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鬼和尚の仏教購読会 別館

302避難民のマジレスさん:2019/02/10(日) 10:09:06 ID:LC3de7YgO
>>300
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

小さなことでも寄せ集まると、 大きな影響を及ぼすことになるからだ。
誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩したりしたあとで 私のもとへ来れば、当然、
あなたは私から遠く離れている。
イエスがこう言うのはそのためだ。
「寺院へ祈りを捧げに行って、誰かを傷つけたこと、誰か を侮辱したこと、誰
かに腹を立てたことを思い出したら、 あるいは誰かに腹を立てていることに気
がついたら、まず 行って許しを請いなさい。それをすましてから祈りを捧げに
くるがいい。そうでなければ、神と関わることはできない。 まず行って許しを
請いなさい。まずものごとを清算しなさい」
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で仕事をしていたときのことだ ……彼はイ
エスの絵を描いていた。
絵はほとんど完成していて、 あとは仕上げの筆を待つばかりだった。
だが、なかなか最後の一筆 を加えることができなかった。
イエスがイエスらしく描けていなか ったのだ。
イエスの顔に何かが足りなかった―その柔和さ、その 女性的な資質がそこには
欠けていた。
そこにはあの愛の質が欠けていた。
連日、懸命に努力しているうちに、ミケランジェロは、ある 友人と口論をした
ことを思い出した。
彼はまだそれを内側に 抱えていたのだ。
さらに彼は「祈りに行ったとき、友や兄弟 に良い感情を抱いていないことに気
つ゛いたら、まず行って 許しを請いなさい」というイエスの言葉を思い出した。
彼は礼拝堂から駆け出ると、その友人のところへ行って 許しを請い、ことの顛
末てんまつをすべて話した。
「何日も仕事をしていたんだが、イエスの顔がどうしてもうまく 描けなかった
んだ。何か怒りのようなものがそこには残っていた」 ―それは彼の内部にある
怒りだった。
怒りや悪感情を 抱いたまま絵を描こうとすれば、それはあなたの両手 で描かれ
るのだから、その絵にはあなたの内面が表れて くる。その絵には基本的にあな
たが映し出されてくる― 許しを請い、それが受け容れられたとき、 ミケランジ
ェロは気分を一新することができた。
わずか数分の仕事で、絵は完成した。
それは最も 美しいイエスの絵のひとつだ。
わずかに筆を加える だけで、絵はいきいきとし、イエスが浮かびあがってきた。
今やミケランジェロのこころは調和のなかにあったからだ。
(p237)
タオを分かち合うことはできる。
だが、あなたは それを分かち合う方法を学ばなければならない。
そして 多くのことがらにひじょうに注意深くならなければいけない。
それはある意味では単純だが、ひじょうに複雑でもある。
単純なのは、あなたが本当に開き、調和していたら 、それはほんの一瞬のうち
にも起こりうるからだ。
複雑なのは、あなた自身もまったく気つ゛いていないようなごく小さな習癖を
変えなければならないからだ。
あなたは生全体を変えねばならなくなる。
あなたがたに教えとして差し出すものなど何もない、と私が言うのはそのため
だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

303鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 22:51:21 ID:1d4drIFg0
心は実に微妙で正直な反応をするものじゃ。
心にほんの僅かな恐れがあっても自我を明け渡すことは出来ないのじゃ。
自我を明け渡せるその瞬間がやってきても恐れが少しでもあれば何か口実を作って逃げてしまうのじゃ。
心の僅かな働きにもよく注意しなければならないのじゃ。

304避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 05:21:04 ID:LC3de7YgO
>>302
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

私はあなたがたを挑発 するエネルギーを分け与えることならできる。
私は哲学や神学の体系を与えているのではない。
私は私そのものを与えている。
それは挑戦だ。
私はここであなたがたを目覚めさせようと努力している。
あなたがたは開き、リズムを感じ、そして生の小さな ものごとを観察しなけれ
ばならない。
呼吸は最も重要 なものだ。
あなたはサットサングのなかにあるときの 息つ゛かいを、師のそばにあるとき
の息つ゛かいを、 愛のなかにあるときの息つ゛かいを学ばなければならない。
呼吸は感情とともに絶えず変化している。
腹を立てているときには、あなたの呼吸はリズムを失い、不規則になっている。
情欲に駆られているときには、あなたの呼吸はほとんど気違いじみたものにな
っている。
穏やかで、静かで、喜びに満ちているときには、あなたの呼吸は音楽的な質を
おびていて、ほとんど歌のようだ。
<存在>にくつろいでいると、欲望を抱かず、満足感を 味わっていると、突然、
呼吸は止まったように静かになる。
畏敬の念に打たれたり、驚異に息を呑んでいるときも、 呼吸はしばらくのあい
だ止まる。
それは生の最もすばらしい 瞬間だ。
ほとんど呼吸が止まりそうになる、そういった瞬間 にのみ、あなたは<存在>と
完全に同調しているからだ。
あなたは神のなかにあり、神はあなたのなかにある。
あなたは呼吸をもっと深く体験し、詳しく調べ 、観察し、見守り、分析しなけ
ればならない。
呼吸が感情とともにどう変化するかを見てみなさい。
例えば、恐怖に駆られているとき、呼吸に起こる変化を 観察するがいい。
そして、いつか恐怖に駆られたときと 同じパターンに呼吸を変えてみるがいい。
あなたは驚く だろう―呼吸を恐怖に駆られたときとまったく同じパターン に変
えると恐怖が湧いてくる。それも即座にだ。
誰かと深く愛し合っているときに、自分の呼吸を観察するがいい。
恋人の手を取り、抱きしめながら、自分の呼吸を観察しなさい。
そして、いつか樹の下に静かに坐り、自分が 再び同じような呼吸をしているの
を見守りなさい。
パターンをつくりだし、同じ光景ゲシュタルト を呼びもどすのだ。
まるで恋人を抱擁している かのように、同じ仕方で呼吸をするがいい。
すると、驚くようなことが起こる。
全存在があなたの恋人になる。
再び大いなる愛があなたのなかに湧いてくる。
それらは連動している。
それゆえにヨーガ、タントラ、タオ―人間意識とその拡大 に関するこの三つの
深遠な方法論システムと科学に おいて、呼吸は鍵なる現象のひとつになっている

この三つはそろって呼吸に働きかけてきた。
(p239)
仏陀の瞑想法のすべては、ある一定の 呼吸の質にかかっている。
彼は言う― 「ただ自分の呼吸を見守りなさい。呼吸を変えなくて もいい。少し
も変えることなく、ただ見守るのだ」と。
だが、不思議なことに、見守るやいなや、ただちに 呼吸は変わる、ひとりでに
変わらざるをえない。
仏陀は 「呼吸を変えてはいけない。ただ見守りなさい」と言う。
だが、見守るやいなや、ただちに呼吸は変わってしまう。
注意深さには独自のリズムがあるからだ。
仏陀が 「呼吸を変えなくてもいい。ただ見守りなさい」 と言うのはそのためだ。
注意深さそのものが独自 の呼吸を生み出す―変化はひとりでに起こる。
そして、次第に不思議 なことが起こってゆく― 注意深くなればなるほど、
さらに呼吸は減ってゆく。
呼吸 はより長く、より深くなってゆく。
例えば、一分間に十六回呼吸をしていたなら、 呼吸の数は六回、四回、三回と
減ってゆく。
あなたが注意深くなるにつれ、呼吸はより深く、 より長くなってゆき、呼吸の
回数がどんどん減ってゆく。
また逆に、呼吸の側から働きかけることもできる。
ゆったりと静かに深く長い呼吸をしてゆくと、突然、 あなたのなかに注意深さ
が生まれてくる。
あたかも ひとつひとつの感情が呼吸システムのなかに もう一方の極をもってい
るかのようだ。
感情は呼吸によって誘発することができる。
だが、一番いいのは、恋をしていたり、友人 のそばに坐っているときに観察す
ることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

305避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 14:16:52 ID:LC3de7YgO
>>304
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

自分の呼吸を見守りなさい。
なぜなら、その 愛に満ちた呼吸のリズムが最も重要だからだ。
それはあなたの実存全体を変容させる。
愛のなかでは、分離した存在として身構えることの 馬鹿らしさ、虚偽を最も痛
切に感じ取ることができる。
だが、まさにこの分離、この不条理さによって、 人は他の方法では表現しえな
いことを表現すること ができる。
他者であるというまさにそのことによって 、人は互いがひとつであることを祝
えるようになる。
そこに愛の逆説パラドックスがある。
あなたがたは二人でありながら、 一体感を感じている。
ひとつでありながらも 、二人であることを知っている。
二人でありながら ひとつになった状態―そこに愛の逆説がある。
そしてそれは祈りの、瞑想の逆説でもなければならない。
究極的には、あるまれな価値ある瞬間において、人は 恋人、友人、母親、子供
に感じるような一体感 を<存在>に対して感じなければならない。
他者として分かたれているからこそ、人は 互いがひとつであることを祝うこと
ができる。
『ヴェーダ』は言う―タットヴァマシ、我はそれなり。
そこには分かたれているという明晰な自覚がありながら 、しかも深い合一感が
ある。
彼は大洋から分かたれて いながら、しかも大洋から分かたれていない。
自分が愛にあふれている瞬間 をもっともっと見守りなさい。
注意深く醒めていなさい。
呼吸がどのように変化するかを見るがいい。
身体がどのように打ち震えるかを見るがいい。
恋人を抱きしめて、実験してみるといい。
すると不思議なことが起こる。
いつか抱擁し、互いに溶け合いながら、 少なくとも一時間は一緒に坐ってみ
るといい。
すると驚くようなことが起こる― それは最もめくるめく体験のひとつになる
だろう。
一時間、何もせずに、ただ抱き合い、互いの なかに落ちてゆき、互いのなかに
溶けてゆくと 、やがて徐々に、呼吸がひとつになってゆく。
身体は二つだが、こころハートはひとつ であるかのように、息が合ってくる。
二人は一緒に呼吸している。
一緒に呼吸しているとき、 努力して合わせるのではなく、愛の感覚に圧倒さ
れて自然に息が合っているとき―それ は最も貴重な、最もすばらしい瞬間 であ
り、この世のものではなく、はるか 彼方からやって来たものだ。
そういった瞬間、あなたははじめて 瞑想的なエネルギーを一瞥いちべつする。
そういった瞬間、文法は意味を失い、 言葉は途絶える。
それを口にしようとしても、言葉にならず、そのまさに 言葉を失うことで、言
語を絶したものが示される。
そしてそれが、より深い次元レベルにおいて、 師との関係にならなければいけ
ない。
そのときはじめてタオは師から弟子 へ炎のように飛び移ることができる。
あなたは呼吸のわざアートを学ばなければならない。
(p241)
さて経文だ―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
とてつもなく深い意味を秘めた言明だ。この言葉が鍵となる―

純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。
決意とともに、人間が誕生する。
優柔不断な生き方をしている者たちは、本当は人間ではない。
そして何百万もの人々が優柔不断な生き方をしている。
彼らは何についても決めることができない。
彼らは他人によりかかってばかりいる。
誰かが彼らの代わりに決めてやらなければならない。
権威者のまわりに人々が群がるのはそのためだ。
権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められな
いでいるからだ。
彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
ひとたび命令が下されれば、彼らはそれに従う。
だが、これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを
阻んできた。
決意があなたの実存のなかに生まれてこなければならない。
決然とした態度とともに、まとまりが生まれてくるからだ。
いいかね、いくつか決断をするがいい。
決断することで、あなたは個になってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/11(月) 22:44:06 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンと記されているのじゃ。
呼吸なのじゃ。
呼吸という空間と繋がる働きは意識が在り、アートマンそのものといえるのじゃ。
呼吸によって個我はなく、全てが繋がっていると物理的に証明されているのじゃ。
それこそアートマンと呼ぶべきなのじゃ。

307避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:01:12 ID:LC3de7YgO
>>306
うむ。
薄い大気の層に包まれた、一つの生命であり、意識でありますね。
超科学的なような気がするのであります。
(´・(∀)・`)つ

308避難民のマジレスさん:2019/02/12(火) 00:13:01 ID:LC3de7YgO
>>305
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

優柔不断さとは何か?
それはあなたが臆病であるということだ。
あなたのなかには矛盾し合う声がたくさんあり、どちらへ行ったらいいのかさ
えも決められない。
人々は小さなことにも優柔不断だ―どの映画を見にゆくかといったことさえ決
められない。
優柔不断さがほとんど彼らの生活様式になってしまっている。
これを買おうか、あれを買おうか?買物をしている人々を見てみるがいい。な
んと優柔不断なことか。
どこかの店に坐って人々が、客が出入りするのを見てみるがいい。
あなたは驚くだろう―人々はどうやって決めればよいのかわからない。
そして、どうやって決めればよいのかわからない人たちは、いつもぼんやりと
、もうろうとしていて、混乱している。
決意とともに、明晰さが生まれてくる。
そして決然とした態度がすみずみにまで及び、あなたの基盤と関わるようにな
ったなら、必ず人間が誕生する。
ところで、私のもとにもたくさんの人々がやって来てこう言う。
「サニヤスに跳びこもうかどうか迷っているのです」彼らは私に「跳びなさい」
と言ってほしい。
だが、そうなったら、彼らは要点をそっくり見逃してしまう。
「思い切ってサニヤシンになりなさい」と 私 が言ってしまったら、あなたは決
断するという機会を、大いなる機会を逃してしまう。
またしてもあなたは他人によりかかってしまうが、そんなやり方では魂は成長
しない。
そしてこれは深遠な決断であり、計り知れないほど大きな意義がある。
なぜなら、それはあなたの生活様式を根こそぎ変え、新しい世界観を与えるこ
とになるからだ。
あなたは新しい方向に向かって進んでゆく。
あなたはすっかり変わってしまう。
これほど甚大な影響を与える決断は他人の手を借りず、みずからの力で行なう
べきだ。
人はみずからを賭けるべきだ。
賭けることで、勇気を奮い起こすことで、はじめて人間が生まれる。
そして決断をするなら―いいかね、決断するなら、必ずそれを実行すること。
それができなければ、決断などしない方がいい。
なぜなら、そのほうがもっと危険だからだ―優柔不断であるよりももっと危険
だ。
決断しながら実行しなければ、あなたはまったく無気力な人間になってゆく。
それなら決断などしない方がましだったことになる。
決意しながら、いつまでたってもそれを実行しない者たちがいる。
彼らはみずからの実存に対する信頼や自信を徐々に失ってゆく。
何を決意しても実行などできないのだということがだんだんわかってくる。
彼らは分裂してしまう。
彼らは自分を当てにできなくなる。
決断しているその時ですら、自分はそれを実行しないだろうということがわか
っている。
なぜなら、自分が過去に何をやってきたか知っているからだ。
彼らは決断するたびにそれを裏切ってきた。
そうなったら、ごく小さな決断でさえ、ひじょうに破壊的なものになりかねな
い。
「今日からタバコを止めるぞ」といったごく小さな決断、ごくありふれた決断
、何でもないような決断でさえ…… タバコを吸う、吸わないは大したことではな
い。
それで世界が変わるわけではない。
二十年もすれば結核を患うかもしれないが、それは 治すことができる。
あるいは二、三年早く死んでしまう かもしれないが、それがどうしたというの
だね?
どちらにしても本当に生きたことなどなかったのに。
先日、私は漫画を見ていた。
男が女に、「君は死後の生を信じるかい?」と尋ねる。
すると女が言う。「何言ってるの、これがその『死後の生』よ!」
信じなくてもいい。これがその死後の生だ。あなた はまるで活気のない死人の
ような生き方をしている。
死んだとしてもこれ以上悪くなることはない。
何ひとつ 変わりはしないだろう。
まさにこれが「死後の生」だ!
だが、小さな決断、タバコを吸わないといった取るに足りない 決断でも、実行
しなければ危険なことになる。
あなたは自信を なくしてしまう。みずからの実存に対する信頼を失ってしまう。
自分が当てにならなくなる。
そんな決断はしない方がいい。
タバコを吸いつつ゛けなさい。
決断をするなら、 肚を決めることだ。
そうなったら何が起ころうと、 それをやり遂げるがいい。
そして、それをやり遂げることができるなら、 明晰さが内側に湧き起こり、雲
が消え、何かが 自分のなかで根つ゛き、中心を定めてゆくのがわかる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

309鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/12(火) 23:17:29 ID:1d4drIFg0
>>307 そうじゃ、いずれ全て感じられるじゃろう。

悟りへの最後の関門は恐れなのじゃ。
自分をなくす恐れがあれば逃避し続けて悟りにも進めないのじゃ。
それを乗り越えるのが勇気なのじゃ。
自分という全ての主体を捨てる勇気があれば恐れを乗り越えて悟りにも到達できるのじゃ。

310避難民のマジレスさん:2019/02/13(水) 05:59:45 ID:LC3de7YgO
>>308
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

決然とした態度を取ることは、とほうもなく 重要なことであり、意味がある。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
呂祖が言おうとしているのはそのことだ。
いったん決意したなら、全身全霊を込めてそれを実行しなければならない。
後もどりしないことをはっきりさせておかなければならない。
サニヤシンたちに「橋を壊しなさい」とくり返して言うとき、私が言おうとし
ているのはそのことだ。
後もどりしないのだから、橋を残しておく必要などないではないか?
梯子を捨ててしまいなさい。
船を沈めてしまいなさい。
昔の岸辺に二度ともどることはないのだから。
船を安全な岸辺につないでおくことは、あなたがまだ揺れ動いているというこ
とを、まだ「いつかはもどらなければならないかもしれない」と考えているこ
とを示している。
数ヶ月前、アヌプが合衆国へ発った。
私は行こうとしている彼に言った。
「今度は、橋を完全に壊してくるがいい」彼は「はい、和尚」と言った。
彼は今もどってきて、私が「どうだった?橋はどうなったかね?」と尋ねると
「壊せませんでした」と言った。
それは何を意味しているのだろう?
彼はここに半身でいることしかできないということだ。
彼はもどるための扉を開けたままにしてきた。
彼は身の安全や保障をすべて確保してきている。
が、問題はこういうことだ―全一にここにいるのでないかぎり、彼は成長しな
いだろう。
そしてこれは悪循環だ―成長しなければ、数ヶ月もすればこう考えるだろう。
「橋を壊してこなくてよかった。和尚の言うことを聞いて橋を壊していたら、
たいへんなことになっていたぞ。こ
こでは何も起こっていない!向こうにすべてを残しておいてよかった。いつだ
って家に飛んで帰れるからな」
彼は一番賢く、良識的な行動を取ったと思うだろう。
だが、彼ははなから逃げもどるための橋を確保し、扉を開けたままにしておい
た。
中途半端で生ぬるく、優柔不断ではっきりしない、逃げ腰の姿勢でここにいた
にすぎない。
逃げ腰の姿勢でいては、私とともにいることにはならない。
純一なこころハートで決断しないかぎり、私とともにいることはできない。
そ の と き 成長が起こりうる。
そ の と き はじめて成長が起こりうる。
だから要点を見るがいい。あなたが私とともにここで全一にいれば、成長は起
こりうる。
そうなったら後もどりする必要はないし、橋もいらなくなる。
だが、私とともにここで全一でいなかったら、そのときには橋が必要になる。
そして「和尚に耳を貸さなくてよかった―自分はなんで賢いのだろう」と感じ
るだろう。
「見ろよ、ここでは何も起こっていない。だからもどるしかない。橋をすべて
壊していたら、どうなっていたことやら」論理的な精神マインドはそのように
働く。
それは自滅的な状況をつくりだす。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
もっとも重要なのは、成果を求めている者はすでに分裂しているということだ
。そうなったら、あなたのこころハートは働いていない、すでに成果に目を奪
われている。
分裂していたら、成果をあげることはできない。
成果をあげられるのは、ことの成り行きや結果を気にせず、旅そのものをこの
うえもなく楽しみ、目的地のことなどかまわずにいられる分裂していないここ
ろだけだ。
ゴールのことなどまったく気にかけない者だけがたどり着く―彼らの精神マイ
ンドは少しも分裂しておらず、旅の一瞬一瞬が、旅の一歩一歩がゴールになる
からだ。
どこいいようと、自分がいるところがゴールになる。
成果のことなどまったく気にかけない霊的スピリチュアルな道の上にいる人々
が成果をあげる。
成果を気にかけていたら、成果をあげることはできない。
思考が未来のどこかにあって、あなたは現在で働いていないからだ。
そして、仕事が現在において全一に為されてはじめて、成果をあげることがで
きる。
この瞬間が次の瞬間を生んでゆく。
この瞬間が全一に生きられたなら、 次の瞬間は必ずより深い全一性を、 より高
い全一性の質をおびるようになる。
だが人々は分裂したままだ。
この問題は考察するに値する。
なぜなら、これはすべての人の問題だからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

311鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/13(水) 22:26:22 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も苦行をやめて最後の瞑想に入る時に悟りを得なければもはやこの座を立たないと決意して座ったのじゃ。
強い決意が無ければどのような法も悟りの助けにはならないのじゃ。
悟りを得るための強い決意こそ最後の関門を破る唯一の力となるのじゃ。
主体である自分を捨てることは全てを捨てることであるから強い決意が必要なのじゃ。

312避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 06:42:51 ID:LC3de7YgO
>>310

黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

先日、アショカが手紙を書いてきた。
彼はここにいるが、 まだ部屋にサティヤ・サイババの写真を飾っているそうだ
―部屋に誰の写真を飾ってもかまわないが、それは たんなる部屋の問題ではな
い。
さあ彼は悩んでいる。
私は彼に言った。「サティヤ・サイババのところへ行きなさい。そして、どう
か向こうでは私の写真を部屋に飾らないでほしい。そうしないと、あなたはま
たもや取り逃がしてしまうからだ。 ここにいてもいいし、あちらにいてもいい
が、大切なのは 純一なこころハート、まとまりをもったこころだ。半身でいる
くらいなら、私とともにいるよりも サティヤ・サイババのもとにいるほうがいい」
だが、私には彼の問題がわかる。
彼は向こうでも私の写真を離さないだろう。
だから、彼がしくじるのは目に見えている。
人は選ばなければならない。
人は決断しなければならない。
人生の旅路を一歩進むごとに、人は岐路に立たされ、選ばなければならなくな
る。
すべての道をわがものとすることはできないし、すべての道を歩くことはでき
ないからだ。
私はものごとの善し悪しを云々しているのではない。
何であれ、あなたが全身全霊で選んだものが正しい 、と私は言っているのだ。
ときには全面的な明け渡しがあったがゆえ に、光明を得ていない師のもとです
ら 弟子が光明を得たことがある。
そして申し分のない師のもとにいながら 何ごとも起こらないということも往々にしてある。
師が完全であるか否かよりも、 弟子の全一性のほうが問われる。
間違った人物のもとにいても、あなたは変容を遂げうる。
その間違った人物でもあなたを変容させられるというのではない が、あなたに
全一な決断があれば、そのあますところのない 決断があなたを変容させる。
そのことのほうがはるかに重要だ。
それがなかったら、仏陀のような人とともにいることができても、 あなたが半
身にとどまり、分裂しているなら、何ごとも起こらない。
いかなる分裂も―未来と現在、目的地と旅、この道と あの道、この師とあの師
―分裂はどれもみな危険だ。
そうなったらあなたのエネルギーは無駄に費やされ、あなたは責任を他人に転
嫁するようになる。
たとえば、ここでアショカに何も起こらなかったら― こんなやり方では何ひと
つ起こるまい―当然、彼は 間違った場所にきてしまったと結論つ゛けるだろう。
彼は自分が分裂しているというポイントを見ようと しないだろう。
彼に、間違った場所にきてしまった、 「この場所は私には向いていない」と
いうことだけしか 見えない。
だが、自分が分裂しているかぎり、どこにいても 、同じことが何度も何度もく
り返し起こるだろう。
勇気を奮い起こしなさい。
私は頭マインド がずる賢く振る舞いたがるのを知っている。
頭は言う。
「両方とっておけばいいじゃないか。何が起こるかわからないぞ。 どちらも選
べるようにしておくんだ。こっちがうまくゆかなくても 、あっちがうまくゆく
かもしれない」
だが、生はそのようには動かない。
ケーキを食べながら取っておくことはできない。
それは不可能だ。
呂祖は言う―
成果は求めずとも
……なぜなら、それすらも分裂になるからだ。
分裂せずに、完全に今ここにあるがいい……

成果はおのずからやって来る。
そして、成果がおのずからやって来るとき、そこにはとほうもない美がかもし
だされる。
成果をたぐりよせなくても、それは花のように開く。
花を無理やり咲かせなくてもいい。
無理やり咲かせたなら、花は死んでしまう。
そういったやり方はよくない。それに早く咲かせすぎたら、その花には香りが
なくなってしまう。
香りを集め、香りをつくりだすために、花は正しい瞬間を待たなければならな
いからだ。
香りの準備が整ったときはじめて花はひとりでに開く
。今や<存在>と分かち合うものをそなえているからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

313避難民のマジレスさん:2019/02/14(木) 19:14:03 ID:LC3de7YgO
>>312
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

人は瞬間を楽しまなければならない。
瞬間に全一に入り込んで、他のすべてを忘れなければならない。
そうすれば、いつの日か、突然、成果が現れる。
いつの日か、見る見るうちに黄金の華が開き、あなたは別世界へと運ばれてい
る。
(p248)
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
この二つの誤りを理解しなければならない。
ひとつは女性的な精神マインドが犯す誤りであり、もうひとつは男性的な精
神マインドが犯す誤りだ。
女性的な精神は、受動的であるために昏沈、怠惰な状態をつくりだすことがあ
る。
そして男性的な精神は、能動的になりすぎて散乱をつくりだすことがある。
これもあれもと手を出して、ところかまわずあらゆる方角へ突進したがる。
女性的な精神は受動的だ。
それは待ちたがる。
ものごとを起こるがままにしたい。
だが、もしそれが無気力な状態、怠惰な状態、一種の死のようなものになって
しまうなら、やはりそれも危険なものになりかねない。
いいかね、能動性にもよいものとよくないものがあるように、受動性にも好ま
しいものと好ましくないものがる。
好ましい受動性とは、注意深く、意識をとぎ澄ましながら待つということだ。
好ましくない受動性とは、眠りこけ、いびきをかきながら、待っているつもり
になることだ。
恋人がやってこようとしている……彼がいつドアを ノックするかもわからない。
さあ、あなたは二つのやり方で待つことができる。
ドアを開け、目を門にくぎつ゛けにし、耳を澄ますというのが積極的な待ち方
だ。
少しでも音がしたら―足音がしたり、ドアをノックする音が 聞こえたら、ある
いは枯れ葉が風にひらひら舞うだけでも、あなたは戸口に駆け寄る。誰かが道
を通りすぎただけでも、あなたは戸口に駆け寄る―彼が来たのかもしれない。
これが積極的な待ち方だ。それは美しいものだ。
だが、ドアに鍵をかけ、明かりを消して、「彼がやって来て、ノックをしたら
、迎えに出ればいいわ」と言っていびきをかきはじめるようなら、それは好ま
しくない方の受動性だ。
これは昏沈だ。
神を待つことそのものはいいけれど、あなたの受動性はいきいきとした生気に
あふれるものでなければならない。
さて、二番目は散乱だ。それは男性的な精神マインドの質だ。
男性の精神は絶えず周囲に気を散らしている。
女性的な精神 はひとりの夫で満足するのに、男性的な精神のほうはたくさんの
妻を抱え込むのはそのためだ。
彼は絶えず気を散らし、通りすがりのどんな女性にも目を奪われる。
彼は自分が結婚していることをすっかり忘れてしまう。
「君は僕の命 だ。僕は君のためだけに生きるよ。君は僕の喜びだ。僕の愛は永
遠だ」 とささやいた当の女性のことをすっかり忘れてしまう。
一瞬のうちに、彼はそういったすべてのたわごとを忘れてしまう。
彼の注意力はいともたやすく四散してしまう。
男性的な精神は活動的すぎる。
だが、好ましい活動はよいものだ。
好ましい活動とは集中した活動、一心不乱な活動を指している ―井戸を掘るた
め、ひたすら一カ所を掘り進めることをいう。
好ましくない活動とは、井戸を掘るため、次から次へと新しい 場所を掘り返し
、水脈を発見できずに土地を荒しまわることをいう。
男性的な精神にはそれが起こる。
彼はこの女、あの女と恋人を 次々に変えてゆくが、真実の愛に触れることはけ
っしてない。
それはたんに表面的な現象にとどまっている。
それはけっして親密なものにはならず、深みをおびることもない。
けっして心から身をゆだね合うことがなく、表面的なつき合い、 せいぜい肉体
と肉体の性的な触れ合いにとどまっている。
それは けっしてまごころハートに触れず、もちろん魂にも触れることがない。
なぜなら、まごころに触れ、魂に触れる ためには、時間がかかるからだ。
人は待ち、そして深く掘り下げなければならない。
これがよく犯しがちな二つの誤りだ。それに用心するがいい。
活動的になりすぎては いけないし、怠惰になりすぎてもいけない。
中間にとどまりなさい。穏やかに活動し、 いきいきとくつろぎなさい。
中間にとどまるがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

314鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/14(木) 22:41:14 ID:1d4drIFg0
昏沈とはほとんど意識を失っている状態なのじゃ。
何も覚えていないのじゃ。
しかし、実際には意識はあるものじゃ。
記憶が無いから意識も無いと思うのじゃ。
意識は常にあり、記憶が無いことすらわかるのじゃ。
肉体の意識と記憶があるからのう。
それに気付けば常に意識はあったとわかるのじゃ。
散乱は頭に気が上りすぎて起こるものじゃ。
特に気を頭に上げる法では起こりやすいのじゃ。
それも常に気を巡らす法を行っていればコントロールできるものじゃ。

315避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 04:40:21 ID:LC3de7YgO
>>314
忘我も昏沈でありますね。
意識的に忘我を作り出すことができれば、苦しみを一時的に忘れる助けにはなるでありますね。
そして、仮に相当に深刻だと思っている苦しでも、そのようにして忘れられる程度のものであると、忘我によって知ることができるでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

316避難民のマジレスさん:2019/02/15(金) 06:30:39 ID:LC3de7YgO
>>313
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

あなたの行為には待つという質が そなわらなければならないし、 あなたの待
機には活動の質が そなわらなければならない。
そうなれば、必ず成果があがる。
成果のことは考えなくてもいい― それはひとりでにやって来る。
そして、これらの誤りは正すことができる。
(p250)
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呂祖師は、あなたがたにもっとも重要な奥義のひとつを授けている。

それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
少しもあわてて呼吸せず、呼吸に無関心になり、超然として、遠くに離れてい
るかのように、とても静かに呼吸をすることを学ばなければならない。
呼吸に対して距離を保ち、超然としていることができたら、あなたは中道を達
成することができる。
その瞬間、あなたは男性的でもないし女性的でもない。
あなたはその両方であり、かついずれでもない。
あなたは超越している。そうなったら、この二つの誤りは消え失せている。

呼吸はこころハートから生じる。 こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
気が散っているときには、見守りなさい。
呼吸も乱れているはずだ。
気が散らず、何にも意識をそらされることなく静かに坐っているときには、呼
吸は穏やかで、静かで、リズムをともなっている。
そこには微妙な音楽の質がある。
その質こそまさに中道だ。
というのも、あなたは何もしてはいないが、眠りこけているわけでもないから
だ。
あなたは活動的ではないし、不活発でもない。
あなたはバランスがとれている。
そういったバランスがとれた瞬間に、あなたは実在リアリティに、神に、天国
に近つ゛いている。

我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、 ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように一体になっている からだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を 抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなる ように衰えてゆく。
いいかね、どの呼吸もただの呼吸ではない。
それは思考でもあり、感情でもあり、空想
でもある。だが、それは数日のあいだ呼吸
を観察してはじめてわかることだ。
愛を交わしているとき、呼吸を見守りなさい。
きっと驚くだろう―呼吸は混沌としている。
性的なエネルギーというのはひじょうに荒々しく、粗野なエネルギーだからだ。
性的な空想は荒々しく、 粗野で、動物的だ。
性欲にはこれといって特別なものはない ―動物にはみな性欲がある。
性欲に突き動かされると、人は どんな動物にも負けないような振る舞いをする。
私は動物であることは悪い ことだと言っているのではない。
ただ事実を指摘しているだけだ。
私は事実を述べているにすぎない。
だから性愛を感じるたびに、呼吸を見守りなさい。
それは完全にバランスを失っているはずだ。
だから、タントラでは、セックスの途中に 呼吸を穏やかでリズミカルに保つこ
とを学んではじめて愛を交わすことが許される。
そうなったら、まったく異なる質がセックスに現れる。
それは祈りに満ちたものになり、神聖なものになる。
部外者が見れば何の違いもない。 あなたが相手の男性や女性と愛を交わして
いる姿は、部外者の目には同じに映る。
だが、タントラに精通している者たち、 それを知っている者たちには大きな
違いがある。
これらの秘法が開発され、実験され、観察された 古代のタントラの道場において、
それは一連の 実験の中心課題のひとつになっていた。
呼吸をまったく乱さずに愛を交わす ことができたなら、それはもはやセック
スではなく神聖な行為になる。
そうなったら、あなたはみずからの 実存の大いなる深みへと運ばれ、そして
生の神秘への扉が開かれる。
呼吸はたんに呼吸であるにとどまらない。
呼吸は生命いのちだからだ。
呼吸のなかには生命に内在する すべてのものが含まれている。
では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

317鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/15(金) 22:48:51 ID:1d4drIFg0
>>315 そうじゃ、サマーディに入れば気付きも起こりやすくなるものじゃ。
 そうであるからこの書でもそれを求めるのじゃ。

 サマーディに入れば呼吸は殆ど止まるのじゃ。
 呼吸の停止によって心も停止したと知れるのじゃ。
 呼吸と心は常に連動しているのじゃ。
 意識して呼吸しないと苦しくなったりするのじゃ。

318避難民のマジレスさん:2019/02/16(土) 09:18:19 ID:LC3de7YgO
>>316
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

これはタントラの方法論であるとともに、タオの方法論でもある―病から薬を
つくりだす……。
タオとタントラが並外れているのはここだ。
ヨーガは「セックスを避けなさい。セックスを迂回するのだ―それは危険なも
のだ」と言う。
だが、タオとタントラはいずれも「セックスを避けてはいけない。
そのエネルギーを変容させるのだ。
そうすれば、病そのものが薬に変わりうる」と言う。
科学者に尋ねてみるがいい。
彼らはそれとまったく同じことをやっている、とりわけ逆症療法アロパシーに
おいて。
病気そのものから抽出された成分が注射されて、それが薬になる。
逆症療法が近年になって発見したことは、タントラやタオによってはるか昔に
発見されていた。
神から与えられたものにはすべてとほうもない目的が隠されているにちがいな
い。
それを避けてはいけない。それを避けたら、貧しいままでいなければならない

それから逃げ出してはいけない。逃げ出したら、あなたのなかには生きなかっ
た部分が残ってしまう。
いわゆるヨーガ行者が絶えず性的妄想に苦しめられているのはそのためだ。
彼はぐっすり眠れない―それは不可能だ―昼間に彼が拒絶してきたことが、夜
になるといっせいに逆襲して来るからだ。
無意識のなかに抑圧してきたすべてのことが、眠りに就き、コントロールが
弱まると、再び浮上してきて夢になる。
ヨーガ行者、いわゆるヨーガ行者は、絶えず恐れている。
彼は女を見るのが怖い、女に触れるのが怖い。
彼はおどおどしている。いったいこれが「自由」と呼べるだろうか?
こんな恐れを抱いていては自由になれるはずがない。
タオとタントラはまったく異なる姿勢で迫ろうとする。
彼らは言う―神から授かったものはことごとく変容させるがいい、と。
それは生の素材だ。
そのなかにはすばらしい宝が隠されているにちがいない。
呼吸の仕組みシステムを変えることができれば、性エネルギーを変容させるこ
とができる。
呼吸の仕組みを変えることができれば、怒りを変容させることができる。
腹を立てたとき、どんな呼吸をしているか観察してみるがいい。
そして次に怒りを覚えたときには、これまで腹を立てるたびにしてきたような
呼吸をしないようにする。
すると不思議なことに、あなたはもう怒れなくなってしまう。
あるやり方で呼吸しなければ、怒りは続かず、消えてしまう。
怒りの代わりに、憐れみが湧いてくる。
同じように、セックスも消え、セックスの代りに、愛が湧いてくる。
愛はじつに人間的なものだ。
セックスは人間だけのものではなく、動物のものでもある。
だが、愛を知っている動物はいない。
セックスは動物的なものであり、
愛は人間的なものであり、祈りは神的なものだ。
セックスは愛に変容されねばならないし、愛は祈りに変容されねばならない。
セックスのなかでは呼吸は混沌としたものになる。
だからこそ私は、ある目的をもって混沌とした瞑想を選んだ―それは感情を発
散浄化させるためだ。
混沌とした瞑想、混沌とした呼吸は抑圧された怒り、セックス、欲望、嫉妬、
憎しみといったものをことごとく打ち、表面に浮かびあがらせる。
それは大いなる浄化のプロセスだ。
セックスのなかでは、呼吸は混沌としたものになる。
愛のなかでは、呼吸は音楽的になる。
祈りのなかでは、呼吸は止まってしまったように静かになる。

こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、 光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
息を吐くときには、両目から光が出てゆくようにする。
息を吸うときには、光が内側にもどってくるようにする。
呼吸と光の循環を結び合わせなさい。
このようにして呼吸に仕事を与えることで 、呼吸は他の余計な空想から解き放
たれる。
これもまた空想のひとつだ―あなたはあるもの を与えている。呂祖が「人は空
想せずにはいられない」 と言うのはそのためだ―少なくともはじめのうちはそ
うだ。
最高の頂に到ってはじめて空想を落とすことができる。
だが、私たちはそれを使うことができる、 それを踏み石にすることができる。
息が出てゆくときには、光も出てゆくように想像する がいい。
息を吸うときには、光も入ってくる、と。
それを単純な方法でやってみるといい。
息を吐くときには、内側にあった光がすべて放出 されてゆくと感じなさい。
そして息を吸うときには、 <存在>のすべての光が入ってくると感じなさい。
じきに想像は呼吸と結びついて、それと一体になる。
こうすれば空想を使ったことになる。
こうしてゆっくり と呼吸をもっと穏やかで静かなものにさせてゆけばよい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

319鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/16(土) 22:54:17 ID:1d4drIFg0
人体の内部で気を巡らせるのを小周天と呼ぶのじゃ。
自然の気を外から取り入れて体に巡らすのを大周天と呼ぶのじゃ。
それも気が同じであるからできるものじゃ。
気は人の中にあり、人は気の中に在るというのじゃ。

320避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 07:59:57 ID:LC3de7YgO
>>318
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

ヨーガの呼吸法、プラーナーヤーマでやるような 特定のリズムを実修する必要
はない。
人はそれぞれ 自分に合った方法を見いださねばならないからだ。
肉体が違い、心理構造マインドが違うのだから、 あなたがたの呼吸も同じもの
ではありえない。
あなたは徐々に自分に合った方法 を見つけてゆかなければならない。
ひとつ忘れてはならないことがある。
呼吸は穏やかで、静かで、音楽的なものに なってゆかなければいけない。
(p255)
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
ここで呂祖はまた別の手ほどきをする。彼は言う―
光は目から入って、そこを出入りするように、耳からも入って、そこを出入り
する、と。
光が耳から出たり入ったりするのを見ることはできないから、これは不思議な
言明だ。
だが、現代の物理学者に尋ねてみるといい。彼らは、音とは電気、電気の作用
に他ならないと言う。音は電気だ。
呂祖が古代の言語で「光」と呼んでいるのはまさにそれだ。
音は耳から入り、耳から出てゆく。
目が肉体の男性的な部分であるように、耳は肉体の女性的な部分だ。
目が外向的であるように、耳は内向的だ。
それゆえに、世界には二種類の瞑想がある。
目のエネルギーに関わる瞑想と、耳のエネルギーに関わる瞑想だ。
耳のエネルギーに関わる瞑想は女性的な瞑想であり、受動的だ―あなたは何も
せずに、ただ耳を傾ける。
鳥の声、松林を通り抜ける風の音、あるいは音楽や、往来の騒音に耳を傾ける。
何もせずに、ただ耳を傾ける。
すると深い静けさが訪れて、大きな安らぎが降り注ぎ、あなたを包みはじめる。
それは目よりも、耳を通してやるほうがやさしい。
耳を通してやるほうがやさしいのは、耳が受動的で、攻撃的ではないからだ。
耳は<存在>に対して何もすることができない。
ものごとを起こるにまかせるだけだ。
耳は扉であり、ただ受け容れる。

目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある 太陽と月が合体したものである。
それは外向的だ。

耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
それは内向的だ。

ゆえに種子とは光が結晶化したものである。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
光と音は名前が違うだけだ。
インドには物語がある―実話かもしれない。いずれ科学がその正しさを証明す
るときがくるだろう。
インドの物語によれば、ある種の旋律メロディには火を生みだす力があるとい
う。
音楽家の前に火のともっていない蝋燭ろうそくを置き、音楽家がある旋律、あ
るラーガを演奏すると、突然、蝋燭に火がつく。
さあ、そんなことはありえないようだし、ただの物語にすぎないように思える。
おそらく神話か、譬たとえ話にすぎないだろう。
だが、音が電気だとしたら、ある種のパターンを形成した波動は火をつくりだ
すことができる。
今や実験が行なわれている。
私が思うに、遅かれ早かれ、科学的にそれを再現することが可能になるだろう。
これはよく知られている事実だが、軍隊が橋を通過するとき、兵隊たちは必ず
リズムを崩すように命じられる。
彼らはふつうは左、右、左、右、左、右といった具合に、一定のリズムを取り
ながら歩いている。
軍隊があるリズムをとって通過してゆくと橋が壊れてしまうということがよく
起こった。
だから、橋を渡るとき、軍隊は右、左のリズムを崩さなければならない。
今ではこれが周知の事実となっている。
ある種の波動が橋にとっては危険なのだ。
カナダでは、植物と音楽との関わりを調べる実験が行なわれた。
ささやかな実験だが、計り知れないほどの意義がある。
同じ季節の花が、同じ時期に、同じ肥料で、二か所に植えられ、同じ庭師がそ
れらの面倒を見た―
それぞれの区画は何から何までまったく同じだった。が、一方の区画には、
ラヴィ・シャンカールのシタールのレコードが用意され、絶えずその音楽が流
されていた。
そしてもう一方の区画には、ポップ・ミュージックが流された。
それはひじょうに示唆に富んだ現象だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

321鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/17(日) 22:58:14 ID:1d4drIFg0
人は集中する時に目を使うものじゃ。
何かを注視する時の動作を心でも行うのじゃ。
それとは別に耳で聞く時のように集中する法も在るのじゃ。
それを返聴法と呼ぶのじゃ。
丹田に集中するならば丹田の音を聞くかのように集中するのじゃ。
ヨーガでも呼吸音とか心臓の音を聞くように集中する法があるのじゃ。

322避難民のマジレスさん:2019/02/17(日) 23:35:52 ID:LC3de7YgO
>>320
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

ポップ・ミュージックが流された区画の植物は、いっせいに音響装置をよける
ようになりはじめた。
まるで逃げだしたがっているかのように、聞くのがいやで、うんざりしている
かのように、植物たちはみな音響装置から身を遠ざけるようになりはじめた。
そして、その区画の花は小さく、成長するのに時間がかかった―他の区画の植
物のほぼ二倍の時間がかかった。
ラヴィ・シャンカールのシタールが流されている他の区画では、 植物たちは音
響装置に身を寄せはじめた。
植物は音響装置を抱き かかえるように、それを覆いつくした。
しかも二倍の速さで成長 し、花も大きく、予想されていたよりも早く花を咲か
せた。
植物でさえ、音響の違いを感じとる。
上空を飛んでゆく飛行機は人間を狂気に駆り立てる。
騒音は日毎にますますひどくなってゆく。
人間が 生き延びられるとしたら、それは奇蹟と言っていい。
いずれも同じ起源をもち、名前が異なっているだけだ。
実のところ、あらゆるものは同じだ。それらはみな「光」「火」「電気」と呼
ばれる素材からできている。
どんな名前で呼んでもいい。違うのは形だけだ。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。
理解は耳を通して生まれる。明晰さは目を通して生まれる。
明晰さは男性的であり、理解は女性的だ。女性のほうが弟子になりやすい、と
私がいつも言うのはそのためだ。
 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?
 マハラジ
 存在と非存在を超えた、意識を超えた空のなかだ。
 その空はまた充満してもいるのだ。
 私を哀れんではいけない。
 それは、「私は私の仕事を終えた。もう何もするべきことはない」と言う人
 のようなものだ。
 質問者 あなたは真我の実現の確かな日時を伝えています。それはつまり、
     その日に何かが起こったということでしょうか? 何が起こったの
     でしょうか?
 マハラジ
 マインドが出来事をつくり出すことをやめたのだ。
 遙かなる昔からの絶え間ない探求が終焉したのだ。
 私は何も望まず、何も期待せず、何ひとつ私のものとして受け取らなかった。
 そこに闘おうとする「私」は残っていなかった。
 ただの「私は在る」さえも消え去ったのだ。
 もう一つ気づいたことは、すべての習慣的な確信を失ったということだ。
 以前、私は多くのことに確信をもっていた。
 今、私には何ひとつ確かなことはないのだ。
 だが、知らないことで何かを失ったようには感じない。
 なぜなら、私のすべての知識が偽りだったからだ。
 私が知らないということ自体、すべての知識は無知なるものだという事実の
 知識なのだ。
 「私は知らない」だけが私にできる唯一の表明だ。
 「私は生まれた」という考えを例にとってみなさい。
 あなたはそれを真実だと受け取っているかも知れない。
 そうではないのだ。
 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬこともないだろう。
 生まれて、そして死んでいくのは観念であり、あなたではないのだ。
 あなた自身を「私は生まれた」という想念と同一化することで、あなたは死
 をまぬがれない者となる。
 映画のなかではすべてが光であるように、意識が広大な世界となるのだ。
 よく見てみなさい。
 すべての名前と形は、意識の大海のはかない波にすぎず、ただ意識だけが存
 在するのだ。
 意識のかぎりない広がりのなかに、ひとつの光が現れる。
 小さな点は急速に動き、紙の上にペンで形を描くように思考、感情、概念、
 観念を描きだす。
 その描きだすインクが記憶だ。
 あなたはその小さな点であり、あなたの動きによって世界はつねに再創造さ
 れていくのだ。
 動くのをやめなさい。
 すると世界はなくなるだろう。
 内側を見なさい。
 すると身体のなかの広大な光の反映は、「私は在る」という感覚としての小
 さな光の点だと見いだすだろう。
 ただ光だけがあり、それ以外のすべては現れにすぎないのだ。
 質問者 あなたはその光を知っているのでしょうか? それを見たのでしょ
     うか?
 マハラジ
 マインドにとってそれは暗闇として現れる。
 それはその反映を通してだけ知ることができる。
 日の光以外はすべて日の光のなかで見られるのだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

323避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 21:03:47 ID:LC3de7YgO
>>322
γ⌒:"-ヽ〟
(∪(   )
∪∪∨-∨
最初から3分の1くらいのところ、
> 質問者 それでは、あなたはどこに住んでいるというのでしょうか?

から最後まで、マハラジのI AM THATの文章を挿入してしまいました。
ごめんなさい。

324鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/18(月) 22:15:40 ID:1d4drIFg0
マハラジも光について語るのじゃ。
シンクロニシティじゃな。

プラーナや光を通じて人は全てと繋がっているのじゃ。
音も光も一つのものであるから互いに影響し合うのじゃ。
それを感じれば孤独も不安も幻想であったと気付くのじゃ。
個我の幻想が去れば孤独や不安の幻想も存在できないからなのじゃ。

325避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:22:36 ID:LC3de7YgO
>>324
うむ。不思議とシンクロしてるでありますね。
(´・(∀)・`)つ

326避難民のマジレスさん:2019/02/18(月) 22:33:04 ID:LC3de7YgO
>>322
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

女性のほうが男性よりも簡単に明け渡し、簡単に理解する。
男は論理的な明晰さ、論理的な説得力を求める。
女は他のものを、心地よいリズムに富んだ説得力を求める。
女性は直感的に耳を傾ける。
女性はそれを言っている人の波動を感じる。
女性の関心は何が語られているかではなく、誰が語っているか、どのように語
っているか、それがどこから生まれてきたかのほうにあるようだ。
女性のほうが深くまで進み、そのまさに精神をつかむ。
男はいつまでも文字に気をとられる。
そして書物の形で誰もが新聞や経典を入手できるようになったために、大きな
変化が起こった。
もともと教えというものは師の口から直接聴くより他にすべがなかった。
それらは口語で伝えられたので、それを受け止める中枢は耳にあった。
今では書物が手に入る。
クリシュナがアルジュナに語り、アルジュナがそれを聴いていたとき、彼は耳
を働かせていた。
大いなる理解が起こり、彼は変容を遂げた。
だが、アルジュナは女性のように耳を使っていた。
今では、あなたは「ギータ」を読む。
読むというのは目を使うということだ。
そして目は理解のことなど気にかけない。
目は論理的な明晰さを求める。
目はまったく違う姿勢でことに当たる。
何世紀にもわたって、世界中のあらゆる宗教が「教えを文字に書き記してはな
らない」と主張してきた。
それには理由があった。
ひとたび書き記されると、質がそっくり変わってしまうからだ。
ひとたび書き記されると、目が重要になり、耳は軽視されるようになる。
私に耳を傾けるのと、私の言葉を読むのとではまったく違う。
本を読むときには、あなたは男性的な精神マインドを働かせている。
耳を傾けるときには、あなたは女性的な精神を働かせている。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように 視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を 向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハート を導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち呼吸は 荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
だから呼吸に耳を澄ませなさい。
音が聞こえるのは、息が荒いということだ。
乱れているのは、息が荒いということだ。
感じるだけで音がしなければ、呼吸は
穏やかで静かになっている。
それが<存在>と調和し、自分自身と調和し、実在と調和する正しい方法だ。
呼吸が静かになればなるほど、あなたはさらに深みへと入ってゆく。
ときどき呼吸が止まると……呼吸は実際に止まることがある!
それはここで多くのサニヤシンに起こっている。
彼らは私に知らせにやって来る。
なぜなら、彼らはひどくおびえてしまっているからだ。
呼吸が止まると、自分は死んでしまうという考えが脳裏をよぎる。
先日、サグナが質問をした。
彼は死んでゆくような気分になったという。
彼はおびえてしまった。
おびえてはいけない。呼吸が止まったら、そのままにして、それを楽しみなさ
い。
あなたは死んだりはしない。
そのまさに呼吸が止まることで、あなたは実在の真の姿を知るだろう。
永遠の生を知るだろう、死を知らないものを知るだろう。

不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら 真の呼吸が出現し、こころの真の姿が意識されるに到ったのであ
る。
そのままにしておくことができれば……。
だから私はサグナに言った。
「サグナ、馬鹿だね。君は取り逃がしてしまった!今度それが起こったら、取
り逃がさないように」
呼吸が止まれば、真の呼吸が出現し、真の生命が現れる。
呼吸に依存しない生命、永遠の生命、肉体の一部ではなく、肉体が崩れ、塵ち
りとなって消えた後にも残る生命が。
そしてその瞬間に、意識が達成される。
人はブッダになる。
ブッダとは完全に意識的になった、目覚めた人のことだ。

こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころの あらゆる働きが気(呼吸エネルギー)に影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる 動きがこころに影響を与えるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

327避難民のマジレスさん:2019/02/19(火) 19:38:29 ID:LC3de7YgO
>>326
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかける ことはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。
弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配される ということに他ならない。
坐るだけでこころが揺れ動くなら、 身動きしないことによってそれを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、 後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。
あなたはそれを知っている。
走れば、息は激しく乱れ、どんどん速くなってゆく。
ヨーガの各種の体位はそのためにある―例えば完全な蓮華座。
背筋をまっすぐ伸ばして坐り、完全に沈黙して、大理石の彫像になってしまっ
たかのように、不動の姿勢を保つ。
それはランニングとはまったく逆の姿勢だ。
これは呼吸を静めるための外的な手段にすぎない。
走ることで呼吸を速めることができるなら、仏像とそっくりな姿勢で坐ること
で、それを鎮静させることもできるはずだ。
身動きせず、仏像のように坐っていれば、確かに呼吸はだんだんゆるやかにな
ってゆき……やがて止まる。
最初はほんの一瞬にすぎない。
心臓発作ハートアタックか何かに襲われたのではないかと恐れる必要はない。
それは神の到来ゴッド・アタックだ。

「鶏が卵をかえすことができるのは、そのこころハートがつねに 耳を澄ませて
いるからだ」これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけ であり、中まで浸透することができない。
そこで鶏は こころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行なう。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて 聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
これは鶏だけでなく、すべての女性、すべての母親、人間の母親にすら当ては
まることだ。雷をともなう激しい嵐がやってきても、彼女には聞こえず、彼女
が眠りから覚めることはない。
だが、子供が泣きだしたり、身動きをはじめたりするとそれだけで、耳が絶え
ず子供に焦点を合わせていたかのように、彼女は即座に目を覚ます。
汽車が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
飛行機が通りすぎても彼女は目を覚まさない。
だが、子供が少しでもそわそわしだすと、彼女はただちに耳をそばだてる。
彼女は全身耳となって子供に耳を傾けている。
彼女は耳を通して子供とこころハートとこころハートで結ばれている。
まるで子供の心臓ハートの鼓動そのものを聞くことができるかのように、彼女
は絶えず耳を澄ましている。
これはすべての瞑想者がみずからの鼓動を聞くことができるほど深く耳と結び
つく方法だ。
最初のうちは、呼吸を聞くことができるのは息がひどく乱れているからだ。
だが、あなたが聴いて、聴いて、聴きつつ゛けるならば、その聴こうとする努
力そのものが呼吸をさらに静かにさせてゆく。
そしてその傾聴が深まり、聴くこつがわかり、いかに醒めているかがわかると
、すべての音色、すべての音が消え、呼吸が止まる瞬間がくる。
それは歓喜、洞察、悟り、サマーディの大いなる瞬間だ。

精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜 絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによって はじめて達成される。
瞑想中に突然、心臓が止まりそうに感じても、心臓発作だと勘違いしてはいけ
ないと私が言ったのはそのためだ。
呼吸が止まると、心臓が止まりそうな感じがする。
それは死ではない。あなたの真のこころハートが誕生しようとしているのだ。

こころを死なせることができれば、 原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、 それを枯渇させ、しぼませてしまうこ
とではなく、 こころが分断されずにひとつにまとまる という意味である。
これが黄金の華の秘密だ。
こころが死ぬことができれば、花が開く。
今あるあなたとして死になさい。
そうすれば再誕生することができる。
イエスは言う。
「再び生まれないかぎり、人が神の王国に入ることはない」
(´・(ェ)・`)
(おわり)

328鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/19(火) 23:02:48 ID:1d4drIFg0
>>325 そうじゃ、全ては繋がっているのじゃ。
 マハラジもオショーなのじゃ。

サマーディに入ると呼吸は止まるのじゃ。
日常でも強く集中しなくてはならない時には呼吸を止めるじゃろう。
それが無意識のうちに起こるのがサマーディなのじゃ。
それが始まると恐れてしまう者もいるじゃろう。
知識があれば恐れずに進むことも出来るのじゃ。

329避難民のマジレスさん:2019/02/20(水) 00:01:55 ID:LC3de7YgO
>>327
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服1
 より抜粋

呂祖師は言った。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を 中断せずに毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば確実に成果が現れるであろう。
静座して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな 違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、 昏沈や無気力な状態ではただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが存在しているが、 昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は真の呼吸ではないが、 真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
息の出入りをこころが意識していれば いいのであり、耳に聞こえてはならない。
耳に聞こえなければ、息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うか を理解しなければならない。
それはこころをを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが 内側を見るということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り、内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけであり、 見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、それらは おのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
昏沈に襲われて眠気をもよおしたなら、 立ちあがって歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、 昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
ある暑い昼下がりのことだ。
一匹のフクロウが樹にとまっていると、白鳥が飛んできて一緒にとまった。
「ふうっ、暑いねえ、フクロウさん」
と白鳥は言った。
「太陽が照っているので、暑くて汗びっしょりだ」
「何だって?」とフクロウが言った。
「君は何を言っているんだい?太陽だって?暑いだって?闇が深まれば暑くな
るのさ。君の言う太陽とやらはいったい何のことだ?君は頭が変にでもなって
しまったのかい?君は私に何を言いたいんだ?太陽なんてものはありゃしない
。あったためしがない。その熱を発する光とやらはいったい何のことだ?そん
なものなど聞いたことがない。闇が深まれば暑くなるに決まってるじゃないか
。私を馬鹿にしようとしているのかい?私ひとりが言ってるんじゃないよ。私
たちのどの経典にもそう書いてあるんだ」
白鳥は唖然として、「この盲目の老いたフクロウにどうやって説明すればいい
のだろう?」と考え込んだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

330鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/20(水) 23:27:05 ID:1d4drIFg0
昏沈と散乱は陰陽のどちらかに偏りすぎたために起こるというのじゃ。
陽気に傾きすぎれば散乱し、陰気に傾きすぎれば昏沈するのじゃ。
それを防ぐには日々の精進とあまり凝視しすぎないことというのじゃ。
耳を僅かに傾けるような返聴法ならば陰陽どちらにも偏らずに実践できるというのじゃ。
それが陰陽合一の法というのじゃ。

331避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 07:03:29 ID:LC3de7YgO
>>329
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

「いいかい、兄弟。俺はこの目で見ることができるんだ。今は真昼で、太陽が
照りつけているから、とても暑いんだ。なのに君は暗いと言う。どうすれば説
明できるんだろう?」
フクロウは言った。
「じゃあ、あの大木のととこへ行こうじゃないか。あそこにはフクロウがたく
さんいるし、偉い学者さんもいる。彼らに聞こうじゃないか―彼らは経典に精
通しているし、ものをよく知っている連中もいる。さあ、行こう!君が私を馬
鹿にしているのかどうか今にわかるさ」
彼らは飛んでいった。そこは盲目のフクロウでにぎわっていた。
「この白鳥がやって来て」とフクロウは言った。
「今は真昼で、 太陽が照りつけていて、至るところに光があるから暑いんだと
言うんだ。みんなはどう思う?」
「何を言っているんだ」
とフクロウたちは言った。
「俺たちの村では 、親父もその親父もそのまた親父も、誰ひとり太陽なんて見
た者 などいないし、記録にも残っていない。だから、太陽なんてものは ないん
だ。そんなものあるはずがない。あいつはおまえをかついで いるだけだ。あい
つに耳を貸してはいけない。あいつは狂っているか 、大ぼら吹きか、そのどち
らかだ。あいつは俺たちの宗教をつぶそう としているんだ。俺たちはいつも暗
闇のなかに住み、いつも暗闇を 崇拝してきた。闇は俺たちの生き方の土台その
ものだ。あいつは 俺たちの生き方を壊してしまう。あいつはそういうやつなん
だ。 お望みなら、多数決で決めてもいい」
あるフクロウが顔をあげて言った。
「どちらが真実なのだろう? 存在するのは闇だろうか?それとも光だろうか?」
「闇だ、闇だけが存在する」
とフクロウたちはいっせいに叫んだ。
「では、どうしてこんなに暑いのだろう?」
「闇が深いからだ」
と フクロウたちは叫んだ。
「熱は闇の作用なのだ」
「やつをここに置いておくわけにはゆかない」
とフクロウたちは 再び叫んだ。
「やつは我々の宗教、伝統、我々が大切にしてきた 過去そのものをだいなしに
してしまう。ただちにやつを追放しろ! あいつは目がつぶれているか、完全に
いかれている」
この小さな寓話には、たいへん価値のあるいくつかの真理が含まれている。
まず、真理は伝達することができない―真理を伝える方法はない 。
私の真理は私の真理だ。
それを語ることはできるが、語ること で真理が伝わるわけではない。
それに耳を傾けることは理解する ことではない。
あなたは自分自身の目を開かなければならない。
真の師マスターの役割は、「神は存在する」と語ることでは ない。
それはあなたが目を開き、魂の窓を開くのを助け、目 が見えるようになり、
「神」という言葉が意味するものを みずからの血と骨と髄に体現できるように
させることにある。
あなたの代わりにこの目で見ることはできない。
あなたの代わりにこの足で歩くことはできない。
あなたの代わりにこの翼で飛ぶことはできない。
あなたはみずからの生を生き、 みずからの死を死ななければならない。
これはつねに覚えておくべき 最も基本的なことがらのひとつだ。
さもなければ、人は借り物の知識 という重荷を背負うはめになる。
それは知識とはまったく無縁な贋にせのコインにすぎないが、知識に似ている
ので、あなたがたは だまされてしまう。
人類に起こっていることはそれだ。
人類は借り物の知識の呪いのもとで生きている。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』を鸚鵡おうむのように唱えている ―盲
目の老いぼれフクロウが『コーラン』『ギータ』『聖書』を唱えている。
だが、それは彼ら自身が体験したものではない。
彼ら自身が体験しているのはまったく逆のことだ。
彼ら自身の体験は『ギータ』『聖書』『ヴェーダ』『法華経ダンマパダ』 の真
理をひたすら否定するものでしかない。
彼らの本音はこうだ―
「仏陀は狂っている」、
「イエスは人をだましている」、
「ソクラテスはひじょうに賢いかもしれないが、用心しなければならない。
彼に耳を傾けてはならない。彼は我々の宗教をつぶしてしまう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

332避難民のマジレスさん:2019/02/21(木) 20:17:26 ID:LC3de7YgO
>>331
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

人間は盲目のまま宗教をつくりあげてきた。
しかもひとつではなく無数の宗教を。
盲目の目には<一なるもの>が見えないからだ。
盲目の目は多くのものを信じることしかできない。
それゆえにこれほど多くの宗教がある―この小さな地球に三百前後の宗教がある
― そしてそれぞれの宗教がこう主張している。
「私の真理が唯一の真理だ」、
「私の 神が唯一の神だ」、
「他の神はすべて偽物だ」、
「他の真理はすべてでっちあげだ」 、
「他の道はすべて荒野に行き着くだけだ―私の道だけが天国に通じている」
この三百の宗教は絶えず闘い合っている。
どの宗教も現実に気つ゛いて いない。
どの宗教も現実を真正面からのぞいていない。
彼らは信じている。
これらの宗教は宗教ではなく形骸化した伝統だ。
彼らは耳で聞き―いつの時代 にも耳で聞き―そして信じてきた。
信じることは安易であり、探索することには 危険がともなうからだ。
鸚鵡おうむのようにくり返すことは何の苦もない。
冒険に満ちた発見の旅にでかけるためには生命を賭けなければ ならない。
それは危険だ。
探索することは危険だ。
信じることは、 手軽で、慰めになる。
あなたはどこにも赴かなくてすむ。
それは 既製品としてあなたに与えられる。
だが、それには手垢がついている。
そして手垢にまみれた神とともに生きる人間は悲惨だ。
神は新しいものでしかありえないからだ。
体験はどこまでもあなた自身のものでなければならない。
他人の体験は真実の生の基盤となりえない。
仏陀は見たかもしれないが、仏教徒になることは助け にならない。
仏陀は仏教徒ではなかった―それは確かだ。
イエスは見て、直面し、了解したかもしれないが、キリスト 教徒になることは
まったく愚かしい。
キリストにならないかぎり 、けっして神を知ることはない。
真に宗教的な人は形骸化した伝統を避ける。
真に宗教的な人は手垢にまみれた神を避ける。
信仰を避け、自分を開いたままにして、 いつ真理が立ち現れても応じる姿勢
でいる。
もちろん彼は働きかける―働きかけるのは宗教的な人だけだ ―信者たちはけっ
して自分に働きかけたりしない。
信者たちは自分に働きかける必要がない。
真理を探索し、探求し、探し求める者は自分自身に懸命に働きかける。
なぜなら、落とさなければならないものがたくさんあるからだ。
落とさなければならない不純なものがたくさんあるし、 溶かさねばならない障
害物や障壁がたくさんあるからだ。
目を開けて、耳をふさいでいるものをはずし、 ハートの感受性を取りもどさな
ければならない。
人は存在とリズムを合わせなければならない。
<存在>と完全にリズムが合っていれば、 目が開いて、そこではじめて見る こ
とができるようになる。
その見ることが変容になる。
その見ることがあなたを根こそぎ変える。
その見ることが新しい洞察力、新しい生命、 新しいもののとらえ方になる。
あなたは もはや肉体に閉じ込められてはいない。
もはや想念に閉じ込められてはいない。
もはや何にも閉じ込められてはいない。
あなたは解き放たれていて、無限であり、永遠だ。
そしてあなたのなかを流れるこの永遠を感じる ことが、神を知ることだ。
永遠の過去と永遠の未来へと延び広がっている この無限を見ることが神を見る
ことだ。
あなたの実存のなかに宿る神性を感じる ことが、神を知ることだ。
これは手垢にまみれることがない。
キリスト教徒やヒンドゥー教徒やジャイナ教徒やイスラム教徒を見る と、そこ
には手垢にまみれた人々がいる。
あなたは街で履きふるされた 靴など買いたくない。
街で他人が使った古着など買いたくない。
だったらなぜ魂のために手垢のついた信仰を、使い古され、 ぼろぼろになって
いる、汚く醜い中古の靴や着物を買うのだろう。
そして自分の人生を美しく飾ったつもりになるなんて。
あなたは自分の魂を侮辱している。
あなたは自分自身の人間性をおとしめている。
キリスト教徒になったり、仏教徒になることは、 自分自身の人間性をおとしめ
ることだ。
探求は独りで行なうべきものだ。
探求はどこまでも個的なものでなければならない。
多数決によって真理を決めるわけにはゆかない。
真理はどこまでも個的であり、かつ私的なものだからだ。
それは客観的な現象ではない。
あなたは私の肉体を見ることができる。それは客観的な現象だ。
私の肉体が存在するかどうかを他人は簡単に判別することができる。
だが、私が光明を得ているか どうかを他人が判別することはできない ―まし
てや多数決で決めることなどできない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

333避難民のマジレスさん:2019/02/22(金) 07:11:13 ID:LC3de7YgO
>>332
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

覚者ブッダが覚者ブッダなのは、彼が覚者 であることを人々が多数決で決めた
からではない。
彼が覚者なのは、誰のものでもない彼みずからの宣言によるものだ。
彼の他には誰も証人はいない。それはまったく私的なことだ。
あまりに内面的なことなので、誰もそこまで立ち入ることができない。
真理は多数決では決められない。
だが、人々はそのようにして決めている。
宗教が信者を増やすことに熱中するのはそのためだ。
信者の数が多ければ多いほど、真理を多く手にしていること になるからだ。
キリスト教徒のほうがジャイナ教徒よりも多くの真理を手に していると主張で
きるのは、彼らの背後に大群衆がひかえているからだ。
投票をすれば、キリスト教徒が勝って、ジャイナ教徒が負けるだろう。
だが、それは投票で決まる問題ではない。
千匹のフクロウが投票で 「世界には闇しかない。太陽は存在せず、光も存在し
たことがない」 と決めたとしても、嘘が嘘であることに変わりはない。
1羽の白鳥が「昼だ」と宣言すればそれで充分だ。
真理は民主的なやり方で決められるものではない。それは群集とは何の関係も
ない。
カトリックは産児制限に反対しているし、イスラム教徒も産児制限に反対して
いるが、そこには単純な理由、政治的な理由がある。
その理由というのは、もし産児制限 が認められたら、信者の数が減りはじめる
からだ。
そして彼らの力はひとえにそこに かかっている。
彼らはいつか世界にこう証明できるよう、信者の数を増やしたいのだ。
「見ろ、こんなにたくさんの人々が我々についているのだから、 真理は我々の
もとにあるにちがいない」
ジョージ・バーナード・ショウの有名な言葉を覚えているだろうか。
彼と論争していたある男が言った。
「でも、こんなにたくさんの人が私の言葉を 信じてるんですよ。これだけ大勢
の人たちが間違うはずがないじゃないですか」
するとバーナード・ショウはこう言い返した。
「こんなに大勢の人たちが信じているのだったら、間違っているに ちがいない。
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?」
これだけたくさんの人たちが正しいなんてことがありえるかね?
(p274)
群集は盲目だ。
群集は光明を得ていない。
真理はつねに少数派の手にある。
仏陀が現れるとき、彼は独りだ。
イエスがエルサレムを歩くとき、彼は独りだ。
ソクラテスが闘うとき、彼は独りだ。
確かに、少数の探求者たちがソクラテスのまわりに 集まってきて、ある学派が
生まれるが、その学派は少数派だ。
そしてソクラテスと行動をともにするには勇気がいる。ガッツがいる。
なぜなら、彼はあなたを慰めるためにいるわけではないからだ。
彼は慰めになるものを一掃してしまう。
あなたの 幻想をこなごなに打ち砕いてしまう。
なぜなら、それが あなたに真理をもたらす唯一の方法だからだ。
彼はあなたの目を無理やり開かせる。
彼はあなたを眠りにつかせるための子守唄など歌わない。
彼はあなたを目覚めさせるために屋根の上から大声で叫ぶ。
彼はあなたにショックを与え、あなたを叩く。
先日、プラディーパが私に会いにやって来た。
彼女は泣いていた ―私が深い衝撃を与えたのだから無理もない。
彼女は、ある日、 不意にハンマーで頭を殴られるなどとは夢にも思っていなか
った。
そして自分が私の吐き気の原因であったことにもこころハートを 痛めていた。
彼女は私にこころを寄せて、みんなと同じように私を 愛しているからだ。
こういったすべての理由で彼女は泣いていた。
だが、私はあなたがたに、とりわけプラディーパに言わなければ ならない。
私が強く打つときには感謝するべきだ、と。
なぜなら、 打つに値すると見ないかぎり、あなたを強く打つことはないからだ。
私は相手かまわず打ちはしない。
私が打つのは、誰かが 本当に成長していると見なしたときだけだ。
あなたが成長 すればするほど、より多くのことが求められるようになる。
私はみんなに肉食を落とせと言ったわけではない。
だが、私は プラディーパが深い衝撃を受けて肉食を落とすような言い方を した。
彼女の意識が成長しているので、今や肉食は障害になっている。
高く舞いあがっていない者たち― 彼らは好きなだけ重荷を担いでもいい。
だが、高く舞いあがりはじめた者たち― 彼らは不用な荷物をすべて落とさな
ければならない。
あなたのエネルギーの純度が高まれば高まるほど、 もっとそのことに注意深く
ならなければいけない。
なぜなら、貴重なものが失われてしまうかもしれないからだ。
その貴重なエネルギーをつくりだすのは実にたいへん だが、なくしてしまうの
はごく簡単だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

334鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/22(金) 23:00:15 ID:1d4drIFg0
真の宗教とは信じる者が自ら探求することを要求するのじゃ。
アートマンは知識ではなく実践し、探求すべきものとヴェーダにも記されているのじゃ。
お釈迦様も修行者に怠けている者は死んでいるのと同じであり、精進する者だけが生きているとまで言うのじゃ。
神も本の中の聖人による知識ではなく自ら探求して見出されるべきものなのじゃ。

335避難民のマジレスさん:2019/02/23(土) 00:38:33 ID:LC3de7YgO
>>333
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

失うものが何もない者たち―彼らは悩まなくてもいい。
彼らはあらゆる種類の愚行をやりつつ゛けてゆけばいい。
彼らの全存在はそうした愚行とぴったり波長が合っている。
このことはひとりひとりが覚えておかなければならない。
あなたがたが成長してゆくにつれて、私はもっともっと 多くのことをあなたが
たに求めるようになるだろう。
美しい物語がある…… インドには偉大な画家、最も偉大な画家のひとりである
ナンダラル・ボースという天才がいた。
彼はもうひとりの天才、 アヴィニンドラナート・タゴールの弟子だった。
アヴィニンドラナート・タゴールは、ラヴィンドラナート・タゴール の叔父だ
った。
ある日の早朝、アヴィニンドラナートとラヴィンドラナート は一緒に坐り、お
茶を飲みながら、あれこれのことを語り合っていた。
そこへナンダラルがクリシュナの絵をもって来た。
ラヴィンドラナートは追想録のなかでこう書いている。
「これほど美しいクリシュナの絵は見たことがなかった―今にも 絵のなかから
飛び出してきそうなほどいきいきとしていた―今にも フルートから笛の音がこ
ぼれてきそうだった。私は茫然とした」
その絵を見たアヴィニンドラナートは、それを家の外に放り出し、 ナンダラル
に言った。
「こんなクリシュナの描き方があるものか。 ベンガルの下手な画家だってもっ
とうまく描く」
ラヴィンドラナートはひどいショックを受けた。
ラヴィンドラナートは 叔父の絵も知っていた。
叔父もまた生涯にわたりクリシュナを描いていた。
ラヴィンドラナートは、ナンダラルの絵と比べれば叔父の絵など足もと にも及
ばないと確信していた。
ナンダラルの絵のほうがはるかに優れていた。
だが、彼は黙っていた。師と弟子の あいだに口をはさむのはよくないことだ
った。
ナンダラルはアヴィニンドラナートの足に触れて 、出ていったまま、三年間、
姿を現さなかった。
ラヴィンドラナートは何度もアヴィニンドラナートに尋ねた。
「かわいそうに、あの男に何をしたんです? -彼の絵のほうが優れていたの
に!」
するとアヴィニンドラナートは泣きながら言った。
「おまえの言う通りだ。彼の絵のほうが優れている。私は あんなにすばらしい
作品を一度もつくりだすことができなかった」
ナンダラルがいなくなると、アヴィニンドラナートはその絵 を取りに行き、そ
れをいつも部屋に飾っていた。
「だったら、なぜ」とラヴィンドラナートは尋ねた。
「あなたはあんな無慈悲な振る舞いをしたのですか?」
アヴィニンドラナートは言った。
「私はまだあれ以上のものを 彼に期待しているからだ。彼が美しい絵を描くか
どうかが問題 ではない。これは始まりにすぎない。彼はもっと大きな力を 秘め
ている。私はもっとたくさんのことを彼に求めるつもりだ」
そしてナンダラルは三年間ベンガルの村々をさまよった。
師に 「村の画家だってもっとましなクリシュナの絵を描くぞ」と言われた から
だ。
彼は村の画家、ふつうの貧しい画家について習った。
三年間、 彼はベンガルをさまよい、あらゆる地方を訪ねた。
そして、 ある日のこと、彼は姿を現し、師の足に触れて言った。
「あなたのおっしゃった通りでした。 私はたくさんのことを学びました。 よ
く私の絵を投げ捨ててくださいました」
アヴィニンドラナートは彼を抱きしめて言った。
「待っていたよ。歳を取るにつれ、おまえは帰ってくるだろうか と不安になっ
ていた。私は幸せだ。おまえの絵はみごとだったが、 おまえにはもっと大きな
力が秘められている」
あなたのなかにもっと大きな力が秘められて いるのを見たら、私はすかさずあ
なたを打ちすえる。
あなたがたが私とともにここにいる、私があなたがたと ともにここにいる理由
はただそこにある。
あなたのなかで眠っているものがすべて上昇し はじめられるように、高く舞い
あがれるように、 私はあなたがたを根底からかき立てなければならない。
あなたは自分の潜在力に気つ゛いていないが、私は知って いる。
だから、私が要求をしたらいつも、感謝するがいい。
あなたはこれを聞いたら驚くだろう―禅院では、 師が誰かの頭を棒で叩くたび
に、叩かれた僧は 七度おじぎをして、師の足に触れ、感謝を表す。
そして弟子はその叩かれる瞬間を待っている。
師がわざわざ棒で頭を打ってくれるその 至福に満ちた瞬間が来ることを願う。
いいかね、ここは錬金術の学院アカデミーだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

336鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/23(土) 23:01:27 ID:1d4drIFg0
誰でも真の悟りに達する力はあるものじゃ。
自分自身でそれが出来ないと思えば出来ないのじゃ。
師匠の役目はその力に気付かせることもあるのじゃ。
全ての者に悟りに至る力は在るのじゃ。

337避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 00:39:53 ID:LC3de7YgO
>>335
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたがたはただもてなしを受けるためでは なく、変容を遂げるためにここに
いる。
そして変容は苦痛に満ちている。
なぜなら、古いものをたくさん落とさなければならないからだ。
その古いものは簡単に脱げる着物のようなものではない― それは皮膚と化して
いる。
皮膚をはがされたら痛い。
だが、あなたを正気に連れもどすにはそうするより他にない。
あなたの緩衝器を破壊するにはそうするより他にない。
あなたを覆い、拘束している鎧よろいを打ち壊すには そうするより他にない。
徐々に徐々に、あなた自身のエネルギーが起こりはじめ、 あなたの目が開き、
あなたの耳が聞こえるようになる。
そうなったら神は直接の体験になる。
つねに覚えておきなさい。 神の直接体験のみが真の体験となる。
それは多数派が決めるものではない。
それは伝統が決めるものではない。
それを決めるのは神と遭遇したみずからのエネルギーだけだ。
白鳥は狂っているとフクロウが考えても少しもおかしくない。
人々はいつもそのように考えてきた―仏陀も狂い、マホメット も狂い、ツァラ
ツストラも狂っている、と。
自分たちに見えない ものを、どうして信じることができるだろう?
フクロウが白鳥を追い出し、追放しても少しもおかしくない。
彼らは怖くなり、動揺してしまった。
この白鳥がこの樹の上で 暮らすことを認めたら、フクロウの伝統はつぶされて
しまう。
白鳥はフクロウの生き方を壊してしまう。
フクロウたちはいつも暗闇のなかで生きてきたので、いつも暗闇を信じている。
暗闇が彼らの神だ。
彼らの儀式はすべて暗闇から生まれたものだ。
フクロウの 聖職者たちは暗闇を讃え、学のあるフクロウたちは暗闇に関する大
論文を書く。
彼らの哲学には太陽や光や昼の出る幕がない。
そこにこの狂った白鳥が現れて 、異様な考えをフクロウの世界に密かにもち込み、
吹き込もうとする。
フクロウ社会の構造全体が崩れてしまう。
イエスが十字架にかけられたのはそのためだ。
人々が私にひどく反発しているのはそのためだ。
私はあなたがたに新しい光景ゲシュタルト、新しいパターン、 新しい生き方、
実在への新しい参入の仕方を授けようとしている。
当然、古い生活様式に大量のもとでをかけてきた者たちは腹を立てる。
狂ったように腹を立てるだろう。
彼らは自分たちの世界から私を追放したい ―彼らはまさにそれをやろうとして
いる。
それはまったく自然で、単純なことだ。
ひとたびそれを理解したら、あなたは笑いはじめるだろう。
人はどのようにして、またなぜ神の存在を信じつつ゛けているのだろう?
人はどのようにして、またなぜ魂の存在を信じつつ゛けることができるのだろ
う?
フクロウたちと同じ理由からだ……「俺たちの村では、親父もその親父 もその
また親父も、だれひとり太陽を見たことがない。だから太陽なんて ものはない
んだ。あいつはおまえをかついでいるだけだ。あいつに耳を 貸してはいけない
。あいつは俺たちの宗教をつぶそうとしているんだ」
あなたは父親から「神は存在する。神はキリスト教を伝えた」 とか「神はヒン
ドゥー教を伝えた」と聞かされたことがあるだろう。
父親もまたその父親から聞かされ、それが延々とつつ゛いてきた。
うわさ話、ゴシップだ。父親も知らなければ、あなたも知らない。
勇気を奮い起こし、借り物の知識はすべて落としてしまいなさい。
サニヤシンに最初から求められるのはこれだ―そしてこれは 真理を科学的に探
索してゆくに当たり、最初に求められることでもある。
先入観をすべて落とすこと。
先験的アプリオリな概念をすべて落とすこと。
あたかもそれ以前には伝統などなかったかのように、 経典などなかったかのよ
うに、まるでアダムやイヴのように、 最初から、最初の第一歩から、ABCからは
じめること。
D・H・ローレンスはこう言っている―私は彼にまったく同意する―
「世界中の経典がすべてなくなってしまったら、人間は宗教的になるかもしれ
ない」
あらゆる伝統が完全に消え去れば、そのときはじめて希望が生まれる。
そうでないかぎり、誰が探索したいと思うだろう?
苦労せずとも 伝統があてがってくれるし、何の代価も払う必要がないのだから
、 気にすることはない。
他の人々が知っているのだから、ただ信じればいい。
だが、知ることと信じることは正反対のことだ。
信じることは暗闇のなかで生きつつ゛けることであり、 知ることは変容するこ
と、変身すること、永遠に輝く もうひとつのヴィジョンへと移行することだ。
これらの経文を信じる必要はない。
それらは実地に試してみなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

338避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 10:29:38 ID:LC3de7YgO
>>337
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

