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鬼和尚の仏教購読会 別館

402避難民のマジレスさん:2019/03/21(木) 01:32:10 ID:LC3de7YgO
>>400
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ヴィシュヌは弟子に言った。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
――なぜだろう?なぜそれが一番むずかしいのだろう?
師は弟子がまだ夢のなかにいることを、まだ自我 エゴのなかにいることを知っているからだ。
実のところ、「お返しをしなければいけない。これほどたくさんのことをして
頂いた のだから、あなたに何かをし
てさしあげたい」という考えそのも
のが自我の思いだ。
弟子が自我を落としてしまったら、 誰が返礼するというのだろう?
いったい誰が? 「ありがとう」と言う者さえいるだろうか?
誰もいない。
完全な沈黙だけがある。
その完全な沈黙のなかで、師は顔をほころばせる。
弟子はこの完全な沈黙を通して感謝を表している。
ある男が仏陀のもとへ行った。
彼は人類のために何かをしたかった。
彼は大金持ちだった。
彼は仏陀に尋ねた。
「人類のために私にできる ことを教えてください。私にはたくさんの金があり
ます。子供もなく、 妻は死に、独り身ですから、何でもすることができます」
仏陀はとても悲しげな目で男を見つめて沈黙していた。
男は言った。
「なぜ黙っておられるのですか?なぜ話をしてくださらないのですか? あなた
はいつも慈悲について語っておられます。私には何でもする用意があります。
おっしゃってくだされば何でもします。大丈夫です――私には充分な金が あり
ますから!どんな仕事でも与えてくださればやり遂げます」
仏陀は言った。
「あなたが言っていることはわかるが、私は悲しいのだ。 あなたはものごとを
為すことができない。なぜなら、 あなたはまだ存在していないからだ。 何かを
為すことができるようになる前に、人は まず存在するようにならなければいけ
ない。 問題はどれだけ金をもっているかではなく、 あ な た 自身がいないこ
とにある!」
慈悲心という質は実存の影なのだが、その実存が欠けている。
自我エゴはけっして慈悲心をもつことができない。
自我は非情だ。慈悲のゲームを演じているときでさえ、自我は非情だ。
自我が消えてしまうと……ときには 自我のない人がとても非情に見えること
がある。
が、そうではない。
彼は非情ではありえない。
彼のその非情さですら深い慈悲にちがいない。
禅師が弟子の頭を棒で打つのは非情ではない。
それはとほうもない慈悲だ。
禅師が弟子に飛びかかって殴るのは非情ではない。
なぜなら、ときおり師の一撃によって、一瞬のうちに、 稲妻が闇を切り裂くよ
うに弟子が光明を得ることがあるからだ。
仏陀は言った。
「あなたには何もできない。 金があることは知っている。あなたのことは耳に
していた。だが、あなたを のぞき込んだとき、私はひどく悲しくなった。あな
たは何かをしたがっているが、 何かを為すことができる要素が欠けている。あ
なたは夢を見ることしかできない」
だからヴィシュヌは言う。
「私が無償で与えたものに行為で報いることほどむずかしいことはない」
ゲオルギー・グルジェフが弟子たちに言っていたのはそのことだ。
彼がP・D・ウスペンスキーに最初に言ったことはそれ、まさにそれだった。
ウスペンスキーは偉大な探求者、知識の探求者だった。
はじめてグルジェフに 会いに行ったとき、彼はすでに世界的に有名な数学者、
思想家だった。
彼が書いた 最も優れた本『テルティウム・オルガヌム』はすでに出版されてい
た。
それは類まれな本だ――著者がまだ覚醒していなかったという意味でもまれだ。
こんなに美しい作品をどうして書くことができたのだろう?
覚醒した人間にしか わからないような誤りが二、三あるが、ふつうの人間なら
まず気つ゛かない。
それはまるでブッダが書いたかのように、ほとんど完璧だ。
だが、ゲオルギー・グルジェフはその本に目を通すと、あちこちの 頁をぱらぱ
らとめくって、それを部屋の外へ投げ捨て、こう言った。
「まったくのたわごとだ! 君は何もわかっちゃいない! そもそも君はいな
いのだ。 その君にどうして知ることができるだろう? 人はまず存在しなければ
ならない。 そこではじめて人は知ることができるようになる」
ウスペンスキーは師マスターを探して東洋をくまなく旅した人物だった。
これは美しい物語であり、まるで寓話のようだ。
彼はインドを旅した。彼はセイロンやビルマへ行った。
彼は僧院やヒマラヤの洞窟で 暮らしたことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

403鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/21(木) 23:47:53 ID:1d4drIFg0
法華経には菩薩が何万と集まろうと仏陀の智慧はわからないと書いておるのじゃ。
その通りなのじゃ。
自ら到達しなければ悟りの智慧はわからないのじゃ。
どれほど知識を集めても悟らない限り仏陀の智慧には届かないのじゃ。

404避難民のマジレスさん:2019/03/22(金) 02:42:53 ID:LC3de7YgO
>>402
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

ラマやスワミやたくさんのヒンドゥー教の神秘家に会ったが、 誰も彼を満足さ
せることができなかった。
なぜか?
それは彼らが語ったことはみな 経典の焼き直しに過ぎず、ウスペンスキーがす
でに学んでいたことだからだ。
彼ら自身の言葉はひとつもなかった。
失意のうちに、彼は帰途についた。
彼はロシアに、かつて暮らしたペテルブルグにもどってきた。
ペテルブルグのある喫茶店で、彼はグルジェフに会った。
その最初の 出会いのとき、師のまなざしを見て、ウスペンスキーは悟った。
「この男こそ私が捜していた人物だ。私はこの町にずっと暮らし、この喫茶店
に 何年も通いつつ゛けてきたが、探し求めていた人がこの喫茶店に坐っている!
セイロン、ネパール、カシミールなど遥か遠くの場所で探しつつ゛けていたのに

グルジェフは、まずウスペンスキーにこう言った。
「自分が存在しないかぎり、君はものごとを知ることができない。 自分が存在
しないかぎり、君はものごとを為すことができない」
ところがパラドックスは、 自分が存在しなくなってはじめて、 「私」という
言葉が通用しなくなってはじめて、 人は存在するようになるというところにある。
(p355)
これらの経文は、覚者ブッダの境地をつくりだすための鍵だ―― あなたは覚醒
そのものであって、何者でもなく、 光に満ちてはいるが、完全にからっぽだ。
さあ、経文だ――
炉祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
確証の体験は、あなたが我が家に近つ゛きつつあるしるしだ。
人は確証の体験を理解し、それに気つ゛いていなければならない。
なぜなら、そこから勇気と希望が得られるからだ。
それは活力を与えてくれる。
あなたは探求が無駄ではないことを、
朝がすぐそこまで来ていることを感じるようになる。
まだ夜は暗いかもしれないが、最初の確証の体験がこもれ日のように差し込み
はじめている。
星が消えてゆき、東の空が赤く染まりつつある。
太陽はまだ昇っていないが、空はもう明るくなっている――
もうまもなく太陽が顔を出すにちがいない。
東の空が赤く染まれば、もうじき太陽が地平線から顔をのぞかせる。
鳥たちは朝の到来を讃えている。
樹々はいきいきとし、眠りは消えてゆく。
人々が起きはじめた。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じように、霊的な道においても、紛れもない確証の体験が起
こる。
それはまだ目には見えない美しい庭園に向かって歩いてゆくと、近つ゛けば近
つ゛くほど、風が涼しくなってゆくのが感じられるようなものだ。
庭園から遠ざかってゆくと、涼しさも消えてゆく。
近つ゛いてゆくと、再び涼しくなってくる。
もっと近つ゛いてゆくと、風が涼しくなるだけでなく、花の香りが、たくさん
の花の香りが漂ってくる。
遠ざかってゆくと、香りも次第に消えてゆく。
近つ゛けば近つ゛くほど、梢で歌っている鳥たちの声が聞こえてくる。
樹は見えないけれど、鳥たちの声が聞こえてくる
・・・・・・遠くでカッコウが鳴いている・・・・・・
マンゴーの茂みがあるにちがいない。
あなたはどんどん近つ゛いてゆく。
これが確証の体験だ。
それとまったく同じことが内なる庭園――
内なる生命、喜び、沈黙、至福の源
泉へと進んでゆくときに起こる。
中心に向かって進んでゆくと、いくつかのことが消え、
いくつかの新しいことが現れてくる。

人は小さな要求に満足せず、生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
そして、いいかね、確証の体験が現れはじめても、すぐに満足してしまっては
いけない。
涼しい風が吹いてくると、あなたはそこに坐りこんで到着したと考える。
涼しさはすばらしい、涼しさは喜びに満ちている。
だが、あなたは先に進んでゆかなければならない。
小さなことで満足してはならない。
それらが起こりはじめたことを喜び、
それらを道標みちしるべと見なしなさい。
だが、そこはまだ目的地ではない。
それらを楽しみ、神に「ありがとう」と感謝して、
確証の体験がやって来る方向に進みつつ゛けるのだ。
小さな要求で満足してはならない。
例えば、安らぎは小さな要求だ。
それはたやすく達成することができる。
緊張のない心の状態はたやすく達成することができる。
それは大したことではない。
心安らかで心配や不安がない
というのは、それほど大したことではない。
では、偉大なこととは何だろう?
人は目標として何を胸に抱きつつ゛ければよいのだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

405鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/22(金) 23:05:18 ID:1d4drIFg0
悟る前にはいろいろな現象が起こるじゃろう。
自分の体が消えたように感じたり、何もかもが自分であるように感じたりするのじゃ。
サマーディに入り、安らぎと喜びを感じる者も居るじゃろう。
それらはよい兆しであるが囚われてはいかんのじゃ。
囚われれば修行は止まってしまうのじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

406避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 06:12:00 ID:LC3de7YgO
>>404
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

生命あるものをすべて救済せんとする 高邁こうまいな決意をもたなければなら
ない。
これが判断の基準になっていることにあなたは驚くだろうが、それはいつも判
断の基準とされてきた。
仏教ではこれを「菩薩の誓願」と呼んでいる。
内なる中心に近つ゛けば近つ゛くほど、この世界に住む生きとし生けるすべて
のものの苦しみを感じるようになってゆく。
一方では深い穏やかさと静けさを感じ、
一方では苦悩するすべてのものたちへの深い憐れみを感じはじめる。
苦しみに次ぐ苦しみ、そしてまた苦しみ。
どこもかしこも苦しみで満ちている。
一方では大いなる喜びが沸きあがってくるが、一方では深い悲しみもまた湧い
てくる。
何百万もの人々が苦しんでいるからだ――
それも何の理由もない馬鹿げた苦しみを味わっている。
あなたが味わっている至福を達成することは、彼らの生得権でもある。
だから、もう自分は至福に満ちているから、
すべては終わったのだと満足してはならない。
あなたが至福に満ちるようになっても、
すべてが終わったわけではない。
今や旅は新たなる方向へと転じる。
覚者ブッダの境地を達成し、わが家にたどり着いたら、いよいよ真の仕事ワー
クがはじまる。
これまでは夢にすぎなかった。
今や、他の人々が夢から出てくるのを助ける真の仕事がはじまる。
弟子が達成したら、彼は師にならなければならない。
キリスト教で「キリスト意識の誓い」と呼ばれているのはこれだ。
それを本当に理解しえたキリスト教徒はいない。
彼らはそれを誤解してきた。
彼らはイエスだけがキリストであると考えている。
「キリスト」という言葉は「クリシュナ」から来ている。
それは誓いだ。
自分が救われたら、あらゆるものを救わなければならないというのがその誓い
だ。
苦しみから救われることは無上の喜びだが、他の者たちを苦しみから救ってゆ
くことと比較すれば何でもない。
自分が苦しみから救われることは、依然として自己中心的であり、自己に焦点
が合わせられている。
自己の何かが依然として残っている。
あなたは自分のことにしか関心がない。 自己が消え、あなたが救われたからといって、 どうしてその旅をやめることが
できるだろう?
さあ、今度は他の者たちを救わなければならない。
イエスが救済者と呼ばれるのはそのためだ。
だが、彼が唯一のキリストではない。
彼の前にもたくさんのキリストがいたし、 彼の後にもたくさんのキリストがいた。
これからもたくさんのキリストが現れるだろう。
覚者ブッダになる者はみな、必然的に あらゆる者を救済しなければならなく
なる。
人間の喜び、安らぎ、至福は小さなものだ。
そういうもので満足してはならない。
いつか分かち合わねばならないことを、
いつか他の人々が目覚める手助けをしなければ ならなくなることを片時も忘れ
てはいけない。
この種子をあなたのこころハートの奥深くに植えつけなさい。
仏性が花開いたときも、あなたが世界から消えてしまわないように。
仏教には二つの言葉がある。
ひとつは「アルハト」だ。アルハトとは、光明は得たのだが、 すべてが終わり
、為すべきことは完了したと考えている者をいう。
彼は消え失せてしまう。
もうひとつは「ボーディサットヴァ」と呼ばれる。
彼は光明を得たが、消えず去らずに、 懸命にこの世にとどまろうとする。
彼は滞在を引き延ばし、可能なかぎり この世にとどまろうとする。
こんな話がある。
仏陀がにゃはんニルヴァーナの扉に到達した。
すると扉が開き、天上の音楽が奏でられ、黄金の花が降り注ぎ、 花輪を手にし
た天人たちが彼を歓迎しようと待ち構えていた。
ところが、仏陀は入ることを拒み、扉に背を向けた。
天人たちは驚いて、目を疑った。
彼らは何度も何度も彼に尋ねた。
「何をしておられるのです?あなたは今生だけではなく、何生 にもわたって
こ の 扉 を探し求めてこられたのでしょう。 ようやくたどり着かれたのに、
扉に背を向けられるとは? 私たちはあなたをお待ちしていました。 またひとり
覚者ブッダが増えたと、天国は喜びで湧きかえっています。 どうかお入りくだ
さい!一緒にあなたの 仏性の開花を祝おうではありませんか」
だが仏陀は言った。
「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

407鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/23(土) 23:36:08 ID:1d4drIFg0
大乗仏教では修行に入る時に菩薩の誓願わするのじゃ。
悟ったら娑婆世界に戻って衆生を導くと誓うのじゃ。
その誓いがあれば悟った後に戻ってくることもできるのじゃ。
そして教えを説くこともできるのじゃ。
そうでなければ大抵はそのままニルヴァーナ行きなのじゃ。

408避難民のマジレスさん:2019/03/23(土) 23:45:43 ID:LC3de7YgO
>>407
鬼和尚、いつもありがとうであります。
小乗の悟りでは涅槃行きでありますか?
肉体的にも死んじゃうのでありますか?

「苦しんでいる者がひとり残らず救われないかぎり、 私はなかには入らない。
私は待たなければならない。 私は最後に入るつもりだ。他の者たちを先に入れよ
う」
←これは、大乗あるいはOSHOの創作でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

409避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 00:01:25 ID:LC3de7YgO
>>406
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

この美しい物語によると、仏陀は今も なお扉の前で待ちつつ゛けているとい
う。
扉は開いている。
いつ仏陀が入りたいと言うか わからないから、天人たちも扉を閉めるわけには
いかない。
彼にはなかにはいる権利があるので、扉は開いている。
仏陀のために扉は開け放しになっている。 こうして天上の音楽は流れつつ゛け
、花は今も降り注ぎ、 天人たちは花輪を手にして待ちつつ゛け・・・・・・ そして仏
陀は外に立っている。
彼は人々を勇気つ゛けている。
呼びかけ、挑み、奮い立たせている。
彼は人々に言っている。
「扉は開いている。 この機会を逃してはならない。なかに入りなさい! 私は
最後に入ることになるだろう。もう扉は二度と閉まらない。 すべての人が救わ
れ、光明を得ないかぎり、 扉が閉まることはない」
これは寓話にすぎないが、とほうもなく意義深い。
それを歴史的事実だと見なしてはならない。
そんなことを すれば要点を見逃してしまう。
扉もなければ、天人もいないし 、花輪もなければ、天上の音楽もない。
そして仏陀は、光明を得た瞬間に消えてしまった。
その彼がどうして扉に背を向けたまま立っていられるだろう?
誰がそこに立っているというのだろう? だが、その誓いは・・・・・・。
仏陀が<存在>のなかに解き放ったエネルギーは今もなお作用している。
真 に 探し求めている者たちは、今でもそのエネルギーを手に入れることができ
る。
そのエネルギ-はどこまでも作用しつつ゛けてゆく、 永遠に作用しつつ゛けて
ゆく。
イエスはもはやいないが、そのキリスト意識は新しい位相に入っている。
マハーヴィーラはもはやいないが、その意識はこの生命の大海に入っている。
これらの人々は<存在>の一部となり、波動を放っている。
それがこの寓話の意味だ。
彼らは今もあなたを奮い立たせている。
そのメッセージを受け取る用意があるなら、彼らは今でも あなたを向こうの岸
辺に連れてゆこうとしている。
死を迎える瞬間、師マスターは無限のエネルギーの一部になる。
そのエネルギーには仏陀が加わっている。
マハーヴィーラが加わっている。
ツァラツストラが加わっている。
老子、イエス、マホメットが加わっている。
師が死を迎えるたびに、より多くのエネルギーが解放され、 それが大きな潮の
うねりになってゆく。
じつに多くの人々が光明を得てきたので、 それはひとつらなりの潮流になって
ゆく。
あなたがたは幸運だ。
あなたの憧れが本物ならば、 あなたの願いが本物ならば、 この潮のうねりに
運ばれて 向こうの岸辺に行くことができる。
それを胸の奥に刻んでおきなさい。
小さなものごとで満足してはいけない。
途上ではたくさんのことが起こるだろう。
奇 蹟 の よ う な こ と が数多く起こるだろう。
だが、どれにも満足してはいけない。
いいかね、あなたは キリスト意識、ボーディサットヴァ にならなければいけ
ない――それ以下の ものではあなたを満足させることはできない。
これは聖なる不満足だ。
(p361)
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって実証するよう
努力しなければならない。

探求者の生はつまらないことで占められてはならない。
些細なことをやりつつ゛けるたびに、時間、エネルギー、生命いのちが無駄に
なってゆくからだ。
探求者は時を無駄にすることができない。
その生涯はひたすらある一点に向けられ、捧げられねばならない。
彼はふらふらしてはいられない――
喫茶店に坐り込み、どうでもいいうわさ話に興じてなどいられない。
役にも立たないものを読んではいられない。
彼は旅の役に立たないことはいっさいしない。
あとで重荷になり、落とさなければならなくなるようなものはいっさい集めな
い。
彼は質素シンプルなままでいる。
この質素さは禁欲主義とはいっさい関係がない。
この質素さはまったく科学的なものだ。
彼はもち歩かねばならないようながらくたを集めない。
彼は重荷を担がない。
そして知識以上のがらくたはない。
なぜなら、他のがらくたは外にあるが、知識は内側に入り込んでいるからだ。
知識のために、軽々としていなければならない頭が、ひどく重たくなる。
「だるま」と呼ばれる日本の人形を見たり、観察したことがあるだろうか?
ボーディダルマは日本では「だるま」と呼ばれている。
その人形はみごとだ。
だるま人形――それは光明を得た人を表している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

410避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 13:35:08 ID:LC3de7YgO
>>409
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みごとというのは、どんなに放り出されても、不思議なことに、それは必ずも
との姿勢にもどってくる。
立ち直ってくるからだ。
放り投げても、けっしてひっくり返らずに、再びもとの姿勢にもどってくる。
その人形は底が重くて頭が軽いので、けっして逆さにはならない。
それはつねに正しい姿勢で坐っている。
人間の場合はそれとまったく逆になっている。
人間は逆さになっている。
頭がひじょうに重く、頭でっかちだ。
人間は逆立ちしている。
知識でいっぱいになっている人は逆立ちをしている。
彼はいつもシルシュアーサナ、逆立ちのポーズを取りつつ゛けている。
頭のなかに知識がない人――
頭が空っぽで、静かな人は、正しい姿勢をしている。
彼は蓮華座で坐っている。
彼は”だるま人形”だ。
彼をひっくり返すことはできない。
どんなに頑張ってみても、彼は必ずもどってくる。
彼をかき乱すことはできない。
どんなに頑張っても、
彼の不動の境地は揺るがない。

軽薄で無責任なこころに陥らず……
責任とは何だろう?
ふつうこの言葉の意味は間違ったものと結びつけられている。
真の責任は神への責任に他ならない。
あるいは、真の責任は自分自身の本性への責任に他ならない。
あなたは社会や教会や国家に責任を負っているのではない。
あなたに家族や社会に対する責任はない。
あなたが責任を負わねばならないのはただひとつ、それはあなたの本来の顔、
あなたの本来の実存だ。
その責任を取ることで、他のすべての責任はおのずと果たされる。
自然になりなさい。
自然な人間は責任リスポンシビリティを取ることができる――
なぜなら、彼は感応リスポンスするからだ。
自然ではない人間はけっして感応しない。
彼は単に反応リアクトするだけだ。
反応とは機械的であるという意味であり、
感応とは機械的ではなく、臨機応変に応答することをいう。
美しい花を見ると、あなたはふと「きれいだな」とつぶやく。
それが反応なのか感応なのか見守りなさい。
それを深くのぞき込み、詳しく調べてみなさい。
口にした「きれいな花だ」という言葉は、この瞬間、今ここで、あなたの内側
から自然に湧き起こった感応だろうか?
それは生の体験なのか、それとも他人が「花はきれいだ」と言っているのを聞
いたので、決まり文句をくり返しているだけなのだろうか?
それをよく調べ、観察してみるがいい。
誰があなたを通して話しているのだろう?
それは母親かもしれない……あなたは母親に連れられてはじめて庭に、公園に
行った日のことを思い出さないだろうか。彼女はあなたに
「この薔薇を御覧なさい。なんてきれいなんでしょう!」と言った。
そしてこれまで読んできた本、これまで見てきた映画、かつて話した人々――
それらすべてが「薔薇はきれいだ」と言っていた。
それがあなたのなかにプログラムして組み込まれてしまっている。
薔薇の花を見たとたんに「きれいだ」と言うのは、
あなたではなく、そのプログラムだ。
それはレコードにすぎない。
録音テープにすぎない。
外側の薔薇が引き金になって、ただテープがくり返しているだけだ。
それは反応だ。
感応とは何か?
感応とはその瞬間に起こる
プログラムされていない
生の体験だ。
あなたは花を見ている、
観念で目をふさがれることなく、
しっかり花を見ている。
あなたは こ の 花を、その現前げんぜんを見ている!
知識はすべて脇によけられている。
こころハートは感応し、頭マインドは反応する。
責任はこころハートから生まれる。
あなたは何も言わないかもしれない。
実際、「これはきれいだ」などと言う必要はない。
聞いた話だが……
老子はよく朝の散歩に出かけたものだった。
隣家の男がついて行きたいと言うと、老子は言った。
「だが、いいかね。ぺらぺらしゃべらないこと。
ついて来てもいいが、おしゃべりはごめんだ」
男は何度も口を開きたくなったが、老子の視線を感じて、なんとか言葉を押し
とどめた。
だが、太陽が昇りはじめると、その日の出があまりにきれいなので、誘惑に逆
らえなくなり、老子が言ったことをすっかり忘れてしまった。
彼は「なんて美しい朝だろう!」とつぶやいた。
すると老子は言った。
「ほら、口数が多くなってきた。君はしゃべりすぎる! 君も私もここにいて、
太陽があそこに昇ってきている――私に向かって 『きれいな朝日だ』などと言
って何になる? 私には見えないというのかね? 私は盲目だとでもいうのかね?
そんなことを言って何になる? 私もここにいるんだから」
実のところ、「きれいな朝だ」とつぶやいた男はそこにはいなかった。
彼はくり返していたのであり、それは反応だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

411鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/24(日) 21:49:19 ID:1d4drIFg0
>>408 小乗の悟りとか大乗の悟りというものはないのじゃ。
 大乗の誓願もただ修行を勧めるための方便なのじゃ。
 他人の為に頑張る者のための法なのじゃ。
 お釈迦様のように誓願をしなくとも他人の為に法を説く目覚めた者もいるのじゃ。
 もはや涅槃に行くというならば座り続けて餓死したりするのじゃ。

 そのような誓願は大乗に本当に在るのじゃ。
 オショーの創作ではないのじゃ。
 大乗の経に書いて在るのじゃ。

412避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:25:11 ID:LC3de7YgO
>>411
鬼和尚、ありがとうであります。
悟ると、一切の執着なくなるので、教えを説く以外に命を長らえようとしなくなるのでありますね。
テラワダの僧侶とかは悟ったら涅槃行きなのですかね?
(´・(ェ)・`)つ

