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オショーのSadhana Pathを読んで実践する

1避難民のマジレスさん:2020/11/18(水) 21:29:41 ID:Dp/qMVVc0
Sadhana path 修行の道
第1章 ようこそ
私は深い闇に包まれた人間を見ている。彼は暗い夜にランプが消された家のようになっている。彼の中の何かが消えてしまった。しかし消えてしまったランプは再び点火することができる。

私はまた、人間がすべての方向を失っていることが分かる。彼は公海で道を失った船のようになってしまった。彼はどこに行きたいのか、何になりたいのかを忘れてしまった。しかし、忘れられていたことの記憶は、彼の中で再び目覚めさせることができる。

闇はあっても、絶望する理由はない。闇が深ければ深いほど、夜明けは近い。沖合で私は全世界の霊的な再生を見ている。新しい人間が生まれようとしており、私たちはその誕生の苦しみの中にいる。しかし、この再生には私たち一人一人の協力が必要だ。それは、私たちを通して、私たちだけで起こる。私たちはただの見物人でいる余裕はない。私たちは皆、自分自身の中でこの再生の準備をしなければならない。

新しい日が近づいてきて、夜明けを迎えるのは、私たち自身が光で満たされたときだけだ。それは、その可能性を現実に変えるのは私たち次第だ。私たちは皆、明日の建築物のレンガであり、未来の太陽が誕生するための光線なのだ。私たちはただの見物人ではなく、創造者なのだ。しかし、必要なのは未来の創造だけではなく、現在そのものの創造であり、自分自身の創造なのだ。自分自身を創造することによって、人間は人間らしさを創造するのである。個人は社会の構成要素であり、進化も革命も彼を通して起こることができる。あなたはその構成要素だ。

だからこそ、あなたを呼びたい。眠りから目覚めさせたい。あなたの人生が無意味で役に立たない、退屈なものになっているのがわからないだろうか?人生はすべての意味と目的を失っている。
――
これは1964年6月、オショーの初の瞑想キャンプでの講話です。
私が修行の道に入ったのも、何をしても最後には死によって失われてしまうと実感し、せめてその前に真実を知りたいと切望したからでした。
オショーが「記憶は、…目覚めさせることができる」と言っているのは、自我が無いときの記憶という意味なのでしょうか? それとも、何かを象徴していますか?

384鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:49:20 ID:1d4drIFg0
 また次にもしある人がこの論を受持して、観察して修行すること一日か、一夜であったとしても、得る功徳は無量無辺であり、説くこともできないほどなのじゃ。
 たとえ十方の一切の諸仏が各々、無量あそぎ劫もその功徳を賛嘆しても、尽きないほどなのじゃ。
 なぜなのか。
 
 法性の功徳は尽きないからなのじゃ。
 この人の功徳もまた限界がないほどなのじゃ。

 もしある衆生がこの論を誹謗して信じないならば、得る罪報は無量劫も大苦悩をうけるほどなのじゃ。
 そうであるから衆生はこの論を信仰するのじゃ。
 誹謗したりすれば、深く自分を害し又他人をも害して、一切の三宝の種子を断つことになるのじゃ。

 一切の如来は皆、この法によって涅槃を得たのであるから。
 一切の菩薩は、これによって修行して、仏智に入るからなのじゃ。

 まさに知るとよいのじゃ。
 過去の菩薩は既にこの法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 現在の菩薩は今この法によって、浄信を成就することができたのじゃ。
 未来の菩薩はまさにこの法によって、浄信を成就することができるじゃろう。
 衆生はまさに勤めて修行し学ぶとよいのじゃ。

 諸仏の甚だ深く広く大きな法の意味を、我は今、意味の通りに従って記憶して説いたのじゃ。
 この法性の如き功徳を、回向して遍く一切衆生に利益を得させるのじゃ。

385鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/29(金) 23:50:27 ID:1d4drIFg0
>>383 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 つぎはまだないから休むとよいのじゃ。

386鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/04/30(土) 22:07:46 ID:1d4drIFg0

 まとめなのじゃ。

 この論は大乗の教えを総じて説いたものじゃ。
 そうであるから時々二乗が劣っていると、書いてあるが妄想であるから捨てて善いのじゃ。

 この論で重要なのは真如というものが衆生にあると説いたところなのじゃ。
 全ての観念を捨てれば、真如に至れると実践の法も教えているのじゃ。
 それが大事なのじゃ。

 全ての衆生に真如はあるのであるから、自分は悟りを得られないのではないかとか、思わなくて善いのじゃ。
 真如は心の奥底にあり、観念がなければ誰でもたどり着けるのじゃ。

 そして真如は不空であり、大きな功徳があるというのじゃ。
 大抵の大乗の経論等には、空の法を説いているから、全ては空と説くのじゃ。
 しかしこの論では、空とはただ執着や観念を捨てるための方便であるというのじゃ。
 その方便によってたどり着いた、真如は空ではなく、大きな功徳があると言うのじゃ。

 その功徳とは当然ながら悟りの功徳なのじゃ。
 一切の苦から逃れ、永遠の喜びに回帰する大きな功徳なのじゃ。
 それがこの論で最も記憶すべき重要な教えといえるのじゃ。

387避難民のマジレスさん:2022/06/22(水) 23:07:37 ID:dsxzq4TQ0
『パーマティー』和訳

帰敬偶
 1.我々は、[まず]、不死であり、無限の幸福であり、無限の知であるブラフマンに 帰命する。[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない二種の無明に助けられ1、 この主宰者(ブラフマン)は、[現象世界を構成する]虚空と風と火と水と地となって仮現(vivarta)した2。また、こ[のブラフマン]から、現象世界の中の動くものと動 かざるもの3一(それには)種々なものがある一もすべて、生じたのである。
 2.この[ブラフマンの]息がヴェーダであり、眼差しが五元素(虚空・風・火・水・ 地)であり、微笑が動くものと動かざるものであり、眠りが[現象世界の]最終的掃滅である。
 3.[次に]我々は,永遠なるヴェーダとバヴァ神(シヴァ神)に帰命する。[このう ち、ヴェーダには]六種の補助学(ańga)4が付属しており、種々の不変化詞(avyaya) が含まれている。一方、また、[バヴァ神にも]六種の部分(ańga)5と種々の特質 (avyaya)6が備わっている。
 4.[次に]、我々は、マールタンタ神(太陽神)とティラカスヴアーミン神(力一ルッティケーヤ神)7とマハーガナパティ神8に帰命する9。[というのは、これらの神々は]あらゆることをかなえてくれる[ので]、万人の崇敬の的だ[からである]。
 5.[次に、我々は]『ブラフマ・スートラ』の著者ヴェーダ・ヴヤーサ10に帰命する。 [彼は]ハリ神(ヴィシュヌ神)の知的能力の化身であり、[種々な聖典の]創造主(著者)11で[も]ある。
 6.[最後に]我々は、[『ブラフマ・スートラ註解』の著者]シャンカラー[彼は]清らかな知を備え、海のように深い慈悲の心を備えている一に帰命する。そして、師 (シャンカラ)の著した明析かつ深遠な『註解』を[本書『パーマティー』の中で]解 説してゆくつもりである。
 7.我々の言葉は汚れていても、師の著作に触れることで清められるのである。ちょうど、路上の水がガンジス河に流れ込んで清められるように。

脚注
1二種の無明とは、「無始の実体」としての無明と「それぞれ前の誤認より生じた潜在印象」としての無明である。
2仮現とは、不二一元論学派に特有の考え方で、『ブラフマ・スートラ』が現象世界をブラフマンの展開と考え、両者に同等の実在性を認めていたのに対し、シャンカラ以後は現象世界 にブラフマンより低い実在性しか認めないという仮現説に変わってゆき、プラカーシャートマン(890-980 頃)において、いわゆる仮現説が成立した。
3動くものと動かざるものとは個人存在のことである。
4六種の補助学(ańga)とは、祭事学・音韻学・韻律学・天文学・語源学・文法学である。
5六種の部分(ańga)とは、全智者性・充足・無始の悟り・独立性・常に損なわれることのない力・不可思議な力であるなお、 (4)と(5)のańgaは、原文では、これら二種の意味を含 む掛詞となっている。
6種々の特質として、Vedākarupataru、は、次の十種(avyaya)を 挙げている。智・離欲・主宰者・苦行・真実・忍耐 ・堅忍・創造者性・自己覚醒・支配者性。なおこの語も、原文では、不変化詞(avyaya)との掛詞になっている。
7シヴァ神の息子で軍神として名高い神である。
8シヴァ神の息子で象の顔と人間の体を持ち、知恵の神・障害を取り除いてくれる神として崇拝されている。
9Vedāntakalpatruは、典拠として次の文を引用している。「常にア−デイトヤを供養し、スヴァーミンのティラカ(額標)をつけ、マハーガナパティを供養する者は必ず成功を得るだろう」。
10ヴェーダ・ヴヤーサとは、ヴェーダの編者ヴヤーサのことで、彼は、伝説上の聖仙である。『マハーバーラタ』や諸プラーナも、伝説上彼の編纂とされている。
11彼が創造主に比せられるのは、ハリ神の知的能力の化身であることによる。


文中、文末の数字には、脚注が付されているが、くま判断で、本文理解に必須と思われるもの以外は、原文表記は省略した。
(´・(ェ)・`)つ

388避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 07:43:44 ID:buUDcD120
くま質問
脚注の>「無始の実体」としての無明   とは、ブラフマン=全て、に含まれている「無明」という意味でありましょうか?
全てであるから、有も無もなく、従って、本来無い、「無明」、みたいな意味でありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

389鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/23(木) 23:11:08 ID:1d4drIFg0
↑ それは始まりもない昔からある無明という意味じゃな。
  本来実体としては無いものであるが、衆生には実体としてはたらくからそのようにいうのじゃ。
 ただ自分が昔からあるという観念なのじゃ。

390避難民のマジレスさん:2022/06/23(木) 23:52:11 ID:sirSeXnI0
『パーマティー』序論  
1.『註解』冒頭文の趣旨説明
1.1。ブラフマンは考察の対象に価しないという反対主張  p201-202  

  [反対主張]疑問の余地のないものや無意昧なものは、賢者の考察の対象[に価し] ない。[疑問の余地のないものとは]、たとえば、思考器官(manas)と結合した感覚 器官が、明るい光のもとで接触した壷12である。また[無意昧なものとは]、たとえば、 烏の歯である。そして、[もし、ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら]、このブラフマンも、[疑問の余地がなく無意昧なものであると いう点では、壷や烏の歯と]同様である13。従って、[ブラフマンには]、領域を覆うもの(vyāpaka)[である疑問の余地があり意味のあるものであるという性質]14とは相反する[領域に存在する性質、すなわち、疑問の余地がなく無音味なものであるという性質]が認められる。[従って、ブラフマンは考察の対象に価しないのである。]
  詳論すれば以下の通りである。[ウパニシャッドでは、アートマンとブラフマンの同一 性が次のように説かれている]。すなわち、[アートマンだけが]偉大であり(brhatva)、 [身体等を]成長させる[存在]である(brmhatva)。従って、アートマンだけがブラフマンと呼ばれるのである」15と。身体・器官・統覚機能(buddhi)・思考器官16ー [それらは]、「これ」という語(経験)の対象の対象(idamkārāspada)17である一とは異なり、こ[のアートマン]は、「私」という直接経験(aparokusāubhava)一[それは]疑いの余地がなく錯倒することのない[経験]である一によって、虫や蛾から神々や聖仙に至るあらゆる生命体に広く知られている。それ故、[アートマンは]考察の対象[に価し]ない。というのは、この世の中に、「私は存在しているのかいないのか」と疑う者は誰もいないし、「私は存在しない」と錯倒した[考えを抱く]者はいないからである。

脚注
12ニヤーヤ学派の知覚論では、直接知覚は、対象一感覚器官一思考器官一アートマンが結合した時に得られるとされている。この種の結合が存在しかつその時に外界の光が不足していなければ、常に正しい知覚が得られるのである。
13『ブラフマ・スートラ』は、冒頭のスートラⅠ.1.1で、その書の考察の対象がブラフマンであることを述べ、スートラI.1.3では、そのブラフマンが、聖典すなわちウパニシャッドから知られることを述べている。この立場は、ヴェーダーンタ学派の基本的立場であり、『ブラフマ・スートラ註解』も複註『パーマティー』もそれを受けついでいる。ここで反対主張が提示しているのは、この立場に対する疑問である。
14領域を覆うもの(vyāpaka)とか領域を覆われるもの(vyāpya)とは、推論において用いられる概念で、・・・丁寧な脚注がつづくが、長いので省略する。
I5ここでは・Brahmanの語義を/brh(増大する)、/brmh(成長させる)という語源から説明しているのである。
16個人存在は、アートマンとその添性を構成する五種の構成要素よりなる。すなわち、(1)粗大な身体と微細な身体、(2)主要生気、(3)語・手・足’排便器官・生殖器官の五種の行動器官、(4)視覚・聴覚・臭覚・味覚、触覚の五種の感覚器官(5)統覚機能・思考器官という内官からなる。
17「これという語(経験)と訳したidamkāraという語は、私という語(経験)と訳(し)たahamkāraという語と対をなしており、ahamkāraという語か、ahampratyaya(私という観念)やahamanubhava (私という経験)と同義であるということに見られるように、語レベルと観念や経験レベルのものの両者を含み込んだ語である。
(´・(ェ)・`)つ
鬼和尚、いつもありがとうであります。

391鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:15:08 ID:1d4drIFg0

 ↑どういたしまして、またおいでなさい。

392鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/24(金) 23:24:51 ID:1d4drIFg0

 これはバーチャスパティミシュラが書いたバーマティーの主要部分の抜粋なのじゃ。
 シャンカラが書いたブラフマ・スートラの注解をさらに注解したのじゃ。

 最初にブラフマンとアートマンが一つであり、自己を疑うものはいないから、考察するべきではないという反対意見が出されたのじゃ。
 想定問答なのじゃ。

393避難民のマジレスさん:2022/06/24(金) 23:51:41 ID:IwvwqAX.0
つづき    p202-203
  「『私はやせている。私は太っている。私は行く云々』という表現(経験)に見られ るように、私という語は、身体の属性[を表わす語]と同格関係(sāmānyādhikarnya) 18にあるから、その対象が身体である」というのは誤りである。何故なら、[「私」とい う語(経験)の]対象がそれ(身体)であるとすると、「子供の頃、両親[と共に過ご した]経験を持つ同じ私が、老人となって、[今]、孫達[と共に過ごすこと]を楽しんでいる」という再認識(pratisamdhāna)は存在し得ないことになるからである。と いうのは、子供の頃の身体と老人になった時の身体には、再認識の手がかりとなるもの一もし、そ[の手がかり]があれば、[両者の]同一性が確認しうるのだが が、 全く[認められ]ないからである。従って、変化してゆくものの中にあって変わるこ となく存在するものは、それら(変化してゆくもの)とは異なってい。たとえば、花 びら[を繋ぎとめている、花輪の]糸が、それら(花びら)とは異なっているように。 それと同じように、身体は、子供の頃[から老人になるまで]次々と変化していっても、「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく[身体中に]存在している[ので、それは]それら(身体)とは異なっているのである。また、 夢の中で[人問の身体とは]別の神の身体を得て、そ[の神の身体]にふさわしい楽し みを味わい、目が醒めた時、自分の身体が人問のものであるのを見て、「私は神ではなかった。人間だったのだ」と、[夢の中の]神の身体を拒斥することがある、[その時]でも、「私」という語(経験)の対象は拒斥されない。[このことからも、「私」という
語(経験)の対象が]身体と異なることは明らかである。また、[聖者は]、ヨーガの力で虎となり、[人問の身体と]別の身体[を得て]も、アートマンに変わりがないことを体験している。それ故、「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。この[「私」という語(経験)の]対象が、器官ではないのも、同じ理由による。というの は、「私は、[以前、視覚を通して物を]見ていた。その同じ私が、今、[触覚を通して物に]触れている」という[経験に見られるように]、「私」という[語(経験)の]対象は、[用いられる]器官が異なっても、再認識されているからである。一方、こ[の 「私」という語(経験)の対象]が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、[「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というの は]、統覚機能や思考器官19は、[行為する時に用いられる]手段[であるから]、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現[に用いられる「私」という語]の対 象ではありえないからである。従って、[「私」という語(経験)の対象が身体等と]同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、「ベッドが叫んでいる」など[の表現]と同じように、ある種の比喩的用法(aupacārikā)だと[考えるの が]正しいのだ、と我々は思っているのである。

脚注
18 同格関係は、語レベルでは、複数の語の示す対象が同一であることを示し、存 在レベルでは、複数の属性が同じ基体に存在することを示す語である。
ここでは前者の意味で、「私」という語は「太っている」という語と同格関係にあり、「太っている」とい う語の示す対象は身体であるから、「私」という語の対象も身体ということになる。
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

394鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/25(土) 22:53:08 ID:1d4drIFg0

 ここでは私という主体が肉体ではないと説かれるのじゃ。
 さらに意思決定のための器官や思考のため器官も私ではないと説かれるのじゃ。
 それらは主体によって用いられる手段に過ぎないからというのじゃ。
 言葉によって私が行為するとか、決定するとか、思考するというのは比喩として用いられるだけなのじゃ。

395避難民のマジレスさん:2022/06/25(土) 23:25:00 ID:GCyNwt.I0
つづき   p203-204
  それ故、全く自明な「私」という経験(anubhava)によって理解されるアートマンは、 「これ」という語(経験)の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。このことが、[まず、これまでの論議により]確認された。
  [また、アートマンが、考察の対象に価いしない第二の理由は、それが]無意味なものだからである。詳論すれば以下の通りである。この[アートマンの考察]に関して、 [ヴェーダーンタ側が]主張しようとしている[考察の]意味(目的 prayojana)は、 輪廻の止滅(samsāranivrtti)すなわち解脱(apavarga)である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに[人々が]開眼(anubhava)しないところにある。 [従って]ありのままのアートマンが知られれば、[輪廻は]止滅するはずである。[これがヴェーダーンタ側の主張であろう]。しかし、この[輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識(ātmayāthātmyajñāna)もまた無始である。[従って、 これらはたえず]共存している。[それ故、ありのままのアートマンが知られたところで]、どうしてこ[の輪廻]が止減したりしようか。というのは、[これらは]相反する ものではないからである。また、[人々が]ありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という万人に自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。[従って]ウパニシヤッドが千[集まって]も、[このアートマンを]別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、[「私」という自明の]経験と反するからである。実に、聖典は、千[集まって]も、壷を布に変えるこ とはできないのである。それ故、[「私」という自明の]経験と反するから、[アートマンとブラフマンの同一性を説く]ウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と[理解するのが]正しい。[これが]我々の考えである。
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/26(日) 22:46:26 ID:1d4drIFg0

 以上のような手段によらない直接経験の主体は、疑問の余地もないものであるから考察に値しないというのじゃ。
 
 さらに二つ目の理由が語られるのじゃ。
 それは無意味であるからというのじゃ。
  
 アートマンの知識とは輪廻があるかぎり存在するものであるというのじゃ。
 その知識によって輪廻がとまるわけではないからというのじゃ。
 
 私という直接経験が得られればアートマンに開眼するというのじゃ。

 そして知識によってアートマンがブラフマンに変化するものできないというのじゃ。
 その知識は比喩でしかないから無意味というのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2022/06/26(日) 23:28:57 ID:D5cVyf3c0
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 204-206 104左/229

  「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象で ある客観は、光と闇のように本性が相反しており、[主・客が]互いに入れ換 わること(itaretarabhāva)は起りえない。[この事実は]広く認められているので、そ(主観と客観)の諸属性に関しても、互いに入れ換わることはなおさら起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤り(mithyā)であると[理解するのが]正しい。[にもかかわらず・・・・]

  [反対主張者が]このような(先に紹介したような)考えを抱いて[まず]疑問を提示し、[それに対し、師シャンカラが答えているのが]「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]は[云々の箇所]である。このうち、「私」という観念の対象[である主観]と「汝」という観念の対象[である客観]はから誤りであると[理解するの]が正しいまでが、[反対主張者の]疑問の箇所であり、にもかかわらず以下が、[それに対する]答えの個所である。この[答えの箇所には]にもかかわらず(tathā api)と述べられているので、疑問の個所に、たとえ...であっても(yady api)[という語]を[補って]読むべきである。[この箇所は]「私」という観念の対象[である主観]と「これ」という観念の対象[である客観]は、と言うぺきところであるが、[ここで]「汝」[という語]が用いられているのは、[主・客が]完全に異なることを暗示するためである。その典拠は、「『汝』という語は、『私』と いう語と相入れない(pratiyogin)。しかし、『これ』という語はそうではない。何故なら、『これが(ete)私達である。この(ime)私達が座っている』という用法が、よく 見られるからである」と[いう章句にある]。主観(visayin)とは、純粋精神を本質と するアートマンのことであり、客観(visaya)とは、物質を本質とする統覚機能・器 官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)[が対象と呼ばれるの]は、 純粋精神であるアートマンを対象化する(visinvanti)22するからである。[すなわち、 アートマンを]束縛したり、[形態のないアートマンを]自己の形態で規定したりなどするからである。[このように主・客の]本質が完全に相反するところに、相互附託の 起りえない理由があり、[その]例として、光と闇のようにと[述べられているのである]。というのは、光と闇のように明らかに異なる存在(samudācaradvrttinī)23か互 いに[相手の]本質を共有しあっていると考えることは、決して誰にもできないから である。[このことが本文中では、主・客が]互いに入れ換わることが起りえないと述べられているのである。[主・客が]互いに入れ換わるとは・[主・客が]互いに[相手の]性質を有すること(itaretaratva)・[主・客の]同一性(tādātmya)等[の意味]である。[そして]それ(互いに入れ換わること)が起りえない時にというのが、[文の脈略である]。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通 して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22ここでは、対象(visaya)の語源を/vis(束縛する)という動詞から説明しているのである。
23
(´・(ェ)・`)
(つづく)

398避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 10:44:15 ID:mgKnwXpc0
くまなりまとめ1。『パーマティー』序論  1.『註解』冒頭文の趣旨説明 

反対主張 
(一)考察の対象に価しない理由1
1、賢者の考察の対象は、疑問の余地があるものであるべき。ウパニシャッドに説かれているように、ブラフマンが アートマンと同一なら、このブラフマンは、疑問の余地が無い。(論理的反対主張)
2、(語源的には、)アートマンが偉大であり(brhatva)、 身体等を成長させる[存在]である(brmhatva)ので、ブラフマンと呼ばれるのであり、身体、感覚、思考等とは異なる。
3、身体、感覚、思考等は、経験を通して観念を介して間接的に知れるものであるが、「私」という「直接経験」は疑いの余地が無い。
4、私という語は、身体の属性を表わす語と同格関係にあるから、その対象が身体である
 というのは誤りである。
 加齢に従い身体は変化するが、

 変化してゆくものの中にあって変わることなく存在するものは、それら変化してゆくものとは異なっている。
 「私」という語(経験)の対象の対象(アートマン)は、変化することなく身体中に存在しているので、それはそれら(身体)とは異なっているのである。
 「私」という語(経験)の対象の対象は、身体ではない。又、器官でもない。
 「私は、以前、視覚を通して物を見ていた。その同じ私が、今、触覚を通して物に触れている」という経験に見られるように、「私」という語(経験)の対象は、用いられる器官が異なっても、再認識されているからである。
 一方、この 「私」という語(経験)の対象が、外界の対象と異なることは、より一層明らかである。また、「私」という語(経験)の対象は、統覚機能や思考器官ではない。というのは、統覚機能や思考器官19は、行為する時に用いられる手段であるから、「私は行為主体である」という形で行為主体を表す表現に用いられる「私」という語の対象ではありえないからである。従って、「私」という語(経験)の対象が身体等と同じでなくても、「私はやせている。私は盲目である」等の用法は、ある種の比喩的用法だと考えるのが正しいのである。

脚注
19ヴェーダーンタ学派では、統覚機能も思考器官も意識のない物質的なものであって精神的なものでは ないと考えられている。また、統覚機能は決定、を本質とし、 思考器官は疑惑を本質とするという点が違うとされている。

  全く自明な「私」という経験によって理解されるアートマンは、「経験」の対象の対象である身体・器官・思考器官・統覚機能・外界 の対象とは異なり、疑問の余地のないものであるから、考察の対象[に価し]ない。

