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戦争を考える

309ラーメンマン:2005/12/14(水) 02:40:36
>298.302

>別段、そのようには思いません。
そのようにこじつけられた物語ということでしょう。

仮に仏教がフィクションであったとしても、因果応報という考え方は防非止悪の為に有効だと思いますが、この点はいかがでしょうか。

>ラーメンマンさんが、290、297のように考えるのであれば、いままだ原爆症に苦しむ方々、実際に被爆で尊い家族を亡くした方々、はたまた、ハンセン病の後遺症に苦しむ方々すべての人々なかに、座って、その人人に向かって、「あなた方がこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と語れればよろしい。

別段そのようなことを語りたいとは考えていません。ただ、対告衆との人間関係にもよりますが、信頼し合える仲であれば「あなたがこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と指摘することは最大級の励ましになるような気がします。
(「あなた方」は、「あなた」に変更させてもらいました。)

310犀角独歩:2005/12/14(水) 08:59:29

> 社会心理学は参考にはしますが、「考える」尺度の中心には据えておらず…社会科学

この意味がよくわかりません。社会心理学も社会科学の一分野ではないでしょうか。
また、307から308に記された内容は社会科学的見地ということですが、どのような学説から分析なのか。参考にされたものを紹介いただければ、お書きになられるところの証憑性は高まると思います。

わたしが『我が闘争』(ヒトラー本人の着題は『嘘と臆病、愚かさに対する4年半』)について、挙げたのは権威と父性に関する分析の資料と思ってです。この点は、追って記そうと思います。

「ドイツ人いじめ」という件はしかし、その後のユダヤ人大量虐殺の言い訳を与えかねないことなので、一般には言われないことで、この点についてコメントされるのは、なかなか勇気があると思いました。批判ではなく、わたしはこの点について、慎重です。

> ヒトラーの研究は、ユダヤ人が2度とあのような忌まわしい迫害を受けないためにも、不可欠だった

このような見解は成り立つと思います。
さらにこれらの研究は、単にユダヤ人に留まらず、戦意のメカニズム、権威、服従、その他諸々の心的要因の分析に多大な貢献をすることになっていきました。

ヒトラーの演説について触れておられますが、この点は、同書を執筆した投獄の原因になったミュンヒェン一揆との関連も書かれればと思いました。また、原書の日本語版は、原書にあるアジア人に対する蔑視的表現が削除されているということですが、ドイツ語が読めないわたしはこの点を確認できずにいます。国家観、もしくは人種偏見、もしくは宗教偏見は戦争の一要因になっており、経済問題、国家体制と共に考証の重要な資料であると思います。

> 中韓の反日感情…行き過ぎると、やがて日本人のナショナリズムを目覚めさせてしまう恐れ

これは仰るとおりでしょう。
ただ、この点は出来レースではないのか?というのが、先にわたしが記した靖国参拝への見解です。匿名さんが仰るとおり、小泉は公約を守るべく参拝しているといえば、そうでしょうが、それが反日感情を煽り、煽られた反日感情が日本のナショナリズムを刺激します。韓中首脳にすれば、自国民から自分たちの地位を脅かされないためにスケープゴートは日本です。批判その他の負の感情は半日と外に向いていれば、自国政府批判の安全弁になります。こうして生じた隣国の反日感情は、日本国民危機感を煽り、軍備増強、憲法改変の格好の材料となります。マッチポンプのような話ではないのかと、わたしは思います。しかし、これはいつの時代にも悪用される集団浅慮(グループダイナミクス)で、メカニズムとしては、ナチズムと同轍であるというのが囁かれる危機感です。ただし、それが靖国参拝の全貌だと言っているわけではありません。そのような側面もあるということです。

> …民主主義政治となった場合の権威

この点の考証のために挙げて、見解をお尋ねしたのが(1)〜(6)です。
1回の投稿では書ききれないので、少しずつ記していこうと思います。

311犀角独歩:2005/12/14(水) 09:29:11

ラーメンマンさん

> …仏教がフィクションであったとしても、因果応報という考え方は防非止悪の為に有効

有効な面もあるでしょう。反面、人権蹂躙の部分もあるでしょう。

> 別段そのようなことを語りたいとは考えていません

では、このような公開の掲示板で、そのようなことは語らないことです。
この掲示板にとって、実に不名誉なことであり、因縁話で、不幸な人々の人権侵害をこの板全体が行っているような誤解が生じるのは、遺憾です。

> 信頼し合える仲であれば…

では、信頼し合える仲、非公開の場でおやりになったらどうでしょうか。

312匿名:2005/12/14(水) 10:02:20
>この点は出来レースではないのか?

出来レースというのは、日本政府と中韓政府の間で、出来レースがあるのではないかということでしょうか。

313匿名:2005/12/14(水) 10:08:59
>社会心理学も社会科学の一分野ではないでしょうか。

そうです。ただ、私はその中で、中心には据えていないという意味です。
もちろん、重用な研究ですから、参考にはいたしますが、私としては、あくまで、one of themという観点でいます。
ただし、ここは仏教という内政的な信仰の場ですから、社会心理学からのアプローチというのは、私の投稿よりは馴染むものかと思います。

314匿名:2005/12/14(水) 10:10:06
>313訂正

誤)内政的
正)内省的

315犀角独歩:2005/12/14(水) 10:53:37

> 本政府と中韓政府の間で、出来レース

そういう意味ではありません。
わかりきったことをやっている程度の意味です。

316犀角独歩:2005/12/14(水) 11:05:05

藤川さん

もし、ご覧になっていらっしゃったら、天皇が靖国参拝をしない理由を、少しレクチャーいただけませんでしょうか。

317犀角独歩:2005/12/14(水) 11:14:49

匿名さん

お時間がある限りでけっこうですから、あなたがいう民主主義とは、どのようなものか。ご説明ください。
もちろん、強制ではありません。

318犀角独歩:2005/12/14(水) 11:43:59

読み直してみて、ちょっと、気になりましたので。
まさか、以下のような誤解はないと思いますが、305の(1)〜(6)のわたしの問いに対して、307に

> 社会心理学は参考にはしますが…

と応じられていたので、他のロムの方の便宜も含めて、一応記しておきます。
わたしが305、306に挙げた学者は社会心理学者というわけではありません。
社会心理学ということではフロムのみです。

Juan José Linz 政治学者
Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno 哲学者、社会学者
Adolf Hitler 学者ではありません
Herbert Marcuse 哲学者
Jürgen Habermas 社会学者、哲学者
石橋湛山 日蓮宗僧侶(久遠法主)、ジャーナリスト、政治家(総理大臣)
Erich Fromm 社会心理学者、哲学者

319犀角独歩:2005/12/14(水) 11:51:03

【318の訂正】

誤)久遠法主
正)久遠寺法主

320犀角独歩:2005/12/14(水) 12:31:44

問いとは関係ありませんが
念のため、

Konrad Lorenz 動物学者
Stanley Milgram 社会心理学者

あと、石橋湛山は立正大学学長も勤めました。

321藤川一郎:2005/12/14(水) 14:13:43
 天皇陛下が、靖国神社に参拝されない理由ですか?
 風説によると、「昭和天皇は靖国神社A級戦犯合祀に反対であらせられて、それ以降参拝をおやめになられた」となっております。しかし、これは嘘であります。
 昭和50年,時の首相三木武夫氏が,終戦記念日に靖国神社を参拝するに当たり、政教分離の原則に反するのではないかとの批判に狼狽えた彼は「私的参拝である」と言い切りました。
 そして三木氏は私的参拝四原則と言うのを掲げました。
1 公用車を使用しない(タクシー使用)。
2 玉串料は私費から支出する。
3 記帳する際には肩書きを書かない。
4 公務員を随行しない。
 その流れで、同年11月21日に昭和天皇・香淳皇后が靖国神社と千鳥が淵戦没者墓苑に参拝した時に、この両陛下の参拝に際して国会で議論になりました。
「さて、両陛下の参拝は私的参拝なるか,公式参拝なるか?。」
 成り上がりである首相なら、私的参拝・公的参拝があるかも知れませんが、天皇陛下が皇居の外でなさる行事は全て公的行事であるため,天皇御自ら参拝すると騒ぎなることがお分かりになっているので,それ以降、参拝は中止されました(なお、A級戦犯合祀はそれ以降の昭和53年です)。
しかし、陛下のご真意は英霊鎮魂ですので、靖国神社の春、秋の例大祭には,陛下ご名代の勅使が下向なされております。

 なお、A級戦犯と言うのは誤訳です。「戦争犯罪分類A」が正しいです。つまり犯罪の大小ではありません。

322犀角独歩:2005/12/14(水) 14:27:42

藤川さん、有り難うございました。

仰る風説の部分を鵜呑みに出来ないのでレクチャーをお願いしました。
また、「戦争犯罪分類A」も適宜な訳と存じます。

323犀角独歩:2005/12/14(水) 16:42:14

藤川さんが指摘なさったとおり、A級戦犯というのは、分類Aです。それをA級としたのは多分恣意的な誤訳なのでしょう。(恣意的であれば意訳というべきかもしれません)

7人は処刑、荼毘、 遺骨はアメリカ軍によって東京湾に廃棄。
日本で死刑囚が、どのように埋葬されるかは知りませんが、勝戦国の軍人が、遺骨を海に捨てるというのは、かなり、考えさせられる措置です。
それはそれとして、そのような経緯にありながら、それを靖国神社に合祀した。断罪に処し、墓葬も許さなかったわけですから、それを英霊(=柱=神)として祀ったとすれば、この点は、勝戦国の先の措置を反古にしたうえ、そこに総理大臣が公式参拝をするというのは、政治的にどのような意味を持つのかは考えさせられる側面があります(ただし、これは宗教的に、という意味ではありません)

一方、海に捨てられた遺骨のほか、残った遺灰は共同骨捨場に捨てられた。それを秘密裏に集め、興禅寺預かり、のちに興亜観音に密葬。さらに殉国七士廟に分骨(分灰?)されたというわけです。こちらは、もちろん、国レベルのことではありませんから、並べ論じることではありませんが、慰霊、招魂、鎮魂という形で、政治と戦争が、宗教という形で落着していく図式も見られるのかも知れません。

ただし、ここで靖国問題を議論したいということではなく、覚書程度に記しました。

324匿名:2005/12/14(水) 20:36:44
>あなたがいう民主主義とは、どのようなものか。ご説明ください。

とりあえず、英・米・日の民主主義を考えています。
本当の意味での民主主義の実現というのは、恐らく、全員一致に向けて、繰り返し議論をするということだと思います。
たとえば学校で修学旅行の行き先を生徒で決めようということになったします。ホームルームで、ここがいいあそこがいいと意見が出されます。理由も述べてクラス全体を説得します。ある程度のところで、採決をとるわけですが、このとき限りの採決により、多数をもって決定というのでは少数意見を無視することになります。本当に民主主義を実現するとなると、さらに議論が交わされなければなりません。何度も何度も議論を繰り返して、全員一致にもっていくのが完全なる民主主義といえるでしょう。

しかし、そんなことはまず不可能です。人にはそれぞれ価値観があるわけですから、全員一致など望めるものではありません。時間もかかります。ですから、多数決、もしくは過半数を目指して決定する。これが、民主主義の合理化を図る方法なのだろうと思います。そして、そのルールを互いに尊重し、少数反対派も採決を認めるというのが、民主主義の原則かと思います。
最も大事なことは、採決に到るまでの「議論」といえるでしょう。

本当ならば、直接民主主義が理想なのかもしれませんが、国民全体で議論を交わすというのはなかなか難しい。政治の決定に時間がかかってしまいます。インターネットが普及した今日では、実現できなくもありませんが、しかしネットは匿名社会ですから、責任ある議論は望めません。やはり、大半のことは間接民主主義システムを採らざるを得ないといえるでしょう。

325犀角独歩:2005/12/14(水) 22:58:21

匿名さん、有り難うございます。

以下のサイト、わたしの知り合いというわけではないのですが、閲覧しました。
このような民主主義の分析はどのようにお感じになりますか。
重ねて質問、恐縮です。もし、よろしければ、お応えください。参考にさせていただきます。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Democracy.htm

