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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

565鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/12(月) 23:23:51 ID:h54.WZ4o0
 
 そして永遠なものと無常 なものとを識別するラザンキヤーナ念想によって、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てる心構えが生ずるというのじゃ。
 仏教では無常の観想にあたるものじゃな。
 現世が常に移り変わり、一切皆苦であることを観じて、この世を捨てて悟りを目指す決意和するのじゃ。

 現世の利益を捨てる決意をすることで、心の平静や修行の成果を得られるようになるのじゃ。
 そのようにして克服された心は、真理という対象に適応しやすくなるのじゃ。
 信仰を備えた者となって自己の中にアートマンを見て、全てをアートマンの中に見ることができるのじゃ。

 ブラフマンの考究はまさ に、永遠なものと無常なものとを識別すること等の四種の条件の直後であって、ダルマの考究の直後ではないというのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2022/09/13(火) 01:39:55 ID:G7UG7Xt20
4.スートラの語義解釈(II)一「この故に」の語義 p.308 156/左229

  「この故に」という語は理由の意味である338。すなわちヴェーダは、「行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行(punya)によって得られた世界は来世で滅びる」339等々と、繁栄を達成する手段であるアグニホートラ祭340等の果報が無常であることを説き、また同じように、「ブラフマンを知る者は最高に達する」341等々と、ブラフマンの認識から入 人間の最高の目的 (解脱)342[が得られること]も説いている。それ故、先に述べた[四種の]手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきなのである。

  [スートラ中で「そこで」の]次にくる「この故に」という語を、[師シャンカラは、 次のように]説明している。「この故に」という語は理由の意味であると。[そして]、 「この故に」という語の[示す]理由の中味をヴェーダは云々と述べているのである。
ここで以下のように反対主張が提示される。

脚注
338、339
340 再生族の者(バラモン・クシャトリヤ・ヴァイシャ)で家住期にある者が、死ぬまであるいは遊行者となるまで、日に二回朝夕に義務として行わなければならない祭式で、牛乳等の供物を火に捧げるものである。
341、342 人間の目的には、実利、ダルマ(宗教的義務)、解脱の四種があるとされるが、ここではそのうちの解脱のことである。
(´・(ェ)・`)つ

567鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/13(火) 23:21:22 ID:AqcnZMQg0

 さらに続く、この故に、という語は理由の意味であるというのじゃ。
 ヴェーダは、行為 によって得られた世界がこの世で滅びるように、善行によって得られた世界は来世で滅びる、等々と、繁栄を達成する手段である祭式等の果報さえも無常であることを説いているのじゃ。
 ブラフマンを知る者は最高の境地に達する等々と、ブラフマンの認識から人間の最高の目的である(解脱が得られることも説いているのじゃ。
 そうであるから先に述べた四種の手投を得た直後に、ブラフマンの考究が行われるべきだというのじゃ。

568避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:36:10 ID:G7UG7Xt20
>>566 と本日の2カ所の
「手投」は「手段」の誤植かなと思うであります。
(´・(ェ)・`)b

569避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 06:40:02 ID:G7UG7Xt20
4.1.四種の手投(→段)を得たのちにブラフマンを考究することは不可能 であるという反対主張
   p308-309

  [反対主張]その通りである。先に述べられた[四種の]手投(→段)を得た直後に、ブラフマンの考究が存在するのである。だが[そうだとすると]、それ(ブラフマンの考究) は不可能である。というのは、現世と来世において果報を享受したいという欲求を捨てることは、不可能だからである。すなわち、果報の特徴は欲求の村象であるというところにあるので、果報は好ましいものだと知るべきなのである。そして、[このようにそれ自体]執着の原因であるそれ(果報)に対して、[人は]執着を捨てることがで きないのである。
   [反対主張に対する反論][楽しみは]苦しみと裏腹なので、楽しみにかける執着を捨てることさえあるではないか。
   [反対主張]ああ、なんということを。[では]どうして、「[苦しみは]楽しみと裏腹だから、苦しみに対する執着を捨てることさえある」とはならないのか。従って、[人 は]楽しみを享受している時には、苦しみを避けるよう努力すぺきなのである。[そして]避けられないものとして苦しみが訪れた時でも、[その苦しみを]捨てて、楽しみ のみを享受すぺきなのである。それはたとえば、魚を得たいと思っている人が、苔や 刺のついた魚を取ってくると、取るべきもの(魚)だけ取って[あとは]捨てたり、あ るいは、穀粒を得たいと思っている人が、殻のついた穀粒を取ってくると、取るぺきも の(穀粒)だけ取って[あとは]捨てたりするようなものである。従って、「現世と来 世における楽しみは、好ましいものだとは知られてはいて[も]、苦しみを恐れるため に捨てられるのだ」というのは適当ではない。実に人は、獣がいるからといって、米の 種をまかないというわけではないし、また、乞食がいるからといって、調理用の鍋を火にかけないわけではないのである。
  さらに、白檀や女性などと接触することから生じる目にみえる楽しみは、[それらが] 滅するものだというところからくる苦しみのほうがうわまることがあるので、極めて 臆病な人ならあきらめるかもしれないが、天界などの来世の[楽しみ]は、滅すること がないので、そんなことはないのである。実に聖典にも、「我等はソーマ酒を飲んだ。 我等は不死となったのだ」343と述べられているし、また同じ趣旨で、「実にチャートルマースヤ祭を行った人の善行は、滅することがない」344と[いう聖典句も]ある。
  また、この[天界の]場合には、「作りだされたものだから、滅するものである」345と いう推論は成り立たない。人間の頭蓋骨が清浄であるという推論346と同じように、[その推論の]中味が、聖典によって否定されるからである。従って、先に述べられた[四種の]手段を得ることはありえないので、ブラフマンの考究は存在しえない、と結論づ けられるのである。

脚注
343
344チャートルマースヤ(Cāturmāsya)祭とは、四ヶ月毎に行われる季節祭のことで、れには、春の到来を告げるVaiśvadeva祭、雨季の到来を告げる Varunapraghāsa祭、秋の到来Sākamedha祭の三種がある。
345「天界は滅するものである。何故なら、作り出されたものだからである。たとえば、壼等のように」という反対主張者の推論が挙げられている。
346「人間の頭蓋骨は清浄である。何故なら、生きものの部分だからである。たとえば、法螺貝ように」という推論は、「人は骨に触れたら沐浴し、着物をまとって水に入 るべきである」(出典不明)等の聖典句と矛盾するので、否定されるとされている。
(´・(ェ)・`)つ

570避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 07:19:15 ID:G7UG7Xt20
4種の手投→
1、永遠なものと無常なものとを識別すること、
2、現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、
3、心の平静(śama)・感覚器官の制御(あるいは心を馴らすこと,dama)328等の手段を得ること、
4、解脱を求める者であることである。
(´・(ェ)・`)b

571避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 22:25:56 ID:esgAx5y60
>>570
4種の手投→4種の手段
(´・(ェ)・`)b

572鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/14(水) 23:43:33 ID:eRiEmGmY0

 反対なのじゃ。
 四種の手段を得た後にブラフマンの考究をするのは不可能というのじゃ。
 現世と来世の果報を欲求する執着を捨てるのは、不可能だからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 苦楽は表裏一体と知って、安楽への執着を捨てることもできるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 苦が起きた時でも、苦を捨てて楽しみを享受するべきだというのじゃ。
 天界の楽しみは滅しないからあきらめてはいかんというのじゃ。
 そうであるから四種の手段を得ることはありえないからブラフマンの考究は存在し得ないというのじゃ。

573避難民のマジレスさん:2022/09/14(水) 23:49:05 ID:esgAx5y60
4.2.四種の手段を得たのちにブラフマンを考究することは可能で あるという答論  p310-311

  [答論]このような[反対主張者の]結論に対して、神聖なるスートラ作者は、この故にと答えているのである。[そして]その意味を、『註解』の作者は、すなわち、 ヴェーダは云々と説明しているのである。その趣旨は次の通りである。
  確かにその通りである。獣や乞食などは料理人や農夫が追い払うことが可能である。 しかし、様々な原因から生じた様々な苦しみは、取り除くことができないのである。というのは、[自己以外の外的な]手段に頼ることからくる苦しみと[楽しみは]滅するものであるというところからくる苦しみとは、最終的には、作りだされたあらゆる楽しみと常に共存しているからである。実に、最もすぐれた職人でも、蜜と毒のまじった食べ物から毒[だけ]を捨てて、蜜のついた[食べ物]を食べることはできないのである。また、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]ように云々」347とい う聖典句は、[天界は]滅するものであるという推論に裏付けられて、[天界が]滅するものであることを明らかにしており、[その場合には]「我等はソーマ酒を飲んだ云々」 等の聖典旬は、文字通りの意味であることが不可能なので、二義的な意味(比喩的な意味)をもつものであることになる。たとえば、プラーナに精通している人は、「元素に
帰るまでの状態が不死性と呼ばれるのである」348と述べているのである。
  そしてここでは、ブラフマンという語によって、それ[を知る]認識根拠であるヴェーダが思い起こされるのである349。さらに[ヴェーダのなかでもこのスートラの主題に]適したものということで、「行為によって得られた[世界]がこの世で[滅びる]よう に云々」等のそれ(ウパニシャッドの聖典句)が、「これ故に」[の「これ」という]代 名詞によって言及され、さらに[「これ故に」の「故に」にあたる]理由を示す第五格によって示されているのである350。
  [反対主張]天界等の作りだされた楽しみは、苦しみと裏腹である。ブラフマンもそれと同じであろう。
  [答論]だから[このような反対主張に対して、師シャンカラは]また同じように、 ブラフマンの認識がら[最高の人問の目的(解脱)が得られること]も云々と答えてい るのである。その意味するところは以下の通りである。すなわち、「この故に」=「天界等が滅するものであることを明らかにし、かつブラフマンの知識が人間の最高の目的であることを明らかにする聖典に基づいて」、先に述べた[四種の]手段を得、それ からブラフマンの考究が[行われるべきである]、と確定したのである。

脚注
347 348
349この箇所は、バースカラの次のような見解に対する答えである とされている。「永遠なものと無常なものとを識別すること等が主題となっているわけではないので、それ(永遠なものと無常なものを識別すること等)の直後というのは、「そこで」という語の意味ではない。従って、「この故に」という語は、祭式の果報が可滅であり、ブラフマンの知識が解脱の原因であるとい うことに言及しているわけではない、とするのが正しいのである」。すなわちここでは、このような見解 に対して、スートラ中のブラフマンという語から、ヴェーダなかでも祭式の果報が(可?)滅で、ブラフマンの知識が解脱の原因であることを説くウパニシャッドの聖典句が思い起こされ、「この故に」の「この」が、そのウパニシャッドの聖典匂に言及しているので、このバースカラの見解は正しくないというのである。
(´・(ェ)・`)つ

574避難民のマジレスさん:2022/09/15(木) 17:19:16 ID:Pz2aH0Zs0

脚注
350「この故に」というのは、代名詞「これ」に第五格を示す接尾辞がついたもの である。
(´・(ェ)・`)b

575鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/15(木) 23:32:08 ID:P/npat6E0

 答えたのじゃ。
 スートラにはさまざまな原因から起こる苦は取り除くことができないと述べられているのじゃ。
 どのような苦も最終的には、あらゆる楽しみと常に共存しているからなのじゃ。
 さらに聖典には天の世界も、やがては滅すると書かれているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 天界の楽しみは苦がないはずなのじゃ。
 ブラフマンも同じだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、 ブラフマンの認識から人問の最高の目的である解脱が得られるというのじゃ。
 つまりは苦から逃れるには、悟りを得るしかないというのじゃ。
 天界等も滅するものであり、ブラフマンの知識が人間の最高の目的であるという聖典により、四種の手段を得てから、ブラフマンの考究が行われるべきであるというのじゃ。

576避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 02:06:16 ID:Pz2aH0Zs0
5.スートラの語義解釈(III) ーー「ブラフマンの考究」の語義  157右/229
5.1.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表す第六格である  p311

  「ブラフマンー考究」(brahmajijnāsā)とは、ブラフマンの考究のことで ある351。そしてブラフマンの定義とは、[ブラフマンとは]それ基づいて この[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と[次のスートラI.1.2で]述べられるであろう。従って、ブラフマンという語に[バラモン というような]カースト等の別の意味を想定すぺきではないのてある352。「ブラフマンの」(brahmanh)というのは、行為の対象を表す第六格であり、 それ以外の関係を表す(śese)353[第六格]ではない。何故なら、考究には 考究の対象が必要であり、かつ、[ブラフマン]以外の考究の対象は示されていないからである。

脚注
351
352「ブラフマン」という語には、絶対者としてのブラフマンという意味以外に、バラモンというカーストという意味や、ヴェーダという意味などがあるが、ここでは絶対者としてのブラフマンという意味にとるぺきであるということである。
353「それ以外の場合に第六格が[用いられる]」とあり、ここではこれを前提としている。なお「それ以外の場合」とは、行為の対象等を示す場合および名詞語幹の意味を示す場合以外のことで、所有、被所有の関係等を示す場合であるとされている。

5.1.1.「ブラフマンの考究」という語は第六格の格限定複合語である  p312

  [スートラ中の]「ブラフマンー考究」という[複合]語を説明して、[師シャンカラ は]、ブラフマンの[考究のことである]と言っているのである。[このように]第六格の複合語[であること]を示すことによって、これまでの註釈者たちの[解釈]、すなわちブラフマンのための考究が「ブラフマンー考究」であるという第四格の複合語[とする解釈]を退けているのだと知るべきである354。というのは、(1)「第四格の複合語の場合には、素材と[その]産物(prakrtivikrri)とが理解されるべきである」355という力一テイヤーヤナの言葉によって、祭式用の杭と[その素材である]木などのように、素材と[それの]産物という関係のあるものの場合にのみ、第四格の複合語となると決まっているので、素材と産物という関係のないこの(ブラフマンと考究)等の場合’には、それ(第四格の複合語とすること)は禁じられているからであり、(2)「馬のかいば等は第六格の複合語であるべきである。」等[の文章]が、かいば等の場合には、第 六格の複合語[となること]を規定しているので、[「ブラフマンー考究」が]第六格の複合語であっても、ブラフマンが実際には主要なものであるということは成り立つか らである356。

脚注
354
355 第四格は、素材(prakrti)と その産物(vikrti)の場合に用いられるとされている。
356また同じ箇所で、「馬のかいば」という複合語の場合には、「馬のためのかいば」という意味の第四格のと解されるから、第四格のを素材とその産物だけに限るのは不適当ではないか、という反論に対して、この場合には、第六格と解すぺきであるとされている。そしてこの場合、かいばは馬のためのものであるから、馬のほうが主要なものである。
(´・(ェ)・`)つ

577鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/16(金) 23:00:59 ID:dNtawhug0
ブラフマンと考究の複合語である、Brahmajijnasa とはブラフマンの考究のことであるというのじゃ。
 バラモン階級をあらわすブラフマンではないというのじゃ。
 Brahmanaとは行為の対象を示す第六格の言葉であり、ブラフマンが考究の対象であるというのじゃ。
 ブラフマンが考究の対象として主要なものであるというのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2022/09/16(金) 23:52:41 ID:3HJ9Ki4o0
5.1.2.「ブラフマン」という語は最高のアートマンを意味している  p312

  [反対主張]ブラフマンの考究と言った時に、ブラフマンという語にはいろいろな意味 があるので、どのブラフマンの考究なのかという疑問が生ずる。ブラフマンという語は、 「バラモン殺し」357(brahmahatyā)という場合のように、バラモンというカーストの意味で[も用いられるので]ある。また、「ヴェーダを捨てること」358(brahmojiham) という場合のように、ヴェーダという意味で[も用いられるので]ある。また、最高の アートマンという意味で[用いられることもある]のである。たとえば、「ブラフマンを知る者はブラフマンとなる」359という場合のように。
  [答論]まさにこの疑問を、[師シャンカラは次のように]退けているのである。そしてブラフマンの定義は[次のスートラI-1.2で]述べられるであろうと。[このよう に師シャンカラは]、ブラフマンの考究を提唱したのちに、それ(ブラフマン)を認識させるために、最高のアートマンだと定義づけているので、われわれは、これ(ブラフマンの考究)とは最高のアートマンの考究のことであって、バラモンというカーストなどについての考究ではないのだ、と理解するのである。これが[「註解』のこの箇所の]意味なのである。

脚注
357 358 359

5.1.3.「ブラフマンの」というのは行為の対象を表わす第六格である  p313 右158/229

  [反対主張]第六格の複合語であることは認めるにしても、これは行為の対象を示す第六格ではなくて、それ以外の関係を示す[第六格]である。そして、それ以外の関係とは、一般的関係のことであるので、「ブラフマンの考究」というのは、「ブラフマンに関係する考究」ということである。従って、「ブラフマンの考究」[という語]によって 理解されるブラフマンの考究の中味は、ブラフマンの本質、[ブラフマンを知る]認識根拠や論理、[ブラフマンに達する]手段、[ブラフマンを知る]目的に関するもろもろの考究すぺてなのである。というのは、[ブラフマンの本質、ブラフマンを知る認識根拠等は]、直接的間接的にブラフマンと関係しているからである。だが、行為の目的を示す第六格の場合には、ブラフマンという語の示すものは、[考究という]行為の対象であって、それはとりもなおさず[ブラフマンの]本質のことであるので、それ(ブラフマン)[を知る]認識根拠等は含まれないことになろう。従って、認識根拠等に関する考察は、命題として提示されていない事柄に対するものとなってしまうであろう。
   [答論]このように考える人たちに対して、[師シャンカラは次のように]答えてい
るのである。「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す云々と。[そして]その理由を、[何故なら]、考究には云々と述べているのである。すなわち、知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマ ンである。[そして]実に、知識はその対象がなければ形をなさないし、考究(知りた いとう欲求)は知識がなければ形をなさないのである。従って考究は、[知りたいとい う欲求を]達成することと結びついているので、なによりもまず[欲求という]行為の対象を必要とするのであって、[それに]関するもの[一般]を[必要とするの]で はない。それ(行為の対象)に関係するもの[一般]が存在しなくても、行為の対象が
存在すれば、それ(考究:知りたいという欲求)は形をなすからである。実に、太陽と月を見て、「これは何に[関係しているのか]」と、[太陽や月と]関係するものを詮索 することはないのである。そうではなくて、知識といった時には、「何がその対象なの か」という形で対象を詮索するのである。従ってブラフマンは、[考究に]まず第一に 必要なものなので、対象として[考究と]関係しているのであって、[考究に]関係するもの一般として[関係しているの]ではないのである。というのは、それ(考究に関係するもの一般)は、二次的なものだからである。従って、[「ブラフマンの」というの は]、行為の対象を表す[第六格]であって、それ以外の関係を表す[第六格]ではな いのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

579鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/17(土) 23:30:27 ID:/8BnkeKE0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンという語にはいろいろな意味があるから、どのブラフマンの考究なのかという疑問があるというのじゃ。
 バラモン階級とか、ヴェーダとか、最高のアートマンとかなのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンの定義は次のスートラで述べられるといったのじゃ。
 ブラフマンの考究を提唱した後、ブラフマンを認識させるために最高のアートマンを求めるべきだと定義づけているので、ブラフマンの考究とは最高のアートマンの考究のことだとわかるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究というのは、ブラフマンに関係する考究ということだというのじゃ。
 ブラフマンの、というのが行為の対象を表す言葉であれば、認識根拠等に関する考察は命題として提示されていない事になるからなのじゃ。

答えたのじゃ。

 知識は、[知りたいという]欲求を達成することと結びついており、知識にとってその対象はブラフマンなのじゃ。
 知識はその対象がなければ形をなさないし、考究は知識がなければ形をなさないのじゃ。
 考究は、知りたいという欲求を達成することと結びついているから、なによりもまず欲求という行為の対象を必要とするのじゃ。
 それに関するもの一般を必要とするのではないのじゃ。
 行為の対象に関係するもの一般が存在しなくても、行為の対象が存在すれば、考究は形をなすからなのじゃ。 

 
 知識という時には、何がその対象なのかという形で対象を詮索するのじゃ。
 ブラフマンは考究にまず第一に必要なものであるから、対象として考究と関係しているのじゃ。
 考究に関係するもの一般として関係しているのではないのじゃ。
 そうであるからブラフマンの、というのは行為の対象を表す第六格であり、それ以外の関係を表す第六格ではないというのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2022/09/17(土) 23:49:44 ID:FeYARfGE0
5.2.「ブラフマンの」が行為の対象を表わす第六格である理由 p314-316 159左/229

  [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表 す[第六格だ]と認めたとしても、ブラフマンが考究の対象であることは矛盾 しないのではないか。何故なら、一般的な関係は特殊[な関係]に基づくからである。
  [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の対象であるということを否定して、一般的[関係]を媒介とすることによって、間接的に対象である と想定するのは無駄な努力であろう。
   [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関係するすべて[の事柄]について考察することを約東するという意味があるからである。
  [答論]そうではない。主要なものが認識されれば、それ(主要なもの)に基 づくものは[すべて]付随的に理解される(arthāksipta)からである。[そして]実にブラフマンは、知識によって最も得たいと望まれているものなので、主要なものなのである360。その主要なものである考究の対象が理解された時には、それらが考究されなければブラフマンが考究されたことにならないような事柄は、まさに付随的に理解されるので、[それらを]別個にスートラで述べる必要はないのである。たとえば、「かの王が行く」と言った時には、王が従者とともに行くことが述べられていることになるが、それと同じである。さらに、[このようにブラフマンが考究の直接の対象であるとするのは]、天啓聖典句と一致するからなのである。すなわち、「実にそれよりこれらの諸存在が生じてきた云々」361で始まる諸天啓聖典句は、「それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」362と、ブラフマンが考究の対象であることをまさに直接に示しており、それら(諸天啓聖典句)は、[スートラ中の「ブ ラフマンの」という語を]行為の対象を表す第六格に取った時に、スートラと一致するのである。従って、「ブラフマンの」というのは、行為の対象を表す 第六格なのである。

  ある者がその意図を隠して、[次のように]反対主張を提示している。
   [反対主張][「ブラフマンの」という第六格を行為の対象]以外の関係を表す[第六格だ]と認めたとしても云々と。すなわち、一般的関係は特殊な関係と矛盾しないので、考究は、[ブラフマンが考究という]行為の対象であることと矛盾せずに、形をなすことができるからである、というのが[その]意味なのである。
   [師シャンカラ自身も]まさにその意図を隠して、[次のように反対主張を]批判しているのである。
   [答論]たとえそうであっても、ブラフマンが直接の云々と。すなわち、[ブラフマンが考究の]対象であることは、聖典に]直接述べられており、また[それは]考究がまず第一に必要とし、かつ考究とまず第一に関係してしかるぺきである[のに]、[その対象であるという]関係を放棄して、[考究に]関係するもの一般一[それは]のちになってなんとか必要となってくるものである一との関係[を想定するの]は、最後のものを最初にし、最後のものを最初にすることになる。とすれば[ここでは]、諭理 の)原理がなんとうまく説明されていることか(全く説明されていないことになる)。 そして、直接のとか間接にと言っているのは、「主要な」とか「主要でない」あるいは 「明らかな」か「明らかでない」という意味なのである。
  反対主張者が自己の意図を明らかにする。
  [反対主張]無駄ではない。ブラフマンに関するするすぺて云々と。 これはすでに説明したところである。
  答論者も自己の見解を明らかにする。
  [答論]そうではない。主要なものが理解されれば云々と。ブラフマンは、[言葉の上では主要なものではないが]、実際には主要なものなのである363。その他の意味は、 例も含めて、不明なところはない。また、天啓聖典句の趣旨も不明なところはない。
  以上のように、[「ブラフマンー考究」という]複合語を、[自分の]望んだ通りに、 [行為の対象を表す第六格の複合語だと]確定したのち、[師シャンカラは次のように]、 「考究」という語の意味を述べているのである・ [考究とは]知りたいという云々と。