(ニ)考察の対象に価しない理由2
 アートマンを考察の対象にすることが無意味だからである。
 ヴェーダーンタ側が主張しようとしている考察の意味(目的)は、 輪廻の止滅すなわち解脱である。ところで、輪廻の原因は、ありのままのアートマンに人々が開眼しないところにある。 従ってありのままのアートマンが知られれば、輪廻は止滅するはずである。これがヴェーダーンタ側の主張であろう。しかし、この輪廻は、無始であり、ありのままのアートマンに関する知識もまた無始である。従って、 これらはたえず共存している。それ故、ありのままのアートマンが知られたところで、どうしてこの輪廻が止減したりしようか。というのは、これらは相反する ものではないからである。また、人々がありのままのアートマンに開眼しないことなど、どうしてありえようか。というのは、ありのままのアートマンに関する知識とは、「私」という経験にほかならないからである。
  アートマンは、「私」という自明の経験によって良く知られており、身体や器官とは異なるものである。従って、このアートマンを別なもの(ブラフマン)に変えることはできない。何故なら、「私」という自明の経験と反するからである。従って、アートマンとブラフマンの同一性を説くウパニシャッドは比喩的意味しかもたない、と理解するのが正しい。

何やら、説得力のある反対主張と思えてしまうくまであります。
(´・(ェ)・`)ゞ

399鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/27(月) 23:07:57 ID:1d4drIFg0
 ↑そのような理解でよいのじゃ。

 それに対する反論として、まずは主客が入れ代わったりしないことをシャンカラは述べているというのじゃ。
 光と闇のように主客はあいいれない性質であるというのじゃ。
 つまりアートマンと、意思とか思考の機能はいれかわることはないというのじゃ。
 相互に依託する事もないというのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2022/06/27(月) 23:33:02 ID:bd.fxOME0
(つづき)   206-207
   [反対主張に対する反論][主観であるアートマンと客観である統覚機能等という]基体[どうし]を互いに入れ換える(相互に附託しあう)ことはないだろう。しかし、 そ[の基体]の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことはありうるのではないか。というのは、[よく]経験されるように、基体[どうし]が違うことは分かっていても、その諸属性を附託することはあるからである。たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと[思う。このように、花の属性である]赤さが[水晶の属性と]誤認されること(vibhrama)があるのである。
   [反対主張者の答え]だから[本文中で]その諸属性に関してもと言っているのである。
[主・客の]諸属性が互いに入れ換って[別々の]基体に存在すること(itaretaratra,dharmini dharmānām bhāvah)、すなわち、相互に交換されること(vinimaya)、そ れは起りえない。[本文のこの箇所の]趣旨は以下の通りである。実に、色彩(rūpa) のある場合には、実体(dravya)Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、[Bの]影を宿し、[AにBの属性があると誤解されることがあり]得るで あろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がない[ので]、客観の影が映ることはありえない。たとえば、[クマーリラも]「[色形のない]音声・香・味等が、どうして、[他のものに]反映しようか」24と言っているではないか。従って、この 場合には、消去法(pāriśasya)25を用いることにより、主観と客観の本質を互い.に混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換される[という可能性]が残ることになる。[それ故]もし、これら[主観と客観という]基体[どうし]が完全に異なることを理解して、[その両者を]混同[さえ]しなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。何故なら、[属性間の関係は]それぞれの基体を介在して[成りたって]いるので、[基体間の関係に比べて]疎遠だからである。だから、[本文中に]なおさら[・・・ない]と述べてあるのである。それとは逆にとは、客観とは逆にという意味である。[また]誤り(mithyā)という語は隠覆(apahnava)26を意味している。
   [従って、本文前半部の]趣旨[を要約すれば]次の通りである。すなわち、「[XとYとの]附託[が存在する領域]は、[両者の]違いに対する無理解[の存在する]領 域により覆われ(vyāpta)27ている。しかし、こ[の主観と客観の場合]には、それとは逆で、[主・客の]違いが理解されている。[従って]これ(主・客の違いに対する理解)が無理解を取り払えば、この[無理解の存在する]領域に覆われている附託も取り 払われることになる」[というのが趣旨である]。[そして]、たとえ[附託は]誤りで ある[と理解するのが]正しくても[という前半部は]にもかかわらず[以下の後半部 に]かかっていくのである。

脚注
24
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合で、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。
26隠覆という語は、誤りが物事の真の姿を覆い隠すことから、ここで誤りと 同義語とされている。Pańcapādicāも、この同じ箇所に対する註で、誤り(虚妄)という語には この隠覆と[非実であるとも非実在であるとも]表現し得ないことの二義あることを述べ、この個所では隠覆の意味にとっている。Bhāmatīもこれに従ったのであろう。
27脚注14参照。
(´・(ェ)・`)つ

401鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/28(火) 23:39:12 ID:1d4drIFg0

 次は基体が入れ替わったり、付託することはなくとも属性が付託されることはあるのではないかというのじゃ。
 透明な水晶に赤い花が反映すると、赤い属性が付託されるようにというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 主観であるアートマンは色形がないので、客観の影が反映することはありえないというのじゃ。
 もしそのように誤認したのならば、それは主観と客観の本質を理解せずに混同したときだけというのじゃ。

402避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:43:05 ID:t8tOrmO.0
1.3.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[I]に価するという教証  p207-210 105右/229

  ここ(本文の後半部)では、[先に紹介した反対主張に対して、師シャンカラは]、も し「私」という経験にアートマンの真の姿(砒matattVa)が顕現しているのなら、[反 対主張者の]言う通りだろうが、[実際にはコそうではないのだ、ということを言お
うとしているのである。詳論すれば次の通りである。天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プ ラーナには、アートマンの真の姿は、あらゆる添性(upadhi)28に限定されない、無
限の歓喜・精神性そのものであり、無関心(ud酎na)であり、不二(advitTya)であ る、と説かれている。これら[天啓聖典等の章句コは、序論部(upakrama)・本論部 (paramar≦a)・結論部(upas岬hara)を通じて、アートマンのこのような真の姿を繰
り返し(kriy語amabhiharepa)述べている。[従ってコそれ(アートマンのこのような 真の姿)が[天啓聖典等の章句の]主題である。[それ故たとえ]インドラ神でも、[こ れらの章句を]比喩的意味に解することはできない。その典拠は、「『なんて美しいん だろう。なんて美しいんだろう』[という例に見られるコように、繰り返して述へれば (abhy語ena)、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない」29と[いう章句にある]。一方、「私」という経験の示す ところによれぱ・アートマンは・有限であり・多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされ てい乱[この「私」という経験の]対象が・どうして・アートマンの真の姿であった
りしようか。また、どうして、[私という経験に]誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、[聖典よりコ先に存在する認識根拠(jye§tapram師a)30で
あ乱[従って]聖典はそれ(直接知覚)に基づいている。[アートマンとブラフマンの 同一性を説く]聖典は・[この]直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つか[のいずれか]である。
   [答論]こ[の反対主張]は誤りである。何故なら、[聖典]自身から生じた認識の妥当性[を証明するの]に、[聖典が他の認識根拠を]必要とすることはないからであ る。[その第一の理由は]、それ(聖典)は、[天啓であって]人間の手になるものでは ないので、欠陥があるのではと疑う余地が全くないからである。[また、第二の理由は、 他の認識根拠では知ることも拒斥することもできない事柄が、聖典から]知られることからも分かるように、それ(聖典)は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張][確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた]認識の妥当性[を証明するの]に、[直接知覚に]基づくことはない。しかし、[聖典から認識が]生ずるため には、直接知覚が必要である31。[ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は]、そ[の直接知覚(私という経験)]に反している。従って、[この場合、聖 典から認識が]生じないことになり、[聖典は]誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、[アートマンという真理に関する認識を]生み出す[聖典]は、[直接知覚には]反しないからである。何故なら、もし[聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を]否定すれば、[聖典から認識が生ずる ための]原因が存在しなくなるので、[認識が生じ]ないことになる。しかし、[実際には]、聖典[から生ずる]認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、[聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の]究極的な(アートマンとい う真理に対する)認識の妥当牲である。また、それ(究極的な認識根拠としての直接知覚)は、それ(真理の認識)を生み出すことはない。というのは、よく経験されるよ うに、真理の認識は、世俗的な認識根拠[としての直接知覚]一[それが]究極的な (アートマンという真理に対する)認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるか らである、たとえば、[世の人々が]、長いとか短いなどの性質一[それは、音声の属性であって音節の]属性ではないのだが一を、音節に附託して、「真理」を認識する根拠としているように。すなわち、世の人々は、ナーガという語から象を、ナガという 語から木を[それぞれ]理解するが、[それは]誤りではないのである。

脚注
29 30
31 語から認識が生ずるのは、語を聞いたときだけである。この意味で聖典(語)から認識が生ずるのには、直接知覚が必要である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403避難民のマジレスさん:2022/06/28(火) 23:45:09 ID:t8tOrmO.0
くまなりまとめ2
1.2.『註解』冒頭文前半部の語句説明 

 「私」という観念の対象である主観20と「汝」という観念の対象の対象である客観は、主・客が互いに入れ換 わることは起りえない。従って、「私」という観念の対象であり、かつ純粋精神を本質とする主観に、「汝」という観念の対象である客観とその諸属性を附託すること21、またそれとは逆に、主観とその諸属性を客観に附託することは、誤りであると理解するのが正しい。
 主観とは、純粋精神を本質とするアートマンのことであり、客観とは、物質を本質とする統覚機能・器官・身体・外界の対象のことである。これら(統覚機能等)が対象と呼ばれるのは、 純粋精神であるアートマンを対象化する22からである。すなわち、 アートマンを束縛したり、形態のないアートマンを自己の形態で規定したりなどするからである。このように主・客の本質が完全に相反するところに、相互附託の起りえない理由があり、その例として、光と闇のようにと述べられているのである。

脚注
20アートマンの本性である純粋精神が、意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能に附託されると、統覚機能は、アートマンの形相をとって純粋精神のようなものとなる。その時、私は・・・であるとい う観念が統覚機能に起こる。この観念が「私」という観念である 。だか ら、アートマン(主観)は、「私という観念によって間接的に(統覚機能のとったア−トマンの形相を通して)指し示されるという意味で、「私」という語の対象といわれる。
21附託とは、「以前に経験されたXが、想起の形でYに顕現すること」と定義される。例えば、真珠母貝を見て、以前に見たことのある銀を、想起の形で、その真珠母貝の中に見ることである。不二一元論においては、この附託の観念は、単に誤認を説明する手段であるぱかりてなく、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
22

  [反対主張に対する反論]主観、客観の諸属性、すなわち、精神性と物質性、永遠性と無常性等を相互に附託しあうことがある(=反対主張?)のは、「誤認」に基づいている(=反論)。
たとえば、水晶は、非常に透明なので、ハイビスカスの花が反映すると、花と違うことは 分かっていても、「赤い水晶」だと思う。このように、花の属性である赤さが水晶の属性と誤認されることがあるのである。
 [反対主張者の答え]色彩(rūpa) のある場合には、実体Aは、実体Bと違うとは分かっていても、非常に透明なために、Bの影を宿し、AにBの属性があると誤解されることがあり得るであろう。しかし、主観である純粋精神アートマンには、色形がないので、客観の影が映ることはあり得ない。
主観と客観の本質を互いに混同した時にだけ、その諸属性も互いに混同される、すなわち、相互に交換されるという可能性が残ることになる。25(反対主張の答?)
それ故もし、これら主観と客観という基体どうしが完全に異なることを理解して、その両者を混同さえしなければ、その諸属性を混同することはなおさらない。
 
脚注
25 反対主張者は、属性の附託が起こりうる可能性として、属性が基体に反映する場合と、基体どうしの附託(混同)を前提として属性の附託(混同)が起る場合の二つを想定し、ここまでで、前者の可能性がなくなったので、消去法によって残るは後者の可能性だけであると言っているのである。

くま質問
「統覚」をググると、↓
哲学,心理学用語。 対象がよく理解され明瞭に意識される知覚の最高段階,あるいは個々の知覚内容を統合する精神機能をさす。 カントによって対象を認識する前提としての意識の統一をさして用いられた
とあるが、脚注20では、>意識のない物質的な、動作を本質とする統覚機能・・・とされている。
これは、「統覚」=精神機能は、意思的な側面よりも条件反射みたいな、物質的側面が本質であるという理解で良いでありましょうか?
(´・(ェ)・`)b

404鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:23:29 ID:1d4drIFg0
 ↑そうじゃろう。
 それも肉体の機能にすぎないというような感じじゃな。
 そうであるから主体ではなく、アートマンでもない客体であるというのじゃな。
 アートマンの法は主体でないものを全て排除していくから、全てと融合していくブラフマンの法とは道が違うということじゃな。

405鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/29(水) 23:37:54 ID:1d4drIFg0

 聖典に述べられているアートマンは真の姿であり、比喩ではないというじのじゃ。
 また直接経験も間違うことがあるから、考察が必要というのじゃ。

 また反対意見なのじゃ。
 聖典は直接知覚に基づいて書かれただけというのじゃ。
 そのもの直接知覚ではないから誤謬か、比喩であるというのじゃ。

 それに反論するのじゃ。
 聖典が誤謬か比喩でしかないならば、それを証明する他の経典が必要となるがそれはいらんというのじゃ。
 聖典は人が書いたのではなく神からの天啓であるからというのじゃ。
 さらに他の認識根拠では知られないことも、聖典で知ることができるからというのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2022/06/29(水) 23:41:27 ID:2Eoa7xoQ0
(つづき)    p210-213

  [反対主張][比喩的意味]以外に趣旨の[理解でき]ない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]こ[の反対主張]は誤りである。というのは、[シャヴァラ]が「儀軌の場合、語には、[原義]以外の意味はない」32と(述べている)からである。また、先に生じたものであるということは、[それが後に生ずるものには]必要でない場合には、[後に生ずるものに]拒斥される(bādhya)理由にはなるが、[後に生ずるものを]拒斥する(bādhaka)理由にはならない33。というのは、よく経験されるように、[真珠母貝を銀と見誤った時に]、銀の認識は[真珠母貝の認識より]先に生じてはいるが、後に生ずる真珠母貝の認識こよって拒斥されるのが経験されるからである。何故なら、それ (真珠母貝の認識)は、それ(銀の認識)を拒斥することで成り立っているので、それ(銀の認識)が拒斥されなければ、生ずることができないからである。そして、すでに明らかにしたように、究極的な(アートマンという真理に対する)認識根拠として[の直接知覚]は、[後に聖典から生ずる認識に]必要ではない。[従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである]。また、偉大な聖者[ジャイミニの著した]スートラも、「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭(prakrti) のように」34と、同じ趣旨のことを[述べている]。同様に、「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先[に生じた]ものより後に[生じた]もののほうが強力で ある、と理解すべきである」35と[いう章句もある]。


脚注
32ヴェーダは、儀軌・真言・祭名・禁令・ 釈義の五部門に分れる。「この中儀軌とはVeda中、未知の好ましき事柄を教える部分のことである。この儀軌は又、当該儀軌以外の量(認識根拠)によっては知ることの出来ない、有意義な結果をもたらす好ましい事柄を命ずるものであるという点にその存在意義を有する。 例えば、(『天界を望む者は[祭]を行うべし』とい う儀軌は、[当該儀軌]以外の量によっては知ることの出来ない、天界という有意義な結果をもたらす護 摩を行うことを吾等に命じているのである」。
33拒斥とは、本文中の銀と真珠母貝の例に見られるように、先に生じた認識を後に生じた認識が否定することである。不二一元論において、この拒斥の観念は、単に誤認を説明する手段であるばかりでなく、ブラフマンの知により、現象世界の真実性・実在性が拒斥されるというように、ブラフマンと現象世界との関係を説明する役割も担っている。
34「祭式は基本祭と応用祭とに大別できる。基本祭とはその祭式に対して従属関係にあるものがすぺてVedaの中で詳しく述べられている祭式のことである。応用祭とは基本祭に若干の変化をつけて行われる祭式のことである。このために応用祭について述べているVedaの章節中では応用祭に対して従属関係にある凡ゆる要素 が述べられているわけではなく、基本祭と異る部分だけが述べられている。そして基本祭と同じ部分は、『応用祭は基本祭にならって行うべし』)という拡張解釈の法則によって了解されるものとされている」。この場合、ヴェーダの 中で述べられている基本祭の従属要素(これが先に適用される)と、同じくヴェーダの中に述べられてい
る応用祭の従属要素(これが後に適用される)とが矛盾したら、後者が前者を拒斥して応用祭に適用される。例えば・基本祭ではクシャ草を供物として用いるように規定されていても、応用祭でシャラ草を用い るように規定されていれば、後者に従うのである。
35
(´・(ェ)・`)つ

>>402
訂正
以下の他、[  ]←が、コ になっている等細かい間違いがあります。

(matattVa)→ ātmatattva
(upadhi)→ upādhi
(ud酎na)→ udāsīna (advitTya)→ advitīya
(paramar≦a)→ parāmarśa
(upas岬hara)→ upasamhāra
(kriy語amabhiharepa)→
kriyāsamabhiharena
(abhy語ena)→ abhyāsena
(jye§tapram師a)→ jyestapramāna

407鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 00:51:32 ID:1d4drIFg0


 さらに反対意見なのじゃ。

 聖典から正しい認識が生じるためには、直接知覚が必要というのじゃ。
 しかし、聖典は直接知覚に反しているというのじゃ。
 そうであるから聖典からは正しい認識が生じないことになり、誤った認識根拠になるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 聖典は直接知覚には反しないというのじゃ。
 聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することはないからというじゃ。
 聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚のアートマンという真理に対する妥当性だというのじゃ。

 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。
 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。
 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。
 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。

408避難民のマジレスさん:2022/06/30(木) 10:11:20 ID:e7ptxvTU0
くまなりまとめ3
  天啓聖典等の章句は、アートマンの真の姿は、あらゆる添性に限定されない、無限の歓喜・精神性そのものであり、無関心であり、不二である、という、アートマンの真の姿を繰り返し述べている。従って、アートマンのこのような 真の姿が天啓聖典等の章句の主題である。それ故、こ れらの章句を比喩的意味に解することはできない。その典拠は、『繰り返して述べれば 、意味が強まることはあっても弱まることはない。〔従って]比喩的意味になることなどなおさらない』29
一方、「私」という経験の示すところによれぱ、アートマンは、有限であり、多種多様な悲しみや苦しみ等に悩まされている。この「私」という経験の対象が、どうして、アートマンの真の姿であったりしようか。また、どうして、私という経験に誤りのないことがあろうか。
   [反対主張]直接知覚は、聖典より先に存在している。従って、聖典は直接知覚に基づいている。アートマンとブラフマンの 同一性を説く聖典は、この直接知覚(私という経験)に反するので、誤った認識根拠であるか比喩的意味を持つかのいずれかである。
   [答論]この反対主張は誤りである。何故なら、聖典自身から生じた認識の妥当性を証明するのに、聖典が他の認識根拠を必要とすることはないからである。その第一の理由は、聖典は、天啓であって、疑う余地が全くないからである。また、第二の理由は、聖典は、自立した認識根拠だからである。
   [反対主張]確かに、聖典は、それ自身からすでに生じた認識の妥当性を証明するのに、直接知覚に基づくことはない。しかし、聖典から認識が生ずるためには、直接知覚が必要である。ところが、アートマンとブラフマンとの同一性を説く聖典は、その直接知覚(私という経験)に反している。従って、この場合、聖典から認識が生じないことになり、聖典は誤った認識根拠となる。
  [答諭]そうではない。というのは、アートマンという真理に関する認識を生み出す聖典は、直接知覚には反しないからである。何故なら、もし聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定すれば、聖典から認識が生ずるための原因が存在しなくなるので、認識が生じないことになる。しかし、実際には、聖典から生ずる認識が直接知覚の日常的な認識の妥当性を否定することは ない、聖典から生ずる認識が否定するのは、直接知覚の究極的なアートマンという真理に対する認識の妥当牲である。
また、究極的な認識根拠としての直接知覚は、真理の認識を生み出すことはない。というのは、よく経験されるように、真理の認識は、世俗的な認識根拠としての直接知覚一それが究極的な アートマンという真理に対する認識根拠ではないにもかかわらずーから生ずるからである。

  [反対主張]比喩的意味以外に趣旨の理解できない語は、[語]自身の意味に関して言えば、比喩的意味がある。
  〔答論]この反対主張は誤りである。
 先に生じたものであるということは、それが後に生ずるものには必要でない場合には、後に生ずるものに拒斥される理由にはなるが、後に生ずるものを拒斥する理由にはならない。
究極的なアートマンという真理に対する認識根拠としての直接知覚は、後に聖典から生ずる認識に必要ではない。従って、聖典から生ずる認識によって拒斥されるのである。「前後関係がある場合には、前のほうが効力は弱い。たとえば基本祭のように」34「認識が互いに依存し合うことなく生ずる場合には、先に生じたものより後に生じたもののほうが強力で ある、と理解すべきである」35という章句もある。

鬼和尚解説: 要するに聖典によって、知覚できる全てがアートマンではないと認識できるというのじゃな。 アートマンとは認識できない認識主体であるからのう。 何かをアートマンであると知覚したならば、それはアートマンではないのじゃ。 それを伝えられるから聖典は直接知覚に反しないものであり、必要であるというのじゃな。
・・・、バーマティーの解説本を読んでも、鬼和尚に↑の様に解説してもらわないと、深い理解ができないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

409鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:16:54 ID:1d4drIFg0
↑そうかもしれん。
 アートマンやブラフマンについての知識がもとからないと難しいかもしれんのじゃ。
 基本が分かっていれば理解もできるのじゃ。

410鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/06/30(木) 23:32:27 ID:1d4drIFg0
>>406 またまた反対意見なのじゃ。
 比喩として以外に理解できない言葉は比喩であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 比喩ではないと書いてあるのじゃ。
 
 貝を銀と見誤って、後に貝と気づくように、後の認識が正しいというのじゃ。
 瞑想中にアートマンを認識したとか思っても、経典によるアートマンは認識できないという知識で排斥できるというのじゃ。
 そうであめから聖典による考察が必要なじゃ。

411避難民のマジレスさん:2022/07/01(金) 05:39:25 ID:9bAKjdDg0
1.4.『註釈』冒頭文後半部の趣旨説明[II]
ブラフマンは考察に価するという論証      p210-211

   また、[反対主張者は]、アートマンが「私」という語(経験)の対象であることを論証しようとしていたが、[その]彼らでさえ、これ(「私」という語(経験)の対象としてのアートマン)が、[アートマンの]真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、[「私」という語(経験)の対象が真のアートマンだとすると、アート マンは]遍在36している[はずなのに]、「私はこの家の中だけにいても知っている」と [いう表現(経験)に見られるように]、有限なものと理解されることになるからである。[それは]ちょうど、平地にいる人には、非常に高い山の頂上にある大木が、草の葉のように見えるようなものである。
  [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマ ンが[有限であることが経験されているのでは]ない。
  [答論]それは誤りである。というのは、もしそうだとすれば、[この表現(経験) は]、「私は」と[いう形を取ら]ずに、[「身体が」という形を取るはずである]。また、 [「私」という語は]比喩的意味[で用いられており、実際には身体を意味している]とすると、[身体は物質的なものだから]、「知っている」と[いう表現には]ならないは ずである。
  さらに、比喩的意味[が成り立つの]は、話し手と聞き手の間に、「X[を意味する]語がYに対して用いられるのは、[XとY に共通に]認められる性質を通してである」 という理解が[成立している]時である。[従って]、それ(比喩的意味が成り立つ)に は、[XとYとの]相違を知っていることが前提となっている。それ(比喩的意味)の例には次のようなものがある。アグニホートラという語は、日々行わなければならないアグニホートラ祭をもともとは意味するが、「アグニホートラ祭を一ヶ月間行うべし」37という[儀軌に見られる]ように、カウンダパーイナーム・アヤナ祭に[用いられる。 これは]比喩的用法である38。何故なら、[この場合、アグニホートラという語が用い られるのは]、行わなければならない事柄(sādhya)が似ているからであり、[両祭式 が]異ることは、文脈(prakarana)39の違いにより確定しているからである。また、 ライオンという語が[人に]用いられるのも、人がライオンと違うことは経験上広く知 られているからである。[従って]、もし[「私」という語がもともとはアートマンを、意味していると経験的に知っていれば]、X(アートマン)[を意味する]語が身体等(Y) に[用いられることになるから]、比喩的用法ということになる。しかし、[実際には、 人々は]、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。[従って、比喩的用法とは考えられない]。

脚注
36アートマンが遍在であることは、『ブラフマ・スートラ』において述べられており、シャンカラもヴァーチャズバティ・ミシュラもこの見解を受けついでいる。
37
38アグニホートラ祭は、日々義務として行わなければならない祭式で、一方、カウンダパーイナーム・アヤナ祭は、臨時に行われる祭式である。 「アグニホートラ祭一ヶ月を間行うべし」という儀軌中のアグニホートラという語がカウンダパー イナーム・アヤナ祭に用いられるのは、第一には両祭式において行わなければならない事柄、すな わち祭式が基本的に同じだからであり、第二には文脈が違うことによる。本文は、実際には、「ウパサッド(供養祭)を行なったのち、アグニホートラ祭を一ヶ月間行なうぺし」となっている。このウパサッド供養祭は、アグニホートラ祭では行われていない。従って、ここで命じられている祭式は、 アグニホートラ祭とは異なることになる。これが文脈の違いである。
39文脈とは、祭式の違いを判断する六つの認識根拠、すなわち、別の語・ 反復・数・従属要素・文脈・名称の一つであ る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

412鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 00:15:23 ID:1d4drIFg0

 さらに反対者が私という言葉の対象がアートマンではないとわかるはずというのじゃ。
 それは観念であるからのう。
 アートマンはどこにでも偏在しているのに、私は部屋にいるとか言えば有限なものとなるからなのじゃ。
 
 それに反論するのじゃ。
 それは身体が有限であるだけだというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それならば身体がというように話すはずだというのじゃ。

 比喩であれば違う物事が、共通することについて喩える筈であるが、
 人々は私という言葉が身体とは別のものとしてのアートマンである事を知っている訳ではないから比喩ではないというのじゃ。

413避難民のマジレスさん:2022/07/02(土) 00:28:28 ID:wu9WNfNM0
(つづき)    p211-212
   [反対主張][「私」という語が身体等に用いられるのは]、全く慣習的用法なので、[実際には]比喩的用法であるにもかかわらず、[人々は、それが]比喩的用法だとは気 づかないのである。[それは]ちょうど、ごま油(taila)という語がカラシ油(sārsalpa)等の[意味にも用いられる]ようなものである。
  [答論]そのように考えるべきではない。この場合にも、[人々は]、「カラシ油等がごま油という語で表現されるのは、こまから生じた液体と[カラシ油との]違いが良く 知られている時だけである」ということに気づいている。[というのは、同じこま油と いう語の]対象でも、こま油とカラシ油が同じものと決まっているわけではない[から である]。
  従って、[以上の論議から]次のことが確定される。すなわち、「二つの[対象を]示 す[語]が持つ比喩的意味という性質[の存在する領域]は、一義的意味と比喩的意 味との識別智(vivekajñāna)[が存在する]領域により覆われている(vyāpta)。従っ て、この場合、領域を覆うもの(vyāpaka)40である識別智がめつすれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]「彼(子供の頃の私)が[今の]私(老人になってからの私)[になったので]ある」と[いう表現(経験)に見られる]ように、身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが[「私」という語の対象として]再認識され る。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論][このような]主張をすべきではない。何故なら、これは、学者(Parīksaka) の場合の話であって、普通の人の場合の話ではないからである。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、普通の人ととりたてて違いがあるわけではない。その理由 についてはのちに『註解』の神聖な作者(シャンカラ)が、 [日常的経験に関しては、学者も動物も]違いがないからである41と[明らかにするであろう]。[このことは]他 学派の人達ですら言っていることである。たとえば、「実に、聖典を考察する人は、こ のように区別している。[ところが]学者はそうではない42と。
  従って、[ここで]消去法43を用いれば、次のように[考えるのが]正しいと我々は 思っている。すなわち、世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」[と言いながらも、一方では、その語を]「私はこの家の中にだけいても知ってい る」というように用いているが、[これは比喩的用法ではない]。身体等と[アートマン との]違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。[それは]ちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空[が有限だと考 えるようなもので]ある。


脚注
40脚注14参照。
41 42
43 210頁13行以下で・・「私はこの家の中だけにいても知っているという表現(経験)説明しうる可能性として、比喩的意味と附託のいずれかを想定し、ここまでで比喩的意味の可能性は否定されたので、消去法によって附託の可能性だけが残るのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/02(土) 23:55:44 ID:1d4drIFg0

 またまた反対論者が。私という言葉が身体等に用いられるのは、比喩だというのじゃ。
 ごま油がからし油にも用いられるようなものというのじゃ。

 答えのじゃ。

 人々はそれらの油の違いが知られている時だけということに気づいているというのじゃ。
 
 また反対するのじゃ。

 子供が年寄りになっても私というからには、アートマンは身体と違うものとして経験しているというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 世の人々は身体とアートマンの違いが分かっていないだけというのじゃ。
 そうであるからアートマンも有限であると思い込んでいるというのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2022/07/03(日) 08:59:29 ID:hbWPqUMk0
(つづき)    p212-213
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語[の用法]の妥当性[を保つ]ために、このような[主張をする]のは、誤りである。この場合には、実に、これ(アートマン)は、原子大であるか身体大であるか[のいずれか]であろう44。[まず]原子大だとすると、「私は太っ ている。私は背が高い」という表現(経験)は[成り立ちえ]ないことになろう。[一方]身体大であるとすると、身体と同じように、[アートマンにも]部分があることになり、[永遠であるアートマンが]無常であるという[理論上の]誤謬に陥ることになる45。さらにまた、この[アートマンは身体大であるという]説に立てば、(アートマンの)精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分か[のいずれか]であろう。[まず]個々の部分が精神活動を行うという説に立てば、[個々に]独立した多くの精神的存在は、統一(ekavākyatā)がとれていないのだから、相反する方向にばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動が[生じ]ないことになるか、[いずれかの理論上の]誤謬に陥ることになるだろう。一方、[アートマンの]精神性は集合体[全体]と結びついている[という説]に立てば46、[その]ー部が破損すると精神アートマンも破損することになり、[アートマンは]精神的活動を行わないことになるだろう。ま た、[個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能性も考えられるが]、多くの[個々の]部分[どうし]には、互いに[集合体を構成する]必然的関係(avinābhāva)47が見あたらない。また、[集合体の]ー部が滅すると、 そ[の一部]がなければ[集合体は成り立たないから、集合体が]精神的活動を行わないことになるだろう。
  [唯識論者の主張するような]識が[「私」という観念(語)の]対象だとしても、 「私」という観念が誤認(bhrānta)である点では、それ(身体)の場合と同じである。 というのは、それ(「私」という観念)からは永遠な実在が明らかになるのに、識は無常だからである48。
  以上[の論議]で、「私は太っている。私は盲目である。私は行く」等の〔日常的表現(経験)]も附託によることを説明し終ったのである。

脚注
44 アートマンの大きさに関しては、インド一般に三種の見解が見られる。(1)アートマンは極大であり、万物に遍在するという説、(2)アートマンは原子大であるという説、(3)アートマンは身体大である という説である。
45部分のあるものは、個々の部分に分解されて消滅するから、無常である。
46アートマンの精神性が集合体と結びついているという説を、(1) 精神性は身体という添性を通して集合体と結びついているという説、(2)精神性はそれ 自体で独立に集合体と結びついているという説、(3)精神性はたまたま偶然に集合体と結び ついているという説の三種に分け、以下の各文をそれぞれの説に対する答えと取っている。
47必然的関係とは、もともとはニヤーヤ字派において、因果関係の必然性を表す語であるが、ここではもっと広く必然性一般を表している。
48唯識論者によれば、識は刹那滅であるから、無常である。
(´・(ェ)・`)つ

416鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/03(日) 23:12:05 ID:1d4drIFg0

 今度は反対論者は、私という用語に妥当性をもたせるために、身体のようにアートマンも有限と言うのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 有限であるからには、アートマンは原子のように小さいか、身体と同じなのじゃ。
 原子大であれば、私は太っているとか、背が高いとかはなりたたないからいかんのじゃ。
 身体大であるとすると、身体と同じくアートマンにも部分があり、無常になるからこれもいかんのじゃ。

 さらに身体大であれば精神活動も部分であれ、全体であれ、無常になるからいかんのじゃ。
 識も無常であるからアートマンではないというのじゃ。

417避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 00:05:54 ID:Wv7DDlhM0
1.5.『註解』冒頭文後半部の語句説明   p213- 215 108右/229

  にもかかわらず、[それぞれ互いに]完全に異なる[主観と客観の]諸属性および[その諸属性の]基体[である主観と客観と]を互いに識別しないで ([文字通りには]互いの無識別によって)、主観に客観の本質と諸属性を、客 観に主観の本質と諸属性を附託し(adhyasya)([文字通りには]それぞれにそれぞれの本質とそれぞれの諸属性を附託して)、真実と虚妄とを混淆して (mithunikrtya)、「これが私である」「これは私のものである」[と言う。これ が]([文字通りには]というのが)誤った認識に基づく、生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)である。

  さて、以上順を追って述べてきたことから、「私」という観念は腐ったかぼちゃ[のよ うに価値のないもの]であることが明らかとなった。そこで、今や、神聖な天啓聖典は、「私」という経験から生じた[誤った考え]、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であり・楽しみ・苦しみ・悲しみ等をその本質としている[という考え]を、なにはばかることなく否定することができるのである。このように、「私」という観念が 誤りであることは、信頼に価するすべての天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等ですでに良く知られていることである。だから[『註解』は]、それぞれに以下で49、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 ここ(本文中)では、それぞれに、すなわち、[二つの]基体つまりアートマンと身体等に、それぞれの本質を附託して・・これすなわち身体等が、私である。と[というのが文脈である]。「これが[私である]」というのは、[人々がそうとは知らないで身体とアートマンを同一視しているという]事実に基づいて[述べて]いるのであり、 [「これすなわち身体が、私である」と人々が現実に]認識しているからではない50。世俗的な日常的表現(経験)(vyavahāra)とは、世間の人々の日常的表現のことである。 すなわち、それは「これが私である」という表現のことである。[「これが私である」 というのが]のというのが(iti)が暗に意味しているのは、認識対象全体を、正しい 認識根拠に基づいて、身体等に有益なものと有害なものとに識別し、それ(有益なもの)を受け入れ、それ(有害なもの)を排除すること等[の日常的経験]である51。それぞれの基体にそれぞれの諸属性を附託し。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンに[さらに]附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでににアートマンの附託されている身体等 に[さらに]附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人である[といった所有物および属性]が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)すなわち表現である[というのが文脈である]。[「これが私のものである」というのがの]というのが(iti)が暗に意味しているのは、それ(「これは私のものである」という表現) にふさわしい活動等である。

脚注
49『註解』の本文後半部は、実際には、にもかかわらず、それぞれに...という形で始まっている。
50実際には、「私は身体である」と考える人はいない。しかし、「私」という観念自体が、アートマンと アートマン(身体等)との相互附託を前提として成立しているという意味である。
51 『註解』では、日常的表現も日常的経験も意味する語であるが、ヴァーチャスパティ・ミシュラはこの語を表現の意味に取ったので、このというのが(iti)に経験(活動)の意味を含み込ませているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

418避難民のマジレスさん:2022/07/04(月) 08:17:59 ID:mNHkAFtI0
くまなりまとめ4

  反対主張者も、「私」という語(経験)の対象としてのアートマンが、アートマンの真の姿ではないことを認めないわけにはいけない。というのは、「私」という語の対象が真のアートマンだとすると、アートマンは遍在しているはずなのに、有限なものと理解されることになるからである。
 [反対主張]これは、身体が有限であることが経験されているのであって、アートマンが有限であることが経験されているのではない。
   [答論]比喩的意味が成り立つのは、話し手と聞き手の間に、「Xを意味する語がYに対して用いられるのは、XとY に共通に認められる性質を通してである」 という理解が成立している時である。従って、比喩的意味が成り立つには、XとYとの相違を知っていることが前提となっている。
実際には、 人々は、「私」という語の一義的意味は身体とは別のもの(アートマン)であると、経験上はっきりと知っているわけではない。従って、比喩的用法とは考えられない。
   [反対主張]「私」という語が身体等に用いられるのは、比喩的用法であが、人々はそれが比喩的用法だとは気 づかないのである。
  [答論]そのように考えるべきではない。「二つの対象を示す[語]が持つ比喩的意味という性質の存在する領域は、一義的意味と比喩的意味との識別智が存在する領域により覆われている。従って、この場合、領域を覆うものである識別智が滅すれば、比喩的意味という性質も滅することになる」と。
  [反対主張]身体は子供の頃と老人になっ てからでは違っても、同一のアートマンが「私」という語の対象として再認識される。従って、アートマンは身体等とは異なるものとして経験されていることになる。
  [答論]このような主張は、学者の場合の話であって、普通の人の場合の話ではない。また、学者の場合で も、日常的経験に関しては、学者も動物も違いがないと明らかにする。(シャンカラ)
  世の人々は「「私」という語の対象は純粋精神アートマンであ る」と言いながらも、一方では、身体等とアートマン との違いが分からずに、アートマンは有限であると思い込んでいるのである。それはちょうど、壼・水瓶・鉢等の添性に限定されているせいで、虚空が有限だと考えるようなものである。
   [反対主張]身体のように、アートマンも有限である。
  [答論]「私」という語の用法の妥当性を保つために、このような主張をするのは、誤りである。この場合には、実に、アートマンは、原子大であるか身体大であるかのいずれかであろう。まず原子大だとすると、「私は太っている。私は背が高い」という表現は成り立ちえないことになろう。一 方身体大であるとすると、アートマンにも部分があることに なり、永遠であるアートマンが無常であることになる。さらにまた、このアートマンは身体大であるという説に立てば、アートマン の精神活動を行うのは、部分の集合体か個々の部分かのいずれかであろう。まず個々の部分という説に立てば、個々に独立した多くの精神的存在は、統一がとれていないので、ばらばらに動いて、身体が分解してしまうか、活動か生じないことになる。一方、アートマンの精神性は集合体全体と結びついているという説に立てば、そのー部が破損すると精神アートマン も破損することになり、アートマンは精神的活動を行わないことになるだろう。また、個々の部分がそれぞれ、必然的な関係で結びついて、集合体全体を構成する可能 性も考えられるが、多くの個々の部分どうしには、互いに集合体を構成する必然的関係が見あたらない。また、集合体のー部が滅すると、 その一部がなければ集合体は成り立たないから、集合体が精神的活動を行わな いことになるだろう。
 識が「私」という観念(語)の対象だというのも、識は無常だから、誤認である。
(´・(ェ)・`)つ

419鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/04(月) 23:11:41 ID:1d4drIFg0

 ここまでで問答は終わったのじゃ。

 ここから自分という観念の誤りについて説かれるのじゃ。

 自分という観念は腐ったかぼちゃのように価値のないものだというじゃ。
 天啓聖典はアートマンが経験とか行為の主体ではなく感情を持つものでもないと説くのじゃ。
 私という観念が誤りであることは全ての聖典が示しているというのじゃ。
 人々は身体等をアートマンと混同していることが説かれるのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 07:06:19 ID:aoFe30dE0
(つづき)    p215
  また、ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。従って、[両行為の]行為主体が同じだから、附託し・・・日常的表現 (経験)であると[いう文が]成り立つのである。すなわち、[接尾辞ktvā(adhysya のsya)は、附託が日常的表現(経験)より]時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している52。〔このことが]誤った認識 に基づく日常的表現(経験)[と述べられているのである]。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて[日常的表現(経験)がある]。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
  さて、以上のように、[「私」という観念の]本質である附託とその結果である日常的 表現(経験)について述べたのち、[『註解』は次に]その原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。[無識別(無相違)(aviveka)によってとは]相違(viveka)に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、・もし文字通りにとれぱ[両者が同一となり]、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性および[その]基体をと述べられているのであ る。相違(vivekm)とは、本来は、基体間の場合には非同一性(atādātmya)を、諸属性問の場合には混同しないこと(asamkīrnata)を意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在(Vastusat)を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。[それは]ちょう ど、真珠母貝を銀と同一であると誤認するのは銀との相違を理解していないことによ るのと同じである。しかし、この(今問題となっている)場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に53、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンと[それ以外のものと]の相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

脚注
52 接尾辞ktvāが、行為の時間的前後関係を示す
53
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/05(火) 23:19:58 ID:1d4drIFg0

 誤った認識とは附託であり、それから日常的な表現があるというのじゃ。
 それは無識別、互いの相違に対する無理解によるものというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 無識別、無相違を文字通りにとれば同一であり、付託はないというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは完全に異なるものごとの基体と諸属性を理解していないからというのじゃ。
 基体の非同一性を理解せず、諸属性を混同しているのが無識別だというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 アートマン以外には存在はないから身体はないというのじゃ。
 ないものとの非同一性もないはずだというのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2022/07/05(火) 23:36:43 ID:bM1Ezd960
つづき)    p215-216
  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。すなわち、[真実と虚妄とを混淆して、両者の]相違が分からないために附託して、というのが[本文の脈略なのである]。[また]真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆してすなわち結びつけて、というのが[この句の]意味である。また、本来は、現象的存在と究 極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから[混淆して (mithunīkrtya)という語に、本来]混淆されないものが混淆されるという意味を示す 接尾辞cvi(mithunīkrtyaのī)54が用いられているのである。その趣旨は、「[被附託 者(aropya)は]、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、[附 託に]用いられるのは、被附託者の認識であって、[被附託者という]実在[自体]で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)が[アートマンに]附託される。そして、そ[の被附託者である非 アートマン]の認識は、[非アートマンのアートマンヘの]附託に基づいている。従っ て、[認識と附託とが]相互に依存しあう(parasparāśraya)[という理論的誤謬を]ま ぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得の(naisargika)と言っているのである。この日常的表現(経 験)は、本源的(svābhāvika)であり、無始である。[この]日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、そ れぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである55。こ[の過程]は、種と芽のように無始であるら、[認識と附託が]相互に依存しあうことはない。これが、[この生得のの]意味するところである。

脚注
54原文は「XでなかったものがXになること(あるいはXでなかったものをXにすること)」という意味である。例えば、白くなかったものを白くするという意味で、この接尾辞cviが用いられる。本文の場合、mithunam karotiというと、本来混淆し合って当然のものを混淆するという意味になるが、mithunīkarotiが用いられているので本来混淆されないものが混淆されるという意味になる、というのが本文の趣旨である。
55非アートマンのアートマンヘの附託Aから非アートマンAが生じ、その非アートマンAがアートマンに附託(附託B)される。その附託Bから非アートマンBが生じ、その非アートマンBがアートマンに附託(附託C)される...。このような過程が無始であるといわれているのである。
(´・(ェ)・`)つ

423鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/06(水) 23:41:16 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 それは真実と虚妄を混淆しているというのじや。
 それらの相違がわからないから付託しているというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンでないものがアートマンに付託されるというのじゃ。
 アートマンでないものの認識は、アートマン゛ないもののアートマンへの付託に基づいている。
 それでは認識と付託が相互に依存しあっているという誤謬があるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それらは無始であり、生得のものというのじゃ。
 誤った認識から生じて意思とか、器官とか、身体がそれぞれ後の付託に用いられているというのじゃ。
 それは無始であるから、相互に依存しあうこともないというのじや。

424避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 04:38:05 ID:XIzJxhik0
くまなりまとめ5

 「私」という観念は、価値のないものである。聖典を読むことにより、「私」という経験から生じた誤った考え、すなわち、アートマンが行為主体であり経験主体であるという考えを、否定することができるのである。この『註解』は、以下で、「私」 という観念の本質と原因と結果とを説明するのである。 人々は、「これが私である」という表現を用いる。すなわち身体等の属性である生・死・老・病等を、すでに身体等の附託されている基体アートマンにさらに附託し、同じように、アートマンの属性である精神性等を、すでにアートマンの附託されている身体等 にさらに附託し「これが、すなわち、生・死・息子・雌牛・主人であるといった所有物および属性が、私のものである」というのが、日常的表現(経験)である。
 
  ここで、附託と日常的表現(経験)という二種の行為から推論される行為主 体は、同一である。附託が日常的表現(経験)より時間的に先であることを示しており、附 託が日常的表現(経験)の原因であることを示している。誤った認識 に基づく日常的表現(経験)と述べられているのである。誤った認識とは附託のことである。それに基づいて日常的表現(経験)がある。すなわち、日常的表現(経験)の存在・非存在は、附託の存在・非存在に基づいているという意味である。
 『註解』は次にその原因について、互いの無識別 (無相違)によってと述べているのである。無識別(無相違)によってとは相違に対する無理解によってという意味である。
   [反対主張]どうして、無識別(無相違)を文字通りにとらないのか。そして、もし文字通りにとれぱ両者が同一となり、附託は存在しない。
  [答論]だから、完全に異なる諸属性およびその基体をと述べられているのである。相違とは、本来は、基体間の場合には非同一性を、諸属性問の場合には混同しないことを意味する。
   [反対主張]「異なる二つの実在を同一であると誤認するのは、両者の相違を理解しないことによる」というのは確かに理にかなっている。しかし、今問題となっている場合には、究極的実在である純粋精神アートマン以外に、実在するもの、たとえば身体等は存在しない。従って、 アートマンとそれ以外のものとの相違に対する無理解がどうしてありえようか。ど うして、同一であるとする誤認がありえようか。

  [答論]だから、真実と虚妄とを混淆してと述べてあるのだ。両者の相違が分からないために附託して、というのが本文の脈絡なのである。また真実とは純粋精神アートマンのことであり、虚妄とは統覚機能・器官・身体等のことであり、これら二つの基体を混淆して、結びつけて、というのがこの句の意味である。また、本来は、現象的存在と究極的実在とが、実際に混淆されることはない。だから混淆してという語に、本来混淆されないものが混淆されるという意味を示す語が用いられているのである。その趣旨は、「被附託 者は、認識されていなければ、附託されることはありえない。従って、附託に用いられるのは、被附託者の認識であって、被附託者という実在自体で はない」という点にある。
  [反対主張]被附託者(非アートマン)が認識されている時に、以前に経験されたも の(非アートマン)がアートマンに附託される。そして、その被附託者である非 アートマンの認識は、非アートマンのアートマンヘの附託に基づいている。従っ て、認識と附託とが相互に依存しあうという理論的誤謬をまぬがれないことになる。
  [答論]だから、生得のと言っているのである。この日常的表現(経験)は、本源的であり、無始である。この日常的表現(経験)が無 始であるから、その原因である附託も無始であると言われているのである。従って、それぞれ前の誤った認識から生じた統覚機能・器官・身体等が、それぞれ後の附託に用 いられるのである。この過程は、種と芽のように無始であるら、認識と附託が相互に依存しあうことはない。これが、この生得のの意味するところである。
(´・(ェ)・`)b

425避難民のマジレスさん:2022/07/07(木) 05:02:59 ID:XIzJxhik0
2.附託と無明 2.1.附託の定義  p216-225

   [質問して]言う。この附託とはいったい何なのかと。答えて言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で56別の場所Yに顕現することであると。
   [反対主張]確かに附託に用いられるのは、以前[に認識したことのある実在]の認 識に限られ、現に認識している実在(Paramārthatta)[自体]が[附託に用いられることはない]。しかし、[ヴェーダーンタ側の主張によれば]身体・器官等は・空中の蓮のように、全く実在しない[はずだから、それらが]認識されること自体ありえない [ことになる]。
   [反対主張に対する反論][身体・器官等は、全くの非実在ではない。それらは・実 在であるとも非実在であるとも表現し得ないものである。従って、全く認識しえない わけではない]57。
   [反対主張]実に、純粋精神であるアートマンの場合でも、[それが]実在である[根拠]は、まさに[それが]輝いている(認識の対象となっている)点(prakāśamāntā)にあ るのであり、それ以外の、実在性という普遍との内属関係(sattāsāmānyasamavāya) 58や効用を果す能力を持つものという性質(arthakriyākāritā)59が、[その実在性を決 定する根拠なの]ではない。というのは、[それらが純粋精神であるアートマンの実在 性を決定する根拠だとすると]二元論に陥ってしまうからである60。そしてまた[この場合]、実在性(sattā)[という存在]と効用を果たす能力を持つものという性質[が 実在する根拠として、さらに、それぞれ]に、別の<実在性>と別の<効用を果す能力 を持つものという性質>を想定しなけれぱならなくなり、無限遡及に陥ってしまうから である。従って、輝いている(認識の対象となっている)ことこそが、実在性[を決定 する根拠]なのだ、と認めるべきである。同じく、身体等も、輝いている(認識の対象 となっている)から、純粋精神であるアートマン同様、非実在ではない。あるいは、も し、[身体等が]非実在であれば、輝いていない(認識の対象となっていない)[はずであるが、実際には、輝いている(認識の対象となっている)。従って、身体等は実在で ある]。とすれば、どうして、[ヴェーダーンタ側の言うような]真実[であるアートマ ン]と虚妄(非実在)[である身体等]との混淆がありえようか。[そして]、それ(混淆)が在在しなければ、相違に対する無理解とは、一体、何の[相違に対する無理解]であり、[それは]何から[生じうるの]か。[さらに]、それ(相違に対する無理解)か 存在しなければ、どうして、附託がありえようか。このような考えを抱いて、[反対主 張者が]言う、すなわち反論する。この附託とは一体何のかと。何なのかという[語]は反論[の意味で用いられているの]である。

