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戦争を考える

209匿名:2005/12/06(火) 02:28:18
先週のNHKの「その時歴史は動いた」では、シリーズ真珠湾への道 <前編>〜山本五十六 苦渋の作戦立案〜が放送されました。
ご覧になられた方も多く、多くの方はご存知のことかもしれませんが、「戦争を考える」意味で、確認の意味として投稿させていただきます。

真珠湾攻撃を作戦・指揮した連合艦隊司令長官・山本五十六は、その直前まで、アメリカとの戦争には反対の立場を貫いていました。
日本海海戦に参戦した山本五十六は、その後大艦巨砲主義を掲げる海軍で、エリートとして本流を駆け上がります。
しかしその後、山本はアメリカの現地視察を命ぜられ、赴いたアメリカの地で、その圧倒的な国力を目のあたりにするのです。
アメリカの繁栄とその国力は、一体何がもたらしているものなのか。山本はアメリカという国の本質を探求します。そして明確な答えが出るのです。アメリカの国力の源は、何よりアメリカ国土が有する鉄や石油など豊富に有する資源であり、それが国家国民の繁栄を根底から支えているのだ、という答えにだとりつきます。
そのようなアメリカと、資源の乏しい日本がまともに戦っても、絶対に勝ち目はない。
山本五十六は、対米戦争は日本を壊滅させる暴挙と確信し、軍事強行派に命を狙われながらも対米戦回避を訴えつづけます。

昭和9(1934)年第2次ロンドン軍縮会議の予備交渉に、山本五十六は全権代表として赴きます。当時、定められていたアメリカ・イギリス・日本の主力艦の保有比率は、大正11(1922)年に締結されたワシントン海軍軍縮会議で決められた比率により、5対5対3で、日本にとってはいわゆる軍事的不平等なものでした。山本五十六は、政府からこの不平等を解消してくるよう命ぜられるのですが、しかし山本の心は違っていました。
「条約は、日本が3に縛られているのではない、米英を5に縛っている。条約が消え、無制限の建艦競争が始まれば国力の差から、5対3どころか10対1に引き離される。」
しかしそんな山本の思惑とは別に日本政府は、この予備交渉の内容を不服とし、1934(昭和9)年12月ワシントン条約を破棄、1936年1月ロンドン軍縮会議も脱退してしまうのです。

その後、日独伊三国同盟に際しても、山本五十六は反対の立場を示します。
「日米正面衝突を回避するため、万般(ばんぱん)の策をめぐらすべきで、絶対に日独同盟を締結すべきではない」
「三国同盟が成立すれば、現状でも兵力は不足している上に、米英からの資材はこなくなる。一体これをどうするつもりなのか。」
「アメリカと戦争すると言うことは、全世界を相手にすることだ。東京辺りは三度くらい丸焼けにされ、惨めな姿になってしまう。」
などと言っています。

実際、ABCD包囲網によって、石油や鉄など生活に必要不可欠な物資が日本に入らなくなります。ただでさえ、資源がない上に、経済制裁でさらに物資が入らない中、日本は国をあげての開戦を決意するのです。いや、経済封鎖されたが故に、戦うしかなかった一面もあるでしょう。まさに窮鼠ネコを食むかもしれません。
とにかく、馬鹿な戦争だと、今の時代だからこそ言えますが、当時の人々には、それを止める術はなかった。馬鹿な戦争だとわかっている人ですら、止められなかったのですから。

「欲しがりません勝つまでは」
そんな言葉を合言葉に、国民は衣・食・住の生活すべてを犠牲にして、戦争モードに突入します。
しかし、アメリカは違っていたんですね。豊な暮らしも繁栄も贅沢もそのままに、映画はもちろんのこと、国民の娯楽は全て何も犠牲にすることなく、日本と戦います。確か、映画「風と共に去りぬ」なども戦時中に制作されたのではなかったでしょうか。
資源も国力もあるアメリが戦争をするのに、アメリカ国民の生活の犠牲などは何も必要とはしません。ただ必要なのは、その戦争を支持するという国民の強い「意思」です。
しかしまさに皮肉なことに、アメリカとの対戦をギリギリまで避けるべく苦心をした山本五十六が、最後には、自らが作戦・司令した真珠湾攻撃によって、アメリカ国民に絶大な「戦争支持」という強い「意思」を与えてしまう結果となってしまうわけです。
このあたりの後半は、今週の「その時歴史は動いた」で放送されます。
http://www.nhk.or.jp/sonotoki/

210匿名:2005/12/06(火) 02:29:11
その山本五十六が、母校である長岡高等学校での言葉は、印象的ですので紹介しておきます。

「私は諸君に対し、銃をとって第一線に立てとは決して申しません。あなた方に希望するところは、学問を飽くまで静かな平らかな心を持って勉強し、将来発展の基礎を造って頂きたいと熱望する次第であります。どこまでも気を広く持ち、高遠なる所に目標をおいて、日本のため進んでください。」*山本五十六の母校・長岡高等学校(卒業当時は長岡中学校)での昭和14年の講演より

平和を愛する非暴力主義の仏教徒にとって、軍人の言葉というのは、なかなか耳を傾けられないものかもしれません。
戦前の日本を戦争へ導いたのは、確かに軍部なのでしょう。政府よりも、軍部に政治的実権を握らせてしまった。そういう流れだったのではないでしょうか。それを後押しする、国民の風潮もあった。マスコミの論調もしかりだったでしょう。誰も止められなかったのです。

しかし、流されることなく、世の中の動きや情勢がしっかりと見えていた人もいた。
私も、できれば、そうありたいと思うのです。何をするわけでもありません。たった一票だけれども、その一票の責任をしっかりと持ちたいと思うのです。

もうひとつ、紹介しておきたいこと。
私がこの間、投稿してきた、いわゆる自衛隊というもの。
どこのどいつともわからない、「匿名」の投稿内容など、信用に値しないと、読み捨てられたものかもしれませんが、責任ある立場の人の語る「自衛隊」を紹介しておきます。

イラク特措法案を廃案にすることの要望書を全国会議員に送付したことで話題となった、防衛庁出身で現在は、新潟県加茂市長小池清彦氏です。
ちょうど、共産党の議員が、小池氏を訪問された内容をみつけました。これはとてもわかりやすく、私がここに投稿してきた意見にも大変近いものと思いましたので、ご紹介しておきます。

http://www.kasai-akira.jp/taiwa/data1/040409-140355.html

イラク特措法案を廃案にすることの要望書
http://www.city.kamo.niigata.jp/section/oshiraseban/shisei/jieitainoirakuhakenwookonawanaikotowomotomeru151022.pdf

211匿名:2005/12/06(火) 02:33:47
犀角独歩さん

>206
>また、何か試されているような気もしませんが、匿名さんもご要望を出してくださったので、記すことにします。

試すなど、この点は、まったくご心配なく。私の、純粋な向学心です。
それこそ心理学のレベルはまったくの素人ですから、どうぞお手柔らかに、投稿を楽しみにしております。

概ね、私の投稿したい内容は終えました。
一時はどうなることかと思いましたが、今は、意を決して投稿して良かったと思っています。
他の貴重な教義議論をしばらく少し止めてしまい、申し訳なく思っております。
少しずつ再開の兆しが出ていること、安堵しております。

>議論もまだ半ば、できましたら、継続してご投稿いただければ、内・外の両要因のすりあわせもできそうな気もします。お時間の許す限りでけっこうですから、ご投稿いただければ勉強になります。

ありがとうございます。
もちろん、政治と憲法に関して、口を挟みたい投稿をみましたら(笑)、引き続きこれからも「匿名」の名で投稿させていただきます。

ひとまず、犀角独歩さん、連日おつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。
今後の更なるご活躍、心より、お祈りしております。

212犀角独歩:2005/12/06(火) 10:32:38

外的要因に関してはあまり触れないつもりですが、以下の点は記しておかなければなりません。

> 選挙…国民
> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある

これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという議論の運びなのでしょうか。

わたしはこの考えは再考されるべきだ思います。
なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからです。まして、先の大戦は非戦闘員、婦女子まで無差別に殺戮したものでした。その極が原爆投下でした。先にも紹介しましたが、その原爆の開発・投下・写真撮影までしたアグニューと、あなたは意識してかしないでか同じことは言っています。この男は60年後の原爆の被災地広島に立ってまで「罪もない一般市民はいない」と言いました。この男の一流の論理から言えば、原爆投下によって、宗教的な意味合いとしては捌きを与えた、政治的には国民に責任をとらせたのでしょう。異教の黄色人種への裁き、そして、政治的には原爆投下に値する責任が非戦闘員である乳飲み子から寝たきりの老人に至る一切が背負った‘責任’であるという政治的感覚から、己とアメリカのあの人類史最高の極悪を肯定しています。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1131915713/75

あと、議論は及んでいませんが、日本に侵略された側の人々は、侵略者の神王と国家を崇めさせられたのです。また、政治的には日本の奴隷とされたのです。この人たちの責任は、彼らの投票とは関係ありません。

以上の点で、あなたの投票=国民の責任という議論は不完全であるとわたしは考えます。

投票と議会制‘民主’?主義は、言葉としては、侮蔑的で好ましくありませんが、衆愚政治となったとき、致命的な破滅をもたらしていきます。あなたの国民に対する警告は、この点にあるのでしょうから、この点では賛同します。しかし、では、そのような政治的な無関心がどうして起こるのかという点はこの論法では、国民の政治意識の高揚を訴えるほかないという欠陥を孕んでいます。

しかしながら、この欠陥を補うだけの力は、もちろん、わたしにもありません。宗教にもないのでしょう。故に‘滑り出せば’瞬く間に国家は戦争になだれ込んでいきます。衆愚化した国民による投票と決断は、残念ながら、国民にとって利益をもたらすとは限らないという側面があります。しかし、その責任は、仰るとおり、国民に返ってきます。

たぶん、あなたとわたしの考えで大きく違うのは国家という点でしょう。
わたしは国家とは、国民の総体であるという理想的モデルとは別に、特定権力者(利権者・既得権者、それに傅く政治家、軍部)という極一部の連中が国家そのものとなり、万民と対峙している構造もあると常々考えています。しかし、あなたの考えは投票によって国民は国家に等しいという民主国家モデルそのままを、論の基礎に据えているように見え、その根本的な部分で、わたしとは違っていると感じます。また、そのような投票=国家という単純式からすべては国民の責任とするような蛮勇は、俄にわたしには生じません。先にも引用しましたが、ハッサン師が、統一協会のメンバーを指した以下の構造は、衆愚政治という現場では常に繰り返されていたことでしょう。このような選択を、仮に投票と言うことに置き換えたとき、わたしはここに一人ひとりの責任を負わせるのではなく、煽動側の責任こそ、追究しなければならないと考えるのが内的要因をいう理由です。

「マインドコントロールは、露骨な物理的虐待は、ほとんど、あるいはまったくともなわない。そのかわり催眠作用が、グループ・ダイナミックス(集団力学)と結合して、強力な植え込み効果をつくりだす。本人は、直接おどされるのではないが、だまされ、操作されて、決められたとおりに選択をしてしまう」(『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)P109)

あと、「何か試されているような気」と記したのは、匿名さんについてではありません。01さんに対してです。『攻撃』、その他については追って投稿することといたします。

御礼をいただきましたので、この点はわたしのほうも御礼申し上げておきます。

21301:2005/12/06(火) 20:55:32
>203
なにいってんだか、ぜんぜん、わかんないな。議員秘書かなんかと会話してるみたい。
政治家が坊さんじゃなくて良かったよね。自分を支持しなきゃ、手も合わせないってわけ?
でも、総理大臣て、そんな自分と自党のためだけの存在かい?
>政治を放棄すれば、放棄した人の意向には絶対に成り得ません
じゃあ、投票権の無い子ども、心神耗弱者には政治はなんの役にもたたなわけか。
ひでえ商売だな。福祉もなんもあったもんじゃないのはこんな理由か。
金と票で魂を売るのが政治家だといっているわけだね。

21401:2005/12/06(火) 21:00:13
>『攻撃』・読んでいない・試されている
それはひみつです。

215匿名:2005/12/07(水) 00:36:18
>212
なかなか、引くに引けませんね。

>なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからです。

権利には義務も伴います。この原則を、どうお考えになりますか。

現行憲法では、三大義務が定められています。教育、納税、就労の義務です。
まず生まれたばかりの子どもに関しては、三大義務の原則から外れますので、一応投票の権利が認められない理論は成り立つはずです。
しかし、だからといって、子どもに権利がないということでは決してありません。あくまで、政治における投票する権利がまだ未熟であるということです。投票は社会人としての責任を負う行動ですから、社会的に未成熟な子どもにはその責任を負わせないという意味を含むわけです。これは、理解されることと思います。

次に、心的障害を持つ人のことになりますが、一票の権利はあるはずです。しかし、投票の意思が示せないわけですね。もしかしたら、意思そのものが、ないかもしれない。意思が示せない、もしくは意思がない場合は、総意に含められないのは、仕方ありません。
しかし、だからといって、心的障害を持つ人の人権が守られないかというと、全くそうではありません。
それこそ、憲法25で保障されていることです。

