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戦争を考える
334
:
犀角独歩
:2005/12/15(木) 09:14:05
―333からつづく―
以下を紹介して、日蓮宗現宗研、伊藤立教主任は
一、 政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。
一、 靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。
この二点が本当に実現すれば、靖国神杜は、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう。
そのうえで、
一、 近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観(遊就館の展示がそれを表現している)は、自由な言論によって克服されるべきである。
一、 「第二の靖国」の出現を防ぐには、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要である。
といいます。中野教篤師の遺志を継ぐ流れであり、一脈、当然、湛山師以来の日蓮宗の考えを一結したものであるといえる観察できます。もちろん、全日蓮宗僧侶の総意ということではないでしょう。
以上の考えにわたしは手放しで賛成というわけではありません。
ただ、日蓮という視点から政治、戦争を考え出すとき、戦前の日蓮主義、戦後の湛山師を知らず、放言することは出来ないという矜持を覚えます。その意味で、もう少し、湛山師の思想を探ってみようと考えています。
いずれにしても、宗教という視点からするとき、仏教はBuddhaを祀る信仰なのであって、覚者を崇拝するところにその意義を置きます。そして、その覚者は非暴力、不殺生の人でした。それに対して、靖国でいう英霊は、いわば軍神であり、祭神は殺生の軍人、不慮の死を遂げた戦死者です。このような人々に敬意を払わないということではなく、覚者、不殺生、非暴力の祖を祀る仏教徒にとって、これらの人々を神と崇めることはできません。仏事追善回向してこそ、成仏もあるという宗教観を富士門下に置いてもするわけです。となれば、靖国という‘宗教’とこの点で、整合性を見ることは有り得ないわけです。
靖国を認めるということは、仏教徒、取り分け、日蓮門下、もっと言えば富士門下、さらには学会を含む石山門下にとっては、教義の根本的改変と、‘謗法容認’を意図することとなるわけです。当掲示板は一定の矜持がありますから、このような点で感情的な議論とはなりませんが、いわば、靖国参拝を含む公・官の宗教を拒否して、創価学会の牧口師は獄死したというのであり、戸田氏も獄にありました。‘小説’『人間革命』で、巣鴨の牢獄から出所した戸田氏が電車で原宿を通り過ぎるとき、乗客全員が神社を通り過ぎるとき直立不動になって礼を為したのに対して、「戸田城聖」1人は席から立たないという描写があります。神札問題はまた、学会宗門の水を分けた大きなテーマでした。神本仏迹を唱えたO師は裸に剥かれて河に投げ込まれた挙げ句、詫び状まで書かされたわけです。このような違法行為が容認されるわけはありませんが、しかし、この‘憤慨’と事件こそ、ある面、戦前日蓮主義と神札強要に対し、日蓮を仏に仰ぐ、戦後最大規模に成長する民意であったわけです。しかも、湛山師と戸田氏には当然の距離もありながら、この点では結論は相似していた点は注視に値します。
戦死者が神であるという宗教観は、遠くギリシャでも見られるものですが、近代国家、たとえばアメリカの無名戦士の墓などとは、その意義を全く異にするわけです。
しかし、脱官営・脱宗教的な衣を着る靖国は依然として、その根治はなく、英霊を軍神とする宗教背景は、やはり、戦争翼賛、軍事・軍人賛美と内外に取られるのは当然のことであるとわたしも考えます。その意味において、政治色を濃くすることは必然です。その意味において、単に宗教的な範疇に留まらず、対外外交に刺激することは、小泉も十分に認識しているでしょう。この点をわたしはマッチポンプと評したわけです。
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