脚注
360行為の村象(Karma)の定義によれば、行為の対象とは、「行為者にとってもっ とも得たいと望まれているものである」とされており、この定義がここで前提となっていると思われる。
361 362
363脚注210参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

581鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 00:08:12 ID:IpT5Tkiw0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンの、というの一般的な関係であっても、考究の対象であることと矛盾しないというのじゃ。
 特殊な関係も一般的な関係に基づくからというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンが直接の関係ではなく一般的な関係を媒介にして、間接的に対象とするのは無意味なのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関する全てを考察するから無意味ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 主要なものが認識されれば、主要なものに基づくすべてが付随的に理解されるから必要ないのじゃ。
 ブラフマンは主要なものなのじゃ。
 そうであるからブラフマンのというのは、行為の対象を表す第六格なのじゃ。

582避難民のマジレスさん:2022/09/19(月) 07:37:04 ID:PGamRFVQ0
6.スートラの語義解釈(IV) 「考究」の語義
   p316-319 160左/229

  「考究」とは知りたいという欲求のことである。[そして]理解(悟り,avagati) をもって終わる知識が、san[という語尾]によって表されいる欲求の対象な のである364。何故なら、欲求はその結果を対象とするからである365。さらに、知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのが、ブラフマンなのである366。というのは、ブラフマンの理解(悟り)は、輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので、人間の目的だからである。従って、 ブラフマンが考究されるべきなのである。

脚注
364「考究」(jijñāsā)という語は、「知る」(/jña)という語根にsanという欲求を示す接尾辞がついてできたものである。
「村に行く」というような場合には、行くという行為の対象は村であり、行くという行為の結果は村に到着することであるというように、行為の対象と行為の結果は異なるが、欲求の場合には、結果を望んでいるわけであるから、欲求という行為の対象がそのままその行為の結果となるので、両者は一致するのだとされている。
366 脚注360参照。

6.1.ブラフマンの知識は欲求の対象が否か

  [反対主張]知識は欲求の対象ではないであろう。楽しみを得て苦しみを避けるこ と、および、それらを媒介としてそれら(楽しみを得て苦しみを避けること)の手段 が、欲求の対象となるのである。[だが]ブラフマンの知識はそうではない。それは実 に、好ましいものだとも好ましくないものを止滅させるものだとも経験されていない のである。さらに、それら両者(楽しみと苦しみ)を得る手段でもない。というのは、 それ(ブラフマンの知識)がある時でも、特別の楽しみは見られないし、苦しみは引き
続いていて止滅することがないからである。従って、スートラの作者の言葉にのみ基 づいて、知識が欲求の対象であるとすぺきではない。
  [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。理解(悟り)をもって終わる云々と。ただ単なる知識が望まれているのではない。

そうではなくて、理解(悟り)すなわち直証を生み出す「理解(悟り)をもって終わる [知識]」が、San[という語尾]によって表されている欲求の対象なのである。何故か。 欲求はその結果を対象とするからである。すなわち欲求は、その結果が得られるまで、 それ(結果)[を得る]手段を対象とするというのが、言外の意味なのである。
[反対主張]知識は理解(悟り)をもって終わるとしておこう。[だが]だからといっ て、望ましいものとなるのだろうか。というのは、必要とされていないものを対象と する知識は、たとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないからである。 [答論]以上の反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。さらに知識という認識根拠によって理解したいと[人が]最も望んでいるのがブ ラフマンなのであると。 [反対主引長]ブラフマンを対象とする理解があるとしておこう。たとえそうでも、 [その理解は]どうして望ましいものなのか。
[答論]このような[反対主張]に対して、[岬シャンカラは]、というのは、ブラフ マンの理解(悟り)は、人間の目的だからであると答えているのである。それは繁栄で あろうか。そうではない。そうではなくて、至福なのである。すなわち、苦しみとの関 わりがすべてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ること([それは] ブラフマンの本質にはかならない)、それこそが至福であり、人間の目的なのである。
(´・(ェ)・`)つ

583鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/19(月) 23:51:04 ID:ij8ZaVPk0
 考究とは知りたいという欲求であり、その知識はブラフマンの理解である悟りで終わるものであるから、欲求の対象となるのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、輪廻の原因である無明を滅するから人間の目的なのじゃ。
 そうであるからラフマンが考究されるべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 知識は欲求の対象ではないというのじゃ。
 苦を避け、快楽を求めるものが欲求の対象となるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 欲求はその結果を対象とするから知識も対象となるのじゃ。
 欲求はその結果が得られるまで、結果を得るための手段である知識も対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 必要とされていないものを対象とする知識はたとえ理解をもって終わったとしても、望まれることがないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 知識という認識根拠によって、理解という悟りを得たいと人々が最も望んでいるのがブラフマンなのであるから知識も欲求の対象となるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンを対象とする理解があるとしても、その理解が望ましいものとはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは、人間の目的であるから望ましいのじゃ。
 それは至福なのじゃ。
 最高の歓喜そのものであるブラフマンを悟ることが至福であり、人間の目的なのじゃ。

584避難民のマジレスさん:2022/09/20(火) 03:35:29 ID:S56uQNvI0
6.2.ブラフマンを知ることは人間の目的か否か   p317-318 160右/229

  [反対主張]ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。何故なら、人間の目的は、人間の活動によって、その存在する領域が覆われていなけれぱならない(vyāpya)367からである。だが、これ(ブラフマンの悟り)は、ブラフマンをその本性とする[ので]、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりすることがありえな いのである。というのは、そのような場合には、[ブラフマンは]無常であることになり、その(ブラフマンとしての)本性をそなえることが成り立たないからである。そして、生ずること等が存在しなければ、[ブラフマンの悟りが]、活動によって、その存在する領域を覆われることはないのである368。従って、ブラフマンの悟りは人間の目的ではない。
   [答論]以上のような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。輪廻の原因である無明等の悪を残らず滅するので云々と。確かに、ブラフマンをその 本性とするブラフマンの悟りに、生ずること等はありえない。だが、[実在であるとも 非実在であるとも]表現することのできない無始の無明のせいで、ブラフマンの本性は、輝いているのに輝いていないかのように、[自己]以外のものに基づくことなく輝 いているのに[自己]以外のものに基づいて輝いているかのように369、身体・感覚器官等とは異なるのに異ならないかのように見えるので、輪廻の原因である無明等の悪が滅せられる以前には獲得されていないかのようであって、それ(無明等の悪が滅せられること)が存在する時に獲得されたかのように見えるのである。そのため人に望まれるので、人問の目的なのであるとするのが正しい。

脚注
367 人問の目的は人問の活動の目的であるから、人間の活動が存在する領域のなかに人間の目的の存在する領域が含まれて必要がある、というのである
368ブラフマン=ブラフマンの悟り=解脱が、生じたり、変化してできたり、浄化されて現れたり、獲得されたりするものでない。このようにブラフマンの悟り が生じたりしなけれぱ、人間の活動の対象ではないことになるので、人問の活動の存在する領域のなかに含まれていないことになるのである。
369 不二一元論学派によれば、ブラフマンは自らに基づいて輝いている認識そのものであって、通常の対象の場合とは異なり、ブラフマン自身以外のものに基づいて認識されるというようなものではないとされ ている。

6.3.解脱を望む者はブラフマンを考究すべきである  p318

  なお[『註解』本文の]無明等の等という語からは、その(無明の)潜在印象が理解 されるのである。また、無明の止滅は、念想の結果である直証一[それは]内官の変 容の一種である一から[生ずる]と理解すべきである370。[さてここで師シャンカラ は、次のように]結論づけている。従って、ブラフマンが先に述べたような特徴をそな えた371解脱を望む人によって考究されるべきなのであると。実に、その(ブラフマンの)知識がなければ、無明一[それは]潜在印象をともない、様々な苦しみの原因で ある一が滅せられることはない。そして、それ(無明)が滅せられなけれぱ、苦しみ との関わりがすぺてなくなった最高の歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アー トマンとが同一であるという直証は、個人存在に現れることがないのである。従って、 歓喜そのものであるブラフマンと[自己の]アートマンとの同一性を望む者によって、 それ[を知る]手段である知識が求められるぺきなのである。
(´・(ェ)・`)つ

585鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:25:22 ID:beBu0zAQ0

 反対なのじゃ。
 人間の目的は人間の活動領域にあるからなのじゃ。
 ブラフマンの理解である悟りは人の領域にないから目的にはならないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 無明のせいでブラフマンの輝きも、心身との違いもないようにみえるのじゃ。
 無明がなくなればブラフマンが自ら認識されるのじゃ。
 そうであるから人に望まれ、目的にもなるのじゃ。

586鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/20(火) 23:28:43 ID:beBu0zAQ0

 そうであるからシャンカラは解脱を望む者に、ブラフマンの考究が実践されるべきというのじゃ。
 ブラフマンの知識があれば、無明も滅せられ、苦がなくなればブラフマンとアートマンの同一が直証されるのじゃ。
 そのためにブラフマンの考究が実践されるべきなのじゃ。

587避難民のマジレスさん:2022/09/21(水) 04:52:56 ID:ykaKzq6s0
6.4.「ブラフマ・スートラ』I.1.1の意義 p319 161右/229

  またそれ(ブラフマンの知識)は、諸ウパニシャッドのみから[生ずるの]ではなくて、ブラフマンの考察に助けられて[諸ウパニシャッドから生ずるので]ある。従っ て、[ブラフマンを知りたいという]欲求が[人を]ブラフマンの考察へと向かわせる のであり、[その欲求が人を]、諸ウパニシャッドやその(諸ウパニシャッドの)意味を 述べようとすることへと、[向かわせることは]ないのである。というのは、(1)これ (諸ウパニシャッドの意味を述べようとすること)に関してはすでに、「そこで、この故 に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラー[これは]、ヴェー ダの学習を命ずる儀軌の趣旨が、[ヴェーダの文章の]意味をその果報372も含めて理解 するところにあるということを、スートラという形で述べたものである一によって 開始されているからであり、(2)また、ダルマという語は、ヴェーダ[全体]の意味を 暗に示しているので、非ダルマと同じようにブラフマンも暗に意味していることになる からである373。[だが]たとえ、ダルマの考察の場合のように、ブラフマンの考察も、ヴェーダの意味の考察によって暗に意味することが可能であるにしても、それ(ブラフ
マンの考察)は、前者の考察(ダルマの考察)からは生じないのである。また、ブラフマンの考察は、単なる[ヴェーダの]学習の直後に[開始されるべきもの]ではない。
従って、ブラフマンの考察を開始するために、また永遠なものと無常なものとを識別す
ること等の直表に[ブラフマンの考察が開始されるべきことを]示すために、このスートラが開始されるぺきなのである。だから[このスートラは、「そこで、これ故に、ダルマの考究が[開始されるべきである]」というスートラがすでに述べたことを]、繰り返して述べているわけではないのである。

脚注
370『パーマティー』の場合には、シャンカラとは異なり、解脱への階梯のなかで,心的な活動である念想が極めて重要な役割を果たしている。
371「先に述べたような特徴をそなえた」とは、(1)永遠なものと無常なものとを識別すること、(2)現世と来世において利益を享受したいという欲求を捨てること、(3)心の平静・感覚器官の制御等の手投を 得ること。(4)解脱を求める者であること、というブラフマンの考究のための四種の条件をそなえたという意味である。
372 ヴェーダの学習の結果得られる果報である天界のこと。
373ヴェーダのなかには、ヴェーダの儀軌が行うように命じているダルマや、禁令が命じている非ダルマや、ヴェーダの一部であるウパニシャッドに説かれているブラフマンなどが含まれている。
(´・(ェ)・`)つ

588鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/21(水) 23:46:40 ID:a14PsG7c0
 ブラフマンの知識は、諸ウパニシャッドのみから生ずるのではなくて、ブラフマンの考察に助けられて諸ウパニシャッドから生ずるのじゃ。
 
 経典を参考にして実践することでブラフマンの知識も生じるというのじゃ。
 
 ブラフマンの考察は、ダルマの考察からは生じないのじゃ。
 ブラフマンの考察は、単なるヴェーダの学習の直後に[開始されるべきものでもないのじゃ。

 永遠なものと無常なものとを識別すること等の直後、ブラフマンの考察が開始されるべきであることを示すために、このスートラが開始されるぺきなのじゃ。

589避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 02:33:41 ID:fPgzSqHs0
7.ブラフマンの考究の意義
7.1.ブラフマンの存在はすでに良く知られている  p319-320 161右/229

  [反対主張]ところで、ブラフマンはすでに良く知られているものなのだろうか、それともまだ知られていないものなのだろうか。もしすでに良く知られているものだとすると、考究する必要はないであろう。またもしまだ知られていなければ、考究することは不可能であろう374。
   [答論]まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、また、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのである。何故なら、ブラフマンという語には、その語根である/brhの意味に 従って、もともと語源的に、永遠性・清浄性等の意味が認めれらるからである375。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのである。というのは、人はすべてアートマンが存在すると信じており、「私は存在しない」とは[信じて]いないからである。実にもし、アートマンが存在することが知られていなければ、他の人はすべて「私は存在しないのだ」と信じていることであろう。そして、(この)アートマンがブラフマンなのである。

脚注
374 同じ論議がダルマに関して行われている。
375語源学の書でも、Brahmanという語の語源を増大する、強大となると解釈している。

7.1.1.ブラフマンは、すでに良く知られているにせよ、まだ知られていないにせよ、考究の対象とはならないという反対主張 p320-321

   [反対主張]「このスートラは、[ブラフマンの]考察がブラフマンの知識を得る手段であることを明らかにしている」376と先に述べられていたが、それは正しくない。何故なら、[ブラフマンは次のような]疑問(vikalpa)にたえないからである。このような趣旨で[われら反対主張者は、次のように]反対主張を提示しているのである。ところでブラフマンは云々と。すなわち、[ブラフマンは]、諸ウパニシャッドー[それらは]人間の作ったものではないので、正しい認識根拠であることがそれ自体で確立している一に基づいて、すでに良く知られているか、あるいは、まだ知られていないかのいずれかであろう。もしすでに良く知られているとすると、[ブラフマンは]、ウパニシャッドの文章から生じた確実な知識の対象であることになるので、考究する必要はないであろう。というのは、[ウパニシャッドという認識手段の]対象(ブラフマン)に、[認識という]行為がすでに生み出されているのに、[そのブラフマンという]対象に対して、[ウパニシャッドという認識の]手段が、なんら違いをもたらさないとすれぱ、それは、手段の定義からはずれてしまうことになるからである377。
  またもし、諸ウパニシャッドからまだ知られていなければ、諸ウパニシャッドは、それ(ブラフマン)について教えていないことになるので、[ブラフマンは]どうやっても知られないということになり、考究すること(知りたいと望むこと)ができなくな るであろう。というのは、欲求は、すでに経験されていてかつ好ましいものに対して生ずるのであり、どうやってもこれまで経験したことのないものに対しては、[欲求が 生じ]ないからである。また、[ブラフマンというまだ経験されていないものに対してでも]、欲求が生ずるとしても、[それを]知ることはできない。何故なら、[それを知る]認識根拠が存在しないからである。というのは、聖典が[ブラフマンを知る]母胎(典拠)だからであると、[『ブラフマスートラ』I.1.2で]述べられるように、聖典 のみがそれ(ブラフマン)[を知る]認識根拠だと言うべきなのであるが、[すでに述べ たように]、もしそれ(ウパニシャッド)がそれ(ブラフマン)を教示していないとすると、それ(聖典)はそれ(ブラフマン)に関する正しい認識根拠ではないことになるし、また、[聖典]以外の認識根拠がブラフマンに対して作用することはないからであ る。従って、すでに良く知られているものは、知ることができても考究(知りたいという欲求)が存在しないし、また、まだ知られていないものは、欲求の対象とはならないので知ることができないから、[いずれにせよ]ブラフマンは考究の対象とはならない のである。
  以上が反対主張である。

脚注
376 本訳318-319頁参照。
377すでに生じている認識とそれ以後に考察という手段を適して得られた認識とになんら変わりがなければ、考察という手段は手段としての用をなしていないことになる。 
(´・(ェ)・`)つ

590鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/22(木) 23:32:03 ID:fLu192wg0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンが知られているならば考究しなくてよいのじゃ。
 知られていないものならば、考究することができないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして、全知で全能をそなえたものとして、存在しているのじゃ。
 ブラフマンという語の語源に永遠性や清浄性等の意味があるのじゃ。
 ブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのじゃ。
 人はすべてアートマンが存在すると信じているのじゃ。
 アートマンが存在することが知られていなければ、人はすべて私は存在しないと信じていることになるのじゃ。
 人の心にあるアートマンがブラフマンなのじゃ。

591避難民のマジレスさん:2022/09/22(木) 23:47:24 ID:PXQ/B2vU0
7.1.2.ブラフマンの存在はすでに良く知られているという答論  p321-322

  [答論][以上のような反対主張を、師シャンカラは次のように]退けているのであ る。まずブラフマンは、本性上、永遠で、清浄で、悟っており、解脱したものとして云々と。その趣旨は以下の通りである。すなわち、たとえブラフマンの考察以前でも、人は、ヴェーダを学習し、ヴェーダの補助学である語源学・文法学等378を学ぶことによって、語とその意味との関係を理解していれば、とりたてて論考しなくても、「愛児 よ、太初にはこの[世界]は有のみであった」379で始まり、「汝はそれなり」380で終わる[聖典句の]繋がりから、即座に、ブラフマンー[それは]永遠である等の性質をそなえている一の本性を理解するのである。ところで、ここ(『註解』本文中)で、ブラフマンは云々[という個所]は、[一義的には]理解の対象(すなわちブラフマン)を示すものではあるが、[ここでは]それ(ブラフマン)を対象とする理解のほうを暗に意味しているのである。というのは、それ(ブラフマン)が存在するということは、 疑問の余地があるので、論考以前には決まらないからである381。また、永遠でというのは、滅してゆくものだというところからくる苦しみを排除しているのである。また、 清浄でというのは、身体等の添性からくる苦しみを排除しているのである。また、悟っておりというのは、[ブラフマンが自己]以外のものに基づくことなく輝いていること、 および、歓喜を本質としていることを示しているのである。何故なら、歓喜と輝きは 異ならないからである382。
  [反対主張]解脱がすでに存在していれば、これ(ブラフマン)の清浄さ等は輝いて いる(認識されている)ことであろう。だがそれ(解脱)以前には、[ブラフマン=アー トマンは]身体等と区別されていないので、その(身体等の)属性である生・老・死等の苦しみと結びついているから、清浄さ等が輝いているということはないであろう]。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。解脱したものとしてと。すなわち、[ブラフマンは]常に解脱しており、常に純粋であ るが、無始の無明の力による附託のせいで、そのように(身体等と異ならないかのよう に)現れるのである、という意味である。
  このようにブラフマンの添性に限定されていない姿を示したのち、[師シャンカラは 次のように、その]添性に限定された姿について述べている。また、全知で全能をそな えたものとしてと。これで、これ(ブラフマン)が世界の原因であることが示されてい るのである。というのは、原因であるとか原因でないというのは、能力と知識の存在’ 非存在に基づくからである。

脚注
378 語源学、文法学、祭事学、音韻学、韻律学、天文学というウェーダ聖典研究のための六種の補助学のこと
379 380
381『註解』本文では、ブラフマンの存在証明は、さらに[ブラフマン]すべての入のアートマンなの で以下で展開されており、このブラフマンは云々の箇所ではまだ、ブラフマンの存在は証明されていない。 従ってこの段階では、ブラフマンの存在にはまだ疑間の余地があるので、ここのrブラフマン」という語 は、ブラフマンという対象を指しているのではなく、ブラフマンという語で理解されているものを指しているというのである。
382 不二一元論学派では一般に、ブラフマンは実在であり、知であり、歓喜であり、実在等はブラフマンの属性ではなくブラフマンそのものであるとされている。ここでもおそらく同じように、歓喜と輝きはブラフマンそのものであるから、歓喜と輝きは異なるものではないということを言っているのであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

592鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/23(金) 22:43:59 ID:14LIr/j20

 前の続きなのじゃ。
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドによって知られているか、知られていないかなのじゃ。
 知られているならば、考究する必要はないのじゃ。
 知られていないならば考究もできないのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの考察以前でも人はヴェーダを学習してブラフマンを理解できるというのじゃ。
 そして疑問があるからさらに考究すべきであるといのじゃ。

 反対なのじゃ。
 解脱していないならばブラフマンは苦と結びついているから清浄ではないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは常に解脱しているというのじゃ。
 無明によって身体と同一視されているたけなのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2022/09/24(土) 00:20:09 ID:Q2tDKdEM0
(つづき)  p322-324
  [反対主張]ではどのようにして、このようなブラフマンの本性が悟れるのか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えているのであ る。何故なら、ブラフマンという語には云々と。このようなブラフマンは、ただ単に、「愛児よ。[太初には]この[世界]は有のみであったのだ」383等の諸聖典句の前後の文脈を考察することによってのみ悟れるのではなく、ブラフマンという語[自体]が語源的にこのような意味をもっているのである。[師シャンカラは、その]語源を[次 のように]述べている。その語源である/brhの意味に従って云々し実に、「増大する」という意味の/brhという語根は、優れていることを意味するのである。そして、まさにこの限りなく優れていることが、これ(ブラフマン)が永遠であり、清浄であり、悟っている等々のこと一[それはブラフマンという語]以外の語384から悟られる一を許すのである。これが[『註解』本文]の意味である。 このように[師シャンカラは]、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは良く知られているということを述べたのち、「汝」という語の意味についても[次のよう に]述べている385。さらに[ブラフマンは]、すべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると。ブラフマンが存在することはす ぺての人に386、すなわち、足がほこりにまみれた農夫にすら良く知られているのである。何故か。アートマンだからである。まさにこのことを、[師シャンカラは]、というのは、人はすべて云々と明らかにするのである。[そしてこの]認識を、[次のようにそれとは]逆の認識を否定することによって、確実なものとするのである。[「私は存 在し」ない]とは[信じてい]ない[がらである]と。すなわち、「私は存在する」と認識しないことはなくて、[「私は存在する」と]認識するのである、という意味である。   
  [反対主張]「私が存在する」とは知っていようが、アートマンは知らないであろう。
   [答論コこのような反対主張に対して、[師シャンカラは]、[実に]もし云々と答え ているのである。すなわち、「私は存在しないのだ」と信じていることであろうと[言 うのである]。つまり、「私」という語の対象が個人存在[に内在する]アートマンでなければ、「私は存在しないのだ」と信じているであろうという意味である。
   [反対主張]すべての人が、アートマンを「私」という語の対象だと信じているとしておこう。だが、ブラフマンに関してはいったいどうなのか。
  [答論]このような反対主張に対して、[師シャンカラは]、アートマンがブラフマンなのであると言っているのである。何故なら、[アートマンを指す]「汝」[という語] と[ブラフマンを指す]「それ」[という語]が、[「汝はそれなり」というように]同格関係にあるからである。従って、「それ」という語の意味が清浄さ等であることは、聖 典から良く知られており、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマン であることは、直接知覚に基づいて良く知られており、さらに、文章の意味の認識は語 の意味の認識を前提とするので、「汝はそれなり」という聖典句から「汝」という語の 意味がブラフマンであると悟るのは、理にかなっているのである。以上が[『註解』本文の]意味である。