第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

とりあえず、その保護的立場の者がその権利を代弁することを含めた投票で意思を示すしかないのではないでしょうか。
それでは不十分でしょうか。

>投票と議会制‘民主’?主義は、言葉としては、侮蔑的で好ましくありませんが、衆愚政治となったとき、致命的な破滅をもたらしていきます。

侮蔑的?なぜ、そう思うのでしょう。
議会制民主主義をどうして侮蔑に感じるのか、この点は、私にはとても理解できません。
他にどのような方法が望まれるのか。侮蔑的とまで言うからには、侮蔑的に感じないあなたなりの方法があるはずでしょう。それを示されてはいかがでしょうか。

>しかし、では、そのような政治的な無関心がどうして起こるのかという点はこの論法では、国民の政治意識の高揚を訴えるほかないという欠陥を孕んでいます。

日本における政治的無関心は、そもそも、それこそ意図的に操作されたものと思います。操作せざるを得なかったとでもいえばいいでしょうか。60年代から70年代にかけて起きた学生運動を鎮圧させるために制定された「大学運営に関する臨時措置法」により、全共闘運動が沈静化され、次第に学生は党派離れをし、やがて政治離れが進むわけです。
ある意味、学生の政治離れは、共産主義対策をキッカケとした国家の思惑といえるでしょう。

ご存知のことかもしれませんが、そもそも、「民」という字は象形文字で、これは、人の目に槍を突いている姿を表しているといいます。
つまり「民」とは、権力者に目つぶしされている状態の人々のことを示している文字なのです。
日光東照宮にもありますね、「見ざる、聞かざる、言わざる」三猿が。それですよ。
権力者にとっては、国民が、政治的関心などないほうが好都合なのです。選挙の投票率にしても低いほうが、結果は都合がいい。

政治的無関心というのが、どうして起こるのか。
それは、そもそも政治とは、国民が無関心であるように「操作」されているところから始まっているものだから、といえるのではないでしょうか。それが権力者の本質的な思惑であり、権力者にとって民とは、そういう存在に他ならないものなのです。
それを打ち破ったのが、近代政治における民主主義というシステムなのでしょう。

しかるべき政治家を信じて、全てお任せしたいというのが、本来の日本人気質かもしれません。
長く続いた江戸幕府の体制が、まさにそれで安定していたのですから。封建体制ではあったけれでも、決して悪政ではなかった。その観念や風習は、どことなく今の日本人の気質に残ってしまっているものなのでしょう。
しかし、敗戦によって、国家体制が民主化されてしまった以上、どうしたって後戻りは出来ないわけです。
それに代わる方法がみつかれば、話は別ですけれど。今のところ、みつからないでしょう。
だったら、民主主義の法則に習い、衆愚政治に陥らないよう、また政治から目潰しされないよう、個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。

216匿名:2005/12/07(水) 00:36:44
>あと、議論は及んでいませんが、日本に侵略された側の人々は、侵略者の神王と国家を崇めさせられたのです。
また、政治的には日本の奴隷とされたのです。この人たちの責任は、彼らの投票とは関係ありません。
以上の点で、あなたの投票=国民の責任という議論は不完全であるとわたしは考えます。

どのような経緯で、日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?

217匿名:2005/12/07(水) 00:40:21
>213
>政治家が坊さんじゃなくて良かったよね。自分を支持しなきゃ、手も合わせないってわけ?

衆議院議員のことを代議士というでしょ。つまり国民の代表であり、国民の代弁者なんですよ。
代弁者なんですから、国民の支持なくして、どうして国民の代表になれますか。
そこが、お坊さんとは全く違うわけで、一緒くたに考えられないところです。

>でも、総理大臣て、そんな自分と自党のためだけの存在かい?

自分のため?自分のためだったら、小泉さんは、靖国に参拝していないんじゃないのでしょうか。
元々はしていなかったんですから。そこは、己を捨てて、公約を守っているんじゃないでしょうか。
ただ、あなたの個人の意向には反している。そういうことですね。

218犀角独歩:2005/12/07(水) 00:56:27

>> …国民総意
> 権利には義務も伴います

これは話が違うでしょう。総意と義務とは共に論じても始まりません。
また、人権とも違います。
わたしが言っているのは、総意と言っても投票と多数決による数で勝ったことを総意としているのに過ぎない大雑把さがあるということです。
何で、こんな簡単なことが伝わらないのか不思議です。

> 侮蔑的?なぜ、そう思うのでしょう。
> 議会制民主主義をどうして侮蔑に感じる

これまた、わたしはこんなことは言っていませんが。
あなたとの議論ではしょっちゅう感じるのですが、文章をちゃんと読んでいらっしゃいますか。わたしが侮蔑的で好ましくないと言ったのは「衆愚」という成句についてです。

> …政治的な無関心

アメリカの占領政策であるという分析もあります。

> 国民が無関心…近代政治における民主主義

打ち破ったんですか。
では、なぜ、民主主義の日本で皆が政治に無関心なのですか。

> 個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。

どうやってですか。

> 日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?

どのように併合されたのですか。
また、中国はどうでしょうか。

219匿名:2005/12/07(水) 01:18:42
>218
>わたしが言っているのは、総意と言っても投票と多数決による数で勝ったことを総意としているのに過ぎない大雑把さがあるということです。
何で、こんな簡単なことが伝わらないのか不思議です。

では、国民の総意というものを、投票以外の方法で、どうやって計りますか。
その方法は、別にありますか。

>侮蔑的で好ましくないと言ったのは「衆愚」という成句についてです。

つまり、あなたの考えでは、民主政治は衆愚政治を免れないものと考えるということでしょうか。
要するに、短絡的かもしれませんが、あなたの中では、民主政治=衆愚政治という図式になっているということでしょうか。

>アメリカの占領政策であるという分析もあります。

では、その根拠は?

>では、なぜ、民主主義の日本で皆が政治に無関心なのですか。

先に書いたように、政治の思惑で教育の場から、具体的には「大学運営に関する臨時措置法」により、学生に政治的関心を持たせないように仕向けたということです。
本当は国民は政治に関心はあったのです。戦前からして、もともと特権階級にしかなかった選挙権を得た一般国民はこぞって投票に行きました。今だってその名残から、年配者の方は、選挙権の有り難さを心得てか、若年層より投票率は高いはずです。

>> 個々に政治意識を高めていくしかないのではないでしょうか。
>どうやってですか

そんなことまで、私が書くのですか。
当たり前のことですが、新聞、テレビ、インターネットなどからの、報道による基本的な情報に、日々、関心を向けることから始めることでしょう。あとはできるならば、自分の生活に関連した業界における政治的活動に、何らかの形で関わるということでしょうね。

>>日韓が併合されたのか、これはご存知ですか?
>どのように併合されたのですか。
また、中国はどうでしょうか。

先にあなたの認識を聞いているのです。
もし私と違っているならば、投稿いたします。

220犀角独歩:2005/12/07(水) 01:42:51

それに反論されると、何でそこまで向きになって怒りまくらなければいけないのでしょうか。

> 国民の総意というものを、投票以外の方法で、どうやって計りますか。
> その方法は、別にありますか。

論点がすり替わっているでしょう。方法がなければ計れないと言うことでしょう。無謬的にとらえるのではなく、本来持っている欠陥は考慮しながら運用する必要を言っていることがわかりませんか。

> あなたの中では、民主政治=衆愚政治という図式になっているということでしょうか。

あなたは、わたしの文章をちゃんと読んでいますか。
悪く悪く、低く低く解釈し、自分が批判されたという怒りをぶちまけているのに過ぎないのではないでしょうか。

このような感情的な状態では、何を書いても誤読され、改竄され、悪し様にされるだけでしょう。相手が批判しなければ満足で、異論を唱えられると烈火のように揚げ足取りのオンパレード、怒るなと言ったのはあなたのほうではないのですか。
まったく、不愉快の極みです。あなたとの議論はお断りします。

222犀角独歩:2005/12/07(水) 03:18:37

> 214 01さん

ローレンツ『攻撃 ― 悪の自然誌』(みすず書房)はいまから30年前に発刊された名著でした。訳者の言を借りれば

「ローレンツは同種個体――種(アルトゲノツセ)を同じくする仲間(Artgenosse)――どうしの闘い、すなわち攻撃性(アグレツシヨン/Aggession)について、彼が歩んだと同じ道を辿りながら、読者に語る」(P384)

というのが、この書の内容でしょう。
動物学者である著者はしかし、人間の戦争を動物に見られるそれから分析したところにこの書のユニークさと価値があるとわたしは思います。

動物の同種どうしの攻撃性は、その種の発展と維持に役立っている。ところが人間の場合はそうはならない点を分析するこの書の切れ味は鋭いと思います。
動物には本来、同種を殺せる能力のある種とない種があると言います。前者はたとえばオオカミは一咬みで同種のオオカミを殺すことができる。このような種の場合、攻撃性はセーブされ、どのような闘争になっても、実際に相手を殺すに至らない抑制が種全体の特徴となっている。実際のところ、喧嘩するたびにかみ殺し合っていれば滅んでしまうわけだから、このような抑制が発達したと言うことでしょう。一方、ウサギなどは同種の仲間を殺す能力は持っていない。このような点では、上述のような発達は起こらないとまず観察結果を報告します。では、人間という種は、どちらかというと、後者に属するといいます。つまり、人間という種は、オオカミのようには、同種攻撃の抑制が発達しなかった種であるといいます。ところが人間は武器をもつにいたったわけです。いわば、オオカミの牙をもつことになった。オオカミであれば、その牙で同種をかみ殺さない発達を遂げているが人間はその発達がない。その発達のないところで、武器を手にした人類は無制限の同種殺戮を開始することになった。
これが第一段階である。

それでも同種殺戮は、手斧といった武器であった限りは、殺す相手の苦痛の死は、同種死に過敏反応を示す生物共通の心的特徴から抑制にはなっていた。ところが近代の兵器の発達は、その抑制すら取り除いてしまったと指摘します。

「近代の遠隔操作兵器…使う際、わたしたちは抑制を解発し、同情をかき立てるいっさいの刺激状態から全く切り離されてしまっている。私たちの情緒的深層は、この人差指の発射の合図が他人のはらわたを引き裂くのだということに、全く気付きはしないのだ。もし野獣を歯や指の爪で殺さなければならないとしたら、人はウサギ狩りにだって行かなくなるだろう。
 わたしたちの武器が届く距離が増せば増すほど、私たちの行為がもたらすいっさいの結果はますます感情に届かなくなる。こうして、行儀の悪い子に一発見まうことすら、おいそれとできない人にも、ロケット兵器とか爆弾投下装置のボタンを押し、それによって何百人というかわいらしい子供たちを焼き殺すことは、やすやすとできる。善良な、ちゃんとして礼儀正しい一過の父親たちが、じゅうたん爆撃をやってのけた。驚くべき、そして今日ではもう本当にあったとは思えないような事実ではないか」(P332)

頁は前後しますが、ローレンツは以下のように人類を観察します。

「かりにひとりの行動学者が、ある別の惑星、たとえば火星から、人間の社会行動を望遠鏡を使って客観的に調べてみたとしよう。その望遠鏡は、人間をひとりひとりを見分けて個人の行動を追うには倍率が低すぎるけれども、民族の移動とか戦闘のような大きな出来事はちゃんと観察できる。さて、その結果、かれは人間の行動が理性とか、まして、責任感に従っているどころか、人間の集団はネズミのそれとたいへんよく似た構造をもっているのだと、十分な根拠をもって結論するだろう。かれらはネズミ同様、閉じた民族の間では社交的に平和に暮らそうとするが、自分の党派ではない仲間に対しては文字通り悪魔になるのだ。さらに、この火星の観察者が、人口の爆発的増加とか、武器の脅威の増大とか、人類が二、三の政治陣営に分かれていることなども知ったらどうだろう。かれは人類の未来を、ほとんど食料もつきた船の上でいがみ合っているネズミの群の行く末とさして換わらないと判断するだろう。それでもネズミのほうはまだ楽観できる。というのは、ネズミの場合には大量殺戮のあとでも、ともかく種を保つにたるだけの数だけは残っているだろうからだ。水素爆弾を使ったあとの人類については、それは極めて疑わしい」(P328)

以上のようなローレンツの分析は、人類の特性から戦争を考えていくものでした。わたしは以上の記述を読みながら、日本という国家も、ネズミの集団賭さして変わらない暴走をはじめようとしているのではないのかという危惧を抱いたわけです。この本については、また取り上げようと思います。

223犀角独歩:2005/12/07(水) 03:35:15

ただ、わたしはローレンツがいうように無制限に同種殺戮ができないような社会的な構造が、いちおうは法と道徳の名の下に人々に浸透したのが文明社会であろうとも思います。

しかし、これでは戦争ができないわけです。この場合、国民を旧石器時代の石斧をはじめてもった原人のように戻す方法を採らなければならないことになります。この点について、S・ミルグラムは『服従の心理』(河出書房新社)のなかで以下のように、記述しています。