413避難民のマジレスさん:2019/03/24(日) 22:41:22 ID:LC3de7YgO
>>410
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

感応するときには、言葉が まったく不用になることもあれば、ときには必要
になることもある。
それは状況による。
だが、必ずしも言葉がともなうとはかぎらない。
言葉がともなうこともあれば、ともなわないこともある。
感応はこころハートから生まれる。
感応は感情フィーリングであって、思考ではない。
あなたはわくわくする――薔薇の花を見ると、 何かがあなたの内側で踊りはじ
め、あなたの実存の内奥の核で 何かがかき立てられる。
何かがあなたの内側で開きはじめる。
外側の花が内なる花に挑みかけ、 内なる花がそれに感応する。
これがこころハートの応答する力リスポンシビリティだ。
つまらないものにこころを奪われていなければ、 こころハートがこの内なるダ
ンスを踊れるだけのエネルギー、 有り余るエネルギーを蓄えることができる。
エネルギーが 思考に消費されると、あなたの感情は飢えてしまう。
思考は寄生虫だ。
思考は、本来なら感情に用いられるはずのエネルギーを食べて生きている。
思考はエネルギーを搾取している。
思考はあなたの実存に起こる漏電のようなものだ。
思考はあなたのエネルギーを抜き取ってしまう。
そうなったら、あなたは穴だらけの壷のようになる―― 何も溜めておけないの
で、あなたはいつまでたっても貧しいままだ。
思考がないと、 エネルギーが内部に蓄えられて、 そのレベルがどんどん高く
なってゆく。
あなたは一種の飽和状態になる。
その満たされた状態 において、こころハートが感応する。
そうなったら生は詩になる。
そうなったら生は音楽になる。
そこではじめて、そこでようやく、みずからの 言葉を行為によって実証すると
いう奇蹟 を行なうことができるようになる。
そうなったら「君を愛しているよ」と言うだけでなく、 あなたの存在そのもの
が愛の証となる。
そうなったらあなたの言葉は無力なものではなく、 そのなかに魂を宿すように
なる。
あなたの言葉と行動が一致するとき、
あなたの言葉と行動がちぐはぐにならないとき、
あなたの言葉が誠実さで満たされるとき、
あなたが自分の言った通りのものになるとき
――そのような生のみが生きるに値する。
それまでは、あなたは一種の分裂した状態で生きている。
口ではあることを言いながら、別のことをやってしまう。
あなたの精神は分裂したままだ。
言葉と行動がもはや分離せず、
同じ現象の二つの側面になる地点に到達しないかぎり、
人類はみな精神分裂症にかかっている。
あなたは感じる通りのことを言葉にし、
言葉通りのことを感じるようにならなければいけない。
言葉通りのことを行い、
行なう通りのことを言葉にするように。
そうなれば、あなたを観察するだけで、
あなたの実存がまがいものでないことが見えてくる。
静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、
酔ったような、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
静けさのなかで――すばらしい確認のしるしだ――
精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ……。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
普段の生活では、喜びを感じるときには何らかの理由がある。
美しい女性に会ったので嬉しいとか、前から欲しかった金が手に入ったので嬉
しいとか、きれいな庭のある家を買ったので嬉しいとか――だが、こういった
喜びは長続きしない。
それはつかのまのものだ。それが途切れずつつ゛くということはない。
聞いた話だが……
ムラ・ナスルディンが、家の前で、ひどく悲しげな顔をして坐っていた。
隣人が尋ねた。
「ムラ、どうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだい?」
するとムラは言った。
「というのもね、十五日前に叔父が死んで、五万ルピー残してくれたんだ」
隣人は言った。
「それで悲しむなんておかしいよ。喜べばいいじゃないか」
ムラは言った。
「とにかくまず話を最後まで聞けよ。七日前にまた別の叔父が死んで、七千ル
ピー残してくれたんだ。でも、それっきりで、もう何も起こらないんだ……誰
も死なないし、何も起こらない。
一週間が過ぎていって、僕は本当に悲しいよ」
何かによって引き起こされた喜びは消えてゆく。それはつかのまのものであり
、すぐにあなたは深い悲しみのなかに取り残される。
喜びはすべてあなたを深い悲しみのなかに残してゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

414鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 00:00:33 ID:1d4drIFg0
>>412 そうかもしれん。
 お釈迦様の伝統があるから法を説くかもしれん。
 大乗の禅の坊主にも悟ってから法を説かなかったものもいるのじゃ。
 自由なのじゃ。

陽気が全身に満ちれば常に体は軽く精神も晴れ晴れとしているというのじゃ。
その状態を目指して気を体内に巡らせる行もあるのじゃ。
宗派によっては気を巡らせずひたすら丹田に気を蓄積するものもあるのじゃ。
行き着くところは同じなのじゃ。

415避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 04:04:50 ID:LC3de7YgO
>>413
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

だが、確認のしるしとなる別の種類の喜びがある。
まったく何の理由もないのに、あなたは突然喜びに包まれる。
その理由をつきとめることはできない。
誰かに「何を喜んでいるのです?」
と問われても、答えることができない。
私は自分がなぜ喜びに包まれているのか答えることができない。
理由はない。
ただ喜びに包まれているのだ。
さあ、こ の 種の喜びは乱されることがない。
何が起ころうと、それはつつ゛いてゆく。
それは昼も夜もそこにある。
あなたは若者かもしれない、年老いているかもしれない、 元気かもしれない、
死を迎えつつあるかもしれない―― が、それはつねにそこにある。
周辺が変化しても持続する、不変の喜びを見いだしたら、 あなたは確実にブッ
ダの境地に近つ゛いている。
これが確認のしるしだ。
来ては去るような喜びに大した価値はない。
それは世俗的な現象だ。
喜びが持続するなら、途切れることなく持続するなら―― まるで陶酔したよう
な、麻薬なしで酔いしれたような気分になるなら、 まるで風呂あがりのような
、朝露のようにすがすがしく、春の若葉の ようにさわやかで、池の蓮のように
みずみずしい気分になるなら、 まるで湯を浴びたばかりのような気分になるな
ら―― そのすがすがしい気分がどこまでも途切れずにつつ゛く なら、あなたは
紛れもなくわが家に近つ゛いている。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
今や、あなたの全身は調和のとれた統一体として働いている。
あなたの全身は調和がとれている。
あなたはもはや分裂していない。
あなたはもはや断片ではない。
これが個性化だ。
あなたはひとつの全体としてまとまり、
部分はすべて共振しながらともに働いている。
どの部分も実存というオーケストラの一員を演じている。
調和からはずれているものは何もない。
肉体、心、魂、最も低いものと最も高いもの、
セックスからサマーディまで……すべてがこのうえもない調和のうちに、
一糸乱れずまとまりながら働いている。
(p368)

このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
さらに頭脳マインドだけではなく、すべての窓、すべての感覚が静まると……
頭脳は内なる感覚器官だ。
まずそれを静めなければならない。
さらに頭脳に餌を与える五感、目や耳や鼻などすべての感覚器官がある。
それらは外界から絶えず情報を送り込み、
それを内側に、頭脳に蓄えつつ゛けてゆく。
その感覚器官も静まり、何も持ち込まず、物音ひとつ立てず、受動的になっているとき……
目は眺めているが、何も持ち込もうとしない。
耳は聞いているが、聞こえるものに執着しようとしない。
舌は味わっているが、味をむさぼろうとしない。
あなたの感覚はすべて静まり、銀色の月が中天にかかっている……
銀色の月とは女性原理の象徴だ。
銀色の月が中天にかかり、すべての感覚が鳴りを潜め、頭脳が受動的になり、
静まるとき、あなたは受け身で待つという女性原理を達成している。
あなたは子宮になっている。
満月の夜だ。
すべてが涼しく、
静かで、ひそやかだ。
何も身動きしない。
その喜びは果てしない!

この大地は明るい光に満ちた世界のように感じられてくる。
それは内側だけで感じられるものではない。
それが内側にあるときには、ただちに外側にも感じられるようになる――全世
界が明るい光に満ちている。

これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
あなたは透きとおり、澄みわたり、
清らかになり、知覚力が冴えてゆく。
女性原理は受動的な原理なので清澄さをもたらす。
それは休息を、完全な休息をもたらす。
あなたは何もせずにただそこにいる。
すべてが冴えわたり、一片の雲もない。
あなたは実在をどこまでも見通すことができる。
内側にも静謐せいひつさと喜びがあり、
外側にも静謐さと喜びがある。

これは黄金の華が開いてゆくしるしである。
最初は蕾つぼみがふくらみかけただけだったが、
今や花が開きつつある。さらなる一歩が踏み出された。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
沈黙と喜びが深まってゆくにつれ、あなたはみずからの死が存在しないことを
感じはじめる。
死に際し、死んでゆくのはペルソナ、人格だけであり、本質はけっして死ぬこ
とがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

416避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 19:40:29 ID:LC3de7YgO
>>415
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

みずからの内に宿るもの、けっして変わらぬもの――
どんな状況のもとにあってもつつ゛いてゆく喜び――
を知るとき、はじめてあなたはみずからの内に不死なるものがあることを、永
遠なるものがあることを知る。
その瞬間、力がみなぎり、底力が湧きあがり、恐怖が消える。
そうなったら人は恐れない。
そうなったら震えはとまる。
あなたははじめて恐怖をもたずに実在をのぞき込んでいる。
そうでないかぎり、世に言ういわゆる神々は恐怖の産物にすぎない。
人はみずからを慰めるために神々をつくりだした。
人は恐怖から身を守る後ろ盾として、防御として、
鎧よろいとして神々をつくりだした。
あなたは恐れている。
あなたには誰かすがりつく相手が必要だ。
それらは偽りの神々だ。
それらは本当の神々ではない。
恐怖に駆られながら、どうして真の神を見いだすことができるだろう?
いわゆる宗教家たちは神を恐れ敬う人々として知られている。
真の宗教家には恐怖がない――彼は世間も神も恐れない。
恐れのない境地のなかで、まったく異なる神のヴィジョンが生まれてくる。
(p370)

人々が不快に感じるものごとに出会っても、精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
もう曇ることはない。あなたの精神を打ちひしいだり、澄んだ意識を歪めるこ
とのできるものは何もないからだ。
あなたはつまらないことに興味を示し、本質的なことを忘れてしまっている。
浜辺で貝殻やきれいな石を集めているだけで、すぐそばにあるダイヤモンドの
ことなどすっかり忘れてしまっている。
あなたは死が奪い去ってゆくがらくたを集めている。
私は死によっても奪われることのない宝物を手に入れるよう呼びかけている。
ラザロよ!墓から出てきなさい!
そして、
聴く者は弟子になる。
聴く者はサニヤシンになる。
聴く者は内なる世界へと動きはじめる。
彼の旅は他の人々の旅とはまったく違うものになる。
彼は世間で暮らしているかもしれないが、もはやそこにはいない。
彼の関心はまったく別のところにある。
赤い血はミルクに変わり……
マハーヴィーラの有名な寓話が伝えようとしているのはこのことだ。
それによると、蛇が、とても危険な蛇がマハーヴィーラに襲いかかり、
彼の足を噛んだが、血の代わりにミルクが流れ出たという。
ところがジャイナ教徒たちはそれを文字通りに解釈し、
物笑いの種になっている。
それは文字通りに解釈すべきものではない。
それは寓話だ。
赤い血は暴力を表し、ミルクは愛を表している。
子供が生まれると、母親の乳房はすぐにミルクでいっぱいになる――生まれた
ばかりの子供への愛と思いやりから。
突然、彼女の血はミルクに変わりはじめる。
みるみるうちに母親の生化学のなかで奇蹟が起こりはじめる。
今まで彼女は女にすぎなかったが、今では母親になっている。
子供の誕生とともに、二人の人間が生まれる――
一方には子供が、そしてもう一方には母親が。
母親の生化学はふつうの女性とは違っている。
奇蹟が起こっている。
愛ゆえに、血はミルクに変わりはじめる。
それは象徴的だ。
血は暴力であり、ミルクは愛だ。
人がこの境地に達すると、暴力はすべて影を潜める。
彼は愛そのものであり、愛より他の何ものでもない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

417鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/26(火) 22:02:18 ID:1d4drIFg0
肉体や人格は死ぬが本質は死なないというのじゃ。
その本質とは全てのものの本質と同じなのじゃ。
全ては同じ本質を持ち時とともに変るものではないのじゃ。
それを実感すれば全てに戻るのじゃ。

418避難民のマジレスさん:2019/03/26(火) 22:25:22 ID:LC3de7YgO
>>416
41黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華4
より抜粋

もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
そして見える者たち、見る目をそなえた者たちは、ブッダの身体のなかに、も
ろい肉体ではなく純金やダイヤモンドを見ることができる。
弟子たちが話すことを他の人々が信じないのはそのためだ。
他の人々は、弟子たちは催眠術にかけられていると考える。
なぜなら、弟子たちは他人には見えないものを、身近な弟子たちにしか感知で
きないものを見はじめるからだ。
彼らはふつうの肉体のなかに別のものを、他の身体、黄金やダイヤモンドでで
きた身体、永遠の身体を見はじめる。
この肉の身体は時間の身体だ。
その背後には永遠の身体が隠されている……
だが、それを見るには目をもたなければならない……
そして愛と明け渡しだけが、あなたに目を授けることができる。

これは黄金の華が結晶したしるしである。
だが、この内なる旅に入ってゆくと、人はみずからの身体を黄金やダイヤモン
ドとして見ることができるようになる。
そうなったら、黄金の華が結晶したと確信してもいい。
最初、それはふくらんでゆく蕾つぼみにすぎなかったが、しだいに花が開いて
ゆき、今や結晶している。

光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、 やがてその上にブッダが現れてくる。
今やブッダはそれほど遠くないことを、夜明けが近つ゛いてきていることを、
夜が明けつつあることを確信することができる。
光の輝きが結晶化するにつれ、台座が現れ……
この黄金やダイヤモンドのヴィジョン、永遠の身体のヴィジョンという台座の
上に……やがてブッダが現れてくる。
この地点を過ぎれば、為しうることは何もない。
後はただ待たなければならない。
何もせず、静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生えてくる。

やがて
――春が訪れると――

その上にブッダが現れる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
東洋人はそれを「ブッダ」と呼び、
西洋人はそれを「キリスト」と呼んできた
――それは同じ本質を指している。

ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
みずからの内側に光輝く台座、結晶化した光が見え、 その台座の上にブッダが
現れたら――黄金の華が開き、 花を咲かせ、その黄金の蓮の上にブッダが現れ
てきたら、 あなたはわが家に帰り着いている。
これが究極のゴールだ。
これを見いださなければならない。
これを見いだすことはできる。
これはあなたが生まれながらにしてもっている権利だ。
取り逃がすとしたら、誰のせいでもない、 その責任はひとえにあなたにある。
 す べ て を賭けなさい。
 だが、逃してはならない!
 す べ て を犠牲にするがいい。
 だが、逃してはならない!
(´・(ェ)・`)
(おわり)

419鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/27(水) 22:34:59 ID:1d4drIFg0
金は千年たっても輝きを失わないから永遠の象徴なのじゃ。
修行を終えた者は黄金の肉体となるというのも不死の境地に入った喩えなのじゃ。
死ぬ者が不死の境地に入ることは卑金属が金になると同じ錬金術なのじゃ。
それが黄金の華の秘密なのじゃ。

420避難民のマジレスさん:2019/03/27(水) 22:57:50 ID:LC3de7YgO
>>418
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験
より抜粋

呂祖師は言った。

ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。

ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。

あるいは、坐って瞑想していると、肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなる、上に引きあげられるような感じがする

これは「精神が天に帰り、その頂点に触れる」と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
もしこういったことを体験したなら、それはよい素質のしるしである。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で 確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。

呂祖師は言った。

光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
古人は 「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」と言っている。
正しい思考によって事を適切に処置してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。

朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、 一、二時間瞑想することができれ
ば、さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響く
ように対処することができれば、そして それを途切れることなくつつ゛けるこ
とができれば、 二、三ヶ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為を
認めてくれるであろう。

ある美しい朝のことだった。
今朝と同じような朝だったにちがいない。
涼しい風が吹き、濡れた大地の甘い香りが一面に立ちこめていた。
鳥たちが歌い、太陽が地平線から顔を出そうとしていた。
朝露が草葉の上で真珠のように輝いていた。
朝はいつも美しい。
必要なのはそれを見る目だけだ。
鳥たちがそこにいて、毎朝のように歌っている。
だが、誰がそれを聴いているだろう?
樹々は花を咲かせているが、誰がその美を味わっているだろう?
美的な感覚をそなえたこころハートが欠け、計算高い頭マインドだけが働いて
いる。
あなたが醜い世界に住んでいるのはそのためだ。
私はあなたがたに遠い昔の物語を話そうとしている。
ゴータマ仏陀のサニヤシンたちがマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた……
朝ほど瞑想にふさわしい時はない。
一晩中休息を取ったおかげで、
あなたはみずからの実存のすぐ近くにいる。
他のどの時間よりも、早朝ほど意識して
中心に入ってゆきやすい時はない――
あなたは一晩中その中心にいて、たった今そこを後にしてきたばかりだからだ。
千とひとつのものごとが立ち現れる世界はまだはじまっていない。
あなたは事物に向かい、外界に出てゆく途上にあるが、
内なる中心はすぐそこに、ほんの間近にある。
ちょっと振り返れば、そこにあるものを
――真理、神、光明を見ることができる。
夢も見ないほど深い眠りのなかで訪れていたものを見ることが
……だが、あなたはそのときは無意識だった。
深い眠りには若返らせる力がある。
あなたは実存の中核に入ってゆくからだ――
(´・(ェ)・`)
(つづく)

421鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/28(木) 22:36:55 ID:1d4drIFg0
虚室生白とか呼ばれる現象なのじゃ。
元々荘子の言葉なのじゃ。
サマーディに入った状態なのじゃ。
自己を忘れ、意識が拡大していく過程なのじゃ。

422避難民のマジレスさん:2019/03/28(木) 23:52:48 ID:LC3de7YgO
>>420
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

無意識ではあるが、入ってゆくことに変わりはない。
外界での疲れはすべて取り去られ、傷はすべて癒され、
ほこりはすべて消え失せる。
あなたは湯を浴びてきた。
みずからの実存のなかに深く身を浸していた。
パタンジャリが「深い、夢のない眠りはサマーディとよく似ている」
と言うのはそのためだ。
だが、よく似てはいるが、まったく同じではない。
どこが違うのだろう?
違いはごくわずか だとも言えるし、ひじょうに大きいとも言える。
が、そこにはこれだけの違いがある――つまり眠りのなかでは意識がないが 、
サマーディのなかでは意識がある。
だが、その空間は同じだ。
だから、朝、眠りから覚めたばかり のとき、あなたは中心のすぐそばにいる
…… 間もなく周辺があなたをつかまえ、乗っ取ってゆく。
あなたは仕事の世界に入ってゆかなければならない。
その外界の旅に出かける前に、 意識的に自分が誰であるかを見る ことができ
るように振り返ってみる―― まさにそれが瞑想というものだ。
だから、いつの時代にも、朝には、 大地が目覚め、鳥たちが目覚め、太陽が
目覚め、 大気全体に目覚めが満ちてゆく早朝には、 この状況を使うことができ
る。
あなたはこの目覚めの潮流に乗って、 油断なく目を見張り、醒めながら、み
ずからの 実存のなかに入ってゆくことができる。
そうすればあなたの生全体が変容を遂げる。
あなたに異なる方向感覚がそなわることで、 その日一日がそっくり変容を遂げ
る。
そうなったら街の雑踏マーケットプレイスに入ってゆきながら、 内なる中核と
依然として接触を保ちつつ゛けることができる。
そして、それは最も深遠な秘法、黄金の華の秘密だ。
……その朝、仏陀のサニヤシンたちはマンゴーの樹々の下で瞑想をしていた
…… あなたがたが私のまわりに集まってきているように、何千人もの人々が 仏
陀のまわりに集まってきていた。
瞑想の他に学ぶべきものはなかった。
ブッダたちは教えるのではなく、ただ分かち合うだけだ。
彼らは教義を授けるのではなく、まさしく実践法を授ける。
彼らは信条を授けるのではなく、まさしく信頼の味を味わわせる。
そして信頼をほんの一滴味わうだけで、生は変貌を遂げる。
覚醒した人と結びつくには、あなた の側でも少しは醒めるより他にすべはな
い。
なぜなら、似た者同士しか親しくなれないからだ。
ブッダとともにあるためには、日常生活で 求められるよりもいくらか多くの注
意深さが求められる。
日常生活では、あなたはロボットのように機械的にならなければいけない。
師のもとへ行くと、あなたは 機械的であることをやめ、自動的に反応するこ
とをやめ、 もう少し注意深くなり、ものを見つつ゛けるだけでなく、 みずから
の実存をも想起することを求められる。
……仏陀の弟子たちは瞑想をしていた……
こんなに美しい朝を取り逃がすわけにはゆかない。
鳥たちが朝の太陽を讃えているときには、 あなたも神を讃えなければならない。
樹々が風にそよいでいるときには、 あなたもこの永遠の舞ダンスに加わらな
ければならない。
あなたもお祝いをしなければならない。
新しい日がはじまる―― 過去を忘れ、過去を引きずらず、 新しく生まれ変わ
りなさい。
(p380)
……仏陀にはスブーティという名前の弟子がいた。
弟子たちの何人かは本当に稀な者たちだった。
スブーティは 覚者ブッダの境地の瀬戸際に立っていた希有な者たちのひとりだ
った。
あとわずか一歩で、彼はブッダになるところだった。
彼はわが家に帰りつつあった。
刻一刻とわが家に近つ゛きつつあった。
自我エゴが消え神が生まれる中心へと、 あなたが死んで全体が生まれる中心
へと どんどん近つ゛きつつあった。
中心に到ると、部分は全体のなかに消え、調和のとれた宇宙が生まれ、 あなた
はもはや死を恐れ身震いしている分離した存在ではなくなる。
そうなったら、あなたはこの<存在>の永遠の遊戯の一部になる。
スブーティはまさに瀬戸際にいた。
彼は仏陀の弟子のなかで 最 も 静かな者たちのひとりだった。
あまりに静かだったので、ほとんど存在していないかのようだった、 と経典は
伝えている。
彼がやって来ても、誰も注意を払わなかった。
彼が通り過ぎても、誰も彼が通り過ぎたことに気つ゛かなかった。
彼はじつに静かなそよ風のようだった…… ふつうあなたは 注目を浴びたがっ
ている。
注目されないと、あなたは傷ついてしまう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

423鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/29(金) 22:21:22 ID:1d4drIFg0
朝目覚めた時、一瞬だけ人は自分を忘れていると自覚できるのじゃ。
それは自然なサマーディともいえるのじゃ。
朝には智慧が浮かび、心も静かに鎮まっているのじゃ。
瞑想はその時を自分の意志で生み出せるようにする法なのじゃ。

424避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 02:31:40 ID:LC3de7YgO
>>422
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。

あなたは 注目を浴びたい。
注目をされたがっているのはいったい誰なのだろう?
自我エゴが注目を浴びたがっている。
自我は注目を浴びることで生きている。
誰にも相手にされなかったら――あなたがやって来ても誰も気つ゛かなかった
ら 、あなたが通り過ぎてもまるで相手にされず、誰も「おはよう、元気かい?」
と 声をかけなかったら――あなたは傷ついてしまう。
あなたはこのように考えはじ める。
「私は無視されている。私が誰であるかをあの連中に教えてやらなければ」
自我はつねに注目を浴びたがっている。 ……スブーティはとても静かだった。
注目を浴びたいという彼の欲望は消えてしまっていた。
注目を浴びたいという欲望が消えたとたん、あなたの 実存からはいっさいの政
治が消える。
そうなったらあなたは宗教的になっている。
そうなったらあなたは自分が何者でもないことにすっかりくつろいでいる。
そうなったらあなたはまったく異なった生を生きる。
そうなったらあなたはとても静かに生きるので、 どんな物音も立てず、さざ波
ひとつ立てず、一度も 去来したことがないかのように去来してゆく。
スブーティはいながらにしていなかった…… 実のところ、真 に 存在する瞬間
、あなたは 自我エゴという観念をそっくり落としてしまう。
人々が自我という観念をもち歩いて いるのは、彼らが存在していないからだ