脚注
383
384「永遠である」等の語から悟られるということ
385「汝はそれなり」という文章は、不二一元論学派では、「汝」とい う語が指し示すアートマンと「それ」という語が指し示すブラフマンとが同一であることを示す、極めて重要な聖典の文章(大文章)とされ、様々な解釈がほどこされてきたが、ここでも、この文章を前提とし て論議が進められているのである。
386 『註解』本文は、[ブラフマンは]すべての人のアートマンなのが、ブラフマンが存在することは良く知られているのであると訳しておいたが、『バーマティー』はこれを、「ブラフマン存在することはすぺての人に良く知られている。なぜなら、[ブラフマンは〕アートマンだからである」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)つ

594鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 00:31:21 ID:Vl6sTIjo0
 反対なのじゃ。
 どのようにして、ブラフマンの本性が悟れるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは語源から、優れて永遠であり、清浄であり、悟っているアートマンが、それという言葉で現されているというのじゃ。
 汝という言葉もブラフマンはすべての人のアートマンなので、ブラフマンが存在することは良く知られているというのじゃ。
 私は在る、という言葉によって知られているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人々は私が在ると知っていようが、アートマンは知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もし私という語の対象が個人存在[に内在するアートマンでなければ、私は存在しないのだと信じていることになるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すべての人がアートマンを私という語の対象だと信じているとしても、ブラフマンに関しては知らないであろうというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはアートマンがブラフマンなのであると言っているのじゃ。
 汝はそれなり、という聖典の言葉は、アートマンである汝と、ブラフマンである、それ、という言葉が同格であることを示しているのじゃ。

595避難民のマジレスさん:2022/09/25(日) 00:38:06 ID:Q2tDKdEM0
7.2.ブラフマンの存在がすでに良く知られていてもブラフマンの 考究には意義がある   p324-325 164左/229

   [反対主張]しかしもし、ブラフマンがアートマンとして世間で良く知られているとすると、[ブラフマンは]すでに知られているわけだがら、考究の対象ではないということに再びなってしまうであろう。
  [答論]そうではない。それ(アートマン)の特性387に関して見解の対立があるからである。すなわち、普通の人たち388および唯物論者たちは、精神性をそなえた単なる身体がアートマンであると信じている。別の者は、精神的存在である諸感覚器官こそがアートマンであると[信じている]。他の者は、思 考器官が(アートマンであると考えている)389。ある者は、瞬時に滅する識 が[アートマンだと思っている]390。また別の者は、空が[アートマンである]と[考えている]391。別の者は、身体とは異なる輪廻者、行為主体、経験主体が[アートマンで]ある[と信じている]392。ある者は、経験主体だけが[アートマンであって]、行為主体はそうではない[と考えている]393。またある者は、それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると [信じている]394。また別の者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]395。このように多く対立する見解があり、[それらはそれぞれ]論証や聖典句および似非論証や似非聖典句に基づいているのである。 従って、もしそれらを考察することなしに、なんらかの見解を受け入れれば、 その人は、至福からはずれて悪に赴くことになろう。たがら、[このスートラ で]ブラフマンの考究に着手するのを手始めとして、ウパニシャッド諸聖典句 の考察が、それ(ウパニシャッドの諸聖典句)と矛盾しない論理に助けられ、 至福を目的として、開始されているのである。

  反対主張者は、[ブラフマン=アートマンは良く知られているという]第一の見解に存する欠陥を、[次のように]述べている。しかしもし、[ブラフマンがアートマンとして]世間で云々と。[ここで]世間というのは、師と弟子の継承のことである396。この 場合もし、「汝はそれなり」という聖典句から、ブラフマンがアートマンとして良く知 られているとすると、〔ブラフマンは]すでに良く知られているわけだから、[考究の対象でないということに再びなってしまうであろう]397。[また、「汝はそれなり」とい う聖典句は]アートマンがブラフマンであることを述べているとすべきところを、プ ラフマンがアートマンとして[良く知られている]となっているのは、[ブラフマンと アートマンが]異ならないことを述べようとしているのだと理解すべきである398。

脚注
387 以下対立する見解を列挙する順序は、粗大なものから微細なものへという順序になっている 。
388「普通の人たち」とは聖典の知識が欠けている人たちのことである。
389 以上の三種の見解は唯物論者のなかでの見解の対立である。
390 唯識論者の見解である。
391 中観論者の見解である。
392Nāya学派等の見解である。
393Sāmkya学派の見解である。
394Yoga学派の見解である。
395Vefānta学派の見解である。
396 馬鹿な人たちも世間の人であり、彼等は、「汝はそれなり」という聖典の文章を学習していないので、「汝はそれなり」という聖典の文章から、ブラフマンがアートマンであることを理解できないはずである。 従ってここでは、世間という語を、師と弟子の継承という意味に解すべきである。
397
398「汝はそれなり」という聖典の文章は、「汝」という語の指し示すアートマンが「それ」という語の指し示すブラフマンであることを述べているのであるが、ブラフマンがアートマンであることを述べていると『註解』本文がしているのは、アートマンとブラフマンとが異ならないことをも一緒に述べようとしているからである。
(´・(ェ)・`)つ

596鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/25(日) 23:13:13 ID:mOjBORec0

 反対なのじゃ。
 ブラフマンがアートマンとして世間で知られていならばブラフマンはすでに知られているから、考究の対象にならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 アートマンの特性には見解の対立があるから、考究も必要というのじゃ。
 身体とか、感覚器官とか、思考器官とか、輪廻とか行為、経験の主体がアートマンと思っている者もいるのじゃ。
 そうであるからブラフマンの考究゛必要なのじゃ。

597避難民のマジレスさん:2022/09/26(月) 05:10:47 ID:Gv5BZCvw0
7.2.1.アートマンに関する様々な見解の対立   p325-326

  [答論][師シャンカラが反対主張を]退ける。そうではない。何故か。それ(アートマン)の特性に関しての見解の対立があるからである。この箇所では、見解の対立は、証明する認識根拠と否定する認識根拠が存在しない時には、疑問の原因であるということを言っているのである。従って、疑問の余地があるから、考究が成り立つのである、という意味なのである。なお、論争の基盤となる前提(dharmin)は、すべての教理の定説によって確定されていると認められていなけれぱならない。さもなければ、すなわち基盤のないあるいは基盤の異なるものは、見解の対立ではないであろう。実 に、対立する見解が見解の対立なのである。基盤のない見解というものは存在しない。 何故なら、[見解の]基づくところがなくなってしまうからである。また、基盤の異なるものが対立することはない。というのは、「統覚機能は永遠である」と「アートマンは永遠である」というのは、[本当の意味での]見解の対立ではないからである。従っ て、「それ」という語の意味が清浄さ等であることはウパニシャッドの諸聖典句から知 られ、「汝」という語の意味が個人存在[に内在する]アートマンであることは、経験上確定しているというのが、すべての教理の定説なのである。だが、それ(「それ」と いう語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識)が現れているか現れていないか399、さらには、[両者の指すもの]それぞれの特性に関して、ここに見解の対立があるのである。従って、[論議の]前提となるものが一般的な形では良く知られて いても、その特性に関して見解の対立があれば、その諸特性に関して疑問の余地がある のは当然なのである。
  このうちまず、[師シャンカラは]、「汝」という語の意味に関する見解の対立を、[すなわち、普通の人たちおよび唯物論者たちは、精神性をそなえた]単なる身体がから経験主体だけが[アートマンであって]行為主体はそうではない[と考えている]まで [の箇所]で示しているのである。このうち、身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅す る識を精神性(アートマン)400とする見解の場合は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかない。適合性がないからである401。[精神性は]空であるとする見解の場合にも、[空は]あらゆる言語表現とは無縁で語の意味 (対象)ではない[ので]、どうして、「それ」と「汝」(という語)の対象となろうか。また、〔アートマンが]行為主体・経験主体を本性とする場合にも、[それは]変異するものなので、「それ」という語の意味である永遠性等と結びつくことはない402。[アー トマンは]行為主体ではないが経験主体であるとする見解の場合にも、[アートマンは]変異するものであることになるから、永遠性と結びっくことはない。またたとえ経験 主体でないとしても、[その見解によれば、アートマンは]多様性によって限定されているので、永遠ではないということになるし、また[アートマンが]不二であるということが損なわれるので、 「それ」という語の意味と結びつかないのは同じことである403。

脚注
399 400
401 身体等は永遠なもの等ではないので、「汝はそれである」という同一であることを示すような形で表現できないのである。
402アートマンが経験主体であるとすれば、それは各身体ごとに異なることになり、個々に異なるものは、水差し等のように可滅で物質的存在であることになるから、永遠でないことになる。
403アートマンが多様であれば、アートマンは不二でないことになり、「それ」という語で指し示される 唯一の存在ブラフマンと同一でないことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

598鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 00:41:44 ID:DIQ0Irmk0
 シャンカラはアートマンの特性に関しての見解の対立があるというのじゃ。
 疑問の余地があるから、考究が成り立つのじゃ。

 それ、という語の意味と「汝」という語の意味が同一であるという認識が現れているか現れていないか、両者それぞれの特性に関して、見解の対立があるのじゃ。
 
 シャンカラは「汝」という語の意味に関する見解の対立を、単なる身体がから経験主体だけがアートマンであり行為主体はそうではないと考えている者までの箇所で示しているのじゃ。
 身体、感覚器官、統党機能、瞬時に滅する識等をアートマンとする見解は、「それ」という語の意味である永遠性等は、「汝」という語の意味と結びつかないから違うのじゃ。
 
 精神性は空であるとする見解の場合にも、空はあらゆる言語表現とは無縁で語の意味ではないから違うのじゃ。
 アートマンが行為主体や経験主体を本性とする場合にも、変異するものなので、かないからそれという語の意味である永遠性等と結びつくことはないから違うのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2022/09/27(火) 03:00:00 ID:Gv5BZCvw0
(つづき)  p327
  [このような]「汝」という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語 の意味にする見解の対立も示されているのである。すなわち、唯物論者等のヴェーダ の妥当性を認めない論者たちは、「それ」という語の意味に間する認識が誤りであると考えており404、一方、ヴェーダの妥当性を認めている論者たちは405,「それ」という語 の意味を比喩的なものあるいは[聖典句の]意図していないものだと考えているのであ る。このように、「汝」という語の意味に関する見解の対立を通して、「それ」という語の意味に関する見解の対立を暗に示しておいて、[次に師シャンカラは、次のように]直接に、「それ」という語の意味に関する見解の対立を述べるのである。またある者は、 それ(アートマン)とは異なる全知・全能の主宰神が存在すると[信じている]と。そ れというのは、個人存在[に内在する]アートマンのことを言っているのである。[すなわち主宰神は]、ただ単に身体等と[異なる]だけでなく、個人存在[に内在する]諸 アートマンとも異なるのである。そして彼(主宰神)は、全世界を支配するのである。 [さらにこの]主宰神としての性質を確立するために、この(主宰神の)本来的な二つの性質を全知・全能と言っているのである。[だが]、それ(主宰神)も個人存在[に内在する]諸アートマンとは異なるから、「汝」という語の意味と同格関係にはならないというので、[次に師シャンカラは、次のように]自己の見解を述べている。また別の 者は、それ(主宰神)が経験主体のアートマンであると[考えている]と。すなわち、経験主体つまり無明という添性に限定された個人存在[に内在する]アートマンにとっ て、「それ」という語の意味であるかの主宰神がアートマンなのである。従って、個人存在[に内在する]アートマンは、主宰神と異ならないのである。ちょうど、壷の中の虚空等が大虚空と[異ならない]ように。以上が[『註解』本文の]意味なのである。
  [このような]もろもろの見解の対立を結論づけるにあたって、[師シャンカラは次のように]、見解の対立の原因について述べている。このように多くの云々と。[多くの対立する見解は]、論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいている、というのが文の脈略なのである。

脚注
404「それ」という語が永遠・清浄等であるブラフマンを指し示しているというのは、ヴェーダ聖典、な かでもウパニシャッド聖典から知られるわけであるが、ヴェーダ聖典の権威を認めないものたちは、当然のことながらこのことを認めていない。
405Mīmāmsā学派のことである。なお、「それ」いう話を比喩的な意味あるいは[聖典句の]意図していない意味に解するという点に関しては、本訳267頁参照のこと。

7.2.2.ブラフマンの考察を開始する意義   p328 166左/229
  [反対主張]もろもろの見解の対立があり、それ(見解の対立)に基づいて疑問の余地があるとしておこう。たとえそうだとしても、[このスートラで]ブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのであろうか。
  [答論]このような疑問に対して、[師シャンカラは次のように]答えている。従っ て、もしそれらを考察することなしに云々と。すなわち、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは[至福を得ることが]できない。そればかりか、信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのである。これが[『註解』本文の]意味なのである。[最後に、この]スートラの趣意を結論 づけて、[師シャンカラは次のように]述べている。だから云々と。ウパニシャッド諸聖典句の考察とは、まず第一に論理のことで、それ(ウパニシャッドの諸聖典句の考察)と矛盾しないその他の論理、すなわち、前ミーマーンサー学派とニヤーヤ学派でヴェーダや直接知覚等の妥当性を論証する際などに言及されている諸論理をも406、補 助的手段としているのだが、その(ウパニシャッド諸聖典句の考察)が、このように[『註解』本文に]述べられているのである。以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのである、と確定した。

脚注
406 論理とは推論とarthāpattiのことで、「その他の論理」とは、ミーマーンサー学派の用いる明言、語意等の聖典解釈のための六種の認識根拠など、およびニヤーヤ学派の用いるヴェーダや直接知覚等の定義などである。
(´・(ェ)・`)つ

600鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/27(火) 23:54:33 ID:PllW.nyE0
 汝という語の意味に関する見解の対立によって、「それ」という語の意味にする見解の対立もあるというのじゃ。
 認識が誤りとか、それは比喩的なものであるとか、アートマンとは異なる全知全能の主宰神が存在するとかなのじゃ。

 シャンカラは、主宰神が経験主体のアートマンであるというのじゃ。
 経験主体、つまり無明という添性に限定された個人存在に内在するアートマンにとっ て、「それ」という語の意味である主宰神がブラフマンなのじゃ。
 
 個人存在に内在するアートマンは、主宰神ブラフマンと異ならないのじゃ。
 シャンカラは見解の対立の原因について述べているのじゃ。
 多くの対立する見解は論証あるいは似非論証、聖典旬あるいは似非聖典句に基づいているというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 このスートラでブラフマンの考察が開始されるのは、なんのためなのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 もしそれらを考察することがなければ、真理の知識からは至福が得られるが、真理でないものについての知識からは至福を得ることができないからというのじゃ。
 信仰があっても、真理でないものについての知識からは、悪が生ずるのじゃ。
 以上のような理由で、最高の至福を達成する手段であるブラフマンの知識を目的として、ブラフマンの考察が開始されるぺきなのじゃ。

601避難民のマジレスさん:2022/09/28(水) 13:08:07 ID:yW596VPc0
『パーマティー』I.1.2
1.ブラフマンの定義  p329 166右/229

  [反対主張]ブラフマンが考究されなければならないと[これまで]述べられてきたが、いったいブラフマンの定義は何なのか。
   [答論]たから、神聖なるスートラ作者が[次のように言っているのである]。

  [ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである](janmādy asya yatah,BS I.1.2)。

  以上のようにまず、第一のスートラで、[ブラフマンの]考察が開始[されなければならないこと]を説明して、[次に第二のスートラで、次のように]ブラフマンの考察が開始されるのである。[ブラフマンとは]それに基づいてのこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。[そして]註作者(シャンカラ)は、このスートラ[が第一のスートラの次に来るのに]適していることを、[次のように]述べている。ブラフマンが考究されけれぱならないと[これまで]述べられてきたが、 いったいブラフマンの定義は何なのかと。ここでは、ブラフマンの知識という主要なものを論義の対象(pratijñā)とすることによって、それに付随する[ブラフマンを知るための]認識根拠等も論義の対象となることになるが、[ブラフマンの]本質が主要なものであるので、それだけを問題にして、まず最初に[ブラフマンの本質を]確定してゆくのである。
   [反対主張]ところで、(1)ともかく[われわれが]経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、可滅である。[従って]、それらの認識に基づいては、それらとは相対立するブラフマンー[それは]本性上永遠であり、清浄で、悟っ「ている一の本質を定義づけることはできない。実に、永遠なものが、作られたものという性質によって定義づけられることは決してないのである。(2)また、それ(ブラフマン)が、それ(ブラフマン)の属性である永遠性等によって定義づけられることもない。何故なら、それ(永遠性等のブラフマンの属性)は、まだ認識されていないからである。実に、すでに良く知られているものが定義なのであり、まったく知られていないものはそうではないのである。(3)また同様に、聖典もこれ(ブラフマン)に適用されない。何故なら、ブラフマンは、まったく知られていないので語の対象ではなく、 従って、[聖典の]文章の対象ではないからである。以上の理由で、[ブラフマンには]定義が存在しないことになるので、ブラフマンは考究の対象とはならないのである407。
  以上が反対主張の趣旨である。
  この反対主張を、神聖なるスートラ作者が[次のように]退けている。[ブラフマンとは]それに基づいてこの[世界の]生起等が[存在するもとのものである]と。 現に経験されているこの世界がブラフマンを定義づけるものとされているのは、[それが]それ(ブラフマン)の属性であるからでも、[ブラフマンと]同一であるからでもなく、それ(ブラフマン)から生じたものだからであろう。[それは]ちょうど、太陽 の運行の場合は、別の場所に到達することが[その定義とされている]ようなものであ る408。これが[スートラの]趣旨なのである

脚注
407 同類のものと異類のものを排除することを目的とする特質が定義(特徴)であり、ブラフマンをを定義づける(特徴づける)ものは、(1)現に経験されているこの世界であるか、(2)永遠性、清浄性等のブラフマンの属性であるか、(3) 「汝はそれなり」等の聖典の言葉であるかのいずれかである はずだが、そのいずれもブラフマンの定義とはなりえないのである。
408 世界はブラフマンから生じたものであるので、その原因であるブラフマンを知らせるものであるとい う意味で、ブラフマンを定義づけている(特徴づけている)ことになる。だが、実際には、世界の原因であるという性質がブラフマンの定義(特徴)なのである。それはちょうど、太陽の運行は太陽が別の場所に達するという結果から知られるという意味で、別の場所に達することが太陽の定義(特徴)とされることがあるが、実際には、別の場所に達する原因であるという性質が太陽の運行の定義であるのと同じてある 。
(´・(ェ)・`)つ

602鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 00:03:14 ID:nKx1FBUk0
 反対なのじゃ。
 考究されなければならないブラフマンの定義とは何かと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 スートラには、それに基づいて世界が生起するものであると記してあるというの゛ゃ。
 まず最初にブラフマンの本質を確定してゆくのじゃ。

 反対なのじゃ。
 人が経験しているものはすべて、有限であり、不浄で、悟っておらず、滅するものなのじゃ。
 そんな人がどのようにして無限であり、清浄で、悟っていて不滅のブラフマンの本質を定義づけることができるのかというのじゃ。

 永遠のものが作られたものに定義づけされる筈もないのじゃ。
 人は永遠のものを知らず、定義づけできないからなのじゃ。
 人に知られたものが定義づけされるからなのじゃ。
 聖典にとってさえも言葉の対象ではないから考究の対象にはならないのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンとはそれに基づいてこの世界の生起等が存在するものであるのじゃ。
 この世界が存在することでブラフマンも定義づけされるのじゃ。
 世界はブラフマンから生じたものであるからなのじゃ。

603避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 01:57:40 ID:/POlEYl20
2.スートラの語義解釈    p330-332 167左/229

  スートラ中の「生起等」(janmādi)[という語は] 「生起(janma)すなわち発生(utpatti)を最初のものとして所有するもの」という意味の所有複合語で、[複合語の構成要素の意味するものが、その複合語全体の意味するものの]不可分の性質として理解される[タイプの]ものである409。[すなわち]、 「生起と存続と帰滅」というのが[「生起等」という]複合語の意味なのである。そして生起が、[生起・存続・帰滅のなかで]最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づき、またものの[自然な]変化(vastuvrtti)に基づいているのである。まず、天啓聖典の教えは、「実にそれよりこれらの存 在が生ずるのである」410という聖典句に、生起・存続・帰滅の順序が示され ているからである。また、ものの[自然な]変化も、生じて存在するようになったもの(dharmin,属性の基体)が存続して掃滅してゆくことになるからである。
  [スートラ中の]「この」(asya)とは、直接知覚等によってとらえられた もの(dharminすなわち世界という基体)を、「これ」 (idam)[という代 名詞]によって指しているのであり411、[この代名詞の「この」という]第六格は、生起等の属性[と世界という属性の基体]との関係を意味しているので ある4I2。[また]「それに基づいて」(yatah)とは、[それが生起等の]原因であることを示しているのである。

  [師シャンカラは]、スートラの各部分を区別して[まず、「生起等」という語は]「生起すなわち発生を最初のものとして所有するもの」という意味の云々と[述べている。ま た]スートラ作者は、[スートラを]簡潔なものとするためにjanmādi(生起等)と中性形を用いており、その[用法]を根拠づけるために[師シャンカラは]、生起と存続と帰滅 (janmasthitibhańgam)と[中性形をとる]集合並列複合語(samāhāradvandva) を用いているのである413。[なお]そして生起がで始まり原因であることを示しているのであるで終わる文章の脈絡は自明である。

脚注
409 所有複合語には、(1)複合語の構成要素の意味するものがその複合語全体の意味するものの不可分の性質として理解されるタイプのものと(2)そうでないものがあり・・・以下丁寧な説明が続くが、長いので省略。
410この聖典句は、以下のように、世界の生起・存続・帰滅の順序を説いている。「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅っしてゆくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンである」と。
411「これ」という代名詞は、直接知覚の対象を指す。
412 第六格が属性と基体の関係を意味する。
413並列複合語には、(1)複合語全体が集合名詞とされて中性単数形で表現される集合並列複合語(たとえば苦楽)と、(2)複合語の各部分が独立のものとされて全体が二個を表すか三個以上を表すかによって、最後の名詞がその性を保ちつつ両数形あるいは複数形をとる相互並列復合語(たとえば、ハリとハラ一男性両数一、あるいは、象たちと牛だち一男性複数ー)があ るが、ここで「生起と存続と帰滅」という並列複合語は、中性単数形をとる集合並列複合語なので、スートラでも「生起等」と中性単数形が用いられているのである、という趣旨である。
(´・(ェ)・`)つ

604鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/29(木) 23:22:58 ID:YpKUvUzY0

 スートラ中の生起等という語は発生を最初のものとして所有するものを意味しているというじゃ。
 つまり生起と存続と帰滅」というのが生起等という複合語の意味なのじゃ。

 生起が生起と存続と帰滅のなかで最初のものであることは、天啓聖典の教えに基づいているのじゃ。
 天啓聖典の教えは実にそれよりこれらの存在が生ずるのであるという聖典句に、生起と存続と帰滅の順序が示され ているからなのじゃ。
 
 スートラ中の、この、とは、直接知覚等によってとらえられたもの、すなわち世界という基体を、代名詞によって指しているのじゃ。
 この、という第六格は、生起等の属性と、世界という属性の基体との関係を意味しているのじゃ。
 それに基づいてとは、それが生起等の原因であることを示しているのじゃ。



