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鬼和尚の仏教購読会 別館

1避難民のマジレスさん:2018/10/16(火) 22:40:04 ID:HDZhjLgoC
明日より、黄金の華 の 購読会を始めるのである。
どうやらOSHO35才の時の講演らしい。
OSHOは、すごい人なのである。
セゴドンやゲバラに匹敵する革命家だったのでありましょう。
それでは、明日からお楽しみに!
(´・(ェ)・`)つ

207避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:53 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

208避難民のマジレスさん:2019/01/07(月) 19:55:54 ID:LC3de7YgO
>>205
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

ソーマは月の別名だ。
それはキノコでも、LSDのようなものでも、麻薬でもない。
それは月と霊的交流に入るための秘術だ。
ちょうど海が月の影響を受けるように、月からエネルギーを得ることができた
なら、あなたは驚くだろう―大いなる精髄ジュース、大いなる甘露が降り注い
でくる。
あなたはいかなる麻薬で酔っぱらうこともなく酔いしれることができる。
月はあなたの実存のまさに中核にまで影響を与えることができる。
それはあなたをひそやかで、穏やかにする。
それは月が女性的なエネルギーだからだ。
愛する女性を抱擁すると、たちまちあなたは深い静けさと穏やかさが湧き起こ
るのを感じる。
月からエネルギーが返ってくるときには、それとまったく同じことがより大き
な規模で起こる。
太陽が男性原理であるように、月は女性原理だ。
月は<陰>であり、太陽は<陽>だ。
月は母のようにあなたを慈しむ。
ヒマラヤの谷間にキノコを探しに出かけなくてもよい。
そのキノコはいつも天空にかかっている。それは月だ。
ただあなたはどうやって月からエネルギーをもどってこさせるか、その秘法を
習わなければならない。
月から、そして太陽からもエネルギーを得る秘密の技法が伝えられてきた。
太陽崇拝は、ある技法から生まれたものであり、巨大な太陽の神殿が建てられ
た。
コナラックの太陽の神殿は、まさに太陽への感謝を表すものだった。
それはたんなる礼拝ではなく、いかに<陽>のエネルギーを取り入れるかとい
う科学だった。
特に女性は太陽のエネルギーを取り入れるとよい。
隠され、眠っている<陽>のエネルギーが活性化するからだ。
男性は月のエネルギーを取り入れるとよい。
眠っている女性原理が活性化し、再び動きはじめるからだ。
女性は太陽を礼拝するといいし、男性は月を礼拝するといい。
だが、その礼拝はただの儀式であってはならない。
それはこのような技法でなければならない。
光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化
する。
「光と闇」は、男と女、軽さと重さ、恩寵と重力、生と死、運動と休息を象徴
している。
これらすべてが「光と闇」で表されている。
ひと言で言えば、エネルギーが輪のように巡れば、あなたはだんだんと自分が
男なのか女なのかわからないようになる。
外向性は<陽>の原理であり、内向性は<陰>の原理だ。
男には自然に外へ向かう傾向があり、女には自然に内に向かう傾向がある。
愛を交わしているときでさえ、男は目を開けたままでいる。
彼は見たい。男は覗のぞくのが好きだ。ポルノが現れるのはそのためだ。
ポルノに興味をもつ女性はいない。
女性はそれに意味があるとは思えない。
恋人と愛を交わしているときでさえ、女性は目を閉じている。
女は内向的であり、彼女のエネルギーは内側へ向かう。
だが、そのエネルギーは輪にならなければいけない。
輪にならないかぎり、人は男か女であり続ける。
だが、どちらも半分であり、同じ全体なるものの半身だ。
互いに相手に惹かれ、相手を必要とするのはそのためだ。
いつかエネルギーを輪のように巡らせることができるようになれば、あなたは
相手の男性や女性を必要としなくなる。
なぜなら、みずからの内なる男性とみずからの内なる女性が出会い、互いに溶
け合っているからだ。
あなたは全体になる。
そして全体ホールであることが神聖ホーリーであることだ。
全体であることが神聖であること―これがタオであり、そしてこれはタントラ
でもある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

209鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/07(月) 22:02:29 ID:1d4drIFg0
丹田に発生した気は陽の気であり、日の属性というのじゃ。
それが頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変るというのじゃ。
インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージするのじゃ。
月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変るというのじゃ。
その気を丹田にまで下げて収めることで小周天は完成するのじゃ。

210避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:05:22 ID:LC3de7YgO
>>209
>頭の天辺に達すると涼しい陰の気に変る>インドのヨーガでも頭の天辺のブラフマランドラには月があるとイメージする
>月の冷たい雫が垂れてきて冷たい気に変る
>その気を丹田にまで下げて収める
←そう言えば、身体を流れる気を観察していると、皮膚の表面や身体の内部で、温度の違いを感じたであります。
気自体の熱感が際立って感じられるのでありますが、冷たい部分も確かにあったであります。
当時その事を、2ちゃんの仙道スレに書いたら、名無しさんに、「陰の気」と教えてもらったのでありますが、
別の書き手に、全否定され、くまの書くことは全部嘘だと決めつけられ、粘着されてしまったのでありました。
気功修行の記録をそこに残していたのでありますが、
粘着くんへの対応が面倒になり、記録とともに、その修行自体も中断したのでありました。
(´・(ェ)・`)つ

211避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:20:20 ID:LC3de7YgO
>>208
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光を輪のように巡らせると、天と地、光と闇のエネルギーはことごとく結晶化す
る。
カール・グスタフ・ユングが「個性化」「結晶化」と言っていたのはこのこと
だ。
ゲオルギー・グルジェフが「自己の誕生」あるいは「魂」と言っていたのはこ
のことだ。
あなたは通常は断片にすぎない。
あなたはたくさんの自己を持っている。
単一の"私"はなく、たくさんの"私"、小さな"私"をもっている。
しかもそれらがみな支配権を握ろうと、互いに闘い、競争し合っている。
人間は複数だということ―それが人間の惨めさだ。
自分がたくさんいたら、どうして安らぐことができるだろう?
ある部分が「これをやれ」と言い、別の部分が「いやだ」と言い、また別の部
分が「もっと他のことをやれ」と言う。
どれに従っても後悔することになる。
なぜなら、それに従いたくない他の部分が問題をつくりだすからだ。
「おまえは道を間違えている。別の選択をしていた方がはるかにましだった」
と他の部分がしきりに言い続ける。
「俺についてきたら、もうたどり着いていたのに。
見ろ、おまえが耳を貸さなかったせいだ」
だが、その部分に耳を傾けていたなら、また別の部分が反撃に出ていただろう。
人間はけっして満足しない。満足することなどありえない。それは人間が複数
だからだ。
ひとつになれば、満足はおのずと湧いてくる。
あなたが複数いるなら、不満足はやむをえない。
あなたが複数いるなら、葛藤の絶えない人生になる。
ひとつであれば、葛藤は消え失せる。
あなたは我が家に帰り着いている。
道家の人々が「結晶化」と呼んでいるのはこのことだ。
それを達成する技法は、あなたの<陰>と<陽>がもはや分離していないよう
に光を輪のように巡らせることだ。
光はまさに呼吸のごとく動かなければならない。
息は出ては入り、入っては出てゆく。
あなたは息を吐き、息を吸う。
息を吐いてばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼は生きてゆけなくなる。
彼の肉体は死んでしまう。
あるいは息を吸ってばかりいる人を思い浮かべてみるがいい。
彼もまた死んでしまう。
だが、これこそまさにあなたの魂に起こっていることだ。
あなたの魂は死んでいる。
光を吐き出すか、光を吸い込むか、あなたはその片方しかしていないからだ。
まだあなたは吐くことと吸うことが輪に、ひとつのプロセスにならねばならな
いことを学んでいない。
深く吐き出し、深く吸い込みなさい。
肉体の生命にとって呼吸が必要なように、魂には意識が必要だ。
だから意識を半分のままで放置してはならない。
輪を完結させなければならない。
女性はいかにして男でもあるかを学ばなければならない。
男性はいかにして女でもあるかを学ばなければならない。
そして男性と女性が等しいバランスを得ると男女のバランスが完全に取れると
き、それが結晶化、個性化であり、魂が生まれるときだ。
(p142)

この秘術を行ないはじめると…そして、確かにそれは秘術だ。
本当に信じられないほどの効果があるからだ。

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
私が「ブラック・ホール」という言葉で言おうとしたのはこのことだ。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

212避難民のマジレスさん:2019/01/08(火) 02:32:53 ID:LC3de7YgO
>>211
仙道・気功、あるいはクンダリニヨガ等の解説として、このように解説されているところは他にもきっとあり、くまも目にしたことはあるかもしれないでありますが、
はじめて心に響いたであります。
くまの実感としては、気を巡らす訓練は、数息観等の瞑想修行とは全く異質の身体修行の様に感じられ、ますます自我を強化するものの様に感じられたのであります。
それで、その訓練法を放棄するのにためらいはなかったのだと思うのであります。

鬼和尚の言われるように、惜しかったと、今は思うのでありますが、
これから、当時を思い起こして、再度取り組み完成させようとしても、この手のことは意識的に追い求めると起こらず、
身体に自然と火がつくのを待つしかないと思うのでありますが、ちょぴっとづつやってみるであります。
(´・(ェ)・`)つ

213鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/08(火) 23:31:43 ID:1d4drIFg0
>>210>>212 陰の気まで感じられていたのに惜しいことじゃ。
 自分の修行について話したり、書いたりしないほうがよいのじゃ。
 常に批判する者は居るからのう。
 それをドリームバスターと言ったりするのじゃ。
 夢を壊すものなのじゃ。
 修行法をも秘密にするのはそのような者に修行者が毒されないようになのじゃ。
 今度は秘密にやるのがよいのじゃ。

214避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 01:21:16 ID:LC3de7YgO
>>213
鬼和尚、ありがとうであります。
うむ。
今度は、こっそりやるであります。
けど、臍下丹田〜会陰の辺りで陽気が滞っていることを仙道スレに書いたら、名無しさんに、逆腹式呼吸で押し出す方法を教えてもらい、助かったりもしたのであります。
うむ。でも今度は、極秘でやるであります。
(´・(∀)・`)つ

215避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 02:11:17 ID:LC3de7YgO
>>211
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

この秘術を行ないはじめると、まるで生ける存在の 只なかに無があるように感
じられる。
…生ける存在に囲まれているかのように感じられるが、 あなたは非存在、無の
孤島―ブラック・ホールにすぎない。
樹々は生きている。
星々は生きている。
鳥たちは生きている。
大地は生きている。
太陽や月は生きている。
あらゆるものが生きている。
ところがあなたは……死せるブラック・ホールにすぎない。
生ける存在のこの広大な海原のなかで、あなただけが非存在だ。
これは修行をはじめたばかりのときに起こってくる状況だ。
やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり、 あたかも無の只な
かに生ける存在があるかのように感じられる。
あらゆるものが一変してしまう。
あなたは生ける存在、ホワイト・ホールになる。
あなたはすっかり統合され、結晶化しているので、それと比べれば、太陽や月
や樹や鳥や動物はすべて非存在のように見える。
仏陀のような人を思い浮かべてみるといい。
彼には存在感がある。
彼と比べれば、全存在も青ざめているように感じられる。
彼には生命、永遠の生命、ありあまるほどの生命がある。
全存在は貧しく、彼は豊かだ。
彼は帝王であり、全存在は乞食のようにみすぼらしい。

やがて修行の成果が現れてくると、肉体の外に肉体があり……この光の輪があ
なたのなかで定まり、結晶化すると、あなたは肉体の中にある別の身体を感じ
るようになる。
この肉体は塵ちりでできているが、その身体は神で、聖なるものでできている。
この肉体には形があるが、その身体には形がない。
この肉体は粗雑だが、その身体は微細だ。
この肉体は死なねばならないが、その身体は死を知らない。
この肉体は時間の一部だが、その身体は永遠の一部だ。
この第二の身体が生まれると―それを生み出すためには、まず光を吸ったり吐
いたりする方法を身につけなければならない……ちょうど息を吸ったり吐いた
りするように、第二の身体、光の身体において光を吸ったり吐いたりする方法
を身につけたなら……。
この肉体は闇の肉体であり、この肉体は大地の一部、重力の一部だ。
それは重く、下方へと引っ張られる。
もうひとつの身体は上方へと引っ張られる。
それは恩寵の一部であり、軽いライト……文字通り光ライトのように軽い。
それは光を放ち、重さをもっていない。
あなたは飛ぶことができる。
禅の人々が「翼なくして飛翔する」と言うのはそのことだ。
そうなったら大空とその限りのなさがそっくり手に入るようになる。
(p144)

あたかも無の只なかに生ける存在があるかのように感じられる。
百日 のあいだ懸命に努力を続けると、ようやく火が発するようになる。
最初、光はほとんど空想されたもののように見えるだろう……最初は空想から
出発するしかない。
時が経ち、百日が過ぎると、百日のあいだ
懸命に努力を続けると……それはど
れだけ集中して働きかけるかにかかっている。
百日と決められているわけではない。
全身全霊をあげて取り組めば百日だが、気を抜けば百年、あるいは百回生まれ
変わらなければならないかもしれない。
それはいかに熱心に取り組むかにかかっている。
心血を注ぎ、全身を投げ入れ、打ち込み、すべてを賭ける用意ができているな
ら、百日間で「火」が生じてくるだろう。
最初のうちは空想であっていい。
空想は悪いものではない。
空想によって現実から目をそらしたり、空想が障壁とならないかぎり、それは
悪いものではない。
現実と協調しているかぎり、空想は悪いものではない。
それは大きな祝福となるだろう。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

216鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/09(水) 22:44:20 ID:1d4drIFg0
丹は集中して気を集めているとだんだん大きくなってくるのじゃ。
体の中で別の体を形成するのじゃ。
陽神というのじゃ。
それはやがて頭の天辺から体を抜け出すようになるのじゃ。
そのような現象はヨーガや仏典にもあるのじゃ。
脱身とか意生身というのじゃ。
実際は意識が拡大しているのじゃ。

217避難民のマジレスさん:2019/01/09(水) 23:51:57 ID:LC3de7YgO
>>215
15黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる3
 より抜粋

最初はそれは空想の産物のように感じられるだろう。
鏡を見ながら、あなたは「鏡に映った自分がこちらを見ているなんて、これは
すべて空想だ」と感じるだろう。
最初は紛れもない空想だが、間もなくそれは空想でなかったことに気付くだろ
う。
あなたは現実の扉の錠を開けようとしていただけだ。
それは現実に起こりはじめる。
最初のうちは大いなる愛を込めて樹に触れても―あなたは樹が応えてくれるは
ずがないと思っている―樹が少しでも応えてくれるのを感じても、あなたは空
想だと思うだろう。
そうではない。樹は応えている。
だが、本当にそうだと気付くには少々時間がかかるだろう。
あなたが愛にあふれていれば、樹は愛をもって応えてくれる―愛にはいつも愛
が返ってくる。
愛に愛が返ってこなければ、その愛は愛ではなかったのだと知りなさい。
それが真相だ。
別の何かが愛の仮面をかぶっていたということだ。
(p146)

そうしてはじめてそれは精神の火となる。
百日間にわたる懸命な努力ののちに、それは精神の火となる。

さらに百日行ずれば、光の中に真の光の極がおのずと現れてきて……はじめは
光は散漫だ。
わずかにそこにあるのが感じられるだけだ。
そこにあるかと思えば、またなくなってしまう。
それはひじょうに微かで、とても壊れやすい。
だが、徐々に光の中心がしっかり定まってくる。
それは「光の極」になる。

突如、真珠の種が生まれる。
そうなったら、「光の極」のそのまさに中心に、「真珠の種」が生まれる。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなものである。
まさにその通りのことが起こる。
内なる男と内なる女が抱擁し合っている。
それは一種の内なる性交だ。
それが真のタントラだ。
あなたの女性的な部分と男性的な部分が互いに愛を交わし、ひとつに結ばれて
いる。
そうなったら、彼らは別れる必要がない。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければひどく醜いことになる。
外側の女性と結ばれたままではいられない。
さもなければ嫌悪をもよおすことになる。
外側の男性と結ばれたままではいられない。
それは つかのまのものでしかありえない―ほんの一瞬だけ、 あなたがたは合一
状態をかいま見ることができる。
だが、内なる結合は解く必要がない。
仏陀のような人は絶えることのない オルガズムの状態を生きている。
内なる女性と内なる男性が愛を交わし続けている。
ヒンドゥー教の寺院でシバリンガを見たことがあるに違いない。
あれは象徴シンボルだ。あのリンガの下には ヨーニ、女性の性器がある。
それは内なる男と女の出会いの 象徴だ。
フロイト派の学者が解釈するような、たんなる男根では ない。
それは象徴的なものであり、人の内なる極性を表している。
ひとたびこの出会いが起これば、あなたは新しく生まれ変わる 。

イエスがニコデモに「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 と言うとき、彼
が伝えようとしているのはこのことだ。
私はキリスト教徒がなんと言うか知らないし、そんなことは 気にもかけないが
、彼が言おうとしているのはこのことだ。
「もう一度生まれ変わらないかぎり……」 これが彼の言おうとしている誕生だ。
そしてこれが ヒンドゥー教徒が「ドウィジャ」―二度生まれ― と呼んでいるも
のだ。
あなたは自分自身を誕生させた。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

218鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/10(木) 23:02:27 ID:1d4drIFg0
丹が陽神になるまでに長い年月がかかるのじゃ。
毎日座って気を集中していかねばならないのじゃ。
その期間を養胎というのじゃ。
妊娠した時と同じであると例えられるのじゃ。
体の中に新しい体が作られるのであるからのう。

219避難民のマジレスさん:2019/01/11(金) 00:09:06 ID:LC3de7YgO
>>217
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

外側の男が外側の女と出会えば子供が生まれ、赤ん坊 が産み落とされる。
内なる男が内なる女と出会うときにも 子供が生まれるが、あなたは親であると
同時に子供にもなる 。
あなたの内側に新しい生命いのち、覚者ブッダの生命、 <光明エンライトンメ
ント>の生命、不死の生命が芽生える。
このときには静かな状態で待たなければならない。
内側でこの受胎が感じられたら、内なる男性が内なる女性を貫き、女性が受胎
したのを感じたら、あとはもうただ待てばよいだけだ―女性が九ヶ月間、大い
なる喜び、大いなる祈り、大いなる希望を抱いて待つように。
しなければならないことは何もない。
まったく何もする必要はない。
為すべきことは終わっている。
男性の役割は行為にある。
光を巡らせることが男性の役割だ。
ひとたび受胎が起こり、内なる女性が妊娠したら、男性的な部分は働く必要が
ない。
それは休まなければならない。
あとはものごとが自然に成長してゆく。
瞑想が最初の部分であり、
あとは祈りだけが残されている。
「瞑想なくして祈りが何であるかを知ることはけっしてできない」と私が言う
のはそのためだ。
祈りは瞑想がとるもっとも高次な形態だ。
祈りはかぐわしい香りのようであり、瞑想は花のようだ。
人は瞑想を通ってゆかなければならない。
人々は私になぜかと尋ねる。
もしもその人の道が祈りの道だとすれば、このアシュラムでは、彼らにどうし
てこんなにたくさんの瞑想を勧めるのかと。
祈りはやって来る、あなたは祈りがやって来るための道を準備しなければなら
ない。
あなたはあらゆる種類の瞑想を体験しなければならない―それは浄化のプロセ
スだ。
満足させる必要があるのはあなたの男性的な部分であり、そうすれば女性的な
部分が後を引き継ぎ、あなたは妊娠するだろう。
そして妊娠するというのは祈りに満ちることだ。
なぜなら、もう何もすることがないからだ。
努力は終わり、今やあなたは無努力になっている。
道家の人が「無為の為」と呼んでいるのはこのことだ。
あなたは光を輪のように巡らせる実験を重ねてきた。
長いあいだ懸命に努力して成果をあげた。
あなたの内側で何かが結晶化している。
男と女はもう分離していない。
それらはひとつになっている―子供がそこにいる。
今や待つこと以外、何ひとつ必要とされない。
希望に満ちて待ち、信頼に満ちて待てばいい。
そしてこれこそが祈りだ。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
受胎が起こったことをあなたはどうして気付くのか?
あなたは内なる輝きを見るようになる。
目を閉じるたびに、闇ではなく光の放射が見えてくる。
それを見るのはあなただけでなく、あなたを愛している人々―彼らもまたあな
たのまわりに霊光オーラを見るようになる。

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
女性が妊娠しているとどうしてわかるのだろう?
子供を宿している女性のまわりにある種の霊光オーラを見たことがないだろう
か?
彼女の目、彼女の顔、彼女の実存そのものから、ある光が放たれているのを見
たことがないだろうか?
あなたが内側に神を孕はらんでいるとき、それとまったく同じことが、もっと
高い次元で起こる。
あなたは光の放射を見る。
目を閉じるたびに、内側にはただ光が満ちあふれている。
光源のない光がどこからともなくやってくる。
それはひじょうに涼しい光、月光のようなものだが、このうえもない魔法のよ
うな魅力をおびている。
そしてあなたを愛している他の人たち、あなたとひじょうに親しい者たちもそ
れを感じはじめる。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

220鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/11(金) 22:47:32 ID:1d4drIFg0
陽神が完成すると光が三度発生するというのじゃ。
養胎が終わったしるしなのじゃ。
それは陽神を体の外に出してもよいという合図なのじゃ。
陽神を体外に出すことを出神というのじゃ。

221避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 10:49:49 ID:LC3de7YgO
>>219
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

聖人の肖像のまわりに霊光が描かれるのはそのためだ。
それは誰の目にも見えるものではない。
あなたがキリストを見たとしても、彼の霊光オーラは見えなかっただろう。
だが、弟子たちには見えた。
彼を十字架にかけた者たちの目にその霊光が見えなかったことは確かだ。
彼らは見ることができなかった。
彼らは盲目であり 、閉じていた。
弟子たちには、仏陀のまわりに霊光が見えた。
この秘密は愛する者たちだけに明かされる。
これは ひじょうに近しい者たちだけに明かされる秘密であり 、相手かまわずど
この誰にも明かされるわけではない。
この秘密はごく親しい者たち、近くへ近くへ近くへと 近つ゛いてくる者たち、
心を開いた、 感じやすい者たちだけに明かされる。
(p150)
●空想でなく事実●1/1

根源的な変容の只なかにあっては、光の放射が決定的な働きをする。
それは物質界においては太陽であり、人間においては目である。
あなたのなかで内なる放射が輝きを増しはじめると、目は輝きを帯び、酔っぱ
らったようにみえる。
その目は踊っている―霊妙な光、まったく異なる質が現れる。
もはやその目はただものを見るだけでなく、分かち合ってもいる。
タオを分割することはできないが、それを分かち合うことはできる。
そしてタオの分かち合いは目を通してなされる。

サニヤスを授けるとき、私は、私の目を見るように求める。
私は奥深くで触れるために、あなたの目をのぞき込み、この目であなたの目を
深く掘り下げようとする。
なぜなら、あなたの両目の後ろには第三の目が隠されているからだ。
第三の目に触れられれば―あなたが開いていれば、それはまたたく間に起こり
、時間はかからない。
第三の目に触れられれば、弟子がやって来たのがわかるからだ。
感触がなければ、その人はいつの日にか弟子になるだろうと望みをかけるだけ
だ。
望みをかけて、私はサニヤスを与える。
だが、それはあくまでも望みだ。
かなえられるかもしれないし、かなえられないかもしれない―それは千とひと
つのことに左右される。
だが、弟子となるべき者に出会ったとき、その第三の目がただちに私に感応し
はじめたら、あなたはずっと探しに探し求めてきた場所にたどり着いていると
いうことだ。
そうなったら、もうどこにも行く必要はない。
もう師マスターも、教えもいっさいいらない。
あなたはわが家に帰り着いている。

