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鬼和尚の仏教勉強会 講読ゼミ 5

132避難民のマジレスさん:2019/08/12(月) 14:03:30 ID:okdDpu6.0
ラマナ・マハルシとの対話92

1935年11月7日

訪問者が尋ねた。

「ある人は粗大な対象にのみ瞑想するべきだと言います。
 もし絶え間なく心を殺そうと探し回るなら、悲惨な結果になるでしょう」

マハルシ
 誰にとっての悲惨な結果なのでしょう?
 真我を離れて悲惨があるでしょうか?

 完全な「私ー私」は無限の大海です。
 自我、「私」という想念は、その上にたゆたう泡にすぎません。
 それがジーヴァと呼ばれる個我です。
 泡でさえ、はじけてしまえば海と溶け合う水でしかありません。
 泡としてとどまっている間も、それはやはり海の一部分なのです。

 この単純な真理に無知なため、ヨーガ、バクティ、カルマなどのさまざまな教派のもとにたいそうなテクニックや難解複雑な数知れない修練方法が教えられてきました。
 それもみな、ただ探究者の注目を誘って彼らの心を混乱させるだけのために。
 さまざまな宗教も、宗派も、教義もまた同様です。
 それらは一体何のためにあるのでしょうか?
 ただ真我を知るためだけです。
 それらは真我を知るために必要な修練とその補助にすぎないのです。

 感覚器官によって知覚された対象物は、直接の知識(プラティヤクシャ)と呼ばれています。
 しかし感覚器官の助けなしに常に体験される真我ほど直接的なものが他にあるでしょうか?
 感覚的知覚は間接的知識でしかなく、直接的知識ではありえません。
 自己の気づきのみが直接的知識であって、それはすべての人に共通した体験です。
 自分自身の真我を知るため、すなわち真我に気づくためには、いかなる助けも必要としないからです。

 単一の「無限で完全な全体性」(充満)は、「私」としてのそれ自身に気づくようになります。
 「私」とはその原初の名前です。
 他のすべての名前、例えば「オーム」でさえその後に展開したものです。

 解放とは、真我に気づき続けることでしかありません。
 偉大な確言(マハーヴァーキャ)の「私はブラフマンである」はその証言です。
 「私」は常に体験されているのですが、それでも、それに注意を向けなければなりません。
 そうすることで、初めて知識は明らかになるからです。
 『ウパニシャド』の教えと賢者の必要性はそのためのものなのです。


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