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鬼和尚の仏教購読会 別館

502避難民のマジレスさん:2019/04/26(金) 23:19:50 ID:LC3de7YgO
>>498
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

だが私は、 それは他の誰にでも起こりえたと言っているのではない。
それは千代能に起こった。
彼女が為したことはどれもその原因ではないが、 彼女が為したことのすべてが
彼女の内側にあるものを―― 何をやっても失敗に終わる、 人が成功することは
ありえない という理解を生じさせた。
彼女はまったく望みのない 状態に到ったにちがいない。
その絶望は為しうることをすべてやりつくしたときにはじめて感じられるもの
だ。
そしてその絶望が訪れたときに、 はじめて希望が生まれてくる―― その救い
ようのなさのなかで、 自我エゴは大地に叩きつけられ粉々になる。
人はもはや何ものも要求しない。
自我はその絶頂に達して はじめて、その頂点で消えてゆく。
中途半端な自我を落とすことはできない。
それはできない相談だ。
なぜなら、まだ先に望みがあるからだ。
「わからないぞ、もう少し努力すれば、 もう少し修行すれば、もう少し執着
を捨てれば……わかるものか。
まだすべての方角を調べたわけじゃない、まだ望みはある」
とそれはつぶやく。
自我というのはしぶとい。
だが、可能なあらゆる方角をすべて探しつくし、 究めつくしたのに、いつもし
くじってばかりいれば、 失敗につぐ失敗を重ねていれば、いつまで探求し、 探
索することをつつ゛けていられるだろう?
いつの日か探求や探索は落ちてしまう。
だからこのパラドックスを覚えておきなさい―― 光明は探求を落とした者たち
にしか起こらない。
だが、探求を落とすことができるのは誰なのか?
それは充分に深く究めつくした者たちだけだ。
これはパラドックスだ。
これは理解しなければならない大いなる秘密のひとつだ。
それを胸の奥に沈潜させなさい。
片方だけを選ぶ可能性は高い。
「探し求めよ、そうすれば汝は見いだすだろう」と言う者たちがいる。
それは真理の半面にすぎない。
ただ求めるだけで見いだした者はひとりもいない。
また「求めても神が見つからないのなら、そもそもなぜ求めるのか? 待てばよ
い。やがて神の恵みとして起こるだろう」と言う者たちもいる。
そのようなやり方でもけっして起こらない。
あなたがたは何世紀にもわたり、何生にもわたって 待ちつつ゛けてきたが、い
まだにそれは起こっていない―― そのような仕方では起こらないことは それだ
けで充分に明らかだ。
では、 それはどのようにして起こるのだろう?
それは探し求めることをやめた探求者に起こる。
それはもてる力をすべてふり絞って探求したが、 しくじった者、完璧にしくじ
った者に起こる。
その失敗のなかで、 最初の光線が、不意にあなたに射してくる!
救いようのない絶望感にひたっているとき、 光明のことはすべて忘れようと諦
めているとき、 探求がやんで、光明を得たいという欲望さえも なくなってしま
ったとき、突然、それが訪れる ……そしてそれで何もかも片ずいてしまう。
それはそのようにして千代能に起こった。
それはそのようにして仏陀に起こった。
それはいつもそのようにして起こる。
仏陀は六年間にわたって働きかけてきた―― 懸命に働きかけてきた。
思うに、これだけ激しく 働きかけた者は他にはいないだろう。
彼は命じられたことはすべて、 できると耳にしたことはすべて、 どこかで拾
い集めることができたものはすべて やりつくしてしまった。
彼はあらゆるタイプの師のもとを訪ね、 実に厳しい修行を重ね、誠実に、真
面目に取り組んだ。
だが、六年が虚しく過ぎていったある日のこと、仏陀は、 このようにしていて
もそれは起こらない、 働きかければ働きかけるほど、 私というものが強くなっ
てゆく、 という事実に気つ゛いた。
その日、彼はくつろいで、 探し求めることを完全に落とした。
すると、まさにその夜のこと…… その夜もやはり満月だった。
満月と光明には どこかつながりがあるにちがいない。
満月は海に与えるのと同じくらい 深い影響をあなたのこころハートに与える。
満月はあなたを揺り動かし、美や至福へと向かわせる。
それはあなたのなかに何かを……仙薬をつくりだす。
それは人の感受性をひじょうに高めるので、 あなたは今まだかつて見たことが
ないものを 見ることができる。
それは満月の夜のことだった。
仏陀はゆったりとして、完全にくつろぎ、 はじめてぐっすりと眠った――何か
を探し求めて いるとき、どうして眠ることができるだろう?
眠りのなかでも探求はつつ゛き、欲望は夢を紡ぎだしつつ゛けている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

503避難民のマジレスさん:2019/04/27(土) 11:10:33 ID:LC3de7YgO
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

今や、何もかもが失敗に終わってしまった。
彼はこの世間を、王国を、恋愛や人々との関係 の喜びや苦しみを、肉体と心の
苦悩や歓喜を見てきた。
続いて彼は禁欲の修行者、僧侶となり、 たくさんの道に従い、それもまた見
てしまった。
彼はいわゆる世間を味わい、 いわゆる出世間をも味わったが、 いずれも失敗
に終わった。
もはやどこにも行くところはない、 これ以上は一寸たりとも動けない。
欲望はみな消え失せてしまった。
そこまで絶望しきっているとき、 どうして欲望を抱くことができるだろう?
欲望とは希望のことだ。
欲望とは、まだ何かする ことができるということだ。
その夜、仏陀は "為しうることは何もない、いっさい何もない" ということを
知るに到った。
その要点を見るがいい。
そこにはとほうもない美しさがある…… 為しうることは何もない、いっさい
何もない。
彼はくつろいだ。
彼の身体はゆったりとくつろいでいたにちがいない。
彼のこころハートはゆったりとくつろぎ、願望も、未来もなかったにちがいな
い。
この瞬間がすべてだった。
空には満月がかかり、 彼は深い眠りについていた。
そして、朝が来て、目覚めたとき、 彼は通常の眠りから覚めただけではなく、
私たちみなが生きている形而上的な眠りからも 覚めていた。
彼は覚醒をとげた。
彼は弟子たちによくこう言った。
「私は懸命に働きかけたが、成長することができなかった。 そして働きかける
という考えそのものを落としたとき、私は成就した」
私が自分の仕事ワークを「遊び」と呼んでいるのはそのためだ。
あなたがたは矛盾した立場に立たざるをえない。
それが「遊び」という言葉の本当の意味だ。
あなたがたは働きかければ何かが起こる かのように妙に深刻な姿勢で取り組
んでいるが、 それは働きかけることを通しては絶対に起こらない。
それは働きかけることがやみ、 遊び心に満ちた気分が生まれ、 くつろいだ気
分になったときにはじめて起こる…… しかもそれは努力して身につけたくつろ
ぎではなく、 こう理解することで生まれるくつろぎだ――
「何をやっても、"私"をますます強めるだけだ。 何をやっても、自我エゴをま
すます膨らませるだけだ。 自我は障壁なのだから、何をやっても元のもくあみ
だ」
これを見抜くと、行為はかき消えてしまう。
そして行為なくして、どうして 行為の主体が存在できるだろう?
行為が消えれば、その影である 行為の主体も消えてゆく。
そしてあとにはあなたが残される――
<全体>のなかに、この宇宙的な遊戯の 一部として、丸ごと、完全な状態で。
それが光明だ。
これらの経文にはとほうもない価値がある。
それらに瞑想するがいい。
呂祖師は言った。
沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
沈黙には二つの種類がある。
ひとつは修養して身につけるものであり、
もうひとつは訪れてくるものだ。
修養して身につけた沈黙は抑圧された騒音にすぎない。
黙って坐ることはできるし、長期にわたって坐りつつ゛け、
何か月も何年も訓練をつつ゛けてゆけば、次第に騒音を抑圧できるようになっ
てゆく。
だが、あなたは依然として火山の上に坐っている
――それはいつ噴火するともかぎらない、
ちょっとしたきっかけがあれば充分だ。
それはほんとうの沈黙ではなく、強いられた沈黙にすぎない。
これが世界中で起こっていることだ。
瞑想しようとしている人々、静かになろうとしている人々は、
ただ自分に静けさを強いているだけだ。
強いることはできる。
自分の周囲に何層もの静けさを張りめぐらせることはできるが、
それは自分自身をだますことに他ならない。
そんな皮相なものでは役に立たない。
沈黙があなたの実存そのものから湧き起こってこないかぎり、 外から内側に強
いられたものではなく、 逆に内からやって来たものでないかぎり
――それはやって来る、 内から外に向かって湧きあがってくる、
中心から周辺に向かって湧きあがってくる ……それはまったく異なる現象だ。
呂祖は言っている。
沈黙が訪れると―― いいかね、それはもたらされたものではなく、 強いられ
たものではなく、訪れるものだ――
一片の思考すら湧き起こらない。
そうなったら、あなたは火山の上に坐っているのではない。
私の方法論全体が沈黙を 修養して身につけるのではなく、 内なる騒音を発散
浄化カタルシスして、 それを投げ捨てることにあるのはそのためだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

504鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/27(土) 23:03:54 ID:1d4drIFg0
自ら行うことは自我を起こすことになるから、観照も起こらないのじゃ。
努力し続けて自我も起こり続けてしまうのじゃ。
努力の果てに全ての努力を放棄して、今まで努力していた者に気付くのじゃ。
努力もまた必要であったのじゃ。
それがなければ、放棄して観ることもなかったのじゃ。

505避難民のマジレスさん:2019/04/27(土) 23:22:34 ID:LC3de7YgO
>>503
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

私のもとにはじめてやって来た人々はひじょうに困惑する。
仏教の師のもとにいたことがあるなら、
彼らはヴィパッサナをやり、坐を組み、自分自身に ある決まった姿勢を強いて
いただろう。
なぜ姿勢をくずさないのか?
それは身体をある一定の姿勢に強いてとどめておくことで、 心マインドもひと
つの形に押し込めておくことができるからだ。
肉体ボディと心マインドは連動している。
心は肉体の内なる局面であり、 それは物質的な現象だ。
それはあなたの実存とは何の関係もない。
それは肉体と同じように物質的なので、肉体に何かをすれば、 それは自動的に
心にも反映する。
だからいつの時代にも人々は姿勢を整える訓練を行なってきた――
蓮華坐の姿勢で坐り、仏像のように、石仏のようになるよう肉体に強いる。
身体を微動もさせないでいることができれば、 心がある種の静けさのなかに入
ってゆくのに気つ゛くだろう。
だが、それはまやかしであって、本物ではない。
身体の姿勢によって力つ゛くで静かにさせているだけだ。
試してみるといい――こぶしを握り、顔をしかめ、 歯を噛みしめて、憤怒の姿
勢をとってみるがいい。
そうして憤怒の姿勢をとってみると、 驚いたことに、本当に怒りを覚えはじめ
る。
俳優はそれをやっている――
身体を動かして一定の姿勢をとり、 そこに入りこんでゆくと、やがてその気
になってくる。
二人の偉大な心理学者ジェームズとランゲは、今世紀の初頭に実に奇妙な 理論
を編み出した。
それはジェームズ&ランゲの理論として知られている。
彼らは昔から常識とされてきたことにそぐわない、ひじょうに奇妙なことを言
った。
ふつう私たちは、人は怖くなって逃げだす、恐怖に駆られて走りだすと考えてい
る。
ジェームズとランゲは、それは真実ではないと言った――走るから、恐怖を覚
えるのだと。
馬鹿げて見えるが、そこにはいくらかの真実が含まれている――半面の真理が。
常識にも半面の真理はあったが、これもまた同じ全体のもうひとつの半面を言
ってい。
笑いはじめたら、悲しみが前よりも少し軽くなった感じがする。
冗談を言って 笑っている友人たちのそばに行って坐るだけで、自分の悲しみや
惨めさを忘れてしまう 。
あなたは笑いはじめる。
すると笑いはじめたとたんに、気分がよくなってゆく。
身体からはじめることもできる。
試してみるといい!
悲しみを感じていたら、駆けだしてみるといい。
家の近くを七回ほどまわって、 深呼吸をし、陽光を浴びて、風に吹かれなさ
い。
七回まわったら、立ち止まって、心境の変化がないかどうか 見てみるといい。
いいや、同じであるはずがない。
肉体の変化が心を変えてしまった。
肉体の生化学が心を変えてしまう。
ヨーガの姿勢はそのためにある。
それらはすべて心を一定のパターン に押し込むための姿勢だ。
それは本当の沈黙ではない。
本当の沈黙はひとりでに現れて くる沈黙でなければならない。
私が勧めるのは、肉体に無理強い してはいけないということだ。
それよりも、踊ったり、歌ったり、身体を動かしたり、 走ったり、ジョギング
したり、泳いだりするがいい。
肉体をありとあらゆる仕方で動かしなさい。
そうすれば 心マインドもまたありとあらゆる仕方で動き、そのようにして 内側
をかきまぜることで、発散浄化カタルシスがはじまり、 心は毒を放り出してゆ
く。
大声で怒鳴り、怒り、枕を叩きなさい。
すると驚くようなことが起こる―― 枕を叩いたあとは、気分がすっきりする

心のなかにあったものが解き放たれたのだ。
妻や夫を殴るのも、枕を殴るのも大差はない。
枕は、妻や夫を殴るのと同じくらい完璧に役に立つ。
肉体にとっては殴る相手が誰であろうと同じことだからだ。
殴るポーズを取るだけで心は怒りを放出しはじめる。
心と肉体は協調して働いている。
カタルシスからはじめなさい。
そうすれば子ども時代から内側にため込んできた がらくたを一掃することがで
きる。
怒っていたのにそれを外に表すことができなかったのは、 怒れば母親が取り乱
してしまうからだ。
あなたはそれを抑え込んでしまった。
あなたは腹が立ち、怒鳴りたかったが、 そうすることができず、逆に微笑み
を浮かべた。
内側にため込んできた す べ て の も の ――あなたはそれを投げ捨てなけれ
ばならない。
そうして待っていると…… 沈黙があなたのなかに降りてくる。
その沈黙には他にはない美しさがある。
それはまったく別のものだ。
そこには異なる質がある。
そこには異なる深みがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

506鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/28(日) 23:40:56 ID:1d4drIFg0
これがオショーのダイナミック瞑想なのじゃ。
現代人はストレスを多く抱えているから先ずはストレスを発散させるというのじゃ。
それから沈黙が起こってくるのを待つのじゃ。
そうすればより深く瞑想に入ることが出来るというのじゃ。

507避難民のマジレスさん:2019/04/29(月) 00:08:45 ID:LC3de7YgO
>>505
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

 沈黙が訪れると、一片の思考すら湧き起こらない
――思考が起こってこないように抑え込んだわけではない。
見張っていたわけではないし、こちこちに身を固め、 一片の思考がよぎるのも
許さなかったわけではない。
あなたは闘っているのではなく、 手放しの状態になっているのだが、 何ひと
つ湧いてこない。
一片の思考も起こらず、 思考がひとりでに消えてゆくとき ――それは美しい。
そうなったらあなたは完璧に静かであり、 その沈黙はよいものだ。
強いられた沈黙はよいものではない。
内側を見ている者は、突然、見ていることを忘れてしまう。
その体験のなかで、こんなことが起こる――内側を見ている者は、突然、見て
いることを忘れてしまう
これが本当に内側を見るということだ――
内側を見ていることさえ忘れてしまうということが。
内側を見ていることを覚えていたら、それはまたしてもひとつの思考にすぎない。
最初は外界を見ていたし、今度は内界を見ているが、そこには自我エゴがある。
最初は外向的で、今度は内向的だが、そこには自我がある。
最初は樹々を見ていたが、今度は思考を見ている。
最初に見ていたのは客観的なものであり、今見ているのは主観的なものだが、
ことのすべては少しも変わっていない。
あなたは依然として二つに――見る者と見られるものに、観察者と観察される
ものに、主観と客観に分割されている。
二元性がしぶとく残っている。
これは本当の沈黙ではない。
二つのものがあれば葛藤が起こらざるをえないからだ。
二つのものは静かではありえない。
ひとつになると、どんな葛藤も起りえないので、あなたは静かになる。
沈黙を強いるのではなく、それが自然に降りてくるのを許しなさい。
強いられた沈黙は作為的であり、一方的に押しつけたものだ。
これこそ私がここであなたがたとともに、私の人々とともに起こそうとしてい
る大いなる変革のひとつだ。
古い技法はすべて基本的に何かを強いている。
私が理解するところでは、けっして何も強いてはいけない。
むしろ、もち歩いてきたがらくたをすべて放り出すがいい。
もっともっとからっぽになり、もっと広々とした空間をもちなさい。
内側にもう少し空間をつくりだせば、その空間に沈黙が訪れてくる。
自然は真空を嫌うから、がらくたをすべて放り出して、からっぽになることが
できたら、彼方なるものが内側に降りてくるのを目の当たりにするだろう。
舞い踊るエネルギーがあなたのなかに、あなたのすべての細胞のなかに入って
くる。
あなたは言葉もなく、音もない歌、聖なる音楽に満たされる。
この音楽のなかには見ている者がいない。
この音楽のなかには見られている者がいない。
観察する者が観察されるものになっている。
踊り手は踊りそのものになり、あらゆる二元性が消え失せている。
この非二元性こそ真の沈黙に他ならない。
このとき、身心は完全に解き放たれてしまうであろう。
このような瞬間には、手放し状態のままでいなければならない。
姿勢のことなどいっさい忘れてしまいなさい。
やろうとすることはすべて忘れて、何もしようとしてはいけない。
無為の状態にありなさい。
ただゆったりとして、
完全にくつろぎ、何もせずにいる。
くつろげばくつろぐほど、あなたの実存にさらに深い沈黙が浸透してゆけるか
らだ――ただ開いて、感じやすくなり、くつろいでゆくがいい。
いっさいのしがらみは跡形もなく消滅する。
すると驚いたことに、落とそうとしていたのに落とせなかったすべての欲望が、
いつの間にか消え去っている。
世間のしがらみ、頭をわずらわす仕事、そういったあらゆる雑念や行き交う思
考の流れは、もはや跡形もない。
あなたは驚くだろう――
あの連中はみなどこへ行ってしまったのだろう?
と不思議に思うだろう。
あなたは奮闘していたが、努力しているときには、一片の思考ですら追い出す
ことはできない。
やってみるといい。
思考をひとつでも放り出したいと思ったら、あなたは完全に失敗する。
それは放り出せない。
放り出そうとすればするほど、なおいっそう大きな音を立てて自分に跳ねもど
ってくる。

静かに坐って、猿のことを考えないようにしてみるといい。
それは単純な実験だ。一匹だけではなく、猿が次から次へとぞろぞろやって来
て、あなたに百面相を見せてくれる。
追い払おうとすればするほど、猿たちはますます扉を叩いて、「なかに入れて
くれ」と言うだろう。
猿たちはあまり行儀がよくないから、ことわりもせずに、なかに飛び込んでく
るかもしれない。
あなたは猿また猿に取り囲まれる。
忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

508鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/29(月) 22:26:40 ID:1d4drIFg0
観る者と観られる者の二つがある時、それは未だ観念による自己認識があることを示しているのじゃ。
記憶から想起される自分という観念を観ているから二つが在るのじゃ。
記憶からの観念が無ければ、観る者と観られる者の二つは無いのじゃ。
観る者と観られる者が一つであるありようが実現するのじゃ。

509避難民のマジレスさん:2019/04/29(月) 23:04:43 ID:LC3de7YgO
>>507
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

忘れようとすればするほど猿はますますたくさん現れる。
何かを忘れようとしたら、それをますます思い出すことになるからだ。
それは思い出そうとするのと同じだ。
努力をすることで忘れることはできない。
沈黙が降りてくると、突然、いっさいのしがらみが消えてしまう――跡形もなく
消え去る!
後には痕跡すら残らない。
あなたは信じられない、あのすべての騒音は……どこへ行ってしまったのだろ
う?
それがかつて自分のなかにあったことすら信じられない。
それが今なお他人のなかにあることが信じられない。
これは目覚めた人々がみな直面しなければならない基本的な問題のひとつだ。
あなたがたはあらゆる問題を抱えて私のもとにやって来るが、私の苦境がわか
っていない。
私にはまずこのことがわからない――あなたがたはどうしてそんなにたくさん
の問題を抱え込むことができるのだろう?
どうやってそれを抱えつつ゛けているのだろう?
あなたがたは本当に信じられないようなこと、不可能なことをやっている!
なぜなら、私が思考をつかもうとしても、 それはすり抜けていってしまうから
だ。
それはつかめない、それは逃れ去ろうとする。
ところがあなたがたは「思考を止めたいのですが止められません、 その努力に
すっかり疲れ果て、退屈し、うんざりしています」と言う。
あなたがたは本当にみごとな芸当をやっている!
いつの日か沈黙があなたの上に降りてくれば わかるだろう……それは痕跡すら
残さない。
内側に思考が存在していたことすら信じられない。
思考はすっかり消え失せている。
それは影にすぎなかった。
思考は本質的なものではなく、 影にすぎない。
影は消えても跡を残さない。
そもそも 影には実体がないから、その足跡を見いだすことはできない――
あなたがたの思考もそうであり、 あなたがたの想念マインドもそうだ。
自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
この状態が起こり、内に沈黙が降りてきて、それにおおいつくされると、内を
見ているのか外を見ているのかわからなくなる。
誰が見ている者で、誰が見られている者なのかわからなくなる。

自分の精神の宮と坩堝がどこにあるのか、もはやわからない。
そうなったら自分が誰であるかを言うことはできない。
あなたはそこにいる――
実際、はじめてあなたは存在しているのだが、ではそれはいったい何者なのか
、それは何なのか?
答えはやって来ない。
中国の武帝がボーディダルマに尋ねた……
ボーディダルマは武帝をひどくいらだたせていた。
ボーディダルマは大胆不敵で、歯に衣を着せず、ずばりとものを言う男だった。
武帝は尋ねた。「私はたくさんの善行を積んできたが、天国でどのような報酬
を得られるだろう?」
ボーディダルマは深い軽蔑のまなざしを武帝に向けながら言った。
「報酬だって?あなたは地獄に堕ちるだろう!天国なんてとんでもない」
武帝は言った。「良い行いをしたのに、地獄へ堕ちると言うのかね?
私はたくさん寺を建て、無数の仏像をつくり、無数の仏教僧を養い、寺院を国
費で維持し、仏陀の法ダルマ、その教えを広めるために大いにつくしてきた。
国中の者たちが仏教徒になろうとしている。
人々は瞑想をし、祈りを捧げている。
経典の翻訳も進められ、何千人もの学者が翻訳に取り組んでいる。
なのにあなたは何の報酬も得られないと言うのかね?
私の行為は神聖なものではないと言うのかね?」
するとボーディダルマは言った。
「神聖なものだって?この世には聖なるものなど何もない。聖もなければ、俗
もない。だが、いいかね」と彼はつつ゛けた。
「この自分は徳を積んだ人間だという思いを落とすがいい。この偉業を成し遂
げたという思いを落とすがいい。そうしなければ、無間地獄に堕ちてしまうぞ」
当然、武帝は気分を害し、いらだった……きっと豊かな教養を身につけた文化
人だったにちがいない。そうでなければボーディダルマに乱暴な振る舞いをし
ていただろう。
だが、その彼ですら誘惑には逆らえず、気分を害し、腹を立てながら尋ねた。
「では、私の前に立っているあなたは誰なのか?聖もなく、俗もなく、徳もな
いならば、私の前に立っているのは誰なのか?」
ボーディダルマは笑いながら言った。「私は知らない」
だが、武帝は理解することができなかった。
あなたがたも取り逃がしたかもしれない。
ふつう私たちは、到達した人は自分がだれであるのかを知っていると考える。
だから彼は「自己知識を達成した人」と呼ばれる。
ところがボーディダルマは
「私は知らない」と言う。
これは自己知識の最高峰だ。
これこそが 本 当 の 自己知識だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

510鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/04/30(火) 22:47:57 ID:1d4drIFg0
既に自分が無い者には自分の知識も無いのじゃ。
それが真の無我なのじゃ。
自分の知識があればまだ無我ではないのじゃ。
一切の自己を無くしてありのままにあるのが無我なのじゃ。

511避難民のマジレスさん:2019/04/30(火) 23:14:05 ID:LC3de7YgO
>>509
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

人は消えてしまった。
知る者がそこにいるだろうか?
知るということは、知る者と知られるものがあるということだ。
そこにはもはや二元性はない。
知る者がそこにいるだろうか?
そこには沈黙だけが、とほうもない沈黙だけがあり、分割はなく、分かつこと
のできないものがある。
「私は知っている」などとボーディダルマが口にするはずがない。
もし彼が「そうだ、私は自分が永遠の魂であることを知っている」
と言っていたら、この出会いはごくありきたりのものになっていただろう。
おそらくそのほうが武帝は納得しただろうが、ボーディダルマは面目を失って
いただろう。
彼は正直だった。
彼は「私は知らない」と言った。
「私は自分が誰なのか知らない」
と言う者に誰がついて行くだろう?
武帝はこの男について行くことを諦めた。
武帝に理解できないことがわかると、ボーディダルマは言った。
「皇帝ですら私を理解できないとしたら、他の者たちなど当てにはならない」
そこで彼は山に入り、壁に向かって九年間坐りつつ゛けた。
人々がやって来て、「なぜ壁の方ばかりを向いているのですか?」
と尋ねると、彼はこう言ったものだ。
「人々の方を向いても、みんな壁と似たようなものだ。
壁の方を向いているほうがましだ。壁ではない者、感応力と理解力をそなえた
者が来たら、そこではじめてその人に顔を向けるとしよう」
「私は知らない」
という彼の言明には計り知れない美しさと気高さがある。
(p473)

自分の精神の宮と坩堝るつぼがどこにあるのか、もはやわからない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。

こうして沈黙があなたを覆いつくし、あなたを包み込む瞬間、自分の肉体を確
かめたいと思っても、つきとめることができない。
もう肉体はないとも言えるし、 もはやあなたは分離していないので、 全存在が
あなたの肉体になっている とも言える。
この状況はときとして人を狂気に追い込みかねない。
注意するがいい。
目を開けても肉体が見つからず、
目ではとらえられないといったことが起こっても、 心配してはいけない。
先日の夜、あるサニヤシンが私に尋ねた。
「鏡の前に立っていると、何だかわけがわからなくなってしまいます。
というのも、鏡に映る姿が自分だとは思えないからです」
それは途方に暮れさせる。
鏡をのぞき込むたびにこの問い―― 「これは誰だろう?」という問い が湧き
起こってくるので、彼は最近では鏡を避けている。
「これは私だ」と感じることができない。
さあ、これでは頭がおかしくなっても無理はない。
このために彼はひじょうにかき乱されていた。
だがこれは役に立つしるし、確認のしるしだ。
現によいことが起こっている。
彼は肉体との同一化を解きはじめている。
それはよいことだ。
彼は正しい道の上にいる。
私は彼にできるかぎり鏡をのぞき込むよう、 そして暇を見つけたらいつも鏡の
前に坐って、 鏡に映った肉体を見つめ、「これは私ではない」 と感じつつ゛け
なさいと言った。
「これは私ではない」とくりかえす必要はない。それはまやかしになる。
ただ感じるだけでいい! それは彼にひとりでに起こっているから、問題はな
い。
これは彼の自然な瞑想になるだろう。
それで充分だ。
ゆっくりゆっくり、やがていつか鏡に映る影を 見ることができなくなる瞬間が
やって来る。
そのほうがもっと通常の感覚をかき乱す。
スワパーヴァにそれが起こった。
私は彼にこの瞑想を与えた。
何か月もそれを行なったあと、ある日、 鏡の前に立っていると影が消えてし
まった。
「何が起こっているのだろう?」 と彼は目をこすった。
狂ってしまったのだろうか?
鏡がそこにあり、その鏡の前に 立っているのに、影が消えてしまっている。
そして、その日、彼の存在はすばらしい変容をとげた。
スワパーヴァは今ではすっかり人が変わり、 まったくの別人になっている。
はじめて私のもとにやって来たとき、 彼はエゴの固まり以外の何ものでもな
かった―― しかもインドでいちばん危険なパンジャビ風のエゴだ。
実際、彼はこのパンジャビ風のエゴのために罠にかかっていた。
彼が真理について知りたがっていたので、私は 「君には賭ける用意ができてい
るかね?」と尋ねた。
「君にはすべてを賭ける勇気があるかね?」―― さあ、それは彼のエゴへの挑
戦だった。
彼は「できない」と言うことができなかった、身を引くことができなかった。
彼は「ええ」と言ったが、「何をやれと言われるかわかったものじゃないぞ」
と少し怯えているようだった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

512鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/01(水) 22:05:05 ID:1d4drIFg0
i肉体が自分だと認識している者には肉体の観察が効果を発揮するじゃろう。
観察する者が自分と思えば、観察されるものは他のものとなるのじゃ。
肉体が観察されれば肉体は他のものとなるのじゃ。
そのようにしてエゴもなくなっていくのじゃ。

513避難民のマジレスさん:2019/05/01(水) 22:51:52 ID:LC3de7YgO
>>510
>自分の知識も無い
>一切の自己を無くしてありのままにある

とは、自分の記憶をを失うと言う意味ではなく、
記憶にもとづいた思考をしなくなると言う意味でありましょうか。
(´・(ェ)・`)つ

514避難民のマジレスさん:2019/05/01(水) 23:08:41 ID:LC3de7YgO
>>511
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

だが、彼はジャンプした。
そしてそれが鏡のなかで起こった日 ――彼の影が消えた日―― 彼の奥底深く
にある何かが変化し、動いた。
今や見違えるように変わったスワパーヴァを見ることができる。
彼はひじょうに素直シンプルになり、謙虚になり、 ヴィパッサナ倉庫でもくも
くと働いている。
彼は百万長者の大金持ちだ。
彼は自分が所有している大きな会社の社長であり、 彼のもとで何百人もの人々
が働いていた。
今や彼は一介の労働者のようにアシュラムで働いているが、 これほど幸せだっ
たことは一度もなかったし、 これほど至福に満ちていたことも一度もなかった。
この瞬間があなたにもいつか訪れるかもしれない。
瞑想していると、沈黙が降りてきて、 自分の肉体を見いだすことができなく
なる。
鏡のなかをのぞいても、そこに顔は映っていない。
心配せずに、紛れもない確認のしるしとしてとらえなさい。
何かすばらしいことが起ころうとしている―― あなたの古い自己証明アイデン
ティティが崩れつつある、 あなたの古い自己像が消えつつある。
神があなたをわがものとするまえに、 あなたは完全に消えなければならない。
肉体を確かめたいと思っても、つきとめることができない。
これは「天が大地に浸透する」という状態であり……
自分の肉体を見ることができず、自分の肉体を感じたり、自分の肉体に触れる
ことができないとき――
これが「天が大地に浸透する」と言う状態だ。
楽園が降りてきつつある。
神があなたのもとへやって来つつある。
神はすでに到達している。
神のこころはあなたのハートとともにあり、
神の手はあなたの手に握られている。
あなたが消え失せたのはそのためだ。
部分が全体になったからだ。

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
今やあなたの生はすみずみまで霊妙な輝きをおびるようになる。
一瞬一瞬が比類のない瞬間となる。
ひとつひとつの体験がすばらしく、えも言われぬものになる。
それからはあなたの生は純粋な詩となる。
それからはあなたはけっして退屈することがない。
生は刻一刻と新たに移り変わってゆくのに、どうして退屈していられるだろう?
人々が退屈しているのは、古びて、生気を失った、鈍重な自我エゴをもち歩い
ているからだ。
彼らが退屈しているのはそのためだ。
自我がなければ、退屈もない。
そうなったら生は喜びだ!
そうなったら起こるひとつひとつのことが神からの贈り物になる。
人は絶えず額つ゛きたい思いにかられ、感謝の念を抱きつつ゛ける……

すべての霊妙なものが根源に帰るときだ。
長足の進歩を遂げると、影もこだまもすべて消え去り……
「神々が谷間にいる」瞬間がやって来る という、呂祖の最初の言葉を覚えてい
るだろう。
あなたは丘の上に坐っており、 全世界が谷間のなかにあるという感じをもつ

音が、ひじょうにはっきりと、実にありありと 聞こえてくるが、それは遥か遠
くにあって、 谷に響くこだまのようだ。
今やそのこだまさえも消えてゆく。
すべての影が去ってゆく。
千代能を覚えているだろうか?
彼女はみずからの光明を祝ってこの詩を詠んだ。
 千代能がいただく桶の底抜けて
 水もたまらず月も宿らず
水面の鏡像、影、こだまはすべて消え去った。
あるがままのものだけが残っている。
そして、そのこのうえもない美しさが。
学人は深い静けさのなかで悠然としている。
これは不可思議なものすべてが根源に帰り、 気(エネルギー)の洞穴に納めら
れたということだ。
外側の生はすみずみまで絶えることのない霊妙な輝きに包まれる。
あなたは浜辺で再び子どもにもどり、風のなかを走り、陽光を浴び、あたかも
ダイヤモンドの鉱脈を見つけたかのように
貝殻やきれいな色石を集めている。
外界の森羅万象のすべてが霊妙な輝きの質をおびる。
では内側では何が起こっているのだろう?
不可思議なものすべてが根源に帰り……
深い洞察のなかでは、外界の霊妙な輝きに合わせて、不可思議なものすべてが
その源に帰る。
不可思議なものとは何だろう?
在ることそれ自体が最大の奇蹟だ――ただ在ることが。
それを感じるのに金持ちである必要はない。
それを感じるのに教育を受ける必要はない。
それを感じるのに有名になる必要はない。
ただ在ること……。
あなたが在ることそのものが最大の奇蹟、最大の神秘だ。
なぜあなたは存在しているのだろう?
理由はない。
あなたはそれを稼ぎ取ったわけではないし、それを求めたことすらない。
それはただ起こっている。
だから外界には霊妙な輝きがあり、内側には不可思議な世界がある。
光明を得ている人はそのようにして生きている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

515鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/02(木) 22:11:56 ID:1d4drIFg0
>>513 記憶に基づいた認識をしなくなるのじゃ。
 それが本来の認識なのじゃ。
 それができれば刹那毎に新しく今ここにある真の実在が知覚できるのじゃ。
 そこにはもはや知覚する者とされる者の区別も無いのじゃ。

516避難民のマジレスさん:2019/05/02(木) 22:45:33 ID:LC3de7YgO
>>514
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)


そして、今やこういったことが起こりはじめる。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
もうヒマラヤに行く必要はない、
街の雑踏マーケットプレイスを捨て去る必要はない。
あなたは人で賑わう街にとどまることができるが、もはやその場所は前と同じ
ではない――
場所そのものが変容してしまう。
街の雑踏さえもがとても美しく、それと比べればヒマラヤなど取るに足りない。
ありふれた現実がこの世のものとは思えない美でみなぎるようになる。
毎日そばを通りながら一度も目にとめたことがなく、気にもとめなかった樹が
、突然、弾けたように花を咲かせ、あなたの意識に花とかぐわしい香りを浴び
せかける。
生はありとあらゆる色にあふれ、極彩色になり、ものごとはひとりでに変わり
はじめる……
それはひとえにあなたがこの内なる静けさ、この無我の状態に到ったからだ。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
私が「私のサニヤシンは世間を離れてはいけない」といつもくり返し強調する
のはそのためだ。
これを光明を得たかどうかを判別する基準にするがいい――あなたが光明を得
たら、世界はおのずと姿を変える、それは変わらざるをえない。
それに世間から逃げたとしても、どこにも行くあてはない。
どこへ行っても、あなたは再び同じ世界をつくりあげる。
それをつくりだす青写真があなたの内側にあるからだ。
この女のせいで厄介なこと――子どもや、家や、責任――が生じてくるのだと
考えて、その女性と別れることもできる。
その女性やかわいそうな子どもを置いて、逃げだすこともできる――
これまで多くの男たちがそれをやってきた。
だが、あなたはかつてこの女性に恋をしたのだ。
あなたの内側にはまたしても恋に落ちる可能性がある。
遅かれ早かれ――おそらくは早いうちに――もうひとつの家庭をもち、別の男
や別の女ができ、子どもが生まれ、責任が生じてくる。
生をそうたやすく、そう手軽に変えることはできない。
あなたはたんにまわりの環境を変えるだけで、奥深くでは青写真をもち歩いて
いる。
まわりの環境は青写真によってつくられる。
青写真が再びそれをつくりだす。
それは種子に似ている。
あなたは樹を倒したが、種子をもち歩いている。
種子が再び地面に落ちると、樹がまた必ず生えてくる。
種子を焼いてしまわなければならない。
そうなったら、どこにいてもこの奇蹟が感じられるようになる。

場所を変えずとも、場所はおのずと変わってゆく。
この世界そのものが楽園になり、
この世界そのものがにゃはんニルヴァーナになり、
この肉体そのものが仏陀の身体になる。

そこは形なき空間であり、そこでは 千の場所も万の場所も ひとつの場所に他な
らないからだ。
時間を変えずとも、時間はおのずと変わってゆく。
これは測ることのできない時間であり、そこでは 無限の劫こうも一瞬に他なら
ないからだ。
何にも手を加える必要はない。
そしてこの二つが世界を構成している要素だ。
見るがいい、呂祖が言っていることは、今や現代の物理学によって完全に裏
つ゛けられている。
アルバート・アインシュタインは、世界はたった二つのもの、時間と空間から成り立っていると言う。
実のところ、それらは二つではなくひとつのものであるから、新しい言葉をつ
くりださねばならない。
彼はそれを「時間と空間」と呼ばずに「時空」と呼ぶ。
時間と言うのは空間の第四の次元であり、二つの 言葉のあいだにはハイフンさ
えいらない。
空間を変えなくてもいいし、時間を変えなくてもいい。
それらはひとりでに変化してゆく。
た だ 自 分 自 身 を 変 え さ え す れ ば い い 。
ハートに変化が起これば、全存在が変化する。
天国はどこか別の場所にあるわけではないし、 地獄もどこか別の場所にあるわ
けではない。
それはあなたの内側にある、 どちらもあなたの内側にある。
 あなたがそれらをつくりだす。
だが、人々は愚かなことをやりつつ゛けている。
先日ある人が手紙を寄こした――「どうしたことでしょう?……」彼は妻を四
度 変えていた。
これが四度目の結婚であり、その女性は彼にとって一緒に暮らす 四人目の女性
だった。
そして今、彼は「いつもどうしてこうなるんでしょう?
最初はすべてがすばらしく見えるのですが、半年も経たないうちにまた 同じよ
うにだめになってしまうんです」と言っている。
いつもまったく同じことがくり返されるのは、 あなたが前と少しも変わってい
ないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

517避難民のマジレスさん:2019/05/03(金) 12:21:09 ID:LC3de7YgO
>>516
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬

そしてことは入り組んでいる。
例えば、あなたは妻にうんざりしている―― 心マインドはつねに新しいものを
、感情を煽る 、何か新しいものをしきりに欲しがっている。
あなたはその女性を知ってしまった。
彼女の地形をすみずみまで知りつくしてしまった。
今や 彼女の地理に精通してしまい、もうこれ以上探検の余地は残されていない。
あなたは別の女性に関心を寄せるようになる。
別の女性に関心を寄せはじめる と、妻はますますもめごとをつくりだすように
なる。
あなたが彼女にではなく 別の誰かに関心を寄せているのに気つ゛くと、嫉妬が
生まれてくる。
彼女はたくさんのもめごとを引き起こす。
小言を言うようになり、意地悪になって ゆく。
彼女ががみがみ言えば言うほど、あなたはますます彼女がいやになってゆく。
さあ、この悪循環を見るがいい。
彼女はあなたがそばにいて欲しいのだが、やることなすことすべてがあなたを
遠ざけて しまう。
彼女はますます所有欲をつのらせ、いちだんと嫉妬深くなってゆき、家庭生活
を営むことは不可能になってゆく。
それは地獄になってしまう。
あなたはできるかぎり彼女を避けるようになる。
夜遅くまで会社で働き、仕事が なくても会社に居座りつつ゛けるようになる。
家に帰ればいやでも妻と顔を合わせる ことになり、また同じ苦しみを味わうこ
とになるからだ。
そして彼女が本当に求めているものは何だろう?
あなたにそばにいて欲しいのだ。
ところが彼女はその逆の ことばかりやって、あなたを追い払おうとしている。
そして邪魔者扱いにされればされるほど、別の女性がさらに美しく魅力的に見
えてくる 。
別の女性が魅力的で美しく見えるようになればなるほど、ますますその女性と
一緒に いたくなるし、その女性もあなたともっと一緒にいたくなる。
そしてやがて彼女は 「私と一緒にいたいのなら、あの女ひとと別れてね」と言
いはじめる。
妻と別れたとたん、その男が自分のなかに見いだしていた 美しさが消え失せて
しまうことに、その女性は気つ゛いていない。
男がその女性のなかに見ている美しさの 九割はもうひとりの女性に負うてい
る。
その女性は男の妻を敵と見なしているが、そうではない。
実は彼は、あの妻のおかげで恋に落ちてくれたのだ。
こういったことは無意識のうちに行なわれる。
それを見るがいい!
見なければ、それはいつまでも作用しつつ゛ける。
相手の女性はとても幸福になる。
彼女が幸福になればなるほど、あなたはもっと彼女の そばにいたくなるし、そ
れにつれて、いままでの女のほうはますます醜く見えてくる。
じきにあなたはこの女性と永遠に暮らしたいと思うようになる。
あなたはいままでの 女と別れて、この女性と暮らしはじめる。
それまでの女と別れたその日、まわりの状況はすっかり変わってしまう。
今やこの新 しい女性と一緒にいても、それほど美しく見えないし、それほど魅
力的にはみえない。
あなたを不愉快にさせる者がいないので、催眠状態がだんだん解けてゆく。
半年も経たないうちに催眠は解けてしまう――この女性も前の女性と変わらな
い。
もう 地理の調査は終わり、ことは片つ゛いてしまった。
だが、女性には何が起こったのか わからない――「この人はとっても愛してく
れていたのに、どうなったのかしら?」
彼女は自分でそれを壊してしまった。
そしてこの男も何が起こったのかわからない――
「この女性はあんなにすばらしく見えたのに、ごく平凡な女だった」
またしても動きが、同じ動きが、無意識の奥に潜む同じ種子による 悪循環がは
じまり、彼は別の誰かに恋をしはじめる。
人々は無意識のうちに恋に落ちて、無意識のうちに恋から覚める。
彼らは次から次へと相手を変えてゆくが、自分自身を変えることはない。
彼らは外側を変えつつ゛けるが、自分は同じままだ。
あなたは変えてゆくこともできる――幾多の生涯にわたって、 あなたはそれを
やり、同じことをくり返してきた。
それはとめどない悪循環になっている。 それは車輪だ。
同じスポークが 上がって来ては下がり、 また上がって来ては下がる。
それはまわりつつ゛ける車輪であり、 あなたはその車輪のなかにとらえられ
ている。
醒めなさい。 場所を変える必要はないし、 時間を変える必要はない。
外側のものは何ひとつ変える必要がない。
外界はこれ以上は望めないほど完璧だ。
やらなければならないことはただひとつ―― もっと意識的になり、 もっと油
断なく目を見張り、 もっと注意深く気つ゛き、 もっとからっぽになること。
そうすれば外界に投影するものは何もなくなる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

518鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/03(金) 22:42:09 ID:1d4drIFg0
お釈迦様も全てのものごとは心から作られるといっているのじゃ。
心の中の反応が自らの環境に投射されるのじゃ。
心が乱れていれば、周りも乱れていると感じるのじゃ。
それは外の環境が悪いのではなく、自らの心が原因なのじゃ。

519避難民のマジレスさん:2019/05/03(金) 23:45:13 ID:LC3de7YgO
>>517
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

内側にある種子をすべて焼きつくさなければならない。
内側にある青写真をすべて焼きつくさなければならない。
その青写真を焼き、種子を焼き、 内側にあるものをすべて放り出して、 ただ
からっぽになっていると、彼方から 何かがあなたのなかに入ってくる。
楽園が地上に浸透してくる。 それが変容の瞬間だ。
この変化とともに、全存在が一変してしまう。
女性も、子どもも、人々も、会社も、騒々しい街中も、 すべては元のままだが、もはや前と同じではない。
それはあなたがすっかり変わってしまったからだ。
これが正しい変容の道だ―― けっして外側からはじめてはいけない。
内側からはじめなさい。
こころというものは、静けさの極点にまで達しないかぎり、動くことのできな
いものだ。
人が動きを起こしてその動きを忘れるようなら、それは本来の動きではない。
それゆえに外界の事物の刺激を受けて動くのは本性の欲望であり、 外界の事物
の刺激を受けずに動くのは天の動きであると言われる。
いいかね、天の動きに身をゆだね、神があなたを動かすままにさせることだ。
<全一なるもの>に明け渡しなさい。
そうでないと、あなたは状況に反応しつつ゛け、状況はあなたとその意識に作
用しつつ゛けるだけで、あなた自身には何の変化も起こらない。
相手の男や女を変えることはできるし、仕事を変えることはできるし、家を変
えることはできる。
ものをどんどん変えつつ゛けることはできるが、本当には何ひとつ変わってい
ない。
<全体>があなたをわしつ゛かみにし、あなたのハートがもはや外界の事物に動
かされなくなり、実存の内奥の中核――それを「神」「天」「タオ」と呼んで
もいい――によって動かされるようにならないかぎり……。
あなたがそれを動かすのではなく、あなたが<全一なるもの>の手にするただの
道具となっているとき、それこそまさに「汝の王国は来たり、汝のわざはなさ
れた」という言葉でイエスが言わんとしていることだ。
イエスはそのような言い方をした。
同じ真理をユダヤ流の表現で言い表した。
天の動きに身をゆだねよ――これは中国の言い表し方だ。

だが、思念が起こらないときには、正しい思念が湧いてくる。
これは奇蹟だ――
思いが微塵みじんも湧いてこないときには、
何をやっても正しい行ないになる。
何が正しく何が間違っているかを判別するということではない。
思考マインドが静まり、こころハートが神によって動かされるとき、起こるこ
とはすべて的を射ている。
正しいことをすれば聖人になるというのではない。
あなたが聖人であれば、あなたが為すことはすべて正しいものになる。
正しい行為をすることで聖人になろうとしているのであれば、それはひたすら
自分を抑圧してゆくことに他ならない。
間違ったことを抑圧しつつ゛け、正しいふりをしつつ゛けている。
あなたは偽善者になる。
聖人になろうとしてはいけない。
神にその座をゆずってしまいなさい。
ただからっぽになり、明け渡して、手放しの状態になりなさい。
神にハートの動きをゆだねれば、あらゆるものが美しくなる。
そうなったら、起こることはすべて正しく、間違いが起こることはない。
つまり、自我エゴから生まれるものはすべて間違っているということだ。
ボーディダルマが「あなたは地獄に堕ちる。
あなたが行なってきたことはうわべは崇高で、宗教的に見えるが、奥深くでは
自我が得意そうに笑みを浮かべている」
と言ったのはそのためだ。
自我から生じるものはすべてあなたを地獄へ、苦しみのなかへと連れてゆく。
自我を落とし、ものごとが起こるにまかせなさい――風が吹くと樹が揺れ動き、
太陽が昇ると鳥たちが歌いだすように。
<全体>に身をまかせきってしまいなさい。
あなたはこの生を独りだけで生きているわけではない。
神があなたを通して生きるがままにさせなさい。
そうすればすべてがよきものとなる。
神から生まれるものはすべてよい。

それが真の思念だ。 ものごとが静まり、悠然としていると、 天の活動のあらわ
れが突然動きだす。
これこそ何の意図もない動きではないだろうか?
今や個人的な目標がないのだから、あなたの人生には何の目的もない。

無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
人が生きているのは、神が人を通して生きることを望んでいるからだ。
人が行為するのは、
神が人を通して何かをしようと望むからだ。
だが、こちらへ行こうがあちらへ行こうが、それは人のあずかり知るところで
はない。
どんな役割が与えられても、あなたはそれを演じつつ゛ける。
それは神の演劇であり、脚本も監督も神がつとめている――あなたは自分の役
を可能なかぎり完璧に演じる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

520鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/04(土) 22:41:12 ID:1d4drIFg0
自分のために行った善事は慈悲の心からの行ないではないから善事とはならないのじゃ。
助かる者もいるから悪とか無意味ではないがのう。
王様は自らの支配のためにそれと同時に何人も殺したりしているから大抵地獄行きなのじゃ。
何でもお見通しなのじゃ。

521避難民のマジレスさん:2019/05/04(土) 23:03:46 ID:LC3de7YgO
>>519
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

どんな役が与えられても、あなたはそれを演じ切る。
所帯を切り盛りしているなら、所帯を切り盛りするがいい。
商売をやっているなら、商売をつつ゛けるがいい。
そういったものを変える必要はない。
ひとえに必要なのは、自分がやり手であるという考えを落とし、
ある目標に到達しなければならないという考えを落とし、
どこかにたどり着かねばならないという考えを落とすことだ。
どこであれ神が望むところ へ運ばれてゆきなさい。
風に舞う枯れ葉になりなさい―― そうすればすべてがよきものとなる。
そうすれば生は至福に満ちてくる。
もはや緊張などありえないし、不安も起こらない。
失敗のしようがない。
欲求不満を覚えることはけっしてない。
なぜなら、そもそも最初からあなたは 何も期待してはいないからだ。
これが目的のない生を生きることだ。
無為にして為すとは、まさにこれを意味する。
最も深い秘密は、いついかなるときも、欠かすことのできないものである。
これはこころを洗い、思念を清めることであり、沐浴である。
呂祖は、これを「沐浴」と呼ぶと言っている――
神があなたの上に振り注ぎ、あなたは清められ、きれいに浄化される。
神が一面にあふれかえり、あなたは跡形もなく消え失せ、無意識の片隅にすら
痕跡は残っていない。
神は至るところにみなぎり、あなたをくまなく満たしている。
神は光であり、
神があなたをくまなく満たすとき、それは「光明」と呼ばれる。
あなたは光に満ちあふれる。
それは無極に始まり、再び無極へと帰る。
今やあなたはわが家に帰り着いている。
今やあなたは生まれる前と同じように、天地がはじまる前と同じように、再び
ひとつになっている。
禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる。
本来の顔はひとつであり、無二であり、男でもなければ女でもなく、<陽>でも
なければ<陰>でもない。
誕生するやいなや、この形ある世界に生まれ落ちるやいなや、あなたは二つに
なる。
瞑想に入ってゆくと、再び深い沈黙が降りてくる。
突然、<二>が消え失せる。
あなたは再び<ひとつ>になる。
始めにあなたは両極を超えていた。
終わりにあなたは再び両極を越える。
ただその二つのあいだでのみ、あなたは分断されている。
そのはざまに世界がある。
始めに神があり、終わりに神がある。
源が目的地だ。
源に舞いもどってもいいし、目的地に消え去ってもいい。
言い方は違うが、それらは同じことを指している。

仏陀は意識を創出する無常なるものを宗教の根本的な真理として語る。
生命と人間の本性を完成させる仕事のすべてが 「虚空を生み出す」という言葉
に含まれている。
そもそも宗教というものは"虚空を生み出す"という単純な現象に帰することがで
きる。
からっぽになれば、あなたは満たされる。
いっぱいなら、あなたはうつろなままだ。
あなたが完全にいなくなれば、彼方なるものの存在が浸透してくる。
自分自身を押しとどめ、自分にこだわりつつ゛けるなら、あなたはうつろなま
まであり、ただの影、鏡像にすぎず、現実のものではない。

すべての宗教は、死から出て生に入るための 霊的な仙薬を見いだすという点で
は目的を同じくする。
完全にからっぽになるという秘法――これこそあらゆる宗教が探し求めてきた
仙薬だ。
それを飲めば不死になる。
なぜなら、死ぬ者は存在せず、あなたはすでに消え去っているからだ。
もはや死は起こりえない。
あなたはすでに死んでしまった!
自我エゴとして死んだ者は永遠の生命を得ている。
この霊的な仙薬はどこに帰するのか?
それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
自我がもはやなくなり、あなたがからっぽになり、沈黙が内側に降りてくる
とき、あなたはどのように生きるだろう?
あなたは永遠に目的をもたずに生きてゆく。
薔薇のしげみが花を咲かせるとき、そこにどんな目的があるだろう?
朝になって鳥が歌いはじめるとき、そこにどんな目的があるだろう?
太陽が昇るとき、そこにどんな目的があるだろう?
いったいこの<存在>にはどんな目的があると言うのだろう?
この<存在>はビジネスではないから目的はない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

522鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/05(日) 23:04:33 ID:1d4drIFg0
沐浴という言葉は道教では特別な意味を持っているのじゃ。
それは身を清めて神に会う準備をすることなのじゃ。
一切の観念をすて新たな身となって全てを放棄する準備なのじゃ。
その後に神も身に降りるというのじゃ。

523避難民のマジレスさん:2019/05/05(日) 23:20:33 ID:LC3de7YgO
>>521
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十三話 霊的な仙薬(つづき)

それはまったき喜びであり、遊び心に満ち、
ヒンドゥー教徒はそれを「リーラ」と呼んでいる。
それはまさに
エネルギーの喜びだ。そこに
エネルギーがあって、
エネルギーが舞い踊り、歓喜している。
エネルギーがあるとき、あなたはその
エネルギーを楽しむ。あなたは
走り、歌い、踊り、泳ぎ、遊ぶ。
エネルギーは表現に喜びを見いだす。
あなたは創造的になる――純粋な
エネルギーに駆られて、絵を描き、詩を書き、音楽をつくる。
<存在>は
エネルギーであり、
エネルギーは何の理由もなく
舞い踊ることを欲する。
踊りのための踊り、
絵のための絵、
恋のための恋……
在るために在ることを。

それはいつも無念無想の境地にあるということだ。
道教で説かれる沐浴という最も深遠な奥義は、 こころをからっぽにする修行に
つきる。
これですべてのことに片がつく。
やらなければならないことはただひとつ――
こころハートの内にもち歩いているものを
すべて吐き出し、それを投げ捨てることだ。
そうすれば為されるべき唯一の基本的なことがらをやり終えたことになる。