326犀角独歩:2005/12/14(水) 23:33:16

匿名さん、もう一点、質問させてください。

英の民主主義とウェストミンスターモデルと考えてよろしいのでしょうか。

327犀角独歩:2005/12/14(水) 23:34:22

【326の訂正】

誤)英の民主主義と
正)英の民主主義とは

328匿名:2005/12/14(水) 23:52:01
石橋湛山は、記述をすべきかどうか迷いました。
私は、気骨の人として、立派な人だと思います。
自由主義思想の言論人という点において、尊敬する人は多いです。
戦前は、『東洋経済新報』で軍国主義に走る国民世論を批判し、戦後は政界に進出して大蔵大臣に就任しますが、GHQに屈しなかったことが原因で、公職選追放の憂き目にあうわけですが、その理由が、なんとも『東洋経済新報』で日本の帝国主義を擁護、推進したとういうものだったということですから、驚きです。
しかし、公職追放が解除されて再び政界入り。岸信介、石井光次郎らとの熾烈な総裁選で、大逆転をして首相に就任したにもかかわらず、肺炎により、医師から静養を勧められ、わずか2カ月ほどで総理大臣の職を辞しています。
政治家としては志半ばで辞しているわけでずが、政治家の進退の模範としても、後世に名を残しています。
石橋湛山は、当時の自民党の七大派閥のひとつに数えられていましたが、石橋湛山の政界引退を機に三木武夫の派閥に合流しています。
自民党の中では、社会主義思想に近いポジションといえるでしょう。少数派閥ですが、こういう存在は貴重だと思いますね。
余談ですが、自民党と連立を組む公明党は、派閥の力学からいって、かつての三木派のような存在を目指したのかもしれません。

私個人としては、政治家としての石橋湛山よりは、むしろ徹底した民主主義・自由主義・平和主義においてきわだっていた言論人としての石橋湛山に関心がありますね。
前にも記しましたが、軍縮会議に調印することを「弱腰外交だ」と国民が批判し、首相が暗殺されるような国民世論の時代です。そんな軍国主義一辺倒へ進む日本国民に、軍縮を舌鋒するどく主張したのは、並大抵の覚悟が必要です。しかも単なる反対のための反対というものではなくて、戦略と展望もしっかり示している。
日蓮門下ではありながら、あの時代に台頭していた日蓮主義とはかなり一線を画していながら、しかし行動原理は非常に日蓮的であるところが、注目すべきところと思います。

湛山の言論活動の時代は「大正デモクラシー」の時代であり、種々の言論が自由に咲きほこった時代でもあり、「学問の自由」を標榜する早稲田大学の出身者の多くが、言論界で活躍しています。湛山も、その早稲田大学の哲学科で学び、また何よりも、日本にプラグマティズムをもたらしたとされる田中王堂に出会ったことが、彼の思想に大きな影響を与えているのではないでしょうか。

ここから先は、記述すべきかどうかで迷ったところですが、私としては、日蓮聖人の行動原理を現代に置き換えるならば、言論行動としての社会運動に相当するのではないかという思いがあります。
ジャーナリズムは、日々の客観報道で、そこに価値判断が示されると評論になり、さらに、こうあるべきだという強い主張に到れば、言論となります。「立正安国論」を象徴的にとらえるならば、日蓮聖人の行動原理を現代に置き換えるならば、鋭い主張で弾劾する言論活動であったといえるのではないか。これは、あくまで私の私見ですが。この点に及んでしまうので、記述を戸惑いました。


あとの>305で頂いたご質問ですが、どれも学術的な文献に対する見解ですから、これを真剣に答えるとなると、小論文的に書かなければならない。にも関わらず、いきなりの質問にしては、あまりにも項目が多すぎて、気が重いです。
私の投稿内容についてのご質問ではありませんので、勝手ながら気が向かないということで、あとの項目は、遠慮させていただきたく存じます。

329匿名:2005/12/14(水) 23:52:51
>323
>この点は、勝戦国の先の措置を反古にしたうえ、そこに総理大臣が公式参拝をするというのは、政治的にどのような意味を持つのかは考えさせられる側面があります

確かに、東京裁判そのものに批判的で、「東京裁判史観」や「自虐史観」の呪縛から解放されるべきだとい考えに立脚した靖国参拝賛成論はあるでしよう。もしかすると、従来はそれが主流だったのかもしれません。

先に、石橋湛山の話を書いたわけですが、彼のような反戦軍縮思想は、国民全体からいえば極めて少数派であり、軍国主義思想が彼のような穏健思想を圧倒していたわけです。東京裁判では、穏健思想を圧倒した軍国主義者を裁いたというところではないでしょうか。
しかし、これは戦勝国が下した判決であって、国内的な戦争責任については、実は「一億総懺悔」に象徴するように、国民全体が負ったといえます。戦中は、「一億総特攻」に対して、戦後は、「一億総懺悔」ですから、ヒトラーみたいな独裁者がいるわけでもないのに、この団結力は他国にとって脅威だったといえるでしょう。
ただしこれらは、あくまで権力者が発した言葉ですから、それをもって国民の総意といえるものではありません。しかし形式的には、日本国民は、あの戦争責任について誰も裁かなかったといえるのではないでしょうか。
ましてやA級戦犯を靖国が祀ったことをもって、サンフランシスコ講和を反古にするなどというような挑発的な意味合いのものではないと思います。
日本には古来から、国家の為に亡くなった者を祭るという行為があります。それは、いかなる他国、民族といえども、非難される筋合いのものでは無く、思想信条の自由を重視する近代国家であるならば尚のこと、何の説明もいらず黙認してくれることであるはずです。
事実、私が知る限りでは、総理大臣の靖国参拝について、近代国家といえる戦勝国からは、何も公式的な批判は受けたことはないはずです。

政治的意味としては、高齢化していく遺族が、国家の為に亡くなった親族を忘れてほしくないという思いで参拝を求めるものだと思います。戦前とは大きく価値観が変わったのですから、思いはひとしおでしょう。
志願兵ではなく、徴兵された人の、信教の自由が無視されているという側面も確かにありますが、参拝そのものは、意図的に隣国を挑発する目的のものではなくて、本音は票田目的、建前では遺族の思いに答える、とみていいのではないでしょうか。

天皇陛下の靖国参拝に関連して、藤川一郎さんの記述を裏付ける内容のもので、A級戦犯の合祀の経緯など、けっこう詳しく記されているサイトをみつけましたので、紹介しておきます。
http://speech.comet.mepage.jp/mint_353.htm

ここの記述によると、靖国の本殿では、幕末から太平洋戦争までの軍人や軍属の戦没者の247万人が奉られていて、さらに境内にある鎮霊社には、本殿で奉られていないすべての日本人戦没者と世界中の戦没者が祭られているとのことです。

330匿名:2005/12/15(木) 00:31:49
>326
>英の民主主義とウェストミンスターモデルと考えてよろしいのでしょうか。

これは大事なことでした。
厳密にいえば、日本の場合は、ウェストミンスターモデルというよりは、コンセンサスモデルといわれる、合意形民主主義方式でした。しかし、ここへきて英・米の、ウェストミンスターモデル型に移行しつつあるといえるでしょう。
でも本当は、日本社会は、ウェストミンスターモデルの小選挙区制よりは、コンセンサスモデルの中選挙区制が望ましく、二党制よりは他党制が望ましいと私は思ってます。
先の話に加えるならば、合意形民主主義の場合、多数派の方針にに小数派の意見を取り入れるといったきめ細かい決定方法ができるでしょうから、極めて、日本人に馴染む民主主義だったと思います。
しかし、21世紀に入り、政治の決定にスピード性が要求される時代に入ってきていることを考えれば、ウェストミンスターモデルにならざるを得ないのかもしれません。
しかし振り返れば、日本は他党制でありながら、「保守VS革新」という二大勢力の構図があり、二党制の要素も包括していましたから、ウェストミンスターモデル的であったともいえるのかもしれませんね。

>325については、よく読んで、後日投稿いたします。

333犀角独歩:2005/12/15(木) 09:13:44

匿名さん、種々ご回答有り難うございます。

石橋湛山師を、話題に挙げていただいたので、少し記します。

ジャーナリズム、政治、戦争、日蓮というキーワードから1人挙げるとしたら、この人を除いてはいないと思います。しかし、記されるとおり、短命内閣で尻切れトンボのようになった点が惜しまれます。この内閣が長く続いたら、日本の歴史は変わったかも知れません。立正大学の学長であったという点は、教学的立場として大崎学派に属するのかどうか、ここのところは寡聞でよくわかりませんが、たしか小野文著師が論じておられた記憶があります。

匿名さんのご投稿でも『立正安国論』を記されていましたが、優那陀日輝の流れからすれば、立正安国、折伏というロジックは、一定の距離を置いてみられたであろうと思えます。もっとも、身延の法主でもあれば、もう少し、受容はあったかも知れません。

以下、靖国についての湛山師の言です。わたしは、この考えに一定の説得性を感じます。総理大臣経験者としての重みも感じます。(高橋哲哉著『靖国問題』(筑摩書房ちくま新書、平成17年6月10日発行)P228〜235)

*** 転載はじめ ***

靖国神社は、言うまでもなく明治維新以来軍国のことに従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程、我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神社の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英霊として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神社に祭られざる者が多数にある。之を今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには、2年或いは3年は日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、それは可能であろうか。啻に有形的のみでなく、亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何と之を見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、却て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。

又右の如き国際的考慮は別にしても、靖国神社は存続すべきものなりや否や。前述の如く、靖国神社の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて、殊に其の大多数は日清、日露両戦役及び今回の大束亜戦争の従軍者である。然るに今、其の大東亜戦争は万代に拭う能わざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清、日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても、之を祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば、今後此の神社が存続する場合、後代の我が国民は如何なる感想を抱いて、其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば、之れは我が国家の将来の為めに計りて、断じて歓迎すべき事でない。
 言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何(ど)うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず、更生日本を建設することはむずかしい。我々は茲で全く心を新にし、真に無武装の平和日本を実現すると共に、引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それにはこの際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切なものと雖も、之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し、或は戦没者の立場に於て考えても、斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する

上に関連して、茲に一言付加して置きたいのは、既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず、或は祭り得ない場合に於て、生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く、此の戦争は国民全体の責任である。併し亦世に既に論議の存する如く、国民等しく罪ありとするも、其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくとも満州事変以来軍官民の指導的責任の位地に居った者は、其の内心は何(ど)うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が、依然政府の重要の位地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は、仮令連合国の干渉なきも、許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終わるべきことではない。

*** 転載おわり ***

334犀角独歩:2005/12/15(木) 09:14:05

―333からつづく―

以下を紹介して、日蓮宗現宗研、伊藤立教主任は

一、 政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。

一、 靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。

 この二点が本当に実現すれば、靖国神杜は、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう。
 そのうえで、

一、 近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観(遊就館の展示がそれを表現している)は、自由な言論によって克服されるべきである。

一、 「第二の靖国」の出現を防ぐには、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要である。

といいます。中野教篤師の遺志を継ぐ流れであり、一脈、当然、湛山師以来の日蓮宗の考えを一結したものであるといえる観察できます。もちろん、全日蓮宗僧侶の総意ということではないでしょう。

以上の考えにわたしは手放しで賛成というわけではありません。
ただ、日蓮という視点から政治、戦争を考え出すとき、戦前の日蓮主義、戦後の湛山師を知らず、放言することは出来ないという矜持を覚えます。その意味で、もう少し、湛山師の思想を探ってみようと考えています。

いずれにしても、宗教という視点からするとき、仏教はBuddhaを祀る信仰なのであって、覚者を崇拝するところにその意義を置きます。そして、その覚者は非暴力、不殺生の人でした。それに対して、靖国でいう英霊は、いわば軍神であり、祭神は殺生の軍人、不慮の死を遂げた戦死者です。このような人々に敬意を払わないということではなく、覚者、不殺生、非暴力の祖を祀る仏教徒にとって、これらの人々を神と崇めることはできません。仏事追善回向してこそ、成仏もあるという宗教観を富士門下に置いてもするわけです。となれば、靖国という‘宗教’とこの点で、整合性を見ることは有り得ないわけです。

靖国を認めるということは、仏教徒、取り分け、日蓮門下、もっと言えば富士門下、さらには学会を含む石山門下にとっては、教義の根本的改変と、‘謗法容認’を意図することとなるわけです。当掲示板は一定の矜持がありますから、このような点で感情的な議論とはなりませんが、いわば、靖国参拝を含む公・官の宗教を拒否して、創価学会の牧口師は獄死したというのであり、戸田氏も獄にありました。‘小説’『人間革命』で、巣鴨の牢獄から出所した戸田氏が電車で原宿を通り過ぎるとき、乗客全員が神社を通り過ぎるとき直立不動になって礼を為したのに対して、「戸田城聖」1人は席から立たないという描写があります。神札問題はまた、学会宗門の水を分けた大きなテーマでした。神本仏迹を唱えたO師は裸に剥かれて河に投げ込まれた挙げ句、詫び状まで書かされたわけです。このような違法行為が容認されるわけはありませんが、しかし、この‘憤慨’と事件こそ、ある面、戦前日蓮主義と神札強要に対し、日蓮を仏に仰ぐ、戦後最大規模に成長する民意であったわけです。しかも、湛山師と戸田氏には当然の距離もありながら、この点では結論は相似していた点は注視に値します。

