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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5
1
:
避難民のマジレスさん
:2019/06/18(火) 19:24:25 ID:y0tBAQCMC
前スレ
鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 4 - なんでも避難所 - したらば
URL:
http://jbbs.m.shitaraba.net/b/i.cgi/study/8276/1530935225/n
#last
>>863
〜マハリシの対話録の講読会、開催中であります。
52
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/09(火) 13:52:09 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話59
イスラム教徒の学者が尋ねた。
「人はどのように眠りに入って行くのでしょうか?」
マハルシ
もし探究者が目覚めの状態で目覚めているのは誰なのかを知るなら、どのようにして眠りに入って行くかも知るでしょう。
探究は目覚めた人にのみ起こり、眠っている人にではありません。
目覚めているときの真我を知るほうが、眠っているときの真我を知るよりもやさしいのです。
質間者
私はどのように目覚めるか知っています。
しかしどのように眠りが起こるのかは知らないのです。
私は目覚めの状態に気づいています。
例えば、もし誰かが私の杖を取り去ろうとしても、私はそれを防ぐことができるでしょう。
しかし夢や眠りの中ではそれはできません。
目覚めていることの証拠は明らかですが、眠りの証拠とは何でしょうか?
マハルシ
あなたの無知が眠りの証拠であり、あなたの気づきが日覚めの証拠なのです。
質間者
目を開くことで目覚めたということはわかります。
しかし眠りはどのように私に取り付くのでしょう?
マハルシ
眠りがあなたに取り付くように、目覚めもあなたに取り付くのです。
質問者
しかしどう目覚めたかを知っているようには、どのように眠りが起こるのか気づかないのです。
マハルシ
気にする必要はありません。
質問者
どうか眠りとは何かを描写してください。
説明ではなく、眠りそのものが知りたいのです。
私は眠りの本当の描写を望んでいます。
マハルシ
そのような描写が眠りそのものなのです。
53
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/09(火) 13:52:45 ID:73lwfNNQ0
質問者
結婚するのと、隠遁するのと、どちらが解放にふさわしいでしょうか?
マハルシ
どちらでもあなたがよいと思うように。
質問者
ヴィシュヴァーミトラは結婚生活では堕落しなかったのに、隠者としての生活では堕落してしまいました。
これは他の者にとっても当てはまるのではありませんか?
マハルシ
ヴィシュヴァーミトラは結婚生活でも隠者の生活でも純粋だったのです。
そこに違いはありません。
彼は隠者の生活でもそうだったように、結婚生活でも堕落していたのです。
質問者
彼はリシ(聖者)だったのですか?
マハルシ
堕落していたとき、彼はリシではありませんでした。
質問者
堕落した後でも、彼はリシになることができるのでしょうか?
マハルシ
そうです。
正しいバクティ(帰依)によって、彼は良いリシになることができたのです。
悔い改めと祈りが人を正すのです。
質問者
長年の難行苦行によって、あなたは何を得たのでしょうか?
マハルシ
得るべきものを得、見るべきものを見たのです。
質間者
誰もが同じものを見ることができるのでしょうか?
マハルシ
私は誰もが見ているものを見ているだけです。
それはすべてに遍在しているのです。
質間者
これが「それ」を見る方法なのでしょうか?
マハルシ
方法はどれでもいいでしょう。
どの方角から巡礼者が集まろうとも、彼らは一つの入り口だけを通ってカーバに入らなければなりません。
なぜならカーバに入るだけのために、みな諸方から集まって来るからです。
質問者
解放へと導く、あなたが知っておられる二つの教えについて話してくださいますか。
マハルシ
私がどのような教えを知っていると言うのでしょう?
すべてが教えなのです。
神を崇めることだけが教えです。
*ヴィシュヴァーミトラ…
聖者ヴァシシュタとの闘いに敗れた後、ヴィシュヴァーミトラは森に隠遁して苦行に入ったが、美少女の精霊メーナカーの誘惑に負けて、苦行を断念してしまう。
*カーバ
イスラム教の聖地メッカの中心部にある最も重要な神殿。
54
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/09(火) 23:20:56 ID:1d4drIFg0
ヴィシュヴァーミトラは久米の仙人みたいな者じゃな。
隠者としても結婚しても同じように純粋で、同じように堕落していたというのじゃ。
悔い改めて帰依をすることで聖者になれたというのじゃ。
修行をやり直すのには何時でも遅くは無いのじゃ。
55
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/10(水) 12:33:23 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話60
1935年7月5日
マウナ(沈黙)について
マハルシ
孤独における沈黙は強いられたものです。
人前で会話を控えることは沈黙をもたらします。
なぜなら、人は言葉を制御するからです。
会話をする前に、人は話をしようとする意図を持たなければなりません。
しかし他のことに関わっていれば、会話は控えられます。
たとえ活動的であったとしても、ひとたび内向的になった心は会話をしたがらないものです。
修練としてのマウナ(沈黙) は、会話による精神活動を限定するためにあります。
しかし心が制御されたなら、マウナの必要はありません。
なぜなら、沈黙は自然なものになるからです。
ヴィディヤーランヤは「強制的な十二年間のマウナは絶対的なマウナをもたらす」と言いました。
それはつまり喋れなくなってしまうということです。
それでは口のきけない動物と同じで、マウナではありません。
マウナとは絶え間のない語りかけであり、無為とは絶え間のない活動なのです。
56
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/10(水) 22:06:49 ID:1d4drIFg0
インドにも沈黙の行があるのじゃ。
それは心の働きを制御するための行なのじゃ。
観念は言葉として働くものであるからのう。
観念がむやみに働かないようになれば止めて善いのじゃ。
真の沈黙はアートマンが実現されてから自然に起こるのじゃ。
57
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/11(木) 13:09:20 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話61
1935年7月6日
エーカナート・ラーオ氏
瞑想(ディヤーナ)の修練は目を閉じるべきでしょうか、 それとも開くべきでしょうか?
マハルシ
どちらの方法でもかまいません。
要点は心が内に向かい、瞑想を活動的に続けることにあります。
目を閉じると、ときおり潜在していた想念が強烈な勢いで湧き起こってきます。
目を開いたままだと、心を内向的にすることも難しくなるでしょう。
それには強靭な心が必要となります。
心は対象物を取り入れると不純になってしまいます。
そうでないとき、それは純粋です。
瞑想の修練の主要な目的は、外的な印象を取り込むことなく、他の事を考えることなく、心を活動的に瞑想に専念させることにあるのです。
58
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/11(木) 22:01:21 ID:1d4drIFg0
実践は常に自分にあった方法でよいのじゃ。
眼を閉じたほうがよい者は閉じればよいのじゃ。
開けたままがよい者は開けたままで善いのじゃ。
心を制御することが目的であるからやり方は自らやり易い方法を選んでやると善いのじゃ。
59
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/12(金) 15:02:24 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話62
エーカナート・ラーオ氏
スプラナ(ハート・センターで感じられる描写不可能な感覚)とは何でしょうか?
マハルシ
スプラナは恐れや興奮などの場合に感じられます。
実際、それは常に、いたるところに存在しているのですが、同時に、特定の場合に特定のセンターで感じられるのです。 スプラナはそれが起こる原因との関連から身体と混同されていますが、実際は、唯一それだけが存在しています。
それが純粋な真我です。
もしスプラナに心を集中させ、自然に途切れることなく感じられるようになれば、それが実現です。
スプラナは実現の一段階前でもあります。
それは純粋なもので、主体と対象はそれから現れます。
もし人が自分を主体と見なせば、対象は彼から分離して現れるでしょう。
それらは周期的に(目覚めとともに)現れ出たり、(眠りとともに)引き込まれたりしながら、対象世界とそれを楽しむ主体を創造するのです。
その代わりに、もし自分自身をスクリーンと見なし、その上に主体と対象が投影されると見るなら、惑わされることはなくなるでしょう。
真我に影響を与えることなく現れては消え去る主体や対象を、人はただ見守るだけなのです。
*スプラナ
輝き、振動を意味する。
真我探究において「私」という想念の湧き起こる源に注意が向けられ、そこに純枠な存在としてとどまるとき、「私」は消え去り「私一私」という無音のスプラナがおのずと輝きだす。
このスプラナさえも消え去ったとき、「私は身体だ」という形の自我は完全に破壊される。
(The Collected Works『真我探究』質問3の要約より)
60
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/12(金) 22:42:15 ID:1d4drIFg0
スプラナも気付きの意識といえるじゃろう。
それはアートマンとも言えるのじゃ。
それによって自我も見えるのじゃ。
それさえもなくなれば悟りなのじゃ。
61
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/13(土) 14:40:26 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話63
政府の高官が尋ねた。
「もし下級職員が自分よりも高い地位に昇進した場合、心は狼狽するでしょう。
『私は誰か?』という探究は、そのような状況でも心を静める助けとなるでしょうか?」
マハルシ
そのとおりです。
「私は誰か?」という探究は心を内側に向けて静かにさせるのです。
質問者
私はムールティ・ディヤーナ(神の姿に瞑想すること)に信仰を抱いています。
それは真我の知識(ジニャーナ)を得る助けとなるでしょうか?
マハルシ
もちろんなります。
瞑想は心の集中を助けます。
瞑想をすれば心は他の想念から自由になり、瞑想の対象である神の姿で満たされるでしょう。
心はそれになり、それゆえ非常に純粋になるのです。
そのとき、誰が神の姿を礼拝しているのか、と問いなさい。
その答えは「私」つまり真我です。
こうして、最終的には真我が得られるのです。
現状における困難は、人が自分を行為者だと考えていることにあります。
しかしそれは誤りです。
すべてを為すのは高次の力であり、人は単なる道具にすぎません。
もしこの見解を受け入れれば、彼は災いから解放されます。
さもなければ自ら災いを招くことになるでしょう。
例えば、寺院の塔(ゴープラム)の土台に彫刻された像は、あたかも塔の重みをその肩に乗せているかのように見えます。 その姿はたいへんな努力で塔の重みに耐えているような印象を与えています。
しかし考えてもみなさい。
塔は地面の上に建てられ、その土台の上に立っています。
地球を背負うアトラスのようなその彫像は塔の一部分にすぎず、ただ塔を抱えているかのように造られているだけなのです。
おかしくはありませんか?
自分が行為をしていると感じる人もまた同じことなのです。
帰依者の一人がマラヤラム語版の『実在についての四十頌』をその訪問者のために朗読した。
それを聞いた後で、訪問者は尋ねた。
「修練における二元性と最終的な合一にはどのような関係があるのでしょうか?」
マハルシ
ある人々は「二元的概念に基づいて修練を始めなければならない」と考えています。
修練における二元性と最終的な合一の関係を問題として取り上げるのはこのような人たちです。
彼らは「神が存在する。人は神を崇拝し、神に瞑想しなければならない。そして究極的にジーヴァは神の中に融け入る」と言います。
別の人たちは「至高の存在とジーヴァは永遠に分離したままけっして互いに融け合うことはない」と言います。
たとえどうであろうとも、それらはみな最終段階についてのことで、今それについて頭を悩ませる必要はないのです。
誰もがジーヴァが「存在している」ことに同意するはずです。
ジーヴァ、つまり自我が見いだされるべきなのです。
その後で、もし自我が「至高なるもの」の中に融け去るべきかどうか、それともそれの一部なのか、あるいはそれとは異なるのかを知る時間もあるでしょう。
結論へと先走るべきではありません。
心を開いて内面に飛び込み、真我を発見しなさい。
そうすれば、真理そのものがあなたに開かれるでしょう。
なぜ最終結果が合一された絶対なるものか、あるいは限定されたものか、あるいは二元的なものかを前もって決定しなければならないのでしょう?
それは無意味です。
その判断は理論と知性によって下されます。
知性はより高次な力、すなわち真我から光を得ているのです。
どうして反映された部分的な光にすぎない知性が、全体である本来の光について考察できると言うのでしょう?
知性が真我に達することはできないのです。
どうして知性に真我の本性を突き止めることができると言うのでしょう?
これが二元性と最終的な合一の関係です。
62
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/13(土) 14:41:01 ID:73lwfNNQ0
質問者
『実在についての四十頌』の中の一節に、「初期段階では綿密に学ばれた聖典も、最終的には役に立たない」と言われています。
一体どの段階で無用になるのでしょうか?
マハルシ
聖典の本質が理解されたときです。
聖典は高次の力(真我)の存在とそれを獲得する道を示すためにあります。
聖典の本質はただそれだけで、それさえ理解されれば残りは無用となるのです。
しかし探究者の発展段階に相応して書かれてきたため、聖典は膨大な数になってしまいました。
発展段階が向上するにしたがって、探究者は通り過ぎた領域がもう一段上の段階へ登るためのものでしかなかったことを理解します。
それはそのように続いていき、今まで登ってきた段階は、目的に達するまで次々と克服されていくためのものとなるのです。
ひとたび目標に達すれば、ただそれだけが残り、他はすべて無用となります。
聖典はこうして無用となるのです。
私たちはあまりにも多く読みすぎです。
今まで読んだすべてを覚えていますか?