これですべてのことに片がつく。
とてつもなく美しい言辞だ。
これですべてのことに片がつく。
他には何もいらない。
経典はいらないし、僧侶はいらない――
これですべてのことに片がつく。
必要なのはただひとつ――
神があなたのなかを流れられるようにからっぽになりなさい。
神にその座をゆずりなさい。
神があなたを笛にできるように、中空の竹になりなさい。
神が歌うときには美がある。
神が歌うときには歓喜がある。
神が歌うときには笑いがある。
あなたが歌うときには惨めさと涙と苦悶しかない。
なぜなら、 自我エゴというのは実にちっぽけなものだからだ。
自我は歓喜を内に含むことができない、
そのなかにおさまるのは苦悶だけだ。
歓喜は無限のものだから、その 歓喜を包み込むために、あなたは 無限になら
なければならない。
大海を包み込みたければ、人は 広大無辺にならなければならない。
からっぽになることで、人は広大無辺になる。
からっぽになることで、人は広々とした空間になる。
からっぽになることで、あなたの下地は整えられる。
あなたは主人になることができる。
主人に準備ができれば、神は 客として訪れることができる。
からっぽになる ことで、あなたは主人になる。
主人になりなさい。
神はあなたの扉を叩きながら 戸口でずっと待っているのに、
あなたの耳には届かない。
あなたの内側には大へんな騒音がある
――どうして扉を叩く音が聞こえるだろう?
愚かな私事わたくしごとにすっかり夢中になっていて、
どうして無念無想の純粋な美しさを見ることができるだろう?
あなたは銀行預金をいかに増やすかで悩み、
政治の世界でいかに成功しようかと悩み、
どうやってもう少し有名になろうかと悩んでいるが、
神はあなたの扉を叩きつつ゛けている。
神はいつでもみずからを注ぎこもうとしているが、
あなたのほうに 神を受け容れる準備ができていない。
その通り、呂祖は正しい。
あらゆる宗教において最も基本的なことがらは、 虚空をあらしめることだ。
あらゆるヨーガやタントラ、あらゆる錬金術の体系―― タオ、スーフィ―、ハ
シディズム――の行法は、すべて こころをからっぽ にするという、ただこの一
事につきる。
これですべてのことに片がつく。
この美しい物語をもう一度くり返そう。
尼僧の千代能は何年にもわたり修行をしてきたが、光明を得ることができなか
った。
ある夜のこと、水を張った古い手桶を手にした彼女は、歩きながら桶の水に映
る満月を眺めていた。
突然、桶を束ねていた竹のたががはずれ、桶はばらばらになってしまった。
水はこぼれ、
月影は消え去り、そして千代能は
光明を得た。
彼女は詩を詠んだ。
 千代能がいただく桶の底抜けて
 水もたまらず月も宿らず
これですべてのことに片がつく。
(´・(ェ)・`)
(おやり)

524鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/06(月) 22:13:37 ID:1d4drIFg0
結局全ての技法も方法も自分を放棄するところに行きつくのじゃ。
光を巡らすのも陰陽を合一させるのもそのための方法に過ぎなかったのじゃ。
一切を放棄して悟りに行き着くのじゃ。
観念が無ければ自分もまたあることができないのじゃ。

525避難民のマジレスさん:2019/05/06(月) 22:34:07 ID:LC3de7YgO
>>523
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想
―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん――
を使って説き明かしてみよう。
まず空観が三つの観想の最初にくる、 いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。
すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せずに、空の只なかで自分
の仕事を行なってゆく。
だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない ――これが
中観だ。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それら
に気をとめないようにする。
このようにして三つの観想はひとつになる。
だが、とどのつまりは空を体験することで力が得られる。
それゆえに、空観を実践するときには、 空は紛れもなく空であるが、仮象も
空であり、中心も空である。
仮観を実践するには大きな力が必要である。
このとき仮象は明らかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影である。
中観の道にあるときには、やはり空の心象を生み出すのであるが、 空と呼ばず
に、中心と呼び、また仮観を実践するときにも、 それを仮観と呼ばず、中心と
呼ぶのである。
中心そのものについては、別に説明する必要はないだろう。
禅の逸話をひとつ……
禅師蜷川にながわが臨終の床についていると、
もうひとりの禅師一休が訪ねてきた。
「私が道案内をいたそうか?」と一休は尋ねた。蜷川は答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。
どんな手引きをしてくださると言うのです?」
一休は答えた。
「もし君が本当に生まれ、本当に死んでゆくと思っているなら、自分は来ては
去ってゆくと思っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく去ることもない道を教えよう」
一休がその言葉でいともあざやかに道を示してみせたので、蜷川は微笑を浮か
べ、黙ってうなずくと、静かに息を引き取った。
これは美しい物語だ。この物語について理解しなければならないことがいくつ
かある。
それは呂祖の経文に入ってゆく助けになるだろう。
まず第一に、真理を探し求めている者にとっては、死でさえも機会になるとい
うことだ。
探し求めていない者にとっては、生ですら学ぶ機会にはならない。
人々は何ひとつ学ぶことなくその生を生きてゆく。
彼らは成熟というものを知らないままその日々を過ごしてゆく。
彼らはほとんど眠っている。
人々は夢遊病者のように生きている。
彼らは酔っぱらっている――
自分が何をしているのか気つ゛いていないし、なぜそれをしているのか気つ゛
いていないし、自分はどこから来たのか、どこへ去ってゆくのかも気つ゛いて
いない。
彼らはまさに風のなすがままに運ばれてゆく流木のようだ。
彼らの生は偶発的なものだ。
この「偶発的」という言葉を覚えておきなさい。
何百万もの人々が、ただ偶発的な生を生きている。
自分の生のたずなを握り、それを偶発的なものから実存的なものに変えてゆか
ないかぎり、変容は起こりはしない。
それがまさにサニヤスというものに他ならない――
偶発的なものを実存的なものに変えようとする努力、
無意識の生を意識的な生に変えようとする努力、
目覚めようとする努力。
そうなったら生は学びのプロセスになり、死もまたそうなる。
そうなったら人は学びつつ゛ける。
そうなったら、一瞬一瞬、ひとつひとつの状況が贈り物としてやって来る。
そう、苦悩でさえも神からの贈り物になる。
だが、学び方を覚え、贈り物の受け取り方を身につけた者たちにだけだ。
ふつうはどのようにして受け取ればいいかわからず、
どのようにして吸収すればいいかわからないために、
あなたにとっては祝福でさえ贈り物にならない。
あなたは生をロボットのように生きている。
こんな話がある……
ある男が夜更けに帰宅した。彼は妻に帰宅が遅れた言い訳をした……。
ちょっと飲み過ぎていたこの気の毒な男は、腹を立てている妻に、バスを乗り
間違えてしまったんだよと言った。
妻は言った。「はいはい、よくわかったわ――あなたの姿を見ればすぐにわか
るわよ。でも、バスを乗り間違えたことにどうして気つ゛いたの?」
夫は言った。「ああ、隅っこのほうで二時間ほど立ってたら、人が次々とやって来てハンバーガーやコーヒーを注文して
ゆくんだよ。
それでやっとおかしいってことに気つ゛いたのさ」
それはバスでさえなかった!

あなたが生きている生は生ですらない、生ではありえない。
あなたのなかに光がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたのなかに愛がないのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
あなたは機械のように動いているのに、どうしてそれを「生」と呼べるだろう?
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

526鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/07(火) 22:52:48 ID:1d4drIFg0
観念の中に生きる者はそもそも何をしたらよいのかさえわからないものじゃ。
半分寝ているような状態で苦から逃避し、快楽を求めてさまようだけなのじゃ。
自分が何処から来て何者であり何処へ行くのかもわからんのじゃ。
一切の苦から永遠に解放された不死の境地があることすらわからないのじゃ。
それを知識としても理解し、実践する者は幸いなのじゃ。

527避難民のマジレスさん:2019/05/07(火) 23:14:56 ID:LC3de7YgO
>>525
54黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

意識とともにはじめて生が訪れてくる――誕生によってではなく、
意識によって。
瞑想者だけが生きはじめるようになる。
他の者たちは自分をだましているだけだ。
彼らは本当に生きてはいない。
彼らはありとあらゆることをやっているかもしれない。
彼らはやりつつ゛ける。まさに最後までやりつつ゛ける。
富を築き、権力を握り、あれこれの野心を達成する。
彼らはどこまでもつつ゛けてゆくが、それでもその 人生の合計、総計はゼロ
だ。
テキサス州のオースティンで行なわれたロデオ大会で優勝した六十歳の男に、
ニューヨークの新聞記者がインタヴューをしていた。
「あなたのお歳でロデオの チャンピオンになるなんて大したものですね」
「いいや」とカウボーイは言った。
「親父には負けるよ。親父は八六歳だけど、いまでもフットボールの球を蹴っ
てるよ」
「へぇー」と記者は口をあんぐり開けて言った。
「お父さんにお会いしたいな」
「今はだめだよ。エル・パソで、じいさんの介添えをしているからな。じいさん
は 百十四歳なんだけど、明日結婚するのさ」
「あなたの家族は本当にすごいんですねえ」 と記者は言った。
「まず六十歳のロデオ・チャンピオンのあなた、八十六歳になる フットボール
選手のお父さん、そして百十四歳で結婚したがっているお祖父さん」
「とんでもない、だんな、そうじゃないよ」とテキサス男児は言った。
「じいさんは結婚したかないんだけど、せざるをえなくなったのさ」
このようにして人生はその最後まで過ぎてゆく。
これは本当の生ではない。あなたは犠牲者にすぎない―― 無意識の本能の犠牲
になり、生物的衝動の犠牲になり、 生理現象の犠牲になり、自然の犠牲になっ
ている。
これは隷属だ。 この無意識のすべてから自由になることが解放だ。
体内の生化学の束縛から自由になること、 あなたの内にある無意識なものすべ
てから自由になること、
自分自身になること、
意識の光となること―― それが本当の生のはじまりだ。
意識を保ち、
しっかりと目を見張り、
瞑想的に生きはじめたとき、
そこから はじめて自分の歳を数えなさい。
ひとつひとつの行為が意識の香りを放つ とき、あなたはわが家に近つ゛きつ
つある。
そうでなかったら、あなたはどんどん遠ざかりつつある。
生はあなたが目覚める機会をたくさん与えてくれる。
だが、あなたは目覚めるどころか、 この好機を活かすどころか、むしろ自分
を 無意識に溺れさせるもっと効き目の強い麻薬ドラッグを探しはじめる。
苦しみがやって来たら、それは目覚めるための好機 なのに、あなたは麻薬を探
しはじめる。
その麻薬はセックスかもしれないし、酒かもしれないし、LSDかもしれない。
その麻薬は金かもしれないし、政治権力かもしれない。
どんなものでも麻薬になる。
あなたを無意識にさせておくものはすべて麻薬だ。
あなたを非本質的なものごとに没頭させておくものはすべて麻薬だ。
薬を売っているのは薬局だけではない。
それはどこでも手に入れることができる。
学校や大学でも麻薬は売られている。
というのも、そこでは野心がつくりだされ、 野心は人々を無意識にさせておく
からだ。
野心は人々に影、まぼろし、夢を追わせ、走りまわらせておく。
いわゆる政治家は最大の麻薬密売人だ。
彼らは絶えずあなたのなかに権力への渇き、権力への餓え、 貪欲をつくりだ
しつつ゛け、あなたはそのとりこになってしまう。
野心を抱き、競争心を燃やすことは、 酒に溺れることと同じだ。
そしてこちらの酒のほうがよく効く。
ふつうの酒は禁じることができる。
この酒はどんなところでも――両親から、聖職者から、 政治家から、教授から
いともたやすく手に入れることができる。
社会はこの麻薬にどっぷりとつかっている。
何か追いかけるものがあると、あなたは気分がいい。
追いかけるものが何もなくなると、とたんにどうしたらよいのかわからなくな
る。
あなたはただちに何か新しく没頭できるものをつくりだす。
いつの時代にも覚者たちが観察してきたのは、 苦しみがやって来たときには
、 それは時がきたという、 「目覚めなさい」という 神からの示唆だというこ
とだ。
だが、あなたはその苦しみを麻薬で紛らわせてしまう。
あなたの妻が死ぬ――あなたは 深酒をあおりはじめたり、賭け事に手をだす
ようになる。
それはこの生が永遠につつ゛くものではない ということに気つ゛く絶好の機会
だった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

528鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/08(水) 23:00:50 ID:1d4drIFg0
この世において真の幸福への道を求める者は少ないものじゃ。
金や権力や名声を求めることだけで人生を終えてしまうのじゃ。
それは動物や虫と変わりない愚かな生き方なのじゃ。
苦痛から逃れて快楽を探しているだけであるからのう。
永遠に苦から逃れる方法があることさえも知ろうとしないのじゃ。

529避難民のマジレスさん:2019/05/08(水) 23:52:29 ID:LC3de7YgO
>>527
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん1

この家は砂上の楼閣であり、 この生は紙でできた船であり、いつ沈んでもお
かしくない。
気まぐれな風がひと吹きすれば、生は終わりをつげる。
目覚めなさい!
妻は死んでしまった。あなたも 同じ列に並んでいるのだから、いずれは死を
迎える。
そして その列は「死」と呼ばれる窓にどんどん近くなってゆく。
だが、 あなたは目を覚まさない。
あなたは別の妻を探しはじめる。
破産しても、 あなたは目を覚まさない。
敗北を喫しても、 あなたは目を覚まさない。
あなたは前よりも激しく、 なおさらやっきになって探しはじめる。
ある婦人が七人の医者を抱えた付属病院に行った。
彼女はある医者の部屋に入り、 二十分後に悲鳴をあげながら待合室へ駆けおり
てきた。
彼女からことの顛末てんまつ を聞いた別の医者が最初の医者を呼んでこう言っ
た。
「あの患者になぜ妊娠している なんて言ったんだ?彼女は妊娠なんかしちゃい
ない。死にそうなほどおびえていたぞ」
「わかってるさ」と最初の医者が言った
「でも、彼女のしゃっくりは治っただろう?」
耳を澄ませば、目を凝らせば、 人生に起きた苦しみはすべて 祝福が姿を変え
たものだ ということがわかるだろう。
それは あなたのしゃっくりを治してくれる。
それはショックかもしれない……が、 あなたにはショックが必要だ!
なぜなら、あなたは自分のまわりにたくさんの 緩衝器を張りめぐらせているか
らだ、自分のまわりにたくさんの ショック吸収装置を育てあげてきているから
だ。
それを壊さなければならない。
それが壊されないかぎり、あなたは 夢を見ながら生きてゆくことになる。
そしていいかね、 夢のなかでは 夢は現実のように見える。
あなたはそのことをよく知っている――あなたは毎晩 夢を見るが、夢のなかで
は夢は実に生々しく見える。
それにあなたは自分の 夢を支える理屈や論理をいつでも見いだすことができる。
たとえ 夢が破れても、まったく何の実体もないその 夢を支えるための理屈を見
いだすことができる。
聞いた話だが…… ある朝のこと、男はひどく驚いた様子で目を覚ました。
彼は妻を起こしてこう言った。
「ねえおまえ、昨夜は、恐ろしい夢を見てしまったよ。十キロもあるマシュマ
ロを 食べてる夢なんだけど、おまけに、自分の枕がどうしても見つからなくて
さ」
目を覚ましているときでさえ、あなたは 何か理由つ゛けを見つけるだろう。
まわりを見渡せば、いつでも必ず 理由つ゛けを見いだすことができる。
あなたの頭マインドは実にずる賢い。
頭はたくさんのゲームを演じ、 たくさんのトリックを仕掛けてくるが、 それ
はひじょうに筋が通っているように見えるし、 大きな説得力があるようにも見
える。
あるフランス人が帰宅すると、息子が祖母と一緒にベッドに入っているので 仰
天した……。
――こんなことはフランスでしか起こらない!―― 「おい、おまえ」と彼は言
った。
「どうしてこんなまねができるんだ?」
「だって」と息子は言った。
「父さんは僕の母さんと寝てるじゃない。 だから僕は父さんのママと寝てるの
さ。ちっともおかしくないよ」
あなたは何でも理屈をつけることができる――馬鹿げたことでさえだ。
油断せずに目を覚ましていなさい。
あなたの頭マインドは必ず夢のほうの肩をもつ。
あなたの頭は夢見のプロセスの源泉だ。
それゆえに、 あなたの頭にはそれらの夢を支えるつとめ、義務がある。
意識をしっかり とぎ澄ましていなければ、あなたは 何度も何度も自分の頭に
だまされ、弄ばれ、罠にかけれられて、これまで 何度も出くわした、何度も悔
やみ、何度も決意し、そして 「もう二度とごめんだ!」と誓った同じ愚かさに
陥ることになる。
だが、頭は巧妙な誘いの手口でやってくる。
頭マインドは最も優秀なセールスマンだ。
頭は誘い方がとてもうまい。
頭はいつもあなたの無意識の欲望を助けているために、肉体もまた 頭に協力す
る。
目覚めようとする努力は並大抵のものではない。
それは人が生において遭遇しうる最大の挑戦であり、 真の人間、勇敢な人間だ
けがそれに向き合うことができる。
目覚めるという挑戦を受け容れるには度量がいる。
それはありうる最大の冒険だ。
月へ行くほうがやさしい。
エベレストへ行くほうがやさしい。
太平洋の底へ行くほうがやさしい。
みずからの自己のなかへはいってゆくとき、本当の問題が生じてくる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

530鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/09(木) 23:44:07 ID:1d4drIFg0
人の真の幸福は心の中を探すより他はないものじゃ。
しかし、人が恐れるのも心の中を観ることなのじゃ。
心には苦があり、孤独があり、隠してきた醜さが在るのじゃ。
それらから眼を背けていた生き方から改心して心を観るようになるのは強い決意が必要なのじゃ。

531避難民のマジレスさん:2019/05/10(金) 02:18:35 ID:LC3de7YgO
>>529
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

そうなると 過去全体がそれに抵抗する。
過去全体が山のようにあなたの上にのしかかり、あなたを押し戻し、 あなたが
大空へ――無限なるもの、永遠なるもの、神、 にゃはんニルヴァーナへと翔け
昇るのを許さない。

これはすばらしい寓話だ。
ひとりの師がこの世を去ろうとし、 もうひとりの師が別れを告げにやって来る。
だが、なんという別れの告げ方だろう!
死という機会が使われる。
そう、ごくごく意識的な人々だけが 死によって開かれる機会を使うことがで
きる。
無意識に見られる死は敵であり、 意識的に見られる死は最大の友達だ。
無意識に見られる死は、 あなたのすべての夢を、 あなたのすべての生活様式
を、 あなたが築きあげてきたすべての世界を、 あなたが元手をかけてきたあら
ゆるものをこなごなに打ち砕いてしまう ――すべてが崩れ落ちる。
だが、意識的に見られた死は 新たなる生の始まり、 神に到る扉になる。
蜷川にながわが息を引き取ろうとしていたとき、 一休は尋ねた。
「私が道案内をいたそうか?」
彼は、死は始まりであって終わりではないと言っている。
「私の手引きはいらないかね?私の助けはいらないかね?あなたは 新しい存在
のありようを学ぶことになる。
新しい光景が開かれてくる。
あなたは 新しい次元、新しい地平に入ってゆこうとしている ――私の手引きは
いらないかね?私の助けはいらないかね?」
蜷川は答えた。
「私はこの世に 独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです?」
その通り、私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
そしてこの二つの独りあることのあいだに、私たちは ともにあること、関係性
、愛、家族、友人、仲間、国家、教会、組織など すべての夢をつくりあげる。
私たちは独りで来て、独りで去ってゆく。
<独りあること>が私たちの究極の本性だ。
だが、その二つのはざまで、私たちは どれだけ多くの夢を見ることだろう!
人は夫や妻に、父や母になる。
人は金、権力、威信、社会的地位をかき集めるが、 空手で生まれ、空手で死ん
でゆくことをよく知っている。
この世のものをもってゆくことはできない―― それでも人は集めつつ゛け、そ
れでも人はしがみつき、執着心をますますつのらせ、 いずれ去らねばならない
この現世にもっともっと深く根をおろそう
とする。
この世界を旅籠はたごとして使うのはいいが、そこに家を建ててはいけない。
それを使うのはいい、だが、 それに使われてはいけない。
ものを所有してもしかたがない。
何かを所有しはじめたとたんに、人は それに所有されてしまうからだ。
所有すればするほど、いっそう 所有されてしまう。
使うがいい!
だが、 死がやって来つつあることを、 死がいつも途上にあることを心にとめ
て、 それを忘れてはいけない。
いつなんどき死が扉を叩き、 何もかもそのままにして 立ち去らねばならない
かもしれない。
いつもあなたは中途半端 のままで立ち去らねばならない。
人は生で何ごとも完結させることはできない。
蜷川は抜かりなく答えた。
「私はこの世に独り来て、独り去ってゆくのです。 どんな手引きができると言
うのです? 死を前にしてどうやって私を助けることができるでしょう?
生きているあいだは助け合うという幻想を抱くこともできますが、 死を前にし
てどうやって?」
彼は深遠な真理を語っているが、真理はまだまだ奥が深い。
一休はさらに高い真理をもって答えている。
これを覚えておきなさい―― 真理と虚偽のあいだに葛藤があるのではない。
真の葛藤は より低い真実とより高い真実のあいだにある。
虚偽はどこまでも虚偽だ。
虚偽に何ができるだろう?
真理をどう損なうことができるだろう?
虚偽と真実を選び分けるという問題ではけっしてない。
問題はつねに 低い真実と 高い真実の はざまにある。
蜷川が言ったことは確かにすばらしい真理だ―― 私たちは独り来て、独り去っ
てゆく。
だが、それよりもまだ高い真理がある。
一休は答えた。
「本当に来ては去ってゆく のだと思っているなら、それは君のまぼろしだ」
誰が来て、 誰が去ってゆくのか?
すべてはあるがままにある。
来ては去ってゆくというのもまた夢だ。
例えば、夜になって、 眠りにつくと、夢がはじまる。
朝になると、夢は消える。
自分はどこかに行って、 そこから帰ってきた と思うだろうか?
ふと気つ゛くと、いつもの部屋のいつものベッドの上にいる。
それはすべて夢だった!
あなたは遠くの場所まで旅をしていたかもしれない―― 月や惑星や恒星を訪れ
ていたかもしれない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

532鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/10(金) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
来た如しと書いて如来というのじゃ。
この世に来た事も無く、去ったことも無いのが悟りを得た存在なのじゃ。
観念による謬見が無い故に、来る者も去る者もいないと知れるのじゃ。
ただ意識として常に在り続けるだけなのじゃ。

533避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 04:39:11 ID:LC3de7YgO
>>531
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

だが、朝になって目を覚ますとき、あなたは 星の上で目覚めるわけではない

眠りについたその同じ場所で目を覚ます。
人生は夢だ!
私たちは今いる場所にいる。
私たちは今あるがままにある。
私たちは一瞬も動いていないし、 みずからの本性から微動だにしていない!
これこそ真理の究極の表現だ。
そう、蜷川は重要なことを、とても意義深いことを言っていた――
「私たちは独り来て、独り去ってゆく」―― だが一休は、それよりもさらに深
遠なことを言っている。
彼は言う。
「何が去り、何がやって来ると言うのかね? あなたはくだらぬことを言って
いる! 誰が生まれ、誰が死んでゆくと言うのかね?」
波が立ち、再び 海のなかに消えてゆく。
海の波は波立つ前と同じように 海であることに変わりはない。
それはまた消えて 海にもどってゆく。
形は現れては消えてゆくが、 実在は今あるがままの姿でありつつ゛ける。
変化はすべて見せかけにすぎない。
深いところに、最も奥深いところにある 中核では、何もけっして変化しない。
そこではすべてまったく同じままだ。
時間は周辺で起こる現象だ。
中心には時間もなく、変化もなく、動きもない。
そこではすべてのものが永遠だ。
蜷川が息を引き取る寸前のこの対話の 要点を見てみなさい。
これは死を前にして論じるようなことがらではない。
人々は死が迫ると、相手を助け、慰めようとする。
「まだ死にはしないよ。死ぬなんて誰が言ったんだい?君はもっと長生きする
よ」
容体を知っているときでさえ――医者が「できるかぎりの手はつくしましたが
、もうこれ以上はどうすることもできません」と言っているのに――それでも
家族の者たちは、あなたは死なないというふりをしつつ゛ける。
家族の者たちは夢がもう少しつつ゛くように、手を貸そうとする。
家族の者たちは奇蹟が起こって生命が救われることを願ってやまない。
この対話はこのうえもなく美しい。
誰かが死を迎えつつあるなら、 死がやって来たことを気つ゛かせてやったほ
うがいい。
実際、死が今日訪れようと訪れまいと、 すべての人に気つ゛きをうながす方
がいい。
死が訪れるのが明日であろうと明後日であろうと違いはない。
それはいずれは訪れる。
ひとつ確かなのは、 死は必ずやって来るということだ。
生において唯一確実なもの――それは死だ。
だから、最初から死について語るほうがいい。
いにしえの文化では、子どもたちはみな 死を自覚させられたものだ。
あなたのまさに基盤は 死の自覚の上に築かれるべきだ。
死を自覚している人間は必ず 生を自覚するようになるが、 死を自覚していな
い人間は生に対しても無自覚でありつつ゛ける ――なぜなら、生と死は同じコ
インの裏表だからだ。
一休は言った。「もしもそう思うなら……」 だが、いいかね。彼は 「もしも」
という言葉を使っている。
なぜなら、一休は知っているからだ。
彼はこの男、蜷川を知っている。
一休はどこまでも見通すことができる。
この男には一点の曇りもない。
一休は蜷川が行き着いていることを知っている。
おそらく彼は一休を挑発して、何か 美しいことを、真理に触れるようなこと
を言わせようとしているだけなのだ。
おそらく彼の発言は仕掛けにすぎず、 ゲームをして遊んでいる。
だから一休は言う―― 「 も し も 君が、自分は本当に来ては去ってゆく と思
っているなら、それはまぼろしだ。
来ることもなく、去ることもない道を教えよう」
来ることもなく去ることもない道とは何だろう?
そう、あなたの内側にはある場所がある。
そこはあなたの永遠の故郷であり、 そこでは何ひとつ起こらず、 そこでは何
ひとつ変わらない―― 誕生もなく、 死もなく、 来ることもなく、 去ること
もなく、 生じることもなく、 滅することもない。
すべてのものがいつも同じだ。
一休がその言葉で あざやかに道を示してみせたので、 蜷川は微笑を浮かべて
うなずくと、 静かに息を引き取った。
それにまさる表現はありえない―― 蜷川がひと言も発しなかったのはそのた
めだ。
だが、彼は微笑んだ……。
語りえぬものを微笑みで表し、 語りえぬものをうなずくことで表し、 語りえ
ぬものを指し示すことはできる。
彼はそれを表情で示した。
彼は認め、うなずくことで、一休に言った。
「よろしい、非の打ちどころがない。 あなたもまた故郷に帰り着いている」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

534鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/11(土) 23:38:25 ID:1d4drIFg0
蜷川も一休の言葉で死の寸前に悟ったのじゃろう。
どこかから来るでもなく、去って行くのでもない意識に戻れたのじゃ。
それに気付けば笑って死ねるのじゃ。
身体がなくなっても永遠に消えることの無い意識に還るだけであるからのう。

535避難民のマジレスさん:2019/05/11(土) 23:50:14 ID:LC3de7YgO
>>534
OSHOは、蜷川も悟っており、その事を一休は見通してたと解釈しているようでありますね。
いずれにしても、確かに美しいお話しであります。
(´・(ェ)・`)つ

536避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 00:04:33 ID:LC3de7YgO
>>533
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

