解すぺきなのじゃ。

743避難民のマジレスさん:2022/11/28(月) 01:50:48 ID:u6sSneRk0
(つづき)  p410-411   
  [反対主張]心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのか。またどうして、その(知識)の果報である解脱が、達成されるべきもの(生み出されるべきもの)等のうちのどれか一つではないのか。このような反対主張を想定して、[師シャンカラは次のように]述べている。知識とは云々と。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けている。そうではないと。何故か。何故なら、[知識と行為とは]本質的に異なっているからである。そ の趣旨は次の通りである。知識が心的な行為であるというのはその通りなのだが、これ(知識という行為)はブラフマンに果報を生ずることができない。というのは、それ(ブラフマン)は、自ら輝いているので(つまり認識そのものなので)、認識行為の対象ではありえないからである。このことはすでに述べた通りである。
   [知識と行為との]このような本質的な違いを確定したのちに、さらに〔師シャン カラは、次のような]別の本質的な違いを述べている。実に行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものであって云々と。すなわち、たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在し、また、「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識(瞑想)が存在しているが、実にそれが行為なのである、というのが文の繋がりである。実に、神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」676というこの儀軌以前には生ずることはない。しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(語と意味との)関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば、「愛児よ。これ(宇宙)は[太初において]有のみ[であった]」で始まり 「汝はそれなり」で終わる章句から677、聖典の言葉という認識根拠のもつ力に基づいて生じてくるのである。それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものである。 実にこれ(壼の認識)は、もし[人間の欲求によって別のやり方で行ったりまた行わなかったりできれ]ば、この[壼の認識の]場合にも儀軌には意味があるであろうが、神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるもの なので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできない のである。また、念想も[念想が]開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではない。 何故なら、それら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので678、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからである。従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではない。なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、[その行為が事物の本質と]矛盾する場合もあれば事物の本質と矛盾しない場合もあるということである。[そのうち]前者の例が、神を瞑想するという行為の場合であって、この場合には[瞑想という行為は神という]事物の 本質と矛盾しない。また後者の例が、男性や女性を[祭]火だと認識(瞑想)する場合 である。このような違いがあるから、[『註解』には]例が二つ挙がっているので弧ある。また、[教令から生ずるのだから]まさに行為であって[人聞に基づいている]とある中のまさにという語は、事物に基づくことを排除しているのである。

脚注
676 677
678この点に関しては、本訳303頁および脚注325参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

744鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/29(火) 00:43:45 ID:38xWG5ck0
 反対なのじゃ。
 心的な行為である知識が、どうして儀軌の対象ではないのかと聞いたのじゃ。。
 またどうして、その知識の果報である解脱が、達成されるべきものや生み出されるべきもの等のうちのどれか一つではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識と行為とは本質的に異なっているからだというのじゃ。
 知識という行為ではブラフマンに果報を生ずることができないのじゃ。
 ブラフマンは、自ら輝いている、つまり認識主体であるから、認識行為の対象ではありえないからなのじゃ。

 アートマンは認識できない認識主体であると説かれているのじゃ。
 アートマンとブラフマンは一つであるから、ブラフマンも認識できない認識主体なのじゃ。
 それは主体であるから、知識の対象にはなり得ないのじゃ。
 対象ではないからそれを把握する行為もあり得ないのじゃ。

 行為とは、ある対象に関して、事物の本質とは無関係に命じられるものなのじゃ。
 たとえば、 神に捧げる供物を手にしたときに、神という事物の本質とは無関係に神を瞑想するという行為が存在するのじゃ。
 「女性は[実に祭火である]」という場合、火という事物とは 無関係に火の認識が存在しているが、実にそれが行為なのじゃ。

 神に対する瞑想は、「[アドヴァリュウ祭官が]神に供物を[捧げよう]手にしたとき、 [ホートリ祭官は]ヴァシャットと称えながらその神を心で瞑想すべきである」というこの儀軌以前には生ずることはないのじゃ。

 しかし、ブ ラフマンとアートマンとが同一であるという知識は、ウパニシャッドをすでに学習し、 語と語の意味と(関係を知り、言葉に関する規則についての真理を理解していれば生じるというのじゃ。
 それはちょうど、注意深い心をもっていれば、明るい光の中に ある壺が、感覚器官と対象との接触のもつ力に基づいて認識されるようなものじゃ。
 壼の認識)は神に対する瞑想とは異なり、[感覚器官等が]おのずと集合することによって生ずるものなので、人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりすることはできないのじゃ。

 念想も、それが開眼をもって終わることも、儀軌の対象ではないのじゃ。
 何故ならばそれら両者は、一致と矛盾によってその力が確立されていれば、儀軌が存在しなくても、直証や無明の止滅に到るので人間の欲求によって別なやり方で行ったり行わなかったりできないからなのじゃ。

 従って、ブラフマンの知識は、心的な行為ではあっても、儀軌の対象ではないのじゃ。
 なお、人間の心の努力に基づく行為が、事物の本質と無関係であるということは、その行為が事物の本質と矛盾する場合もあれば、事物の本質と矛盾しない場合もあるのじゃ。
 前者の例が、神を瞑想するという行為の場合で、事物の本質と矛盾しないのじゃ。
 また後者の例が、男性や女性を火だと念想する場合なのじゃ。

 教令から生ずるのが行為であり、人聞に基づいているとある語は、事物に基づくことを排除しているのじゃ。

745避難民のマジレスさん:2022/11/29(火) 01:46:13 ID:FCj5jpwY0
4.9.以上の理由でブラフマンは知ることを命ずる儀軌の対象ではない p412-413 208左/229