シャンカラはまず生起等という語は発生を最初のものとして所有するものという意味と述べているのじゃ。
 スートラ作者は簡潔なものとするために生起等と述べたが、シャンカラはそれを解説しているのじゃ。

605避難民のマジレスさん:2022/09/29(木) 23:32:27 ID:G6wkSKB.0
3.スートラの文脈解釈 ブラフマンが世界原因である p332-334 168左/229

  [世界は]、名称・形態を通して展開され414、多くの行為主体・経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体であり415、[その]構造は思考器官によってすら思い描けない性質のものであるが、「この」すなわち世界の生起と存続と帰滅は「それに基づいて」すなわち全知・全能である原因に基づいて存在する。[そして]「その[全知・全能の原因]がブラフマンな のである」という文章を[このスートラに]補うべきである。

  [反対主張〕根木物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、[もの]それ自体の性質、無416[などの多くのもの]が[世界の原因として]存在しているときに417、どうして、全知・全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は]名称・形態を通して云々と答えているのである。この[『註解』本文の]うち、名称・形態を通して展開されとは、精神的存在が[世界の展開を]行うことを示しており、根本物質等の物質的存在が[展開を]行ったり、また無が[展開を]行りたりすることを禁じているのである。実に、名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在が[その展開を]行っているのだと経験されている。たとえば壼等のように。そして、論議 の的となっている世界は、名称・形態を通して展開されているのである。従って[世界は]、精神的存在が[展開を]行っているのだと考えられる。実に、精神的存在は、心のなかで名称と形態を考えたのち、壼という名称を通して、また法螺貝のような(首?→貝)などの形態を通して、外在する壷を作り出すのである。従って、壼は、これから作り出さ れるものであっても、[心の]なかのアイデアという形ですでに存在している[ので]、 それには、「彼は壷を作る」というような、行為の対象と行為の主体という関係が存在しているのである。この同じ趣旨のことを[先学は]、「心のなかにすでに存在するものは非存在ではない」418と述べている。以上のように、物質的存在が心のなかで考えられないものを作り出すのだとは考えられない、というのが[『註解』本文のこの個所の]趣旨なのである。

脚注
414「世界が名称・形態を通して展開されたものである。」
415ここでは諸註釈および諸訳に従い、「特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体」と訳したが、rバーマティー』だけはのちにでてくるように、これを「特定の場所と時間と原因と行為と結果の基体」という意味に解している。
416根本物質は、サーンキヤ学派の説く世界原因である。また、時間以下の、偶然・ものそれ自体の性質等が世界原因であると考えられているという点に関しては、Upanisadの一節(I.2)を典拠として「時間、ものそれ自体の性質、必然性、偶然、諸原素、母胎、原人が[原因であると]考えられている」。
417
418出典不明。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

606鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/09/30(金) 23:52:07 ID:/ftnzWB60
 名称と形態を通して展開され、多くの行為主体と経験主体を含み、特定の場所と時間と原因を有する行為結果の基体である性質のものが世界なのじゃ。
 その世界の生起と存続と帰滅は全知全能である原因に基づいて存在するというのじゃ。
 それがブラフマンなのである、という文章をこのスートラに補うべきなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 根本物質、時間、宿星の神々、護方神、運動、偶然、ものそれ自体の性質、無などの多くのものが世界の原因として存在しているのに全知全能のブラフマンが世界の生起等の原因でありうるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは、このような反対主張に対して、世界は名称と形態を通して展開されると述べているのじゃ。
 名称と形態を通して展開されたものはすぺて、精神的存在がその展開を行っているのだと経験されているのじゃ。
 世界は、名称と形態を通して展開されているのじゃ。

607避難民のマジレスさん:2022/10/01(土) 00:05:34 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p333-334
  [反対主張]精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、先に述べられていたような(全知・全能という)性 質をもつブラフマンは不要であろう。
  [答論]だから[師シャンカラは]、多くの行為主体・経験主体を含みと述べているのである。[世界のなかの]ある者は、料理人や供犠僧のように、行為主体ではあるが 経験主体ではない。一方ある者は、祖霊祭における父親やヴァイシュヴァーナラ祭に おける息子の場合などのように、経験主体ではあるが行為主体ではない419。そのため、 両者が述べられているのである。[そしてこのように、多くの行為主体・経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは、世界の創造者としては相応しくないということを述べているのである。]420
  場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。そして、[特定の場所云々という語は]、「特定の」と「場所等」に分かれ、「特定の」という語は、「場所」等をそれぞれ修飾するのである421。[そして]、それら(特 定の場所等)の基体が世界であり、その(世界の)[原因がブラフマンなのであると繋 がっていくのである]。実にあるものは、黒い鹿等のように、特定の場所で生ずる。あるものは、カッコーのさえずりなどのように、特定の時間に生ずる。またあるものは、 特定の原因に基づいている。たとえば、雌の鶴などが、[雨季に入ったばかりの]時期 の早い雲からの笛の音に基づいて妊娠したりするように422。あるものは、特定の行為を遂行する。たとえば、供犠等はバラモンの行為であってそれ以外の人の行為でないように。同じようにあるものは、特定の結果を享受する、たとえばあるものは幸福 であり、あるものは不幸であり、また同じく、幸福な者があるときには不幸であるように。これらすぺては、[世界の原因が]、偶然一別名偶発とも言う一である場合や、[もの]それ自体の性質である場合や、[世界の]創造者が全知・全能でない場合には、 不可能である。何故なら、限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなど は、[世界すべてを]知ることも創造することもできないからである。
  まさにそのことを[師シャンカラは、その]構造は思考器官によってすら思い描けな いものであると述べているのである。すなわち、一つの身体の構造ですら、思考器官 によって思い描くことは全く不可能なのだから、世界の構造を[思い描くことは]なお さら[不可能]であるのに、一体どうして、[それを]創造することが[できようか]、 という意味なのである。
  [そして最後に、師シャンカラは]、スートラの文章を[次のように]完結させている。「その[全知全能の原因]がブラフマンなのである」という文章を[このスートラ に]補うべきであると。

脚注
419 祖霊祭では、息子が父親等の亡くなった祖先の霊にたいし祭式を行うわけであるが、この場合には、息子は祭式を行うだけで、その祭式の果報は父親等の祖霊に行く。つまり父親等の祖霊が果報の経験主体 なのである。一方、息子が誕生したときに息子の幸福を願って行われるヴァイシュヴァーナラ祭の場合に は、父親が祭式を行いその果報は息子が享受するのである。
420
421相互並列複合語については脚注413を参照のこと。
422 雌の鶴が雨季に入ったばかりの雲から鳴りひびく雷の音を間いて妊娠するというモティーフは、雨季の到来を示すものとして、カーリダーサの『メーガドゥータ』をはじめ、文学作品において非常に好まれたものである
(´・(ェ)・`)つ

608鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/01(土) 23:50:50 ID:LdlkytFg0
 反対なのじゃ。
 精神的存在である宿星の神々や護方神たちが、名称と形態を心のなかで考えて、世界を生み出すのであり、ブラフマンは不要だというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 そうであるからシャンカラは多くの行為主体と経験主体を含むと述べているのじゃ。
 ある者は、行為主体ではあるが 経験主体ではないのじゃ。
 他の者は経験主体ではあるが行為主体ではないのじゃ。
 このように、多くの行為主体と経験主体という諸々の個人存在が創造されることを示すことによって、単なる宿星の神々や護方神 たちは世界の創造者としては相応しくないのじゃ。

 場所と時間と原因と行為と結果というのは、相互並列複合語(itaretaradvandva)である。
 特定の場所云々という語は、特定のと場所等に分かれ、特定のという語は、場所等をそれぞれ修飾するのじゃ。
 特定の場所等の基体が世界であり、その世界の原因がブラフマンなのじゃ。

 世界の原因が偶然である場合やものそれ自体の性質である場合や、創造者が全知全能でない場合には不可能であるのじゃ。
 限られた知識と能力を備えた宿星の神々や護方神たちなどはすべてを知ることも創造することもできないからだというのじゃゃ。

609避難民のマジレスさん:2022/10/02(日) 00:06:37 ID:IwpEkltg0
4.スートラに生起と存続と掃滅だけが言及されている理由 p334-335 169左/229

  また、[生起・存続・帰滅]以外の存在の変化は、[生起・存続・帰滅の]三 種のなかに含まれるので、ここ(スートラI.1.2)では生起と存続と帰滅[だけ]が述べられているのである。一方、ヤースカの列挙しているような「生ず る。存在する」等423が[このスートラで]述べられているとすると、それら (生起・存在等の変化)は、世界が存続しているときに[のみ]可能なので、世 界が根本原因に基づいて発生し、存続し、帰滅するということは述べられていないことになる、という疑問が生ずることになろう。[従って]、このよう に疑うべきではないというので、ブラフマンからの発生とそれ(ブラフマン) のなかでの存続とそ(ブラフマン)への帰滅というそれら(三者)だけが[このスートラで]述べられているのである。
  [反対主張]一体何故、ここ(スートラI.1.2)では、「[生起]等」という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容(parināma)や減少にも[言及していることには]ならないのか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、生起・存続・帰滅]以外の存在の変化、すなわち増大等は、[生起・存続・帰滅の]三種のなかに含まれるのであると答えているのである。まず増大とは、部分が増えることである。従って、少しの部分からなるもの(たとえば二本の糸からなるもの)から[それとは]別のもの (たとえば大きな布)が生ずるのだから、増大とは生起にほかならないのである。また 変容は、性質の変容、時相の変容、状態の変容という三種であるが424、生起にほかならない。というのは、金等の基体の性質が変容したものである腕輪や王冠等は、それら(腕輪や王冠等)の生起にほかならないからである。同じように、腕輪等が現在存在すること等[の時相]の変容も生起である。また同じように、状態の変容、すなわち新しさや古さ等も、生起なのである。一方減少は、部分が減ることであり、滅することにほかならない。従って、増大等は、それぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられ ていないのである。以上が[『註解』本文の]意味なのである。

脚注
423そこでは「生ずる。存在する。増大(成長)する。変容する。減少する。滅する」という六種の変化に言及されているが、これらはすべて、世界が生起したのちの世界が存続しているときに起こる存在の変化について述べているのである。
424 これらの三種の変容については Yogasūtra参照
(´・(ェ)・`)
(つづく)

610鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/02(日) 23:51:49 ID:cAU3Jzgs0
生起と存続と帰滅以外の存在の変化は、それら三 種に含まれるので、スートラでは生起と存続と帰滅だけが述べられているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故スートラでは生起等という語は、生起と存続と帰滅にだけ言及しており、増大や変容や減少に言及していないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは生起と存続と帰滅以外の存在の変化、すなわち増大等は、この三種のなかに含まれるのであると答えているのじゃ。
 増大とは、部分が増えることであるからは生起にほかならないのじゃ。
 変容も生起にほかならないのじゃ。
 減少は、部分が減ることであるから滅することにほかならないのじゃ。
 そのように増大等はそれぞれ生起等に含まれるから、別個には述べられていないのじゃ。

611避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 02:37:03 ID:IwpEkltg0
(つづき)  p335-336
  ところで、たとえこれらの増大等が生起等に含まれないとしても、〔このスートラで は]生起と存続と帰滅だけが述べられていてしかるぺきなのである。というのは、その場合には(すなわち、このスートラで世界の生起と存続と帰減が述べられている場合には)、「実にそれよりこれらの存在が生ずるのある[云々]」という、それ(世界の 生起と存続と帰滅)を教示するヴェーダ文章が思い起こされ、そのときに、世界の根 本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられていることになるからである。だがさもなければ、「生ずる。存在する。増大(成長)する」等が[このスート ラで]述べられていることになり、そのときには、それ(生起・存在・増大等)を教示 する『ニルクティ』の文章が思い起こされることになろう。[だが]それ(『ニルクタ』 の文章)は、[世界の]根本原因を教示することを目的とはしていないのである。何故 なら、[世界が]帰滅する以前に存続しているときにでも、その(『ニルクタ』の)文章 が述べているような生起等の存在の変化は、成り立つからである。従って、[このような]疑問を退けるために、[師シャンカラは、このスートラでは]ヴェーダに述べられ ているような生起と存続と帰滅が言及されているのだということを、一方、ヤースカの列挙しているような云々と述べているのである。
  [反対主張]たとえそうであっても、[このスートラでは]、生起だけが示されていればいいのではないか。存続と帰滅はそれ(生起)から必然的に理解されるのではないか。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、ブラフマンからすなわち原因からの発生云々と答えているのである。すなわち、[生起と存続と帰減という]三者によって、これ(ブラフマン)が[世界の]質料因であることが示されているのである。だが生起だけでは、動力因とも共通なので、[ブラフマンが]質料因(くま注)であることは示されていないことになろう。だから[師シャンカラは]、それ(ブラフマン)のなかでの[存続と]云々と述べているのである。

脚注
くま注 質料因・動力因:アリストテレスが論じた、現象についてその4種類の原因を検討すべきである(四原因説(しげんいんー)とする説。
*質料因:存在するものの物質的な原因
*動力因:作用因:そのものの運動変化の原因
*形相因:そのものが「何であるか」 を規定するもの
*目的因:そのものが存在し、運動変化する目的
(´・(ェ)・`)つ

612鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/03(月) 22:22:57 ID:y74MYpbg0

 世界の根本原因であるブラフマンが[このスートラで]定義づけられているから生起と存続と帰滅だけが述べられているべきだというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 スートラでは生起だけが示されていればいいのではないかというのじゃ。
 続と帰滅は生起から必然的に理解されるからなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 生起と存続と帰減という三者によって、ブラフマンが世界の根本原因であることが示されるのじゃ。
 生起だけでは変化するだけの原因と同じであるからいかんのじゃ。

613避難民のマジレスさん:2022/10/03(月) 23:15:49 ID:d/TCzrVs0
5.ブラフマンが世界原因であるという推論について p336-346 170左/229

  上述のような特質をもつ世界は、上述のような特質を備えた主宰神以外の別のもの、すなわち、物質的存在である根本物質425や原子426や無427や輪廻者428から生ずることなどはありえない。また、[もの]それ自体の性質から (すなわちひとりでに)429[生ずることもありえない]。何故なら、これ(ものの生起等)には、特定の場所と時間と原因が必要だからである。 [そして]、 このような推論が輪廻者とは異なる主宰神の存在等を証明する手段であると、 主宰神が[世界の]原因だと主張する人々430は考えているのである。

  先に原因(主宰神)と結果(世界)の特質を述べた目的を、[師シャンカラは]、上述 のような云々と述べているのである。このように[『註解』本文の]この論議は、[ブラフマンを知るためにウパニシャッドの考察を開始すべきであるという]命題の対象である、ブラフマンの本質を定義することによって、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであること(sambhāvanā)を述べているのである431。そこで次に、[ブラフマンを知るための]認識根拠が述べられるべきである。たとえば、ニヤーヤ学派の人々も[次のように]述べている。「命題のなかで、論証可能な主張(paksa)が、理由に基づいて論証されるのである。「石女が母である』の場合のように、生ずると同時に成立しないような[主張]が、理由に基づいて論証されることはない」432と。実にこのように、 [世界の]生起等云々という[ブラフマンの本質の定義]は、[ブラフマンの存在が]論証可能なものであるという根拠となる。だからこそヴァイシェーカ学派など他の人々 は、推論に基づいて主宰神[の存在]を確定しようとするのである。そのため[師シャンカラは、ブラフマンの存在が]論証可能なものであることを確実なものとするため に、このような[推論が]云々と(育→言)っているのである。

脚注
425サーンキヤ学派の説く世界原因である。
426ヴァイシェーシ力学派の説く世界原因である。
427中観論者の説く世界原因である。
428ヴェーダに説かれている世界原因ピラニヤガルバのことである。
429
430 ヴァイシェーシ力学派の人々のことである。
431
432 出典不明。
(´・(ェ)・`)つ

614鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/04(火) 23:23:03 ID:S4E5s/qE0
 世界は他派の言うような原因からではなく、ブラフマン以外のものから生じるこはありえないというのじゃ。
 独りでに生じることもありえないというのじゃ。
 特定の場所と時間と原因が必要であるからというのじゃ。
 このような推論が輪廻の主体とは異なる、ブラフマンの存在を証明する手段であるというのじゃ。

 シャンカラはこの議論は命題の対象であるブラフマンの定義をすることで、ブラフマンの存在が論証できると述べているのじゃ。
 次には認識根拠が述べられるべきだというのじゃ。
 ブラフマンの存在が論証可能なものであることを確実なものとするために、このような推論がと、述べているというのじゃ。

615避難民のマジレスさん:2022/10/05(水) 01:57:28 ID:kK.0rKvU0
5.1.ブラフマンの考究における推論の意義  p337-338 170右/229

  [反対主張][世界の]生起等云々というこのスートラでも、まさにそれ(推論)が問題となっているのではないか。
  [答論]そうではない。何故ならスートラは、ウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするものだたらである。実に、ウパニシャッドの諸々の文章が、スートラによって引用され考察されているのである。何 故なら、[ウパニシャッドの]文章の意味を考察して[その意味を]確定することによって、ブラフマンの悟りが達成されるのであって、推論等の認識根拠によって[ブラフマンの悟りが]達成されるわけではないからである。だが、ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となることは妨げられない。何故なら、 天啓聖典自身が、論理を[聖典理解の]補助として認めているからである。たとえば、「[アートマンは]聞かれるべきであり、思惟されるべきである」433という天啓聖典句があり、また、「学識があって思慮深い人がガンダーラに到達 するように、師を得た人は[『私が解釈するまでは云々』と]この世で知るのである」434と、人問の統覚機能が[聖典]自体の補助であることを示しているのである。

  反対主張が提示される。[世界の生起等云々という]この[スートラ]でも云々と、これまでで、[この]節(adhikarana)の主題(ブラフマンの本質)は完結しているのであるが、[師シャンカラは]、親切にも以下の節の主題にさらに言及して、[反対主張を次のように]退けているのである。そうではない。[何故ならスートラは]、ウパニシャッドの云々と。[そして、スートラが]ウパニシャッドの文章という華をつなきとめることを目的とするものであるということを、[次のように]示している。[実に、 ウパニシャッドの[諸々の文章が]云々と。[ウパニシャッドの文章の意味の]考察の帰結は、二種の無明が潜在印象(くま注)とともに滅せられることである。まさにそののちに、ブラフマンの悟りが達成される、すなわち現れてくるのである。
  [反対主張]ところで、ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのであろうか。たとえば思惟はどうなのだろうか。またそれ (ブラフマン)への開眼すなわち直証はどうなのだろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して次のように]答えているのである。だが、ウパニシャッドの諸文章が云々と。だが[ここで言う]推論は、ウパニシャッドと矛盾せずかつそれ(ウパニシャッド)に基づくものであると理解すべきである。また、聖典の言葉と矛盾せずかつそれ(聖典の言葉)に基づく論理による考察が、思惟なのである。そして論理とは、アルターバッティ435あるいは推論のことで ある。

脚注
433 434
435アルターパッティは、「理解されるべきものに関する認議によって理解させるものが想定されること」と定義されてい る。すなわち、X(たとえば夜食べること)がなければY(たとえば昼食べない人が太っていること)が理解されないとき、そのY(昼食べない人が太っていること)が理解されるべきものであ り、X(夜食べること)が理解させるものであるが、このようにアルターパッティとは、理解されるべきもの(昼食べない人が太(り→っ?)ていること)を知って、それを理解させるもの(夜食べているということ)を想定することを言うのである。
くま注
サンスカーラ 潜在印象
http://www.wikidharma.org/index.php/サンスカーラ
(´・(ェ)・`)つ

616鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/05(水) 23:42:37 ID:riEZUEaA0
 反対なのじゃ。
 このスートラでもまさに推論が問題となっているのではないかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ウパニシャッドの諸々の文章がスートラによって引用され考察されているのじゃ。
 ウパニシャッドの文章の意味を考察して確定することによって、ブラフマンの悟りがるのではないのじゃ。
 ウパニシャッドの諸文章が世界の生起等の原因について説いている場合には、 その意味の理解を確かなものとするために、推論等もウパニシャッドの文章と矛盾しない限りにおいて、認識根拠となるのじゃ。
 推論は補助的な役割なのじゃ。
 
 何故ならば天啓聖典自身が、論理を聖典理解の補助として認めているのじゃ。
 「アートマンは聞かれるべきであり、思惟されるべきである」という天啓聖典句があるようにのう。

 ウパニシャッドの文章の意味の考察の帰結は、二種の無明が潜在印象とともに滅せられることなのじゃ。
 まさにその後に、ブラフマンの悟りが達成されるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ブラフマンに関しては、聖典の言葉以外の別の認識根拠が適用されるべきではないのかというのじゃ。
 思惟とか、ブラフマンの直証とかなのじゃ。

 答えたのじゃ。
 推論はウパニシャッドと矛盾せず、ウパニシャッドに基づくものである場合だけ適用できるのじゃ。
 聖典の言葉と矛盾せずかつ聖典の言葉に基づく論理による考察が、思惟と呼べるのじゃ。
 そして論理とは、アルターバッティ、分析的な思惟じゃな、あるいは推論なのじゃ。

617避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 06:35:56 ID:kK.0rKvU0
5.2.ブラフマンの考究とダルマの考究との違い  p338-343 171左/229

  ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠であるわけではない。そうではなくて、この場合には、天啓聖典等436と開眼等が可能な認識根拠なのである。何故なら、ブラマンの知識は開眼(体験,anubhava)をもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからである。実に、行われるべきもの(祭式行為)が対象である場 合には、[それに関する知識が]開眼(体験)に基づくということはないので、天啓聖典等だけが認識根拠であるであろう。何故なら、行われるべきものは人間に基づいて存在するようになるからである。行為は、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、それを行うことも、行わないことも、別なやり方で行うことも可能である。たとえば、「馬で行く」「別の方法で行く」というように。また同様に「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取る」「アティラートラ祭にはショーダシン杯を取らない」437「太陽が昇ったときに供物を(持→捧)げる」「太陽が昇らないうち供物を捧げる」438というように。このような場合には、儀軌と禁令には意味があり、また任意選択、一般的規則、例外にも意味があるであろう439。だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存在する」「存在しない」というように任意に選択されることはない。だが、諸々の誤った想定(vikalpanā)は、人間の統覚機 能に基づいて存在しているのである。[一方]、事物に関するありのままの知識は、人間の統覚機能に基づかない。では何に[基づくの]か。それ(事物に関するありのままの知識)は事物に基づくのである。何故なら、同じ一本の柱に関して、「柱である」か「人である」か「それ以外のものである」というのは、 真理の認識ではないからである。そのうち、「人である」と「それ以外のものである」というのは誤った認識である。「柱である」というのが真理の認識なのである。何故なら、事物に基づいているからである。このように、すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいてているのである。 そして同じように、ブラフマンの知識も事物に基づいている。何故なら、[それは]すでに存在する事物(ブラフマン)を対象としているかである。

脚注
436この「等」をBhāmatī は叙事詩、プラーナ、聖伝書と解し、一方、Nyāyanirnaya は、ここで「天啓聖典」と訳したśrutiを「明言」と取り、「等」は「語意、文内文脈、章内文脈、位置、原意語」という、聖典解釈のための認識根拠だと解し ている。
437 出典不明だが、この二つの引用文は、引用され、この矛盾した内容のものをとう解釈するかが問題にされている。
438
439 以下の『バーマティー』の説明を参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

618鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/06(木) 23:16:51 ID:i/MWnwFs0
 ブラフマンの考究の場合には、ダルマの考究の場合とは異なり、天啓聖典等 だけが認識根拠ではないのじゃ。
 天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠だいうのじゃ。
 ブラマンの知識は開眼体験、悟りをもって終わり、また、すでに存在する事物を対象としているからなのじゃ。