「軍事訓練の全目的は、(略)自我のいっさいの痕跡を除去し、広範囲に及ぶ慣れを通じて、軍の権威を確実に内面化させることである…数週間は基礎訓練に使われる。その表向きの目的は新兵に軍事技術をたたき込むことであるが、その根本的目的は、個人であること、自己であることのいっさいの名残をたたき出すことである」

「彼らは、権威によって変身させられ、自分の行動に対するいっさいの個人的責任感を放棄していた人たちであった」
「権威組織にはいった個人は、自分自身を自分の目的のために行動しているのではなく、他人の要望を実行している代理人と見なすようになる。ひとたび個人が自分の行動をこの観点から考えるようになると、彼の行動および内的機能様式に深い変化が起こる。この変化はきわめてはっきりしているので、個人は、この態度の変化によって、ヒエラルキーに組込まれる前にいた状態とは別の‘状態’におかれたのだと言うことができよう。わたしはこの状態を‘代理状態’(agentic state)と呼ぶことにする。それは、個人が自分自身を他人の要望を遂行する代理人と見なしている状態である。この用語は、‘自主性’、すなわち、個人が自分自身を自分の意志で行動している見なしている状態と対比して用いられるよう」
「正常な人間は、成長の過程で、攻撃衝動の表現をチェックすることを学習する。しかし、文化は、権威から発する行動に対する内的抑制を教えこむことにほぼ全面的に失敗している。そのため、権威に発する行動は、人類の生存にとってはるかに大きな危険となっている」

以上のような分析は、しかし、軍隊という特殊環境のなかのみではなく、国家が劇的な方向転換をするような場面では、常に悪用されるのでしょう。

このような内的要因の操作について、もう少し記していこうと思います。

224犀角独歩:2005/12/07(水) 03:55:02

日韓併合について、わたしは多少の朝鮮半島の友人を有しますので、日本で語られる歴史と同調しようとは思いません。

使い捨てカメラを「バカ○○○カメラ」とつい最近まで言っていた日本人が、朝鮮半島を、どう見ていたのか。わたしが子供のころ「○○○ころ」という民族軽蔑を平然と口にする日本人は多くいました。また、朝鮮人居住区を「朝鮮部落」などと言って蔑称することは近年まで続いていました。

わたしはこのような差別を通じて、政治関連族が語る日韓と、朝鮮半島の人々が語るそれとの大きな隔たりを、朝鮮半島の友人と共に語り合ってきた自分史があります。故に、このデリケートな問題について、日本人であるわたしは、敢えて軽々に触れないことといたします。

225パンナコッタ:2005/12/07(水) 11:45:47
横レス失礼します。これまた蛇足なのですが、
 http://www.pit-japan.com/ws30/sabetsu.html

自分にも半島系の二世・三世、帰化された知人がおりますので、事実的な根拠はともかく
相手を不愉快にさせるこのような言い回しは、しないようにしています。 

当て字の”馬鹿”はサンスクリットの『愚か』というのが興味深いですね。

227匿名:2005/12/08(木) 02:05:12
日韓併合について

1905(明治38)年に交わされた、「桂・タフト協定」というのがあります。
これは、日露戦争の講和直前に桂太郎首相と、フィリピン訪問途中に来日したアメリカ特使ウィリアム・タフト陸軍長官との間に交された秘密覚書のことで、その内容こそが、日韓併合です。
この当時、日米英の関係はよく、アメリカがフィリピンを占領し支配することを認める交換条件として、日本が朝鮮を支配することをアメリカが認めるというものを、相互に承認するという内容の密約です。
要するにアメリカは朝鮮半島を支配したかったとはいえ、まずフィリピン占領が先決であり、とても朝鮮半島までは手が回らなかった。
そこで、関係の良好な日本に支配させておこうとした密約が、桂・タフト協定です。

その後朝鮮では、李完用が駐米朝鮮公使館に書記官として派遣され、この密約を知ります。
もともと、親露派だった李完用ですが、密約の中味を知って親日派に転向し、1910年には、朝鮮王国の最後の総理大臣として日韓併合を推進して条約に調印します。このため朝鮮で李完用は、民族を売った民族反逆者とされているといいます。

朝鮮は、日韓併合の前にアメリカと国交を交わしていますが、実は、李完用の前に朝鮮皇帝の政治顧問としての大使を務めていた人がいたのです。ところが、たまたまこの時期に母親が亡くなり、朝鮮の儒教のしきたりに習って、三年の喪に服さなければならず、交渉の場に赴けなかったといいます。この時、その他の官職もみな一時辞職しています。
国の存亡に関わる一大事のときでも、儒教のしきたりを重んじなければならないところは、とても想像の域を越えているところなのですが、しかし、それが朝鮮半島の誇りというものなのかもしれません。

長い歴史の中、朝鮮半島が独立国となったのは、私の認識では戦後のことだと思われます。それまでは、ほとんど中国の属国であったといえるでしょう。「朝鮮」という国名そのものが、中国の皇帝から賜ったものだと聞くくらいですから。ちなみに、「朝鮮」の意味とは「朝ぼらけの清々しい国」とのこと。中国の皇帝からもらった国名を、とても大事に思っていると聞きます。

そもそも日本とは大変縁の深い間です。しかし国の事情はまるで違います。
恐らく、最も近い国でありながら、半島と島国という地形的違が、それぞれの国の歴史事情を大きく左右したものだろうと考えられます。

中国についていは、書き出すととても長くなるので、またの機会をみて別投稿したいと思いますが、とにかく長年、中国の属国だった朝鮮半島ですが、親のような存在であった中国が欧米列強の侵略にあい不安定になってしまっていた。その状況の中での日韓併合を、認め決定させたのは、他でもない強国アメリカだったということです。このことは、朝鮮半島の大半の学識者は理解していることでもあります。
ただ、日本は植民地政策というものに不慣れで、朝鮮半島を直接統治をしてしまったことが、きな不幸を招いたものといえるでしょう。

228匿名:2005/12/08(木) 02:05:32
私は、朝鮮半島との交流を考えるとき、一番に思うのは、「朝鮮通信使」です。

天下を統一を果たした豊臣秀吉は、貿易の利益を求めるために朝鮮に対して日本との国交を再開するよう働きかけたといいます。そして朝鮮通信使が持ってきた国書には、秀吉の天下統一を祝い、これからますます国交を深めていきたいと言う意味として
「速やかに信を講じ睦を修めて、もって隣交をあつくせん」
と書かれていたといいます。ところが秀吉はこれを朝鮮国王から服従するように求められていると錯覚し、その翌年の1592年、突然15万人余りの兵を朝鮮半島に送り込んで一方的に戦争を始めたわけです。
相手の心を読めなかった秀吉の残した傷は今でも両国に影を落としています。
しかし、徳川の時代には「朝鮮通信使」との国交回復が努められます。
多くの文化人を連れた朝鮮通信使一行の江戸城までの長い行路は、今の韓流ブームさながら、当時の日本人の多くの人々が、いわゆる「追っかけ」をしたといいます。朝鮮通信使ご一行は、まさに日本人の文化の憧憬的存在だったようです。
ちなみに、「通信」とは、「よしみを交わす」と意味だといいます。
日本の中韓との関係では、あくまで政治的コミットは一線を置き、民間レベルでの文化交流を深めていくほうが、友好関係が保てるように思われます。

230匿名:2005/12/08(木) 02:20:02
>225

ご紹介されたサイトにも、朝鮮通信使のことがとても詳しく書かれていました。
とても勉強になりました。

231匿名:2005/12/08(木) 02:28:01
片瀬江ノ島 さん

護憲のことばかり、力説にして申し訳なく思います。
お読みくださって、本当にありがとうございます。
私は、前向きに改憲の覚悟もできております。
どうか、お体ご自愛なさってください。
ありがとうございました。

232犀角独歩:2005/12/08(木) 10:41:37

匿名さん

ここ関連のやり取りは、わたしの212の

>> 選挙…国民
>> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある
> これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという議論の運なのでしょうか

という問に発しています。
ところが、ここ一連の内容は全く違う方向になっています。
また、「衆愚」という語が民衆に対して軽蔑を含んでいる印象があるので、そのことわりを入れると、これを、わたしが議会制民主主義を侮蔑したとして批判を加え、それに講義をしたところで、訂正、謝罪の一つもありません。
このような議論の姿勢に問題があるのです。ついには何故か話は日韓併合に及んでいます。

この点について、わたしは224について、議論を避けるとし、また、パンナコッタさんも同様の意見を述べられています。ところが、あなたは227〜228にかけて、やはり記述しています。あなたの文章は日本の近代史を肯定的に捉えるような人々、また、「朝鮮半島の大半の学識者」は指示するでしょうが、少なくとも、わたしの知人である朝鮮半島の人々は納得しません。だからやめたほうがよいと言ったのですが、あなたは、そのような進言を聞こうとしないわけです。

先にわたし戦争をする国家の国民の戦争責任と言うことにつき、原爆で殺された乳飲み子に戦争をしている国の民としての責任はない、そのような無念の死に鞭打つような議論はやめるよう再考を促したことを無視し、さらに今度は朝鮮半島の民衆の心情を傷つけるような議論をわたしは述べないとこの議論の打ち切りを告げたのにも関わらず、しかし、記しました。

わたしが「政治関連族」と記したのは、あなたのことではない。まさに政治で飯を食っている人々を指していったのです。それを自分に向けたものであるなら、取り消せと息巻きながら、しかし、あなたがわたしに向けた言葉は

> 政治といえば、それだけで穿った目でタブー視する。そうした偏見

などと侮蔑して憚りません。
何度も記しているとおり、ここは、仏教の掲示板です。
もっと言えば富士門流信徒の掲示板です。

議論が無理なのは、あなたのように、こちらが再考してはどうかと話しかけると、それに答えないばかりか感情的になり、揚げ足取りをするような態度、また、民族問題につき記述は避けると言った内容を、その該当する人々の心情を度外視して、平然と書き連ねる態度を言うのです。これでは、議論にならない。何ら得るものがありません。もう一度、申し上げますが、あなたとわたしは議論をすることを快しとしません。

233犀角独歩:2005/12/08(木) 10:42:11

管理人さん

229の書き込みは、当人も十分に認識しているとおり、削除対象になるわたしへの侮蔑を含んでいます。また、先の削除の対象となった「平和ボケ戦士もどき」という侮辱を繰り返し記述をすることを目的としたうえで、さらに「うさんくさい武勇伝」と侮辱しております。

削除を希望します。

234犀角独歩:2005/12/08(木) 10:43:04

【232の訂正】

誤)講義をしたところで
正)抗議をしたところで

235管理者:2005/12/08(木) 11:05:43

片瀬江ノ島さん

229レス削除します。合わせて、削除対象になることをご存知の上で、敢えて書き込みをされたと判断出来ますので、今後の投稿をお断りいたします。

236犀角独歩:2005/12/08(木) 11:36:13

管理者さん、有り難うございました。

237匿名:2005/12/10(土) 00:33:59
>229

まだ、ロムされておられることを祈り、投稿させていただきます。

私への呼びかけの為に、ご自身の痛ましい戦争体験を綴ってくださいました。
削除されることを承知で投稿してくださった内容は、削除されても、私の心には深く刻まれております。
戦争というのは、こういうことなのかと、正直言葉を失い、何をどう表現していいものやら、短いご返信しかできませんでした。
しかし、戦火に遭いながら、何はともあれよくぞ生きてこられた。
そして逆境をバネに、「逞しく」今日まで乗り切ってこられたこと深く拝察いたします。
そのように生きてこられたあなたが、今、前向きに日本の将来のことを考えておられること、私は心より敬意を表します。

私のような直接戦争を体験していない者が綴る、いかにも「戦争」をわかっているかのような投稿など、薄っぺらいものであったろうと恥ずかしい思いさえいたしました。
しかしそんな私の拙い投稿を、戦争を体験された方が最後まで読み続けてくださった。それだけで、精一杯の思いで投稿した私の気持ちは完全に報われ、感謝の気持ちでいっぱいです。

貴重な戦争体験の内容が削除されたことは、とても残念に思いますが、しかしこれは、管理者の判断ですから仕方ありません。
しかし、私の心にはしっかり残っております。
あらためて、本当に、ありがとうございました。

241匿名:2005/12/10(土) 01:13:32
>242

あなたは、私に何を応じろと言っているのでしょう。
過去の投稿の番号ではなく、具体的に記してもらわないとわかりません。

242匿名:2005/12/10(土) 01:18:05
私の投稿を「恨み言」などと表すのは、大変失礼なことてですね。
議論が成り立たないのも、これは合意点ですから、当然のこと、おつき合いは求めておりません。
ただ、私が何かに応じないことを問題にされているというのであれば、それが何のことなのか、お尋ねしておきます。