  だとすれば、ありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかない。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾(liń等)が聖典で用いられていても679、それは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効である。それはちょうど、石などに 剃刀の刃等をあてたようなものなのである。何故なら、[この「すべきである」 等の意味の人称語尾は]取捨とは無縁な事物を対象としているからである。
  [反対主張]では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」680等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのか。
  [答論][人間の]自然な活動の対象さら[人を]引き離すために存在して いるのである。実に人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と[望んで]、外に向かって行動するものだが、 その場合には、究極的な人間の目的(解脱)を得ることはない。そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の[諸聖典句]が、このような究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果(身体)と手段(器官)の集合体681の自然な活動の対象から引き離して、[その心の]流れを682内的なアートマンに向けさせるのである。そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるのである。「このすべてがアー トマンなのである」683「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなっ たとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」684「このアートマンがブラフマンなのである」685等々と。
  さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 という[反対主張者の批判]686は、その通りなのだと[われわれの]認めるところである。何故なら「ブラフマンとアートマン[が同一であること]を悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからである。このような趣旨で、「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」687という天啓聖典句があり、また、「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」688いう聖伝書の句もあるのである。
  従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのである。

脚注
679 その例として、「アートマンを見るべきである」、「汝がブラフマンであると知れ」、「アートマンは見られるべきである」という文章を挙げている。
680 681 682 683 684 685
686本訳355頁参照。
687 688
(´・(ェ)・`)
(つづく)

746鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 00:34:31 ID:3r.9RLxg0
 そうであるからありのままのブラフマンの本質を対象とする知識は、教令には 基づかないというのじゃ。
 たとえブラフマンに関して、「すべきである」等の意味の人称語尾等が聖典で用いられていてもそれは命じられるはずのないものを対象としているのだから無効なのじゃ。
 この「すべきである」 等の意味の人称語尾は取捨とは無縁な事物を対象としているからなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 では何のために、「アートマンは実に見られるべきであり、聞かれるべきである云々」等の、一見儀軌のように見える諸聖典句が存在し ているのかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。
 自然な活動の対象さら人を引き離すために存在しているというのじゃ。
 人間とは、「望ましいことが私に起こるように。望ましくないことは起こらないように」と、外に向かって行動するものであるから、それでは究極的な人間の目的である解脱を得ることはないのじゃ。
 そこで、「アートマンは実に見られるべきである云々」等の諸聖典句が、究極的な人間の目的を望んでいる人問を、結果と手段の集合体の自然な活動の対象から引き離して、心の流れを内的なアートマンに向けさせるのじゃ。
 そのために聖典句はあるというのじゃ。

 そののち、アートマンの探究に向かった人に対しては、アートマンという真理は受け入れたり捨て去ったりできるようなものではないということが、次のように教示されるの
 「このすべてがアー トマンなのである」
 「しかし、この者にとってすべてがアートマンとなったとき、[その人がさらに]可によって何を見るべきだというのだろうか。... また何によって何を認識すべきだというのだろうか。...また何によって認識者を認識すべきだというのだろうか」
 「このアートマンがブラフマンなのである」等々と。

 さらに、「アートマンの認識は、行わなければならないこと(たとえば祭式や念想等)と基本的に関係しないので、取捨[という行為]とは無縁である」 というのはその通りなのじゃ。
 何故なら「ブラフマンとアートマンが一つと悟ったときには、行わなければならないことがすべてなくなって、為すべきことを為したことになる」というのは、われわれの誉れとするところだからだというのじゃ。

 このような趣旨で、
 「もし人が、 『これが私なのだ』という形でアートマンを認識すれば、[その人は]何を望んで、また何のために、身体のことで悩んだりしようか」
 「これを知れば人は賢者 となり、為すべきことを為した人となろう。バラタの子孫(アルジュナ)よ」という聖伝書の句もあるのじゃ。
 
 従ってブラフマンは、[ブラフマンについて]知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないというのじゃ。

747避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 06:07:59 ID:pRzFUgso0
(つづき)   p413-414
  [反対主張]「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」689等の儀軌が天啓聖典に述べられているが、[それらは]たわごとではない。何故なら、[それらの儀軌も他の儀軌と]同じように伝統によって受け継がれてきたものだからである。従って、この[アートマンの念想等を命ずる諸儀軌の]場合にも、[それらは]遂行するように命じられているもののために存在しているはずである。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。たとえそれ(ブラフマン)に関して、「すべきである」等の意味の人称語尾が云々と。確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられている。だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではない690。何故なら、それ(遂行するように命じられているもの)が対象であれば、[「すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないので、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が]691妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからである。すなわち儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものである。そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものである。そして、 そんなふうにできる人(すなわち行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりできる人)が、行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り 立てられている人なのである。だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような(すなわち、行ったり、行わなかったり、 別なやり方で行ったりできるような)性質のものではない。従って、対象(すなわち、 行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったりすること)692とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vyāpaka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのである。それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、 [聖典中に]用いられていても、[このアートマン=ブラフマンの場合には、人を]行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのである。それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものなのである。

脚注
689 690 691 692
(´・(ェ)・`)
(つづく)

748鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/11/30(水) 23:49:53 ID:0HHX.B5g0
 反対なのじゃ。
 「アートマンであるとしてのみ念想すべきである」等の儀軌が天啓聖典に述べられているのは戯言ではないというのじゃ。
 何故ならばそれは伝統によって受け継がれてきたものだからというのじゃ。
 そうであるからこの場合も遂行するように命じられているもののために存在しているはずなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 確かに聖典こは、「すべきである」等の意味の人称語尾が用いられているのじゃ。
 だがそれは、遂行するように命じられているものを対象としているわけではないというのじゃ。
 
 それが対象であれば、すべきである。等の意味の人称語尾はその対象に対して妥当するが、ブラフマン=アートマンは遂行するように命じられているようなものではないじゃ。
 そうであるから、それが対象であるときには、「すべきである」等の意味の人称語尾が妥当することはなくなる、という理論的欠陥に陥るからなのじゃ。

 儀軌とは、受け入れたり捨て去ったりできるものを対象としているものじゃ。
 そして、受け入れたり捨て去ったりできるものは、 人間が行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりできるものじゃ。
 そんなふうにできる人が、行為者、資格のある人、駆り立てられている人なのじゃ。
 