脚注
56 57
58実在性という普遍との内属関係とは、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシ力学派で、物の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。これらの学派によれば、個々の個物(たとえば個々の火)が共通に同一の語(たとえば火という語)で示されるのは、普遍(たとえば火性)があるからであるとされる。また、これらの学派は、物と物とを結びつける関係には、二種類あると考えてい る。すなわち、関係によって結びつけられた二つの物が不可分の関係にある場合(たとえば属性とその基 体等との関係)と、両者が分離可能な関係にある場合(たとえば壷と壷が置かれている場所等との関係) の二種である。前者は内属関係と呼ばれ、後者は結合関係と呼ばれる。そし て、普遍と物(実体・属性・運動)との関係は、内属関係であるとされている。従って・個々の火が共通 に火という語で示されるためには、それか火性という普遍と内属関係にあることが必要とされる。同じように、個々の物が実在という語で示されるためには(実在であるためには)、それらが実在性という普遍と内属関係にある必要があるのである。
59効用を果す能力を持つものという性質とは、仏教論理学派で対象の実在性を決定する根拠として用いられる術語である。この派によれば、対象(たとえば壼)が実在であるのは、それ に効用を果す能力(たとえば水が汲める)があるからであるとされている。
60不二一元論学派は、ブラフマン=アートマンのみが実在するという一元論の立場をとっている。従っ て、もし実在性という普遍との内属関係や効用を果たす能力を持つものという性質が実在性を決定する根拠だとすると、ブラフマン=アートマン以外に実在が存在することを認めることになり、その基本的立場
がくずれてしまうことになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/07(木) 22:59:55 ID:1d4drIFg0

 質問したのじゃ。
 付託とは何なのかと。

 答えのじゃ。
 付託とは、以前に知覚されたものが想起の形で別の場所に現れたものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 身体、器官等は実在しないから認識されることもないはずだというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体、器官等は全くの非実在ではなというのじや。
 全く認識されないということもないというじや。

 反対なのじゃ。
 アーマトンさえも実在の根拠はそれが認識の対象であるからというのじゃ。
 身体や器官も認識の対象であるはずだというのじゃ。
 そうであるならばどうして真実であるアートマンと非実在であるアートマンの混淆があるのかというのじゃ。
 混淆が存在しなければ無理解もなく、生じないというのじゃ。
 無理解がなければ付託もないというのじや。

427避難民のマジレスさん:2022/07/08(金) 03:49:46 ID:dqLu5VTI0
(つづき)
   [答論]答論者は、[次のように]、単に附託の定義一[それは]世間の人々に良 く知られたものである ーを述べるだけで、反対主張を退けているのである。答えて 言う。[附託とは]以前に知覚されたXが、想起の姿で、別の場所Yに顕現することであると。顕現すること(avabhāsa)とは、[のちに]消えざる(avasanna)、あるいは、 価値がなくなる(avamata)現れ(bhāsa )61のことである。そして、消えさること (avasāda)、あるいは、価値がなくなること(svamāna)とは、これ(顕現)が、別の 観念によって拒斥されること[を言っているので]ある。そのため、[顕現が]誤った 認識と言われるのである62。そして、以前に知覚されたX(pūrvavadrsta)等は、これ (顕現)の説明である。以前に知覚されたXが顕現すると(pūrvavadrstavabhāsa)とは、以前に知覚されたXの顕現のことである63。そして、誤った観念は、附託の対象 [たとえば真実である真珠母貝]と被附託者[たとえば虚妄である銀]とが混淆されな ければ、存在しない。それ故、以前に知覚されたXと述べることで、[まず]虚妄であ る被附託者を明示するのである。そして、知覚されたX(drsta)と述べてあるのは、 [附託に]用いられるのは、それ(被附託者)の知覚されたものであるという面だけであり、[それの]実在(vastusat)であるという面が[附託に用いられるの]ではないか らである。しかしながら、現に知覚されているもの、すなわち[その]姿(darśana) が、附託に用いられることはない。そのため、以前に(pūrva)と述べてあるのであ る。このうち、以前に知覚されたXは、本来は実在であるが、被附託者となっているので、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの(anirvacanīya)64、すな わち虚妄(mithyā)である。[また]別の場所Yに(paratra)とは、附託の対象一 [それは]真実である ー のことを言っているのである。すなわち、別の場所Yにとは、 真珠母貝等の実在(paramāthasat)に[という意味である]。従って、以上[の論議]により、真実と虚妄とが混淆されることが明らかになった。
   [反対主張][しかし]以前に知覚されたXが、他の場所Yに顕現することというのは、[附託の十分な]定義ではない。なぜなら[定義の]外延が広すぎる(ativyāpaka)65からである。というのは、以前スヴァスティマティーという[名の]牛で見たことのある牛性が、他の場所すなわち力一ラークシー[という名の牛]に顕れるのは、[正しいことで]あるし、また、以前パータリプトラ[という町]で見たことのあるデーヴァタッタが、他の場所すなわちマヒシュマティー[という町]に顕れるのは正しいことだからである。さらに、顕現という語が、正しい観念(認識)にも[用いられるのは]周知の事実である。たとえば、青の顕現、黄色の顕現というように。

脚注
61 62 63
64ātmakhyātiによれば、誤謬とは内的なものである識を外界に存在する対象であると認識する ことである。第二に、asatkhyātiによれば、誤謬とは、非実在を実在と認識するこ とである。第三に、akhyātiによれば、認識はすべて正しいものだが、二種の正しい認識どうし(たとえば知覚と想起等)を正しく区別して認識しないことで誤謬が生じるとされる。第四 に、anyathākyātiによれば、誤謬とは、実在X(たとえば真珠母貝)を非実在Y(たとえば銀)として認識することであり、Yも本来は実在であるとされる。最後にanirvacanakhyāti(anirvacanīyakhyāti)よれば、誤謬とは、実在であるとも非実在であるとも表現し得な いものを認識することである。本文中では、2-1一附託の定義以下2.4.他学派による附託の定 義(3)までで、附託の定義をめぐって、anirvacanakhyātiの立場から他学派の誤謬論か批判されている のである。
65定義が正しいものであるためには、以下の三つの欠陥のないことが必要である。すなわち、(1)定義 の外延が狭すぎること、(2)定義の外延が広すぎること、(3)定義が全くあては まらないことである。ここで、附託の定義に欠陥(2)が認めら れるから十分な定義ではないと言われているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

428鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/08(金) 23:46:54 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託の一定義を述べるだけで反対主張を退けているというのじゃ。
 付託とは以前に知覚されたものが、想起の形で別の場所に顕現することであるというのじゃ。
 顕現とは後に別の観念によって消え去ること、排斥されることだというのじゃ。
 顕現とは結局、誤った観念だというのじゃ。

 その誤った観念とは付託の対象と被付託者が混淆しなければ存在しないというのじゃ。

 反対するのじゃ。

 以前に知覚されたものが別の場所に顕現することは、付託の十分な定義ではないというのじゃ。
 なぜならば別の場所に正しい観念の対象が存在することもありえるからというのじゃ。
 顕現も正しい観念に用いられることもあるから正しくないというのじゃ。

429避難民のマジレスさん:2022/07/09(土) 04:37:58 ID:rxilBjuA0
(つづき)
    [答論]そこで答えていう。想起の姿(smrutirūpar)でと。想起の姿とは、それには想起の姿のような姿がある66[という意味である]。すなわち、想起の姿で[と言うことで]、対象を[現に]直接に知覚していないことを言っているのである。一方、正 しい認識である再認識(pratyabhijñāna)の場合には、対象を[現に]直接に認識し ている。従って、[この定義の]外延が広すぎる(ativyāpti)67ということはない。ま た、[この定義の]外延が狭すぎる(avyāpti)68ということもない。何故なら、夢の中の認識も、想起という[姿の]誤認であるが、[これも]このような(附託という)性 質を持っているからである。というのは、こ(夢の中の認識)の場合にも、[人は]、あ ちこちでまさに以前知覚したことのある、現存する場所と時間という性質を、想起した 父親等一[ところが、父親等を現に]直接に知覚しているのではないということは、夢に昏まされて理解されていない一に、附託するからである69。
   また、「真珠母貝が黄色い」とか「黒砂糖が苦い」という場合にも、同様に、こ(附託)の定義が当然適用される。詳論すれば、次の通りである。黄疸にかかった人(dravyamat)70は、胆汁という実体(bittadravya)一[それは]目から外に放射された非常に透明な光と接触している一に存する黄色という性質を、胆汁という実体とは無関係に、経験(知覚)する。一一方、[感官器官に]欠陥があるために、真珠母貝を白いものとは知らずに経験(知覚)する。さらに、黄色という性質が真珠母貝と無関係であることを
経駿(認識)しない。そして、[黄色という性質と黄金とが無関係ではないと考えるのと]71同じように、[黄色という性質と真珠母貝とが]無関係ではないと考えて、 「黄色い黄金」や「黄色いビルヴァの実」等の場合に以前に知覚したことのある[両者の]同格関係を、黄色という性質と真珠母貝に附託して、「真珠母貝が黄色い」と言うので ある。以上[の説明]で、「黒砂糖が苦い」という観念(認識)も説明したことになる。
[また]同様に、[鏡や水に映った顔を自分の顔だと思う]反映による誤認(Pratibimba- vilbhrama)72にも、[附託の]定義があてはまる。[すなわち、この場合には]服[から出た]光は、非常に透明な鏡や水等一[それらは]認識主体である人間と向かい合っている一と接触しても、[それより]強い太陽の光に[はねかえされて]逆流し、 顔と接触して、[認識主体に]顔を認識させる。一方、[眼に]欠陥があるため、[その 光は]、顔の[実際にある]場所および顔が[実際には自分と]向い合ってはいないことを[認識主体に]認識させることはない。そして、以前に知覚したことのある鏡や水 一[それらは、自分と]向い合っていた一のあった場所という性質および[それら が自分と]向い合っているという性質を、顔に附託するのである。以上[の説明]により、二つの月、方角を誤ること、火輪73、ガンダルヴァの町74、竹薮の蛇等の誤認の場 合にも、場合に応じて、[附託の]定義が適用されるはずである。

脚注
66ここで「想起のような姿」と述べているのは、まず、「想起の姿」と述べることで、附託が再認識とは 異なることを示し、「のような」と述べることで、附託が想起とは異なることを示しているのである。
67 68脚注65参照。
69この個所は、夢の場合には、真珠母貝を銀に附託するときの真珠母貝に相当する基体が存在しないから、附託の定義のうち、「他の場所Yに」という部分があては まらなくなるという反論に対する答た だとさている。
70 71 72
73たいまつの火などを速く回すと、実際には輪ができるわけではないのに、輪のように見えること。
74雲を天界の町と見誤ること。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/09(土) 23:45:58 ID:1d4drIFg0

 答えたのじゃ。

 付託では想起の姿で認識されるのであるからそれでよいじゃ。
 想起の姿であるとは、対象を直接に知覚していないのじゃ。

 正しい認識である再認識では、対象を直接に認識しているというのじゃ。
 これによって定義の外延が広すぎることも、狭すぎることもないのじゃ。
 夢の中の認識も誤認であるが、付託という性質を持っているからというのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2022/07/10(日) 04:31:09 ID:bwOC2mBQ0
(つづき)    p221-222
   以上述べてきたことの趣旨は次の通りである。単に輝いていること(認識の対象に なっていること)だけが、実在性[を決定する根拠]ではない。[もし、それが実在性を 決定する根拠なら]身体・器官等は、輝いている(認識の対象となっている)から、実在であることになろう。[しかし実際には、それらは実在ではない]というのは、[縄等を蛇と見誤る時]、縄等は蛇の姿で顕れ、[水晶に赤い花か映っている時]、水晶等は 赤等の属性を備えたものとして顕れるが、[それら]顕れたもの(蛇等と赤等の)属性を 備えた水晶等)が、それら(蛇等と赤等の属性を備えた水品等)自体であったり、それ らの属性(蛇の属性等と赤等)を備えたりすることはないからである。もしそうなら、 砂漠で、上下に[揺れる]光線の束(唇気楼の河)75を[見て]、「「これは、さざ波という花輪をかけたマンダーキニー(天界のガンジス河)が、近くに降りてきたのだ」と 思って近づいた人は、その水を飲んでも、渇きをいやすことができるはずある。[しかし実際にはそうではない]。従って、たとえ意に添わなくても、「附託されたものは、輝いていても(認識の対象になっていても)、実在ではない」と認めるべきである。
    [反対主張]水は、光線(唇気楼)の姿では非実在である。しかし、それ自体ではまさに実在である。一方、身体・器官等は、それ自体でも非実在である。従って、[身体・ 器官等は]経験の対象とはならないから、附託されることなどどうしてあろうか。
   [答論]それは正しくない。というのは、もし、非実在が経験の対象とはならないのなら、光線(唇気楼)等の非実在が、水として、経験の対象となることはないからであ る。[すなわち、水]それ自体は実在だが、[光線(屡気楼の水)]も、水を本質としており実在である、ということはないのである。
   [反対主張]非実在(abhāva)とは実在(bhāva)と異なるものでは決してない。そうではなくて、まさに実在が、別の実在を[その]本質とすることで、非実在となるのである。[従って、非実在は]それ自体では実在なのである。このことが「非実在とは 実在の別[の形]にほかならない。ただし、[実在が]ある特定の観点から見られたものなのである」76と言われている。従って、[このように、非実在は]本質的には実在であると説明しうるら、これ(非実在)が経験の対象となるのは理にかなっている。 ところが、[身体等の]現象(Prapañca)は、[輝く(顕現する)能力や効用を果す能力 等の]能力をすべて欠き、かつ実在性(tattva)のない・全くの非実在である[から、それが]経験の対象となることはありえない。[従って、身体等の現象が]純粋精神で あるアートマンに附託されることなどありえないのである。
   [反対主張に対する反論]対象には、[輝く(顕現する)能力や効果を果す能力等の]能力がすべて欠けていても、それ(対象)に対応する識(認識、jñāna)一[その]個々の独特な本質は、良く知られており、[識]自らの観念(一瞬時前の識)の力により 得られる一自体が、非実在[である対象]を照らし出す(顕現させる)のであるか。 従って、非実在を照らし出す(顕現させる)こ(識)の力が無明(avidyā)[と言われるの]である。
    [反対主張者の答]それは正しくない。その理由は次の通りである。[そもそも]識
のもつこの非実在を照らし出す(顕現させる)力とは[一体]体]何なのか。また、こ [のカ]は、[一体]何を可能にするのか。もし、[この力が]非実在[の顕現を可能にする]とすると、それ(非実在)とは、これ(識のもつ力)の[生み出した]結果(kārya) なのか、それとも、識のもつ力によって認識させられるもの(jñāpya)なのか。[このうち]まず、[非実在は、識の力が生み出した]結果ではない。非実在がそれ(識の力が生み出した結果)であることはありえないからである。また、[識の力が非実在を]認識させるわけでもない。というのは、[非実在を認識させる識と同時に、それとは] 別の[非実在を認識する]識[が存在すること]は認められないからであり77、また、 [別に非実在を認識する識が存在するとすると、その識をさらに認識させる識が存在することになり]無限遡及に陥るからである。
   [反対主張に対する反論]識は本来非実在を照らし出す(顕現させる)ものなのである。
  [反対主張者の問い]実在と非実在はどのような関係になるのか。

脚注
75文脈に応じて、適宜、光線の束と蜃気楼の河、蜃気楼の水等とを訳し分けた。
76
77唯識論者によれば、識は刹那滅だから、ここに述べられているような二つの識が同時に存在することはありえない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/10(日) 23:28:20 ID:1d4drIFg0
今までのまとめなのじゃ。

 認識の対象であることが実在性を決定する根拠ではないというのじゃ。
 身体、器官も実在ではないというのじゃ。
 縄が蛇と認識されるとか、水晶に赤い色が反映されるとか蜃気楼のように付託があるからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 水は光線では非実在であるが、それ自体は実在はするのじゃ。
 身体、器官は自体も非実在であるというのじゃ。
 経験とか認識されるものではないから、非実在であり、附託されることもないのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在が経験の対象とならないならば、光線が水として経験の対象となることはないから正しくないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 非実在が実在と異なるといことはないというじゃ。
 実在が別の実在を本質とすることで非実在になるというのじゃ。
 そうであるから非実在も経験の対象となるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 対象は能力などが欠けていても、識によって顕現するというのじゃ。
 非実在を顕現させる力が無明というのじや。

 反対なのじゃ。

 識の非実在を顕現させる力は何なのかというのじゃ。
 さらに識を認識させる識が必要になり、無限遡及に陥るとのじゃ。

 答えたのじゃ。

 識は本来、非実在を顕現させるものというのじゃ。

 聞いたのじゃ。

 実在と非実在の関係はどのようなものなのかというのじや。

433避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 00:03:26 ID:DotYiV8Q0
(つづき) p223-224
   [反論者の答]実在である識[のあり方]は、非実在に基づいて決定される、という
のが実在である識と非実在との関係である。
  [反対主張][対象が]実在しなくても、これ(識)[のあり方]が決定されるとは、 このあわれな観念(識)は、実になんとまた運のいいことだろう。[そんな馬鹿なこと があるはずはない]。また、観念がそれ(非実在)に基づくことなど全くありえない。 というのは、非実在が基体となるのは埋に合わないからである。
  [反対主張に対する反論][確かに]これ(観念)が非実在に基づくことは決してな い。しかし、観念は、[常に非実在と共存しているから]、非実在がなければ現われる (prathate)ことはない。それが、まさに、観念の本質なのである。
  [反対主張]この観念は、それ(非実在)から生じるわけでも、それ(非実在)を本 質とするわけでもないのに、それ(非実在)と必ず必然的関係(avinābhava)にある とは、実になんとまた、非実在に未練がましいことか。[しかし、そんな馬鹿なことが あるはずはない]。従って、[以上の論議から明らかなように]、身体・器官等は、実在性(tattva)のない完全な非実在(atyantāsat)であって、経験の対象とはなりえない のである。
  [答論]ここで答えて言う。もし、実在性のないものは経験の対象とはならないとす ると、[光線(屡気楼の水)は水を本質とするものとして]経験の対象となっているから、 この場合、光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在している(satattva) ということになるのではないか。
   [反対主張][光線(蟹気楼の水)は]実在ではない。光線(蟹気楼の水)は、それ (水)を本質とするものとしては、実在しない(asat)からである。そもそも、事物のあり方(tattva)には二種ある。すなわち実在(sattva)と非実在(sattva)とである。 このうち、前者は、自らに基づいて(自己を本質として)[存在して]おり、一方、後 者は、他に基づいて(他の事物を本質として)[存在して]いる。このことが、「常に実在でありかつ非実在である事物に関して、ある人々は、ある時に、[事物]それ自体 の姿で、ある姿(実在)を認識し、ある人は、ある時に、[事物とは]別の姿で、ある 姿(非実在)を認識する」78と言われているのである。
  [答論]だとすると、光線(蟹気楼)を[見て]水が現われたと認識するの(pratyaya) は、真理(実在、tattva)を対象とする[認識だ]ということになるのだろうか。そう だとすると、[この認識は]正しい認識であり、従って、誤認ではないことになり、拒 斥されることもないはずである。[しかし実際には、この認識は誤認であり、のちに生じた認識によって拒斥されるではないか]。
   [反対主張]もし、[この認識が]、光線(屡気楼の水)一それは、実際には、水を本質とするものではない一を、水を本質としないものとして認識していれば、確かに、[この認識は]拒斥されることはない[し、誤認でもない]。しかし、[光線(蟹気 楼の水)を]水を本質とするものとして認識している場合には、[その認識が]どうし て誤認でなかったり、拒斥されなかったりしようか。

脚注
78
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/11(月) 23:30:41 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 実在である識は非実在に基づいて決定されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 対象が実在しなくとも、識のありかたが決定されるとはおかしいといのじゃ。
 観念が実在しないものを基底にすることはありえないというのじゃ。
 存在しないのであるからのう。

 答えたのじゃ。

 観念は非実在と共存しているから、非実在がなければあらわれないというのじゃ。
 それが観念の本質というのじゃ。

 反対なのじゃ。

 観念は非実在から生じるのではなく、非実在を本質とするのでもないのに、必然的な関係なのはおかしいというのじゃ。
 そうであるから身体や器官は非実在で経験の対象にはならないというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 実在ではないものは経験の対象とはならないならば光線による屡気楼の水は水を本質とするものとして経験の対象となっているから、
 光線(唇気楼の水)も水を本質とするものとして実在するということになるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは違うというのじゃ。
 実在は自らに基づいて存在するものであるというのじゃ。
 非実在は他を本質とするものというじゃ。

 答えたのじゃ。

 だとすると蜃気楼の光線を見て水だと認識するのは正しいことになるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それは正しくないというのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2022/07/11(月) 23:54:39 ID:HbYTaiSg0
(つづき) p224-225
  [答論]実に、光線(蟹気楼の水)一[その]本質は水ではない一が、水であることを本質とするのは、まず、実在ではない。というのは、それ(光線=唇気楼の水) は、水でないものと異ならないから、水であることを本質とすることはありえないからである。また、[光線(蟹気楼の水)が水であることを本質とするのは]非実在でもない。というのは、[あなた方反対主張者は]「非実在とは実在の別[の形]である。[実 在と]異なるものでは決してない。何故なら、[実在とは別の非実在は]確証されないからである」79と主張しており、事物Xが実在しないということは、別の事物Y[が実 在すること]にほかならないということを認めているからである。また、[光線に]附託された[水という]姿は、[光線とも、また、水とも]異なるものではない。というの は、[もし、それらとは異なるものだとすると]、それ(光線に附託された水の姿)は、 光線であるか、ガンジス河等の水であるかのどちらかであろう。前者の場合には、光線があるという観念(認識)が[生ずる]はずで、水があるという[観念(認識)は生じ]ないことになる。後者の場合には、ガンジス河に水があるという[認識が生じる] はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。[また]、も し、特定の場所が想い出せない時には、水があるという[認識が生ずる]はずで、ここに[水があるという認識は]決して[生じ]ないはずである。
   [反対主張]これ(屡気楼の水)は完全な非実在であり、全く実体(svarūpa)のない単なる虚妄(alīka)のはずである。
   [答論]それは正しくない。というのは、それ(虚妄=完全な非実在)が経験の対象となりえないことは、すでに述べた通りだからである。従って、[屡気楼の水は]実在 でもなく、非実在でもない。また、実在でありかつ非実在であるということもない。というのは、[実在でありかつ非実在であるというのは]相矛盾することだからである。 だから、光線に[附託された]水(唇気楼の水)は、[実在であるとも非実在であると も]表現し得ないものであると理解すべきである。それ故、以上の論議から[次のこ とが結論づけられる。すなわち、光線に]附託された水(屡気楼の水)は、実在する水 (paramārthatoya)のようであり、従って、以前に知覚されたもののようであるが、実際には、水ではなく、以前に知覚されたものでもない。そうではなくて、虚妄(mithyā)、 すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである。また、同様 に、身体・器官等の現象も、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであり、[従って、それらは]以前に[知覚されたことは]なくても、以前の誤った観念から顕れたものであるかのように、別の場所すなわち純粋精神であるアートマンに、附 託されるのである。[そして]このことは理にかなっている。というのは、附託の定義 にあてはまるからである。また、身体・器官等の現象が拒斥されることに関しては、の ちに説明するつもりである80。
  一方、純粋精神であるアートマンは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナの対象で あり、[それが]本質的に、清浄で、悟っており、解脱したものであることは、それ(天啓聖典等)に基づきかつそれ(天啓聖典等)と矛盾しない論理によって確定している。 [従って、アートマンは]まさに実在であると表現し得る(nirvacanīya)のである。そ して、それ(アートマン)が実在である[根拠]は、[アートマンは]自ら輝いている[か ら、他の認識によって]拒斥されることはないという点(abādhitā svayamprakāśatā) にこそあるのであり、そして、それこそか、純粋精神であるアートマンの本質なのであ る。一方、それ(他の認識こよって拒斥されることのない、自ら輝いているという性質)とは異なる、実在性という普遍との内属関係や効果を果す能力を持つものという性質は、[アートマンが実在であることを決定する根拠では]ない。こうして、すべては 明らかとなったのである。

脚注
79 80
(´・(ェ)・`)つ

436鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/12(火) 22:48:16 ID:1d4drIFg0
 答えたのじゃ。

 蜃気楼の光線は水を本質とするものではないから、実在ではないというのじゃ。
 非実在でもないというのじゃ。
 反対者が実在と非実在は同じというからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 蜃気楼の水は非実在であるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 非実在である虚妄が経験の対象になりえないことはすでに述べた通りなのじゃ。
 そうであるから屡気楼の水は実在 でもなく、非実在でもないというじゃ。
 実在であり、非実在であるということもないのじゃ。
 矛盾するからなのじゃ。