243犀角独歩:2005/12/10(土) 01:31:49

以下の記述についてです。

>> 選挙…国民
>> 最大の戦争被害者である国民…戦争責任者でもある

> これはつまり、選挙によって選択をしたのだから、戦争は責任は国民にあるという
> 議論の運びなのでしょうか。

> わたしはこの考えは再考されるべきだ思います。
> なぜならば国民には、いま生まれたばかりの赤ん坊から、心的障害を持つ人まで含
> まれているからです。そのなかで、投票権を持っている人は常に限られています。
> それが国民総意であるとしてしまう丼勘定が、投票というシステムにはあるからで
> す。まして、先の大戦は非戦闘員、婦女子まで無差別に殺戮したものでした。その
> 極が原爆投下でした。先にも紹介しましたが、その原爆の開発・投下・写真撮影ま
> でしたアグニューと、あなたは意識してかしないでか同じことは言っています。こ
> の男は60年後の原爆の被災地広島に立ってまで「罪もない一般市民はいない」と言
> いました。この男の一流の論理から言えば、原爆投下によって、宗教的な意味合い
> としては捌きを与えた、政治的には国民に責任をとらせたのでしょう。異教の黄色
> 人種への裁き、そして、政治的には原爆投下に値する責任が非戦闘員である乳飲み
> 子から寝たきりの老人に至る一切が背負った‘責任’であるという政治的感覚から、
> 己とアメリカのあの人類史最高の極悪を肯定しています。

尚、この点に、いまさら応じていただく必要はありません。
削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて、わたしへの軽蔑を奨励するあなたと語るべきことは何一つありませんので。誤解なきように言っておきますが、応じていただく必要はありません。そのよう運びになっている文章に抗議したまでのことです。しかし、それも今は昔です。応じていただく必要はありません。あなたと議論をするつもりはありません。

244匿名:2005/12/10(土) 01:37:59
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

私の記述のどの文言を指しているのでしょう。
ご指摘ください

245匿名:2005/12/10(土) 01:39:32
>240において、私の投稿に対して「恨み言」と発言されました。
これは、私としては大変心外です。

犀角独歩さんには、前言の撤回を求めます。
もし撤回していただけないのであれば、以下のルールに即して

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。

管理者さんに犀角独歩さんへの投稿内容への尊重を促す注意、もしくは投稿の削除を求めます。

246匿名:2005/12/10(土) 01:49:37
>243
>削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

>237のことですね。

よく読んでください。削除されるのは、仕方ないと書いてはずです。
しかし、その他の内容は、戦争の体験談であり、あなたのこととは関係ないでしょう。
その記述は、真に迫るものがあったと私は感じたのです。ましてや、私への忠告のために向けてくださった投稿です。
削除されたとはいえ、それに応じて何が悪いというのでしょう。
とにかく、もう応答ややめます。
私もそのつもりでいたのですから。
とにかく>240「恨み言」というのは、掲示板のルールに即して、撤回して頂きたいと思います。

247管理者:2005/12/10(土) 06:55:53

犀角独歩さん

>240レスの、「恨み言」と言う表現は匿名さんが指摘されるように、掲示板ルールに抵触していますので、削除いたします。

248犀角独歩:2005/12/10(土) 08:42:39

管理者さん

既に、削除されたことなので、致し方ありませんが、当方の弁明も聞かずの削除は一方的ではないでしょうか。

わたしは、匿名さんの

> 発言の自由はあるとはいえ、そもそも、あれは書くな、これは書くべきでないなど、あなたがいちいち検閲のようなことをすべき立場にでもいるのでしょうか。あまりにそれが繰り返されるので、とても不可解です

という文章を指して、「恨み言」と記しました。なんとなれば、わたしは検閲など全くしていないのであり、また、そのような立場としても振る舞っていません。わたしの文章の誤読から生じたこちらから申し出を無視した挙げ句、以上のような書き込みは、まさに「恨み言」以上の意味を持ちません。ですから、記したわけです。

「恨み言」という言葉が、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」にどのように該当するのか、説明してください。

242に、わたしに尋ねた点について、わたしは243にその解答を載せています。しかし、それに、またもや、答えないばかりか、「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」などといういわれる筋合いはありません。

249犀角独歩:2005/12/10(土) 08:49:33

追加します。

わたしが投げかけた疑問に答えず、わたしの質問を一方的に「検閲」と決め付けることは、この掲示板の趣旨に反しないのでしょうか。

質問に対して、答えないばかりを、それを「検閲」だとされるのは、わたしのほうこそ、心外です。

よって、238の削除を求めます。

250犀角独歩:2005/12/10(土) 09:01:37

> 削除対照になる無礼な文章を敢えて讃じて

この点について、記します。

当掲示板では、文中に投稿ルールに違反する文言がある場合、投稿全文が削除されます。つまり、その段階で、削除された文章はそれ以後のロムの方々は見られないことになります。ですから、「削除対照になる無礼な文章」とは、削除文書全体を指して記すほかありません。

つまり、意味するところは、削除対照になった1投稿を肯定的に捉えてほどの意味になります。そして、その削除投稿が著しく、わたしの名誉を傷つけたものであれば、その傷つけた投稿を賞賛することは、わたしへの侮辱をも、含めて賞賛していると採らざるを得ない。なぜならば、その文章は既に削除対照文章ということで存在していないからです。

削除文章を取り上げるということは、以上のように連鎖的に、わたしへの侮辱を再燃、肯定される‘効果’を持ちます。故にわたしは「抗議」と記したわけです。

251管理者:2005/12/10(土) 09:26:58

犀角独歩さん

匿名さんの書き込みを「恨み言」と断定することは、相手に対する侮辱に当たると判断しました。たとえ、相手のレスが「恨み言」と取れる内容であっても、それを明からさまに書き込み事は、侮辱以外の何物でもないと思います。

匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていましたが、管理者はそれ以前の問題だと判断しました。

当掲示板では、当掲示板の趣旨、原則から見て、相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています。相手の論理の非を攻めるのは何ら問題ではありませんが、既に議論がかみ合わないことが明らかになった段階では、非難の応酬になってしまいますので、双方とも自粛して戴きたく存じます。

252犀角独歩:2005/12/10(土) 09:29:15

以下の点も補足しておきます。

当スレのわたしの投稿は、匿名さん個人に向けて記しているものではありません。しかし、書くごとにすべての言葉が自分に向けられたようにレスされることは、実に迷惑です。また、そのような誤解に抗議しても、それを無視して論を進める在り方にはわたしは納得ができない。さらに勝手に自分に向けられた言葉であるとして、さらに侮蔑的言辞を吐くことにも納得はできません。

近日で、何をさしているかといえば、わたしが日韓併合を美化して語る政治に係る人々を「政治関連族」と記すと、それを自分に向けられた言葉であると即断し、「政治といえば、それだけで穿った目でタブー視する。そうした偏見」などと、わたしを偏見者扱いをしています。これだけでも十分に言葉の暴力であり、侮蔑表現です。この点について、わたしは抗議もしました。しかし、この点について、何ら謝罪もなく、謝罪もない点をまた抗議しています。

そもそも、わたしが匿名さんなる人物が、どのような信仰背景にあるのか、また、どのような職業にあるのか、もっと言えば、男なのか女なのかすらしりません。その職業も何も知らないわけですから、「政治関連族」という表現が本人を指したといわれるなど、思いもよらないことでした。また「〜族」という表現に問題があるという指摘と考えられなくもありませんが、しかし、たとえば「遺族」という語句はあります。反面、「暴走族」という語句もあります。つまり、「族」自体に何ら悪意、侮蔑の意は孕んでおらず、わたし自身その意図でも使用していません。また、わたしは、仏教という視点から、政治にもちろん、強い関心を抱いています。在り方に不満・疑問は持っていますが、偏見は持っていません。それにも関わらず、偏見者扱いされることはまことに心外です。それでも、敢えて削除依頼はしませんでした。しかしながら、昨晩の経緯がある以上、わたしはわたしで、自分の名誉を守らなければなりません。

よって、226の投稿も削除を求めることといたします。

253犀角独歩:2005/12/10(土) 09:38:15

管理者さん

> 相手の発言が不適切な場合には、お答えにならないようにお願い申し上げています

なるほど。このような「お願い」は確かにあったと記憶します。

「恨み言」という表現を、わたしは侮蔑表現であるとわたしは考えません。
しかし、以上のルールの提示は管理者さんからあった点は思い出しました。
これに従うことといたします。また、非難の応酬になっている点も否めません。
以上のご指摘に従い自粛をいたします。
今後、このような応酬にならないよう勉めます。

しかし、わたしは検閲、偏見者呼ばわりをされることを、自分に対する侮辱であるととらえます。よって、繰り返しになりますが、226、238の削除は重ねてお願い申し上げることといたします。

254管理者:2005/12/10(土) 09:58:51

犀角独歩さん

226、238の削除のご依頼の件、本日は家業が極めて多忙で、精査している時間が有りません。申し訳ありませんが、今晩まで判断をご猶予ください。本日中には必ず判断いたします。

255犀角独歩:2005/12/10(土) 10:25:11

254 管理者さん

了解しました。
ご多忙のところ、お手数をおかけいたします。

256犀角独歩:2005/12/10(土) 11:46:32

本日中のご判断ということですので、もう1点、追加します。
239の

> 参加者の投稿内容を仕切るが如き発言を続けることは、私からみれば、掲示板における「越権行為」

わたしは発言を仕切っておりませんし、何ら越権行為をいたしておりません。
このような断定は名誉を傷つけます。
そもそも発言の根拠を求めたり、再考を促すことは何ら越権行為に当たりません。
自分の考えと違うことを述べられることを「仕切る」などと表現される筋合いもありません。

226、238に併せて、239の削除も依頼します。

257犀角独歩:2005/12/10(土) 12:04:23

管理者さん、もう一点のみ。

> 匿名さんは、犀角独歩さんに撤回を求めていました

しかし、これに応じるのには、時間がありません。
匿名さんの要求はから、削除までは5時間16分、それも深夜から早朝にかけてのことです。この短時間、深夜に応じることはできません。

2005/12/10(土) 01:39:32
2005/12/10(土) 06:55:53


※ いずれにしても、ここ一連のやり取りは、原爆投下で虐殺された投票権もない子どもたちに、何の責任もないということを強調するためです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1131915713/212

仏教徒として「戦争を考える」うえで、この点は、絶対に外せません。
原爆、無差別爆撃で殺された幼い命、なかにはいまだ母の胎内にあった子もいたでしょう。それらに戦争をしている国の民であるから、戦争責任があるなどという考えは、断じて再考されなければならず、仏教として、断じて認めることはできない。この点に議論の焦点があったことを、ロムの方々は見失わないでいただきたいと思います。

258匿名:2005/12/10(土) 12:12:12
管理者さん

>226、238、239

できれば、削除しないでいただきたい。その理由は後ほど記します。

もし、どうしても削除するというのであれば、投稿者である私が納得する明確なる根拠をご提示ください。

「恨み言」についても、管理者さんが注意や警告によって、相手が理解を示してくだされば、そのまま残しておいてもよかったと思っておりました。(今回の場合は、理解はされなかったようですが)

投稿をやたらと削除するというのも、これも自由発言の侵害にあたるものだと考えます。
また、そうしたことが濫用されていけば、自分にとてって不都合な意見を排除させる手段に用いられる危険性も孕みます。
そういうひとつひとつが、ある意味での言論統制につながるものではないでしょうか。

管理者さんには、お手を煩わせますが、言葉の言い回しによってはルール違反の判断が難しい場合もあります。
明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

259犀角独歩:2005/12/10(土) 12:40:27

既に、注意、警告を経ず、管理者さんの判断で即刻削除は、幾度となく、実施されています。
匿名さんに限り特別扱いはフェアではありません。

260犀角独歩:2005/12/10(土) 12:44:15

また、私自身、今回弁明の機会もありませんでした。
それにもかかわらず、理由を述べるから削除をしないでほしいというのも、フェアではありません。

261匿名:2005/12/10(土) 13:00:15
国民の政治責任については、憲法の前文冒頭に、しっかり示しています。

「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する。そもそも国政は,国民の厳粛な信託によるものであつて,その権威は国民に由来し,その権力は国民の代表者がこれを行使し,その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり,この憲法は,かかる原理に基くものである。われらは,これに反する一切の憲法,法令及び詔勅を排除する。 」
(続きは、こちらで)
http://www.houko.com/00/01/S21/000.HTM#s0 

投票権のない子どもたちには責任はありません。当然です。だけど、その子の親には一分の責任があります。政治家の責任に比べればその比ではありませんが、しかし、戦争を支持した一分の責任は国民にもあるのです。

国民といったときには、もちろん子どもも含みます。しかし、国民主権といったときの政治的主権は、投票権を持った人々を指します。その人たちには、選挙権のない人の分まで含めた政治的責任があるということです。