それでも、書かれていたことの本質は憶えていますね?
本質だけが心に浸み込み、その他は忘れられてしまうものです。
聖典も同じことなのです。
問題は「自分は限定されている」と考えるために起こります。
その考えは誤りです。
そしてその誤りを自覚することはできるのです。
眠りの中では、世界も、自我も、限定された自己も、問題もありませんでした。
何かがその幸福な状態から目を覚まして「私」と言い、世界はその「自我」に対して現れます。
世界の中のほんの小さな存在でしかない自我はより多くを欲し、そうして困難に巻き込まれていくのです。
自我が現れる前はどんなに幸せだったことでしょう!
現在の不幸の原因はただ自我の出現にのみあります。
自我をたどってその源まで戻れば、「眠りのない眠り」という、区別も分離もない「あの幸福な状態」に達するでしょう。
真我は常に変わらず、今ここに在ります。
それ以上得るものなど何もありません。
誤って限定が受け入れられたため、それを超越する必要が生じただけなのです。
これと似た話があります。
ある十人の愚かな男たちが川の流れを渡り、向こう岸について人数を数えたところ、九人しかいませんでした。
誰だかはわからないまま、彼らは十番目の男を失ったことを嘆き悲しんでいました。
それを見た旅人が、彼らの嘆きの原因を突き止めようとして人数を数えたところ、十人いることがわかりました。
ただ彼らの一人ひとりが自分自身を抜かして数えていただけのことだったのです。
旅人は一人ずつ頭を叩きながら、声に出して数を数えさせました。
十まで数えたとき、彼らはやっと安心したのです。
この物語の教訓は、つまり十番目の男は新たに加えられたわけではないということです。
彼は最初からずっとそこにいました。
ただ無知が彼らに嘆きをもたらしただけなのです。
このような話もあります。
ある女性が首にネックレスをかけながら、そのことを忘れていました。
彼女はそれを探そうと尋ねて回りました。
探しているものに気づいた友人が、探していた当人の首もとのネックレスを指差しました。
彼女はそれを指で確かめて、とても喜んだのでした。
ネックレスは新たに得られたのでしょうか?
ここでも無知が不幸をもたらし、知識が幸福をもたらしました。
人と真我についても同じです。
何も新たに得るものなどありません。
真我について無知であることが現在の不幸の原因であり、真我の知識が幸福をもたらすのです。
さらに、もし何か新しいものを得たのなら、それは以前には存在していなかったことを意味します。
かつて存在していなかったものは、再び消え去るに違いありません。
それゆえ、永久的な救済などないのです。
救済が永久的であるのは、真我が今ここに、永遠に存在するからです。
それゆえ、私たちの努力は無知を取り除くことだけに向けられています。
叡知は自然で常に存在しているにもかかわらず、突然悟られるように見えるだけなのです。
その訪問者は立ち去ろうとして師に礼拝すると言った。
「トラの口にとらわれた獲物はけっして逃げられません」
それは『私は誰か?』という本からの引用で、「トラにとらわれた獲物が逃げられないように、ひとたびグルの慈悲深い眼差しにとらえられた弟子は、二度と世俗に戻ることはできない」という意味の言葉だった。
*ある人々は…
この会話においてマハルシは、ドヴァイタ(ニ元論)、ヴィシシュタアドヴァイタ(限定不二一元論)、アドヴァイタ(不二ー元論)の各学派の解脱に関する見解の違いを示している。
63
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/13(土) 22:22:10 ID:1d4drIFg0
二元論も、不二一元論も、限定不二一元論も全て悟りを得るための方便に過ぎないものじゃ。
それらによって実践するならばそれでよいのじゃ。
誰もが同じ論を持たなければならないということもないのじゃ。
自らの性質や好みによって好きな論をもって実践に励むがよいのじゃ。
64
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/14(日) 12:53:20 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話64
ある人の死がシュリー・バガヴァーンに伝えられた。
マハルシ
良いことです。
死者は実際幸せなのです。
彼らは大きくなりすぎた身体を厄介払いしたのです。
死者は嘆き悲しんだりしません。
死者のために嘆くのは残された人たちです。
人は眠りを恐れるでしょうか?
それどころか、誰もが良い眠りを求め、誰もが目覚めとともに「私は幸せに眠った」と言います。
ぐっすりと眠るために人はベッドを整えます。
眠りとは一時的な死であり、 死とは長い眠りなのです。
もし人が生きながらにして死ねば、他の人の死を嘆くこともなくなるでしょう。
目覚め、夢見、眠りにおいてもそうであるように、人の存在は身体があろうとなかろうと明白です。
だとすれば、なぜ身体という束縛が続くことを求めるのですか?
死ぬことのない真我を見いだして死になさい。
そして不死となって、幸せでありなさい。
65
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/14(日) 22:53:55 ID:1d4drIFg0
死とは消滅ではなく休みなのじゃ。
この世でまだすることがあると思うものはまたゃってくるじゃろう。
何も無ければ全てであるだけなのじゃ。
意識は永遠になくならないのじゃ。
66
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/15(月) 15:30:50 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話65
1935年7月13日
訪問者
世界は真我が実現された後でさえ知覚されるのでしょうか?
マハルシ
この質問は誰のものですか?
それは真我を実現した人(ジニャーニ)からですか、それとも真我を実現していない人(アジニャーニ) からですか?
訪問者
アジニャーニからです。
マハルシ
誰にその疑問が起こったのかを理解しなさい。
疑う者を知った後でもまだ疑問が起こるなら、それに答えることもできるでしょう。
世界や身体が「自分は存在する」と言えるでしょうか?
あるいは、見る者が「世界や身体は存在する」と言うでしょうか?
対象を見るにはそこに見る者がいなければなりません。
その見る者をまず見いだしなさい。
なぜ先のことについて今心配するのですか?
世界が知覚されるかどうかなど何だと言うのです?
今世界を見ているからといって何かを失いますか?
あるいは、深い眠りの中で世界を見ないからといって何かを得るでしょうか?
世界が知覚されるかされないかなど重要ではないのです。
アジニャーニはジニャーニが活動しているのを見て困惑します。
そのどちらも世界を見ています。
ただ彼らの見方が異なるのです。
映画を例にとってみなさい。
スクリーンの上には画像が動いています。
行ってそれをつかまえてごらんなさい。
何をとらえますか?
ただのスクリーンです。
画像を消してみなさい。
何が残りますか?
やはりスクリーンです。
それはこの場合でも同じことです。
たとえ世界が現れたとしても、誰にとってそれが現れたのか見てみなさい。
「私」の基盤をとらえなさい。
基盤をとらえたなら、世界が現れようと消え去ろうと何の問題もないのです。
アジニャーニは世界を実在と見なします。
一方、ジニャーニはそれを真我の顕現としてのみ見ています。
真我がそれ自体を世界として現そうと現すまいと重要ではないのです。
67
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/15(月) 22:11:57 ID:1d4drIFg0
アートマンを実現した後にも世界は知覚されるかとは、眠りから目覚めた者も夢を見るかと聞くようなものじゃ。
世界も観念であり、全ての観念を捨てた者に世界という観念は無いのじゃ。
全て全てありのままにあるだけなのじゃ。
それこそが真の一切如実の現証なのじゃ。
68
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/16(火) 12:37:18 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話66
1935年7月15日
一通の手紙が届いた。
そこには記憶、眠り、死に関する学識ある質間が書かれていた。
それは一見説得力があるように見えながら、不可解な当惑させる内容だった。
しかし師の説明はその論題のからまったもつれを見事に解きほぐした。
マハルシ
このような混乱はすべて真の「私」と偽りの「私」を識別しないために起こるのです。
偽りの「私」には属性と様態がありますが、真の「私」にそれらはありません。
私たちの努力はただこの無知を取り除くためだけにあります。
後に努力が止んだとき、真我は常に存在しているということが明らかになります。
真我として在ることに努力は必要ないのです。
*属性 (ウパーディ)
付属性。
心と身体、名前と形など。
*様態(ヴリッティ)
変化変容する心の状態。
眠り、夢見、目覚め。
幸福と不幸、意識と無意識、外向性と内向性など。
69
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/16(火) 23:03:05 ID:1d4drIFg0
名前とイメージによる観念の自分があれば、さまざまな欲も迷いも起こるものじゃ。
そして苦も延々と生じていくのじゃ。
それがなければ苦もまたなくなるのじゃ。
ただあるだけのものとして永遠の安らぎがあるのじゃ。
70
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/17(水) 15:36:00 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話67
1935年7月21日
南インド鉄道で働くK・S・N・アイヤール氏が言った。
「瞑想をしていると、些細なことで立ち止まってしまうときがあります。
『私は誰か?』と尋ねると、私の論法はこのように展開します。
『私は手を見ている。
誰が見ているのか?
私の目だ。
どうやって目を見るのか?
鏡の中で。
私を見るときには鏡が必要なように』」。
私の質問は、「私の中のどこに鏡をおけばいいのでしょうか?」というものです。
マハルシ
それでは、なぜ「私は誰か?」と尋ねたのですか?
なぜ困難があるなどと言うのですか?
ただ静かにしていることもできたはずです。
どうして静寂から立ち去ったのですか?
質問者
このように問いただすことは集中の助けになるのです。
恩恵は集中だけなのでしょうか?
マハルシ
それ以上の何を望むのですか?
集中が要点なのです。
何があなたを静寂から連れ出したのでしょう?
質問者
知らぬうちに連れ出されたのです。
マハルシ
「私は誰か?」と尋ねることは「私」の源を見いだすことです。
それが見いだされたとき、あなたの探究は完結するのです。
*記録者ノート
シュリー・バガヴァーンの要点は、
「敗北主義者のような精神ですぐに挫折して諦めるのではなく、断固とした努力をするべきだ」
ということのようである
71
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72
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/17(水) 23:52:59 ID:1d4drIFg0
鏡が必要とか、それをどこに置けばよいとか思うのは観念によるものなのじゃ。
観念を観ている状態なのじゃ。
鏡もそれを置く場所もないのじゃ。
ただひたすらに私に集中するのじゃ。
73
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77
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 01:12:57 ID:LABA5HjA0
女性が女性らしい魅力を見せたい時は
座るときなどはふわりと座るのが良い。
人間行動学も参考になったりします。
78
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79
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:16:08 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話68
著名な教授であるDr・ラーダーカマール・ムケールジー氏は、物腰の温和な色白の中年男性で、ヨーガと瞑想を修練している。
ある神秘体験をし、師にその不思議を解いてもらうべく訪れた。
教授には著書があり、ロンドンのロングスマン・グリーン出版社から出版されている。
彼は真我実現に困難を感じて、師に助けを求めた。
質問者
『ウパニシャド』にある瞑想法は、今では消え去ってしまいました。
私はベンガル州にいる偉大な賢者からその教えを受け、長い年月の戒律と修練を経た末、ある神秘的な体験をしています。
ときどき私は「ブーマー(至高の意識)は無限であり、私は限定された意識だ」と感じます。
それは真実でしょうか?
マハルシ
ブーマー(完全性)だけが存在するのです。
それは無限です。
その無限のブーマーから、ウパーディ(限定された付属性)をともなう有限の意識が現れます。
これはアーバーサ(反映)です。
この個人意識を至高の一者に融け入らせること、それが為されるべきことです。
質問者
ブーマーは至高の意識の属性です。
マハルシ
ブーマーは「至高なるもの」なのです。
ヤトラ・ナーンヤット・パシュヤティ・ヤトラ。
ナーンヤット・シュルノーティ・サー・ブーマー。
何であれ自分と異なるものを見ることも聞くこともないところ、それが「完全なるもの」である。
『チャーンドーギャ・ウパニシャド』第7巻24章1節
それは定義することも描写することもできません。
それは「あるがまま」なのです。
質間者
私は広大な広がりを体験しました。
それはおそらくブーマーの一段階下、あるいはそれに近いものだと思われます。
正しいでしょうか?
マハルシ
ただブーマーだけが存在し、他には何も存在しません。
そのようなことを語っているのは心なのです。
質間者
心を超越して、私は広がりを感じるのです。
マハルシ
そう、そうです……。
教授は少し離れたところに座っていた女性にヒンドゥー語で説明した。
女性
瞑想と散漫の違いは何でしょうか?
マハルシ
違いはありません。
想念があるとき、それは散漫であり、想念がないとき,それが瞑想です。
しかしながら、瞑想とはただの修練でしかなく、真の平安の境地とは異なります。
女性
どのように瞑想を修練すればよいのでしょうか?
マハルシ
想念を払い去りなさい。
女性
どうすれば仕事と瞑想を調和させることができるでしょうか?
マハルシ
働く者とは誰でしょうか?