戦死者が神であるという宗教観は、遠くギリシャでも見られるものですが、近代国家、たとえばアメリカの無名戦士の墓などとは、その意義を全く異にするわけです。

しかし、脱官営・脱宗教的な衣を着る靖国は依然として、その根治はなく、英霊を軍神とする宗教背景は、やはり、戦争翼賛、軍事・軍人賛美と内外に取られるのは当然のことであるとわたしも考えます。その意味において、政治色を濃くすることは必然です。その意味において、単に宗教的な範疇に留まらず、対外外交に刺激することは、小泉も十分に認識しているでしょう。この点をわたしはマッチポンプと評したわけです。

335犀角独歩:2005/12/15(木) 09:55:57

やや横道ですが、「天皇陛下」という用語が投稿中に見られましたので、参考に以下をご紹介します。

http://blog.livedoor.jp/seigijuku/archives/116581.html

336犀角独歩:2005/12/15(木) 11:03:53

少し補足します。

東京裁判の是非をここに問うことを目的にしませんが、わたしはいつも議論のなかで落ちていると思うことがあります。それは323にも挙げたことですが、処刑者7人の遺骨はアメリカ軍によって東京湾に捨てられたということです。わたしはこの点は、勝戦者が敗戦者を裁いた裁判内容以上に重大な意味を持っていると考えます。

遺骨廃棄。つまり、この断固たる措置は、処刑戦犯者の埋葬を拒絶したことを意味します。ならば、その人々を英霊祭神として祀ることとは180度逆の意味を持っています。

この処刑者に死者の尊厳は当時認められなかった。埋葬・祭祀を認めなかったということが勝戦国の共通の認識であれば、これを英霊祭神として祀ることがどのような意味を持つのか、わたしは議論はここから始まると思います。

今回の小泉の言辞を聞いていても、以上のような処刑7人への韓中感情を敢えて無視し、東京招魂社以来の全英霊に言い換えて強弁しているわけで、掛かる問題に関して十分な解答を示していないわけです。また、政治的な意図がないのであれば、休みの日に人知れず、参拝してくればいいわけですが、そうもしていません。首相として、挑発と取られても致し方のないところであると、わたしは考えます。

以上の点を、ここ仏教という立場から、いえば、掛かる小泉の行動は、純粋な信仰心、英霊鎮魂という人々の宗教的善意と宗教を、英霊を悪用する所行であると映じます。

小泉論法でいえば、英霊に参拝するのは当然のことであるといいますが、では、参拝しない天皇は、その当然のことをやっていないという批判として、わたしは受け止めます。

337パンナコッタ:2005/12/15(木) 13:21:16
独歩さん、
遺骨についての蛇足な情報ですが、
 http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/index.html
 http://www.arakawas.sakura.ne.jp/backn009/kouakann/kouakann.html

反発が大きい故、細々と守り続けている人がいるのが現状でしようか。

338藤川一郎:2005/12/15(木) 14:02:02
遺骨について
日本ではどのような残虐犯罪者であろうと、死刑囚の骨は遺族に引き渡されます。
これは、死者に鞭を打たないと言う伝統が生きているからだそうです。

これは「死者に追い打ちをかける=怨霊になる」と言う意味もあるから、それを避ける訳です。

中国では、昔から前王朝を倒すと、その祖先の墳墓まで破壊すると言う事が行われたそうです。死者への認識の違いです。
西洋でも似たようなものです。特にキリスト教ではイエスの再臨とともに墓から遺体が復活するのです。罪人まで復活してはたまらないので、骨すら残さなかったのだそうです。
近代以降はさすがにそのような事は無くなったと思いますが・・・。

次に、靖国神社は神道形式ですから、そもそも遺体も骨も関係有りません。魂魄を神格化するのだそうです。それにより、人に災いを呼ぶ「荒魂(あらみたま)」を幸いを呼ぶ「和魂(にぎみたま)」に変えるのです。そして変えた和魂は1つは「幸魂(さきみたま)」として、狩りや漁の収穫をもたらし、また奇魂(くしみたま)として、不思議な奇跡をもたらすのです。
神道では善人以上に悪人を神にします。悪人が怨霊として「荒魂」になるのを防ぐためです。そう言う意味では所謂「A級戦犯」が本当に罪があって裁かれたなら、それだからこそ祀らねば意味が無い。一般戦死者は逆に、慰霊施設を作れば宜しい!
そして総理こそ参拝して「A級戦犯様(荒魂様)、どうか怨霊にならずに、和魂におなりください」とせねばなりません。この意味を中国等に説明すれば良いのです。

彼らは戦争犯罪等、物理的な理論で来るのですから、こちらはそこに「怨霊」と言う概念を持ち込むのです。
他国の政治に干渉するのは内政干渉と言いますが、それ以上に他国の伝統文化に口を出すのはもっと国際的に問題に出きるでしょう。
もっとも小泉さんがそこまで神道知識があるかは、疑問ですが?

339藤川一郎:2005/12/15(木) 14:04:43
>>338
誤解を受けるといけないので補足しますが、私は東京裁判を認めている訳ではありません。
そうでは無く、否定も肯定もせずにそういう説明をするように進言しているのです。

340犀角独歩:2005/12/15(木) 14:47:19

パンナコッタさん
藤川一郎さん

返レス、有り難うございます。

パンナコッタさんのご紹介を読み、こちら側では、骨は奪還した点が美談になっているのだと確認できました。
実際に遺骨はどうなったのか、また、骨捨て場から拾われた骨が本当に7人のものであったのかどうか。その真偽は今となっては確認の術もないのでしょうね。

東京裁判は、一方的な勝戦者側の論理で為されたことですから、鎮魂感といった日本の精神風土など持ち込みようもなかったでしょう。パール博士の批判もあるとおり、西部劇の‘縛り首’と同様で、ほとんどリンチのようなものという感も否めません。

しかし、生きて敗戦後をどうするのか、自害ぐらい許してやればよかったのにという思いが、わたしの心の片隅にあります。これが海外だったら、敗戦の大将は、むしろ国民がリンチに処したかも知れません。

処刑遺骨廃棄の話で思い出したのはジョルダーノ・ブルーノのことでした。
いま、ネットで検索する宗教裁判にかけられて火刑になったと記述されていますが、30年も前に読んだ記憶では中世ヨーロッパの火刑は生きたままの火あぶりではなく、殺したあとで火で焼くこと(東洋でいえば荼毘ですが)を火刑といったという解説でした。
ブルーノの灰骨は、葬られたのではなく、撒き捨てられたということでした。
藤川さんが記されたとおり、最後の審判の際、復活できないようにするためでしょう。

このようなアメリカ人を含むヨーロッパ人の精神風土と、中国、朝鮮の精神風土は、これまた、藤川さんのご紹介にあるとおり、相通じるものがあります。だからこそ、そのような観点で、彼らは7人の処刑者を認識しているわけでしょう。ですから、この点に喧しくいうのは内政干渉というより、裁判結果を覆す無反省、ひいては軍国日本の復活と読み替えられてしまうことになる危険性があるのは否めません。そんなふうに相手の批判を煽るようなことを敢えてやることに、わたしは批判を加えたいわけです。

いずれにしても、いま語られている小泉の靖国参拝の是非論、どちらも型にはまった同一論調、金太郎飴のように、誰が語っても同じようなことしか言わない点が、一番問題であると思います。

鎮魂のためであれば、すでに政治から離れた宗教の分野の話です。
ところが政治として、靖国が語られる、これは英霊の政治利用であり、鎮魂でも何でもない、死者への冒涜であるとも思います。

まあ、小泉が、藤川さんが仰るようなことを神道知識があるとは思えません。
仮にあったとしても、そのような宗教を政治の現場に持ち込まないのが政教分離の鉄則でしょう。

靖国参拝をすることが肯定論が天皇批判になっている点のほうがよほど問題であるとわたしは思えます。大臣の臣、誰の臣下だと藤川さんがかつて問うていましたが、天皇がしないことを臣下がする、僭越であるとわたしは思いますね。ただし、これは「実質公式の」という但し書きで、ということですが。

341藤川一郎:2005/12/15(木) 15:09:00
書き忘れましたが、戦後の靖国神社は現在では一宗教法人です。
そうなった時に靖国神社創始時の「東京招魂社」の精神は失われたと考えていいでしょう。
天皇陛下は戦前からの名残で、参拝なさっていたが、現在ではそれをお分かりだから、中止しているとも推察されます。しかし、天皇陛下が靖国に参拝しようとするまいと、それは御一人がお決めになることです。
それに口出しするのは、越権行為であります。
小泉首相も本来は左翼的でありながら、英霊云々を口実に右翼の票を取ろうとする嫌らしい心根には辟易させられますね。

また宗教法人靖国神社も、特権的な意識を捨てた方が良いでしょう。
それが嫌なら宗教法人格を撤廃し、特殊法人の申請をした方が良いでしょう。
それについて、有識者からの進言があっても、当の靖国がそれに反対だと聞きます。
それだけ、宗教法人のうま味があるのでしょう!

なお、純正法学的に言えば、一国の首相が「一宗教法人」に公に参るのは「私的」と名乗る「公的参拝」となり、違憲であります。これは事実です。
小泉首相は私的参拝と言いながら、休暇を取らずに参拝している。これは公務に他なりません。彼が「忌引き休暇」でも取って、靖国参拝すればそれは本当の私的参拝になるか知れませんが。

342犀角独歩:2005/12/15(木) 15:14:31

341のご投稿には賛同します。

343犀角独歩:2005/12/15(木) 18:50:03

わたしは権威主義的パーソナリティという点から、話をはじめているわけですが、この前段として、ローレンツの『攻撃』を話題にしてきたわけです。

戦争、また、日蓮というテーマとも密接に関連すると思いますが、彼は同書の中で、同種攻撃は種の進化に貢献してきたのにも関わらず、人間では、そうならない点に強い警告を発しています。

その道筋については、同書をお読みになることを、皆さんに勧めるばかりですが、この書は機知と、名言に溢れています。

「目的ではなく原因を尋ねることが的外れだというような現象はひとつもない」(P318)

という件もその一つです。
政治的な話術は(匿名さんがということではありません、念のため)、「○○だから、こうしなければならない」という形で論が組み立っているのが常です。しかし、学問的解読は、「こうしなければならないと、なぜ考えるのか」という方向に目が向いています。この傾向は特に精神分析で顕著でしょうし、社会心理学の解析も同様の方向を向いています。仏教信仰の経験のある人であれば、直ちに、この思考の方向性が仏教の思惟と似かよっていることにはすぐに気付けるでしょう。

この視点のなかで、地球上に誕生した他の生物と一緒に進化してきた人類が、近くは類人猿の時代から分かれて、同種攻撃が、種にとって危険な因子になっていった点をローレンツは見事に説明していることに着目したわけです。

集団を結束させる大きな力となるものをローレンツは‘熱狂’であるといいます。この点は cult という言葉が累計した意味を持つことから興味が惹かれます。

わたしが、次に興味が惹かれるのは、ローレンツが挙げる熱狂させる煽動家という生物モデルは、この世に存在する職業のなかで、政治家と、軍人にもっともその典型が存する点です。(この点に異論があれば、ローレンツの分析の可否を、学術的な根拠に基づいて挙げていただければ事足ります)
また、カルトと目される宗教グループのリーダーとメンバーとも類型をなしています。それは肯定的にいえば、人類という生物種に引き継がれてきた同種攻撃と、その熱狂を内的要因として、政治と宗教、戦争を生じたという因果関係をそこに見出せるのかも知れません。

「今日なお仮想敵というものが、統一と熱狂的な団結感情を生み出すために煽動家たちの使う非常に有効な手段であり、今なお好戦的宗教はつねに政治的にもっとも利用価値の高い宗教である」(P368)

ローレンツが引用するエーリッヒ・フォン・ホルストの言葉

「したがって、もしひとつの救世の教えが、本当にいつか全世界をおおうことになっても、それはすぐさま、すくなくともふたつの激しく対立した解釈――本来の真の救世説と、別の狂信的救世説――に分裂し、敵対関係と闘争は、あいも変わらず栄え続けることだろう。なぜなら、人間は残念ながら今日あるがままのものでしかないからだ」(P358)

という分析は、それを物語っています。

344犀角独歩:2005/12/15(木) 18:50:57

―343からつづく―

変わりばえのない人類という種は、戦争という本能的な衝動を抑えきれるようにはできていないのかという点について、しかし、ローレンツは希望的な結論を置いています。

「知識の増大は人間に真の理想を与え、同様にユーモアの力の増大は人間に偽りをあざ笑う助けとなるだろう」(P377)
「旧石器時代からついこの間まで最高の美徳…「祖国なくして何の正邪ぞ」といったいくたの標語は、今では物を考える人なら危険である危険だと思うだろうし、ユーモアを解する人にはこっけいに思われるのだ。これは有望なことにちがいない」(P377)