 だが、アートマンについて、聞いたり、思惟したり、念想したり、見証したりするのは、このような性質のものではないのじゃ。
 従って、対象とそのことを遂行する人という、儀軌が存在する領域を覆うもの(vy?・paka)が存在しないわけだから、儀軌も存在しないことになるのじゃ。
 それ故、「すべきである」等の意味の人称語尾は、用いられていても人を行為 へと向かわせる力がなく、妥当しないのじゃ。
 それはちょうど、石などに剃刀の刃をあてると駄目になるようなものじゃ。

 ブラフマンは遂行の対象ではないから、聖典にそのように書かれていても、無効だと言うのじゃ。
 それはただ言葉の慣習として述べられているだけなのじゃ。

749避難民のマジレスさん:2022/11/30(水) 23:59:01 ID:2/E10Xqw0
(つづき)   p414-415
  命じられるはずのないものを対象としているからだというのは、次のような意味である。すなわち、[行ったり、行わなかったり、別なやり方で行ったり]できる人が、 行為者、[行為の]資格のある人、[行わなければならないことへと]駆り立てられている人である。だが、[行ったり、行わなかったり、別のやり方で行ったりする]能力がない場合には、行為者という性質は存在しない。従って[その人は、行為の]資格のある人ではなく、それ故、[行わなわけれぱならないことへと]駆り立てられている人ではないのである693。
  [反対主張]もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、 では、一見儀軌のように見えるこれらの[「すべきである」等の意味の]聖典の言葉は、 なんのために存在しているのか。このような意味で[反対主張者が]、ではなんのために云々と尋ねているのである。すなわち、「[それらの一見儀軌のように見える聖典の言葉が]無意味であるのは理に合わない。何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからである694という意味である。
   [答論〕[このような反対主張に対する]答えが、[人間の]自然な以下なのである。確かに聞くこと(聴聞)等は、[「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章]以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのである695。だが[それは]、再言及(anuvāda)ではあっても無意味ではない。何故なら、優れた活動を生み出すからである。すなわち、詳しく論ず れば以下の通りである。あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができない。だが、アートマンについて聞くこと等[を命ずる]、儀軌に似た聖典の文章によって、[外界の]対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのである。このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味がある。従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのである。
  また、「アートマンの知識は[祭式等の]遂行に従属しないので、人問の目的ではない。696という反対主張があったが、それは正しくない。それ(アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが[祭式等の]遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではない。だから[師シャンカラが]さらに云々と述べているのである[そして]悩んだりしようかというのは、苦しんでいる身体につられて苦しんだりしようか、という意味である。〔なお・『註解』の]その他の箇所については、容易に理解されるのである。[そして最後に師シャンカ ラは、次のように]主題を結論づけている。従って[ブラフマンは、ブラフマンについて]知ることを命ずる[儀軌の対象だとはされないのである]と。

脚注
693『註解』本文では、儀軌が「命じられるはずのないもの(ブラフマン)を対象としている」と解したが、ここで『バーマティー』は、「[行わなければならないことへと]駆り立てられている人」の意味に取り、その人の行為の対象ではないという意味に解しているのである。
694 脚注500参照。
695 再言及(anuvāda)については脚注499を参照のこと。
696 本訳355頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

750鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/01(木) 23:12:29 ID:gkEggVEs0
 行為をできる人が、 行為者、資格のある人、駆り立てられている人た゜というのじゃ。
 行為を実行する能力がない場合には、行為者という性質は存在しないのじゃ。
 従ってその人は、行為の資格のある人ではなく、駆り立てられている人ではないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 もし、儀軌が存在しないから行為を命ずる言葉が存在しないとすると、一見儀軌のように見えるこれらの聖典の言葉は、 なんのために存在しているのかと聞いたのじゃ。
 それらの聖典の言葉が無意味であるのは理に合わないのじゃ。
 何故なら、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することが、成り立たなくなるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聴聞等は、「アートマンは聞かれるべきである云々」等の聖典の文章以外のものに基づいてすでに知られており、それが儀軌に似た聖典の文章によって 再び言及されているのじゃ。
 だが[それは]、再言及(anuv?・da)ではあっても無意味ではないのじゃ。
 何故なら、優れた活動を生み出すからなのじゃ。

 あれこれの望ましいものを得ようと望み、望ましくないものを避けようと望む気持ちで心が乱れているために、外界を向いている人は、内的なアー トマンに、心を集中することができないじゃろう。
 だが、アートマンについて聞くこと等を命ずる、儀軌に似た聖典の文章によって、外界の対象へと向かう心の流れは押し止められて、内的なアートマンヘと流れる道が開かれるのじゃ。
 このように再言及は、優れた活動を生み出すから意味があるのじゃ。
 従って、ヴェーダの学習を命ずる儀軌に基づいて理解することは成り立つのじや。

 アートマンの知識は遂行に従属しないので、人問の目的ではない、という反対主張があったが、それは正しくないのじゃ。
 アートマンの知識)が 人間の目的であることは、それ自体で確立しているのであり、その場合、それが遂行に従属しないのは、誉れでこそあれ欠点などではないのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは、ブラフマンについて知ることを命ずる儀軌の対象だとはされないのであると結論づけているのじゃ。

751避難民のマジレスさん:2022/12/01(木) 23:54:03 ID:AEudjEh.0
5.ウパニシャッドはブラフマン:アートマンを教示する  p415- 209右/229

5.1.ウパニシャッドはすでに存在する事物(ブラフマン=アート マン)を教示する  p415-416

  またある人が言う。
  [反対主張]ヴェーダには、活動を促したり停止させたりする儀軌およびそれら[の儀軌]に従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないのである697。
   [答論]そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからである。何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであって、「生みだされるべきもの」等の四種のもの698とは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないからである。 そしてまた、これ(プルシャ)は、存在しないとか理解されないとかいうことはできない。何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」699とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであり、また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからである。