このエネルギーは外界に向けられる(下に流れる)。
通常、目から放たれるエネルギーは外に向かって流れている。
〝外向〝と〝下降〝は同じ意味だ。

それゆえに黄金の華の道はひとえに逆流の技法にかかっている。
通常、エネルギーは外に向かい、下降している。
あなたはそれを逆転させ、内に向けなければならない―そして"内向"と"上昇"
は同じ意味だ。
ひとたびエネルギーがあなたにもどりはじめ、あなたがエネルギーの輪になれ
ば、驚くようなことが起こる―新しい次元が扉を開き、あなたは上昇しはじめ
る。
あなたの生はもはや水平なものではなくなる。
それは新しい道筋を取り、垂直になる。
神は垂直の道筋の上にある。
この世界で神に出会うことはない―神がこの世界にいないわけではないが、垂
直に動いていないかぎり、神にであうことはない。
盲人に光が見えないように、水平に動いている者には神が見えない。
たくさんの人が私のもとに来て、「神を見せてくだされば、私は信じます」と
言う。
だが、どうして神を見せることができるだろう?
私はあなたがたを水平な生き方から垂直な生き方へと転換させなければならな
い。
サニヤスとはまさにそのこと―垂直な在り方を指している。
ひとたび光が上昇しはじめたら、黄金の華が開く。
これらはシンボルだ。あなたの内側に花があるわけではない。
「華」とはたんに花開くこと、「黄金」とはたんにそのまばゆい光、その輝か
しい放射を表しているだけだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

222避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 12:50:19 ID:LC3de7YgO
>>221
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第四話 光を輪のように巡らせる(つづき)
 より抜粋

光が巡るのはたんなる空想ではない。
覚えておきなさい。光が巡るのはたんなる空想ではない。
最初のうちは空想のように見えるが―あなたはたゆまず努力しなければならな
い―すぐにそれは実際に起こる。
それは事実だ。それはそもそものはじめから事実だった。
ただあなたがそれに一度も触れたことがなかったために、最初は空想のように
見えるだけだ。
(p153)
思考を集中させることで、人は飛翔することができる。
欲望を集中させることで、人は落ちる。
道家タオイストは下方へ、外へと向かうエネルギーを「欲望」と名つ゛けてい
る。
道家は内側に向かうエネルギーの象徴として「思考」という言葉を使っている

だから誤解しないように。
道家の言う「思考」は、いわゆる思考のことではない。
「思考」という言葉で彼らが言おうとしているのは、欲望を浄化した思考エネ
ルギーのことだ。
思考から欲望を浄化し、いっさいの欲望が消えてしまえば、外に向かう必要は
なくなる。
なぜなら、あなたが外に向かうのは、ひとえに何かを欲しがっているからだ。
家が欲しい、金が欲しい、力が欲しい、男が、女が、あれやこれやが欲しい。
そうなると、あなたは外に向かう。
欲望がなければ、思考は外に向かう必要がない。
それは内側に向きを変えはじめる―百八十度の転換が起こる。
欲望のない思考は内側に向かって動く。
欲望に満ちた思考は外側に向かって動く。
覚者ブッダたちが口をそろえて無欲さを強調するのはそのためだ。

学人がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望に かまけるならば、下方
へ向かう道に沈み込む。
弟子がみずからの思考に少しも注意を払わず、欲望にかまけるならば、彼は世
間に呑み込まれてしまう。

黙想と静けさによってのみ、真の直観が湧き起こってくる。
このために逆流の技法が必要となる。
思考から欲望の流れを落とさなければならない。
欲望の汚れを落とした思考は無思考になる。
欲望をもたない心は無心になる。
パタンジャリが「サマーディ」と呼び、禅の人々が「悟り」と呼び、道家の人
々が「結晶化」―外向と内向のバランス―と呼んでいるのはそれだ。
そうすればエネルギーが失われることはない。
鳥が朝になると空に飛んでゆき、日が暮れると巣にもどってくるように、それ
は世間に出てゆきもどってくる。
みずからのエネルギーをくり返しくり返し巣にもどってこさせなさい。
エネルギーを自分に帰らせずに、出てゆくままにしておいてはいけない。
そうすればあなたは貯水池になり、内側でとほうもなく力強くなる。
その力のなかではじめて直観が働きはじめる。

その力のなかで精神の火が生まれる。
その力のなかで真の光の極が現れる。
その力のなかでみるみる真珠の種子が育ってゆく。

それはあたかも男女が交わって受胎が行なわれるようなもの である。
このときには静かな状態で待たなければならない。
瞑想が完成すると、祈りがはじまる。
瞑想を祈りへと成長させること―タオの仕事はそれにつきる。
(p154)

(´・(ェ)・`)
(おわり)

223鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/12(土) 21:42:11 ID:1d4drIFg0
丹が完成して発生する光は金色であるというのじゃ。
それが華のように放射されるのじゃ。
そうであるから黄金の華という題名があるのじゃ。
それはサマーディに達した合図でも在るのじゃ。

224避難民のマジレスさん:2019/01/12(土) 22:42:19 ID:LC3de7YgO
>>222
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁1
 より抜粋

呂祖師は言った。

解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河いっさいのものがそれと同
時に循環する。

人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆく のか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。

だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは空の広大さと海の深遠さに到ることであり、 そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。

いにしえの寓話によると、世界を創造していた神のもとに四人の天使が近つ゛
いてきて、こう質問した。
「どのようなやり方で創造なさっているのですか?」
と最初の天使が尋ねた。
二番目の天使は
「なぜそんなことをなさっているのですか?」
と尋ねた。三番目の天使は
「仕事が終わったら、私にいただけますでしょうか?」
と尋ねた。
四番目の天使は「お手伝いいたしましょうか?」
と言った。
最初の問いは科学者のものだ。
二番目の問いは哲学者のものであり、
三番目の問いは政治家のもの、
四番目の問いは宗教的な人物のものだ。
科学的な探求は、万物を偏りのない目で観察する。
科学者は客観的でなければならない。
客観的であるために科学者は身を引いたままでいる。
科学者は参加することができない。
身を乗り出すと、ただちに巻き込まれてしまうからだ。
それゆえに科学者は生命や<存在>の表層を知ることしかできない。
内奥の中核は科学には明かされずに残る。
科学的な手法そのものが妨げになる。
哲学者は憶測するだけであり、けっして実験をしない。
哲学者は「なぜか?」と際限なく問い続ける。
しかもその問いにどんな答えが与えられても、再び「なぜか?」と問うことが
できる。
哲学を通してはいかなる結論に到る見込みもない。
哲学は結論を下せないままでいる。
それは不毛な行為であり、どこにも行き着くことがない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

225避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:42:48 ID:LC3de7YgO
>>224
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁
 より抜粋

政治家はひたすら世界を手に入れ、それをわがものにしたがる。
政治家ほど危険なものはない。
なぜなら、彼は最も暴力的だからだ。
政治家が生に示す関心は、生そのものに向けられているのではなく、みずから
が握る権力に向けられている。
彼は権力に飢え、権力に狂っている。
彼は狂人であり、破壊的だ。
生きているものを所有したとたん、あなたはそれを殺してしまう。
なぜなら、何かが財産になったとたん、それは生命を失ってしまうからだ。
樹を所有すれば、その樹はもはや生きてはいない。
女や男を所有すれば、あなたは相手を殺してしまっている。
何かを所有すれば、その結果は死でしかない。
というのも、所有できるのは死だけだからだ。
生は自由だ。
生は基本的に自由であり続ける。
生を所有することはできない。
生を銀行に預けることはできない。
生を線で囲い込むことはできない。
「これは私のものだ」などとは言えない。
そんなことを言うのは敬意を欠いている。
そんなことを言うのは自己中心的だ。
そんなことを言うのは狂っている。
生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。
所有欲を抱くことから、人は全体に身をゆだねられるようにならなければいけ
ない。
(p158)
政治家が生の真実を知るということはけっしてない。
宗教的な人は参加する。
彼は生とともに踊る。
彼は<存在>とともに歌う。
彼は生に手を貸す。
彼は<存在>に明け渡しており、身を引いていないし、超然としてはいない。
彼は実際にはどんな質問もしない。
彼は知識を追い求めていない。
彼の努力はすべて、<存在>といかにひとつになりきるかに向けられている。
それゆえに東洋には究極の体験を表すのに 「サマーディsamadhi」という言葉が
ある。
それは二つの言葉からきている。まず sam ― sam は一緒になることを意味す
る。
同じ sam という語根 が英語にも入って、sympathy(共感)symphony(交響曲)
という言葉のなかに見られる。少し変化して synthesis(統合)synchronicity
(共時性) という言葉のなかにもある。
sam は一緒になることを意味する。
adhi は主、神を意味する。
「サマーディ」とは 神との合一、神とひとつになることを意味する。
そして宗教を表す英語の religion という言葉の 意味はまさにそれだ。
それは<存在>とひとつに なること、分断されることなく、分離したままでい
ずに ひとつになることを意味している。この合一状態のなか ではじめて、人は
知り、気つ゛き、体験し、在るようになる。
宗教は大いなる実験でもある―実のところ、最大 の実験だ―が、違いがある。
科学は客観的な事物を 対象に実験するが、宗教は主体そのものに働きかける。
宗教の関心は「私は誰か?」ということにつきる。
人は最初からはじめなければならない。
自分自身を知らないかぎり、私は他の ことを何ひとつ知ることができない。
奥深くで無知のままであったなら、 私の知識はすべてがらくたにすぎない。
それは無知に基つ゛いている。
それは無知に根ざしている。
まず私の内側に光が生まれなければならない。
そうなれば、その光は広がってゆくことができる。
そうすれば、その光は<存在>のまさに果てまで到達することができる―<存在>
に果てがあるとしたらの話だが。
だが、まずそれは私の内側で生まれなければならない。
最初の炎は私の主体から発しなければならない。
私の中心が光で満たされて、そこではじめて空疎な知識にすぎなかったことが
すべて真に体験される。
自分自身を知らず、知 る 者 がそこにいないのに、どうして他のものを知るこ
とができるだろう?
あなた自身が深い闇のなかにいるなら、あなたが外につくりだした光はすべて
まやかしであり、幻想だ。
(p159)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

226避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 09:46:07 ID:LC3de7YgO
>>225
>生こそが私たちを所有している。
どうして私たちが生を所有しえるだろう?
私たちはもっともっと生の手中に落ちていかなければならない。
構図ゲシュタルトがそっくり変わらなければならない。

(´・(ェ)・`)つ
うむ。
なるへそ。生、生命も意識と同じでありますね。 てか、生命と意識を分別しなくてよいのでありますね。

227鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/13(日) 21:22:46 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全て一つなのじゃ。
空間にも意識が息づいているのがわかるじゃろう。

黄金の光とは感覚や心で感じるものではないというのじゃ。
無意識によって感じるものというのじゃ。
全てがその光であり、自分の中の光とも同じものと感じるのじゃ。
ここで肉体に気を巡らせる行は精神の行ともなるのじゃ。
肉体の命と精神の性を同時に行じる性命双修となるのじゃ。

228避難民のマジレスさん:2019/01/13(日) 22:18:33 ID:LC3de7YgO
>>225
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

宗教的な探索クエストは、ありうるなかで 最も深遠な探索だ。
この探索に関して理解 しておかなければならないことが二、三ある。
まず第一に、宗教は地を這うものであっては ならない―それは踊るものでなけ
ればならない 、踊りを忘れたら宗教は死んでしまう。
世間に欠けているのはまさにそれだ― 踊りを忘れたがゆえに、宗教は死んでい
る。
宗教は身を伏せて地を這いまわっており、 飛び方を忘れてしまっている。
宗教は教義ドグマと化してしまった。
教義は死であり、屍しかばねだ。
流れ、躍動し、飛び続けるためには、宗教は体験 として―理論としてではなく
、神学としてではなく― 瞑想として存在しなければならない。
神についての哲学ではなく、 個的な神の体験として存在しなければならない

そして、よくわきまえておきなさい― 神 に つ い て 知ることは 神 を 知る
ことではない。
神にまつわる知識をいくら蓄え続けても、けっして 神を知ることはない。
間接的に知ることは、 その中核そのものを貫かずに堂々巡りを続けることだ。
宗教は地を這うものであってはならないのに、そうなってしまっている。
キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教― それらはみな地を這いまわっている。
それらはみな護教的な立場をとっている。
それらはみな世界に科学が発達することを恐れている。
彼らは科学と闘ってきた。
彼らは科学の発達を妨げるためにできることはすべて試みてきたが、失敗した。
今や彼らは科学の裏付けを得ようと必死になり、やれることなら何でもやろう
としている。
だが、彼ら は自分たちが二義的なものになってしまったことを熟知している。
彼らは科学の裏付けなくしては存在しえない。
彼らは科学的な論証を支えとせずには存在しえない。
これは卑屈な振る舞いだ。
宗教はもはやみずからの基盤の上にみずからの足で立ってはいない。
それは科学 の裏付けを必要としている。
それは借り物の存在、借り物の生命として生き長らえている。
その時代は終わった。
なぜこのような事態が起こったのだろう?
宗教がひとたび教義ドグマと化し、もはや体験で なくなってしまうと、それは
ひとりでに死に絶える。
そして死体は自分の足で立てず、支えを必要とする。
教会や寺院はすべて支えを借り、みずからの足で立っていない。
仏陀のような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
キリストのような人がいるとき、 彼はみずからの足で立っている。
そのときには宗教は踊り、歌を歌っている。
そのときには宗教は息つ゛き、花を咲かせ、 千とひとつの花が開き、かぐわし
い香りが解き放たれる。
私はここで宗教を再び踊らせようとしている。
いかなる裏付けをも求める必要はない。
なぜなら、 宗教そのものがこのうえもなく真正な体験だからだ。
裏付けを求めて科学に目をやるのは宗教ではない!
宗教が踊りだし、息吹に満ちるようになれば、 科学がその裏付けを必要とする
ようになるだろう。
なぜなら、科学そのものが基盤を失いつつあるからだ。
科学は日毎にますます醜悪なものになりつつある。
科学は日毎にますます生を否定するものになりつつある。
科学は日毎にますます政治的なものになりつつある。
科学が発見したものはすべて政治家たちの手に落ちている。
科学が発見したものはすべて死に奉仕し、もはや生に 奉仕するものではない。
科学者の努力の九十パーセントは戦争に捧げられている。
科学は面子メンツを失いつつある。
宗教が踊りはじめないかぎり、 もはや科学にすら未来は残されていない。
科学はみずからを支えるために宗教から放たれるエネルギーを必要としている。
宗教が息吹を取りもどすことができれば、科学は宗教の一部、 影になり、そこ
ではじめて政治家とその狂気から自由になる ことができる。
さもなければ、それは不可能だろう。
人間は地球上の生命を絶滅させてしまう地点に どんどん近つ゛きつつある。
人間を救い、人類を救う ことができるのは、宗教的なエネルギーの解放だけだ。
(p161)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

229鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/14(月) 22:28:15 ID:1d4drIFg0
ここで丹の完成から心の修行に入っていくのじゃ。
そもそも全ての気を巡らせる行から丹の完成まで全ては心を修めることのためにあったのじゃ。
丹を作り精神が深く集中したサマーディに入り、心から性を見る修行になるのじゃ。
本性を見る見性が可能になるのじゃ。
それが性命双修の道なのじゃ。

230避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 03:50:14 ID:LC3de7YgO
>>228
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

私たちがここでやっているのはごく小さな実験に 見えるかもしれない。
だが、そこに潜む力は無限だ。
人類の未来はひとえにこの一事にかかっている。
宗教が再び人間を導くことができるかどうか、 宗教が再び人間に根源的な影響
を与えることができるかどうか、 宗教が再び人類の夢となることができるかど
うかに。
そして、それはひじょうにむずかしい夢であることを―不可能に近い夢である
ことを覚えておきなさい。
神とともにあるという夢、神のなかにあるという夢 は、実現しえない夢のよう
なものであって当然だ。
人間は勇気を失ってしまった。
今や人間の夢はちっぽけなものに、 ごく世俗的なものになってしまっている。
もはや人間が超越的なものを夢見ることはない。
そして、いいかね、超越的なものを夢見ることを止めてしまったら、人は無意
味な生を生きることになる。
意味というものは超越的なものに触れてはじめて生まれてくるものだ。
意味というのは人が大いなる全体の一部、 自分よりも高次なものの一部、自分
よりも 大きなものの一部となってはじめて生まれるものだ。
人が自分自身を超えようとするとき、そこに宗教が生まれる 。
そして私が「宗教のダンス」と呼んでいるものはそれだ ―自分自身を超越しよ
うとすること。
それができる動物は 他にいない。
他の動物にはそれはできない。
人間だけが 自分自身を超越する潜在能力と、その可能性を有している。
そして自分自身を超越した者が何人かいる。
彼岸に到達した者が何人かいる。
あなたがたに語っているとき、 私は彼岸から語りかけている。
それゆえ、私は それを借り物の知識から語っているのではない。
私は自分自身の体験から語っている。
私は不可能なことが可能になりうることを知っている。
私のなかで実現したのだから、それはあなたのなかでも 実現しうる。
ひとたびあなたの内なる実存が光で満たされれば 、ひとたびあなたの内側に闇
がないことを知れば、 あなたは宗教的になる。
不可能な夢を見なさい。
最初はほとんど馬鹿げているように見える かも知れない。
確かにそう見える。
だが、その夢が充分に強ければ、 あなたの現実リアリティは変容を遂げる。

聞いた話だが…… 丘の中腹に三本の樹が生えていた。
樹々はそよ風に 揺られ、自分たちがなりたいものを夢に見ていた。
「いつか切り倒されて、ゆりかごになりたいなあ」と最初の樹 が言った。
「いつか切り倒されて、海を渡る大きな船になり、 宝物や宝石を運びたいなあ
」と二番目の樹が言った。
すると三番目 の樹が言った。
「丘の上に立って、人々に天国を指し示したいなあ」
ある日のこと、樵きこりたちがやって来て、最初の樹を切り倒し 、
「これで馬小屋をつくろう」と言った。
樹は 「僕は馬小屋なんかになりたくない。ゆりかごになりたいんだ」 と言って
泣き叫んだが、樵たちは馬小屋にしてしまった。
やがてイエスが生まれ、他に場所がなかったので、彼らは 赤ん坊をその馬小屋
にそっと寝かせた。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは二番目の樹を見て「この樹で漁船をつくろう」と言った。
樹は「いやだ!漁船なんかになりたくない。僕は宝物や宝石を運ぶ 大きな船に
なりたいんだ」と言ったが、樵たちは漁船をつくり、それを島の湖に浮かべた。
するとシモン・ペテロという名の漁師がその船 を買い、イエスがその船に乗っ
て人々に説教した。
すると樹は言った。
「おやおや、僕が夢に見ていたものよりずっとすばらしいじゃないか」
樵たちは三番目の樹を見て、
「これで十字架をつくろう」と言った。
樹は「十字架なんかになりたくない。人がその上で死ぬなんて耐え られない。
僕は丘の上に立って人々に天国を指し示したいんだ」と 言った。
だが樵たちはその樹で十字架をつくり、やがてイエスが 磔はりつけにされた。
そして、いつの時代にも人々は 十字架に目を向けてきたが、それは神を指し示
している。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

231鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/15(火) 22:43:19 ID:1d4drIFg0
中国では儒教、道教、仏教の三教を同一の父子を目指すものとみるのじゃ。
この書にも仏教の教えが多く入っているのじゃ。
光を見るのも、丹を作るのもサマーディに入るためのものとするのじゃ。
道教によくある不老不死の仙人をめざすものではなく、悟りを目指すための書なのじゃ。

232避難民のマジレスさん:2019/01/15(火) 23:38:22 ID:LC3de7YgO
>>230
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

樹でさえ、夢を見、それを実現できるとしたら、人間は言うに及ばない。
人間はこの世で最もすばらしい潜在能力 をもっている。
欠けているものがあるとしたら、それは自分自身を超えたいという大きな夢が
欠けているということだ。
あなたは世俗的なもので満足してしまっている。
あなたは身を伏せて、大地を這いずりまわり はじめている。
あなたは上を見あげていない。
遥か彼方から呼びかけてくるものがある!
遥か彼方から挑みかけてくるものがある。
彼方からの挑戦を受け入れる者のみが人間だ。
そうでない者たちは「人間」と呼ばれていても 、人間の姿はしていても、真の
人間ではない。
人間でありなさい!
未知なるもの、彼方なるものの挑戦を受け入れなさい 。
それをあなたの実存の大いなる夢にするがいい。
(p164)
今見えているあなたは種子にすぎない。
種子は土中に落ち、死ななければならない。
そして樹となり、花を咲かせなければならない。
種子を割っても、そこには花は見つからない。
科学が大切 なことをそっくり見逃しているのはそこだ―科学は種子を 割り続け
てゆく。
科学は言う。
「この種子からみごとな花 が咲くだって?だったら種子を割って、分析して見
てみよう」
そして、彼らは種子を割って分析する。彼らは種子を分析する方法を手にして
いるが、花は見つからない。
そこで彼ら は花などないと言う。
彼らはそのようにして神は存在しない 、彼方なるものは存在しない、生命は偶
然の産物にすぎず、 天命などというものはない、という結論に到った。
一休禅師の有名な道歌がある。
桜木をくだきて見れば花もなし
花をば春の空ぞ持ち来る
春が来るのを待ちなさい。見たければ、春が来るのを待ちなさい。
あなたはそこで人ではなく、 ひとりの仏陀を見いだすだろう。
人ではなくひとりのイエスを見いだすだろう。
人ではなくひとりのクリシュナを見いだすだろう。
そのときあなたが見いだすのは 花であり、種子はもうどこにもない。
種子は消え失せた。
種子の役割は終わった。
それはこのうえもなく価値のあるものを守っていた。
それは青写真を運んでいた。
もうそれは必要ではない。
土が見つかり、春がやって来て、 そして種子には死ぬ勇気があった。
人間の自我エゴは種子に他ならない。
それは あくまでも自分を守ろうとする。
人々は私に尋ねる。
「自我エゴが神に対してこれほどの障壁となる なら、そもそも自我はどうして
存在するのですか?」
それはあなたを守るために存在している。
ちょうど 固い殻が種子の潜在力を守るために存在しているように。
その潜在力はひじょうに柔らかい。
まわりに固い殻が なければ壊されてしまうかもしれない。
固い殻は敵ではない。
固い殻が敵になるのは、春が来て、土壌が用意されて いるのに、種子が死ぬこ
とを拒むときだけだ。
固い殻が 「さあ、春を敵にまわしても、おまえを守り続けるぞ。 この土から君
を守ってやるぞ」と言えば、問題が生じてくる。
問題が生じるのはそこだ。
自我エゴそのものが問題 なのではない。
子供には自我がいる。
さもなければ 子供はまったく無防備のままにさらされる。
子供はこの 闘争の世界をどう生き延びてゆけばいいのかわからない。
子供はたび重なる危険から身を守る術を知らない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

233鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/16(水) 22:23:24 ID:1d4drIFg0
種子とは仏性とかアートマンともいえるじゃろう。
それらも観念に過ぎないものじゃ。
自我の持つ観念であるがそれがあるために目覚めることもできるものじゃ。
自我があることでそれらの観念を保持して実践し、目覚めることもできるのじゃ。
肉体の種子と精神の種子を合致させて華も開くのじゃ。

234避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 05:58:35 ID:LC3de7YgO
>>232
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