戦前の場合は、普通選挙法が制定されたとはいえ、治安維持法により投票行動はかなり統制されているものでした。
そのような中、日本人は戦争に邁進していった。また、そうせざるを得なかった世界情勢と日本の実情というのもあります。
そのことをよく認識しておかなければ、戦争回避の具体策は見えてこないでしょう。

また、戦前のように思想統制された政治が悪いというのであれば、尚のこと、今の私たちは政治に関心をもって統制されないようにしっかり監視しておかなければならないはず。私はそのことをずっと書いてきたつもりです。

262管理者:2005/12/10(土) 13:07:42

>明らかなる侮辱言葉とはいえないけれども、抵触することが考えられるような発言が続いているときは、削除以前の、注意や警告という段階も必要ではないかと考えます。

ご提案として承ります。「管理者からのお願い」スレッドにてご参加の皆様に「ルールの改廃提案」として議論して頂こうと思います。少し時間をください。

264犀角独歩:2005/12/10(土) 14:21:32

263について、わたしに関する一方的な評論であるので、このような何かと評論されることは不快です。また、全くわたしの内心と違っており、的外れです。この263もまた、削除してほしいほどです。

もとより、排除する意図などありません。しかし、こちらが仏教的見地から述べると、政治を考えない仏教はだめであるかのようなコメントが戻れば、議論は成り立ちません。
ですから、先の段階で、和解もし、終わりになったはずです。

しかし、わたしが再考を促した部分だけは、到底、承服しかねる。故にその再考を促したわけです。

わたし、子どもに責任はないと言ったのです。
それ以上のことを記しているわけではありません。
戦争で殺された子どもには、何の責任もありません。
また、子どもと親は別の人格であり、別の人権を有します。
親の決定は子どもの人権とはまったく別のものです。
子どもを踏みにじる権利は、親にはありません。国にもありません。
子どもは親の所有物ではありません。国の所有物でもありません。

なんで、このようなことに同意いただけないのか、不思議でなりません。
無残に殺されていった人々を弔う気持ちは、「だから、今憲法を、政治を」という話ではありません。いまから60年前、虐殺された人々、その遺族を思う心の話です。
わたしは、再考を促した段階で当然、投稿を訂正してくれるだろうと思っていました。
まして、批判するのではなく、一歩引いて、再考をと言葉も和らげてのことです。
しかし、事態はまったく違いました。残念なことです。

何もわからず、ただ虐殺された惨状を思うとき、憲法が、親の投票権がというより、なぜ、そのような惨状にリアリティを感じられないのか。人一人の命を考える心が喪われています。
このようなリアリティの喪失を考えるうえで、社会心理学の分析は必要であると思っています。
また、殺された人々を考え、残された人々の心を救ううえで仏教の叡智があると考えます。

政治に還元できない、政治、憲法、法律で割り切れない部分を仏教は語っています。
それを政治、憲法、法律で評論されても、当然、かみ合わないのでしょう。

なお、わたし自身が誰と議論するかは、わたしの自由です。議論をことわることに異議を申し立てることはわたしの自由の侵害です。
このような自由選択は、掲示板ルールに違反するものではありません。

なお、管理人さんに申し上げますが、ルールとは、施行後に有効になるものです。
今回の匿名さんの投稿への削除依頼は、このルール改案以前のことです。ですから、旧来の段階で判断されてしかるべきです。つまり、匿名さんの申し出を考慮して判断を下すことは、アンフェアであるとともに、ルール施行の精神に反することを申し添えておくことといたします。

265犀角独歩:2005/12/10(土) 14:26:55
『第三文明』06.1号に『師恩報謝を誓った日蓮門下の戦い」という東洋哲学研究
所・主任研究員・小林正博氏の文章が載っていました。その全体の内容は…、ま
あ、置くこととしますが、この書き出しは、当スレ、世界の情報ボックスの近日
のやり取りと関連するので、覚書代わりに紹介しておきます。

「鎌倉時代、一般的に師弟というと、僧侶と武家の関係を指していました。殺生
を生業とする武士にとって、「後生、自分は往生できる」は最大の関心事でした
。そのため、武士は定年退職すると、不安感を安心に変えていく存在として、師
を選んで出家し、師から法名をもらって、余生を仏門に投じたのです」(P30)

この小林氏の文章は最後に(談)と記されているので、どうやら、インタビュー
録音を編集が起こした文章であると目されます。ですから、直ちに小林氏の考え
とするのは早計でしょうが、いくつかの疑問点はあります。それはともかくとし
て、ここで「殺生と生業とする武士」という件は、武・仏の関係を示す認識とし
て、この部分ばかりは賛同します。

小林氏は「定年退職…出家…余生を仏門」というのは、少なくとも日蓮門下の実
際とは一致しないと思えます。たとえば四条金吾は寛喜2(1230)の生まれで入信
は、康元元年(1256)、つまり26歳で35歳の日蓮の‘檀那’となっています。また
、富木常忍は正安元年(1299)84歳の寂で、入信は建長5(1253)ですから38歳であ
ったことになります。その他の檀那は調べていませんが、この2人の年齢は「定
年退職後」とは言い難いと思われます。また、これら檀那は、単なる入信である
というより、入道(半僧半俗)であったのではないのかと思われます(例に挙げ
た2人の入道時期は確認していません)
北条時宗などの像をみても、髷はなく剃髪をしていますから、入道であったこと
が窺われます。以上の点から、どうも小林氏のこの点についての記述は不適切で
あると思えます。

しかしながら、武士が殺生を生業として、その殺生の贖罪として、仏教に帰依を
するという心的構造は外れたものではないとわたしは考えます。

このような仕組みは、中国における鎮護仏教の発達、また、インドにおける釈迦
の出家といったこととも通じるものなのだろうと考えられます。

日本の武士、中国の武人、インドのクシャトリアと仏教の関係は、ある面、重要な
テーマです。
これに日本では僧兵というテーマも加わるでしょう。

仏教から「戦争を考える」、原点がここにもあると、わたしは思います。

266犀角独歩:2005/12/10(土) 14:30:17

【264の訂正】

誤)惨状にリアリティを感じられないのか。人一人の命を考える心が喪われています
正)惨状にリアリティを感じられないのか。社会から、人一人の命を考える心が喪われています

267犀角独歩:2005/12/10(土) 14:42:47

管理者さん

やはり、読み直して納得がいきません。

> 「誰もあなたを相手にしない」などという心理的圧力もありました

わたしは、こんなことは一言も言っていないのであって、あたかもこのようなことをわたしがしているという作文は、わたしの名誉を傷つけています。

また、「他の掲示板へ行け」と「ここは仏教の掲示板であるから、政治の議論は政治の掲示板でしてはどうか」は明らかにニュアンスが違います。まったくの悪意に基づく改変と牽強付会です。

よって、この263の投稿も削除も依頼します。

268犀角独歩:2005/12/10(土) 15:40:37

もう一点。いちおう、訂正しておく必要があるでしょう。
昭和22年までの話は日本国憲法ではなく、大日本帝国憲法です。
しかし、この相違を論じる議論をしたいわけではありません。

http://list.room.ne.jp/~lawtext/1889C.html

敗戦前の日本国民の話を、政治的かつ、法律的にするのに、現行憲法を持って語ることができないので、いちおう指摘はしておくということです。

269管理者:2005/12/10(土) 15:55:40

犀角独歩さん
匿名さん
ご参加の皆さん


>なお、管理人さんに申し上げますが、ルールとは、施行後に有効になるものです。

削除依頼に付きましては、仮に、精査に手間取って、新しいルールが決められたあとに持ち越すことがありましても、従来のルールで判断いたします。

新しいルールが出来ましたら、その時点以降の書き込みに対して、新しいルールで判断することになります。

宜しくお願いいたします。

270犀角独歩:2005/12/10(土) 16:07:01

> 269

当然のご判断と拝します。安心しました。

27101:2005/12/10(土) 20:04:53
それにしてもメンドいことになってんね。
おれはでも、匿名さんを排除しようとなんて気はないよ。
わかんなければわらかんねぇ。変だと思えば変。そう書いただけさ。
するとそれが排除しようとしていることになる( ̄ー ̄?).....??アレ??
かったるいなぁ。
ああもいった、こうもいったと書き綴る『恨み節』て歌があったね。
おっと、歌、歌の話ですヨ。
さて、独歩さん、攻撃の抜書き、ありがとさんでした。
やっぱ、第十三章以降に赤丸チェックてわけですね。
何版使ってんですか。おれが持っているのと違うんだけど。
それと、被爆者に戦争責任があるかって? ないない、そんなもん、あるわけないよ。
投票したから責任がある。ないない。
戦争責任があるのは、ズバリ、天皇!
無条件降伏を決めたとき、本人も2500年の血統がここに終わり、自分が死刑にされると覚悟したんと違うだろか。
けど、臣民の総意は違った。アメリカもそうは言わなかった。
それで軍法会議かね。A級戦犯がわるいってことになったわけだね。
戸田先生は言いました。核兵器を使うやつは悪魔だ。死刑だ。正しいね。
当分、ローレンツ、ミルグラムといった話はお預けだね。
小林さんの文章、おれも読んだ。定年退職ていうのかね。ホンマ?隠居てぐらいいえばいいのだ。
とうぶん、おれも投稿やめ。独歩さん、質問はまたメールでします。よろぴく。

272犀角独歩:2005/12/11(日) 07:57:09

01さん

詳しくはメールで、ということで。
けれど、『攻撃』(みすず書房)については、抜き書きを投稿したので、他の方の便宜も考え、提示しておきます。

攻撃―悪の自然誌(1)
1970年1月30日 第1刷発行
1970年7月20日 第2刷発行

攻撃―悪の自然誌(2)
1970年5月15日 第1刷発行
1970年11月20日 第4サツ発行

Konrad Lorenz
Das sogenannte Bose―zur Naturgeschchte der Aggression
日高敏隆・久保和彦訳

273匿名:2005/12/11(日) 12:11:53
>> 「誰もあなたを相手にしない」などという心理的圧力もありました

>176
>以上なことから176に記されるような点は、まあ、言いたくありませんが、わかり切った話であると、皆さん、お考えなのではないでしょうか。ですから、議論に参加されないのでしょう。

2「非礼・無礼、人権侵害、言葉の暴力」等の侮辱表現、侮辱発言は、理由の如何を問わず堅く禁止します。

に抵触する文面です。

この掲示板の主旨からいって、参加者の投稿は主旨に反しない限り、最低限の尊重を心がける発言をするべきであろうと思います。

274犀角独歩:2005/12/11(日) 12:25:04

273に異議を申し立てます。

引文されているわたしの文章からも明らかなように「誰もあなたを相手にしない」と作文される内容とは異なっています。
これはそれまでの議論に対して、注意を促したものであり、非礼、無礼、人権侵害、言葉の暴力に該当する意図は、もちろん、ありません。
最低限の尊重を心がけてのものです。
それにも拘わらず、「誰もあなたを相手にしない」などと作文して、わたしの名誉を傷つけることから、削除を依頼したものです。

275匿名:2005/12/11(日) 13:56:39
最低限の尊重を心がけているであるなら、いきなりの削除要求ではなく、訂正、撤回など、手順を踏まれるものではないかと思います。

276匿名:2005/12/12(月) 01:30:09
戦前の日本は、明治憲法のもと、帝国議会に基づく政治システムでした。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokugikai.htm

貴族院と衆議院の二院制議会です。
貴族院は、いわゆる公家太政官要職・参議の流れの議会です。公選制ではなく、皇族や華族と、国に功績のあった人その他の中から天皇が任命する勅撰議員で構成されています。この貴族院が戦後は勅撰は廃止され、解散のない公選制の参議院になります。
一方の衆議院は、公選議員で組織されています。公選制とはいえ選挙権・被選挙権にきわめてきびしい制限がありました。普通選挙法施行以前に選挙権があったのは、名主や庄屋を中心としたいわゆる高額納税者です。戦前に身分制度が残っていたことは前に記したとおりですが、そうしたいわゆる特権階級と高額納税者にだけ選挙権がありました。
http://www.pref.ibaraki.jp/senkan/shikumi/sikumi_7.htm

戦争責任という意味では、選挙権を有していた階層の責任は存在するものでしょう。
しかし、選挙権のない国民も、富国強兵政策を強く支持していたのです。それは戦前の新聞の論調をみればよくわかります。
なにせ、浜口雄幸という首相などは、ロンドン軍縮条約に調印したということで、国民からの反感を受け、やがて暗殺されてしまったくらいですから。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/hamaguti.htm

日露戦争に志願して出兵するなどは、国民として大変名誉なものだったわけです。それが国民世論だった時代です。
国家の操作というものもなかったわけではないでしょう。
しかし、もともと日本は幕府という軍事政権が680年も続いてきた国家ですから、基本的には好戦的な民族であるといえるのです。それは今の平和な日本人の感覚とは全然違うものといえるでしょう。ですから、今の私たち戦後世代の感覚で、戦前の日本人のことは、とても推し量れるものではありませんし、まるで想像を越えているものです。
しかし、同じ日本民族であることには変わりはない。とすると、もしかすると潜在的には今も好戦的な民族性が残っていて、たまたま敗戦と現行憲法によって封じ込めてもらっている。そんなところではないかと、私などは思うところなのです。