 ダルマのように実践されるものは天啓聖典等だけが認識根拠だというのじゃ。
 
 すでに存在する事物を対象とする認識の妥当性は、事物に基づいているからなのじゃ。
 ブラフマンという実在する事物に基づいているものごとは、天啓聖典等と開眼等が可能な認識根拠になるのじゃ。

619避難民のマジレスさん:2022/10/06(木) 23:21:17 ID:kK.0rKvU0
5.2.1.ブラフマンの考究はダルマの考究とは異なり開眼をもって終わる  p339-340 171右/229

   [反対主張]ダルマの場合には人間の統覚機能が[ダルマ理解の]補助となることはないが、何故ブラフマンの場合にも同様ではないのか。
  [答論]だから[師シャシカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。一[ブラフマンの考究の場合には]ダルマの考究の場合とは異なり云々と。[なお]天啓聖典等とは天啓聖典、叙事詩、プラーナ、聖伝書という認識根拠のことである、[また]開眼(体験)とは、内官の変容の一種であって、ブラフマンの 直証のことであり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するというのが、その (開眼という)認識根拠[から生ずる]果報なのである。そしてそれは、果報のような 果報であると理解すべきである440。ダルマの考究の場合にも、全体としては直接知覚等が作用しているが、直接的にではない。だがブラフマンの考察の場合には、開眼等 は直接に生ずるのであって、ブラフマンの考究は開眼のためのものなのである441。だ から(師シャンカラは、ブラフマンの知識は]開眼(体験)を以て終わるからであると 述べているのである。すなわち、ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的な のである。

脚注
440ブラフマンはすでに存在するものであって、生み出されたり変化してできたりするものではないから、ブラフマンの本質の顕現も、いわゆる果報すなわち生みだされたり変化してできたりするもとは異なるからである。
441「ダルマの考究の場合は、天啓聖典だけが認識根拠であると述べられていたが、ヴェーダを対象とする耳による直接知覚等も必要等も必要ではないのか」という反対主張に対して、「ダルマの考究の場合にも、耳による直接知覚等が作用していることは確かだが、それは間接的なものであって、ブラフマンの考究の場合に、真理を直証することなしには輪廻という直接知覚されている錯誤が滅せられることがないのとは異なる」と答えているのである。
(´・(ェ)・`)つ

620鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/07(金) 23:15:33 ID:XekoxrGc0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンはダルマの場合と違い人間の統覚機能が理解の補助となるのはなぜであるかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 ブラフマンの 直証は内官の変容の一種であり、無明が減せられてブラフマンの本質が顕現するのじゃ。
 それがブラフマンの開眼という認識根拠から生ずる果報なのじゃ。
 そしてそれは果報の如き、果報であると理解すべきなのじゃ。
 なぜならばブラフマンは最初からあるものであり、何かの結果として報いられるものではないからなのじゃ。

 ブラフマンの考察では、開眼等は直接に生ずるのであり、ブラフマンの考究は開眼のためのものなの゛ゃ。
 シャンカラは、ブラフマンの知識は開眼を以て終わるからであると 述べているのじゃ。
 ブラフマンヘの開眼つまりブラフマンの直証は、すべての苦しみの取り払われた最高の歓喜を本質としているので、人間の最高の目的なのじゃ。

621避難民のマジレスさん:2022/10/08(土) 06:03:31 ID:sD1lRISA0
5.2.2.ブラフマンはダルマとは異なり開眼の対象である p340-341 172左/229

  [反対主張] [ブラフマンの]考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるとしておこう。だが、その開眼自体が不可能なのである。何故なら、ブラフマンがそれ[開眼]の対象であるというのはありえないからである442。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているからであ ると。すなわち[ブラフマンの]直証には[本来、対象(ブラフマン)と対象をもつもの(直証)との関係というような多元性は]存在しない(vyatireka)443のではあるが、 誤って構想された形の、対象と対象をもつものという関係が存在する。[従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証(開眼)をもって終わりうるのである]444。しかし ダルマの知識は、このように開眼をもつ終わることはない。というのは、それ(ダルマ)への開眼は、それ自体では人間の目的ではないからである。何故なら、人間の目的は、それ(ダルマ)を遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が 存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するからである445。だから[師シャンカラは]、実に、行われるべきものが云々と述べているのである。さらに、これ (ダルマ)は直証の対象ではありえない。何故なら、[ダルマは]現在は存在しないもの であり、現在存在しないものは確実なものではないからである446。だから[師シャンカラは]、人間に基づいて云々と言っているのである。[そして、これから]行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないことも云々と述べているのである。[また ]、世俗の行為が不確実なものであるという例を、たとえば「馬で[行く]」云々と挙 げている。[さらに]、世俗的な例とともに聖典に基づく例を、また同様に「アディラートラ祭には•••」云々と並記している。この例は、行うことも行わないことも[可能であ る]ということに関して挙げられているのである。また、することも別なやり方で行うことも[可能である]ということに関しては、「[太陽が]昇らないうちに•••」云々と いう例が述べられている。

脚注
442ブラフマンは主観なので、対象(客観)とはなりえないのである。
443 444
445ダルマとは、「[ヴェーダの]教令によって規定されている好ましい事柄」であり、それはヴェーダという聖典の教令に従って遂行されるのである。
446このダルマは、聖典の教令を理解してそれを遂行したのちに実現されるのであるから、聖典からダルマが理解された時点ではまだ存在していないのである。
(´・(ェ)・`)つ

622鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/08(土) 23:41:26 ID:JTrn3QFw0
 反対なのじゃ。
 ブラフマンの考究はブラフマンヘの開眼のためのものであるが、その開眼自体が不可能なだというのじゃ。
 何故ならばブラフマンは開眼の対象であるというのはありえないからなのじゃ。
 主体であるから対象である客体にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンの知識はすでに存在する事物を対象としているのじゃ。
 ブラフマンの直証には本来、対象ブラフマンと対象をもつものは存在しないが、 誤って構想された対象と対象をもつものという関係が存在するのじゃ。
 それ故に開眼も可能なのじゃ。
 従ってブラフマンの知識は、ブラフマンの直証である開眼をもって終わることもできるのじゃ。

 しかし ダルマの知識はこのように開眼で終わることはないのじゃ。
 ダルマへの開眼は、それ自体では人間の目的ではないからなのじゃ。
 ダルマとは法であり、悟りへの手段であるからなのじゃ。

 人間の目的である悟りは、ダルマを遂行することによって達成されるのであり、その遂行は、開眼が存在しなくても、単なる聖典に基づく知識により成立するのじゃ。
 そのダルマは直証の対象ではありえないのじゃ。
 何故ならばダルマは現在は存在しないものであり、現在存在しないものは確実なものではないからなのじゃ。
 ダルマとして行われるべきものは、世俗のものであろうと聖典に基づくものであろうと、人間に基づいているのだということを、それを行うことも、行わないこともできるとシャンカラは述べているのじゃ。

623避難民のマジレスさん:2022/10/09(日) 04:38:19 ID:PZptn2eg0
5.2.3.ダルマの場合には儀軌と禁令や任意選択等には意味がある。p341-342 172右/229
  
  [反対主張]人間は、行わなければならないことに関して独立した存在なので、儀軌 と禁令が無意味であることになろう。というのは、人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ(儀軌と禁令)に基づかないからである。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して、次のように]答えているのである。このような場合には、儀軌と禁令には意味があるであろうと。[「アディラートラ祭•••」云々の場合]「取る[べきである]」447というのが儀軌であり、「取る[べきでは]ない」というのが禁令である。「太陽が昇ったときに供物を捧げる[べきである]」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる[べきである]」という場合には、両者とも儀軌である。同じように、人間の骨に触れるべきではないという禁令や、バラモンを殺した人はそれ(人間の骨)を身につけるべきであるという儀軌があるが448、このような儀軌や禁令には意味があるのである。
  [反対主張]何故か。
  [答論]だから[師シャンカラが]、また任意選択、一般的規則、例外にも[意味があるであろう]と言っているのである449。[ここで]また(Ca)というのは理由の意味である。すなわち、次のような理由で[儀軌と禁令には意味があるのである]。[ショ-ダシン杯を]取る取らないとか、「太陽が昇ったときに供物を捧げる」「太陽が昇らないうちに供物を捧げる」というような場合には、両者は相矛盾しているので、同時に行うことは不可能であるが、両者には同等の効力があるので、否定するものと否定されるも のという関係(bādhyabādhakabhāva)は存在しない。このようなときには、任意選択が避けられないのである。一方、人間の骨に触れることに関する禁令とそれ(人問の骨)を身につけること[に関する儀軌]の場合には、両者は相矛盾しているが、同等 の効力があるわけではないので、任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べら れている[人間の骨に]触れることに関する禁令(一般的規則)が、[人間の骨を]身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典(例外)によって否定されるのである。以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ、[有益なものであるか否かが]450知られるのである。従って、[人間が]行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのである。 だが、すでに存在する事物の場合には、このようなことはない。だから[師シャンカラは]、だが、[すでに存在する]事物は、「このようである」「このようではない」「存 在する」「存在しない」というように[任意に選択されることはない]。と述べているのである。すなわち、[『註釈』の]この個所は、[事物の存在の]在り方(Prakāra)に関 する任意選択を否定しているのである。[そしてさらに、師シャンカラは]存在それ自体(Prakārin)に関する任意選択を、[次のように]否定している。「存在する」「存在しない」というように[任意に選択されることは]ないと。

脚注
447ヴェーダ聖典中で現在形で表現されている動詞が、行為を命ずる願望法の意味で解釈されることがある。
448 Vedāntakalpataru,P.90は、人間の骨に触れるべきではないという禁令の例として、「人間の骨に 触れたら、沐浴し、着物を着たまま水に入るべきである」を挙げ、人間の骨を身につけるべきであるという例として、「バラモンを殺した者は、十二年間、頭蓋骨を旗印として托鉢し、その所行を[人に]知らせ ながら節食すれば浄化されるであろう」を挙げている。
449『註解』本文中のCaは(相互に依存しあうことのないものどうしを結びつけること)の 意味で理解して、「または」と訳しておいたが、ここで「バーマティー』は、このCaを理由の意味に取っているのである。
450

くまの思いつき
「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と詠んだ一休さんは、博識だったので、448の知識もあって、頭蓋骨を持って街中を歩いていたのだったとしたら•••、だれか師匠筋の人を殺しちゃってたのかもと想像してみた。
(´ ゜(ェ) ゜ `)b




624鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/10(月) 00:06:34 ID:d3veuYGk0
 反対なのじゃ。
 人間が行わなければならないことに関して独立した存在ならば宗教的な儀軌と禁令が無意味であることになるというのじゃ。
 なぜならば人間が行為に従事したり行為を停止したりするのは、それ儀軌と禁令に基づかないことになるからなのじゃ。


 答えたのじゃ。
 人間の骨に触れるべきではないという禁令や、それに反するバラモンを殺した人は人間の骨を身につけるべきであるという宗教的な儀軌があるが、このような儀軌や禁令には意味があるのじゃ。

 反対なのじゃ。
 何故か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 任意選択、一般的規則、例外にも意味があるからなのじゃ。
 相矛盾してことは同時に行うことは不可能であるが、両者に同等の効力がある時は否定するものと否定されるものという関係は存在しないというのじゃ。
 このようなときには、任意選択が避けられないのじゃ。

 人間の骨に触れることに関する禁令と人問の骨を身につける儀軌の場合には、両者は相矛盾しているが、同等の効力があるわけではないのじゃ。
 宗教的な儀軌の方が優先されるのじゃ。
 そうであるから任意に選択されることはなく、一般的な聖典に述べられている人間の骨に触れることに関する禁令、一般的規則が人間の骨を身につけることを命ずる儀軌を述べている特定の聖典による例外によって否定されるのじゃ。

 このようなまだ理解されていなくてこれから実現されようとしている事柄は、儀軌と禁令によってのみ有益なものであるか否かが知られるのじゃ。
 人間が行為に従事したり行為を停止 したりすることは儀軌と禁令に基づいてはいても、それらを行うことに関しては人間は独立した存在なのじゃ。

 すでに存在する事物、ブラフマンにはこのようなことはないのじゃ。
 事物の存在の在り方に関 する任意選択を否定しているのじゃ。
 シャンカラは、だがすでに存在する事物は、このようであるとか、このようではないとか、存在するとか、存在しない、というように任意に選択されることはない、と述べているのじゃ。

625避難民のマジレスさん:2022/10/10(月) 00:25:19 ID:Fgg0hfJA0
5.2.4.ブラフマンの場合には任意選択は成り立たない p343 173右/229

  [反対主張]すでに存在する事物に関しても、「柱か人か」というように任意選択が見られるではないか。従って、[すでに存在する]事物が任意に選択されないなどということがどうしてあろうか。
   [答論]だから[師シャンカラは、このような反対主張に対して]、諸々の誤った想定は[人間の統覚機能に基づいて存在しているのである]と答えているのである。すなわち、人間の統覚機能とは内宮(くま注)のことであり、[すでに存在する事物に関する]諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、それ(人間の統覚機能)に基づいて存在してい るのである。[その誤った想定は]、(1)夢の場合のように[覚醒状態時の]潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるか、あるいは、(2)[覚醒状態時の]、柱に関する「柱か 人か」という疑問や「人である」という錯御一[それが錯倒であるのは]それ以外の ものという語が、実際の柱以外のもの、すなわち人を表しているのによる451一の場 合のように、[誤った]潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらか であるが、実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではない。何故なら、[誤っ た想定すなわち疑問と錯倒は]、共通の属性をもった[異なる]基体を知覚することに のみ基づいて生ずるからである452。従って、ありのままのものではない事物に基づく 誤った想定が、[ありのままの]事物を任意に選択したり別なものに変えたりすること はないのセある。以上が[『註釈』本文のこの箇所の]意味なのである。 一方、真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのである。従って、それ(真 理の認識)に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づい て[事物が確定されるの]ではない。だから[師シャンカラは]、[一方]、事物に関す るありのままの知識は、[人問の統覚機能に基つが]ないと言っているのである。以上 述ぺてきたようなやり方で[師シャンカラは]、すでに存在する事物を対象とする知識 の妥当性が事物に基づくことを明らかにし、[次に]、ブラフマンの知識が事物に基づくことを、そして同じように云々と述べているのである。

脚注
くま注 
内官;感覚器官とその知覚作用の両者を含めて生理作用と心理作用とを統一的に考える場合の哲学用語であり、外界知覚に関する感覚器官(五感)を外官と呼ぶのに対し、自己の意識内部を知覚する能力を内官と言う。
451『註解』本文では、「柱であるか。」「人であるか。」「それ以外のものであるか」と訳しておいたが、『バー マティー』はこれを、「柱である」か「それ以外のもの、すなわち人であるか」と取っているのである。
452 疑問と錯誤には、疑問の場合には共通の属性が知覚され、錯誤の場合には類似した属性が知覚される という違いがある。
(´・(ェ)・`)つ

626鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/11(火) 00:15:33 ID:P2bdCPsE0
 反対なのじゃ。
 すでに存在する事物に関しても、柱か人かというように任意選択が見られるというのじゃ。
 そうであるからすでに存在する事物も任意に選択されるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは諸々の誤った想定は人間の統覚機能に基づいて存在していると答えているのじゃ。
 人間の統覚機能とは内官であり、存在する事物に関する諸々の誤った想定つまり諸々の疑問と錯倒が、人間の統覚機能に基づいて存在しているのじゃ。
 その誤った想定はまず夢の場合のように、覚醒状態時の潜在印象を備えた思考器官のみから生ずるものがあるのじゃ。
 次に覚醒状態時の柱に関する柱か、人かという疑問や、人であるという錯御の場合のように誤った潜在印象を持った感覚器官と思考器官から生ずるかのどちらかであるのじゃ。

 実際の人あるいは実際の柱に基づいているわけではないのじゃ。
 誤った想定すなわち疑問と錯倒は、共通の属性をもった異なる基体を知覚することにのみ基づいて生じるからなのじゃ。
 ありのままのものではない事物に基づく誤った想定が、事物を任意に選択したり別なものに変えたりすることはないのじゃ。

 真理の認識は、統覚機能に基づかず事物に基づくのじゃ。
 真理の認識に基づいて事物が確定されるのが正しいのであって、訳った想定に基づいて事物が確定されるのではないのじゃ。

 シャンカラは事物に関するありのままの知識は、人問の統覚機能に基づかない言っているのじゃ。
 シャンカラはすでに存在する事物を対象とする知識の妥当性が事物に基づくことを明らかにしてブラフマンの知識が事物に基づくことを述べているのじゃ。

627避難民のマジレスさん:2022/10/11(火) 02:44:04 ID:saJEBlPE0
5.3.ブラフマンは推論の対象ではなくウパニシャッドの文章の対象である p344 174左/229

  [反対主張]ブラフマンがすでに存在する事物であれば、まさに[聖典]以外の認識根拠(すなわち直接知覚や聖典等)の対象である。従って、ウパニシャッドの文章の考察は無意味(で)あることになろう。
   [答論]そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので、[感覚器官と]結び付くとは考えられないからである。すなわち、感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、ブラフマンを対象とすることはないのである。実にもし、ブラフマンが感覚器官の対象であれば、こ[の世界]はブラフマンに関連した(から生じた)結果であると認識されるであろう。だが[実際には]、結果[である世界]だけが認識されているのであって、 [その世界が]ブラフマンと関連しているのか、それとも[ブラフマン]以外 のものと関連しているのが決めることはできない。従って、[世界の]生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくて、ウパニシャッドの文章を明らがにするためのものなのである。
  [反対主張]では一体、ここでスートラが示そうととしてるウパニシャッド の文章とは何か。
  [答論]「ヴァルナの(の✖︎)子ブリグが父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 [と言った]」で始まり、「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く[聖典の文章]、およびその結論の文章である「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」453である。さらに、その他のこのような文章、すなわち、本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章454も挙げるべきであろう。

  ここで反対主張が提示される。
  [反対主張] [ブラフマンが]すでに云々と。実に、すでに存在するものを対象とする文章は、[その文章]以外の認識根拠の領域にあるものを対象としているので、[すでに他の認識根拠によって知られたことに]再び言及している(anuvādaka)455のだと 理解されるのである。たとえば、「河岸に果実がある」の場合のように。ウパニシャッドの文章もそれと同じである。従って[ウパニシャッドの文章は]、すでに存在するもの(ブラフマン)を対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び 言及しているのであろう。そしてブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのである、ということはすでに述べた通りである。従って、[ブラフマンを知るための]最も主要な[手段]であるそれ(推論)を考察すべきなので あって、その正しさがそれ(推論)に基づくウパニシャッドの文章を[考察すべき]で はない。それ故、スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということがどうしてありえようか。以上が[反対主張の]趣旨である。
  [答論][このような反対主張を、師シャンカラは]、そうではない。何故なら、[ブラフマンは]感覚器官の対象ではないので云々と退けているのである。

脚注
455anuvādaとは、もともとミーマーンサー学派の述語で、これまで他の認識根拠(すなわち他のヴェー ダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠(すなわちそのヴェーダの文章)によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠(他のヴェーダの文章)によって 理解されたものが再度言及される場合を言う。
453 454
(´・(ェ)・`)
(つづく)

628鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/12(水) 00:10:01 ID:Xcx/T/s60
 反対なのじゃ。
 ブラフマンがすでに存在する事物であれば、聖典以外の認識根拠である直接知覚等の対象であるのじゃ。
 そうであるからウパニシャッドの文章の考察は無意味になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ブラフマンは感覚器官の対象ではないから、それと結び付かないのじゃ。
 感覚器官はその性質上外界の事物を対象としており、心の中にあるブラフマンを対象としていないのじゃ。
 
 ラフマンが感覚器官の対象であれば、この世界はブラフマンから生じた結果であると認識されるじゃろう。
 しかしそうではないから、この世界はブラフマンから生じた結果であるのか、ないのか決められないのじゃ。
 そうであるから世界の生起等云々というスートラは、推論を問題にするためのものではなくウパニシャッドの文章を明らがにするためなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ではウパニシャッドの文章は何を言わんとしているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 ヴァルナの子ブリグが、父ヴァルナに近づき、『尊者よ、ブラフマンについてお教え下さい』 と聞いたのじゃ。
 答えた「実に、それよりこれらの存在が生じ、生じたものがそれに基づいて生存し、それに向かって行って滅 していくところのもの、それを考究すべきである。それがブラフマンなのである」と説く聖典の文章とその結論の文章であるというのじゃ。
 「まさに歓喜よりこれらの存在が生じ、生じたものは歓喜に基づいて生存し、歓喜に向かって行って滅していく」というところもあるのじゃ。
 本性上永遠で、清浄で、悟っており、解脱しており、全知で全能である[世界]原因について述べている文章もあるのじゃ。
 つまりブラフマンについて説いている文章じゃな。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドの文章は、すでに存在するものであるブラフマンを対象としているので、他の認識根拠によって認識された事柄に再び言及しているのじゃ。
 ブラフマンに関しては、世界の生起等を理由とする 推論が別の認識根拠なのじゃ。
 ブラフマンを知るための推論を考察すべきなので あって、その正しさが推論に基づくウパニシャッドの文章を考察すべきではないというのじゃ。
 スートラがウパニシャッドの文章という華をつなぎとめることを目的とするなどということはないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラはブラフマンは感覚器官の対象ではないとして退けているのじゃ。

629避難民のマジレスさん:2022/10/12(水) 00:24:25 ID:dLzV7E3E0
(つづき) p345-346
   [反対主張]一体なぜ、内的な[アートマン]は感覚器官の対象ではないのか456。
  [答論]だから[師シャンカラは、このような疑問に対して、[すなわち、感覚器官は]その性質上云々と答えているのである。まさに同じ趣旨で、次のような天啓聖典句がある。「創造主が[感覚器官の]出口を外に向かって穿ったので、[人は]外を見て内なるアートマンを[見]ないのである」457と。[そして]実にもし、[ブラフマンが]感覚器官の[対象であれば]云々というのは、内的なアートマンが[感覚器官の]対象ではないことを明らかにしているのである。なお、〈その自相がまだ知られていない普遍を対象とする〉(sāmānyatodrrsta•rstの下に•)型の推論458も、ブラフマンに対しては適用 されないということについては、のちに明らかにするつもりである459。また同じことは、『ニヤーヤカニガー』のなかで詳しく明らかにしておいた460。さらに、すでに存在するものを対象としているという理由だけでは、[他の認識根拠によって知られたことに]再び言及しているにすぎないということにはならないということも、のちに明らか にするつもりである461。従って、すべてが明確になったのである。
  [『註解』本文に引用された]「実にそれより云々」という聖典句は生起を示し、「生じたものがそれに基づいて生存し」という[聖典句]は生存すなわち存続を[示し]、「それに向かって行って云々」という[聖典句]はそこへの帰滅を示しているのである。そして、その結論の文章が、すなわち、根本物質等[が世界の原因であるのではないか]という疑問に関してここで確定的なことを述べている文章が、 「まさに歓喜より云々」 なのである462。その趣旨は次の通りである。すなわち、縄についての無知と結びついている縄を質料因とする[存在の]流れは、縄が存在するときには存在し、まさに縄のなかに帰滅してゆくのだが、それと同じように、無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにそれ(ブラフマン)のなかに帰滅していくのである、と確定したのである。