 同じように身体や器官等の現象も、また実在であるとも非実在であるとも表現できないものというのじゃ。
 アートマンに付託されたものであるというのじゃ。

 そのアートマンは聖典とかに記された論理で確定されているから実在といえるのじゃ。
 さらにアートマンは自ら輝いているから、他の観念によって排斥されないから実在なのじゃ。
 それがアートマンの本質であるというのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2022/07/13(水) 10:33:39 ID:WCu/3GdE0
2.2.他学派による附託の定義(1):Ātmakhyātivādin 1. p225-226 114右/229

  そして、この[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない附託一[その]定義は先に述べた通りである一は、実に、すべての人が認めているところである。[しかし]、その(附託の)詳細(bheda)に関しては、諸論者間に相当な見解の相違がある。 そのため[『註解』の作者シャンカラは、附託が実在であるとも非実在であるとも] 表明し得ないものであることを確定するために、[次のように]述べているのである。
  ある人々81は、それ(附託)とは、Xの属性82を別の場所Yに附託すること (文字通りには、別の場所Yに対するXの属性の附託)であると言っている。
  Xの属性のとは、識(認識)の属性の、[たとえば]銀の識の形相(jñānākākra)の、 等々[という意味]である。[それを]別の場所Yに、すなわち外界に、附託する。ま ず、経量部の見解では、外界の事物は実在であり、それ(外界の事物)に識の形相が附 託されるのである。[一方、唯識論者によれば]、外界の事物は実在しないが、無始である無明の潜在印象(Vāsanā)より生じた外界[の事物]ー[それは]虚妄であるーが存在する[から]、唯識論者の場合にも、それ(外界の事物)に識の形相が附託され るのである。[唯識論者が、外界の事物は虚妄であっても存在する、と認めている]理 由(upapatti)は次の通りである。すなわち、経験によって良く知られた姿は、[それ を拒斥する観念が生じないうちは]、そのままの姿で[存在するものと]認めておくぺ きである、という原則があるからである。というのは、それ(経験によって良く知られ た姿)が[拒斥されて、それとは]別の姿になるのは、[その経験を]拒斥するより強 力な観念の力によるからである。そして、[たとえば「これは銀ではない」83という拒斥の場合、[それは、銀が外界に存在することを示す] 「これ」という性質のみを拒斥 することによって可能となるのである。[従って]、この場合、[拒斥の]対象が銀であ るというのは適当ではない。というのは、銀という基体が拒斥されると、銀とその属性である「これ」という性質が[共に]拒斥されることになるから、基体である銀も拒 斥される[と考える]よりは、これ(銀)の属性である「これ」という性質だけが拒斥 される[と考える]ほうが、理にかなっているからである。そして、このように、銀が 外界に[存在在すること]は拒斥されるから、当然(arthāt)、銀は内的な識に[存在 するのだと]確定されるのである。従って、外界に、識の形相が附託されることが確立 されるのである。

脚注
81 82
83 以下、真珠母貝を銀と見誤る例に基づいて論議が進められるので、理解しやすくするため、適宜、真珠母貝と銀の例を補った。
くま注、経量部、部派仏教の一派である。説一切有部から分派した。3世紀末に開かれた。説一切有部、及び大乗仏教の中観派・唯識派と共に、「インド仏教4大学派」の1つに数えられたりもする。
説一切有部が論(アビダルマ)を重んじたのに対して、経典を重んじて基準(量)としたため、「経量」部と呼ばれた。
(´・(ェ)・`)つ

438鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/13(水) 23:53:03 ID:1d4drIFg0
このような実在でもなく、非実在でもないという付託の定義はすべての人が認めているというのじゃ。
 しかしその詳細には各派で違いがあるというのじゃ。

 それについてシャンカラが述べているというのじゃ。

 経量部は、外界の事物は実在であり、それに識の内部にある形相が附託されるというのじゃ。

 唯識派は、外界のものは存在しないというのじゃ。
 ただ無明によって生じた虚妄の外界の事物に、職の形相が附託されるというのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 01:07:11 ID:CztdSez.0
2.3.他学派による附託の定義(2):Akhyātivādin p227-228

  しかし、ある人々84は、[附託とは]XがYに附託された時、[Xと]Y85との区別を理解しないことに基づく誤認(bhrama)のことであると[言う]。
  しかし、ある人々は、すなわち、識の形相説に満足しない人々は、[附託とは]Xが Yに附託された時、[Xと]Yとの区別を理解しないことに基づく誤認のことであると [言う]。そして、[識の形相説に]満足しない理由を[次のように]述べている。すな わち、銀等が識の形相であることは、経験に基づいて確定されるか、推論に基づいて確定されるかのいずれかであろう。このうち、推論に関しては、のちに退けるつもり である86。[さてもし、銀等が識の形相であることが経験に基づいて確定されるとすると、その]わ87経験とは、さらに、銀等の観念であるか、[銀等の観念を]拒斥する観念で あるかのいずれかであろう。まず第一に、[それは]銀の観念ではない。というのは、 それ(銀の観念)は、「これ」という語(観念)の対象である(外界に存在する)銀を認識させるのであり、内的なもの(識の形相としての銀)を認識させるのではないからである。何故なら、その場合には(もし、銀の観念が、内的なものである識の形相としての銀を認識させるのなら)[「これは銀である」どういう認識ではなく]、「私は[銀である]」と[いう認識が生ずることに]なるはずだからである。というのは、[唯識論者にとっては]認識主体と観念(識)とは異ならないからである。
  [唯識論者]錯誤せる識が、まさに自己の形相を外界に存在するものとして定立するのである。従って、これ(識)の対象は、[外界に存在するものとして定立された識の 形相であるから]、「私」という語(観念)の対象ではない。さらに、これ(外界に存在 する銀等)が識の形相であることは、[外界に存在する銀等を]拒斥する観念から知られるはずである。[すなわち、外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものすなわち銀等も観念、のはずである]。 [Akhyātivādin]ああ、あなたは長生きするよ88。[銀等を]拒斥する観念をよく考察してごらんなさい。[銀等を拒斥する観念は]ー体、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも、[銀が]識の形相であることを示すのか。このうち、[銀等を]拒斥 する観念の機能は、[銀等が]識の形相であることを示す点にあると[あなたが]言うのなら、[あなたは]見上げた利口者であり、神々のお気に入り(馬鹿)である。
   [唯識論者][銀が]眼前にあることが否定される(pratisedha)のだから、当然(arthāt)、 これ(銀)は、[内的なものであり]識の形相である。
  [Akhyātivādin]そうではない。[銀が認識主体の]近くに存在していないことに対する無理解が否定されると、[銀等が]認識主体の近くに存在していない[ことが理解 されるだけで]あり、[そのことから]どうして、これ(銀)が認識主体を本質とするというような、[銀と認識主体との]極端な近接関係(sannidhāna)が[理解されたり]しようか。

脚注
84 85 86 87
88「長生きするよ」とか「神様のお気にいり」という語は、反対主張者なかでも仏教徒を郷楡して馬鹿よばわりするときに用いられる表現である。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/14(木) 23:50:40 ID:wWrqg5gM0
 しかし、他のものは付託とは、XがYに附託された時、それらの区別を理解しないことに基づく誤認だというのじゃ。
 唯識のものがいうように、たとえば銀の形相が経験に基づいて確定されるならば、それは銀の観念ではないというのじゃ。
 なぜならば唯識論者にとって観念と認識主体は異ならないから、私は銀であるという認識が起こるというのじゃ。

 唯識論者は反対するのじゃ。

 認識の対象は自分ではないからそれはないというのじゃ。
 外界に存在する銀等が識の形相であることは、それを拒斥する観念から知られるというのじゃ。
 なぜならば外界に存在する銀等を拒斥するものが観念であるから、拒斥されるものである銀等も観念のはずであるというのじゃ。

 
  答えたのじゃ。

 銀等を排斥する観念は、眼前にある実体と銀とを識別するのか、それとも銀が識の形相であることを示すのかと聞くのじゃ。
 銀等を拒斥 する観念の機能は、それ識の形相であることを示す点にあると言うのなら間違いなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀が眼前にあることが否定されたのであるから、当然それは内的なものであり、識の形相だというのじゃ。

答えたのじゃ。

 それはただ銀が認識主体の近くにないことを示しただけなのじゃ。
 それだけで認識主体を本質とするということにはならないのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2022/07/14(木) 23:56:03 ID:cOC89WfM0
(つづき)  p228-229    
  さらに、これ(銀を拒斥する観念)は、銀を否定するのでも、「これ」という性質 を否定するのでもなく、「これは銀である」という銀に関する日常的表現(経験)一 [それは、真珠母貝を対象とする「これ」という認識と想起された銀の認識との]区別 を理解しないことから生じたものである一を否定するのである。
  また、[anyathākhyāivadinが言うように]89、銀の認識によって銀自体が真珠母員貝に現われる(prsañjita)のではない。何故なら、銀が顕現する基体(ālambana)が 真珠母貝であるというのは、理に合わないからである。というのは、[それは]経験に 反するからである90。
  また、[真珠母貝は、真珠母貝であることは知られていなくても]存在するだけで (sattāmātrena)[銀が顕現する]基体となるということはない。というのは、[その場 合には、銀が顕現する基体となりうるものの範囲が]広くなりすぎるという誤謬に陥るからである。すなわち、すべての事物は、存在であるという点では変わりがないから、 [すべての事物が、銀の顕現する]基体となるという誤謬に陥るのである。さらに、[真珠母貝は、銀が顕現する(認識される)]原因であるから、[銀が顕現する基体(銀とい う認識の対象)である、というわけ]ではない。というのは、感覚器官等も[銀が顕現 する(認識される)]原因だからである。従って、基体(対象、ālambana)91が意味す るのは、顕現すること(認識されること)にほかならない。そして、真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから、どうして、[真珠母貝が銀の顕現の(銀の認識の)]基体(対象)でありえようか。あるいは、[銀の認識に真珠母貝が]顕現することを認めた場合には、[銀の認識の対象が真珠母貝であるということになり]、どうして経験に反しないことがあろうか。[経験に反することになってしまう]。
  さらに、感覚器官等には正しい認識を生み出す能力[のあること]が認められているのだから、どうして、それら(感覚器官等)から、誤った認識が生じようか。
  [反論]これら(感覚器官等)は、欠陥を伴う場合には誤った観念[を生み出す]能力も持つのである。
  [Akhyātivādin]そうではない。何故なら[感覚器官等の]欠陥は、[感覚器官等に備わった]結果を生み出す能力を損う原因となるだけ[であって、誤った認識を生みだ す原因とはならない]からである。というのは、さもなければ、欠陥があればクタジャ の種からでも、バニヤンの芽が出る、という誤謬に陥ることになるからである。さら に、[銀が認識の対象でもないのに、銀が認識されるというように]、諸々の認識が自己 の[正当な]対象からはずれるとすると、あらゆる場合に、[認識が]不確実なものと なる(anāśvāsa)という誤謬に陥ることになる。それ故、認識はすべて正しいと認め るべきである。従って、「銀」という認識と「これ」という認識は、[それぞれ]想起と経験(知覚)という姿をした二種の[正しい]認識なのである。

脚注
89
90何故、経験に反するのかという点については、以下の論議を参照のこと。
91ālambanaという語には、基体という意味と対象という意味がともに含まれているので、ここでは、文脈に応じて、適宜、基体と対象を訳し分けた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2022/07/15(金) 09:56:22 ID:QQibwu9g0
「くまなりまとめ」は、長くなり過ぎるので、中断するであります。
 
鬼和尚の解説が優れた要約になっているので、それを参照しながらの読解の訓練が、集中力の鍛錬になるであります。
たいへんありがたいことであります。
(´・(ェ)・`)b

443鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/15(金) 23:30:30 ID:wWrqg5gM0

 さらに銀を排斥する観念は銀を否定するのではなく、性質を否定するのでもないというのじゃ。
 銀に関する経験を否定するのじゃ。

 また銀の認識で銀が真珠母貝に現れることもないというのじゃ。
 銀が顕現する基体が 真珠母貝であるというのは理に合わず、経験にも反するからなのじゃ。

 真珠母貝は真珠母貝として存在するだけで銀の基体になることもないというのじゃ。
 それだと全ての存在が銀の基体となってしまうからなのじゃ。

 真珠母貝は銀が顕現する原因であるから基体であることもないのじゃ。
 感覚器官も銀が顕現する基体となるかなのじゃ。

 基体とは認識されることに他ならないというのじゃ。
 真珠母貝が銀の認識に顕現することはないから基体ではないというのじゃ。

 感覚器官も正しい認識を生み出す能力があるから、それから誤った認識が起こることもないというのじゃ。

 反論なのじゃ。

  感覚器官は欠陥があれば、誤った認識を生み出すのじゃ。

 答えたのじゃ。

 感覚器官の欠陥は、結果を生み出す能力を生む原因となるだけで、誤った認識の原因とはならないというのじゃ。
 認識の欠陥である植物の種から、別の植物の実がなることはないからなのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2022/07/16(土) 00:55:58 ID:kcJDodG20
(つづき) p229-230
  このうち、「これ」という[認識]は、眼前に[何か]実体があることだけを知覚しているのである。というのは、そ[の実体]に属す真珠母貝性という[真珠母に]共通 の特質(sāmānyaViśesa)92が、[感覚器官等に]欠陥があるために知覚されていないからである。そして、 「それ(眼前に存在する何らかの実体)だけが知覚されると、[その実体は、銀と]似ているので、[人に、過去に知覚したことのある銀の]印象を想い 起こさせることで(samskārodbhdakakramena)、銀を想起させるのである。そして、 それ(銀の想起)は、[過去に]知覚したことのある認識を本質とするものではあって も、[感覚器官等に]欠陥があるために、[過去に]知覚したことのあるものだという 面が欠落している(pramosa)から、[現存する]知覚としてのみ立ちあらわれているのである。このように、銀の想起と眼前に存在する[何らかの]実体のみを知覚することとは、[両者の]区別が理解されていないために、[認識]それ自体に関しても、ま た、[その]対象に関しても、混同されるのである。「これ」という[認識]と「銀」という[認識]は、知覚と想起というように[それぞれ]異なっているにもかかわらず、 [それらは、感覚器官と]結合した銀(眼前に存在する銀)を対象とする認識と似ているために、[両者を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することを引き起すのである。 また、ある場合には、二種の知覚の区別が互いに理解されないことがある。たとえば、「法螺貝が黄色い」という場合のように。この場合には、[眼から]外た出た光線 一[それは]水晶のように透明である一に存在する胆汁の黄色は知覚されるが、胆汁は知覚されず、[一方]ほら貝も、[感覚器官等に]欠陥があるために、白という属 性のない、単なる実体として知覚される。それ故、これら属性(黄色)と[その]基体 (法螺貝)とが無関係であることを理解しないことから[生ずる]類似性に基づいて、「黄金の塊は黄色い」という観念の場合と同じように、[「法螺員は黄色い」という、両者 を]区別しない日常的経験や[両者を]同格関係で表現することが[生ずるので]ある。 また・[想起と知覚あるいは二種の知覚の]区別を理解しないことから生じる、[両者 を]区別しない日常的経験が拒斥されることで、「これは...ではない」という[両者を]識別する観念が拒斥するもの(bādhaka)であることも成り立つのである。そして、こ のことが成り立てば、前に[生じた]観念は、[あとに生じた観念によって拒斥される から]誤認である、という世間で認められている事実も成り立つことになるのである。
  それ故、[次のような椎論式が成立する。すなわち]「(主張)疑問と誤認に満ちた相 矛盾する見解はすべて正しい(yathārtha)。(理由)というのは、[それらは]観念だからである。(実例)たとえば、壷等の観念のように」。
  以上のことが・Xが[Yに]附託される[時]云々と言われているのである。真珠母貝(Y)に銀等(X)が附託されるのは、世間で周知の事実である。[しかし]、それは、 YがXとして認識されること(anyathākhyāti)93に基づくのではない。そうではなく て、[それ(附託)とは、ある場合には、以前に]知覚したことのある銀等およびその [銀等の]想起が、「これ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体) の認識とは異なるということを理解しないこと一[それは銀等の以前に]知覚した ことのあるものであるという面が欠落することによる一に基づく誤認である。また、[ある場合には・附託とは、以前に]知覚したことのあるものが、rこれ」という形で眼前に存在する[何らかの]実体およぴそ(実体)の認識とは異なるということを、理解 しないことに基づく誤認である。そして、知覚と想起を互いに同格関係によって表現することや・「[これは]銀である」等の日常的経験は、誤認[の結果]なのである。

脚注
92共通の特質とは、個物に対しては普遍であり、実在性に対しては特殊であるものを言い、類と同義である。
93 脚注64参照。
(´・(ェ)・`)つ

445鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/16(土) 23:24:38 ID:wWrqg5gM0
 認識は眼前に実体があることだけを知覚しているというのじゃ。
 それが実体をも否定する唯識論者との違いなのじゃ。

 実体に属する共通の特質が知覚されず、似たものが想起されるというのじゃ。
 以前に認識したものと眼前のものと区別しないから混同が起こるのじゃ。

 また二種の知覚の区別が理解されないために起こる事もあるというのじゃ。
 対象の属性と基体が無関係であることを理解しないから起こる事もあるというのじゃ。
 それらの無理解が拒斥されることで両者を区別される観念も成り立つというのじゃ。

 付託とは何かが別の何かに認識されるというだけではないのじゃ。
 眼前の対象が、以前に知覚された別の似たものに誤認されることが付託されたということだというのじゃ。

446避難民のマジレスさん:2022/07/17(日) 02:45:26 ID:qTt0I4uw0
2.4.他学派による附託の定義(3):その他の学派   p231-235

  しかし、別の人々は94、[附託とは]XがYに附託された時、Yにはまさに [それに]反する属性があると誤って構想すること(kalpanā)である、と主 張している。

  しかし、別の人々は、すなわち、これ(これまで述べてきたakhyātiの見解)にも満 足しない人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反する 属性があると誤って構想することである、と主張している。ここ(本文中)で言おうと していることは以下の通りである。銀を求める人は、「これは銀である」という観念に 基づいて、眼前に存在する実体に向かったり、[その実体と銀とを]同格関係で表現し たりする。これは、広く知られているところである。[しかし]、知覚と想起およびその [それぞれの]対象が互いに異なることに対する単なる無理解から、このことが[起こ る]ということはありえない。というのは、精神神的存在の日常的経験(vyavahāra, 活動)95と表現は、理解に基づいており、[それらが]単なる無理解から[起こること]は決してありえないからである。
  [Akhyātivādin][それらは]単なる無理解から[起こるの]ではない。そうではなくて、知覚と想起は、それ自体に関しても、また、[その]対象に関しても、互いに異 なることが理解されていない場合には、[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]眼前に存在する銀に関する正しい認識と類似しているために、[「これ」と「銀」とを]区別しない日常的経験(活動)や[両者の]同格関係による表現を引き起すのである。
  [Akhyati批判][このようにあなたは]言っていったが、では、これら(知覚と想 起)が正しい認識と類似していると理解されている時に、[その類似性が]日常経験(活 動)を引き起こす原因となるのか、あるいは、[類似していると]理解されていなくて [も]、単に[類似性が]存在するだけで、[それが日常経験(活動)を引き起す原因と なるの]か。[このうち、知覚と想起が正しい認識と類似していると]理解されている 場合には、[この理解は]、さらに、 「『これ』という[知覚]と『銀』という[想起]と いうこれら二種の認識は、正しい認識と類似している」という形の理解になるか、「こ れら二種[の認識]は、実に、[認識]それ自体に関しても、また、その[それぞれの] 対象に関しても、互いに異なることが理解されていない」という形の理解となるか[のいずれかであろう]。このうち、まず、 「正しい認識と類似している」という認識は、 正しい認識のようには、日常的経験(活動)を引き起すことはない。というのは、「カ ヴァヤ96は牛に似ている」という認識は、牛を求めている人を、ガヴァヤに向かわせる ことはないからである。一方、 「これら二種[の認識]は、実に、異なることが理解 されていない」という認識は、自己矛盾である。というのは、「[両者が]異なることが理解されていな」ければ、 「これら二種[の認識]は」という形はとらないし、 「こ れら二種[の認識]は」という理解があれば、 「[両者が]異なることが理解されてい ない」ということはないからである。従って、[次のように]言うべきである。すなわ ち、[「これ」という知覚と「銀」という想起が眼前に存在する銀に関する正しい認識と 類似しているという事実が]単に存在するだけで、[知覚と想起が]異なることを理解していないということが分からなくなり、[それが]日常的経験(活動)の原因となる のであると。

脚注
94Ratnaprabhāは、「空観派の人々」と解し、Nyāyanirnayaは、中観派の人々 と解している。Bhāmatīがどう解していたかは不明だが、その註釈は、(中観派の人々 )と解している。
95日常的経験という語には、日常的活動という意味あいも含まれている。
96 牛に似て牛に非ざるものの例としてよく用いられる雄牛の一種。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

447鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/18(月) 00:07:57 ID:7bvYmyZM0
さらに別の派のものは付託とは、あるものが付託され時にそれとは反する属性があると、誤って構想することというのじゃ。
 それは単なる無理解ではなく、知覚と想起が主客共々、互いに異なることが理解されていない時に区別しない表現を引き起こすというのじゃ。
 つまり真珠母貝が銀と誤認された時に、実は過去の記憶から想起されたものであるのに、知覚されたと思ってしまうということじゃな。
 それも類似しているからというのじゃ。

 反論なのじゃ。

 正しい認識と類似しているという認識が、それらの認識を引き起こすことはないというのじゃ。
 
 
 さらに二種の認識が異なることが理解されていないというのは自己矛盾であるというのじゃ。
 異なることが理解されていなければ、これら二種の認識はという形はとらないからなのじゃ。
 その理解があれば両者が異なることが理解されていないということはないからだというのじゃ。
 
 そうであるから、対象の知覚と想起が、想起対象の正しい認識と類似しているという事実が単に存在するだけで、
 知覚と想起が異なることの無理解が起こり、誤認の原因となるのであると言うのが正しいというのじゃ。

448避難民のマジレスさん:2022/07/18(月) 00:45:29 ID:ct57SF/Q0

(つづき)    p932-933
  [問]この場合、これ(知覚と想起が異なることに対する無理解)は、附託を生み出 すことで、日常的経験(活動)の原因となるのか、それとも、附託を生み出すことなし に、まさに、それ自身で、[日常的経験(活動)の原因となるのか。]
  [Akhyāti批判者]我々は[次のように]考えている。すなわち、精神的存在の日常 的経験(活動)が無知を前提とすることはありえないから、[知覚と想起が異なること に対する無理解は]、附託という認識を生み出すことによってのみ、[日常経験(活動) の原因となるのである]と。
  [Akhyātivādin][確かに]その通りで、精神的存在の日常的経験(活動)は、無知 を前提とすることはないが、[附託という認識を前提とするのではなくて]、異なること が知られていない知覚と想起とを前提とするのである。
  [Akhyāti批判]そうではない。というのは、「銀」という名詞語幹(prātipadika) の意味を想起しただけでは、活動の役には立たないからである。実に、銀を求める人々 の活動が、[ただ想起しただけの銀に向かうのではなく]、「これ」という語(観念)の 対象に向かっているのは、疑いのない事実である。もし、これ(「これ」という語(観 念)の対象)を求めていなければ、どうして、この人(「銀」という名詞語幹の意味だ けを想起した人)が、「これ」という語(観念)の対象に向かおうか。Xを求めてYに 向かうというのは自己矛盾である。もし、「これ」という語(観念)の対象が銀である と知らなければ、銀を求める人は、どうして、それ(「これ」という語(観念)の対象) を欲しがったりしようか。
  [Akhyāti批判に対する反論]そうでない(銀でない)ことが分かっていないから[銀を求める人は、「これ」という語(鮒念)の村象を欲しがるの]である。
   [Akhyāti批判]もし、そんなことを言うのなら、そうである(銀である)ことが分かっていないのだから、どうして、[「これ」という語(観念)の対象に対して]無関心 でいられないのか答えるべきである。[このように]この[銀を]求める精神的存在が、 [銀を]取りに行くほうにつくか、[銀に対して]無関心であるほうにつくかは確定して いないが、「これ」という語(観念)の対象に銀を附託することによって、[この人は、 銀を]取りに行くほうにのみ、確定させられるのである。従って、[知覚と想起とが]異なることに対する無理解は、附託を生み出すことによって、精神的存在の活動の原因 となるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく

449鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 00:23:36 ID:7bvYmyZM0
聞いたのじゃ。
 