277匿名:2005/12/12(月) 01:32:36
大東亜戦争の最大の責任者は天皇であろうということ、私もそうなるだろうと思います。
昭和天皇には、そのお覚悟も十分おありだった。一身に戦争責任を負われるお覚悟で、マッカーサーに対面されているわけです。直立不動のモーニング姿でマッカーサーと写真に映るあのお姿に、その心情があらわれてるものと思います。自分の身はどうなってもいいから、国民だけはなんとか助けてほしい、そんなことを語られたことは有名です。
他国大半の国主は、このような敗戦後にはたいてい国民を見捨てて亡命を画策したり、命乞いをしたりするのが常です。しかし、日本の天皇は違っていた。もともと受け継がれてきた帝王学が全く違うのでしょう。
玉音放送の終戦詔書、ポツダム宣言受諾については、

「其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」

通告せしめたりとは、つまり、「受諾してやった」もっと言い換えれば「負けてやった」という意味合いになるものです。
日本の誇りのために、多くの犠牲を払った日本ですが、まさにこれこそが最後に放った誇りの言葉といえるものでしょう。

その最大の責任者である天皇をを生かすも殺すも、これは勝戦国アメリカの手中というもの。そして、生かすことと判断した。
アメリカはある意味、日本人以上に、日本民族のことをよく研究し尽くしていたと思います。その結果が、天皇制の温存と、そして現行の日本国憲法なのだろうと思います。
この点は、私はアメリカという国を評価するところなのです。
ちなみに男女平等などは、アメリカの憲法といえども規定されていませんから、日本の憲法のほうが基本的人権は進んでいるといえるわけです。

とにかく、最大の戦争責任者は、天皇であった。しかし最大ということであって、戦争責任の全てが天皇にあるいうわけではありません。
軍部、政治家、マスコミ、財界…、たどっていけば、やがて国民にも到るものなのです。
そして、戦前以上に民主化された現代の日本における政治的責任は、選挙権を持つ大半の国民の意思に大きく存するものであるということでしょう。

278藤川一郎:2005/12/12(月) 12:15:08
>>しかし、もともと日本は幕府という軍事政権が680年も続いてきた国家ですから、基本的には好戦的な民族であるといえるのです。

物事を表面的に判断しすぎですね。幕府制度とは決して、軍事政権では無い。もっとも軍事的だったのは鎌倉幕府であり、その後戦国時代、室町時代、江戸時代とどんどん軍事的な臭いが薄まってくる。
もちろんそれぞれの初代が軍事的なのは当然でありますが、その後は将軍と雖も公家成りしていくのが現状です。
一例を挙げれば、江戸時代の忠臣蔵です。あれが、逆に珍しい事だから話題になるのです。
それ以外は儀式典礼を重んじ、無骨なことは流行らなくなってます。

では何故に武家政権が樹立したか?これは単純に桓武天皇が「軍事を廃止」したからです。
国が軍事を廃止したら、国民は自分らの身を自分らで守るしかない。そして国が護ってくれないのなら、農民は自らの農地を自ら護らねばならない。そうだ武装化しよう。そして発生したのが武士であります。その武士は最初は手弁当です。しかし血を流していることに対する正当な保証(恩賞)が欲しくなる。最初は公家の下について、恩賞を要求するが、後三年の役の時の源義家に見るまでもなく、手を汚す者にまともな恩賞すら無い。義家はやむを得ず、私財を家臣に分け与えて名を上げることになる。その後「将門の乱」等を経過し、武士は朝廷に対して、正当なる要求は諦める。
ならば自存自営せねばなるまい。そして出来たのが幕府である。最初は関東武士団のみの政権でしか無い。その後承久の変を経ても、領地が拡大しただけで、その基本姿勢は変わらない。ターニングポイントは元寇である。元寇にて元の使者が来たとき、書面を朝廷に提出して裁可を仰ぐが、最終的に朝廷から幕府に書面が返送されてくる。このとき初めて幕府は外交権を取得する。その後段階を踏んで、幕府の権益は増してくるのです。
長々と書くとキリがありませんが、このように日本国の国史を細かく紐解くと武士ですら、単なる自衛集団なのです。
また、近代以前の傾向として、全体の1割にも満たない武士同士の戦争がほとんどであり、それを庶民は平然と眺めていたんですよ。関ヶ原の戦いですら、庶民は傍観しておりました。それをもって好戦的な民族というのは「木を見て森を見ない」理屈ですね。

279藤川一郎:2005/12/12(月) 12:44:44
玉音放送で陛下がお読みになられた詔勅は内閣が作成したものであります。
それが決まるまでの閣議の様子は面白いのです。一例を挙げれば、詔書案にある「戦線非に非にして」の文を阿南陸軍大臣が数時間ごねて「戦局必ずしも好転せず」に変えさせたのは有名です(非に非にしてでは、負け続けたように思われるから)。
その詔書案に天皇陛下が御名御璽をされただけです。

戦前の天皇陛下は、天皇無責任制度の中におられます。内閣の補弼により、その名の元に統治権が総覧されるだけであります。
御前会議ですら、天皇陛下に拒否権はありません。奏上されてきたものを、ただ裁可するだけであります。
それを破ったのは、昭和天皇一代で考察すると、二回のみです。二二六事件と大東亜戦争終戦です。二二六事件は統帥権干犯問題以降であったこともあり、統帥権を形式的に握られていた陛下が、「逆臣」と断じられました。
大東亜戦争終戦に至っては、鈴木貫太郎首相が戦争継続派3人、和平派3人と伯仲し、自分が和平に一票を投じて終戦にするよりも、天皇陛下の「大御心(おおみこころ)」を頂いての終戦の方が国内が落ち着くとの、政治的な戦略から、あえて天皇にお聞き申し上げたのです。そして天皇陛下が「自分の意見は外務大臣(和平派)に同じである」から始まる発言をなさったのです。

280大崎:2005/12/12(月) 15:31:05
匿名さんの書いている内容って、富士門流信徒にとって、何の関係があるんですか。
政治というのであれば、別に当門流信徒だけの問題ではないはずです。
それをここで書かなければならない理由はいったいなんですか。

281匿名:2005/12/12(月) 17:10:02
>280

たぶん、まだ除名にはなっていないと思いますが、かつてある富士門の教団に在籍しておりました。
かなり熱心に参詣していた時期があります。
私の中では、その当時から日蓮聖人と政治というのは、大変関わりが深いものだと思っていました。参詣を止めた今でも、その名残がかなりあるのでしょう。

ところが、思い出される教団での法話といえば、そのほとんどが同じ富士門教団の争いごとばかり。それこそが信心とばかりに、ものすごく熱心なわけですね。
一緒になって悪口を言っている自分もいました。
その他の政治を含めた社会問題は、それこそ何ひとつ得るものがなかったわけです。
憲法問題も一度も、誰からも聞いたことがない。改憲も護憲も、全く関心がなかったのではないかと思うほどでした。

そんなことは当たり前だと思われるかもしれませんが、私にとってはいまだに、他の仏教徒とは違って日蓮門下は、政治に関心を持っていてほしいという思いがまだ残っているのです。
もちろん、それをこの掲示板で押し付けるつもりではありません。戦前の戦争責任という問題もありますから、政治に対して微妙であることは十分に承知しています。

ただ、いささか独り善がりではあるかもしれませんが、政治に関心を持つということが、教団から離れた私の最後に残された信仰の証みたいなものかもしれません。

仰る通り、そんなにムキになってこちらに投稿することではないですから、そろそろ、このへんで留めようと思っております。

282匿名:2005/12/12(月) 17:26:58
>278

武家政権が長く続いたということを根拠に好戦的民族というには早計だったかもしれません。
ただ、武士同士の血生臭い戦いを平然と眺めているというのも、かなり危うい神経とみることもできるかと。
ややもすると「戦だ!戦だ!」と高揚しやすい特性はあるのではないでしょうか。
まあこれは、日本人に限ったことではないかもしれません。

日本民族が好戦的ではないなら、それに越したことはないです。そう願いたいです。
たとえ憲法が改正されても、この先も戦争に巻き込まれずに時代を送ることができるかもしれませんし。

283大崎:2005/12/12(月) 17:37:39
匿名さん返信ありがとうございます。
わたしは長距離トラックの運転手で、あんまり、しょっちゅう、ゆっくり掲示板を見ることはできないし、これからまた走りますから、これ1回きりの投稿になると思います。ですから、返信は不要です。
あくまで、意見の違いということですから、批判として聞いてほしくないのですが、僕は匿名さんの書かれていることはどうもしっくりきません。
特に投票のこと、日本国民が好戦的、子供の戦争責任については賛成できません。
時間がないので投票のことだけ記します。僕はあまり学はありませんが、簡単な算数をしてみました。
☆過半数は本当に過半数?☆
全国民数を1(基数)とし、成人比率を仮に0.8とします。投票率を0.6として、多数決の分岐点、半数を割り出すために0.5をかけます。
1X0.8X0.6X0.5=0.24
24%です。現在の平均成人者数、投票率からの計算です。実際は小選挙区制、また、1票格差の問題がありますから、さらにこの比率は低いんじゃないでしょうか。国民の過半数というときの比率でもこの程度。過半数には遠く及びません。こんなんで国民の大多数とか総意とかと言われてもなあという気持ちがします。
あと、僕は日本国民ですが、好戦的ではありません。子供に戦争責任はないと思います。
また、ここの掲示板は、特に日蓮正宗、創価学会、顕正会がいがみ合っていない珍しく、そして、貴重な掲示板です。みんな、ここでは自分の立場を客観化する節度を持って記しています。それなのに、匿名さん一人が政治的観点の自分の考えを押し付けるような投稿しているように感じるんです。
とおりすがった投稿ですが、ここの掲示板は、とおりすがりとか、匿名とかが固有名詞になっているようなので、とりあえず、一時的なHNで失礼しました。お邪魔しました。

284匿名:2005/12/12(月) 18:08:20
私の、言い回しに問題があったのでしょう。
子どもに戦争責任があるみたいに思われてしまったみたいですが、投票権もない子どもには戦争の責任はまったくありません。だけど、その親には責任はあります。また、二十歳になければ、投票権があるわけですが、二十歳になって急に政治に関心と責任を持つなんてことは難しいですから、成人に満たなくとも、それなりの政治への意識付けというのは求められるところかと思います。概ね身近な大人、やはり親の意識というのは、子どもの将来の政治意識に大きく影響するものではないかと思います。

投票率のことが出ました。わずかな投票率をもって、国民の総意とするのはおかしいというご意見。確かにそうだと思います。だからこそ選挙制度というのは、あなどれない。また、いったん改正すると、元に戻すのに、政治運動を起こすことから始めなければならない。大変なことなわけです。
いろいろな政党が存在できる中選挙区制のほうが、より民意を反映することができて望ましいという意見は、ときどき聞かれるところです。政治の決定には時間がかかるかもしれませんが、極端な翼賛政治は避けられる制度といえるかと思います。
しかし、権力者にとっては反対勢力は少ないほうがやりやすいわけです。政権与党にとっては、投票率も下がる小選挙区制を望むのところなのでしょう。
前にも書きましたが、まさにここが政治家が国民操作として最も活用しやすいところだと思います。

最近の小泉さんの発言では、5年以内に、比例制の廃止を目的とした選挙制度改革を言っています。
こうなると、比例で議席を確保してきた公明党、社会党、共産党の今後の生き残りは大変に難しくなります。改憲に歯止めを利かせる政党が少ない中で、憲法改正草案が出される可能性もあるといえるでしょう。

国民の総意がどういう形で結果に表れるか、選挙制度ひとつとっても、政治の行方は大きいわけで、だからこそ政治の都合の良いほうに動かされないように、関心を持っておく必要があると思います。

幾度となくご忠告を頂きました。これ以上、掲示板を政治で荒らすのは私の本意ではありません。
書きたいことも概ね終えましたので、政治関連の長い投稿は、ひとまずこれをもって控えることといたします。

ありがとうございました。

285彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/12(月) 18:10:35

横レス失礼します。

全く大崎さんのご意見に同感です。
私も匿名さんの投稿は富士門流信徒の掲示板とどう関係があるのか疑問に思っていました。よって、このスレッドには投稿をしていません。
もちろん富士門流信徒が政治を、戦争を論じてもよいわけですが、ここでは仏法とどう関係するのかを論じなければ掲示板としての意味がないのではありませんか?