この逆説を理解しようとしてみなさい。
存在していない者たちには自負心がある。
彼らは何がなんでも自負心を もたざるをえない。
彼らは世間に向かって自分を証明しなければならず、 絶えず演技をしつつ゛け
ている。
演技をしなければ、自分が誰でもない者に なってしまうことを知っているから
だ。
彼らは演技をし、声を張りあげ、 騒ぎ立て、他人の目を引きつけなければなら
ない。
アドルフ・ヒトラー、ジンギス・カーン、チムールや歴代の無数の愚かな政治
家 たち、彼らがしてきたことは、人
々の注意をもっともっと自分に引きつけること だった。
こういった連中は真に存在していない人々だ。
存在している人々はみずからの実存に深く満足している。
他人が注目するかどうかなど誰がかまうだろう?
彼らは自分だけで満ち足りている。
自分自身で充分に満足している。
だから、これはパラドックスだ。
存在していない人間は、 自分を大きく見せようと努力し、特別な誰かであるふ
りをする。
存在している人間はふりをせず、 自惚れず、とても静かな存在になる。
……彼はあたかもいないかのように存在していた……
そして不在のなかではじめて真の臨在プレゼンスが現れてくる。
人物が消え失せて、臨在が現れてくる。
……彼はゆっくりと溶けてゆき、人物として消え去った……
それが起こるとき、その奇蹟が起こるとき、 そのまさに不在そのものが光輝く
臨在となる。
……スブーティも樹の下に坐っていたが、瞑想すらもしていなかった。
他の者たちは瞑想をしていたが、彼はただ何もせずそこに坐っていた。
それは最も高度な瞑想の姿だった…… 瞑想を す る のは、あくまで初心者に
すぎない。
初心者は瞑想をしなければならない。
だが、瞑想を理解した者は す る という見地でとらえることさえできない。
何かをしたとたん、あなたが揺れ動くからだ。
何かをしたとたん、あなたは緊張する。
何かをしたとたん、自我が再び裏口からしのび込む ――行為とともに行為する
者が現れてくるからだ。
瞑想とは無為の境地だ。
確かに最初のうちは や ら なければならない。
だが、ゆっくりと瞑想が深まるにつれ、理解が生まれ、行為は消えてゆく。
そうなったら 瞑想は行為ではなく、実存のありようになっている。
行為は所有の世界の一部だ。
行為は所有のもうひとつの側面だ。
もちたければ、 行為しなければならない。
もちたければ、 行為せざるをえない。
数限りない人々が行為と所有の世界にとどまっている。
これら二つの彼方にもうひとつの世界 ――存在ビーイングの世界がある。
そこではあなたは何ももたず、行為の主体でもない。
すべては完璧に静かだ。
すべては完全に受動的であり、さざ波ひとつ立っていない。
……だから彼は瞑想をしていたのではない、いいかね。
彼は何もせずにただ坐っていただけだ。
すると突然、彼のまわりに花が舞い落ちはじめた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

425避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 09:56:03 ID:LC3de7YgO
>>424
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

それはふつうの花ではなかった。
この世の花ではなかった。
地上の花ではなかった。
それらは樹々から落ちてくる のではなく、空から舞い降りてきた。
いずこからともなく、忽然と現れてきた。
彼はこれほど美しく、鮮やかで、 かぐわしい花を見たことがなかった。
それらは彼方の花、黄金の華だった。
彼が畏敬の念に打たれ、驚嘆したのも当然だ。
すると神々が 「あなたの空くうについての講話は何とすばらしいのでしょう」
とささやきかけてくる声が聞こえてきた。
彼はすっかり当惑してしまった。
「空についての講話ですって? 私は空について話してなどいません」
とスブーティは言った。
「あなたは空について話さなかったし、 私たちは空について聴きませんでし
た」と神々は応えた。
「それが真の空なのです」
そして花がスブーティの上に雨のように降り注いだ。
これは私がこれまでに出会った最も美しい物語のひとつだ。
そこには深遠な意味が隠されている。
あなたが沈黙していれば、完全に沈黙していれば、 <存在>があなたの上に降り
注ぎはじめる。
祝福が雨のように降り注いでくる。
あなたが沈黙していれば、 あなたが瞑想の状態にあり、 何もせずただ存在し
ているなら、 全存在が、その恩寵のすべて、その 美と祝福のすべてをあなたの
上に結集させる。
これがイエスが「至福の境地」と呼んでいる状態だ。
はじめてあなたは<存在>の荘厳な輝きに気つ゛くようになる。
そうなったら、一瞬一瞬が永遠であり、息をする ことでさえすばらしい喜び、
すばらしい祝祭になる。
あなたが消えた瞬間、苦しみも消える。
苦しみは自我の影だ。
が、祝福は自然な現象であり、 それはあなたがからっぽになった とたんに、
ひとりでに起こってくる。
全存在が押し寄せ、爆発する。
ルートヴィッヒ・ヴィットゲンシュタインは「神秘的なのは 世界の成り立ちで
はなく、それが存在するということだ」と言っている。
世界が存在すること自体が神秘だ。
どこか他の場所に出かけてゆく必要はない。
神秘は隠されていない。
神秘は至るところにある。
世界が存在すること自体が神秘だ!
神秘を探すために深く掘り下げる必要はない。
神秘は至るところにある。
深みにだけでなく表面にもある。
ただそれを感じるこころハートがあればいい。
ただいつでも呼応できるように開いている実存があればいい。
ただ油断なく醒めていれば――努力や緊張をいっさいともなわずに 油断なく醒
めていればいい。
必要なのは瞑想の状態だけだ。
それがあれば、<存在>の恩恵が雨のように降り注ぎはじめる。
(p384)
さて、経文だ――
呂祖師は言った。
ところで、点検できる確証の体験が三つある。
その第一は、瞑想の状態に入ったときに神々が谷間にいるという体験である。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音はすべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。
これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
呂祖は、三つの確かな手応えのあるしるしについて語っている。
彼は最初のしるしを「神々が谷間にいる」と表現している。
歩んでゆく者たちは――あなたがたはみな瞑想に向かって歩んでいる――この
奇妙だがとてつもなく美しい空間に出くわすことになる。
瞑想があなたの内側で結晶しはじめた最初のしるしは「神々が谷間にいる」と
述べられている体験だ。
この隠喩メタファーは何を意味しているのだろう?
それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると、たちまち全存在が谷間となり
、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
瞑想はあなたを上昇させる――物理的にではなく、霊的にだ。
その現象が起こるときにははっきりわかる。
それらがしるしになる。
瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音のあいだ
に大きな距離が生まれているのに気つ゛く。
あなたは雑踏マーケットプレイスの只なかに坐っているかもしれないが、突然
、自分と騒音のあいだにすきまが生まれているのに気つ゛く。
ほんの一瞬前には、これらの騒音はほとんどあなたと一体化していた。
あなたはそのなかにあった。
今やあなたはそれらから遠ざかりつつある。
あなたの身体は前と同じようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

426避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 10:01:31 ID:LC3de7YgO
>>425
>「神々が谷間にいる」・・・それは瞑想があなたのなかで起こりはじめると
、たちまち全存在が谷間となり、あなたは丘の頂上に立つということだ。
あなたは上昇しはじめる。
全世界が遥か遠くに見下ろせる深い谷間となり、あなたは日の照る丘の上に坐
っている。
・・・・瞑想しながら内側に入ってゆくと、突然、あなたは自分と周囲の騒音
のあいだに大きな距離が生まれているのに気つ゛く。

これが、虚室生白 であり、「神々が谷間にいる」の意味でありますね。
(´・(∀)・`)つ

427鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/30(土) 22:54:44 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、サマーディに入り、身体から意識が拡大してきている状態なのじゃ。
自分が無く、光だけがあると感じるのじゃ。
いくつも意識が在るように感じるのじゃ。
どこまでも意識が大きくなっているから上に跳んでいくように感じるのじゃ。
わかっていれば怖くないのじゃ。

428避難民のマジレスさん:2019/03/30(土) 23:42:29 ID:LC3de7YgO
>>425
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

山に出かける必要はない――
これは内側にある本当の山を見いだす方法だ。
これは内側にあるヒマラヤを見いだす方法だ。
あなたは深い静けさのなかへと入ってゆく。
すると、すぐそばで聞こえていた騒音が――そこにはひどい混乱があった――
にわかに遠ざかり、後退してゆく。
外の世界はすべてこれまで通りで、何ひとつ変わっていない。
あなたは瞑想をはじめた同じ場所に坐っている。が、瞑想が深まってゆくにつ
れて、それが感じられてくる。
外界の事物とのあいだに距離が生じてくるのが感じられる。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ……まるで
ふいに世界があなたから遠ざかってしまったかのようだ。
あるいはあなたが世界から遠ざかってしまったかのようだ。
だが、ひとつひとつの思考はきわめてはっきりとしている。
外側で語られている言葉はすべてきわめてはっきりしている。
実のところ、かつてなかったほどはっきりしている。
これが瞑想の不思議な働きだ。
あなたは無意識になってゆくのではない。というのも、無意識のときにも騒音
は消えてゆくからだ。
例えば、クロロホルムを嗅がされれば、あなたはこれと同じ現象が起こってゆ
くのを感じるだろう。
騒音がどんどん遠くへ遠くへ遠ざかってゆき……やがて消えてゆく。が、あな
たは無意識になってしまっている。
何ひとつはっきりと聞くことはできない。
瞑想のなかでもまったく同じことが起こるが、違いがある――騒音がどんどん
遠ざかってゆくが、ひとつひとつの音がひじょうにはっきり聞こえてくる。
かつてなかったほどはっきりと聞こえる。
それは目撃者が生まれてきているからだ。
最初はあなたも騒音の一部と化していた。
あなたは騒音のなかに失われていた。
今やあなたは目撃者、観察者であり、あまりに静かなので、あらゆるものをあ
りありと鮮明に見ることができる。騒音は遠くにあるが、かつてなかったほど
鮮明にはっきり聞こえてくる。
瞑想しながら音楽を聴いていると、これが起こる。
まず音楽が遠ざかってゆくのが感じられる。
つつ゛いて、それと同時に、ひとつひとつの音がかつてなかったほど鮮明には
っきり聞こえてくる。
以前は、音と音が混ざり合い、互いに重なり合っていた。
今や、ひとつひとつの音がみな原子のようにきわだっている。
ひとつひとつの音が分離している。
人々の話し声が数百歩も離れたところから響いてくるように聞こえ、 そのひと
つひとつがひじょうに鮮明である。
だが、その音は すべて谷間でこだまが反響するように聞こえる。

そして、三つめのことが感じられる。
音が直接ではなく、間接的に聞こえてくる。
まるで音そのものではなく、こだまのように。
音はだんだん希薄になり、その実体が失われる。
音はだんだん実質をなくし、その物質性が消える。
それらはもはや重くなく、軽い。
その重力のなさを感じることができる――それはこだまのようだ。全存在がこだまのようになる。
ヒンドゥー教の神秘家たちが世界を「マーヤ」――まぼろし――と呼ぶのはそ
のためだ。
「まぼろし」とは非現実という意味ではなく、たんに影やこだまに似ていると
いうことだ。
それは実在しないという意味ではなく、たんに夢に似ているということだ。
影のようであり、夢のようであり、こだまのようだ――そのように感じられる。
それらが現実だとは感じられない。
全存在が夢と化し、ひじょうに鮮明にくっきりと見えるのは、あなたが目を見
張っているからだ。
夢まぼろしのようなのは、あなたが目を見張っているからだ。
最初、あなたは夢のなかに我を忘れていた ――注意を怠り、これが現実だと考
えていた。
あなたは自分の想念マインドに同一化していた。
今はもう想念に同一化することなく、 分離した実体があなたのなかに生まれ
ている ――それが注意深く見守る状態、サクシだ。
いつも聞くことができるのだが、自分自身の声はけっして聞こえない。

そして四つめのことが感じられる。
あなたはまわりにあるすべてのものを聞くことができる――人々が話したり、
歩いたりしている。子供たちが笑っている。誰かが泣いている。
鳥が鳴き、車が通り過ぎる。
飛行機や汽車……あなたはあらゆる音を聞くことができる。
が、ただひとつ例外がある――あなたは自分自身の声を聞くことができない。
あなたは完全に消えてしまっている。
あなたは空からであり、ひとつのスブーティになりつつある。
あなたはもぬけのからだ。
あなたはひとつの実体として自分自身を感じることができない。
あらゆる騒音がそこにあるのに、あなたの内なる騒音だけは消えている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

429避難民のマジレスさん:2019/03/31(日) 07:23:45 ID:LC3de7YgO
>>428
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ふつうは外界よりも内界のほうが騒々しい。
本当の混乱はあなたの内側にある。
本当の狂気はそこにある。
そして、外側の狂気と内側の狂気が出会うとき、地獄が生み出される。
外側の狂気はつつ゛いてゆく。
それはあなたがつくりだしたわけではないから、消し去ることはできないが、
内なる狂気は簡単に消し去ることができる。
それはあなたの手の内にある。
内なる狂気が消えてしまえば、
外なる狂気は実体を失う。
それは現実感をすっかり失って、まぼろしになる。
自分の古い声は見つからない。
内側に思考が湧いてこないので、音がない。
これが「神々が谷間にいる」と呼ばれる体験だ。
あなたはからっぽになっている。
あらゆるものが谷の底深くに沈んでゆき、
聞こえてくるのはこだまだけだ。
そして、こだまが聞こえてきても、
あなたはけっして影響を受けることがない。

先日、狂った男がアヌラーダを強姦しようとした。男は強姦未遂でつかまった。
私は、彼女がその事件に影響されたかどうか確かめようとアヌラーダを呼んだ。
ひじょうに嬉しいことに、
彼女はまったく影響されていなかった。
事件はまったく尾を引いていなかった。
瞑想のなかへと成長することの美しさがそこにある。
たとえ殺されても、あなたは影響を受けないままでいる。
さあ、彼女を強姦しようとするのは残忍なことだ。
ひとりのインド人が強姦しようとした。
これがインドの真の姿であることをモラジ・デサイに知らせてやろう。
そして事件はこれ一件だけではない。
それはありふれた出来事になりつつある。
私のサニヤシンが外を歩くのはひじょうに危なくなっている。
この醜いインドは私のインドではない。
この醜いインドはモラジ・デサイやシャラン・シンやアドヴァニやその一党に
属している。
私はこの醜いインドとはまったく関係がない。
だが、もうひとつのインドがある。
覚者ブッダたちのインド、永遠のインドだ。
私はその一部だ。あなたがたはその一部だ。
実のところ、瞑想が起こっている場所ならどこでも、その人はこの永遠のイン
ドの一部になる。
その永遠のインドは地理的なものではなく、霊的な空間だ。
その永遠のインドの一部になることがサニヤシンになることだ。
私は嬉しかった。
このうえもなく嬉しかった。
アヌラーダを見ると、彼女はまったく影響されていないし、恐怖のかけらすら
なく、何もなかった――まるで何事もなかったかのように、まるでその企ては
夢のなかで行なわれたかのように。
人はこのようにしてゆっくり瞑想のなかへ成長してゆく。
あらゆるものが実体を失ってゆく。
人はあらゆるものを見ることができる。
彼女は応戦した。
彼女は勇気があり、どうどうとしていた。
彼女は為すべきことはすべてやった。
彼女は屈服しなかった――が、内なる意識は影響を受けていなかった。

これが「神々が谷間にいる」といわれる体験である。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるもの
がすべて明るく輝き、 まるで雲のなかにいるかのように感じられる。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
さあ、第二のしるしは「からっぽの部屋が明るく輝く」と呼ばれている。
からっぽにならないかぎり、あなたは暗いままだ、暗闇のままだ。
「からっぽの部屋が明るく輝く」――
あなたが完全にからっぽであり、
あなたの内側に誰もいないとき、
光が現れる。
自我エゴの存在が闇をつくりだす。
暗闇と自我は同じ意味だ。
無我と光は同じ意味だ。
だから瞑想の技法はすべてみな、どこを目指そうとも、最終的には、あなたの
内なる実存であるこのからっぽの部屋に向かう。
沈黙の空間だけが残され、あなたはその空間に、光源をもたない大いなる光が
現れるのを見る。
それは太陽が昇るときに見える光のようではない。
太陽からやって来る光は永遠のものではありえないからだ。
夜になればそれは再び消え失せる。
またそれは燃料を必要とする光のようではない。
なぜなら、燃料がつきるとその光は消えてしまうからだ。
この光にはひじょうに神秘的な性質がある。
それには源がなく、原因がない。
それは引き起こされるものではない。
それゆえに、この光はひとたび現れると 存続し、けっして消えることがない。
実際、それはすでにそこにある。
それが見えるほどあなたがからっぽでないだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

430鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/31(日) 22:56:33 ID:1d4drIFg0
インドもなかなか物騒になっているというのじゃ。
時代の転換期なのじゃろう。
インドに目覚めたものが多いのは、病んでいるから医者が多いようなものとオショーも言っていたのじゃ。
しかし、お釈迦様やオショーも生んだインドは永遠の目覚めの光を世界に放っているのじゃ。

431避難民のマジレスさん:2019/04/01(月) 06:52:40 ID:LC3de7YgO
>>429
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そしてこの光が内側で成長しはじめると、 人が静かな状態になるとすぐに 次
のような体験が起こる。
あなたが沈黙して坐り、静かで、穏やかになり、 内も外も不動であるなら、た
だちに 目の光が燃えあがりはじめる。
突然、目から光が放たれているのに気つ゛く。
これはまだ科学が気つ゛いていない体験だ。
科学者は光が目に飛び込んでくると考えるが、その逆はけっして思いつかない。
光は外からやって来て、目に飛び込み、あなたのなかに入る。
これは物語の半分に過ぎない。
後の半分は神秘家と瞑想者だけが知っている。
光が入ってくる――これは一面にすぎない。
光が目から放たれるというもうひとつの側面がある。
そして 光が目から放射されはじめると、 目の光が燃えあがりはじめ、 眼前にあるものがすべて明るく輝く。
そうなったらこの存在全体が明るく輝く。
そうなったら樹々はかつてなかったほど青々 と繁り、その緑は光輝くような性
質を帯びてくる。
そうなったら薔薇はかつてなかったほど色鮮やかに見える。
薔薇は同じだし、樹々も同じだが、 あなたから放たれた何かが注ぎ込まれる
ことで、 今まで以上にはっきりと見える。
そうなったら小さなものごとがすばらしく美しくなる。
覚者ブッダの目にはただのきれいな石が、エリザベス女王に とってのコイヌー
ル・ダイヤモンドよりも美しく見えている。
エリザベス女王には世界最大のダイヤモンドであるコイヌールでさえ、 覚者の
目に映るふつうの石ほどにも美しく見えてはいない。
なぜだろう?
覚者の目は光を放つことができるからだ。
その光を浴びると、 ふつうの石がコイヌールになる。
ふつうの人々が覚者になる。
覚者にとっては、あらゆるものが仏性に満ちている。
「私が光明を得た日、全存在が光明を得た。 樹や山や川や岩――あらゆるもの
が光明を得た」 と仏陀が言ったのはそのためだ。
全存在がさらなる豊かさへと高められた。
それは、あなたが<存在>にどれだけ 多くのものを注ぎ込めるかにかかってい
る。
あなたが注いだ分だけが返ってくる。
何も注ぎ込まなければ何ひとつ返ってこない。
得るためにはまず注ぎ込まなければならない。
創造的な人々が非創造的な人々よりも 美や喜びをたくさん知っているのはそ
のためだ。
なぜなら、創造的な人々は<存在>に何かを注ぎ込んでいるからだ。
<存在>は応えてくれる……気前よく応えてくれる。
あなたの目はうつろだ――何も与えず、ひたすら養ってゆく。
ため込むばかりで、分かち合うことがない。
だから分かち合う力をもった目に出くわすと、 必ずそこにはとほうもない質の
違いが、 とほうもない美しさ、静けさ、力、潜在能力がある。
光をあなたに注ぎ込むことのできる目を見ること ができたら、あなたはこころ
の底から揺り動かされる。
だが、その光を見るのでさえ、今より もう少し注意深くならなければいけな
い。
太陽が昇り、夜が明けているのに、あなたはぐっすり眠っているかもしれない

だとしたら、あなたにとって太陽は昇っていないし、朝は来ていない。
あなたは暗い夜のなか、悪夢のなかをさまよっているのかもしれない。
あなたはもう少し醒めていなければならないのに、こうしたことが起こってい
る。
現代人の意識のなかで、この種の体験は幻覚剤サイケデリックスを通して わず
かながらも訪れた。
それは強いられたものであり、暴力的なものだ。
それは自然なものではなく、みずからの生化学反応を無理やりねじ伏せている

だが、その体験は起こり、たくさんの人々が薬物ドラッグを通して 瞑想にたど
り着いた。
それは薬物が、彼らが一度も自覚して いなかったことに気つ゛かせてくれたか
らだ。
ある薬物を取ると、世界が今よりもっと美しく見えてくる。
何の変哲もないものが並はずれたもののように見える。
何が起こっているのだろう?
その薬物は、内なる光があなたの目から事物の上に放たれるように強いている
―― だが、それは強いられた現象であり、危険だ。
薬物による幻覚体験が終わるたびに 、あなたは前よりももっと深い暗闇に落ち
てゆく。
そして薬物を長いあいだ 常用してきた人の目は ま っ た く うつろになってし
まう。
彼は目から光を放射してきたが、それをつくりだすすべを知らないからだ。
彼はもっと多くの光をつくりだすために、どうやって内なる光を巡らせたらよ
いかを 知らず、放射してばかりいる。
だから薬物を摂取する者は次第に目の活力、目の 若々しさを失ってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

432鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/01(月) 22:29:01 ID:1d4drIFg0
人が物を見ることができるのは自分の眼から光が出ているからという信仰が在るのじゃ。
光や気のエネルギーは人の体に入ってくるだけでなく出て行く道も在るのじゃ。
それは常に全てと循環しているのじゃ。
目覚めれば全てはそのような本質の光と気付くのじゃ。

433避難民のマジレスさん:2019/04/02(火) 04:35:26 ID:LC3de7YgO
>>431
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

彼の目はどんよりと曇った、暗い、ブラックホールになる。
それとまったく逆のことが瞑想を通して起こる。
あなたが静かになればなるほど、 さらにたくさんの光が生み出される―― そ
して、それは強要された現象ではない。
あなたがあまりに多くの光を蓄えているので、 それはあなたの目からあふれは
じめる。
それはただただあふれはじめる。
雲が水分でいっぱいになると 雨を降らさざるをえないように、 ありあまるほ
どもっているので あなたは分かち合わざるをえなくなる。
あなたが光に満ちていると、そこへ さらにたくさんの光が入り込込んできて
、 刻一刻と流れ込み、それが果てしなくつつ゛いて ゆく――今やあなたは分か
ち合うことができる。
あなたは樹々や岩や人々と分かち合うことができる。
あなたは天地万物に与えることができる。
これはひじょうに好ましいしるしだ。
だが、薬物ドラッグにだまされてはならない。
薬物によって得られるのは 偽りの体験、強要された体験にすぎず、そして強い
られた体験はすべて あなたの内なる生体環境エコロジー、あなたの内なる調和
にとって 破壊的であり、最後には、あなたは得るのではなく、失ってしまう。
ときおり次のような体験が起こることがある。
人が静かな状態になるとすぐに、 目の光が燃えあがりはじめ……
あなたはそれを体験するだろう!
あなたの目は炎のように燃えあがる。
そして目が燃えあがると、まるで事物がもはや三次元ではなく四次元になった
かのように、天地万物のすべてが新しい色合い、新しい深み、新しい次元を帯
びるようになる。
新しい次元――光輝く次元がつけ加わる。