働くその人に質問させなさい。
あなたは常に真我なのです。
あなたは心ではありません。
このような質問を起こすのは心なのです。
仕事は常に真我の存在の中でのみ進んでいきます。
仕事が真我実現の障害となることはありません。
仕事をする者が自己の本性を見誤ったため問題が生じるのです。
偽りの同一化を棄て去りなさい。
教授
無意識状態は無限の意識に近いものではありませんか?
マハルシ
意識だけが存在し、それ以外は何もないのです。
80
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:18:24 ID:73lwfNNQ0
質問者
シュリー・バガヴァーンの沈黙自体、強力な影響力を持っています。
それは私たちの心に平和をもたらします。
マハルシ
沈黙とは絶え間ない語りかけです。
言葉による語りかけは沈黙による語りかけを妨げます。
沈黙の中では、人は周囲との親密な接触の内に在ります。
ダクシナームールティの沈黙は四人の弟子たちの疑いを払い去りました。
「マウナ・ヴャーキャー・プラカティータ・タットヴァム」とは、「沈黙によって説かれた真理」を意味しています。
沈黙は真理の顕示なのです。
沈黙とは実に強力なものです。
声に出して表す言葉は口という器官を必要とし、それが言葉に先行します。
しかし沈黙の言葉は想念さえも超えています。
それはつまり、話された言葉も話されない言葉も超えているのです(パラー・ヴァーク)。
質問者
真我実現の中に知識はあるのでしょうか?
マハルシ
知識の不在は眠りですが、実現の中には知識があります。
しかしこの知識は主体と客体をともなう通常の知識とは異なったものです。
それは絶対知識なのです。
知識には二つの意味があります。
1ヴァーチャールタ=ヴリッティ=文字通りの意味
2ラクシャールタ=ジニャーナ=真我=スワルーパ=第二の意味(秘められた、暗示された意味)
質問者
人はヴリッティとともに知識を見るのです。
マハルシ
そのとおりです。
誰もがヴリッティと知識を混同してしまいます。
ヴリッティとは心の様態です。
あなたは心ではありません。
あなたはそれを超えているのです。
女性
ときおり、ブラフマ・アーカーラ・ヴリッティにとどまりたいという抑えがたい熱望を感じます。
マハルシ
それは良いことです。
それが自然(サハジャ)になるまで培われなければなりません。
そうしたとき、それはスワルーパ、真の自己となるのです。
後にシュリー・バガヴァーンは説明した。
マハルシ
ヴリッティ(心の様態)はしばしば意識と間違えられます。
しかしヴリッティは単なる現象でしかなく、反映された意識(アーバーサ)の領域で働くものです。
真の知識は相対的な知識と無知の両方を超えています。
それはヴリッテイの中にはありません。
真の知識の中には主体も対象も存在しないのです。
ヴリッティはラージャシックな(活動的)心に属しています。
サートヴィックな(静止した、不動の)心はヴリッティから自由です。
サートヴィックな心はラージャシックな心の観照者です。
それは疑いなく真の意識ではあるのですが、それでも、それはサートヴィックな心と呼ばれています。
なぜなら「観照者として在る」という知識は、反映された意識(アーバーサ)の機能にすぎないからです。
心は反映された意識であるため、「観照者として在る」という知識は心であることを示しているのです。
しかし心はそれ自体では作用しません。
それゆえ、それはサートヴィックな心と呼ばれるのです。
それがジーヴァン・ムクタ(生きながら解脱した人)の境地です。
彼の心は死んでいるとも言われています。
ジーヴァン・ムクタは心を持っていて、しかもそれは死んでいる、というのは矛盾していないでしょうか?
これに関しては、無知な人々と議論したうえで是認されなければなりません。
ブラフマンはジーヴァン・ムクタの心に他ならないとも言われています。
どうしてジーヴァン・ムクタをブラフマヴィド(ブラフマンを知る者)として語ることができるのでしょうか?
ブラフマンはけっして対象として知られるものではありません。
しかしこれはあくまでも一般的な言い回しにしたがったものなのです。
純粋(サートヴィック)な心は、ジーヴァン・ムクタとイーシュヴァラ神の心を推測したものです。
彼らは議論します。
「さもなければ、いったいどうやってジーヴァン・ムクタは生活し活動するのか?」と。
ですから、議論上譲歩してサートヴィックな心の存在を認めなければならないということになったのです。
実際、サートヴィックな心とは絶対意識のことです。
観照者と観照される対象は最終的には融け合い、絶対意識だけが支配します。
それは「空」(シューニャ)や無知の状態ではなく、真我(スワルーパ)なのです。
ある人々は、「心は意識から立ち現れ、意識の反映がそれに続く」と言います。
他の人々は、「意識の反映が先に現れ、心がそれに続く」と言います。
事実は、どちらも同時に現れるのです。
81
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:19:22 ID:73lwfNNQ0
教授はシュリー・バガヴァーンに、
「もうすぐ一千マイル離れたところへ行ってしまいますが、どうぞ恩龍をお与えください」と懇願した。
シュリー・バガヴァーンは、
「時間と空間は心の中にある概念にすぎません。
しかし真我(スワルーパ)は心も時間も空間も超えています。
真我の中では距離は問題ではないのです」と語った。
彼とともに来た女性は、師のもとを去ることを最もためらっていた。
師は言われた。
「あなたはいつも私の臨在の内に在ると思いなさい。
そうすれば、安心できるでしょう」。
彼らは日が暮れてから去って行った。
*ウパーディ (限定された付属性)
ヴェーダーンタ哲学の用語。
水晶玉を赤い紙の上に置くと赤くなる。
水晶玉を赤い紙から離せば、 透明な状態に戻る。
両者が接触するとき、赤い色は水晶玉の中に存在するかのように見える。
水晶玉は身体を表し、赤い紙は意識を表す。
あるいは、鉄の球は硬く冷たいが、火に熱せられると柔らかく熱くなる。
火から引き離せば鉄の球は元どおりになる。
鉄の球は身体を表し、火は意識を表す。
身体自体に生命意識はないが、 意識が身体に入ったとき、 身体は意識の質と付属性を得たかのように見え、意識は身体に限定されたかのように見える。
しかし身体から意識が離れ去ったとき、「限定された付属性」も消え去る。
このような接触によって起こる「限定された付属性」をウパーディと呼ぶ。
*沈黙とは絶え間ない語りかけです
マハルシはしばしば、
「マウナ(沈黙)は絶え間ない語りかけであり、
静かにしていることは絶え間ない活動です」と語っている。
このことについて尋ねたアンナーマライ・スワミにマハルシはこう答えている。
「静かにしていることは常に働いているということです。
『働く』とは、別に鍬を手にして働くなどという意味ではありません。
『働く』とは、常に真我として輝いていることを意味しているのです。
ただ沈黙だけが常に語っています。
この2つはどちらも同じことを意味しています。
ちょうど偉大な賢者たちが、
『考えることなく考える』、
『語ることなく語る』、
『聞くことなく聞く』と語ったように、もしあなたが語らなければ、神がやって来て語るのです。
最も偉大な聖典は沈黙の教えです。
その聖典を読めば、すべての疑いは消え去るでしょう。
さもなければ、何万という本を読んでも疑いが消えることはけっしてないでしょう」
*知識には二つの意味があります…
真我の知識は言葉では表せない。
それでも聖典はそれを言葉で表し続けてきた。
聖典が言葉で表した知識はヴァーチャールタ、つまり文字通りのものだが、真我の知識はラクシャールタ、つまり月を示す指 (間接的な暗示による表現)でしか表せない。
*ブラフマ・アーカーラ・ヴリッティ
ブラフマン以外のすべての想念を排除して、ただ姿なきブラフマンのみに黙想し続けること。
82
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/18(木) 17:22:15 ID:73lwfNNQ0
>>81
誤…恩龍
正…恩寵
83
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/18(木) 22:49:59 ID:1d4drIFg0
静かな心と活動的な心とはただ言葉による観念として説かれたものに過ぎないのじゃ。
観念があれば心は活動的であり、無ければ心は無であり静かなのじゃ。
常に相対的な観念として対象を捉える悟っていない者に向けて説かれただけなのじゃ。
本来は観念が無ければ心も無いと言えるのじゃ。
心が働く対象が無いからのう。
84
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/19(金) 17:59:53 ID:73lwfNNQ0
ラマナ・マハルシとの対話69
この教授の大学における講義のレポートが『ヒンドゥー新聞』に掲載された。
その講義は産児制限の必要性を強調し、自動的に産児制限をもたらすために男性に責任感を持たせるさまざまな可能性についての討論だった。
これを聞いた師は、何気なく「彼らに死ぬ方法を探させなさい」と言った。
(記録者ノート:ここで言う死とは、自我の死のことである)
85
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/19(金) 22:18:14 ID:1d4drIFg0
自我が無ければたくさんの子を産んで家族や一族を発展させようという欲もなくなるのじゃ。
一族や人類さえも最後には滅していくしかないという当然の真実に気付くからのう。
永遠への道は子孫ではなく自らの心の中にあるのじゃ。
それに気付くのじゃ。
86
:
偽和尚★
:2019/07/20(土) 00:08:23 ID:???0
削除のお知らせ。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1415399543/20-25
87
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/20(土) 13:29:20 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話70
1935年7月24日
シュリー・ラージュ・シャーストリガル氏がナーダ(音)、ビンドゥ(点、印)、カラー(部分) について尋ねた。
マハルシ
ヴェーダーンタの専門用語では、それらはプラーナ(生気)、マナ(心)、ブッティ(知性)に相応します。
タントラではナーダは光をともなった霊妙な音であり、この光はシヴァの身体と言われています。
その光が現れ出し、音がその中に没すると、それはビンドゥになります。
光に満ち溢れること(テージョーマヤ)が目標です。
カラーはビンドゥの一部分です。
88
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/20(土) 23:38:15 ID:1d4drIFg0
>>86
ご苦労さんなのじゃ。
正に菩薩の業なのじゃ。
89
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/20(土) 23:44:01 ID:1d4drIFg0
ナーダはヨーガでは気道を空気が通る音というのじゃ。
それに集中する瞑想なのじゃ。
呼吸音への集中なのじゃ。
胸の中のアートマンに集中すると光が見えてくるのじゃ。
それをビンドゥというのじゃ。
強く集中して自我がその光の中に没するとサマーディに入れるのじゃ。
90
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/21(日) 13:38:28 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話71
ティルヴァンナーマライでの師の滞在年代記
1896年 ティルヴァンナーマライに到着し、大寺院の敷地内、木の下、パーターラ・リンガムと呼ばれる地下の祠、ときにはゴープラム (寺院の塔)にて暮らす。
1897年(初旬) グルムールタムに移住。寺院の中と隣接するマンゴー樹園の中(十八ヶ月間)。
1898(九月) バヴァラクンル寺院。
1899年(二月) 丘の上の洞窟、マンゴー樹の洞窟、ヴィルーパークシャ洞窟。
1905年 ペストで町が封鎖され、パチャイアマン寺院に六ヶ月滞在。後に丘に戻る。
1908年(一、二、三月) パチャイアマン寺院。再び丘に戻る。
1916年 スカンダアシュラマム。
1922年 ラマナアシュラマム(丘の南麓)。
91
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/22(月) 13:07:53 ID:oOgxIQ5Y0
ラマナ・マハルシとの対話72
1935年9月25日
鉄道委員のK・S・N・アイヤール氏がジャパについて尋ねた。
マハルシ
ロで唱えること、それから記憶にとどめること、その後に瞑想。
これが段階を経た進展で、最後には無意識のうちに永遠に続いてゆくジャパに達します。
このようなジャパをする人(ジャパカルター)は真我なのです。
すべてのジャパの内でも、「私は誰か?」が最高のジャパです。
92
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/22(月) 22:16:20 ID:1d4drIFg0
ジャパとはマントラなのじゃ。
神の名とか一つの言葉を何万回も繰り返し唱えるのじゃ。
それによって深い瞑想に入り、サマーディにも至れるのじゃ。
最初は口で唱えるが、なれてきたら頭の中で唱えると善いのじゃ。
最後には無意識のうちにマントラが続いてくのじゃ。
私は誰?というのがマハリシのお勧めなのじゃ。
93
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/23(火) 19:22:39 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話73
1935年9月27日
エンジニアのエーカナータ・ラーオ氏が尋ねた。
「私は師から恩寵どころか何の励ましも得ていないという失望感を抱えています。
どうすればよいのでしょう?」
マハルシ
それはただの無知でしかありません。
「失望しているのは誰なのか?」という探究が為されるべきです。
そのような考えに悩まされるのは、眠りから立ち現れた自我という亡霊です。
深い眠りの中には何の悩みもありませんでした。
目覚めの間に悩まされるのは誰でしょうか?