286匿名:2005/12/12(月) 19:17:59
>285

私も、ここまで長く投稿するつもりはなかったのですが、まあ、少し力が入りすぎ、ご迷惑をおかけしたと反省しております。
引き際というのは、実に難しいものと、つくづく思いました。
せっかくのスレッドですから、私の投稿には関係なく、まさに仏法から論じて頂きたく存知します。
私はロムで勉強させていただくことといたします。

287犀角独歩:2005/12/12(月) 21:16:58

まあ、いちおう、ここの諍論も終息と判断し、引き続き考えてまいりたいと思います。
今度は、仏教という視点から、匿名さんにはご投稿をいただければと思います。(強制ではありません、もちろん)

いきおい、天皇の戦争責任にということが話題になりました。
この件について、コメントをする気はありませんが、違う視点から少々。
『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)で、渡部昇一氏は

「われわれは30年前に日本を破り、天皇を人にしたはずである。ところが、その天皇は健在で、日本は世界一のスピードで産業を発展させ、世界一強い円を持っている。勝者であったイギリスは、すでに追い越され、アメリカが追い越されるのも時間の問題である。そして当時の戦争に関係したヒットラーやムッソリーニが亡びたのはもちろんのこととしてチャーチル、スターリン、ルーズベルト、トルーマンもすでに亡い。しかるに日本の天皇はアラスカでニクソンに迎えられ、ヨーロッパでは歓迎されるうえに、戦争で失ったオキナワまで返してもらった。天皇は本当にゴッドなのではなかろうか」(あるアメリカ人の投書の趣旨)」(P132)

と記していました。

「人間宣言」ということを、わたしはどこか鵜呑みにしていましたが、先にも紹介した『玉体繁栄』の文は、一定の説得性をわたしは感じました。
ただし、

「天皇をもって現御神とし、かつ日本国民をもって他の民族に優越せる民族として、ひいて世界を支配すべき使命を有すとの架空なる観念に基づくものにもあらず」

この「架空なる観念」が、前文のどこまで係るのかが微妙な点だと思いました。
わたし自身の観念としては天皇は現御神ではなく、「カミ」なのだと考えています。

先の渡部氏の文章ですが

「『ニューズウィーク』(1973年7月30日号)は、今の陛下(昭和天皇)を「2633年の昔から中断されたことなき一系の皇統の第124代目の天皇」と表現している。これは神武天皇の即位が紀元前660年に行われ、その後も記紀に名前が挙がっている天皇が全部存在したという立場からの記述である」(P65)と紹介していました。

また、「仏教という高等宗教は、日本のカミに骨抜きにされ、先祖を祀る宗教にされてしまったのである。神仏習合説は最初、仏が神を包み込むために考え出されたものであったが、気が付いてみたら、ホトケとカミの差はなくなり、いつのまにか偉い死者はカミ、偉くない近親者の死者はホトケというような差までつけられてしまったのである。専門の学者はこのような現象をどう呼ぶのか知らないが、私はこれを「仏教のシャーマナイゼイション」、つまり「先祖崇拝化された仏教」、もっはっきり言えば、「カミに従えられたホトケ現象」と呼ぶことにしている」(P150)

288犀角独歩:2005/12/12(月) 21:17:28

―287からつづく―

渡部氏の分析のなかで特に興味深いのは、「日本人が死んだ祖先のことをいつも気にしているのは、明治に日本に来た外人の目にはひどく異様に見えたものらしい。それでラフカディオ・ハーンなども、日本の特徴を、「死者の支配(レグヌム・モルトオルム)」と言っているくらいである」(P86)

「日本人の「死」に関する特殊な観念……日本の死者は死んでもなくならない。……死ぬというのは「退去」なのであり消散ではない」(P81)

「日本で古い神々の神社が生きているのは、もちろんこの信仰と深い関係にあると見るべきであろう。「死んだ祖先がまだ生き続けて自分を見ているかのごとく感ずる」こと、これが後世の日本人の生活のあらゆる面に関係してくるのである」(P83)

以上のような日本人の認識は、東京招魂社から靖国神社に至るまで一貫したカミ概念に基づくのだろうとわたしは思います。

靖国の問題は政治に利用、悪用される側面は、先に述べたとおりですが、しかし、ここに政治利権とは別に一般国民が依然と参拝する理由は、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点も必要だと思います。神本仏迹はここ富士門流においては、邪義であり、創価学会的な論調からいえば、これを鼓舞した石山老僧O師が「牧口先生を獄死させた」として狸祭り事件ともなったのかもしれませんが、2600年という時系列からすれば、このO師の視点は、帰結すべき日蓮仏教の終着点であったのかも知れません。ただ、それが敗戦によってご破算となったところから、次の戸田氏による新日蓮主義ともいうべき展開と国立戒壇構想がそこにあった。また、それも昭和45年というターニングポイントで再構築され、次の答を、平和憲法擁護の公明党と日蓮本仏教として創価仏教という政教分離によって800万人に指示されたというのが一連の流れです。しかし、この‘政教分離’が800万人に指示されたからといって、それが創価公明の勝利でも、それに倍する日蓮信者の敗北でもないわけです。700年来、継承された日蓮の教えを再構築の速度が、時代の流れに追いつかない現象であるに過ぎません。しかし、それは確かに致命的なことでもあるわけです。だからこそ、ここでも議論をしなければならないわけです。

先に「多数決」ということが話題になっていましたが、仏教という世界、道義を見極めることは多数決とは全く関係ありません。また、自分たちの考えを多数派にすることによって、正義の証明となるという類の数の暴力に屈するものでもありません。この点では、政治等で採用される方法と次元を異にしています。ただし、また、いらぬ誤解を招くと困りますので、ことわっておけば、これは匿名さんの政治投稿とは全く関係のないことです。

敢えて日蓮にその例を見れば、

「幸ひかな、楽ひかな、穢土に於て喜楽を受くるは但日蓮一人なるのみ」

というように、結論は、ある面、個人的修行と自得を目指す仏教の在り方では、民主主義、あるいは、多数決という観点方法論と根本的に立つ位置が違っているわけです。しかし、仏教徒であり、かつ国民でもあり続ける信者は、では、このダブルバインドのなかでどのような答を導いていくかに今後の課題があると考えます。

289犀角独歩:2005/12/12(月) 21:19:33

【288の訂正】

誤)国民が依然と参拝する理由は、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点も必要だと思います。

正)国民が依然と参拝する理由を、所謂、仏教を超えた、渡部氏の言を籍りれば、「カミに従えられたホトケ現象」としての仏教…神仏習合の日本型の仏教と単純には言い難い…からの視点から考えることも必要だと思います。

290ラーメンマン:2005/12/13(火) 03:01:11
子供に戦争責任を問うことは出来ないでしょう。
しかし、戦争の時代、原子爆弾が落ちてくるような場所に生まれ合わせなければならなかった責任は、
それぞれの子供たち自身にあるのではないでしょうか。
少し表現を変えれば、その子供はいかなる因縁により、そのような果報を受けなければならなかったのかを考えるのが仏教的なアプローチではないかと考えています。

291犀角独歩:2005/12/13(火) 08:59:28

> 290

このような考え方は、仏教の不健全且つ、差別的側面を助長するもっとも忌まわしい考え方でしょう。もし、仏教がこんな解釈しかできないのであれば、この教えは、この世から葬り去るのが一番の得策であるとわたしは考えます。

また、因果応報論は、仏教の教えであるというより、元来、バラモン教から引き継ぎに過ぎません。バラモン(支配階級の白人)、クシャトリヤ(黄色人種の王族・武人)、バイシャ(庶民)、スードラ(奴隷にされた褐色人種)によるカーストは、バルナと言われ、その意味は‘色’、すなわち、肌の色を意味します。

インドを侵略入した白人アーリア人が先住の褐色人種ドラビダ人を奴隷にしていった肯定論です。しかし、アーリア人の信仰には、サンサーラ(輪廻)という考えはなかったと言います。長尾雅人師に拠れば、ドラビダ人の間に「悪い行いをすると豚に生まれる」という素朴な輪廻信仰があったと言います。バラモン教はこれを採り入れて、発展させ、支配の道具としていったわけです。つまり、バラモンに生まれることは過去の善行により、奴隷となるのは過去の悪業というそれです。このような信仰によって侵略者たちは、インドを統治する肯定論としていったわけです。

そのような背景で生まれた釈尊は、「人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。

原爆、無差別攻撃で虐殺された人々に、何の責任もありません。
わたしは、日本が政治として戦争を選択したから国民に戦争責任があるという考えにすら反対です。その理由は追々記しますが、このような政治的選択は、政治に対する無知、無関心に原因があるのではなく、そのように選択してしまう‘操作’にその原因があるというのが近代の社会心理学が明らかにしたところであるからです。
また、因果応報に代表される仏教的性悪論は、それ以上の悪しき仏教理解であり、このような考えは21世紀に断じて持ち込んではならない、そのためにわたしは仏教を再考したいと考えています。

292匿名:2005/12/13(火) 09:39:03
社会心理学で明らかになっているからといって、それだけが戦争を起こす原因の絶対的分析ではないでしょう。
やはりこれもいろいろなアプローチがあるものかと思います。

まあ、論じられる以上は、政治に操作されない「方法論」までお示し頂きたく存じます。

それと犀角独歩さんは、政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのでしょうか。

293犀角独歩:2005/12/13(火) 09:54:05

匿名さん

> 社会心理学…戦争を起こす原因の絶対的分析ではない

わたしが絶対的分析だと記しましたか。

> まあ、論じられる以上は、政治に操作されない「方法論」までお示し頂きたく存じます。

どのような論じるかはわたしの自由に属します。

> 政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではない

そんなことを記した覚えはありません。

294匿名:2005/12/13(火) 10:03:58
>わたしが絶対的分析だと記しましたか。

では、国民も責任を負うところがあるという分析は、否定されないということですね。

>そんなことを記した覚えはありません。

当然、記していれば、お聞きしません。
明確に記してはいないけれど、投稿内容からそのようにも感じとられるので、お尋ねいたしました。

ですので、政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのか、再度お尋ねいたしたく存じます。

295犀角独歩:2005/12/13(火) 10:07:40


> …国民も責任を負うところがあるという分析

どのような学説の、何という学者の分析でしょうか。

> 政治に責任を持ちたくない、もっといえば、国民は政治的責任を持つべきではないというお考えなのか、再度お尋ねいたしたく存じます。

繰り返します。そんなことは記したことはありません。
また、ここでは、仏教から考えることを目的にしておりますので、政治を主語とする質問にお応えしないことといたします。

296匿名:2005/12/13(火) 11:05:16
>どのような学説の、何という学者の分析でしょうか。

学説ではなくて、以前、示しました憲法の前分がそのようになっています。
確かに、戦前は憲法が違いますから、国民に戦争責任はないという理論も成り立つかもしれません。
しかし、少なくとも選挙権のある国民には一分の責任はあるでしょうし、また当時の国民世論は今とは全然違うものだったわけですから、そうした国民にも一分の責任はあるという言論は散見されるところです。

もっといえば、そうした厳しい立場を踏まえない限り、現行憲法の前文が示す国民主権の意義はとうてい理解されないものではないかと思うところです。

者の学説があれば、追って記すことといたします。

しかし、そもそも、戦争を考えるとき、政治を完全に切り離して考えることなどできるものではないと思いますが、それをさらに仏法と結びつけて論じることなど、私にはとうていその器量はありませんので、議論を拝見させていただくことといたします。

297ラーメンマン:2005/12/13(火) 11:15:04
>291

衆生は千差万別の姿で生まれてきます。そしてその生まれがその後の生涯を決定的に方向付けます。
人として生まれれば人並みの生涯を送ることも可能でしょうが、牛や馬、あるいは魚や虫として生まれたなら
畜生としての生涯を送らざるを得ません。
この事の最も合理的な説明が因果応報論と言えるでしょう

>このような考え方は、仏教の不健全且つ、差別的側面を助長するもっとも忌まわしい考え方でしょう。もし、仏教がこんな解釈しかできないのであれば、この教えは、この世から葬り去るのが一番の得策であるとわたしは考えます。
また、因果応報論は、仏教の教えであるというより、元来、バラモン教から引き継ぎに過ぎません。

大筋正しいので仏教でもそのまま取り入れられたのではないでしょうか。
また「この世から葬り去るのが一番の得策…」と、そこまでおっしゃるのなら犀角独歩さんは出生時の差別をどのように説明なさるのでしょうか。

>そのような背景で生まれた釈尊は、「人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。

人として生まれるというハードルを越えた者に対してのお言葉ですから、反論として引用することは出来ないと思います。

298犀角独歩:2005/12/13(火) 12:14:12

> 合理的な説明

別段、そのようには思いません。
そのようにこじつけられた物語ということでしょう。

> 出生時の差別をどのように説明

これが説明できるはずだという考えが元にあるのでしょう。
そのような説明も答えもないということです。

> 人は生まれによってバラモンになるのではない、(現在の)行いによってバラモンになる」といったのです。仏教は過去の行いを問うているものではなく、今と未来を問う教えであるからこそ、その意義があります。
> 人として生まれるというハードルを越えた者に対してのお言葉