これらの経文はたんに手掛かりであり、あなた の実存のなかで実証してゆくべ
きものだ。
やってみないかぎり、あなたは要点を見逃しつつ゛けるだろう。
あなたはみずからの肉体を深遠な霊性の 研究室と見なすようにならなければ
いけない。
そしてみずからの生を、実在を究明する 大いなる冒険として見なければなら
ない。
そしてあなたは意識をとぎ澄まし、注意を払い、 内と外で何が起こっているか
見なければならない。
これらの経文は鍵だ。
みずからの実存に本当に働きかけようとしたなら、驚くだろう。
あなたはみずからの実存にすばらしい宝、無尽蔵の宝を秘めて いる帝王であり
ながら、乞食のように振る舞っている。
昏沈こんちんと散乱という二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けるこ
とによって克服しなければならない。
そうすれば 確実に成果が現れるであろう。
成果は副産物だ。
成果のことは考えなくてもいい。
それについて考えると、それを得られなくなる―それが条件だ。
成果のことを考えてはならない。
成果のことを考えはじめたら、あなたは分裂してしまうからだ。
そうなったら修行は中途半端なものになり、実質のある精神マインドは未来に
飛んでゆく―「どうやって成果をあげよう」と。
あなたはすでに成功した自分の姿を、ブッダになった自分の姿を夢見はじめて
いる―どれほどの美が、どれほどの恵みが、どれほどの祝福があなたのものに
なるかを。
精神が貪欲どんよくさの、野心の、自我エゴのゲームを演じはじめている。
けっして成果のことを考えてはならない。
成果はおのずと生まれる副産物だ。
本当に誠実に自分自身に働きかけていたら、影があなたにつきそうように、成
果はおのずとついてくる。
成果をあげることを目的にしてはならない。
呂祖が「成否のことは思い煩わず、静かに黙々と働きかけなさい」と言うのは
そのためだ。
そして、いいかね、成果のことばかり考えているということは、失敗の恐れも
念頭から離れないということだ。
それらはともに連れそっている。
それらはひとつの包みに入っている。
成功と失敗は切り離すことができない。
成果のことが頭にあるかぎり、どこか奥深いところに恐怖もある。
あなたがそれをなし遂げられるかどうか誰にもわからない。
あなたは失敗するかもしれない。
成果を思い浮かべると未来に連れ去られ、貪欲さというゲーム、自我の投影、
野望が湧き起こる。
そして恐怖もまたあなたに動揺を与え、身震いさせる―あなたは失敗するかも
しれない。しくじる恐れがあるために、あなたはたじろぐ。
このたじろぎ、この欲望、この野心を抱えながら、静かに働きかけることなど
できない。
その実践は混乱したものになる。
ここで働きかけていながら、目は向こうを見ている。
この道を歩きながら、目はどこか空の彼方を見つめている。
星の研究をしていたギリシャの占星術師のことを聞いたことがある。
ある満天の星空の夜に、彼は井戸に落ちた。
星を見ながら歩きまわっていたからだ―星に夢中になるあまり、彼は自分がど
こにいるのか忘れてしまい、どんどん井戸に近つ゛いていって、とうとう落ち
てしまった。
近所に住んでいた老女が物音を聞いて駆けつけた。
彼女は井戸をのぞき込み、縄をもってくると、偉大な占星術師を引きあげた。
占星術師は大いに感謝した。
彼は老女に言った。
「ご存じではないでしょうが、私は国王から特別に任命された王宮の占星術師
です。料金は安くありません―大金もちだけが未来を占うだけの料金を払える
のです。でも、あなたは私の命の恩人です。明日どうぞ私のもとにおいでくだ
さい。あなたの手相を読み、出世図を調べ、星占いをしてあげましょう。そう
すれば、あなたの未来が何から何まではっきりとわかりますよ」
老女は笑いだして、こう言った。
「そんなことはすべて忘れちまいな。おまえさんは目の前にある井戸さえ見え
ないくせに、私の未来を占おうって言うのかい?まっぴらごめんだね!」
あまり先を見過ぎてはいけない。
さもないと、目前の一歩を踏みそこなうことになる。
呂祖は、成果はおのずからやって来ると言う。
成果のことは放っておきなさい。
この<存在>は実に気前がよい。
報われないものなど何ひとつない。
これがインドのカルマの哲学のすべてだ―
何事にも善い報いか悪い報いが必ず
ついてくる。
間違ったことをすれば、悪い報いが影のようについてくる。
正しいことをすれば、必ず善い報いがやって来る。
報いの善し悪しを気にかける必要はない。
少しも考える必要はない。
あなたの意識の一片すらそれにかかずらう必要はない。
それらはやって来る―ひとりでにやって来る。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

339鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/24(日) 22:22:00 ID:1d4drIFg0
何事かを為そうとする意識的な努力が悟りを遠ざけるのじゃ。
何もしないことが出来れば悟りは自ずからやってくるものじゃ。
それができなければただひたすらに目前のものに集中するか観察し続けるのじゃ。
自分がしているという意識さえ無くなれば悟りもやってくるのじゃ。

340避難民のマジレスさん:2019/02/24(日) 23:03:43 ID:LC3de7YgO
>>338
30黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服2
 より抜粋

あなたは道を歩きながら、影がついてきているかどうかを確かめるために何度
も何度も振り返るだろうか?
何度も何度も振り返り、影がついてきているかどうか確かめている人がいたら
、あなたは彼は狂っていると思うだろう。
影はついてくる。必ずついてくる。だから、あなたの働きかけが正しい方向を
向き、全身全霊で、正しい努力をもって行なわれていれば、成果はひとりでに
やって来る。
さて、どのように働きかけるのか?まず第一に……昏沈こんちんと散乱という
二つの誤りは、静かな行を中断せずに 毎日続けることによって克服しなければ
ならない。
昏沈とは怠惰、無気力な状態を言う。
それはあなたの女性的な部分ゆえに引き起こされる。
女性的な部分が怠惰で、不活発なのは、それが受動的だからだ。
そして、もうひとつは散乱だ。
それはあなたの男性的な部分ゆえに引き起こされる。
男性的な部分はいつも落ち着きがなく、活動的だ。
それは千とひとつのことを同時にやりたがる。
カミュの小説に出てくる人物は言う。
「俺は世界中の女をすべて手に入れ たい。ひとりでも、数人でも、大勢でも満
足できない。俺は世界中の女が みな欲しいんだ。」
これは極端な男性的態度だ。
女性はひとりの相手で 満足する。
男は大勢でも満足しない。
女性にとっては満足する ことは自然だが、男性にとっては満足しないことが自然
だ。
いずれの部分にも好ましい面と好ましくない面の両極がある。
女性がみずからの受動性に好ましくない形を取るのを黙認したら、 無気力な状
態が引き起こされる。
女性がこの世に多くのものを 創造してこなかったのは、ごくわずかのものしか
創造してこなかった のはそのためだ―優れた女流の画家や詩人や科学者はいない

それは必ずしも男性が許してこなかったせいばかりではない。
たとえ 自由が与えられ―自由は現に与えられている―女性が解放されたとして
も、この不活発な状態は女性の実存の一部だ。
彼女は行為にはほとんど 関心がない。
彼女は行為よりも在ることに関心を寄せている。
そして、この関心は大いなる祝福にもなりうるし、災いともなりうる。
それは状況しだいだ。
もしこの落ち着きが瞑想的なものになれば、もし この落ち着きが本当に<存在>
に対する満足、<存在>との調和になったら、 それは祝福になる。
だが、通常は九分九厘、無気力な状態になってしまう。
私たちはみずからの祝福をどう使えばいいのかわからない。
すると祝福は苦くなり、災いに変わってしまう。
そして男性的な精神マインドは落ち着きがない。
ここにも祝福の可能性がある 。
男性はきわめて創造的になりうる。
だが、実情はそうではなかった。
創造的 であるどころか、破壊的になってしまった。
祝福が呪いに変わってしまった。
その落ち着きのなさゆえに、男性は大きな不安に襲われ、不安で一杯になり、
緊張しきっている。
彼の精神はすみずみまで絶えず煮えたぎっている。
彼は いつも狂気の淵に立っている。
なんとか自分自身をつなぎとめているが、彼の 奥底には爆発寸前の群衆がいる

ちょっとした口実があれば、男は発狂しかねない。
この落ち着きのなさゆえに、男は美しさを、優美さをなくして しまった。
女性は優雅で美しい。
女性を観察するといい。
彼女 の歩き方、坐り方には気品がある。
彼女の実存には微妙な静寂、 落ち着きがある。
彼女の波動のなかにそれを感じることができる。
女性が住んでいない家はどこもかしこもめちゃくちゃだ。
その家に住んでいるのが独り者なのかどうかはすぐわかる。
何もかもがひっくり返り、めちゃくちゃになっている。
その家に女性の気配があるかどうかすぐわかる。
すべてが調和して いて、しかるべき場所に納まっているからだ。
その家には、ある優雅さ 、ある種の繊細な気配、とても微妙な愛や文化の気配
、音楽的な趣がある 。
男が独りで暮らしている家には神経症の匂いが漂っている。
正しく使われているなら、そのどちらも美しいものになる。
そうなったら 、女性的な部分は優雅さをもたらし、男性的な部分は創造性をも
たらす 。
そして優雅さと創造性が出会うとき、人は全体になっている。
だが、それはめったに起こらない―仏陀や、ミーラや、テレサや、 イエスや、
マグダレーナのような人のなかでしか、ごくまれにしか 起こらない。
ふつうはそれと正反対のことが起こる。
つまり悪い面が 出会うのだ。
男の落ち着きのなさや神経症と女の無気力な状態―この 二つが出会う。
そうなったら最も醜い現象を目にすることになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

341鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/25(月) 23:01:35 ID:1d4drIFg0
アニマといいアニムスというのはインドのグナと同じなのじゃ。
活発で活動的なラジャスと不活性で暗いタマスなのじゃ。
それらを克服してサットヴァを優勢にするのと同じというのじゃ。
サットヴァの下で調整されたラジャスとタマスが完全な調和をもたらすというのじゃ。

342避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:22:08 ID:LC3de7YgO
>>341
アニマ、アニムスもインドの言葉かと思ってたであります。
ググったら、ラテン語であり、ユングの用語でまあったなでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

343避難民のマジレスさん:2019/02/25(月) 23:39:06 ID:LC3de7YgO
>>340
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

さて、ここでもう一度思い出してほしい。
男と女について 話しているとき、私は生物学の用語を使っているのではない。
どの男の内側にも男性だけでなく内なる女性がいる。
その女の内側にも女性だけでなく内なる男性がいる。
男はたんなる男ではなく、女はたんなる女ではない。
彼らは両方だ。
男女ともに両性だ。
彼らは両方の性をそなえている。
ある人が男なのは、おそらく一方が優勢だからだろう。
男性の部分が優位に立って―つまりアニムスが意識に昇り、 アニマが無意識の
奥深くに潜んでいると、あなたは男になる。
あるいは、あなたが女であるというのは、アニマが意識に昇り、 女性的な部分
が優位に立って、男性的な部分、アニムスが無意識の なかに潜んでいるという
ことだ。
だが、両性がつねにともにある。
陰陽の極なくして電気が存在しえないように、両極なくして生物は 存在しえ
ない。
「男と女」「陰と陽」「明と暗」「シヴァとシャクティ」 ―あなたは好きな名
前で呼べばいい。
この二つの誤りを克服しなければならない。
静かな行を中断せずに毎日続けることが必要になる。

そうすれば確実に成果が現れるであろう。
この静かな行とは何か?
これが静かな行だ―
(p285)

静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
あなたはそれを観察したことがあるにちがいない。
たくさんの人々が私に報告している。
私のまわりでは何千人もの人々が瞑想しているからだ。
これは瞑想者が等しく認める体験だが、瞑想をはじめると、人は突然奇妙な現
象に気つ゛くようになる。
瞑想をすると、これまで一度もなかったほど心マインドが落ち着かなくなって
くる。
最初のうちはこれがひどく奇妙に思える。
瞑想すれば心が静かになるものと期待しているからだ。
ところが、起こっているのはまったく逆のことだ。
心はますます落ち着きを失ってゆく。
日常の生活をしているときよりも多くの思考がやってくる。
店や会社や工場で働いているときには、さほど思考は邪魔にならない。
ところが 、お寺やモスクや教会に坐って数分でも瞑想すると、突然、思考が群
れをなしてやって 来て、まわりを取り囲み、あちこちに引きずりまわしはじめ
る。
頭がおかしくなりそう になり、わけがわからなくなる。
瞑想者は穏やかで静かになるものと思っていたからだ。
ところがまったく逆のことが起こっている。
どうしてこんなことになるのだろう?
その理由はこうだ。
あなたがたはいつもこれらの思考と行動をともにしてきた。
店や工場や会社で働いているときでさえ、これらの思考はつねにそこにあった
のだ。
だが、仕事に夢中になるあまり、気つ゛かなかっただけのことだ。
目新しいのは 思考の群れではない―思考はあなたがどこに坐っていようが気に
かけない。
教会なのか、寺院なのか、瞑想ホールなのか、思考は気にかけない。
ようするに、坐って瞑想しているときには外界の事物に気を取られていない の
で、心がいつも内側で騒ぎ立てているすべてのものにはっきりと気つ゛く よう
になるというだけのことだ。
瞑想のせいでいつもより多くの思考がやって 来るわけではない。
瞑想によってあなたはそこにあるものに、いつもそこにあった ものに気つ゛く
ようになる。あなたが前よりももっと気つ゛くようになるだけだ。
静坐して瞑想しなければ、しばしば散乱していてもそれに気つ゛かない。
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
外界の雑務から身を引き、完全に身を引き、全力をあげて内界を観察するため
に、少なくとも毎日一、二時間、坐って瞑想することが強調されるのはそのた
めだ。
最初のうちはパンドラの箱を開けたように見えるだろう。
最初のうちは精神病院に踏み込んだように見えるだろう。
あなたは逃げだして、再び雑務に没頭したくなる。
この誘惑を避けなさい。
この誘惑はなんとしても避けなければならない。
さもなければ、けっして瞑想をすることはできない。
この内なる混乱から目をそらすために数々のトリックが見いだされてきた。
超越瞑想は瞑想のテクニックではなく、内なる現実に直面するのを避けるため
のテクニックだ。
マントラが与えられ、それをくり返すように告げられる。
それは役に立つ―瞑想の助けになるのではなく、気を紛らわしておく助けにな
る。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

344鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/26(火) 22:57:42 ID:1d4drIFg0
>>342 そうじゃ、心理学の用語なのじゃ。
 それもまた観念であるがのう。

始めて瞑想して自分の心を観るのは勇気が要るものじゃ。
今まで避けてきた自分の心の苦しみや痛みと向き合うのであるからのう。
その苦を超えなければ心は見えないのじゃ。
強い意志が必要なのじゃ。

345避難民のマジレスさん:2019/02/26(火) 23:24:37 ID:LC3de7YgO
>>344
くまは、止の行には勇気を必要としなかったでありますが、観にはちょびっと必要な気がするであります。
(´・(ェ)・`)つ

346避難民のマジレスさん:2019/02/27(水) 01:58:24 ID:LC3de7YgO
>>343
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづく) 
 より抜粋

あなたは「ラム、ラム、ラム……」あるいは「コカ・コーラ、コカ・コーラ、
コカ・コーラ……」とくり返しつつ゛けてゆく―どんな言葉でもいい。
自分の名前でもいい。どんなに馬鹿げた音でもいい。あなたはくり返しつつ゛
けてゆく。
それをくり返すことで、あなたの心は一杯になる。
そうして忙しくすることで、あなたは内なる混乱を回避している。
これでは何の違いもない。
あなたは会社でわき目もふらず働いていた。
あなたは夢中になって映画を見ていた。
あなたは夢中になってラジオを聴いていた。
あなたは夢中になって新聞を読んでいた。
今やあなたはマントラに夢中になっている。
これは瞑想でもなければ超越でもない。
真の瞑想とはこれだ―内なる精神病院から目をそらさないようにして、そのな
かに入り、顔をそむけずに遭遇し、注意深く観察してゆくこと。
なぜなら、注意深い観察によってはじめてそれを克服することができるからだ

それがどんどん大きくなってしまったのは、それから目をそむけてきたからだ

あなたは避けられるだけ避けてきた!もうマントラの助けを借りる必要はない

助けはいっさいいらない。
ただ静かに坐りなさい。
禅は最も純粋な瞑想だ。
何もせず、ただ静かに坐る。
何もせず、ただ静かに坐ることほどむずかしい瞑想はない。
人々は私に尋ねる。
「何か依るべになるものをください。何かマントラをくだされば助かるのです
が。何もせず、ただ静かに坐っているのはたいへんです。こんなにむずかしい
ことはありません」
あなたにはありとあらゆることが起こってくる。
身体はあなたを狂気に駆り立てはじめる。
頭がかゆくなったり、突然、蟻が身体を這っているような感じがする。
が、いくら見ても蟻などいない。
身体がトリックを仕掛けているだけだ。
身体が助け舟を出して、あなたを忙しくさせようとしている。
身体は姿勢を変えたがるし、足はしびれてくる。
身体はいろいろなものをもちだしてきて、あなたの心を一杯にしようとする。
心を一杯にさせることはすべて避けなさい。
しばらくのあいだ心をふさぐのをやめて、内側で起こっていることをもらさず
に見るがいい。
するとあなたは驚くだろう、本当に驚くだろう。やがて、ただひたすら見つつ゛
けているだけで、思考が消えてゆく。
「何もせず静かに坐っていると、春が来て、草はひとりでに生える」
これが瞑想の純粋な姿だ。
これこそが「超越瞑想」だ。
だが、マハリシ・マヘーシュ・ヨギが商標にしてしまったために、誰もそれを
「超越瞑想」と呼ぶことはできない。
TMは今や登録商標トレードマークになっている!
こんなやりかたで商売をした者などひとりもいない。
自分の瞑想を超越瞑想と名つ゛けたら、法廷に訴えられる恐れがある。
それは商標登録がしてある。
その馬鹿さかげんをそっくり見るがいい。
瞑想は街で売られる日用品のようになってしまった。
こういうことが何度もくり返されてきた。
アメリカに行ったいわゆるインドのグルたち―彼らは誰ひとり変えることがで
きなかったが、アメリカはみごとにグルたちを変えた―グルたちはみな ビジネ
スマンになった。
彼らはみなアメリカ流のやり方を身につけはじめた。
彼らの手ではけっして誰も変わらない。
変わるはずがない。
人を変えることができたなら、彼らはどこにも行かなかっただろう― 変わりた
いと思う者たちがグルたちのもとへやって来ただろう。
グルたちはどこにも出かける必要がなかっただろう。
喉が渇いていれば、人は水を探しはじめる。
井戸が渇いた人のもとへ出かける必要はない― 井戸はどこにも出かけない―渇
いた者が井戸にやって来る。
給水車を見かけたら、用心するがいい!
(p288)
散乱に意識を向けることにより、おのずと散乱を取り除くことができる。
とほうもなく深い意味を秘めた言明だ。
散乱を取り除く唯一の方法は、それに気つ゛き、それを見守り、それに静かに
意識を向け、心マインドがあなたにしていることを―絶えずあなたの気をそら
していることを見ることだ。
ただそれを見守りなさい。
あなたは何度も忘れるだろう。なぜなら、心は狡猾で、ひじょうにずる賢く、
かけひきがうまいからだ。心は政治家の策略をすべて知りつくしている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

347鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 00:43:57 ID:1d4drIFg0
>>345 そうじゃ、勇気が必要じゃ。
 勇気を奮い起こして心を観るのじゃ。
 
禅もまたアメリカでビジネスになってしまったのじゃ。
誰もが気晴らしのクイズや儀式で悟ったつもりになっておる。
最近の流行は南伝の瞑想からとりいれたマインドフルネスと名づけられたものじゃ。
グーグルは社員にそれをやらせて何億ドルも稼いだというのじゃ。
愚かなことじゃ。

348避難民のマジレスさん:2019/02/28(木) 06:33:22 ID:LC3de7YgO
>>346
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

心は本質的に政治家だ。
心はあなたにあらゆる魔法をかけようとするだろう。
あなたが抑圧してきたすべてのものを心マインドはもち出してくる。
あなたがセックスを抑圧していたら、瞑想をはじめたとたん、アブサラたちが
天国から舞い降りてくるのが見える。
心は言う。
「見ろ!おまえは何をやってるんだ、時間の無駄じゃないか。インドラ神から
美しい女が送られてきたのに、何をやってるんだ」
セックスを抑圧していたら、心はあなたをとらえる餌としてセックスを使う。
野心を抑圧していたら、心は大統領や首相になったあなたの姿を空想しはじめ
、あなたはその罠に落ちはじめてゆく。
今まで食事を拒み、断食をしてきていたら、心はいかにも美味しそうな贅沢な
料理をつくりだす。
その食べ物の香り、匂い……あなたの心は一杯になってしまう。
私がサニヤシンたちに「抑圧してはいけない。そんなことをすれば、けっして
瞑想することはできない」としきりに言うのはそのためだ。
抑圧すれば、瞑想中に自分が抑圧してきたものと遭遇しなければならなくなる

そして、何であれ抑圧したものは強力に、すさまじく強力になる。
それはあなたの無意識に根をおろしている。
インドの昔話に登場する賢者たちのことだが―彼らは年老いていた。
森に住んで断食をしていたので、彼らは老いぼれ、すっかり生気を失い、やせ
衰えて骨と皮ばかりになっていた。
そこへある日突然、インドラ神に仕える最も美しい踊り子ウルワシが現れ、彼
らのまわりで踊った。
この骸骨のような連中はウルワシの目にどう映ったのだろう?
彼女はどうしてこんな骸骨のような連中に興味をもつのだろう?
何のために?
物語では、彼らを誘惑するためにインドラ神がウルワシを送ったことになって
いる。
まったく馬鹿馬鹿しい話だ。
インドラ神など存在しないし、誘惑者の役割を演じる者もいない。
悪魔も魔王もいない。
悪魔とはあなたの抑圧された心に他ならない。
こういった連中は性欲を抑圧しつつ゛けてきた。
抑圧があまりに大きいので、瞑想中にリラックスすると、抑圧されていたもの
がすべて浮上しはじめる。
それは美しい姿をしている。
だから私は「抑圧してはいけない」と言う。
このアシュラムで行なわれている精神療法セラピーはどれも、社会があなたに
強いた抑圧を吐き出すのを助けるためにある。
ひとたびこの抑圧されたものが吐き出され、あなたの身体組織から投げ出され
たら、ひとたびこれらの毒素があなたの身体組織から取り出されたら、瞑想は
ひじょうに簡単でやさしいものになる。
ちょうど羽がゆっくりと地面に落ちてゆくように、枯れ葉が樹からゆっくりゆ
っくりと落ちてゆくように……瞑想はごく単純な現象になる。
そうであって当然だ。
それは内側から自然に湧き起こってくるものだからだ。
あなたはみずからの本性に向かって進んでゆく。
本性に向かう動きは易しいものであり、本性から遠ざかる動きは困難なものに
なるが、それは当然のことだ。
瞑想はむずかしくない。だが、あなたの心マインドと実存のあいだには、散乱
を引き起こす千とひとつの抑圧がある。
呂祖は正しい。
これらの散乱をただ見守りなさい。
油断なく目を見張るのだ。
精神が散漫になり、瞑想を忘れてしまっても、心配することはない。
散漫になっていたことに気がつけば、ただちにもどって、精神を静め、精神を
穏やかにし、再び静かに呼吸をじはじめればいい。
気が散漫になってしまったと悔やむ必要はない。
それもまた散乱のひとつに他ならないからだ。
私が「心マインドは狡猾だ」と言うのはそのためだ。
心はまず散乱を引き起こしておいて、あなたがそれに気つ゛くやいなやこうさ
さやく。
何をやってるんだ?おまえは瞑想をしながらヴリンダーヴァン(和尚コミュー
ンのレストランの名前)へ行き、食事をしたりして……何をやってるんだ?
のろまなやつだ―。
そうなると、あなたは罪悪感を覚えはじめる。
それはよくない。
罪悪感を覚えることも散乱のひとつだ。
今度は罪悪感があなたを苦しめる―
あなたは別の形の散乱に苦しむ。
散乱が次の散乱を引き起こす。
罪悪感を覚えてはいけない。
怒りを覚えてはいけない。
心が散漫になっているその現場を押さえたなら、ただちに不平を言わずもどれ
ばいい。
それは自然だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

349鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/28(木) 22:56:02 ID:1d4drIFg0
修行中に見る幻影は本人の隠蔽していた欲から起こるものじゃ。
全ては心の中から起こるのじゃ。
それをみないようにしていればいつまでも執着は残るのじゃ。
ただ観察する事でそれは消えていくのじゃ。

350避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 05:51:33 ID:LC3de7YgO
>>348
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あなたは何百万もの生にわたって抑圧 してきたのだから。
心が散漫になるのも無理はない。
それを当然のことと受け止めて、引き返し、再び中心に もどってくるがいい。
何度も何度ももどってくるがいい。
そうすれば、徐々に徐々に、中心に とどまっている時間が長くなってゆき 、
散乱が起こる回数が減ってゆく。
そしてある日、ふと気つ゛くと 、あなたは中心にいて、 散乱は影を潜めてい
る。
これが成果だ。
なぜこれを「成果」と呼ぶのだろう?
そこで人は 自分が神であることを、神以外のものではなかったことを、 眠りに
落ちて乞食になった夢を見ていたことを知るからだ。
昏沈に意識を向けるのと、昏沈に無意識であるのとでは実に大きな違いがある。
昏沈に無意識であることが真の昏沈である。
意識されている昏沈は完全な昏沈ではない。
そこにはなおいくばくかの明晰さがあるからだ。
怠けるなら、意識的に怠けなさい。
自分が怠け者であることに気つ゛いていなさい。
自分の怠惰さを見守るのだ。
散乱を見守ったように、自分の怠惰さを見守りなさい。
少なくとも見守ることは怠惰ではない。
見守ることは無気力ではない。
だから怠惰でない何かがそこにはある。
注意力のなさに注意を向けるときには、あなたの内にある 何 も の かが依然
注意を注いでいるので、完全に注意力を失っているわけではない。
その気が抜けたり、散乱していない小さな一点にすべての望みがかかっている。
その小さな一点は種子に似ている。
それは小さく見えるが、時間をかけて辛抱強く待てば、豊かに葉を繁らせる大
樹になる。
そして、いつか黄金の華が開くだろう。

散乱は想念マインドをさまようままに放置することから起こり、 昏沈は想念が
まだ清らかでないことから起こる。
散乱は昏沈よりもずっと容易に直すことができる。
病気に例えてみれば、痛みやかゆみを感じている場合には それを治療する薬が
あるが、昏沈は感覚を失ってしまう病気に似ている。
散乱のほうが取り組みやすい。
なぜなら、散乱は外に向かうものだからだ。
昏沈のほうが内に向かうので取り組むことがむずかしい。
散乱は男性的であり、昏沈は女性的だ。
散乱は活動的であることによって絶えがたいほどの緊張を生じさせるので、容
易に自覚することができる。
だが、昏沈はなかなか自覚できない。まず人は散乱に気つ゛かなければならな
い。
散乱がすべて消えてしまうと、人は昏沈に気つ゛くようになる。
そうなったら、内側を見るためにすべてのエネルギーを使うことができる。
すると岩のようにあなたを押さえつけている、不活発で、非創造的な昏沈がそ
こにあるのが見えてくる。
そうなったらそれを見守ればいい。
そしていいかね。見守ることが唯一の鍵だ。
観察することが瞑想だ―瞑想とはそれにつきる。
それは醒めていることを表す別の言葉だ。
そして不思議なことに、あなたが何かに気つ゛くと、完全に気つ゛くと、それ
は消えてゆく。
それはあなたが無自覚なときにしか存在できない。
無自覚さが散乱と昏沈の餌になる。
あなたが気つ゛いていれば、もはや餌がもらえなくなり、それらは飢えはじめ
る。
やがてそれらはひとりでに消えてしまう。
散乱は鎮めることができるし、混乱は整えることができる。
だが昏沈や無気力な状態は重くて暗い。
散乱や混乱にはまだ一定の場所があるが、昏沈や無気力な状態では ただ魄アニ
マのみが活動している。
散乱の場合にはまだ魂アニムスが 存在しているが、昏沈の場合にはまったき闇
が支配している。
瞑想中に眠気をもよおすならば、昏沈の影響を受けている。
昏沈の克服に役立つのは呼吸だけである。
鼻から出入りする息は 真の呼吸ではないが、真の呼吸の出入りはこれと結びつ
いて起こる。
瞑想中に強い睡魔に襲われたら、呼吸を見守りはじめなさい。
そうすれば眠気は消える。
ヴィパッサナをやっている多くの仏教徒が不眠症に悩まされるようになるのは
そのためだ。
私はヴィパッサナをやっているために、不眠症になっている人たちに大勢出会
った。
しかも彼らはそれに気つ゛いていない。
呼吸を見守っていると、眠りが妨げられるのだ。
だから、私はサニヤシンたちにこう言っている―けっして一日に二、三時間以
上ヴィパッサナをやってはいけない、と。
しかもその数時間は日の出から日没までのあいだにかぎられる。
日が暮れたらけっしてやってはいけない。
夜中にヴィパッサナをすると、眠りがかき乱される。
そして眠りがかき乱されると、身体中のメカニズムがかき乱される。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

351鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/01(金) 22:56:40 ID:1d4drIFg0
散乱と昏沈も自覚していればそれは障害ではないとオショーは言うのじゃ。
それに気付いていれば取り除かれるのじゃ。
瞑想とは観察し、気付いていることなのじゃ。
それができれば全ての障害は乗り越えられるのじゃ。

352避難民のマジレスさん:2019/03/01(金) 23:49:56 ID:LC3de7YgO
>>350
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき) 
 より抜粋

あるセイロンの僧侶が私のもとに連れてこられた。
三年間、彼は眠れない状態が続いていた。
真面目な僧侶だった……それが彼の問題だった。
ヴィパッサナのすばらしさを信じるあまり、彼は朝から晩まで一日中それをや
っていた。
寝床に入って、なかなか寝つけないときにも、ヴィパッサナをやっていた。
寝床でヴィパッサナをやれば、眠れなくなってしまう。
呼吸に繊細な注意を払っている人に眠りは訪れてこない。
試してみるといい―不眠症になりたければ、試してみるといい。
睡魔を払うには呼吸を見守るのが一番だ。
なぜなら、呼吸は生であり、眠りは死だからだ。
それらは互いに対立し合っている。
子供はまず呼吸をすることによって生きることをはじめる。
人生で最初に行なわれる行為は呼吸であり、最後に行なわれる行為は息を吐き
出して、二度と呼吸をしないことだ。
最初の行為は息を吸うことであり、最後の行為は息を吐くことだ。
息をしていなければ、死んでいるとみなされる。
これを覚えておきなさい。
眠るためには呼吸の ことをすっかり忘れてしまわなければならない。
眠りは小さな死、ささやかな死であり、美しい死だ。
眠りは休息とくつろぎを与え、人は翌朝になると溌剌として 若返り、元気にな
って死体置場からもどってくる。
瞑想中に睡魔に襲われたら、呼吸を見守りなさい。
そして、夜はけっして呼吸を見守る瞑想をしてはならない。
(p294)
経文に述べられている次に重要なことがらは、 私たちがくり返している呼吸は
本当の呼吸ではない ということだ。
それは本当の呼吸の乗り物にすぎない。
本当の呼吸とは何か?
インドではそれを「プラーナ」と呼んでいる。
いわゆる呼吸は馬にすぎず、騎手は目に見えない。
呼吸はたんなる馬 であり、プラーナ、精気、あるいはヘンリ・ベルグソンが
「生命力」 と呼んでいたものがその乗り手だ。
それは目には見えない。
息を吸うとき、あなたは空気を吸っているだけではない。
あなたは生命を吸っている。
空気がなければ、生命は消えてしまう。
生命は空気を通して存在している― それは空気の目に見えない部分だ。
呼吸は花のようであり、生命は花を包む香りに似ている。
息をするときには、二重のプロセスが進行している。
ヨーガがプラーナーヤーマに大きな関心を寄せるのは そのためだ。
プラーナーヤーマとは呼吸の拡張を意味する。
呼吸が深くなればなるほど、あなたはもっと深くから生きるようになる。
呼吸が正しいものになればなるほど、あなたは長生きすることができる。
ヨーガはその秘密に大きな関心を寄せるようになった。
不老長寿の霊薬エリクサは呼吸の仕組みのなかにある。
人は長寿を保つことができる。
ヨーガ行者は最も長生きをする。
私は不老長寿をめざせと言っているのではない。
長くても愚かな人生を送る人もあるからだ。
寿命の長さが問題なのではない。
大切なのは強烈さ、深さだ。
私は長生きすることには関心がない。
それでどうなるというのかね?
愚かであるなら、早死にするほうがましだ。
あるときチンギス・ハーンが偉大な賢者に尋ねた。
「あなたの ご意見をお聞きしたいのだが、人は長生きすべきだろうか?長生き
するために何かをすべきだろうか?寿命は天が決めるものなのだろうか?」
賢者は言った。
「閣下、それは人によりけりです。例えば、あ な た が長生きされるのでした
ら、大いに困ったことになりますが、 あなたが早死にされるのなら、それは大
いなる祝福です。 あなたが二十四時間眠りつつ゛けられるのなら、それは 実に
すばらしいことです。世界のもめごとが減るからです」
それは人によりけりだ。
だが、ヨーガは不老長寿に大きな関心を寄せるようになった。
まるでそれ自体 が目標であるかのように。
ヨーガはそこで道を踏みはずしてしまった。
ヨーガはどんどん生理学的なものになっていった― ヨーガの関心は重要ではな
いものごとに注がれるようになった。
だが、秘密はそこにある―それは呼吸のなかにある。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

353鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/02(土) 22:36:12 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンであると記されているのじゃ。
プラーナにも意識は在るのじゃ。
全てに遍満する意識の一部なのじゃ。
人と同じ本質を持つアートマンなのじゃ。

354避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 22:56:50 ID:LC3de7YgO
>>353
プラーナとは、熱感や痺れとして、実感できる気と同じでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

355避難民のマジレスさん:2019/03/02(土) 23:10:31 ID:LC3de7YgO
>>352
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

呼吸は二つのエネルギーの乗り物だ。
ひとつは目に見える空気、 酸素を含んだ触知できる空気だ。
そして酸素にまつわるようにして、 あなたをもっともっと深く躍動させ、生命
とともに燃えあがらせる 生命力エラン・ヴィタール、プラーナがある。
だから、睡魔に襲われるたびに、ただ呼吸を見守るだけで、 眠気は消えてゆく

そして呼吸とともにより多くの生命が あなたのなかに流れ込むことで、昏沈も
消えてゆく。
それゆえに、坐るときにはつねにこころハートを静かに保ち、 気エネルギーを
集中させなければならない。
こころを静めるにはどうすればよいか?
呼吸によってである。
ここでも 呼 吸 に よ っ て だ。
呼吸は最もすぐれたテクニックのひとつとして用いられてきた。

息の出入りをこころが意識していればいいのであり……息が入っては出てゆく
のを見守っていればいい。
そうして注意深く見守ることで、あなたの眠りは消えてゆく。
昏沈は消えてゆく。
そしてあなたは中心感覚を得る。
呼吸は二か所で観察することができる。
空気が身体に最初に入ってくるときに触れる鼻先か、あるいは息が入ってきて
腹を上下に動かす最後のセンター、臍へそのセンターだ。
これが見守ることができる二つのセンターだ。
つい先日、こう尋ねた者がいる。「和尚、鼻の先を見守るのはいいのですが、
ユダヤ人のようなかぎ鼻の場合はどうなのでしょう?」
実のところ、鼻があるのはユダヤ人だけだ。
他の者たちは鼻があると思い込んでいるだけだ。
かぎ鼻ならば、空気が入ってくる鼻先を見守りなさい。
かぎ鼻はこの手の瞑想にはすばらしい助けとなる。
かぎ鼻であることを喜びなさい。
ここにいる人々の少なくとも半分はかぎ鼻だ。
ここにいる人々の半数はユダヤ人だからだ。
質問を読んでいて、私は本当に驚いた。
といいうのも、呂祖師や彼がこの技法を授けた中国の人々のことがとても心配
になってきたからだ。
彼らにはまったく鼻というものがない!
彼らにとって鼻先を見守ることはさぞかし困難だったことだろう。
先端などあるのだろうか?

息の出入りをこころが意識していればいいのであり、 耳に聞こえてはならない

耳に聞こえなければ、 息は軽く、軽ければ、純粋である。
耳に聞こえるようなら、気息は荒く、荒ければ、濁っている。
濁っていれば、昏沈と無気力な状態が生じ、眠気に誘われる。
これは自明の理である。
呼吸するとき、こころハートをいかに正しく使うかを理解しなければならない。
それはこころを用いない用い方である。
努力なき努力。修行なき修行。道なき道、門なき門―タオや禅はこのような表
現をする。
あなたは力まず、緊張をせずにものごとを為さねばならない。
そこで師は言う―それはこころを用いない用い方である。
聴くことに微かすかに光を当てるだけでいい。
あなたは手放し状態にならなければいけない。
これがヨーガとタオの違いだ。
ヨーガは意志の道であり、タオは明け渡しの道だ。
ヨーガは言う。「息をこうして吸いなさい。息をこれくらい深く吸ってしばら
く止め、それから深く吐き出してしばらく止める―意志の力である一定のパタ
ーンをつくりだしなさい」
タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

356避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 10:28:25 ID:LC3de7YgO
>>355
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第八話 昏沈こんちんと散乱の克服(つづき)
 より抜粋

タオは「呼吸はそのままにせよ」と言う。
聴くことに微かに光を当てるだけでいい―ちょうどあなたがたが私に耳を澄ま
しているように。
私の言葉はあなたの耳に向かっている。
言葉に飛びつく必要はない。
言葉を引っぱりこむ必要はない―そんなことはしなくていい。
あなたはただ注意深くして、静かに耳をそばだて、開いていればいい。

この句には秘められた意味がある。
光を当てるとはどういうことか?
それは目の光がもつ自然に照らしだす働きのことだ。
目は内側を見るだけで、外界を見るわけではない。
外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見るということであり……
一種の手放し状態にあるときにはいつも、あなたの内側には大いなる光が感じ
られる。
手放し状態にあれば、それはひとりでに起こる。
<存在>に明け渡しているなら、内側にまばゆい光が感じられる―大いなる光ラ
イトが内側にあり、大いなる喜びデライトが外側にある。
それは自然に起こる。
そして内側にその明るさを感じていることが内側を見るということだ。

外を見ることなく明るさを感じていることが内側を見る ということであり、内
側を実際に見るということではない。
聴くとはどういうことか?
それは耳の光がもつ自然に聴く働きのことだ。
耳は内側を聴くだけで、外界の音を聴くわけではない。
外界の音を聴くことなく明るさを感じていることが 内側を聴くということであ
り……目の裏に、耳の内側に、あなた自身の内奥の源に光を感じはじめたら、
あなたは安定し、中心が決まり、こころハートは静かになっている。
そうなったら、あなたは世間にいながら世間を超えている。
これが超越だ。

内側の音を実際に聴くということではない。
したがってこの場合、聴くというのは無音の状態を聴くだけ であり、見るとい
うのはそこに何の形もないのを見るだけである。
内側には何の形も見えず、何の音も聞こえない。
見えるのは穏やかな光―音なき音、形なき光だけだ。
それゆえに神は"音なき音""形なき形"と定義される。

目が外界を見ず、耳が外界の音を聞かなければ、 それらはおのずと閉じて内界
に沈んでゆきがちである。
内側を見、内側に耳を傾けるときにのみ、 感覚器官は外に向かうこともなく、
内に沈み込むこともない。
このようにして昏沈と無気力な状態を取り除くことができる。
これが、太陽と月がその精と光を結合させることである。
内側に耳を傾け、内側に目を向けているなら―それは内側に形のない光、音の
ない音、沈黙の音楽を感じているということだが―そこで内なる男性と内なる
女性が出会っている。
これが結合、完全なオーガズム、神秘の合一ユニオ・ミスティカだ。

昏沈に襲われて眠気をもよおしたら、立ちあがって 歩きまわるがいい。
頭がすっきりしてきたら、坐りなおす。
やがて修行の成果が現れてきて、昏沈や眠りに陥ることはなくなるだろう。
この経文は実地に行なってみなければならない。
労することなく、これらの経文の奥義に入りこむ努力をしなければならない。
力むことなく、明け渡し、手放し状態になることを学びなさい。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

357鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/03(日) 22:38:55 ID:1d4drIFg0
>>354 そうじゃ、体の中に流れるエネルギーとして感じる気と同じなのじゃ。
 熱かったり冷たかったりするのは気が変化しているだけで無くなっては居ないのじゃ。
 常に肉体にも空間にも遍満するエネルギーなのじゃ。

心を用いないとは聞く事無く聞き、見ることなしに見ることなのじゃ。
聞くことや見ることに没頭すればそれは実現するのじゃ。
没頭して主体が無くなれば自然に心を用いなくなるのじゃ。
心を用いる主体が無ければ用いることも無いのじゃ。

358避難民のマジレスさん:2019/03/03(日) 23:34:56 ID:LC3de7YgO
>>356
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することで はじめて認識できるものである。
まず錯誤について語り、それから確認の しるしとなる体験について話すこと
にしよう。

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
気の動きとこころハートの動きがおのずから 調和するように配慮しなければな
らない。
そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
世事の只なかで坐ってはいけない。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみをすべて脇によけ、 泰然自若としていなければならない。
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
目的を通して無目的を達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを方下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。

また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、寒さと衰亡のイメージが 頻繁に現
れてくる。

そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、 突然あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
あるとき、暗い森の奥深くにわけ入った狩人たちが小屋を見つけた。
小屋のなかでは隠者が木の十字架の前で祈っていた。
彼の顔は喜びで輝いていた。
「こんにちわ、兄弟ブラザー。どうか素晴らしい午後になりますように。あな
たはとても幸せそうですね」
「私はいつも幸せです」
「あなたはこの人里離れた小屋で苦行をしながら幸せに暮らしていらっしゃる
。私たちは何もかも手にしているのに、幸せじゃありません。どこで幸せを見
つけたのですか?」
「私はこの洞窟で見つけたのです。あの穴をのぞいてごらんなさい。そうすれ
ば私がなぜ幸せなのか少しはわかるかもしれません」―そう言って彼は小さな
窓を見せた。
「かつぎましたね。私たちには樹の枝しか見えませんよ」
「もう一度見てごらん」
「見えるのは樹の枝と、それから、青空がほんの少し」
「幸せの秘訣はそれですよ」
と隠者は言った。
「天国がほんの少し……」
至福は人間に内在している本性だ。
それを獲得する必要はない。
それは再発見すればいいだけだ。
私たちはすでにそれをもっている。
私たちはそれだ。
それをどこか他の場所に探し求めたら、確実に取り逃がすことになる。
探すのをやめ、内側を見るがいい。
そこではあなたの人生で最大の驚きが待ち受けている。
何世紀にも、何生にもわたって探し求めてきたいっさいのものが、すでにそこ
にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

359鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/04(月) 20:52:21 ID:1d4drIFg0
全ての目覚めた者達は常に心を観ることを説いているのじゃ。
悟りも極楽も平安も幸福も全て心の中にあるものじゃ。
一切苦であるこの世には無いのじゃ。
この世に幸福や天国を求める者はそれを見つける事無く終わるじゃろう。
心の中に探す者が永遠の幸福と天国を見出すことができるのじゃ。

360避難民のマジレスさん:2019/03/05(火) 08:32:28 ID:LC3de7YgO
>>358
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

乞食になる必要はない。
あなたは生まれながらの帝王だ。
だが、神の王国はあなたの内側にあるのに、あなたの目は外を探しつつ゛けて
いる。
あなたが取り逃がしつつ゛けているのはそのためだ。
それは目の前ではなく、目の後にある。
神の王国は対象ではない。
それはあなたの主観だ。
それは探求者の本性そのものだから、探す必要はない。
それがわかれば、昼なお暗い森の洞窟に独りぼっちで暮らしていても、人は幸
せになることができる。
さもなければ宮殿でさえ惨めさを引き起こすだけだ。
世界にはあらゆる種類の惨めさがある。
貧しい者には貧しい者の惨めさがあり、金持ちには金持ちの惨めさがある。
だが、惨めさに関するかぎり、違いはない。
ときには金持ちの苦しみのほうが大きいことがある。
金持ちには余裕があるからだ。
金持ちのほうが多くの可能性 、選択肢を手にしている。
貧しい者は惨めさをいくつも買うことはできないが、 金持ちは買うことができ
る。
だから、最も裕福な人々がこの世で最大の惨めさを 味わっている。
この意味では、最も裕福な人々が最も貧しい人々になる。
実際、金持ちになったとき、人ははじめて人生の貧しさを感じ取る。
貧しいときには、いつか裕福になって、楽しみ祝えばいいと希望を託す ことが
できる。
だが、外側の豊かさを達成したら、不意に希望が消え失せ、 深い失望がそこに
腰を据える。
あなたは絶望に取り囲まれている。
今や希望もなく、未来もない。
もはや最後の希望もついえてしまった。
あなたは「いつか金持ちになるぞ。そうすれば何もかもうまくゆく」 と考えな
がら生きてきた。
ところが金持ちになっても、何ひとつ変わらない。
内面の惨めさは依然としてつつ゛いている。
実際、外側の豊かさゆえに、外側の豊かさとの対比ゆえに、 内なる貧しさをよ
り鮮明に、より正確に、より鋭く見ることができる。
外側の豊かさは内なる貧しさを感じるための下地を提供するだけだ。
ものをもつことで、あなは内なる空虚さに気つ゛く。
それゆえに、富める国が宗教的になるのは不思議なことではない。
仏陀やマハーヴィーラの時代のインドは富にあふれていたので、 宗教的だった

インドは裕福だった。
その裕福さゆえに インドの人々は内なる貧しさに気つ゛いていた。
そして内なる貧しさに気つ゛くとき、人は内界を探求しはじめる。
物質では内なる渇望を充たせないことに気つ゛くとき、物質は どこまでももの
であり、内側には取り込めないことに気つ゛く とき、それが揺るぎない確信と
なったとき、人は新たな探求、 新たな冒険に乗り出す。
その冒険が宗教だ。
今日のインドは宗教的ではありえない。
インドは世界で最も貧しい国のひとつだ ―そのインドがどうして宗教的であり
えよう?
宗教的たりえるだけの余裕がない。
宗教は最も高い次元の贅沢、究極の贅沢だ。
それは究極の音楽、究極の詩、究極の踊りだ。
それは<存在>そのものに完全に酔いしれることだ。
腹を減らし、飢えていては、それを探求することはできない。
空腹なときに必要なのはパンであって、瞑想ではない。
病気のときに必要なのは薬であって、瞑想ではない。
健康な人だけが、瞑想でなければ充たせない何かが欠けていることを自覚できる

人々は私に、ここで講話に参列しているインド人が少ないのはなぜかと尋ねる。
それは不思議なことではない。
彼らは瞑想に関心がないのだ。
彼らはもの に興味をもっている。
彼らはすっかりものに取り憑かれている。
もちろん霊性について語りはするが、それはたんなる口先であり、過去の遺物
にすぎ ない。
彼らはそういったことを得々として語る―少なくとも自分たちは霊性をそなえ
て いると。
ものは足りないけれど、霊性なら自慢することができるというわけだ。
だが、私にとって精神主義は物質主義よりも高次の段階にある。
物質主義は踏み石の役目を果たす。
富める国だけが精神の貧しさを感じる ようになる。
そして精神の貧しさを感じるようになったら、可能性は二つしかない。
自殺をするか、内なる変容を通り抜けるか、そのどちらかだ。
瞑想は内なる変容の技法だ。
自殺と瞑想が残された唯一の 選択となれば―生全体が無意味だから自分自身を
壊してしまう か、存在の新しい次元へと自分自身を変容させるか― 人は自殺か
瞑想のどちらかを選ばなければならない。
世界の富める国々は自殺を選ぶか、瞑想を選ぶかというこのジレンマをいつも
抱えて いる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

361鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/05(火) 22:48:58 ID:1d4drIFg0
神の王国は目の前ではなく、眼の後ろにあるとオショーは言うのじゃ。
それは客観ではなく主観であるからと説いているのじゃ。
それ自身は認識できない認識主体、アートマンのことなのじゃ。
それに達すれば全ての喜びの王国は永遠にあり続けるのじゃ。

362避難民のマジレスさん:2019/03/06(水) 06:47:13 ID:LC3de7YgO
>>360
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづく)
より抜粋

富める国々のほうが貧しい国々よりも自殺や狂気の悩みを多く抱えている。
貧乏人は自殺のことなど考えているひまがない。
生きることで精いっぱいだ。
貧乏人 は自分のエネルギーを変容させることなど考えているひまがない。
彼の頭は子供たち を養い、雨露をしのぐにはどうすればいいかでいっぱいだ。
彼は肉体より高次なもの、 肉体より深いものにはいっさい興味がない―それも
無理のないことだ。
私はそれを非難しているのではない。
それはまったく自然なことだ。 そうあってしかるべきだ。
世界の貧しい国々がどんどん共産主義に傾いてゆき、 世界の資本主義国がどん
どん精神主義に傾いてゆくのはそのためだ。
マルクスの予言は外れた。
マルクスは富める国々が共産化するだろうと 言っていたが、それはたわごとで
あることが判明した。
貧しい国々だけが 共産主義になった。
ロシアは最も貧困に悩む国のひとつだった。
中国もそうだし、 インドもそうだ。
インドはいつなんどき共産主義の餌食になるかわからない。
それは途上にあって、待ち構えている。
アメリカは共産主義にならなかった。
マルクスは富める国々が共産化するだろう と予言した。
私はこう予言する。
富める国々は必ず宗教的になり、貧しい国々は 共産主義になる、と。
そして、共産主義を通してひとたび国が豊かになると、 その国は宗教を探し求
めるようになる。
それが今ロシアの魂の深部で起こって いることだ。
今やロシアは、再び神や瞑想や祈りについて考えることができる 地点にやって
来ている。
あなたは驚くかもしれないが、ロシアの人々は密かに 集まって祈っている。
祈りは政府から固く禁じられているからだ。
宗教的であることは、犯罪とみなされている。
この国では、寺院はあるが、訪れる者はいない。
教会はあるが、せめて日曜日には 教会に通うよう、なんとか人々を説き伏せな
ければならない。
人々を寺院や教会や モスクやグルドワラに行かせるには、うまく丸めこまなけ
ればならない。
人々が 密かに地下室に集まり、音が漏れないように黙って祈りを捧げている国
を想像できる かね?
ロシアの魂の奥深くで、再び宗教が浮上しつつある。
それは浮上してきて しかるべきだ。
今やロシアは高い次元のものごとについて考えられるほど豊かに なっている

私の生のヴィジョンでは、物質主義と精神主義は矛盾するものではない。
物質主義は宗教のための道を整える。
私が完全に物質主義者であるとともに、 完全に精神主義者でもあるのはそのた
めだ。
これは、私があなたがたに説いて いる最も基本的な教えのひとつだ。
けっして肉体と魂、世間と神を対立させては いけない。
けっして物質主義と精神主義を対立させてはいけない―肉体と魂の ように、そ
れらはともに手を携えてゆく。
物質主義の立場を取りながら、それを霊性への踏み石として使いなさい。
この姿勢は人々の心マインドに大きな混乱を引き起こすだろう。
というのも、 人々はつねに貧しさを精神的なものだと見なしてきたからだ。
それはまったく 馬鹿げている。
貧しさはこの世で最も非精神的なものだ。
貧乏人は精神的にはなれない。
いくら努力しても、その精神性は表面的なものに とどまる。
彼はまだ豊かさに幻滅したことがない。
その彼がどうして精神的に なりえよう?
大いなる幻滅が必要だ。
外の世界に対する大いなる幻滅が。
そうなったら人は内側を向く。
外の世界に完全に幻滅する地点に到って はじめて人は内を向く―
あなたは世間を見てきた。
あなたは世間を生きてきた。
あなたは経験を積み、そこには何もないことを、すべてはしゃぼん玉のような
はかない体験であることを知るに到った。
世間は大きな約束をするが、何も もたらしはしない。
最後には虚しさだけがその手に残る。
外の世界が人に与える ことができるのは死だけだ。
生命は内側に探求されなければならない。
生命の源はあなたの 内 部 に ある。
樹は種子のなかに潜んでいる。
だが、種子を割って開いても、もちろん樹は 見つからない。
そういうやり方では見つからない。
あなたは種子を育てなければ ならない。
そうすれば種子のなかに隠されていた設計図がひもとかれる。
母親の子宮に宿った子供は種子にすぎないが、あらゆる設計図、あらゆる 可能
性がそなわっている―どんな肉体をもつか、どんな顔になるか、目の色は どう
か、髪の毛、身長、年齢、どれだけ長く生きるか、健康かどうか、男か女か 、
黒人か白人か―あらゆるものが種子に含まれている。
生命はその種子から成長する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

363鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 00:04:09 ID:1d4drIFg0
金も権力も人を幸福にはしてくれないのじゃ。
それを知るために一度は金や権力を得てみる必要がある者も居るじゃろう。
実際に得てみて絶望すれば真の幸福への道に眼を向けることもあるのじゃ。
金や権力を得てもそれができなくて薬や酒で死んでしまう者も多いがのう。

364避難民のマジレスさん:2019/03/07(木) 06:05:58 ID:LC3de7YgO
>>362
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

瞑想とはそこからすべてのものが現れてきた―肉体が現れ、欲望が 現れ、精神
作用マインドが現れてきた―内奥の
中核に引き返すことだ。
あなたは源にもどらなければならない。
宗教とは源への回帰だ― そして源を知ることが神を知ることだ。
源を知ることが目的地を知ることだ。
それらはひとつだからだ。
あなたが最初に芽生えた内奥の中核にもどることは、 あなたが到達したいと願
っている<究極なるもの>に到ることだ。
円は完結する。
アルファがオメガになる瞬間がある。
そのときそこに成就がある。
円が完結するとき、そこに成就がある。
それが呂祖師の『黄金の華の秘密』の教えのすべてだ。
彼は道をはっきりさせようとしている。
どうすれば円を完結させることができるか、
どうすれば光を巡らせることができるか、
どうすれば内側に動いてゆけるか、
どうすればほんの少しの青空を、
ほんの少しの天国を手に入れることができるか―
そうすれば、どこにいても幸せでいられる。
あなたは地獄にいても幸せだ。
今のままのあなたでは、どこにいても不幸になる。
たとえ天国にいても不幸になる。
あなたはそこでも不幸になる手段や方法を見つけだす。
なぜなら、 あなたは嫉妬や怒りや貪欲や所有欲をすべてもち歩いているからだ。
あなたは激怒、性欲、抑圧をすべてもちあるいている。
あなたはこの荷物をそっくりもち歩いている。
天国に着いた瞬間、 あなたはそこでもまたまわりに地獄をつくりだす。
なぜなら、 あなたは地獄の種子をもち歩いているからだ。
清らかであれば、静謐せいひつであれば、あなたは天国 にたどり着くと言われ
ているが、真相はまったくその逆だ。
清らかであれば、静謐であれば、天国があなたのもとにやって来る。
人はけっしてどこへも行かない。
人はつねにここにいる。
だが、ひとたび内側が光で満たされたなら、 外側の世界すべてが変容を遂げる