眠りの状態が正常な状態なのです。
それを探し出しなさい。
質問者
しかし私は励ましをいただきたいのに、それを感じられないのです。
マハルシ
瞑想の中に何らかの平安を感じないでしょうか?
それが進歩のしるしです。
その平安は継続的な修練によってさらに深く長く続いていくでしょう。
それもまた目標へと導くのです。
『バガヴァッド・ギーター』第十四章の最終節は、グナを超えた者(グナーティータ)について述べています。
それが最終段階です。
初期の段階は「不純な存在」 (アシュッダ・サットヴァ)、「混合した存在」(ミシュラ・サットヴァ)、「純粋な存在」(シュッダ・サットヴァ)という順になっています。
ラジャス(活動性)とタマス(不活発性)というグナ(質)が優勢なときが「不純な存在」です。
サットヴァ(純粋性)がときおり前面に現れ出る状態が「混合した存在」です。
「純粋な存在」はサットヴァがラジャスとタマスを征服した状態です。
このような段階を経た後で、グナを超越した境地(グナーティータ)に達するのです。
*グナ
すべての存在の根底には、サットヴァ(純粋性)、ラジャス (活動性)、タマス(不活発性)という三つの質があるというサーンキャ哲学の理論。
個人の精神性においても同様である。
94
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/23(火) 21:59:47 ID:1d4drIFg0
私は誰かという探求の道を与えられたことが真の恩寵なのじゃ。
それを教えられなければいつまでも迷っていたのであるからのう。
実践する道を示されれば後は自ら実践できるのじゃ。
グナもまた実践のための法なのじゃ。
日々精進することでサットヴァが優勢になることも感じられるのじゃ。
95
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/24(水) 14:16:42 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話74
エンジニアのフリードマン氏からの手紙は、以下のように述べられていた。
「私がマハルシのことを考えるとき、彼はいつも私とともにいます。
しかし私が彼のことを考えていないときもそうなのです。
さもなければ、どうやって私に生きることができると言うのでしょう?」
96
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/24(水) 22:46:22 ID:1d4drIFg0
グルに帰依する行をグル・ヨーガというのじゃ。
それも修行の一つなのじゃ。
グルに帰依することでグルの境地まで速やかに到達できるのじゃ。
それができる者はまれであるがのう。
やはり人は少しはグルにも疑いを持つものであるからのう。
97
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/25(木) 17:19:09 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話75
前英国公使官のグラント・ダフ氏の手紙には次のようにあった。
「私の崇敬をマハルシに……。
彼は私の想念の中に私の質問の答えとして現れるだけではなく、臨在としても……」
98
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/25(木) 22:23:09 ID:1d4drIFg0
一度、グルに接してその薫陶を受けたならば、イメージは心の中に残るのじゃ。
無意識から智慧の象徴として現われるのじゃ。
崇敬の念が本当ならば、智慧も働くのじゃ。
それは自らの智慧であるが、全てが一つであるから真のグルの智慧とも言えるのじゃ。
99
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/26(金) 18:51:16 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話76
1935年9月29日
K・S・N・アイヤール氏は、「霊的生活と世俗の活動をどう調和させればよいのか、いまだに確信が得られません」と語った。
師はその答えとして、『ヨーガ・ヴァーシシュタ』(原典は数百万もの節から成り、そのうちサンスクリット語の詩句は三万二千句が発見された。『ラグ・ヴァーシシュタ』と呼ばれる六千句に要約されたものが存在し、そのタミル語版はさらに二千五十句に要約されている)からいくつかの詩節を引用した。
質問者
心を集中させなければ、満足のいく仕事はできません。
心を霊的な次元に向けながら仕事を続けていくにはどうしたらよいのでしょうか?
マハルシ
心とは真我から投影され、目覚めの状態に現れたものにすぎません。
深い眠りの中では、あなたは自分のことを「誰々の息子だ」などとは言いません
目覚めるとともに「私は誰それだ」と言い始め、「私は世界を認識する」などと言うのです。
世界はローカにすぎません。
ローカとはローキャテー・イティ・ローカハ(知覚されたものが世界である)です。
見られるものがローカ、つまり世界なのです。
それを見ている目とは何でしょうか?
それは(目覚めと眠りのたびに)周期的に立ち現れては消えてゆく自我です。
しかしあなたは常に存在しています。
それゆえ、自我の彼方に在る「それ」とは意識、つまり真我なのです。
深い眠りの中では、心は沈み込んでいても破壊されてはいません。
沈み込んだものは再び現れてきます。
それは瞑想の中でも起こりえることです。
しかしひとたび破壊された心が再び現れることはありません。
ヨーギーの目標は心を破壊することであって、ラヤ(心が一時的に停止した状態)の中に沈ませることではないのです。
ディヤーナの静寂の中でラヤは継続しますが、それは十分ではありません。
心を破壊するためには別の修練の補助を得なければならないのです。
ある人々は取るに足らない考えを抱きながらサマーディに入り、長い時を経た後に同じ想念の流れとともに目を覚ましました。
その間、世界では何世代もの時が経っていたのです。
そのようなヨーギーは心を破壊してはいません。
心の破壊は、心が真我と一つであることを認識することによって為されます。
たった今でさえ、心は真我から離れては存在しないのです。
認識しなさい。
日々の活動の中でこそ、それを認識するときです。
活動は自動的に続いて行きます。
心が活動を促していると考えるのは真理ではありません。
心は真我から現れた幻影でしかないということを知りなさい。
こうして心は破壊されるのです。
100
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/26(金) 23:39:47 ID:1d4drIFg0
アートマンを求めることと日常の仕事は矛盾しないのじゃ。
自らがしているとか、誰がしているとかの幻想を持たなければ日常でも実践になるのじゃ。
我が無い状態で心身は最高の効率を発揮できるのじゃ。
忘我のサマーディになるからなのじゃ。
自我のもつ苦悩から離れて行うことは喜びでさえ在るのじゃ。
そのようにして仕事も実践となるのじゃ。
101
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/27(土) 18:08:05 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話77
師は聖書の『伝道の書』の詩篇四六の「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」、「そこには一者だけが存在し、他者は存在しない」、「賢者のハートは右に、愚か者のハートは左にある」について語った。
*静かに在りなさい。そして私は…:Be still and know that I am GOD
『旧約聖書』伝道の書の詩篇四六第十節に見られるこの言葉は、ダビデ王がヤコブの神を讃えた詩。
常に戦いに明け暮れる民に対し、主は自ら彼らの敵を破り、地の果てまでも戦いをやめさせ、弓を折り、槍を断ち、戦車を火で焼いた。
そしてこう宣言する。
「静かに在りなさい。そして私は神だと知りなさい」。
Harpu u'deu ki 'anokhi 'elohim :Be still に当たる Harpu の語根 Hereph は「やめなさい、手放しなさい」という意味を持つ。
つまり神は民に対してこう告げたのである。
「神である『私』がすべてをなしている。闘うことをやめて、私にすべてをゆだね、明け渡しなさい」。
英訳ではより霊的、精神的な意味合いで「静かになりなさい」と訳されている。
マハルシは「ただ静かに在ることで、『私は在る』が神であるということを知りなさい」。
すなわち「『私』は『存在』であるということを、沈黙の中で知りなさい」と説いている。
102
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/27(土) 19:51:01 ID:LC3de7YgO
>>101
うむ。
聖書の中にこんな言葉があるのでありますね。
これはブッタの言葉でありますね。
∧,,∧
∩・(ェ)・)
103
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/27(土) 23:53:36 ID:1d4drIFg0
そうじゃ、神に全てを委ねた者が書いたのじゃろう。
真の信仰があればそれもありえることじゃ。
悟りに国境は無いのじゃ。
真摯に神や悟りを求める者がそれを得ることが出来るのじゃ。
104
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/28(日) 11:31:27 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話78
マスラから来た男性が師に尋ねた。
「どうすれば真我を実現できるでしょうか?」
マハルシ
誰もが人生のあらゆる瞬間に真我を体験しているのです。
質問者
しかし誰もが望むような形では実現されていません。
マハルシ
そうです。
現在の体験は反対のもの(ヴィパリータ)、つまり実在とは異なったものです。
存在しないものが存在するものと混同されてしまったのです。
質問者
どうすればアートマンを見いだせるでしょうか?
マハルシ
アートマンの探究ということはありえません。
真我ではないものだけが探究の対象となり、それを排除することだけが可能なのです。
真我は常に自ら明らかであり、それ自体で輝いています。
真我は異なった名前で呼ばれています。
アートマン、神、クンダリニー、マントラなどです。
どれであれ、そのうちの一つをつかみとりなさい。
そうすれば、真我は現れるでしょう。
神とは真我以外の何ものでもありません。
現在、クンダリニーは心として現れています。
心がその源にたどり着いたとき、それがクンダリニーです。
マントラ・ジャパは他の想念を消し去って、マントラの集中へと導きます。
そのマントラは最終的に真我の中に融け入り、真我として輝き出すのです。
質問者
真我実現のためには、いつまでグルが必要となるのでしょうか?
マハルシ
グルはラグ(グル=重さ、ラグ=軽さ)があるかぎり必要です。
ラグは真我に押し付けた誤った限定ゆえに存在するのです。
帰依者から礼拝を受けた神は、彼に揺るぎない帰依心を授け、明け渡しへと導いてゆきます。
自己を明け渡した帰依者に神は慈愛を注ぎ、自らグルの姿を取って彼の前に現れます。
神であるグルは帰依者を導き、「神はあなたの内に在る。その神こそが真我である」と伝えます。
これが心を内面に向け、最終的には実現へと導くのです。
実現するまで努力は必要です。
実現においてさえ、真我は自然に明らかになるべきものです。
さもなければ、幸福は完全ではないでしょう。
自然にそれが起こるまでは、どの方法であれ努力をしなければなりません。
質問者
仕事にたずさわる私たちの生活は、そのような努力と両立できないものなのです。
マハルシ
なぜあなたは自分が行動していると考えるのですか?
あなたがこの地に到着したときのことを想い出してみなさい。
あなたは馬車で家を出て、汽車に乗って駅につきました。
それから、また馬車に乗り、このアーシュラマムにたどり着いたのではないでしょうか?
人から尋ねられたなら、あなたは自分の町からここまでの道のりをずっと旅してきたと答えるでしょう。
しかしそれは本当でしょうか?
実際には、その道のりの間、乗り物の動きがあっただけで、あなた自身はあなたのまま在り続けたのではないでしょうか?
乗り物の動きをあなた自身の動きと誤って同一視したように、あなたの行為もあなた自身のものではなく、神の行為なのです。
質問者
そのような考えは心を空白状態にしてしまい、仕事が進まなくなってしまうでしょう。
マハルシ
まずその空白状態に達しなさい。
その後で、私にそう言えるかどうか見てみなさい。
質問者
賢者を訪れることは真我実現の助けとなる、と言われています。
マハルシ
そのとおりです。
質問者
今回あなたのもとを訪れたことが、私に実現をもたらすでしょうか?
マハルシ
(しばらく黙ってから)
何がもたらされると言うのでしょうか?
一体誰に?
考えてみなさい。
調べてみなさい。
この疑いは誰にとってのものなのですか?
もしも源までたどれば、疑いは消え去るでしょう。
105
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/28(日) 22:10:00 ID:1d4drIFg0
マハリシは迷った者に常に自分を観るように勧めるのじゃ。
それが真のグルの仕事なのじゃ。
嵐に迷う船に進路を示す灯台のように、自分こそ悟りの道と示すのがグルの役割なのじゃ。
そのようにしてグルは道標になるのじゃ。
106
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/29(月) 12:17:52 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話79
あるエンジニアが尋ねた。
「動物はたとえ環境が変化しても、彼ら自身の自然の法則にしたがっているように見えます。
一方、人間は社会の法則に逆らい、特定のシステムには縛られません。
動物が安定しているのに対して、人間は退化しているかのようです。
そうではないでしょうか?」
マハルシ
(しばしの沈黙の後で)
『ウパニシャド』や聖典は、「人間は実現していないかぎり動物と変わらない」と述べています。
おそらくそれよりも悪い状態でしょう。
107
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/29(月) 22:53:02 ID:1d4drIFg0
動物や虫は完全な法則の中で生きているものじゃ。
そこから抜け出すことは出来ないのじゃ。
人は自ら考えてそれを抜け出すことも出来るのじゃ。
そのために不幸になったりするが、悟りに向かうことも出来るのじゃ。
108
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/30(火) 12:35:46 ID:og89HtMo0
ラマナ・マハルシとの対話80
1935年10月3日
非常に帰依心の深い純朴な心の弟子が、たった三歳の一人息子を失った。
翌日、彼は家族とともにアーシュラマムに到着した。
師は彼らに語った。
マハルシ
悲しみに耐え、勇気を持って死別に直面するには、心の訓練が助けとなります。
それでも我が子を失うことは、あらゆる嘆きの中でも最も辛いことだと言われています。
自分を限定された姿形あるものと見なすかぎり、深い悲しみは避けられません。
もしその姿形が超越されれば、本来の自己が永遠なるものであることがわかるでしょう。
死も誕生も存在しないのです。
生まれたものは身体にすぎません。
身体は自我の産物です。
しかし自我は身体なしには知覚されません。
それはいつも身体と同一視されるのです。
問題なのは想念です。
分別ある人に、深い眠りの中で身体に気づいていたかどうかを考えさせなさい。
なぜ彼は目覚めの状態のときに身体を感じるのでしょうか?