脚注
697この反対主張を、「真理の一部しか知らない論者」と解している。
698「生みだされるべきもの」等の四種のものとは、「生みだされるべきもの」、「変化してできるもの」、「到達すべきもの」、「浄化されて生ずるもの」のことである。なお詳しくは、本訳402頁以下参照。
699
(´・(ェ)・`)つ

752鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/02(金) 23:42:51 ID:Wh2ImBZQ0
 反対なのじゃ。
 ヴェーダには活動を促したり停止させたりする儀軌、およびそれらに従属するものとは別に、単独で事物について述べている箇所は存在しないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから間違いなのじゃ。
 何故なら、ウパニシャッドで理解されるこのプルシャは、輪廻することのないブラフマンであるのじゃ。
 ブラフマンは「生みだされるべきもの」等の四種のものとは本質的に異なり、独立した箇所で取り扱われるものであって、自ら以外のものに従属することはないのじゃ。
 
 このプルシャは、存在しないとか理解されないとかいうことはできないのじゃ。
 何故なら、(1)「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』[と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであるのじゃ。
 また、(2)アートマンは、[その存在を] 否定するその者のアートマンなので、否定することはできないからなのじゃ。

 アートマンは全ての観念を否定することで実現するのじゃ。
 アートマン自体は認識できない認識主体であるから、否定はできないのじゃ。

753避難民のマジレスさん:2022/12/03(土) 07:33:01 ID:8TA1s7920
5.1.1.言葉は行為と無関係にすでに存在する事物を表示しうる  p416-417

  [ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当するのだという]700主題を確実なものとしようとして、[ 師シャンカラは]、真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために[次のように]紹介している。またある人が言う云々と。[そして]そうではない云々と批判しているのである。
  その趣旨は以下の通りである。「遂行しなけれはならないものを認識する際には、活 動が徴標(lińga)であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が[徴標]である。このように、[すでに存在するものについて述べることには]目的(意味) があるのである。[また、すでに存在するもの=ブラフマンを教示する諸ウパニシャッドは、有益なことを教示しているから聖典なのである]701と。すなわち、実にもし、遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性一[それは]受け入れたり捨て去ったりできるものではない一を教示するためのものではないであろう。何故なら、語にそれ(すでに存在するブラフマン)[を表示する]能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それ(語にブラフマンを表示する能力があることに対する無理解)702を前提として、[ウパニシャッドを含む]ヴェーダの意味が理解されるからである。だがもし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合には、「諸ウパニシャッドがそれ(すでに存在するもの=ブラフマン)を教示するために存在するということは、[それらの文章の]前後関係を考察することによって理解されるのだ」ということを否定して、「[それら諸ウパニシャッドは]遂行しなけれはならないもののために存在するのだ」と想定することはできないだろう。何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからである。
  このうちまず、このような遂行する必要のないもの(すでに存在するもの)と[語と]の関係は、(1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、また、(2)それ(遂行する必要のないもの)の認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、[世間一般]で知ら れていないことになるであろう703。だが、(1)それ(遂行する必要のないもの)を表示する語の用法は、世間一般で認められないというわけではないのである。何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなくて、喜び[を生み出し]恐れを取り除くために、文章(語の繋がり)が用いられることは、世間一般にしばしば認められるから である。たとえばその例としては、「山のなかの王スーメル(須弥山)はインドラを 始めとする護方神の群の棲家であって、シッダ、ヴィディヤーダラ、ガンダルヴァ704、天女が周りを囲んでおり、ブラフマ界から下って来たマンダーキニー(ガンジス)河の 水の流れによって洗い清められた貴重からなる岩ででき、ナンダナ705などの庭園で戯れる宝石でできた鳥たちの美しい声で魅惑的でなのである」(喜びを生み出すための用法)とか、「これは蛇ではない。これは縄である」(恐れを取り除くための用法)等がある。また、(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することはできない」などということもない。何故なら、推論の理由である喜び等が[拍手に]生ずるからである。

脚注
700 701 702
703 以下の議論がプラバーカラ派の言語習得理論を前提としている。
704 ともに天界に住む神々に準ずる存在。
705ナンダナとは、天界にあるインドラ神の森で、そこにはpārijātaという木が生えているとされる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

754鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 00:14:46 ID:tmlAUPt60

 シャンカラは真理の一部しか知らない論者の見解を、批判のために紹介しているというのじゃ。
 それはウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在する事物ブラフマンに対して妥当だという主題を確実なものとするためなのじゃ。

 遂行しなけれはならないものを認識する際には、活動が徴標であるように、すでに存在するものを認識する際には、喜び等が徴標であるというのじゃ。
 
 遂行しなけれはならないものを表示する語の能力、あるいは遂行しなければならないもの自体のもつ意義を表示する語の能力が、常に年長者の用語法に基づいて確立されるのであれば、諸ウパニシャッドは、ブラフマンとアートマンとの同一性を教示するためのものではないというのじゃ。
 何故なら、語にそれを表示する能力があるとは世間一般には知られておらず、そのため、それを前提として、ヴェーダの意味が理解されるからなのしゃ。
 
 もし、語とすでに存在するものとの関係が世間一般で知られているとすると、その場合にはブラフマンを教示するために存在するということは、文前後関係を考察することによって理解されるということを否定して、ウパニシャッドは遂行しなけれはならないもののために存在することにはできないじゃろう。
 何故なら、聖典が述べていることを放棄して述べていないことを想定するという理論的誤りに陥るからなのじゃ。

 つまりは以前の用語は誤りであり、ヴェーダの原典の意味を正しく解釈すればブラフマンを教示するために存在するとわかるというのじゃ。
 
 このうちまず、このような遂行する必要のないものと語との関係は、
 (1)もし、それ(遂行する必要のないもの)を表示するような語の用法が世間一般で認められず、
 (2)それの認識が語意を習得している人に存在していると推論することができなけれぱ、世間一般で知られていないことになるのじゃ。