無関心ということが悪徳のように論じられますが、

「現代が無味乾燥で、青年が深く懐疑的であることを嘆く人が多い。このふたつの現実はしかしながら、かつての人々ことに若い人々が完全にだまされた作られた理想、熱狂を解発するわなに対して反対するところの、それ自体健全な防御から発しているのだとわたしは信じるし、そうあってほしいと思っている」(P374)

と、埋めるものがあります。また、解決の方途として

「第一の規範は自明のことである。「汝自身を知れ」というアポロンの神殿に掲げられている言葉だ。これは、わたしたちが自分の行動の諸原因の連鎖を洞察する目を深めてほしいという要求を現しているのである…第二の方法は、精神分析の方法を使ういわゆる昇華の研究である。人間に特有のカタルシスであるこの昇華も、せき止められた攻撃本能を解放するのにたいへんに役に立つであろうと期待される」(P361)

多くの情報を集めることは、正確な判断の基礎を為します。しかしそれよりもっと重要なことは、情報を処理できる叡智を養うことです。このために、宗教は大いに役立つものであるとわたしは思います。

ここの論考は‘民主’というキーワードと密接に関連しています。
しかし、今日的課題として、民主に横たわる権威構造の問題は、大きなテーマを投げかけています。これらの点を考えるうえで、305に何人かの学者を挙げましたが、政治的発言に熱心な匿名さんが「気が向かない」と記されたのには、少々驚かされましたが、わたしは、民主と権威を論じる際に、これらの人々の提言も、少々引用して考えてみようと考えています。

この点について、やや先走って記せば、わたしは民主制と議会主義は、イコールの関係にあるとは考えません。

民意が反映されて政治が執行されるというより、単に民主制で選ばれた人が、政治という特殊な専門分野で実務を為すというのが現実であると認識しています。ですから、政治を監視するというより、政治家、官僚、公務員といった専門職を監視するというのが民主法治の在り方であると考えます。そのうえで、では、監視するに足りる地図となるものは何かと言えば、まさに社会科学であり、また、わたし個人にとっては仏教であるということです。この点は追々記してまいる所存です。

345匿名:2005/12/15(木) 20:42:30
>305に何人かの学者を挙げましたが、政治的発言に熱心な匿名さんが「気が向かない」と記されたのには、少々驚かされましたが

想像はしていましたが、結局こういうことを書かれるわけですか。

そもそも、質問が多すぎはいませんか。
だいたい、最初に私は、質問はひとつずつにしてほしいと要求していたはずです。

質問の仕方もぶしつけですし、これ自体が、ある意味で礼儀に反するというもの。
答えるのを渋ると、政治的発言に熱心な匿名さんがどうのこうのと、案の定の嫌味な答えがくる。

だいたい、何を書いても参考にならないと言い放った相手に、ぶしつけに見解を求められても、時間を割いて答える気になるものではありません。

それでいながら、私からの質問の大半は、一言で答えられる内容であるにも関わらず、そのほとんどの回答を避け続ける。なんだか釈然としませんね。

私の考える民主主義を答えたのですから、その前提であった私からの質問、民主主義における権威とは何か、それもお答えいただけないのでしょうか。

346乾闥婆:2005/12/16(金) 01:21:33
>>345
匿名さん。

犀角独歩さんは、匿名さんとこの掲示板上で議論を進める上での土台として、先にあげた種々の観点を提示したのではないでしょうか。「ただし、ここは仏教という内政的な信仰の場ですから、社会心理学からのアプローチというのは、私の投稿よりは馴染むものかと思います」と匿名さんが認識されているとおり、その路線で議論をされるほうが、ROMをしている私のような人間にもやはり馴染むものと思います。ですので、その路線での議論に「気が向かない」ことはこの掲示板で議論をする上で、非常に残念だ、ということなのではないでしょうか。また、さらに犀角独歩さんが「政治的発言に熱心な匿名さんが「気が向かない」と記されたのには、少々驚かされましたが」と書かれているのは、政治的発言を行うならば、このような観点は不可欠ではないか、との犀角独歩の認識が示されているのであって、それを揶揄と受け取られているのであれば、それは大人気ないのではないかと思います。

質問が多すぎるのであれば、ひとつずつ時間をかけてお答えになってもいいのですし、議論をする上でのいくつかの観点を列挙されることは、むしろ話を進めていく上で、合理的なことでありこそすれ、失礼というには当たらないと思いますがどうでしょうか。

「私からの質問の大半は、一言で答えられる内容であるにも関わらず」というのも、どうでしょうか。一言で答えるのか、さまざまな文献を積み上げて、論を展開するのかは、犀角独歩さんが決めることであって、匿名さんが決めることではないと思うのですが。

>この点について、やや先走って記せば、わたしは民主制と議会主義は、イコールの関係にあるとは考えません。

>民意が反映されて政治が執行されるというより、単に民主制で選ばれた人が、政治という特殊な専門分野で実務を為すというのが現実であると認識しています。ですから、政治を監視するというより、政治家、官僚、公務員といった専門職を監視するというのが民主法治の在り方であると考えます。そのうえで、では、監視するに足りる地図となるものは何かと言えば、まさに社会科学であり、また、わたし個人にとっては仏教であるということです。この点は追々記してまいる所存です。

このように犀角独歩さんはまさに論の展開を始めようとされているのですから、その中で、おのずと「民主主義における権威」についても言及されることでしょう。それを待たれてはいかがでしょうか。

347匿名:2005/12/16(金) 02:14:42
>346
正直なところ、これまでの経緯からいって、私にとってはそう素直に受け止められないところもあります。しかしこれ以上は、また掲示板が荒れますので、ご忠告に従います。

348犀角独歩:2005/12/16(金) 09:13:54

乾闥婆さん、有り難うございます。
まったく仰るとおりです。

匿名さん、先の経緯があるので、揶揄と受け取られたのであれば、そのような意図はわたしにはありません。

349犀角独歩:2005/12/16(金) 10:46:41

「戦争を考える」、これが当スレのテーマですが、ここで自ずと民と政が論点になります。また、戦争であれば、日本ではまず自衛隊の問題が先立ち、自衛軍、軍隊という点も考え、すると、そこで憲法改変問題、軍備増強が論点となり、その根源を対外的危機とみるか、はたまた軍需産業による利権に本質をみるのかというのが、分かれた議論であったと思います。さらにわたしは、この戦意が攻撃という生物の本能的な衝動に端を発し、煽動という他者操作に行動の錯誤から熱狂(前段階としては、刷り込まれた心理から選択なしの誘導解答に、その原因あるのではないのかという点を考えるために社会心理学の成果を踏まえたいと思ったわけです。

言葉で書くと、ややこしいのですが、端的に言えば、「なぜ、自分はこのように考えるのか」ということです。もっと具体的にいえば、「このように考える自分は、本当の自分か」と言い換えることもできます。仏教で言う「自覚」とは、このような外的要因によらない自己の確立を目指したものではないのかというテーマを孕みます。

さて、仏教で政治と軍隊を考えるということは、文武両道という中国以来のテーマがあり、これはまた、中国において仏教が受容され考案された鎮護仏教という改変仏教は、その基礎になります。当然、日本に輸入された仏教はこの形態を孕んでいます。伝教が守護国をいうときも、その意を孕んでいたことでしょう。日蓮の『立正安国論』でも、この点はさらに闡明です。

ただ、日蓮門下にとって、鎮護経を依経とするわけではなく、根本には法華経が据えられています。では、法華経に鎮護国家思想があるかといえば、このような態度は法華経にはみられません。法華経が鎮護経として色彩を帯びるのは五時説における「法華涅槃時」という括りで、涅槃経から法華経を解釈される段階で生じます。天台は当然この立場を採りますから、日蓮がいう法華経とは涅槃経を受容する鎮護経として色彩をもったものであるわけです。日蓮のトレードマークのようにいわれる「折伏」もまた、法華経に見られる忍難弘教を、涅槃経の説である摂折二門の折伏から解釈された教学でした。わたしは、この点で、純法華の復権、純法華を天台・日蓮を経ず読み、その原意を探ることが重要であると考えてきました。その理由は、涅槃経的に解釈された法華経は、近代のオウム真理教がいったポアと同様の‘殺’の教義を有するからであり、また、法華経ではまったく見られない戦争肯定、武力肯定という涅槃経説は、近代、世界を騒然とさせるジハード(聖戦)と酷似する教義となっているからです。

ポアとジハードの教義を有する法華涅槃思想は、昭和20年でその終焉を告げた以上、21世紀に伝承する日蓮仏教は、この2点を取り除いたものでなければならないという思いがわたしにはあります。また、その思いは一人わたし犀角独歩ばかりのものではなく、心ある日蓮門下僧俗のここ半世紀の思いです。わたしが石橋湛山師を挙げたのは、ここに理由がありますし、また、イラク派遣に反対し日本の全仏教界一丸となって、これに反対し、憲法改変へ反対、軍備増強に反対を表明した共通認識もここにあったのでしょう。

もちろん、日蓮宗、また、学会を含む石山系信者において、自衛隊、軍備肯定をする人々があることは過去の諍論がそれを物語っています。また、この人々の主張が、では、反日蓮仏法なのかといえば、そうではなく、むしろ、戦前の日蓮主義に等しく、日蓮教義からすれば帰着するべき仏法観に基づいた信念であると仄聞できます。

しかし、明治以来の神仏分離、廃仏毀釈、さらに民に戻された僧達が必至に喘いだ結果、ついに辿り着いた日蓮主義というもののその経緯は痛いほどわかりますが、しかし、敗戦から半世紀、いま21世紀を標榜する時代にあって、ポアとジハードを日蓮の名の下に未来に伝えることはできないという思いから、上述の帰着には反対の意を表せざるを得ないわけです。

350犀角独歩:2005/12/16(金) 10:47:03

―349からつづく―

それが仮に純日蓮教学の改変となったとしても、そのようにしなければならないという思いがあります。また、その思いは過去100年前より始まった科学的仏教研究において、もはや、日蓮がいう教学は、法華経も、天台も、三時(正像末)観の基礎となる無謬性は一切合切瓦解したわけですから、再構築し、再歴史化の段階に入っている以上、その再構築のなかにポアとジハード、さらに(因果応報を含む)差別観もまた除去していく作業があってしかるべきという態度がわたしにはあります。

以上は前提です。この前提から、進むべき仏教徒の在り方は、と考えるところから『戦争を考える』というテーマは横たわっています。

ここで戻るべき原点は、不殺生、非暴力、不服従という点にあるとわたしは考えます。
これはいったんは中国において鎮護仏教と改変された教えを、ブッダ・サンガの原点に戻し、そこから、今一度日蓮を位置づけることも意味します。また、仏教は自覚の教えですから、第三者操作を意図した情報へは強い警告を懐かなければならないという思いがわたしにはあります。ここで重要な点は、情報を自覚によって処理できる心的能力の確保ということになります。この能力こそ、権威への不服従、自律を有するものでしょう。

以上の前提から考えますが、ここ日本という国家の特殊性を考えるとき、まず、民主主義ということ、権威と民、そして、その操作を考える前提で、考証の基礎とする資料として、挙げたのがJuan José Linz の権威主義体制の研究、Theodor Ludwig Wiesengrund Adornoの権威主義的パーソナリティの研究、Herbert Marcuseが示したエロス的文明、Jürgen Habermas の公共性理論、石橋湛山の政教の実践でした。この点については、これから記していきます。

また、戦意という生物的衝動の発生は動物学者・Konrad Lorenz の同種攻撃分析が多くを語るところですから、この点への注意を促したわけです。また、戦意に関わる軍隊組織の構造は社会心理学の研究課題である権威と服従という重大なテーマと関連します。故にこの点では秀逸な研究成果を残した Stanley Milgram を参考にし、Erich Fromm が宗教と政治、ひいては戦争を可能にする心理構造の分析として挙げた権威主義的パーソナリティという視点を基礎に置きながら、「なぜ、人はそのように考え、そのように選択するのか。そこには権威からの操作はないのか」という点を考えたいという思いがあります。

ただし、その前にやや、民主主義ということについて、先ず考えてみたいという思いから橋本努師の「民主主義」を挙げたわけです。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Democracy.htm

また、これらの点で、政治から考える人、…当掲示板では、匿名さんですから…、いったい、以上の諸資料につき、どのような見解を懐き、わたしの違っているのかを先に確認して置いたほうが、記述を簡便にできると思い、お尋ねしたのですが、「気が向かない」ということなので、致し方なく、では自主的に論考を薦めることといたします。

なお、誤解があるようなので一言しますが、先に挙げた資料は政治と民主主義を考える人であれば、どの学者も著名な人ばかりですから、直ちにコメントが返ってくるものとばかり思っていましたので、わたしは「驚いた」と記したわけです。しかし、ここに何ら、揶揄、もしくは批判の意図はありませんでした。