目の光が燃えあがりはじめ、眼前にあるものがすべて明るく輝き、 まるで雲の
なかにいるかのように感じられる。
あたかも太陽に照らされて、
雲全体が燃えているかのようであり、
あなたは雲のなかにいて、その雲は
陽光を反射し火のように輝いている。
人はこの光の雲のなかで暮らすようになる。
人はそのなかで眠り、そのなかを歩き、そのなかで坐る。
この雲には切れ目がない。
この雲は霊光オーラとしてとらえられてきた。
見る目をそなえた人々は聖人の頭のまわりや、身体のまわりに光を見る。
精妙な霊光が彼らを取り巻いている。
今や科学でさえそれを認めつつある――特にロシアでは、キルリアン写真はき
わめて意義深い結論に達した。
そのひとつはあらゆるものが精妙な霊光に囲まれているというものだ――見る
目さえあればいい――
その人の状態が変わると霊光も変わる。
さあ、これは科学的な結論だ。
病気のときには、あなたの霊光も変わる。
それはくすんでいて、悲しげで、艶がない。
死が六か月以内に迫っていれば、あなたの霊光は消えてしまう。
そうなるとあなたの身体のまわりには光がなくなる。
あなたが幸せで、喜びにあふれ、充実し、満たされていると、霊光はどんどん
大きく広がり、どんどん明るくなってゆく。
もちろん、キルリアン写真の実験は覚者ブッダにはまだ行なわれたことがない。
それにソ連では、とりわけ現代では、仏陀のような人を探し出すのは容易なこ
とではない。
不幸なことだが、国中がまったく愚かな罠に陥ってしまっている。
国中が唯物主義の罠に陥っている。
これまで唯物主義がひとつの国を支配したことはなかった。
ソ連のようにひとつの国が唯物主義に条件つ゛けられたことはかつてなかった。
子どもたちは神も魂も存在せず、人間はただの肉体にすぎないと教え込まれる。
祈りのことなど、瞑想のことなど、いかにして静かになるかなど眼中にない。
イエスや仏陀やスブーティのような人に出くわしたら、キルリアン写真の技術
者は奇蹟を目の当たりにするだろう。
そうなったら彼らは最も純粋な光、最も涼しい光に出くわすだろう。
それは光であり、生命であり、愛だ。

目を開けて身体を探しても……
あなたの内側が光に満ち、目が火を放ち、全存在が新しい生命の炎と化してい
るその瞬間に、目を開いて身体を見つけようとしても見つからない。
こういった瞬間には物質は消滅する。
実際、現代物理学は「物質はいっさい存在しない。すべてはまぼろしだ」
と言っている。
あなたの身体はけっして固いものでできているのではない。
現代物理学は「奥深くでは、あなたの身体は電子でできている」と言う。
電子とは光の粒子、光の原子のことだ。
だからこの内なる火があかあかと燃えあがり、そこに現前しているときに、目
を開いても、自分の肉体を見つけることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

434鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/02(火) 22:59:37 ID:1d4drIFg0
西洋でも昔はエーテルというものが大気に満ちていると考えられていたのじゃ。
科学的な実験で否定されてしまったのじゃ。
しかし、エーテルがあるとしたほうが説明の付くことも多いのじゃ。
気もエーテルと同じく全てにあるものじゃ。
それは全てとつながるエネルギーなのじゃ。

435避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 07:11:52 ID:LC3de7YgO
>>433
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

身体がそこにないのではない。
それはそこにあるのだが、
これまで見てきたように
それを見ることはできない。
それは光の雲と化している。
あなたは霊光オーラを見ている。
光景が一変してしまっている。
これまで一度も見たことがないものが見え、
それまで見てきたものはすべて姿を消している。
それはあなたの透視力ヴィジョンによる。
霊的なものを見る透視力をそなえていないので、あなたは肉体、物質的なもの
しか見ることができない。
物質を見るには、何もいらない――知性もいらないし、
瞑想的な質もいらないし、祈りもいらない。
物質を見るのはひじょうに粗雑なことだ。
霊的なものを見るのはひじょうに精妙なことだ。
ひとたび霊的なものを見ることができれば、あなたは物質が消え失せるのを目
にすることができる。
その二つを同時に見ることはできない。
もう一度くり返そう。
ヒンドゥー教の神秘家たちがこの世界を「まぼろし」と読んだのはそのためだ。
つまり彼らは物質が存在していないことを見抜く地点にまで到達したのだ。
存在しているものはすべて神に他ならない。
ただ意識だけが存在している。
物質というのは錯覚にすぎない。
あなたが正しく見たことがないために、物質が立ち現れてくる。
それは 意 識 に他ならない。
例えば、私があなたを見るとき、私はあなたを物質ではなく意識として見ている。
あなたに触れるとき、私はあなたの身体に触れているのではなく、あなたの内
奥の中核に触れている。
あなたのエネルギーに触れている。
あなたの目をのぞき込むとき、私はあなたの肉眼をのぞき込んでいるのではな
く、 あなたの霊眼に触れようとしている。
それはそこにある。
あなたにとって、それはまだ存在していないけれど、 私にとってはそれはすで
に存在している。
あなたが私に耳を傾け、 分かち合われているものを理解しようとするなら、
じきにそれはあなたにとっても現実になるだろう。
神があるか、世界があるか、そのいずれかだ。
両者がともに見つかることはけっしてない。
世界を見ている者たちはけっして神を見ることがない。
そして神を見た者たち、彼らにとって世界は消え失せている。
"世界"というのはたんなる誤解にすぎなかった。
それは数を数えたり、算数をしていて計算間違いをするようなものだ。
二足す二を五にしてしまうと、ものごと全体がおかしくなってしまう。
もとにもどって誤りを見つけだし、それを正せば、 二足す二は再び四となり、
ものごと全体が変わる。
それとまったく同じように、物質というのは目の錯覚だ。
それはヒンドゥー教の神秘家たちが言っていることとそっくりだ。
暗闇のなかで縄を見ると、あなたはそれを蛇だと思い込んでしまう。
蛇だと思い込んだため、あなたは駆けだしてしまう。
心臓はドキドキし、息は切れ、震えている。
涼しい夜だというのに、あなたは汗をかいている。
あなたは心臓発作さえ起こしかねない。
まったく何の理由もないのに!
朝になれば、それが縄にすぎなかったことがわかる。
これはひじょうに馬鹿げたことだ。

私はあるとき友人とともにある家に泊まったことがある。
その家にはハツカネズミ やドブネズミがぞろぞろいた。
その夜のこと、私たちが寝ているあいだにネズミが 友人のベッドに入り込んだ
にちがいない。
ネズミが彼を、その足を噛もうとした ところで、彼は目を覚ました。
彼はベッドから飛び出して、大きな悲鳴をあげた。
ネズミはきっと逃げたのだろう。
何の害もなかった――噛まれる寸前ではあったけれど 。
だが、彼はとても心配した。
彼はそれが蛇だったのではないかと不安になった。
私は 「馬鹿だな!蛇なんかいないよ。いるはずがないじゃないか」と言って、
二人であたり を見まわした。
「君の家にもネズミはたくさんいるだろう。きっとネズミだよ」 ――それで彼
も納得した。
私たちは眠りについた。
すべては丸くおさまった。
私たちは川に行き、そこで泳いだ後、帰宅した。昼食をすませた頃、家のなか
で蛇が 見つかった。
すると友人はたちまち気絶してしまった――蛇がいると思っただけで!
私は色々やってみたが、すでに気を失ってしまっているので、どうしようもな
かった。
一時間半ほど彼は気を失い、ある種の昏睡状態に陥っていた。
医者たちが呼ばれて、彼らが診察した。
「毒なんてこれっぽっちもありませんよ。 ネズミでさえ何の悪さもしていな
いのに、蛇が何かをするわけがないでしょう」
だが、それでも彼を正気にもどすために注射が打たれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

436鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/03(水) 22:15:05 ID:1d4drIFg0
オショーの説くとおり全ては意識なのじゃ。
全ての宇宙には意識だけがあると言えるものじゃ。
物質も大気も全て意識の一欠けらに過ぎないものじゃ。
それらを別の名称で呼び、イメージによって認識するのは記憶による仮設であるだけなのじゃ。
全ては隙間もなく繋がり合い、永遠に存在する意識であるだけなのじゃ。

437避難民のマジレスさん:2019/04/03(水) 23:06:39 ID:LC3de7YgO
>>435
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ちょっとした思い込み……が、思い込みが現実をつくりだすことがある。
縄を見て、駆けだすとする―― そのとき駆けているのは現実であり、 心臓が
ドキドキしているのも現実だ。
あなたは心臓発作を起こして、 死んでしまうことさえある――それは現実だ!
だが、蛇はそこにいなかった。
それはただの思い込みにすぎなかった。
神秘家たちは、「世界はただの思い込みにすぎない」 と言う。
あなたは怖がらなくてもいいのに怖がり、 逃げなくてもいいのに逃げだし、
心配しなくてもいいのに心配している。
それはただの思い込み、勘違いにすぎない。
世界は存在せず、ただ神のみがある。
すべてのものはただ意識のみで成り立っている。
目を開けて身体を探しても、もはやどこにも見つからない。
これが「からっぽの部屋が明るく輝く」という体験である。
内も外も、あらゆるものが等しく輝いている。
これはひじょうによいしるしである。
これらのことを理解しておかなければいけない。
こういったことは、あなたがたにもいずれ起こることになるからだ。
理解しておくことは助けになる。
そうしておかないと、ある日、目を開けて、自分の身体が見つからなかったら
、あなたは狂ってしまうかもしれない。
あなたはきっと何かまずいことが起こったと思うだろう――死んでしまったか
、狂ってしまったかのどちらかだ。
身体はどうなってしまったんだろう?
だが、この経文を理解しておけば、正しい瞬間が来たときに思い出すだろう。
私がこれほど多くの経典について語っているのはそのためだ。
ことが起こった時にあなたがふいをつかれないよう、
ありとあらゆる可能性に気つ゛かせるためだ。
あなたには知識があり、理解する力があり、すでに地図をもっている。
あなたは自分がどこにいるかを確かめることができ、その理解のなかに安らぐ
ことができる。
あるいは、坐って瞑想していると、 肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじ
める。
坐ったままでいるのがむずかしくなり、 上に引きあげられるような感じがす
る。
これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
第三のしるしだ――「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
これはすぐに起こる。
これはごく初歩的な段階で起こりはじめる。
静かに坐っていると、突然、地面から少し、十五センチほど浮いているような
感じになる。
びっくりして目を開けると、あなたはちゃんと地面の上に坐っている。
そこであなたは夢を見ていたにちがいないと考える。
いいや、夢を見ていたわけではない。
あなたの肉体は地面の上にとどまっていた。
だが、あなたには別の身体、肉体の内に隠されている 光の身体――アストラル
体、微細体、ヴァイタル体、あるいは なんとでも好きなように呼べばいい――
がある。
その身体が浮かびあがりはじめる。
内側から感じられるのはその身体に他ならない。
なぜなら、それはあなたの内界だからだ。
目を開けると、肉体は地面の上に、 前と同じ姿でちゃんと坐っている。
幻覚を見ていたのだと決めつけてはいけない。
それは現に起こったことだ。
あなたは少し浮かびあがったのだ―― ただし、第一身体ではなく第二身体が。
肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる。
それと同時に、いつであれ地面から浮上したと感じるときには――まるで重力
がもはやあなたに影響を与えなくなり、別の法則が働きはじめたかのようだ
……私はその法則を「恩寵の法則」と呼んでいる。
法則のひとつは重力の法則であり、それはあなたを下に引きおろす。
私はもうひとつの法則を「恩寵の法則」と呼んでいるが、それはあなたを上に
引きあげる。
そして、遅かれ早かれ、科学はそれを必ず発見するにちがいない。
なぜなら、法則はすべて必ず正反対の法則によって補足されるものだからだ。
単独で存在しうる法則はない。
重力にはそれを補うものがあるはずだ。
昼には夜があり、夏には冬があり、男には女があり、愛には憎しみがあり、
生には死があり、<陰>には<陽>があるように。
だから、それとまったく同じように、もう一方の極を補い、補完する法則があ
るにちがいない。
その法則を私は「恩寵の法則」と呼んでいる。
それはあなたを上に引きあげる。

肉体が絹か宝玉のようにまばゆく輝きはじめる
、という体験が起こると、それと同時に……坐ったままでいるのがむずかしく
なり、 上に引きあげられるような感じがする。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

438鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/04(木) 22:44:36 ID:1d4drIFg0
瞑想をしていればいろいろな現象が起こるものじゃ。
意識が拡大したせいなのじゃ。
今までの常識が覆ることに驚き、怖くなる者もいるじゃろう。
それでも恐れずに進むことが大事なのじゃ。

439避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 01:28:14 ID:LC3de7YgO
>>437
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

これは 「精神が天に帰り、その頂点に触れる」 と呼ばれる体験である。
今や上昇の旅がはじまろうとしている。
そして、いいかね。
上昇と内向は同じものを指し、外向と下降は同じものを指している。
内側に入れば入るほど、あなたはさらに高く上昇してゆく。
高みに達すれば達するほど、あなたはさらなる深みに入ってゆく。
それらは同一の次元であり、同じ次元の二つの局面だ。
やがて、本当に上昇するような体験をすることがある。
それもまた起こる。
この内なる身体がとても高く上昇しはじめ、とほうもない力を放ちはじめると
、肉体すらも一緒に浮かびはじめるかもしれない。
それは起こりうるが、わざわざそれを起こす必要はない。
それは愚かなことだ。
いつの日かそれが自然に起こったら、それを楽しんで、気楽に受けとめるがい
い。
こういった確かな手応えとなるしるしは理解すべきものであって、得意気に自
慢するようなものではない。
こういった体験は誰にも話してはいけない。
そうしないと自我エゴがもどってきて、そういった体験を食いものにしはじめ
る。
そしてひとたび自我が入り込めば、体験は消えてしまう。
けっして言いふらしてはならない。
もしそういった体験が起こったなら、ただそれを理解し、留意して、それにま
つわることはみな忘れてしまいなさい。

さて、これらの三つの体験はすべてこの世で得ることができる。
だが、これですべてを説明しつくせたわけではない。
この三つの体験は実際に起こりうる。
だが、それを体験したとしても、それを言葉にすることはできないだろう。
それに、ここで言われていることはみな象徴にすぎない。
ほんとうの体験は語ることができない。
言ったことはみな嘘になってしまう。
それを口にすれば、真実を曲げてしまうことになる。
真実は語ることができない。
だが、それでも私たちは何かを言わなければならない。
「神々が谷間にいる」「からっぽの部屋が明るく輝く」「精神が高みに帰る」
または「精神が天に帰り、その頂点に触れる」
――こういった隠喩メタファーが編み出されてきたのはそのためだ。
これらはあるものを指し示す象徴、隠喩にすぎない。
が、体験は広大無辺だ!

各人の気質や性癖に応じて異なった現象が現れるからだ。
これもまた覚えておかねばならない。こういったことすべてがあなたに起こる
わけではないかもしれない。
あるいは違った順序で起こるかもしれないし、違った形で起こるかもしれない。
人はみな本当にひとりひとり違っているから、起こりうることがらも数限りな
い。
これらの体験は、ある人にはここに描かれているような形では起こらないかも
しれない。
例えば、ある人には上昇してゆくような感じは起こらずに、どんどんどんどん
身体が大きくなって、部屋中に広がってゆくような感じが起こるかもしれない

身体はさらに広がりつつ゛け、家はその人のなかにすっぽりおさまってしまう。
それはひじょうに戸惑う体験でもある。
人は目を開けて、何が起こっているのか見たいと思う。
「私は狂ってゆくのだろうか?」――そしてまた
「全存在は私の内側にある。私はよそ者ではない。<存在>は私の外にあるので
はなく、私の内にある。星は私の内側をまわっている」と理解する瞬間が訪れ
てくることもある。
あるいはどんどん小さくなって分子になり、ほとんど目に見えなくなり、つい
には原子になって消えてしまう といった体験が起こる人もある。
それもまたありうる。
パタンジャリは起こりうる体験をすべて網羅している。
気質、才能、潜在能力は人によってそれぞれ違う。
だから体験はすべて人によって違う起こり方をする。
それはこれに似たことが起こるかもしれない ことを示唆しているにすぎない。
だから、狂うのではないかとか、 何か異様なことが起こりつつある などと考
えてはいけない。
こういった現象は、人が水を飲んで、その冷暖をおのずから知る ような性質の
ものである。
それは体験することだ。
水を飲んで、その水が冷たいか暖かいかわかるのはあなただけだ。
喉が渇いているなら、それで渇きがおさまるか、ますますつのるか、それがわ
かるのはあなただけだ。
坐ってあなたを外から観察している者には、あなたの内側で何が起こっている
のかわからない
――渇きがおさまるか、ますますつのるか、水は冷たいか暖かいか
――誰も外側からうかがい知ることはできない。
水を飲むあなたの姿を見ることはできても、あなたが味わっている体験を味わ
うことはできない。
人々はあなたが瞑想しているのを見ることができるが、内側で起こっているこ
とを見ることはできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

440鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/05(金) 22:26:24 ID:1d4drIFg0
そのような体験は誰にでも起こり得るものじゃ。
しかし、起こらないこともあるのじゃ。
それが起こったからえらいと言う事はなく、起こらないからまだ未熟ということもないのじゃ。
囚われればそれも魔になるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。

441避難民のマジレスさん:2019/04/05(金) 22:46:10 ID:LC3de7YgO
>>439
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

ここにやって来て、人々が瞑想しているのを観察してもいいでしょうかと尋ね
る人が大勢いる。
私は言う――
「どうやって観察するつもりかね?」
観察することができた者はひとりもいない。
みんなが坐ったり、踊ったり、歌ったりしているのを見ることはできるが、そ
れは本当に起こっていることではない。
瞑想は彼らの内側で起こっている。
それは彼らにしか見ることができない。
だから、ほんとうに見たいのなら、あなたも参加しなければならない。
あなたは瞑想者にならなければいけない。
それが唯一の道だ。
それは借りるわけにはゆかない。
誰もあなたに知らせることはできない。
だから見物人としてここにやってくる者たちは時間を無駄にしているだけだ。
こういったことは参加してはじめて知ることができる。
それと同じように、人はこれらの体験を自分で確かめてみなければならない。
そのときはじめてそれは本物の体験になる。
呂祖が言っているからといって、それを鵜呑みにしてしまってはいけない。
ただ彼を理解しようとするがいい。
それはあなたの記憶にしまっておきなさい。
こういったことを信じる必要はないし、また疑う必要もない。
ただそれらを記憶のすみにとどめておきなさい。
そうすれば機が熟して何かが起こりはじめたら、いつでも理解することができ
る。
これはあなたが道に迷わないように地図を与えているだけのことだ。
なぜなら、内なる旅の道程にも道からはずれる地点がたくさんあるからだ。
人は思い違いをしかねない。
恐怖に駆られ、怯えてしまいかねない。
人は内なる世界から外界へと逃げてしまいかねない。
こういった体験は断じて人を怯えさせるようなものではないが、あなたの解釈
がそれを恐ろしいものにしてしまうかもしれない。
考えてもみるがいい。
ある日、目を開けると自分の身体が見えない。
あなたの解釈は恐怖を煽ってしまいかねない。
「これは紛れもない狂気のしるしだ」と。
あなたは瞑想をしなくなり、瞑想を恐れるようになってしまうかもしれない。
なぜなら、こうなるともう次に何が起こるか、どこへ進んでゆくのか、どこへ
向かってゆくのか、誰にもわからないからだ。
あなたは体験全体に疑いの目を向けるようになる。
あなたは自分が神経症になりつつあると思い込む。
毎日のように人々は私のもとにさまざまな体験を抱えてやって来る。
自分たちの体験を口にするとき、彼らの顔や目に恐怖を見てとることができる
――彼らは恐れている。
私がそれはよいしるしだと言うと、ただちに空気が変わる。
彼らは笑いはじめる。
彼らは嬉しくなる。
「これはすばらしい」
「あなたはよくやっている」
「あなたはうまく成長している」といった私の言葉を聞くやいなや、その場で
ただちに大きな変化が起こる。
悲しげな顔つきは消え、飛びあがって大喜びをする。
何も変わってはいない。
彼らの体験は同じだ。
ただ私が違う解釈を与えただけだ。
彼らは知らなかったので怯えていただけだ。
こういったことがらは信じる必要もないし、無視する必要もない。
ただいつかその時がきたら正しく解釈できるように、記憶の片隅にとどめてお
けばいい――
そして正しい解釈には こ の う え も な い 意義がある。
それなくしては内なる旅はきわめてむずかしいものになる。
きびすを返し、世間にもどって、まともな人間になりたいと思う地点がたくさ
んある。
人は何か異常なことが起こっていると思いはじめるが、「異常」という言葉に
は非難が込められている。
瞑想を一度もしたことがない人々に話したら、彼らは言うだろう。
「精神分析医か精神科医のところへ行ったらどうだい。診てもらったほうがい
いよ。君はまったくおかしなことを言っている――身体が大きくなるだって!
理性をすっかりなくしちまったのかい?身体が浮かびあがり、重力が消えてし
まうだって?あるいは、どんどん小さくなってゆき、消えてしまうだって?君
は幻覚を見ているんだよ、まぼろしの餌食になっちまったんだ。精神科医のと
ころへ行きたまえ、君をちゃんともと通りにしてくれる、君を治してくれるよ」
そして、精神分析家や精神科医のもとへ行ったら、 確 か に 彼らは治してく
れるだろう。
彼らは自分たちのいわゆる知識でもってあなた の頭をぶっ叩くだろう。
彼らは瞑想に関しては何も知らず、瞑想はまだ彼ら の意識のなかには入ってい
ない。
彼らは道の途上で起こる体験に関しては 何も知らないが、狂った人々のことな
らたくさんのことを知っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

442避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 09:37:17 ID:LC3de7YgO
>>441
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

そして、ここでひとつこころにとめておくべきことがある。
それは、瞑想者にも起こるが狂人にも起こる類似した体験がたくさん あって、
それらがひじょうに紛らわしいので、精神科医はまず間違いなく 「この人は狂
っているから、治さなければならない」と見たてるだろうということだ。
彼はあなたを狂人として治療する――彼はあなたに薬を飲ませ、 注射を打ち、
電気ショックを与え、正常な精神状態に連れもどす。
彼はあなたの瞑想への可能性をすべて台なしにしてしまうだろう。
今や西洋ではこうした大きな危険がある。
瞑想を学んでいる人々が西洋にもどり、 自分たちの解釈を超えた何かが起こっ
たので、それを聖職者に話したとする―― キリスト教の聖職者は瞑想のことは
まったく何も知らない――聖職者は彼らを 精神科医のもとへ送り込む。
精神科医に話しても、彼が知っているのは 狂人に関することだけであり、覚者
ブッダに関してはまったくの無知だ。
しかも彼らの体験のいくつかは似かよっている。
医者はきっとこう解釈するだろう
――あなたは正常な状態から転落したのであり、引きもどしてやらねばならない。
そして彼がやることはどれも破壊的であり、あなたの身体、あなたの精神に打
撃を 与える。
その害があまりに大きいので、あなたは二度と再び瞑想に入れなくなって しま

――医者はそういうひどい障害をつくりだしかねない。
だから、ときに何かが起こったら、必ず 瞑想している人々のところへ行きな
さい。
世界中にセンターを開きなさい、 と私がしきりに言っているのはそのためだ

そうすればそこでサニヤシンは瞑想することができるし、 何かが起これば他の
サニヤシンに会うことができるし、 体験を分かち合いに行くことができる。
少なくともそこには共感を示してくれる人が誰かいるだろう。
少なくともあなたを非難しない人がいるだろう。
その人は あなたの体験を尊重し、 あなたの体験を受け入れ、 あなたに希望と
霊感を与え、
「それでいい、先へ進みなさい。もっと多くのことが起こるだろう」 と言って
くれる。
まさにこのために師が必要とされる―― あなたが信頼を寄せることのできる
誰か、ただ 「それでいい、もっと先へ進みなさい」 と言ってくれる誰かが。
そこでようやくあなたは前進することができる。 その旅は危険に満ちているか
らだ。
(p405)
呂祖師は言った。
光を巡らせる訓練は徐々に成果が現れてゆく。
その際、日常の務めを放棄してはならない。
私もまたそれを強調している――
サニヤシンは世間を放棄してはいけない。
あなたの瞑想は世間の只なかで成長してゆかねばならない。
それは日常生活の一部にならなければいけない。
あなたは逃避主義者になってはいけない。
なぜか?
古人は「仕事がやって来れば、それを引き受けなければならない。 ものごとが
やって来れば、それを根底から理解しなければならない」 と言っている。
正しい思考によって事を適切に処理してゆくなら、 光は外界の事物によって散
らされることなく、みずからの法則に従って巡る。
穏やかな目に見えない光の循環でさえこのようにして起こりはじめる。
すでにはっきりとした形をとった真の光の循環の場合は言うまでもない。
まず第一に、あなたがどのような状況のもとにいようとも、
それは神が授けた状況なのだから、拒絶してはいけない。
それはひとつの機会であり、成長するための好機だ。
もしその機会から逃げだしたら、あなたは成長しない。
ヒマラヤの洞窟に行き、そこで暮らしはじめ、その洞窟に深い愛着を抱くよう
になった人々は大人になれずにいる。
彼らは幼稚なままだ。
彼らは鍛えられていない。
世間に連れてこられたら、彼らはこなごなに打ち砕かれてしまう。
彼らはそれに絶えることができない。
数日前のこと、ヒマラヤで三ヶ月暮らしたサニヤシンがやってきた。
彼女は「もうここにいるのはこりごりです。私はもどりたいのです」
と言った。
さあ、これでは成熟を遂げたとは言えない。
彼女は今やヒマラヤに取り憑かれている。
彼女が自分の瞑想、静けさだと考えているものはすべて彼女のものではない。
それはたんなるヒマラヤの静寂の副産物にすぎない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

443鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/06(土) 22:33:27 ID:1d4drIFg0
瞑想は悟りという世間外の境地を目指す故に、常に常識外の体験が起こるものじゃ。
それを恐れて瞑想をやめてしまってはいかんのじゃ。
むしろそれを歓迎して、囚われないようにするのじゃ。
そのようにして進めば新しい、真実の世界が見えてくるのじゃ。

444避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 22:56:54 ID:LC3de7YgO
>>442
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

私は彼女に言った。
「ここに三週間ほどいて、それからあなたの静けさや瞑想がどうなったか話し
にきなさい。
もしそれが消えてしまうようなら、それはあなたのものではなかったというこ
とだ。
そうだとしたら、ヒマラヤになど行かないほうがいい。
ここで瞑想を深めなさい!
この人混みのなかで瞑想的になってからヒマラヤに行くのであれば、あなたの
瞑想は何千倍も深められるだろう。
息抜きに行くのはいいが、そこに執着してはいけない。
必ず世間にもどってきなさい」
そう、ときおり山に入るのはいい、それはすばらしいが、それに中毒してしま
い、世間を捨てることを考えはじめるのは完全に間違っている。
なぜなら、世間の嵐にもまれてこそ人は円熟してゆくからだ。
世間の挑戦を受けてこそあなたは結晶化する。
呂祖は「自分が置かれた状況を受け容れなさい。
それはあなたにふさわしい状況にちがいない。
だからあなたはそのなかにいるのだ」と言っている。
<存在>があなたの面倒を見てくれている。
それは何らかの理由があってあなたに与えられている。
それは偶然ではない。
偶然に起こることなど 何 も ない。
何であれあなたに必要なものがすべて与えられる。
ヒマラヤにいることが必要で あったなら、あなたはヒマラヤにいたことだろ
う。
必要に応じて、あなたがヒマラヤに出かけてゆくか、さもなければ ヒマラヤが
あなたのもとへやって来るかそのどちらかだ。
だから弟子に用意ができたときには……師が現れる。
あなたの内なる静けさが整ったときには、神がやって来る。
そして何であれ道の途上で必要なものはいつでもすべて与えられる。
<存在>は面倒を見てくれる。
母親のように世話をしてくれる。
だから心配することはない。
それよりもその機会を使いなさい。
この挑戦に満ちた世間、この外界の 絶えざる混乱を使わなければいけない。
あなたはその目撃者でいなければいけない。
それを見守りなさい。
どうすればそれに影響されない でいられるか、それを学びなさい。
水中の蓮の葉のように、その影響を受けず、 触れられないままでいる こつを
学びなさい。
そうなったら感謝の気持ちが湧いてくるだろう。
なぜなら、混乱のすべてに注意を向けることではじめて、 ある日、突然「神々
が谷間にいる」という体験が現れるからだ。
あなたは人混みが遠くに消えてゆき、 こだまのように響いているのに気つ゛く

これがまやかしでない真の成長だ。
日常生活のふつうの仕事のなかで 瞑想的であることができたなら、 あなたに
起こりえないものは何もない。
光が巡りはじめ、あなたは ただ注意深く見守っている。
朝、瞑想をして、中心の近くにとどまりつつ゛けなさい。
世間に出て行っても、中心の近くに とどまって、自分自身を想起しつつ゛け
なさい。
自分がしていることを意識しつつ゛けなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

445避難民のマジレスさん:2019/04/06(土) 23:34:51 ID:LC3de7YgO
>>444
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十一話 確証の体験(つづき)
より抜粋

日常生活のなかで、自他の思いをいっさい混入することなく、 ものごとに対し
てつねに打てば響くように対処する力をもつなら、 それは環境から生じる光の
循環である。
これが第一の奥義である。
そして、様々なものごとが立ち現れたら、
行為しながら、しかもその行為に同一化してはいけない。
傍観者にとどまりなさい。
何であれ必要なことは打てば響くようにやりなさい。
必要なことはすべてやりつつ、
しかもやり手になってはいけない。
それに巻き込まれてはいけない。
それをやり、それを終わらせてしまいなさい――打てば響くように。
朝早く、世間のしがらみをいっさい断って、一、二時間瞑想することができれ
ば、 さらに、 あらゆる外界の活動と事物に主観をいっさい交えず、 打てば響
くように対処することができれば、 そしてそれを 途切れることなくつつ゛ける
ことができれば、 二、三ヵ月後には天上から真人たちがやって来て、 その行為
を認めてくれるであろう。
主観を交えずに行動しなさい。
状況に留意して、何であれ必要なことをやるがいい。
だが、その行為に執着してしまってはいけない。
そのことを心配してはいけない。
結果を考えてはいけない。
必要なことをただやり、
油断なく目を見張り、
泰然自若として、
遠く離れた中心にとどまり、
そこに根をおろすがいい。

だが、その中心を一日中想起しつつ゛けられるように、
毎日、早朝に、内なる中心に自分を方向つ゛けなさい。
最良の時間は二度ある。
最初のよい時間は早朝だ。
自分自身を中心に方向つ゛ければ、
周辺で暮らしながらも中心を十全に想起したままでいられる。
そして第二の時間はベッドに入る前だ。
再び自分自身を中心に方向つ゛ければ、
深く眠っていても――夢を見たり、無意識になっているあいだですら
――できるかぎり中心の近くにとどまりつつ゛けることができる。
この二つが最良の時間だ。
この二度の時間に瞑想することができれば、どこにも行かなくていい。
僧院や洞窟に入る必要はないし、世間を捨てる必要もない。
そうすればいつの日か、ふと気つ゛くと
花が頭上に降り注ぎ、神々が耳元で
囁いている。
ひとつの魂がわが家に帰り着く瞬間、
全存在がそれを喜び祝う。
スブーティに起こったことはあなたにも起こりうる。
それを熱望しなさい。
それはあなたが生まれながらにもっている権利だ。
その権利をどうどうと主張するがいい。
(p409)
(´・(ェ)・`)
(おわり)

446鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/07(日) 20:45:06 ID:1d4drIFg0
静けさを求めて人の居ない所で瞑想しても、寂しさに耐えられなければ無意味なのじゃ。
それはむしろ常に他人のことばかり考えて瞑想には害になるじゃろう。
それよりは街中の自分の家で瞑想した方がよいのじゃ。
そこでもなにものにも囚われずに瞑想できたならば、悟りはやってくるじゃろう。

447避難民のマジレスさん:2019/04/07(日) 22:26:33 ID:LC3de7YgO
>>445
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う
より抜粋

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。

これらの詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて最も重要なのは 「無為の為」とい
う語句である、ということだ。
無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。
無 為 に して 為 す ことで、人は鈍くうつろな状態や 生気のない虚無に沈み
込むことから逃れることができる。

これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、
外側から内なるものに働きかける、
最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり、
初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。

光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、 今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。

この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、 暗いエネル
ギーの動きは封じられ、黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。

この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて離れなくなり、 尽きること
のない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮のなかを去来し、浮き沈みをくり返
す。
人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。

それはあちこちを軽やかに去来し、覚知しえぬほど静かに浮沈する。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、 「月が無数の水面を吸引する」と呼ば
れる状態である。

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命
が兆すときである。

ある王に三人の息子があった。
息子たちのうち誰が将来王国を治めるにふさわしいか、適正を調べたいと思っ
た王は、風変わりなテストを思いついた。
王は息子たちに弓と矢をもってついてくるよう命じると、馬に乗って田舎に出
かけていった。
広々とした畑のそばの道端で馬を止めた王は、すぐに射落とせるほど近くの
樹の枝にとまっている禿鷹を指さした。
「おまえにあの禿鷹を射落としてもらいたい」と王は長男に向かって言った。
「だがその前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
王子は怪訝な顔をして答えた。
「えーっと、見えるのは草や雲や空や川や樹や……」
「もうよい!」と王は言い、次男に弓矢を構えるよう合図した。
まさに矢が放たれようとしたそのとき、王は再び言った。
「その前に、何がおまえの目にとまるか言ってごらん」
「私には馬、大地、麦畑、それに禿鷹がとまっている朽ち果てた老木が見えます」
と次男は答えた。
「もういい、弓矢を納めなさい」と言って、三男の方を向き、禿鷹を射るように
命じたが、再び同じ質問をくり返した。
「まずおまえには何が見えるかね?」三男は矢をつがえ、弓をぴんと引きしぼ
ると、獲物から一瞬も目を離さずに、落ち着いた口調で答えた。
「見えるのは翼のつけ根だけです……」若者はそう言って矢を放った。
禿鷹は地面にころがり落ちた。
この三番目の息子が王になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

448避難民のマジレスさん:2019/04/07(日) 22:35:04 ID:LC3de7YgO
>>447
四つの詩句
>六月に、突然、白い雪が舞う。
三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
水中にそよ風が吹く。
天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
どこにもない国こそ、真のわが家である。

うむ。
この難解な詩句を、じっくり解説してくれるようであります。
楽しみであります。
(´・(∀)・`)つ

449鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/09(火) 00:00:12 ID:1d4drIFg0
六月とは昔の中国の陰暦では真夏なのじゃ。
六月に雪が舞うとは陽気が満ちているところに陰の気があるということなのじゃ。
真夜中に太陽が照らすとは陰の気の中に陽の気があるということなのじゃ。
水は眼であり、眼によって風を起こすとは気を眼の光で導くことなのじゃ。
即ち丹田に眼光を注いで陽気を起こし、眼光で頭頂の上丹田に導くのじゃ。
そうすると陽の気が陰の気に変るから、それをまた丹田に戻すのじゃ。
そうすると頭の中は陽の気で満たされて陰の気が次々に生じて下るのじゃ。
これが陽の気の中に陰があることなのじゃ。
陰の気が次々に下ると丹田は陰の気に満たされて更に陽の気を発する。
これが陰の気の中に陽の気がある状態なのじゃ。
このようにして互いに陰陽の気を強めあう真の回光が起こるのじゃ。
そして意識は気と合致して天地も合一する境地に入るのじゃ。

450避難民のマジレスさん:2019/04/09(火) 06:10:44 ID:LC3de7YgO
>>449
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

451避難民のマジレスさん:2019/04/09(火) 06:30:29 ID:LC3de7YgO
>>447
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

王国は集中力をもって働きかけることのできる者が治めるものだが、内なる王
国となればなおさらのことだ。
方向、目標、明晰なヴィジョンをもって生きてゆくことで、あなたのエネルギ
ーは結晶化する。
目標というのはたんなる口実にすぎない。
方向というのはたんなる方便にすぎない。
ふつうあなたの注意力はばらばらに四散していて、ある部分はこちらへ行こう
とし、別の部分はあちらへ行こうとしている。
ふつうあなたは複数であり、 群集であり、あなたの存在の断片が絶えず他の断
片とせめぎ合っている。
そのあなたが どうしてこの世で何かを達成しうるだろう?
どうして充実感を味わうことができるだろう?
あなたの生涯がとことん惨めなものになり、その一生が悲劇に 他ならないもの
になってしまったとしても、驚くべきことではない。
あなた以外の誰にも責任はない。
あなたには無尽蔵のエネルギーがあるが、 そのエネルギーでさえ無駄に費やさ
れることがある。
あなたの断片のひとつひとつが一種の内戦状態にあれば、 価値あることは何ひ
とつ成し遂げられない―― 神に関し
ては言うまでもないし、真理に関しては言うまでもない。
あなたは価値あることを 何 ひ と つ 成し遂げられないだろう。
なぜなら、内側のものであれ外側のものであれ、何かを 実現するためには必ず
ひとつのことが求められるからだ。
つまり、あなたはひとつになっていなければならない―― あなたのエネルギー
が余さずワークに注ぎ込まれ、 あなたの全エネルギーがひとつの問いと化すこ
とができるように。
あなたはたくさんの問いを抱えているが、そのすべての問いが一丸となり、 あ
なたの内にただひとつの問いを生み出さないかぎり、それは役に立たない。
あなたの生がひとつの問いと化し、ひとつの 方向をもてば、それは成就に向け
て動きはじめる。
そうなればそれは結晶化する。
結晶化とは、 あなたがゆっくりとひとつにまとまってゆくこと、 あなたの内側
にすこしずつ<個>が現れてくることを意味している。
そして真理の究極の実現とは、あなたの 実存のなかに究極の統合が実現され
ることだ。
「神」という言葉はそれを指している。
天国のどこかであなたを待っている神などいない。
神はあなたの内側で待っているが、あなたがひとつ であってはじめて彼を見い
だすことができる。
一なるものだけが一なるものを見いだせるからだ。
偉大な神秘家プロティノスの有名な言葉を思い出しなさい
――"一者から一者への飛翔"
まずあなたは独りにならなければいけない。
昨日、私がアムリットに言っていたのはそのことだ。
独りになりなさい、と。
独りアローンとは、 すべてがひとつオール・ワンになることだ。
散逸がいっさいなくなるので、
この独りあること、あるいはすべてがひとつの状態、
この内なる統合は無尽の力を解き放つ。
あなたは漏れなくなる。
凡人というのはあちこちに穴が開き、至るところから漏れている素焼きの瓶かめ
のようなものだ。
いくら水を入れても入れても、どんどんからになってゆく。
いくら努力をしても か い がない。
まず穴をふさがなければならない。
人生は ひ とつ になるための大いなる機会なのだととらえなさい。
いったんひとつの方向に進みはじめたら、 あなたは自分をひとつにまとめるこ
とができる。
あなたのなかで何かが落ち着きはじめる。
中心が生まれ、その中心が神への扉となる。
これらの経文にはこのうえもない価値がある。
それはまたひじょうに神秘的でもある。
というのも、真理を分かち合いはじめるときには、
詩や寓話や神秘の言語を用いなければならないからだ。
そうするより他にない。
数学の言語は適切ではない。
人は譬たとえを多く用いなければならない。
経文に入ってゆくまえに、この小さな話に耳を傾けなさい。
偉大な禅師である南泉はひじょうに歳老いていたが、 法を継ぐ者が現れるのを
待ちつつ゛けていた。
実際、彼には いつでも肉体を離れる用意ができていたが、彼が得たものをすべ
て伝え、 鍵をわたせるように、ただひたすら法を継ぐ者が現れるのを待ちつつ゛
けていた。
彼にはたくさんの弟子たちがいたから、それはとても奇妙に思える。
彼には何千人もの弟子がいた。
なぜ彼は何千人もの弟子たち のひとりに鍵をわたすことができなかったのだろ
う?
(´・(ェ)・`)
(つづく)

452鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/09(火) 22:37:16 ID:1d4drIFg0
>>450 どういたしまして、またおいでなさい。

この回光は実践し続けることで、最後には座っただけで自動的に起こるようになるのじゃ。
陰陽の気が自然に肉体を巡り、肉体からサマーディに入っていくのじゃ。
それを大周天と呼ぶ宗派もあるのじゃ。
もはや意識的な行も必要ではないのじゃ。

453避難民のマジレスさん:2019/04/10(水) 01:38:15 ID:LC3de7YgO
>>451
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼のまわりにはすぐれた学者たちがいた――きわめて技量があり、 論理を巧み
に使いこなし、弁舌に優れ、知識が豊かな学者たちが。
だが、彼は待たなければならなかった。
これらの人々は論理は理解できたが、 愛を理解することはできなかった。
そして、 愛はまったく異なる言語を話す。
これらの人々は数学を理解することはできたが、 隠喩メタファーの言葉はまる
で理解することができなかった。
これらの人々は散文を理解することにかけては申し分なかったが、 詩の神秘に
こころを開くことができなかった。
だから彼は待たねばならなかった。
彼は病んだ老躯ろうくを私室のベッドに横たえ、 古びた肉体にかろうじてとど
まっているという状態だった。
法を継ぐ趙州じょうしゅうが部屋に入ってくるのを 南泉がはじめて目にしたの
はその日のことだった。
彼はさっそうと現れ……言葉はひとことも発せられなかった。
師もしゃべらなければ、のちに弟子となる趙州もしゃべらない。
彼はよそものだったが、その部屋に入るときの仕草だけで充分だった。
師は彼に尋ねた。
「おまえはどこから来たのか?」
師はもう何日も口を開いていなかった。高齢の師の病は重かった。
彼はひたすら気力を蓄えておくために、話すことさえしなかった。
何日も過ぎて、彼が趙州に話しかけた最初の言葉が
「おまえはどこから来たのか?」だった。
趙州は言った。
「瑞像ずいぞう院から参りました」。
瑞像とは"至福の姿"という意味だ。
南泉は笑いながら――彼はもう何か月も笑ったことがなかった――尋ねた。
「おまえは至福の姿を見たことがあるかね?」
趙州は言った。
「至福の姿は見たことがありませんが、 横たわる仏は拝見したことがあります」
ここで南泉は立ちあがった――彼はこの一年近く、 床から出たことがなかった
。そこで南泉は立ちあがり、尋ねた。
「おまえにはすでに師があるかね?」
趙州は答えた「ええ、ございます」
南泉は尋ねた。「おまえの師匠は誰だ?」
病気がすっかり消え失せてしまい、再び若返ったかのようだった。
彼の声ははっきりとして、若々しく、溌剌として、生気に満ちていた。
「おまえの師匠は誰だね?」
趙州は笑いながら言った。
「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。 どうか師よ、お
身体を大切になさってください」
まさに絶妙の表現だった。
南泉は言った。
「これで私も安らかに死んでゆける。 私の言葉が通じる者がやってきた。 表
面ではなく深みで出会うことのできる者がやってきた」
趙州は言った。「師よ、お身体を大切になさってください」 ただそう言っただ
けで、師弟の絆が結ばれた。
そして趙州が 「冬の寒さも峠を越えましたが、まだ寒い日がつつ゛きます。
どうか師よ、お身体を大切になさってください」と言うとき、 彼はどのように
譬たとえを使えばいいかを知っている。
彼は詩というものを知っている。そして 彼は愛というものを知っている。
だから 彼は言った。「どうか師よ、お身体を大切になさってください。 どうか
横になってください。床から飛び起きる必要はありません。 あ な た が私の
師です! 私はまだ至福に出会ったことはありませんが、仏を拝見しました」
師は弟子を認め、弟子は師を認めた ――ほんの一瞬のあいだに。
何が起こったのだろう?
起こったことは言葉を超えているが、 それでもそのことを、少なくともその
ことを 言葉で語らなければならない。
少なくともこの物語を 言葉で伝えなければならない。
他に方法はない。
これらの呂祖師の言葉はひじょうに神秘的だ。
深い愛に満ち、共感できるこころハートをもって 理解しようとしてみなさい。
聴き方には二つある。
ひとつは内側で絶えずあら探しをして、とやかく口をはさみ、ものの善し悪し
を決め、 それが自分に合致するかどうか、自分の知識に適合するかどうかを判
定している 批評家の聞き方だ。
批評家は絶えずものを比べて、品定めをしている。
それはこれらの美しい経文を理解するにふさわしい態度ではない。
これらの経文は批評の好きな人の手にはおえない。
これらは共鳴できる力をそなえている人、あるいは、さらに言うなら 感情を分
かち合うことができる人、 波長を合わせることができる人、 こころを開き、全
一に耳を傾けることができる人 にのみ開かれている。
そうすれば肉体の心臓ハート だけでなく、深いところに隠されている 霊的な
こころハートまでもが揺り動かされる。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

454鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/10(水) 21:25:46 ID:1d4drIFg0
悟った者同士には妙観察智による智慧が在るから互いに一目で分かるものじゃ。
お釈迦様と迦葉の捻華微笑のようにのう。
趙州はまだ悟っていなかったが、決意して修行して既に智慧が付いていたのじゃ。
話す言葉にも含意、隠された意味があったのじゃ。
瑞像院とは南泉の寺なのじゃ。
そこが既に自分の寺というのじゃ。
横たわる如来とは南泉のことなのじゃ。
師匠は南泉じゃと答えたのじゃ。
南泉もそれに気づいて趙州はもはや悟る寸前と知ったのじゃ。

455避難民のマジレスさん:2019/04/10(水) 23:18:25 ID:LC3de7YgO
>>453
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

呂祖師は言った。
四つの詩句は、気(エネルギー)の空間に精神を結晶させる。
あなたにはエネルギーがある、
あなたは必要とするすべてのものをもち合わせている。それなのに
あなたは貧しく、いまだに乞食のままだ。
あなたは自分のエネルギーを使ったことがない、
自分の財宝をまだ開けてみたことがない。
あなたは神から授けられたものに目を向けたことすらない。
あなたは内側を見ずに外に駆けだしてゆくせいで惨めになる。
そして、その惨めさはつつ゛いてゆく。
というのも、あなたを満足させるものは外界には何ひとつ見つからないからだ。
外の世界で何かを見つけた者などひとりもいない。
アレクサンダー大王でさえもだ。
あなたはこの地球をそっくり手中におさめることもできる。
あなたはこの七つの大陸、全世界を支配する天輪聖王チャクラヴァルテインに
なることもできる。
意外に思うだろうが、現代の地理学によれば大陸は六つしかないのに、
古代インドの地理学では大陸は七つあることになっている。
そこにはアトランティス大陸が含まれているにちがいない。
そして七つの大陸すべてを制覇した者は「天輪聖王」と呼ばれている。
たとえ天輪聖王になったとしても、あなたは貧しいままであり、何ひとつ得て
はいない。
それどころか、あなたは多くのものを失っているだろう。
なぜなら、あなたは一生をかけてつまらないもの、世俗的なもの、意味のない
もの、無益なものを求め格闘してきたからだ――そういったものはいつでも死
によって取り去られてしまう。
内なる何かを得ないかぎり、あなたが豊かになることはない。
内なる王国だけが人を豊かにする。
死ですらその豊かさを取り去ることができないからだ。
それが奪い去られることはない。
それが破壊されることはない。
それが取りあげられることはない。
ひとたびそれを知れば、それは永遠にあなたのものになる。
あなたには内なる空間がある。
あなたには内なるエネルギーがある。
すべてのものを手に入れることができる。
あなたはまだそれをのぞき込んだことがないだけだ。
あなたはすばらしいヴィーナを手にしているのに、まだそれに触れたことさえ
ない。
あなたはそのなかにどんな音楽が含まれているのかまだ見たこともない。
あなたはそれをほとんど忘れかけている。
呂祖は言う。四つの詩句は……
たった四つの詩句が
あなたの実存を結晶させ、
あなたの内側に帝王をつくり、
あなたをブッダやキリストやクリシュナ
のような人にすることができる。
この四つの詩句とは何か?
さあ、この四つの隠喩メタファーを理解しようとしてみなさい。

一、六月に、突然、白い雪が舞う。
二、三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
三、水中にそよ風が吹く。
四、天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある――
どこにもない国こそ、真のわが家である。
さあ、この神秘的な詩句、この秘教的な言辞を解読しようとしてみなさい。
そこには隠された大いなる美と隠された大いなる意味がある。
深く共感するこころをもちなさい。
なぜなら、それが秘教的なものを理解する唯一の方法だからだ。

一、六月に、突然、白い雪が舞う。
六月は一年のちょうど真ん中だ。
それはあらゆるものの真ん中を意味している。
あらゆるものの真ん中にあることができて、けっして極端に偏らなければ、最
初に必要とされる条件を満たしている。
真ん中にありなさい――
これは探求者にとって、実存的な探求の途上にある者にとって計り知れない価
値がある。
いつも真ん中、「中庸」を覚えておきなさい。
食べ過ぎてはいけないし、
完全に食を断ってもいけない――これでもなくあれでもない。
ものに執着し過ぎてもいけないし、ものを捨ててもいけない。
人々とともに暮らしながら、馴れ合い過ぎないこと。
馴れ合い過ぎると、まったく少しも独りでいることができなくなる。
また独りぼっちで暮らしはじめてはいけない。
孤独に病みつきになり、人を避けるようではいけない。
世間にいながら、世間を自分のなかに入らせてはいけない。
世間から逃げだす必要はない。
けっして極端に走らないこと――
これは覚えておくべき最も基本的なことがらだ。
なぜなら、心マインドはつねに一方の極端からもう一方の極端へと動くからだ。
心は極端を通して生きているものであり、真ん中では死んでしまう――これが奥義だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

456鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/11(木) 21:28:31 ID:1d4drIFg0
未だ学問によっても解明できないエネルギーは確かに人の体の中にあるものじゃ。
それが明らかになれば今の医学も根本的に変らなければならないじゃろう。
それは人をサマーディに導くことが出来るエネルギーなのじゃ。
中国では気といい、インドではプラーナというのじゃ。

457避難民のマジレスさん:2019/04/11(木) 22:48:48 ID:LC3de7YgO
>>455
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

食べすぎたあと、何日間か食事を制限する人々がいる。
そして数日間いわゆるダイエットに苦しんだあと、彼らは再びがつがつとむさ
ぼるように食べはじめる。
そしてまた……これは悪循環だ。
彼らはひとつの極端からもうひとつの極端へと動き、もうひとつの極端から再
び元にもどってくる。
行ったり来たり、行ったり来たり、古い時計の振り子のようにどこまでも動
きつつ゛ける。
彼らは振り子の動きによって時計が進んでゆくことを知らない。
時計――これはすばらしい譬たとえだ。
振り子が真ん中にとどまれば、時計は止まる。
心マインドもそうだ――
あなたが極端からもうひとつの極端へ動いていると、
心は存続し、時間は存続する。
心と時間は同義語だ。
あなたが真ん中で止まる瞬間、
時間は消え失せ、時計が止まる。
心は消え失せ、心が止まる。
心も時間も消えてしまったとき、突然、
あなたははじめて自分が誰であるかに気つ゛く。
雲はひとつ残らず消え、広々とした空に太陽が明るく輝いている。

六月に、突然、白い雪が舞う。
そして中国では、この経文が書き記された地方では、毎年六月に初雪が降る。
あなたの実存は冷やされて鎮まる――それが中道だ。
白い雪はいくつかのことを表している。
まず、純白さ、純粋さ、涼しさ、静謐せいひつさ、
すがすがしさ、美、恩寵。
真ん中にいるなら、あなたはみずからの内なる実存がヒマラヤのように、清ら
かな雪に覆われたヒマラヤの頂きのようになってゆくのを見るだろう。
あらゆるものが冷やされて鎮まり、完全な静寂に包まれ、すべてがじつにさわ
やかで、いっさいの汚れが消えている。
汚れは心マインドのものだ。
心がなくなり、思考がなくなれば、不純なものもなくなる。
あなたの実存を汚すのは思考だ。

六月に、突然、白い雪が舞う。
それはにわかに起こる。
ただ真ん中にいるだけで、どこからともなく、忽然と、白い雪が降りはじめる。
試してみるといい。
これは実験だ。
これは理解しなければならない哲学ではなく、試してみるべき実験だ。
何についてもその真ん中にあろうとしてみなさい。
そうすれば大いなる涼しさ、穏やかさ、落ち着きがあなたの内に生まれてくる
のに気つ゛くだろう。
(p423)

三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
こして、これが二つめの譬たとえ――三更(午前零時)だ。
人間には三つの層がある。
ひとつめは肉体ボディ、二つめは心マインド、三つめは魂ソウルだ。
第一の条件を満たしたなら、第二の条件に取り組むことができる。
最初の条件を抜きにして、二番目に取り組むことはできないから、順を追って
進んでゆかねばならない。
途中からはじめるわけにはゆかない。
どこから手をつけてもいいというわけではない。
ものごとには順番というものがある。
まず、あらゆることがらの真ん中を達成しなさい。
そして、心が極端に向かおうとしているかどうか一日中見守りなさい。
極端を避けるようになれば、第二のことがらが可能になる。
極端を避けるようになると、あなたは内側にある三つのもの――
自分の粗雑な部分である肉体、精妙な部分である心、そして彼方のものである
魂に気つ゛くようになる。
肉体と心は物質の二つの側面だ。
肉体は目に見える物質であり、
心は目に見えない物質だ。
そして心と肉体の両方を同時に見るとき、見ているあなたは第三のものだ。
それが三更ザ・サード・ウオッチ――
見張り、観察者、目撃している者だ。

三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ。
見守ることに専念し、目撃者になりきっていると、 突然、まるで真夜中に太陽
が昇り、まばゆい光を放っている かのように、あなたは内も外も光で満たされ
る。
全存在が燃えあがる。
(p424)
そして三つめの詩句は――
水中にそよ風が吹く。
道家では、水は事物の究極の源を表している。
それはタオそのものを表している。
老子はみずからの道を「流水の道」
と呼んだが、それにはたくさんの理由がある。
まず、水は柔らかく、謙虚であり、最も低い場所を探し求める。
イエスが「この世で一番後になる者が私の王国では最初となり、
最初の者が一番最後になる」と言っているように、水は最も低い場所、くぼみを探し求める。
雨はエベレストに降るかもしれないが、そこにはとどまらず、谷に向かって流れはじめる。
そして谷のなかでも一番深いくぼみにたどり着く。
水はいつも最後にいて、野心をもたない。
水には一番になろうとする野心がない。
そして水になることがサニヤシンになることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

458鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/12(金) 23:06:59 ID:1d4drIFg0
このような古書は時節の八卦に託して真意を伝えたりするものじゃ。
翻訳されるとわけが分からなく似るのじゃ。
周易参同契にも卦に託して道教の周天等が説かれているのじゃ。
説くところは大体同じなのじゃ。

459避難民のマジレスさん:2019/04/12(金) 23:55:51 ID:LC3de7YgO
>>458
確かに、この4つの詩句は、歴史や、古文献の知識がないくまには、OSHOや鬼和尚の解説がなければ、理解不能であります。
OSHOは、かなり自由に解説してるように思えるであります。
(´・(ェ)・`)つ

460避難民のマジレスさん:2019/04/13(土) 00:12:45 ID:LC3de7YgO
>>457
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

水のようになることは、何者でもないものであることに完全な幸せを感じるこ
とだ。
そして第二に、水とは流動に他ならない。
水はつねに流動している。
動きが止まると、水は汚れ、汚水となって、毒すら帯びるようになる。
水は死んでしまう。
水の生命は流動のなかに、生き生きと躍動し、流れることにある。
生命はすべて流れであり、制止しているものはない。
科学者のエディントンはこう言ったと伝えられている――
「『静止』という言葉はまったく意味をなさない。なぜなら、存在しているも
ので静止しているものなど何ひとつないからだ」と。
それは現実に、事実に合致していない。
あらゆるものが成長の、動きの途上にある。
生は巡礼の旅だ。
生においては、名詞は偽りであり、ただ動詞だけが真実だ。
私たちは言語のなかに名詞をつくりだした。
これらの名詞は生に関してひじょうに誤った印象を与える。
それは正しくない。
いつか将来、言語がもっと実存的なものになるときがくれば、名詞は消えて動
詞に置き換えられるだろう―― あ ら ゆ る 名詞が。
川というものはなく、川 と し て 流 れ ゆ く であり、
樹というものはなく、樹 と し て そ び え ゆ く だ。
なぜなら、一瞬といえども樹は静止していないからだ。
それはけっして存在イズネスの状態にはない。
それはつねに生成ビカミングし、流れ、どこかへ向かっている。
<存在>は流動的であり、ゆえに水、"水中"が隠語メタファーになる。
目撃者に気つ゛けば、第三のものが可能になる。
あなたは流れることの美しさに気つ゛くだろう。
安定を渇望したり、現状がいつまでもつつ゛くことを願ったりしなくなる。
あなたは川とともに流れはじめ、
<存在>という川の一部になる。
あなたは変化を楽しむようになる。
人々は変化を心底から恐れ、変化に対して大きな恐怖を抱いている。
ものごとがよい方向に変わってゆくときでさえ、恐れる。
彼らは新しいものを恐れる。
心マインドというものは古いものには実に賢く振る舞えても、
新しいものに出会うと必ず当惑するからだ。
心は新しいものを再びイロハから習わなければならない
――誰が習いたがるだろう?
心は世界をそのまま停止させておきたい。
社会が法を遵守し、古い型を守るのはまさにこの心があるためだ。
世界中で数限りない人々が因襲にとらわれている。なぜだろう?
そこにはかなりの資本が投下されているにちがいない。
これは投資だ――
誰も学びたくはないし、誰も成長したくはないし、
誰も新しいものに慣れ親しみたくはない。
人々はどこまでも古い型を守りつつ゛けようとする。
が、そうなると当然、退屈してくる。
そこで彼らは「どうして退屈なんだろう?どうすれば退屈せずにすむだろう?
」と言う。
彼らは自分たちで退屈をつくりだしておきながら、退屈をつくりだしたそのか
らくりを見ていない。
大勢の人が私のもとにやって来て、自分は退屈していると言う。
「どうすれば退屈から抜け出せるでしょう?」と。
退屈が問題なのではない。
退屈は副産物だ。
問題の奥にあるのは、新しいものを探求する用意ができているか?
冒険に出る用意ができているか?
ということだ。
冒険とは賭けることだ。
それはよくなるかもしれないし、これまで知っていたよりもさらに悪くなるか
もしれない
――それは誰にもわからない。
それに関してはひとつも確実なことは言えない。
生で唯一確かなのは、それが不確かなものであるということだけだ。
人は不確かさより他には何も当てにすることができない。
新しいものは人をひどく不安にさせる。
彼らは古いものにしがみつく。
世界に因襲にとらわれた人々がいるのはそのためだ――
彼らは無用な重荷になっている。
彼らのおかげで世界はよどんでいる――
彼らは古い型を踏襲することにこだわりつつ゛けている。
例えば、インドの歴史はほぼ五千年に達するが、マヌがつくりあげた社会構造
はそのまま残っている。
それは当時は良いものだったかもしれないし、何らかの意義があったにちがい
ないが、五千年が経ったというのにインドにはいまだに不可触賎民がいる。
触れることすら許されない人々がいる。
彼らは人間ではない。
正統派を自認する者たちは彼らの影にさえ触れない。
かつてはそうだった。
今でもいくつかの村では、不可触賎民、スードラが通りを歩くときには「どう
かわきによけてください。そちらに行きますよ」と叫ばなければならない
――というのも、カーストの高い誰かに影が触れると罪になってしまうからだ

彼は叩かれ、へたをすると打ち殺される!(´・(ェ)・`)
(つづき)

461鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/13(土) 22:31:02 ID:1d4drIFg0
>>459 そうじゃ、そもそもその詩は四行でもないのじゃ。
 かなり意訳されているのじゃ。
 無為にして為すという秘訣が欠けているのじゃ。
 それだけでオショーならば一章分は説法できたであろうにのう。
 日々の精進の果てに全ての思考も捨てて何の計らいもなく、肉体が自らサマーディに入る神秘の法門なのじゃ。

462避難民のマジレスさん:2019/04/13(土) 22:56:13 ID:LC3de7YgO
>>460
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

今でもこの罪を着せられ焼き殺される人々が いるが、この愚劣な社会構造は五
千年も生き延びてきた。
これほど非人間的なのに!
これほど非民主主義的なのに!
インドでは民主主義が成功しそうにないのはこのためだ。
ヒンドゥー教の精神そのもの が民主的ではない。
精神構造のすべて、心理的な条件つ゛けが民主主義に反している のに、どうし
て民主的な国をうまくつくりあげることができるだろう。
民主主義において最も大切な基本は、万人が平等であるということだ。
誰かが誰かよりも価値においてまさるというわけではない――ところが ヒンド
ゥー教徒はそれを受け容れることができない。
事実、スードラ、 不可触賎民は人間として認められていない。
彼は人間ではなく、家畜扱い をされている。
女を人間と見なすことはできない。
女性もまた家畜扱いをされてきた。
さあ、この種の精神――それがどうして民主的になりえよう。
だから民主主義の 名のもとにあるのは混沌以外の何ものでもない。
なぜなら、民主主義の基盤が 存在していないからだ。
だが、この国は五千年にわたりこの社会構造とともに 存続してきて、それを手
放す用意ができていない。
この構造のどこに美点があるのだろう?
美点などどこにもありはしない。
それはただただ醜く、おぞましく、忌まわしく、吐き気をもよおすほどだ!
人々はあまりにも長くそれと暮らしてきたので、もう他のことは何も学びたく
ない ――ただそれだけのことだ。
彼らはそれとともに生きてゆきたい。
彼らはそれが あると安心することができる。
彼らはどんな変化も毛嫌いしている。
いいかね、この傾向は多かれ少なかれどんな人間のなかにもある。
あなたは変わりたくはない。
あなたは変化を恐れている。
なぜなら、変化とともに新たな挑戦が生まれるからだ。
そしてあなたは新しい状況に対処できるかどうか不安に思っている。
古いものならうまく扱えるし、手際よくさばけるから、 古いものに寄り添って
いるほうがましだ。
古いものは意のままに操ることができる。
新しいものはどうなるかわからない。
思い通りになるかもしれないし、 思い通りにはならないかもしれない。
学ぶことができるのは子どもたちだけだ。
子どもたちには何も過去がないので、 しがみつくべき古いものがいっさいな
いので、 いつでも喜々として学ぶことができる。
大きくなればなるほど学ぶことができなくなる。
十三歳位で、人々は学ぶことをやめる。
それが彼らの精神年齢になる。
探求者であるなら、あなたは 絶えず学びつつ゛けなければならない。
生きることは学ぶことだ。
学ぶことはけっして終わらない。
死の瞬間においてすら、 探求者は学びつつ゛ける。
彼は死を学ぶ。
彼はいつでも変わる用意ができている。
水は変化する要素を、永遠の変化を、 流動的な現象を表している。
いつでも変化でき、過去を忘れ、 過去を許すことができ、瞬間とともに進ん
でゆく 用意のある者たちこそが真の人間だ。
なぜなら、彼らは冒険家だからだ。
彼らは生の美を、生の祝福を知っている。
そして生はその神秘をこのような人々に、 こ の よ う な 人 々 に だ け 明
かしてくれる――なぜなら、 彼らはそれに値するからだ、 みずからの手でそれ
を稼ぎ取ったからだ。
賭けることで、彼らはそれを稼ぎ取った。
彼らには勇気がある。
水中にそよ風が吹く。
もしあなたが水のような現象になり、
変化し、絶えず移り変わり、動き、流れ、
けっして過去や古いものにしがみつかず、
いつも新しいものを探し求め、
つねに新しいものを楽しんでいると……
"そよ風"が吹いてくる。
あなたは恩寵に包まれる。
あなたの実存は至福に包まれる。
そうなったら、あなたの内側ではじめて聖なるものが踊りだす……
"そよ風が吹く"とはそのことだ。
神はとてもやさしい。
神はけっしてあなたの扉を叩かない。
神の足音はけっして聞こえない。
訪れるときには、
神は音を立てずに、ひっそりとやって来る。
あなたが水のようになっていないかぎり、
神のそよ風があなたの上に吹いてくることはない。
まず流動的になりなさい。
流動的でありつつ゛けること――これはサニヤシンに対する私のメッセージで
もある。
そして、いいかね。未来は絶えず変化してゆく用意がある者たちのものになる。
なぜなら、今や世界はめまぐるしい速度で変化しているので、
古いものにしがみついている者たちは大きな苦しみを味わうことになるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

463避難民のマジレスさん:2019/04/15(月) 00:45:23 ID:LC3de7YgO
>>462
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼らはこれまで大きな苦しみを味わったことがなかった。
むしろ逆に、進んで変わろうとする者たちのほうがひどい苦しみをなめてきた。
これからは状況が逆さになるだろう。
これからの時代は変化を愛し、喜々として踊りながら変わってゆこうとする者
たち、変化を祝う者たちのものになる。
そして、いつなんどき変化の機会が訪れても、彼らはそれを逃がさない。
未来は彼らとともにあることになる。
歴史は大きな転換をとげ、別の地平を進もうとしている。
「何かが変化しつつあるときには、
けっしてそれを妨げてはいけない」
と私がいつも力説しているのはそのためだ。
恋人との関係が変化しつつあるなら、それを妨げてはいけない。
それを受け入れ、なるようにならせなさい。
別れなければならなくなっても、くよくよしないこと。
執着心があると、いつまでも惨めなままでいなければならない。
変わってゆくものは変わってゆく!
その変化を楽しみ、その新しさを楽しみなさい。
新しいものを受け入れ、歓迎するがいい。
過去をあげつらわずに、 新しいものを受け容れることができるようになれば
、 まもなくあなたはみずからの生が格調の高さ、優美さ、 穏やかな気品を帯び
はじめたことに気つ゛くだろう。
あなたは柔らかな花のようになる。
まさにその瞬間に探求者は踊りはじめる。
まさにその瞬間に祝祭がはじまる。
そしていいかね、イルカやチンパンジーは 遊びを知っているかもしれないが
、 祝うことができるのは人間だけだ。
祭り祝うことはまさに人間的だ。
色々な定義を耳にしたことがあるだろう―― 「人間は理性的な動物である」と
言う者もいれば、また別のことを言う者もいる。
私は「人間は祭り祝う動物である」と言う。
人間が他のすべての動物と袂をわかつのはそこだ。
だが、古いものにしがみついて いたら、どうして祝うことができるだろう?
過去に生き、死んだもののなかで生き、 生があなたに触れるのを許さないな
ら、 あなたは墓のなかで暮らしている。
それは薔薇の茂みが咲き終わり、 しぼんでしまった花に執着し、散った花び
らばかりを集め、 新しい蕾つぼみや新しい花を恐れたり、春を恐れたりしてい
るようなものだ。
これが何百万もの人々、大多数の人々の状況だ
――彼らは咲き終わり、 しぼんでしまった花びらにいつまでも執着し、それを
集めつつ゛けている。
彼らは記憶のなかに生きている……彼らはそれを「郷愁ノスタルジア」 と呼ん
でいるが、愚かなことこのうえもない。
真の人間は郷愁などまったく抱かない。
過去はもうそこにないのだから、 けっしてあとを振り返ることがない。
彼は瞬間に生き、未来に対しては開いたままでいる。
現在は 彼のものであり、その現在ゆえに、 彼は未来を受け容れることができる
ようになってゆく。
彼の窓は風に、雨に、太陽にいつも開かれている。
彼は広場だ。
水中にそよ風が吹く。
人はこの瞬間に到ってはじめて神に気つ゛く。
まず、あなたは中心においてバランスを取りはじめる。
次に、あなたは目撃者、魂に気つ゛くようになる。
そして第三に、あなたは臨在プレゼンスに、ある未知の神秘の臨在に、"そよ風"
に気つ゛きはじめる。
(p431)
そして第四に……

天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
第四の現象はこれだ――
神の臨在に気つ゛きはじめると、
あなたの二元性、あなたの根本的な極性は消えはじめる。
そうなったら、あなたは
男でもないし女でもない、
<陽>でもないし<陰>でもない。
すると突然、
あなたの男が女を食べ、
あなたの女が男を食べる。
この地点で、ヒンドゥー教の
アルダーナリシュバル(両性具有)
という概念が重要な意味をもってくる。
そうなったら、あなたは両方であると同時にいずれでもない。
あなたは肯定と否定の二元性を超越している。

天上をさすらいながら……

だがこれは、あなたがそよ風、霊妙な踊り、神の臨在を知り、
広々とした大空をさすらうようになってはじめて可能になる。
あなたはもはや何にも執着していない。
あなたはもはや地の上を卑屈に這いまわってはいない。
あなたは墓のなかにはいない。
あなたは翼を広げている。
あなたは大空を羽ばたいて、<存在>と<存在>がもたらす
すべての挑戦にいつでも応じることができる――
もはや正統派の考えにとらわれることもなく、
因襲にとらわれることもなく、
社会の規範にとらわれることもない。
あなたは反逆者だ。
そして反逆的な魂だけが
神の臨在を感じるようになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

464鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/15(月) 02:21:54 ID:1d4drIFg0
間違った翻訳でも陰陽が合一するという根本的な主題は正しいのじゃ。
肉体の中にエネルギーがあり、それが陰陽に区別されるというだけでも科学で解明されていない現象なのじゃ。
更にその合一がもたらす変容にはいつの日にか、科学がたどり着けるかどうかもわからんのじゃ。
多くの者に理解不能であるから秘伝とも言えるのじゃ。

465避難民のマジレスさん:2019/04/15(月) 07:49:05 ID:LC3de7YgO
>>464
鬼和尚、いつもありがとうであります。
間値がった翻訳はどの部分でありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

466鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/15(月) 23:55:49 ID:1d4drIFg0
↑その詩は本来
玉清留下逍遙訣。四字凝神入氣穴。六月俄看白雪飛。三更又見日輪赫。水中吹起藉巽風。天上遊歸食坤德。更有一句玄中玄。無何有鄉是真宅。
と続くのじゃ。
 かなり長いのじゃ。
 四字とは無為にして為すということなのじゃ。
 それによって気は穴に入るというのじゃ。
 欲心では入らないのじゃ。

 水の中の巽の風なのじゃ。
 それは目を持って気を導く事なのじゃ。

 更に一句有り玄の中の玄とは陰の中の陰なのじゃ。
 一切を捨て切り受容性の極地に入るのが深奥の秘訣なのじゃ。
 老子から続く道家の法なのじゃ。
 全て詳しく解説すれば本が一冊できるほどなのじゃ。

467避難民のマジレスさん:2019/04/16(火) 00:19:03 ID:LC3de7YgO
>>466
おー!
流石であります、鬼和尚!
読み方すらわからぬ、情けないくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

468避難民のマジレスさん:2019/04/16(火) 00:34:58 ID:LC3de7YgO
>>463
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

神の臨在――これこそが天国だ!
そうなったら、あなたを完全に結晶化させる
第四の奇蹟が起こり、あなたの二元性は消える。
これが起こるまでは、あなたは奥深くでは分裂している。
あなたが男であれば、あなたはみずからの女性性を抑圧しつつ゛けているし、
また抑圧せざるをえない。
社会はあなたに「自分が男であることを忘れるな」と教える。
もしあなたが声をあげて泣いたなら、誰かがきっとこう言うだろう。
「何をやっているんだ。女だったら声をあげて泣いてもかまわないが、
君は男だろう。だったら泣くんじゃない」
すると即座に涙は止まる。
あなたは涙を抑え、涙をぐっとのみこむ。
あなたは男であり、男らしくしなければならないから、泣いてはいけない。
泣くことができなければ、
どうして笑うことができるだろう?
あなたの笑いは中途半端で生ぬるい。
それは笑いすぎたら緊張がすっかりゆるみ、
抑えていた涙がこぼれはじめるかもしれないという恐れがあるからだ。
この現象を観察したことはないだろうか?
人は笑いすぎると、泣きだしはじめる。なぜだろう?
笑いすぎると、どうして涙があふれてくるのだろう?
笑うということは、あなたが自分を容認しているということだからだ。
容認すれば、あなたはあらゆるものを受け容れてゆく。
ひとつのことだけを認め、あとは認めない
などということはできない。
ひとつのことを抑圧すれば、あなたはありとあらゆるものを抑圧せざるをえな
くなる。
これは覚えておかねばならないとても基本的なことがらだ――
ひとつのことを抑圧すると、それと同じ分だけ自分の全人格を抑圧しなければ
ならなくなる。
泣くことができなければ、あなたは
笑うこともできない。
笑うことができなければ、あなたは
泣くこともできない。
怒ることができなければ、あなたは
慈悲心をもつこともできない。
慈悲深くなることができなければ、あなたは 怒ることもできない。
生はある一定の水準を保っている。
何であれひとつのことを受け容れれば、 生の他のことも同じ分だけ受け容れ
ざるをえなくなる。
あなたにはできないことがひとつある―― 「涙は抑えるけれども、腹の底から笑う」――それは無理な相談だ。
男はもっともっと男らしくなるように教え込まれる。
小さな男の子たち――私たちは彼らの土台を、基本的な バランスを変えようと
し、単極になるよう強要してゆく。
男の子たちを無理やり男に仕立てあげねばならないので、 いくつかのことを禁
じなければならない。
喧嘩をしても、私たちは何もとやかく言いはしない―― 男は命を懸けて闘うも
のだというわけだ。
銃やピストルで殺し合い ごっこをしたり、探偵小説を読んだりしても、私たち
はとがめはしない。
だが、女の子には銃をもたせない。
女の子にはこう言い聞かせる―― 「人形で遊びなさい。お見合いをしたり、お
母さんになったり、お家をつくったり、 ご飯をつくったりするのよ。そういう
ことをして遊びなさい。それがあなたの 人生なの、そうなることになっている
の。だから、準備をするのよ」
女の子は樹に登り、枝から逆さにぶらさがったりしてはいけないと言われる。
私たちはそれをさせない。私たちはこう言う――「おまえは女の子なんだよ。
女の子はこういうことはしないものさ。おまえには似つかわしくないね」。
徐々に徐々に、私たちは極を、一方の極を強調し、他の極を完璧に抑圧してゆ
く。
これが精神分裂症のもとになる。
社会はいまだに人の実存を丸ごと受け容れる ことができないので、誰もが分裂
症にかかっている。
実存するものリアリティに向かって進んでゆくにつれて、 あなたは自分の実存
を丸ごと受け容れなければならなくなる。
あなたは男であると同時に女、 または女であると同時に男だ。
誰も男だけではないし、 誰も女だけではない。
そして、あなたがそのどちらでもある というのはすばらしいことだ。
なぜなら、それによって あなたの人生、あなたの実存は豊かになるからだ。
それは あなたに様々な彩りを加える。
あなたは七色のスペクトル、虹そのものになる。
あなたは単色ではなく、すべての色があなたのものになる。

