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戦争を考える

352犀角独歩:2005/12/16(金) 18:17:33

―351からつづく―

このような倒錯理論が是とされるのは、投票結果を国民の総意と見なすほかないという欠陥とも大きく関わっています。

先にわたしは英国の「民衆主義」はウェストミンスターモデルか否かという問を発しました。この分類は Arend Lijphart(政治学)の分類で、日本はコンセンサスモデルの類型とされていたと思います。ただしかし、連邦制ではない点、憲法裁判所がない点で、その典型とは見なせないとは思います。

ウェストミンスターモデルとは、簡潔にいえば、多数決型ということになりますが、しかし、日本はコンセンサスモデルだというのです。つまり、多数決とは議会制の現場での話ですから、これをもって、民意とするのは短絡と言うほかありません。民意は、結局のところ、議員を選ぶ入り口まで、あとは陳状その他という「狭き門」でしか反映の仕様がないからです。それにも拘わらず、日本は「民主主義国家」であり、その責任は国民にありとは、わたしは理論的に成り立ち得ないだろうという疑問を懐いているわけです。国会議決で為された責任は国民が負うのではなく、専門化した政治が負ってしかるべきではないのかという意味です。その追及の権利を持つことが民権ではないかとわたしは考えます。結局、入り口までしか権利を行使し得ない民は、あとは言論で、この特権者達を監視し、時には合法的に断罪するほかないことになります。しかし、羊のような民である日本国民は、エネルギーがないと言われれば、アメリカの言うことを聞いて軍備増強といとも簡単にに憲法改変、戦争危機に歩みを勧めてしまうわけです。また、ここでは軍需というまた別な特権連中が蠢いており、政治信念というより、経済利権という隠れたどす黒い意図が本音であろうという点において、わたしは追及の手を緩めません。

それにしても、この日本人の従順さはいったい、何に起因するのかを、権威、より正確に言えば権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)から考えてみたいというのが、投稿の動機です。

ここでまた「主義」という訳語が使用されるわけです。この訳もまた悩ましいのですが、ここでは取り敢えず置くことにします。理由は democracy の誤訳としての「民主主義」という成句ほど議論をされていないからです。個人的には authoritarian は「権威主義」というより「権威、権威者に追従する」という意味合いであろうと思えます。

「権威」とは、例えば辞典で引くと

けんい ―ゐ【権威】
(1)他を支配し服従させる力。
「親の―を示す」「―が失墜する」
(2)ある方面でぬきんでてすぐれていると一般に認められていること。また、そのような人。オーソリティー。
「その道の―」「―ある学説」
(三省堂提供「大辞林 第二版」)

「日本は民主主義、民主平等だから、権威は存在しない」というのは、一辺倒の教科書的解釈に過ぎません。Adolf Hitler もドイツの民主政のなかから生まれたからです。

この権威の問題を考えるとき、政治におけるファシズムと宗教におけるカリスマは、共通する人間心理から生じている点を分析したのが Erich Fromm であると、わたしは位置づけています。権威主義的パーソナリティという人格モデルの分析は、政治、宗教といった人間集団に共通するものであり、それら集団の「健康度」をチェックする重要な鍵となります。しかし、これが集団のチェックから、個人の分析となるとき、権威主義的パーソナリティという視点が生じます。この点で Erich Fromm の分析をさらに押し進めたのが Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno であり、F尺度で著名であることは記すまでもないと思います。

以下のようなサイトがあります
http://www.naokia.com/fscale/fscale.html

集団健康度は以下にあります
http://www.cnet-sc.ne.jp/jdcc/GHI/


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