では、昨日、「先走って」と記した点から記しながら、民と権威という問題に立ち入り、巡り、仏教視点に戻ろうと思います。

351犀角独歩:2005/12/16(金) 18:16:39

「民主主義」と言葉を、わたしたち日本社会では、当然のことのように使用します。
先ず、この点から考えてみたいと思います。

民主主義を原語で求めると、これはいうまでもなく democracy です。
常に指摘されることですが、この democracy は ism ではありません。
社会主義 socialism 、共産主義 communism 、のような主義ではないわけです。

先に紹介したサイトでも記述されていることですが、democracy はその語源からいえば「民衆=人民(demos)」の「権力=支配」(kratia)を意味する」わけです。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Democracy.htm

この原意からいえば、むしろ「民権」という成句のほうが、的確であるといえようかと思います。
いったい、いつの頃から、民主主義なる誤訳が横行することになったのか、わたしは寡聞にして知らないのですが、誤訳が一人歩きする様は、漢訳法華に拠る教学で、ここ富士門流信徒の掲示板では過去考証してきたことでした。

democracy の起源はいうまでもなく、ギリシャでした。しかし、ここでは Sokrates の死を経て、Platon などが衆愚政治に陥るとして批判の対照となったものでした。しかし、近代、この democracy は復活します。他国の事情は記す必要もないので割愛しますが、、民主と日本語化されるこの概念は、当初、君主に対する語として使用されたのでしょう。日本ではしかし、君主に対置した民主は、今日に至るまでただの一度もなかったわけです。現日本では、象徴天皇(君主)と人民の権利=主権在民という関係で、法の支配とでもなるでしょうか。しかし、法の支配は君主vs民主という対概念とはまた別のことですから、ここで比較に挙げることは相応とは思えません。

漢訳語が一人歩きする、この現象はしかし、「民主主義」という言葉にあったのではないのかと、わたしには思えます。民権政はいつしか民主主義として、他の主義と対峙した形で認識された歴史が日本にはあるとわたしは観察します。

以上の点から、democracy 、もしくは民権という敢えて言葉を使用しますが、democracy ではなく、日本の「民主主義」は、さらに理想化され、夢想化されていないのかという点に、わたしは永年、疑問を懐いてきました。

多数決、大多数の意見、国民の総意という言葉は、本当に字句通りなのかという疑問です。また、民権以外の権利を享受する者が生じていないのか、特権、既得権をもつ一部の特別な人間が、「民主主義」という美名を隠れ蓑にしていないのかという疑問です。わたしはこのような隠れた構造が日本にはあり、その意味で民権は搾取、隷属させられている現実があると考えています。

政治は民意の反映であるというのは、わたしは理想化した標語に過ぎないと感じます。
実際のところ、国民が支払う税金・保険料その他で、民権以上の特権を享受している者があれば、それは既に民権を搾取する行為ではないのかという認識をわたしは有しています。しかしながら、このような特権性に、民の側は麻痺しています。もっと言えば、操作されているように映じるわけです。

このような分析でわたしが感嘆したのは、もう30年も前の学生の頃でした。『幻影(イメジ)の時代』という天才 Daniel J. Boorstin が記した1冊はその骨子はメディア批判でしたが、しかし、斯かる特権者の情報操作の仕組みを実に精緻に分析したものでした。

本来、社会構造、取り分け政治と対峙して、その修正を促す情報を提供すべきメディアは、もはや、その機能を失い、ひどい場合は、現行政治の幇間のような論調まで持つ者までいる始末です。

「国民の声を代表する」などという美辞麗句が選挙ともなれば恥ずかしげもなく飛び交いますが、実際のところ、政治の現場で論議される内容、行政上の実務は、一般人が掌握できることではなく、専門化しています。
民意の反映。実際に陳状その他を行った経験がある人であれば、これが如何に困難であり、また、多くは徒労であるかは骨身に凍みています。

たとえば、医療が医師とその専門家が構成する専門分野であるように、政治という分野も、国民からするとき、ブラックボックス化した専門分野となっています。しかし、それにも拘わらず、「民主主義」という標語は「治者と被治者の自同性」の原理から、専門職である政治家が責任を負うのではなく、国民が責任を負うという実におかしな理論・構造となっているわけです。

352犀角独歩:2005/12/16(金) 18:17:33

―351からつづく―

このような倒錯理論が是とされるのは、投票結果を国民の総意と見なすほかないという欠陥とも大きく関わっています。

先にわたしは英国の「民衆主義」はウェストミンスターモデルか否かという問を発しました。この分類は Arend Lijphart(政治学)の分類で、日本はコンセンサスモデルの類型とされていたと思います。ただしかし、連邦制ではない点、憲法裁判所がない点で、その典型とは見なせないとは思います。

ウェストミンスターモデルとは、簡潔にいえば、多数決型ということになりますが、しかし、日本はコンセンサスモデルだというのです。つまり、多数決とは議会制の現場での話ですから、これをもって、民意とするのは短絡と言うほかありません。民意は、結局のところ、議員を選ぶ入り口まで、あとは陳状その他という「狭き門」でしか反映の仕様がないからです。それにも拘わらず、日本は「民主主義国家」であり、その責任は国民にありとは、わたしは理論的に成り立ち得ないだろうという疑問を懐いているわけです。国会議決で為された責任は国民が負うのではなく、専門化した政治が負ってしかるべきではないのかという意味です。その追及の権利を持つことが民権ではないかとわたしは考えます。結局、入り口までしか権利を行使し得ない民は、あとは言論で、この特権者達を監視し、時には合法的に断罪するほかないことになります。しかし、羊のような民である日本国民は、エネルギーがないと言われれば、アメリカの言うことを聞いて軍備増強といとも簡単にに憲法改変、戦争危機に歩みを勧めてしまうわけです。また、ここでは軍需というまた別な特権連中が蠢いており、政治信念というより、経済利権という隠れたどす黒い意図が本音であろうという点において、わたしは追及の手を緩めません。

それにしても、この日本人の従順さはいったい、何に起因するのかを、権威、より正確に言えば権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)から考えてみたいというのが、投稿の動機です。

ここでまた「主義」という訳語が使用されるわけです。この訳もまた悩ましいのですが、ここでは取り敢えず置くことにします。理由は democracy の誤訳としての「民主主義」という成句ほど議論をされていないからです。個人的には authoritarian は「権威主義」というより「権威、権威者に追従する」という意味合いであろうと思えます。

「権威」とは、例えば辞典で引くと

けんい ―ゐ【権威】
(1)他を支配し服従させる力。
「親の―を示す」「―が失墜する」
(2)ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、そのような人。オーソリティー。
「その道の―」「―ある学説」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

「日本は民主主義、民主平等だから、権威は存在しない」というのは、一辺倒の教科書的解釈に過ぎません。Adolf Hitler もドイツの民主政のなかから生まれたからです。

この権威の問題を考えるとき、政治におけるファシズムと宗教におけるカリスマは、共通する人間心理から生じている点を分析したのが Erich Fromm であると、わたしは位置づけています。権威主義的パーソナリティという人格モデルの分析は、政治、宗教といった人間集団に共通するものであり、それら集団の「健康度」をチェックする重要な鍵となります。しかし、これが集団のチェックから、個人の分析となるとき、権威主義的パーソナリティという視点が生じます。この点で Erich Fromm の分析をさらに押し進めたのが Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno であり、F尺度で著名であることは記すまでもないと思います。

以下のようなサイトがあります
http://www.naokia.com/fscale/fscale.html

集団健康度は以下にあります
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/GHI/

353犀角独歩:2005/12/16(金) 18:18:47

―352からつづく―

権威主義的パーソナリティについては、先に西田師の簡潔なまとめを紹介したので、ここでは繰り返しません。

以上、記してきた点で、いまの日本は「民主主義」国家といえるのという疑問をわたしは懐かざるを得ません。実質的な国家の様態としては、Juan Jose Linz がいうところの権威主義国家体制に移行しているのではないのかという強い危機感があります。また、国民も権威主義的パーソナリティの要素を依然として孕んでいる点が危惧されます。

なお、Linz がいう権威は政治体制の分類であり、 Fromm また、Adorno がいう権威は心理分析の側面です。

305において、敢えて Adolf Hitler を加えたのは、「民主主義」、それも議会制「民主主義」の許で、ファシズムを達成したからです。このナチズムの分析から権威主義的パーソナリティは言われるようになりました。このナチズムを生んだドイツと現代日本の酷似を論ずる声は多くあります。危機感を懐く動機にもなっています。

わたしはここで政治学的成果を語ろうという意図はないのですが、しかし、権威が近代政治を分析するキーワードになっている点は注意が引かれます。また、この権威は、また、政治に留まらず、宗教、さらに軍隊とも密接に関連しているからです。

なお、 Marcuse の『エロス的文明』からエロス(eros)とタナトス(thanatos)についても触れようかと思いましたが、この点はもう少し熟考してからにします。

Jurgen Habermas における公共理論は、先に望月哲也師の提言から、考えさせられた点です。戦後、信教の自由が認められる一方、政教分離は原則となりました。戦前の国家神道を頂点とする宗教政策は、例えば自律を対照とする個の宗教とも言うべき仏教を、鎮護国家論とはまた違う視点から国という枠組みから統合するものであったわけです。そんな反省から戦後の宗教は、政治と関わりに関してはかなりナーバスでした。結果、宗教のスタンスとは、「私」に留まるものになっていった傾向があったわけです。そこでただ創価公明だけがこのようなタブーを破り、いまや与党勢力にまでなっていったわけです。この創価公明の問題は別の機会にしますが、ともかく宗教は「私」においやられ、ある面、修辞道徳とのどこが違うのかというほど、個人レベルのものになっていった感があります。また、政との関わりは、それこそ世論に強い反発を生じさせるものでした。

しかしながら、こうなると、例えば仏教でいう菩薩行は、単なる弘教に留まるばかりで、一集団の利得と教線拡大という内部的意義を超えないものとなります。つまり、一宗教団体という閉じた系の中、悪くいえばコップの中の問題に過ぎないことになるわけです。しかし、社会の典型である政治へ関与すれば、それは公明党のごとく、政治活動であって、宗教活動そのものから乖離せざるを得ないというジレンマを有します。

ここで、望月師、また、西山師が Habermas の公共圏理論を通じて、提言されたことに、わたしは思わず頷いたわけです。

つまり、政(国)と教(私)という二分極ではなく、政の手の入りきらない、また、私の範疇を超えた私の集合であり、国家まではいかない中間地点、すなわち、公共圏において、宗教果たすべき役割があるのではないのかという提言です。国の一歩手前の市民運動という位置と換言もできるかも知れません。 Habermas 理論は、直ちに日本に当てはまるのかという点は今後の課題としても、わたしは宗教の受け持つべき場が「私」から公共に拡大されることは実に有意義なことであると考えます。ここに宗教の存在価値も見出せるとも思うわけです。しかしこれが政の活動となるときの教が反比例して衰えることもここではありません。

政治的には権威国家体制・軍国化の監視、公共圏における活動、そして、そのために個人的には権威主義的パーソナリティからの脱却という3つの柱は、いま日本の宗教と宗教者が担う使命ではないのかというのが、わたしの現段階における考えです。

この考証はしかし、当スレのテーマが示すとおり、『戦争を考える』点に主眼があり、それを仏教徒という立場から読み替えれば、軍縮、非戦、憲法擁護という立場に成らざるを得ないということでもあります。

以上、雑駁に示しましたが、ここでは政治討論をする気はわたしはありません。権威と権威主義的パーソナリティからの脱却を据えた宗教者、取り分け、日蓮門下は不殺生、非暴力、不服従というこれまた3本の柱に立ち、では、その鼎盆の上に載る21世紀の日蓮をどうするのかを考えることを、むしろ、わたしは個人的なテーマとしているからです。

以後、Milgram の分析も踏まえながら、もう少し考えてみたいと思います。

(以上、人名に関してはカタカナ表記が一様でないものも多々あるので、原語表記、もしくは英語表記としました)

354匿名:2005/12/17(土) 02:30:14
民主主義には権威は存在しないなどという、教科書的解釈があるとは知りませんでした。
私は、民主主義にも権威は存在すると思っていましたが。

355犀角独歩:2005/12/17(土) 11:04:05

> 354

では、民主主義で存在する権威とは何でしょうか。

356匿名:2005/12/17(土) 22:30:32
国民主権ですから、国民に権威があるのではないですか。

357犀角独歩:2005/12/18(日) 10:41:01

> 356

そうしますと、匿名さんにとって、権威は匿名さん本人ということなりますね。
そうでしょうか。

358犀角独歩:2005/12/18(日) 14:13:26

“the authority for which is derived from the people”、つまり、「その権威は国民に由来し」と憲法に規定されるわけですから、国民が権威であるというのは、間違いではないと思います。