仏陀はあなたがたと同じ世界で活動している。
仏陀はあなたがたが歩くのと同じ通りを歩いている。
だが、 仏陀はまったく異なる世界に生きている。
仏陀は楽園で暮らし、あなたは地獄で暮らしている。
あなたは仏陀の隣に坐っているかもしれない。
彼の手を取ったり、彼の足に触れたりしているかもしれない。
それほど近くにいても、二つの世界は遥かに遠く離れ、分かれている。
天国にある、完全な祝福のなかにある、神という名のその光輝に包まれる 秘法
は何か?
これがその秘法だ―
呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
タオの道は頓悟とんごの道ではない。
それは禅のようではない。
禅は頓悟だ。
タオはゆっくりと成長してゆく。
タオは突然起こる、唐突な変化を信じない。
タオは<存在>と歩調を合わせることを信じ、けっして自分の流儀を押し付けた
り、川を押したりせず、ものごとをひとりでに起こらせてゆく。
そしてタオは言う。
永遠の時間があるのだからあわてる必要はない。
適切な時に種子を蒔いて、待てばいい。
そうすれば春がやって来る。
春はいつでもやって来る。そして春が来れば、花が咲く。
とにかく待ちなさい。急いではいけない。
樹の成長を速めようと引っぱったりしてはいけない。
「すべてが インスタント・コーヒーのようになればいい」とねだったりしては
いけない。
待つことを学びなさい。自然は実にゆうゆうと動いてゆくからだ。
このゆったりとした動きゆえに、自然には優美さがある。
自然はとても女性的であり、女性のように移ろってゆく。
自然は走らず、急がず、あわてることがない。
自然はひじょうにゆっくりと進む、静かな音楽のようだ。
自然は実に忍耐強い。
そしてタオは自然の流儀を信じている。
タオとはまさに"自然"を意味する。
それゆえに、 タオはけっして急がない。
これを理解しておかなければならない。
タオの基本的な教えはこれだ― 忍耐強くあることを学べ。
無限に待つことができるなら、 それは即座に起こるかもしれない。
だが、即座に起こることを求めてはいけない。
求めれば、それはけっして起こらないだろう。
あなたが求めるそのことが障害になる。
その欲望 そのものがあなたと自然のあいだに溝をつくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

365鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/07(木) 22:19:32 ID:1d4drIFg0
タオの法はそれ自体が静寂の法となっておる。
受動性を極めるという目指し方が悟りを得た後の静寂とも重なるのじゃ。
悟る前に既に悟りの妙趣を味わう如きなのじゃ。
それが仏教とは違うところなのじゃ。

366避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 07:52:14 ID:LC3de7YgO
>>365
止からはじめて、まず荒れ狂う心を鎮め整え、観に取り組み、思考、感情をコントロールする方法を身につけり、また気功により、実感することと思考とのちがいを体験することにより、
くまは、悟りの妙趣を味わうとまでは言えませぬが、かなり生きるのが楽になったであります。
これは、仏教的な方法ではないのでありましょうか?
(´・(ェ)・`)つ

367避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 08:12:28 ID:LC3de7YgO
>>364
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

自然と調和を保ち、自然にみずからの道をとらせなさい― それはいつ起こって
もかまわない。
それはいつも時を逸することがない。
起こるのが い つ で あ っ て も だ。
たとえ長い年月がかかるとしても、 それで遅れたことにはならない。
それはけっして遅れない。
それはつねに正しい瞬間に起こる。
タオはあらゆることが必要な時に起こると信じている。
弟子に用意ができたとき、師が現れる。
弟子に究極の用意ができたとき、神が現れる。
それを可能にするのは、性急で、慌ただしい、攻撃的な姿勢ではなく、
あなたのふところの深さ、虚空、受容性、受け身の姿勢だ。
真理は征服できないことを覚えておきなさい。
人は真理に明け渡さなければならない。
人は真理に征服されねばならない。
だが、いつの時代にも、あらゆる国々で 攻撃的で野心に満ちた教育が行なわ
れてきた。
私たちは人々をせきたてる。
私たちは人々の恐怖を煽る。
私たちは彼らに言う。
「時は金であり、じつに貴重なものだ。過ぎ去った時間は もどってこない。だ
からぐずぐずしてはいられない。急げ」と。
これが人々を狂気に駆り立ててきた。
彼らはここからあそこへとあわてて 飛びまわり、どこにいても少しも楽しむこ
とがない。
彼らはこの国際ホテル から別の国際ホテルへと世界中を駆け回る。
どのホテルも似たりよったりだ。
東京であろうが、ボンベイであろうが、ニューヨークであろうが、パリであろう
が 大差はない。
これらの国際ホテルはみな似たりよったりだ。
ところが人々は、この国際ホテルからあの国際ホテルへと駆けまわりながら、
世界一周旅行をしているつもりになっている。
どこもかしこも同じなのだから、 どこかの国際ホテルに腰を据えていればよか
ったし、他のところに出かけてゆく 必要などなかったのだ。
だが人々はどこかに向かっていると考えている。
スピードは人々を神経症に追いやっている。
タオは自然の道だ。
樹が育ち、川が流れるように、 そして鳥や子供たちのように…… それとまっ
たく同じように、人は 神のなかへ成長してゆかなければならない。

呂祖師は言った。
汝らの修行は次第に集中し、成熟してゆくだろう。
あわてないこと。死に物狂いにならないこと。
今日うまくゆかなくても、希望を失うことはない。
今日しくじったとしてもどこもおかしくない。
数日のあいだ失敗がつつ゛いてもどこもおかしくない。
人々は失敗することをひじょうに恐れている。
ただ失敗するのが怖いために、けっしてやってみようとはしない。
怖がるあまり恋をしない人々が大勢いる―誰にわかるだろう?
拒絶されるかもしれないではないか。
そこで彼らは愛情を表現しないでおこうと心に決めた。
そうすれば誰にも拒絶されることはない。
人々は失敗を恐れるあまり、けっして新しいことをやろうとしない―わかるも
のか。
失敗したら、どうするんだ?
そして言うまでもなく、内側に入ってゆくためには何度も失敗せざるをえない

一度もそこに入ったことがないからだ。
あなたは外界での活動や外向的な仕事をこなす手腕や力はそなえているが、ど
うやって内側に入ればよいのかわからない。
人々は「内側に入りなさい、なかに入りなさい」という言葉を耳にしても、何
のことだかわからない。
彼らが知っているのは出てゆく方法だけだ。
彼らが知っているのは他人のところへ出かける方法だけだ。
彼らは自分自身に到る方法をまったく知らない。
それも無理はない。
過去からの習慣ゆえに、あなたは何度も失敗するだろう。
希望をなくしてはいけない。
成熟はゆっくり起こる。
成熟は必ず起こるが、それには時間がかかる。
そして、いいかね。人が違えば、成熟する速さも違う。
だから比較しないこと。
「あの人はとても静かで、楽しそうなのに、私はまだなっていない。いったい
どこがいけないのだろう?」と考えてはいけない。
他人と比較してはいけない。
人はそれぞれ異なる過去生を生きてきたのだから。
今生ですら人々の生き方は様々だ。
例えば、詩人は科学者よりも内側に入ってゆきやすいかもしれない。
受けた訓練が違うからだ。
科学的な訓練は、客観的であること、対象となる事物に注意を向け、対象とな
る 事物を観察し、主体を忘れることにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

368鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/08(金) 22:40:35 ID:1d4drIFg0
>>366 そうじゃ、違うのじゃ。
そもそも仏教では感覚も初めの段階から厭離することを実践するからのう。
何かを感じることも無いのじゃ。

タオの法は全てが起こるままにさせておくのじゃ。
自らは何にも関わらない。
全てが起こるままにしておけば心は鎮まっていくのじゃ。
そのように何の期待もなくあるがままにしていくことで全ての障害を乗り越えていくのじゃ。

369避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:05:15 ID:LC3de7YgO
>>368
なるへそであります。
くまは仏教でなくても良いのであります。
楽になれた事実と、実感が求める全てでありますから。
て、ことは、仏教的には、くまは外道でありますね。
(´・(∀)・`)つ

370避難民のマジレスさん:2019/03/08(金) 23:45:50 ID:LC3de7YgO
>>367
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

科学者は、科学者であるためには、 実験から完全に距離を置かなければならな
い。
科学者は実験に巻き込まれては いけない。
そこに感情をもち込んではいけない。
科学者はコンピュータのように まったく平然としていなければならない。
科学者は人間であってはならない。
そうなってはじめて人は真の科学者となり、科学で成果をあげることができる

さあ、詩人の技量はこれとはまったく違う。
詩人は巻き込まれる。
詩人は花を観察しながら、まわりで踊りはじめる。
詩人は身をもって参加する。
詩人はたんなる超然とした観察者ではない。
舞踏家のほうがもっと容易かもしれない。
舞踏家とその踊りは一体であり、踊りは内に深く根ざしているので、 舞踏家は
たやすく内なるスペースに入ってゆける。
それゆえに、古代の世界各地の神秘的なミステリー・スクールにおいて 舞踏は
秘められた技法のひとつだった。
舞踏はミステリー・スクールや寺院において進化した。
舞踏は最も宗教的な現象のひとつだ。
だが、それはその意味を完璧に失い、まったく正反対のものに成り果ててしま
った。
それは性的な現象になってしまった。
舞踏は霊的な次元を失ってしまった。
だが、いいかね、霊的なものはすべて堕落したら性的なものになってしまうし、
性的なものはすべて上昇すれば霊的なものになりうる。
霊性とセクシャリティは織り合わされている。
数学者よりも音楽家のほうが瞑想に入ってゆきやすい。
人が違えば、 得意な分野も違い、精神構造も違い、条件つ゛けも異なっている

例えば、キリスト教徒のほうが仏教徒よりも瞑想することがむずかしいかもし
れない。
仏教徒たちは二十五世紀ものあいだ瞑想を絶やさ なかったので、その門人たち
はある特定の質をそなえている。
仏教徒が私のもとへ来ると、ひじょうに簡単に瞑想に入ってゆける。
キリスト教徒がやって来ても、瞑想にはまるで馴染みがない。
キリスト教徒は瞑想を完全に忘れてしまっているからだ。
キリスト教が知っているのは祈りだけだ。
祈りはまったく異なる現象だ。
祈りのなかでは他者が必要とされる。
祈りはけっして自立したものではありえない。
祈りはむしろ愛に似ている。
祈りは対話だ。
瞑想は対話ではない。
それは愛に似たものではなく、 愛とはまったく逆のものだ。
瞑想のなかで、あなたは独りっきりになってしまう。
行く場所もなく、関わる相手もなく、対話もない。
他者がいないからだ。
あなたはどこまでも自分自身であり、自分自身以外の何ものでもない。
これはまったく異なる取り組み方だ。
だから、それはあなたが成長する途上で身につけた技能、精神構造、条件つ゛け
、 教育、宗教に左右される。
読んできた本、一緒に暮らしてきた人々、みずからの 内側にかもしだしてきた
波動に左右される。
それは千とひとつのものごとに、 あなたがどれだけ多くのものを吸収すること
ができるかどうかに左右される― が、それは必ず、確実にやって来る。
必要なのは忍耐、黙々と実践することであり、 辛抱強く働きかければ、集中が
生まれ、成熟が起こる。
実のところ、成熟した人と集中力のある人は同じ現象の両側面にすぎない。
だからこそ子供たちは精神を集中できない。
彼らは絶えず動きまわり、一か所に じっとしていられない。
あらゆるものが珍しい―車が通り過ぎてゆく、鳥が鳴き、誰 かが笑いはじめる
、隣の人がラジオをつけている。
蝶々が飛んでゆく―あらゆるもの が、全世界が魅了する。
彼らは次から次へと目移りしてゆく。
彼らは集中できない。
他のことを忘れてしまうほど、世界が存在しなくなるほど、 しっかり腰を据え
てひとつのことに取り組むことができない。
成熟するにつれ、集中力が生まれてくる。
成熟と集中力は言葉は違うが同じものを指している。
だが、まず覚えておかなければならないのは、 それは徐々にやって来るという
ことだ。
比較してはいけない。あわててはいけない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

371避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 13:21:53 ID:LC3de7YgO
>>370
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

だが、断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには、 まだ多くの錯
誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
呂祖師は言う―断崖に立つ枯れ木のように打坐する境地に到るまでには
・・・・・・これはとほうもなく美しく、意義深い道家タオイストの表現だ。
これは生きながら死に、
死にながら全一に生きる
ことを意味している。
喜びにあふれ、祝いながら世間のなかで暮らし、しかも世間の一部にはならな
いこと、世間のなかにありながら、
世間が自分のなかに入ってこないようにさせることを意味している。
断崖に立つ枯れ木のように
―それは死人のように生きることだ。
アレキサンダー大王は、サニヤシンをインドから母国へ連れて帰りたかった。
師である偉大な哲学者アリストテレスから「インドからもどるときには、
サニヤシンを連れてきてほしい」と頼まれていたからだ。インドが世界に
貢献したもので、サニヤシンの道、サニヤシンの生き方にまさるものはない。
アリストテレスは深い関心を寄せていた。
彼はサニヤシンがどういう種類の人間なのか見たかった。
それはインドでしか見られないからだ。
それはインドが世界の文化と人類に対して捧げた特別な貢献だ。
世間で生きながら、世間の一部とならず、
超然と離れたままでいるという、まったく異なる世間の生き方だ。
それは池に咲く蓮の花が水中にありながら、水に触れられないのに 似ている。
蓮の花びらにたまった露に朝日が当たると、それは真珠 のように美しく見え
る。
が、露は少しも花に触れていないし、花も 少しも露に触れてはいない。
それほど近くにありながら、遠く離れている……。
「サニヤシンとはどういう種類の人間だろう?」―アリストテレスの関心は哲
学的 なものだった。
彼はサニヤシンになるような人間ではなかったが、アレキサンダー にサニヤシ
ンを連れてくるよう依頼した。
「あなたはたくさんのものをもち返って くるだろう。どうか私には、忘れずに
サニヤシンを連れてきてほしい」
インドを発とうとしていたアレキサンダーは思い出した。
「そうだ、サニヤシンだ」彼はインドの最後の滞在地で人々にサニヤシン のこ
とを尋ねた。
すると人々は言った。
「ええ、この国にはすばらしいサニヤシン がいますが、彼を連れてゆくのはま
ず無理です」
アレキサンダーは言った。
「私にまかせればいい。心配することはない。おまえ たちは私のことを知らな
いな。私がついて来るように命じたら、ヒマラヤの山々 でさえついて来ざるを
えない。サニヤシンなどわけもない。彼はどこにいる? 居どころを教えてくれ
さえすればいい」
そしてその居どころがわかった。
そのサニヤシンとは、川のほとりに住んでいる裸の行者ファキールだった。
そのサニヤシンをアレキサンダーのもとへ連れてくるために、抜き身の剣を 手
にした四人の屈強な男がおくられた。
抜き身の剣を手にした四人の屈強な男たちを見て、サニヤシンは笑いはじめた。
男たちは言った。
「わかっていないようだが、これはアレキサンダー大王の 命令だ。宮廷までつ
いて来てもらおう。大王がお待ちだ」
するとサニヤシンは言った。
「私はずいぶん昔に去来するのをやめた。
私に会いたければ、大王のほうから会いにくればいい。
だが、私はもう 去来はしていない。
去来することは私の心とともに消えた。
もはや来る者もいなければ、去る者もいない。
私はもう存在していない!」
もちろん、このギリシャ人たちは理解することができなかった。
ギリシャ人はインド人とは正反対だ。
インド人は基本的に非論理的であり、
ギリシャ人は基本的に論理的だ。
インド人は詩的、直感的であり、
ギリシャ人 は理知的だ。
この四人の兵士は彼に言った。
「なんというたわけたことを 言っているのか。おまえを引きずってゆくことだ
ってできるんだ!」
サニヤシンは言った。
「 身体を引きずってゆくことはできても、 この私を引きずってゆくことはでき
ない。
身体を牢屋に閉じ込めることはできても、 この私を閉じ込めることはで
きない。
私の自由は損なわれないままだ。
私は蓮の花であり、水は私に触れることができない」
さあ、この言葉はギリシャ人にはさっぱり通じなかった。彼らは言った。
「待っていろ。大王様にお伝えして、処置を仰ぐことにしよう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

372鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/09(土) 23:30:01 ID:1d4drIFg0
>>369 仏陀になるための教えは全て仏教なのじゃ。
 オショーもタオも逃れられないのじゃ。
 わっはっはっは。

断崖の枯れ木のように座れというのじゃ。
もはや全ての計らいを捨てて座るのじゃ。
タオでは座禅のように座ることを座忘というのじゃ。
全てを忘れて座るのじゃ。
自分も忘れたらサマーディに入るのじゃ。

373避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:34:06 ID:LC3de7YgO
>>372
苦がのないのが覚者でありますね。
(´・(∀)・`)つ

374避難民のマジレスさん:2019/03/09(土) 23:47:45 ID:LC3de7YgO
>>371
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える3(つづき)
より抜粋

アレキサンダー はこのサニヤシンの美しい言葉を耳にし、ことの顛末てんまつ
を聞いた。
「 彼はすばらしい人で、川岸で日の光を浴びながら裸で坐っています。 彼は
大王のように見えますが、まわりには何ひとつものがありません。 彼は無一物
であり、乞食こつじきに使う鉢さえもっていませんが、 どうどうとしていて、
優美です!彼の目をのぞき込めば、全世界 を支配する皇帝のように見えます。
彼は私たちの愚かさを、私たちが 抜き身の剣を携えていったことを笑い飛ばし
、少しも動じませんでした。 そして『身体は殺せても、この私を殺すことはで
きない』と言ったのです」
アレキサンダーは興味をそそられた。
彼はこの裸のサニヤシンに会いに行った
彼は感動 し、深く心を打たれ、こう言った。
「私と一緒に来ていただこう。これは命令だ!」
だが、サニヤシンは言った。
「 サニヤシンになったその日から、 私は他人の命令に従うことをやめた。 私
は自由な人間であり、奴隷ではない。 誰も私に命令することはできない。私を
殺すことはできても、私に命令することはできない」
アレキサンダーは腹を立て、剣を抜いて言った。
「この場で首をはねてしまうぞ!」
するとサニヤシンは再び笑いはじめた。彼は言った。
「 首をはねるのはいいが、首などとっくの昔に 自分ではねてしまったよ。私は
死人なのだ」
さあ、これが真のサニヤシンの意味だ――死人。
その男は言った。
「死人を殺せるわけがない。それはまったく馬鹿げている。 どうして死人を殺
せるだろう?死人はすでに死んでいて、もうこれ以上死ぬ ことなどできはしな
い。何もかもすでに終わってしまった。あなたは来るのが 少し遅すぎた。私は
もう存在していない。そう、首をはねることはできる。 あなたは私の首が砂の
上に転がってゆくのを見るだろう。 私もまた自分の首が砂の上に転がってゆく
のを見る。 私は見守る者、目撃者だ」
これが「断崖に立つ枯れ木」の意味だ。
アレキサンダーは断崖であり、 このサニヤシンは枯れ木だった。
断崖が枯れ木に何ができるだろう?
枯れ木はすでに死に、息絶えている。
断崖は枯れ木を殺すことができない。
枯れ木は断崖を恐れない。
だが、こうなるまでにはまだ多くのことが起こりうる――
(p318)
まだ多くの錯誤を犯す可能性がある。
これに関しては特に注意を促しておかねばならない。
このような境地は、身をもって体験することではじめて認識できるものである。
いいかね、このうえもなく価値のあるメッセージ――これは探求者たちにとっ
て最もすばらしい論書のひとつだ――
のなかで呂祖が言っていることはすべて、 彼自身がその旅の途上で体験したも
のだ。
だから彼はそれを言っている。
彼はこれらの錯誤を犯したことがある。
弟子たちがこれらの錯誤に足を取られないですむよう、 これらの錯誤に心を乱
されずにすむよう、彼は弟子たちに教えたい。
一度も瞑想をしたことがない者たちには、これらの錯誤が何であるか わからな
いだろう。
身をもって体験してはじめて、彼らもそれをようやく 理解することができるよ
うになる。
だが、<道>の途上にある者たちには心の 用意をさせて、途上にどんな罠が待ち
受けているかを言っておかねばならない。
<道>はそれほど単純ではない。
色々な 場所からたくさんの道が枝分かれしている。
行き止まりの道を選んでしまうこともあるが、 それが行き止まりであること
に気つ゛いたときには すでに何年も、あるいは何生もが過ぎ去ってしまっている。
そして、費やしたすべての努力と旅は無駄になり、 本道を見失った地点まで、
またもどってこなければならなくなる。
そして、道標みちしるべとなるものはない。
いつも使える地図は手に入らないし、そんな地図はつくれない。
なぜなら、神は変化しつつ゛けているからだ。
神の存在とは絶えざる変化のことだ。
変わらないのは変化だけであり、 あらゆるものが変化しつつ゛けてゆく。
だからいつも使える地図などつくれない。
ただヒントだけが与えられる。
これらはヒントだ。
これらのヒントを理解したら、あなた は正しい道をたどることができる。
そして過ちを犯しそうになるたび に、あなたの理解が助けとなる。
まず錯誤について語り、それから確認のしるしとなる体験について話すことに
しよう。
呂祖は言う――「まず起こりそうな錯誤について話し、それから正しい道の上
にいることをはっきりと確認できるしるしについて語ろう」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

375避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 07:31:58 ID:LC3de7YgO
>>374
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりと くつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
これが最初に理解すべきことがらだ。
ひとたび内なる道を行こうと決意したら、
ひとたびサニヤシン、瞑想者になろうと決意したら、
ひとたび内なるものの呼びかけに応え、
「私は誰か?」
という問いの探求、探索に乗り出したら、まず力んではいけないということを
覚えておかねばならない。
ゆったりとした気持ちでのぞみ、
内なる旅が快適なものになるよう心がけなければならない。
さあ、これはとても重要なことだ。
ふつう、この最初の錯誤は誰にでも起こる。
人々は内なる旅をいたずらに複雑で、不快なものにしてしまう。
それはある理由から起こる。
人々は日常の生活で他人に腹立ちを覚えている。
彼らは日常の生活で他人に暴力的になっている。
外に向かうふつうの旅では、人々はサディストになり、
他人を苦しめて楽しんでいる。
他人を打ち負かすことを楽しんでいる。
他人と張り合い、他人を征服するのを楽しんでいる。
他人に劣等感を抱かせることさえできれば嬉しいのだ。
外に向かう旅とはそういうものだ。
政治とはそういうものだ。
これは合法的に、あるいは非合法的に、絶えず他人よりも秀でようとしている
政治的な心理マインドだ。
とにかく、何がなんでも、他人を打ち負かそうと絶えず努力をしている。
相手を叩きつぶさなければならないとしても、臆することはない、叩きつぶせ
ばいい。
とにかく人は勝利をおさめなければならない。
首相や大統領の座につかなければならない。
これやあれやにならなければならない――いかなる犠牲を払ってもだ!
全員が競争相手なのだから、まわりはみな敵だ。
これを覚えておきなさい――そもそも教育というものは、人に闘いの準備をさ
せ、闘う覚悟を決めさせるものだ。
友情や愛の下地を準備させるのではなく、闘い、憎しみ、戦争にそなえさせる
ものだ。
競争があれば、必ず憎悪が生まれてくる。
張り合っている相手に、互いに油断できない相手にどうして友好的な態度を取
れるだろう?
彼らが勝ってあなたが負けるか、あなたが勝って彼らが負けるか、二つにひと
つだ。
だから、あなたがたのいわゆる友情は見せかけ、形だけのものにすぎない。
それは人生を円滑に送るための潤滑油の一種だ。
が、奥深くでは友人はひとりもいない。
友人たちでさえ友人ではない。
なぜなら、彼らは互いに比較し合い、張り合っているからだ。
野心、政治的な駆け引きに満ちた教育のために、この世界は戦場になってしま
った。
人が内側に方向を転じると、問題が起こってくる。
これらの怒り、憎しみ、攻撃性、暴力はどうなるのだろう?
今や彼はひとりだ。
彼は自分自身を痛めつけはじめる。
彼は自分自身に腹を立てる。
いわゆる大聖マハトマたちはまさにそれだ。
彼らは
なぜ自分を痛めつけているのだろう?
なぜ断食しているのだろう?
なぜ針のベッドの上に横たわっているのだろう?美しい木陰があるのに、
なぜ焼けつく太陽の下に立っているのだろう?暑いのに、
なぜ火のそばに立っているのだろう?
寒いのに、
川や雪のなかになぜ裸のまま立っているのだろう?
これは姿を変えた政治家たちだ。
彼らは最初は他人と闘っていたが、まわりに誰もいないので、自分自身と闘っ
ている。
彼らの精神は分裂している。
彼らは自分自身を分裂させてしまった。
それは今や内戦だ。彼らは肉体と闘っている。
肉体はいわゆる大聖マハトマたちの犠牲になっている。
肉体に罪はない。
肉体はあなたに何ひとつ悪いことはしていない。
だが、いわゆる宗教は「肉体は敵だ、肉体を痛めつけろ」と説きつつ゛けてき
た。
外へ向かう旅はサディズムの旅だった。
内へ向かう旅はマゾヒズムの旅になる―― 人は自分自身を痛めつけはじめる。
そして、自分自身を痛めつけることには、 ある種の歓び、倒錯した喜びがある

歴史を調べてみれば、驚くだろう。
人間が自分自身に対して何をしてきたか、とても信じられないだろう。
人々はみずからの身体を傷つけ、手当てもせずに放置してきた――身体は敵だ
からだ。
キリスト教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、その他様々な宗派があるが、彼らは
実に抜け目のない、狡猾な、うまいやり方で身体を痛めつけるようになった。
彼らは身体を痛めつける大した技法を開発した。
断食を称賛するだけでなく、みずからの身体を叩き、鞭打つキリスト教の一派
があった 。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

376鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/10(日) 21:55:10 ID:1d4drIFg0
>>373 そうじゃ、覚者には苦が無いのじゃ。

タオではまずくつろぐことが大事というのじゃ。
全ての争いや競争や欲を捨てて座るのじゃ。
あらゆる社会や組織での競争や価値観をも捨てるのじゃ。
塵に等しい者となることで全てを捨てるのじゃ。

377避難民のマジレスさん:2019/03/10(日) 22:39:30 ID:LC3de7YgO
>>375
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