 知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるのか。
 あるいは附託を生み出すことなしに、れ自身で日常的経験原因となるのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 
 精神的存在の日常的経験が無知を前提とすることはありえないのじゃ。
 そうであるから無理解は附託を生み出すことで、日常的経験の原因となるというのじゃ。

 聞くのじゃ。

 精神的存在の日常的経験は、無知を前提とすることはないが、異なることが知られていない知覚と想起とを前提とするというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 想起だけでは人は日常的な活動はしないからそれは違うというのじゃ。
 想起の対象が必要なのじゃ。

 反対なのじゃ。

 銀でないことがわかっていないから、人はその想起の対象を欲しがるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 銀でないことがわかっていないならばその対象に無関心でいられないのかというのじゃ。
 観念の対象に銀が付託されているから、人は銀を取りに行くというのじゃ。
 そうであるから知覚と想起が異なることに対する無理解は、附託を生み出すことで日常的経験の原因となるのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 08:03:53 ID:GORVQfcI0
(つづき) p233-234
  詳論すれば次の通りである。[「これ」という知覚と「銀」という想起とが]異なるこ とに対する無理解から、[まず]「これ」という語(観念)の対象に銀性を附託する。[次 に]その(銀という)種類に属すものは役に立つものであると考える。[そして]「これ」 という語(観念)の対象である銀は、その(銀という)種類に属するものであるから、それ(役に立つもの)であると推論する。[次に]それ(「これ」という語(観念)の対 象である銀)を求めて、人は、[その銀に]向かう。このような順序が確立されるのであ る。[一方]一般的な(tatastha)銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象が役に立 つものであると推論するのには役立たない。というのは、[その場合には、「これ」と いう語(観念)の対象が役に立つものであることを推論する]原因(hetu)である銀性 は、場(paksa)に存在するもの(dharma)ではないからである97。実に、推論を成立 させるの(anumāpaka)は[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因とが]同一の場に見られることであって、[両者が]別々の場に見られることではないのである。たとえば、[そのことが]「[遍充]関係(sambandha) を知る者は、[推論によって立証しなけれぱならないものと推論によって立証するための原因とが]同一の場に見られることに基づいて、[推論を行う]」98と述べられてい る。一方、附託の場合には、[推論によって立証しなければならないものと推論によっ て立証するための原因が]同一の場に見られる99。従って、[次のような推論が]成立 する。(主張)この論議の対象である銀等の認識は、眼前に存在する事物を対象として いる。(理由)何故なら、銀等を求める人を、必ず、そこ(眼前に存在する事物)へ向かわせるからである。(実例)Xを求める人を、必ず、Yへ向かわせる時、[その]Xに 関する認識はすべて、Yを対象としている。たとえば、[我々]両者が[そうだと]認 めている銀に関する正しい認識のように。(適用)これ(論議の対象となっている銀等 の認識)もそうである(眼前に存在する事物を対象としている)。(結論)従って、そう である(銀等の認識は眼前に存在する事物を対象としている)。

脚注
97推論が正いいものであるためには、二つの条件、すなわち、(1)推論の原因と推論によっ て立証しなければならないものとが同一の場に存在すること、(2)領域を覆うものの存在する領域が領域を覆われるものの存在する領域を覆って(あるいはそれと 重なっ)いるという関係にあることとが、満たされる必要がある。たとえば、山から立ち昇る煙を見て山 に火があることを推論する場合、山が場であり、煙が推論の原因であり、火が推論によって立証しなけれ はならないものである。また、火が領域を覆うものであり、煙が領域を覆われるものである。この推論が 正しいものでああるためには、(1)煙と火が同一の山にあること、(2)火の存在する領域が煙の存在する 領域より広い(あるいは同一である)ことが必要とされる。このことについては、脚注(14)でふれたの で、ここでは、詳しく説明することは避けたい。なお、本文の場合には、銀性が推論の原因であり、「これ」という語(観念)の対象の役に立つものであるという性質が推論によって立証しなけれぱならないも のであるが、銀性は銀という場に存在し、役に立つものであるという性質は「これ」という語(観念)の 対象である真珠母貝という場に存在しており、両者は同一の場に存在していない。従って、条件(1)が 満たされないから、銀の想起は、「これ」という語(観念)の対象か役に立つものであると推論する原因 とはならないのである。
98
99附託の場合には、銀性は「これ」という語(観念)の対象(真珠母貝)に附託されているのだから、 「これ」という語(観念)の役に立つものであるという性質も銀性もともに、同一の場、すなわち「これ」 という語(観念)の対象(真珠母貝)に存在することになり、推論が正しいものであるための条件(1)が満たされていることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

451鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/19(火) 22:51:45 ID:7bvYmyZM0
 知覚と想起への無理解から、知覚の対象に銀という観念を付託するのじゃ。
 それから銀が役に立つものと考えるのじゃ。
 そして銀が役に立つ貴金属であると推論するのじゃ。
 それから人は銀を求めて行動するというのじゃ。

 ただ想起するだけでは、人は動かないのじゃ。
 目の前に銀がないからなのじゃ。
 
 付託による認識は目の前にあるものを対象にしているというのじゃ。

452避難民のマジレスさん:2022/07/19(火) 23:42:31 ID:IB25p8NI0
(つづき) p234-235
  [Akhyātivādin]真珠母貝は、[銀の認識に]顕現しないから、[銀の顕現する]基 体([銀の認識の]対象)ではない100。
  [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。この場合、あなたに尋ねる。 説明せよ。「これは銀である」という認識の基体(対象)とならないのは、一体、真珠母貝性なのか、それとも、眼前に存在する白く輝く何らかの実体なのか。もし。真珠母貝性が[「これは銀である」という認識の]基体(対象)ではない[と言うの]なら、確 かにその通りである。[しかし]後者(眼前に存在する白く輝く何らかの実体)が[「こ れは銀である」という認識の]基体(対象)ではないと言うのなら、あなたはまさに、 経験に反することになる。というのは、「これは銀である」と経験している人は、経験しながら、眼前に存在する事物を、指等で指し示しているからである。
  [Akhyātivādin][感覚器官等の欠陥は、感覚器官等に備わった結果を生み出す能力
を損う原因となるだけであって、誤った認識を生み出す原因とはならない。というの は、さもなければ、欠陥があれば、クタジャの種からでも、バニヤン芽が出る、という 誤謬に陥ることになるからである。]101
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。というの は、欠陥のある原因は、通常の結果[が生じること]を妨げることで、[それとは]別 の結果を生み出すことができる、ということが経験されるからである。たとえば、山火事で焼かれると、竹の種から、カダリー木の茎が生ずることがあるし、また、体内の火は、過食病(bhasmaka)にやられると、多くの食物を消化することがある。
   [Akhyātivādin][次のような推論が成り立つことになる。「疑問と誤りに満ちた相矛盾する見解はすべて正しい。というのは、それらは、観念だからである。たとえば、 壼等の観念のように」。]102
  [Akhyāti批判][このように、あなたは言っていたが、そうではない]。直接知覚に よって[その]対象が拒斥された誤認が、正しい[などという]推論は、誤り(ānhāsa) である。たとえば、火が熱くないという推論のように。
  [Akhyātivādin][銀が認識の対象でもないのに、銀を認識するというように]誤っ た認識が、[認識自身の正当な対象から]はずれているとすると、あらゆる正しい認識根拠が不確実なものとなってしまう103。
   [Akhyāti批判][このように、あなたは]言っていた。[しかし]我々は、[認識は、人を]目覚めさせる(bodhaka)から、それ自体で正しいものであるのであって、[認識自体の正当な対象から]はずれることがないから[正しい]というわけではないの だ、と明言しており、これ(あなたの主張)は[すでに]、『ニヤーヤカニガー』の中 で104退けたので、ここでは、詳しくは説明しないことにする。
  また、[誤認の場合には、想起されたものの]想起という面が欠落しているのだ105[と いうakhyātivādinの主張]に対する批判については、ここ(akhyāti批判の箇所)で は、少しふれただけであるが、詳しくは、『タットヴァサミークシャー』106の中で、理解いただけるはずである。
  以上のことが、[『註解』本文中で]次のように述べられているのである。すなわち、
しかし、別の人々は、[附託とは]、XがYに附託された時、Yにはまさに[それに]反 する属性があると誤って構想することである、と主張していると。[附託とは]Xがす なわち銀等がYにすなわち真珠母貝等に附託された時、Yにはすなわち真珠母貝等に はまさに[それに]反する属性がと誤って構想することである。すなわち、銀牲という属性があると誤って構想することである、というのが本文の脈略である。

脚注
100 本訳228頁15-17行参照。
101 本訳229頁参照。
102 本訳228頁29行参照。
103 本訳230頁5-7行参照。
104
105 本訳229頁13-15行参照。
106これは、マンダナミジュラの『ブラフマ・シッディ』に対するヴァーチャスパティ・ミシュラの註釈であるが、現存しない。
(´・(ェ)・`)

453鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/20(水) 23:45:49 ID:XIHZ8HZ20
 
 また他の派の者は付託とは近くの対象に別のものが付託された時に、その対象に反する属性があると構想されてしまうことであるというのじゃ。
 銀等が真珠母貝等に附託された時、真珠母貝等に はそれに反する属性がと誤って構想することであるだというのじゃ。
 つまり銀牲という属性があると誤って構想することだというのじゃ。

454避難民のマジレスさん:2022/07/21(木) 08:49:14 ID:3wdMPGqs0
2.5.附託の定義のまとめ  p236-237 120左/229

  しかし、いずれにしても、[これら附託の定義は、附託とは]Xの属性がY に顕現することであるとすることがらはずれることはない。世間での経験も また同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するとか、 一つ[しがない]月が二つであるかのように[顕現する]というように。

  [反対対主張]諸論者問の見解の相違はそのままにしておこう。ところで、[「註解』 本文中の]文脈の中で、[シャンカラが]言おうとしていることは、一体、何なのか。
   [答論]それに対して、[師シャンカラは]、しかし、いずれにしても、[これら附託
の定義は、附託とは]Xの属性がYに顕現することであるとすることがらはずれること はないと言っているのである。附託とは]Xの属性をYに誤って構想することである とは、[附託は]虚妄であるということ(anrtatā)である。そして、それ(附託が虚妄 であるということ)は、[附託が実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないもの である、ということにほかならない。このことは、以前に、明らかにしたところであ る107。従って、[附託が]Xの属性をYに誤って構想すること、すなわち、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものであるということは、あらゆる論者の[附 託に関する]見解の中で、必ず認められている。従って、[附託が実在であるとも非実 在であるとも]表現し得ないものであるというのは、あらゆる学説と矛盾しない事実で ある。以上が[『註解』本文の]意味である。[誤認とは知覚と想起とが異なることを] 認識しないことであるとする人々(Akhyātivādin)も、[「これ」と「銀」とが]必ず同格関係で表現され、[「銀」を求める人が「これ」という語(観念)の対象に]必ず向か
うという事実を無視できないために、いやいやながらも、このこと(附託が実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものであること)を認めている、というのが現状で ある。
  この[附託が]虚妄であるという事実は、単に、諸論者の間で確立しているだけでは なく、世間の人々の間でも[良く知られている]。だから、[師シャンカラは]世間での 経験もまた同様である。[たとえば]真珠母貝が銀であるかのように顕現するようにと 言っているのである。[この本文は]「しかし、それは、銀ではない」を補って読むべき である。
  [反対主張]Xの性質がYに存在するという形の誤認は、世間の人々に良く知られて いる。しかし、一つ[しかなくて]かつ区別のないものには、区別に基づく誤認は見られない。従って、純粋精神であるアートマンとの区別のない諸個人存在に関して、ど うして、区別に基づく誤認があろうか。
  [答論]だから、[師シャンカラは]、一っ[しかない]月が二つであるからのよう にと言っているのである。

脚注
107 cf.Bhāmatī,p.18。
(´・(ェ)・`)つ

455鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/21(木) 23:23:12 ID:XIHZ8HZ20

 聞いたのじゃ。

 見解の相違はあるにしても付託は各派皆主張しているというのじゃ。
 その上でシャンカラが主張していることは何か聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 いずれにしても付託の定義は、知覚の対象の属性に、他の想起されたものが顕現することだというのじゃ。
 それは虚妄であり、実在とも非実在とも言えないものであるというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 そのように対象が他のものに誤認されることはよく知られているのじゃ。
 しかし、ただ一つのものであり、区別のないもの、唯一無二のものには誤認などないというのじゃ。

 答えのじゃ。

 シャンカラはそれについて一つしかない月が二つであるかのように見られることはあるというのじゃ。

456避難民のマジレスさん:2022/07/22(金) 00:45:07 ID:QRNVGPEs0
2.6.アートマンに対する附託は不可能であるとする反対主張  p237-238

  しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託できるのか。[附託できないはずである]。というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであるが、あなたは、「内的アートマンは、『汝』という観念とは無関係なもので、対象ではない」と言っているからである。

  さらに、また、[反対主張者が]純粋精神であるアートマンに対する附託を批判して言う。しかし、どうして、対象でない内的アートマンに対象とその諸属性を附託でき るのかと。[その]趣旨は次の通りである。[まず]純粋精神であるアートマンは輝い ている(認識されている)のか、あるいは、輝いていない(認識されていない)のか。 もし、輝いていない(認識されていない)とすると、どうして、これ(純粋精神である アートマン)に対象とその諸属性を附託できるのか。というのは、眼前に存在する実体 が顕現していなければ(認識されていなければ)、それに、銀やその諸属性を附託することは全くできないからである。[一方]、もし、[純粋精神であるアートマンが]顕現 している(認識されている)とすると、実に、アートマンは物質ではないのに、[物質である]壼のように、[自己]以外のものに依存して輝く(認識される)ことになり108、 理に合わない。何故なら]、同一のもの(アートマン)が行為主体でありかつ[行為の] 目的(対象、karma)109であるというのは、矛盾するので、ありえないからである。というのは、[行為の]目的(対象)とは、[自己]以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことであるが、認識行為が[アートマン]以外のものに内属することはないのだから、[アートマンが]それ(認識行為)の自的(対象)とな ることは決してないからである110。また、同一のものが自己に内属しかつ[自己]以外のものに内属する、ということもない。何故なら、[それは、自己]矛盾たからであ る。一方、[認識行為がアートマンAとは]別のアートマンBに内属していることを認 めると、アートマンAは、認識の対象(認識行為の目的)であることになり、アートマ ンはでなくなる、という[理論上の]誤謬に陥ることになる111。[そればかりか]、同 じように、それ(アートマンBも)、[それとは別のアートマンCに内属する認識行為の目的(対象)であることになり、さらに]それ(アートマンC)も、[それとは別の アートマンDに内属する認識行為の目的(対象)であることになる]というように、無限遡及に陥ることになる。

脚注
108ここでは、対象は、自己以外のもの(すなわち認識主体)によって認識されるから、精神的存在である認識主体とは異なり、物質的なものであるという考えが前提とされている。 109ここで、目的(対象)と訳したkarmaという語は、動詞の目的という意味と動詞によって表わされている行為の対象という意味をともに含んでいる。
110「[行為の]目的(対象)とは、それ以外のものに内属する行為[から生じた]結果を保持しているもののことである 、たとえば、「デーヴァタッタが村へ行くという例で説明すると、次の通りである。まずこの例では、(1)デーヴァタッタが 行為主体であり、(2)村が行くという行為が目的(対象)であり、(3)村に到着することが行くという行為の結果である。ところで、ニヤーヤ学派やヴァイシェーシカ学派によれば、物と物とを結びつける関係には、結びっけられたけられた二つの物が不可分の関係にあ る場合と、分離可能な関係にある場合との二種あると考えられており、前者は内属関係、後者は結合関係と呼ばれる。そして、内属関係にあるものは、部分と全体、属性とその基体、 行為とその行為主体、普遍と個物、特殊性と恒常な実体だけに限られるとされる。従って、ここにあげた例では、行くという行為とその行為主体であるデーウァダツタとの関係だけが、内属関係にあることにな る。一方、行くという行為の結果(到着)は、デーヴァタッタが到着するわけだからデーヴァタッタにあ り、かつ、村に到着するわけだから村にもあることになるが、それらの関係は結合関係である。それ故、「目的(対象)とは、自己以外のもの(デーヴァダヅタ)に内属する行為(行くという行為)[から生じた] 結果(到着)を保持するものである」と言えば、村に限られることになるのである。何故なら、デーヴァ タッタも到着という結果を保持してはいるが、それが行くという行為の目的(対象)だとすると、自己以外のもの(村)は、行為(行くという行為)が内属していないから、この定義はあてはまらないからであ る。
111ここでは、アートマンは認識主体であるということが前提とされている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

457鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:01:56 ID:XIHZ8HZ20

アートマンとは認識主体であるから、付託はされないというのじゃ。
 そもそも付託とは認識の対象である客体に他のものの属性が顕現されるという心の働きであるからのう。
 認識主体とは関係ないものなのじゃ。

 認識主体であるアートマンは、認識されることはないのじゃ。
 もし認識主体であるアートマンが認識できたとしたら、別の認識主体が存在することになるからなのじゃ。
 その認識主体もまた他の認識主体に認識されることになり、無限遡及に陥るからなのじゃ。
 認識できない認識主体がアートマンであり、認識主体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

458鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/22(金) 23:03:09 ID:XIHZ8HZ20
 ↑ 間違えたのじゃ。

 認識できない認識主体がアートマンであり、認識客体に対する働きである付託とは無関係なのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 05:24:13 ID:PaUr0f520
(つづき)   p238-240
  [反対主張に対する反論]112アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に 関する認識の中に顕現するもの(認識されるもの)であっても、まさに行為主体であって、[行為の]目的(対象)ではない。というのは、[アートマンは]、チャイトラ[という人]の場合と同じように、[自己]以外のものに内属する行為[から生ずる]結果 を保持することはないからである。たとえば、チャイトラが、チャイトラ[自身]に内 属する「行くという]行為によって、町に到着する場合に、[到着という結果は、チャ イトラと町との]両者に内属していても、町だけが[行くという行為の]目的(対象) である。何故なら、[町は、自己]以外のもの(チャイトラ)に内属する[行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持しているからである。一方、チャイトラは、 [行くという]行為[から生ずる到着という]結果を保持してはいても、行くという行為がチャイトラに内属しているので、[行くという行為の目的(対象)では]ないので ある。
  [反対主張]それ(アートマンは、物質であっても、また、あらゆる対象に関する認 識の中に顕現していても、まさに行為主体であって行為の目的では在いというの)は[正しく]ない。何故なら、天啓聖典に反するからである。というのは、天啓聖典は、「ブラフマン(アートマン)は、真実であり、認識であり、無限である」113と述べてい るからである。また、[アートマンが認識それ自体であるということは]理論的にも成 りたつのである。詳論すれば次の通りである。対象の牌き(対象の認識)が[認識行為 の]結果であり、対象とアートマンは、そ(対象の輝き:対象の認識)の中に、顕現する。この場合、それ(対象の輝き=対象の認識)は、一体、物質的なものであるのか、 あるいは、自ら輝いているものであるのか。もし[それが]物質的なものであるとすれ ぱ、対象もアートマンも物質的なものであることになり、[対象の認識と対象とアート マンとの]区別がなくなってしまうから、一体、何がどこで輝く(認識される)というのか。[全く何も認識されないということになってしまう]。従って、全世界が盲目に なってしまうことになる。同じ趣旨で、「盲人につかまっている盲人が、一歩ごとに足 を踏みはずすように」114という格言がある。
  [反対主張に対する反論]認識は、それ自身は輝いていて[も](認識されなくても)、 対象とアートマンとを認識させる。ちょうど、眼等[が、それ自身は知覚されなくて も、対象を知覚させる]ように。
  [反対主張]そのように言うべきではない。というのは、認識させるということは、 認識を生み出すということであり、生み出された認識は、物質的なものであるから、先 に述べた欠陥(対象の認識と対象とアートマンとが物質的なものであることになり、全世界が盲目になってしまうことになるという欠陥)を克服できないからである。同様 に、[物質的なものである認識により生み出された]それぞれ後の認識も、物質的なも のであることになり、[認識は]いつまでたっても[物質的なものであることに]なっ てしまう。従って、認識(samvit)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(自ら輝いている)、と認めるべきである。
   [反対主張に対する反論][認識は、自己以外のものに基づくことなく輝いている、 ということは認めよう。しかし、アートマンは、どうして、物質的なものでないことが あろうか]115。
  [反対主張者]たとえそうだとしても(認識は自己以外のものに基づかずに輝いでいるとしても)、対象とアートマン [それらはあなたがたによれぱ]本質的に物質的 なものである一は、[それで]一体どうなるのか。
  [反対主張に対する反論][対象とアートマンは物質的なものであっても]、それら (対象とアートマン)に関する認識は物質的なものではない、ということになる。
  [反対主張][認識が物質的なものではない(自ら輝いている)からと言って、認識 の原因である対象とアートマンも輝いている(認識されている)とは限らない116。と いうのは]息子が学者だからと言って、[その]父親も学者であるとは限らないからで ある。

脚注
112これは、アートマンが認識の基体であるとする論者の説である とされている。すなわち、反対主張者が、アートマンは認識と同一であり自ら輝いている、という立場を 取るのに対して、反対主張に対する反論者は、アートマンは認識とは異なり、自ら輝いてるのは認識のほうであるという立場を取っているのである。
113 114 115 116
(´・(ェ)・`)
(つづく)

460鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/23(土) 23:07:41 ID:ylLhGWow0

 反対の反対なのじゃ。
 
 アートマンは行為の主体であって、対象ではないというのじや。
 主体は行為の結果を保持しても、行為の目的ではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 聖典ではアートマンは認識であると書いてあるというのじゃ。
 対象の認識が物質的なものであれば、主体も客体も物質的なものとなり区別がつかなくなるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識はそれ自体が認識されなくとも、対象とアートマンを認識させるというのじゃ。
 目などが自身は見えなくとも対象を知覚させることであるとわかるように。

 反対なのじゃ。

 認識は物質的なものであるから、先のとおり何も区別がつかないのじゃ。
 認識は自己以外に基づくことなく自ら認識しているというのじゃ。

 答えのじゃ。

 アートマンは物質的なものではないというのじや。

 反対なのじゃ。

 対象とアートマンは本質的に物質的なものというのじや。

 答えたのじゃ。

 対象とアートマンに関する認識は物質的なものではないというのじゃ。

 反対なのじゃ。

 認識が物質的なものではないから、認識 の原因である対象とアートマンも認識されているとは限らないというのじゃ。

461避難民のマジレスさん:2022/07/23(土) 23:33:54 ID:z3augnMs0
(つづき)    p240-241
  [反対主張に対する反論]対象とアートマンとに[常に]結びついているというのが、自ら輝いている認識の本質なのである。[従って、認識が自ら輝いていれば、対象 もアートマンも輝いている(認識されている)ことになるのである]。
  [反対主張]実に、学者である息子の場合でも、父親と[常に]結びついているとい うのが[学者である息子の]本質であるという点では、[認識と対象やアートマンとの関係と]同一である。
  [反対主張に対する反論]認識は、対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に輝く(顕現する)のであって、対象とアートマンが輝いていない(認識されていない)時には、[輝かない(顕現しない)]。これが、認識の本質なのである。
   [反対主張]もしそうだとすれば、認識は、[一方では]認識が輝いていること(顕現していること)と異なることになり、[他方では]対象とアートマンとが輝いていることと異なることになるのだろうか。もしそうだとすれば、認識は、[認識が輝いてい ることとは異なるのだから]、自ら輝いているものではなくなることになり、また、認 識は、[対象とアートマンとが輝いている(認識される)こととは異なるのだから]、対象とアートマンの輝き(認識)ではなくなることになる。
  [反対主張に対する反論]認識が輝いていること(顕現していること)と対象とアー トマンが輝いていること(認識されていること)は、認識[それ自体]と異ならない。それらは共に認識である。
  [反対主張]もし、そうだとすれば、[あなたは、先に] 「認識は、対象とアートマンが輝いて(認識されている)時に共に輝く(顕現する)」と言ったが、[それは] 「認 識は対象とアートマンと共に存在する」と言うのと変わりなくなる。従って、[輝いて いる(認識されている)時に共に牌く(顕現する)」という箇所で、あなたが]言おう としていたことが成り立たなくなってしまう117。[そればかりか]過去や未来の対象に関する[現在の]認識も、[それらの]対象と共に存在することになってしまう。
   [反対主張に対する反論][過去や未来の対象に関する現在の認識は1、それ(過去や 未来の対象)に対する排除、受容、無関心という意識(buddhi)を生み出すから、[それらの]対象に関するものである(それらの対象と共に存在している)。
   [反対主張]排除等の意識も、[過去や未来の]対象に関する[現在の]認識と同じように、それ(過去や未来の対象)に関するものではない(過去や未来の対象と共に存 在していない)。
  [反対主張に対する反論]排除等の意識は、[対象の]排除等を[実際に]生み出す から、対象に関するものである(対象と共に存在している)。そして、対象の認識は、 対象に関する排除等の意識を生み出すから、それ(排除等の意識の対象)に関するもの である(排除等の意識の対象と共に存在している)。[従って、対象の認識は、対象に関 するものであることになる(対象と共に存在していることになる)。] [反対主張][もし、あなたが言うように、対象の認識は、対象を排除したり、受容
したりする原因であるから、対象に関するものである(対象と共に存在している)とすると]、身体と努力の存在する118アートマンとの結合(samyoga)は、身体が対象に向 かったり[対象から]退いたりする原因であるが、[その結合も]、対象の輝き(認識) であることになるのか。
  [反対主張に対する反論]身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の輝き(認識)ではない。