しかし、わたしが記したことは「民主主義」という誤訳が一人歩きしたありもしない主義において権威が存在しないというのは、自分(国民)以外に権威を置いていないのは現実かという問です。憲法を字句通り採れば、まさに国民以外に権威は存しないわけです。また、政治は国民権威に由来するわけです。ところが実際のところ、その主客が逆転するとき、権威は政治の側が握ることになります。政権が民権を凌駕する事態が起きていないのかという警鐘です。そして、そのような逆転が生じている時点で、その責任を国民が負うように巧みにすり替えられていないのかという警鐘でもあるわけです。

権威に置いて、政権が民権と逆転する、この構造によってナチズムは達成されていったのではないのかという分析でもあります。それと同じ事態が、今の日本に起こりつつあるのではないのかという危惧感を踏まえています。

以上の点を踏まえて Milgram の諸説を考えたいということです。
追って記そうと思います。

359匿名:2005/12/18(日) 20:15:46
権力とは何かというのは、政治学の最初に学ぶところです。
権力の本質とは、所詮は暴力です。暴力からはじまっているのが権力です。しかし、暴力だけで世を治め続けることはできません。
そこに暴力を正統化する権威の存在が生じます。そこではじめて、暴力は権力に転換するのです。

それを、権力の正統性(オーソライズ)といいます。
オーソライズ (authorize)のない権力は単なる暴力に過ぎない。
権力は権威によるオーソライズという「裏打ち」があってはじめて、正統に権力(暴力)装置が行使ができるというものです。
これは、政治学の基礎として、最初に学ぶことです。

要するに、権威を完全否定したところの権力とは、逆に暴力に返るということになります。
ここでいう権威が、イコール権威主義というものでもありません。

そこで日本の構造は、どうなっているかというと。
国民の権威の象徴が天皇、
国民の権力の代表の最高権力者が総理大臣となります。
いずれも、国民のオーソライズなくしては存在できないという構造になっています。

ただし、日本人は、こうした民主体制の構造をほとんど意識することなく日々を送っています。それもそのはずです。なぜなら日本は革命によって民主主義や、それを規定する現行憲法を、国民自らの手で獲得したわけではないからです。

しかし欧米の民主化は違います。革命という、国民自らの血の犠牲の上に獲得した権利なわけです。いわば、下克上ですね。
それをどう考えるかは、別の議論になりますので、横に起きますが、少なくとも日本は、開国と敗戦の二段階を経て、つまり外からの圧力で民主化してきましたから、デモクラシーに対する意識がそもそも最初から違っているわけです。
日本国民は、開国と敗戦という、外からの圧力で民主主義を与えられた。正確には押し付けられたのかもしれません。

>日本の「民主主義」は、さらに理想化され、夢想化されていないのかという点に、わたしは永年、疑問を懐いてきました。
>そのような逆転が生じている時点で、その責任を国民が負うように巧みにすり替えられていないのかという警鐘でもあるわけです。

とのことですが、それは、以上のような日本の民主化の経緯によるところに起因しているといえるでしょう。
そのため民主政治そのものの構図、現行憲法といってもいいかもしれませんが、それを日本国民が深く意識していない為と考えられます。
政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてないのも、そのような歴史的な成り立ちに拠るところが大きいものと考えられます。

この点を押えたところで、このスレッドの一連の議論においてどうしても問題になってくるのは、まず、その民主政治を是とするか非とするかを避けて議論を進めるわけにはいかないでしょう。
私は是とする前提に立って投稿をしてきましたが、犀角独歩さんの場合は、その点がよくわかりません。

民主主義を「主義」という強い立場から一歩離れた「民主政治」という言い回しに変えますが、犀角独歩さんは、民主政治というものを理想とすることを是した上で、今の政治に不満があるのか。それとも、民主政治そのものを理想とすることに異論をもっているのか。もしくはも、民主政治における、議会制というシステムに異論をもっているのか。そこを整理して、どういう立場に立脚して理論をすすめておられるのか、次の議論に進む前に、とりあえずお尋ねいたしたいところです。

360犀角独歩:2005/12/18(日) 20:47:01

> 359

わたしは先に記したとおり、現行憲法擁護が基本です。
その憲法に対して、不満があるというものではありません。

ただし、いまの政治が、その憲法精神が遺憾なく発揮されたものなのかという点では、大いに疑問があります。特に小泉政権については、その感を強く懐いています。政権が民権を凌駕し、逆転していないのかということです。ただし、この点については、他の政治掲示板その他で記すところですが、ここは佛教の掲示板なのでその範囲に留めます。

なお、

> 権力の本質とは、所詮は暴力です。暴力からはじまっているのが権力です。しかし、暴力だけで世を治め続けることはできません。そこに暴力を正統化する権威の存在が生じます

と言う点については、殊日本国憲法という視点からすれば、まったくこの点は克服されていませんか。

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである」

とあるからです。ここでいう権力は暴力ではなく、福利を国民に享受させる力をなっています。また、権威は国民に由来する国政の権限をいうのがその意味であると考えられるのではないでしょうか。

> 政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてないのも、そのような歴史的な成り立ちに拠るところが大きいものと考えられます

殊はこんなに単純ではないと思いますが。また、「政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてない」という断定は、何を根拠にしているのでしょうか。


匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。何が言いたいのかよくわかりませんが。暴力の行使を肯定できないのは政治に無関心だからということですか?

361匿名:2005/12/18(日) 21:42:53
>わたしは先に記したとおり、現行憲法擁護が基本です。
>その憲法に対して、不満があるというものではありません。

ということは、日本の現行議会制システムは、容認という立場となりますでしょうか。

>いまの政治が、その憲法精神が遺憾なく発揮されたものなのかという点では、大いに疑問があります
>殊日本国憲法という視点からすれば、まったくこの点は克服されていませんか。

憲法というのは、最高法規として、国家の目指す方向を示しているわけです。
ですから、現状よりは先の理念を示していなければなりません。
つまり、現状が、その理念に近づいていないとするならば、これからの課題と考えるべきでしょう。
そこで、何が憲法にかなっていないのか、それは具体的に示す必要があります。
ただなんとなくそんな感じがするでは、問題になりません。
言い換えるならば、何が問題なのでしょうか。
少なくとも、冒頭の発言では、議会制民主政治を懸念しているわけではないということですね。

>ここでいう権力は暴力ではなく、福利を国民に享受させる力をなっています

福利には、政策的にいろんなものを含みます。
敢えて極論を書きますが、たとえば軍事政策も、ひとつの公共事業であり、経済政策の一環です。
経済のもともとの語源は、「経世済民」です。つまり、経済政策も、民衆救済のひとつですから、軍事政策も含めて、いわばこれも福利と考えられるものです。

ただし、日本国憲法では、9条でそれが制限されていますが、自衛のための軍備を合憲とみなさせば、これも福利として範疇に入るものです。

>「政治を自分の生活に引き寄せて関心がもてない」という断定は、何を根拠にしているのでしょうか。

根拠も何も、今の世の中をみて、私はそう感じて、危惧するということです。もっと言えば、かつての私がそうだったからです。そのかつての私が、極めて、一般的だっただろうと思うところです。
こうして、政治だ憲法だと、こだわっている私のほうが国民的にはある意味で、奇異に映ることでしょう。

>匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。

これは、私の主張ではありません。政治学の基本です。

362匿名:2005/12/18(日) 22:13:43
>匿名さんの主張は、権力とは暴力である、権威に裏付けされたとき、その暴力は正当化されるということでしょうか。

ここでいう暴力とは、戦争発議のみを意味しているものではありません。
逮捕権や、刑罰を与える権限も含みます。さらに徴税も含まれるでしょう。
いずれにしても国を治める行為の「本質」は、暴力から始まっているということです。
政治学から論じるのであれば、その基本たる本質を押えておくべきだということです。

363犀角独歩:2005/12/18(日) 23:42:45

> 政治学から論じるのであれば、その基本たる本質を押えておくべき

ところで誰が政治学から論じているのでしょうか。

この暴力と訳される言語は、では、政治学の本質を押さえている匿名さんにご説明いただきたいですね。それと本質を云々するのであれば、その学説の初出、並びに発言者をおさらいいただけませんか。

380犀角独歩:2005/12/19(月) 00:28:35

では、匿名さんへの質問とは別に、358へ続け、記してまいります。

Milgram がいうところの政治学で言う「権威」とは、やや意味を異にします。

「児童発達の研究者たちがずっと以前から認めているように、『最初の社会関係は、権威の指示を認識し、それに屈服する関係である』(イングリッシュ、1961)」(『服従の心理』(河出書房新社)P271)

という命令系統の認知と服従という動物本能に由来することをいうようです。

「ビアステットは、権威の存在は政府の存在よりも根本的な現象である、といみじくも指摘している。『……権威の問題は、適切な社会構造理論の根底そのものにある。……政府でさえ、ある意味では、単に政治的現象ではなく、第一に、そして根本的に社会的現象であり、そして……政府を生み出す母体は秩序と構造をもっている。政府の反対がアナーキーであるとすれば、社会の反対はアノミーである。いいかえれば、権威とは、狭い意味での純粋に政治的な現象ではない。権威は、政治的社会体制においてのみならず、その体制のすべてにおいて存在するからである。どれほど小さな、どれほど一時的な組織であれ、あらゆる社会組織に、それ自身の権威構造がある」(同P276)

このように研究される権威とは、政治的に正当性が認められれば肯定されるという類のものではありません。その権威に服従する心理構造が正常かどうかということに視点があります。

たとえば、ドイツにおいて、ナチスは権力の正当性を得て国民に指示されたわけですが、しかし、そのドイツ国民の権威への服従は明らかに間違っていました。

また、いまここで取り上げている Milgram が権威へ服従の危機を研究したのは、以上のような理由に基づくのでしょう。国民全員が賛成したとしても、異常は異常であり、間違いは間違いだからです。

Milgram が分析した権威というのは、以上のような点です。
さらに追って投稿するつもりですが、本日は遅いので、続きは本朝以降といたします。

386犀角独歩:2005/12/19(月) 02:02:47

あまり、匿名さんとは議論はしたくありませんが、

> 日本の構造
> 国民の権威の象徴が天皇、
> 国民の権力の代表の最高権力者が総理大臣となります。
> いずれも、国民のオーソライズなくしては存在できない

この記述は、先に何度も引いた憲法の文脈と明らかに違っています。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」

天皇は、日本国の象徴であって、権威の象徴ではありません。

「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し」

権威は国民に由来するのであって、天皇に由来するものではありません。

「その権力は国民の代表者がこれを行使し」

また、国民の代表者が権力を行使するのであって、それを最高権力者とするわけでもありません。そもそも最高権力者など、日本には存在しません。最高権力者がいるのであれば、主権在民という原則は崩れることになります。

「その福利は国民がこれを享受する」

国民の代表の権力の行使による福利は国民が享受するものです。

388犀角独歩:2005/12/19(月) 03:32:57

> 359

マックス・ウェバーの政治学の基礎ということでしたが、これは Karl Emil Maximilian Weber のことでしょうか。

Weber は1864年4月21日 - 1920年6月14日の、ドイツの社会学者ですが、この人物と日本国憲法の関係があなたの投稿では明瞭ではありません。
匿名さんが政治学の基本といっていることは、Weber の国家論を指してのことだと思いますが、これが現行憲法を説明する政治学の基礎とする点で、わたしは疑問があります。

日本国憲法では、「暴力」は、その語彙使用はないのであって、刑法では「暴力行為等処罰に関する法律」等の用法が見られますが、「政治学の基礎という権力=暴力」という用法は、現行法下では見られないからです。

あたかも「権力=暴力という政治学の基礎」で現行憲法が編まれたと見るのは納得がいきません。たしかに暴力論は一つの思考の支流をなすもので、論じるのであれば、Georges Sorel の『暴力論』、Walter Benjamin の『暴力批判論』も考慮に入れるべきだと思いますが繁くなりますので、わたしは触れないことにします。

日本国憲法は、「政治学の基礎、権力=暴力」で構成されていると主張する点を、もう少し詳しく解読してもらいたいものです。また、

> 権威を完全否定したところの権力とは、逆に暴力に返る

ということですが、一方、そのあとでは、

> 暴力とは、戦争発議のみを意味しているものではありません。
> 逮捕権や、刑罰を与える権限も含みます。さらに徴税も含まれる

、匿名さんがいう政治学の基礎では暴力はオーソライズされるとき、逮捕権、刑罰徴税行使の権限となる暴力となるが、では、権威が否定されたときの、暴力はなんであるのかという点が不明瞭であると思えます。

なお、わたしは許より、暴力が戦争発議のみを意味しているなどとは、一言もいっておりません。

また、このような「政治学の基礎」は、当スレのテーマである『戦争を考える』とどのような脈絡があるというのでしょうか。さらには、仏教の掲示板である富士門流における信仰と仏教とどのような関係があるのでしょうか。