子供はひじょうに柔らかく、もろい。
覚者ブッダになる前に死んでしまうだろう。
自我が彼を助ける。
自我は一種の鎧よろいであり 、心マインドもそうだ―それは子供を守っている。
それはあなたの敵ではない。
それが敵になる のは次のような時だけだ。
その瞬間がやってきて 、あなたには瞑想に入ってゆく用意ができているのに、
師マスターを見つけだし、技法を見つけだし 、用意ができているのに、心マイ
ンドは言う。
「いやだ、俺は死ねない。俺がおまえに注いできた祝福のすべてを思い起こせ
。俺がおまえに与えてきた 恩恵をすべて思い起こせ。俺がおまえにしてやった
ことをすべて思い起こすんだ!感謝してしかるべきだ 。俺を滅ぼそうとするん
じゃない」
そうなったら問題が生じる。
そうなったら、守りであったものが破壊的になる。
そうなったら、あなたは自分自身の心と闘わなければ ならない。
自分自身の自我と闘わなければならない。
自分自身の鎧と闘わなければならない。
もはや鎧は必要ではないからだ。
あなたは 内なる潜在力を解き放たなければならない ―春がやって来ている。
だから、春がやって来て、はじめてそれが問題になる。
さもなければ、それは問題にはならず、助けになる 。
が、助けとなるものも障害になりかねない。
時が到れば、それは去らなければならない。
不可能な夢、自分自身を超えてゆく夢、 にゃはんニルヴァーナの夢、解脱モ
クシャ の夢、神の王国の夢を見るがいい― 夢見ることで、はじめてあなたはそ
れに向かって働きかけ、進みはじめる。
その夢を抱くことで、はじめてあなたの足に踊りの気配リズムが感じられるよ
うになる。
夢がなければ、あなたは鈍感になってしまう。
人々がだらだらと生きているのはそのためだ。
どうして踊ることができるだろう?何のために?
毎日ただ会社に行って仕事をし、家に帰って妻と口論したり、子供の不平に耳
を傾けるためにかね?
次の日に はまた同じことがはじまり、それが年がら年中続いてゆく。
踊りたい気分にさせるものがあるだろうか?
実のところ 、人が生き続けているのは、自殺してしまわないのは奇蹟だ。
彼は何のために生きているのだろう?
彼を待ちうけているものは何もない。
彼が見あげることのできるものは何もない。
夜空に星はなく、漆黒の闇が広がっている。
人が生き続けているのは、なんとか生き ながらえているのは奇蹟だ。
自殺する人々のほうが、道理にかなっているように見える。
生き続けている人々は、まるで道理をわきまえていないように見える。
惨めで、うんざりし、足 を引きずりながら、それでも生き続けている。
だが、そこには何かがある。
そこにはひとつのことが示されている。
それは、あなたの内奥の実存はどこかに 可能性があることを知っているとい
うことだ。
いつその潜在力、可能性に目を開くかもしれない。
いつその夢があなたをわしつ゛かみにするかもしれない。
そうなったら意味が生まれ、踊りが起こる。
「宗教は芸術アートだ」とウイリアム・ブレイクは言った―「宗教は芸術であ
って、金ではない」と。
この言明にはひじょうに深遠な意味が含まれている。
そしてこんなことを言えるのは、ウイリアム・ブレイクのような人だけだ。
彼は神秘家の詩人だ。
芸術アートとは何か?
「芸術とは、何かを為す道だ」 と彼は言う。
絵画、詩、踊り、彫刻、音楽、陶芸、織物。
「芸術とは、何かを為す道だ」 彼は自分自身を創造することについては何も言っ
ていない。
だが、宗教とはまさにそれだ。
それは絵画ではない。
それは詩ではない。
それは彫刻ではない。
それは音楽ではない。
だが、同一線上にある何か、彼方の何か ― 自分自身を創造することだ。
宗教もまた何かを為す道だ― 生きること、愛すること、見ること、在ること

芸術アートとは"創作すること"に他ならない。
それは神の創造を助けることだ。
私が「お手伝いいたしましょうか?」と尋ねた天使を「宗教的な人物」と呼ぶ
のはそのためだ。
創造主を知りたければ、あなたもいくらかは自分の力で創造しなければならな
い。
(´・(ェ)・`)つ

235鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/17(木) 22:33:25 ID:1d4drIFg0
物理的な面から見れば人はただ生まれては死んでいくだけのものにすぎないのじゃ。
そこには何も残らないじゃろう。
しかし、気や光があるものならばそれを操る者に不死と真善美の世界が開かれるのじゃ。
自らの身体に光を巡らし、黄金の華を咲かせて身体の可能性を広げることができるのじゃ。
それこそ真の芸術といえるのじゃ。

236避難民のマジレスさん:2019/01/17(木) 23:27:24 ID:LC3de7YgO
>>235
芸術は真理の表現だと、くまは思うであります。
(´・(ェ)・`)つ

237避難民のマジレスさん:2019/01/18(金) 05:50:29 ID:LC3de7YgO
>>234
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

詩は宗教そのものではないかもしれないが、 正しい方向を指し示している。
真に創造的な境地にあるなら、 詩人にも宗教のことが少しはわかる― 遥か彼
方から音楽が聴こえてくる。
というのも、創造的な境地にあるとき、 人は自分自身でなくなるからだ。
彼は参加している―ごくわずかではあるが、 彼は神のもとに参じている。
神聖の一滴が彼のなかに入ってくる。
優れた詩人たちが
「詩を書くとき、創造しているのは私たちではない。私たちは 乗っ取られる。
ある未知のエネルギーが入ってきて、それが私たちのなかで歌い、踊る。私た
ちはそれが何であるのか知らない」
と言うのはそのためだ。
我を忘れて絵を描くとき、画家は絵を描くことに完全に没頭していて、彼の自
我エゴは消えてしまう。
ほんの一瞬にすぎないかもしれないが、この無我の瞬間に、神が彼を通して描
いている。
あなたが神のもとに参じれば、神もあなたのもとに参じてくる。
芸術は無意識な姿をした宗教だ。
宗教は意識された芸術だ。
芸術は夢のなかで宗教的であるようなものだが、それは正しい方向を指し示し
ている。
芸術家は宗教的な人にもっとも近い。
だが、そのようには理解されていない。
あなたがたは詩人を宗教的だと見なしたり、画家を宗教的だと見なしたりしな
い。
むしろ逆に、誰かが断食して、肉体を痛めつけ、その実存を 醜いものにしたら
、そういう人こそ宗教的だと見なすようになる。
彼はただ自分自身に暴力を振るっているだけだ。
彼はただ 自滅的で、神経症を病んでいるだけなのに、宗教的だと見なされる。
神経症を病んでいる者が大聖マハトマになる。
彼らは聖者として敬われ、崇められる。
彼らは少しも 宗教的ではない。
いわゆる聖者と人殺しのあいだに大差はない。
人殺しは他人を殺し、いわゆる聖者は自分を殺す。
だが、どちらも同じことをやっている。
どちらも暴力的であり、どちらも破壊的だ。
そして破壊的になるときは必ず、人は神からもっとも遠く離れている。
なぜなら、神は創造性だからだ。
私にとっては、倫理を説く者ではなく、美を愛する者こそが宗教性のもっとも
近くに立っている。
レーニンは「倫理学が未来の美学になる」と言ったと 伝えられている。
だが私は言う―それは違う、まったく 逆であり、美学こそが未来の倫理学にな
るだろう。
美が未来の真理になる。
なぜなら、美は創造することができるからだ。
美を愛し、美を生き、美を創造する美しい人は、努力せずとも道徳的だ。
彼の道徳は培われたものではない。
彼を道徳的にさせているのは美的感覚に他ならない。
彼が殺せないのは、生命を奪うこと が美しいことだとは思えないからだ。
彼は美を基準にして判断する。
そして私は「宗教は芸術アートだ」 というウィリアム・ブレイクに同意する

芸術アートとはものをつくることに他ならない。
創作には必ずある種の信頼が必要となる。
人がそこにないものを見て、見ることも 触ることも、聞くこともできなかっ
たものに時間と空間のなかでの形を与える。
絵であれ、詩であれ、庭園であれ、つくりだされた作品は五感ではっきりとら
えることができる。
だが、芸術と生み出された作品を混同してはならない。
これは心にとめておくべきすばらしい区別だ。
それはあなたが宗教を理解する上でこのうえもない助けになるだろう。
芸術は一枚の絵でもなければ、一体の彫刻でもない。
画商が売り買いするものは芸術作品ではあっても、 芸術そのものではない。
芸術作品は一種の財産だ。
芸術と芸術作品が同じものではないように、宗教が 生み出す教義ドグマ、教説
、『聖書』『コーラン』 『ギータ』、教会、寺院、大聖堂などといった事物 や
作品と宗教そのものを混同してはならない。
それらはあくまで芸術作品だ。
それを「宗教的な芸術作品」と呼んでもいいが、宗教とそれらを混同してはな
らない。
教会はあくまで教会だ。それは美しいかも しれないが、それそのものが宗教で
はない。
それは副産物であり、紡ぎだされたものだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

238鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/18(金) 22:52:52 ID:1d4drIFg0
>>236 人は美しいものと合一することを望むのじゃ。
醜い神仏と一つになりたいと思う者は珍しいじゃろう。
美の中にのみ自我を明け渡し、死ぬことが出来るのじゃ。
それが教会や神仏が麗々しく飾られる理由なのじゃ。

239避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 00:20:54 ID:LC3de7YgO
>>238
うむ。
くまも、そう思うであります。
くま、もうそれしかないと思うであります。
くま、最近、悟ったつもりで生きる作戦を実践中である。
なかなかたいへんなのであるが、普通に過去未来に生きるより、よっぽど楽なのである。
(´・(ェ)・`)つ

240避難民のマジレスさん:2019/01/19(土) 08:07:06 ID:LC3de7YgO
>>237
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

『コーラン』は紡ぎだされた芸術品としては美しい詩だ。
モハメッドのこころハートに何かが起こった―それは宗教だったが、目に見え
ぬものとしてあり続ける。
何かが彼の魂のなかでかき立てられたので、 彼は歌い出し、狂ったように表現
をはじめた。
彼がはじめて山の上で独りっきりになり、神の臨在を感じはじめたとき、確か
に彼が思った通りのことが起こっていた。
彼は驚愕し、恐怖に 駆られるあまり、自分は気が狂ってしまったか、 詩人にな
ってしまったか、そのどちらかだと考えた。
彼は家に駆けもどった。
彼は熱に浮かされ、がたがた 震えていた。
突然、高熱に襲われたのだと考えた妻は 「どうなさったのですか?」と尋ねた

すると彼は言った。
「気が狂ったか、詩人になってしまったか、そのどちら かだ。
何かとてつもないことが起こっている。
それが何 なのか、それがどこからやって来るのか、私にはわからない。
私の身にはあり余るものが……私は自分の目が 信じられない。
自分のこころが、自分が感じていることが信じられない。
それがあまりに美しく、すばらしく、 広大だから、しかととらえることができな
い」
それは宗教だった。
数日続いた熱も下がり、モハメッドはその 新しい状態に、法悦に、サマーディ
に落ち着いた。
そして何かが流れ出るようにして、美しい『コーラン』 が生まれた。
だが『コーラン』は副産物だ。
『ギータ』もそうだし、『法華経ダンマパダ』もそうだ。
つねに覚えておきなさい。
聖典のなかに宗教はないし、ありえない。
聖典はどれも宗教の副産物―時の浜辺に 残された影、足跡だ。
だが、足跡は足跡にすぎない。
仏陀が浜辺を歩けば、言うまでもなく足跡 が残る。
だが、この足跡は仏陀自身ではない 。
この足跡は仏陀のものであるがゆえに美しい。
足跡に頭を垂れるがいい!
だが、それが副産物にすぎないことを忘れては ならない。
そして、足跡を崇めてばかりいないで、 あなたがひとりの覚者ブッダにならな
ければいけない。
芸術作品は一種の財産だ。
それを売り買いできるのは そのためだ。
が、芸術そのものを売り買いすることは できない。
パブロ・ピカソに芸術を売ってくれと頼んでも、それは不可能だ。
あなたにはどんな大金でも払う用意があるかもしれないが、彼は売ることがで
きない。
絵なら売れるが、彼の芸術を売ることはできない。
ものではないから売りようがない。
それはつねに不可視のままにとどまる。
目に見えるのはその結果だけだ。
神は目に見えないものであり、神は世界のなかにあってはじめて目に見えるよ
うになる。
あ な た は目に見えず、ただ肉体だけを目にすることができる。
ブレイクが「宗教は金ではない」と言うのはそのためだ。
彼は正しい。
彼は宗教は財産ではないと言っている。
宗教は財産のような ものではなく、宗教は愛に似ている―それは 買うことも売
ることもできないし、銀行に預けることもできない。
それを所有することはできない。
むしろ逆に、あなたのほうがその手のなかに落ちてゆく。
芸術作品は所有することができる。
それは財産だ。
それは死んでいる。
『コーラン』や『ギータ』や『聖書』 を学ぶことはできるが、宗教を学ぶこと
はできない。
あなたはそれを生きなければならない― それを学ぶすべはない。
あなたは 神の手のなかに落ちてゆかねばならない。
あなたは神に身をゆだねなければならない。
あなたはみずからの実存を開かなければならない。
あなたは退かなければならない。
神が入ってきて、あなたのすみずみまで占めることが できるよう、あなたはか
らっぽにならなければならない 。
まさにそうして身をまかせることで、あなたは 人類を超越する。
あなたはもはや人ではなく、ひとり の神、ひとりのキリスト、ひとりの仏陀だ。
(p171)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

241鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/19(土) 22:54:58 ID:1d4drIFg0
>>239 どんどんやるとよいのじゃ。
 美の中に全てを明け渡すのじゃ。

時々人は光を巡らせなくとも、クンダリニーをあげようとしなくとも自然にサマーディにはいることがあるのじゃ。
長く座り続けていたとか、背骨か尾てい骨に衝撃を受けたとかの原因によるものじゃ。
その時人は脳が活性化してさまざまな芸術を自らつくりだすというのじゃ。
光を巡らすのもクンダリニーをあげるのもその模倣といえるのじゃ。

242避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 13:28:50 ID:LC3de7YgO
>>240
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

これらの経文は人が青写真としてたずさえ、 種子の形で宿しているこの覚者ブ
ッダの本質を、 あなたが解き放つよう助ける秘法を教えている ―その本質が開
花し、大樹となって葉を繁らせ 、たくさんの花をつけるよう助ける秘法を。

さあ、経文だ―
呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……

私があなたがたに語ってきたこの潜在能力、このブッダの本質、このキリスト
意識、クリシュナ意識、あるいはなんと呼んでもいいが、それは第三の目のな
かにある。
二つの肉眼のちょうど真ん中に、からっぽの空間がある。
そして、そのからっぽの空間は、神としてのあなたが潜んでいる種子だ。
その第三の目が働きはじめないかぎり、あなたの潜在能力は解き放たれない。
それゆえに―呂祖師は言った。
解放の機縁は目のなかにある……解放とはにゃはんニルヴァーナ、解脱モクシ
ャ、救済、自由を意味する。
解放とは光明を得ることだ。
第三の目が働きはじめることができたら……それは眠っていて、機能していな
い。
あなたのエネルギーはそこまで到達していない。
その仕組みは完璧だが、そこまでエネルギーが届いていない。
あなたのエネルギーは下降して性欲、欲望、怒りに、世俗的なことがらに流れ
込んでいる―あなたのエネルギーは下方へ、外側へと流れている。
あなたには第三の目の中枢にまで届くだけのエネルギーがない。
あり余るほどのエネルギーをもたないかぎり、それは第三の目には到達しない。
あなたはエネルギーの貯水池にならなければならない。
貯水池になり、エネルギーが浪費されなければ、日毎にその水量は増してゆく。
やがてそれは第三の目に到達する。
そしてエネルギーが第三の目に触れたとたん、間髪をいれず、ただちにそれは
機能しはじめる。
そうなったら、あなたは生のヴィジョンを、そのあるがままの姿を見る。
第三の目を通してはじめて、あなたは神、実在、あるがままのものを知ること
ができる。
肉目を通して、あなたはこの世界を知る。
そして目が二つあるために、世界は分割され、二元的なものになっている。
あなたの両目が世界を分割させている。
世界そのものはひとつ だが、あなたの見方が世界を二つに分けてしまう。
それはプリズムを通過する光線に似ている。
光線 はひとつだが、プリズムを通過するやいなや七つ に分かれてしまう。
それは分光して七色になる。
虹はそのようにしてつくられる。
太陽光線が雲のなかの水滴を通り抜けてゆく。
この浮かぶ水滴が プリズムの役割を果たす。
その水滴を通った 太陽光線は、ただちに七色に分かれる。
あなたのエネルギーが両目を通して動くと、 世界全体が二分されてしまう。
そうなると、 あなたは昼と夜を対立物として、生と死を 対立物として、愛と憎
しみを対立物として、 物質と意識を対立物として見てしまう。
両目はあらゆるものを二元的にし、極性をもたせる。
そして、この両目のせいで、あなたは <存在>がひとつであることを見ることが
できない。
二つの目がひとつにならないかぎり、あなたが 不可視のもの、宇宙的なものを
知ることはけっしてない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

243避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 15:48:19 ID:LC3de7YgO
>>242
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

この書物、『黄金の華の秘密』は言う。
外に向かう エネルギーは二元的になるが、その流れを逆転させると、再びひと
つになる―二元性を失い、不二になる。
エネルギーが両目からもどってくると、それは 本来の源へと落ちてゆきはじめ
る。
虹の七色を混ぜ合わせてひとつにすると、それは白色になり、ひとつの色にな
る。
その技法は同じだ。
外に流れるエネルギーが両目を通り 抜けると、全存在は二つに分かれる。
逆転したエネルギーが両目を通過してひとつ の目、眉間みけんの中央にある第
三の目に流れ 込むと、突然すべてがひとつになる。
これが サマーディだ。
あなたは神とひとつになっている。
解放の機縁は目のなかにある……人間の身体の華の種子は 上方のからっぽの空
間に集中されねばならない。
今現在、その空間はからっぽだ。
だが、ひとたびエネルギーが内側に向かいはじめたら、それは光で満たされる

不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
あなたがみずからの実存のある一点に到達したとき……イエスは「両目がひと
つになるとき、あなたは神の王国に入っている」と言っている。
あなたは不死なるものを知る。
今やあなたは生と死は対立し合うものではなく、鳥の二つの翼であることを知
っているからだ。
死は生を破壊するのではなく、生が新たによみがえるのを助けている。
死は敵ではなく友人だ。
死はたんに生が古くなった衣装を変えるのを手伝う。
その衣装は使い古され、ぼろぼろになり、もう着ることができなくなってしま
っている。
死はあなたが家を替えるのを手伝うだけであり、あなたを終わらせるわけではな
い。
死はたんに新たな始まり、新鮮なエネルギーをあなたに貸し与えるだけだ。
そうなったら光と闇は二つではない。
そうなったら対立物は消え失せ、互いに補い合うものになる。
そうなったら全存在が男性エネルギーと女性エネルギーのあいだで交わされる
踊りになる。
それは深い歓びオルガズムに満ちた踊りになる。
両者はひとつになり、出会い、互いのなかに溶け合っている。
葛藤は消え失せる。そして、いかなる葛藤もなく全存在を見るとき、そこには
必ず大いなる歓びが生まれてくる。
そこに死というものはない。
人は死を外側からしか見ない。あなたは他の誰かが死んでゆく姿は目にしても
、自分自身が死んでゆくのを見たことはない。
誰も自分自身が死ぬのを見た者はいない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

244鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/20(日) 22:48:29 ID:1d4drIFg0
仙道の技法はエネルギーの方法ともいえるのじゃ。
光とか気と呼ばれるエネルギーを体に巡回させることで深い集中を可能にするのじゃ。
初めから気を感じることを学ぶから確実に作用するのじゃ。 
身体と精神の両方からの修練がより近道であるというのじゃ。

245避難民のマジレスさん:2019/01/20(日) 23:08:54 ID:LC3de7YgO
>>243
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

ソクラテスは毒を盛られたとき、胸をときめかせていた。
弟子たちが涙を流して悲しんでいると、彼は言った。
「悲しんではいけない。まもなく私は逝ってしまう。そうしたら心ゆくまで悲
しむがいい。今は、私に起こっているこの大いなる実験を見るがいい。私は死
というものにひじょうに興味をそそられている―私はほんとうに死ぬのかどう
か。この機会を逃してはならない。私のまわりに坐って見守りなさい」
師マスターはみずからの生を通して教えるだけでなく、みずからの死を通して
も教える。
師はあらゆる機会を使う―
弟子に教えるためにはみずからの死さえも使う。
彼が大きな声を出し、ひどく腹を立てながら
「涙を流したり、悲しむのはやめて、近くに来るのだ!この機会を逃してはな
らない!」
と言ったので、弟子たちは目を向けた。
するとソクラテスは言った。
「待ちなさい、毒がまわってきつつある。さあ、私の内側で何が起こっている
か話してあげよう。そうすれば、おまえたちも目に見えないものに気つ゛くこ
とができるだろう」
さらに彼は続けた。
「膝から下は死んでしまった。だが、私自身は少しも変わらず、前と同じよう
に何も損なわれていない」
さらに彼は続けた。
「脚全体が死んでしまった。腰から下は何も感じない」
彼は弟子に足に触って、つねってみるように言ったが、何も感じることができ
なかった。彼は言った。
「感覚がないのは、私の身体の半分が死んでしまったということだ。だが、私
は今まで通りまったく損なわれていない。内なる感覚は、半死半生といった感
じではない。私は今まで通り生きている!身体の半分が死んでしまったが、私
の実存は影響を受けていない」
やがてゆっくりと手が死にはじめ、呼吸が止まりはじめると、彼は最後の言葉
を語った。彼は言った。
「だんだん舌がまわらなくなってきたので、もうしゃべれない。だが、最後に
言っておきたいことがある。身体のほとんど九割が死んでしまったが、私は十
全に生きている。これから察するに、おそらく身体が死んでしまっても、 私は
生きているだろう。 身体の九割が死んでしまっても、私は 今まで通り何も損な
われていないからだ。 だから最後の1割が死んでしまっても……。 おまえたち
は私の内側で何が起こっているのか見ることができないが、私は見ることができ
る」
ソクラテスは、ギリシャの他の哲学者のような 凡庸な哲学者ではない。
彼の弟子のプラトンや アリストテレスでさえ……アリストテレスは、 実のとこ
ろ、弟子ではなく敵だ。
彼はソクラテス をまったく理解していない。
彼が提唱したものは 完全にソクラテスに反している。
ソクラテスは神秘家だ。
彼の哲学は探求の方法にすぎない―それは実に鋭い探求だ。
彼は死でさえもはずさない。
彼は死のなかを探ってゆく。
最後の瞬間まで、彼はみずからの探求の方法に忠実だった。
(p176)
死は外側からしか見ることができない。
あなたは他の人々が死んでゆくのを目にする。
だが、生きているというのは別のことだ。
生は内側から見ることができる。
生きて いれば苦痛や快楽を覚え、愛したり、 恐怖を抱いたりすることがある。
生きていれば創造することができる―ないものを考え出し、それに形を与える
ことができる。
創造的な人がもっぱら生の高次の姿を知ってゆくのはそのためだ。
なぜなら、創造するとき、人はみずからのエネルギーを最大限に発揮するから
だ。
創造するとき、人は神の一部になっている。
どうして人がそれを為しうるのかは神秘だ。
どうして人が存在しうるのかは神秘だ。
結果にはすべて原因があるにちがいない。
私たちが「因果の法則」と呼んでいるのは まさにそれだ―私たちはそう教えら
れてきた。
だが、私を今ここにあらしめている原因を私は見つけることができない。
私は奇蹟に運ばれているのを自覚している。
私の理性は私によくつくしてくれるが、私という存在ビーイングの神秘の前で
は色を失う。
理性そのものがこの神秘の道具なのだ。
理性が神秘を知りえないのはそのためだ。
あなたは内側を見なければならない。
生が何であるかを見るには、まず内側からそれを感じ取らなければならない。
そして生を感じ取るための最良の方法は創造的になることだ。
そうすれば最大限の力が発揮されるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

246鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/21(月) 23:00:58 ID:1d4drIFg0
死の最後の瞬間まで自己を追求するチャンスはあるものじゃ。
死なない意識に到達できれば不死なのじゃ。
マハリシもそれができたのじゃ。
死の最後の瞬間まで諦めてはいかんのじゃ。

247避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 00:23:48 ID:LC3de7YgO
>>245
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋
通常、人々は最小限の生き方をしている。
人々がやり続けていることはみな最小限の力で行なうことができる。
それはただの習慣、身についた日々の決まりきった仕事にすぎないからだ。
それらの仕事は意識から、身体の自動的に機能し続けるロボットの部分に伝達
されている。
言うなれば、車の運転の仕方を覚えてしまったようなものだ。
習いはじめは危ないので、あなたはひじょうに敏感で、すき がない。
何が起こるかわからないから、目が離せない。
色々 なものに気を配り続けなければならない。
ハンドル、道路、 クラッチ、ギア、アクセル、ブレーキなど、気を配らねば な
らないもの、目を離せないものがたくさんある。
そして 行き交う車の流れ、傍らを通り過ぎてゆく人々、傍らを通り過ぎてゆく
車、だが、運転を覚えてしまうと、その知識は身体のロボットの部分に伝達さ
れてしまう。
そうなったら気を配る必要はない。
友達と話したり、歌を 歌ったり、タバコを吸ったり、ラジオを聴いたりしてもい
い。
身体が運転を続けてゆく。
まれな時を除けば、目を見張っている必要はない。
事故が起こりそうになると、あなたは一瞬のあいだ目覚める。
あまりに大きな危険が身に迫り、頭が真っ白になってしまうので、ロボットの
部分が対処できないからだ。
そんな ことは一度も起こったことがない、まったく新しいことだ。
普通の生活は機械的で型にはまったものになり、人は最小限の力で生きるよう
になる。
最大限に燃えあがることはけっしてない。
創造性を発揮することで人は燃えあがる。
これが私のサニヤシンに対するメッセージのひとつだ ―創造的でありなさい。
創造的であることが礼拝になるからだ。
創造的であることが祈りであり、創造的であることが瞑想だ。
創造的であることは神の近くにあることだ。
カーバ(メッカにあるイスラム教の聖殿)へ行く必要はない。
神はカーバと同じようにここにもいるからだ。
ヒマラヤに行く必要はない。
神はどこでも等しく手を差し延べているからだ。
だが、その手を取ることができるのは最大限に 生きている者たち、生命の炎が
くすんでいない者たち 、すべてのエネルギーをそれに注いでいる者たちだけだ。
そしてそれは創造性を通してはじめて起こる。
だから私のサニヤシンの定義は、感受性を失い、死んだように坐っている古い
タイプの聖者の定義とは異なっている。
サニヤシンの定義は創造的であることだ。
踊ったり、歌ったり、音楽や絵や彫刻を創作したり、あるいは何でもやりたい
ことをやりなさい。
最も深い喜びとなるものを見つけだし、それをやりなさい!
そして行為とは目に見えないものを見えるものにするということだ。
行為とは夢をこの世にもたらすということだ。
夢を実現させなさい。
潜在能力を発揮させなさい。
それにまさる喜びはない。
未知なるものを知りうる世界へともたらすことができたとき、創作し、創造し
、夢を現実にすることができたとき、神に手を貸したとき、そのときはじめて
真の至福が得られる。
何らかのやり方で、自分なりのやり方で世界をもう少し美しくしたとき、 世界
の喜びを増したとき、そのときあなたはサニヤシンだ。
この道に、あなたの内なる生に気つ゛くことは、自分が不死であることを知る
助けになる。
ひとたび潜在能力を完全に発揮している自分の姿を知ったなら、 内なる松明た
いまつが両側からめらめらと燃えているときの自分の姿を知ったなら、 死など
存在しないことがわかるだろう。
力が最大限に発揮されると、 第三の目が働きはじめる― 最大限に発揮された
ときはじめて。
だから、だらだらとした生き方をしてはいけない。
生が重荷でもあるかのような、果たさねばならない義務であるかのような生き
方をしてはいけない。
生を踊りにしなさい。生を祝祭にしなさい。
(p179)
不死はこのなかにあり、また世間の超克もこのなかにある。
生の炎が第三の目に到達するのをそのままにしておけたら、死など存在しない
ことがわかる。
そしてふと気つ゛くと、もはやあなたは世間に執着していない。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

248鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/22(火) 22:05:16 ID:1d4drIFg0
止観の法を伝える仏教でさえ観察の法は廃れてしまっているのじゃ。
四諦も因縁も知識や理論だと思われているのじゃ。
それらは感性を磨いて観察するための方法なのじゃ。
記憶だけして居ればよいというものではないのじゃ。
常に感性を磨いて観察力を増進して観察しなければいかんのじゃ。
それには芸術を産む創造性が必要なのじゃ。
芸術は自然を観察して模倣するのが王道であるからのう。

249避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:49:09 ID:LC3de7YgO
>>247
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

さあ、この違いを覚えておかなければならない。
古いサニヤス、昔のいわゆる宗教的な生き方は、人々に世間との関係を絶つよ
うにと教えてきた。
私は関係を絶つことは教えない。
私はあなたの生命エネルギーを最大限に発揮するよう教えている。
ひとたびみずからの実存のなかにある真実のものを見れば、世間はもはや意味
を失ってしまう。
高次のものが生まれれば、低次のものは意義を失う。
それを棄て去る必要はない。
それはすでに落ちている。
どこにも逃げ出す必要はない。
あなたは世間で生きることができる。
だが、あなたは世間を超越している。
そして、覚えておきなさい。
逃避するのと、超越するのはまったく違うことだ。
真のサニヤシンは、世間との関係を絶つのではなく、それを超越しなければな
らない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、 肉体の外だけにあるのでもない。
ひとたび内なる光を見たら、あなたは光は内側だけにあるのではなく、外側に
もあることに気つ゛くようになる。
光は、あ な た のなかだけに封じられているものではない。
いいかね、暗闇は個的なものだが、光はあまねく存在している。
死は個的なものだが、生はあまねく存在している。
惨めさは個的なものだが、至福はあまねく存在している。
惨めさがあるためには、あ な た が存在していなければならない―孤立したあ
なたが存在していなければならない。
そして至福が訪れるためには、あなたは全体の一部になり、全体と調和しなけ
ればならない。

光は肉体のなかだけにあるのではなく、肉体の外 だけにあるのでもない。
山河大地は太陽と月に照らされるが、それはすべてこの光である。
ひとたび内側に光を見たら、光が至るところに―月のなかに、太陽のなかに―
あることに気つ゛くだろう……。
光はすべて同じだ―内なる光であろうが、外側の光であろうが変わりはない。

それゆえに光はたんに肉体のなかにだけあるのではない。
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
あなたが月に見る光と、内側にある第三の目に見る光は同じものだ。
それが同じ光であることに気つ゛けば、内界と外界の違いはもはやなくなって
しまう。
内は外であり、外は内だ。
それゆえに、禅師は
「輪廻サンサーラこそがにゃはんニルヴァーナ」―世間が、この世間そのもの
が悟りだ、と言う。
この身体がそのまま覚者ブッダであり、この世がそのまま楽園である、と。
仏陀が光明を得たとき、「不思議な、信じがたいようなことだが、私が光明を
得たとたんに、全世界がともに光明を得た」と言ったのはそのためだ。
何世紀にもわたり、仏教の瞑想者たちはそれに瞑想してきた。
「仏陀は何を言おうとしているのだろう?
仏陀は何が言いたかったのだろう?
『私が光明を得たとたん、全世界が光明を得た』
とは?どうしてそんなことがありえるだろう?
まだ光明を得ていない人は無数にいるのだから。
仏陀は何を伝えようとしたのだろう?」
瞑想者自身、
「少なくともこの私は光明を得てはいないのだから、全存在が光明を得ている
はずがないではないか」
と考える。
仏陀にとっては全存在が光明を得ている。
彼は、内と外を分けているのが自我エゴ―自我という薄いカーテン―にすぎな
いことに気つ゛いたからだ。
そのカーテンが落ちてしまえば、内なるものもなく、外なるものもない。
それゆえに、仏陀は「私は光明を得た」と言うことができない。
彼は「生きとし生けるすべてのものが光明を得た」と言う。
あらゆる樹々、あらゆる川、あらゆる山々、あらゆる人々、あらゆる動物たち
、あらゆる星々―いっさいのものが光明を得た。
もはや彼には分離した自己認識アイデンティティーがないからだ。
彼は、あなたは光明を得ていると言おうとしているのではない。
彼はたんにこう言っているだけだ。
「『この私が光明を得た』とは言えない。
ただ『私は束縛されていた』と言うことしかできない。
ただ『私は無知だった』と言うことしかできない。
ただ『私は苦しんでいた』と言うことしかできない。
だが、今やその私がいないのだ」
(´・(ェ)・`)
(つづく)

250避難民のマジレスさん:2019/01/22(火) 22:51:44 ID:LC3de7YgO
マハラジは天才物理学者の様に語り、OSHOは天才詩人のように語ってるように思えるでありす。
(´・(ェ)・`)つ

251避難民のマジレスさん:2019/01/23(水) 18:35:51 ID:LC3de7YgO
>>249
19黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁3
 より抜粋

<存在>は至福に満ちている。
<存在>は光に満ちている。
そして内なる光と外なる光は同じものだ―内なるものもなければ、外なるもの
もない。
光が第三の目―ひとつの目、唯一の目に入り込めば、あらゆる区別が消える。
区別という区別がみな消え失せる。
虹は再び白一色の光線になる。

つい先日、こういう質問があった。
「和尚、あなた自身は白を着ておられるのに、どうして 私たちにはオレンジ色
の衣服を着ろとおっしゃるのですか?」
それはただの象徴であり、あなたがたは複数の色が消えて、何の区別もない白
い光線だけが残る地点に到達しなければならないということを示しているにす
ぎない。
(p182)
理解と明晰さ、知覚と光明、そして(精神の)すべての働きは この光に他なら
ない。
それゆえに光はたんに肉体の外にだけ あるのではない。
光は外界にだけあるのではないし、内界にだけあるのでもない。
光は至るところにある―内側にもあれば、外側にもある。
それは同じ光―草木や花の上で輝き、蓮の花の上で踊っているのと同じ光だ。
そして、いいかね、師は「知識」ではなく「理解」だと言っている。
師は「答え」ではなく「明晰さ」だと言っている。
人がひじょうに明晰になると、問いは消えてしまう。
何かの答えを得るというのではない。
あまりに明晰なので、もはやそこに混乱がなくなるというだけのことだ。
答えがあるのではなく、問いそのものがなくなるということだ。
それが「知識」ではなく「理解」と呼ばれるのはそのためだ。
つい先日、アニルッダも尋ねていた。
「私たちの知識とあなたの知識の違いはどこにあるのですか?違いがあるよう
に思えるのですが」と。
違いは知識にあるのではない。
彼は私のほうがよりたくさんのことを知っていると考えていたにちがいない。
実情はまったくその逆だ。
私はあなたがたほどものを知らない。
実のところ、あなたがたは知っているが、私には知識がない。
私はたんに明晰なだけだ―それは明晰さ、理解力であって、知識ではない。
私より、ものをよく知っている者はここにも大勢いる。
そしてそれが彼らのつまつ゛きになっている。
彼らはその知識を落とさなければならない。
私は何も知らない。
明晰さがあるだけだ。
あなたが私に質問をしても、私はそれに対する答えをもっているわけではない

明晰さの焦点をその問いに合わせ、理解しようとするだけだ。
そしてその明晰さから生まれてくる感応が何であれ、私はそれをあなたに与え
る。
それは知識ではなく、見抜く力にすぎない。
知識は人々を盲目にする。
彼らの目は知識で一杯になりすぎて、観ることができない。
あなたが質問をする前から、彼らは既成の答えをもっている。
彼らはいつでも答える用意がある。
彼らはあなたの質問など聞いていない。
彼らは質問者に耳を傾けていない。
彼らは質問者の実存になど耳を傾けない。
彼らは質問者のなかをのぞき込み、相手が何を言おうとしているのかを見よう
とはしない。
彼らは既成の答えをもっている。
彼らは鸚鵡オウム返しに答えを返し、そして論拠となるものや経典を用いてそ
の答えの正しさを証明しなければならない。
そしてあらゆる種類の裏付けを差し出さなければならない。
私はただ一種の理解力、洞察力、見抜く力をもっているにすぎない。

それゆえに、呂祖師は言う―
理解と明晰さ、知覚と光明……と。
それは知識でない。
それは雲ひとつない内なる大空だ。
(p183)
(´・(ェ)・`)
(つづく)

252鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/23(水) 23:44:26 ID:1d4drIFg0
>>250 そうじゃ、オショーは詩人のように人の感情に働きかけるのじゃ。
 そうであるから人を熱狂させるブッダなのじゃ。
 そのようにして人を悟りの道に誘導するのじゃ。
 偉大な如来なのじゃ。

253避難民のマジレスさん:2019/01/24(木) 19:23:46 ID:LC3de7YgO
>>251
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

天地の光の華は数限りない空間を満たしている。
だが、個々の身体の光の華も天にみなぎり、地を覆っている。
それは光の華、この森羅万象のすべてだ。
これは神秘家の体験だ。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。
それはすべて光だ。
光は森羅万象を構成する基本的な要素だ。
そして現代物理学はそれに同意する。
かれらはそれを「電気」と呼んでいる。
光は彼らにとってはあまりに詩的すぎる。
彼らはそれを大地に引き降ろさなければならない。
それは電気になる。
だが、彼らが語っているのはまったく同じものだ。
物質は現代物理学から姿を消した。
物質はもはや存在しない。
物質のもっとも深い中核にあるのは、電気、電子、電気を帯びて舞っている粒
子、質量をもたない踊るエネルギーの粒子に他ならない。
これは何世紀にもわたり、神秘家たちが例外なく体験してきたことだ。
その神秘家の生まれた国がインドであろうが、中国であろうが、チベットであ
ろうが違いはない。
これはすべての神秘家が共有するもっとも基本的な体験だった。
森羅万象をつくりあげているのは光以外の何ものでもない。

『黄金の華の秘密』は言う―この光、この光の華、この光の花弁が内と外のあ
らゆる空間を満たしている、と。

それゆえに、光が巡ると、たちまちにして天地山河 いっさいのものがそれと同
時に循環する。
仏陀が言っていたのと同じことが違う言葉で語られている。
自分の内側で光が巡っているのを見るやいなや、あたり一面に光が輝きだすの
を見ることができるようになる。
まわる星々、山や川―すべては光の流れ、光のエネルギーのとほうもない踊り
に他ならない。
(p184)
人間の身体の華の種子を上方の両目のあいだに集中させること、 それが人間の
身体の大いなる鍵である。
弟子たちよ注意せよ!
瞑想を一日怠れば、この光は流出してゆき、どこへ消えてゆくのか誰にもわか
らない。
もし一刻でも瞑想するなら、一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことができ
る。
あらゆる技法は 静けさのなかに帰す。
この不可思議な力は計り知れない。
呂祖師は言う―二十四時間の内、たった十五分でいい、と。
十五分間静かに坐り、第三の目に集中することができたら、あなたの未来全体
を変えるにはそれで足りる。
再び肉体に生まれ変わってくる必要はなくなる。
再びこの世に投げ返される必要はなくなる。
あなたは学ぶべきものを学び終えた。
肉体や肉体の限界をもたずに活動するにふさわしい存在になった。
あなたの魂は、いっさいの束縛やしがらみを離れて自由になる。
そうなったら、死も誕生も存在しなくなる。
あなたはこの限りなき<存在>における永遠の華になる。
たった十五分で?そう、たった 十五分で奇蹟を起こすことができる。
だが、人々にはたった十五分ですら 沈黙し、静かにしている用意がない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

254鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/24(木) 22:14:46 ID:1d4drIFg0
光とは気とかプラーナとかエーテルと呼ばれるものと同じなのじゃ。
それは人の中にもあり、全ての宇宙も満たしているのじゃ。
全ては同じ本質を持ち、同じ意識の現われなのじゃ。
光を眉間に集中してサマーディに入ればそれが如実に感じられるじゃろう。
そのために今までの技法はあったのじゃ。

255避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 02:37:06 ID:LC3de7YgO
>>253
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁(つづき)
 より抜粋

聞いた話だが…… イグナチウス・ロヨラは、彼に敵意を抱いている男が法王
に選ばれたという知らせを受けた。
ロヨラが生涯をささげてきたイエズス会の解散を、この新しい教会の首長に命
じられたらどうするかと尋ねられたとき、彼は答えた。
「十五分の祈りさえあれば、何も変わりはしない」
この答えにはこのうえもなく深い意義がある。
彼に敵意を抱いている法王が権力の座につけば、 ロヨラの仕事全体がつぶされ
てしまう恐れが高かった。
彼は小さな神秘家の共同体をつくっていた。
その働きは秘教的なものだった。
キリスト教は、つねに秘教的な働きに反対し続け、つねに神秘家を恐れてきた

なぜなら、神秘家たちは危険だからだ。 彼らはこの世に真理をもたらす。
そしてひとたび彼らがこの世に真理をもたらしたら、人々はもはや儀式、無力
な儀式には興味をもたなくなる。
そうなったら、誰が教会のことを気にかけるだろう?
それゆえにキリスト教は、教会から誰も離れられないように、神に通じる別の
扉が誰の手にも入らないように、誰もが聖職者 のもとへ行かざるをえないよう
に、あらゆる神秘家たちの集団 を執拗に破壊し続けてきた。
たとえ神を探求したいという願望が生まれても、どこにも選択の余地は残され
ていない。
この馬鹿げた観念のせいで、キリスト教は世界中の宗教を破壊してきた。
というのも、世の中にはさまざまな人々がいて、それぞれ自分に合ったタイプ
の集団を必要とし、自分に合ったタイプの手法を必要としているからだ。
そして、本当に誠実な探求者たちは秘教グループを見つけださざるをえない。
彼らは形式的な宗教の一部になることができない―物足りないからだ。
それは なまぬるく、きわめて表面的だ。
西洋では、教会のせいで真の宗教は地下にもぐらなければならなかった。
人々は真実の姿を隠すために様々な偽装をこらさねばならない。
錬金術というのはその偽装のひとつだった。
本当にやろうとしていたのは別のことだった。
錬金術師は、卑金属を黄金に変える仕事をしているのだという印象をまわりに
かもしだそうと努めた。
それなら許されるからだ。教会は大いに満足していた。
卑金属を黄金に変えようとしているのなら、まったく問題 はない。
やりたければそれをやればいい。
成功すれば、教会の黄金が増えるだけのことだ。
恐れることは何もない。
だが、それは偽装にすぎなかった。
それは真の錬金術ではなかった。
それは見せかけにすぎなかった。
カーテンの裏で行なわれる真の作業ワークはまったく別のものだった。
それは低次の実存を高次の実存に変容させることだった。
それこそまさに性欲、すなわち卑金属をいかにして霊性、すなわち黄金へと変
容させるかという "黄金の華"の秘法に他ならなかった。
だが、不必要な手間をかけねばならなかった。
彼らは黄金 を扱う仕事をしているのだと世間が納得するように見せかける工夫
をしなければならなかった。
そして、誰もが黄金に興味を もっている。
教会は、神ではなく黄金に強い興味を寄せている。
ロヨラは言った。
「十五分の祈りさえあれば 、何も心配することはない。 十五分もあれば私は
瞑想に深く 入ってゆける。
それだけでいい。
そこにいるかぎり、何も問題はない、 まったく何の問題もないからだ」

呂祖師は言う十五分間だけで……一万の劫こうも一千の生涯も取り除くことが
できる。
あらゆる技法は静けさのなかに帰す。
それを覚えておきなさい。どんな技法を選んでも、ゴールは同じだ―静けさ、
内なる完全な沈黙、無思考、いかなる中身もない純粋な意識。

この不可思議な力は計り知れない。
その深さは計り知れない。
思考が消え、あなたが完全に沈黙すると、その静寂は底知れぬ深淵となり、測
ることができない。
太平洋の深さは測ることができる―八千メートルの深さがある。
だが、あなたの内なる太平洋の深さは測ることができない―それは底知れない

どこまでも掘り進み、どこまで深く潜っていっても、その深さを測ることはで
きない。
その底にはけっして達しない。
測ることができるのは思考だけであり、無念無想の状態を測ることはできない

それゆえに、無念無想の状態は神の別名だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

256鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/25(金) 22:43:31 ID:1d4drIFg0
通常の道教の経典では陽神をつくり出神する方向に進むのであるがこの書は違うのじゃ。
丹を作った後に眉間に集中して定に入るのじゃ。
そして光が自らの中にも全てにもあることを見出すのじゃ。
悟りに向かう書なのじゃ。

257避難民のマジレスさん:2019/01/25(金) 23:53:05 ID:LC3de7YgO
>>256
鬼和尚、いつもありがとうであります。
超勉強になるであります。
(´・(ェ)・`)つ

258避難民のマジレスさん:2019/01/26(土) 00:05:53 ID:LC3de7YgO
>>255
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第五話 解放の機縁
 より抜粋

だが、いいかね。思考のない状態は一種の眠りであってはならない。
なぜなら、それはごくありふれたものだからだ。
それは毎日起こっている。
深い眠りのなかで、夢が消えたとき、あなたはその深淵のなかへと落ちてゆく

ぐっすり眠ると若返ったように、さわやかになるのはそのためだ。
朝になると再び活力がみなぎり、あなたは新しく生まれ変わっている。
だが、それは無意識に起こることだ。
パタンジャリは、深い眠りとサマーディはひじょうによく似ているが、ひとつ
だけ違いがあると言っている。
眠っている時には人は無意識だが、サマーディの状態では意識している。
だが、あなたは同じ空間―内側にある、同じ測ることのできない不可思議な空
間におもむいている。
そこには思考もなく、欲望 もなく、想念の波動もなく、まったく静かだ。
あらゆる技法はそこに到る。
ヨーガ、タントラ、タオ、ハシディズム、スーフィズム ―あらゆる技法は異な
る角度からそこにたどり着く。
それら はさまざまなタイプの人々のために編み出されたものだ。
(p188)
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
最初は大いなる努力が必要とされる。
人は浅いものから深いものへと進んでゆくしかない。
浅いものとは何だろう?
浅いものとは絶え間のない思考のプロセスだ。
深いものとは何だろう?
思考のない状態のことだ。
粗雑なものとは何だろう?
心の中身はみな粗雑だ。
微細なものとは何だろう?
中身のない状態は微細だ。
人は進みつつ゛けなければならない。
最初のうちは大いなる努力が必要とされる。
最初のうちは行法ワークに完全に身を投じ
なければならない。
そうしてはじめて瞑想は無努力になり、至福の瞬間が生まれてくる。
まず瞑想は男性的エネルギーでなければならない。
それが尽きてはじめて女性的エネルギーになることができる。
私がまず最初に激しい動きをともなう技法を強調するのはそのためだ。
全力をふりしぼり、最大限の努力をするがいい。
しりごみせずに、もてるすべてを賭けるのだ。
そうすれば、やがていつか努力せずにくつろぐことができるようになる。
目を閉じるだけで第三の目に到達することができるようになる。
だが、実修をはじめるにあたり、人は浅いものから深いものへ、 粗雑なものか
ら微細なものへと進んでゆかなければならない。
すべては間断なく持続するかどうかにかかっている。
それを規則正しく行ないなさい。