脚注
117
118 身体は物質的存在であるから、精神的存在であるアートマンと結合しなければ、活動しえない。その上に、アートマンに活動しようとする努力(意志)がなければ、身体の活動は生じない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

462鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 00:42:30 ID:TD/s1y0g0
 答えなのじゃ。
 認識の本質は、対象とアートマンに結びついているというのじゃ。
 認識が機能していれば対象もアートマンも認識されるというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 認識と対象やアートマンは常に結びついているというのじゃ。

 答えなのじゃ。
 対象とアートマンが輝いている(認識されている)時に共に(顕現するというのじゃ。
 対象とアートマンが認識されていない時は、顕現しないのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それならば認識は自ら認識するものではなくなるというのじゃ。
 
 答えなのじゃ。
 認識が顕現していることと、対象とアートマンが認識されていることが認識だというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 それでは認識は対象とアートマンと共に存在するということになるというのじゃ。
 そして前に説いた認識されている時に顕現するというのと違うのじゃ。
 さらに過去や未来の対象に関する今の認識も、対象と共に存在することになるというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 過去や未来の対象に対する認識は、排除、受容、無関心という意識を生み出すから、それらの対象と共に存在しているのじゃ。

 反対なのじゃ。
 排除等の意識も対象に関する今の認識と同じように、過去や未来の対象と共に存在していないというのじゃ。

 答えたのじゃ。 
 排除等の意識は、排除等を[実際に]生み出す から、対象と共に存在しているのじゃ。
 
 反対なのじゃ。
 対象の認識は、対象を排除したり、受容したりする原因であるから、対象と共に存在しているとすると、身体とアートマンとの結合は、身体が対象に向 かったり対象から退いたりする原因であるからその結合も、対象の認識になるのかというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 身体とアートマンとの結合は、物質的なものであるから、 対象の認識ではないのじゃ。

463避難民のマジレスさん:2022/07/25(月) 07:31:35 ID:6b9WITxg0
(つづき)   p241-242
  [反対主張]これ(認識)は、[身体とアートマンの結合とは異なり]、自ら輝くもの であるが、[その]輝きは、蛍[の光]のように、自己自身を[照らす]だけであって、 対象に関しては物質的なものである(対象を照らすことはない)。このことは、[学者で ある息子とその父親の例で]119すでに明らかにした通りである。
  また、対象は、輝き(認識)を本質とするものではない。何故なら、それら(対象)は、[外界に存在する]有限なもの、すなわち、長いものや粗大なものとして経験(認識)されるが、この輝き(認識)は、内的なものとして、また、粗大でないもの、微細ででないもの、長くないもの、短くないものとして輝いている(顕現している)からである。従って、対象は、自ら輝いているもの(認識)とは異なり、月が[二つに]見える時の二つ目の月のようにまさに[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものである120。このように[考えるのが]正しいと我々は思っている。また、この輝き (認識)には、本来、本質的な違い(svalaksanabheda)は見られない。[従って、この輝き(認識)が同じく自ら輝いている唯一のアートマンと同一であることにさしさわり はない]121。
  また、[対象がそれぞれ異なるから、その輝き(認識)もそれぞれ異なるということはない。実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない対象が異なるからという理由 で、[それとは全く異なり、実在であると]表現し得る輝き(認識)も[それぞれ]異な るとすることはできないのである。何故なら、[理由の適用する範囲が]広すぎる、という[理論上の]誤謬りに陥るからである122。また、対象どうしの相互の違いは、正しい認識への過程の中には存在していないということも、のちに明らかにされること であろう。従って、この輝き(認識)とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で(kūtasthanitya)、部分のない、内的なアートマン(pratyagātman)のことである。[そしてそれは、実在であると]表現し得るアートマンが[実在であるとも 非実在であるとも]表現し得ない身体・器官等とは異なる(pratīpa)と認識している (añcati)から、内的(pratyń)であり123、そのアートマンが内的アートマンなので ある。
  それ(内的アートマン)は、[自己]以外のものに基づくことなく輝いて(認識されて)おり、かつ、部分がないから、対象ではない。それ(対象ではない内的アートマン) に対象の諸属性を、すなわち、身体・器官等の諸属性を、どうして附託できるのか。どうしてというのは反論の意味である。すなわち、その反論とは、この附託は理に合わ ないということである。
  [反対主張に対する反論]では、何故、これ(附託)は理に合わないのか。

脚注
119 本訳239頁23行以下参照。
120 本訳236頁参照。
121
122 その理由として、もし、対象がそれぞれ異なるから、認識もそれぞれ異なるとすると、それは、池などに映った太陽が多数あるから、太陽も多数であると考えるようなものであるという例をあげている。
123ここでは、「内的アートマンの、内的という語を分解して、その語義を説明しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/25(月) 23:02:03 ID:OHlZX1Go0
 認識は自己自身を認識するだけであり、 対象を見ることはないというのじゃ。
 対象は認識を本質とするものではないのじゃ。
 対象は外界にある有限なもの、長いものや粗大なものとして認識されるが、この認識は内的なものとして顕現しているからというのじゃ。

 そうであるから対象は認識とは異なり、幻の月のように実在であるとも非実在であるとも表現し得ないものだというのじゃ。
 その認識はアートマンであるというのじゃ。

 さらに対象が異なるから、認識もそれぞれ異なるということはないというのじゃ。
 実在であるとも非実在であるとも表現し得ない対象が異なるからという理由 で、実在であると表現し得る認識も異なるとすることはできないのじゃ。
 何故ならば理由の適用する範囲が広すぎる、という理論上の誤謬に陥るからというのじゃ。

 対象どうしの相互の違いは正しい認識への過程の中には存在していないということも後で語るというのじゃ。
 認識とは、自ら輝いており、唯一で、変異すること なく永遠で、部分のない、内的なアートマンのことである。
 実在であると表現し得るアートマンが、実在であるとも 非実在であるとも表現し得ない身体や器官等とは異なると認識しているから内的であり、そのアートマンが内的アートマンなのであるというのじゃ。
 
 内的アートマンは、自己以外のものに基づくことなく認識されており、部分がないから対象ではない。
 対象ではない内的アートマンに対象の諸属性を、身体や器官等の諸属性を附託できないというのじゃ。
 故にこの付託とは理に合わないというのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 02:44:05 ID:q9S9X5JI0
(つづき) p242-243
  [反対主張]だから[反対主張者は、「註解』本文中で]というのは、すべての人は、眼前に存在する対象に[それとは]別の対象を附託するのであると言っているのであ る。この(本文の)趣旨は次の通りである。[自己]以外のものに基づいて輝き(認識さ れ)、かっ、部分のあるものXは、[Yと]共通な部分が認識されて[も]、[認識]器官 に欠陥があるために、[Xに]特有の性質が認識されない場合には、Yとして輝く(認 識される)ことがある。しかし、内的アートマンは、もし、[自己を認識するのに、認識器官を必要とするの]なら、それ[認識器官]に存在する欠陥に影響されることもあろうが、[自己]以外のものに基づくことなく輝いている(認識されている)ので、 自己を認識するのに、[認識]器官を必要としない。また、[内的アートマンに]、もし [部分があれ]ば、そのある部分は認識され、ある部分は認識されないということもあろうが、[内的アートマンには]部分はない。実に、XがXそれ自身によって、同時に、 認識されたり認識されなかったりすることはないのである。従って、[内的アートマン は]自ら輝いており(自己自身によって認識され)[部分がない]とする見解においては、附託はありえないのである。また、[内的アートマンが]常に輝かない(認識され ない)場合にも、[内的アートマンに対する]附託はありえない。何故なら[そのよう な内的アートマンには]眼前に存在するという性貰、すなわち、直接に知覚されるとい う性質が存在していないからである。実に、眼前に存在しない真珠母貝に、「これは銀 である」という形で銀を附託することなどないのである。従って、完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえない、と確定した。
  [反対主張に対する反論]もし、純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、[それに対する]附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、まさに、「私」という観念の対象なのである。従って、附託のありえないことなどどうしてあろうか。
   [反対主張][だから『註解』本文中で反対主張者は]どうして、対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのかと言っているのである。実に、もし、純粋精神であるアートマンが対象(客観)であれば、[それとは]別のものが主観である ことになってしまう[が、それは理に合わない]。従って、主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象(客観)は、それ(純粋精神であるアートマン)とは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。それ故、[純粋精神であるアートマ ンが対象(客観)であれば、それは]アートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、[次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るの]を避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではない[と述べられている]のである。まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのである。だから、[アートマンに対する]附託はありないのである。以上が[『註解』本文の]意味である。
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/26(火) 23:44:21 ID:nuS2uxxM0
 反対なのじゃ。

 内的アートマンは自己以外のものに基づくことなく認識されているので、 自己を認識するのに認識器官を必要としないというのじゃ。
 内的アートマンは自己自身によって認識され部分がないとする見解においては、附託はありえないのじゃ。

 さらに内的アートマンが常に認識され ない場合にも、内的アートマンに対する附託はありえないというのじゃ。
 何故ならば内的アートマンには、直接に知覚されるという性質が存在していないからなのじゃ。
 完全に認識されているものや全く認識されないものに対しては附託はありえないのじゃ。

 反論なのじゃ。

 もし純粋精神であるアートマンが実際に対象でなければ、それに対する附託はありえないであろうが、純粋精神であるアートマンは、私という観念の対象だというのじゃ。
 そうであるから附託されるというじゃ。


 反対なのじゃ。
 対象でない内的アー トマンに対象とその諸属性を附託できるのはずはないのじゃ。
 主観こそが純粋精神である アートマンであり、対象である客観は、純粋精神であるアートマンとは異なり、「汝」という観念の対象であると認めるべきである。

 純粋精神であるアートマ ンが対象であり客観であれば、それはアートマンでないことになってしまうという誤謬に陥るから、次々に主観が必要となるという]無限遡及[に陥るのを避けるため に、「汝」という観念とは無関係なもので、対象ではないと述べられているのじゃ。
 まさに、以上の理由で、アートマンは対象ではないと言うぺきなのじゃ。
 そうであるからアートマンに対する附託はありないのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2022/07/26(火) 23:54:37 ID:N0DkOq7A0
2.7.アートマンに対する附託は可能であるという答論  p244-245

  答えて言う。まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわけではない。というのは、これ(内的アートマン)は「私」という観念の対象 なので、内的アートマンは直接に良く知らているがらである(aparoksatvāc ca pratagātmaprasiddheh)124。さらに、眼前に存在する対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則(niyama)はない。というのは、愚者たちは、虚空が直接知覚の対象でなく(apratyaksa) 125でも、それに、面や汚れ(talamalinatā)126などを附託するからである。
 従って、内的なアートマンにアートマンでないものを附託しても、さしつかえ ない。

  [師シャンカラは、以上の反対主張を]退けて言う。答えて言う。まず、これ(内的 アートマン)は、絶対に対象ではないというわではない。何故か。というのは、これ (内的アートマン)は「私」という観念の対象なので、内的アートマンは直接に良く知 られているからであると。
  この(『註解』本文の)趣旨は次の通りである。内的アートマンは、自ら輝いているか ら、対象ではなく部分がない、というのはその通りである。しかし、[内的アートマンは]、本来は、統覚機能・思考器官・粗大身・微細身・器官という限定者(avaccheda) 127一[それらは、実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって誤って構想されたものである一によって、限定されることも区別されることもなく、行 為主体でも経験主体でもないが、個人存在(jīva)という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように、経験主体であるかのように、見えるのである。[それは]ちょうど、[本来、区別も属性もない]虚空が、壷・水差し・水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように[見える]ようなもの である。
  実に、純粋精神そのもの(cidekarasa)であるアートマンは、[その]純粋精神という 側面(部分、amśa)が理解されれば、理解されないものは何も存在しない(アートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになる)。というのは、もし[アートマンの歓声・永遠性・遍在性等が純粋精神という性質とは異なるもの]なら、それ(純粋精神という 性質)が理解されても、[歓喜等は]理解されないことになろうが、[実際には]これ (アートマン)の歓喜・永遠性・遍在性等よ、純粋精神という性貰と異ならないからである。[このようにアートマンの純粋精神という面が理解されていれば、その歓喜等も 本来は]理解されるのである。にもかかわらず、[純粋精神という性質が理解されても 歓喜等は]、誤って構想された[純粋精神という性質との]違いのために、忍識されな いので、理解されていないかのように見えるのである。

脚注
124この箇所は、これまで、次の三通りに解釈されてい る。(1)「内的アートマンの認識は直接的なものであるかわらである」と解す。これは、Bhāmatīの解釈である。(2)「というのは、内的アートマンは、直接的に知られているから、周知のものだからである」と解す。(3)「というのは、内的アートマンは、周知の存在だから、直接に知られるからである」と解す。本訳では、(1)の解釈に従って訳した。
125虚空が直接知覚の対象でない理由については本訳247頁22行以下参照。
126
127 統覚機能等の限定とは、添性のことにほかならないので、これを統覚機能等の限定者の意味に解した。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

468鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 00:38:05 ID:FXbP5sdM0

 シャンカラは反対意見に反論するというのじゃ。

 内的アートマンは本来は統覚機能や思考器官や粗大身や微細身や器官という限定者、限定されることも区別されることもなく、行為主体でも経験主体でもないが、個人存在という状態になると、それらの限定者によって、限定されているかのように、区別されているかのように、また、行為主体であるかのように経験主体であるかのように見えるのじゃ。
 それは虚空が壷や水差しや水鉢等の限定者の違いによって、 区別されているかのように、多種の属性を備えているかのように見えるようなものだというのじゃ。
 無明によってそれらがアートマンであると誤認されるというのじゃ。

 純粋精神そのものであるアートマンは、その純粋精神という側面が理解されればアートマ ンのあらゆる側面が理解されたことになるというのじゃ。
 アートマンの歓喜、永遠性、遍在性等は純粋精神という性貰と異ならないというのじゃ。

469避難民のマジレスさん:2022/07/28(木) 00:43:32 ID:sGDPqo/s0
(つづき)  p245-247   
  また、もし[アートマンと統覚機能等との違いが、真実であれ]ば、純粋榊神である アートマンが理解されると、それ(アートマンと統覚機能との違い)も理解されようが、[実際には]アートマンと統覚機能との違いは真実(実在、tāttvika)ではない。 というのは、統覚機能等は、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものなので、[アートマンと]それ(統覚機能等)との違いも[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ないものだからである。従って、自ら輝いておりかつ限定されていないアートマンは、限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、それ(統覚機能等)が附託されると、個人存在となるのである。
  また、このアートマンは、「これ」 (対象である)という性質と「これではない」 (対 象ではない)という性質とを[同時に]備えている128[ので]、「私」という観念の対象でありうるのである。詳論すれば次の通りである。純粋精神であるアートマンは、「私」 という観念の中では、行為主体・経験主体として現れている。[しかし]、これ(アートマン)は、無関心な存在(udāsīna)129な[ので]、行為の能力や経験の能力を[本来]備えていることはありえない。[一方]、身体と器官の集合体である統覚機能等には、行 為や経験の能力は備わっているが、精神性は備わっていない。従って、純粋精神であ るアートマンが、身体と器官の集合体と結びついて、行為や経験の能力を獲得するのてある。[このように、アートマンは]自ら輝いでい[るので、本来は対象でなく]ても、 統覚機能等という対象に覆われている(vicchurana)から、なんとか、「私」という観念の対象となり、個人存在、被造物(jantu)、田地の智者(ksetrajña)130と呼ばれう るのである。
   [反対主張][個人存在は、統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるものである。従って、個人存在は、「私」という観念の対象ではないのではないか]131。
  [答論]個人存在は、実に、アートマンと異ならないのである。というのは、天啓聖典が、「[さて、予は]、この個人存在であるアートマンとともに[これらの三神格(熱と水と食物)に入り、名称と形態とを展開しよう]」132と[述べている]からである。 従って、個人存在は、純粋精神であるアートマンと異ならないから、自ら輝いている。 にもかかわらず、[それが]、行為主体・経験主体として日常的に経験される(表現される)ようになるのは、「私」という観念によるのである。そのため、[個人存在は]、 「私」という観念の対象(基体、ālambana)と言われるのである。
  [反対主張][あなたが言うように、アートマンは、個人存在という状態では、「私」 という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、統覚機能等がアートマンに]附託された時に、[アートマンは個人存在として「私」という観念の]対象となり、[アートマンが個人存在として「私」という観念の]対象である時に、 [統覚機能等がアートマンに]附託されることになり、[対象であることと附託とが]相互に依存しあう[という理論的誤謬に陥る]ことになってしまう。
  [答論][それは]正しくない。というのは、[両者の関係は]種と芽のように無始だ からである。何故なら、それぞれ前の附託とその潜在印象(Vāanā)によって対象と なったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは、矛盾しないからである。だ から、『註解』という作品が、このことを、これが生得の(naisargika)世俗的な日常的表現(経験)であると述べていたのである。従って、[以上の論議から明らかとなるのは、『註解』が]まず、これ(内的アートマン)は、絶対に対象ではないというわで はない、と述べているのは、[反対主張に対する実に]的をえた答えであるということである。すなわち、個人存在は、純粋精神であるアートマンであり、[従って]、自ら輝 いているから、対象でははないが、添性によって限定された状態では、対象となってい る、というのが[この『註解』本文の]意味なのである。

脚注
128アートマンには、「これ」という面と「これではない」という面とがあるという論議
129「無関心な存在」とは、「何ものとも結びつくことのない存在」という意味であり、従って、それが、行為の能力や経験の能力と結びつくことはありえないのである。
130「『田地』に穀物が実るように、行為の結果が身体に於いて実るので、身体が「田地』と言われる。」アートマンは、身体の中にあって、認識主体であるから、「田地の知音」と呼ばれるのである。
131 132
(´・(ェ)・`)
(つづく)

470鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/28(木) 23:43:37 ID:A2qoIofg0
 アートマンは限定された統覚機能等と異なるとは理解されていないので、統覚機能等が附託されると、個人存在となるのであるというのじゃ。
 このアートマンは、対象であるという性質と対象ではないという性質とを同時に備えているから、私という観念の対象でありうるのじゃ。

 反対なのじゃ。
  個人存在は統覚機能等の添性がなくならない限り、アートマンとは異なるのじゃ。
  そうであるから個人存在は私という観念の対象ではないのではないかというのじゃ。

 答えたのじゃ。
 個人存在は、アートマンと異ならないというのじゃ。
 聖典には個人存在であるアートマンと書いているからなのじゃ。
 それが行為主体や経験主体として日常的に経験されるようになるのは、私という観念によるのじゃ。
 そのために個人存在は、私という観念の対象と言われるのじゃ。

 反対なのじゃ。

 アートマンは個人存在という状態では私という観念の対象であるから、それに対する附託が可能なのであるとすると、
 統覚機能等がアートマンに附託された時に、アートマンは個人存在として私という観念の対象となり、その時にまた統覚機能等がアートマンに附託されることになり、相互に依存しあう理論的誤謬に陥るというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。

 それは間違いなのじゃ。
 両者の関係は種と芽のように無始だからなのじゃ。
 それぞれ前の附託とその潜在印象によって対象となったものに対して、それぞれ後の附託がなされるのは矛盾ではないのじゃ。

 註解はまず内的アートマンは、絶対に対象ではないというわではない、と述べているのじゃ。
 個人存在は純粋精神であるアートマンであり、対象でははないが、添性によって限定された状態では対象となっている、というのが註解本文の意味だというのじゃ。

471避難民のマジレスさん:2022/07/29(金) 01:07:34 ID:hkICw4oc0
(つづき)   p247-248
  [反対主張]私たちは、[内的アートマンは自己]以外のものに基づかずに輝いてい る(自ら輝いている)から対象ではないという理由で、[内的アートマンに対する]附 託を否定しているわけではない。そうではなくて、自己に基づこうとも[自己]以外の ものに基づこうとも輝かない(認識されない)という理由で、内的アートマンは対象ではないと言っているのである。従って、内的アートマンは、決して輝かない(認識されない)のだから、どうして、それに附託ができようか。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラが]、内的アートマン(pratyagātman) は、直接に(aparokda)良く知られている(prasiddhi)からであると答えているので ある。すなわち、内的な(pratīca)アートマン133が良く知られていること(prasiddhi)、 つまり[内的アートマンの]認識(prathā)は、直接的だからである(aparoksatvāt)。 [内的アートマンは認識それ自体であるから]、内的アートマンには[それ自身]以外に 認識が存在するわけでないが、[内的アートマンの認識と言うように、内的アートマン とその認識とが]区別されるのは、比喩的用法(upacāra)なのである。[それは]ちょ うど、[プルシャは精神性そのものなのに]プルシャの精神性[と言われる]ようなも のである。[従って、『註解』本文の]趣旨は次の通りである。すなわち、純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきである。というのは、そ れ(純粋精神であるアートマン)が認識されないと、すべてが認識されないことにな るから、世界が盲目になってしまうという誤謬に陥ってしまうからである。このことは、すでに述べた通りである134。そして、このことに関して、「まさに、それ(アートマン)が輝くと、すぺてがそれ(アートマン)に従って輝く。その(アートマンの)輝 きによって、この全世界が輝く」135という天啓聖典がある。
  さて、このように、[まず、反対主張を]究極的な意味で退けたのち、[次に、師シャ ンカラは]、純粋精神であるアートマンが直接的に認識されない(paroksa)ことを[一応]認めた上で、付加的な議論(praudhavādin)136として、[反対主張を]別な形で退けて言う。すなわち、眼前に存在する、つまり直接に知覚される対象にのみ[それとは]別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないと。
  [反対主張]何故、これは定まった規則ではないのか。
  [答論][この問に対して、師シャンカラは]答えて言う。というのは、愚者たちは、 虚空が直接知覚の対象でなくても、それに、面や汚れなどを附託するからであると。と いうのは(hi)とは、何故なら(yasmāt)という意味である。実に、虚空は、実体で はあっても、色彩と感触がないから・外[界を知覚するための]感覚器官によって直接に知覚されることはない。さらに、思考器官によって直接に知覚されることもない。 何故なら、思考器官が、[外界を知覚するための感覚器官に]助けられることなく、外界に対して作用することはないからである。従って、[虚空は]直接知覚の対象ではないのである。しかし、愚者たち、すなわち、識別力のない人たち、他の人々が示した通りに[物事を]見る人たちは、これ(虚空)に、ある時には、大地の影である暗青色を 附託して、[虚空は]青い蓮華の花弁のように暗青色であると見、また、ある時は、光の属性である白色を附託して、[虚空は]白鳥の群のように白いと見る。ここでも、以 前に知覚された光や闇の色が、想起という姿で、別の場所に、すなわち虚空に顯現し ているのである。同じように、[愚者たちは、虚空を]インドラニーラという大きな宝石でできた半円球の鍋をうつむけにしたようなものだと考えて、同じそれ(虚空)に、 [半円球の形の]面を附託するのである。[さてここで、師シャンカラは、以上の論議 を]結論付けて言っている。このように、すなわち、これまで述べてきたような反対主張[とそれに対する]答論すべてから[明らかなように]、内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託しても、さしつかえないと。

脚注
133ここでは、「内的アートマン」という複合語を、「内的な」「アートマン」 と分解しているのである。
134 本訳238頁26行以下参照
135 136
(´・(ェ)・`)つ

472鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/29(金) 23:50:20 ID:3KmJ.Gzg0
 反対なのじゃ。
 内的アートマンは認識されないから、付託も出来ないというのじゃ。
 
 答えたのじゃ。
 純粋精神であるアートマンは必ず直接に認識されるのだ、と認めるべきであるというのじゃ。
 純粋精神であるアートマンが認識されないと、すべてが認識されないことになるからなのじゃ。
  
 直接に知覚される対象にのみ別の対象を附託すべきであるという定まった規則はないというのじゃ。

 聞いたのじゃ。
 なぜこれは定まった規則ではないのかと、問うのじゃ。

 答えたのじゃ。
  愚かな者たちが知覚出来ない虚空にも、青とか半円球の鍋と付託するように、
  内的アートマンにアートマ ンでないもの、すなわち統覚機能等を附託されたりするのじゃ。