たとえ眠りの中で身体が感じられなかったとしても、真我は存在していたのではないでしょうか?
彼は深い眠りの中でどのような状態だったのでしょう?
目覚めたときはどうでしょうか?
その違いは何でしょうか?
自我が立ち現れ、それが目覚めと呼ばれます。
そして同時に想念が現れます。
その想念が誰のものなのか、考えてみなさい。
それはどこから現れたのでしょうか?
それは意識である真我からに違いありません。
それについて漠然と理解するだけでも、自我の消滅を助けるのです。
そうすれば、無限の存在を実現することも可能になります。
その境地の中に個人は存在せず、ただ永遠の存在だけがあります。
それゆえ、そこには死についての想いも嘆きもないのです。
自分は生まれたと考える人に、死の恐怖を避けることはできません。
自分が生まれたのかどうか、真我に誕生というものがあるのかどうか考えてみなさい。
そうすれば、真我が常に存在すること、身体は想念の中に還元されること、そして想念の出現がすべての不幸の根源なのだということを発見するでしょう。
想念がどこから現れ出るのか見いだしなさい。
そうすれば、あなたは永遠の存在である真我の内奥に確立され、誕生という概念や死の恐怖から自由になるでしょう。
109
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/30(火) 12:36:21 ID:og89HtMo0
ある弟子が「それはどうすればよいのでしょうか?」と尋ねた。
マハルシ
想念とは無数の過去世において蓄積されたヴァーサナー(心の潜在的傾向、性癖)でしかありません。
それを絶滅させることが目標です。
ヴァーサナーから自由になった状態が原初の状態、純枠で永遠なる状態なのです。
質問者
まだはっきりわかったとは言えません。
マハルシ
誰もが永遠なる真我に気づいています。
私たちは多くの人が死んでいくのを見ます。
しかしそれでも自分自身は永遠に生きると信じています。
なぜなら、それが真実だからです。
意図せずに、本来の真理はそれ自体を主張するのです。
意識である真我と生命意識のない身体を混同するため、人は惑わされてしまいます。
この(自己同一化という)誤った観念が消滅しなければならないのです。
質問者
どうすればそれは消滅するのでしょう?
マハルシ
生まれたものは死ななければなりません。
誤った観念は自我に付随したものです。
それは立ち現れ、そして消え去ります。
しかし真理は立ち現れることも消え去ることもありません。
それは「永遠なるもの」としてとどまるのです。
実現した師はこの真理を弟子に伝えます。
弟子はそれを聞き、その言葉について熟考し、そして真我を実現するのです。
それには二つの道があります。
常に存在する真我を実現するのに努力は必要ありません。
真我はすでに実現されているからです。
取り除かれるべきものは幻影だけです。
ある人は、「師の語る言葉が幻影を一瞬にして取り除く」と言います。
他の人は、「実現するためには瞑想などが必要となる」と言います。
どちらも真理です。
ただ観点が異なるだけです。
質問者
瞑想(ディヤーナ)は必要でしょうか?
マハルシ
『ウパニシャド』は「この地球さえ永遠の瞑想の内に在る」と述べています。
質問者
カルマ(行為)はそれをどのように助けるのでしょうか?
取り除かれるべき重荷がすでにあるのに、さらにその上に加えるだけではありませんか?
マハルシ
非利己的に為された行為は心を純粋にし、それを瞑想状態にとどめます。
質問者
カルマ(行為)なしに途切れることなく瞑想し続けたとしたらどうなるでしょうか?
マハルシ
試してみなさい。
ヴァーサナーがあなたにそうするのを許さないでしょう。
ディヤーナは、師の恩寵によって徐々にヴァーサナーが弱められながら、段階的に深まっていくものなのです。
110
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/30(火) 23:24:33 ID:1d4drIFg0
瞑想をしたことが無い者は今まで条件付けされた心があるからずうっと何もしないで瞑想することは出来ないのじゃ。
不安や恐れが心と体を動かすのじゃ。
日々実践して少しずつ長く瞑想することが出来るようになるのじゃ。
そのようにして観察に向いた静かな心を養うのじゃ。
111
:
避難民のマジレスさん
:2019/07/31(水) 14:11:59 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話81
1935年10月15日
過去二十年間ヴェーダーンタ哲学に興味を抱いてきたアメリカの化学者、バーナード・べイ氏がインドに来て師を訪れた。彼は尋ねた。
「アビャーサ(修練)はどのようにするのでしょうか?
私は光を探そうと試みています」
(彼の説明では、アビャーサは精神集中を意味する)
マハルシ
今までのあなたにとってのアビャーサとはどのようなものですか?
質問者
私は鼻の底に集中するのですが、心はさ迷うばかりなのです。
マハルシ
心は存在するでしょうか?
帰依者の一人が静かに言葉を挟んだ。
「心とは想念の集まりです」
マハルシ
誰にとっての想念でしょうか?
もし心の位置を見いだそうとすれば、心は消え去り、真我だけが残るでしょう。
ただそれだけが存在し、集中も何もできなくなるでしょう。
質問者
これを理解するのは本当に困難です。
もし何か具体的なことなら理解も容易なのですが。
ジャパやディヤーナならもっと具体的です。
マハルシ
「私は誰か?」が最高のジャパです。
真我よりも具体的なものがあるでしょうか?
誰もがあらゆる瞬間にそれを体験しているのです。
なぜ真我を離れて外側にある何かをとらえようとするのでしょう?
知られざる何か彼方のものを探し出そうとするよりも、知られている真我を見いだしなさい。
質問者
真我に瞑想するとき、どこにするのでしょうか?
つまり、身体のどの部分に瞑想すればよいのでしょう?
マハルシ
真我が自ら顕わになるべきです。
ただそれだけが望まれるのです。
一人の帰依者が静かに言った。
「胸の右側にアートマンの座と呼ばれるハートがあります」
別の帰依者が言った。
「真我が実現されたとき、光はそのセンターにあるのです」
マハルシ
まさにそのとおりです。
質問者
どのようにして世界から心をそむけるのでしょうか?
マハルシ
世界は存在するでしょうか?
つまり真我から離れて?
世界が「自分は存在する」と言うでしょうか?
「世界が存在する」と言うのはあなたなのです。
そう語る自己を見いだしなさい。
112
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/07/31(水) 23:07:51 ID:1d4drIFg0
アートマンは心臓の中にあって万物を認識するというのじゃ。
世界も観念によって創られたものに過ぎないのじゃ。
それを認識するものを追求するのじゃ。
認識できない認識主体がアートマンなのじゃ。
113
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/01(木) 16:42:57 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話82
1935年10月16日
異なった種類のサマーディについての質問があった。
マハルシ
感覚が暗闇の中に融け入ったときが深い眠りで、光に融け入ったときがサマーディです。
馬車の中で眠っている乗客が、馬車の動きや停止にも馬具の取り外しにも気づかないように、サハジャ・サマーディの中にいるジニャーニ(真我実現した人)も、出来事や、目覚め、夢見、眠りに気づいていません。
ここで言う眠りは、馬具を取りはずすことに相当し、サマーディは停止に相当しています。
なぜなら停止した後も、馬は動く用意ができているように、感覚も活動する用意ができているからです。
サマーディにおいては首はうなだれません。
なぜなら、感覚は活動を停止していても、そこに存在しているからです。
一方、眠りにおいては首はうなだれます。
なぜなら、感覚が暗闇の中に融け入ったからです。
ケーヴァラ・サマーディでは、生気と精神の活動、そして目覚め、夢見、眠りの状態は沈み入っているだけで、サマーディから出るとともに再び現れます。
サハジャ・サマーディでは、生気と精神の活動、そして三つの状態は破壊され、再び現れることはありません。
しかし他者はジニャーニが食べ、話し、動くといった活動をしているのを見ています。
ジニャーニ自身はそれらの活動に気づいていません。
一方、他者は彼の活動に気づいています。
彼らはジニャーニの身体に関わるだけで、彼の真我(スワルーパ)を見ないのです。
ジニャーニ自身は、眠っている乗客のように、あるいは乳を飲みながらぐっすり眠っている幼児のように、自分の行為に気づいていません。
翌日、幼児は乳を飲まずに眠ってしまったと言います。
昨日のことを伝えても、幼児には信じられません。
サハジャ・サマーディにおいてもそれは同じなのです。
スシュムナー・パレー・リーナ。
このスシュムナーとはタポー・マールガを意味し、パラー・ナディーはジニャーナ・マールガを意味しています。
*スシュムナー・パレー・リーナ
「スシュムナー・パレー・リーナ」は「スシュムナーを超えて融合する」を意味し、「タポー・マールガ」は「努力の道」 を意味する。
スシュムナー・ナディーは脊柱の底辺と頭頂点を結ぶ霊的な経路。
パラー・ナディーは頭頂点からハートへと降りていく経路である。
マハルシは 「最終的な実現のためにクンダリニーはスシュムナーを通ってサハスラーラ(頭頂点)に達し、サハスラーラからパラー・ナディーを通って胸の右側にあるハート・センターに入らなければならない」と語っている。
それゆえ、スシュムナーを通っている間は実現前の「タポー・マールガ」 (努力の道)にあるが、スシュムナーを超えてパラー・ナディーを降下し、ハートに達する道は「ジニャーナ・マールガ」(真我の知識の道)である。
114
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/01(木) 23:23:34 ID:1d4drIFg0
通常は気は頭頂に入ってサマーディに至るのじゃ。
マハリシは更に心臓に入ることを説くのじゃ。
そこにアートマンがあるからなのじゃ。
アートマンのヨーガなのじゃ。
115
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/02(金) 21:36:31 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話83
師は数人のバクタ(帰依者)の物語について語った。
シュリー・クリシュナがエークナートに十二年間仕えたこと。
家庭に閉じ込められていたサックバーイをパーンドランガーが解放し、彼女がパンダルプルを訪れるのを可能にしたことなどだった。
それから一八九六年に、(十六歳だった)師がマドゥライからティルヴァンナーマライに向かう途中で出会った不思議なモウルヴィー(イスラム教徒の学者)が、どのように現れ、話をし、突如として消え去ったかについて語った。
*エークナート(1533-1599)
マハーラーシュトラ州の偉大な詩聖。
10歳にしてジャナルダナ・スワミに出会い、グルに自己を明け渡した。
エークナートは『バーガヴァタ・プラーナ』や『ギャネーシュヴァリ』を公の場で朗読した。
クリシュナ神はエークナートの朗読を聞くために、12年間彼の召使に姿を変えて彼に仕えたと言われている。
*サックバーイ
マハーラーシュトラ州のクリシュナを祀る聖地パンダルプルに生まれる。
幼い頃からクリシュナ神に深い帰依心を抱いていた純真無垢な彼女は、12歳のとき悪意に満ちた一家に嫁ぐ運命となる。
日々悪口雑言を浴びせられ、家事に酷使されながらも、彼女は唯一の救いであるパーンドランガー(クリシュナ神の別名)に祈り、パーンドランガーだけを想い続ける。
ある日、罰として柱にくくりつけられていた彼女は、クリシュナ神の奇跡的な助けによって家を抜け出し、パーンドランガー(ヴィッタラ)を祀る聖地パンダルプルを訪れ、神と直に謁見する。
帰依心を通してクリシュナ神に明け渡したサックバーイは神との融合を遂げた。
*不思議なモウルヴィー
16歳の夏にマドゥライの家を出て、聖山アルナーチャラへと向かう汽車の中でマハルシが出会ったイスラム教徒の学者。
『ラマナ・マハルシの伝記』(ナチュラルスピリット刊)第4章を参照されたい。
116
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/04(日) 14:03:39 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話84
グラント・ダフ氏が、「マングースは師と何か関わりがあるのですか?」と尋ねた。
マハルシ
そうです。
それはアールドラーとジャヤンティのときのことでした。
私は丘の上のスカンダアシュラマムに暮らしていました。
巡礼者が行列をなして町から丘に登って来ていました。
(普通は灰色なのですが)金色の毛並みをし、野生ならあるはずの尻尾の黒い点々がなく、普通よりもやや大きい一匹のマングースが、恐れも知らず行列の合間を通り抜けながらやって来ました。
人々は行列の中の誰かのペットだろうと思っていたのです。
マングースはヴィルーパークシャ洞窟の泉で行水をしていたパラニ・スワミのところへ真っすぐ向かって行きました。
彼はその動物を軽くたたき、撫でてやりました。
マングースは彼について洞窟に入り、隅々まで念入りに視察した後、そこを立ち去り、人ごみに混じってスカンダアシュラマムまで登って来ました。
私はそれに気づいていました。
誰もがその魅力的な姿と恐れを知らない動きに目を奪われていました。
それは私のところにやって来ると、膝の上でしばらく安らいでいましたが、それから身を起こし、あたりを見回すと降りて、そこら中を歩き回りました。
不注意な訪問客や孔雀から危害を加えられないようにと、私はその後をついて行きました。
二羽の孔雀は好奇心に満ちた目つきで見つめていましたが、マングースは落ち着いた様子であたりをうろついた後、ついにアーシュラマムの南西側の岩間に姿を消したのです。
*アールドラーとジャヤンティ
アールドラーはシヴァ神が宇宙の創造と破壊の壮大な舞を舞うナタラージャとなって帰依者の前に姿を現した出来事を祝う祝祭日。
ジャヤンティはマハルシの生誕記念日。
117
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/04(日) 22:31:32 ID:1d4drIFg0
不殺生を長くしていると攻撃欲が無くなり動物も寄ってくるというのじゃ。
悟りを得て攻撃欲が無くなれば動物にもわかるのじゃ。
自分と同じと感じるのじゃ。
本質が同じであるから恐れることもないのじゃ。
118