四つめに、あなたが 神の臨在のなかに入ってゆくようになると、 分裂症は跡
形もなく消え失せる―― 分裂症が消えるにはそうするより他にない。
精神分析は大して役には立たない。
実のところ、それはあなたの極性を強調しつつ゛ける。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

469鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/16(火) 23:14:02 ID:1d4drIFg0
>>467 言葉の意味だけはオショーの説くのと同じなのじゃ。
 含意は周天の法の奥義なのじゃ。

例えば初心の者が偶然姿勢を正しくしてサマーディに入れたとしても、数秒から数十分位で終わってしまうのじゃ。
未だ気が足りず、循環もしていないからなのじゃ。
丹田の陽気が大量に生じて頭頂に入り、そこからまた大量の陰気が生じて丹田に戻るという循環が起これば、いつまでもサマーディに入っていられるのじゃ。
それを恐れて思考や分別が起これば、止まってしまうのじゃ。
肉体の陰陽の気の循環と、全てを受容する心構えがあってサマーディは長時間続けることが出来るのじゃ。
その秘訣を伝えた詩なのじゃ。

470避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 06:57:26 ID:LC3de7YgO
>>469
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

471避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 07:21:24 ID:LC3de7YgO
>>468
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

心理学はいつか男性優位ではない地点にまで到らなければならない。
さもなければ、心理学の名のもとにいつまでも愚行が演じつつ゛けられてゆく。
ジークムント・フロイトは、女性は男根への羨望を抱いていると言う。
まったくのたわごとだ!彼は男性は乳房への羨望を抱いているとはけっして言
わない。
これは男性指向の考え方だ。
実際、女性はどんな羨望にも苦しんでいない。
むしろ逆に、男が多くの羨望に苦しんでいる。
それは男には子どもが産めないからだ、子どもをつくることができないからだ

子どもをつくることができないので、男は その代用として他のたくさんの創造行為を行なう。
詩を書いたり、絵を描いたり、 彫刻をしたり、建築をしたりする。
これらは代用の創造行為だ。
奥深くで彼は ひとつのことを――自分が生命を産みだせないことを知っている
からだ。
そちらのほうがはるかに真実に見えるが、 フロイトはそのことについては一言
も語っていない。
彼は女性はひとり残らず男根への羨望を抱いていると言う。
これはまったくのたわごとだ。
心理学はいまだに男と女という 古びた区分けを手放せないでいる。
人間は男と女の両方だ。
だが、この究極の統合は第四のステージではじめて起こる。
天上をさすらいながら、受容の精神を食べる。
"受容"とは女性性を意味している。
あなたはその対極を食べる。
そして、いいかね、食べるとは吸収するということだ。
「弟子たちはみな人の肉を食べなければならない」
といういにしえの格言があるのはそのためだ――
それは師を食べなければならないからだ。
それを文字通りに受け取ってはいけない。
それは譬たとえにすぎないが、ひじょうに深い意味が込められている。
食べるとは吸収すること、消化することを意味しているからだ。
師はあなたの一部になり、もはや分離してはいない。
イエスが最後の晩餐で弟子たちに別れを告げるとき言っていたのはそのことだ

彼はパンを裂いて弟子たちに配り、
「このパンは私だ。それを食べなさい。それは私の肉だ」
と言い、ワインを注いで弟子たちに配り、
「このワインは私だ。それを飲みなさい。これは私の血だ」と言う。
これもやはり譬えだ。彼は弟子たちに言っている。
「人食いになりなさい。師を食べ、師を消化しなさい。そうすれば、あなたと
師のあいだに分離はなくなる」
それはこの第四の言辞についても当てはまる。
あなたは自分のなかのもうひとつの極を食べなければならない。
呂祖は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
なぜなら、いつの時代でも、男たちのほうが冒険心や探究心が旺盛だからだ。
女性のほうがもっと落ち着き、くつろいでいるように見える。
だから、そこにいたのは男性の弟子たちだったにちがいない。
彼は男性の弟子たちに語っていたにちがいない。
だから彼は「みずからの女性を食べなさい」と言っている。
だが、それは女性の弟子たちにも当てはまる。
彼女たちはみずからの男性を食べなければならない。
二元性が消え失せるように、内側でもう ひとつの極を吸収しなければならな
い。
ひとたびこの四つの詩句が成就されたなら、 すべてのなかで最も深遠な秘密が
明かされるだろう。
そして、さらに深い秘法のなかの秘法がある―― どこにもない国こそ、真のわ
が家である。
さあ、ここではじめてあなたは自分が存在していないことに気つ゛く。
だが、自分が存在しないといっても、それはたんなる空虚な状態を意味するも
のではない。
あなたのなかの人格は姿を消すが、臨在が現れてくる。
内側にあった<存在>からの分離感は消え失せるが、全体があなたのなかに宿る
ようになる。
あなたはもはや孤島ではない。
今や自分がどこにいるかをつきとめるすべはない。
それゆえに……

どこにもない国こそ、真のわが家である。
もう自分がどこにいるのか、
自分が誰であるのか言うことはできない
――それこそが真のわが家だ。
この"どこにもない"というのは、実にすばらしい言葉だ。
インドの偉大な神秘家スワミ・ラーマティルタは、
最高裁判所で検事をやっていた友人の話を何度も何度もくり返したものだった。
この友人は完璧な無神論者であり、絶えず神の存在を否定する説を唱えていた

彼は筋金入りの無神論者だったので、みんなに注意をうながすために、居間の
壁に誰の目にもわかる大きな文字で「神はどこにもない GOD IS NOWHERE」と書
きつけていた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

472避難民のマジレスさん:2019/04/17(水) 08:44:44 ID:LC3de7YgO
>>466
玉清留下逍遥訣
四字凝神入氣穴
六月俄看白雪飛
三更又見日輪赫
水中吹起藉巽風
天上游歸食坤徳
更有一句玄中玄
無何有郷是真宅

玉清は逍遥訣を留め下せり
四字は神を凝らして氣穴に入る
六月に、俄かに白雪の飛ぶを看て
三更に又、日輪の赫たるを見る
水中に吹起し巽風を藉る
天上に游歸し坤徳を食らう
更に一句有り、玄中の玄
無何有郷はこれ真宅なり

↑読み方見つけたであります。
(´・(∀)・`)つ

473鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/17(水) 23:06:04 ID:1d4drIFg0
↑それでよいのじゃ。

気を鍛錬する秘訣でありながら、心を制御することが大事とされているのじゃ。
無為の為によって神気を貯めるのじゃ。
欲心も分別もせずに全てを忘れて丹田に集中するのじゃ。

気が大量に発生して体を通れば、さまざまな現象が起こったりするのじゃ。
体が震えたり、自動的に動いたり、映像が見えたりするのじゃ。
それらに囚われず全てを受け容れる境地が玄の中の玄なのじゃ。

474避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 06:51:12 ID:LC3de7YgO
>>471
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

彼に会いにきたり訪ねてきた者たちはみな、まずこの「神はどこにもない」と
いうこの文字をいやでも目にすることになる。
あなたが「神はある」と言おうものなら、
手ぐすねを引いて待っていた彼がただちにとびかかってくる。
そうこうするうちに子どもが生まれて、子どもは言葉を覚えはじめたが、まだ
まだたどたどしかった。
ある日のこと、父親の膝に坐っていた子どもがその文字を読みはじめた。
「どこにもない NOWHERE」という単語は長すぎて読めなかったので、子どもは
それを二つに分けてこう読んだ――
「神は今ここにいる GOD IS NOW HERE」
NOWHERE は NOW と HERE の二つに分けることができる。
父親は驚いてしまった。
この言葉を書いたのは自分だが、一度もそんな読み方をしたことはなかったか
らだ。
意味がまるで逆さになってしまう……神は今ここにいる。
彼は子どもの目を、その天真爛漫な目をのぞき込み、
はじめて何か神秘的なものを感じた。
はじめて子どもを通して神が話しかけたような気がした。
彼の無神論、生涯をかけた無神論は、
この子どもの言葉ゆえに消え失せてしまった。
そしてラーマティルタは、この友人は息を引き取るときには、
彼が知るかぎり最も敬虔な人物のひとりになっていたと言っている。
が、その変化は子どものちょっとした読み違いで起こった。
子どもは「どこにもない NOWHERE」を一息で読むことができなかった。
この「今ここ NOW-HERE」
と「どこにもない NOWHERE」という言葉はすばらしい。
神が今ここにいることがわかると、
神はどこにもいないことがわかる。
どちらも同じことだ。
神はどこか特定の場所にいるわけではなく、それは確かに真実なので、神はど
こそこにいるという言い方はできない。
居場所をつきとめることはできないし、それを確定することはできない。
ナナークは、
神の居場所を尋ねるのはまるで見当違いであり、
神がいない場所はどこかと尋ねるべきだと言っている。
神があまねく存在しているのであれば、
神は至るところにいると言っても、
神はどこにもいないと言っても大差はない。
神があまねく存在しているのであれば、
ど こ そこ に と言うことには意味がないからだ。
神はある。
どこにもない国とは今ここのことだ。
今が唯一の時間であり、ここが唯一の場所だ。
今ここで神を見いだすことができなければ、
どこへ行っても神を見つけることはできない。
この瞬間、ま さ に こ の 瞬 間 に ……
三つのステップが実現され、
第四のものが達成されたら、
これが起こる。
これは秘法のなかの秘法だ――
神はどこかに腰かけている人物ではない。
神が人物として知られることはけっしてないし、
人物として知られたことも一度もない。
神を人物として認知した人々はみずからの空想にだまされていただけだ。
キリストの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。あなたがそれをつくりだし
ている。
クリシュナの姿を見るなら、それはあなたの空想だ。
空想力を培うことはできるし、空想の翼を広げることはできるが、あなたは夢
をつむぎだし、夢を投げかけている。
それはあなたの夢を見る心の働きだ。
真理は人物ではないし、真理は ど こ か に、外にあるものではない。
それは客体として見つかるものではなく、
みずからの目撃しつつある主体だ。
そしてそれは、あなたの男と女が消えて
ひとつになってはじめて実現する。
フランス人が言うように、三つの性別がある――男、女、そして聖職者。
彼らは冗談で言っているのだが、そこにはなかなか深い意味が込められている。
まさに三つの性別がある――男、女、そしてブッダだ。
ブッダは男とも呼べないし女とも呼べない。
いずれかの肉体をもってはいるが――
男の肉体かもしれないし女の肉体かもしれない――
ブッダはもはや自分の肉体に同一化していない。
彼はただ純粋な目撃者だ。
彼は、あなたが彼の肉体から離れているように自分の肉体から離れている。
あなたと彼の肉体とのあいだには距離があるが、 彼とその肉体のあいだにも同
じような距離がある。
あなたは外に立って彼の肉体を見ているが、 彼は内側の深いところに立って自
分の肉体を見ている。
だが、 あなたと彼の肉体のあいだの距離 と、彼とその肉体のあいだの距離は
同じだ。
彼はもはや自分の肉体に同一化していない。
彼は男とも呼べないし女とも呼べない。
彼はただ超越している。
そしてこの彼方なるものが開かれたとき……
どこにもない国こそ、真のわが家である。
あなたはわが家に帰り着いている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

475鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/18(木) 22:26:08 ID:1d4drIFg0
回光して陰陽の気を循環させた肉体は何か人と違うものに変化するのではないのじゃ。
むしろ人間の本来の姿に戻るというのじゃ。
子供に近いからだがその本来の姿なのじゃ。
欲はなくなり、常に快があり、知識は乏しくとも智慧は在るのじゃ。
そのような肉体に戻ることが真宅に還ることなのじゃ。

476避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 22:44:11 ID:LC3de7YgO
>>475
うむ。
くま禅病予防のため、熱感として感じられる「気」をコントロールして巡らせていたとき、明らかに精神的な瞑想とは異なり、肉体の実感として容易く感じられるものだったので、
あの先に、そんな世界が広がっているとは、思えなかったであります。
むしろ、集中して座っているとき以外に、日常で、腰や背中、脚などが突然発熱してきたりしてたので、あまり深入りしない方がよいかなと思ってしまったのでありました。
(´・(ェ)・`)つ

477避難民のマジレスさん:2019/04/18(木) 23:22:48 ID:LC3de7YgO
>>474
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

この詩句は神秘に満ちている。
それが意味するのは、深遠なるタオにおいて 最も重要なのは「無為の為」とい
う詩句である、ということだ。
わが家に帰り着いてはじめて「無為の為」
という言葉の究極の意味がわかるよ
うになる。
だが、あなたはまさにその始めから、その方角に向かって進んでゆかなければ
ならない。
そうしてはじめて、いつの日か究極なるものが起こる。
無為の為とは何だろう?
活発に動きまわるのはとても簡単だし、
何もしないでいるのもとても簡単だ。
夜も昼も活動的で、絶えず動きまわり、落ち着きのない人々がいる。
西洋ではそれが起こっている。
人々は過剰なほど活動的になってしまっている。
彼らはほんの一瞬も落ち着いて坐ることができない。
坐り心地のいい、すてきな椅子に坐っているときでさえ、そわそわしながら姿
勢を変えてばかりいる。
彼らは落ち着くことができない。
人生そのものが騒々しい。
彼らはいつも忙しくしているための何かを必要としている。
彼らは忙しく動きまわり、自分自身を狂気に駆り立ててゆく。
東洋の人々はひじょうに消極的で、怠惰になってしまった。
彼らは怠惰のあまり死に瀕している。
彼らは怠惰のせいで貧しい。
彼らは自分たちが貧しいのは世の中のせい、他人のせいだと言わんばかりに、
世界全体を非難しつつ゛けている。
彼らが貧しいのは、彼らが怠け者、完璧な怠け者だからだ。
彼らが貧しいのは、行為が完全に消え失せてしまったからだ
――その彼らがどうして生産的になれるだろう?
どうして豊かになれるだろう?
彼らは搾取されてきたから貧しいのではない。
インドの裕福な人々の有り金をすべて分配したとしても、貧困はなくならない
だろう。
裕福な人々がみな貧乏になることは確かだが、貧乏人が金持ちになることはな
い。
貧困はずっと奥深いところに、無為ゆえにある。
そして一方の極を選ぶのはとても簡単だ。
為すことは男性的であり、無為は女性的だ。
呂祖は「人は無為の為を学ばなければならない」と言う。
人はこの複雑なゲームを学ばなければならない。
人は行為しなければならないが、やり手になってはいけない。
人はあたかも神の道具として働いているかのように行為しなければならない。
人は行為しながら、しかも無我の状態にとどまらなければならない。
行動し、対応しながら、しかも落ち着きを失ってはいけない。
行為を為し終え、適切な対応をすませたら、休息を取ればいい。
働かなければならないときには働き、遊ぶときには遊べばいい。
働き、遊んだら、休息を取り、浜辺で寝ころべばいい。
浜辺で太陽の光を浴びながら寝そべっているときには、
仕事のことは考えないこと――
会社のことを考えてはいけないし、
書類のことを思い浮かべてはいけない。
世間のことはすっかり忘れてしまいなさい。
太陽の光を浴びて、そのなかに身を横たえなさい。
それを楽しむのだ。
これはあなたが無為の為を身につけてはじめて可能になる。
そして会社では何であれやらなければいけないことをやりなさい。
工場でやらなければならないことをすべてやりつつも、
行為しているときでさえ、目撃者でありつつ゛けること。
奥深くでは、ゆったりとくつろいで、完全に
中心が定まり、周辺は車輪のように動いているが、
中心は台風の目のようになっている。
中心では何も動いていない。
これが完全な人間だ。
彼の魂はくつろいでいる。
彼の中心は完全に穏やかだ。
彼の周辺は活動し、世間の千とひとつのことを行なっている。
これが私のサニヤシンの概念だ。
だから私は
「世間を捨ててはいけない、世間にとどまりなさい」と言う。
世間のなかで行為し、やらねばならないことはすべてやりながら、しかも泰然
とし、超然とし、触れられずに、池のなかの蓮のようでありなさい。

無 為 は人が形象(物質性)に巻き込まれるのを防いでくれる。。
みずからの内奥の中核が無為のなかにあることを思い出せば、あなたはだまさ
れることはないし、形やイメージに巻き込まれることはない。
それは物質的なものだ。
あなたは世俗的にはならない。

無 為 に し て 為 す ことで、 人は鈍くうつろな状態や生気のない虚無に沈
み込む ことから逃れることができる。
そしてもうひとつの危険は、ある種の鈍さ、生気のなさ、鈍感さ、否定的な
空虚さ、虚無に退行することがあるということだ。
これもまた避けなければならない。
無為の為がこれを防いでくれる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

478鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/19(金) 22:15:20 ID:1d4drIFg0
>>476 そのような熱感も気を通す時期によくあることじゃ。
 ありのままに受け容れる心構えがあれば続けられたじゃろう。
 知識もまた必要なのじゃ。
 深く学び実践して恐れを超えて進むのじゃ。

479避難民のマジレスさん:2019/04/19(金) 23:49:34 ID:LC3de7YgO
>>478
うむ。
確かに、怖れであったのでありましょう。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

480避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 09:10:58 ID:LC3de7YgO
>>477
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

行為はあなたを積極的にさせ、無為はあなたを消極的にさせておく。
行為はあなたを男性的にさせ、無為はあなたを女性的にさせておく。
両方のバランスが取れたら、それらは互いを打ち消し合って、彼方なるものが
開き、突然、あなたの内にブッダが生まれてくる。

これまで光を巡らすことについて語ってきたのは、 外側から内なるものに働き
かける、 最初の悟りの手がかりを示すためだ。
これは師を得るのを助けるためのものであり……
最初の二つの詩句――六月に、突然、白い雪が舞う
と、次の三更(午前零時)に、日輪がまばゆい光を放つ
――これらは初歩の境地であり、あとの二つの詩句――
水中にそよ風が吹くと、次の天上をさすらいながら、受容の精神の力を食べる
はより高い境地だ。
最初の二つは初歩の境地であり、あなたが師を見いだす助けになる。
師と出会ったときには、この二つの境地を体得していてはじめてその人を師と
認めることができる。
体得していなければ、仏陀のような人に出会ったときも、自分が何を取り逃が
したのかも気つ゛かずに彼の傍らを通り過ぎてしまうかもしれない。
いつかあとになってこの二つの境地を体得したなら、あなたは声をあげて泣き
、後悔するだろう。
ブッダと道ですれ違ったことを思い出すからだ。
そうなったら、「どうして取り逃がしてしまったのだろう」
とひどく悔やむことになる。
最初の二つはあなたが師を見いだす助けになる。
最初の二つの境地は、外側から内側へと働きかけなければならない。
働きかけは外側からはじめなければならない
――今まさにあなたはそこにいるからだ。
そして内側に入ってゆきはじめなければならない。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、師はあなたを見いだしている。
次の二つは師の指令を実行することにある。
プロセスは逆になる。
今や内なるものが外に働きかけるようになる。
最初の二つの段階では、あなたは修養し、実践し、瞑想していた。
あなたは働きかけ、探し求め、闇のなかを手さぐりしていた。
次の二つの段階では、あなたは師を見いだし、彼の声を聴き、彼の目を見つめ、
彼のハートを感じている。
師の臨在があなたの実存に満ちわたっている。
信頼が湧き起こっている。
今やただ従って、師の指令をひたすら実行すればいい――
これらの指令を実行してゆくことが、あなた自身を実現することになる。

これは……初歩の境地にある学人たちに向けられたものだ。
彼らは上方の関門に達するために、下方の二つの関門を通り抜ける。
ものごとが次第に明らかになり、悟りの機縁がうかがわれると、
天は道を明らかにすることを惜しまず、究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
最初の二つにはあなたの側の大きな集中的な努力が必要とされる。
あなたは意識的に働きかけ、腰を据えて働きかけなければならない。
それは骨が折れる。
最初の二つの境地が容易でないのは、あなたの目が閉じているから、あなたの
ハートが鼓動していないからだ。
次の二つの境地が易しいのは、今やあなたの目が開いているからだ。
あなたは師の存在を知り、師のメッセージを聞いた。
今やものごとは明らかになった。
今やあなたは見ることができる。
ヒマラヤの頂は遥か遠くにあるかもしれないが、あなたはそれを見ることがで
きる。
まだ千マイルも旅をしなければならないかもしれないが、あなたはそれを見る
ことができる。
遥か遠くからでも陽に照らされたヒマラヤの頂を見ることができる。
あなたはそれがそこにあることを知っている。
今やそれはたんに時間の問題でしかない。
あなたはあの頂と麓を何度も何度も往復したことがある
案内人ガイドがそばにいることを知っている。
今やあなたは耳を傾け、従うことができる。
最初の二つの境地は大きな疑いに包まれている。
人は悪戦苦闘しなければならない。
そこでは道を誤る可能性がひじょうに高い。
些細なことで、実に些細なことで人は道をはずれてしまいかねない。
あとからふりかえってみれば、そのばかばかしさがわかるだろう。
ごく些細な、まったく取るに足りないことなのに、それが妨げになってしまう
ことがある。
探求者は油断なく、しっかりと目を見張っていなければならない。
最初の二つの境地では、ごくごく注意深くあらねばならない。
そうしてはじめて初歩の境地を体得することができる。
初歩の境地を体得すると、高い境地に手が届くようになる。
天は道を明らかにすることを惜しまず……
師を通して、天は<道>を明らかにしはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

481鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/20(土) 22:57:28 ID:1d4drIFg0
少なくともサマーディにまで至るには精神による鍛錬だけでなく、気による鍛錬も有効であることを道教やヨーガは示しているのじゃ。
心の鍛錬が苦手な者とか、行き詰まりを感じている者には福音となる可能性も在るのじゃ。
宗教的な修行であるから、心だけを鍛錬するしかないと思うのは誤りなのじゃ。
気や肉体もまたサマーディへの道となるのじゃ。

482避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 23:09:13 ID:LC3de7YgO
>>481
うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

483避難民のマジレスさん:2019/04/20(土) 23:25:53 ID:LC3de7YgO
>>480
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

天は……究極の真理を明かしてくれる。
弟子たちよ、これを秘密にし、努力を怠らぬようにせよ。
光を巡らすとは一般的な用語である。
修行が進むごとに、黄金の華はよりいっそう大きく開いてゆく。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
ここまで私たちは自分が取り組み、自分が努力して行なう光の循環について語
ってきた。
だが、行なう必要がなくひとりでに起こる、それよりもさらにすばらしい循環
がある。
それは天からの贈り物、天の恵みだ。
最初の二つの境地を体得すると、あなたの前に師が現れる。
次の二つの境地を体得すると、あなたの前に神が現れる。
そして第五の秘密、秘法のなかの秘法とは、ものごとがひとりでに起こりはじ
めるということだ。
あなたは何もする必要がない。
むしろ、あなたが何かをすればそれは邪魔になる。
今やあらゆるものがみずからの内なる力によって動いている。
タオが、あるいは神が
あなたに乗り移っている。
あなたは乗っ取られている!
あなたは完全に消え失せ、今やあなたのなかには神しかいない。
神が花として咲き、樹として繁るように、
神はあなたのなかで黄金の華となって花を咲かせる。
今や 神のなすがままであり、あなたの出る幕はない。
今やそれは 神の意志であり、あなたの意志は仕事を終えてしまった。
最初の二つの段階では強い意志が求められ、
次の二つの段階では進んで明け渡すことが求められる。
そして四つの境地を体得し終えると、
意志は必要でなくなるし、
明け渡すことも必要でなくなる。
いいかね、明け渡しはまた 意志を落とすためのものでもある。
最初の二つの境地では意志の鍛練をしなければならない。
次の二つの境地ではその意志を落とさなければならない。
それが明渡しだ。
そして明け渡しによって意志が落とされたとき、 究極の秘法のなかの秘法とは
意志でもないし、明け渡しでもない。
やはりここでも意志は男であり、明け渡しは女だ。
第四を超えて行くことで、あなたは 男と女の両方を超えて行く。
意志が去り、明け渡しもまた去ってゆく…… もはやあなたはそこにはいない、
どこを探しても見つからない。
そこには何者でもないもの、 <無>、にゃはんニルヴァーナがある。
そこでタオはみずからの仕事を成就し―― 春が訪れると樹に花が咲き、
雨が降ると雲が湧き、
朝になると太陽が昇り、
夜になると空に星が散りばめられるように
―― いっさいのことがいかなる努力もなしに進行してゆく。
太陽は朝になると何の努力もなしに昇ってくるし、
星は夜になると何の苦労もせずにまたたき、
花は何の奮闘もせずに花を咲かせる。
あなたは究極の自然の一部になっている。
だが、それよりもまだすばらしい循環がある。
これまで我々は内側にあるものに外側から働きかけてきたが、
今や中心にとどまって永遠なるものを支配する。
これまでは師を助けるための奉仕だったが、
今や師の指令を広めるのである。
こうして関係はすっかり逆転する。
この技法によってさらに精妙な領域に入って行きたければ、
まず身心を完全に統御し、完全に自由で安らかな状態に入り、
いっさいのしがらみを放下し、どんな些細なことにも心をとめず、
天上のこころを正しく中心に置くよう心がけなければならない。
巡る光が内なるものを照らしだすと、ものに左右されなくなり、
暗いエネルギーの動きは封じられ、
黄金の華が集中的に照らすようになる。
これが凝縮した極の光である。
同類のものは互いに引き合う。
したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。