 だが、(1)それを表示する語の用法は、世間一般で認められているのじゃ。
 何故なら、遂行しなけれはならないもののためではなく、喜びを生み出し恐れを取り除くために、文章が用いられることは、世間一般にしばしば認められるからなのじゃ。
 
 そして(2)すでに存在するもの(遂行する必要のないもの)に関する認識が、語意を習得している人に存在していると、推論することができるのじゃ。
 何故なら、推論の理由である喜び等が生ずるからなのじゃ。

755避難民のマジレスさん:2022/12/04(日) 02:59:47 ID:c7AEJwJA0
(つづき)   p417-418  
  詳しく論ずれば次の通りである。アーリヤ人の言葉の意味を知らないドラヴィダ人706が、都市へ行こうとして、幹線道路近くのデーヴダッタの家に泊まり、[そこで] 父親(デーヴァダッタ)にとって喜びの原因である息子の誕生を知り、使いの者と一緒 に、都市にいるデーヴァダヅタのもとへやって来る。そして、使いの者が赤ん坊の赤い足型のついた布(patavāsa)707をお祝にあげたのち、「あなたに息子さんがお生まれになって、これからますます繁栄されますように」と言うの聞くとすぐに、デーヴァダッタが、喜びのあまり皮膚の毛を逆立たせ、蓮の花のように目を輝かせ、満開の蓮の花のように満面微笑を浮かべているのを見て、彼に喜びが生じたのを推論する。そしてさらに、[使いの者の言葉]以前には存在していなかった喜びが、その(使いの者の)言葉を聞いた直後に存在するのは、それ(使いの者の言葉)が理由なのだということも〔推論するのである]。すなわちまず、この者(使いの者)が、喜びの理由となることを伝えなければ、喜びを生ずることはできないので、この者(使いの者)が喜びの理由となることを述べたのだと理解され(肯定法)、さらに、[それ]以外に喜ぶ理由が見当たらないので、息子が生まれたことがその理由であると理解される(否定法)から、まさにそれ(喜ぶ理由となること)を使いの者が述べたのだ、と確定するのである。そして、恐れや悲しみ等についても、同じように例を挙げることができるはずである。このように、すでに存在するものについて述べることには目的(意味)があるので、[世間の]用心深い人たちが[すでに存在するものに対して]言葉を使用することも成り立つのである。
  また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的[を実現する]原因なので、諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているわけであるから、聖典なのである、と確定するのである。従って、次のことが確定されたことになる。(主張)現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としている。(理由)何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからである。(実例)どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としている。たとえば、色形を対象とする目等のように。(適用)それら(現に論争の的となっている聖典の文章)もそうである。(結論)従ってそうである(現に論争の的となっている聖典の文章はすでに存在するものを対象としている)。

脚注
706
707「赤く染めた息子の足(方→型)のついた布」としているのに従った
(´・(ェ)・`)つ

756鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/04(日) 23:59:06 ID:E187Oe2.0
すでに存在するものについて述べることには目的があるので、用心深い人たちがそれに言葉を使用することも成り立つというのじゃ。

 また同様に、ブラフマンの本質についての知識は、人間の最高の目的を実現する原因なので諸ウパニシャッドは、人間の活動を促したり停止させたりすることを教示していなくても、人間に有益なことを教示しているから聖典であると確定するというのじゃ。
 現に論争の的となっている聖典の文章は、すでに存在するものを対象としているのじゃ。
 何故なら、すでに存在するものを対象とする正しい認識を生み出すからなのじゃ。
 どんなものを対象としていても正しい認識を生み出すものは、そのものを対象としているのじゃ。
 たとえば、色形を対象とする目等のように。
 それら現に論争の的となっている聖典の文章もそうであるというのじゃ。

757避難民のマジレスさん:2022/12/05(月) 00:10:56 ID:PMD8GnZc0
5.1.2.ウパニシャッドは行為と無関係にすでに存在する事物(ブラフマン=アートマ ン)を教示する  p419 211右/229

  だから[師シャンカラは]、正しく[次のように]述べているのである。そうではない。ウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないからであると。「ウパニシャッド」という語は、語源的には、「破壊する」という意味 の/sadという語根の前に、[「近くに」という意味の]upaという接頭辞と[「確定」という意味の]niという接頭辞がつき、後ろにkvip接尾辞がついてできたのだと説明されるが708、それは[本来は]ブラフマンの知識のことを言っているのである。何故なら、不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからである。[だが]ウパニシャッドの諸聖典句も、それ(ブラフマンの知識)の原因なので、ウパニシャッド[と呼ばれる]。そして、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのである。まさにこれ(ウパニシャッドに説かれているプルシャ)を、[師シャンカラは次のように]詳しく説明している。ウパニシャッドで[理解される]この云々と。[そしてこのプルシャを]輪廻することのないと、「私」という観念の対象(個人存在)とは異 なるとしている。だからこそ[プルシャは]、行為とは無縁であり、そのため[「生み出されるべもの」等の]四種のものとは本質的異なるのである。さらに以下の理由で、四 種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがない。すなわち、 自ら以外のもの[たとえば祭式]に従属する存在である物(dravya)を作り出そうとする場合には、「祭式用の杭を削る」等の場合のように、生み出すこと等によって実現することは可能だが、自ら以外のものに従属しないものは、「金を身につけるべきである。とか「小麦粉を捧げる[べきである]」等の場合のように、すでに存在するものという性質があり、[他の祭式には]役に立たないのである709。