実修は始めから終わりまで一貫していなければならない。
この間に、冷暖をおのずから知るのである。
だが、目指すべきは 空の広大さと海の深遠さに到ることであり、そうすればあ
らゆる技法をいともたやすく身につけることができる。
そこではじめてそれを体得したと言える。
努力が不要になり、いっさいの努力が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
技法が不要になり、いっさいの技法が落ちたとき、あなたはそれを真に体得し
ている。
瞑想がもはやすることではなくなり、みずからの境地になったとき、あなたは
それを真に体得している。
あなたはそのなかに生き、歩くときも、坐るときも、そのなかにある―「坐る
ことも禅であり、歩くことも禅だ」
食べるときも、眠るときも、あなたは瞑想の内にあり、それになりきっている

いずれはそのときが来る。
だが最初は全身全霊で取り組まなければならない。
いいかね、水が百度の熱で蒸発するように―九九度や九九・九度ではなく百度
で蒸発するように、あなたがもてるすべての力を振り絞って百度に達したとき
には、ただちに卑金属が黄金に変わる。
性エネルギーは、ただちに霊的世界にまで到達する。
流出していたエネルギーはただちに百八十度の転換を遂げ、二つの目はひとつ
になる。
そうなったら内界と外界はくまなく光明で満たされる。
イエスは言った。
「木を切りなさい、そうすれば私がみつかるだろう。石を打ちなさい、そうす
ればそこに私がいる」
これは究極の境地だ。
木を切ると神を見いだし、石を打つと神を見いだす。
あなたは神として、神のなか、神の上を歩いている。
あなたは神を呼吸し、神を食べ、神を飲んでいる。
なぜなら、すべてが神だからだ。
この究極の体験こそ、呂祖師の言う開放だ。
そしてそれは第三の目のなかにある。
(p190)
(´・(ェ)・`)

259鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/26(土) 22:44:04 ID:1d4drIFg0
>>257 そうじゃ、どんどん学ぶと善いのじゃ。

オショーがこの書を解説するのも悟りにまで通じる実践の書であったからなのじゃ。
通常のただ単に集中だけをする修行であるとサマーディにまでたどり着くのに才能と時間が必要なのじゃ。
このように気とか光を身体に巡らせて使えばより短期間で才能の無い者にもサマーディに辿りつけるのじゃ。
それが性命双修の貴重なところなのじゃ。

260避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:22:03 ID:LC3de7YgO
>>258
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える
 より抜粋

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
内観によって反転させなければならないのは自意識をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならない

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの思念を 鼻の頭に固定させるという意味ではない。
またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違えるようなものであ
る。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ばれたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
鼻に視線を向けていない場合 には、目を大きく開けて遠くを見ているため鼻が
見えないか、 あるいは目を閉じ過ぎていて鼻が見えない。
目を大きく開け過ぎると、視線を外に向けるという誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
目を閉じすぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に 鼻の頭が見え
るようになる。
そのために鼻を目安にするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないようなものである。
両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で坐り、こころを諸条件の
只なかにある中心にたもつ。
それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
光ははなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものが そのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが 解き放たれる点と結びついている。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない(意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
人はみなこころを落ち着かせようとする。
これが正しい観想である。
これと矛盾するのは誤った観想であり、何も得るところがない。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり、見つめずに観想するのは循環の
ない光である。
これに注意しなければならない!
(´・(ェ)・`)
(つづく)

261避難民のマジレスさん:2019/01/27(日) 10:31:01 ID:LC3de7YgO
>>260
「中心の黄色」とは、何でありますか?
(´・(ェ)・`)つ

262鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 00:28:43 ID:1d4drIFg0
>>261 眉間のことなのじゃ。
 黄庭とか中宮とかいろいろにいうのじゃ。
 要するに鼻の頭に視線を向ければ自然に気が眉間に集まるというのじゃ。
 無理に集中する必要は無いというのじゃ。

263避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:34:25 ID:LC3de7YgO
>>262
鬼和尚、ありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

264避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 07:51:21 ID:LC3de7YgO
>>260
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

盲人が友達の家を訪ねた。
彼が帰宅する頃には暗くなっていたので、友人たちは提灯ちょうちんを手渡し
た。
「ありがとう。でも、いらないよ。明るくても暗くても、私にとっては変わり
ないからね」
「まあ、とにかくもっていけよ。そうすれば人がぶつかってこないだろう」
彼が家を出ると、すぐに誰かがぶつかってきて、怒鳴った。
「どうして前をちゃんと見ていないんだ」
「君こそ、この提灯が見えないのか?」
「あいにくだがね」
と相手は言った。
「蝋燭ろうそくが消えてしまってるぜ」
瞑想というものを知らない人々が手にする聖典は、盲人が手にする提灯のよう
なものであり、まったく役に立たない。
そして盲人には提灯の明かりがついているか消えているかどうかもわからない

彼はたんにいらぬ重荷を持ち歩いているだけだ。
実のところ、何の役にも立たないどころか、むしろ邪魔になりかねない。
提灯をもたずに歩いていたら、盲人はもっと注意深く用心していただろう。
提灯をもった ばかりに、目があるつもりになって歩き、注意力がすっかり散漫
になっていたにちがいない。
人類全体に起こっていることはまさにそれだ。
人々は『聖書』『コーラン』『ギータ』をもち歩いている。
それらの聖典はこのうえもなく美しい光を放つランプだ。
が、あなたの目は見えない。
『ギータ』は五千年も前のものであり、光はとうの昔に消え ている。
クリシュナの死とともに、光は消えた。
『聖書』や 『コーラン』、その他の世界中のあらゆる聖典の場合も同じだ。
師マスターが死ぬと、光も消える。
だが人々は聖典を手放そうとはしない ― 聖典を信じ込み、偉大な師のメッセ
ージを伝えているのだから、自分たちの生はいつまでも光に満たされてゆくと
期待している。
そのメッセージ はただの言葉にすぎない。それは不用な重荷だ。
世にある聖典がすべて消えてしまったら、人間はもっと用心深くなり、もっと
気を引き締めて、自力で光の源を 探しはじめるかもしれない。
頼れるものが何もないので、 自分の足で立つことを学ばなければならない。
あるとき龍潭りゅうたんのもとを徳山がとくざんが訪ね、夜ふけまで教えを請
いつつ゛けた。
とうとう龍潭は言った。
「夜もふけてきた。そろそろもどりなさい」
徳山はいとまを 告げると、襖ふすまを開けて出ていった。
外があまりに暗かった ので、徳山は引き返してきて言った。
「外は真っ暗です」
そこで龍潭は提灯ちょうちんに火をともし、それを徳山に差し出した。
徳山がそれを受け取ろうとしたまさにそのとき、龍潭は不意にそれを吹き消し
た。
この瞬間、徳山は忽然と目覚め、礼拝した。
龍潭は言った。
「どのような真理を得たのか?」
徳山は言った。
「今日より後、祖師たちの言葉をけっして疑うことはありません」
翌日、龍潭は弟子たちの前に姿を現して言った。
「この会衆のなかに、剣でできた樹のような牙をもち、口を 血だらけにして、
棒で殴られても振り向こうとしない男がいる。
やがてこの男は人里離れた山の上に、私の道を打ち立てるだろう」
徳山は、僧堂の前で経典の注釈書を取り出し、火をかざしながら言った。
「際限なくものごとを分析しつつ゛けてゆくことは、虚空に一本の髪の毛を置
くようなものであり、俗世の力は広大な谷間に一滴の水を投げ入れるようなも
のだ」
目がなければ、光ですら役に立たない。
あなたが手にしている提灯は無用の長物 であり、まったく何の役にも立たな
い。
だが、目があれば、蝋燭ろうそくを吹き消すことですら悟りの体験になりうる。
問題なのは目だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

265鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/28(月) 22:28:35 ID:1d4drIFg0
>>263 そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。

視線を鼻の頭に向けていれば光が入ってくるというのじゃ。
雑念がわいたらそれがどこから起こるのか探すのじゃ。
それがわかって雑念が止んだらまた鼻の頭を見つめるのじゃ。
そのようにして日々続けていくというのじゃ。

266避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 22:51:03 ID:LC3de7YgO
>>265
くまは、目を閉じてやるのが好みであります。
なれたやり方で良いでありますよね。
(´・(ェ)・`)つ

267避難民のマジレスさん:2019/01/28(月) 23:02:53 ID:LC3de7YgO
>>264
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

龍潭のもとを徳山が訪ねた。
龍潭は師であり、徳山は弟子だ。
外が真っ暗なのを見て、弟子は師に言った「真っ暗です」 師は蝋燭に火をとも
すと、それを弟子に差し出した。
弟子が受け取ろうとしたそのとき、師は火を吹き消した。
突然、闇がもどってきた。
闇は一段と深さを増した。
不意に蝋燭を吹き消されたことが、予期せぬ一撃になったにちがいない。
しばらくのあいだ、弟子は二つの思考のはざまに落ちていったにちがいない。
しばらくのあいだ、思考が消え失せ、観想が起こった。
しばらくのあいだ、完全な沈黙があった。
その沈黙のなかで彼は大切なことをつかむことができた。
翌日、彼はもっていた経典をすべて燃やしてしまった。
もはやそれらは必要ではなかった。
彼はみずからの体験を通して真理を知ったからだ。
ごくわずかの体験でも、山のような知識よりも価値がある。
太陽や月やすべての星々よりも、たった二つの小さな目のほうが価値がある。
大切なのは、宗教とは体験であるということだ。
それは推測ではない。
絶え間ない分析ではない。
それは洞察だ。
(p196)
さて、経文だ。
これらの経文にはここのうえもない価値がある。
なぜなら、それは最も簡潔な表現で手法を授けて いるからだ。
あなたが複雑なものにしようとしないかぎり、この手法は実に単純だ。
こころマインドはいつも単純なものごとを複雑なものに変えてしまう。
それに気をつきなさい。
なぜなら、心は単純なものとは共存できないからだ。
それは必要とされない。
もしものごとがごく単純で あれば、心の出る幕はない。
ものごとが複雑であってはじめて心が必要になってくる。
そうなったら、あなたは心に頼らざるをえなくなる。
心が謎を解く道を見いだしてくれるからだ。
だが、謎がなければ、心はまったく無用だ。
あなたは心を捨てることができる。
だから、心はものごとを複雑にしてしまう。
これらの経文は実に単純であることを覚えておきなさい。
真理はつねに単純だ、まったく単純だ。

呂祖師は言った。
観想なくしては何事も成しとげられない。
観想とは何か?無思考の瞬間だ。
「観想contemplation」という言葉には、ディヤーナの正しい意味が含まれていない。
英語には「ディヤーナ」という言葉に当たる適切な訳語がない。
使えそうな言葉が三つある。
ひとつは「集中concentration」
だが、この言葉はひどくかけ離れている。
集中とは努力、緊張を意味している。
それは強いられた状態であって、無碍むげ自在に流れている状態ではない。
ところが、ディヤーナとは無碍自在に流れている状態だ。
そこには緊張がない。
だから「集中」という言葉は訳語としてはふさわしくない。
次は「観想contemplation」という言葉だが、観想には思考の含みがある。
誰かが観想していると言えば、何かについて考えているということになる。
三番目の言葉は「瞑想meditation」だが、これもやはり 考えること、何かにつ
いて瞑想することを意味する。
この三つの言葉にはどれもディヤーナの意味が含まれていない。
ディヤーナとは無思考の状態、沈黙の状態、意識的でありながら中身がない状
態を意味する。
鏡がそこにあるが、何も映し出していない、まったく 何も映し出していない。
ちょうどその鏡のように、意識がそこにあるが、何もそれをふさいでいない。
その何も占められていない醒めた意識がディヤーナだ。
道家の人々は「ディヤーナ」の訳語として「観想」を使っている。
いずれにせよ何らかの言葉を使わざるをえないからだ。
だから、その意味を覚えておきなさい ― それは辞書に記された意味ではない。
辞書を調べると、まったく違った観想の概念 ― 『黄金の華の秘密』が「誤っ
た観想」と呼んでいるものが載っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

268鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/29(火) 21:44:12 ID:1d4drIFg0
>>266 そうじゃ、自分のやり易い方法で善いのじゃ。
 経典は参考にする程度で善いのじゃ。

ディヤーナとは意志によって集中しないでも続く心の鎮まった状態なのじゃ。
初心者のうちは集中しなくては心は鎮まらないのじゃ。
慣れてくればいつもの座り方をするだけで心は鎮まるのじゃ。
それがディヤーナなのじゃ。
禅の語源なのじゃ。

269避難民のマジレスさん:2019/01/29(火) 22:10:26 ID:LC3de7YgO
>>267
21黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

「誤った観想」とは、何かについて考えることだ。
それは神 かもしれない ― キリスト教徒が「観想(黙想)」という言葉 で言お
うとしているのはそれだ ― 神について考えること、聖なるもの、超越的なも
のについて考えること。
だが も の は も の であり、神聖なものであろうが、世俗的なものであろう
が違いはない。
思考は思考であり、セックスについて考えようと 、サマーディについて考えよ
うと違いはない。
無思考の状態、間合い…… それはいつも起こっているのだが、あなたは注意
深く醒めていない。
醒めていたら何も問題はない。
ひとつの思考がやって来る。
続いて別の思考がやって来る。
この二つの思考のはざまにはいつも小さなギャップすきまがある。
そのすきまが聖なるものへの扉だ。
そのすきまが観想だ。
そのすきまを深くのぞき込めば、それはどんどん大きくなってゆく。
心マインドは交通の激しい道路のようだ。
車が次から次へと通り過ぎてゆく。
車に目 を奪われるあまり、二台の車のあいだに必ずあるすきまが見えない。
すきまがなければ車は衝突してしまう。
衝突しないのは、車と車のあいだにすきまがあるからだ。
あなたの思考は衝突しない。
互いにぶつかったり、相手を轢きつぶしたりはしない。
互いに重なり合うことすらない。
どの思考にも境目がある。
どの思考 も区切ることができる。
だが、思考の進行があまりに すばやく速いので、本当にそれを待ち受け、見つ
けようとしないかぎり、あなたはすきまを見ることができない。
観想とは見ている風景の焦点をそっくり変えることだ。
ふだん私たちは思考を見ている。
思考が次から次へと現れる。
風景の焦点を変えると、すきまが次から次へと現れる。
あなたはもはや思考ではなく すきまを重視している。
例えば、あなたがたはここに坐っている。
私があなたがたを見る方法は二つある。
ひとりひとりを順番に見てゆくやり方と―人に目をやれば、私は人数を数える
ことができる ―人のことは忘れ、人と人のあいだにあるすきまを勘定し、すき
まがいくつあるかを数えるやり方だ。
そうすればものの見え方がひっくり返る。
すきまを数えたら驚くようなことが起こる。
すきまを見つめ、すきまを数えているために、人の輪郭がぼやけ、はっきり見
えなくなってゆく。
いつか道端に立って、通り過ぎてゆく すきまを数えてみるといい。
あなたは驚くだろう― 車の色は目に入らない、車の型は目に入らない、車の運
転手や乗客は目に入らない。
目に飛び込んでくるのはすきまだ ― ひとつのすきまが過ぎ去ると、次のすき
まがやって来る。
あなたはすきまを数えつつ゛ける。
風景の焦点は変化している。
観想とは見ている風景の焦点を変えることだ。
ひとつの思考から別の思考へと飛び移るのではなく、ひとつのすきまから次の
すきまへと飛び移ってゆく。
徐々に徐々に、すきまへの気つ゛きが増してゆく。
それは生の最大の秘密のひとつだ。
なぜなら、そのすきまを通して、あなたはみずからの実存へ、みずからの中心
へ と落ちてゆくからだ。

観想なくしては何事も成しとげられない。
覚知することにより人は目標に到る。
覚知すること、ただ覚知すること……それはインドでは「ダルシャン」と呼ば
れている。
見ることにより、人はどこにも出かけることなく目標に到る。
どこにも出かける必要はない。
ただ見ればいい。
ひとたび間隙かんげきを、すきまをのぞきはじめたら、あなたは自分が誰であ
るのかを見ることができるようになる。
そしてあなたは目的地だ。
あなたは出発点であり目的地、始まりであり終わり、アルファでありオメガだ。
渇望していたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものがすでにあなたのなかにある。
欲しがっていたすべてのものをあなたはもっている。
乞食でいる必要はない。
すきまを見ることを選べば帝王になり、思考を見つつ゛けていたら乞食のまま
でいるしかない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

270避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 08:35:46 ID:LC3de7YgO
>>269
マハラジ
>もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ
 るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。
 その隙間のなかには何があるのだろうか?
 ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。

OSHOがマハラジの言葉を詳しく解説してくれてるようであります。
(´・(ェ)・`)つ

271鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/30(水) 22:40:14 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、全ての目覚めた者は同じ事を説いているのじゃ。
自らの心を観ることが常に説かれるのじゃ。
この書に書かれていることもまたその方法の一つなのじゃ。
全ての教えは自らの心を観ることに尽きるのじゃ。

272避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:51:00 ID:LC3de7YgO
>>269
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

覚知することにより人は目標に到る。
自分自身から一歩たりとも踏み出してはならない。
神はすでにあなたのなかにいるからだ。
神は既成の事実だからだ。
それはあなたの内奥にある中核だ。
神は天上に、空のどこかにいるわけではない。
神はあなたの内側に、もはや思考によってかき乱されないところにいる。
沈黙がみなぎり、何ひとつ映し出していない、中身のない意識があるところに

そのとき、あなたは自分自身の味をはじめて体験し、みずからの実存のかぐわ
しい香りに包まれる。
黄金の華が開く。
(p200)
内観によって反転させなければならないのは自意識 をもったこころである。
万物を形つ゛くる精神 が顕現してくる前の状態へとそれを導かなければならな
い。
思考は顕れたものであり、無思考は顕れていないものだ。
自分が見ている風景が思考だけで成り立っているとしたら、エゴ自我以上のも
のは何もわからないだろう。
自我は「自意識をもったこころ」と呼ばれている。
あなたは思考のかたまり以外の何ものでもない。
その思考のかたまりのせいで、あなたは「私はある」という自意識をもつよう
になる。
近代西洋哲学の父であるデカルトは「我思うゆえに我在り」と言う。
彼は瞑想者ではないから、まったく別のことを言おうとしているのだが、その
言明そのものは美しい ―
まったく異なる文脈のなかに置くなら美しい。
私はそれに別の意味を与える。
そう、私は私が考えるときにのみ存在する。
思考が消えれば、私も消え失せる。
「我思うゆえに我在り」 ― この私の感覚、この「自意識をもったこころ」と
は連続する思考に他ならない。
それは本当は実体がなく、偽物であり、幻覚だ。
手に松明たいまつをもってぐるぐるまわしてゆくと、現実にはない火の輪が見
える。
だが、松明の動きがすばやいために、まぼろしの火の輪が生み出されている。
それは火の輪の幻覚を生じさせる。
それはそこにはない。
思考の動きがあまりに速いので、私という観念がつくりだされる。

呂祖は言う ― 人は「自意識をもったこころ」から"自意識をもたないこころ"
へと移らなければならない、と。
人は自我から無我の状態へと移らなければならない。
人は自己から無自己へと移らなければならない。
自己は顕現している部分であり、ちっぽけで、ひじょうに小さく、粗雑だ。
無我は顕現していない部分であり、果てしがなく、永遠だ。
自己はつかのまの現象であり、いつか生まれて、いつか死ななければならない

無我 ― 仏陀は「アナッター」、無自己と呼んでいる ― は永遠の一部であり
、生まれることもなく、死ぬこともない。
それはいつまでもとどまる。

六尺の身体の内に、天地が未だ現れる前にあった形を求め、努力しなければな
らない。
そしてあなたの六尺の身体のなかでは、その本質が、天地がつくられる前から
あったその本質が、今もなお息つ゛き、鼓動している。

禅の人々はそれを「本来の面目」と呼んでいる ―天も地も、何ひとつ生まれず
、いっさいのものが姿を現さず、沈黙だけがそこにあり、物音ひとつ立たなか
ったとき……形がなく、すべて無相であり、あらゆるものが種子の状態であっ
たときにそこにあったもの。
その本来の静寂があなたの内側にある。
ヒンドゥー教徒はそれを「アナハトナッド」と呼ぶ。
仏教徒たちは「隻手せきしゅの音声おんじょう」
という特有の表現をする。
それはあなたの内側にある。
それはあなたの真の姿だ。
それを味わえば、あなたは不死になる。
それを味わえば、あなたは黄金になる。
そうなったら塵ちりは変容して神々しいものになる。
錬金術はみな、卑金属を黄金に変容させることを目指している。
(´・(ェ)・`)
(つづき)

273避難民のマジレスさん:2019/01/30(水) 23:54:39 ID:LC3de7YgO
>>272
「隻手の音声」についての、OSHOの解釈は、本来の意味なのかもしれぬと思うくまであります。
(´・(ェ)・`)つ

274避難民のマジレスさん:2019/01/31(木) 12:09:15 ID:LC3de7YgO
>>272
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

昨今の人々はたった一時間か二時間坐って瞑目し、ひたすら己の自我を見つめ
、それを内観と呼んでいる。
そのようなやり方でどうして何かを得ることができるだろう?
坐って瞑想しながら、自分の自我エゴを見つめてばかりいるといったことにも
なりかねない。
人々が「観想」と呼んでいるものはそれだ。
彼らは自分たちの思考を見つめているが、見ている風景の焦点を変えてはいな
い。
彼らにそれしか起こらないのは、ふだんは実にたくさんのことに心を奪われて
いるので、思考を見つめることができないからだ。
瞑想のために特別に坐ると、しばしのあいだ世間を忘れ、思考がふだんよりも
鮮明になり、思考に対してより敏感になる。
これは哲学者の心境だ。哲学者はそのようにして考え、推測し、哲学を組み立
ててきた。
これは真の観想ではない。
そしてこのようなやり方では、自我を超え、死を超え、時間を超えてゆくこと
などできるはずがない。
だが、人間の目的はまさに超越にある。
くり返そう。
瞑想をしたければ、見ている風景の焦点を変えなければならない。
目を閉じて自我を見つめているだけでは役に立たない。
イギリスの偉大な哲学者、デービッド・ヒュームは書いている。
「偉大な教師マスターたちがそろって口にする
『汝自身を知れ、瞑想をせよ』という金言や助言を何度も何度も聞いたり読ん
だりしたので、私も瞑想をやってみた。だが、内側には思考、記憶、空想、夢
しかなかった。他には何も見つからなかった」
彼がそう言うのももっともだ。
彼は瞑想が何であるかを知らないからだ。
彼は哲学者、世界でもっとも才能ある哲学者のひとりだ。
その論理は実に鋭く、首尾一貫している。
が、彼は瞑想者ではなく、たんなる哲学者にすぎない。
その言葉通り、彼はやってみたにちがいない。
彼は内側をさまよっているたくさんの思考に出くわしたにちがいない。
そこで彼は言う。
「自己もなく、静寂もなく、神も存在していない。こんなことをしても虚しい
だけだ」
彼は取り逃がした。
まず見ている風景の焦点を変えねばならないということに気つ゛いていなかっ
たからだ。
思考を見つめる必要はなない。
すきまを求め、すきまをのぞき込まなければならない。
すきまを探し、そのすきまのなかに飛び込まなければならない。
すきまに飛び込んでいたなら、彼は思考が消え、夢が消え、記憶が消えてゆく
のを見ただろう。
あらゆるものが置き去りにされ、しだいにそれは遥か遠くに聞こえる物音にな
ってゆく。
そしてある瞬間がやって来る……それが すっかり消え失せると、あなたは超
越している。
あなたは向こう岸に到達している。
人は鼻の頭を見るべきである。