二人の師が言葉を交わすことはきわめてまれだ。
というのも、二人の師が出会うとき、ふつうは ともに言葉を発することがない
からだ。
言うべきことは何もない。
だが、二人の師が言葉を交わすとき、 そこには必ず大いなる遊びがある。
そこには遊び心がある。
いいかね、それは議論ではなく、対話だ。 彼らはもっとうまい表現を引き出そ
うと互いを挑発している。
一休はそれを語った。
蜷川は満足した、 心から満足した。
一休は何を言ったのだろう?
――私たちが思い描く生は生ではない、
まだ私たちはそのありのままの姿を 一度も見たことがない、ということだ。
私たちはあまりにも幻想に心を奪われて、 最後の最後まで幻想のとりこになっ
てゆく。
聞いた話だが…… 夫を亡くした義理の母のことで心を痛めている男がいた。
その八十二歳になる 未亡人は深い悲しみにくれていた。
ある夜のこと、彼女を家から連れだすために、 彼は八十五歳の男性とのデート
を仕組んだ。
その夜更けに、デートを追えて帰宅した 彼女はすっかり頭にきていた。
「どうしたんですか?」と男は尋ねた。
「私を何だと思ってるの?」と彼女は息巻いた。
「あんな男、顔を三回 ひっぱたいてやったわよ」
「てことは……」と男は言った。
「迫られたんですか?」
「ちがうわよ!」と彼女は答えた。「あんな男、死んでるも同然だわ!」
だが、そんな歳になっても人々はデートをしつつ゛ける。
もし本当に幽霊というものがいるならば、 彼らはあなたがたがしているのと同
じことを、 まったく同じことをしているにちがいない。
そして、それは死後の生までつつ゛いてゆく。
ある恋人たちの話を聞いたことがある…… この深く愛し合っている二人のカッ
プルは心霊主義者だった。
彼らは クリスチャン・サイエンスを信じていた。
ある日のこと、彼らは死やそれに 類する深遠なテーマについて話し合っていた
が、どちらか先に死んだ方が死後 三十日経った時点で必ず相手に連絡を取るよ
うにし、相手も心を開き受容的に なって三十日後の特定の時間にそなえること
にしようと約束した。
しばらくして男が交通事故で死亡した。
女性は熱心に待っていた。
三十日が過ぎ、 ちょうど約束の時間がやって来た。
彼女はドアを締め、明かりを消すと、半信半疑 で尋ねた――「ジョン、あなた
そこにいるの?」
だが、信じられないことにジョン の声が聞こえてきた。
ジョンは言った。「やあ、君、僕はここにいるよ」
彼女はいった 。「あなた元気にしてる?そこで幸せに暮らしてる?」
すると彼は言った。 「僕はとっても幸せだよ。この雌牛をごらんよ――なんて
すてきなんだろう?」
「雌牛ですって?」と彼女は言った。
「頭が変になってしまったの!?私は天国のことをもっと聞きたくてたまらな
いのに、あなたったらばかな雌牛の話ばかりして!」
すると彼は言った。「天国だって?君は何を言ってるんだ。僕はプーナの コレ
ガオンパークの雄牛になっちまったんだよ!」
それがつつ゛いてゆく―― その同じ愚かさが来世まで持ち越される。
意識的にならないかぎり、あなたは この輪のなかを堂々巡りしつつ゛け、 こ
の輪はまわりつつ゛けてゆく。
それは実に退屈であり、 それをつつ゛けてゆくのはまったく馬鹿げている。
だが、 気つ゛くためには大いなる努力が必要になる。
気つ゛くためにはみずからの眠り、みずからの 無意識な状態との長い格闘に入
ってゆかねばならない。
その闘いは困難で骨が折れるし、しかもその道は上り坂だ。

さあ、経文だ……これらの経文は、 目覚めるための計り知れない 助けとなっ
てくれるだろう。
呂祖師は言った。
まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
師の慈しみは限りない。
彼はあなたがたの眠りが深い
ことをよく知っているので、
何度もくり返し要点を明確にする。
最初は聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
二度目も聞き逃したかもしれないので、
師はもう一度くり返す。
仏陀は光明を得たあと四十二年間を生きたが、
朝も夕も、昼も夜も、四十二年間、同じことを言っていた。
絶えず同じことをくり返し言っていた。
なぜなら、あなたがいつそれを理解するか誰にもわからないからだ。
いつあなたが受容的になるか誰にもわからない。
いつあなたのハートに小さな窓が開いて、
客が入って来ることができるようになり、
一条の光があなたを貫くか誰にもわからない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

537鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/12(日) 23:06:29 ID:1d4drIFg0
>>535 そのようじゃ。
 一人来て一人去っていくとは悟っていれば言えないことであるがのう。
 まだ自分があるのじゃ。
 それもまた一休の言葉を引き出す演出と解釈したのじゃな。
 大乗仏典ではよくある演出なのじゃ。

538避難民のマジレスさん:2019/05/12(日) 23:24:06 ID:LC3de7YgO
>>536
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)


二十四時間、あなたはいつも同じままでいるわけではない。
ときにはひじょうに頑なになって、入り込むのがとてもむずかしいこともある。
ときには耳がすっかり遠くなって、声が耳に届いていても、聞こえないかもし
れない。
だが、 ときにはもう少しこころを開いて、 もっと感じやすくなり、 もっと
愛情深くなり、 もっとしっかり聴くことができ、 あまり理屈っぽくなくなって
いるときもある。
柔和で、女性的になっているときもあれば、 強情で、男性的になっているとき
もある。
それは周期的に変わってゆく。
それを見守ったら、じきにあなたは 理解力が高まる瞬間や、 理解力が低下す
る瞬間が あることに気つ゛くようになる。
あなたは二十四時間、同じままでいるわけではない。
あなたは絶えず変化し、流動している。
師が話しつつ゛けなければならないのはそのためだ。
いつがあなたにとってふさわしい 瞬間なのかは誰にもわからないから、 師は
どこまでもくり返してゆく。
正しい瞬間がやって来れば、 必ず変容が起こる。
一瞬でもハートを射ることができれば、 あなたはそれからはまったくの別人
になる。
もう二度と同じ人間にはもどらない。
 呂祖は話しつつ゛ける……  私たちは、次第にこの美しい書物『黄金の華
の秘密』の終わりに近つ゛いてきている。
 彼はまたしてもくり返す――まだはっきりつかめないなら……  彼はあらゆ
ることがらをはっきりとさせたが…… まだはっきりつかめないなら、仏教徒の
三つの観想―― 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん―― を使って説き
明かしてみよう。
明晰さとは何だろう?
明晰さとは雑念がない心の状態をいう。
雑念は空に浮かぶ雲のようだ。
空が雲でいっぱいになっていたら、太陽を見ることはできない。
あなたの空に、あなたの内なる大空に、あなたの意識に雲がかかっていないと
き、明晰さが生まれる。
いいかね、明晰さとは頭が切れることではない。
頭が切れる者たちは、明晰な人々ではない。
頭の回転を早くさせることは簡単だ。
頭が切れるというのは、抜け目なく立ちまわるということに他ならず、ずる賢
さをましな言葉で言い換えただけのことだ。
頭が切れる者たちはずる賢い人々ではあっても、明晰な人々ではない。
いいかね、理知的であることは聡明であるということではない。
理知的であることはやさしい。
情報を集めればいいし、知識を習得すればいい、そうすれば、すばらしい知識
人、学者、パンディットになることができる――だが、そんなものは明晰さで
はないし、そんなものは聡明さではない。
聡明さというのはそれとはまったく逆のものだ。
頭のなかを知識がうごめいていないとき、内なる空に一片の雲もよぎっていな
いとき、何の計算もなく、何の狡猾さもなく、何のずる賢さもないとき、まっ
たく何も考えず、ただあるものをすべて映しだす鏡のようになっているとき――
それが明晰さだ。
明晰さとは鏡のような質をいう。
そして明晰になることが神に直面することだ。
神を知識で知ることはできない、神は明晰さによって知られる。
神は利口な頭や、小賢しい知恵によって知られるのではなく、天真爛漫なここ
ろによって知られる。
天真爛漫であることが明晰さだ。
イエスが「幼子のようにならないかぎり、私の王国に入ることはできない」
と言うのはそのためだ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はただこう言おうとしている――その内なる空がまだ雲に覆われていない、その鏡がまだほこりで汚れていない、その
知覚が一点の曇りもなく澄みきっている幼い子どものように清らかにならない
かぎり……。
彼はものをあるがままに見ることができる。
彼はそれをゆがめないし、ゆがめることで利を得ようとはしない。
彼は投影せずに、どんな状況もすべてありのままに見る。
彼は受動的な鏡になっている――それが明晰さだ。
(p509)

まだはっきりつかめないなら、仏教徒の三つの観想―― 空観くうがん、仮観け
かん、中観ちゅうがん―― を使って説き明かしてみよう。
この仏教徒の三つの観想は、最も優れた瞑想の方便のひとつだ。
いいかね、それは方便であって、哲学ではない。
それを哲学ととらえてしまうと、要点を丸ごと見逃すことになる。
それは起こった。
何世紀にもわたって、仏教哲学に関する様々な大論文が書かれてきたが、それ
は愚にもつかないたわごとだ。
なぜなら、仏陀は哲学者ではないからだ。
彼はいかなる哲学も教えなかった。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

539鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/13(月) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
明晰とは気付いていることということもできるじゃろう。
知識とは記憶であり、記憶に頼れば今ここにあるものごとにも気付かないのじゃ。
常に注意深く心の働きに気付いているようにすれば観察も容易になるのじゃ。
自分を認識する微妙な心の働きにも気付くようになるのじゃ。

540避難民のマジレスさん:2019/05/14(火) 03:12:23 ID:LC3de7YgO
>>538

黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

実際、彼は反哲学的な姿勢を強く取った。
仏陀が町を訪れるときは、必ず弟子たちが先に町に行って、「哲学的な質問を
仏陀にしないでください」と触れてまわるのが慣例になっていた。
仏陀は十一の質問のリストを用意していた。
その十一の質問のなかにすべての哲学が含まれていた――神について、天地創
造について、輪廻転生について、死後の生について等々。
この十一の質問のなかには、ありうるすべての哲学が含まれていた。
その十一の質問のリストを見れば、どんな質問もできなくなる。
そのリストが町中に伝えられた。
「仏陀は哲学者ではありません。形而上学者ではありません。思想家ではあり
ません!だから、こういった質問は仏陀にしないでください。彼は哲学者では
なく、医者としてここに来たのです。目が見えなければ、薬を調合しますし、
耳が聞こえなければ、手術をします」
仏陀は「私は医者だ」と何度もくり返し言っていたが、 彼の名のもとに壮大な
哲学が生まれ、 彼が方便として用いた言葉が 哲学的な教義になってしまった。
例えば、空くう――"すべては空である"―― これが根本的な原理であると主張
する仏教の教派がいくつかある。
それは方便にすぎない。
それは客観的事物については何も言っておらず、 人間の心マインドについてあ
ることを言っているだけだ。
それはあなたが明晰になるのを助ける、 ただそれだけのことだ。
仏陀の関心は客観的な事物ではなく、 あなたの明晰さにある。
彼は「明晰であれば、存在の実相がわかる」と言う。
だとしたら、客観的な事物 について語ってみてもしかたがない。
まったく何の益にもならない。
それは光や色や虹や花のことを 盲人に語ってみるようなものだ。
それはまったく馬鹿げている。
盲人に昇る太陽のことは伝えられない。
盲人に銀色に輝く月の光のことは伝えられない。
盲人に樹々の緑のことは伝えられない。
盲人にとって「緑」は何の意味もなさないからだ。
言葉は聞こえてくる―― あなたが「神」という言葉を耳にするのと同じよう
に、 盲人は「緑」という言葉を耳にする。
あなたは理解しないし、盲人も理解しない。
その言葉を何度も何度も何度も聞いているからといって、 自分は神が何である
かを理解しているなどといった馬鹿な考えを抱いてはいけない。
神を理解するためには 神を目で見なければならない。
それ以外に方法はない。
緑を理解するためには目で 緑を見なければならない。
それ以外に方法はない。
ラーマクリシュナはよく語っていた…… ある盲目の男が友人に招かれた。
彼らはキル――おいしい乳製品―― を用意した。
盲人はキルが大好きだったので、「これはいったい どんなものですか、どんな
見てくれをしているのですか?」と尋ねた。
盲人の隣に哲学の大家が坐っていたが、哲学者のつねとして、 教えたり、理屈
をこねたりする機会を逃すはずがない。
彼はただちに 盲人に、キルが何でできていて、どんなふうに見えるか話しはじ
めた。
彼が「それは真っ白だ」と言うと、盲人は尋ねた。
「待ってください!私には何のことだかさっぱりわかりません。"真っ白" とい
うのはどういうものですか?すみませんが、それを説明してはくれませんか?」
哲学者にはありがちなことだが、彼は相手が盲人であることに気つ゛かないま
ま、 "真っ白"がどういうものであるか説明しはじめた。
彼は言った。「白鳥や白鷺しらさぎ を見たことがあるかね。そう、キルは真っ
白な白鷺や、白鳥や、白い花にそっくりだ」
「鷺さぎですって?」と気の毒な盲人は言った。「ますますわけがわからなく
なってきましたよ。
私には白が何なのかわからないのに、またややこしくなってきた。
その鷺というのは何ですか?私は一度も見たことがないのです」
まだ相手の目が見えないことに気つ゛いていないので、 哲学者の言うことはす
べて的はずれなものになってしまった。 彼は白鷺がどういうものかを説明しは
じめた。彼はここでひとつ工夫をこらし、 盲人に手を差しだして、それに触る
ように勧め、こう言った。
「いいかい、鷺の首は、この曲げた私の手のようになっているんだよ」
すると盲人は楽しそうに笑い、大喜びをした。彼は心の底から感謝して 哲学者
に言った。
「これでキルが何だかわかりましたよ―― 曲げた手のようなものなんですね。
わかりました。どうもありがとう」
哲学者はここで自分が何をしでかしたのかに気つ゛いた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

541鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/14(火) 22:56:11 ID:1d4drIFg0
全てが空であるとは法則ではないのじゃ。
客観的な事実でもないのじゃ。
ただ修行のための観念なのじゃ。
他の一切の観念を捨てるための、観念を滅するための観念なのじゃ。

542避難民のマジレスさん:2019/05/15(水) 03:18:48 ID:LC3de7YgO
>>540
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

白さを盲人に説明することはできない。
そのすべはまったくない。
だが、彼を助けることはできるし、彼の目を治療することはできる。
彼を眼科医のモディ先生のもとに送ればいい――彼はときどきここへやって来
る。
盲人には手術が必要だ。
目が見えるようになれば、説明はいらなくなる。
白がどういうものか、緑がどういうものか自分でわかるようになる ――神もそ
うだし、天地万物もそうだ。
だから、いいかね、まず第一に、これら ――空観、仮観、中観――は方便に
すぎない。
彼はただ「これは方便のひとつだ」と言っているだけだ。
物語をもうひとつ……これではっきりしてくるだろう。
ある男が街から帰ってきたが、ふと見ると、家が火事になっていた。
子どもたち、幼い子どもたちは家のなかで遊んでいる。
怖くてなかに入れない ので、彼は外から大声でどなった。
彼は大きな声で「みんな出ておいで!火事だぞ」 と叫ぶ。
だが、子どもたちは遊びに夢中になっていて耳を貸そうとしない。
そこで男は方便を思いつき、大声で 「聞こえるかい?おまえたちに街でたく
さんおもちゃを買ってきたぞ!」と叫ぶ。
すると子どもたちは全員駆けだしてきた。
男はおもちゃを買ってきてはいなかったが、 子どもたちは「街へ行くのだった
ら、おもちゃを買ってきてね」と頼んだのだった。
外に出て、おもちゃがないのを知って、子どもたちは「おもちゃはどこにある
の?」と尋ねた。
男は笑いだして言った。「おまえたちを火に包まれた家から連れだすために嘘
をついたんだよ。おもちゃは明日、買ってきてあげるよ」
これが方便だ。
いいかね、 方便は真実でもないし虚偽でもない。
方便は役に立つか役に立たないかであって、 真実か虚偽かというものではけっ
してない。
「真偽」という言葉は方便には当てはまらない。
ここで行なわれている瞑想はすべて 方便であって、真実でもなければ、虚偽
でもない。
それらは役に立つか役に立たないか、 必ずそのどちらかであり、真偽がとり
ざたされる余地はない。
火事になっている家から出てこられるように、 私はあなたがたにおもちゃを与
えている。
外に出たら、あなたがたにもわかる。
あの子どもたちでさえ理解した。
家が燃えているのを見たとたんに、彼らは おもちゃのことはすっかり忘れてし
まい、 父親の愛情を理解した。
彼はこの子どもたちをこころから愛していた にちがいない。
だからこそ嘘をつくこともできた。
それは嘘だった。
あなたがたは驚くだろうが、 いつの時代にも禅師たちは言ってきた ――仏陀
は大嘘つきだ、と。
だが、仏陀の慈悲は 嘘をつけるほどに 深いものだった。
彼は方便を編み出した。
観想の対象となる三つのもの ――空と仮象と中心――これは方便だ。
"空"とは、外界にあるこのいっさいの世界、 客観的な世界は完全にからっぽで
あるということだ。
それを空であると見なしなさい。
「それは空だ」と観想すれば、驚くようなことが起こる。
「世界はいっさい空である」と見なしはじめると、 即座に多くのことがひとり
でに変わりはじめる。
あなたは貪欲でなくなる―― 事物が空であるなら貪欲になってもしかたがな
い。
あなたは野心的でなくなる―― 事物が空であるなら野心を抱いてもしかたが
ない。
大統領の椅子がまったくうつろなものである ことがわかれば、誰も興味をもた
なくなる。
あなたがそれに実体を与え過ぎ、必要以上に 現実に仕立てあげているために
、 野心が芽生えてくる。
お金がうつろなものである ことがわかれば、誰が気にかけるだろう?
それを使うのはいいが、金のことで 頭を悩ませる必要はない。
あなたを取り巻くこの世界はすべて空…… とめどなく姿かたちが移り変わって
ゆく夢のようなものだ と見なすようにするがいい。
グルジェフはよく弟子たちに 「通りを歩くときには、自分は 夢を見ているの
であり、傍らを通り過ぎてゆく人々は 夢の現れにすぎないし、店もすべて 夢な
のだと思い起こすがいい」 と言っていた。
そしてこれに三ヶ月間瞑想を つつ゛けると、それが起こりはじめる。
すさまじい爆発が起こる。
突然、あらゆるものがうつろになる。
店はそこにあり、人々は歩いているし、買物をしている。
確かにあなたの傍らを人々が通り過ぎてゆく。
表面的には何も変わらないが、突然、 見えるのはうつろな影だけになる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

543鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/15(水) 23:41:40 ID:1d4drIFg0
燃える家から子供達を救うために玩具を与えるという方便は法華経に記されているものじゃ。
全ての法は方便とも言えるじゃろう。
それは自らの本心をどこまでも観察する勇気と意欲がない者のための嘘であり、方法なのじゃ。
方便によって導かれて自分を見るまでに成長できる者は幸いなのじゃ。
それも仏陀の慈悲なのじゃ。

544避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 07:29:09 ID:LC3de7YgO
>>542
>>542
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

映画館に行けば、スクリーンの上にあるのは うつろな影にすぎないことはよく
わかっている のに、あなたはそのうつろな影にだまされてしまう。
映画館に坐っていると、実に様々な感情が通りすぎてゆく。
悲劇が起こると、あなたは泣きはじめる。
おそらく映画館が暗くしてあるのはそのためだ。
そうしなければ、あまりに愚かでばからしく見える。
もし誰かが――妻や友人がそばに坐っていて、あなたが 泣いているのに気つ゛
いたら、彼らは笑いだすだろう。
彼らは「どうしたんだい?あるのはからっぽのスクリーン だけで、他にはなに
もないじゃないか。映画がそこに映り、 白と黒が――あるいはカラーの映像が
――戯れているだけだよ。 みんな影さ」と言うだろう。
だが、あまりにも影に夢中になり過ぎて、 影に実体があるように見えはじめて
くる。
仏陀の方便はちょうどこの反対だ。
仏陀は言う ――これほど実体感があるように見える人々―― 彼らを夢であり、
空であると見なしなさい、と。
すると、いつの日か驚くようなことが起こる。
全世界が白いスクリーンになり、 影だけが通りすぎてゆく。
影だけが通りすぎてゆくとき、 あなたはみずからの内に大いなる 無執着が生
まれてくるのに気つ゛く。
あなたは超然として、遠く離れている。
そうなったら問題は何もない。
二つめは"仮象"だ。 あなたが「全世界は空であり、夢にすぎない」 と見なし
、瞑想し、絶えず観想していると、 第二の現象が起こりはじめる。
いいかね、それを夢と見なしても、 それだけで世界が消えてしまうわけでは
ない。
そういう錯覚に陥ってはいけない。
「世界は夢だと思いつつ゛けていれば、やがて世界は消えてしまう」 などど思
わないこと。
世界は消えはしない。
スクリーンに映る映画が影にすぎない ことはよくわかっていても、それでも
それはつつ゛いてゆく。
ただそう思うだけで、 それが消え去るわけではない。
映画館に坐って瞑想していると映画が消えてしまい、 他の者たちには見えても
自分には見えず、 ただ白いスクリーンだけがある、 などどいうことはありえな
い。
そんなことはけっしてない。
瞑想者にも映画は見えるが、 ただ見方が違う。
彼はそれが夢であることを知っている。
世界が消えるわけではない。
世界はありつつ゛けるが、それは 重要性を失い、実体をもたなくなってゆく。
それはまっすぐな棒を水のなかに入れるときのようなものだ。
水中に入ったとたんに、棒は曲がって見える。
取り出すと、もちろんどこも曲がっていない。
もう一度 水のなかに入れると、やはり曲がって見える。
そうなればそれが目の錯覚だったこと がはっきりわかる――棒は曲がって い
るように見えるだけで、曲がってはいない。
だが、いくら目の錯覚だとわかったとしても、 それで棒が曲がらずに見えるわ
けではない。
だから、まず最初、あなたは 「この世界は空である」と瞑想する。
すると、つつ゛いて第二のことがらが生じてくる―― それでも世界はありつ
つ゛けるが、 もはやそれはまぼろしだ。 もはやそれには実体がなく、 夢と同じものからできている。
最初の無意識な知覚の仕方では、 世界には堅固な実体があるように見えた
―― それはひじょうに客観的であり、 まざまざとそこにあった。
空に瞑想したあとも、 世界は依然としてそこにあるが、 もはや実体を失い
、 ただの想念マインドのゲーム にすぎないものになっている。
それは夢のようなものだ。
ヒンドゥー教徒たちが「世界は幻影マーヤだ」 と言うとき、彼らが言おうとし
ているのはそのことだ。
それは聖者の目から世界が消えてなくなるということではない。
それはたんにもうそこには価値がなくなったということだ。
それは無価値なものに、完全に無価値なものになってしまった。
そして三つめは"中心"だ。
世界がもはや実体感を失い、 客観的な世界が姿を消して、 主観的なまぼろし
になるとき、 あなたの内側に新しい体験が生まれてくる。
ここではじめて あ な た が実体をもつようになる。
通常、人は客観的な世界に みずからの実体を投影している。
それを外界から取りもどすと、 あなたが実体をもつようになる。
世界がありありとしていたら、 あなたの影はうすくなってゆく。
世界が現実感を失えば、 あなたの影が濃くなってゆく。
もう一度映画を使って説明してみよう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

545鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/16(木) 22:58:27 ID:1d4drIFg0
全てを空と観想しても全ては目の前にあり続けるじゃろう。
全て消えてしまう訳は無いのじゃ。
生きている限り食べたり飲んだりしなければならないからのう。
それらが空でありながらあり続けるように見える仮の存在として観る工夫も必要になるのじゃ。

546避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:08:04 ID:LC3de7YgO
>>545
方便としての「空」を、後世、釈迦的緻密な分析方法であ、哲学的にしてしまったのでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

547避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:08:42 ID:LC3de7YgO
>>545
方便としての「空」を、後世、釈迦的緻密な分析方法であ、哲学的にしてしまったのでありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

548避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:36:35 ID:LC3de7YgO
>>544
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

スクリーンの上を影が飛びかっているだけだ と気つ゛けば、突然、あなたは自
分がいることに気つ゛く。
その影はまやかしだが、 あなたは実在している。
影のなかに自分を見失って しまうと、あなたは現実感を失い、 自分があるこ
とをすっかり忘れてしまう。
夢のなかでは自分があることをすっかり忘れ、 夢が現実になっている。
あなたの現実は丸ごと 夢に食いつくされている。
夢は現実をすべて奪い去り、 うつろなあなただけが残される。
夢から現実を取りもどすと、 あなたがありありと存在するようになる。
あなたの内側に中心が生まれ、 あなたはひとつにまとまる。
これが「個性化」「結晶化」と呼ばれるものだ。
世界が現実のものになるか、 あなたが現実のものになるか、 そのどちらかだ
――その両方が 同時に現実のものになることはありえない。
それを覚えておきなさい。
その両方が同時に現実のもの になることはありえない。
それが風景の焦点ゲシュタルトを変えることだ。
世界から現実感を取りもどせば、 あなたがありありと存在しはじめる
――あなたは実存を達成する。
人々は二種類のタイプに大別することができる――
もつことに関心を寄せる人々と、 在ることに関心を寄せる人々に。
もつことに関心を寄せる人々は、 世界が実在することを――
もっと金をため、 もっと権力を手に入れ、 もっと名声を高め、信望を集める
ことを 信じている。
彼らは中身がからっぽの人々だ。
彼らは自分の中心を完全に失っている。
彼らは自分が誰であるのかを知らない。
真の自己は影になってしまっている。
そして別の種類の者たちは
――私は彼らを「宗教的な人々」と呼ぶ――
外界から現実を取りあげて、
それを元あった場所にもどす。
彼らは実体を獲得するようになる。
彼らは実存をもつようになる。
彼らはさらなる存在感をもつようになる。
より大きな存在感を発している人に出会うと、
人は必ずある種の磁力を感じる。
仏陀が無数の人々を引きつけたのは、
この実質をともなった存在のゆえだった。
それは目にすることができる。
政治権力を握っている者をのぞき込めば、
中身はからっぽであり、ただ藁わらだけが詰め込まれている。
金をたくさんためこみ、大したものをもっているつもりになっている者
――彼をのぞき込めば、
そこにはただ黒い穴が開いている。
貧しい男、乞食がその背後に隠れている。
実存をそなえた者は、
帝王の身なりをしていることもあるし、
乞食の身なりをしていることもある
――だが、彼はつねに帝王だ。
彼は仏陀のように托鉢をしているかもしれないし、
ジャナク王のように帝王の座についているかもしれない が、
どちらにしても違いはない。
彼は ど こ に い て も つねに帝王だ。
彼の王国は内側にあり、 彼には風格がともなっている。
彼はどうどうとしている!
あなたは存在していない。
あなたはものはもっているが、
実存をもってはいない。
そしてあなたはものを代用品として使っている。
ものをもてばもつほど、ますます 自分の存在を信じることができる。
渇望し、貪り、野望を抱くのはそのためだ。
もっともっとものを所有しようとするのは、それが 「俺はひとかどの人間なん
だ」と言って 自分をだます唯一の方法だからだ。
だが、実存をそなえている人は関心を抱かない。
もつことは彼のゲームではない。
それは彼が 世間を後にして、 世間を捨ててしまうという意味ではない。
世間を捨てるということは、その人がまだ 世間を生々しい現実であると考えて
いることに他ならない。
さもなければ、どうして捨てたりするだろう?
あなたは朝起きて、
「私は夢を捨てたんだ。王様になった夢を見ていたのに、私は王国を捨てたん
だぞ」
と大きな声で近所に触れまわったりはしない。
人々はあなたが狂ってしまったと思う だろう。
彼らは警察に通報するだろう。
彼らはあなたに精神科医のところへ行って、 心の治療を受けるようにと言うだ
ろう。
「君はおかしくなってしまったのかい? それが夢なら、いちいち捨てなくても
いいはずなのに」
仏陀が放棄したのは、 彼が夢のなかに生き、それには 堅固な実体があると考
えていたからだ。
彼は森のなかで光明を得た。
いいかね、放棄したとき、彼は無知だった。
世間を捨てる前に光明を得ていたら、 彼はけっして放棄などしなかっただろう。
捨てる意味などない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

549避難民のマジレスさん:2019/05/16(木) 23:46:54 ID:LC3de7YgO
>>544
> スクリーンの上を影が飛びかっているだけだ と気つ゛けば、突然、あなたは自
分がいることに気つ゛く。
> 夢は現実をすべて奪い去り、 うつろなあなただけが残される。
夢から現実を取りもどすと、 あなたがありありと存在するようになる。

←ここでの「あなた」、「自分」はマハラジやマハリシやパパジが言う「真我」でありますかね。
(´・(ェ)・`)つ

550鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/17(金) 23:35:14 ID:1d4drIFg0
>>546 そうじゃ、それは本来方便としての方法であり、実践のためのものなのじゃ。
 それを知らなければ空が実際のものと見まがう空見に陥るのじゃ。