脚注
708ウパニシャッド(upanisad )という語は、upa-ni/sadと分解され、upaは「近くに」の意味、niは「確定」の意味であり、最後にsadの後にkvip接尾辞(動詞を名詞化する接尾辞で語の形の上には現れない。)がついたものと説明されている。
709 自ら以外のものに従属する祭式すなわち従属祭。ミーマーンサー学派によれば、祭式ですでに用いられたものを浄化する祭式とこれから祭式で用いられるものを浄化する祭式の二種に分類されているが、「祭式用の杭を削る」という場合には、削ることによって杭が浄化されているのだから、この「祭式用の杭を削る」という祭式は、従属祭である。しかし、「小麦粉を捧げる[べきである]」という場合には、この段階ではまだ小麦粉は祭式に用いられていないので、すでに浄化されているということはないし、また火に捧げたあとで灰になって残(り→っ)ていないのだから、これから浄化されるということもな(い)。従って「小麦粉を捧げる[べきである]」と命じられているこの祭式は、「祭式用の杭を削る」という祭式とは異なり、従属祭ではなく主要祭なのである。従って、従属祭とは違って他の祭式に役立つということはないのである。なお「金を身につけるべきである」と命じられている祭式が主要祭であることに関しては、脚注648参照のこと。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

758鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 00:10:18 ID:h8Py/qcM0
 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、自ら以外のものに従属することはないから反対意見は間違いだというのじゃ。
 「ウパニシャッド」という語は語源的には、「破壊する」という意味と「近くに」という意味の接頭辞と「確定」という意味の接頭辞がついているというのじゃ。
 それは本来ブラフマンの知識を意味しているというのじゃ。
 何故ならば不二であることが身近に確実なものとなるべきブラフマンが、潜在印象とともに 無明を破壊するからだというのじゃ。

 だがウパニシャッドの諸聖典句も、ブラフマンの知識の原因なので、ウパニシャッドと呼ばれるのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句から知られるのが、ウパニシャッドに説かれているプルシャなのじゃ。
 
 シャンカラはプルシャを輪廻することのないものであり、「私」という観念の対象とは異なるとしているのじゃ。
 だからこそプルシャは、行為とは無縁であり、そのため四種のものとは本質的異なっているというのじゃ。

 四種のものと本質的に異なるものは、自ら以外のものに従属することがないのじゃ。
 自ら以外のものに従属しないものは、すでに存在するものという性質があり、他の祭式には役に立たないのじゃ。

759避難民のマジレスさん:2022/12/06(火) 00:37:21 ID:32hlEMW.0
(つづき)   p420-421
  [反対主張]では何故、これ(プルシャ)は自ら以外のものに従属することはないのか。
   [答論]だから[師シャンカラが、次のように]言っているのである。何故なら、独立した箇所で取り扱われるものであるからであると。特定の祭式と無関係に学習される710諸ウパニシャッドは、[文章の]前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだ[と分かる]ので、この[ウパニシャッドという]箇所は、主にプルシャにのみ関係しているのだ[と分かるのである]。また、「プルシャ(人)は、ジュフー祭杓とは異なり、祭式と一定の関係にはない」ということについては、す(べ→で)に説明した通 りである711。以上のような理由で、[プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのである。[そして]以上のような(輪廻することのない等の)性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるこれ(プルシャ)が、存在しないなどと言うことはできないのである。以上が[『註解』本文のこの箇所の]意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないので、[語と]関係する(語によって表示される)とは[世間一般には]知られていない。従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえない。とすれば、どうして、ウパニシャッド[という文章]の対象でありえようか。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えているのである。何故なら、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』 [と説かれ云々]」とあるように、[天啓聖典中に]アートマンという語が用いられているからであると。アートマンは、[直接知覚の対象である]牛などとは異なり、[聖典]以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている(認識そのものである)ので、[それを覆う]あれこれの添性を滅してゆけば、[ブラフマンを]文章の対象として表現す ることが可能なのである。それはちょうど、腕輪、耳飾り等[の添性]を破壊すれば、 金[という輝けるもの]が[現れてくる]ようなものである。実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない(認識されない)ということはなく、また、 それ(自己認識=ブラフマン=アートマン)を限定している身体・器官等の集合体が[輝かない(認識されない)]ということもないのである。従って、「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのである。
  [反対主張]添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。アートマンは、[その存在を否定するその者のアートマンなので]、否定することはできないからであると。実に輝きが、万物のアートマンなのである。何故なら、それ(アートマン)は現象世界という虚妄の基体だからである。基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのである。何故なら、縄(基体)が存在しないのに、縄を 蛇だとか水の流れだとか誤認(虚妄)するなどということは、これまで全く経験されたことがないからである。さらに、現象世界の認識はアートマンの輝き[が発する]光なのである。たとえば、天啓聖典に「その(アートマンの)光に基づいてすべてが輝き、 その(アートマンの)光がこのすぺてを輝かせる」712とあるように。だから、アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのである。従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質一[それはウパニシャッ ド]以外の認識根拠の対象ではなく、あらゆる添牲と無縁である一についての理解(悟り)は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのである。

脚注
710 脚注646参照。
711 本訳399頁参照。
712
(´・(ェ)・`)つ

760鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/06(火) 22:56:47 ID:OLmpJp6.0
 反対なのじゃ。
 では何故、プルシャは自ら以外のものに従属することはないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 特定の祭式と無関係に学習される諸ウパニシャッドは、文章の前後の関係を考察してみれば、プルシャを説明するためのものだと分かるので、この箇所は、主にプルシャにのみ関係しているというのじゃ。
 プルシャは、祭式を扱う箇所とは]独立した箇所で取り扱われるのじゃ。
 以上のような性質を備え、諸ウパニシャッドに基づいて認識されるプルシャが、存在しないなどと言うことはできないというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 ブラフマンは、聖典以外の認識根拠の対象ではないので、語と関係する語によって表されると世間一般には知られていないのじゃ。
 従ってブラフマンは、語の対象ではないので、文章の対象であることはありえないのじゃ。
 とすれば、どうして、ウパニシャッドという文章の対象でありえるじゃろうかと、聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは「まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』と説かれ云々]」とあるように、天啓聖典中にアートマンという語が用いられているからそれもありえるのじゃ。
 アートマンは、牛などとは異なり、聖典以外の認識根拠の対象ではないが、まさに輝いている、認識そのものであるので、あれこれの添性を滅してゆけば、文章の対象として表現することが可能なのじゃ。
 腕輪、耳飾り等を破壊すれば、 金があるようなものじゃ。
 実に、輝ける自己認識 (ブラフマン=アートマン)が、輝かない、認識されないということはなく、また、 それを限定している身体・器官等の集合体が認識されないということもないのじゃ。