なにか勘違いなさっていると思いますが、ブッダが自らを修行者として位置づけ、あとに続く修行者に話したことですから、その後の一切の仏教徒に語った言葉です。

301匿名:2005/12/13(火) 12:22:13
>政治を主語とする質問にお応えしないことといたします。

私の質問の主語は「政治」ではなくて、「犀角独歩さん」と「国民」ですね。
「政治」は目的語です。
回答拒否で構いませんが、念のため。

302犀角独歩:2005/12/13(火) 12:23:15

ラーメンマンさんが、290、297のように考えるのであれば、いままだ原爆症に苦しむ方々、実際に被爆で尊い家族を亡くした方々、はたまた、ハンセン病の後遺症に苦しむ方々すべての人々なかに、座って、その人人に向かって、「あなた方がこのような目に遭うのは過去世に悪いことをした報いだ」と語れればよろしい。

あなたはただちに人権侵害者として社会的な制裁を受けることでしょう。
そして、それが如何に人道に悖る悪業であるかを思い知ることになるでしょう。

303犀角独歩:2005/12/13(火) 12:25:56

当スレッドのテーマは、「戦争を考える」ということです。
この問題は当然、政治と抵触し、軍事問題と抵触します。
ひいては憲法改変問題とも関連することとなります。

ここは富士門流信徒という枠組みから考えてみたいと思います。
では、富士門流信徒とは何かといえば、ここで言われる富士門流とは概ね創価学会を含む大石寺という信仰圏内ということになります。
しかしながら、この範疇は日興に起源を持つ、日蓮が定めた派祖一派です。その意味において、他五老門破と近親関係にあります。また、法華宗という日蓮の自覚から、その基礎を天台に置きます。さらに漢訳仏典として羅什訳を採り、梵本としてSaddharmapundarikaと関連します。それが大乗経典であることから他大乗経典とも関連するでしょうし、上座部その他もGotama-Siddharthaを祖とする上で近親関係にあります。
また、その背景思想であったバラモン教、その後のヒンドゥー教は、密教と密接な関係にあり、日本に輸入された当初から最澄、空海の興隆でわかるとおり、富士門流に置いて、考証の対象となります。また、天台学は、華厳と涅槃、さらに般若とも密接に関連するでしょう。以上のことから、当掲示板で仏教全般が取り上げられることは一つの趨勢であると考えられます。

さて、近代の宗教分析は、宗教学、社会学、もしくは仏教学等々という学問を等閑にすれば、閉塞的な教学を形成することになります。学会を含む石山系の初心者を教え込む教学試験なるものをみればその時代遅れ、非科学性はいまさらか語るまでもないことになります。このような100年も時代が遅れた教学がいまだに信者たちに教え込まれている構造は何であるのか、また、それに誣いられていく人々が存在するのは何故か、このような問題を考えるとき、上記の一連の思想譜から、さらに宗教全般と密接な関係が認められることになります。この点は、政教、王仏、もしくは祭政といったカテゴライズにおける支配・被支配の関係にまで立ち入る問題となります。この関係は、実のところ、いわゆる民との問題ではなく、支配者である二頭(政教、王仏)の問題です。被支配者は、この‘カミ’から宛われた宗教を信仰してきたという構造もあります。
以上の構造下、国家という体制で支配は可能となり、これをミニチュアからすれば、いわゆるカルトを形成することは可能となります。

日本は民主国家であるというのは、政治構造上の問題であり、実際のところ、では、人心を領している心的背景は如何なるものであるのかということは、実は別の問題です。この点は、見落とされがちです。

わたしが社会心理学を視野に入れることは、いわゆる富士門流というカテゴライズと無縁であるという見方は可能であろうかと思います。しかし、実際のところ、この範疇の信仰者は100%と言わないまでも、近年のカルト理論を等閑にできない心象風景を抱えています。

また、近代の斯かる社会心理学の発展は、今さら記すまでもなく、ヒットラーとドイツ国民の分析に拠っています。その成果は、このような政治下にある人々の心理分析に拠りますが、その背景に永年のキリスト教の影響が潜んでいることをフロムは分析したわけです。つまり、政治的な動機と宗教的な動機は、同じ心理要因に拠っていたことを分析したところに、この研究の価値はありました。宗教と政治は、ここで一つの共通の心理要因に基づいている点が確認されたと言うことです。

304犀角独歩:2005/12/13(火) 12:26:20

―303からつづく―

では、その分析を端的に示すものは何かと言えば、「権威主義的パーソナリティ」と名付けられた人格モデルです。西田師の簡潔な説明を籍りれば

「フロム……によると、人間は根元的な不安をいだいている。現代人は共通して、その不安を克服しようとして、自らの自由を放棄し、強力な権威者に絶対的支配を受けたいと願う傾向にあるという。その傾向は、「権威主義的パーソナリティ(authoritarian personality)と呼ばれる性格構造としてとらえられ、非常に多くの研究がなされた」(『マインド・コントロールとは何か』紀伊国屋書店 P232)
「権威主義的パーソナリティの特徴は、強者への服従、弱者への攻撃、白か黒かといったステレオタイプ的判断、因習主義などの特徴を共通してもつとされた。その後の多くの研究で、これらに共通の特徴は「思考の固さ(rigidity)や「あいまいな状況に対する寛容性の低さ(ambiguity tolerance)」としてまとめられた」(同P233)

以上のような精神構造は操作者によって操作された埋め込まれた人格であるので、ここからものを考えても、操作者が決めたことを、自分の意志であると思って選択することがおきます。これは支配を可能にしている構造です。ですから、自分が自分として考えるとき、このような心理構造下に自分があるのか、また、発言者があるのかを注意深く観察してみる必要があります。重要な点は、同じ情報を与えられても、本来、人々は千差万別の選択をするものです。しかし、仕組まれた操作の場合、結論となることは一様となっていきます。このような皆が同じ結論に到達してしまう状況があるとき、斯かる操作が発揮されている点を注意して掛かる必要があります。

わたしは現行の政治議論が、何でも憲法改正の話になり、自衛軍の話になり、軍備増強の話になってしまう短原因は、ここにあるのではないのかと警告を発しているわけです。ですから、この問題を考えるとき、政治家や、それに連なる経済学者、ジャーナリズムが提供する情報を置き、いったん、どのような心理操作が働いていることを考えてみる必要があると考えています。それが、ここにおける投稿の意図です。

305犀角独歩:2005/12/13(火) 18:36:14

303〜304は301に対する答えです。

> 政治に責任を持ちたくない…国民は政治的責任を持つべきではない

犀角独歩が主語であるとき、このような考えはもちろんありません。
なぜ、このような質問が立つのか、疑問です。

政治的無関心で、責任をとりたくなく、政治情報に興味を持たないために、憲法改変、自衛隊、エネルギー問題などに関心を示さない、また、政治的関心が薄いから投票にいかない、だから政治が変えられないといった単純モデルでは考えないということです。

わたしは政治的な感心がないというのではなく、その‘感心と情報を処理できる心的能力を阻害する要因を考えること’を、現段階で主眼にしているということです。

政治と仏教という接点から、当スレのテーマを阻害しない範囲で、わたしのほうからも、いくつか質問をさせていただきたいと思います。
匿名さんは、

(1) Juan José Linz の権威主義体制の研究には、どのような見解をお持ちですか。
(2) Theodor Ludwig Wiesengrund Adornoの権威主義的パーソナリティの研究には、どのような見解をお持ちですか。
(3) Adolf Hitler『我が闘争』にはどのような感想をお持ちですか。
(4) Herbert Marcuseが示した文明モデル、エロス的文明については、どのような見解をお持ちですか。
(5) Jürgen Habermas の公共性理論から見た場合、仏教はどのような役割を果たすべきであると考えますか。
(6) 石橋湛山には、どのような見解をお持ちですか。

取り敢えず、わたしは Konrad Lorenz の同種攻撃の問題から考えた戦争について管見を述べ、その後、Stanley Milgram のアイヒマン実験ではなく、服従と権威について考え、その後、上記、6点について考えてみたいと自分なりの予定を立てていました。
しかし、どうも、わたしを政治的無関心、さらに社会情勢を考えない無責任者のように思われているのか?と疑いたくなるような質問を投げかけられましたので、その誤解を解くため、取り敢えず、冒頭のとおり、お応えしておきます。また、今後、以上のような道筋で考えてまいろうと思いますので、投稿を適宜とする助とさせていただきますので、ご見解をお聞かせください。

306犀角独歩:2005/12/14(水) 00:08:31

一つ落としましたが、当然のことながら、Erich Fromm の『自由からの闘争』は当然視野に入れています。
この点は、もちろん、記すつもりでいます。

307匿名:2005/12/14(水) 02:23:34
申し訳ないのですが、私は社会心理学は参考にはしますが、「考える」尺度の中心には据えておらず、見解といわれても、正直なところあまり書きようがないですのです。どうぞ、議論をお進め頂きたいと思います。

一つだけ、私の関心の高いもののみ、記述させていただきます。
ご質問の中で、私が最も関心をもっているのは、ヒトラーです。

『我が闘争』そのものについての見解というよりは、ナチス体制を生んだ政治的背景に私は関心があります。
言うまでもなく同書では、猛烈な反ユダヤ主義が顕著に記され、後にナチスのバイブルと言われ、夫婦に1冊の購入が要求されたといいます。ところが、実際にそれを読んだドイツ国民は意外と少ないともいわれ、本の売上がナチスの資金源になっていた意義のほうが大きいといえるでしょう。
むしろ、ドイツ国民の心を真にとらえたのは『我が闘争』より、大衆の感情に訴えるエキセントリックなヒトラーの演説そのものだった。大衆の感情に訴えるということ、つまりヒトラーが演説で猛烈に放ったことは、ドイツ国民自身が思っていたことであり、その強い共感がやがて絶大なる支持になっていったといえるでしょう。政治家には政治活動の大義が必要ですから、その理論的裏付が『我が闘争』だったといえるのではないでしょうか。

当時ドイツは第一次世界大戦の敗戦で、多額な賠償金を背負わされていました。戦勝国はベルサイユ条約でドイツからルール地方を除くほとんどすべての主要な生産手段を奪っています。残された生産手段ではとても支払い不可能な法外な賠償金が要求されていた。ある意味で、戦勝国のドイツいじめといっていいでしょう。戦勝国とユダヤ人は関係が深いですから、ドイツ国民の内心には、人種的差別を越えたユダヤ人への不満がものすごくあったわけです。
やがてドイツは、天文学的インフレとさらに世界恐慌の煽りを受けて、国民のほとんどが失業者という経済危機に直面します。もともと、資源は少なく土地も痩せている国土ですから、大変悲惨な状況だったでしょう。そこへ経済問題としてのユダヤ問題が内在している。
そこでナチスは、ベルサイユ条約を破棄し、失業対策として軍隊を再編成しますが、それだけでも短期間の間にドイツ経済は立て直ったといいます。社会科学的見地からナチスを論じるときには、どうしてもドイツが抱えていた経済的背景は避けられないものといえます。
ですから、第二次世界大戦後のドイツの賠償金問題がそれを裏付けています。東西に分断はされますが、賠償金についてはかなり免除されているわけです。
なぜ賠償金を免除されたのかは、他でもない、戦勝国とユダヤ人が一番わかっていることです。長年の不合理なまでのドイツいじめにおけるドイツ国民の反感が、ナチスヒトラーを台頭させた。これは戦勝国自身がその後の歴史の中ではっきり認めているところです。
ヒトラーについての私の見解というと、ざっとこういうところになるでしょうか。

308匿名:2005/12/14(水) 02:24:47
ところで、フロイトはユダヤ人で、ナチスから迫害を受けていたはずです。
ナチスに追い詰められたユダヤ人ですが、追い詰めさせたのもユダヤ人であるわけです。その後のヒトラーの研究は、ユダヤ人が2度とあのような忌まわしい迫害を受けないためにも、不可欠だったものといえるのではないでしょうか。
余談になりますが、今の日本にもこうした人間の心理は当て嵌まることではないかと思います。幾度となく書いたことですが、中韓の反日感情はわかりますが、しかし、これがあまりに行き過ぎると、やがて日本人のナショナリズムを目覚めさせてしまう恐れがあるわけです。今回の選挙での小泉自民党圧勝の背景には、そうした国民心理が影響している側面もあるものと思います。

ざっと見解を書けばこんなところですが、私の場合は、どちらかといえば社会科学的な見地になるかと思いますが、これを論じるとなると、ドイツ帝国の成り立ち、国の事情、内在するユダヤ問題、地政学的な見地、どうしてもそういった背景から記していかなければならなくなります。これを試みると、また膨大な投稿になってしまい、さらにクレームも出ることでしょうし、それと何より私自身が連日の投稿で、かなり心理的に疲労がたまっておりますので、本当にこれで留め、この先はしばらくロムで学ばせていただきたいと思います。

と記しながらいささか恐縮ですが、最後にどうしても一点だけ質問させてください。
これは私への返信というよりは、今後のご投稿の中で触れて頂ければありがたいのですが、宗教における権威が何であるかはわかりますが、政治の場合の権威の場合、帝国主義政治ならば「王」の権威を示すものだと思いますが、こと民主主義政治となった場合の権威とは何に当るものなのでしょうか。


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