>>549 そのようなものじゃ。
 認識できない認識主体なのじゃ。
 それがあるとき世界はないのじゃ。
 観念であるからのう。
 あることとして全てを観るのじゃ。

551避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 09:07:28 ID:LC3de7YgO
>>548
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん

ジャナクは王として宮殿に暮らしているとき光明を得た。
だから彼はそれをけっして捨てなかった。
そんなことをしても意味がなかった。
クリシュナは一度も放棄しなかった。
そんなことをしても意味がなかった。
影にすぎないものを どうやって捨てるというのだろう?
仏陀が放棄し、マハヴィーラが放棄したのは、 彼らがまだ光明を得ていなかっ
たからだ。
私が言おうとするのは―― 人々は無知だったからこそ 世間を放棄したのだと
いうことだ。
仏陀でさえ、無知だったときには世間を放棄した。
光明を得ると、彼は世間にもどってきた。
もどってこざるをえなかった。
深く眠りこけ、自分たちが見ている夢が現実である と錯覚している者たちが大
勢いる ことを知っていたからだ。
彼はみんなを目覚めさせねばならなかった。
中心は、 外界から現実感を取りもどした ときにはじめて現れてくる。
あなたは みずからの現実を事物に与え、 みずからの現実を事物に注ぎ込んで
いる。
それは観察することができる―― 人々は事物との抜き差しならぬ情事にはま
っている。
彼らはみずからの魂を事物に注ぎ込み、 自分の正体をすっかり見失っている。
彼らは事物のなかに埋没してしまっている。
わが家にもどってくるがいい。 現実を取りもどすのだ。
事物はあなたが 現実感を与えた分だけ 現実になるのであり、それはあなたの
投影だ。
そうでなければ、それはからっぽの、 白いスクリーンにすぎないものになり
、 重要性を失って、それに溺れることも、 それを捨てるということもなくなる

どちらも的をはずれたものになる。
まず空観が三つの観想の最初にくる。
いっさいの事物は空であると見なされる。
次に仮観が行なわれる。すべてが空であることを知りながら、 事物を破棄せず
に、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
よく聴きなさい。
なぜなら、世間で苦しみをなめている人々は、ほとんど必ず世間との交わりを
絶とうとしたり、
絶ってしまったりはじめるからだ――
まるで世間に問題があるかのように!
問題は世間にあるのではない。
問題は あ な た だ。
それにどこへ行こうと、
あなたは行く先々で問題を引き起こす。
あなたはみずからの影を投げかける。
世間を捨てることもできるが、
世間は白いスクリーンにすぎない。
が、映写機はあなたの内側にある。
どこに行っても、あなたはそこに、別の何かに自分のフィルムを投影しはじめ
る。
それは宮殿ではなく、粗末な小屋かもしれない――
だが、その小屋があなたの王国になる。
それは小屋ですらないかもしれない。
ヒマラヤをさすらっているとき、私はたくさんの人々に出会った。
あるとき私は三十年以上も洞窟で暮らしている聖者に――いわゆる聖者に出会
った。
私は二、三人の友人と一緒にいたが、その洞窟が気に入ったので、私たちはそ
の洞窟で一夜を過ごすことにした。
彼はひじょうに腹を立ててこう言った。
「どういうつもりかね?これは 私 の 洞窟だぞ!」
私は言った。
「でも、あなたは世間を放棄なさったのではありませんか?
この洞窟があなたのものだとは不思議ですね?」
彼は言った。
「とにかくこれは私のものだ。三十年も私はここで暮らしてきたんだ」
「あなたは三十回も生まれ変わり、ずっとここで暮らしてこられたかもしれま
せん。でも、放棄することの意味は何ですか?なぜあなたは妻を捨てたのです
か?なぜあなたは家を捨てたのですか?何が問題だったのですか?"私のものだ"
という考えが問題だったはずです。今やこの洞窟はあなたのものです。となる
と、その洞窟とともに問題が生じてきます。所有欲が洞窟に染みついてしまっ
ています」
どこへ行くかは問題ではない。
自分の生を変えることはそれほど簡単ではない。
あなたはみずからの知覚を、ものを見る視点ゲシュタルトを、実存そのものを
変えなければならない。

呂祖師は言った。

事物を破棄せずに、空の只なかで自分の仕事を行なってゆく。
すべては空であると知るが、人はみずからの仕事を行ないつつ゛けてゆく。
どこにも行く必要はない。
どこに行けるというのだろう?
この世界はいっさい空だ!
ヒマラヤはMGロードの店と同じくらいにからっぽだ。
そしてヒマラヤの樹々や動物はプーナの住民と同じくらい実体がない。

そのあいだには何の違いもない。
違いはあなたの中心、あなたの内なる実存に起こらねばならない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

552避難民のマジレスさん:2019/05/18(土) 09:35:36 ID:LC3de7YgO
>>551
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

だが、事物を破棄しないとしても、それらに注意を注ぐこともない……
これがその変化だ――人は打ち壊すこともなく捨て去ることもなく、しかもそ
れらに注意を注ぐこともない。
人は注意を注ぐのを控えるようになる。
注意は餌だ。
そのようにしてあなたは事物に執着するようになる。
ある女性に魅了されると、あなたは何度でもその女性を見つめたくなる。
あなたは餌をやっている。
あなたは投影をしている。
あるものが気に入ると、あなたはそれに注意を払うようになる。
注意を払うことで、あなたはそれに執着するようになる。
注意を払うことが橋になって執着が生まれる。
何も捨てる必要はない。
ただ橋を壊せばいいだけだ。
事物に注意を払うことなく世間のなかで生きなさい。
虚空のなかを動いているかのように進んでゆきなさい。

――これが中観だ。
これができたら、あなたの内側に中心が生まれる。
あたかも世間のなかにいないかのように 世間で暮らすことができたら、 世間は
ただの夢にすぎないかのように 世間で暮らすことができたら、 突然、大いなる
エネルギーが―― 散逸していたエネルギーすべてが あなたの内部で結晶化する。
あなたはありとあらゆるやり方でエネルギーを散逸させてきた。
あなたは四方八方に漏らしている。
注目することで漏らしている。
あなたがもはや漏らさなくなり、 注意力がもはや不動のものとなり、 注意が
内側に集まり、 内側で蓄積され、 内側で結晶化するとき、 中心が生まれてく
る。
空観を実践しているときには、 万物を破棄しえないことを知りながら、 それ
らに気をとめないようにする。
人はこの夢がつつ゛いてゆかねばならないものであることを知っている。
この夢はまた美しいものでもある。
そこで思い煩うことなど何ひとつない。
捨て去らなくてもいい、打ち壊さなくてもいい、それと闘わなくてもいい。
あなたは自分の影と闘ったりはしない。
あなたはそれが影であることを知っている。
それは影であると知っているから、打ち壊したいとも思わない。
どこまでも後をついてくるから、けっしてあなたのもとを去らないから、それ
のことを心配しない。
あなたはそれが影であることを知っている。
この世間が影であることを知ると……実在の影であって実在そのものではなく、
湖に映る月であって月そのものではないと知ると、人は世間の只なかにあって
さえくつろぐようになる。
世間をまったく気にもとめずに、人はみずからの務めを果たし、みずからの仕
事をし、飄々ひょうひょうとしながら暮らしつつ゛けてゆく。

このようにして三つの観想はひとつになる。
そうなったら三つの観想はもはや三つではなく、それはただひとつの観想になる。
あなたは中心に収斂してゆき、中心を自覚するようになる。
グルジェフが「自己想起」と呼び、仏陀が「サマサティ」――留意――と呼び、
マハヴィーラが「ヴィヴェック」と呼んでいたのはこのことだ。
今やあなたはリアルではないものを見抜き、現実と非現実を識別している。
今やあなたは何が影であり、何が実物であるかを見抜いている。
あなたは実物の月を見たし、水に映る月影も見た……
だが影はつつ゛いてゆく!
影はそれが影であると気つ゛いたからといって消えてゆくものではない。
それはつつ゛いてゆく。
そして問題は何もない――それは美しい!
湖のほとりに坐って、月影を眺めていればいい――
それは美しいし、何の問題も生じてこない。
だが、あなたはそれが実在しないことを知っている。

だが、とどのつまりは空を体得することで力が得られる。
だが、覚えておきなさい――統合、結晶化は、ひとえに空を体得することから
生まれてくる。
それが瞑想の出発点になる。

それゆえに、空観を実践するときには、空は紛れもなく空であるが……
さあ、あなたがたはもう少し深く入ってゆかねばならない。
いっさいが空であると知ると、問題が生まれてくる。
あなたはその空を何かしっかりとした実体があるものだと見なしはじめるかも
しれない――それが問題だ。
というのも、頭マインドはいつも言葉にとらわれてしまうからだ。
『不思議の国のアリス』というすばらしい本のなかにこんな一節がある……
アリスが王様のもとへ到着すると、王様はラブレターが届くのを今か今かと待
ちわびていた。
彼は誰を見ても「使いの者に会わなかったかね?」と尋ねてまわる。
王様はアリスにも「こちらへ向かっている使いの者に会わなかったかね?」と
尋ねる。
アリスが「誰もいませんわ」と言うと、王様は彼女が"ダレモイナイ"という名
前の誰かに会ったのだと思い込む。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

553避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 00:00:58 ID:LC3de7YgO
>>552
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

王様は言う「おまえよりも足がのろいやつじゃ、"ダレモイナイ"は。でなけり
ゃとっくに着いておるはずじゃ。わしは何度も何度も同じ知らせを聞いておる。
たくさんの者がここに着いたが、みんな口をそろえて"ダレモイナイ"と言う。
なのにまだダレモイナイは到着していない!おまえよりも足がのろいやつじゃ
、ダレモイナイは」
当然アリスは「王様は何を言ってらっしゃるのだろう?私より足がのろい人は
誰もいないですって?」と考えて、こう言い返した。
「誰もいないわ、私よりも足が速い人」アリスは気分を害していた。
すると王様は言った。
「ダレモイナイは、おまえより足が速いのか?ではなぜそいつはまだ着かんの
じゃ?」
話がこんがらがったわけに気つ゛いたアリスは、
「王様、ダレモイナイなんて人は誰もいないんです」と言った。
すると王様は言った。「もちろんじゃ。ダレモイナイはダレモイナイに決まっ
ておる。だが、そいつはどこにおるのかね?」
こうして話は延々とつつ゛いていった。
空でさえものになってしまいかねない。
仏教哲学で起こったのはそれだ。
哲学者はあたかも空が神であるかのように、空が生の本質そのものであるかの
ように、空について語りはじめる。
彼らはあたかも無が何ものかであるかのように、無のことを語りはじめる。
無は言葉にすぎない。
自然のなかにはノーは存在していない。
ノーは人間が発明したものだ。
自然のなかでは、すべてがイエスだ。
自然のなかには、肯定的なものだけが存在している。
否定的なものは人間がこしらえたものだ。
例えば、この椅子はただの椅子だ。
自然のなかでは椅子は椅子でしかない――それがありのままの姿だ―― だが、
言葉では 「これはテーブルではない、これは馬ではない、これは人間ではない」
と言うことができる。
これらの言明はすべて正しい。
椅子はテーブルではないし、馬ではないし、人間ではないからだ。
だが、これらは否定的な言語表現にすぎない。
自然のなかでは椅子はただの椅子でしかない。
自然のなかに否定的なものはなく、 ただ肯定的なものだけがある。
だが、言語のなかには否定形が存在し、その否定形ゆえに大いなる哲学が生ま
れてきた。
無そのものがひとつの事物になってしまう。
不在がある種の存在であるかのように語られる。
だから、それに注意しなさい。
あなたに注意をうながすために、呂祖師は言う。
いいかね、空は紛れもなく空であるが、仮象も空であり…… 幻影(仮象)は少
なくとも 幻影としては実在する と考えはじめてはいけない。
幻影もまた空であり、 そこには何もない。
例えば縄を蛇だと錯覚するとしよう。
見ると蛇がそこにいるが、明かりをもってくると消えてしまう。
そうなると「蛇はどこへ消えたのだろう?蛇はどこからやって来たのだろう?」
という疑問が湧いてくる。
蛇は一度も現れたこともなければ、消え去りもしなかった。
それは存在しなかったのだ。
実のところ、縄はいつも縄だった。
それはあなたの錯覚だった。
あなたが蛇をつくりだし、それを投影した。
それは妄想マインドの産物 にすぎなかった。
いいかね、空は空であり、
仮象も空であり、
中心も空である。
これが仏陀のなす最大の貢献だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

554鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/19(日) 22:56:37 ID:1d4drIFg0
空とは法であるからそれに囚われてはいかんのじゃ。
それもまた悟りを得るためには捨ててしまうしかないのじゃ。
空をもったまま悟りにはいけないのじゃ。
彼岸に至れば捨て去るべき観念を滅するためのいかだでしかないのじゃ。

555避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 23:09:45 ID:LC3de7YgO
>>553
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十四話 空観くうがん、仮観けかん、中観ちゅうがん(つづき)

ヒンドゥー教徒たちは「世界はまぼろしだ」と言う。
ジャイナ教徒たちは「世界はまぼろしであり、心マインドもまぼろしである」と言う。
仏陀は「世界はまぼろしであり、心はまぼろしであり、中心もまぼろしである」
と言う。
彼の洞察力はとてつもない。
彼は言う――
見られるものが幻影だとしたら、どうして見る者が実在しえるだろう?
これは最も深遠なにゃはんニルヴァーナの言明だ――
夢がまぼろしだとしたら、その夢を見る者も幻影であり、踊りがまぼろしだと
したら、その踊り手もまた幻影だ。
彼は何を言おうとしているのだろう?
彼はこう言おうとしている――
まず世間を捨て、それから心マインドが紡ぎだす幻想を捨て、さらに中心とい
う、自己という考えも捨てなさい、と。
そうしなければ自我エゴが生き残る。
新しい名前で、巧妙な仕方で、自我が生き残る。
それもまた去らせなさい。
あらゆるものを去らせなさい。
ただ虚空、無だけをあらしめなさい。
その無のなかにすべてがある。
その完全な不在のなかに臨在がある。
仏陀はその臨在のことはけっして語らない。
彼は、それは身をもって知るべきものだと言う。
そのことは語るべきではない。
なぜなら、心は実に狡猾であり、臨在について語れば、それを渇望するように
なるからだ。
神について語れば、心はその神を手中におさめることを考えはじめる。
仏陀は神については何も語らないが、それは神が実在しないからではない――
覚者より他の誰が神の存在を知りうるというのだろう?
だが、彼がけっして語らないのにはある深いわけがある。
神について語ると、神を得たいという欲望を生みだしかねないからだ。
そして、もしそこに欲望があれば、あなたはけっして神に到りつくことがない。
欲望はすべて消えなければならない。
無欲の境地にあってはじめて神は到来する。

仮観を実践するには大きな力が必要である。
このとき仮象はあきらかに幻影であるが、 空も幻影であり、中心も幻影であ
る。
中観の道にあるときには、やはり 空の心像を生みだすのであるが……
これらの空の心像は助けにすぎない。
まず、世間からあなたを連れだすために、仏陀は「世界は空である」と言う。
すると幻影が真実になってしまう。
そこで仏陀は「幻影もまた空である」と言う。
すると中心が真実ということになる。
そこで仏陀は「中心もまた空である」と言う。
まったき沈黙のなかで、いっさいのものが跡形もなく消え失せる――
そのまったき沈黙のなかに祝福があり、神がある。

また仮観を実践するときも、 それを仮象と呼ばず、中心と呼ぶのである。
中心そのものについては別に説明する必要はないだろう。
いっさいのもの――世界、想念マインド、自己――が消え去ると、いったい何
が起こるのだろう?
呂祖師の言うとおりだ。彼は、別に説明する必要はないだろう、と言っている。
さらに何かを言うことは危険だからだ。
さらに何かを言うと、あなたに欲望の対象を与えることになる。
そして欲望が生まれると、全世界がなだれ込んでくる。
これはすならしい方便だ。
それに瞑想することができたら、あなたは無限なるもの、永遠なるもの、時を
越えたもの、真実の生を得るだろう。

(´・(ェ)・`)
(おわり)

556避難民のマジレスさん:2019/05/19(日) 23:13:22 ID:LC3de7YgO
>>555
oshoの言う(神の)臨済とは、アートマン、ブラフマンのことでありますかね?
(´・(ェ)・`)つ

557鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/20(月) 23:07:07 ID:1d4drIFg0
↑そのように捉えて善いのじゃ。
それは本来言葉で語れるものではなく、自ら追求するものであるからのう。
どこまでも追求して行けば、悟りも得られて真実の意味を知るのじゃ。
語ることの出来ないものを伝えるには、法によって体現させるしかないのじゃ。

558避難民のマジレスさん:2019/05/21(火) 08:54:22 ID:LC3de7YgO
>>555
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは受容的な本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、それは 受胎の瞬間に命と性、生
命と本性に分かれる。
個々の人間の肉体のなかで、それらは二つの極 ――アニマとアニムスによって
表される。
この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。

生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく 外界に
向かって流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。
生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、すなわち 蓄えられ、散
らされずに上昇させられたなら、アニムスが勝利をおさめている。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、再び タオ、分かたれていないもの
、大いなる一者とひとつになる。

 古池やかわず飛び込む水の音
これは松尾芭蕉の最も有名な俳句のひとつだ。
この俳句には、目覚めた人々だけが気つ゛くことのできる格別の味わいがある。
その美はたんに審美的なものではなく実存的なものだ。
そのかぐわしい香りは悟りの境地から放たれる。
タオとはひとえに何の但し書きもない、形容もつかない、ありのままの姿を指
している。
タオとはただ"そのようにある"ということだ。
 古池やかわず飛び込む水の音
俳句はふつうの詩ではない。
ふつうの詩は空想から生まれる。
ふつうの詩は想いマインドの産物だ。
俳句はただありのままの姿を映しだす。
意識は鏡になって、目の前にあるものを映しだす。
鏡は映るものに影響されない。
その前を醜い人が通りすぎても、鏡が醜くなることはない、
鏡には何の変化も起こらない。
美しい人が通りすぎても、鏡が美しくなることはない。
映す相手が誰もいなくても、鏡は前と同じで変わらない。
映しても映さなくても、善いものを映しても悪いものを映しても、鏡は清らか
なままだ。
目覚めた人の意識もそうだ。
芭蕉は仏頂禅師の弟子だった。
このとてつもなく美しい俳句が生まれたとき、芭蕉は古池のほとりにある小さ
な庵で暮らしていた。
ある日のこと、にわか雨があがると、仏頂禅師は芭蕉のもとを訪れ、
「近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
いいかね、師は「どんな知識を身につけたかな?」
と尋ねるのではなく、「見解はどうかな?」と尋ねている。
見解けんげというのは知識とはまったく別のものだ。
知識は借り物だが、見解は自分自身のものだ。
知識は外からくるが、見解は内側から生まれてくる。
知識は手垢にまみれているので醜い。そして
知識はけっしてあなたの実存の一部にはなりえない。
それはいつまでたっても異質なもの、よそよそしいものであり、
あなたのなかに根をおろせない。
見解はあなたのなかから育ってくる。
それはあなた自身の開花だ。
それはまぎれもなくあなたのものであり、
それゆえに美をそなえ、解き放つ力を宿している。
真理はけっして誰からも
借りることができない。そして
借りてきた真理はもはや真理ではない。
借りてきた真理はすでに虚偽だ。
語られるやいなや、その真理はたちまち嘘になる。
真理とは体験されるべきものであり、聞いたり、読んだりするものではない。
真理はたんにあなたが蓄えてきたものの一部に、あなたの記憶の一部になるもの
ではない。
真理は実存的なものでなければならない。
あなたの実存の毛穴のひとつひとつがそれを感じなければならない。
そう、それはひとつの感性フィーリングでなければならない。
ひと息ひと息が真理で満たされていなければならない。
それはあなたのなかで脈動し、あなたのなかを血のように巡らなければならない。
真理が体得されると、あなたはそれになる。
だから仏頂は弟子に向かって、
「芭蕉、近頃のおまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
そしてこの"近頃の"という美しい言葉を忘れてはいけない。
真理はつねに成長している。
真理は動いている。
それは静的ではなく、ピチピチと躍動している。
それは踊りだ。
それはそびえゆく樹々、流れゆく川、まわりつつ゛ける星々のようだ。
真理はけっしていかなる意味でも静的な現象ではない。
それは停滞したものではなく、実にダイナミックに、勢いよく動きまわっている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

559鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/22(水) 00:18:47 ID:1d4drIFg0
オショーは芭蕉が好きなのじゃ。
禅味のある俳句を作ったからなのじゃ。
俳句は悟りの境地をも表す三行詩という解釈で世界に広まっているのじゃ。
外国人の俳句集も出版されているのじゃ。

560避難民のマジレスさん:2019/05/22(水) 00:34:09 ID:LC3de7YgO
>>558
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

いきいきとしているためには動きつつ゛けていなければならない。
死だけが静止し、死だけがよどんでいる。
だから死んでいる人々もうわべは生きているようにみえるかもしれないが、
真理がもはや成長していなければ、彼らは死んでいる。
彼らの魂はもはや成長していない。
真理とは観念ではなく、あなたの実存そのもの、あなたの魂そのものだ。
それゆえに師は「 近 頃 の おまえの見解けんげはどうかな?」と尋ねた。
彼は過去のことを尋ねているのではない。
知識はつねに過去に関わり、空想はつねに未来に関わっている。
彼は現在のことを尋ねている、 現に目の前にあるもののことを尋ねている。
芭蕉は答えた。
 雨過ぎて青苔を流す つい先程まで雨が降っていた。
雨はあがり、青い苔がみずみずしく輝いている。
悪くはないが、まだ充分ではない。
それはすでに過ぎ去ったことであり、 現に目の前にあるもののことではない。
それはすでに記憶になっていて、 今まさに体験していることではない。
仏頂は満足しなかった――悪い答えではなかったが、まだまだだった。
そして絶妙な答えが出るまで、 意にピタリとかなった答えが出るまで、 師は
けっして満足しない
―― 芭蕉のように大きな力量を秘めた 人物を前にしてはなおさらだ。
もはや芭蕉の師、仏頂のことを知る者はいない。
彼はただ芭蕉のおかげで知られている。
この弟子には無限の力が秘められていた。
師はそうたやすく満足することはできない。
それを覚えておきなさい!
器が大きければ大きいほど、 あなたには困難な課題ワークが課せられる。
師はあなたにきびしい態度を取るだろう。
彼はあなたを少しも容赦しないだろう。
芭蕉ほどの器をそなえていない者の答えならばそれでもいい。
師はうなずいて同意したかもしれない――が、芭蕉はだめだ。
数分の間があいても、ずれていることに変わりはない。
すでに雨はあがり、空は晴れ、太陽が顔をのぞかせ、その光を 古池や、庵いお
りや、あたり一面に投げかけている。
師は「まだ言葉が足りない!」と言った。
師が「まだ言葉が足りない!」と言うのは、 もっと言葉を加えなさいという意
味ではない。
彼は言葉の数が足りないと言っているのではない。
彼はこう言っている―― もっと深みのあることを言いなさい、
もっと力強いことを言いなさい、
もっと実存的なことを言いなさい、
もっと内実のあることを言いなさい!
(p533)
まさにそのとき、 蛙が池にポチャンと飛び込む音が聞こえた。
彼はこう詠んだ。
 かわず飛び込む水の音 さあ、これがタオだ――
現に目の前で、あるがままに、息つ゛き、脈動している、 まさにこの瞬間。
タオは過去を知らず、未来を知らない。
タオはただひとつの時制しか知らない――それは現在だ。
タオは 今 こ こ しか知らない。
みずからの思考マインドを消えてゆかせれば、 過去もないし、未来もない。
過去と未来は思考の産物だ。
実際に存在するのは現在だけだ。
そして過去もなく、未来もないとしたら、
どうしてそれを「現在」と呼べるだろう?
現在は過去や未来と照らし合わせてはじめて意味をもつ。
現在は過去と未来のあいだにはさまれている。
過去と未来を取り去れば、現在もまた消え失せる。
それがタオの瞬間だ――
時間が消え、人はありありと その場にいて、完全に今ここにいて、 過去の亡
霊のあいだをさまようこともなく、 まだ生まれていない未来の心像のなかをさ
まようこともない。
これが<光明エンライトメント>の瞬間だ――
時間が消え、人はただただここにあって、 他のどこにもいない。
そして時間が存在しないときには、 思考マインドも存在しない。
思考と時間は同義語だ。 思考の量が増せば増すほど、人は 時間を意識するよ
うになる。
だから西洋の国々では時間をひじょうに意識するようになった。
それは思考を発達させてきたからだ。
山や密林のなかに住んでいる原始的な人々のところへ行ってみるといい。
原住民のところへ行くと、そこには時間の観念がない。
それは 考える力マインドがまだ発達していないからだ。
だが、それが再び起こる――理解によって、 過去への郷愁と未来への 夢想を
すべて落とすと、 時間は再び消える。
そして時間が消えるとともに、
突然、思考はどこにも見当たらなくなる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

561鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/22(水) 22:55:31 ID:1d4drIFg0
今あるものを観て、過去を推測するだけではまだ時間があるのじゃ。
今この瞬間を切り取ってこそ、今ここにあると言えるのじゃ。
今ここにあるものをありのままに認め、現しだすことこそ真の芸術なのじゃ。
かつて誰もなしえなかった悟りの芸術なのじゃ。

562避難民のマジレスさん:2019/05/23(木) 02:27:53 ID:LC3de7YgO
>>560
黄金の華の秘密

スワミ・アナンド・モンジュ訳

第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

そして思考が消えると、静けさが訪れる。
その静けさのなかで、彼方なるものが地上に浸透してくる。
その静けさのなかで、未知なるものがあなたのなかへ降りてくる。
その静けさのなかで、神との出会いが起こり、
その静けさのなかで、感謝の祈り、祝福が湧き起こる。
その静けさのなかに、神の王国が出現する。
 かわず飛び込む水の音 これがタオの言辞だ。
これがタオだ――素朴で、純粋で、まさにあらわだ。
この答えを聞いて、師はこのうえもなく喜んだ。
弟子がわが家に帰り着くと、 師はいつでも歓喜する。
師の喜びには限りがなく、まるで 自分が再び光明を得たかのようだ!
すでに欠けるところのない師の実存に、 さらに満ち足りたものが加えられる。
師につけ加えねばならないものは何もないが、 弟子が覚醒へと燃えあがり、炎
と化すたびに、 師はまるで自分が光明を得たかのように感じる。
師はこのうえもなく喜んだが、 まさにその師の喜びが機縁となって、 芭蕉は
光明を得た。
師の嬉しそうな顔を、 師が放つ喜びのオーラを、 師がうなずいて認めるさま
を――あるいは 何も言わずに、その静けさを天の恵みのように 弟子の上に注い
でくれるのを見て、 芭蕉は光明を得た!
なんとすばらしい光明の瞬間だろう!
これまで無数の人々が光明を得てきたが、 芭蕉のような仕方で光明を得た人
は これまでになかった。
師が喜んでいたので、まさにその 師の喜びが芭蕉の胸を剣のように貫いた。
花々が彼の上に降り注いだ。
師は微笑んでいたにちがいなちがいないからだ……
師は喜びと祝福に満ちた目で芭蕉を見つめていただろう、 きっとこれまで聴い
たこともないような音楽が聴こえていたにちがいない。
もしかすると、仏頂は踊りだすか、 それに類する気違いじみたことをやった
にちがいない。
弟子が光明を得る というのは些細なことではないからだ。
のちに、芭蕉はこの俳句を ダイヤモンドのように磨きあげていった。
彼は生涯をかけてそれを磨きあげていった ――なぜなら、これは希有な現象だ
からだ。
この小さな俳句……
 古池やかわず飛び込む水の音
芭蕉自身の光明のプロセス を誘発したのはこれだった。
彼はそれをダイヤモンドのように磨きあげていった。
彼はそれをカットして、さらにもっと深みを加えていった。
彼は"古池"を加えた。
最初の句はこれだけだった……
 かわず飛び込む水の音
のちに彼は"古池"をつけ加えた。
私の感じでは、古池が自分も加えて くれるようにと主張したにちがいない。
古池も加えられてしかるべきだった――
古池がなければ蛙もいなかっただろうし、その蛙が 飛び込むことも、水の音が
することもなかっただろう。
芭蕉は古池に多くのものを負っている。
彼はそれを加えた。
そこで俳句はこうなった……
 古池やかわず飛び込む水の音
さらにそののち、彼は「水の」という言葉を落とした。
そうなると俳句は前のように完全な形ではなくなるが、
前よりももっと完成度の高いものになった。
それはこうだ……
 古池やかわず飛び込む、音
それは前ほど完全な形ではなくなった が、より完成度の高いものになった。
より完成度の高いものになったということで、 私は何を言おうとしているのだ
ろう?
今やそれは成長しつつある現象になり、 ピリオドが打たれることはないとい
うことだ。
前のものには終止符が打たれ、仕上げがすんでいた。
それには何も加えることができなかった。
瞑想の機縁となるものは何も残されていなかった。
だが、"音"だけになると、扉が開かれてくる。
もはや終止符は打たれていない。
それはひとつの探求になる。
だから、それは完全な形は失った が、より完成度の高いものになった。
今やそれはまったく非の打ちどころがない。
成長しつつあるという意味において非の打ちどころがない。
今やそれは成長しつつある樹であり、予測することができない。
今やひとりひとりがそれに瞑想しなければならない。
そしてこれは芭蕉に従おうとする探求者 にとってすばらしい瞑想のひとつに
なった。
それは前よりもいちだんと美しいものになった。
いつも覚えておきなさい、 完全なもの、完全無欠なものは、何かを失ってし
まう ――それは死んだものになる。
優れた画家たちはみなこのことを知っている。
そして最も優れた絵というのは 少し未完のままで残されていて、 最後の一筆
は加えられていない。
最も優れた詩というのは 未完のままで残されている。
だから扉が開いたままになっており、 あなたはそのなかに入ってゆくことが
できる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

563鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/23(木) 23:09:44 ID:1d4drIFg0
老子の道徳経にもタオとはあまりにも微妙で捉えられず、見ることも聞くことも出来ないというのじゃ。
名前も付けられないそれに仮に名づけてタオというのじゃ。
それを求めるために心も可能な限り鎮めなければならないのじゃ。
極限まで静まった心にタオは芽生えてくるのじゃ。

564避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 00:08:50 ID:LC3de7YgO
>>562
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

あなたの 実存は未完の詩と親しく交流することができ、 実存がそれを仕上げ
ることになる。
それはあなたの 実存のなかで完結する。
だから、それはこのようになった……
 古池やかわず飛び込む、音
さらにそののちに、彼はまた言葉 を落とし、とうとうこうなった……
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
さあ、今や絶頂に近つ゛きつつある。
ただの"ポチャン!"。
このほうが真実に近い…… カエルにとって、 池にとって、 実在にとって
より真実だ。
実在は"ポチャン!"しか知らない。
あなたはただその場に立ちつくし、 そして驚異の念に打たれ、 探求し、瞑想
をはじめる。
誰かが芭蕉に尋ねた。
「あなたはどうして『水の』という語句を落とし、 最後には『音』という言葉
まで落としてしまったのですか?」
芭蕉は言った。
「どんな音がするのか耳を澄ましてほしいのだ。私は言いたくない。
 どんな音がするのかあなたの耳で聴いてほしい」
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
あなたはまったく新しい瞑想的な空間に放り出される。
突然、古池の姿がくっきりと目に浮かんでくる。
それは目の前にあるかのようにありありと感じられる。
そしてカエルが飛び込む。
それは過去にいるカエルではない……ポチャン!
あなたはその音を再び聴くことができる。
それは現実そのものになる。
これは偉大な芸術であり、芸術家が体験したものを、受容的であり、みずから
を開き、いつでも冒険に出かける 用意ができている人のなかに再び再現させる
ことができる。
ブッダたちはみなこの方法を取る。
彼らの言明は「瞑想」と呼ばれるプロセスを あなたのなかに引き起こすための
機縁にすぎない。
これがタオのやり方だ―― あなたをありのままの現実に連れもどすこと。
これは私のやり方でもある―― あなたが瞬間とぴったりひとつになるのを助
けること。
まさに こ の 瞬間! こ れ がそれだ!
タオは教義ではない。
それは気つ゛きに到るための独自な道だ。
それは目覚めの道、光明の道、わが家へ帰るための道だ。
タオとは単に道を意味する。
そしていいかね、 それはふつうの意味での道を指しているのではない。
「道」という言葉を耳にするたびに、 人はどこか遠くにある目的地のことを、
その道が到り着く先を考えはじめる。
いいや、タオとは道のことだが、目的地とは関係がない。
では、それは何を意味しているのだろう?
それは"ものごとのありよう"を意味している。
それはたんにものごとのありよう、すでにあるもの、 そうであるところのもの
を意味している。
達成しなければならないものなど何もない。
すべてはあなたの上に降り注いでいる。
ただ今ここにあって、祝うがいい。
私にとって宗教とは祝祭だ。
だが、タオのような単純シンプルな現象を好まない人々がいる。
彼らの自我エゴは手ごたえがないので物足りなく思う。
彼らはいつもけわしい道に興味をもつ。
彼らはいつも困難なものに興味をもつ。
困難なことがなかったら、 彼らはそれをつくりだす。
彼らはものごとをあっさり行なうことができない。
彼らは 単純であることが苦手だが、 単純であることが、神のなかにある唯一
の道だ。
神とは単純さ、天真爛漫さだ。
神はバラの茂みやマンゴーの林から聞えてくるカッコウの鳴き声と同じくらい
単純だ。
神は少女たちのくすくす笑いと同じくらい単純だ。
神は樹から舞い落ちる木の葉と同じくらい単純だ。
神は松の老木を吹き抜けてゆく風と同じくらい単純だ。
だが、神がそのように単純であることを好まない人々がいる。
そういった人々が神学をつくりだす。
そういった人々が神にまつわる難解で、抽象的な空論をつくりだし、 ものごと
全体をほとんど理解できないようなむずかしいものにしてしまう。
だが、神はひじょうに単純だ。
 古池やかわず飛び込む、ポチャン!
そう、神はそれに似ている…… それをしっかりこころに刻んでおきなさい。
あなたの自我が策を弄しはじめるからだ。
人々はそのようにしてタオの単純な道を取り逃がしている。
キリスト教には実に多くの信者がいる。
仏教には数多くの信者がいる。
イスラム教には数多くの信者がいる。
だが、タオは今だに教団ではない。
タオが教団だったことはないし、組織になったことは一度もない。
個人が存在し、 個人がそれに従い、 個人がそれを通して成就して きたがそれ
はけっして大衆の道にはならなかった。
なぜか?
それはタオが 自我の流儀を落とす用意ができている者たち、 子どものように
単純で、天真爛漫になることができる者たち だけに開かれているからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

565鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/24(金) 23:32:56 ID:1d4drIFg0
老子や荘子の教えは道家と呼ばれるのじゃ。
道教とは違うものじゃ。
道教がそれを勝手に取り入れて老子や荘子を仙人の一人としているだけなのじゃ。
老荘の教えは常にそれを理解できる者だけのものなのじゃ。

566避難民のマジレスさん:2019/05/24(金) 23:38:02 ID:LC3de7YgO
>>565
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

567避難民のマジレスさん:2019/05/25(土) 00:03:13 ID:LC3de7YgO
>>564
59黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

問題のむずかしい面だけを見ようとする者たちがいる。
彼らの目には単純な解決方法は映らないし、いつも 最も複雑なやり方を考えな
ければならない。
それで思い出したが、ある若者がニューポートにある高級な会員制のカントリ
ー クラブに入会を申し込んでいた。
ごく控えめで風采のあがらないこの若者は、 入会を許可されるためにはクラブ
の審査員とゴルフを一ラウンドやらなければ ならないと告げられた。
約束の日の午後、彼は最初のティーグラウンドでホッケーの棒や、クリケット
の つちや、ビリヤードのキューをもって審査員たちと出会った。
審査員たちは胡散 臭そうな目でじろじろと眺めたが、それでも球を打ちはじめ
た。
驚いたことに、 若者はホッケーの棒を手に取ると平然と二百七十五ヤードをか
っ飛ばし、続いて クリケットのつちで打ったセコンドショットはみごとな弧を
描いてグリーンに オンした。
そして彼はビリヤードのキューで二十フィートのパットを沈めた。
途方に暮れる審査員をアンダーパー六十八で散々にやっつけたあと、若者は彼
ら とともにクラブ・バーに向かった。
彼はスコッチとソーダを注文したが、注文の品がくると、ショットグラスの中
身を自分の肩ごしにカウンターの上に置いて あるソーダのなかへひょいと投げ
込んで、それらを混ぜた。
この若者のしなやか な身のこなしの芸当を見せつけられて、クラブの審査員は
再び唖然とした。
「実にあざやかなお手並みだねぇ!」と彼らは叫んだ。
「あなたのすばらしい 才能はどこから降って湧いたのですか?」
「生まれてこのかた」と若者は説明 した。
「どんな運動も僕にとっては子どもの遊びのようなものだったんだ。何 でもす
ぐにできてしまい退屈で仕方ないから、何をするにつけても、一番むずか しい
やり方でやるようにしてるんだ。ピンポンのラケットでテニスをしたり、 テニ
スのラケットでピンポンをしたりしてね……」
「ちょっと待ってくださいよ」とクラブの審査員のひとりが口をはさんだ。
「もしあなたの言うことが本当で、どんな運動でも一番むずかしいやり方で やるというのなら、ひとつ質問があるんです
よ……」
「わかってますよ」と 若者は微笑みながら言った。
「みんな同じことを尋ねるんです。いいですよ、 教えてあげましょう――ハン
モックの上で立ちあがることについてでしょう?」
これが自我エゴのやり方だ。
タオは単純シンプルだ、単純そのものだ。
ハンモックの上で立ちあがらなくてもいい。
タオに関する最も基本的なことがらは、 それは子どもの遊びのようなものだ
ということだ。
だが、子どものようになることは人々には不可能に近いことのようだ。
誰が子どものようになりたがるだろう?
イエスは「幼子のようにならないかぎり、私の神の王国には入れない」と言う

だが、誰も子どものようにはなりたがらないようだ。
私たちの悲劇はそこにある。
私たちは何日間もタオの世界の奥深くに分け入ってきた。
今日で経文は終わり、呂祖師の言葉もこれが最後だ。
これらは単純だ。
それらを理解するには単純でなければならない。
そこには大した知識は含まれていないが、 紛れもなく多くの洞察が含まれてい
る。
それらはあなたを物知りにさせたりはしない。
むしろ逆にすべての知識を取り去って、 あなたを無知にする。
だが、もし無知になれたなら、 勇気を奮い起こして知識をすべて落とすこと
ができたなら、 無知な状態のまま生きてゆくことができたなら、 人と神のあい
だの障壁がなくなり、 人と<存在>のあいだの障壁がなくなる。
知識は障壁をつくりだす。
アダムがエデンの園から追放されたのは、 知識の樹の実を食べてしまったから
だ。
その実を吐きださなければならない。
ひとたび知識が吐きだされたら、 あなたは清浄になる。
そしてその清らかさのなかで、 すべてのものが手に入るようになる。
あらゆるものがすでに待ち受けている。
ただあなたが汚れ、知識でいっぱいになっているために、 それを見ることがで
きないだけだ。

さて、経文だ――
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、 陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、 陽からは本性が現れる。
これが『黄金の華の秘密』の最後の章句だ。
あなたが覚えておけるように、
論書のすべてがここに要約されている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

568鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/25(土) 23:50:12 ID:1d4drIFg0
>>566 どういたしまして、またおいでなさい。

タオでは質朴であることが尊ばれるのじゃ。
多くの知識や才能を発揮することはよくないというのじゃ。
むしろ何の飾りも無く、無能であることが本質に近いというのじゃ。
そうであれば全ての競争から離脱し、タオに合一するというのじゃ。

569避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 09:56:53 ID:LC3de7YgO
>>567
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
まず、タオとは何か?
あるがままのもの、名もなく、制約もない、ただあるがままのもののことだ。
それはいっさいのものを包含している。
それは樹や星を包み込み、あなたや私や動物や鳥たちを包み込んでいる。
それは森羅万象のすべてを包み込んでいる。
そしてあるがままのものはこれから存在するいっさいのものを含んでいる。
タオを言葉にすることができないのは、それがいっさいのものを包含している
からだ――
あらゆるものを包み込める言葉はない。
言葉の目的そのものが区分を示すことにある。
言葉の目的そのものが類別することにある。
テーブルはテーブルであって椅子ではない。
椅子は椅子であって犬ではない。
犬は犬であって人間ではない。
言葉はそのまわりに明確な境界があってはじめて意味をもつ。
それは他のあらゆるものを締め出してしまう。
それはちっぽけなものだけを内包して、存在全体を締め出してしまう。
タオは万物を内包して、何も締め出すことがない。
タオを言葉にすることができないのはそのためだ。
タオは、示すことはできるが言い表すことはできない。
タオの人のなかに入ってゆくことができ、タオの人を自分のなかに入ってこさ
せる用意ができているなら、彼はその味をあなたに味あわせることができる。
タオの人は一瞥いちべつを与えることが――包み隠さぬ<存在>の全容を閃光の
ように垣間見させることができる。
だが、あなたは怯えてしまうかもしれない。
大いなる歌『バガヴァッド・ギータ』のなかで起こったことはそれだ。
弟子のアルジュナは師であり、友であり、導き手であるクリシュナに尋ねた。
「あなたは深遠なことを語られます。
 あなたは実に巧みに論じられます。
 あなたの言葉には強い説得力がありますが、私の胸の奥深くにはまだ疑いが
残っています。
それはあなたがおっしゃることを私自身がまだ体験していないからです。
なぜその一瞥を与えてくださらないのですか?
ほんのちょっと味わうだけでいいのです。
いつまでも議論を続けてもしかたありません。
どんなに論をつくしてもしかたありません。
ほんのすこしでも味わえば、私は納得し、疑いは消え去るでしょう」
クリシュナは「いいだろう」と言った。
そして師と弟子のあいだに起こった最も美しい物語のひとつが生まれた。
クリシュナの身体はみるみる大きくなり、無限大に広がると、世界が彼のなか
で巡りはじめた。
アルジュナは恐れおののいた。
クリシュナには無数の手があり、全ての星とすべての惑星が彼のなかにあった

生と死が彼のなかにあり、彼のなかですべての両極が出会い溶け合っていた。
それは混沌カオスだった。
アルジュナは自分の気がふれてしまったのではないかと思った。
彼はおののきのあまり目をつぶり、悲鳴をあげ、「元にもどってください!二
本の腕をもったふだんのあなたの姿にもどってください。もう一度私の懐かし
い友にもどってください。これはあんまりです!」と叫んだ。
クリシュナは元にもどると、こう言った。
「こうなることはわかっていた。おまえには全体の姿を味わう用意がまだでき
ていない」
全体の姿はあなたを震撼させる。
その広大無辺な姿はあなたを震撼させ、あなたの正気を奪ってしまう。
それは奈落であり、あなたはシャボン玉のようにその奈落のなかに消えてゆく

それはあまりに広大なので、あなたは自分が誰なのかまったく識別できなくな
ってしまう。
アルジュナに起こったことはそれだ。彼は言った。
「おっしゃる通りです。私は死んでゆくような感じがしました。
あるいは自分が狂ってゆくような感じが、またはすでにおかしくなっているよ
うな気がしました。
本来の姿にもどってくださって感謝します」
するとクリシュナは言った。
「これは私の本来の姿ではない、あれが私の本来の姿なのだ」
タオは無限だ。
タオは全体なるものだ。
タオとは森羅万象のすべてであり、それゆえに言葉で表すことはできない。
だが、師と弟子が親密に触れ合うなかで、その何かが脈動をはじめる。
あなたが<全体>に呼応できるようになり、分離したものとしては働かなくなり、
しばらくのあいだ分離の観念が消えて、ひとつにまとまる瞬間がある。
しずくが海のなかに消え去ると――一瞬かもしれないが――あなたはタオとは
何かを知る。
だから、タオは言い表すことはできないが示すことはできる。
私がここでやっていることはそれだ。
ここは哲学を学ぶ場所ではない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

570鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/26(日) 23:01:53 ID:1d4drIFg0
全てであるものを現す言葉は無いのじゃ。
タオというのも仮に付けられた名前なのじゃ。
全てが一つならば一つですらないのじゃ。
一つとか二つというのはいくつもあるものごとにつけられた数字の観念であるからのう。
無であり、観念の否定でしか全ては表せないのじゃ。

571避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 23:06:22 ID:LC3de7YgO
>>569
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

私はあなたがたにどんな哲学も教えてはいない。
これは実存的な道場スクールだ。
私はあるがままの<存在>を教えている。
そして<存在>はすでにここにある。
もう少し勇気を出してみずからを開き、 それが入ってくるのを許せばいいだ
けだ。
それはあなたの扉を叩いている!
イエスは言う。
「叩きなさい、そうすれば扉は開かれる。
 求めなさい、そうすればそれは与えられる。
 探しなさい、そうすればそれは見つかる」
私はまったく逆のことをあなたがたに言いたい。
神はあなたの扉を叩いている。
何千年ものあいだ叩いてきた。
聴きなさい!
神が扉を叩いている……
扉を開けなさい。
耳を澄ましなさい!
神はあなたに
「みずからに課した牢獄から出てきなさい」 と言っている。
神はあなたを探している!
邪魔をしてはいけない!
神があなたを探すのを手伝いなさい!
神が探しているのにあなたは 逃げている、
何生にもわたって 逃げつつ゛けている。
惨めなくせに、それでもあなたは 逃げつつ゛けている。
そして神の手が近つ゛いてくると、 いつもあなたは身震いする。
だが、私にはわかっている。
その恐怖が起こるのも無理はない。
何が怖いのだろう?
それは神が存在するなら、 自分は存在しえないという恐怖だ。
フリードリッヒ・ニーチェは言っている。
「神が存在するなら、どうして私が存在しえるだろう?
だから私は"神は存在しない"と 決 め る 。
そうしてはじめて 私 があることができる」
何百万もの人々がそのように決めてしまっている。
彼らは自分が残るために神を否定してしまっている。
神が存在しなければ、 自我エゴにも存在する余地がある。
神が存在するなら、どのようにして 自我を支えればよいのだろう?
何によって?
あなたはもはやそこにいなくなる ――それが恐れだ。
神は自我の死だ。
タオを味わうことはできるし、 タオを体験することはできる。
だが、ある条件を満たさなければならない。
あなたはいかなる自我ももたないほど 素朴シンプルにならなければいけない。
"私"という思いが消えるほど 静かにならなければいけない。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、相反する二つの存在原理 ――
闇と光、陰と陽を生みだす。
一なるものが二になる――これは道家タオイストがものに取り組む姿勢のまさ
に基盤をなしている。
なぜなら、そこではじめて遊びが生まれるからだ。
ひとつのものは二つにならなければいけない。
そして二つのものは互いに対立しなければならない。
そうしてゲームがはじまる。
古代のヒンドゥー教の聖典は「神は独りだったので、深い孤独感を味わってい
た」と言う。
神は他者をつくることにした。
ヒンドゥー教徒が<存在>はリーラだ、遊戯だと言うのはそのためだ。
神はちょっとした楽しみのために他者をつくりだした。
タオはひとつだが、顕れるやいなや、それは二つにならなければいけない。
形あるものは二元的にならなければいけない。
それはけっしてひとつではなく、二つに――分裂して二つにならなければいけ
ない。
それは物質と意識に、男と女に、昼と夜に、生と死にならなければいけない。
この二つの原理は至るところで目にすることができる。
生は何から何までこの二つの原理で成り立っているが、その二つの原理の背後
には一なるものが隠されている。
この二元性、両極のあいだに巻き込まれたままでいるなら、あなたは世間にと
どまっている。
聡明になって、もう少し意識をとぎ澄まし、もっと深く事物の奥底をのぞき込
むようになったら、
あなたは驚くだろう――これらの両極は実は対立する極ではなく、互いに補い
合っている。
そしてこの両者の背後にはたったひとつのエネルギーがある
――それがタオだ。

タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、
相反する二つの存在原理――闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。
基本的に、極性は男と女
――男性的なものと女性的なもの――と名つ゛けることができる。
そのように理解するほうが私たち人間の現実感覚に近い。
それは「肯定と否定」とよんでもいいが、それでは少し距離ができてしまう。
「陰と陽」「シヴァとシャクティ」
「男と女」と呼ぶことで、それは私たちのハートにとても近しいものとなる。
私たちはこういった二元性を知っているからだ。
男は女に惹きつけられ、女は男に惹きつけられる。
ところが一緒になると二人のあいだには喧嘩が絶えなくなる。
別れては暮らせないが、一緒になっても暮らせない。
とてつもない魅力があるが、反発も強烈だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

572避難民のマジレスさん:2019/05/26(日) 23:08:29 ID:LC3de7YgO
>>570
空とかアートマンと同じ感じでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

573鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/27(月) 23:56:44 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、タオもまた観念を超えて行くための観念なのじゃ。
その名前によって定義されるものではなく、ただ無であり、沈黙がその教えとなるものなのじゃ。
自我を超えて観念に囚われなければそれに到達するのじゃ。
そして名前を超えたその本質を了解するのじゃ。

574避難民のマジレスさん:2019/05/28(火) 01:05:46 ID:LC3de7YgO
>>571
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

恋人と一緒にいると、あなたはどうやって独りになろうかと考えはじめる。
あなたは自由のことを、独りになることを、美や静けさや、そういったすべて
のことを考えはじめる。
ところがいざ独りになると淋しくなって、相手が恋しくなり、愛に満ちた空間
や温もりやあれやこれやを思い浮かべるようになる。
独りになるとそばにいたくなり、一緒にいると独りになりたくなる。
見守ってみるといい。
それはあなたへのすばらしいメッセージだ。
それはただあなたは半分であり、女性も半分であることを告げている。
一緒になると、あなたがたはひとつになる。
だが、そうなると問題が生じてくる。
そのひとつになった瞬間、あなたがたは歓びにあふれ、祝い喜ぶが、 そうなる
と問題が生じてくる。
このひとつになった状態、これは 男のものだろうか女のものだろうか?
どちらが優先的な要素になるのだろう?
それが葛藤だ。
男と女はひとつになりたいのだが、 男はそのひとつの状態のなかで主導権をと
り、女を屈服させ、服従させておきたい。
そして同じ欲望が女の側からも起こる。
男のほうが屈服し、服従すべきだと。
どちらもひとつになりたいのだ が、そのひとつの状態は 私 の も の でなけ
ればならない。
私が男であれば、そのひとつの状態は男のものであり、 女は男のなかに消え去
らなければならない。
私が女であれば、そのひとつの状態は女のものであり、 男は女のなかに消え去
らなければならない。
葛藤、魅惑と反発、人生の悲喜劇のすべてはそこから起こってくる。
女性的な原理は受容的であり、男性的な原理は創造的だ。
そしてどちらも手を携えて進むしかない。
ばらばらでは、どちらもが苦しむことになる。
そうなったら女性には 受け取るものが何もなく、虚しい気持ちになる。
受け取ってくれる相手がいないと、 男性の創造性は失われてしまう。
その価値を認め、励ましてくれる人がいないからだ。
女性は受け取り、励まし、 男性が創造性を発揮するのを助けてくれる。
男性の創造性は 女性が受容性を深めるのを助けてくれる。
この女性の受容性はたんに生物的なものではなく、 霊的スピリチュアルなもの
でもある。
優れた詩人の背後にはいつも 霊感を与えてくれる女性の影が見え隠れする。
女性たちみずからが偉大な詩人だったことはない
――彼女たちにはその必要がない――
だが、 女性なくしては優れた詩はけっして生まれない。
女性は灯台の役目を果たす。
男たちは偉大な詩人ではあったが、女性が いなければ詩はたちまち精彩を失い
しぼんでしまう。
受容性と創造性は鳥の二つの翼だ。
未知なるものへと向かうこの飛翔は、 二つの翼があってはじめてなし遂げら
れる。
翼ひとつでは、鳥はどこにも行けない。
そしていいかね、創造性のほうが 受容性より価値があるというわけではない
――それらは等しい、完全に対等だ。
右の翼のほうが優れているとか、 左の翼のほうが優れているなど といったこ
とはけっしてありえない。
それらは対等だ。
同じではないが、対等だ。
今や女性のハートには創造的になりたい という大きな欲求があるが、それに
はある理由がある。
それは創造性が賛美されているからだ。
ノーベル賞は創造的な人にのみ与えられるものであり、 ごく奥ゆかしい受容性
を示す者たちには与えられない。
さあ、これは醜い状況であり、 創造的になりたいという強迫的な願望をつく
りだす。
なぜなら、受容的な人々はまったく称賛されず、 話題に取りあげられないから
だ。
だから世界中の女性たちが創造的になりたがっている
が、創造的になりたいと思ったとたんに、女性たちは 女らしさ、優美さを失い
はじめる。
女性はどんどん男っぽくなってゆく。
創造性というのは男性的な原理だからだ。 女性はどんどんきつくなってゆく。
彼女はやわらかさ、まろやかさを失い、 ごつごつとしたかどをもち、 闘いは
じめるようになる。
ウーマンリブの活動家が怒鳴っているさまを見てみるといい。
その声を張りあげている様は醜い。
彼女たちの闘いが正しいことはわかるが、 闘うというのは女性にふさわしい道
ではない!
闘いそのものが女らしさを破壊してしまう。
それは違う形で行なわれなければならない。
実のところ、男が女性の平等のために闘うべきだ。
理解力をそなえた人、思慮深い人、知性をそなえた人が、 女性の解放を目指し
た男性の運動をつくりだすべきなのだ。
彼らが闘うべきだ!
それは男が女に押しつけてきた隷属だ―― 男たちはやましさを感じるべきであ
り、 自分たちがやったことをすべて元にもどすべきだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

575避難民のマジレスさん:2019/05/29(水) 07:47:16 ID:LC3de7YgO
>>574
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