あなたが二つに分けられていたら――
男と女、否定と肯定、闇と光、頭とこころ、思考と感情に分断されていたら、
あなたのエネルギーは下降してゆく。
分断は下降への道だ。
分断されず、ひとつになっていれば、あなたは上昇しはじめる。
ひとつであることは上昇することであり、
二つであることは下降することだ。
二元性は地獄へと到る道であり、非二元性は天国へと到る道だ。

したがって、極性を帯びた深淵の光は上昇する。
それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
そしてこの統合があなたの内側で起こるとき、
大いなる創造性が爆発する。
人は自分にどんな可能性が秘められているか
けっしてうかがい知ることができない。
そこには詩人が待ちうけているかもしれないし、
画家が、歌手が、舞踏家が待ちうけているかもしれない。
自分の内側で何が待ちうけているのかけっしてわからない。
あなたの男性と女性が出会い、
潜在能力が解き放たれたとき、それは実現する。
ウパニシャッドはそのようにして生まれた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

484鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/21(日) 23:05:51 ID:1d4drIFg0
>>482 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
 実践が全てなのじゃ。

陰陽の合一という観念は多くの宗教で何度も現われるものじゃ。
気だけでなく心の性質という面でも語られるのじゃ。
三つのグナのうちサットヴァを除く二つラジャスとタマスも、陰陽と捉えることもできるのじゃ。
サットヴァはその二つが理想的にバランスが取れた時に現われる実践に向いた心境なのじゃ。

485避難民のマジレスさん:2019/04/21(日) 23:19:56 ID:LC3de7YgO
>>483
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

『コーラン』『聖書』、カジュラホ、コナラック、タジ・マハール、アジャン
タ、エローラもそうだ。
このような創造性はどれも、現代人が
いわゆる創造性として知っているものとは完全に異なっている。
ピカソの創造性はタジ・マハールを設計した者とはタイプが異なっている。
タジ・マハールを設計した者――
彼の極性は消え去っていた。
彼はスーフィ―の神秘家だった。
それは彼のヴィジョンであり、深い瞑想から生まれたものだった。
今でも満月の夜にタジ・マハールに瞑想すれば、驚くようなことが起こる――
あなたの内側深くにある何かが上昇しはじめる。
上に向かって動きはじめる。
満月の夜に、一時間ほど、ただそこに坐って、
タジ・マハールを眺めながら深く瞑想するだけで、
あなたの内側の熱が鎮まってくる。
あなたのなかを雪が舞い、
涼しさが、すがすがしさが生まれてくる。
あるいは優れた仏教の神秘家によって
彫られた仏像を見つめていると――
ただ瞑想し、その仏像を眺めていると、
あなたのなかの何かが落ち着いてくる。
ピカソの絵を見つめていると、頭がおかしくなりそうになってくる。
一時間もその絵を見つつ゛けていたら、吐き気をもよおしそうになる。
それは創造性というよりも嘔吐と言ったほうがいい――まるでピカソは
自分の神経症を絵にぶちまけているかのようだ。
おそらく彼の神経症は軽くなっただろう。心理学者もまたそれと同じことを
言っている。
狂人に絵の具とキャンパスを渡して、絵を描くように言う。
絵を描きはじめると、たちまち彼の狂気は軽くなってゆく。
だから、今では絵画を使った心理療法、絵画療法を唱える精神分析の流派があ
る。
そう、それは可能だ。
絵は重荷を解き放ってくれる。
内側で進行していることをキャンパスにぶちまけると、
あなたは楽になる。
胃の調子がおかしく、気分が悪いときには、吐いてしまうと楽になる―― 絵を
描くときに感じる解放感はそれとまったく同じ種類のものだ。
吐いてしまうと楽になるが、吐き出されたもの を見る人たちはどうなるだろ
う?
だが、誰が彼らのことを気つ゛かうだろう。
それに愚かな人々というのはどこにもいるものだ。
これは現代絵画だと言えば ――それはただの嘔吐かもしれないのに――彼らは
それを賞賛する。
彼らは 「批評家がこれは現代アートだと言うのだから、きっとそうなのだろう
」と言ってくれる。
聞いた話だが…… 現代画家の展覧会があった。
人々は絵の前にたたずんで、これはすばらしいとほめ そやしていた。
優れた批評家たちも顔をそろえていたが、彼らも絶賛していた。
すると そこに画家がやって来て、こう言った。
「待ってください!絵がさかさまになってる」
絵が逆さになっていることに誰も気つ゛かなかった。
実際、逆さにかかっていたおかげで、よけい神秘的に見えたのだ。
人々はまったく愚かだ。
何につけても彼らは流行を追い求める。
そんなものは 創造性ではない。
それは神経症、あるいは神経症にむしばまれた創造性だ。
別の種類の創造性があり、 グルジェフはそれを「客観芸術」と呼んでいた。
内なる極性がもはや極性を失い、
内なる分裂が消え、あなたがひとつになったとき、
そのとき創造性が解き放たれる。
そのときあなたは人類にとって 計り知れない助けとなることをやっている。
なぜなら、それはあなたの全体性、 あなたの健康な状態から生まれてきたも
のだからだ。
それは<全体>の歌だ。
それは旧約聖書の「雅歌」のようなものだ――
とほうもない美と、とほうもない輝きを放っている。
同類のものは互いに引き合う。。
あなたがひとつになっていると、
神はあなたに引き寄せられてくる。
一なるものは一なるものに引き寄せられるからだ……
"一者から一者への飛翔"。
あなたは神に向かって飛翔をはじめ、
神はあなたに向かって飛翔をはじめる。
(´・(ェ)・`)つ
(つづく)

486避難民のマジレスさん:2019/04/21(日) 23:23:20 ID:LC3de7YgO
>>485
満月の夜にタジ・マハールに瞑想・・・
優れた仏教の神秘家によって彫られた仏像・・・
鬼和尚、みーはーな関心でおはずかしいのでありますが、鬼和尚のおすすめの、国内にある仏像があれば、教えてください。
(´・(ェ)・`)つ

487鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/23(火) 00:09:52 ID:1d4drIFg0
大日如来の像がよいじゃろう。
何処の寺にあるものでもよいのじゃ。
空になった心が味わえるのじゃ。
神仏をイメージすれば今の自分のイメージ以上の智慧と力も発揮できるのじゃ。

488避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:19:06 ID:LC3de7YgO
>>487
ありがとうであります。
いろいろ行ってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

489避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:30:40 ID:LC3de7YgO
>>485
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十二話 六月に白い雪が舞う(つづき)
より抜粋

それはもはや深淵の光であるだけではなく、 創造的な光が創造的な光に出会う
ことだ。
この二つの実体が出会うと、それらは固く結ばれて 離れなくなり、
尽きることのない生命が発現する。
それはおのずと根元の気(エネルギー)の宮 のなかを去来し、
浮き沈みをくり返す。
あなたの創造性が完全に解き放たれると、
神の創造性があなたのなかに降りてくる。
そしてこの二者の創造力の出会いが起こる。
創造者だけが創造者に出会うことができる。
創造者だけが創造者に出会う力量をそなえている。
そして、この二つの創造力、人間と神の創造力が出会うとき……。
いいかね、そこには二つの出会いがある。
最初の出会いはあなたの内側にいる男と女の出会いであり、
第二の、最終的な出会いは、全一で円満な人間としてのあなた
<全体>との出会い、人間と神との出会い、究極の出会いだ。
それは永遠のものだ。
ひとたびそれが起これば、あなたは死を超える。
それが元にもどることはありえない。

人は光輝く無限なるものを目のあたりにする。
全身が軽やかになり、今にも飛びそうになる。
「雲が千の山々にかかる」と呼ばれる状態である。
今やあなたは千の山々にかかる雲のように無限なるものだ。

それはあちこちを軽やかに去来し、 覚知しえぬほど静かに浮き沈みする。
脈拍は穏やかになり、呼吸は止まる。
これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」と呼ばれる状態である。
この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
これが一陽来復であり、新しい生命が兆すときである。
そしてそれが起こると、
あなたの内なる創造者と
<全体>の創造者とのこの出会いが起こると、
あなたはこのうえもなく静かに、完全に静かになり、
気配がひそみ、脈拍は穏やかになり、呼吸が止まる。

これが真の創造的な交合の瞬間であり、
「月が無数の水面を吸引する」 と呼ばれる状態である。
満月になればそれがわかる。
海水は月に向かって浮上をはじめ、月に行きたいと願う。
それとまったく同じように、
人間は神に到達したいと願う。
だが、内側にこのうつろな空間を、
内側にこのまったき虚空を生みださないかぎり、
わずかに浮上しては、再び降下することになる。
だが、あなたがひとつの不在――否定的な不在ではなく、
完全に肯定的な不在になることができたら、
月は無数の水面を引き寄せる。
そうなったら、あなたは上昇し、
どこまでも昇りつつ゛け、そして
月との出会いが起こる!

この暗黒の只なかに、突然、天上のこころが動きはじめる。
ふつうの心臓が止まり、
ふつうの脈拍が停止するとき、
あなたははじめてまったく異なる質が生まれてくるのを感じる。
あなたは再び息を吹き返すが、
その息はもはや前と同じものではない。
あなたの脈は再び打ちはじめるが、
それはもはや同じ脈ではない。
今や神があなたのなかに生きている。
今やあなたはそこになく、
ただ神だけが存在している。
私たちがブッダを「バグワン」と呼ぶのはそのためだ。
神が彼のなかで生きはじめる瞬間がやって来た。
人は姿を消してしまった。
人はたんなる中空の竹となり、
そこを神の歌が流れはじめた。
それが究極の目的地だ。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

490避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 00:33:59 ID:LC3de7YgO
>>489
中空の竹・・・以前講読会で取り上げたマハムドラーの詩にも出てきた表現でありますね。

心を揺さぶる講演でありました。
(´・(ェ)・`)つ

491鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/23(火) 22:14:20 ID:1d4drIFg0
>>488 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

>>490 全てを流れるままにしていればその境地も訪れるのじゃ。
 その時、自分とか、自分のものはもはや無いのじゃ。
 全ては流れ去り、通り過ぎていくものであることが実感できるのじゃ。
 自分がしているということもまたなくなるのじゃ。
 それが無為の為なのじゃ。

492避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 22:45:25 ID:LC3de7YgO
>>491
> 自分がしているということもまたなくなる
 それが無為の為

うむ。
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

493避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 23:10:34 ID:LC3de7YgO
>>489
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬

呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり、 すべての霊妙なものが根元
に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り、 学人は深い静けさのな
かで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
そこは形なき空間であり、そこでは千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、 そこでは無限の劫こうも一瞬に他な
らないからだ。
こころというものは、静けさの極点にまで 達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
それが真の思念だ。
ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわれが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、 欠かすことのできないものである。
これは こころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
それは無極にはじまり、再び無極へと帰る。
仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。
ある満月の夜のことだ。
大地は初々しい花嫁のように見えた。
月の光は雨のように降り注ぎ、空も海も
大いなる喜びに包まれていた。
樹々は酔っぱらい、酔いしれ、
陶酔しているかのように風に揺られ、
山頂に雪を抱いた遠くの山々は
深い瞑想のなかにあるブッダのように見えた。
松の老木を吹き抜ける風は清らかな調べをかなで、
舞い踊る天地万物には、もう少しで触れられそう
なほどのしっかりとした手応えがあった。
そして、このような歓喜と祝福に満ちた夜に、
彼方なるものが地上に降りてきた。
希有な女性である千代能が光明を得た。
彼女は再び楽園にもどった。
彼女はわが家に帰り着いた。
時が消え、時の感覚がなくなり、永遠のなかで、
永遠なるものとして生まれるとは
なんという瞬間だろう!
完全に消滅しながら、
しかもはじめて存在するとは
なんという瞬間だろう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行してきたが、
光明を得ることができなかった。
ある夜のこと、彼女は水をなみなみと張った古い手桶を運んでいた。
彼女は歩きながら、桶の水面に映る満月を眺めていた。
と、突然、桶をたばねていた竹のたががはずれ、
桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、月影は消え去り、
そして千代能は光明を得た。
千代能がいただく桶の底抜けて
水もたまらず月も宿らず
光明は起こるときに起こる。
起こるように命じることはできないし、
それを引き起こすこともできない。
それでも、それを引き起こすために
多くのことを為すことはできるが、
どんな行為も光明を引き起こす原因にはならない。
どんな行為も光明をもたらしはしないが、
光明を受け取れるようみずからを準備することにはなる。
それは訪れるときに訪れる。
あなたの行為はすべて、光明を受け取れるよう、
それが訪れたことを知り、その到来を認識できるよう
準備をすることに他ならない。
それは起こる……
だが、自分に用意ができていなければ
見逃しつつ゛けることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

494避難民のマジレスさん:2019/04/23(火) 23:13:30 ID:LC3de7YgO
>>493
>すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴、洗い清めるという最も深遠な奥義は、 こころをからっぽ
にする修行につきる。
これですべてのことに片がつく。

うむ。

>尼僧の千代能
の話の原典は何でありましょうかうか?
(´・(ェ)・`)つ

495避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 02:56:12 ID:LC3de7YgO
>>493
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

それは刻一刻と起こりつつある。
吐く息、吸う息のひとつひとつが光明をもたらす。
なぜなら、光明とは
<存在>を成り立たせている素材
そのものに他ならないからだ。
だが、それを認識するのはむずかしい。
それがそこにあることに気つ゛くのはむずかしい。
神は存在する。
神の存在は疑いようがない。
問題は、私たちには神が見えない、
見る目がそなわっていないということだ。
瞑想や祈りや浄化はすべて、あなたに
見る力をそなえさせてくれる助けになるにすぎない。
ひとたび見ることができたら、
あなたは驚くだろう―― それはつねにそこにあった。
昼も夜も、年がら年中、
それはあなたの上に降り注いでいたのに、
あなたはそれをとらえることができるほど敏感では なかったし、それに満たさ
れるほどからっぽではなかった。
あなたはあまりにも自我エゴで一杯になっていた。
元をたどるなら、これが 最も基本的なことがらだ―― あなたがいなくなると
、 ただちに光明が起こる。
虚空が現れると、 ことはすべて片つ゛いてしまう。
あなたがいつつ゛けるなら、あなたは 無知のままであり、闇に満たされてい
る。
あ な た が闇だ。
そこに あ な た が い る ことが"魂の闇夜"だ。
あなたがいるとき、 あなたは<存在>から分離している。
それが闇をつくりだしているものだ―― 私と<全体>とのあいだには 溝がある
、隔たりがあるという 思い。
そうなったら私は独りぼっちになる。
そうなったら恐怖に包まれて、苦しみが生まれる。
私はひどく孤独な、ちっぽけな存在であり、 いずれ死がやって来たら、跡形も
なく消されてしまう。
死にあらがって身を守るすべはない。
こうして人は震え、おののきながら生きている。
だが、私たちが 震えや恐怖を引き起こしている。
<存在>から切り離されているというその 思いがそれをつくりだしている。
この分離感を落としたとたん―― 自分は切り離されていない、
けっして切り離されることもないし、 分離など起こりようがない、
自分は全体の一部であり、 元から全体に組み込まれている、
自分は全体のなかにあるし、 全体は自分のなかにある
ということを見た瞬間―― 問題は解消し、永遠に溶け去ってしまう。
死が消え失せ、恐怖が消え失せ、苦悶が消え失せる。
そして恐怖、不安、苦悩に巻き込まれていた エネルギーが一挙に解き放たれる。
その同じエネルギーが魂の祝祭と化す。
光明とは何だろう?
それは本当のあるがままの自分 を見る度量のことだ。
私たちに自我エゴなどというものはない。
自我というのはたんなる思い込みにすぎない。
私たちがそれをつくりだし、それを投影している。
それは私たちの幻想であり、私たちの夢だ。
それは実在せず、現実にはないものだ。
気つ゛きを深め、内側を見つめれば 見つめるほど、自分というものは消えて
ゆく。
気つ゛けば気つ゛くほど、あなたはいなくなる。
そして覚醒がすみずみにまで 行きわたる瞬間、あなたは消え失せる。
もはや水はなく、 水面に映る月影もなく、 あなたの手はからっぽだ。
それはからっぽであり…… ことはすべて片つ゛いている。
それが千代能に起こった。
彼女は長いあいだ修行してきた。
彼女はありとあらゆる瞑想を行ない、 ありとあらゆる技法を修得してきたが、
それでも悟ることができなかった。
それを引き起こすことはできない。
それはあなたを超えている。
あなたに引き起こすことができるなら、それはあなた以下のものだ。
あなたに引き起こせるなら、
それはまたもや 自我エゴの新しい飾りにすぎないものになる。
それを引き起こすことはできない。
それが起こるよう仕向けることはできない。
それが起こるためには、あなたが消えなければならない。
だから世界中の経典を学びつくすこともできる。
あなたは豊かな学識をそなえた知識人にはなるだろうが、
それでも光明を得ないままでいる。
実のところ、知識を蓄えれば蓄えるほど 自我が膨らんでゆくために、
あなたは 前よりもっと光明から離れてゆく。
苦行を積めば積むほど、あなたの自我は膨らんでゆく。
「私はこれをやっているし、あれもやっている。
私はずいぶんたくさんのことをやってきた―― 断食をくり返し、数しれぬほど
礼拝をしてきた」
やればやるほど自分に価値 があると思い、光明に値すると思うようになる。
光明を要求することはできない。
光明が訪れるためには、人は 完全に消えなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

496鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/25(木) 22:35:19 ID:1d4drIFg0
>>494 それは実在した尼僧の話じゃな。
 禅宗で修行して桶が抜けたことで観照が起きたのじゃ。
 分別や観念が桶であり、月の影が自分なのじゃ。
 観念が無ければ自分もなかったと気付いたのじゃ。
 絵にもなっているのじゃ。

497避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 22:55:19 ID:LC3de7YgO
>>496
鬼和尚、ありがとうであります。
絵画になるくらいでありますから、有名な話なのでありますね。
検索したら、仏光国師語録 という本に記されてるようありますが、
OSHOは本当に博学な菩薩でありますね。
(´・(ェ)・`)つ

498避難民のマジレスさん:2019/04/25(木) 23:11:48 ID:LC3de7YgO
>>495
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

神が訪れるためには、思考 マインドがやまなければならない。
それを「神」と呼ぼうが、「光明」と呼ぼうが―― それは同じものだ。
千代能は長いあいだ修行をしてきたが、 光明を得ることができなかった。
光明は探し求めることによって 見いだせるようなものではなく、 探求がすべ
て無益であることが 明らかになったときに訪れてくる。
そして、いいかね、私は 「探し求めてはいけない」 と言っているのではな
い。
探し求めないかぎり、 探求が無益であることは けっしてわからないからだ

私は「瞑想をしてはいけない」 と言っているのではない。
瞑想をしなければ、 するのではなく 向こうから訪れてくる 瞑想がある とい
う理解にはけっして到らない。
瞑想は、たんにあなたの目を洗い清め、もっと見えるようにしてくれるだけだ。
あなたのこころハートは、 もっと敏感に冴え、とぎ澄まされ、 愛に満ち、感
じやすくなる。
あなたの実存は今まで見た ことがないものをとらえはじめる。
あなたはみずからの実存の内にある 新しい空間を探求しはじめる。
新しいことが毎日、刻一刻と起こるようになる。
あなたの瞑想は風呂のようなものだ―― 風呂に入るとすっきりするが、 その
さわやかさは悟りではない。
それはたんに道を整えるだけだ。
あなたが光明に到ることはけっしてない。
それはつねに向こうからやって来る ――光明があなたのもとに到る。
神があなたのもとにやって来れるよう、
神のための道を整えなさい。
神を見いだすことはできない。
できるのは、 神があなたを見つけだしてくれるように、
深く信頼して、待つことだけだ。
千代能もそのようにして取り逃がしていた。
彼女は探求し、探求し、その探求にあまりにも 巻き込まれすぎていた。
だが、この探求もまた 「私は求道者だ」「私は凡人ではない」「私は精神的
だ」「私は宗教的だ」 「私は高潔だ」と言って、あなたのエゴを膨らませる。
もしこの"おまえよりも私のほうが高潔だ" といった態度が生まれてきたら、
あなたは道に迷ってしまう。
それは人生で犯しうる 最大の罪であり、最大のあやまちだ。
他人よりも自分のほうが高潔であり、自分は聖者だが他人は罪人であり、
「見ろ、私の徳の高い人生を」といった思いが浮かんできたら、 有徳の人にな
ってしまったら、あなたは道に迷ってしまう。
なぜなら、この 自分は徳が高いというエゴは もっとも微妙なエゴであり、
落とすのがひじょうにむずかしいからだ。
鉄の鎖を捨てるほうがやさしい。
ダイヤモンドを散りばめた金の鎖を身にまとうことができたら、 それを捨てる
ことはいっそうむずかしくなる。
なぜなら、それは鎖のようには見えず、高価な装飾品のように見えるからだ。
汚い牢屋から脱け出すことはやさしいが、 もしそれが宮殿だったら、誰が脱け
出したいと思うだろう?
脱け出すどころか、なかに入りたいと思うだろう。
罪人のほうが聖人よりも神に近い。
なぜなら、罪人はその境遇から脱け出したいと思っているが、 聖人は得意にな
って自分の幻想にひたっているからだ。
千代能は尼僧だった。彼女は微妙な、自分は正しい ――ものをよく知っている
、高潔な人間だ ――という態度を楽しんでいたにちがいない。
彼女は偉大な出家者だった。彼女はすばらしい美貌に恵まれていたと言う。
あまりに美しいので、ある僧院を訪ねたときには断られてしまった。
こんなに美しい女性を僧院に入れると、僧侶たちが動揺するかもしれないから
だ。
その後、彼女は顔を傷つけてやっと別の僧院に入ることができた。
彼女はすばらしい美人だったにちがいないが、ちょっと考えてごらん…… 彼女
は自分の顔を傷つけて、それを醜くしておきながら、 深いところではこう考え
ていたにちがいない。
「私のみごとな捨て方を見なさい。私はとても美しい女性だった。なのに私は
その顔 を傷つけた……こんなことをした者はかつていなかったし、これからも
いないだろう。 私の捨て方を見なさい。肉体への執着のなさを見なさい。私は
美貌のことなど少しも 気にしていない。私はどんな犠牲を払っても光明を得よ
うと決意している」
こうして彼女は見逃しつつ゛けていた。 だが、ある満月の夜に それは起こった。 それは意表をついて、突然、起こった。
それはいつも不意に起こる。
それはつねに突発的に起こる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

499避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 16:02:51 ID:Encevg.s0
>>497 横レス失礼します
「無水無月」というoshoの本で
”あれこれとたくみし桶の底抜けて
水たまらねば月もやどらじ”が紹介されています
千代能以外の禅師の話も色々書かれていておすすめです

500鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/26(金) 22:09:40 ID:1d4drIFg0
>>497 そうじゃ、かなり学んでいるのじゃ。
 オショーは既に如来なのじゃ。
 菩薩はまだ悟っていない修行者なのじゃ。
 
>>499 ご苦労さんなのじゃ。

501避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 23:07:27 ID:LC3de7YgO
>>499
情報提供、ありがとうであります。

>>500
如来でありましたか。覚者でありますね。
(´・(ェ)・`)つ


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