脚注
456ブラフマンとアートマンとは同一であるという前提に立っている。
457
458 推論には伝統的に、(1)煙を見て山に火があることを推論するような、その自相がすでに知られている普遍を対象とする推論一たとえば、火性という 普遍の自相については、台所で火を見たことがあってすでに知られている一と、(2)その自相がまた知 られていない普遍を対象とする推論と、(3)消去法とがあるとされる。ここでブラフマンは、その自相がまだ知られないものであるから、推論によって知られるとすれば、(2)が(通→適)用されるはずであるが、ブラフマンにはそもそも徴標がな いので、それも適用できないのである。
459 460 461
462 根本物質等の物質的存在が歓喜ではありえないのである。
(´・(ェ)・`)つ

630鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 00:22:44 ID:B/apmWrI0

 反対なのじゃ。
 なぜ内的アートマンは感覚器官の対象ではないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 シャンカラは感覚器官はその性質上外部のものしか認識しないからというのじゃ。
 心中のアートマンは観られないのじゃ
 無知と結びついたブラフマンを質料因とする世界は、ブラフマンのなかに存在し、まさにブラフマンのなかに帰滅していくというのじゃ。

631避難民のマジレスさん:2022/10/13(木) 02:55:26 ID:YYppjdzU0
『パーマティー』I.1.3

1.スートラ解釈(1) ブラフマンは聖典の母胎である p347- 348 175右/229
 
  [ブラフマンが]世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆しておいたが、まさにそのことを確実にしようとして、[スートラ作者は]次のように述べている。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである](śāstrayonitvāt,BS I.1.3)

  リグ・ヴェーダ等463の偉大な「聖典」一[それは]多くの学問分野464に支えられ、灯火のようにあらゆる事柄を照らし、全知者に近い一の「母胎」 すなわち原因が、ブラフマンである。何故なら、全知者の特質を備えたこのような聖典一[それは]リグ・ヴェーダなどからなる一が、全知者以外のものから生ずることはないからである。たとえば、パーニニ等から『パー二二・ スートラ』という文法書465が[生ずる]場合のように、学問の一分野に関するものではあっても広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はそれ(聖典)よりも多くの知識を備えている。これは世間で周知の事実である。まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一[それは] 様々な多くの枝派466に分かれ、神・獣・人間・力一スト・生活期等を区別する根拠となっているが、「このリグ・ヴェーダはかの偉大な存在の吐き出した息である云々」467という聖典句にあるように、かの偉大な存在という母胎から、遊戯でもあるかのように468、また人の人の呼吸でもあるかのように、なんの努力もなく生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、ということは言うまでもない。
以上が第一の解釈である。

脚注
463 「等」には、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ・ブラーフマナ・アーラニヤカ、ウパニシャッドが含まれる。
464 祭式学・音韻学・天文学・語源学・文法学という六種のヴェ-ダ補助学とプラーナ、論理学、祭事学・律法論という十種の学問分野のことを言う。
466ヴェーダを伝承していった様々な派のことで、それぞれの派がその派独自のヴェーダ書巻をそれぞれ伝承しているのである。
467
468 「世界創造が主宰神の遊戯である
(´・(ェ)・`)つ

632鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/13(木) 23:30:52 ID:pr5AEO0Y0

 ブラフマンが世界の原因であることを示すことによって、ブラフマンは全知であると示唆して[スートラ作者は次のように述べているのじゃ。

  聖典の母胎であるから[ブラフマンは全知なのである

 リグ・ヴェーダ等463の偉大な聖典の母胎であり、原因はブラフマンだというのじゃ。
 聖典さえもブラフマンから生じたというのじゃ。
 聖典が全知者以外から生まれる筈はないからというのじや。
 もしそれが特定の人から生じたならば、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるからなのじゃ。
 そうであるから聖典を生み出したのは全知全能のブラフマンしかいないというのじゃ。
 
 それが第一の解釈というのじゃ。

633避難民のマジレスさん:2022/10/13(木) 23:56:34 ID:jg5jrlt60
1.1.『註解』の語義解釈 p348-349 176左/229

  [師シャンカラは]、次のスートラを紹介するために、前のスートラとの繋がりを[次 のように]述べている。[ブラフマンが]世界の原因であることを示すことによって云々と。この神聖なる神は、ただ単に世界の母胎であるから全知なのではなく、聖典 の母胎でもあるから[全知]なのだ、と理解すべきなのである。[そして]、聖典の母胎であることが全知であることを確立する根拠となるということを、[師シャンカラは次 のように]明らかにしている。リグ・ヴェーダ等の偉大な聖典の云々と。リグ・ヴェー ダ等は、弟子たちに、四カーストと四住期それぞれに関して、日々義務として行わなけ ればならない祭式・臨時に行われる祭式・望ましい果報を欲して行う祭式469の諸々の 手順一[それらは]受胎式から葬式470までにわたり、夜明けに始めて日暮れには終了すべきである一を教示しており、また、ブラフマンという真理について教示しているから、聖典なのであり、従って、その内容が広範であるから、偉大なのである。
  またこれ(リグ・ヴェーダ等)は、ただ単にその内容が広範であるから偉大なのではなく、多くの補助学471や副補助学472に支えられているという理由によってもまた[偉大なのである。このことを師シャンカラは]、多くの学問分野に支えられと述べている。すなわち、プラーナ・論理学・祭事学等が十種の学問分野であり、[リグ・ヴェーダ等は]それら[の学問分野]によって、それぞれの方法で支えられているのである。従っ て、すべての学識ある人が認めているというこの理由によって、[リグ・ヴェーダ等が]正しい認識根拠ではないのではないかという疑問も解消されるのである。実に、フラーナの作者である偉大な聖者たちは学識のある人たちであり、かれらはそれぞれの方法で、ヴェーダを説明しまたその趣旨を熱心に実行したのであるが、そのかれらがヴェー ダ[の妥当性]を認めているのである。
  もし[ヴェーダがものごとを教示しなかったり、不明瞭に教示したりするので]あれば、正しい認識根拠ではないということになるが、これ(ヴェーダ)が[ものごとを]教示しなかったり不明瞭に教示したりすることはない。だから[師シャンカラは]、灯火 のようにあらゆる事柄を照らしと言っているのである。すなわち[ヴェーダは]、あらゆる種類の事柄をあらゆる方法で教示するので、教示しないということも不明瞭に教示 するということもないのだ、という意味である。だからこそ全知者に近い、すなわち全知者に似ているのである。すなわち、全知者の知識はすべてにわたっており、[ヴェーダという]聖典の教えもすべてにわたっているというのが、似ている点なのである。

脚注
469「日々義務として行わなければならない祭式」とは、朝夕の礼讃等のことで、それを怠ると災禍がふりかかってくるとされる。「臨時に行われる祭式」とは、男子の出生等に関連した誕生祭等のことである。そして、「望ましい果報を欲して行う祭式」とは、天界等に生まれることを望んで行われるジュヨーティシュトーマ祭等のことである。
470ヒンドゥー教徒の通過儀礼は、伝承により様々な違いがあるが、通常十六種あるとされ、それらは受胎式を以って始まり葬式を以って終わ るとされている。
471 ヴェーダ補助学六種については脚注464参照のこと。
472プラーナ、論理学、祭事学、律法論の四種を言う。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

634鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/14(金) 23:42:08 ID:qCfHw3OY0
 ブラフマンはただ単に世界の母胎であるから全知なのではなく、聖典の母胎でもあるから全知だというのじゃ。
 聖典の母胎であることが全知であることを確立する根拠となるというのじゃ。
 リグ・ヴェー ダ等は、弟子たちに四カーストと四住期それぞれに関して、さまざな祭式の諸々の手順を教示しているのじゃ。
 さらにまた、ブラフマンという真理について教示しているから、聖典なのであり、内容が広範であるから、偉大だというのじゃ。
 宗教的な知識を全て記しているから、それを教えた者は全知であるというのじゃ。

 さらにまたリグ・ヴェーダ等は、ただ単にその内容が広範であるから偉大なのではなく、多くの補助学や副補助学に支えられているから偉大だというのじゃ。
 プラーナ、論理学、祭事学等の十種の学問分野に精通していなければ、ヴェーダは理解できないから偉大だというのじゃ。
 ヴェーダは、あらゆる種類の事柄をあらゆる方法で教示するのじゃ。
 からこそ全知者に近い、すなわち全知者であるブラフマンにに似ているというのじゃ。

635避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 02:36:27 ID:kHqP6UpE0
(つづき) p349-350
  このように肯定法(anvaya)を述べたのちに、[師シャンカラは、次のように]否定法(vyatireka)を述べているのである473。実に[全知者の特質を備えた]このような云々と。すなわち、全知者の特質とはあらゆるものを対象としていることであり、その(特質)を聖典が備えているのである。何故なら、これ(聖典)もあらゆるものを対象としているからである。
   [次に師シャンカラは]、すでに述べた趣旨を[次のように]根拠づけている。すなわち、広範な内容の聖典が、ある特定の人から生ずるとき、その人はつまり特定の人は、それよりもつまり聖典より[も]多くの知識を備えている、というのが文の繋がりなのである。今日でも、われわれなどが正しい意味を含んだ聖典を作成したとすると、 われわれ語り手(作者)の知識は、[聖典の]文章より内容が広いのである。というのは、諸々の特殊な性質は、経験されても表現することができないからである。実に、砂糖きびや牛乳や糖蜜などの甘味の違いは、[言葉の神]サラスヴァティー女神474でさえも表現することはできないのである。[なお]広範なという語が用いられているのは、 [聖典の]文章は内容が広範であっても、語り手の知識と同じ内容であるわけではない、ということを述べるためである。
  [師シャンカラは]適用(upanaya)とともに結論を[次のように]述べている475。 まして・・・言うまでもないと。すなわち、まして、ヴェーダがかの偉大な存在という母胎 から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えているのだ、 ということは言うまでもない、というのが文の繋がりである。[そしてまして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一それは様々な]多く支派[に分かれ]云々のうち、様々な多くの枝派に分かれから生ずるとすればまでが適用であり、その[偉大な存在]がから全能を備えているのだまでが結論なのである。また、なんの努力もなくというのは、「大麦の粥は塩気がない」という場合のように476、少しの努力で[実現される]ということである。実に、神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、彼(主宰神)は遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、この者(主宰神)が至上の全知者であって全能を備えているのだ、と述べられているのである。[さらに]、この者(主宰神)がなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、[次のような]天啓聖典句が挙げられている。「[このリグ・ヴェーダは]かの偉大な存在の云々」477と。

脚注
473 肯定法と否定法ととは、ミルの一致(放→法)と差異法に該当するもので、前者は 「AならBである」という形の証明法(たとえば火の存在を煙があれば火があるというような形で証明す る方法)、後者は「BがなければAがない」という形の証明法(たとえば火の存在を火がなければ煙がな いというような形で証明する方法)のことである。ここでは、「聖典は全知者に近いからその原因は全知者ブラフマンである」というのが肯定法で、「聖典の原因が全知者ブラフマンでなければ全知者の特質を備えたこのような聖典が生ずることはない」というのが否定法であり、この両者の方法で聖典の原因かブラフマンあることを証明しているのだ、と解釈されているのである。
474 サラスヴァティー女神は元来はサラスヴァティー河が神格化されたものであるが、ブラーフマナ文献や叙事詩『マハーバーラタ』などでは、言葉の女神でもあるとされてい。
475ここでは、『註解』本文中の議論を、「ブラフマンは聖典の母胎である」ということに関して、(1)主張(2)理由(3)実例(4)適用(5)結論と いう五分作法と呼ばれる論式の型に従って推論しているのだ、と解釈しているのである。すなわち,(1) 「ブラフマンは聖典の母胎である」というのが主張で、(2)「聖典は全知者に近いから」および「聖典の原因が全知者ブラフマンてなければ全知者の特徴を備えたこのような聖典が生ずることはないから」という のが理由で、(3)「たとえはパーニニ云々」というのが実例で、(4)「まして、あらゆる知識の宝庫であるリグ・ヴェーダ等一〔それは]様々な多くの枝派に分かれ云々」というのが適用であり、(5)「その偉大 な存在が至上の全知者であって全能をそなえているのだ」が結論なのである。なお、Vedāntakalpataru.は、この箇所の説明として以下のような三分作法の推論を挙げている。「ブラフマンはヴェー ダの対象より多くの対象を知っている。何故ならそれ(ヴェーダ)の作者だからである。文章という認識根拠の作者はだれでもそれ(文章という認識根拠)より多くの対象を知っているものである。たとえば、 パーニニのように」。
476 意図不明。
477 脚注467参照
(´・(ェ)・`)つ

636鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/15(土) 23:55:13 ID:DnEa/qgA0
 シャンカラは次は否定法を述べているというのじゃ。
 聖典はあらゆるものを対象としているから全知者の特質と同じだと言うのじゃ。

 広範な内容の聖典がある特定の人から生ずるとき、その人は聖典よりも多くの知識を備えていることになるのじゃ。
 ヴェーダが偉大な存在という母胎から生ずるとすれば、その偉大な存在が至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 神々や聖者たちが非常に努力してもできないようなことを、ブラフマンは遊びでもあるかのように少しの努力で行うので、主宰神であるブラフマンが至上の全知者であって全能を備えていることになるというのじゃ。
 ブラフマンがなんの努力もせずヴェーダを生み出したということに関して、リグ・ヴェーダの天啓聖典句が挙げられているというのじゃ。

637避難民のマジレスさん:2022/10/15(土) 23:57:39 ID:Kr9AfsSk0
1.2.ブラフマンは聖典の母胎であるという論証  p250-253 177左/229

  まず、音(varna)が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ478、語や 文等が無常であることは認めるべきである479。実に語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものである。[そしてその]前後の繋がりというのは、表現(vyakti)の属性であって、音の属性ではない。 何故なら、永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからである。[そして]表現が無常なのであるから、それ(表現)に含まれる(すなわち表現された)480音が永遠であっても、どうして語の本質が永遠でありえようか。また、語が無常であるから、文等が無常であることも説明されたことになる。 従って、語等のお復習い(おさらい)は踊りのお復習いのようなものなのである481。すなわち、たとえば、踊りの師匠の身体の振りと同じように、弟子の踊り子がお復習いしても、同じ 振り見せることはない。それと同じように、弟子は、ヴェーダの音や語等を師が伝承してきた通りにお復習いしても、その通りに発音できるものではない。何故なら、弟子の表現は師の表現と異なるからである。
  従って、[音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等一[それが]世俗的なものであろうとヴェーダに属すものであろうと一が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのである。ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのである。[そのことが]たと えば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」482と述べられているのである。この点に関して、[リグ・ヴェーダの]創造と破壊を認めないジャイミニの徒たち483は、ヴェーダの 学習について、「師資相承であって([この点では]われわれと同るじである)、途切れ ることがなく、無始である」と主張している。

脚注
478 祭事学派のことである。
479以下の議論は各段階それぞれ次のような反対主張に対する答えであるとされている。すなわち、ヴェーダには作者(創造主)がいるわけであるから、ヴェーダはその作者に基づいているわけだが、その基づくというのは、(1)ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか、(2)創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか、(3)他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味で、他の認識根拠に基づいているとい う意味なのか、(4)いく(ろ→つ?)かの時代に作られたあらゆる伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか、という反対主張を個々に退けているとしているのである。そのうちまずこの段落 では、反対主張(1)「ヴェーダは人間(創造主)によって作成されるという意味なのか」を、「音は無常であるとする反対主張者たちも、文(つまりヴェーダ)が無常であることは認めざをえず、無常なものは作成されたものであるから、それを創造主が作成したと考えている点ではわれわれと同意見であるので、反対主張に価しない」というかたちで退けているのである。
480
481この段落は、反対主張(2)「ヴェーダが作者(創造立)に基づくというのは、創造主が全く新たな伝承を作りあげるという意味なのか」に対する答えであると(と)れる。すなわち、「全く新たな」というのは、(1)伝永の順序が単に異なっているという意味か、あるいは、(2)伝承の順序が異質であるという意味かのどちらかであるはずだが、(1)は反対主張者も認めていることであり、(2) はこの段落から明らかなようにわれわれも認めていないのであるから、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
482出典不明。
483祭事学派のことある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

638避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 07:39:10 ID:bzChC4fg0
訂正
p250-253→ p350-353
(´・(ェ)・`)b

639避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:48:18 ID:DN34W08I0
勉強会、講読会等バックナンバー
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実(2ch 心と宗教)
1)アファメーション」>>749 2017/04/02
 10語のアファメーション>>819 2017/04/06
❇︎この頃はまだ愉快なアラシくんたちもいて、楽しさもあったのである。

鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実2(2ch 自己啓発)
1)アファメーション
  「潜在意識、マーフィーの法則」>>23 2017/04/13
2)「存在の詩」osho >>305 2017/05/13
❇︎2014年に、『マハームドラーの歌』として既に取り上げられており、(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板)>>709-762 2014/11/29-12/09 鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。
3) 「信心銘 」>>389 2017/ 05/23。
❇︎2014年に、既に取り上げられており、
(鬼和尚に聞いてみるスレ part4 - なんでも避難所 - したらば掲示板 >>658 -699 2014/11/20-11/27)(鬼和尚による解説はそちら↑に載ってるであります。。
4)「真理のことば(ダンマパダ)」>> 562〜780 2017/06/25-09/09
5)ブッダのことば(スッタニパータ) 782〜939 2017/09/10-10/26
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ(2ch 自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜323 2017/10/28-2018/01/01
❇︎dat落ちにより移転。まさに、dat落ちとの戦いでありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ2(2ch自己啓発)
→ 5)ブッダのことば(スッタニパータ) 1〜42 完結 2018/01/02-01/08
6)『I AM THAT 私は在る』 46〜530(1〜31)2018/01/09-06/13
❇︎dat落ちにより移転。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ3 (2ch自己啓発)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜60(2〜33)2018/06/14-07/01
❇︎ dat落ち回避の為、偽和尚管理による したらば掲示板へ移転を決意したが、その後粘着くん定着。dat落ちせずに、スレ継続。7)〜13)の投稿を続行。大作『狂雲集』にも着手できた。これは、dat落ち、及び、粘着くんハッスルによりもたらされた機会であったと言えるかもである。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→ 6)『I AM THAT 私は在る』 2〜862(33〜101)一時中断 2018/07/07-2019/05/06

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板
→6) 『I AM THAT 私は在る』 696-728(101)完結 2020/03/26-04/05
❇︎結局、11ヶ月中断した上での完結でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
7)パタンジャリのヨーガスートラ 85-209: 2018/07/21-08/23
 ガーヤトリー・マントラ 212: 2018/08/24
8)バガヴァッド・ギーター 218-456: 2018/08/25-10/17
9)鈴木大拙 457〜490:2018/10/18-11/24
10)サティパッターナ・スッタ 大念住経 (大念処経) 491-557: 2018/11/24-2019/04/03
❇︎鬼和尚の解説はありません。
11)ブッダ 神々との対話 より抜粋 565.567: 2019/05/08、05/11
❇︎鬼和尚の解説はありません。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

640避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:49:30 ID:DN34W08I0
(つづき)
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 3 (2ch自己啓発)
12)一休さんの詩→狂雲集 596-978: 2020/05/06-07/02
❇︎ >>618 から鬼和尚解説付きであります。
❇︎ 『I AM THAT 』をしたらばへ移転させた後、(11)までdat落ち覚悟の投稿継続。その後、粘着くんの定期巡回以外ほとんど投稿無いまま、一年経過しても、スレ存続していたため、「一休さん」の詩を取り上げ始めた。最初はoshoの「一休道歌」をベースに資料を集めたが、どうやら一休さん作か真偽不明なものも多数あるため、方針変更。『狂雲集』の詩を、あいうえお順に全部取り上げるという無謀な作業に着手。

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→12)狂雲集 2-890: 2020/09/22-2021/11/03 完結
❇︎一応の完結まで1年7ヶ月でありました。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6
→12)(再掲載)狂雲集 『真理のみ』レスの下方に掲載465-612: 2021/12/07-2022/01/25
❇︎全576首のうち、鬼和尚の解説が無かった詩を再掲載して、解説をお願いしました。

鬼和尚の仏教購読会 別館 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
13)黄金の華の秘密osho 1-584: 2018/10/16-2019/06/01
❇︎老子、荘子も取り上げる予定であります。
14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 一時中断 585-783: 2019/06/02-09/02

鬼和尚の仏教講読会 別館2 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 891-998: 2021/11/03-12/07
❇︎2年3ヶ月ぶりの再開。

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→14)「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)〜SRI H.W.L.POONJA 465-767: 完結 2021/12/07-2022/04/05

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
15)クリシュナムルティ変化の緊要 608-1000: 2020/03/04-06/22

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
→15)クリシュナムルティ 最初と最後の自 由 3〜464:完結2020/06/23-2021/01/02

オショーのSadhana Pathを読んで実践する (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
16)大乗起信論 271〜386: 2022/03/18-04/30
17)バ-マティ- 387〜現在: 2022/06/22-
(´・(ェ)・`)
(つづく)

641避難民のマジレスさん:2022/10/16(日) 13:51:22 ID:DN34W08I0
(つづき)
◉別レス者様による勉強会
鬼和尚に聞いてみるスレ part4(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
1)信心銘 658-699: 2014/11/20-11/27
別レス者様による
2)マハームドラーの歌 709-762: 2014/11/29-12/09

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-1)ラマナ・マハルシとの対話(対話1〜41) 863〜1000: 2019/05/07-09/18

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-2)ラマナ・マハルシとの対話(対話42〜294)3〜604: 2019/06/19-2020/03/04

鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 6 (- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
3-3)ラマナ・マハルシとの対話 (1936年12月16日 〜対話 362)769〜942: 2022/04/12-06/21

オショーのSadhana Pathを読んで実践する - なんでも避難所 - したらば掲示板(- なんでも避難所 - したらば掲示板)
別レス者様による
4)Sadhana path 修行の道 1-269: 2020/11/18-2021/03/22第1章(1-16) ようこそ〜
第2章(18-34)最初の朝 1964年6月4日 午前
第3章(36-57)初日の夜 1964年6月4日午後
第4章(59-73)2日目の朝 1964年6月5日 午前
第5章(75-118)2日目の夜 1964年6月5日 午後
第6章(121-140)3日目の朝 1964年6月6日 午前
第7章(142-161)3日目の夜 1964年6月6日 午後
第8章(163-206)4日目の朝 1964年6月7日 午前
第9章(209-250)最後の夜 1964年6月7日午後
第10章(252-269)別れの言葉 1964年6月8日午前
(´・(ェ)・`)b

URLは貼り付けできませんでした。

642鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 00:03:58 ID:EBzO3fvU0
 音が永遠であることを主張しようとしている人たちでさえ語や文等が無常であることは認めるべきであるというのじゃ。
 語とは、音に前後の繋がりによる区別のあるものであり、文とは語に前後の繋がりによる区別のあるものなのじゃ。
 そしてその]前後の繋がりというのは、表現の属性であって音の属性ではないのじゃ。
 永遠で遍在する音には、時間的にも空間的にも前後関係が存在しえないからなのじゃ。
 表現が無常なのであるから、表現に含まれる音が永遠であっても、語の本質も無常になるのじゃ。
 語が無常であるから、文等も無常であるのは当然なのじゃ。

 音が]永遠であると主張する人と 無常であると主張する人のあいだには、語や文等が人間に基づくという点については、見解の 対立は存在しないのじゃ。
 ただ、人間(創造主)がヴェーダの文章から自立しているか否かという点についてのみ、見解の対立が存在するのじゃ。
 そのことがたとえば、「われわれは、人間(創造主)が[ヴェーダの文章から]自立しているという見解を、懸命に否定しなければならない」と述べられているのじゃ。
 リグ・ヴェーダの創造と破壊を認めないジャイミニの徒たちは、ヴェーダの 学習について、師資相承であって途切れることがなく、無始である」と主張しているのじゃ。