だが、女性が闘いはじめたら―― そして、そうなれば当然、彼女たちは創造
的になって、 絵を描いたり、踊ったり、歌ったり、彫刻をしたり、 作曲をした
りすることを考えはじめる――
彼女は無意識のうちに男のまねをしている。
だが、覚えておきなさい―― 男のまねをする女はつねに二流の男になってし
まう。
それは醜いことだ。
対等であろうとする努力そのものが無駄になってしまう。
女性は一流の女性にしかなれない。
男になろうとすれば、二流の男になる他にない。
男が受容的になろうとしても同じことが起こる。
男は女性がそなえている自然な受容性をもつことができない。
彼は二流の女性になってしまう。
一流であるためには、 みずからの本性に従わなければならない。
けっしてまねをしてはいけない。
みずからの内にある本性に従いなさい。
みずからの内に備わっている本性に従いなさい。
その本性が実現されてはじめて、人は 至福、成就、充足の境地に到り着くか
らだ。
女性は生命、いわゆる生命、 普遍的な現象としての生命を生みだす。
男、すなわち男性的な要素は、人間性を生みだす。
男は部分的であり、女は普遍的だ。
男はものごとの細部にこだわる。
男は専門家になる。だから 男性が主導権を握っている分野はみな、 遅かれ早
かれ細分化してゆくことになる。
科学ではまさにそれが起こっている。
あらゆるものが徐々に細分化されて新しい枝を生じ、 その枝がまた分岐して、
今やことのすべてが 収拾のつかないものになっている。
男はたくさんの知識をつくりだし、 細部にこだわってきたが、今やその知識
から 全体像を組み立てる者はひとりもいない。
どうやって全体をまとめたらいいのか誰にもわからない。
その統合は男性ではなく、 女性を通してはじめて起こりうる。
なぜなら、女性は ものごとを普遍化する原理だからだ。
男性は切り分け、女性はまとめあげる。
それゆえに、女性のほうが男性よりも 宗教を身近なものに感じるし、つねに
男性よりも 宗教に親しみを覚えてきた。
あなたはその事実を観察したことがないかもしれない。
根本的なことは、宗教は 一なるもの、全体性、全一性 という見地でものをと
らえるということだ。
まさにそれがタオだ。 「神」と呼んでもいいし、好きな名前で呼べばいい。
科学は解剖し、分割しつつ゛け、電子、最小の粒子に逢着した。
両者はまったく正反対の方法だ。
宗教はどんどんものをつなぎ合わせていって、 すべてを包含する究極のタオに
到る。
それは究極の統合ユニティだ。
科学はとめどなく分割を続け、ますます専門化してゆく。
彼らによれば、専門化とはより狭い対象に関して、 より多くのことを知ること
だと言う。
聞いた話だが…… 二十五世紀のことだ…ある男が医者を尋ねた。
彼は高齢で、目の調子がおかしかった。
医者は「どちらの目が悪いんですか?」と尋ねた。
すると彼は言った。「右目じゃよ」
医者は言った。「すみませんが、別の医者のところへ行ってください。 私は左
目が専門なものですから」
いずれこういったことが起こるだろう。
それはすでに起こっている。
人間はもはやひとつの統合体ユニティとは見なされていない。
おびただしい数の専門家がいる。
誰も人間を 全体として、全一なるものとしてとらえていない。
それは医学が直面しつつある、医学が目を背けず直視して、 解決策を見いださ
なければならない最大の課題のひとつだ。
なぜなら、患者はひとつの統合体とは見なされていないからだ。
頭の調子が悪ければ、全体から切り離して頭だけが取りあげられる。
アスピリンか何か、ただ薬をちょっと与えるだけでいい。
誰も身体全体のことなど気にかけない。
アスピリンはまず胃にゆき、じかに頭に向かうわけではない。
胃はどうなるのだろう?そんなことは誰も気にとめない。
人間は統合体ユニティだ。
人間を機械のように扱うことはできない。
車の具合がおかしければ、修理工場に行って、部品を交換する。
機械には魂がなく、部品を寄せ集めたものにすぎないからだ。
では、魂とは、何だろう?
魂とは部品の寄せ集め以上のものが そこにあるということだ。
その背後には統合体がある。
現代の医学の前にはこの事実が大きく立ちはだかっている。
なぜなら、これらの科学はどれも男たちが発展させてきたものだからだ。
女性からの影響が欠けている。
女性はつねに普遍化する。
彼女は統合的な見地でものをとらえ、 部分的な見地ではけっしてものをとら
えない。
女性はけっして緻密な計算をしたりしない。それはありえない。
女性は、つねに包括的ホーリスティックな 姿勢でものごとに取り組む。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

576避難民のマジレスさん:2019/05/29(水) 23:48:30 ID:LC3de7YgO
>>575
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

二十五世紀前に記されたこの言辞 が意味するものはそれだ。
それは現代にも響き合う。
タオ、分かたれていないもの、大いなる一者は、 相反する二つの存在原理――
闇と光、陰と陽を生みだす。
陰からは受容的な女性原理が現れ、陽からは創造的な男性原理が現れる。
陰からは生命が現れ、陽からは本性が現れる。
ひとりひとりの人間のなかには胚胞があるが、 それは受胎の瞬間に命と本性に
分かれる。
人はみな単一の存在、一なるものとしてやってきて、そののちに分裂する。
それはプリズムを通過した光線が七色に分かれるのに似ている。
受胎がプリズムのような働きをして、
ひとつの白い光線が七色に分かれる。
一なるタオは分裂して
二つの相反する極――男と女になる。
いいかね、どの男もたんに男というのではなく、その背後には、彼のなかには
女が隠れている。
女の場合も同じだ。
どちらも両方の性を備えている。
顕在意識が男であれば、無意識は女だ。
顕在意識が女であれば、無意識は男だ。
それはそのようになっている。
そして外側の女性や男性と出会いたいという欲望はかなえられることがない――
内なる男性と内なる女性を出会わせるすべを知らないかぎりは。
外側の女性はいくつかの出会いの一瞥いちべつを与えることしかできない。
それは美しい瞬間ではあるが、大きな代価を払わねばならない。
恋人たちはみな知っている――確かに忘我の瞬間がときにはあるが、それを得
るためには大きな代価を払わねばならない。
みずからの自由を失わなければならないし、
みずからの実存を失わなければならないし、
依存するようにならなければいけない。
人はありとあらゆる妥協をしなければならなくなり、それが傷となって、うずく。
外側の女性や男性との出会いはつかの間のものでしかありえない。
だが、別の出会いがある。
それはタオの秘められたメッセージのひとつだ。
あなたは内なる女性を見いだすことができる――
あなたの意識と無意識が出会い、
あなたの光と闇が出会い、
あなたの大地と空が出会い、
あなたの肯定と否定が出会う場所で。
あなたの内側でその出会いが起こったら、
あなたは全体になっている。
「タオの人」と呼ばれているのはこのことだ。
タオの人は男でもなければ女でもない。
彼はみずからの一なる状態に帰り着いている。
彼は独り(alone)であり、完全にひとつ(all alone)だ。
老子は男とも呼べないし女とも呼べない。
仏陀は男とも呼べないし女とも呼べない。
イエスは男とも呼べないし女とも呼べない。
生物学的には男だが、 霊的な観点から見るとそうではない。
霊性のうえでは、彼らは両者を超えている。
仏陀の内側には無意識がなく、 分割がない。
彼は 分割されていない。
分割がなくなると、内なる葛藤はすべてやんでしまう。
分割があると、人は 絶 え ざ る 内乱状態にあり、 外側の女性と争うだけで
なく、内なる女性とも 絶えず闘いつつ゛けることになる。
あなたも身に覚えがあるだろう。
泣き出したくなる瞬間がやってきても、内なる女性は涙を流すことをためら
わないが、 男のほうがそれを止めてしまう。
内なる男が言う。
「おい、何をやってんだ?気は確かかい?他人に女々しくなったと思われるぞ。
泣いてはいけない!君のような男にはふさわしくないぞ。女が泣くのは かま
わない、好きなだけ泣きわめかせておけばいい。でも、君は表情を変えず、厳
しく 、いかめしい態度を取り、弱みを見せてはいけない。涙を押さえるんだ!」
こうして闘いがはじまる。
同じことが女性にも起こる。
あなたは樹に登りたい。その樹はとても美しく、 雲と戯れんばかりに高くそび
えている。
誰だって登りたくなる。
ところが、あなたの内なる女性が言う。
「待って!登ってもいいのは男の人だけよ、 あなたはだめ。あなたは女でしょ
う。女にとって何がふさわしく、何がふさわしくない か考えなきゃだめよ。
一定の行儀作法、エチケットに従わなきゃいけないわ」
――そこであなたは我慢する。
これが絶え間なくつつ゛いてゆく。
男は女の側面を抑え、女は男の側面を抑えてゆくが、 やがて抑圧された部分が
微妙な仕方で復讐をはじめる。
それは裏口から入ってきて、あなたを毒するようになる。
女性が非常にかたくなで、冷酷になり、小言を言って、くってかかり 、醜くな
る瞬間があるが、それは男が復讐しているということだ。
樹に登ることはきっとすばらしいことだったのに、 あなたはそれを抑え込ん
だ。
今度は男が裏口から入ってきて、あなたは 夫や子どもに向かって金切り声を張
りあげたり 、ものを投げつけたりしはじめる。
さあ、これは醜いことであり、病的な振る舞いだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

577鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/29(水) 23:52:22 ID:1d4drIFg0
女性的であるもの、受動性の極致がタオの求める境地なのじゃ。
それは既に無我にも近いものじゃ。
自我が無ければ全てを受け容れるのであるからのう。
それが真の宗教的なあり方なのじゃ。

578避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 05:14:38 ID:LC3de7YgO
>>576
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

泣けばよかったのだ。
涙は生の一部だから美しい。
泣けばよかったのだ。
その涙を隠す必要などなかった。
涙を隠せば、笑うこともできなくなる。
あなたはいつも恐れるようになる――
笑い過ぎたら、笑いによって緊張がすっかり解けて、 抑圧された涙がこみあげ
てくるかもしれない。
ニーチェは「私が笑うのは涙を隠しておくためだ。笑わなければ 泣きだしてし
まうかもしれない。私はそれを恐れる」と言った。
さあ、これはひとつの面にすぎない。
人は微笑みを絶やさずにいることができる。
それは本当の笑いではない。
人は微笑みを絶やさずにいることができる――それは社交上の駆け引きだ。
そうすれば目から涙があふれそう になっているのを誰にも気つ゛かれないで
すむ。
人々はあなたの微笑みに気を取られてしまい、あなたの目には気つ゛かない。
これはひとつの方法だ。
もうひとつは笑うどころか、微笑さえ浮かべず、岩のように固い表情をすると
いう やり方だ。
他人には鋼鉄の男だと思わせておけばよい。
これが「スターリン」という 言葉の意味だ――鋼鉄の男。
スターリンは一度も笑わなかったと伝えられている。
鋼鉄の男――その彼がどうして笑えるだろう?
鋼鉄の男は笑えない。
だが、これは醜いことであり、機械のようになることだ。
それでは人間らしさを失ってしまう。
人は偽物、まがいものになるか、岩のようにかたくなり、 堅い殻をつくりあげ
て、絶えず自分を抑制していなければならない。
タオは、みずからの実存の両極を否定する必要はないと言う。
それを受け容れなさい。 それはあなただ! そのどちらの光線もあなただ。
それらを出会わせ、融け合わさせなさい!
それらをともに踊らせなさい!
再び一なるもの―― タオ、分割されざるもの、大いなる一者―― の洞察を
得ることができるように、 それらを深く融合させなさい。
個々の人間のなかで、それらは二つの極――アニマとアニムスによって表される。 この二つは生涯にわたって争い、主導権を求めて闘いをくり広げる。
主導権を求めて闘うのを止めなさい!
それはあなたの内なる政争だ。
どちらもけっして主導権をとることはできない。
どちらも必要であり、対等に求められる。
それらは正反対なので、
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしい――論理の上では
両者を受け容れるのはひじょうにむずかしいが、それでも両方を受け容れなさ
い。
論理は生には当てはまらない。
生にもっと当てはまるのは、弁証法として知られるものだ。
論理は生には当てはまらない。論理は直線的だ。それは両極を含んでいない。
タオは「両極はつねにそこにあり、並んで走っている」と言う。
そのプロセスは論理的ではなく弁証法的だ。
正の命題テーゼには、反の命題アンチテーゼが立ちはだかる。
男には女が立ちはだかり、この対立、この葛藤、この挑戦から、エネルギーが
解き放たれる。
そして、そのエネルギーは、あなたが愚か者なら浪費されるし、あなたが賢け
れば蓄えられる。
浪費されれば、あなたは絶え間のない葛藤、内乱を味わい続けることになる。
あなたの生は分裂症になってしまう。
あるいは、あなたが知性をそなえ、親しみを込めた深い抱擁のなかで相反する
ものを包含するすべを知っていたなら、 反の命題に対立した正の命題は、 あな
たの実存のなかに新しい現象 ――"合の命題ジンテーゼ(統合)"を生みだす。
あなたはより高い次元に上昇する。
あなたはより深い形で統合される。
そして再びその合の命題が 正の命題として働いて、 反の命題を生み出し、
再びより高い次元で合の命題(統合)が生まれる。
それがどこまでも続いてゆき、 波の上に波が重なり、 どんどん高まってゆ
く。
続々と新たな次元が開かれ、 人は進み続けることができる。
究極の次元は、あなたの生の全面的な統合だ。
いっさいの葛藤が消え失せる―― 落とそうとしなくても、 ひとりでに消え失
せる。
これがタオ、<道>、 分割されざるもの、 大いなる一者だ。
生命エネルギーが下方に向かって流れれば、すなわち、何の障害もなく外界に
向かって 流れ出せば、アニマがアニムスに打ち勝ち、黄金の華は開かない。
エネルギーが下へ、すなわち外に向かって流れると、
再び同じものを生みだす力、生殖力になる。
それは大いなる現象だ!
あなたはそのようにして生まれた。
誰もが――仏陀やイエスやクリシュナのような人たちもみなそのようにして生
まれた。

エネルギーが下に向かって流れると、それは新しい人間を、神が宿る新しい形
をつくりだす。
だが、黄金の華は開かない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

579鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/05/31(金) 23:01:58 ID:1d4drIFg0
タオもまた分割されていないものを説くのじゃ。
統一されたものであり、気付く意識であるものに心の中を追求して至るのじゃ。
全てが私に還り、私も無に還っていくのじゃ。
アートマンであり、ブラフマンであり、タオでり、意識であるものだけが在ると知れるのじゃ。

580避難民のマジレスさん:2019/05/31(金) 23:31:05 ID:LC3de7YgO
>>578
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

あなたは別の人間――子ども、すばらしい子どもをつくりだす。
生は続き、生は流転を続け、どこまでも流れ続けるが、それでは黄金の華は開
花することができない。
黄金の華はどのようにして花開くのだろう?

生命エネルギーが逆流のプロセスによって導かれたら、 すなわち蓄えられ、散
らされずに上昇させられたなら、 アニムスが勝利をおさめている。
可能性は二つある。
下に向かって流れるエネルギーは性欲になり、
上に向かって流れるエネルギーは霊性になる。
下に向かって流れるエネルギーは生殖力になり、
上に向かって流れるエネルギーは創造力になる。
下に向かって流れるエネルギーは新しい生命を生みだし、
上に向かって流れるエネルギーは あ な た を再誕生させる。
イエスが「再び生まれ変わらないかぎり」――父や母からではなく、
みずから上昇する働きによって生まれないかぎり、
ドウィジャ、"二度生まれし者"とならないかぎり
――「私の神の王国に入ることはできない」と言うとき、
彼が言おうとしているのはそのことだ。
黄金の華は、あなたの実存の最高の頂で待ち受けている。
ヨーガの見取り図では、それは「サハスラーラ」
―― 一千枚の花弁をもつ蓮華 ――と呼ばれている。
それは第七番目のチャクラであり、頭のなかにある。
最も低いのは性のチャクラ、ムラダーラであり、
最も高いのは第七のチャクラ、サハスラーラだ。
エネルギーがいちばん低いチャクラから下降すると、新しい生命が生まれる。
エネルギーが蓄えられ、上昇させられると、いつかそれはサハスラーラに達し、
そして黄金の華が花開く。
もちろん、それにはエネルギーが必要だ。
それはひとつの可能性として、潜在力として、そこに潜んでいるにすぎない。
エネルギーが供給されないかぎり、それは開花することができない。
それは樹に水をやらないのと同じだ。
樹は待ち望んでいるのに、水をもらえない。
樹液は上に向かって流れてゆかない。
どうして数限りない花を咲かせることができるだろう?
できるはずがない。
樹は苦しみ続け、ほとんど枯れそうになっている。
樹はゆっくりと死んでゆくだろう。
葉も一枚ずつしおれてゆき、やがて枝が枯れてゆき、最後には根が死んでゆく。
樹には絶えず上に向かって流れてゆくエネルギーが必要だ。
樹液は樹のなかを巡るが、人間もまた樹になぞらえることができる。
そして人間を樹になぞらえる私の比喩は新しいものではない。
それは最古の象徴のひとつだ。
それはユダヤ教の神秘的な流派スクールのなかで用いられてきた。
それは「生命の樹」と呼ばれる。
仏教が禅においてその頂点を極め、イスラム教がスーフィ―においてその絶頂
に達したように、ユダヤ教はカバラにおいてその究極の頂に到達した。
カバラは「人間は樹であり、花を咲かせるためには膨大なエネルギーが必要だ」
と言う。
だが、エネルギーを蓄えるということは、エネルギーを抑えることではないと
いうことを覚えておきなさい。
多くの人々がここで道を誤ってしまう。
エネルギーを蓄えることは、エネルギーを抑えることではない。
そのプロセスはまったく違う。
抑圧するということは、最も低いセンターを絶えず抑えつけているということ
だ。
最も低いセンターを抑圧し過ぎると、性の倒錯が起こる。
それが自然に解放されるのを許さず、いちばん低いセンターにエネルギーが溜
まり過ぎると、それはなんらかのはけ口を見いだして性的な倒錯を引き起こす
恐れがある。
それは必ず倒錯を引き起こす!
それは病気をつくりだす。
精神科医、心理学者、精神分析家に尋ねてみるといい。
彼らは「心理的な病が百例あるなら、そのうちの九十五パーセントはセックス
に起因している。どこかでセックスが関連している」と言うだろう。
九十五パーセントというのはかなりの数だ。
そして精神科医や精神分析家のもとを一度も尋ねたことがない人たちもけっし
てましな立場にいるわけではない。
誰もが抑圧されている。
抑圧は変容ではない。
このことをはっきりと理解しておきなさい!
抑圧が変容に通じることは絶対にありえない。
では、変容とは何だろう?
そしてエネルギーの蓄積とは何だろう?
エネルギーを蓄えるというのが 瞑想的なプロセスだ。
それは道徳家になることではない。
私はこのうえもない助けとなる ささやかな技法をやってみることを勧める。
それは昔からずっと道家の人々によって用いられてきた。

それは師から弟子にのみ伝えられてきたものであり、
それゆえに書物に記されたことはなかった。
だが、今や公開されるべき時がきた。
なぜなら、今や何百万もの人々が 書物を通して霊的な探求に取り組んでいる
からだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

581避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 13:15:51 ID:LC3de7YgO
>>580
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

師はいつも得られるものではない。
これはあなたのエネルギーを変容させ、 上に導いてゆくための単純な技法だ。
そしていつも覚えておきなさい――道家の技法はごく単純だが、 「こんなに単
純なことが、どうしてそんなに大切なのだろう?」 などと思わないように。
それを実際に行ない、 試してみれば、あなたにもわかるだろう。
これがそのやり方だ……
少なくとも一日に二度は―― 最良の時間は早朝、ベッドから出る直前だ。
頭がはっきりし、目が覚めてきたと感じたら、二十分間それをやりなさい。
朝、何よりもまず最初にそれをやりなさい!
ベッドから出てはいけない。
そこでそれをやりなさい。
その場でただちにやりなさい!
なぜなら、眠りから出てこようとしているとき、 あなたはひじょうに繊細で、
受容的になっているからだ。
眠りから出てこようとしているとき、あなたは すがすがしく、いきいきとして
いるから、 影響はひじょうに深く浸透してゆく。
眠りから覚めたばかりのとき、あなたは あまり頭マインドのなかにいない。
だからすきまギャップがそこにあり、そこから この技法があなたの内奥の核ま
で 浸透してゆくことができる。
そして早朝、あなたが目覚めようとし、大地全体が目覚めつつあるときには、
大いなる覚醒のエネルギーの潮流うしおが 至るところを取り巻いている。
その潮流を使いなさい。
その機会を逃がしてはいけない。
古代の宗教はみな、早朝、 日が昇るときに祈りを捧げたものだ。
なぜなら、日の出とともに、大自然の すべてのエネルギーが上昇してゆくか
らだ。
その瞬間、あなたは上昇してゆく エネルギーの波に楽々と乗ることができる。
そのほうがやさしい。
夕方になると、それはむずかしくなる。
エネルギーが後退してゆくので、流れに 逆らって闘わなければならなくなる

朝のうちは流れとともに進んでゆくことができる。
だから、早朝、半睡状態でまどろんでいるとき、 ただちにその場ではじめるの
がいちばんいい。
そして手順はとても簡単だ。
姿勢を変える必要はないし、ヨガアーサナもいらない。
沐浴しなくてもいいし、何もいらない。
あなたは仰向けになったまま、 ただベッドに横たわっていればいい。
目は閉じたままにしておく。
息を吸うときには、大いなる光が頭から 入って来るようにまざまざと思い浮
かべる―― まるで太陽が頭のすぐそばに昇ってきたかのように。
黄金の光があなたの頭のなかに差し込んでくる。
あなたは中空であり、 黄金の光はあなたの頭のなかに差し込んできて、 どん
どん深く深く浸透し、芯までうるおすと、 あなたの爪先から出てゆく。
息を吸うときには、このような 視覚化をしながら吸いなさい。
息を吐くときには、別のことを思い浮かべなさい――
闇が爪先から入って来る、暗黒の大河が爪先から 入ってきて、上に昇り、頭か
ら出てゆく。
まざまざと思い浮かべることができるよう に、ゆっくりと、深く息をするがい
い。
ごくゆっくりとやりなさい。
眠りから覚めたばかりのときは、 ひじょうに深い、ゆったりとした 呼吸をす
ることができる。
身体が休息を取り、くつろいでいるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

582避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 13:23:59 ID:LC3de7YgO
>>581
いよいよ、あと一回で「黄金の華の秘密」も終りである。
講読会で取り上げてきた書物は読み流すことのできないものばかりであるが、
そこで語られてる言葉は、実践が通して実感できなければ意味のない言葉なのでありまましょう。
実践としてくまは、できるだけ常に意識を内側にむけるようにしているであります。
(´・(ェ)・`)つ

583避難民のマジレスさん:2019/06/01(土) 23:46:46 ID:LC3de7YgO
>>581
61黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第十五話 かわず飛び込む水の音(つづき)

もう一度くり返そう―― 息を吸うときには、黄金の光を 頭から入ってこさせ
るようにする。
黄金の華はそこで待ち受けているからだ。 この黄金の光は助けになる。
それは全身を洗い清め、創造力を すみずみにまでゆき渡らせる。
これは男性的なエネルギーだ。
そして息を吐くときには、想像しうる最も 暗い闇を、闇夜のような、川のよ
うな 暗闇を爪先から昇らせ――
これは女性的なエネルギーであり、 あなたをなだめ、 あなたを受容的にさ
せ、 あなたを落ち着かせ、 あなたを休ませる――
そして頭から出てゆかせなさい。
そして再び息を吸い、黄金の光を入ってこさせる。
朝早く、これを二十分間やりなさい。
次によい時間は、夜、再び眠りにつくときだ。
ベッドに横になり、しばらく力を脱いてくつろぐ。
今や眠りと目覚めのあいだを行ったり来たりしている。
ちょうどその只なかにいると感じはじめたら、 プロセスを再び開始して、二十
分間続けなさい。
それをやりながら眠ってしまうのがいちばんいい。
なぜなら、その影響は潜在意識のなかに とどまり、作用しつつ゛けるからだ

三ヶ月経つと、あなたは驚くことだろう。
ムラダーラ、最も低い性の中枢に絶えず集まってきていた エネルギーは、もは
やそこにとどまってはいない。
それは上に向かってゆく。
先日、ある人が質問をよこした。
彼はこう言っている。
「私はここで、他のどこでも見かけたことがないほどの 飛びっきりの美人に会
いましたが、性的な匂いは少しも感じません」
どうしてそうなるのだろう?
確かに彼の観察は正しい。
深く瞑想すれば、あなたは 性的な香りをふりまかなくなる。
そこには違う種類の美がそなわる ようになり、性を刺激するものではなくなる

それは霊性の香りを放つようになる。
それは情欲の粗雑さではなく、 繊細な優美さをそなえるようになる。
セックスはあなたの梯子の最下段であり、粗雑だ。
エネルギーが上昇すると、まったく異なる種類の 美と優しさがあなたのなかに
湧き起こってくる。
それは聖なるものだ。
肉体性は希薄になり、 霊性の密度が増してゆく。
三ヶ月間、この単純な技法をやれば、驚くだろう。
抑圧する必要はない。
変容が起こりはじめている。
生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
生涯にわたってこれをやり続けることができたら、いつの日かそれが起こる。
呂祖師は、あなたが忍耐強くあり続けるように、
生涯を通じて……と言っている。
それはいつでも起こりうる。
それは今日起こるかもしれないし、明日起こるかもしれないし、明後日に起こ
るかもしれない。
それはあなたがどれだけ強烈に、誠意を込めて働きかけるかに、どれだけ強い
憧れをもち、どれだけ全一に入ってゆくかにかかっている。
あなたのなかで黄金の華が咲くその日、覚者の境地ブッダフッドが開かれる。
あなたはありうる最も偉大な宝を獲得した。

生涯を通じて生命エネルギーを蓄える道を守る者は、 黄金の華の境地に到達す
るだろう。
そこで自己は対立物の葛藤から解き放たれ、 再びタオ、分かたれていないもの
、大いなる一者と ひとつになる。
タオからタオへ、一なる者から一なる者へ――
プロティノスはそれを"一者から一者への飛翔"と言う。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

584鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/01(土) 23:47:16 ID:1d4drIFg0
↑ご苦労さんなのじゃ。

精力のエネルギーを気に変えて頭頂に導くのが小周天の原理なのじゃ。
それは抑圧ではなく解放なのじゃ。
無理にするものではなく自然に流れが習慣化していくのを待つのじゃ。
そうすれば肉体は蘇り、サマーディにも至るのじゃ。

585避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 00:03:04 ID:LC3de7YgO
昨年10月17日から読んでまいりたした「黄金の華の秘密」、本日終了であります。
OSHOの本をもっと読めならいいなと思いますので、またいつか、ネット上でひろえたら、講読会で取り上げたいと思います。

明日からは、
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA
の講読会をはじめます。
鬼和尚、みなさま、よろしくお願いします。
(´・(ェ)・`)つ

586避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 07:23:14 ID:LC3de7YgO
>>585
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭

―あなたは愛、あなたは無の踊り手

 すべてが始まる以前、あなたは「純粋の意識」そのものとして存在していた。
 愛の中で完全に満ち足りた愛そのもの、  
 気づきを伴った空間そのもの、
 安らぎ以上の平安そのものであった。

 あなたの本質は映像が映し出される映画のスクリーンと同じもの。
あなたは英知の輝き、宇宙の創造者に「創造するという概念」を与えた人だ。
 忘れることができることは全て忘れて、決して忘れることができないそのも
のとしてのあなた自身を知りなさい。
 あなたはその上で全ての物事が起こる基盤だ、ただ起こらせなさい。
あなたは今、この瞬間そのもの、
この今から逃れられる私が存在するだろうか?
 あなたが真理そのものであり、唯一存在するのは真理だけだ。

 あなたの本質は無活動。
 太陽が無活動であるように本質は不動だ。
 活動は思考の投影から起こるもの。
 あなたのドラマ、あなたの世界。

 あなたは貴重なこの瞬間、現存そのもの。
あなたに触れたそよ風は悪魔でさえ神聖にする力を授けられる。 

  あなたは対象やアイデアに気づいている自分に気づいているそのものだ。
あなたは気づきよりももっともっと静かなそのものだ。 
あなたは命、そこから命という概念が生み出される。
 あなたの本質は静寂そのもので、それを手に入れることはできない
それは常に存在しているのだから。

 あなたはまず空間という概念を作り出した。
そして存在・意識・至福という姿をとった。
「世界」というのはあなたの*1マインドが生み出したもの、
 全てはあなたの*2ハートから、核心から、無から、起こって来る。
  
 今、ここに存在するのがあなたのハート。  
 このハートの祠の中であなたは愛として留まっている。
  そこから時間と空間が生み出される。

  あなたは内側、外側という概念を持たない内側にいる。
 マインドがどこにも存在しないところが内側、壁が存在しないところが内側。
 全てのアトムにあなたは存在している。
  このことを知った時、あなたは至福に満たされる。
  