さあ、ここは経文のなかでも実践に役立つ箇所だ
― とても単純だが、正しく理解するように。
なぜなら、心マインドは単純なものごとですら曲解したがるからだ。
心とは曲解しようとするからくりだ。

人は鼻の頭を見るべきである。
なぜか、それが助けになるからだ。
そうすればあなたの意識は第三の目の延長線上にくるからだ。
両目が鼻の頭に向けられていると、たくさんのことが起こる。
基本的なことは、第三の目は鼻先と一直線上に ― 五、六センチ上だが同じ直
線上に ― 位置しているということだ。
ひとたび第三の目の延長線上にのれば、その第三の目の魅力、その第三の目の
吸引力、磁力があまりに大きいので、あなたは知らないうちに引きつけられて
しまう。
その線の上にのりさえすれば、第三の目の魅力、引力が作用しはじめる。
ひとたびその線の真上に来れば、努力をする必要はいっさいなくなる。
ふと気つ゛くと、世界の見え方が変わっている。
両目は二元的な世界や思考をつくりだし、両目のあいだにあるひとつの目はす
きまをつくりだすからだ。
これは見ている風景の焦点を変える単純な技法だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

275鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/01/31(木) 23:25:35 ID:1d4drIFg0
>>273 そうじゃ、公案も本来は修行者の心を鎮めさせるために編み出されたものじゃ。
 面白いクイズではないのじゃ。

呂祖も自我を観ることを否定してはいないのじゃ。
ただ思考が雑念として沸き起こる状態では見ることができないというのじゃ。
そのために鼻頭を観ることで眉間に気を集める法を教えるのじゃ。
止観の止を教えているのじゃ。

276避難民のマジレスさん:2019/02/01(金) 15:39:21 ID:LC3de7YgO
>>274
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

人は鼻の頭を見るべきである。
だがこれは、みずからの 思念を鼻の頭に固定させるという意味ではない。
心マインドはそのように曲解しかねない。
心は「よし、じゃあ鼻の頭を見つめればいいんだ。鼻先のことを考えて、それ
に集中すればいいんだ」と言いだしかねない。
鼻の頭に集中し過ぎたら、肝心な点を取り逃がしてしまう。
鼻の頭に視線を下ろしつつも、第三の目によって引き寄せられるように、ゆっ
たりくつろいでいなければならないからだ。
鼻の頭に集中し過ぎて、そこに根をはやし、焦点を合わせ、固定してしまった
ら、第三の目はあなたを引き寄せることができない。
第三の目はこれまで一度も働いたことがないからだ。
その吸引力は、最初はそれほど大きなものではありえない。
それは徐々に徐々に大きくなってゆく。
ひとたび第三の目が機能しはじめ、それによって周囲につもったほこりが消え
、仕組みが順調に働いてゆくようになれば、鼻先に意識を向けるだけで、あな
たは引き寄せられるようになる。
だが、はじめはそうはゆかない。
あなたは肩がこらず、圧迫もなく緊張もない、軽々とした状態でいなければな
らない。
あなたはただ一種の手放し状態のなかでそこにいなければならない。

またこれは、目で鼻の頭を見つめながら思念を 「中心の黄色」に集中させると
いう意味でもない。
だから、鼻の頭に意識を集中させないこと ― さもないと心マインドは第二の策
略トリックを弄しかねない……
師は心が引き起こしうるあらゆる事態、あらゆるゲームに注意を向けさせよう
としているだけだ。
心はまず言う。
「よし、では師は『鼻の頭に集中せよ』と言ってるんだ」
師は「鼻の頭に集中せよ」などとは言っていない。師は「見なさい。軽やかに
、力まずに見なさい」と言っているだけだ。
あるいは心はこう言うかもしれない。
「そうか、鼻の頭をとりあえず見て、意識を第三の目に集中させればいいんだ
な」心はつねに集中する側にまわる。
心は集中を餌とし、集中を食べて生きているからだ。
学校や大学で、瞑想ではなく集中が教えられるのはそのためだ。
学校はすべて心をつくりだす工場だからだ。
それは心を製造している。

視線が向かうところに、こころも向かうものである。
どうしてそれを同時に上方と下方に向けることができるだろう?
そうなったら、心マインドはこう言うだろう。
「いいかい、そんなことはできっこない。不合理な要求さ。どうして二つの方
向を、鼻の頭と第三の目を同時に見るなんてことができるだろう?そんなこと
は不可能だ、やれるはずがない。馬鹿を言っちゃいけない」
さあ、何かをつじつまが合わないと言って非難するのが、心の第三のゲーム
だ ― 心はまずまやかしの観念をつくりだしておいてから、それを壊そうとす
る。
そして壊すことに大きな喜びを覚える ― ひじょうに自虐的、加虐的な喜びだ

心は言う。
「いいかい、師はこんなことを言っているんだぜ。馬鹿げているよ!まず鼻の
頭を見て、それからさらに第三の目を見ろだって― どうして上と下を同時に見
るなんてことができるだろう?そんなことはできっこない」

こういったことはみな、月を指す指を月そのものと取り違える ようなもので
ある。
では、これは実際には何を意味するのか?
「鼻の頭」という表現はよく考えて選ば
れたものだ。
鼻は視線の目安とならなければならない。
それだけのことだ ― それは目安にすぎない。
それを目安にすることで、あなたは第三の目の磁場、エネルギー場に入り、第
三の目の磁力のすぐそばにいることになる。
第三の目はそのような形でしか機能しえない。
あなたはその磁力に身をさらし、磁場のなかにたたずんでいるだけでいい。
そうすればその力があなたを引き込んでくれる。
入ってゆく必要はないし、入ってゆこうと努力を する必要もない。
それはひとりでに起こるからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく`)

277鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/01(金) 21:48:03 ID:1d4drIFg0
眉間に集中する方法はなかなか難しいものじゃ。
あまりに集中すると眼が疲れて痛くなり、頭痛までしてくるのじゃ。
ヨーガでは視線は一メートルぐらいの地面に固定して意識だけ集中するというのじゃ。
この書では逆に視線を鼻の頭に固定して意識は向けないようにするのじゃ。
いろいろ試してみると善いのじゃ。

278避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 00:08:31 ID:LC3de7YgO
>>276
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

鼻に視線を向けていない場合には、目を大きく開けて遠くを 見ているため鼻が
見えないか、あるいは目を閉じ過ぎていて 鼻が見えない。
目を大きく開けすぎると、視線を外に向ける という誤りを犯し、気が散りやす
くなる。
鼻の頭を軽く見ることで別の効果が現れる ―
そうすれば目を大きく開いたままではいられない。
目を大きく見開くと、世界のすみずみが視野に入ってくる。
そして気を散らさせるものが無数にある。
美しい女性が通りかかると、あなたはそれについてゆく ― 少なくとも心のな
かで。
あるいは誰かが喧嘩をしていると、関係などないのに、「どうしたのだろう?」
と考えはじめる。
あるいは誰かが泣いていると、好奇心に駆られる。
千とひとつのものごとが絶えずあなたのまわりで起こりつつ゛けている。
目を大きく開いたら、あなたは男性エネルギー、<陽>になる。
目を完全に閉じてしまうと、あなたは物思いにふけり、夢を見はじめる。
あなたは女性的エネルギー、<陰>になる。
両方を避けるために、何気なく鼻の頭を見る― 単純な方策だが、その成果には
目を見張るものがある。
これは道家の人々だけでなく、仏教徒たちも知っている、ヒンドゥー教徒たち
も知っている。
いつの時代にも瞑想者たちは、目を半眼にすることで二つの罠を巧妙に避ける
ことができるという事実にゆきあたった。
外界にかき乱されるか、内なる夢の世界にかき乱されるか、二つの落とし穴が
ある。
内界と外界の境界の真上にとどまっていればいい。
まさにその場所だ。
内界と外界の境界の上にあるというのは、その瞬間、あなたは男性的でも女性
的でもないということだ。
あなたの視界は二元性から解放されている。
あなたの視点は内なる分割を超えている。
内なる分割を超えてはじめて、あなたは第三の目が放つ磁力の圏内に入る。
目を閉じ過ぎると、視線を内に向けるという誤りを犯し、夢を見るような空想
の状態に沈みこんでしまう。
ただ瞼まぶたを 適度に半分ほど閉じると、ちょうどよい具合に鼻の頭が見える
ようになる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
これを覚えておくことはとても重要だ。
光は引き入れるものではない、力ずくで引き込むものではない。
窓が開いていれば、光はひとりでに入ってくる。
扉が開いていれば、光はあふれるように差し込んでくる。
光はもち込まなくてもいい。
光は押しいれなくてもいい。
光は引き込まなくてもいい。
光をどうして引き込むことができるだろう? 
光をどうして押し入れることができるだろう?
心を開き、光に対して感じやすくなっているだけでいい。
鼻の頭を見ているときに起こっているのはまさにそれだ。
集中せずに、ただ見ていると……重くならず、力まず、ただ見ていると、突然
、第三の目の窓が開き、光が流れ込んでくる。
いつも外に流れ出していた光が流れ込みはじめ、輪が完結する。
そしてこの輪は人間を完成させる。
この輪は人間を完全に落ち着かせ、くつろがせる。
この輪は人間を円満で神聖なものにする。
人間はもはや分かたれていない。
そうでないかぎり、人はみな多かれ少なかれ精神分裂症にかかっている。
光の輪をつくりだせた人間だけが ―光の循環は精神分裂症を超えている ― 本
当に健やかであり、神経症を少しも患っていない。
さもなければ人はみな似たりよったりだ。
神経症を病んでいる者とそうでない者の違いは程度の差にすぎない。
実際、患者と精神分析医は別の人種ではなく、同類だ。
ひとりの神経症患者がもうひとりの神経症患者を助けようとしている。
そして、ときには手を貸している方が相手よりも重いい神経症にかかっている
といったことがある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

279避難民のマジレスさん:2019/02/02(土) 11:35:33 ID:LC3de7YgO
>>278
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

世にある職業のなかで精神分析医が神経を病む率が最も高い。
世にある職業のなかで精神分析医の自殺率が最も高い。
なぜだろう?
ある意味で、それは当然のことであり、つじつまがあう。
神経症やありとあらゆる狂気を扱ってばかりいるのだから、自分自身も癒えて
いない彼らが影響を受けてしまうのは当然だ。
彼らはこれらの神経症を体内で養っている。
患者が語るすべてのたわごとに耳を傾けていると、精神分析医は無意識のうち
にそれを取り込んでしまう。
患者はありとあらゆるたわごとを精神分析医にぶちまけてゆく。
実際、そのために患者は金を払っている。
徐々に徐々に、精神分析医のなかに大量の神経症がため込まれ、やがてそれが
爆発することになる。
そうなっても無理はない。
もし精神分析医を任命する権限が私に与えられたなら、光を巡らせるこのプロ
セスを精神分析医に求められる基本的な条件、根本条件とするだろう。
みずからの光を巡らせることができるまで、他人を治療する資格はない。
内側で光を巡らせることができるなら、その人はいかなる神経症にもけっして
影響されることがない。
彼は乱されることなく、耳を傾け、手を貸すことができる。
光を巡らせることで、彼はみずからを清め、浄化している。
彼は聖なる人になる。
導師グルと精神分析医の違いはそこにある。
導師だけが真の精神分析医になることができる。
導師だけが真のセラピストになることができる。
みずからの全体性に到った者だけが道の上で苦闘し、暗闇でつまつ゛いている
者たちに本当に手を貸すことができる。
さもなければ、盲人が別の盲人の手引きをしているだけだ ― ふたりはそろっ
てどこかの井戸に落ちることになる。
この『黄金の華の秘密』という書物は、将来、精神分析医になりたい者たちに
とって、最も根本的な実践の手引きとなるにちがいない。
あなたは驚くだろう ― この書物をはじめて西洋の言語に翻訳したのはヴィル
ヘルムだが、彼自身もまた優れた心理学者だった。
彼がこの書物に興味をもつようになったのはそのためだ。
だが、翻訳を終えた後、彼は狂ってしまった。
彼はひどくかき乱されてしまった。
彼が受けた精神分析の訓練とこの書物の内容が 彼のなかで大きな矛盾を引き起
こし、解きがたい 謎を引き起こし、彼は今まで以上に分裂してしまった。
この書物を翻訳することで、彼は一種の狂気へと追い立て られていった。
それまで受けてきた訓練、知識がことごとくかき 乱されてしまったために、彼
は方向感覚をすっかり失ってしまった。
それを覚えておきなさい。
秘法はそれほどむずかしくない。それが むずかしいのはそこだ ― あまりに
単純なので、ただ心マインドが複雑にしてしまわないよう、勝手にひねりを加
えてしまわないよう、見張りつつ゛けることだけが求められる。
そのために鼻を目安とするのである。
大切なのは 、瞼を適度に閉じて、意識を集中させて光を流れ込ませようとする
のではなく、光が自然に流れ込むようにすることである。
意識を集中させて光を取り入れる必要はない。
光は自然に入ってくる。
そして自然に入ってくるなら、その光は美しい。
光を内側にとり入れようとしはじめたら失敗するだろう。
努力すれば必ず失敗する。
そして失敗すればするほど、あなたはさらに懸命に努力する。
やればやるほど、あなたの失敗はいっそう確実なものになってゆく。
光をとり入れようとしないこと。
光が自然に入ってくる正しい状況に身を置けばいいだけだ。
例えば、夜、月が出ているときに、窓辺に近つ゛き、窓のそばに立てば、月は
自然に甘露を降り注ぎはじめるだろう。
あなたは何もしなくていい。
月の光が降り注いでいる場所に立てばいいだけのことだ。
みずからを正しい<場>に置くだけで、ものごとは起こりはじめる ―このうえ
もなく価値のあることが。

鼻の頭を見ることは、ひとえに内なる集中をはじめる際に役立つのであり、そ
うすることで視線が正しい方向に向かい 目安が定まれば、後はそのまま放置す
ればよい。
これは大工が下げ振りをつるすにあたり、いったんそれをつるし終えると、絶
えずその糸を見ることにこだわらないような ものである。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

280鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/02(土) 23:14:27 ID:1d4drIFg0
瞑想が難しくなるのは何もしないことが難しいからなのじゃ。
何かがうまくいっていると人は何かを必ずしたくなるのじゃ。
それによって静けさや沈黙が破れてしまうのじゃ。
初心者のうちにはうまくいっいていた瞑想が上達するとうまくいかなくなるのもそのためなのじゃ。
再び何もしないことができるには長い時間が必要になるのじゃ。
流れてくるエネルギーや微妙な静けさや沈黙をそのままにしておくことが瞑想の秘訣なのじゃ。

281避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 00:03:26 ID:LC3de7YgO
>>279
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

両目で鼻の頭を見ながら……いいかね、両目が鼻の先端でその二元性を失うよ
うに、あなたは両方の目で鼻の先端を見なければならない。
そうすればその鼻先で、両目から流れ出している光がひとつになる。
光は一点に集まる。
二つの目が出会うところ……まさにそこに窓が開く。
そうなったらすべてがうまくゆく。
そうなったらそのまま放置すればいい。
そうなったらただ楽しめばいい。
ただ祝い、ただ喜び、楽しめばいい。
そうなったらすることは何もない。
(p211)

両目で鼻の頭を見ながら、背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……背筋を伸ばして
坐ることは役に立つ。
背筋を伸ばしていると、性の中枢センターから来るエネルギーをも第三の目で
使うことができるようになる。
単純な方策であり、そこには何も複雑なものはない……両目が鼻の頭で出会う
と、あなたは第三の目にはいってゆくことができる。
性エネルギーもまた第三の目に入ってゆかせるがいい。
そうすれば効果は二倍になる。効果は絶大になる。
なぜなら、性の中枢にはあなたが携えているすべてのエネルギーがあるからだ

背骨をまっすぐに立てると、性の中枢をも第三の目で使うことができるように
なる。
第三の目は二つの次元から攻めるほうがいい。
第三の目は二つの角度から貫こうとするほうがいい。
背筋を伸ばして楽な姿勢で座り……師はことを単純明快にしている。
背筋を伸ばすのはいいが、それを心地の悪いものにしてはいけない。
そうでなければ、再びその心地の悪さに気をとられてしまう。
ヨーガの体位の意味はそこにある。
サンスクリット語の「アーサナ」とは心地のよい姿勢を意味している。
心地のよいことが何よりも肝心だ。
心地よくなければ、心は不快さに気をとられてしまう。
それは心地よいものでなければならない。
東洋人がよくするように床の上に坐ることができなければ ― 彼らは何世紀に
もわたり坐りつつ゛けてきた ― 西洋の探求者が床の上に坐ることができなけ
れば、坐ることに無理があり、心地が悪く、痛みに満ちたものになるなら、椅
子に坐って背筋を伸ばす方がよい。
だが、椅子の背は直角でなければならない。
古代エジプトの王や王妃の絵や彫像を見たことがきっとあるだろう。
彼らの椅子の背は直角になっている。
そのようにして坐るといい。それもヨーガの姿勢のひとつだ。
古代のエジプト人たちはその秘密を知っていた。
とにかく二つのポイントがある。
背骨をまっすぐに伸ばすことと、楽な姿勢を取ることだ。
どちらかが無理な場合には……ときにはそういうこともある。どちらかができ
ない場合がある。
背骨をまっすぐ伸ばすと、心地が悪くなり、楽な姿勢を取ると、背骨が曲がってし
まう。
そんな場合には楽な方を選びなさい。
最善では ないにせよ、心地よさを選ぶ方がいい。
そして背骨 や背筋を伸ばすことなど忘れてしまいなさい。
という のも、心が散漫になってしまうと、何も起こらないからだ。
両方をかなえることができるなら、それに越したことはない。
(p213)
楽な姿勢で座り……背筋を伸ばし楽な姿勢で坐り…… こころを諸条件の只なか
にある中心に保つ。
そして世間から逃げださないこと。
世間のなかで、その諸条件の只なかで生きなさい。
車の騒音が聞こえてくる。
飛行機が飛び去ってゆく。
汽車が行ったり来たりしている。
ありとあらゆるものごとがそこにある……世間が。
だが、世間の只 な か で静かに座りなさい。
なぜなら、ヒマラヤの洞窟へ逃げだすことにはつねに危険がつきまとうからだ

危ないのはヒマラヤの静寂がしみ込みやすいため、自分は沈黙を達成したと勘
違いしかねないからだ。
大気の涼しさがしみ込みやすいため、平常心を達成したと勘違いしかねないか
らだ。
それは借り物だ。
人でにぎわう街にもどってくれば、それはみなたちどころに消えてしまう。
そしてヒマラヤでのあの年月は無駄だったことが、完全に無駄だったことがわ
かる。
あなたは自分をだましていただけだ。
世間の只なかで、中心感覚を獲得するほうがいい。
なぜなら、それはあなたから取り去ることができないからだ。
だからどこにいようと、あなたはこれらの諸条件の只なかで中心にとどまらな
ければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

282避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 09:05:58 ID:LC3de7YgO
>>281
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

それは必ずしも頭の中心を指しているわけではない。
中心感覚とは、頭の中心にとどまるということではない。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そして、いいかね、意識の集中ではなく、ただ油断なく目を見張りつつ゛けて
いること、軽やかに注意を払うということだ。
鼻の頭を見ながら、第三の目に軽く注意を払いなさい。
実のところ、鼻の頭を見たとたん、あなたは第三の目に敏感になる。
なぜなら、それは鼻のもう一方の極だからだ。
ひとつの極、外側の極は鼻の頭であり、それは末端だ。
もうひとつの末端は第三の目とつながっている。
鼻の頭に意識を向けるやいなや、もう一方の端もただちに意識に昇ってくる。
だが、ただ気つ゛いていること、努力せずに気つ゛いていること。

大切なのは、ただみずからの思念を両目の中間に定めることである。
そうすればすべては整う。
すばらしい言明だ ― そうすればすべては整う。
あなたはわが家にたどり着きはじめている。
あなたは変革の入り口に立っている。

光は、はなはだ動きやすい。
光はつねに動いている。
光とは運度に他ならない。
この世で光ほど速く動くものはない。
光の速さは一秒間に十八万六千マイルだ。
光より速いスピードで動くものはない。
光は純粋な速さだ。
それは速さの別の名前だ。
光はけっして眠り込まない。
光はつねに躍動し、つねに動き、つねに流れている。
光は、はなはだ動きやすい。
両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
心配しなくてもいい。
窓を開けて、ただ待てばいい。
光は動いてやまない現象だから、窓が開いていれば、流れ込んでくる。
実のところ、光は何生にもわたって窓を叩きつつ゛けてきたのだが、窓は閉ざ
されたままだった。
そして光は窓をこじ開けることができない。
それは朝がきて太陽が昇っているのに、深く眠りこけているのに似ている。
光線は窓に達し、窓を叩いている。
だが、そのノックの音は聞こえない。
光は音を立てないからだ。
光はそこで待っている。
目を覚まして、窓を開けたとたんに、光が流れ込んでくる。
そして光とともに生命が入ってくる。
光とともに喜びが入ってくる。

両目の中間に思念を定めると、光は自然に流れ込んでくる。
「自然に」という言葉に心をとめなさい。
あなたは行為の主体ではない。
あなたは一種の手放し状態にある。
あなたは光に明け渡している。

注意をことさら中心の宮殿に向ける必要はない。
大切なことはこの数語に要約されている。
あなたの実存をすっかり変容させてしまう秘法、神の王国の秘法、にゃはんニ
ルヴァーナの秘法……。
「諸条件の只なかにある中心」というのは、ひじょうに 微妙な表現である。
中心は至るところにあり、いっさいのものがそのなかに含まれている。
それはあらゆる創造のプロセスが解き放たれる点と結びついている。
あなたが第三の目の地点に到り、そこに中心を据えると、光があふれるように
押し寄せてくる。
そのときあなたは、あらゆる創造がそこから湧き起こる地点に到達している。
あなたは形なきもの、顕れていないものに到達している。
それを「神」と呼んでもいい。
これこそ万物が湧き起こる地点、その空間だ。
これこそ森羅万象の種子そのものだ。
それはあらゆる力をもち、至るところに遍満している永遠なるものだ。
もはや死を知ることはない。
もはやあなたはいかなる肉体との同一化、老若・美醜も知ることはない。
もはやあなたはいかなる種類の病も知ることはない ― 肉体が病まないという
のではないが、病はもはやあなたには起こらない。
なぜなら、あなたはもう同一化してはいないからだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

283鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/03(日) 22:01:53 ID:1d4drIFg0
瞑想の真の秘訣がここでもまた強調されるのじゃ。
瞑想中に何か起ころうとそのままにしておくのじゃ。
集中以外の全ての意思をも放棄して座り続けるのじゃ。
そこにこそ至高の境地が花開くのじゃ。
全ての意識が体を超えて広がっているのが感じられるのじゃ。