いちおう、おことわりしておきますが、わたしが305に挙げ、あなたが気が向かないといったところは、一切、「権威」と「権威主義的パーソナリティ」を説明する基礎として挙げたものであり、この点については、349〜353に示したとおりです。政治学を説明しようとしたものでは、まるでありません。

また、わたしは民主主義という語を誤読であり、斯かる主義は存在しないとはいいましたが、現行憲法、政治構造、民権政を否定した記述はしていません。そうではなく、民権が権威の主体者であるべきところを、政権が取って代わる事態が起こりつつあるのではないのかという警鐘を申し述べるために、政治に触れているのに過ぎません。そして、その原因を国民に権威主義的パーソナリティが蔓延する要素がある可能性を危惧しての投稿です。

相変わらず、誤読を以て意味不明な質問を投げかけた挙げ句、「権威主義的」と口を極めた侮辱発言までする投稿姿勢は遺憾というしかなく、抗議も申し添えておくものです。

391管理者:2005/12/26(月) 16:27:56

当スレッドの閉鎖を本日付けで解除いたします。宜しくお願いいたします。

392藤川一郎:2005/12/26(月) 17:02:37
現憲法下における日本の元首は誰か?
元首とは、国家の首長をいいます。「元首とは何か?」と言う定義も時代により変遷するのですが、通常は君主国では君主、大統領制を引いている国では大統領であります。
某仏教系カルト団体のK会の会長は、元首は1人で無ければならないしておりますが、国際的に見れば、スイスなどのように「連邦参事会」と言う機関をして元首としている国も存在します。

さて、現憲法下にて天皇陛下は元首であるか否か?
それについては多説有りますが、憲法学説では「元首とは、三権のうち最低でも行政権を有する」とされておりますから、日本の天皇陛下は元首たりえないとなっております。
しかしながら、国によってはイギリスのように君臨すれども統治せずの国もあり、その国でも元首は国王となっているところから言えば、この学説は狭い概念だとも言えます。
また内閣法制局の見解では、「天皇を元首として差し支えない」となっており、一部の高裁判例でも「天皇を元首とする」となっております。
しかし、これは憲法の逐条解釈と言うより、国際法、国際慣習を基として出した結論かも知れません。なお、現今、国内法と国際法が競合する場合、国際法が優先されるのは当然です。

ただし、元首=最高権力者ではありません。強いて言えば「最高権威者」であります。
権威と権力は同義にあらずです。

393犀角独歩:2006/01/12(木) 15:15:55

当スレにおいて、戦争を考えるということ、軍備増強、憲法改変、また、日蓮主義、日蓮信奉者の戦争責任といったテーマは、実は真新しいテーマではなく、敗戦後、間もない時期から、殊に朝鮮動乱を経、以降、常に論じられてきました。ここ富士門でいえば、小笠原慈聞、戸田城聖、池田大作という名は、単に自宗内の問題としてではなく、日本史的な視点から考証される余地を多く残しています。また、わたしがしばしば挙げる石橋湛山、妹尾義郎、中濃教篤といった日蓮門下の人々の動向も同様です。(以上、歴史的記述なので、敬称略)

以上の点は、「日蓮」の脱歴史化、再歴史化という例えば西山師が指摘されるような点で、現在進行形で考えられており、また、当掲示板での議論もまた、在野の、取り分け、富士門下のフリーランスな考証は、それなりの意義を有すると考えます。

わたしは、「戦争を考える」というテーマについて、「日蓮」との関わりで考えるとき、その軍事翼賛、政治参加動機、もしくは宗教信念という人間の精神活動に共通する心理に着目して考えてみる必要性を痛感しています。

しかし、このようなわたしの思念は、独自なものではなく、ドイツのヒトラーと国民に係るナチズムの研究、また、近代では、所謂「カルト」問題の研究で適用された社会心理学的分析という学術的な視点からの考証に拠ります。

さて、昨年、議論が中断しましたが、わたしは「権威主義的パーソナリティ」という点は、看過できないと考えています。

ここで、まず注記しておかなければならないのは、「権威主義的パーソナリティ」という社会心理学的説明と、俗訛された「権威主義」という語彙における“権威主義”は同音同字であるけれど、意味するところは異なっているということです。また、憲法上で言われる「権威」も、また、違っています。

以上の点は明確化するために、まず、「権威」という語彙から考えていきたいと思います。

先の議論では、権威ということが必ずしも規定されないために、混乱がありました。
権威について論じるとき、「何が権威か」という点を、より明確に記述すれば、「何を権威とするのか」という点を議論されなければならないわけです。

たとえば、自衛隊翼賛者は自衛隊を権威と考え、天皇翼賛者は天皇を権威と、宗教より政治を首都考える人にとっては宗教より政治が上位にある権威であり、宗教を政治のうえにあると考える人にとって宗教が上位の権威である。さらにその宗教の中でも、日蓮を本仏と考える人にとっては日蓮は釈迦以上の権威である。また、「先生」を尊敬する人にとって、「先生」は最大の権威であり、また、特定集団を唯一絶対と考える人にとっては、その集団が最大の権威と“なっている”ということです。

では、このような権威を認識し、その権威に服従、従属、もしくは信託、ないし、準拠しようとする心理を、社会心理学では「服従」というわけです。この「権威と服従」というヒトの生物学
的特徴が、実は2人以上の人間関係、人間集団から、政治、憲法、国家、ひいては戦争に関与する人間の根元的な心理になっていないのかという点を考えてみたいというのがわたしの記そうとしてきことです。

では、わたしがここで「権威主義的パーソナリティ」という釈迦心理学的分析を挙げるとき、この社会心理学成果を権威としていないのかという疑問は当然、起きることです。
これについて、わたし個人の意志を述べれば、別段、権威構造を形成していないと答えることになります。なぜならば、学問的成果は日々進歩、発展、書き換えられるものであり、そこに全幅
の信頼を置くわけではなく、それを無謬として固執するわけでもないからです。それ以上の説明理論があれば、付与すればよいし、間違っていれば、捨てればよいというフローな認識として利用しているのに過ぎません。つまり、この学説を絶対的なものと見なすわけでもなく、拘泥するわけでもないので、特に権威としているわけではないわけです。

いわば、このような柔軟な発想とならず、特定のもの(有形、無形)を絶対的な
ものと見なし、それを権威とし
ていないのかという自己点検を促すことを、この議論で目的にしていたわけです。しかし、このような議論の方向は、絶対的権威を指標する人々の感情を逆撫でするものであることは、むしろ、先の遣り取りで充分に証明されたと言えるかもしれません。

以上、まず、権威とはなにかではなく、「何を権威としているのか」という分析であるという点を、まず留意いただきたいと思います。

396犀角独歩:2006/01/18(水) 01:45:04
「権威」について、例えばウィキペディアで検索すると

「権威(けんい、Authority)とは、第一義には 「人を強制し、服従させる力」 のこと。権力と威勢」といいます。この説明は、ほぼミルグラム等の説明と一致するものです。

また、「宗教は、宗教的な権威、教祖などへの盲従を前提にしている。まず信ありき、というわけである。キリスト教の場合も、盲従という言葉(ドイツ語では、Gehorsam)というが、日本のキリスト教の文献ではそれを「聴従」と訳している」といいます。
(「盲従」等、‘盲’を否定的に使用する成句の使用には、個人的には反対の立場ですが、原文をそのままタイプしました)

さらに「和製漢語の「権威」では、「学説などで、人を納得させるだけの説得力があること」や「特定の分野、件名についての専門的な知識を有し、それを人に教えるだけの能力を持った人。すぐれた専門家、学識者」のことも指す」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E5%A8%81

と Authority 、Gehorsam 、権威に分けて説明していますが、なかなか正確な記述であると思います。なお、誤解を避けるために記せば、権威という漢熟語が和製漢語であるということではありません。例えば、中華電子仏典協会で検索すると、

「由施佛故。二施輪王座故。三同第二。前約權威。此約尊勝。」
http://www.cbeta.org/result/normal/X03/0221_008.htm

等とあります。

また、日蓮の真偽未決文献である十一通御書には『弟子檀那中御書』に「権威を恐るゝこと莫れ」という使用が見られます。この場合、権威は政道を仏道と分けて、その権力威勢をいう範疇であって、ここでは Gehorsam について論及がないと言えるのかもしれません。

富士門下、当然ながら“宗教的権威”に絶対的な信を置く、その信じるに足りるものを勝劣択一して選び取るという教学的な態度に基づいています。もちろん、その信仰対象を「権威」と表現されることに、信仰者が了解するか、という点はさらに論じられなければなりませんが、日蓮以降の日蓮門下の教学も含めて「日蓮的」という言葉を使えば、権威を、絶対的な本仏、もしくは教祖に置き、国家的な権威を天皇に置いて、その融合を図ろうとしたのが近代日蓮主義であったと言えるのかもしれません。

わたしは、信仰というものから、一定の距離を置いて、それを客観的に見るとき、否、冷静に俯瞰し直すとき、この権威認識と服従という心理構造と行動様式があることを改めて確認したわけです。

絶対的、最高のものであれば、それを信じるべき、従うべきであるという態度が、実は信仰と言われている構造にあります。このような信仰をしてきた人にとっては、「当然のこと」と言われるところでしょうが、しかし、このような信仰態度は、社会心理学でいう「権威」という心理構造に基づいているというのが、わたしの指摘です。

さて当スレは「戦争を考える」というテーマであるわけで、ここでは上述、信仰から離れ、政治、憲法、軍隊(自衛隊)という一連のキーワードで考えられてきました。

日本国憲法で「国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来」というときの権威とは、では、以上のような意味と同意なのかというとき、わたしは強制的(もしくは脅迫的な)服従心理を、この文言は孕んでいないと思えます。

該当原文“the authority for which is derived from the people”というときの the authority は、権威というより、「権限」と訳したほうが適切であると思えます。すなわち「国政の権限は国民に由来する」ということです。

しかし、国政権威が、以上の権力限度を越え、ミルグラムの言説を借りれば「邪悪な権威」となるとき、服従構造が発生することになります。

ここで考えるべき点は、信仰のときと同様で、国政、もしくは軍隊を、絶対的と見なし(邪悪な権威)、それに従わなければならないという脅迫的心理が国民全体を動かすような行動様式を、本来、人間は有しているのかという問題です。

権威認知と服従行動というセットは、宗教心理、政治心理に別があるのではなく、本来、人間という種が類人猿が枝分かれする以前から有していた心理様式であることは、先のローレンツの引用でも明確であった点でした。

わたしが、ここで権威を問題にするのは、権威服従下の人々に起きている心理構造を問題にするからです。そのもっとも典型的な心理効果は「無責任」ということです。より正確に言えば、権威と認知したものに対してのみ責任を感じ、権威に基づく行動に関しては無責任となる心理特色を問題視しているということです。

397犀角独歩:2006/03/12(日) 15:09:40

藤川さん

わたしは自民党議員が「靖国神社に天皇が参拝」を言うことに永らく違和感を懐いていたのですが、どうも、その点を言語化できないでいたのです。
しかし、今回、三土師の話を聞き、その著『靖国問題の原点』を読み、自分なりに納得できることがありました。

「靖国神社に神と祀られる資格…対外戦争での死者にも適用されていくことになる。戦争があるたびに靖国神社では合祀祭という祭典が催され、祭神の数が増えてゆくことになったが、そのように祭神の数を増やしてゆく神社というのは、それまでの日本の伝統になかったものである。
 そして“その祭神には天皇でさえ再考の礼を尽くして拝礼する”…“戦死者は天皇にさえ先立って神とされたわけである”。」(P76)

つまり、天皇の軍隊、兵隊であった者が、この靖国という現場では、天皇に拝礼させ、拝ませる神に成り上がっているのです。これは、天皇が天皇の祖神を拝するのとは根本的に意味が違っています。

臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませられるという不遜な構造がここにあるのではないでしょうか。

そして、このようなことを主張する連中は

「『押しつけ憲法改正』を声高に主張する人にかぎって、それによって達成しようとしている現代的目標はむしろアメリカの世界戦略への無批判の追従であるという、何とも皮肉な『ねじれ現象』が顕著で、その矛盾を見透かされている」(P41)

わけです。

別段、わたしは、ここで尊皇を鼓舞する意図はありませんが、しかし、靖国神社の宗教構造は、天皇の兵隊が、戦死すると祭神となって天皇に拝まれる立場になるという実に不届きな構造を呈しており、それを強要する自民党議員というのは、尊皇者からすれば、これ以上の不敬はないと思いますが、如何でしょうか。

398犀角独歩:2006/03/12(日) 15:12:29

【397の訂正】

誤)再考の礼
正)最高の礼

399犀角独歩:2006/03/12(日) 18:18:47

397、下手な文章です。もう一点、訂正します。

誤)臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませられるという不遜な構造
正)臣下であった者が、天皇の上に立ち、神になって天皇に拝ませる・拝まれるという不遜な構造