最もすぐれた聖者とは、みずからの手で最も自分の身体をひどく傷つけた者だ
った。
人々はやって来て、彼らの傷を数えたものだった。
他人の傷を数えるとは、いったい どういう連中だろう?
彼らもまた倒錯した喜びに浸っていたにちがいない。
インドではジャイナ教の行者ムニたちが身体を傷つけている。
ディガムパラ派に属する ジャイナ教の僧侶は毎年髪の毛をむしり取る。
そして彼らが髪の毛をむしるときには 大勢の人が集まってくる。
それは苦痛に満ちているが、人々は「立派な苦行が行なわれ ている」と楽しみ
にしている。
その男はたんなる倒錯した精神病者にすぎない。
彼には 電気ショックが必要だ。
それ以外のものでは役に立たない。
髪の毛をむしりはじめる行為には、ある種の狂気が含まれている。
そして、 あなたが夫であれば知っているように、怒り狂った妻は、ときどきそ
れをやる ことがある。
妻のほうがそれをよくやるのは、妻は夫を殴るべきではないと教え られてきた
からだ。
ではどうすればいい?夫を殴りたいが、殴るわけにゆかない。
経典には夫は神であると述べられている。
それがまったくのたわごとであることは わかっているが、経典は経典だ。
彼女は夫のことを知り尽くしている――夫が神だと したら、いったい悪魔は誰
だろう?
だが、それは口にしてはならない。
彼女は夫の 足に触れなければならない。
妻が夫に愛の便りを送るときには「あなたの下僕」と 書かなければならない。
どちらが下僕か彼女は知っているのだが!
誰もが実情を知っているが、うわべを取り繕わねばならない。
妻が夫を殴れば、何か 罰当たりなことをしたような、罪を犯したようなやまし
さが湧いてくる。
だから夫を 殴るわけにはゆかない。
だが、彼女は 本 当 に 殴りたいのだ!
だったらどうすれば いい?皿を割るか――そんなことをしたら損をするだけで
、自分が苦しむだけで、何の 役にも立たない――それとも最も手軽で、安価で
、経済的な方法を取り、自分自身を 叩き、髪の毛をかきむしり、壁に身体を打
ちすえ、壁に頭をぶつけるか。
これが一番安上がりな方法だ。
彼女は夫の頭をぶちたいのだが、そうすることはでき ない。
それは許されておらず、倫理にもとる。
誰がこの観念を彼女に吹き込んだのだ ろう?
夫や彼の仲間の僧侶や政治家たちだ。
精神病院に行けば、髪の毛をかきむしっている人が大勢いる。
人々が髪の毛をかきむしることには一種の狂気がある。
さて、髪の毛をむしり取っているジャイナ教の僧侶は、本当は病気だ。
だが、人々は 集まってお祝いをする――「とても偉大なことが行なわれている
!見ろ!なんと すばらしい聖者だろう!」
こういった人々は病気だ、と言ったばかりに、私は反感を 招いてしまった。
ことは単純だ、ごく単純だ。彼らは私に反発せざるをえない。
キリスト教の宗派には……かつてロシアには性器を切り取る一派があって、盛大
な 集会が開かれたものだった。
ある定められた日に、人々はそれを行なった。
それは 精神錯乱だった。
ひとりが自分の性器を切り取り、それを投げ捨てると、あたり一面 に血がまき
散らされる。
するとその錯乱状態が、ただ見物にきていた人たちに乗り移る 。
つつ゛いて誰かが飛び込んで、その行為に加わってゆく。
祭りが終わる頃には、 性器の山ができている。
こういう連中が偉大な聖者と見なされた。
女性たちはどうしていいかわからなくなり、乳房を切り落としはじめた。
負けてはいられないからだ。
女性たちは乳房を切り落としはじめた。
単純な錯誤からあらゆる種類の愚かな行為が起こりかねない。
あなたが内側に向かいはじめると、それまで他人の人生に難癖を つけてきた古
い思考様式マインドが、あなた自身の生に難癖を つけようとする――そういっ
た錯誤が起こりかねない。
いいかね、内なる探求者はゆったりとした気分でいなければならない。
ゆったりとくつろいでいるときにのみ、何かが起こりうるからだ。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、何も起こらない。
緊張し、不快な気分を味わっているときには、心が乱れ、 穏やかな気分ではい
られない。
腹が減っているのに、どうして穏やかな気分でいられるだろう?
ところが人々は断食を説いてきた。
彼らは断食は瞑想の助けになると言っている。
ときおり断食が体調をよくする助けになることはあるだろう。
不要な体重がいくらか減るかもしれない。
だが、断食は瞑想の助け にはならない。
断食していると、食べ物のことばかりが頭に浮かぶ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

378鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/11(月) 23:55:42 ID:1d4drIFg0
苦行は世界のどこにでもあったものじゃ。
それは他人に恐れと恐れの克服を見せるが故に畏敬の対象になったが悟りとは関係ないものじゃ。
苦行では悟りは訪れないのじゃ。
そうであるからお釈迦様も苦行を捨てたのじゃ。

379避難民のマジレスさん:2019/03/12(火) 03:52:08 ID:LC3de7YgO
>>377
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

聞いた話だが…… 結婚したカップルが地区の牧師に相談に来た。
最初は深刻そうだった会話も 次第に打ち解けてきて、牧師はこの地区にかわいい娘が何人いるか数えあげた。
「牧師さん」と夫は言った。
「驚きましたよ」
「なぜですか?」と牧師は尋ねた。
「ダイエット中でも、メニューは見ていいんですね」
セックスを抑圧している人々はメニューばかりを見ている。
空腹を抑えている人々は食べ物のことばかり考えている。
それは自然なことだ!
瞑想などできるはずがない。
断食していれば、次から次へと料理の名前が心に浮かび、 美味しそうな料理が
続々と湧いてくる。
美味しい食べ物の香りや味覚に触れて、あなた ははじめて鼻が生きているのを
感じ、はじめて舌が生きているのを感じるようになる。
ときどき断食して食べ物に対する興味を取りもどすのはよいが、それは 瞑想の
役には立たない。
味覚を取りもどすために、身体をもう少し敏感に させるのはよい。
だが、断食は断食明けのごちそうに役立てるべきだ!
食欲を取りもどすためにときおり食べないのはよい。
それは健康のためにはよい。
だが、瞑想は断食とはいっさい関係がない。
満ち足りているときよりも、 腹を減らしているときのほうが瞑想はむずかしく
なる。
確かに、食べ過ぎも また問題をつくりだす。
食べ過ぎてしまうと眠くなるからだ。
まったく何も食べずにいると、空腹を感じる。
真ん中にいることが正しい道――中庸だ。
空腹を感じずにすむように食べなさい。
だが、 胃がもたれ、眠気をもよおす
ほど食べ過ぎてはいけない。
そうすれば瞑想がやりやすくなる。
中庸は、あらゆる面で、あらゆる状況において実践されなければならない。
ゆったりとくつろぎなさい。
自分自身を痛めつける必要はない。
不要な問題をつくりださなくてもよい。
怒り、暴力、攻撃性に満ちた想念マインドを落としなさい。
そうしてはじめて内側に入ってゆくことができる ――くつろいだ意識のなかで
、はじめて人は内側に 深く深く漂ってゆくことができるようになるからだ。
完全なくつろぎのなかで、人は内奥の中核にたどり着く。
(p325)
修行をはじめるときは、何よりもまずゆったりとくつろいだ気持ちでのぞむよ
うに配慮しなければならない。
あまり多くのことを求めてはならない。
求め過ぎると、緊張が起こり、不安が生まれるからだ。
実のところ、何ひとつ求めてはならない。
ただ待つのだ。
こころハートに種子をまいて仕事をはじめ、春を待つがいい。

あまり多くのことを求めてはならない。

人々は多くのことを求めるようになる。
彼らは即席の悟り、サマーディを欲しがる。
彼らは即席のニルヴァーナを欲しがる。
ときどき愚かな人々が私のもとに来てこう言う―-
「七日も瞑想したのですが、まだ何も起こっていません」
七日だって?七千万回も生まれ変わりながら、彼らは瞑想に反することばかり
やってきたというのに。
たったの七日で……。
まるで神や私に貸しがあるかのようだ。
彼らは不平を言いながらやって来る。
「何も起こりませんでした。七日が過ぎ、キャンプはあと三日しか残っていな
いのに、私たちはまだ光明を得ていません!」
求め過ぎてはいけない。
あまり欲張ってはいけない。
もう少し分別をもちなさい。
ものにはすべて時間がかかる。

気の動きとこころハートの動きがおのずから調和するように配慮しなければならない。
いいかね、成果のことは気にかけなくていい。
成果はつねにあなたの必要と力量に応じて現れる。
何であれあなたに準備ができていることが起こる。
成果が現れなければ、それはたんにあなたにはまだ準備ができていないという
ことだ。
そのための準備をしなさい。
成果を求めても役に立たない。
自分にまだ力量が足りないことを認め、こころハートを
もっと浄化し、
もっと意識を集中し、
もっと瞑想し、
もっと静かになり、くつろいで、内界と
もっと調和してゆくことだ。
そして待ちなさい。
こころハートと気エネルギーが調和すると、成果はおのずと現れるからだ。
種子をまいてしまえば、土を掘り返し、毎日種子の様子を調べる必要はない。
そんなことをすれば種子は死んでしまって、けっして何も起こらなくなる。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたはただ待つより他にない。
何ヶ月も何も起こらないとしても、あなたは水をやり、肥料をやり、
世話をしつつ゛けなければならない。
するとある日、朝早く、不意に奇蹟が起こり……
種子が芽を吹く。小さな双葉が顔を出し、奇蹟が起こっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

380鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/12(火) 23:41:21 ID:1d4drIFg0
瞑想し、観察をすれば変化は着実にやってくるじゃろう。
しかし、変化を期待したり、変化しようとしてはいかんのじゃ。
日々の集中と観察にただひたすら努めるのじゃ。
そうすれば変化は自ずからやってくるのじゃ。

381避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 00:09:59 ID:LC3de7YgO
>>379
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

見えなかったものが目に見えるようになっている。
この世にこれにまさる奇蹟はない。
種子が芽を出している。
さあ、踊りなさい!
だが、ものごとにはつねにふさわしい時というものがある。
(p326)

そうしてはじめて静かな境地に入ってゆける。
この静かな境地に入っているときには、 正しい状況と正しい空間をつくらな
ければならない。
言うまでもないことだ。
薔薇の園をつくろうとしているなら、土をそっくり入れ替えなければならない

石を取り除き、古い根を取り除き、雑草を取り除かなければならない。
あなたは外界から守られた、新しい状況と新しい空間をつくりださなければな
らない。
あなたは周囲に柵を設けなければならない。
薔薇を栽培するつもりなら、こうしたことをすべて整える必要がある。
瞑想は薔薇、最もすばらしい薔薇、人間意識の薔薇だ。
この書物が『黄金の華、黄金の薔薇の秘密』と呼ばれているのはそのためだ。
正しい状況とは何だろう?
正しい空間とは何だろう?
世事の只なかで坐ってはいけない。
瞑想が深まる場所を見いださなければならない。
例えば、映画館に行って最前列に坐ったり、駅に行ってプラットホームに坐る
よりも、樹の下に坐るほうが助けになる。
いまだにタオがあたり一面に流れ、その波動を放ち、脈打ち、ほとばしってい
る大自然、山々のなか、樹々のもと、川のそばへ出かけていったほうがいい。
樹は絶えざる瞑想のなかにある。
樹の瞑想は静かであり、無意識だ。
私は樹になりなさいと言っているのではない。
あなたはブッダにならなければいけない!
だが、ブッダと樹には共通点がひとつある。彼は
樹のように青々と繁り、
樹のように樹液に富み、
樹のように祝っている。
もちろん、違いもある――
ブッダには意識があるが、樹は無意識だ。
樹は無意識な状態でタオのなかにあり、
ブッダは意識とともにタオのなかにある。
だが、その違いは大きい。
天と地ほどの差がある。
だが、樹のそばで坐っていると、まわりで美しい鳥たちが歌い、孔雀が舞い踊
り、流れる川のせせらぎが聞こえてくる。
あるいは滝のそばで坐っていると、そのすばらしい音楽が聞こえてくる。
自然がまだ乱されず、汚されていない場所を見つけなさい。
そういう場所が見つからなければ、戸を閉めて、部屋のなかで坐りなさい。
もしそれができるなら、瞑想だけをする部屋を用意するといい。
ほんの片隅でいいから、瞑想だけに使うようにする。
専用にするのは、どんな種類の行為も独自の波動を放つからだ。
そこで瞑想だけをすれば、その場所は瞑想的になる。
毎日瞑想をするたびに、その場所はあなたの瞑想の波動を吸収する。
翌日部屋に入ると、その波動があなたに返ってくるようになる。
それは助けになる。
それはもどってくる。
それが応えてくれる。
寺院、教会、モスクの背景にはそのような着想がある。
その着想はすばらしい。
みんなが祈りや瞑想に使う部屋を個別にもつことはできないかもしれないが、
村で専用の部屋を設けることならできる――人がたむろせず、俗事が行なわれ
ることのない、川岸の樹々に囲まれた寺院。
瞑想がしたくなれば、その寺院にゆけばいい。
そして寺院にいる人の邪魔をしてはいけないことをみんなわきまえている。
聖地とは瞑想にふさわしい条件を満たした空間に他ならない。
激しい怒りを感じているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
それでは流れに逆らうことになる。
ひじょうに貪欲になっているなら、それは瞑想にふさわしい時ではない。
なかなか瞑想に入れないだろう。
だが、簡単に瞑想に入ってゆける瞬間がある。
太陽が昇ってゆく。
日の出を見ていると、突然、内側がひっそりと静まり返り、まだあなたは騒が
しい街の一部ではない――これこそ瞑想にふさわしい時だ。
今日は気分がよく、健やかで、誰とも言い争いをしていない――これこそ瞑
想にふさわしい時だ。
友達がやってきて、あなたは愛に満たされている――これこそ瞑想にふさわし
い時だ。
あなたは恋人とともにいて、二人はこのうえもなく幸せだ――一緒に坐って瞑
想するがいい。
恋人や友人と一緒に瞑想することができたら、あなたは人生で最大の喜びが生
まれているのを見いだすだろう。
正しい状況を見いだせない者などひとりもいない。
二十四時間のうちには、たやすく瞑想に変容できる瞬間が何度も訪れる。
そういった瞬間には、あなたは自然に内側に入ってゆきつつあるからだ。
満天の星空の夜、大地に身を横たえ、星を眺め、調和を感じ……そして瞑想す
るがいい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

382鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/13(水) 23:05:32 ID:1d4drIFg0
世間で遊び呆けていながら瞑想に入ることは出来ないものじゃ。
一度座ろうとしても遊び仲間が誘いにきたりするじゃろう。
そして遊んでしまうじゃろう。
瞑想には生活をも変える必要が在るのじゃ。
一度でできなければゆっくりとでも変えていくが善いのじゃ。

383避難民のマジレスさん:2019/03/13(水) 23:24:45 ID:LC3de7YgO
>>381
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ときどき山で休暇を過ごすのもいい――だが、ラジオをもってゆかないこと。
さもないと、がらくたを丸ごともってゆくことになる。
そして山に行くときには、自分の連絡先や電話番号を誰にも教えてはいけない。
教えるくらいなら、どこにも出かける必要はない。
山に行くのなら、数日のあいだ世間のことをすっかり忘れてしまいなさい。
それが休日(holiday)の意味だ。
それは神聖(holy)なものでなければならない。
それではじめて休日の名に値する。
神聖なものでなければ、神々しいものと調和していなければ、それは休日では
ない。
人々は自分たちの世界をもち歩いている。
私は数人の友人とともにヒマラヤに行ったことがあるが、
そこで独りにさせて欲しいと頼まなければならなかった。
というのも、彼らはトランジスター・ラジオや新聞や雑誌や読みかけの小説を
もってきていたからだ。
そして彼らは絶えずおしゃべりをして、いつもくり返している話題をまたもや
もち出してきた。
だから、私は彼らに言った。
「何のためにヒマラヤに来たのかね?その話は家でたっぷりしてきたはずなの
に、またここで同じ話を、同じゴシップを、同じうわさ話をくり返すのかね」
私と一緒に美しい場所へ行くたびに、彼らはカメラを取り出して、写真を取っ
た。
私は彼らに言った。
「ここに来たのは目で見見るためだろう。ヒマラヤを見るためにカメラをもっ
てきたわけじゃないだろう!」
だが彼らは言った「すてきなアルバムをつくるんだよ。どんなにすばらしい場
所を訪れたかあとで振り返るんだ」
ところが、彼らはその場にいなかった。
彼らはひたすらカメラのシャッターを押していた。
こういった愚かな振る舞いをもち込んではいけない。
そして、ときどき山に行くのはいい。
だが、私は山で暮らしはじめなさいと言っているわけではない。
それはよくない。
なぜなら、あなたは山に中毒し、世間にもどるのが怖くなってしまうからだ。
休日はあくまで休日だ。
休日が終われば、世間にもどり、聖なるものの 安らぎ、静けさ、体験をすべて
もち帰るのだ。
それを一緒にもち帰るのだ。
それがにぎやかな街のなかでも自分のもとにとどまるように努力するがいい。
これらの示唆は初心者のためのものだ。
本当に瞑想が身につけば、映画館の席に坐っていても 瞑想できるし、駅のプラ
ットホームでも瞑想できる。
十五年前、私は休む間もなくインドを旅していた。
旅は途切れることなく、 年がら年中、来る日も来る日も、昼夜を問わず、いつ
も汽車や飛行機や 車に乗っていた。
だが、どこにいても同じだった。
みずからの実存に 本当に根つ゛いてしまえば、どこにいても変わらなくなる。
だが、それは初心者にはむずかしい。
樹が根つ゛いてしまえば、風が吹こうが、雨が降ろうが、雷が鳴ろうが、 まっ
たくかまわない。
かえってそのおかげで樹は完全なものになる。
だが、 樹が小さくてひ弱なときには、子供でさえも危険だ。
あるいは牛が通り 過ぎただけで、その聖なる動物に踏みつぶされてしまうかも
しれない。
初心者には、いいかね、この呂祖の示唆はこのうえもなく重要だ。
すなわち精神は虚しい熱中から自由でなければならない。
世間のしがらみ をすべて脇によけ、泰然自若としていなければならない。
瞑想しようとしているときには、電話をはずし、人との関わりを絶つ。
ドアに「瞑想中につき、一時間はノックをしないように」と書いた紙を貼って
おくといい。
そして瞑想ルームに入ってゆくときには、靴を脱ぎなさい。
聖地の上を歩いているからだ。
さらに靴だけでなく、頭を占めていたものをすべて脱ぎ捨てる。
意識しながら靴と一緒にあらゆるものを置いて、からっぽの状態で内側に入っ
てゆく。
二十四時間のうち一時間くらいなら都合がつけられるだろう。
二十三時間は仕事、欲望、思考、野心、投影に当てればいい。
こういったことすべてのなかから一時間だけ暇をつくりだしなさい。
最後には、生涯のうちその一時間だけが自分の人生の本当の時間だったこと
に気つ゛くだろう。
他の二十三時間はまったくの無駄だった。
その一時間だけが手元に残り、他の時間はすべて水泡に帰してしまったと。

また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
覚えておかねばならない二番目のことがらは、正しい手順に気をとられ過ぎて
はならないということだ。
さもなければ、特定の姿勢で坐るべきだといったような考えが頭にこびりつい
て離れなくなる。
坐ることができるのはいいが、もしそれが不要な脅迫観念になるようなら、落
としてしまいなさい。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

384避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 20:04:36 ID:LC3de7YgO
>>383
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

例えば、正式な蓮華座では坐ることができないかもしれない――それはずっと
椅子の生活をつつ゛けてきた人にはむずかしい。
筋肉が特定の仕方で発達しているためにむずかしい――そうなると脚が気にな
って仕方なくなってくる。
だから、蓮華座を無理強いする必要はない。
蓮華座を組むのがやさしければ問題はない。
組めなければ、どんな姿勢でも蓮華座になる。
床の上に坐れなければ、坐るのがむずかしければ、椅子に坐ればいい。
瞑想は椅子を怖がったりなどしない。
それはどこでも起こりうる。
先日、レヌがこう尋ねた。「木馬の上でも悟りは起こりますか?」
起こるかもしれない。それどころか木馬ですら悟るかもしれない!
そのことは心配しなくてもよい。
だから、呂祖は言う……
また正しい手順にこだわり過ぎてもいけない。
わずかに注意を払うだけでいい。
背骨が本当にまっすぐ伸びているかどうか、頭が背骨の上にちゃんと乗ってい
るかどうか、両目が呂祖の指示通りに向けられているかどうか……
それにあまりこだわり過ぎてはいけない。
あなたがたの目と呂祖が語っている目とは種類が違う。
中国人とその目のことは知っているだろう。
実のところ、中国人たちはいつも鼻の頭を見ているように見える。
彼らの目は半分つぶっているようだ。
中国人にサニヤスを授けるとき、私は彼らの目を見つめるのに大へん苦労する。
あなたがたは違う種類の目をもっている。人によって目の種類も鼻の種類もそ
れぞれ違っている。
だから、こういった小さなことにあまりこだわり過ぎないこと。
それらはしるしにすぎない。
それらを理解し、吸収したら、自分の道を行くがいい。
自分自身の道を見いだしなさい。
覚えておかねばならない基本的な注意は、ゆったりとくつろいでいなければな
らないということだ。

あれこれ工夫をしすぎるとこの危険が生じる。
私は工夫をしてはならないと言っているのではない。
正しい道は有と無のあいだに等しい距離を保つことにある。
人はちょうど真ん中にいなければならない。
人々は活動的になり過ぎるか、怠惰になり過ぎるかする。
活動的になり過ぎると、不安が――一種のあわただしさ、性急さ、速さ、落ち
着きのなさが起こってくる。
怠惰になり過ぎると、眠気、一種の無気力さ、昏沈が生じてくる。
真ん中にとどまることをつねに判断の基準とするべきだ。
食べ過ぎてはいけない。
腹をすかし過ぎてはいけない。
寝過ぎてはいけない。
睡眠不足もいけない。
つねに真ん中にとどまることを忘れてはならない。
行き過ぎは禁物だ。
あらゆる極端を落とさなければならない。
なぜなら、真ん中にのみ、くつろいだ心の状態があるからだ。

目的を通して無目的を達成することができるなら、ものごとを体得したことに
なる。
この種のバランスを、
努力と無努力、
目的と無目的、
存在と不在、
心と無心、
有為と無為のあいだで達成することができるなら……

目的を通して無目的を――努力を通して無努力を、有為を通して無為を――
達成することができるなら、要点を体得したことになる。
みずからを放下し、超然と乱れず、泰然自若としていればいいのである。
これが基本だ。
そうなれば人は事物の流れとともに流れてゆける。
人は自分を解き放つことができる。
(p333)
また人は誘惑に満ちた世界の餌食になってはいけない。
誘惑に満ちた世界とは、五つの暗い悪魔が遊び戯れる場所だ。
不動の境地と言うと、人はよく枯れ木や冷たい灰を思い浮かべるが、 大地が明
るい春を迎えている姿を思い浮かべることはめったにない。
いいかね、
宗教的な人間にとって最大の課題は深刻になり過ぎないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は悲しまないことだ。
宗教的な人間にとって最大の課題は否定的にならないことだ。
なぜなら、ふつうはそうなってしまうからだ――宗教的な人間は悲しみに沈み
、ひどく深刻になり、生に対して否定的になる。
彼らは春のことをすっかり忘れてしまう。
彼らは枯れ木や冷たい灰のことばかり考える。
彼らはバランスを失っている。
ときには大地が明るい春を迎えている姿を想起しなければならない。
真に宗教的な人間はユーモアの感覚をもち合わせている。
真に宗教的な人間は誠実ではあるが、けっして深刻ではない。
為すべきことに完全に身を捧げているが、けっして「俺のほうがおまえより高
潔だ」といった態度は取らない、絶 対 に 取らない。
けっして優越感にひたることはなく、謙虚だ。
真に宗教的な人間は雨や風とともに踊ることができる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

385鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/14(木) 23:03:17 ID:1d4drIFg0
何かに拘りすぎればそれもまた障害になるものじゃ。
法にさえ拘れば道を外れてしまうのじゃ。
なにものにも拘らずに進んでいくのじゃ。
その拘らないことにも拘らないようにするのじゃ。
自己が知れようとしたときには何もかも捨てて邁進するがよいのじゃ。

386避難民のマジレスさん:2019/03/14(木) 23:22:42 ID:LC3de7YgO
>>384
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える
より抜粋

子供たちと一緒に微笑み、笑うことができる。
生のあらゆる状況にくつろぐことができる。
それが自由だ。
それは自我エゴからの自由だ。
自我は人を深刻にする。

そのようにして人は暗黒の世界に沈んでゆくのである。
深刻になり過ぎると、暗黒の世界に、否定的な世界に沈んでゆく。

そこではエネルギーは冷え、息は荒くなり、 寒さと衰亡のメッセージが頻繁に
現れてくる。
いいかね。冷淡になってはいけない。
世のいわゆる聖者たちは冷えきっている。
彼らは要点をすっかり取りちがえている。
冷静クールになるのはいいが、けっして冷淡コールドになってはいけない
――この二つには大きな違いがある。
そこにはとても深いパラドックスがある。
私は「涼しいクール」と言う。
それは熱を帯びた情熱と比べれば涼しいが、死の冷たさと比べたら温かい。
死の冷たさと比べれば温かいが、ぎらぎらした生への欲望に比べれば涼しい。
それは温かくもあり涼しくもある。
真に宗教的な人間は情欲をもたないがゆえに涼しい。
彼は悲しんだり深刻になることがないので温かい。
そういう状態に長くとどまっていると、植物や石の世界に入ってゆく。
あまりに冷え過ぎると、やがてあなたは岩のようになり、無意識になってしま
う。
あなたは人間から転落する。
私の観察によれば、巷の聖者の多くは人間から転落してしまっている。
彼らは超人になるのではなく、人間以下に落ちてしまった。
彼らは岩や石の世界に属している。
(p335)

また人は数知れない誘惑に惑わされてはならない。
これが起こるのは、静かな境地がはじまった後、突然 あらゆる妄想のつながり
が続々と現れてくるときである。
それを打ち破ろうとしても、どうにもならない。
その妄想を追うと、気分が軽くなったような感じがする。
精神分析が道を誤ったのはここだ。
精神分析は自由連想の技法になってしまった。
あなたはどこまでもつつ゛けてゆくことができる。
想念が次から次へと現れ、それが無限につつ゛いてゆく。
次から次へと現れる想念から身を引いたままでいなければいけない。
想念はやって来て、四方からあなたを取り囲む。
想念は雲に似ている。
わずかに顔をのぞかせていた青空さえも消えてゆく。
そして想念ではち切れそうになると、人は本能的に闘いはじめる。
瞑想とは無念無想の状態であることを読んで知っているからだ。
だが、
闘ってもけっして無念無想にはなれない。
闘っても負けるだけだ。
闘うことそのものが敗北の原因になる。
影と闘うことはできない。
闘っても負けるだけだ。自分の影と
闘おうとしたら、あなたは負けるしかない――
影がとても強いからではなく、
影など 存 在 し な い からだ。
存在しないものと闘って、どうして勝つことができるだろう?
想念は影だ。闘ってはいけない。
闘わなければ、もうひとつの道が開かれる――精神分析が選んだのはそれだ。
その場合には、想念とともに動き、想念を自由に漂わせ、自由に連想を起こら
せる。
ひとつの想念が別の想念に結びつき、またその想念が別の想念に結びついて次
々と連想が起こり、それが延々と果てしなく、うんざりするほどつつ゛いてゆ
く。
これには一種のくつろぎに似た感覚がともなう。
精神分析が終わると、人々が安堵し、救われた気持ちになるのはそのためだ。
救われたわけでもないし、助かったわけでもない。
たんに闘いが消えただけだ。
あなたが緊張するのは闘うからだ。
闘わなければ緊張は消える――そして緊張が消える ことで、あたかも救われた
ような気分になる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

387鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/15(金) 22:44:25 ID:1d4drIFg0
想念が次々に浮かんで止まらないのは初心の内にあることじゃ。
それをただ眺めるようにしていればやがては止まるのじゃ。
無理に戦ってはいかんのじゃ。
それがこつなのじゃ。

388避難民のマジレスさん:2019/03/16(土) 00:51:00 ID:LC3de7YgO
>>386
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第九話 大地が明るい春を迎える(つづき)
より抜粋

ムラ・ナスルディンは、二サイズも小さい、きちきちの靴をはいていた。
彼は一日中不平をこぼし、靴に腹を立てていた。
ある日、私は彼に尋ねた。
「靴を変えればいいじゃないか。どうして文句ばかり言っているんだい? 誰も
その靴をはけと無理強いしていないだろう。新しい靴を買えばいいじゃないか」
彼は言った。
「だめだ!絶対にいやだ!」
私は言った
「なぜだい?」
彼は言った。
「それが唯一の慰めだからだよ。一日中靴と格闘したあと、家に帰って靴を 放
り出し、ベッドに横になると、とても気分がいいんだよ!」
それは気分がいい。
想念と闘っても勝ち目がないので、闘うことをやめ、 想念を自由に漂わせ、想
念とともに動いてゆくと、気分がよい。
精神分析の 秘密はひとえにそこにある。
精神分析はまったく助けにならない。
闘いをやめさせるから、気分がよくなるだけだ。
呂祖は言う。
「どちらも正しくない。闘う必要はないし、 想念を野放しにして、その後を追
う必要もない。 あなたは見守る人、目撃者のままでいればいい」
これは主人が召使になってしまったことを意味する。
想念の後を追えば、主人が奴隷になってしまう。
もしこのような状態に長くとどまっていると、 幻想に満ちた欲望の世界に入っ
てしまう。
主人の立場を取りもどさなければならない。
あなたは奴隷ではなく主人にならねばならない。
主人であるとはどういうことだろう?
目撃者でいることが主人であることだ。
そこにある想念を見守りなさい。
穏やかに、静かに、見守りなさい。
想念が来ては去るにまかせなさい。
想念が現れては消えるにまかせなさい。
あなたはただ気つ゛いている――
想念が現れ、とどまり、去ってゆく――
すると、まもなく想念が現れる回数がどんどん減ってゆくポイントが来る。
そしていつの日か、すきまが現れ……
いっさいの想念が消えている。
そのすきまのなかで、最初の神の体験が起こる。