643避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 01:21:16 ID:hFEPjK6k0
(つづき)  p352-353
  一方、ヴヤーサの考えに従う者たちは[次のように主張している]484。「[ヴェーダは]創造され破壊されるという見解一[それは]天啓聖典・聖伝書・叙事詩等におい て確立している一に従えば、永遠なる最高のアートマンー[それは]無始の無明と結び付くことによって獲得された全知・全能を備えている一は・ヴェーダの母胎ではあっても、それら(ヴェーダ)から自立しているわけではない。何故なら、[最高の アートマンはヴェーダを]、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからである」と。詳論すれば[次の通りである]485。供犠等やバラモン殺し等は、ブラフマンの仮現486ではあっても、[前者が]好ましい事柄の原因であり、[後者]が好ましくない事柄の原因であるということは、新たに創造された世界において 逆転することはない。実に、創造されたどんな世界においても、バラモン殺しが好ましい事柄の原因であり、馬祠祭が好ましくない事柄の原因であるということは決してないのである。それは、火が湿っていたり水が燃えたりすることがないのと同じである。[また]、創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのそれ(ヴェーダの学習)は、言葉の雷487なので好ましくない事柄の原因であるが、そのことは新たに創造される世界にお いても同じである。従って[最高のアートマンは]、全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、[ヴェーダから]自立しているのではないのである。さらにジャイミニの徒たちも、[ヴェーダが] 人間の手になるものではないということを、人問(創造主)が[ヴェーダから]自立しているわけではないという[意味で]のみ[解釈すること]を好んでいる。そしてそのことは、意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通なのである。

脚注
484ここで言うヴヤーサとは、『ブラフマ・スートラ』の作者とされている伝説上の聖者のことで、「ヴヤーサの考えに従う人たち」とは、ヴェーダーンタ学派のことである。なお、この段落は、反対主張(3)「他の認識根拠に基づいて認識された対象に関する文章を創造主が作成するという意味でヴェーダは他の認識根拠に基づいているという意味なのか」に対する答であるとされる。 すなわち、創造主といえども、ヴェーダから自立しているわけではなく、それぞれ前の世界に創造されたヴェーダに従って、新たに創造した世界のヴェーダを作成するのではあるが、ヴェーダ以外の認識根拠に基づいてヴェーダを作成するわけではないので、このような反対主張は成り立たない、と言うのである。
485異本では、「たとえば」となっているが、ここでは底本の「詳論すれば」に従った。
486 不二一元論学派では、ブラフマンのみが実在であり、その他の世界等(当然供養(な→や)バラモン殺し等もそのなかに含まれる)は、ブラフマンの仮現であって実在しないとされる。
487 ヴェーダを誤って唱えると、ちょうどその言葉が雷でもあるかのように、その誤って唱えた人に対して害を及ぼすのである。たとえは次の話が有名である。トヴァシュトリが、インドラ神を打ち負かすことのできるような息子を望んで供犠を行ったとき、ヴェーダ中の(インドラを打ち負かす敵)という複合語のアクセントをまちがえて、「インドラに打ち負かされる敵」という意味で発音してしまい、そのため、その息子ヴリトラはのちにインドラに殺されてしまうという結果になったのである。その典拠として次 のような文章を挙げている。「アクセント的にもまた発音的にも誤って用いられて損なわれたマントラは、その意味を伝えない。それは言葉の雷であって、供犠の主催者に害を加える。たとえば、Indraśatrhがアクセント的に誤っていたために云々」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

644鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/17(月) 23:13:17 ID:F2dFintI0
 ヴェーダーンタ学派によれば、ヴェーダは創造され破壊されるという見解に従えば、永遠なる最高のアートマンはヴェーダの母胎ではあるがヴェーダから自立しているわけではないというのじゃ。
 なぜならば最高のアートマンはヴェーダを、それぞれ前に創造されたものに従って、その通りの順序で 再現するからであるというのじゃ。
 創造された現在の世界において、一定の順序に従ったヴェーダの学習は、 繁栄や至福の原因であり、それとは異なる形でのヴェーダの学習は好ましくない事柄の原因であるのじゃ。

 新たに創造される世界においても同じであるというのじゃ。
 最高のアートマンは全知であってもまた全能であっても、それぞれ前に創造されたものに従ってヴェーダを作成するのであり、ヴェーダから自立しているのではないのじゃ。
 ジャイミニの徒たちもヴェーダが 人間の手になるものではないということを、アートマンがヴェーダから自立しているわけではないという意味でのみ解釈するのじゃ。
 それは意図は異なるにせよ、われわれの場合にも共通だというのじゃ。

645避難民のマジレスさん:2022/10/17(月) 23:50:14 ID:.qDmBa.Q0
(つづき)  p353
  また、「一人だけの啓示には信頼が置けない」というのは正しくない488。実に、無知なあるいは賢い多くの人の場合でも、[その人の]心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないし、一人の人であっても、[その人が]真理を認識しており、あらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのである。[世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たち489一[かれらは]徳と知識と離欲と神通力を備えていた一の場合には、それ(主宰神ブラフマン)の本質を確実に知ることが可能である490。そして、かれらに対する信頼を通して、後世の人たちの場合にも、それ(主宰神ブラフマン)に対する信頼が存在するのである。従って、ブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠なのである。以上が[このスートラの]第一の解釈である。

脚注
488この段落は、反対主張(4)「いくつかの時代に作られたあらゆ る伝統を含むヴェーダが一人の人(創造主)から生ずるという意味なのか」に対する答えであるとされる。
489ともに聖仙の一人で、プラジャーパティとは、マーリーチィ・アトリ等のブラフマー神の息子たちで、神仙とは、地上で完成に達し、神に近い地位に到達した聖仙たちのこと、たとえば、 「マールカンデーヤ・プラーナ』の作者とされているマールカンデーヤなどが有名である。
490この箇所は次のような反対主張に対する答えであるとされる。「われわれは主宰神を見ていない。なのにどうしてそれ(主宰神)が作者であるヴェーダに信頼が置けようか」。


2.スートラ解釈(2)ーー聖典はブラフマンを知る典拠である p353-354 178右/229

  あるいはまた[このスートラは次のように解釈できる]。上述のリグ・ヴェー ダ等の「聖典」は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための「母 胎」すなわち原因、認識根拠であると。すなわち、聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味である。[そしてその]聖典とは、前のスートラ(I.1.2)に引用されていた「実にそれよりこれらの存在が生じ云々」491等である。
  [反対主張]まさに前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか。
  [答論]そこでは、前のスートラの語からは聖典[の意味]が明確には理解されないので、「[世界の]生起等云々」[というスートラ]が単に推論を問題 にしているのではないかという疑問が生ずることになろう。[そこで]その疑問を退けるために、この「聖典が典拠(母胎)だからである」というスートラが開始されているのである。
  [師シャンカラは]第二の解釈を[次のように]開始している。あるいはまたと。前の節(すなわちスートラI.1.2)では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べていた。一方[このスートラでは]、 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、すなわちこれ(ブラフマンの定義)に基づいて〔ブラフマンの存在が]推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマ ンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのである。ここの『註解』492の意味は実に全く明らかである。

脚注
491 脚注453参照。
492ここで『註釈』と訳したaksaraはもともとは「文字」という意味だが、ここでは『註釈』の該当箇所をさしていると思われるのでこう訳した。
(´・(ェ)・`)つ

646鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/18(火) 23:35:34 ID:MTNgA1.s0
 無知な者とか賢い多くの人の場合でも、心に欠陥があれば、その啓示に信頼をおくのは正しくないというのじゃ。
 一人の人であっても、その人が真理を認識していてあらゆる欠陥と無縁であれば、その啓示に信頼を置くのはまさに正しいのじゃ。
 世界] 創造の最初に存在していたプラジャーパティや神仙たちが聖典をブラフマンから啓示で授かったという伝説があるのじゃ。
 そうであるからブラフマンが聖典の母胎であり、聖典は人間の手になるものではなく、正しい認識根拠だというのじゃ。


 リグ・ヴェー ダ等の聖典は、このブラフマンのありのままの本質を理解するための母 胎すなわち原因、認識根拠であるというのじゃ。
 聖典という認識根拠に基づいてのみ、ブラフマンが世界の生起等の原因であると理解されるという意味でなのじゃ。

 反対なのじゃ。
 前のスートラでこのような聖典を引用して、聖典がブラフマンの典拠であることをすでに示しているとすれば、このスートラは何のために存在するのか聞いたのじゃ。。


 前のスートラの語からは聖典の意味が明確には理解されないので、単に推論を問題にしているのではないかという疑問が生ずることになるのじゃ。
 すなわちスートラI.1.2では、ブラフマンの本質を定義することは不可能ではないかという疑問を退けて、定義が可能であると述べたのじゃ。
 このスートラでは 聖典に言及することで、その定義に関する疑問、ブラフマンの定義に基づいてブラフマンの存在が推論されるのではないかという疑問を退け、ブラフマンに関しては聖典が認識根拠であると述べているのじゃ。

647避難民のマジレスさん:2022/10/19(水) 00:32:24 ID:KXJII9pk0
『パーマティー』I.1.4

1.聖典はブラフマンを知る典拠ではないという反対主張 p355-356 179右/229

  [反対主張]しかしどうして聖典が、ブラフマン[を知る]認識根拠だと言えるのか。というのは、聖典が行為のためのものであることは、[『ミーマー ンサー・スートラ』に]「聖典は行為(祭式)のためのものであるから、それ (行為)を目的としない[諸聖典句]は無意味である」493と明示されているからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、行為を目的としていないから無意味であるが、[祭式の]執行者や神格等を明らかにすることを目的とすという形で行為(祭式)[を命ずる]儀軌に従属するか、あるいは、念想494等の[祭式とは]異なる行為を命ずることを(目)的とするがのいずれかであろう。
  というのは、[聖典が]すでに存在している事物を明らかにすることはありえないがらである。何故なら、(1)すでに存在している事物は直接知覚等の対象であう、(2)またそれ(すでに存在している事物)を明らかにすることに は、取捨の指示が含まれていないので、人間の役に立たないからである。[だが]まさに同じ理由で、「彼は泣いた」495等[の聖典句]が無意味とならないようにというので、[これらの聖典句は]儀軌を賞賛するという点で意味があるということが、「だが、[これらの諸聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから、儀軌を賞賛するためのものなのである」496と述べられているのである。
  また、「強くなるために汝を[切るのだ]」等497の真言も、行為(祭式)とそれ[を成立させる]手段を述べているという点で、祭式と常に関係しているということが、[『ミーマーンサー・スートラ』に]述べられている。ともあれ、 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつなどということは、どこにも見られないし、どこにも論証されていないのである。 また、儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえない。何故なら、儀軌の対象は行為だからである。従って、ウパニシャッドの諸聖典句は、 祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で、行為(祭式) を[命ずる]儀軌に従属するのである。
  またたとえ、「[ウパニシャッドというヴェーダの知識部とヴェーダの祭事部とは]主題が異なるという恐れがあるから、これ[ウパニシャッドの諸聖典句が祭事部に説かれている儀軌に従属するという見解]は認められない」としても、[ウパニシャッドの諸聖典句は]、自らの聖典句の中に説がている念想等498の行為のためのものなのである。従って、聖典はブラフマン[を知る]典拠ではないのである。

脚注
493これは反対主張であり、祭式行為を目的としない無意味な聖典句の例として、「彼は泣いた。泣いたから、ルドラ神はルドラと呼ばれる ようになったのである」等が挙げられている。このような反対主張にたいして、答論者は、「これらの諸聖典句は、祭式式行為の意義を説明する釈義だから意味(目的)があるのだ」と答えているのである。
494
495 「等」には、プラジャーバティは自分の網(もう)を取り出した」などが含まれるものと思われる。
496 祭式行為を目的としない諸聖典句は無意味であるとする先の反対主張に対する答論が、このスートラ以下であり、 そこでは先の聖典句の意義が釈義という形で説明されている。すなわち、たとえば、「彼は泣いた云々」の場合には、この聖典句は、「銀をクシャ草の上に捧げるべきではない」という禁令に従属し、何故そうしてはいけないのかという理由をこの聖典句が次のように説明しているとされるのである。すなわち、「彼は泣いた云々」の次に「彼の流した涙が銀になる」という聖典句があり、銀はルドラの涙であるから、「供犠で銀を捧げると、一年もたたないうちに、[供犠を行った人の]家のなかに泣くこと(不幸)起こる」ので、供犠においてクシャ草の上に銀を捧げてはならないのである。これは、釈義の持つ二つの意味のうち、祭式行為を非難するほうの例であるが、賞賛するほうの例としては「プラジャーバティ云々」という聖典句がある。
497 祭式の際に唱えられる真言も、それ自体では行為を命じているわけではないが、「強くなるために汝を」という真言はダルシャプールナマーサ祭に用いる木の枝を切るという行為を行う時に唱えられるという形で、祭式行為と常に関連しているし、また、祭火を設置する祭式 の際に「アグニ神が頭である」と唱える場合には、祭式行為を成立させる手段の一つである神格について語っているので、常に祭式と関連しているのである。
498「等」には聴聞等が含まれる。
(´・(ェ)・`)つ

648鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/19(水) 23:58:33 ID:edTHfve20
 反対なのじゃ。
 聖典はブラフマンを知る認識根拠ではないというのじゃ。
 なぜならば聖典とは行為のためのものであるからというのじゃ。
 
 聖典がすでに存在しているブラフマンを明らかにすることもありえないというのじゃ。
 なぜならばすでに存在しているものは直接知覚の対象であり、取捨の対象ではないからなのじゃ。
 それでは人の役にはたたないというのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と関わりなく意味をもつということは、どこにも見られず、どこにも論証されていないのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないのじゃ。
 何故なら、儀軌の対象は行為だからなのじゃ。
 ウパニシャッドの諸聖典句は、祭式の行為を命ずる儀軌に従属するものというのじゃ。

 ウパニシャッドの諸聖典句は、自らの聖典句の中に説がている念想等の行為のためのものなのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないというのじゃ。

649避難民のマジレスさん:2022/10/20(木) 00:14:28 ID:ezP1.vB.0
1.1.反対主張の趣旨説明 p356-358 180左/229

  [答論者の解説][前スートラでは、第二の解釈として]、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると、ただ単に主張されていただけであった。そこでこのスートラでは、[そのことを]説明すべきであるというので、註作者は、スートラが言外に暗示している反対主張を[次のように]提示するのである。しかしどうして云々と。 [ここで]どうしてというのは反対主張の意味である。
  [反対主張]ブラフマンは、本性上、清浄で、悟っており、無関心な存在なので、無視すぺきなのである。というのは、(1)[このような]すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的(祭式行為)を説くものではない[ので]、 無目的(無意味)であることになるし、(2)さらに、すでに存在するものを対象としているため、[諸ウパニシャッドは]直接知覚等と対象が同一であることになり、その ため世間一般の文章と同じように、それ(直接知覚等)の対象に再び言及(anuvāda) していることになり、認識根拠ではないことになってしまう499、という誤謬に陥るか らである。実に世間一般の文章は、[自ら]以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのである。諸ウパニシャッドもそれと同じである。従って、それ(諸ウパニシャッド)の場合には、認識根拠であるという性質一[それは自ら以外の認識根拠に]基づかないということを特徴とする一が損なわれるのである。
  しかし一方、それら(諸ウパニシャツド)が認識根拠ではないというのも正しくない。また、無目的(無意味)なものである[というのも正しくない]。というのは、[諸ウパニシャッドには]ヴェーダの学習[を命ずる]儀軌によって明らかにされた目的 (意味)があることは、決まっているからである500。従って、[諸ウパニシャッドは]、あれこれの命じられた祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為(祭式)に役立つのである。しかしもし、「[ウパニシャッド は、儀軌を説く祭事部の]近くに位置していないから、それ(儀軌の命ずる祭式に必要 な執行者や神格等を明らかにすること)を目的とするとは認められない」とするなら、その場合には、諸ウパニシャッドは、近くに位置する念想等の行為のためのものであろう501。
  このように実に、[諸ウパニシャッドは]、直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、かつ[他の認識根拠に]基づかないので、認識根拠でありかつ目的 (意味)のあるものである、と確定されるのである。以上が[反対主張の]趣旨なので ある。
  [答論者の解説]ところで、[『註解』本文中で]偉大な聖者(ジャイミニ)のスートラを引用しているのは、反対主張を補強するため[であって、その説を採用しているからではないの]である。[『註解』本文中の]無意味であるとは、無目的であるというこ とである。すなわち、再言及なので、[自ら以外の認識根拠に]基づいているから、正 しい認識を生じないという意味なのである。また、というのは云々からいずれかであ ろうまでは、要約の文章である。そして、というのは云々から論証されていないのであ るまでは、これ(要約の文章)を説明している箇所なのである。

脚注
499認識根拠とは、「まだ理解されていないものを理解させるもの」だとされる。また、これまで他の認識根拠(他のウェーダの文章)によって理解されていないものがはじめてその認識根拠によって命じられる場合に対して、すでに他の認識根拠によって理解されたものが再度言及される場合をいう。さらに、諸ウパニシャッドと直接知覚の場合にも、これと同原則に従えば、諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、直接知覚という他の認識根拠によってすでに理解されているわけであるから、諸ウパニシャッドは認識根拠はないことになってしまうのである。
500ヴェーダの学習を命ずる儀軌とは、「ヴェーダを学習すべし」であるが、ミーマンサー学派はヴェーダの中には無意味なことはなに一つ述べられていないという前提に立つので、このような儀軌が存在する以上、ヴェーダの学習は必ずなにか有益な結果(たとえば、天界という果報を最終的にもたらす目に見えない結果、あるいはヴェーダの意味の理解という目に見える結果)をもたらすとされるのである。
501ヴェーダはヴェーダンタ側から言えば、祭式を主題とする祭事部(プラーフマナ)とブラフマンの知識を主題とす知識部(ウパニシャッド)に分かれるとされるが、ここで反対主張者は、両者の主題が 異なることを認めた上で、ウパニシャッドの主題はブラフマンの知識ではなくて念想であるとしているの である。
(´・(ェ)・`)つ

650鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/21(金) 00:02:31 ID:Oe9PRgP20
 反対意見の解説だというのじゃ。
 前のスートラでは聖典がブラフマンを知る認識根拠であると、ただ単に主張されていただけなのじゃ。
 このスートラではそれを説明するために反対意見を載せるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 すでに存在するものについて述 べている諸ウパニシャッドは、人間の目的である祭式行為を説くものではないから無目的、無意味になるというのじゃ。
 そしてれはすでに存在するものを対象としているため、諸ウパニシャッドは直接知覚等と対象が同一であることになるのじゃ。
 そうであるから世間一般の文章と同じように、直接知覚等の対象に再言及していることになり、認識根拠ではないことになってしまうというのじゃ。

 世間一般の文章は、自ら以外の認識根拠の対象である事物を伝えるものなので、自立した認識根拠ではないのじゃ。
 諸ウパニシャッドもそれと同じなのじゃ。
 諸ウパニシャッドの場合には、認識根拠であるという性質が損なわれるからなのじゃ。

 しかし諸ウパニシャツドが認識根拠ではないというのも正しくないのじゃ。
 諸ウパニシャッドにはヴェーダの学習を命ずる儀軌によって明らかにされた目的、意味があるのじゃ。
 諸ウパニシャッドは祭式に必要な執行者や神格などを明らかにすることを目的とするという形でのみ、行為である祭式に役立つのじゃ。
 ウパニシャッドは直接知覚等によっては理解されないものを対象としており、他の認識根拠に基づかないので、認識根拠でありかつ目的 、意味のあるものとなるのじゃ。

 解説なのじゃ。
 本文中でジャイミニのスートラを引用しているのは、反対主張を補強するためで、その説を採用したのではないのじゃ。
 無意味であるとは、無目的であるということなのじゃ。
 再言及なので自ら以外の認識根拠に基づいているから、正しい認識を生じないという意味だというのじゃ。

651避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:38:21 ID:470jMM2s0
1.1.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものである  p358-360 181左/229

   [反対主張に対する反論]諸ウパニシャッドは、行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているのであろう。そしてこのような意味で、「だが、[これらの聖典句は]儀軌と同一の文章を構成するから云々」502という[ミーマー ンサー学派の]定説[を述べている]スートラが重んじられるべきなのである。すなわち儀軌とは、まだ開始されていない活動を引き起させるだけのものではないのである503。何故なら、根本儀軌(utpattividhi)504の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあり、諸ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについ て教えている[ので]、そのような(根本儀軌という)性質があるからである。
  [反対主張]だから[以上のような反論に対して、『註解』本文では次のように]答えているのである。また[儀軌が]すでに存在する[事物の本性に関わることはありえ] ないと。実に、「すべての儀軌は、まだ存在していないものであってかつこれから生じようとしているもののみを対象としている」と認めるべきである。というのは、(1)資格儀軌(adhikāravidhi)、関係儀軌(viniyogavidhi)、執行儀軌(prayogavidhi)、根本儀軌は、相互に不可分に結びついており505、(2)それら(四種の儀軌)は、すでに存在するものに対しては[作用し]えないからである506。ただし、それら(四種の儀軌)の文章の目的は、それぞれ異なっているのである。たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という聖典句(儀軌)には、根本儀軌の意味しかない。何故なら、資格、関係、執行に関しては、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」等[の儀軌]によってすでに理解されそいるからである。だが、この(「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌の)場合でも、執行等が存在しないわけでは ない。[それらは]存在していても、別の[儀軌]から理解されるので、 [ここではこの儀軌によって]意図されていないにすきないのである。従って、志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することは]ありえないのである507。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は『註解』本文中で]、従って、[ウパニ シャッドの諸聖典句は、祭式に必要な執行者の性質や神格等を明らかにするという形で]云々と[述べているのである]。

1.1.2.ウパニシャッドは念想等のためのものである p360-361 182/229

  ここで[以上のように、反対主張に対する反論に]満足できない理由を述べたのち、[反対主張者は]またたとえ云々と別の見解を紹介しているのである。すなわち、『註解』本文に述べられている通りだとすると、聖典は先に述べたような性質のあるブラフマン(すなわち、すでに存在する事物としてのブラフマン)[について教えること]を意図していないことになるので、これ(ブラフマン)の性質が、[念想を命ずる儀軌に従属している聖典とは]異なる認識根拠(すなわち「汝はそれなり」等の個人存在とブラフマンとの同一性を明らかにする聖典句)によって確立されることになろうが、[ブラフマンの性質は]、その(念想に従属する)聖典と矛盾しないのである508。というのは、それ(「汝はそれなり」等の聖典句)は念想のためのものであり、また、念想は附 託によっても可能だからである509。[そして以上の議論を]結論づけて、[反対主張者は、『註解』本文中で]従って、[聖典はブラフマンを知る典拠ではないのである]と [言っているのである]。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