 まさにこのアートマンは『そうではない。そうではない』云々」という形で、あれこれの限定(添性)を滅してゆけば、自ら輝けるものは、増大し広がってゆくので、「ブラフマンである」とか「アートマンである」という文章によって表現することができるのじゃ。

 つまり実体として言葉で表すことはできないが、そこへ辿り着く法として言葉に表すこともできるというのじゃ。


 反対なのじゃ。
 添性によって限定されているアートマンの存在は、何故、添性が否定されるようには否定されないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンは、否定することはできないからなのじゃ。
 実に輝きが、万物のアートマンなのじゃ。
 何故なら、アートマンは現象世界という虚妄の基体だからなのじゃ。
 基体が存在しなければ、虚妄は存在しえないのじゃ。

 とえば縄が存在しないのに、縄を蛇だとか水の流れだとか誤認することはないようにのう。
 現象世界の認識はアートマンの輝き、光なのじゃ。
 たとえば、天啓聖典に「その光に基づいてすべてが輝き、 その光がこのすぺてを輝かせる」とあるようにのう。
 
 アートマンの輝きが否定されれば、現象世界の認識は成り立たないのじゃ。
 従って、アー トマンを否定することはできないので、ブラフマンの本質についての理解は、諸ウパニシャッドに基づいて成り立つのじゃ。

761避難民のマジレスさん:2022/12/07(水) 01:06:33 ID:3wstc7Bc0
5.2.ブラフマン=アートマンはウパニシャッドにおいてのみ認識される  p421- 423 212右/229

   [反対主張]アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくない。
   [答論]そうではない。何故なら、[このような反対主張は、アートマンが]それ(「私」という観念の対象である個人存在)の観照者なので、否定されるからである。すなわち、それ(個人存在)の観照者は、「私」という観念の対象である行為者(個人存在)とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯 一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 [ヴェーダの]儀軌部(祭事部)や論理に基づく教義からは誰も理解できない。従って誰も、それを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできない。さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのである。実に、プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆく。[だが]プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはない。また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在である。だからこそ[プルシャは]、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのである。従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それ(プルシャ) は最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」713とか、「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」714というように、[プルシャに]「ウパニシャッドに説かれている」という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明され ているときに[のみ]理解しうるのである。それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という[反対論者の]主張は、速断にすぎないのである。

  [アートマンが]ウパニシャッドにおいてのみ理解されるという限定に耐えられない人が、[次のように]反対主張を提示している。
  [反対主張]アートマンは云々と。実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者である。何故なら、世間一般の人々や論者たちは、それ(「私」という観念の対象)に対してのみアートマンという語を用いているからである。世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである。従って、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることが できるのであって、それに反対する別の意味に[用いることはできない]。以上が[反 対主張の]趣旨である。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが]答えている。そうではないと。すなわち、ウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないのである。何故か。何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからである。その趣旨は以下の通りである。「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その [なにものにも限定されない]清浄な姿が観照者なのである。そしてこのことは、[ウパニシャッド]以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのであ る。まさにこのことを、[師シャンカラが次のように]説明している。すなわち、[それ(個人存在)の観照者は]、「私」という観念の対象である云々と。

脚注
713 714 715
(´・(ェ)・`)
(つづく)

762鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 00:04:35 ID:ctNYYH960
 反対なのじゃ。
 アートマンは、「私」という観念の対象なので、ウパニシャッドにおいてのみ認識されるというのは正しくないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンとは私という観念の観照者なので違うというのじゃ。
 その観照者とは、「私」という観念の対象である行為者とは異なり、あらゆる存在に内在し、平等で、唯一であり、変異することのない永遠なプルシャ、万物のアートマンであって、 ヴェーダの儀軌部や論理に基づく教義からは誰も理解できないのじゃ。
 
 誰もそれを否定することはできないし、また儀軌こ従属させることもできないのじゃ。
 さらに[それは]、万物のアートマンであるので、受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 プルシャを除くすぺてのものは、変化してできたものであって、可滅であり、現に滅してゆくのじゃ。

 プルシヤは、滅する原因が存在しないので、滅することはないものじゃ。
 また、変化す る原因が存在しないので、変異することのない永遠な存在なのじゃ。
 だからこそプルシャは、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しているのじゃ。

 従って、「プルシャを超えるものはなにも存在しない。それは最高の帰着点であり、最高の到達点なのである」とか、
 「ウパニシャッド に説かれているそのプルシャについて、私はお前に尋ねたい」というように、「ウパニシャッドに説かれている」
 という限定詞がつい ているのは、ウパニシャッドにおいてプルシャが主要なものとして説明されているからと理解できるじゃろう。

 それ故、「ヴェーダにはすでに存在する事物について述べている箇所は存在しない」という主張は間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 実にアートマンは、すべての人の持っている「私」 という観念の対象であり、行為主体、経験主体であって、輪廻する者だというのじゃ。
 何故なら、世間一般の人々や論者たちは、「私」という観念の対象に対してのみアートマンという語を用いているからなのじゃ。
 世間一般に用いられている語もヴェーダで用いられている語も、その意味は同じである筈だから、ウパニシャッドで用いられているアートマンという語も、それ(「私」という観念の対象)に対してのみ用いることができるというのじゃ。