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/05(月) 12:42:29 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話85
同じ紳士が記憶と意思、そしてそれらと心との関係性について師に尋ねた。
マハルシ
それらは心の機能です。
心は自我の産物であり、自我は真我から生じるのです。
119
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/05(月) 22:07:30 ID:1d4drIFg0
認識することから自我も起こるのじゃ。
自我は認識されたものなのじゃ。
それから更に心とその機能も起こるのじゃ。
十二因縁と同じなのじゃ。
120
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/06(火) 12:46:57 ID:GgfeNo3g0
ラマナ・マハルシとの対話86
1935年11月6日
師は以下のように、キリスト教の信仰に真の意義を与えた。
キリストは自我。
十字架は身体。
十字架にかけられた自我が消滅したときに生き残るもの、それが絶対なる存在(神)です。
そしてこの栄光ある存続が復活と呼ばれるものです。
(記録者ノート:「私と私の父は一つである」と比較されたい)
121
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/06(火) 22:51:34 ID:1d4drIFg0
神話の解釈なのじゃ。
実際にそうという訳ではないが西洋人には受け容れやすくなるのじゃ。
神を自らの心の中に追求させるためなのじゃ。
そこに以外に神と読んでいいものはないのじゃ。
122
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/07(水) 12:46:55 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話87
英国の熱心な帰依者、チャドウィック少佐が尋ねた。
「なぜイエスは磔のときに『神よ!神よ!』と叫んだのでしょうか?」
マハルシ
それは彼とともに磔にされていた二人の泥棒のための神へ祈りだったのかもしれません。
ジニャーニは生きている間に、今ここで解脱に達したのです。
重要なのは、いつ、どこで、どのように彼が身体を離れるかということではありません。
あるジニャーニは苦しむように見えるかもしれません。
別のジニャーニはサマーディに入っているかもしれません。
死の寸前に姿を消し去ってしまうジニャーニもいます。
しかしそれは彼らのジニャーナ(真我の知識)に何の違いももたらさないのです。
そのような苦しみは彼の死を見る者にのみ現れ、ジニャーニにではありません。
なぜなら、彼は真我と身体の誤った自己同一化を超越したからです。
123
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/07(水) 22:57:50 ID:1d4drIFg0
これもキリスト教徒向けの話なのじゃ。
キリストの死と復活は自我の死とアートマンの実現に結び付けやすいのじゃ。
肉体の自我は死んでもアーマンは不滅という象徴になるのじゃ。
復活ではなく不死のアートマンが変らずにあると言うのじゃ。
124
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/08(木) 13:53:09 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話88
同じ紳士が尋ねた。
「聖パウロの啓示におけるキリストの重要性とは何でしょうか?」
マハルシ
啓示は絶対のもので、身体と関わったものではありません。
聖パウロは「真我ー意識」を実現した後で、その啓示が「キリストー意識」と同じものであることを悟ったのです。
質間者
しかし聖パウロはキリストを愛する者ではなかったのではありませんか?
マハルシ
愛か憎悪かは重要ではないのです。
キリストへの想いはそこにありました。
それはラーヴァナの場合と似ています。
「キリストー意識」と真我実現は同じものなのです。
*聖パウロの啓示
熱心なユダヤ教徒の立場から、初めはキリスト教徒を迫害する側についていたが、ダマスカスへの途上で、復活したイエス・キリストから「なぜ私を迫害するのか?」と呼びかけられ、その後、目が見えなくなる。
あるキリスト教徒が神のお告げによって彼のために祈ると、目から鱗のようなものが落ちて目が見えるようになり、回心してキリスト教徒となった。
*ラーヴァナの場合…
『ラーマーヤナ』において、10の頭を持つ魔王ラーヴァナは絶えずラーマ神を憎み続け、彼の破滅のみを考えていた。
こうしてラーヴァナは否定的なアプローチで神を想い続けたのである。
マハルシが「愛か憎悪かは重要ではない」と言われるように、たとえ憎しみであってもすべての想いを絶えず神のみに注ぎ続けた魔王ラーヴァナは、ラーマ神の恩寵によって死の瞬間に解脱に達する。
125
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/08(木) 23:00:21 ID:1d4drIFg0
初期の弟子の中にはキリストに会ったという者が多いのじゃ。
キリストは復活して天国に居るのであるから、時々降りてきて会っても不思議はないというのじゃ。
神託を下したり、罰を与えたり、試したりするのじゃ。
神降ろしの類なのじゃ。
126
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/09(金) 10:50:23 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話89
カルプーラ・アーラティー(樟脳に火を灯し、神像を照らしながら場を浄める儀式)は啓示の光によって心を焼き尽くすことを象徴しています。
ヴィブーティ(聖灰)はシヴァ(絶対なるもの)であり、クンクマー(朱色の粉)はシャクティ(意識)なのです。
ヴィブーティには二種類あります。
パラー(高次)・ヴィブーティとアパラー(低次)・ヴィブーティです。
聖灰はアパラー・ヴィブーティであり、パラーとは実現の炎によって不純なものが焼き尽くされた後に残ったものを意味しています。
それが絶対なる存在です。
127
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/09(金) 22:45:09 ID:1d4drIFg0
>>126
これも神話の解釈なのじゃ。
高次の聖灰とは自我が焼き尽くされてなくった後の意識というのじゃ。
自我がなくなれば聖なるものになるというのじゃ。
物理的な聖灰は低次元なものというのじゃ。
128
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/10(土) 14:53:27 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話90
再び三位一体についての説明が為された。
父なる神はイーシュヴァラを表す。
聖霊なる神はアートマンを表す。
息子なる神はグルを表す。
イーシュヴァロー・グルラートメーティ・ムールティ・ベーダ・ヴィバーギネー・ヴョーマヴド・ヴャープタ・デーハーヤ・ダクシナームールタエー・ナマハ。
すべてを包み込む空を身体として持ちながら、イーシュヴァラ神、グル、個人として姿を現したダクシナームールティに礼拝します。
『ダクシナームールティ・ストートラム』(祈祷文最終節)
神はグル(神の息子)の姿で帰依者の前に現れ、聖霊の内在性を指し示します。
つまり神は霊性(スピリット)であり、この霊性はすべてに内在しているということ、そして神の実現と等しい真我実現が達成されなければならないことを示すのです。
129
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/10(土) 22:16:41 ID:1d4drIFg0
本来三位一体とは父と子と精霊を意味するのじゃ。
一神教であるキリスト教で父なる神の他にキリストや聖母を信仰するために創られた観念なのじゃ。
キリストも聖母も父なる神と一体であるから信仰してよいというのじゃ。
それにアートマンによる解釈を施したのじゃ。
アートマンによって父なる神に到達するのじゃ。
そのアートマンには人に教えを説く神の子であるグルが必要というのじゃ。
130
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/11(日) 16:10:30 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話91
ベンガル人の訪問者が尋ねた。
「制御された心とはどのようなものでしょうか?」
マハルシ
あなたが「心」と呼ぶもの、それは何でしょうか?
質問者
私が坐って神を想うとき、想念は他の物事へとさ迷い始めます。
私はこの想念をコントロールしたいのです。
マハルシ
『バガヴァッド・ギーター』の中に、さ迷うことが心の本性であると述べられています。
人は自分の想いを神に注がなければなりません。
長い修練によって心は制御され、揺るぎないものになります。
心の揺らぎは想念という形のエネルギーの散逸から起こる弱点です。
一つの想念を保持すればエネルギーは保たれ、心も力を得るでしょう。
質問者
心の力とはどういう意味でしょうか?
マハルシ
それは注意散漫にならず、一つの想念に集中する能力のことです。
質問者
どうすればそれを達成できるでしょうか?
マハルシ
修練によってです。
帰依者は神に集中します。
知識の道(ジニャーナ・マールガ)にしたがう探究者は真我を探究します。
修練はどちらも同じように困難なものです。
質問者
たとえ真我探究に心が注がれるようになったとしても、長い葛藤の末、心は帰依者の目をかいくぐっていつの間にか災いを与えます。
そしてしばらく経つまで彼はそのことに気づかないのです。
マハルシ
そうです。
初期段階では、心が探究に戻るまで長い時間がかかるでしょう。
継続的な修練によって短い時間で戻るようになり、最終的にはまったくさ迷うこともなくなります。
そうなったとき、潜在していたシャクティ(力)が現れます。
サートヴィック(純粋)な心は想念から自由ですが、ラージャシック(激質)な心は想念でいっぱいです。
サートヴィックな心は自ら生命の流れの中に融け去るのです。
質問者
生命の流れを体験する前に、心が想念の層に入らぬよう保つことはできるでしょうか?
マハルシ
できます。
生命の流れは想念よりも前に存在しているからです。
*さ迷うことが心の本性である…『バガヴァッド・ギーター』6-36
クリシュナは言った。
「心が制御されていない人にとって、真我との合一は至難の業である。
それゆえ、心の制御に努めることこそ実現への適切な方法だと私は言うのである」
131
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/11(日) 22:03:48 ID:1d4drIFg0
心を制御することは集中の行によって達成されるのじゃ。
止観の止の行なのじゃ。
心を集中によってコントロールできるようになってアートマンの追求も出来るのじゃ。
それがヨーガの真の意味なのじゃ。
132
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/12(月) 14:03:30 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話92
1935年11月7日
訪問者が尋ねた。
「ある人は粗大な対象にのみ瞑想するべきだと言います。
もし絶え間なく心を殺そうと探し回るなら、悲惨な結果になるでしょう」
マハルシ
誰にとっての悲惨な結果なのでしょう?
真我を離れて悲惨があるでしょうか?
完全な「私ー私」は無限の大海です。
自我、「私」という想念は、その上にたゆたう泡にすぎません。
それがジーヴァと呼ばれる個我です。
泡でさえ、はじけてしまえば海と溶け合う水でしかありません。
泡としてとどまっている間も、それはやはり海の一部分なのです。
この単純な真理に無知なため、ヨーガ、バクティ、カルマなどのさまざまな教派のもとにたいそうなテクニックや難解複雑な数知れない修練方法が教えられてきました。
それもみな、ただ探究者の注目を誘って彼らの心を混乱させるだけのために。
さまざまな宗教も、宗派も、教義もまた同様です。
それらは一体何のためにあるのでしょうか?
ただ真我を知るためだけです。
それらは真我を知るために必要な修練とその補助にすぎないのです。
感覚器官によって知覚された対象物は、直接の知識(プラティヤクシャ)と呼ばれています。
しかし感覚器官の助けなしに常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるでしょうか?
感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえません。
自己の気づきのみが直接的知識であって、それはすべての人に共通した体験です。
自分自身の真我を知るため、すなわち真我に気づくためには、いかなる助けも必要としないからです。
単一の「無限で完全な全体性」(充満)は、「私」としてのそれ自身に気づくようになります。
「私」とはその原初の名前です。
他のすべての名前、例えば「オーム」でさえその後に展開したものです。
解放とは、真我に気づき続けることでしかありません。
偉大な確言(マハーヴァーキャ)の「私はブラフマンである」はその証言です。
「私」は常に体験されているのですが、それでも、それに注意を向けなければなりません。
そうすることで、初めて知識は明らかになるからです。
『ウパニシャド』の教えと賢者の必要性はそのためのものなのです。
133
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/12(月) 22:58:42 ID:1d4drIFg0
感覚さえも自我があれば自我の観念となるのじゃ。
自分の眼とか自分が見たものとか自分が聞いたものに囚われるのじゃ。
知覚よりも確かに近くある主体がアートマンなのじゃ。
肉体や知覚や心の働きさえその装飾物でしかないのじゃ。
134
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/13(火) 00:15:47 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話93
1935年11月9日
誰もが自分の真我だけに気づいています。
何という驚きでしょう!