652避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 00:39:06 ID:470jMM2s0
(つづき) p358-359
脚注
502 脚注496参照のこと。
503儀軌とは、「ヴェーダのなかで、まだ知られていない好ましい事柄を教える部分のこと」で、たとえば、「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」という儀軌の場合には、この儀軌は、天界という有意義な結果をもたらす護摩一それはこの儀軌以外の認識根拠によっては知られない一を行うこと を命じているのである。この儀軌には、まだ開始されていない活動を引き(起)こさせるという側面(たとえは、アグニホートラ祭という活動を引き起こす)と、儀軌を聞く以前には(ま)だ知らていないことを教えるという側面(たとえば、天界を望む者がアグニホートラ祭を行うぺべきであることは、この儀軌を聞く以前には知られていない)とがある。
504儀軌は、根本儀軌、関係儀軌、資格儀軌、執行儀軌の四種に分類される。そのうち、根本儀軌とは、「祭式そのもののみを教える儀軌」のことで、たとえば、「アグニホートラ祭を行う[べきである]」という儀軌がそうである。ここで、反論者の立場にたてば、この儀軌はアグニホートラ祭というまだ知られていない祭式そのものについて教えているにすきないということになるが、ミーマーンサー学派に言わせれば、この儀軌は、 「アグニホートラという護摩によって望ましきものを生じさせるべきである」ということを意味しており、やはりまだ開始されていない活動を引きこすものでもあるとされるのである。
505 関係儀軌とは、「従属するものと主要なものとの関係を教える儀軌」のことで、たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う[ぺきである]」という儀軌がそうである。すなわち、この場合、この儀軌は、「ヨー グルトという手段によって護摩という目的を実現せよ」という意味で、ヨーグルトが護摩に対して従属関係にあることを示しているのである。また、資格儀軌とは、「祭式から生ずる果報の所有者を教える儀軌」、 すなわち、祭式執行の結果得られる果報を誰が享受するかということを教える儀軌のことである。たとえば、天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである、という儀軌がそうである。この場合、天界を望む者がアグニホートラ祭執行の結果得られる天界という果報を享受することができるわけであるが、その果報を享受できるということは当然、アグニホートラ祭を行うことのできる諸資格も備えているということになるのである。また、執行儀軌とは、執行の迅速なることを教える儀軌のことで、これは、祭式そのものについて命じている儀軌(たとえば、アグニホートラ祭を行う[べきである]等の根本儀軌) と祭式に付随している事柄について命じている儀軌(たとえば、「ヨーグルトによって護摩を行う」等の 関係儀軌)が一組になったものである。すなわち、この執行儀軌によって主要な祭式とそれに従属する祭 式とが一つの全体の祭式を構していることが理解され、それらの祭式が一定の手順で迅速に行われるぺきことが理解されるのである。なお、これらの儀軌が祭式を執行するために相互に不可分に結び付いていることについては説明を要しないであろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

653避難民のマジレスさん:2022/10/21(金) 11:56:40 ID:VL1lr7pc0
(つづき)  
脚注   p359-361
506 諸ウパニシャッドの説くすでに存在するものは、活動ではないから.「まだ開始されていない活動を引き起こす。儀軌の対象でないのは言うまでもない。さらに、すでに存在するものは直接知覚等によってすでに知られているわけだから、まだ知られていないものについて教えている、儀軌の対象でもないのである。従って、儀軌はとんなものであれ、すでに存在するものに対して作用することは、ないのである。
507 志向とは、「生み出すものに存在するある種の働きで、生み出されるものが生ずることを促すもの」であり、これには依言志向と依果志向の二種がある。たとえば、先の「天界を望む者はアグニホートラ祭を行うべきである」を例にとれば、このヴェーダの文章を聞いてから天界を獲得するまでには、次の二つの段階がある。すなわち、(1)このヴェーダの文章を聞いてから、アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に生ずるまでの段階と、(2)アグニホートラ祭を行おうという心の動きが天界を望む者に 生じてから、その人が天界を獲得するまでの段階である。このうちまず、第一段階では、「天界を望む者は云々」というヴェーダの文章が「生み出(す)もの」であり、天界を望む者にアグニホートラ祭を行わせようと するこの文章の意図が「志向」(依言志向)であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心 の動きが「生み出されたもの」である。そして第二段階では、天界を望む者が「生み出すもの」であり、アグニホートラ祭を行おうという天界を望む者の心の働きが「志向」(依果志向)であり、天界を望む者 が天界を獲得すことが「生み出されたもの」である。要するに、志向とは、活動を起こさせようという意志あるいは活動しようという意志のことで、そのうち、人に何かをさせようとする意志が依言志向(言葉 によって表された志向)であり、自ら何かをしようという意志が依果志向(結果をもたらす志向)なのである。そして、これらはそれぞれ、動詞の接尾辞「•••すべきである」の願(望)法の語尾としての部分と、動詞の語尾としての部分によって表される。従って、すべての儀軌は、動詞の語形としては願望法が用いらていない場合もあるにせよ、実際にはこのような二種の志向を表しているので、活動を命じていることになる。そのため、儀軌が(です→すで)に存在する事物に対して作用することはないのである。
508
509これは、「お前の見解によれば、個人存在とブラフマンは同一ではないのに、どうしてお前にそれらの同一性に関する念想が存在しうるのか」という反論に対する反対主張者の答えだとされている。
(´・(ェ)・`)つ

654鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 00:07:44 ID:FL7XR5dU0
答えたのじゃ。 
 諸ウパニシャッドは行為には役立たないが、ブラフマンの本性を教示する儀軌を専ら説いているというのじゃ。
 根本儀軌の目的はまだ知られていないものについて教えるところにあるのじゃ。
 ウパニシャッドは、まだ知られていないブラフマンについて教えているから根本儀軌の性質があるというのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 儀軌がすでに存在する事物の本性に関わることはありえないというのじゃ。
 すべての儀軌は、まだ存在していないものでこれから生じようとしているものだけを対象としていると認めるべきなのじゃ。
 すべての儀軌は相互に不可分に結びついており、すでに存在するものに対しては作用しえないからなのじゃ。
 志向を対象とする儀軌が、すでに存在する事物に対して[作用することはありえないのじゃ。

 さらに本文に述べられている通りだとすると、聖典はブラフマンについて教えることを意図していないことになるのじゃ。
 ブラフマンの性質が聖典句によって確立されることになるのじゃ。
 ブラフマンの性質は、念想に従属する聖典と矛盾しないのじゃ。
 「汝はそれなり」等の聖典句は念想のためのものと看做すことができるのじゃ。
 念想は附託によっても可能であるのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを知る典拠ではないと言っているのじゃ。

655避難民のマジレスさん:2022/10/22(土) 00:47:27 ID:wXxa30NA0
2.聖典がブラフマンを知る典拠であるという答論 182右

2.1.ウパニシャッドは祭式に必要なものを明らかにするためのものはない。 p361-363

  以上のような反対主張に対して、[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えている。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されること)は[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]一致しているからであ る(tat tu samanvayāt.BS I.1.4)。

  [答論]「だが」(tu)という語は反対主張を退けるためのものである。 [そして]「それ」とは、すなわち、全知全能で、世界の生起・維持・帰滅の原因 であるブラフマンは、ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるということである。何故か。一致しているからである(samanvayāt) 510すなわち、あらゆるウパニシャッド中において、諸聖典句は、この事物(ブラ フマン)を教示するという点でその意図が一致しているからである。たとえ ば、「愛児よ、太初にはこの[世界]は有のみであった。唯一にして無二であったのだ」511「実に太初には、この[世界]は唯一のアートマンのみであった」 512「まさにこのブラフマンには、前もなく、後もなく、内もなく、外もない。このアートマンがすべてを知るブラフマンなのである」513「前方にあるこの[すべて]は、不死なるブラフマンである」514等の[諸聖典句]が[そうである]。これら[の諸聖典句]に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると確定され、[諸語の意味が]一致していることが理解されている時に、それ以外の意味を想定することは正しくない。何故なら、聖典に述べられていることを捨てて聖典に述べられていないことを想定する、という誤謬に陥るからである。また、それら[の聖典句]が、専ら[祭式の]執行者の性質を明ら かにしているとは決まっていない。何故なら、「[すべてがアートマンのみとなったとき]、そのとき何によって何を見るべきなのか」515等の、行為、行為主体、[行為の]果報を否定する聖典句があるからである。

  [答論][師シャンカラは]、スートラによって[次のように]定説を述べているので ある。以上のような反対主張に対して[『ブラフマ・スートラ』は次のように]答えて いる。

  だが、それ(ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されることは)[何故か]。何故なら、[ウパニシャッドの諸聖典句はブラフマンを教示するという点でその意図が]ー致しているからである。

脚注
510
511ここで言う「有」とはシャンカラ註によればブラフマンのことである。
512ここで言う「アートマン」とは、シャンカラ註によれば、ブラフマンのことである。
513 514
515当然のことだが、行為、行為者、行為の果報が否定されれば、祭式は成り立たない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

656鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/22(土) 23:24:48 ID:uReM1n8M0

 答えたのじゃ。
 実は聖典は祭式に必要なものを明らかにするためのものではないというのじゃ。
 全てのウパニシャッドはブラフマンを教えるためのものだったのじゃ。
 ブラフマンはウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるというのじゃ。

 諸聖典句に含まれている諸語の対象が、ブラフマンであると一致しているという理解がされるべきだというのじゃ。

657避難民のマジレスさん:2022/10/23(日) 06:45:59 ID:4uL.bxCk0
(つづき) p362-363
 
  [そして]これ(スートラ)を説明して、「しかし」という語は云々と[言っているの である]。[そしてさらに、スートラ中の]「それ」という[語で表されている]定説の主張を詳しく説明して、「それ」とはブラフマン云々と[言っているのである]。[それに対して]、頭のかたい反対主張者が、何故かと尋ねる。[何故かとは]どのようにしてと いう意味である。[そこで]答論者は、自己の見解に対する根拠を、一致しているからであると[これまでとは]別の形で述べているのである。[ここで]一致(samanvaya)とは、[諸語の意味が]正しく相互に繋がっていることで、それ故に、[ブラフマンは ウパニシャッドという聖典によってのみ理解されるのである]。まさにこのことを詳しく説明して、すなわちあらゆるウパニシャッド中において云々と[言っているのである]。[そして]、ウパニシャッドの諸聖典句が専らブラフマンを説いていることを説明 するために、[次のように]多くの聖典句が引用されている。「[愛児よ、太初にはこの 世界は]有のみで[あった]」等々と。ただし、「実にそれからこれらの諸存在が[生じたのである]」という聖典句は、以前にすでに引用されており、[ブラフマンが]世界の生起・維持・帰滅の原因であると[述べていた]516と、ここで思い出されるので、引 用してないのである。
 実に、聖典句がXで始まり、Xで終わっていれば、そのXが聖典句の意味である、というのが聖典に詳しい人々[の見解]なのである。たとえば、ウパームシュ祭に関する聖典句の場合、連続して[捧げる]二つの祭餅に関して、[連続して捧げるのが]途切 れるという欠陥について述べたのちに、ウパームシュ祭[を命ずる]儀軌があり、[最後に]それ(途切れるという欠陥)を避けることで結論づけられている517。この場合、 [これらの三種の文章は]、同一の文章(章句)を構成しているので、新規の(これまで 命じられていない)ウパームシュ祭についての儀軌を専ら説いてのだと認られる。同じようにここ(ウパニシャッド)でも、「愛児よ、この[世界]は有のみ云々」とブラフマン[についての記述]で始まり、「汝はそれなり」という形で個人存在のアートマ ンはブラフマンであると結論づけられているから、[この全体の]聖典句(章句)は、 まさにそれ(ブラフマン)を専ら説いているのである。同じように他の聖典句の場合 も、[文章の]前後関係を考えることによって、ブラフマンを専ら説いていると理解されるのである。また、[以上のような方法で]それ(ブラフマン)を専ら説くという目に見える形のものが可能なのに、それ以外のものを専ら説くという目に見えないものを想定するのは正しくない。何故なら、拡大適用という誤謬に陥るからである。さら に、それら(ウパニシャッドの諸聖典句)が専ら[祭式の]執行者[の性質を明らかにしている]ということは、ただ単に見られないだけではなくて、論証されてもいないのである。だから[師シャンカラは、このことを]、それら[の聖典句]が、[祭式の執行 者の性質を明らかにするとは決まって]いない云々と言っているのである。

脚注
516本訳344頁参照。
517ダルジャプールナマーサ祭において、二つの祭餅を火に捧げる際、連続して二つの祭餅を捧げるという行為が途切れるのは良くないとされている。 そのため、この文章に続いて、途切れ(た)ときにはあいだにウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている。そしてその後にさらに、途切れるという欠陥を避けるために、ヴィシュヌ等の三神にたいしてウパームシュ祭を行うべきことが述べられている。そしてこれら三種の文章は、同一の文章を構成しているので、この章句はウパームシュ祭を主題としていることが分かる。さて次に問題となるのが、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌」いう文章が新規の儀軌なのか、それとも、三つの文章が新規の儀軌なのかということがで あるが、同一の文章において二つ以上の新規のことが命じれることはないという原則があるので、ヴィシュヌ等の三神に対してそれぞれウパームシュ祭を行うことを命じている三つの文章は儀軌ではあ りえない。従って、「ウパームシュ祭を命ずる儀軌が述べられている」という文章が儀軌であり、他の三つの文章は釈義であることになるのである。
(´・(ェ)・`)つ

658鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/24(月) 00:09:01 ID:1TTaSWHA0
 聖典の主題が複数の文章に渡っていても、同一とみなされるというのじゃ。
 そうであるから聖典はブラフマンを専らに説いているというのじゃ。
 
 他の聖典句でも文章の前後を考えれば、専らにアートマンを説いているといえるのじゃ。
 それらは目に見える形で証明できるのに、他の目に見えないものを説いているというのは正しくないのじゃ。
 それは拡大適用になるからなのじゃ。

 ウパニシャッドの聖典句が祭式の執行者の性質を明らかにするということは、見られず、論証もされていないのじゃ。
 そうであるからシャンカラはそれらの聖典句が、祭式の執行者の性質を明らかにするとは決まっていないといっているのじゃ。

659避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 02:10:42 ID:ue1aVzjQ0
2.2.先の様々な反対主張を退ける p364-365 184左/229

  さらにブラフマンは、本性上すでに存在している事物ではあっても、直接知覚等の対象ではない。というのは、ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ、理解されないからである518。ところで、[先に反対主張者が次のように主張していたが]、
   [反対主張][ウパニシャッドには行為の]取捨についての指示が含まれていないので、[その]教えは無意味である519。
   [答論]それは[われわれの]理論的欠陥ではない。何故なら、取捨[という行為]とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的(解脱)が達成されるからである。
  確かに、[ウパニシャッド中で]神格等について説いているのが、自己の聖典句中の(すなわち、同じウパニシャッドに説かれている)念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はない。だが、ブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのである。というのは、[ブラフマンが]唯一[の存在]である[と知られた]時には、[ブラフマンは本来]取捨[という行為]と無縁な存在なので、[行為の前提となる]行為・行為主体等の二元[性に基づく]認識が破壊されてしまうことになるからである。さらに、もし[これらの二元性に基づく認識がその後再ぴ生ずるのだとすれ]ぱ、 ブラフマンが念想を命ずる儀軌に従属することもありえようが、二元[性に基づく]認識は、[ブラフマンが]唯一[の存在]であるという認識によって [いったん]破壊されれば、二度と再び生ずることはないのである520
  またたとえ、[ウパニシャッド]以外の箇所では521、ヴェーダの諸聖典句が 儀軌と無関係に認識根拠となるということが経験されないにしても、アートマンの認識は、[解脱という]果報をもって終わるので、それ(アートマンの認識)を主題とする聖典(ウパニシャッド)が認識根拠であることは、否定す ることができないのである。また、もし[聖典がブラフマンを知る認識根拠であることが推論から理解されるとすれ]ぱ、[ウパニシャッドという聖典]以 外のところで経験された例証が必要であろうが、聖典が[ブラフマンを知る] 認識根拠であることは、推論から理解されるようなものではない522。従って、聖典がブラフマン[を知る]認識根拠であると確定されるのである。

脚注
518「汝はそれなり」という聖典句は、「汝」の指示するアートマン と「それ」の指示するブラフマンとの同一性を教える聖典の偉大な文章(大文章)として、不二一元論学派で極めて重要視されており、何故ブラフマンとアートマンとの同一性を示している文章だと解釈しうるのかという点に関して様々な解釈が行われている。
519 本訳355頁参照。
520 念想は行為の一種であり、念想という行為、念想する人(行為者)、念想の対象(行為の対象)等の区別が存在するという認識を前提としているので、ブラフマンが唯一の存在であるという認識とは相入れないのである。
521 祭事部における釈義等の箇所のことである。
522この点に関しては372頁参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

くま質問
4つ目の段落(確かに〜)の『自己の聖典句』とは、アートマン、ブラフマンの絶縁句という意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

660避難民のマジレスさん:2022/10/24(月) 06:39:45 ID:A3rMH/8Y0
>>659
訂正
くま質問•••
絶縁句→聖典句

(´・(ェ)・`)b

661鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 00:32:33 ID:8525DWIM0
 さらにブラフマンはすでに存在しているが、直接知覚の対象ではないというのじゃ。
 ブラフマンがアートマンであることは、「汝はそれなり」という聖典句がなければ理解されないからというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドには行為の取捨についての指示が含まれていないので、その教えは無意味というのじゃ。

 答えたのじゃ。
 取捨とは無縁なブラフマンがアートマンなのである、と悟ることによっ てのみ、あらゆる苦悩が滅せられて、人間の目的である解脱が達成されるというのじゃ。
 
 ウパニシャッド中で神格等について説いているのが、自己の聖典句中の念想のためであっ たとしても、なんら矛盾はないのじゃ。
 しかしブラフマンも同じように念想を命ずる儀軌に従属する、ということはありえないのじゃ。
 ブラフマンが唯一の存在であると知られた時には、それは取捨と無縁な存在なので、行為と行為主体等の二元性に基づく認識が破壊されてしまうからなのじゃ。
 それが元に戻ることもないのじゃ。
 
 ヴェーダの諸聖典句が儀軌と無関係に認識根拠とならくとも、アートマンの認識は解脱という果報をもって終わるから、それを主題とする聖典が認識根拠となるのじゃ。
 そうであるから聖典がブラフマンの認識根拠であると確定されのじゃ。

662避難民のマジレスさん:2022/10/25(火) 07:46:43 ID:ESRIuovU0
2.2.1.ウパニシャッドはすでに存在するものを対象としていても正しい認識根拠である P365-366 184右/229

  [ウパニシャッドは自ら以外の認識根拠に]基づいているから認識根拠ではない、という反対主張の論拠を、[師シャンカラは、次のように]批判しているのである。[さてブラフマンは]、本性上すでに存在している事物ではあっても云々と。その意図は以下の通りである。
  実に、[あなた反対主張者は]、普通の人間の文章を例として、「ウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、[直接知覚等の自己以外の認識根拠に]基づくのではないか」と疑っているのであろう。もしそうなら、ここであなたにお尋ねしよう。お答えいただきたい。人間の文章が[文章以外の認識根拠に]基づくのは、はたしてそれが、すでに存在するものを対象としているからであろうか、それとも、[それが]人間のものだからなのであろうか。もしすでに存在するものを対象としているからであるとすると、その場合には、直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから523、認識根拠ではないということになってしまうであろう。というのは、 それら(直接知覚等)もすでに存在するものを対象としているからである。一方、人間 の文章は、人間の統覚機能から生ずるから、[自己以外のものに]基づいているのだと すると、この場合には、それ(人問の統覚機能)を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は524、一定の感覚器官や徴標(lińga)から生ずる直接知覚等と同じように525、 たとえすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになろう。
   [反対主張]実に、ウパニシャッドの諸聖典句は、人間の手になるものではないと確定していれば、[自ら以外の認識根拠に]基づくことはないので、認識根拠であると確定されよう。ところが、[ウパニシャッドが]すでに存在するものを対象としているために、そのこと(ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ)自体が確定していないのである。というのは、(1)すでに存在する対象に関して、人は、聖典に基づかなくても、[聖典]以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なので、 [人問の]統覚機能に基づいて[その対象に関する文章を]作ることが成り立つからであり、(2)また、文章であること等を理由として、[ウパニシャッドをも含む]ヴェー ダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく、成立するからである526。従って、[ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に]基づくということが避けられないのは、[それが]人問の手になるものであるという理由によるのであって、すでに存在するものを対象としているからではないのである。

脚注
523「直接知覚等」の「等」は推論のことを意味している。直接知覚はもちろん推論もすでに存在するものを対象としているわけであるが(たとえば、これまで火というものをどこかで見たことがなけれ ば、煙を見ても山に火があるとは推論できない)、推論は徴標が直接知覚されていなければ成り立たないという意味で直接知覚に基づいており、直接知覚はあいまいな場合には推論によって確認されるといつう意味で推論に基づいている。このように両者は互いに依存し合っているから、もしすでに存在するものを対象とするウパニシャッドの諸聖典句が直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づいているので正しい認識根拠でないとすると、直接知覚は推論も同じように正しい認識根拠ではないことになってしまう。
524 ミーマーンサー学派とヴェーダーンタ学派の両派にとって、ウパニシャッドを含むヴェーダ聖典は人間の作ったものではないとされている。ただし、ミーマーンサー学派の場合には、ヴェーダは永遠の過去から存在しているとして、人間はもちろん主宰神もその作者だとは認めないが、ヴェーダーンタ学派の場合には、主宰神がその作者だとされている。
525もし、ニヤーヤ学派やウァイシェーシ力学派の主張するように、直接知覚が感覚器官と対象との接触 によって起こる認識であれば、直接知覚は感覚器官と対象が接触することによって自動的に生ずるわけだ から、それが人間の統覚機能に基づかないことは理解できる。だが、推論知の場合に、それが人間の統覚機能に基づかずに徴標から生ずるというのはどういうことかについてはここでは不明である。
526 「ヴェーダの文章は人間の手になるものである。何故なら文章だからである。カーリダーサの文章のように」。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

「自己の」は、聖典句ではなくて、念想にかかっているのでありますね。ありがとうでありました。
(´・(ェ)・`)b

663鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:37:34 ID:5G6CKgYU0
 反対派は普通の人間の文章を例としてウパニシャッドの諸聖典句は、すでに存在するものを対象としているから、直接知覚等の自己以外の認識根拠に基づくのではないかと疑っているのじゃ。
 人間の文章が文章以外の認識根拠に基づくのは、はたしてそれがすでに存在するものを対象としているからか、それともそれが人間のものだからじゃろうか。
 
 もしすでに存在するものを対象としているからならば直接知覚等も、相互に依存し合っているわけだから認識根拠ではないということになるのじゃ。
 直接知覚等もすでに存在するものを対象としているからなのじゃ。

 人間の文章は人間の統覚機能から生ずるから自己以外のものに基づくとすると、人問の統覚機能を前提としないウパニシャッドの諸聖典句は直接知覚等と同じようにすでに存在するものを対象としていても、認識根拠であるということになるのじゃ。

 
 反対なのじゃ。
 ウパニシャッドがすでに存在するものを対象としているために、ウパニシャッドが人間の手になるものではないということ自体が確定していないというのじゃ。
 すでに存在する対象に関して、人は聖典に基づかなくてもそれ以外の認識根拠に基づいて認識することが可能なのじゃ。
 人問の統覚機能に基づいてその対象に関する文章を作ることが成り立つからなのじゃ。
 文章であること等を理由として、ウパニシャッドをも含むヴェーダが人間の手になるものであるを推論することは、なんの障害もなく成立するのじゃ。
 ウパニシャッドがそれ以外の認識根拠に基づくということが避けられないのは、それが人問の手になるものであるという理由によるのじゃ。
 すでに存在するものを対象としているからではないのじゃ。

664鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/10/25(火) 23:38:51 ID:5G6CKgYU0
>>662 どういたしまして、またおいでなさい。


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