284避難民のマジレスさん:2019/02/03(日) 22:39:12 ID:LC3de7YgO
>>282
23黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ラマナ・マハリシは癌で死んだ。
肉体は ひどく苦しんでいたが、彼は微笑んでいた。
医者たちは当惑し、目を疑った。
それは信じがたいことだった。
肉体がこれほどひどい苦痛にさいなまれているのに、彼はすばらしい歓喜に浸
っている。
どうしてそんなことがありえるのだろう?
彼らが何度も「どうしてこんなことがありえるのでしょう?」 と尋ねるたびに
、彼はこうくり返した。
「不思議なことは何もない。私は肉体ではないからだ。だから肉体に何が起こ
っていようと、君たちが私の肉体を見ているのと変わりない。私も自分の肉体
を見ている。 君たちは少しも痛みを感じないだろう?私もそうだ。君たちは目
撃者であり、私も目撃者だ。 肉体は対象、私たちのあいだにある対象物にすぎ
ない。君たちは肉体が苦しんでいるのを外側から見ている。私は肉体が苦しん
でいるのを内側から見ている。君たちが動揺せずに見ていられるなら、どうし
て私にできないことがあるだろう?」
実のところ、医者たちは動揺していた。
彼らは深い同情を感じていた。
彼らは悲しかった。
彼らは無力感を感じていた。
彼らはこの人を救いたいと思っていた ― かつてこの世に生きた最も美しい人
々のひとりを。
だが、それはできなかった。
彼らは泣いていた。
だが、ラマナはまったく動揺していなかった。
人間のなかには超越の地点がある。
姿を顕しているいっさいのものから突如 断絶し、姿を顕していないものと結
びつく地点が。
姿を顕していないものと結びつくことが 自由になること、あらゆる惨めさか
ら自由になること、あらゆる限界、あらゆる束縛から自由になることだ。
一点を見つめ観想することが不可欠である。
これは避けることのできないものだ ―これは欠かせない。
至福の状態に到達したければ、この一点を見つめること、観想、瞑想、あるい
はディヤーナのこのプロセスを通り抜けなければならない。
(p217)
この技法はすみやかに光明を得ることを保障する。
世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
さて、ひじょうに重要な、師の第二の助言だ。

世俗の想念が浮かびあがってきたなら、そのままじっと坐りつつ゛けてはいけ
ない。
その想念はどこにあるのか、どこではじまり、どこへ消えてゆくのかを調べな
ければならない。
最初からそれがうまくゆくことはないだろう。
鼻の頭を見ていると、思考がやって来る。
思考は何生にもわたってやって来ているのだから、そうやすやすとあなたを独
りにしてはくれない。
思考はあなたの一部となり、ほとんど組み込まれてしまっている。
あなたはプログラムされたに等しい生を送っている。
自分が何をやりつつ゛けているか観察してみたことがあるだろうか?
なかったら、明日の朝、あることをやってみるといい。
朝、目を覚ましたら、すぐに自分がしていることを観察してみるといい
― どのようにベッドから起きるか、どのように身体を動かすか、どんな思念
が頭をよぎるか……ただ、見守ってみるといい。
一週間も観察すれば、きっと驚くことだろう。
あなたは毎朝まったく同じことをくり返している。
同じ仕草、同じ表情、ほとんど同じ思考。
何から何まですっかりプログラムされてしまっている。
そしてあなたはこれを一生のあいだやってきた
―もしかすると何生ものあいだやってきたのかもしれない。
腹が立ったら、観察してみるといい
―それはいつも同じプロセスを踏んでいる。
あなたは同じ空間を通り抜けてゆく。
幸せなとき、観察してみるといい。
恋に落ちるとき、観察してみるといい。
失恋するとき、観察してみるといい。
それはほとんど同じプロセスだ。
あなたは同じ愚行を何度も何度もくり返し、同じたわごとを何度も何度も口走
っている。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

285避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 07:33:06 ID:LC3de7YgO
>>284
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

あなたは意識的な生を生きていない。
あなたの九十九パーセントはプログラムされている
― 他人にプログラムされているにせよ、社会にプログラムされているにせよ
、あなた自身の手でプログラムしているにせよ、プログラムされていることに変わりはない。
だから、はじめて坐って鼻の頭を見つめているときに、思考がこのように言う
ほど、ことは容易ではない。
「こいつのそばには近寄らないほうがいい。このかわいそうなやつを見てみろ
―瞑想なんかにすっかりはまり込んでいる!鼻の頭を見つめていやがる……今こ
いつのところへゆくのはやめておこう」
思考はあなたのことなどおかまいなしに、どんどん走りまわるだろう。
鼻の頭を見たぐらいで止まりはしない。
むしろ逆に、この男が思考の支配から逃れようとしているのを見物しようと、
それまで以上にもっとしつこくやって来るだろう。
静かに坐って瞑想をしていると、ふだんよりも、いつもよりももっと多くの思
考がやってきて、ほとんど爆発しそうな勢いになる。
何百万もの思考が押し寄せてくる。
思考はあなたにかなりの投資をしてきたのに、あなたはその支配から抜け出そ
うとしているからだ。
かれらはあなたをこっぴどい目に合わせようとする。
だから、思考が必ずやって来る。
これらの思考をどうしたらいいだろう?
ただそこにぽつんと坐っているわけにはゆかない。
あなたは何かをしなければならない。
闘っても役には立たない。
闘いはじめたら、鼻の頭を見たり、第三の目を意識したり、光を巡らせること
を忘れてしまうからだ。
あなたはすべてを忘れ、思考のジャングルに迷い込んでしまう。
思考を追いかけはじめたら、道に迷ってしまう。
思考の後を追えば、道に迷ってしまい、思考と闘っても、道に迷ってしまう。
では、どうすればいいのだろう? これがその秘法だ。
仏陀も同じ秘法を使っていた。
実際、秘法というのはほとんど同じものだ。
人間が ― 鍵穴が同じだからだ。
だとすれば 鍵も同じにならざるをえない。
これがその秘法だ。
仏陀はそれを「サマサティ」
― 正しい想起 ― と呼んでいた。
ただ想起すること
― 思考がやって来ても、敵意を抱かず、正当化をせず、非難をせずに、その
ありのままの姿を観る。
科学者が客観的になるように、ただ客観的になる。
それがどこにあるか、どこからやって来たか、どこへ去ってゆくかを観る。
それがやって来るのを観、とどまるのを観、去ってゆくのを 観る。
思考はひじょうに動きやすく、長くとどまってはいない。
あなたは 思考が湧き起こり、思考がそこにとどまり、思考が去ってゆくのをた
だ観守っていればいい。
闘ったりしないこと。
ただ静かに観察していればいい。
するとあなたは驚くだろう
― 観察がしっかりしたものになればなるほど、やって来る思考は減ってゆく。
観察が完璧になると、思考は消え失せてしまう。
後にはすきまが、間合いだけが残る。
だが、もうひとつのポイントを覚えておきなさい。
こころが再び策を弄しかねないからだ。
(p220)
内省をどこまで押し進めても何も得られない。
だが、内省をどこまでも押し進めようとしないこと。
フロイト派の精神分析はまさにそれを行なっている。
思考を自由に連想させてゆく。
ひとつの思考がやって来たら、次の思考が湧いてくるのを待つ。
それがどんどん鎖のようにつつ゛いてゆく……精神分析の諸派がやっているの
はまさにそれだ―あなたは過去にもどってゆき始める。
ひとつの思考が別の思考を呼び覚まし、それが延々と果てしなくつつ゛いてゆ
く。
それにはきりがない。
それに入り込んでしまったら、あなたはまったく何の益にもならない永遠の旅
に出ることになる。
心はそれをやりかねないから、気をつけなければならない。

内省をどこまで押し進めても何も得られない。
この想念がどこから生まれてきたかを見ることでよしとし、その先を究めよう
としてはならない。
こころを探し求めても、とらえることはできない (意識によって意識の背後に
達することはできない)からだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

286鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/04(月) 23:05:05 ID:1d4drIFg0
雑念を見守り、消えていくに任せるのは集中には欠かせない方法なのじゃ。
それに囚われてはいかんが、あまりに追求しすぎてもいかんのじゃ。
泡の如く生まれては消え去るさまを観ているだけでよいのじゃ。
そうすれば消えていくのじゃ。

287避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:35:19 ID:LC3de7YgO
>>286
淀みに浮かぶうたかたであります!
(´・(∀)・`)つ

288避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:47:10 ID:LC3de7YgO
>>285
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

意識によって意識を超えることはできない。
だから、いたずらに無益なことは試みないこと。
そうしないと次から次へと現れる思考に振りまわされて、自分がそこで何をし
ようとしていたのかすっかり忘れてしまう。
鼻の頭は消え、第三の目は忘れられ、光の循環は遥か彼方に遠ざかってしまう

だから思考をつなげないよう、ひとつの思考だけにする。
連想をはじめてはいけない。
ひとつの思考が現れてくる―それがどこにあり、どこから現れて、いつ消えて
ゆくのかを見守りなさい。
見守っていると、それは消えてしまう。
これを心にとめておきなさい。
仏教徒は思考が現れると、「思考、思考」と言って油断なく目を見張る。
それはちょうど家に泥棒が入ったら、「泥棒だ!泥棒だ!」
と叫んで、みんなの注意を呼び覚ますようなものだ。
ただ「思考、思考」と言うだけで、あなたは油断なく目を見張り、注意深くな
る。
泥棒が入った。さあ、泥棒が何をしているか見守るがいい。
あなたが気つ゛くと、思考はただちに止まる。
思考はあなたを見て、そして少し驚く。
あなたはこれまで一度もそんなことをしたことがなかったからだ。
思考はあまり歓迎されていないのを感じる。
「こいつはどうしてしまったんだろう?いつもよくもてなしてくれたのに、
『泥棒!泥棒!思考だ、思考だ』などと言っている。こいつはどうしちまったんだろう?」
思考は当惑し、何が起こっているのか理解することができない。
「こいつはおかしくなりはじめているのだろうか。鼻の頭を見ながら『思考、
思考』とくり返しているぞ」
気つ゛きそのものが思考の動きを一瞬止める。
思考はその場に釘つ゛けになる。
そして見守りつつ゛けなさい。
非難してはいけない。
放り出そうとしてはいけない。
闘ってはいけない。
非難しても正当化しても、思考と同一化することになるからだ。
ただそこにあって、油断なく目を見張り、思考を見つめなさい。
そうすれば思考は消えはじめる。
現れたときと同じように消えてゆく。
それは空想から生まれ、空想のなかに消えてゆく。
思考が消えれば、観想にもどればいい。
思考には根などないのだから、その元をたどる必要はない。
さもなければ大宇宙の源そのものまでたどらなければならなくなる。
精神分析にきりがないのはそのためだ。
それはけっして終わらない。
精神分析を完全に終えた者などこの世にひとりもいない。
精神分析を完全に終えることなどありえない。
一年、二年、三年、四年、五年、六年、七年と―精神分析に七年間通っている
人もいる。
あなたはどう思うかね?
彼らが止めるのは精神分析が終了したからだと思うかね?
いいや、彼らは精神分析にうんざりし、精神分析医は彼らにうんざりしてしま
ったからだ。
ものごとはいつか決着をつけなければならない。
終止符を打たなければならない。
いつまでつつ゛けられるだろう?
だが、精神分析が完了したことは一度もない―それはありえない。
それはむいてもむいてもなくならない玉葱たまねぎのようなものだ。
その皮をえんえんと剥むきつつ゛けることはできるが、どこまでいってもきり
がない。
だがそれは助けになる。
それは自分自身に、そして社会にもっと適応するのを助けてくれる。
それはあなたを変容させるのではなく、正常な異常者にするだけだ。
それはあなたが住んでいる神経症的な社会にあなたが適応するのを助けてくれ
る。
それはあなたを、変容を遂げた輝かしい存在にするのではなく、生がもたらす
ものは善悪を問わずことごとく受け入れ 、誰もがしているように身をひきずり
ながら歩いてゆくふつうの人間にしてくれる。
それは嘆きながら生を受け入れることを教えてくれる。
それは本当の受容ではない。
真の受容はつねに祝祭をもたらすからだ。(´・(ェ)・`)
(つづく)

289避難民のマジレスさん:2019/02/04(月) 23:49:12 ID:LC3de7YgO
>>288
OSHOはきっと、正常な異常者だったのでありましょう。
くまも、それを目指すであります。
(´・(ェ)・`)つ

290鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/05(火) 22:59:22 ID:1d4drIFg0
>>287 そうじゃ、兼好法師も修行していたのじゃろう。
 
>>289 目指すと善いのじゃ。

批判も正当化もせずに見守るのはなかなか難しい事じゃ。
分別の判断は瞬時に起こってしまうからのう。
それが起こったならば起こったとまたありのままに観るとよいのじゃ。
そうすれば自己同一化されずに消えていくのみなのじゃ。

291避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 03:10:06 ID:LC3de7YgO
>>290
鬼和尚、いつもありがとうであります。
(´・(ェ)・`)つ

292避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 06:48:17 ID:LC3de7YgO
>>288
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

ジークムント・フロイトは言った―人間は幸福にはなれない。
せいぜい楽になることができるだけだ。
生をもっと心地よいものにすることはできるが、ただそれだけのことであり、
幸福にはなれない。
それは不可能ではない―精神分析によっては不可能だが― なぜなら、幸福な人
々というのは存在してきたからだ。
私 たちは彼らを知っている。
仏陀や老子やクリシュナのような人たち、私たちはこういった舞い踊る人々を
知っている。
フロイトは幸福ではない。
それは本当だ。
彼は幸福になることはできない。
精神分析を落とし、瞑想的なプロセスに入ってゆかないかぎり、彼は幸福には
ならない。
彼が瞑想を学ぶにはさらにいくつかの生が必要になるだろう。
実のところ、彼は瞑想をひどく恐れていた。
ジークムント ・フロイトだけでなく、カール・グスタフ・ユングのような人で
さえ、恐れていた。
カール・グスタフ・ユングは、この 『黄金の華の秘密』という書物の解説を書
いている。
だが それは知的なものにすぎず、実存的な価値はない。
彼には瞑想の体験がまったくなかった―どうしてそれが実存的な価値をもちう
るだろう?
そして、彼はきわめてエゴの強い人間だった。
エゴの強い人間は瞑想に入ってゆくのがひじょうにむずかしい。
なぜなら、そのまさに戸口のところでエゴを落とさなければならないからだ。
ユングがインドを訪れたとき、まだラマナ・マハリシ は生きていた。
そして、多くの人がユングに勧めた。
「インドにおいでになったのだし、あなたは生の内なる神秘に大きな関心をも
っておられるのだから、ラマナのもとへ行かれるのがいいでしょう。あなたは
『黄金の華の秘密』の注釈を書いて おられますが、ここでは満開の"黄金の華"
が咲いています。 どうしてラマナのもとへ行かれないのですか?」
だが、ユングは一度も足を向けなかった。彼はインドを旅して多くの人々に出
会ったが、ラマナには一度も会いに行かなかった。
なぜだろう?
何を恐れていたのだろう?
この人物に出会うことを恐れ、この鏡と顔を合わせることを恐れていたのだ。
ユングの写真を見たことがあるだろうか?写真を見ただけでも、彼のエゴは歴
然としている。
フロイトはユングほどエゴが強そうには見えない。
おそらくユングは、みずからのエゴゆえに師である ジークムント・フロイトと
袂たもとを分かち、彼を裏切ったのだろう。
ちょっと彼の写真を見てみるといい。その目はとても抜け目なく、計算高い。
いつでも人に食ってかからんばかりだ。
とほうもなくエゴが強いが、ひじょうに頭がよく、聡明で、知性が発達してい
る。
いいかね、精神分析であれ分析心理学であれ他の流派であれ、分析と言うゲー
ムに興じるかぎりあなたは幸福にはなれない。
そのゲームのゆき着く果てはなまぬるい順応生活に他ならない。
それらはあなたが祝祭の炎と化すのを助けはしない。
祝祭は 彼らの手にあまる。
なぜだろう?
それは彼らが思考を分析しつつ゛けているからだ。
分析は必要ではない。
それゆえに『黄金の華の秘密』は言う―人はみなこころを落ち着かせようとす
る、これが正しい観想である。
私たちは実存全体に完全な安らぎをもたらしたい。
分析は助けにならない。
分析は混乱を、不安な状態を生み出すからだ。

これと矛盾するのは誤った観想であり……分析は「誤った観想」だ。

何も得るところがない。雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止ま
り、観想をはじめなければならない。
だから、この二つを覚えておくといい。
これらは両翼だ。
ひとつは、間合いがあり、思考がやって来ていないときに観想するということ

そして思考がやって来たら、これら三つのことを見る―思考はどこにあるか、
どこからやって来たか、どこへ去ってゆくか。
しばらくすきまを見ることをやめて、思考を見つめ、思考を観察し、思考に別
れを告げる。
思考が去ったら、ただちに観想を再開する。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

293避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 07:06:10 ID:LC3de7YgO
>>289
正常も異常も、観念的、相対的なものであり、分別を越えたところを目指すのかなと、考えすぎたようであります。
思考の隙間、沈黙の世界をみつめなければいけないのでありますね。
(´・(ェ)・`)つ

294鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/06(水) 22:26:02 ID:1d4drIFg0
↑そうじゃ、ただひたすらに座り続けるのじゃ。

 雑念が去ったならばもはや手をつけないでいることが正しい観想というのじゃ。
 努力しないことで努力の及ばない彼方にいくことができるのじゃ。
 それが真の瞑想なのじゃ。
 主体に関係なくただ起こるだけの瞑想がそこに華開くのじゃ。

295避難民のマジレスさん:2019/02/06(水) 23:31:46 ID:LC3de7YgO
>>292
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
第六話 風景の焦点ゲシュタルトを変える(つづき)
 より抜粋

もう一度、譬たとえを使って説明してみよう。
道路を走っている車と車のすきまを見ているとき、車がやって来たらどうする
だろう?
あなたは車にも目をやるが、車の細部のことは気にかけない。
型、車種、年式、色、運転手、乗客のことは気にかけない。
そういった分析にはかかずらわない。
あなたはただ車を目にとめるだけだ。
車がやって来て、あなたの前を通り、去ってゆく。
再び、あなたはすきまに注意を払うようになる。
あなたの関心はひたすらすきまに注がれている。
だが、車がやって来たら、しばらくのあいだ車にも注意を払わざるをえない。
やがて車は去ってゆき、あなたは再び安らぎ、観想、間合いのなかに落ちてゆ
く。
雑念が果てしなくつつ゛いてゆくときには、立ち止まり、観想をはじめなけれ
ばならない。
観想したら、再び見つめる。
だから、思考がやって来るたびに、それを見つめ、思考が去るたびに、観想す
る。

これがすみやかに光明を得るための二重の技法、つまり 光を巡らせることであ
る。
巡らせるとは見つめることであり、光とは観想のことである。
観想するたびに、光があふれんばかりに押し寄せてくる。
見つめるたびに、あなたは循環を生みだし、循環を起こさせている。
どちらも必要だ。

光とは観想のことである。
観想せずに見つめるのは光のない循環であり……まさにそれが起こっている。
ハタ・ヨーガにその不幸なあやまちが起こった。
彼らは一点を見つめ、集中するが、光を忘れてしまった。
彼らは客をすっかり忘れてしまった。
彼らはひたすら家の準備をしつつ゛ける。
家を準備することにかまけるあまり、彼らは何のために、誰のために家を準備
しているのか、その目的を忘れてしまった。
ハタ・ヨーガは絶えず肉体を準備し、肉体を浄化してゆく。
ヨーガの姿勢を取り、呼吸法を実践しながら、それをどこまでも果てしなく
つつ゛けてゆく。
ヨーガ行者は何のためにそれをやっているのかをすっかり忘れてしまっている

そして目の前にある光を認めようとしない。
光は人が完全に手放しになったときにはじめて入ってくることができる。

観想せずに見つめるのは光のない循環であり……これがいわゆるヨーガ行者に
起こるあやまちだ。
別の種類のあやまちが精神分析医、哲学者に起こる。

見つめずに観想するのは循環のない光である。
彼らは光について考えるが、それが押し寄せてくるのにそなえて準備したこと
がない。
彼らは光について 考 え る だけだ。
彼らは客について考える。
客について千とひとつのことを想像するが、家の準備ができていない。
どちらも取り逃がす。

これに注意しなければならない!
さもなければ、あなたもまた取り逃がすかもしれない。
準備して待ちなさい。
用意を整えるのだ。
鼻の頭を見つめ、第三の目に注意を向け、背骨をまっすぐに伸ばし、楽な姿勢
を取る―あなたがしなければならないのはそれだけだ。
それ以上のことは必要ない。ヨーガの姿勢を年がら年じゅうやりつつ゛ける必
要はない。
それは馬鹿げている。
いわゆるヨーガ行者がひどく愚かで知性を欠いているように見えるのはそのた
めだ。
彼らの肉体は頑丈であり、長生きするかもしれないが、それに何の意味がある

光がなければ、生は知性の欠けた暗いものになる。
長生きしようが、早死にしようが違いはない。
大切なのはたとえ一瞬でも光のなかに生きることだ。
それで充分だ。
その一瞬は永遠になる。
そして光について考えてばかりいる哲学者たちがいる―光とは何か?光をどう
定義すればいいか、どう定義するのが最良か―彼らは様々な理論、定理、壮大
な思想体系を続々とつくりだすが、光に対する準備ができていない。
光は扉の前でひたすら待ちつつ゛けているというのに。

これに注意しなければならない!
この二つの誤りを犯してはならない。
目を見張ったままでいることができれば、それはごく単純なプロセスであり、
大きな変容力をそなえている。
正しく理解する者は、ほんの一瞬のうちに、もうひとつの実在リアリティに入
ってゆくことができる。
神は遠くにあるのではない。
神はあなたの内側にある。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

296鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/07(木) 22:37:42 ID:1d4drIFg0
ヨーガにも眉間に集中する法はあるのじゃ。
しかし、長く時間がかかるのじゃ。
気を巡らさないから効果も遅いのじゃ。
気を巡らせてから集中することで速やかに効果も訪れるのじゃ。

297避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 04:14:27 ID:LC3de7YgO
>>295
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸
 より抜粋

呂祖師は言った。
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
初心者がまず陥りやすい誤りは主に二つある。
それは昏沈こんちんと散乱だ。
それに対処するには、呼吸にあまり深く気をとられてはならない。
呼吸はこころハートから生じる。
こころから呼吸が生じるのである。
こころが動くと、ただちに気(呼吸エネルギー)が生まれる。
気とは元来、こころの活動が変容したものである。
我々の思念は実にすばやく動いて、またたく間に空想に走るが、ひとつの空想
には必ずひとつの息がともなっている。
内なる呼吸と外なる呼吸は、声とこだまのように 一体になっているからだ。
我々は毎日数知れぬほど息をし、それと等しい数の空想を抱いている。
こうして精神の明晰さは、樹が枯れ、灰が冷たくなるように衰えてゆく。

では頭のなかで空想してはならないのだろうか?
人は空想せずにはいられない。
呼吸をしてはならないのだろうか?
人は呼吸せずにはいられない。
最良の方法は、病から薬をつくりだすことだ。
こころハートと呼吸が互いに依存し合っているなら、光の循環を呼吸のリズム
と結び合わせなければならない。
このためには、とりわけ耳の光が必要である。
目の光があるように、耳の光がある。
目の光は外界にある太陽と月が合体したものである。
耳の光とは内なる太陽と月が合体して生まれる種子である。
したがって理解(耳)と明晰さ(目)はひとつのものであり、 同じ霊妙な光に
他ならない。

坐るときには、瞼まぶたを下げて、下げ振りをつるすように視線を定め、光を
下方に向ける。
しかし、下にうまく注意を向けられないときには、呼吸に耳を傾けるようにこ
ころハートを導く。
出入りする息の音が聞こえるようではいけない。
聞こえるのは乱れた息である。
息が乱れると、たちまち 呼吸は荒く、うわついたものになり、伸びやかに広が
ってゆかない。
こころをひじょうに軽やかで微細な状態にしなければならない。
枷かせを解かれれば解かれるほど、こころの働きは微かすかになり 、微かにな
ればなるほど、こころは静かになってゆく。
不意にこころは限りなく静かになって、動きを止める。
そうなったら真の呼吸が出現し、 こころの真の姿が意識されるに到ったので
ある。
こころハートが軽やかであれば、息も軽やかになる。
それはこころのあらゆる動きが気(呼吸エネルギー)に 影響を与えるからだ。
息が軽やかであれば、こころも軽やかになる。
それは気のあらゆる動きがこころに影響を与えるからだ。
こころを安定させるには気を養うことからはじめなければならない。
こころに直接働きかけることはできないからだ。
それゆえに手がかりとして調息法を用いる。
これが「気の力を集中して保持する方法」と呼ばれているものだ。