最善の場合には、天国に生まれ、最悪の場合には、野狐の世界に生まれる。
確かに、こういった野狐の霊は有名な山々に住み、風や月、花や果実を楽しみ、
珊瑚のような樹や宝石のような草を楽しんでいるが、果報が尽きれば、 再び混
乱の世界に生まれ変わるのである。
瞑想がうまく進むと、あなたは天国に、永遠の至福のなかに生まれる。
しくじり、道をはずれると……道家では、そうして道をはずれることを、
最悪の場合には、野狐の世界に生まれる、と表現している。
野狐とは詩人の精神スピリットだ。
野狐とは空想力に富んだ精神のことだ。
瞑想の途中でしくじっても、何かが得られる。
あなたは樹や花、世界やその美しさを前よりももっと楽しむことができるよう
になる。
だが、やがて瞑想によってつくりだされたエネルギーは尽き、あなたは昔の混
乱に舞いもどらざるをえなくなる。
いいかね、瞑想がうまく進むと、喜びは永遠にあなたのものになる。
だが、失敗してもすばらしい喜びや詩の瞬間がいくつかは訪れる。
瞑想をしくじった者は詩人になる。
瞑想を達成した者は見者になる。
見者は永遠の詩人であり、詩人はつかのまの詩人だ。
だから、ときどきこういうことが起こる。
あなたは瞑想を少しかじるが、気分が高揚するとやめてしまう。
あなたはすべてが達成されたと思い込む。
緑の樹も赤い薔薇も鮮やかさを増し、恋はすばらしく、様々なことが起こりは
じめている――もう面倒なことはやめよう。
だが、つくりだされたエネルギーはまもなく尽きる。あなたは野狐になる。
世界中で薬物ドラッグによって生み出されているものはそれだ。
薬物は野狐しか生みださない。
だが、瞑想も、完結しなければ、薬物と変わらないものになる。
ひとたび決意したら、全身全霊で関わらねばならない。
あなたは何があってもその 果 て ま で 行かねばならない。
それは挑戦だ。この挑戦を受け入れ、内なる探求の最も美しい旅に出かけなさ
い。
そして到達するまで、台風の目に入るまで、
けっして途中で止まってはいけない。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

389鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/16(土) 22:53:09 ID:1d4drIFg0
全てを見ていながら、見るもの、見る対象に関わらないでいることで人は見る者になるのじゃ。
そして見ているだけならば思考が止む時が訪れる。
その時、人は思考が無くても意識はあることがわかるのじゃ。
そのようにして自分とは思考ではないことが知れるのじゃ。
思考のもたらす苦が無くなり、思考が無くなる不安も無いじゃろう。

390避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 00:39:46 ID:LC3de7YgO
>>388
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華
より抜粋

呂祖師は言った。
様々な種類の確証の体験がある。
人は小さな要求に満足せず、 生命あるものをすべて救済せんとする高邁こうま
いな決意をもたなければならない。
軽薄で無責任なこころに陥らず、みずからの言葉を行為によって 実証するよう
努力しなければならない。

静けさのなかで、精神は途切れることなく大いなる喜びにあふれ、 酔ったよう
な、湯を浴びたような感じがつつ゛く。
これは光の原理(陽)が全身を巡って調和しているしるしだ。
このとき黄金の華の蕾つぼみが芽生えはじめる。
さらにすべての窓が静まり、銀色に輝く月が中天にかかり、 この大地は明るい
光に満ちた世界のように感じられてくる。
これはこころハートの本体が開き、澄んできたしるしである。
これは黄金の華が開いてゆくしるしである。

さらに、全身に力がみなぎり、嵐も霜も恐れなくなる。
人々が不快に感じるものごとに出会っても、 精神の種子の明るさが曇ることは
ない。
黄金で家を満たし、白い宝玉で階段をつくるようなものだ。
朽ち果て腐臭を放つこの世の事物も、 真のエネルギーの一息に触れると即座
によみがえる。
赤い血はミルクに変わり、もろい肉体は純金やダイヤモンドに変わる。
これは黄金の華が結晶したしるしである。
光の輝きは次第に結晶化する。
こうして大いなる台座が出現し、やがてその上にブッダが現れてくる。
黄金の本性が現れるとき、それはブッダに他ならない。
ブッダとは大いなる悟りを得た黄金のように輝く聖者だからである。
これは大いなる確証の体験である。
寓話をひとつ……
ある日のこと、ヴィシュヌ神は遠い山の深い洞窟に座り、弟子と一緒に瞑想し
ていた。
瞑想が完成したことにいたく感動した弟子は、ヴィシュヌの足もとにひれ伏し
、感謝のしるしに何かの奉仕をさせて欲しいと言った。
ヴィシュヌは笑いながら首を振った。
「私が無償で与えたものに、行為で報いることほどむずかしいことはない」
弟子は「主よ、どうか何かのお役に立てさせてください」と言った。
「よかろう」とヴィシュヌは優しい声で言った。
「冷たくてうまい水が飲みたい」
「すぐにもってまいります」
――弟子はそう言うと、嬉しそうに歌を歌いながら山を駆けおりていった。
やがて彼は美しい谷の端にある小さな家の前に来て、戸を叩き
「私たちはさすらいのサニヤシンで、この世に家をもたない者です」
すばらしい乙女が現れて、崇敬の念もあらわに彼を見つめた。
「まあ」と彼女はささやいた。
「遠い山の頂きであの聖者にお仕えしていらっしゃるのですね。どうぞ、なか
にお入りになって、祝福を授けてくださいな」
「申し訳ありません」と彼は言った。
「急いでいるのです。水をもってただちに師のもとへ帰らなければならないの
です」
「でも、祝福をしてくださっても、あのお方はお怒りになりませんわ。
あのお方は偉大な聖者なのですから、その弟子であるあなたは、私たちのよう
に幸運に恵まれない者たちを助けてくださらなければなりません……どうかお
願いです」と彼女はくり返した。
「この貧しいわが家を祝福してください。あなたをここにお迎えして、あなた
を通して主にお仕えできるなんて、
本当に光栄ですわ」
さらに物語はつつ゛く。
彼は態度をやわらげ、家のなかに入り、そのなかにあったすべてのものを祝福
した。
やがて夕食の時間になったので、まだ帰らずに、彼女が料理したものを食べて
、それを祝福する(食べることが祝福になる)ように勧められた。
そして夜も更けてきたので、「山までの道は遠いし、暗闇で足を滑らせ、水を
こぼすかもしれません。今夜はここで寝て、朝早く旅立てばいいではないです
か」と勧められた。
ところが朝になると、誰も乳搾りを手伝う者がいなかったので雌牛が苦しみだ
し――雌牛はクリシュナ神の聖なる使いであり、苦しませてはならない――
「一度でいいからあなたが手を貸してくれるならとてもありがたいのですが」
と頼まれた。
こうして日々が過ぎていったが、彼はまだとどまっていた。
彼らは結婚し、たくさんの子供をもうけた。
彼は土地を耕して、すばらしい収穫をあげた。
さらに土地を買って穀物を栽培した。
まもなく近隣の人々が助言や手助けを求めて会いにくるようになった。
彼は無償でそれを与えた。一家は繁栄した。
彼の努力で寺院が建てられ、学校や病院がジャングルを切り開いてつくられた。
谷はこの世の宝石になった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

391避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:09:27 ID:LC3de7YgO
>>390
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

かつては荒野でしかなかった場所に調和がみなぎっていた。
その繁栄と平和の知らせが国中に広がるにつれ、人々は谷に殺到した。
そこには貧困も病気もなく、人々はみな働きながら神への讃歌を歌った。
彼は子供たちが大きくなり、孫たちができるのを見守っていた。
平穏無事な日々がつつ゛いていた。
ある日のこと、谷を見下ろす低い丘に立ちながら、老人はここにやって来てか
ら起こったすべてのことを思い起こした。見渡すかぎり農園が広がり、村は豊
かに繁栄していた。
老人は満足した。
が、そのとき突然、山津波が押し寄せ、みるみるうちに村中を飲み込んでしま
った。
あっという間に、すべてが消えてしまった。
妻も子供も農場も学校も近所の人々も――すべてが飲み込まれてしまった。
彼は茫然として、眼前でくり広げられる大災害を見つめていた。
見ると、師のヴィシュヌが激流の上に乗っていた。
ヴィシュヌは、彼を見ると悲しげな笑みを浮かべて言った。
「私の水はまだかね!」
これは人間の物語だ。
これは万人に起こっている。
私たちは完全に忘れ去っている――
なぜここにいるのか、
いったい何をしにやって来たのか、
何を学び、何を得、何を知るためなのか、
自分は誰であり、どこから来てどこへ行くのか、
私たちの源はどこにあるのか、
生、肉体、現世 への旅を引き起こしたものは何なのか、
そして今まで に何を達成してきたのかを完全に忘れ去っている。
もし山津波がやって来れば――それは必ずやって来る。 それはつねにやって来
ている、その名前は死だ――すべてが消えてしまう。
子供、家族、名前、名声、金、権力、地位…… 一瞬のうちにすべてが消え去り
、あなたは たった独りで、完全に独りぼっちで取り残される。
あなたの業績はすべて山津波によってかき消されてしまう。
築きあげてきたものはすべて夢に他ならなかったことが明らかになる。
そしてあなたの手も、こころハートもからっぽだ。
が、あなたは神と顔を合わせなければならない、
<存在>と顔を合わせなければ
ならない。
<存在>はあなたを待ちつつ゛けている。
最初に頼んだものをあなたがもち帰ってくる ことを延々と待ちつつ゛けている

だが、あなたは眠りこけていて、千とひとつの夢を見ている。
今まであなたがやってきたことはすべてみな夢に過ぎない。
なぜなら、死がやって来れば、すべて押し流されてしまうからだ。
実在するものは死によっても押し流されることがない。
実在リアリティは死を知らない。
実在は死ぬことがない。
実在は不死だ。
実在は永遠だ。
死にゆくものはすべて、死ぬこと によって本物ではなかったことが、 幻想、
マーヤ、夢――すてきな夢かも しれないが夢でしかなかったことが判明する。
あなたは地獄の夢を見ているかもしれないし、天国の夢を見ているかもしれない

どちらにしても大差はない。
目覚めた瞬間、あなたは自分が完全にからっぽ であることに気つ゛くだろう
――それは仏陀が知っている 肯定的な意味の空くうではなく、否定的な意味の
空虚さだ。
自我エゴの消滅ではなく、 自我がなし遂げようと努めてきた いっさいのもの
の消滅…… 自我でいっぱいだけれど、 達成もなく、了解りょうげもなく、知
識もない状態。
だが、 自我が知識を求めていないというわけではない。
自我は知識を求めている。
自我は膨大な知識をそなえ、情報を集めている。
自我は偉大な収集家だ。
金を集め、情報を集め、ありとあらゆるものを集める。
自我は蓄えることを信奉している。
自我とは貪欲、まさに貪欲そのものに他ならない。
自我とは貪欲の別名だ。
それは所有したがる が、あなたが手にしているものはすべて消えてゆく。
そしてあなたがやってきたことは、すべてみな夢のなかの仕業だった。
目覚めた瞬間、あなたは驚くだろう。
どれだけ多くの時間を無駄にしてきたことか、 どれだけ多くの生を夢見ながら
過ごしてきたことか、 どれだけ多くの夢を生きてきたことか。
探求者であるというのは、 この夢から出てくること、 この夢見る状態の意識
から出てくることをいう。
探求者であるということは、
目覚めようと努力することだ。
目覚めるとは覚者ブッダになることだ―― 油断なく醒め、意識し、内なる光に
満たされることで、 無意識がすべて消え、眠りがすべて消え、眠りの闇が内側
から消え、 あなたは十全に目覚めている。(´・(ェ)・`)
(つづく)

392避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 10:17:59 ID:LC3de7YgO
>>391
弟子の瞑想は完成してなかったのでありますね。
(´;(ェ);`)つ

393鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/17(日) 23:05:01 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、まだこの世に未練があったのじゃ。

道教では気が集まって丹になり、更に凝縮して陽神になるというのじゃ。
黄金の花はその兆しなのじゃ。
そして陽神は体を抜け出すのじゃ。
ヨーガでは脱身というのじゃ。
仏教でも意生身というのじゃ。
気の修行が完成した証なのじゃ。

394避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:23:30 ID:LC3de7YgO
>>391
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

こんなことがあった…… 偉大な占星術師が仏陀の姿を目にした。
彼はわが目を疑った。
その身体、 身体を取り巻いているその黄金のオーラ、その美しい顔――湖のよ
うに静かで、 湖のように深く澄みきった、その水晶のような透明さ、その歩く
優美な姿。
彼は仏陀の足もとにひれ伏して言った。
「私は占星術と手相を研究してきました。私は生涯をかけて人間のタイプを 研
究してきました。ですが、あなたのような方にお会いするのははじめてです!
あなたはどのようなタイプに属しておられるのでしょう?あなたは地上に 降り
立った神なのですか?ともてこの世に属する方のようには見えません。 あなた
には重さが微塵みじんもありません。あなたは軽々としていて重さがない。 あ
なたはどのようにして地上を歩かれるのですか? あなたは重力の作用を受けて
おられるようには見えません。 あなたは地上で何が起こっているかを見るため
に天国から降りて来られた神 なのですか?神の使者なのですか?預言者なので
すか?あなたは誰なのです?」
すると仏陀は言った。
「私は神ではない」
占星術師は尋ねた。
「では、インドの 神話に出てくるヤクシャなのですか?」――ヤクシャという
のは神より一段低い 存在だ。
仏陀は言った。
「いいや、私はヤクシャでもない」
「では、あなたは誰 なのです?あなたはどういう種類の人なのですか?あなた
をどう分類すればいい のでしょう?」
仏陀は言った。
「私は男でもなければ女でもない」
占星術師は途方に暮れてしまい、こう言った。
「それはどういう意味ですか?
あなたは動物だとでも……動物の精、樹の精、山の精、川の精だとでも おっし
ゃるのですか?」――インドの神話は汎神論的だから、それはあらゆる 種類の
精霊を信じている。
「では、あなたは誰なのです?薔薇の精なのですか?あなたはとても美しく、
とても無垢に見えます」
すると仏陀は言った。
「いいや、私は動物でもなければ 、樹や山の精でもない」
「では、あなたは誰なのですか?」
占星術師は困り果てて しまった。
すると仏陀は言った。
「私は醒めた意識に他ならない。あなたは私を 分類することができない。なぜ
なら、分類はどれも夢にしか当てはまらないからだ」
自分は男であるという夢を見ている者もいれば、 自分は女であるという夢を見
ている者もいる。
そのようにして夢はどこまでもつつ゛いてゆく。
分類は夢の世界に属している。
目覚めると、人はその目覚め、 覚醒の本質そのものになっている。
人は目撃者、純粋な目撃者以外の 何ものでもない。
雲はすっかり晴れている。
男や女、動物、神、樹といった"雲"―― どんな雲や形もひとつ残らず消え去
っている。
人はまさに形のない醒めた意識、終わりもなく 果てもない広大無辺な澄んだ大
空になっている。
この醒めた意識には雲がなく、ただ青空が広がっている。
これが肯定的な虚空であり、これがにゃはんニルヴァーナだ。
それから否定的な虚空がある。
あなたは雲でいっぱいになっている―― すっかり雲に覆われて、かすかな青空
ものぞめない。
あなたは知識でいっぱいに なっている――いっぱいになり過ぎて、瞑想のため
の空間が少しも残されていない。
何も知らないのに、知っているつもりでいる者――よく「パンディット」 とか
「学者」と呼ばれている連中は愚か者だ。
彼らを避けなさい。
何も知らず、自分が知らないということも知らない のは、無垢な人であり、子
供だ。
彼を目覚めさせるがいい。
何も知らず、自分が知らないということを知っている のは、覚者ブッダだ。
彼に従いなさい。
「私は誰でもない」というこの自覚に到る ことが、覚者ブッダになるというこ
とだ。
ブッダとはある人物の名前ではない。
ブッダとは 誰 で も な い 状 態 を表す名前だ。
ブッダは人物ではない。
ブッダとはまさに空間、開け放たれた空間、 開放状態のことであり、その開放
状態、開け放たれた大空を表す名前だ。
自分の想念マインドを見守りなさい。
どれほど多くの夢がつつ゛いていることか。
あなたは夜、夢を見るだけではなく、絶えず夢にひたっている。
昼間、目覚めているつもりでいるとき ですら、夢が途切れることはない。
いつでも目を閉じてくつろぎさえすれば、 ただちにそこを漂っている夢が見え
てくる。
夢はつねに底流のようにそこにある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

395避難民のマジレスさん:2019/03/17(日) 23:40:30 ID:LC3de7YgO
>>393
鬼和尚は脱身できますか?
(´・(ェ)・`)つ

396鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/18(月) 21:20:55 ID:1d4drIFg0
↑誰でもできるのじゃ。
実際に寝ている時は誰でも脱身しているのじゃ。
肉体の意識から離れているのじゃ。
自分ではわからないだけなのじゃ。
意識的にできるようになるのが脱身なのじゃ。
本当は意識が拡大しているのじゃ。
肉体に囚われない意識に広がるのじゃ。

397避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:30:17 ID:LC3de7YgO
>>396
ふむふむ。
で、その脱身を気を体内に巡らすことができるように、意図的に操作できるようにもなるのでありますか?
(´・(ェ)・`)つ

398避難民のマジレスさん:2019/03/18(月) 22:43:47 ID:LC3de7YgO
>>394
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

夢はけっしてあなたのもとを離れず、絶えずそこにあって、 あなたの実存に影
響を与えつつ゛けている。
夢は意識にはのぼらない。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない、 その存在さえ知らないかもし
れない。
だが、夢は絶えずそこにある。
私に耳を傾けているときでさえ、 その映画、その夢のドラマはつつ゛いている。
私が言っていることが耳に入らないのはそのためだ。
それはまずあなたの夢を透過しなければならないために歪んでしまう。
あなたは語られてもいないことを聞く。
あなたの夢が歪ませ、操作し、投影を起こし、ものごとを変えてしまう。
私があることを言うと、あなたはまったく別のことを聞く。
そしてこれらの夢は内側で強い力を振るっているので、 あなたはその夢をどう
扱えばいいのかわからない。
実のところ、夢にあまりにも深く同一化しているので、 自分がそれではないこ
と、見守ることができ、距離を保つこと ができ、傍観者でいられることがわか
らなくなっている。
あなたは夢に同一化し過ぎている。
先日、私は気の毒なハビブのことを話した。
彼はユング派の分析家であることに こだわるあまり、何が起こっているのか見
ることができずにいる、と。
その話をした のは、ほんの二日前のことだ。
私は九時四十五分に話を切りあげたが、彼はわずか 十分後の九時五十五分に手
紙を書いてきた。
昨日はもっとひどかった。
私が話している最中に彼は手紙を書いていた!
私が彼のことを話しているあいだ、彼は十分も待つことができなかった。
私が 「少し待ちなさい。そんなにあわてずもう少し我慢して、それに瞑想して
ごらん。 あなたはこういったことをこの場で理解することはできない。あなた
は理解力、 明晰さ、識別力がある状態ではないからだ」と言っていたのはその
ことだった。
だが、私の話の最中に、彼は手紙を書きはじめた。
私が話しているさなかに 、彼は手紙を書いていた。
さあ、そんな状態で何を書くことができるだろう?
私は語っていなかったのと、話してすらいなかったのと同じだ。
彼は自分自身の内なるつぶやきを聞いていたにちがいない。
そこから手掛かりを得ていたにちがいない。
彼は一言も理解することができなかった。
彼の夢はあまりにも強過ぎたのだろう。
彼は知識の重荷を背負っている。
私は「ユング派の自我エゴを落としなさい」と言っていたのに。
だが、何が起こったと思うかね?
ハビブは死んでしまった――彼はユング派の自我エゴを落とす よりもサニヤス
を捨ててしまった。
彼の耳にはそう聞こえたのだ。
私が「ユング派の自我エゴを落としなさい!」と言ったとき、彼は別のことを
聞いた。
彼の耳にはこのように聞こえた。
「では、サニヤスは私には向いていない。私には向いていない。私には 知識は
落とせない。それは私がもっているすべてのものだ。それに、どうやって 落と
せばいいのだろう?どうやって思考マインドを脇によければいいのだろう? そ
んなことはできっこない!それなら、サニヤスを落とす方がましだ」と。
彼はサニヤスを落とした。
もはやハビブは存在しない。
彼は夭逝してしまった。
実のところ、彼は流産してしまった。
何が起こったのだろう?
要点が見抜けなかったのだろうか?
誰がその邪魔をした というのだろう?
彼の頭マインドは雑念だらけになっていたにちがいない。
本を読み、蓄積してきたいっさいのもの――彼はそれに執着し過ぎていた。
彼は探求し、探索するためにここにやって来た。
自我を手放す用意が微塵もないのに、 それが探求と言えるだろうか?
それが探索と言えるだろうか?
人は往々にして、自我エゴに何かをつけ足すことができると、 自分は霊的な探
求者であると思い込むことがある。
あなたがたの言う霊的な旅というのは、 巧妙な自我の幻想にすぎない。
人々は 自我をもっと満足させたい、 自我をもっと強くしたい、 自我にもっと
活力を与えたい。
彼らは自我を聖なる霊光オーラで包みたい。
が、聖なる霊光は 自我が消えてはじめて現れるのであり、この二つは共存できな
い。
人を覚醒させることのできる教えに巡り合うのはまれなことだ。
人を揺さぶり起こし、深々と根を下ろした長い長い夢から 引きずりだせる師マ
スターに巡り合うのはまれなことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

399鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/19(火) 23:30:07 ID:1d4drIFg0
>>392 そうじゃ、できるのじゃ。
本来意識は肉体に制限されているものではないからのう。

誰もが自分について幻想を見ているのじゃ。
肉体が自分とか知識が自分とかのう。
仏教とかタオとかヨーガはその夢から覚ましてくれるものなのじゃ。
そのような貴重な教えは稀にしか逢えないのじゃ。

400避難民のマジレスさん:2019/03/20(水) 05:24:56 ID:LC3de7YgO
>>398
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華(つづき)
より抜粋

師との遭遇は希有な現象であり、 それを取り逃がしてしまうことはたやすい。
簡単に取り逃がすのは、 大鎚おおつ゛ちで叩きつぶしてもらえるよう 師の前
に頭を差し出すことが、師とともにある ための第一条件だからだ。
師とは大鎚だ。
人々は勘違いをして、師が「よし!君は偉大な霊的探求者だ」と言ってくれる
状況 を探し求めている――彼らは師が自我エゴを支えてくれるものと思い込ん
でいる。
今は亡きハビブが望んでいたことはそれだ。彼は私にこう言って欲しかった―― 「君は偉大な霊的探求者だ。君がしてきたことはまったく申し分なく、寺院の基礎は 完成している。


39黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十話 結晶する黄金の華2
より抜粋

君はほとんど用意ができており、ほんのわずかのものが加われば、 すべてが完成するだろう」と。
彼が求めていたもはそれだ。
が、それはありえない。
なぜなら、 まず最初に私はあなたを壊さなければならないからだ。
完全に壊れてはじめて、あなたは目覚めることができる。
が、壊れることは辛く、痛みに満ちている。
有名なユダヤ教神秘主義の諺ことわざがある
―― 神はやさしくない。神は叔父さんではない。神は地震だ! 師マスターもま
たそうだ――
師は叔父さんではない。
師はやさしくない。
師は地震だ。
すべてを余すところなく賭ける覚悟のある者だけが、 自我エゴとして死ぬ用意
のある者だけが、生まれることができる。
「あなたがたは肩にみずからの十字架を担がなければならない。 私について来
たければ、肩にみずからの十字架を担がなければならない」 と言うとき、イエ
スが言おうとしているのはそのことだ。
カビールは言った。
「本当に私について来たければ、ただちに家を焼き払いなさい!」
彼の語る家とは何だろう?
人は再び広い大空のもと、星、太陽、月のもとに出られるように、 今まで暮ら
してきた夢の家を焼き尽くさなければならない。
そうすれば 再び風や雨に打たれることができ、 再び大自然にハートを開くこ
とができる――神とは 最も深く隠された大自然の中心に他ならないからだ。
神は知識というよりも、いわば無垢な状態に似ている。
知識ではなく、 完全に無垢になることによってあなたは神を知る。
だが、それは自我エゴにはとてもむずかしい…… これらの言葉を聞くことでさえむずかしい。
自我はただちにそれを歪め、操作し、すり変え、色つ゛けし、 上塗りをし、み
ずからを壊すどころか、それを支えるものに仕立てあげる。
自分は死んだと思い込んでいた男の話があるが、これを見れば 自我がどのよう
に働くかがよくわかる。
彼は精神科医に助けを求めに行った。
精神科医は知っているテクニックをすべて 使ってみたが、役に立たなかった。
最後に精神科医は患者の論理に訴えかけてみた。
「死人は血を流しますか?」と医者は尋ねた。
「いいや、もちろん流さない」と 患者は答えた。
「なるほどね」と医者は言った。
「では、調べてみましょう」 医者が鋭い針を取り出して、患者の皮膚を刺すと
、おびただしい血が流れはじめた。
「ごらんなさい!さあ、なんとおっしゃいますか?」と医者が尋ねた。
「おや、なんてことだ!」と患者は答えた。
「驚いたなあ!死人というのは血を流すものなんだ!」
自我エゴはこのように働く、頭マインドはこのように働く。
つまりものごとを証拠、裏つ゛け、餌に変えて使ってゆく。
自我は実に微細であり、実に巧妙な手段を取って、あなたに 「自分は正しい」
と思い込ませることができる。
それはありとあらゆる策を弄して
「正しいのは私であり、私に逆らうものはすべて間違っている」
と思い込ませようとする。
覚えておきなさい。
自我が正しいことなど け っ し て ありえない! そして、自我に逆らうもの
はすべて……そのチャンス を逃さずに、自分の自我を壊すための機会に使いな
さい。
自我を壊すことができるとき、それは 大いなる祝福の瞬間となる。
なぜなら、あなたがいないときに、神が存在し、 あ な た が い な い と き
に、あ な た が 存 在 す る からだ。 これは生と<存在>における最大のパラドックスだ
―― あなたがいないときに、はじめてあなたは存在する。 ヴィシュヌの気が進
まなかったのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

401鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/03/20(水) 23:09:34 ID:1d4drIFg0
師匠が道標として役に立つのは弟子に準備が出来たときとよく言われるのじゃ。
その準備とは自分を含めた全てを捨てる準備なのじゃ。
そのような準備が出来た者は稀なのじゃ。
しかし、死によって全てが奪い去れることを自覚すればその準備もできるようになるのじゃ。
いずれ全てなくしてしまうものを捨てることで永遠を獲得するのじゃ。


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