473避難民のマジレスさん:2022/07/30(土) 08:52:20 ID:NzE6tTWQ0
2.8.無明と明知  p248-250 126左/229

  賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明(avidyā)であると考える。そして、それ(非アートマン)137を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを明知(vidyā)と呼ぶ。このような場 合138、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずかでも影響を受けることはない。認識根拠一認識対象[等の区別に基づく]日常的経験139はすべて一世俗のものであれ、ヴェーダによるものであれ一この無明と呼ばれる、アートマンと非アートマンとの相互附託に基づ いて起こるのである。また、儀軌・禁令・解脱をもっぱら説いているあらゆる 聖典も140[同様に相互附託に基づいている]。

  [反対主張]附託は何千と存在する。[にもかかわらず]どうして、この(アートマンと非アートマンとの)附託だけが、反対主張と[それに対する]答論を通して説明されているのか。何故、附託一般[を説明し]ないのか。
   [答論][だから師シャンカラは]賢者たちは、以上のように定義付けられた附託を無明であると考えると言っているのである。実に、無明があらゆる悪の原因であることは、天啓聖典・聖伝書・叙事詩・プラーナ等で周知の事実である(なおそれ(無明) を取り除くために諸ウパニシャッドが開始されたということについては、のちに141述べるつもりである)。[この]あらゆる悪の原因は内的アートマンに非アートマンを附託するところにのみあり、[真珠母貝等を]銀等と誤認するところに[あるのでは]決してない。従って、それ(内的アートマンに非アートマンを附託すること)こそが無明なのである。[そして]その(無明の)本質を知らなければ、[無明を]取り除くことはできない。だからこそ、それ(無明の本質=内的アートマンに非アートマンを附託 すること)142だけを説明しているのであり、附託一般[を説明し]ないのである。[さらに、この附託が]悪の原因であることは、ここ[『註解』本文中]に[も]、以上のように定義付けられたという形で述べられているのである。[つまり、この附託には]以上のような性質(悪の原因という性質)がある143[と言っているのである。すなわち] 飢え等とは無関係な内的アートマンに、飢え等と結びついた内官などの害になるものを附託することによって、[本来]苦しんだりすることのない内的アートマンが苦しむことになるから、[この附託が]悪の原因なのである。もし[愚かな人々も附託をこのようなものだと考えて]いれば、[附託について]説明する必要はないのだが、愚かな人々は、附託をこのようなものだと考えているわけではない。従って、[師シャンカラは]賢者たちは考えると言っているのである。
   [反対主張]この無明は無始であり、かつ、極めて根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、滅することができない。何故なら[それを滅する]手段が存在しないからである。

脚注
137「それ」を、アートマンに附託されたもの」すなわち統覚機能等の非アートマンと解している
138 Bhāmaltīは、「実在そのものがこのように確知された場合と解している。
139この日常的経験には、(1)世俗的な日常的経験、(2)祭式を説く聖典に基づく日常的経験・(3)解脱を説く聖典に基く日常的 経験の三種があるとされる。
140ヴェーダ聖典は通例、儀軌・禁令を教える祭事部と解脱を教 える知識部に分かれ、前者はミーマーンサー学派の、後者はヴエーンダーンタ学派のそ れぞ研究対象である。
141 本訳263頁11行以下参照
142
143「以上のように定義付けられた」とは、「内的アートマンに非アートマンである内官・自我意識等との同一性を附託すること」を第一に意味しているのだが、この附託が悪の原因にほかならないから、ここ では、この附託が悪の原因なのであるということも暗に意味しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

474鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/30(土) 23:07:40 ID:SR7jmlf.0
 非アートマンを識別することによって実在そのものであるアートマンを確知することを明知と呼ぶというのじゃ。
 それは付託の影響を受けないというのじゃ。
 認識主体と認識対象の区別に基づく認識は、世俗のものでも、経典のものでもアートマンと非アートマンとの相互附託に基づいて起こる無明のなのじゃ。
 
 反対なのじゃ。

 なぜその付託だけを説いて、他の付託を説かないのかというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それは内的アートマンに非アートマンを付託することが無明であるからというのじゃ。
 無明はあらゆる悪の根源であり、苦を生むものなのじゃ。
 そうであるからその無明を生む内的アートマンに非アートマンを付託することを説いているのじゃ。

 
 反対なのじゃ。

 この無明は始まりもない昔からあるから取り除くことはできないというのじゃ。
 取り除く手段がないからというのじゃ。

475避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 00:17:34 ID:DaoHRgDo0
(つづき)   p250-251
   [答論]このように考える人に対して、[師シャンカラは]、それ(無明)を滅する手段を[次のように]述べている。それ(非アートマン)を識別することによって実在そのもの(アートマン)を確知することを、すなわち疑間の余地のない知識を、賢者た ちは明知と呼ぶと。実に、内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていない。そのため、統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されるのである。この場合、[ウパニシャッドの教えを]聴聞・思惟・[瞑想]144することによって、[内的アートマンと統覚機能等とを]識別する認識が[生ずれば]、そ[の認識]によって[内的アートマンと統覚機能との]違いに対す る無理解が取り除かれる。[その時]実在そのものの確知(その本質は附託を拒斥するところにある)、すなわち明知一[それは]純粋精神であるアートマンそのものである一が、本来の姿を現わすのである。
   [反対主張]無明は、根が深くて頑強な潜在印象と結びついている[ので]、たとえ明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じてくるだろう。そし て、自己にみあった結果一たとえば潜在印象等一を[さらに]生み出すであろう。
  [答論][これに対して、師シャンカラは]答えて言う。このような場合、すなわち 実在そのものがこのように確知された場合、XがYに附託された時、YはXに由来する欠点や美点によってほんのわずがでも影響を受けることはない。すなわち、純粋精神であるアートマンが内官等のもつ欠点である飢え等によって影響されることはないし、 また内官等が純粋精神であるアートマンの特質(美点)である精神性・歓喜等によっ て影響されることもないのである。この(「註解』本文の)趣旨は以下の通りである。 [確かに]、誤った観念は無始であり、かつ、根が深くて頑強な潜在印象と結びついてい る。しかしそれでも、それ(無明)を取り除くところに、実在そのものを確知することの本質があるのである。というのは、認識(dhī)の本質は、真理の側に傾くところに あるからである。たとえば、他学派の人々でさえ[次のように]言っている。「事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはない。というのは、認識(buddhi)は努力しなくてもそ(事物の本質)の側に傾くからである」145と。だが。[ヴェーダーンタ学派の場合には]特に、「真理の認識は、純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に内的(直接的)なものである[のに]、どうして、[実在であるとも非実在であるとも]表現し得ない無明によって拒斥されているのか」という[問題が 残る]。
  [先に『註解』で]真実と虚妄とを混淆し、[両者の]相違が分がらないために[それらを相互に]附託して、「これが私である」「これは私のものである」と[言う。これ が]([文字通りには]というのが)世俗的な日常的表現(vyavahāa)である146と言 われていたが、そこでは、明らかに、日常的表現という意味でのvyavahāraのことが 説明されていた。[一方、ここでは、先に「これが私である」「これは私のものである」というのがという箇所で]というのが(iti)という語が暗に意味していた、脊俗的な 日常的経験(活動vyvahāra)のほうを説明して、認識根拠・認識対象[等の区別に基 づく日常的経験(vyavahāra)はすべて...[相互附託に基づいている]と言っている のである147。この箇所の意味は自明である。

脚注
144
145 出典不明。
146 本訳214頁参照。
147 「日常的表現」と「日常的経験(活動)」という二義に区別しているという点に関しては、脚注51参照のこと。
(´・(ェ)・`)つ

476鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/07/31(日) 23:19:04 ID:yOmlILwI0
 シャンカラは無明を滅する手段を説いているというのじゃ。
 アートマンではないものを識別することで、実在するアートマンを確知するのじゃ。
 それを賢者たちは明知と呼ぶのじゃ。
 
 内的アートマンは、統覚機能等とは完全に異なるのに、統覚機能等と異なるとは理解されていないのじゃ。
 それゆえに統覚機能等の本質と諸属性が内的アートマンに附託されてしまうのじゃ。

 ウパニシャッドを聴聞し、思惟して瞑想4することによって、内的アートマンと統覚機能等とを識別する認識が起こり、それらの違いへの無理解が取り除かれるのじゃ。
 そうすれば実在そのものの確知、明知である純粋精神のアートマンが本来の姿を現わすというのじゃ。

 反対なのじゃ。
 無明は根が深くて頑強な潜在印象と結びついているから明知によって拒斥されても、自らの潜在印象の力に上って再び生じるじゃろう。
 一度はなくなっても潜在印象等が再び起こってくるというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 それにもシャンカラは答えているというのじゃ。
 実在そのものが確知された場合は、附託によってほんのわずがでも影響を受けることはないというのじゃ。
 そもそも認識の本質は、真理の側に傾くからなのじゃ。
 他学派の人々でさえ事物の本質は錯倒による影響を受けていなければ拒斥されることはないといっているのじゃ。
 なぜならば認識は努力しなくても事物の本質の側に傾くからなのじゃ。

 しかしそれならば、真理の認識は純粋精神であるアートマンを本質とし、完全に直接的なものであるのになぜ無明によって拒斥されているのかという問題があるのじゃ。
 それは人々が認識主体と認識対象を混同して、相互付託しているからだというのじゃ。

477避難民のマジレスさん:2022/07/31(日) 23:36:01 ID:qGJd.G9Q0
2.9.認識根拠は無明を持つ者に基づく p251-253 

  [反対主張]一体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者 に関係しているのか。
  [答論]答えて言う。身体・感覚器官等に関して「私である」「私のもので ある」という誤った観念(abhimāna)を持たない者が認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機能することはありえないからである。 というのは、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しな いからである。さらに、基体(身体)148がなければ、諸感覚器官の活動は成り立たない。身体にアートマンの性質が附託されていなければ、誰ひとり活 動することはない。また、これらすぺてが存在しなければ、アートマンは[何 ものとも]結びつかないので、認識主体ではありえない。さらに、認識主体で あることが存在しなければ、認識根拠が機能することはない。従って、直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのである。

  [反対主張]ー体どうして、直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのが。正しい認識(Pramā)すなわち明知(vidyā)とは、実に、真理を確定す ることであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりしようか。認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、 無明を持つ者に基づくことはないのである。これが[この『註解』本文の]趣旨なので ある。
  確かに、直接知覚等は世俗的(samvrtti)[な認識根拠]であるから、そう(無明を持つ者に基づくの)かもしれない。しかし、諸聖典は、人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえ ない。だから、[『註解』本文中に]聖典はと述べられているのである。
  [答論][以上の反対主張に対して、師シャンカラは次のように]答えている。身体・ 感覚器官等に関して「私である」「私のものである」という誤った観念を持たない者が、 すなわち、[身体等との]同一性およびそれらの諸属性が[アートマンに]附託されて いなければ149その者が、認識主体となることはありえないし、その際、認識根拠が機 能することはありえないがらである。その趣旨は次の通りである。実に、認識生休であるということは、認識に関する行為の主体であるということであり、それ(行為主体である)ということは、自立した存在であるということである150。そして、[認識主体が]自立した存在であるということは、すなわち、認識主体は[それ]以外の<行為に関係する要素>(kāraka)151によって動かされる(prayojya)ことのないものであっ て、それがすべての<行為に関係する要素〉を動かす(Prayojaka)ということであ乱る。従って、これ(認識主体)が認識の手段である認識根拠を動かすはずなのである。だが、 [認識主体]自身が活動しなければ、[認識の]手段を動かすことはできない。ところ が、[認識主体であるべき]純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがない[ので]、それ自身が活動することはない。従って、[アー トマンが]認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのである。だから、[師シャンカラは]認識根拠は無明を持つ者と関係している、すなわち、無明を持つ人がその基体と なっていると言っているのである。

脚注
148「基体」をBhāmatīは、「基体がなければ」を「行為主体によって統御されていなければ」と取り、諸感覚器官の活動は、行為主体すなわち個人存在に制御されていなければ成立しないという意味に解している。筆者はここで、「身体」の意味にとった。
149[アートマンとの]同一性及びその諸属性が[身体等に]附託されていなければ」と解している。
151「行為に関する要素」には、行為の主体、行為の対象、行為の手段、 行為の受益者、分離行為の起点、行為の基体の六種がある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/01(月) 23:07:59 ID:/kBPxDA.0
 反対なのじゃ。
 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。
 身体や感覚器官等を自分とか、自分のものだという誤った観念を持たない者が認識主体となることはありえないからだというのじゃ。 
 その時認識根拠も機能しないからなのじゃ。
 そうであるから直接知覚等の認識根拠も聖典も、無明を持つ者にのみに関係しているのじゃ。
 
 さらに聞いたのじゃ。

 なぜ直接知覚等の認識根拠や聖典は、無明を持つ者に関係しているのかと聞いたのじゃ。
 諸聖典は人に有益なことを教示するのを目的としており、無明と対立するものであるから、無明を持つ者に基づくことはありえない筈だというのじゃ。

 答えたのじゃ。

 認識主体自身が活動しなければ、認識の手段を動かすことはできないのじゃ。
 しかし認識主体である純粋精神アートマンは、変異することのない永遠な存在であって、変化することがないのじゃ。
 そうであるからアートマン自身が活動することはないのじゃ。
 アー トマンが認識根拠を統御することができるようになるのは、活動を備えた統覚機能等との同一性が附託されて、活動するようになった時なのじゃ。
 シャンカラは認識根拠は無明を持つ者と関係している、無明を持つ人がその基体となるというのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2022/08/02(火) 00:57:22 ID:PP8rHRhg0
(つづき) p253-254
  [反対主張]認識根拠が機能しないとしてみよう。[そうすると]我々にどんな不都 合が生ずるのか。
  [答論]これに対して[師シャンカラは]答えて言う。というのは、諸感覚器官を用 いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないからであると。日常的経験は、これ(認識根拠)に基づいて成立しているから、結果である。すなわち、それは直接知覚等の認識根拠[に基づいて生じる]結果なのである152。諸感覚器官をとは、諸感覚器官・徴標(1ińga)等をと解すべきである。たとえば、「棒を持った人たちが行く」と言う場合[「棒を持った人たち」という語カ...、棒を持たない人たちをも意味することがある]ように。というのは、そう取れば、直接知覚等[という本文中に「等」という語の ある理由]が理解できるからである153。また、日常的経験という行為は、日常的経験の主体[の存在]を前提としているので、[その]行為の主体は[諸感覚器官を用いない人と]同一である154。[従って]、ある人が[諸感覚器官を]用いなければ、[その同じ人の]日常的経験は[成立しない]、というのが[本文の]脈略なのである。
   [反対主張]一体どうして認識主体が認識根拠を用いる[必要がある]のか。[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか155。
   [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う、さらに、基体(身体)がなければ、諸感覚器官の活動は、すなわち認識根拠の活動は、成り立たないと。つまり[認識根拠などの]行為手段は、行為主体によって統御156されていなければ(anadhistha)、自らの結果(対象)に対して作用することは決してないのである。というのは、織子が いなければ織機から布が生ずることはないからである。
  [反対主張]では、身体が統御者であっては何故いけないのか。そうすれば、アート マンを[身体に]附託する必要がなくなるではないか。

脚注
152ここでは、「直接知覚等の日常的経験は認識によって達成されるのだから、どうして、諸感覚器官とい う認識根拠なしに、その(直接知覚等の)日常的経験が可能だといえるのか」という疑問に対して、「日 常的経験という語によって、直接知覚等の認識根拠の結果である認識こそが述べられているのだと答えているのである。
153『註解』本文は、諸感覚器官を用いなければ、直接知覚等の日常的経験は成立しないがらであるとなっているが、ここで「諸感覚器官」という語が文字通りに諸感覚器官だけを指すと考えると、諸感覚器官を通して得られる直接知覚という日常的経験だけが問題になっていることになり、『註解』本文中に「直接知覚等」と書かれていることが説明つかなくなってしまうことになる。そこでここでは、「棒を持った 人たちが行くと言った場合、必ずしもすべての人が棒を持っているわけではなく、「棒を持たない人たち」 をも間接的に表示することがあるように、「諸感覚器官」という語は、諸感覚器官以外の徴標等も間接的的に表示していると解すのである。そうすれば、「直接知覚等」の「等」には徴標等を通して得られる推論等が含まれることになり、『註解』本文中に「等」という語がある理由を説明できる というわけである。
154諸感覚器官を用いなければ、日常的経験は成立しないという『註解』本文中、「用いなければ」の個所で接尾辞が用いられているが、この接尾辞は、二つの行為の主体が同 一である時に用いられるものだとされている。だがここでは、諸感覚器官を用いないのは認識主体であり、成立しないのは日常的経験であるから、二つの行為の主体が異なることになる。従って、「用いなければ」の箇所で接尾辞を用いるのは不適切である 。以上のような疑問に対して、ここでBhāmatīは日常的経験は行為であり、その行為の主体は諸感覚器官を用いない人と同一であるから、二つの行為の主体が同一であることに なり、接尾辞を用いることにさしつかえはないと答えているのである。
155T1では、この箇所では、「[認識主体は〕何故それ自体で機能しないのか」という意味になるが、以下の答論から判断すると、ここでは 諸認識根拠のことが問題になっているので、「[認識根拠は]何故それ自体で機能しないのか」と解した。
156『註解』本文で「基体」と訳した語には、「統御」という意味もあるので、Bhāmatī は、この語を「統御」という意味にとって、「基体がなければ」を「行為主体 (=個人存在)によって統御さてれいなけれぱ」と解しているのである。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

480鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/02(火) 22:57:38 ID:368Oa4hw0
 反対なのじゃ。
 認識根拠が機能しないとどんな不都合があるのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 直接知覚等の日常的経験は諸感覚器官を用いなければ成立しなくなるというのじゃ。
 認識根拠に基づいて日常的経験はあるからなのじゃ。
 
 
 反対なのじゃ。
 なぜ認識主体が認識根拠を用いる必要があるのかというのじゃ。
 認識根拠は何故それ自体で機能しないのかと聞いたのじゃ。

 答えたのじゃ。

 基体である身体がなければ、認識根拠の活動は成り立たないというのじゃ。
 認識根拠などの行為手段は、行為主体によって統御されていなければ対象に作用することはないからなのじゃ。

 反対なのじゃ。

 それでは身体が統御者であっては何故いけないのかと聞いたのじゃ。。
 そうすれば、アートマンを身体に附託する必要がなくなるからというのじゃ。

481避難民のマジレスさん:2022/08/03(水) 01:28:54 ID:18AWXTn60
(つづき)   p254
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。身体にアートマンの性質が 附託されていなければ、誰ひとり活動することはないと。[何故なら、身体にアートマ ンの性質が附託されていなくても活動が成り立つとすると]、熟眠状態においても活動が[成立する]、という誤謬に陥るからである。以上が、[『註解』本文の]趣旨である。
  [反対主張]織子は、自己(アートマン)の附託されていない織機を作動させて、布 を作る主体となるように、それ(身体・感覚器官等)の認識者(アートマン)は、アートマンの附託されていない身体・感覚器官等を作動させて、認識主体となるのではないのか。
  [答論]これに対して、[師シャンカラは]答えて言う。また、これらすべてが、すな わち、[基体の]相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは[何ものとも]結びつかないので、すなわち、常にどんな形であれ、あらゆる属性および[その]基体と結びつかないので、認識主体ではありえないと。確かに織子等は、活動を備えている[ので]、織機等を統御して作動させている。だがアートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動することはありえないのである。これが、[この本文の]意味なのである。

脚注
157この箇所は、「認識主体であることがなければ、認識根拠が機能することてありえない。このような場合どうして、認識根拠は附託に基づいているのか」という疑問に対して、「認識主体も精神性と物質性という姿の混ざりあった認識の基体(なの)で、それ(附託)を本質 とするものであることはありうる。精神性と物質牲が混ざりあうことは附託がなければ存在しないから、 認識根拠は当然附託に基づくはずである」と答えているのだとされている。
I58 壺の認識というような外的な対象の知覚を例にとると、内官は視覚を通して対象である壷の方に向 かって外に出て、壷に達し、そこで変容して壷の形を取る。このような変容が内官の変容 であるが、この時、正しい認識は、アートマンという純粋精神の二つの限定者、すなわち外界の対象であ る壷と内官の変容とが外界の同一の場を占めた時に、言いかえれば、両者によって限定された純粋精神が 同一である時に、生ずるのである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

482鬼和尚 ◆Yj52hBkdLM:2022/08/04(木) 00:32:46 ID:gfiOqVvw0

 答えたのじゃ。

 シャンカラは身体にアートマンの性質が付託されていなければ、誰も活動できないというのじゃ。
 認識主体がないからのう。

 反対なのじゃ。
 
 布を織るための織子は主体がなくとも、織機を作動させて布を織る主体となるのじゃ。
 それと同じようにアートマンは付託されていない身体や感覚器官を作動させて主体になるのではないかと聞くのじゃ。

 答えたのじゃ。

 シャンカラは相互附託と属性の相互附託とが、存在しなければ、アートマンは何ものとも結びつかないので認識主体ではないというのじゃ。
 客体がなければ当然主体もないからのう。
 アートマンは、身体等に アートマンの性質が附託されていなければ、活動できないというのじゃ。

483避難民のマジレスさん:2022/08/04(木) 00:58:16 ID:5jZWvCyU0
(つづき)  p254-256
  また、以下の理由からも認識根拠が附託に基づくというので、[師シャンカラは]認識主体であることが存在しなければ、認識根拠が機能することはないと言っているのである。実に、認識主体とは、[認識の]結果である正しい認識から自立した存在なのである157。そして、正しい認識は、[内官が]認識対象に向った[時に生ずる]内官の変容の一種(parināmabheda)158であって、[認識]行為の主体に存在し、かつ、純粋精神を[その]本質としているのである。従って、もしそれ(内官)に純粋精神アートマンが附託されていなかったら、どうして物質的な内官の変容が、純粋精神を[その] 本質としたりしようか159。また、もし活動を備えた内官が純粋精神アートマンに附託 されていなかったら、どうしてこれ(内官の変容)が、純粋精神アートマンを[認識]行為の主体として有しようか160。それ故、正しい認識という結果一[それは]純粋精神アートマンという[認識]行為の主体に存在する一は、相互附託に基づいて成 り立っているのである。そして、これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]、認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能するのであ る161。従って[『註解・本文中の]認識主体であること[という語]は、正しい認識を暗に意味しているのである162。[つまり]、「結果である正しい認識が存在しなければ、認識根拠が機能することはなく、その結果、認識根拠が正しい認識根拠でなくなってしまうだろう」というのが[『註解』本文の]意味なのである。[それ故、師シャンカラ は]従って、直接知覚等の認識根拠は、無明を持つ者にのみ関係しているのであると結論づけているのである。

脚注
159内官は物質的なものであるから、純粋精神アートマンが附託されていなければ、精神的活動である認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
160 逆に、純綿神アートマンには、活動がないから、活動を備えた内官が附託されていなければ、認識活動を行なう主体とはなりえないのである。
161「これ(正しい認識)が成り立っている時に、認識主体であることも[成り立ち]。という箇所は、本訳251頁20-21行の「認識根拠は、その結果である明知が無明と相入れないので、無明に基づくことは ないのである」という反対主張に対する答論であり、「認識根拠はまさにその正しい認識に対して機能す るのである」という箇所は、本訳251頁19-20行の「正しい認識すなわち明知とは、実に、真理を確定 することであり、その手段が認識根拠である[のに、それが]どうして無明を持つ者に関係していたりし ようか」という反対主張に対する答論である。すなわち、反対主張においては、「正しい認識は、無明と相入れないから、その手段である認識根拠が無明に基づくことはない。とさ れているわけだが、それに対して、「正しい認識が成り立っている時には、その認識主体が存在しており、 その認識主体自体がアートマンと内官との相互附託(=無明)に基づいているわけだから、正しい認識で すら無明に基づいており、その正しい認識に対して機能する認識根拠も当然無明に基づいている」と答え ているのである。
162認識根拠を統御する認識主体の必要性についてはすでに説明済(本訳252頁4行以下参照)なので、 ここで更に同じ説明を繰り返す必要はない。従って、Bhāmatīはここで、認識主体であることという『註解』本文の語を「正しい認識」の意味に取り、この箇所の論議を「正しい認識自体が精神性と物質性のいり混ったものだから、純粋精神であるアートマンと物質的な内官等の相互附託を前提としている」と解すのである。
163「当面」を、附託が行なわれているまさにその時の[日常的経験]」と解している。
(´・(ェ)・`)つ


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