 あなたは無そのもの、究極の実体、
無から無と言う概念を取り除いて無だけを残しなさい
 無を超えるものは何もないのだから。
  全ては無から現れ、無の中で踊り、無に帰っていく。
 波が海から起こり海の上で踊り海に帰っていくように
 あなたはこの無の踊り手だ。
  この無から外れて存在するものは何もない故に
 無は全てを含んで満ち満ちている。
 存在と無存在の間に無は存在する。
  自由であるためには、この安らぎに満ちた無が 
あなたの基盤であるという確信が必要だ。

 あなたの中ですべての出来事が起こる。
起るべきことは起こるのだから安らぎに満ちて影響されずにいなさい。
 平和に満ちていなさい、そうするとこの平和が外に広がっていく。
平和から生まれるものは平和、混乱から生まれるものは混乱。
 だから平和でいなさい、この平和を宇宙に奉げなさい。
これが唯一あなたがすべきことだ。
「私は平和だ」と考えることでさえこの平和を乱してしまう。
 だからただ静かにしていなさい、あなたの「在るがまま」でいなさい。

 あなたは「在る」ことであり、「在り続けた」でもなければ、
「在り続けるだろう」でもない。
 あなたは死に侵されない永遠性、
そこには時間が存在しないので死も存在しない。
そのまさに永遠性というのは今、この瞬間のことだ、それが「在る」ということ
だ。

 単に「在る」ということはいつも輝いた存在だ。
 私自身、これが存在の光だ。
   このダイヤモンドの光は隠しおおせるものではない。
  マインドが存在しない時、
  あなたの顔は美と無垢で光り輝く。
   ただ静かにして、あなたのあるがままでいなさい。
  
用語解説
*1 マインド 思考の集合体。

*2 ハート  心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

587避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 18:47:44 ID:Zjqr/UEo0
>>585 お疲れ様でした!
貴重な文献を鬼和尚さまの解説で読むことができました。
ありがとうございます。引き続き講読会、楽しみにしています。

588避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:28:38 ID:LC3de7YgO
>>586
パパジは、「静かにしていなさい」と繰り返し言うのである。
最初は、静かにするにはどうしたらよいのでしょうか?
と聞きたくなったのであるが、
読み進むと何となく、わかってくるような気がしてきたのである。
(´・(ェ)・`)つ

589鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/02(日) 22:37:25 ID:1d4drIFg0
>>585 ご苦労さんだったのじゃ。
 正に菩薩の行ないじゃ。
 またよろしくなのじゃ。

この書はひたすら集中を訓練することではなく、気の操作によってサマーディにまで一気に到達させる方法を示したものなのじゃ。
クンダリニー・ヨーガと同じ人体のエネルギーを使う法なのじゃ。
気の感覚が分かり、精神集中だけでは効果が上がらない者には福音となる書なのじゃ。
しかし、サマーディから先に行くにはやはり精神の修練も必要なのじゃ。
その部分にタオの実践が必要なのじゃ。
それが還虚合道なのじゃ。

590避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:45:40 ID:LC3de7YgO
>>589
鬼和尚、ありがとうでありま。
今後ともよろしくお願いしするであります。
(´・(ェ)・`)つ

591避難民のマジレスさん:2019/06/02(日) 22:47:27 ID:LC3de7YgO
>>586
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)

〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭(つづき)

   あなたは空間、決して移動進行することの無い空間。
  内側の空間、外側の空間という区別は名前と形のために生じる。
   いかなる対象物、考え、行動に対する執着を取り除くことによって
  この名前、形という概念を取り除きなさい。

  あなたはすでに喜びの園にいるのだから、
  幸せである為にあなた以外に誰も必要としない。
   過去のことに思い巡らすと悲しくなると言うのなら
  この「今」に帰ってきなさい。

   この喜びのこの瞬間が過去の記憶や苦しみを消し去ることができる。
  なぜならこの瞬間こそが幸福のありかなのだから。
  だから苦しむ為に過去の記憶に戻ると言うのはまさに馬鹿げている。
  
   条件付けのない意識が幸福と静けさをもたらす。
  この静寂は時間や空間とは何の関係もない、「今」に存在する。
   思考によって条件付けされた幸福はマインドの幸福だ。
  最初の条件付けである「私」は幸福の妨げになる。
  エゴの欲望と期待によって幸せな人は誰もいない。
   だから幸福を望むなら、考えないこと、欲望を持たないこと。
  ただ静かにしていなさい、考えることは暗い墓場にいることだ。
  幸福であるためには一切何も保持しないことだ、
   さもないとあなたのポケットから死んだ魚のような悪臭が漂うだろう。
  親愛なる友よ、幸福は体験ではない、あなたの本質なのだから
  そのために何もする必要はない。

   幸福は私の本性だという真の知識が幸福をもたらすのだ。

   ここ、ここに美酒があるのに誰も知らない。
  全てがここにある、これが意識だ。
  意識がこの宇宙の全ての基盤だ。
   「それ」、即ちあなたは全ての分子、アトムに存在する、
  時間や空間でさえ「それ」がその存在を与えるのだ。
   あなたが肉体やマインドの服を着ていると誰が気づいているのか、
  誕生や死の繰り返しがこの同じ意識の中で起こっていると誰が意識しているの
か?
   あなたが「それ」だ。
  すべての活動や無活動、多様性や一体性、これらはすべて意識の中に存在する。
  束縛はこのことを否定することであり、自由はそれを知っていることだ。
   あなたはそれだ、あなたはその意識だ
  
   意識、
  感覚では捉えることができない。
  頭では理解することができない。
  意識だけがいたるところに存在する。 
   それがあなたの内に「私」として湧き上がって来る
  それは太陽の輝き、地球の自転だ。
  それは空間と時間を超えたもの。
   逆に時間と空間は意識から生まれて来るのだ。
 マインドで真理を探そうと努力するなら
 それを見逃してしまうだろう。
 これらのマインドの試みが動きとなり、雲となり、その不動性を隠してしまうか
らだ。
 思考が止まった時に、それはそれ自身の姿を現す。
  一瞬だけで良い、思考の動きを止めなさい。
  一秒だけで良い、全ての欲望、全ての思考を止めなさい。
  一瞬だけで良い、「私が」という考えを捨てなさい。
   そうすればあなたは誕生と死という輪廻から永久に越えられる。
  この輪廻が*3サンサーラ、あなた自身の想像のたまもの。
  誕生も始まりも死も存在しない。
   真の知識によってのみこの輪廻を止めることができる。
  「私は一体誰なのか?」
  この自問がこの輪廻を止めることができる。
   だから決心しなさい。
  人間としてのこの生はすばらしい祝福だ、決して無駄にしないことだ。
   延期することはサンサーラ、苦しみの繰り返しだ。
  あなたが困った時にはいつでも、「私は夢を見ているのか?」と自問しなさい。
  これは「私は誰か?」という質問と同じことで夢から覚めることが出来る。
   そして、あなたはあなたの真我と恋に落ちるだろう。
  その時初めて「他人」を知ることになる。
  この知識の光をあなたがどこにいようとも燈し続けなさい。
  
   静かにしていなさい、考えないでいなさい、努力しないこと。
  束縛されるには努力が必要だが、自由であるためには努力はいらない。
   心の平安は思考と努力を超えたところにある。
  思考と努力がそれを隠して、決してそれを明らかにすることはできない。
   このために静かにしていることが愛と平和の宝庫を開ける鍵となる。
   
用語解説
*3 サンサーラ 個人が解放されるまで繰り返される生と死のサイクル。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

592鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/04(火) 00:08:43 ID:1d4drIFg0
自我の在る者は過去の記憶から悲しみや怒り寂しさなどに苦しめられるのじゃ。
そしてそれらを未来にも続くであろうと認識するから不安になるのじゃ。
過去の記憶に囚われず、記憶を未来に投射せずに今ここにあれば誰でも幸福になれるのじゃ。
それが本来の意識なのじゃ。

593避難民のマジレスさん:2019/06/04(火) 05:09:34 ID:LC3de7YgO
>>591
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭
   
   この静けさがノーマインド、この無思考が自由だ。
  何もないこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
   しかし注意しなければならないことは、それを経験にしないことだ。
  経験は「観察者と観察されるもの」という二元性を持つマインドの罠で
  それから遠ざけてしまうからだ。
   「ただ在ること」は「ただ在ること」だ、観察者や観察されるものは存在しない。
  「私は自由だ」という経験は、「私は束縛されている」という経験と全く同じマインドの罠だ。
   対象を手放したあとは主体も手放しなさい。
  全てを手放して、静かにしていなさい。

   人生の目的は平和でいること、
  全ての生き物を愛すること、自分が誰かを知ること。
  あなたの本性を知れば全てを知ることになる。
   この潔癖な知識のみ、無のみが存在する。
  限界のない無からどのようにして抜け出すのか。
  名前、形の様相はこの無の戯れだ。
   今、ここで、ただ静かにして、あなたは一体誰なのかを知りなさい。

   あなたはこの瞬間に存在する、「これ」に自己紹介しなさい。
  マインドをいろいろな方面に向けないことだ。
   修行なし、過去なし、未来なし、
  あなたのハートの中の無も、空間でさえ存在しない。
  永遠に自由であるために、この一瞬に向かって自己紹介しなさい。
   この瞬間はいつもこの瞬間だ。それは不変だ。
  マインドと概念から自由になることが本当の自由だ。

   自由はあなたの基本的に持って生まれた権利だ。
  この瞬間を最も有効に使うにはその中に溺れてしまうことだ.
   静かにしていなさい、あなたは内側の内側にいる、
  どこにも定着しないで、努力するのをやめなさい。
  努力と修行の概念は束縛になる。
   ただ静かにしていなさい、
  どこにいようとも、ただ静かにしていなさい。

   名前と形というものが事の本質を隠してしまう。
  これが教訓だ。
  名前と形に囚われることは、自由への障害になる。
  あなたの基盤である意識がそれに覆われて見ることができないからだ。
  馬の彫像といえば目は素材のグラナイトを見ることができない。
  指輪を見なさい、それを作っている素材のゴールドは見ることはできない。
  ゴールド無しに指輪が成り立たないように  
  名前と形は意識を離れて存在することはない。

   波が起こる以前は静かな海であった、欲望が起る前は無であった。
  切望や束縛を壊しなさい。
  経験者ではなく経験している、見る人ではなく見ているに同一化することによ
って
  それらを破壊しなさい。
   あなたは意識そのものであつて、意識がある「人」ではないのだから。
  自由であるためには自由のように振舞いなさい。
   自由とは欲望がないことだ。
  すべては無欲の状態の中で知ることができる。
  何も所有したくないのならポケットはいらない。
 過去は過去なのだから記憶というポケットに入れて持ち歩かないことだ。
  自分は生きていると知っていながらどうして過去という墓場に入ろうとする
のか。
  一時的なものには執着しないで、あなたの絶対的な真我に執着しなさい。

   あなたが執着した全てのもの、あなたが愛した全てのもの、
  あなたが知っている全てのものは、いつか消え去ってしまう。
   このことを知った上で、世界は自分のマインドが創り出し
  その中で演じて、苦しんでいるだけなのだと分別しなさい。
   真理か、そうでないか識別しなさい。
  既知は真理ではないので来ては去っていく、
  未知は変わらない真理だ、それと一緒にいなさい。
  現れては消え去る全てのものは実在しないのと同じだ。
   それらから蜜の甘さは味わえないのだから、執着するのはやめなさい。
  そして、いったん手放したら、もう二度と取り戻そうとしないことだ。
   永遠にあなた自身の存在の中に留まりなさい。

   真理は不動だ。行ったり来たりはない。
  エゴの混乱、動揺が全宇宙の混乱を創り出す。
   しかし、真理は不動だ。
  このエゴがどこから、どのようにして生まれて来るのか注意深く見てごらん。
  「私」というのは単なる親から社会からの条件付けの集まりだ。
  習癖の集まりにすぎない。
   個人というのは本当の私がエゴという着物を着ているようなものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

594鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/04(火) 22:49:49 ID:1d4drIFg0
名前と形はインドではナーマ、ルーパというのじゃ。
伝統的な分類による観念の要素なのじゃ。
記憶に拠って人は名前と形で全ての物事を認識しているのじゃ。
自分も名前と形で認識しているのじゃ。
それも記憶に依存したものであるから謬見となるのじや。

595避難民のマジレスさん:2019/06/05(水) 04:55:19 ID:LC3de7YgO
>>593
1「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

序章:愛と無の祝祭(つづき)

  個人というエゴを捨てなさい。
  エゴはそれが問題だという、
  神はそれは問題ではないと言う。
   全てが至高の力に支配されているのだから
  エゴの決定力は幻想にすぎない。
   全能に直面しなさい。

  降伏するとはあなたのエゴを、個別性という概念を明け渡すことだ。
  降伏するとはあなたの馬鹿さ加減、邪悪さを
  存在の意志に明け渡すことだ。
  それだけのことだ。
   川が海に流れ込むように降伏しなければならない。
  降伏とは「あなた」という川の分離感が
  海の中に流れ込んで、川であるという限界が無くなってしまうことだ。
   そして、起こることは起こるがままにすることだ。

  空間に降伏しなさい。
 真の知識でエゴを溶かしなさい。
  自問という乗物に乗って愛と崇拝と一緒に
 あなたの真我に、静かに内側に入っていきなさい。
  この自問はすべての努力を捨てるということだ 
 静かに、静かに入っていきなさい、小さな思いつきでさえ大きな雑音となる。
 静かにしていなさい。
 静かにしていなければならないのはエゴであって、あなたはそのエゴではないと知りなさい。
  この沈黙は話をする、しないとは全く関係が無い、
 マインドの中に一つの思考も湧き上がらない状態を沈黙と言うのだ。
  静かにしていなさい。
 考えるのを止めなさい。
 努力するのを止めなさい。
 
  この何も無いこと、この静けさにあなた自身を一体化させなさい。
 そこには「獲得」するものは何も無い。
  源泉の本性は耕して栽培してその実を得るというものではない。
 あなたは意識で農夫ではないからだ。
  既にそのものなのだから
 どうしてそのものになろうと努力する必要があるだろう。
  社会から押しつけられた束縛から逃れようと努力することは、
 押しつけられた自由を獲得するのと同じことだ。
  
 あなたはものや考えに気づいていることに気づいている「それ」だ。
  気づきとは、「対象に気づいている自分に気づいている」ことだ。
  あなたは「それ」、静けさそのもの。
  
   覚醒への近道はマインドの純潔さに頼っている。
 このショートカットはあなたの欲望を切るということだ。
  欲望の対象物が幸福をもたらすのではない。
 これは逆に束縛を与える。
  獲得したあとの無欲状態が幸福をもたらすのだ。
  無欲が幸福をもたらすのだ。
   欲望だけがあなたの平和と休息への道を妨げている。
  この欲望というのがマインドの病癖だ。
   欲望なしに生き、幸福でいなさい。

  幸福はあなたの本質だからその為に何もする必要はない。
  自分を知る、自分の本質を知るということが幸福をもたらす唯一の道だ。
  「ここ」、ここに美酒があるのに誰も知らない。

  世界の出来事、自由、マインド、全ては存在しない。
 これが究極の真理だ。
  究極の真理は全て無であり、いつも無であったということだ。

  ノーマインドとは外側の世界とは関係がない。
 ノーマインドが無に行きつく唯一の道で、他に道はない。
 本質が明らかになるのはあなたがノーマインドの時だ。
  だから静かにして、何も考えないこと、努力をしないこと。
 何も考えないでおこうと努力しないこと。
 
  自分の本性を知るには
 強靱な肉体とマインドと意志が必要だ。
 あなたはやり遂げねばならない。
  単にメニューを読んでいるだけでは空腹を満たすことはできない。
 食物を食べなさい。
 愚かなマインドを征服しなさい。
  理解するということではない、「在る」ということだ。
 自由でありたいと決めるのはマインドではない。
 なぜなら自由を達成した時、マインドは存在できなくなるのだから。
  マインドをコントロールしなさい。必要な時は召使いのように使いなさい。
 ここ、この瞬間に自由である為にはマインドは必要ない。

  私が本当に教えたいことは、
「教えることができないそのものについて」教えたいのだ。
 私の教えは教えることができないということだ。
  全ての教えが湧きあがって来るその源泉、
 その本質について私は教えることができない。
 この本質というのは全てを超越しているので
 教えるとか教えないとかの問題ではない。
  その本質とは全ての言葉が生まれて来るその源泉のことだ。
 バグワン(マハルシ)ならこう言うに違いない。
  真理はここにある、あなたは一体何が欲しいのか?
 決断はあなたにかかっていると・・・。
(´・(ェ)・`)
(おわり)

596鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/05(水) 22:55:53 ID:1d4drIFg0
百万人のブッダがいても一人の人間に永遠の意識を教えることは出来ないのじゃ。
それは自ら到達しなければ理解も出来ないものなのじゃ。
教えられるのはそれに至る方法だけなのじゃ。
そうであるから方法を教わったならば、実践するしかないのじゃ。

597避難民のマジレスさん:2019/06/06(木) 03:29:10 ID:LC3de7YgO
>>595
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1
  
   真我というのはあなたであるところのもの、
  あなたは「*1それ」だ。
  測り知れない「それ」から、経験や概念が現れる。
  真我は往来のない一瞬。
  それは、*2ハート、*3アートマン、無。
  それは、それ自身の中で、それ自身に対して、それ自身で光り輝いている。

  真我が生命に息吹を与える。
  それを探し求める必要は何もない、それは「ここ」にあるのだから。
  あなた自身があなたが探し求めているものだ。
  「それ」が存在する全てだ。
  唯一真我のみ。

  欲望だけが生まれ変わっただけであなたは決して生まれてこなかった。
  何もかって起ったことはないし、何も存在したものもない。
  この何もないこと、これがあなたの本質、
  そして、これが究極の真理だ。
  完全にあなただけ、即ち美しさだけが存在する。
  唯一真我のみ。

  あなたの本質は意識だ、ということは明らかで拒むことはできない。
  あなたはハートの蓮華の中で至福の喜びに満ちて存在している。
  静かにしていなさい、
  そうするとあなたの真我があなたの真我にその姿を現わすだろう。
  「真我を知る」ということは他の全てのものを犠牲にしても知る価値があるものだ。
  他の全てのものは意識から出現する蜃気楼にすぎないからだ。

  全ての生き物の中に真我が存在する。
  それ故に他人を愛するということは真我を愛すること、
  自分自身を愛することと同じだ。
  真我は最も偉大な愛で同時に最も愛すべき愛人、
  愛というのが真我の魅力で、真我が真我を魅了する。
  この愛、この喜びの源泉のほかに何もない。
  あなた自身がどんなに美しいか見てごらん。
  あなたはこの内なる美しさ、愛そのもの。

  これでもない、これでもない。(*4Neti,Neti)
  しかし、あなたの本質は決して拒絶されることはない。
  それは「今」だけに存在する。
  起きていようが、寝ていようが、夢見ていようが、
  唯一「今」に存在する、
  唯一真我のみ。

  この現在の瞬間が光であり、真我である。
  この瞬間は束縛でも自由でもない。
  概念を超えた最も貴重なものだ。
  この瞬間は全てが投影される何もないスクリーン。
  それはいつも不動で何にも影響されず時間を越えたもの。
  究極とこの「存在」の間には何の違いもない。
  この瞬間にいるためには
  この瞬間にいたいという欲望も含めて、全ての欲望を捨てることだ。

  本質的に名前も形もない「それ」に数え切れない名前がつけられた。
  存在、気づき、至福、アートマン、真理、真我、吉兆、美、
  自由、神の愛、完全、無、意識、瞬間、無努力、ここ、沈黙、*5ブラーフマン。
  舌が「舌」という言葉を話すように、
  あなたがあなたの名前を呼ぶ。
  あなたの先入観であなたの本性が覆われないように
  仏陀は否定的な言葉で真我について話した。
  たとえば、‘ANATA’とは、触れることができないもの、
  姿のないもの、目に見えないもの、
  近づくことのできないもの、知ることのできないもの、穢れのないもの。

  観念と世界が現れる以前にあなたは存在している。
  それ故に「それ」は言葉では言い表すことはできない。
  真我は自分自身を理解する必要はない。
  自由というのは自由という概念が現れる以前にあった。
  「私」という概念、マインド、過去が消え去ったあとに残されたもの、
  それがあなただ。
  何もないということは何の概念もないということ。
  それがあなただ。

  平和・美・愛と同一化しなさい。
  それを体験するのではなく、それと同じものになるのだ。
  「私は無活動、活動は私の中で起こっている。
  私はスクリーン、私は『それ』。
  私は決して生まれてこなかったし、決して死にはしない。」このことを知りなさい。

用語解説

*1それ  本質的に名前のない真理を指す代名詞

*2ハート   心臓や心という意味ではなく、源泉、センターという意味。

*3アートマン 全ての存在の不滅の本質、ブラーマンと同じ意味。

*4Neti,Neti これでない、これでない。
ウパニシャッドに書かれた言葉、ブラーフマンは言葉や思考では言い表すこと
はできないので、絶対の真理を見つける為に全てを拒否していく過程

*5ブラーフマン  ヒンドゥイズムの絶対的現実、究極の真理、存在・知識
・至福
(´・(ェ)・`)
(つづく)

598鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/06(木) 23:00:48 ID:1d4drIFg0
アートマンは認識できない認識主体なのじゃ。
認識主体から全ては認識されるのじゃ。
しかし、認識主体のみは認識できないのじゃ。
それにたどり着くには全てを否定するしかないのじゃ。

599避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 04:08:36 ID:LC3de7YgO
>>597
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1(つづき)

  意識そのものと同一化しなさい。
  自分は誰かと覚えていたらこの世の中の動きは宇宙の踊りだ。
  往ったり来たりするものに留まるのではなく、
  自分自身に留まりなさい。
  個別な自我はマインド。 
  「在ること」は未知の領域を持たない。
  自分自身が自分自身に気づいて「在ること」なのだ。
  「在ること」に同一化しなさい。

マインドが純粋・潔癖なら、存在する全てに真我を見るだろう。
  すべての概念、特に純粋さの概念を取り除くことでマインドを純粋にしなさい。
  そうすると真我が無のマインドにそれ自身で姿を現すだろう。

  エゴ、マインド、そして全ての創造物は真我から真我としてやってくる。
  醜悪な疑念や差別や分離感でさえ美しい源泉から湧きあがってくる。
  真我の中ではすべきこと、すべきでないことは存在しない。
  不幸に直面しても、あなたは不幸ではない。
  あなたは不幸に影響されることのない気づき。
  波は海から切り離せないように光線も太陽から切り離すことはできない。
  これと同じように、あなたは存在から離れて生存することはできない。
  あなたはこの瞬間、全てが存在するこの瞬間。

  経典の中に内なる三つの神聖な川について書かれている。
  それらは存在・意識・至福。
  それらは思考や努力で対象化されたり、主体化されることはない。
  それはとても親密で、とても身近にある。
  網膜の背後、息をする以前にある。
  これを見る必要はない、あなたはそれだから。

   あなたは、「存在」・「在ること」とどんな違いもない。
  目で見るということではなく、全ては「在る」ということを見てごらん。
  対象物を見るということではない。
  単に見ることが、「在る」ことだ。

  意識が本来の「母」。
  このことを知っているならこの「母」が面倒見てくれる、
  幸福・平安・不死を与えてくれる。
  この「母」を知らないために問題に巻き込まれる。
  既知の母は永遠の平和と愛を与えることはできないから
  あなたの本質であるこの「未知の母」、「それ」に戻りなさい。

  至福は永遠だ。
  マインドが死んだとき、至福が湧きあがってくるように見えるけれども
  至福は体験から来るものではない。
  それはあなたの本性だ。
  至福は賢者のハートだ。
  至福はこの贈り物をあげようと全ての人を呼んでいる。
  「あなたは全ての存在のハートの中に座っている。」
  これが真理だ。
  この真理であなたの顔は光り輝く。

庭で庭仕事をしている王は王のままで決して庭師ではないように、真我は世間
の庭の中にいても真我として在ることができる。
活動的な世間で活動しているのはあなたであなた自身の真我ではない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

600鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/06/07(金) 22:12:42 ID:1d4drIFg0
パパジの説くことは実に明確じゃ。
人は何かになったり、何かをしたりしなかったりする必要も無いというのじゃ。
ただそれであるだけであるから、何もする必要は無いのじゃ。
何もしないと言うことが最高の道なのじゃ。
修行していない者には難しいことであるがのう。

601避難民のマジレスさん:2019/06/07(金) 22:30:40 ID:LC3de7YgO
>>599
「真理のみ」 (原題 「THE TRUTH IS」)
〜SRI H.W.L.POONJA

第1章 真我 ☆Part1(つづき)
  
世界の物理性が現れてくる、その源泉に行きなさい。
そうすると広大さ、秘密の神聖なあなたのハートの核心を発見するだろう。
しかし、対象に執着したり何かに成ろうとする欲望のためにこのことを忘れて
しまう。
欲望と期待のためだ。
全ては一つで、一つが全て。

古びた習癖の期待や欲望を捨て、この共通の真髄に一体化したならあなたは宇
宙の皇帝だ。
「今」・「ここ」に戻ってきなさい、そうするとあなたがこの「今」・「ここ
」になる。

  全ては真我。
  あなたと私の違いは単なる言葉、単なる概念の違い。
  あなたの中の真我は私の中の真我で全ての存在の中の真我。
  全ての源泉は同じだ、これが真我、これが愛、これが慈悲。
  真我から離れようとしても決して離れることはできない。

  「私は海、目に見える全ての形態は私の上で踊っている波だ」、これが知
識。
  波が起こるとき、海は何も失うものはない。
  波が静まるとき、海は何も得るものはない。
  波が遊んでいるときは海も遊んでいるのだ。
  私は海、私は水、私は波。
  海と水と波の間に分離はあり得ない。
  そこには何の違いも、動揺も動揺する人もいない。
  
「私」、あるいは他の思考を起こすことが波を起こすことだ。
  どんなに波立とうと、水は水のまま。
  だから全てをあるがままにあらしめなさい。
  全てがあなたの真我なのだから。
  河が海に流れ込むように、あなたであるところのものに流れ込みなさい。
  幸福、至福、存在、宇宙に流れ込みなさい。
  「ここ」には気づきのみ、真我のみ。

  たとえそれを忘れてしまってもあなたは「今・ここ」にある「それ」だ。
  忘れっぽいあなたに気づいているのはあなたなのだから。
  あなたは目覚め・夢・眠りの三つの状態に存在する覚醒の意識。
  この変化する三つの状態の中で唯一真我のみ消えることはない。
  
  真我はノーマインド、ノーマインドは肉体を持たない。
  ノーマインドのこの美しさから芸術や直感的洞察が生まれる。

  かって何も起らなかったしこれからも何も起らない。
  あなたはいつも完成された愛であり平和であり続けた。
  変化するものは真実ではない、真実であるものは変化しない。
  あなたは変化を超えた、言葉では言い表せないその秘密、その純潔さだ。
  しかし、「私」に触れると誇りという概念で汚されてしまう。
  
「私が努力してやり遂げた」というこの「私」は、真の「私」ではない。
  真の「私」は全てが自分の反射―投影だということを知っている。
  単に「私が在る」と知っていることは無努力の状態だ。
  これが瞑想であり*6サハジャつまり自然な存在の状態だ。
 
宇宙の塵の一つ一つの中に数え切れない宇宙が存在し、数え切れない仏陀が光
り輝いている。
あなたが理解できるようにそれを説明するのは難しいがこれは事実だ。
それを見ることはできる。
たとえば、全てが一つの原子から現われる、それは神秘だ。
誰もこの神秘を解くことはできない。
私たちがいつもサットサンガで話している「この瞬間」も アトムと同じようなものだ。
その一瞬にあなたの全ての生をみることができる。
全ての人が本質的に仏陀なのだ。

用語解説

*6サハジャ   自然で完全に悟りを得た状態。

(´・(ェ)・`)
(おわり)


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