400藤川一郎:2006/03/12(日) 22:58:40
>>397

仰ることには一々に納得させられます。
私が靖国神社に違和感を感じ始めた第一は、同じ天皇陛下の赤子であるハズの「戊辰戦争及び西南戦争の賊軍」が靖国神社にて神になっていなかったことからです。

そもそも、日本において神とされたのは皇祖神であります。それとは別に祀ろわぬ神の存在もあります。これは明らかに「天皇家と敵対し滅ぼされた者の怨霊を鎮魂する為に、祀られた神」であります。しかし、明治維新後神道の何たるかも知らない、薩長の田舎者が(不肖私の先祖も薩摩なんですが・笑)、国家に殉じた者を神とした。

しかしこれは政策的な側面があると思います。
近代以前は国民皆兵制的な物はありませんでした。戦争は侍がやってくれる。それを民は傍観していた。これが史実でありましょう。しかし、近代国家への脱皮には、中央集権と徴兵制施行が必要であった。しかし、今まで国の為に命をかけようなどと考える事の無かった民衆を、死をも恐れぬ兵士に教育するのは難しい。そこで忠君教育と靖国神社が考案されたと私は考えております。
即ち、①天皇家に忠義を尽くす。②それで死んだ者は須く神になれる。③しかも天皇陛下にすら拝まれる神になれる。
すなわち、一向一揆における「進めば極楽浄土、退けば無間地獄」のような兵士を作り上げる。そのための靖国神社だと思います。
「戦え兵士よ。国に忠義を尽くして命を落とした者は全て、陛下に拝礼される存在となるのだぞ。」

つまり、これは天皇家が御自身の御先祖を祀ったとか、敵対した者の鎮魂のために祀ったのとも違い、日本の伝統から言えば、不思議な事です。
その証拠に、本来の怨霊鎮魂のためには絶対に祀らねばならない「戊辰戦争の賊軍」「西南戦争の薩軍」が一切神になれず排除されているのです。

401犀角独歩:2006/03/13(月) 13:15:03

藤川さん

ご賛同有り難うございます。
仰る点、三土師も、怨親平等と御霊信仰の両面から説明していました。
靖国教義(と言えるかどうか?)というのは、三土師の言を借りれば「国がいかなる形でせよ戦死者を公的に意義づけること自体を、新たな戦死者をつくる準備ではないかと警告する人が多く」(『靖国問題の原点』P101)いると言います。

わたしは靖国神社信仰というのは、天皇崇拝を換骨奪胎した構造である睨んでいます。つまり、元来、天皇に向けられるべき崇拝を、天皇の権威を借りて、靖国祭神にスライドさせ、その祭神合祀の決定権を握る政府が天皇に成り代わる構造です。いわば、現在の下克上といったところでしょうか。

坊さんであれば、追善回向ということがありますから、自分の弟子の礼に向かって拝むことはあるでしょう。しかし、天皇を頂点の神とするはずの日本で、天皇に拝ませる神を天皇祖神以外に想定する在り方は、明らかに天皇崇拝を換骨奪胎したものとしか言いようがありません。

さらに以下、三土師の明解説、やや長く転載します。

「2001(平成13)年春、自民党総裁選に立候補した小泉純一郎は、同選挙の候補者として久々に靖国参拝を公約として掲げ、首相になったら8月15日の終戦記念日に首相として靖国神社に参拝すると明言することで、日本遺族会の支持を取り付け、それを自己の勝利に結びつけた。この「公約」の実行をめぐっては、実行前に何度も話題となり、小泉は釈明を求められたが、7月11日の衆院選主要7党の党首討論会での「A級戦犯も死刑という刑罰を受けている。…死者をそれほど選別しなければいけないのか」という彼の発言は、中曽根首相が目指した方向が、とりわけ、感情面において、過去のものになっていないことを窺わせるものであると同時に、国家護法法案以来30年にわたって戦わされてきた靖国問題をめぐる議論を、この人は学んでいないことを世間に知らしめるものであった。
 小泉の発言は日本遺族会顧問・板垣正の「日本人の文化伝統から、死すれば神または仏である。戦犯刑死者も等しくそのみたまをまつることが、日本人の宗教的感情であり、死者に鞭打つ伝統はわが国に存在しない」(『靖国公式参拝の総括』340頁)との記述とみごとに符号しているが、靖国神社こそがむしろ「死者を選別する」思想によって成立し、それによる矛盾を抱え込んでしまっていることを見落としている。「『日本の伝統』と称するならば、仏教の怨親平等回向の精神に立ち返って、敵を祀れ」とまで要求するのはこの際、求めすぎだとしても、明治時代には想定もされなかった総力戦の時代となって、軍人・軍属としてたまたま軍の指揮下にあった者は神と祀られ、そうでない民間人犠牲者は祀られないという例が多く出て、その選別の恣意性は大いに問題とされている。と同時に、、旧植民地国から出征させられた戦死者の遺族が、日本の神とされることを不快として合祀取り下げを請求しても、それには教義上けっして応じられないと突っぱねているのも靖国神社である。
 合祀取り下げといえば、もうひとつ、自民党内の公式参拝に熱心な人々自身が手を焼いた問題もある。中曽根公式参拝がA級戦犯問題で暗礁に乗り上げ、継続不可能になったとき、ならばA級戦犯だけを合祀取り下げして別の場所に移すことができないかと、靖国神社に打診した政治家があった。しかし、「いったん合祀した魂を分けることはできない」として一蹴されている(高橋哲哉『「心」と戦争』179頁)。その後、この案は1999(平成11)年にも時の自民党幹事長森喜朗と内閣官房長官野中広務によって蒸し返されたが、神社側の不動の原則論の前に、早々と撤退を余儀なくされている(菅野伸郎編著『戦争と追悼』46〜48頁)。ご都合主義の政治家が、みずからの飼い犬と思っていた靖国神社に、手を咬まれたのである。「政治」の都合では御しきれない「宗教」としての靖国神社があったというのは、皮肉なことだが事実である」(前掲書P99)

402藤川一郎:2006/03/17(金) 13:09:48
余談ではあるが、靖国神社は「いったん合祀した魂を分けれない」「神となったものは元に戻せない」
と言っているが、それは本当でしょうか?

豊国大明神と言う神がいる。豊臣秀吉その人であるが、豊臣家滅防後にいったん人に戻っている。
明治以降再興されたが・・・。
つまり、祀られた神でも、人に戻すことは可能です。

403犀角独歩:2006/03/18(土) 09:48:51

402 藤川一郎さん

この点、わたしは孫引きなので、『「心」と戦争』『戦争と追悼』を手繰ってみようと思っています。

いずれにしても、合祀だ・祭神だといっても靖国が勝手にいい、それを認める人が指示している‘教義’であるわけですね。

たとえば富士門で戦没者を供養しようと思えば、塔婆回向で当証菩提を願うことになりますね。そうすれば、神(天界六道)ではなく、仏(仏界十界)です。

結局、靖国問題の本質は、そのような「国のために兵士として死んだ人間は、靖国で合祀されれば神になる」という教義を表に出して肝心の政治的な部分の本音に紗をかけている点にあるわけでしょうね。

どのように政治に利用されているのかという実質論からも考えられるべきだというのが、三土師の指摘だと思います。靖国、軍隊、兵隊賛美、しいては、退役軍人・家族の優遇措置がその背後に見え隠れし、そのような特権性を確保する蜜と、政治家の票田という、同じカミでも、紙幣と投票用紙が祭神にすり替えられている構造があると思えるわけです。

靖国に祀ったところで人が神になるわけもないわけです。そんな美談で、どんなソロバンがはじかれているのか。まあ、小泉氏の父親は知覧の出身だというわけで、そこに言って大泣きした経過が公約につながっているんだなんて話の仕上がりですが、だったら、約束通り、8月15日にいけばいいわけです。「政治は駆け引き」だから、そのぎりぎりのところでそれぞれの支持者の折り合いが付く、妥協の産物というわけでしょうか。こんなことと、人が神仏になることは、元来、別の話だと思うわけです。

404日本侵攻開始:2006/04/16(日) 00:05:11
遂にこの日がやって来てしまったようですね。

中国 日本の経済水域で作業へ
http://www3.nhk.or.jp/news/2006/04/15/d20060415000137.html

領土問題などの係争地域で一方的な海上封鎖は宣戦布告とみなされるのが常識です。
これが日本の左翼の方たちがもたらした結果ですか・・・
これで皆さん目が覚めましたでしょうか?これが現実です。
9条だのピースだのをアピールしてる人たちは日本解体を企ててるマルクス主義者で、
この本音に気づかずに平和ごっこに騙されている人たちが何と多いことか・・・
やっぱもう手遅れですかね?残念です。

405Slow Life:2006/08/26(土) 20:03:11
、、この問題は読売新聞の特集記事にもありました。  なかなか難題至極の一見でしょう、、か、、??
 今、戦争の原因を思考・錯誤しますことは、意義がございます、、でしょう、?

 歴史に「、、たら、、れば、、」、、は禁句ですが、、明治政府が、、「、、富国強兵を疑問視していたならば、??」、、
「、、大砲・軍艦よりも、米・牛乳・にんじん・自転車・耕運機・風呂など、、、」、、に重きを置く「見識と卓見」のある指導者が不足==人材不足(今と同じ)、という当時の流れ、、??、、も、、一応の、、一因、、では、、、??? 詳細は、、あと99年くらいの後に、、判明するかも、、??

406日本人民共和国反対:2006/08/28(月) 09:33:25
日本共産党は「日本国憲法」に唯一絶対反対した政党である。

日本共産党の独自憲法草案・・・「日本国は、日本人民共和国である」

407羅臼 昆布太郎:2006/08/28(月) 18:36:53
 失礼します。 先日、根室の沖合いで34歳の方が銃撃され御亡くなりました。
 近隣に親戚を有する一人として、本当に、、情けない、、!!
 
 良くは判りませんが、国と国との利害・対立ほど、、難儀・難題な事はほかには無いようです。
 今日、この本を読み、更なる危惧が増しました。
 「中国の核が世界を制する」(伊藤 貫 著、PHP 研究所) です。 御免くださいませ。

408藤川一郎:2006/08/30(水) 12:07:36
>>406

日本人民共和国憲法草案 前文
「天皇制支配体制によつてもたらされたものは、無謀な帝国主義侵略戦争、人類の生命と財産の大規模な破壊、人民大衆の悲惨にみちた窮乏と飢餓とであつた。この天皇制は欽定憲法によつて法制化されてゐた様に、天皇が絶対権力を握り人民の権利を徹底的に剥奪した。それは特権身分である天皇を頂点として、軍閥と官僚によつて武装され、資本家地主のための搾取と抑圧の体制として、勤労人民に君臨し、政治的には奴隷的無権利状態を、経済的には植民地的に低い生活水準を、文化的には蒙昧と偏見と迷信と盲従とを強制し、無限の苦痛をあたへてきた。これに反対する人民の声は、死と牢獄とをもつて威嚇され弾圧された。この専制的政治制度は日本民族の自由と福祉とに決定的に相反する。同時にそれは近隣植民地・半植民地諸国の解放にたいする最大の障害であつた。
われらは苦難の現実を通じて、このやうな汚辱と苦痛にみちた専制政治を廃棄し、人民に主権をおく民主主義的制度を建設することが急務であると確信する。この方向こそかつて天皇制のもとにひとしく呻吟してきた日本の人民と近隣諸国人民との相互の自由と繁栄にもとづく友愛を決定的に強めるものである。
ここにわれらは、人民の間から選ばれた代表を通じて人民のための政治が行はれるところの人民共和政体の採択を宣言し、この憲法を決定するものである。天皇制はそれがどんな形をとらうとも、人民の民主主義体制とは絶対に相容れない。天皇制の廃止、寄生地主的土地所有制の廃絶と財閥的独占資本の解体、基本的人権の確立、人民の政治的自由の保障、人民の経済的福祉の擁護――これらに基調をおく本憲法こそ、日本人民の民主主義的発展と幸福の真の保障となるものである。日本人民の圧倒的多数を占める勤労人民大衆を基盤とするこの人民的民主主義体制だけが帝国主義者のくはだてる専制抑圧政治の復活と侵略戦争への野望とを防止し、人民の窮極的解放への道を確実にする。それは人民の民主的祖国としての日本の独立を完成させ、われらの国は国際社会に名誉ある当然の位置を占めるだらう。日本人民はこの憲法に導かれつつ、政治的恐怖と経済的窮乏と文化的貧困からの完全な解放をめざし、全世界の民主主義的な平和愛好国家との恒久の親睦をかため、世界の平和、人類の無限の向上のために、高邁な正義と人道を守りぬくことを誓ふものである。」

うーん。天皇制の廃止か(涙)?


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