 インドでは一般的に輪廻するものがアートマンとされているのじゃ。
 

 答えたのじゃ。
 シャンカラはウパニシャッドに説かれているプルシャは、「私」という観念の対象ではないから違うというのじゃ。
 何故なら、それの観照者なので、すなわち、最高のアートマンは、「それ」=「私という観念の対象=行為主体=身体と器官の集合体という添性 に限定された者=個人存在」の観照者なので、[それが]「私」という観念の対象であることは否定されるからなのじゃ
 「この生命(個人存在) であるアートマンとともに云々」715とあるように、個人存在とアートマンは、究極的 には同一ではあるが、その添性によって限定された姿が個人存在であり、一方、その なにものにも限定されない清浄な姿が観照者なのじゃ。
 それはウパニシャッド以外の認識根拠によっては理解されず、ウパニシャッドの領域なのじゃ。

763避難民のマジレスさん:2022/12/08(木) 07:00:27 ID:bsNDPAaU0
(つづき)   p423-424
  また、儀軌に従属させることもできない。何故か。何故なら、[それは、万物の]アートマンであるので云々だからである。すなわち、アートマンは、それ以外のもののた
めに存在するのではない。それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのである。たとえばこのような趣旨で、[次のような]天啓聖典句がある。「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」716と。さらに、万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのである。すなわち、あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマン(本性)なのである。そして本性は、捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもない。従って、捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのである。それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのである。このことを説明して、[師シャンカラが次のように]言っている。実に、プルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと。その意味は以下の通りである。実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではない。そして、究極的な実在が[究極的な実在ではないもの、すなわち現象世界の] 資料因なのである。それはちょうど、縄という真理が[それから]変化してできた蛇という虚妄の[質料因]であるようなものである。従って、これ(現象世界)は、[実在 であるとも非実在であるとも]決定できないせいで、その本性が不安定な[ため]滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なのである(すなわち滅することはない)。これ(プルシャ)は、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じである。このことについてはすでに述べた通りである717。従って、ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものは[すべて]、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのである。実にプルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのである。そして、プルシャは無終なので、減 することがないのである。
  [反対主張] [プルシャにも]減することはあるであろう。
  [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラが次のように]答えている。 プルシャは、滅する原因が存在しないので云々と。すなわち、原因が千集まっても、あるもの(実在)を別なもの(非実在)にすることはできないのである。このことについてはすでに述べたところである718。
   [反対主張][確かに]プルシャは、本質的に、捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないであろう。だが、それ(プルシャ)のある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるであろう。
   [答論][このような反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。また、変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると。三種 の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないということについては、すでに述べた通りである719。さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それは、アートマンの場合と同じように、諸原因によって別なもの(非実在)に変えることはできない。そして、属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのである。まさにこのことを、[師シャンカラが]、変化する原因が存在しないのでと述べているのである。[なお『註解』本文の]その他の箇所については容易に理解される。

脚注
716
717 本訳204頁参照。
718本訳204;265;369頁参照。
719 本訳335頁参照。
(´・(ェ)・`)つ

764鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/12/08(木) 23:17:18 ID:lBbJcM520
 また、アートマン儀軌に従属させることもできないものじゃ。
 アートマンは、それ以外のもののために存在するのではないからなのじゃ。
 それ以外のものすべてが、アートマンのために存在するのじゃ。

 聖典にも書いてあるのじゃ。
 「実に一切に対して愛情があるために、一切が好ましいのではない。そうではなくて、自身(アートマン)を愛するが故に一切のものが好ましいのである」と。
 
 さらに万物のアートマンであるという同じ理由で、[プルシャ=アートマンは]受け入れることも捨て去ることもできないのじゃ。
 あらゆる現象すべてにとって、ブラフマンこそが真のアートマンであるからなのじゃ。
 本性は捨て去ることができないので捨て去ることのできるようなものではなく、また、すでに獲得されているので受け入れることのできるようなものでもないのじゃ。
 捨て去ったり受け入れたりできるものを対象としている儀軌と禁令が、それとは反するアートマンという真理を対象とすることはないのじゃ。
 それ故、あらゆる現象すぺてにとって、アートマンこそが真理なのじゃ。

 シャンカラはプルシャを除くすべてのものは、変化してできたものでありって、可滅であり、現に滅してゆくと言っているのじゃ。
 実にプルシャは、天啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な実在なのじゃ。
 
 啓聖典、聖伝書、叙事詩、プラーナおよびそれらと矛盾しない論理によって確立されているので、究極的な 実在である。
 だが現象世界は、無始の無明が生み出したものなので、究極的な実在ではないのじゃ。
 そして、究極的な実在が現象世界の資料因なのじゃ。
 
 縄という真理が変化してできた蛇という虚妄の質料因であるようなものじゃ。
 現象世界は実在であるとも非実在であるとも決定できないせいで、その本性が不安定で滅してゆくが、プルシャのほうは究極的な実在なので滅しないのじゃ。
 
 プルシャは、千の原因によっても、非実在とすることはできないのである。
 そ れはちょうど、職人が千人集まっても、壷を布にすることはできないのと同じ

 ちょうど銀や蛇が、真珠母貝や縄だけを残して滅してゆくように、変化してできたものはすべて、滅することのないプルシャだけを残して滅してゆくのじゃ。
 プルシャだけが、現象世界という変化してできたもの総体の真理なのであるからなのじゃ。
 そして、プルシャは無終なので、減することがないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャにも減することはあるじゃろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラプルシャは、滅する原因が存在しないから滅しないと言ったのじゃ。
 原因が千集まっても、あるものを別なものにすることはできないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 プルシャは、本質的に捨て去ったり受け入れたりできるようなものではないのはその通りというのじゃ。
 だが、プルシャのある属性が捨て去られ、ある属性が受け入れられるということはあるじゃろうと言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは変化する原因が存在しないので、変異することなく永遠な存在であると言ったのじゃ。
 三種の変化、すなわち性質の変容・時相の変容・状態の変容が、ともに存在しないからなのじゃ。

 さらに、究極的な実在であるアートマンの属性も究極的な実在なので、それはアートマンの場合と同じように、諸原因によって別なものに変えることはできないのじゃ。
 属性を別なものに変えること以外に、変化というものは存在しないのじゃ。

 シャンカラが変化する原因が存在しないといったのは、このような意味だというのじゃ。


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