人々は存在しないものを存在すると見なしたり、あるいは現象を真我から分離したものとして見たりします。
知る者が存在するかぎり、(直接的、推論的、知的などの)あらゆる類の知識も存在するでしょう。
知る者が消え去れば、知る者とともにあらゆる知識もすべて消え去ります。
それらの正当性は知る者と同程度なのです。
135
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/13(火) 21:08:44 ID:1d4drIFg0
知識すらも認識の対象としてあるものじゃ。
あらゆる観念の記憶が知識と呼ばれるものじゃ。
石なら石の知識があれば、知識をもつものもいるとされるのじゃ。
知識の主体すらも対象に依存してあるものなのじゃ。
136
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/14(水) 00:11:57 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話94
ある男性が自分の罪を許してもらうべく師に祈りを捧げた。
マハルシ
もし心があなたを悩ませてはいないということを見るようにするなら、それで十分です。
137
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/14(水) 22:02:36 ID:1d4drIFg0
全ての問題は心から起こるものじゃ。
心に問題が無ければそれでよいのじゃ。
過度な罪悪感も正しいものではなく心の問題なのじゃ。
なにものにも囚われない心で居ると善いのじゃ。
138
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/15(木) 00:32:46 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話95
1935年11月13日
チャドウィック少佐
神秘家のエドワード・カーペンター氏は著書の中で、「ある機会に真我を実現したが、その体験はしばらくしか続かず徐々に消えていった」と書いています。
一方、『シュリー・ラマナ・ギーター』には、「グランティ(結び目=束縛)はひとたび断ち切られれば永遠にもどらない」と述べられています。
この神秘家の場合、真我実現の後でさえ束縛は消えずに残ったようです。
そのょうなことがありうるのでしょうか?
バガヴァーンは『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から以下の物語を読み上げた。
すべてに輝きわたる、統一された、完全な「存在(サット)ー知識(チット)ー至福(アーナンダ)」の境地を実現した弟子が、師に自己を明け渡した後で「どうすれば師の御恩に報いることができるでしょうか?」と謙虚に尋ねた。
師は言った。
「あなたが不変なる完全な至福にとどまるなら、それが私への報いとなる。
その境地から滑り落ちてはならない」
弟子
至高の至福を一度体験しながら、どうしてそこから落ちることができると言うのでしょう?
師
おお、もちろんそれは起こる。
はるか昔からあなたに付着し続けてきた心の潜在的傾向(ヴァーサナー)が、あなたをその境地から引きずり降ろし、そして無知が取り付くのだ。
弟子
完全な至福に確実にとどまることを何が妨げるのでしょうか?
師
障害は、
1 自己の純粋な存在を忘れるという無知。
2 その体験が真実だったのかどうかと疑い始めること。
3 「私は身体だ」、「世界は実在だ」という誤った概念。
などにある。
それらは真理を聞き、それについて熱考し、集中することで克服されるのだ。
マハルシ
体験には一時的なものと永久的なものがあると言われています。
最初の体験は一時的なものですが、それは集中を通して永久的なものとなります。
前者においては、束縛が完全に破壊されてはいなかったのです。
それは微妙な形で残り、やがて再主張するようになります。
しかし後者の場合、体験が束縛の根と枝を破壊しつくしたため、再び現れることはありません。
『シュリーマッド・バガヴァッド・ギーター』に見られるヨーガブラシュタ(ヨーガから堕ちた者)という表現は前者のレベルについて述べたものです。
質問者
真理を聞くこと(シュラヴァナ)は限られた数人だけのものなのでしょうか?
マハルシ
それには二種類あります。
通常は、真理を明言し、それについて解き明かす師の言葉を聞くことです。
しかしながら、自身に問いを発し、探究し、そして完全なる「私ー私」として自身の内にその答えを見いだすことこそ正しい方法です。
この体験を熟考することが第二段階(マナナ)、その一点に集中し続けることが第三段階(ニディディアーサナ)です。
質問者
一時的な体験はサマーディと呼べるでしょうか?
マハルシ
いいえ。
サマーディは第三段階のものです。
質問者
それでは真理を聞くことさえ非常にわずかな人に限られているように見えます。
マハルシ
探究者は二つのクラスに分かれます。
クリトーパーサカ(熟達した探究者)とアクリトーパーサカ(熟達していない探究者)です。
前者は揺るぎない帰依によって精神的傾向を克服した人で、彼の心はすでに清らかであるためにある種の体験をしていますが、それを理解してはいません。
ある適格な師の教えを受けるやいなや、永久的な体験を得るのです。
他のクラスの探究者がこの目標に達するためには多大な努力が必要とされます。
真理を聞くこと、熟考、集中はどのように彼を助けるのでしょうか?
それらは瞑想(ウパーサナ)を含み、最終的に真我実現をもたらします。
第四段階は解脱という最終目標です。
それにさえ、程度によってある区別が存在します。
1 ブラフマヴィド(ブラフマンを知る者)
2 ブラフマヴィッド─ヴァラ
3 ブラフマヴィッド─ヴァリャ
4 ブラフマヴィッド─ヴァリシュタ
しかし実際のところ、この人たちはみな、生きている間も解脱しているのです。
*ヨーガブラシュタ…『バガヴァッド・ギーター』6-41,42
ヨーガの道から脱落した人は、功徳の業果を受ける天上界に生まれ、無限のときをそこで過ごした後、この世で信心深く裕福な家に生を受ける。(41節)
あるいは彼は叡知あるヨーギーの家族に生まれる。
しかしながら、このような誕生はこの世でも実に稀なことである。(42節)
139
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/15(木) 22:55:32 ID:1d4drIFg0
サマーディを体験したり、無我になっただけでは真の悟りではないのじゃ。
一時的に真実を垣間見たに過ぎないのじゃ。
それでも多くの利益があるがのう。
直ぐに戻ってしまうのじゃ。
もはやなにものも認識しない境地に至って永遠に悟りから後退しないようになるのじゃ。
それが大悟徹底なのじゃ。
140
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/16(金) 00:17:26 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話96
A・W・チャドウィック少佐が尋ねた。
「宇宙意識の一瞥を得たと語っている西洋人の実現の本質は、どのようなものなのでしょうか?」
マハルシ
それは閃光のように現れ、閃光のように消え去りました。
始まりのあるものには、終わりがなければなりません。
常在の意識が実現されたときにだけ、それは永遠のものとなるのです。
実際、意識は常に私たちとともに在ります。
誰もが「私は在る」ことを知っています。
自分自身の存在を否定すことは誰にもできません。
深い眠りの中にいる人は気づいていません。
目覚めているときは気づいているように見えます。
しかしそれは同じ人なのです。
眠りについた人と、今目覚めている人の間には何の変異もありません。
深い眠りの中にいるとき、彼は身体に気づいていません。
身体意識がそこにないからです。
目覚めの状態では、彼は身体に気づいており、そこには身体意識があります。
それゆえ、違いは身体意識の出現にあり、真の意識の中にはいかなる変化もないのです。
身体と身体意識はともに立ち現れ、ともに沈みゆきます。
これはつまり深い眠りの中には限定がないのに対して、目覚めの状態には限定があるということです。
この限定が束縛であり、「私は身体である」という感覚が誤りなのです。
この偽りの「私」が消え去らなければなりません。
真の「私」は常に存在しています。
それは今、ここに在ります。
新たに現れることもなければ、再び消え去ることもありません。
在るものである「それ」は、常にそこに在り続けるはずです。
新たに現れたものは、再び失われるでしょう。
深い眠りと目覚めを比較してみない。
身体は一つの状態の中に現れますが、もう一つの状態の中には現れません。
それゆえ、身体は失われるものなのです。
意識は身体よりも前に存在し、身体が失われても在り続けます。
事実、「私は在る」と言わない人はいません。
「身体が私だ」という偽りの知識がすべての不幸の原因です。
この誤った知識が消え去らなければなりません。
これが実現です。
実現は何か新しいものを獲得することでも、新しい能力を手に入れることでもありません。
それはただすべての覆いを払い去ることなのです。
チャドウィック少佐
私は身体をふるい落とそうと試みています。
マハルシ
人は服を脱ぎ去って裸になり、自由になります。
真我は無限であり、身体に閉じ込められているわけではありません。
どうやって身体をふるい落とせると言うのです?
どこに捨てるのですか?
どこにあろうと、それはいまだに彼のものなのです。
チャドウィック少佐
(笑い)。
マハルシ
究極の真理はとてもシンプルです。
それは純真無垢な状態の中に在ることです。
これが語られるべきすべてなのです。
それにもかかわらず、この単純な真理を教えるために多くの宗教、教義、修練方法、そしてそれらの間での論争など……。
ああ、何と哀れなことでしょう!
チャドウィック少佐
しかし人々は単純なことに満足しません。
彼らは複雑なことを求めているのです。
マハルシ
まったくそのとおりです。
なぜなら、彼らは何か精巧に作り上げられた、魅惑的で難解なものを求めているからです。
だからこそ、これほど多くの宗教が現れ、それぞれが非常に複雑で、それぞれの宗教の教義信条に信奉者と反対者がいるのです。
例えば、普通のキリスト教徒は、「神はどこか遥か遠くの天上界にいて、助け導かれないかぎり到達することはできない。キリストだけが『彼』を知り、キリストだけが私たちを導いてくれるのだ。キリストを礼拝しなさい。そうすれば救われるだろう」と言われないと満足できません。
「神の王国はあなたの内に在る」という単純な真理が語られても彼らは満足できず、そのような言葉に複雑でもってまわった意味合いを読み取ろうとするでしょう。
成熟した心だけが、単純な真理をあるがままに理解するのです。
チャドウィック少佐は、後に瞑想中に知らぬうちに起こる恐怖について語った。
霊性(スピリット)が粗大な身体から分離するように感じられ、その感覚が彼に恐怖をもたらすということだった。
マハルシ
誰にとっての恐怖でしょう?
それは真我と身体を誤って同一視する習慣によるものです。
その分離の体験が何度も起これば、それに慣れるようになり、恐怖もなくなるでしょう。
141
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/16(金) 22:59:31 ID:1d4drIFg0
恐れは無知からやってくるものじゃ。
自分が元から意識だけの存在であったと確信すれば゜おそれも消えるのじゃ。
信頼するグルの言葉とか、学んだ知識であっても善いのじゃ。
そのようにして未知の領域に進んでいくのじゃ。
142
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/17(土) 00:19:45 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話97
1935年11月19日
アンバラから来た紳士、ラーマチャンダール氏が尋ねた。
「ハートはどこにあるのでしょうか?
実現とは何なのでしょうか?」
マハルシ
ハートとは身体的なものではありません。
それは霊的なものです。
フリダヤムとはフリト(ハート)とアヤム(私)を足したもの──「これが中心(センター)」です。
それはそこから想念が立ち現れ、その中にとどまり、その中へと消え去る場所です。
想念とは心の内容であり、それが宇宙を形作っています。
ハートはすべての中心なのです。
ヤトーヴァー・イマーニ・ブーターニ・ジャーヤンテー「それらの存在が生まれ出るところである『それ』」、それがブラフマンであると『タイッティリーヤ・ウパニシャド』の中に述べられています。
ブラフマンがハートなのです。
質問者
どのようにハートを実現するのでしょうか?
マハルシ
一瞬でさえ真我を体験しない人はいません。
なぜなら、自分が真我から離れて存在することを認める人など一人もいないからです。
彼は真我であり、真我はハートなのです。
質問者
はっきりわかったとは言えません。
マハルシ
深い眠りの中にあなたは存在しています。
目覚めにおいてもあなたはそこにいます。
同じ自己がその両方の状態の中に在るのです。
違いは、世界に気づいているかいないかだけです。
世界は心とともに立ち現れ、心とともに沈みゆきます。
立ち現れては沈みゆくもの、それは真我ではありません。
真我は心を生じさせ、維持し、融かし去ります。
それゆえ、真我はすべての根底に在る原理なのです。
「あなたは誰ですか」と尋ねられると、あなたは胸の右側に手を当てて「私」と言います。
このように、あなたは気づかぬうちに真我を指し示しているのです。
真我はこうして知られます。
個人が不幸なのは、身体と心を真我と混同するからです。
この混乱は誤った知識のためです。
誤った知識を消し去ることだけが必要であり、そのような消去が実現をもたらすのです。
質問者
どうやって心を制御するのでしょうか?
マハルシ
心とは何でしょうか?
誰の心でしょうか?