弟子たちよ、おまえたちは"動き"の本性を理解していないようだ。
動きは外界の事物によっても引き起こされる。
それは支配されるということに他ならない。
走るだけでこころが揺れ動くなら、身動きしないことによって それを鎮めるこ
とはできないだろうか?
こころと気が相互に影響し合うことを知った偉大な聖者たちは、後世の人々に
役立つよう、より簡易な方法を考案したのである。

「鶏が卵をかえすことができるのは、 そのこころハートがつねに耳を澄ませて
いるからだ」
これは不思議な力をもつ重要な言葉である。
鶏は熱の力によってその卵をかえす。
だが熱の力は殻を暖めるだけであり、中まで浸透することができない。
そこで鶏はこころを用いてこのエネルギーを内部に導き入れる。
鶏は耳を澄ますことによってこれを行う。
そのようにしてこころを一心に集中させる。
こころが浸透すれば、気も浸透し、ひなは熱の力を受けて、生命を得る。
それゆえに鶏は、卵から離れるときでさえ、つねに耳をそばだてて聴く態勢を
取っている。
このようにして精神の集中は途切れることがない。
精神の集中が途切れないために、熱の力は昼夜絶えることなく、精神はいきい
きと目覚める。
精神の目覚めは、こころハートが死ぬことによってはじめて達成される。
こころを死なせることができれば、原初の精神はいきいきと目覚める。
こころを死に到らしめるというのは、それを枯渇させ、しぼませてしまうこと
ではなく、こころが分断されずにひとつにまとまるという意味である。

(´・(ェ)・`)
(つづく)

298鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/08(金) 22:51:46 ID:1d4drIFg0
呼吸を調えることを調息というのじゃ。
それは微かであればあるほどよいというのじゃ。
鼻先に羽毛を貼り付けて、それか息で動かないほどに静かにする法もあるというのじゃ。
息が静かになれば心も鎮まるのじゃ。

299避難民のマジレスさん:2019/02/08(金) 23:52:46 ID:LC3de7YgO
>>297
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

物語をひとつ……
いにしえの禅師、道悟どうごには崇信そうしんという弟子がいた。
道悟に帰依したばかりの崇信は、教師が生徒を教えるように、師が禅の手ほど
きをしてくれるものと思い込んでいた。
だが、道悟はこれといって何も特別なことは言わなかった。
どうやら師には何も変わったことを弟子に伝えるつもりがないようだった。
とうとう我慢できなくなった崇信は、少しも禅を教えてくださらないと言って
師を責めた。
「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない」と道悟は言った。
「なんですって?」と崇信は言った。
「いつ教えてくださったというのです?」 「朝、おまえがお茶を運んでくれば」と道悟は言った。
「私はそれを飲む。食事を運んでくれば、私はそれを 食べる。おまえがおじぎ
をすれば、私もおじぎをする。
禅を学ぶのに、おまえは他に何を期待しているのかね」
タオは分かち合うことはできるが、分割することはできない。
タオは示すことはできるが、言葉で表現することはできない。
師はタオのなかに生きている。
弟子はその精神スピリットをくみ取らなければならない。
それは教えではないし、教えにはなりえない―教えというのはすべて皮相的な
ものだ。
それは教えよりも深いものでなければならない。
それはエネルギーの伝達でなければならない。
それはこころハートからこころハートへ、 魂から魂へ、肉体から肉体へと伝わ
ってゆくものでなければならない。
それを言葉にすることはできない。
そして弟子は、師の姿をとって顕れているエネルギーを見、観察し、感じ、愛
さなければならない。
やがて徐々に徐々に、師のそばに坐っているだけで、弟子はけっして説かれる
ことのない多くの奥義を学んでゆく。
最も深い奥義のひとつは、師のそばに坐っていると、弟子の呼吸が師の呼吸と
合いはじめるということだ。
距離を越えた響き合い シンクロニシティが起こる。
そうして距離を越えて響き合うことで、二人は出会う。
それは恋人どうしのあいだでも起こる。
深い恋に落ち、愛する人と一緒に肩を並べて坐っているとき、そこで観察する
なら、あなたは驚くだろう。
突然、まったく何の理由もなく、合わせようとしたわけでもないのに 二人の呼
吸が合ってくる。
恋人が息を吐くと、あなたも吐く。 恋人が息を吸うと、あなたも吸う。
突然、二人はつながり、輪になっている。
呼吸はこのうえもなく重要だ。
母親はそのようにして子供とつながっている。
ときに子供と母親が何千マイルも遠く離れているのに、子供に危険が迫ると、
母親の心臓は即座に影響を受けるということがある。
彼らの呼吸は深くつながっている ―彼らは同じような呼吸をしている。
そしてそうなるには明らかな理由がある。
母親の胎内にいる子供は九ヶ月のあいだ母親を通して呼吸していた。
子供は自力で呼吸していたのではない。
それは母親の呼吸だった。
子供は母親の呼吸に従っていただけだ。
母親は子供のために、彼に代わって呼吸をしていた。
九ヶ月のあいだ、二人は深いシンクロニシティのなかで生きていた。
子供が生まれた後でさえ、それはつつ゛いてゆく。
本当の愛があるなら、それは生涯にわたってつつ゛いてゆく。
今や科学でさえもそれを証明している。
アメリカや、ロシアや、他の国々でも、最近、鳥や動物を使った実験がひんぱ
んに行なわれている。
子供を遠くへ連れ去って殺し、同時に最先端の装置につないだ母親を観察する。
子供が殺されると―たとえ何千マイル離れていても―ただちに母親の呼吸が変
化する。
まさにその瞬間、間髪を入れず、母親の呼吸は乱れ、身体に震えが走る。
理由などないのに、はっきりした理由などないのに、母親はパニックに襲われ
、苦痛を感じる。
母親と子供のあいだには何の媒体も介在しない。
何か直感的なつながりがある―彼らを結びつけているものを目でとらえること
はできないが、どこかに見えない糸がある。
弟子は師が何を説いているかではなく、師 の 実 存 の あ り よ う を学ばな
ければならない。
道悟が言おうとしているのはそのことだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

300避難民のマジレスさん:2019/02/09(土) 10:53:46 ID:LC3de7YgO
>>299
25黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸1
 より抜粋

「おまえがここに来てから、禅を教えなかった日はない。 朝、おまえがお茶を
運んでくれば、私はそれを受け取る。 私がどのような仕草で受け取るか、観察
したことはないかね? 私が茶を受け取るとき、私と深い調和を感じたことはな
かっただろうか? おまえが食事を運んでくれば、私はそれを食べる。 おまえが
おじぎをすれば、私もそれに答える。禅を学ぶのに、他に何を期待しているの
かね?」
師は言っている。私の仕草を見守りなさい― 私がどのように歩き、どのように
坐り、どのように息をしているかを、どのようにあなたとともにただ坐ってい
るかを、どのようにあなたを見ているかを、どのように千とひとつの小さな仕
草で私がものごとに感応しているかを。
教義を待ってはいけない。
師の臨在より他に教義などない。
真の教えはまったく教えなどではない。
それは伝達だ―言葉を超え、経典を超えた伝達だ。
そして伝達は呼吸の調和を通して起こる。
私もまた言いたい。
私もまた教え、哲学、宗教として あなたに与えるものなど持っていない、と。
教えることなど何もない。
分かち合うものはたくさんあるが、 教えることは何ひとつない―あるいは、
ただ<無>を教えている!
だが、私が伝えたいその<無>を感じるためには、 私とリズムを合わせなけれ
ばならない。
些細なことが、ごく些細なことが妨げになる。
あなたは何が妨げになるのか 少しつ゛つ気つ゛いてゆかねばならない。
夜のダルシャンの席で、ときどき私は数人のサニヤシン を呼んで、エネルギー
を伝達するのを手伝ってもらっている。
私は何度もプラディーパを呼んだが、彼女を呼ぶと後で必ず気分 が悪くなる。
私は首をかしげた。
何が起こっているのだろう?
彼女は本当にすばらしい女性であり、私をとても愛してくれている。
彼女を呼んで手伝ってもらっているのはそのためだ。
だが、彼女 を呼ぶと必ずそれが起こる。
前回、気分があまりに悪かったので、 私はことの全体を調べてみなければなら
なかった。
そして私には 理由がわかった。
彼女は野菜以外のものを―肉や卵やその他のもの を食べているにちがいない。
それが彼女の呼吸を醜くしている。
それが彼女の内なる調和ハーモニーをそっくりかき乱している。
彼女が私に波長を合わせることができないのはそのためだ。
そして 、波長を合わせることができなければ、障害がつくりだされる。
彼女は私を愛しているが、その愛はいまだに無意識のものだ。
もう少し意識的になれば、彼女はそれに気つ゛くだろう。
私ととも にあるためには、内側にあるたくさんのものを変えなければ ならない
ことに気つ゛くだろう。
私とともにあるためには、私とともにもっと深く進んでゆくため には、こころ
ハートとこころハートの触れ合いをもつためには、 あなたはもち歩いている不
要な荷物を落としてしまわなければ ならない。
つまり肉を食べる必要はないということだ―肉食は 瞑想者にはふさわしくない。
肉を食べると、不要な障害をつくりだすことになる。
それは優しさをかき乱し、あなたのなかに一種の残忍さを 生じさせる。
あなたはそれに気つ゛いていないかもしれない。
なぜなら、あなたはまったく醒めていないからだ。
だが、 私のもとへ来れば、私はまさに鏡のように映し出す。
さあ、プラディーパはみずからの実存のなかに大へんな 吐き気をつくりだして
いるにちがいない。
おそらく彼女自身は 慣れてしまっているので、それに気つ゛かないのだろう。
だが、 私は何度も何度も吐き気を感じた。
というのも、あなたが エネルギーで私と関わるとき、それは一方通行ではない
からだ。
私のエネルギーがあなたのなかに入ってゆき、あなたの エネルギーが私のなか
に入ってくる。
それは一方通行では ありえない。
輪がつくりだされる。
循環が起こりはじめる。
これはひとつの例にすぎない。
そしてこれはプラディーパ だけの問題ではなく、みんなの問題だ。
もっともっと深く私と波長を合わせたいなら、 私に起こったタオを分かち合い
たいなら、あなたは もっと意識し、自分が何をしているか、何を食べているか
、何を読んでいるか、何を聴いているか、どこへ行こうとし、 誰とつき合って
いるかを油断なく見守っていなければならない。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

301鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 00:21:47 ID:1d4drIFg0
師のエネルギーによって弟子を導くことも出来るのじゃ。
肉を食べていれば体の調子が悪いというだけで悟りを得られないとか、汚染されているのではないのじゃ。
体の調子が悪ければ悪いエネルギーの影響を他にも及ぼしてしまうのじゃ。
根菜類とか緑黄色野菜の小食が健康にもよいのじゃ。

302避難民のマジレスさん:2019/02/10(日) 10:09:06 ID:LC3de7YgO
>>300
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

小さなことでも寄せ集まると、 大きな影響を及ぼすことになるからだ。
誰かに腹を立てたり、誰かと喧嘩したりしたあとで 私のもとへ来れば、当然、
あなたは私から遠く離れている。
イエスがこう言うのはそのためだ。
「寺院へ祈りを捧げに行って、誰かを傷つけたこと、誰か を侮辱したこと、誰
かに腹を立てたことを思い出したら、 あるいは誰かに腹を立てていることに気
がついたら、まず 行って許しを請いなさい。それをすましてから祈りを捧げに
くるがいい。そうでなければ、神と関わることはできない。 まず行って許しを
請いなさい。まずものごとを清算しなさい」
ミケランジェロがシスティナ礼拝堂で仕事をしていたときのことだ ……彼はイ
エスの絵を描いていた。
絵はほとんど完成していて、 あとは仕上げの筆を待つばかりだった。
だが、なかなか最後の一筆 を加えることができなかった。
イエスがイエスらしく描けていなか ったのだ。
イエスの顔に何かが足りなかった―その柔和さ、その 女性的な資質がそこには
欠けていた。
そこにはあの愛の質が欠けていた。
連日、懸命に努力しているうちに、ミケランジェロは、ある 友人と口論をした
ことを思い出した。
彼はまだそれを内側に 抱えていたのだ。
さらに彼は「祈りに行ったとき、友や兄弟 に良い感情を抱いていないことに気
つ゛いたら、まず行って 許しを請いなさい」というイエスの言葉を思い出した。
彼は礼拝堂から駆け出ると、その友人のところへ行って 許しを請い、ことの顛
末てんまつをすべて話した。
「何日も仕事をしていたんだが、イエスの顔がどうしてもうまく 描けなかった
んだ。何か怒りのようなものがそこには残っていた」 ―それは彼の内部にある
怒りだった。
怒りや悪感情を 抱いたまま絵を描こうとすれば、それはあなたの両手 で描かれ
るのだから、その絵にはあなたの内面が表れて くる。その絵には基本的にあな
たが映し出されてくる― 許しを請い、それが受け容れられたとき、 ミケランジ
ェロは気分を一新することができた。
わずか数分の仕事で、絵は完成した。
それは最も 美しいイエスの絵のひとつだ。
わずかに筆を加える だけで、絵はいきいきとし、イエスが浮かびあがってきた。
今やミケランジェロのこころは調和のなかにあったからだ。
(p237)
タオを分かち合うことはできる。
だが、あなたは それを分かち合う方法を学ばなければならない。
そして 多くのことがらにひじょうに注意深くならなければいけない。
それはある意味では単純だが、ひじょうに複雑でもある。
単純なのは、あなたが本当に開き、調和していたら 、それはほんの一瞬のうち
にも起こりうるからだ。
複雑なのは、あなた自身もまったく気つ゛いていないようなごく小さな習癖を
変えなければならないからだ。
あなたは生全体を変えねばならなくなる。
あなたがたに教えとして差し出すものなど何もない、と私が言うのはそのため
だ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

303鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/10(日) 22:51:21 ID:1d4drIFg0
心は実に微妙で正直な反応をするものじゃ。
心にほんの僅かな恐れがあっても自我を明け渡すことは出来ないのじゃ。
自我を明け渡せるその瞬間がやってきても恐れが少しでもあれば何か口実を作って逃げてしまうのじゃ。
心の僅かな働きにもよく注意しなければならないのじゃ。

304避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 05:21:04 ID:LC3de7YgO
>>302
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

私はあなたがたを挑発 するエネルギーを分け与えることならできる。
私は哲学や神学の体系を与えているのではない。
私は私そのものを与えている。
それは挑戦だ。
私はここであなたがたを目覚めさせようと努力している。
あなたがたは開き、リズムを感じ、そして生の小さな ものごとを観察しなけれ
ばならない。
呼吸は最も重要 なものだ。
あなたはサットサングのなかにあるときの 息つ゛かいを、師のそばにあるとき
の息つ゛かいを、 愛のなかにあるときの息つ゛かいを学ばなければならない。
呼吸は感情とともに絶えず変化している。
腹を立てているときには、あなたの呼吸はリズムを失い、不規則になっている。
情欲に駆られているときには、あなたの呼吸はほとんど気違いじみたものにな
っている。
穏やかで、静かで、喜びに満ちているときには、あなたの呼吸は音楽的な質を
おびていて、ほとんど歌のようだ。
<存在>にくつろいでいると、欲望を抱かず、満足感を 味わっていると、突然、
呼吸は止まったように静かになる。
畏敬の念に打たれたり、驚異に息を呑んでいるときも、 呼吸はしばらくのあい
だ止まる。
それは生の最もすばらしい 瞬間だ。
ほとんど呼吸が止まりそうになる、そういった瞬間 にのみ、あなたは<存在>と
完全に同調しているからだ。
あなたは神のなかにあり、神はあなたのなかにある。
あなたは呼吸をもっと深く体験し、詳しく調べ 、観察し、見守り、分析しなけ
ればならない。
呼吸が感情とともにどう変化するかを見てみなさい。
例えば、恐怖に駆られているとき、呼吸に起こる変化を 観察するがいい。
そして、いつか恐怖に駆られたときと 同じパターンに呼吸を変えてみるがいい。
あなたは驚く だろう―呼吸を恐怖に駆られたときとまったく同じパターン に変
えると恐怖が湧いてくる。それも即座にだ。
誰かと深く愛し合っているときに、自分の呼吸を観察するがいい。
恋人の手を取り、抱きしめながら、自分の呼吸を観察しなさい。
そして、いつか樹の下に静かに坐り、自分が 再び同じような呼吸をしているの
を見守りなさい。
パターンをつくりだし、同じ光景ゲシュタルト を呼びもどすのだ。
まるで恋人を抱擁している かのように、同じ仕方で呼吸をするがいい。
すると、驚くようなことが起こる。
全存在があなたの恋人になる。
再び大いなる愛があなたのなかに湧いてくる。
それらは連動している。
それゆえにヨーガ、タントラ、タオ―人間意識とその拡大 に関するこの三つの
深遠な方法論システムと科学に おいて、呼吸は鍵なる現象のひとつになっている

この三つはそろって呼吸に働きかけてきた。
(p239)
仏陀の瞑想法のすべては、ある一定の 呼吸の質にかかっている。
彼は言う― 「ただ自分の呼吸を見守りなさい。呼吸を変えなくて もいい。少し
も変えることなく、ただ見守るのだ」と。
だが、不思議なことに、見守るやいなや、ただちに 呼吸は変わる、ひとりでに
変わらざるをえない。
仏陀は 「呼吸を変えてはいけない。ただ見守りなさい」と言う。
だが、見守るやいなや、ただちに呼吸は変わってしまう。
注意深さには独自のリズムがあるからだ。
仏陀が 「呼吸を変えなくてもいい。ただ見守りなさい」 と言うのはそのためだ。
注意深さそのものが独自 の呼吸を生み出す―変化はひとりでに起こる。
そして、次第に不思議 なことが起こってゆく― 注意深くなればなるほど、
さらに呼吸は減ってゆく。
呼吸 はより長く、より深くなってゆく。
例えば、一分間に十六回呼吸をしていたなら、 呼吸の数は六回、四回、三回と
減ってゆく。
あなたが注意深くなるにつれ、呼吸はより深く、 より長くなってゆき、呼吸の
回数がどんどん減ってゆく。
また逆に、呼吸の側から働きかけることもできる。
ゆったりと静かに深く長い呼吸をしてゆくと、突然、 あなたのなかに注意深さ
が生まれてくる。
あたかも ひとつひとつの感情が呼吸システムのなかに もう一方の極をもってい
るかのようだ。
感情は呼吸によって誘発することができる。
だが、一番いいのは、恋をしていたり、友人 のそばに坐っているときに観察す
ることだ。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

305避難民のマジレスさん:2019/02/11(月) 14:16:52 ID:LC3de7YgO
>>304
黄金の華の秘密
スワミ・アナンド・モンジュ訳
 
第七話 光の循環と呼吸(つづき)
 より抜粋

自分の呼吸を見守りなさい。
なぜなら、その 愛に満ちた呼吸のリズムが最も重要だからだ。
それはあなたの実存全体を変容させる。
愛のなかでは、分離した存在として身構えることの 馬鹿らしさ、虚偽を最も痛
切に感じ取ることができる。
だが、まさにこの分離、この不条理さによって、 人は他の方法では表現しえな
いことを表現すること ができる。
他者であるというまさにそのことによって 、人は互いがひとつであることを祝
えるようになる。
そこに愛の逆説パラドックスがある。
あなたがたは二人でありながら、 一体感を感じている。
ひとつでありながらも 、二人であることを知っている。
二人でありながら ひとつになった状態―そこに愛の逆説がある。
そしてそれは祈りの、瞑想の逆説でもなければならない。
究極的には、あるまれな価値ある瞬間において、人は 恋人、友人、母親、子供
に感じるような一体感 を<存在>に対して感じなければならない。
他者として分かたれているからこそ、人は 互いがひとつであることを祝うこと
ができる。
『ヴェーダ』は言う―タットヴァマシ、我はそれなり。
そこには分かたれているという明晰な自覚がありながら 、しかも深い合一感が
ある。
彼は大洋から分かたれて いながら、しかも大洋から分かたれていない。
自分が愛にあふれている瞬間 をもっともっと見守りなさい。
注意深く醒めていなさい。
呼吸がどのように変化するかを見るがいい。
身体がどのように打ち震えるかを見るがいい。
恋人を抱きしめて、実験してみるといい。
すると不思議なことが起こる。
いつか抱擁し、互いに溶け合いながら、 少なくとも一時間は一緒に坐ってみ
るといい。
すると驚くようなことが起こる― それは最もめくるめく体験のひとつになる
だろう。
一時間、何もせずに、ただ抱き合い、互いの なかに落ちてゆき、互いのなかに
溶けてゆくと 、やがて徐々に、呼吸がひとつになってゆく。
身体は二つだが、こころハートはひとつ であるかのように、息が合ってくる。
二人は一緒に呼吸している。
一緒に呼吸しているとき、 努力して合わせるのではなく、愛の感覚に圧倒さ
れて自然に息が合っているとき―それ は最も貴重な、最もすばらしい瞬間 であ
り、この世のものではなく、はるか 彼方からやって来たものだ。
そういった瞬間、あなたははじめて 瞑想的なエネルギーを一瞥いちべつする。
そういった瞬間、文法は意味を失い、 言葉は途絶える。
それを口にしようとしても、言葉にならず、そのまさに 言葉を失うことで、言
語を絶したものが示される。
そしてそれが、より深い次元レベルにおいて、 師との関係にならなければいけ
ない。
そのときはじめてタオは師から弟子 へ炎のように飛び移ることができる。
あなたは呼吸のわざアートを学ばなければならない。
(p241)
さて経文だ―
純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
そうすれば成果は求めずとも、おのずからやって来る。
とてつもなく深い意味を秘めた言明だ。この言葉が鍵となる―

純一なこころハートで決然と実行しなければならない。
まず第一に、人は決然とした態度を取るようになってはじめて生まれる。
決意とともに、人間が誕生する。
優柔不断な生き方をしている者たちは、本当は人間ではない。
そして何百万もの人々が優柔不断な生き方をしている。
彼らは何についても決めることができない。
彼らは他人によりかかってばかりいる。
誰かが彼らの代わりに決めてやらなければならない。
権威者のまわりに人々が群がるのはそのためだ。
権威主義がこの世から消えない唯一の理由は、無数の人々が自分で決められな
いでいるからだ。
彼らは命令が下されるのを今か今かと待っている。
ひとたび命令が下されれば、彼らはそれに従う。
だが、これは隷属であり、彼らはそのようにしてみずからの魂が誕生するのを
阻んできた。
決意があなたの実存のなかに生まれてこなければならない。
決然とした態度とともに、まとまりが生まれてくるからだ。
いいかね、いくつか決断をするがいい。
決断することで、あなたは個になってゆく。
(´・(ェ)・`)
(つづく)

306鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2019/02/11(月) 22:44:06 ID:1d4drIFg0
ヴェーダにはプラーナがアートマンと記されているのじゃ。
呼吸なのじゃ。
呼吸という空間と繋がる働きは意識が在り、アートマンそのものといえるのじゃ。
呼吸によって個我はなく、全てが繋がっていると物理的に証明されているのじゃ。
それこそアートマンと呼ぶべきなのじゃ。


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