質問者
心はいつもさ迷い出します。
私にはとてもコントロールできません。
マハルシ
さ迷い出すのが心の本性です。
あなたは心ではありません。
心は湧き起こり、沈みゆきます。
心は一時的で移ろいやすいものですが、あなたは「永遠なるもの」なのです。
真我以外に存在するものは何もありません。
真我の内に在ること、これが要点です。
心については気にせずにいなさい。
もしその源を探究すれば、心は消え去り、不変の真我が残るでしょう。
質問者
心を制御する必要はないと言われるのですか?
マハルシ
真我を実現すれば、制御しなければならないような心はなくなるのです。
心が消え去るとともに、真我は輝き出します。
真我を実現した人の心が活動的であろうとなかろうと、彼にとっては真我だけが残ります。
なぜなら、心と身体と世界は真我から離れたものではないからです。
それらは真我から立ち現れ、真我の中に沈みゆき、真我から離れることはありません。
それらが真我とは別に存在できるでしょうか?
ただ真我だけに気づいていなさい。
なぜその影について心配するのですか?
どうしてそれらが真我に影響を与えると言うのでしょう?
143
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/17(土) 21:31:11 ID:1d4drIFg0
心を制御するのは、心の源を追及するためなのじゃ。
それが出来るならば無理に心を制御する必要は無いのじゃ。
無理に心を制御してしまうとクリシュナムルティの言うとおり、鈍く愚かな心になってしまうのじゃ。
全ての注意を心の源に向けて追求していくのじゃ。
どこまでも進んでいけば悟りも見出されるのじゃ。
144
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/18(日) 00:08:26 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話98
バガヴァーンはさらに説明を続けた。
マハルシ
真我はハートです。
ハートは自ら光を放っています。
光はハートから現れ、心の座である脳に達します。
世界は真我の光を反映して輝く心によって見られます。
つまり世界は心の助けを借りて知覚されるのです。
心が真我の光に照らされているとき、それは世界に気づき、照らされていないときは世界に気づいていません。
もし心が光の源へと振り返れば、外界の知識は消え去り、真我だけがハートとして輝き出すでしょう。
月は太陽の光の反映によって輝いています。
太陽が沈めば、月は物事を見るのに有用ですが、太陽が昇れば、空におほろげな姿は見えても月を必要とする人はいません。
心とハートについても同じことです。
心は反映された光ゆえに有用です。
それは物事を見るために用いられます。
それが内面に向かえば、光の源はそれ自体で輝いているため、心はおぼろげになり、真昼の月のように無用となるのです。
145
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/18(日) 22:22:39 ID:1d4drIFg0
光とは認識の喩えなのじゃ。
実際にピカピカ光るものがあるわけではないのじゃ。
アートマンからの知覚力が脳に作用して世界も知覚されるというのじゃ。
世界から離れて知覚力を内側に向けるとアートマンが実現するというのじゃ。
146
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/19(月) 00:32:04 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話99
あるサンニャーシーが尋ねた。
「真我は心を超えているが、実現は心によって為される」。
マノー・ナ・マヌテー、マナサー・ナ・マタム。
そして
「心はそれについて考えることができない。
それは心によっては考えられない。
ただ心だけが真我を実現できる」。
マナサイヴェーダマプターヴャムと言われています。
どうすればこの矛盾を解くことができるでしょうか?
マハルシ
アートマンは死んだ心(ムリタ・マナス)、つまり内面に向かい想念がなくなった心によって実現されます。
そのとき、心はそれ自身の源を見て「それ」となるのです。
それは主体が対象を知覚することとは異なります。
部屋が暗いとき、照らすためには照明が、そして認識するためには目が必要となります。
しかし太陽が昇れば、照明の必要なしに対象物は見られます。
太陽を見るのに照明の必要はありません。
ただあなたが自ら輝く太陽に目を向けるだけでいいのです。
心においても同様です。
対象物を見るには、反映された光である心が必要となります。
しかしハートを見るには、心をそれに向けるだけで十分です。
そのとき、心はおのずと失われ、ハートが輝き出すのです。
*マノー・ナ・マステー、マナサー・ナ・マタム:『ケーナ・ウパニシャド』1-5
それは心によって考えることができない。
心はそれによって考える。
それがブラフマンだと知りなさい。
世界が崇拝するものはブラフマンではない。
*マナサイヴェーダマプターヴャム:『カタ・ウパニシャド』4-11
ただ心だけがそれを実現できる。
147
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/19(月) 22:36:40 ID:1d4drIFg0
ブラフマンはアートマンと同じなのじゃ。
自らの心に全ての知覚と注意力を向けたならばそれは見出されるのじゃ。
全ての認識の源泉であるそれはすべてを認識するが認識はされないのじゃ。
それがアートマンであり、ブラフマンなのじゃ。
148
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/20(火) 01:22:49 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話100
シュリー・バガヴァーンは『カイヴァリャ・ナヴァニータム』から数節引用して説明した。
訳注:この対話においてマハルシは、いかに純粋意識である真我(ブラフマン)から世界と個人という幻影(マーヤー)が現れたかを、AからHまでの七つの異なったモデルを用いて繰り返し説明している。
マハルシは説明を会話で行っており、以下の表やチャートは記録者の便宜による。
A
【至高なるもの】
絶対知識、観照者、自ら輝く核、ハート、真我
↓
【個人】
潜在的なヴリッティ(心の様態)と反映された光で構成された
「知る者」であるジーヴァ
↓
【内的知性と外向的な心】
ヴリッティ(心の様態)と反映された光で構成された
芽としてのブッディ(知性)とマナス(心)。
これがアンタカラナ(内的器官)である
↓ ↓
【対象物として形作られた 【一般的知識】
心の状態】
↓ ↓
【その両方が私たちの知覚する世界を構成する】
*心の様態:ヴリッティ。変化変容する心の状態。想念の波動。
B 【真我】
(純粋知識)
↓
【ジーヴァ】
(プラマートリ=知る者)
↓
【知性と心】
プラマーナ(知る方法)=知覚
↓ ↓
【対象物として見られる 【知識】
心の様態】 (パラ・チャイタニャ)
さまざまな心の様態は外的な対象物としての形をとり、その様態の上に反映された光が対象物を照らし出します。
心の様態を無視して、対象物を照らし出している光の源を探し出せば、心は静まり、光はおのずと輝き出すでしょう。
心は一般に、ラジャス(活動性、激質)とタマス(不活発性、闇質)を含んだ揺れ動く心として知られています。
ラジャスとタマスが不在になれば心は純粋になり、自ら輝き出します。
これが真我実現です。
それゆえ、心は実現のための手段だと言われるのです。
C 【純粋意識】
(永遠かつ常在の観照者)
↓
【アンタカラナ】
内的器官+反映された光(ジーヴァ:プラマートリ)
↓
心の様態と光が一緒になったものがプラメーヤ(知られるもの)
対象物は粗大なものであり、光はパラ・チャイタニャ(知識)と呼ばれる
D 個我(ジーヴァ)の中の内的器官(アンタカラナ)は
以下の要素で構成されている
【サットヴァ】【ラジャス】【タマス】
知識 心の様態 粗大な対象物
光 知性、心 世界
同様に、宇宙における
宇宙的心(永遠の存在)は以下の要素で構成されている
【サットヴァ】【ラジャス】【タマス】
イーシュヴァラ 個人 宇宙
宇宙の主 ジーヴァ
E 【ブラフマン=サット】【チット】【アーナンダ】
存在 意識 至福
基盤(アーダーラ) |____|
|
ヴィシェーシャ
=マーヤーによる区別
__|__
| |
自然、宇宙、世界 心が紡ぎ出した多様な対象物
幻影(マーヤー)は存在(サット)を覆い隠すことはできませんが、意識(チット)と至福(アーナンダ)を個人のものであるかのように見せることで覆い隠してしまいます。
F 【ロープ】【おぼろげな光の中で】【蛇として現れる】
↓ ↓ ↓
存在 マーヤー Eに見られる
基盤 幻影 心が紡ぎ出した
特定の対象物
149
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/20(火) 01:24:14 ID:okdDpu6.0
G
サットとは存在、つまり基盤(アーダーラ)のことです。
サットから個としてのジーヴァが現れます。
ジーヴァは自分自身を粗大な身体と同一視するという無知に覆われています。
ここでいう無知は、真我を探究しないことを意味しています。
実際には、ジーヴァは知識以外の何ものでもないのですが、無知ゆえに粗大な身体との自己同一化が起こるのです。
H
再び、師は赤い熱鉄球(タプタ・アヤハ・ピンダヴァト)の比喩を用いてそれを解説した。
鉄の玉に火を加えることが赤い熱鉄球を形作るように、世界に純枠な意識(チット)を加えることが個我(ジーヴァ)を形作るのです。
*『カイヴァリャ・ナヴァニータム』1-26
15世紀のアドヴァイタの聖典『カイヴァリャ・ナヴァニータム』は、「束縛と解放、世界という幻影とその幻影の消去」について説明している。
この対話においてマハルシは、いかに純粋意識である真我(ブラフマン)から世界と個人という幻影(マーヤー)が現れたかを、AからHまでの7つの異なったモデルを用いて繰り返し説明している。
しかし彼自身は、「世界創造はまったく一度も起こらなかった」とする「非起源論」が究極の真理であると説いているため、この世界創造の過程の説明は、「非起源論」を受け入れることができず、創造の過程に関心を持つ探究者の知的好奇心を満足させたうえで、彼らの関心を創造の源である真我に向けさせるためのものでしかない。
また、この対話の中の図や表は、マハルシが自分で描いたわけではなく、記録者が自分の理解に従って描いたものである。
*赤い熱鉄球 (タプタ・アヤハ・ピンダヴァト)
鉄の球は硬く冷たいが、火に熱せられると柔らかく熱くなり、火の赤みを帯びる。
火から離せば鉄の球は元のとおりになる。
鉄の球は身体を表し、火は意識を表す。
身体自体に生命意識はない。
しかし意識が身体に入ると、身体は意識の質と付属性を得たかのように見え、意識は身体に限定されたかのように見える。
150
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2019/08/20(火) 22:05:49 ID:1d4drIFg0
無知とは肉体とか心が個体であり、自分と思うことなのじゃ。
それは仏教の無明と同じなのじゃ。
はっきりした叡智が無ければ身体や心が個我と思うのじゃ。
それらをはっきりと観察して気付くことで智慧も現われるのじゃ。
151
:
避難民のマジレスさん
:2019/08/21(水) 00:13:01 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話101
アンバラから来た紳士が尋ねた。
「ドラウパディーのサリーが無限の長さになったことを、どうすれば合理的に説明できるでしょうか?」
マハルシ
霊的問題は合理主義に適しません。
霊性は超越的なものです。
奇跡はドラウパディーが自分自身を明け渡した後に起こりました。
それゆえ、秘密は明け渡しにあるのです。
質問者
どうすればハートに達することができるでしょうか?
マハルシ
ハートに達したいと望んでいるあなたは、今どこにいるのですか?
あなたは真我から離れて存在しているのですか?
質問者
私は身体の中にいます。
マハルシ
特定の場所ですか、それとも全身ですか?
質問者
全身です。
私は全身に広がっています。
マハルシ
どこから広がっていると言うのですか?
質問者
わかりません。
マハルシ
そうです。
あなたはいつもハートの中にいるのです。
けっしてそれから離れたことなどなかったため、それに到達すべきだということもないのです。
深い眠りと目覚めのあなたの状態を考えてみなさい。
これらの状態もまたあなたのものではありません。
それらは自我のものです。
意識は不変で常に区別されないままとどまるのです。
質問者
理解はできても、それを感じられないのです。
マハルシ
その無知は誰のものですか?
見いだしなさい。
質問者
あまりにも難しすぎます。
マハルシ
難しいという考え自体が誤りなのです。
そのような考えはあなたの求めているものを得る助けにはならないでしょう。
もう一度尋ねます。
難しいと思っているのは誰でしょうか?
質問者
回りまわって「私」に戻ってくることはわかります。
マハルシ
なぜなら、あなたは常に「それ」であり、けっして「それ」から離れたことなどなかったからです。
真我として在ることほどシンプルなことはありません。
それは努力も助けも必要としません。
人は誤った自己同一化を棄て去って、永遠の、自然な、本来の状態にとどまらねばならないのです。
*ドラウパディーのサリーが無限の長さに…
大叙事詩『マハーバーラタ』において、ドラウパディーはパーンダヴァ5人兄弟の共有の妻となる。
長男であるユディシュティラは、カウラヴァ兄弟の長男ドゥルヨーダナの陰謀により、賭博の達人シャクニにサイコロ賭博ですべてを賭けて負け、王国を失ったうえ、最後に妻までも賭けるようにさしむけられ、やはり負けてしまう。
ドゥルヨーダナの弟ドゥフシャーサナに髪の毛をつかまれて賭博の会場に連れてこられ、公の前でサリーをはがされそうになったドラウパディーは、クリシュナ神に救いを求める。
サリーはクリシュナ神の加護により無限の長さを保って彼女を救い、敵は神の力の前に降伏する。
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