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蓮祖の、著作・曼荼羅の真偽について

1管理者:2004/05/13(木) 11:57
新しいスレッドの御提案が有りましたので立ち上げます。提案文は以下の通りです。

891 名前: 犀角独歩 投稿日: 2004/05/13(木) 11:18

管理人さん:

昨晩、三学無縁さんとも話したのですが、『本門戒壇の大御本尊様の偽作説について』において、名無し@ピンキーさん、Happy Birthday!!さん、また、空き缶さんが興味を示されてお出でであった山中師『御本尊集目録』未載でありながら、御筆漫荼羅(真筆)と伝えられる漫荼羅は興味深いものがあります。また併せて、真偽未決御書、また、各文献の著者の実否などを議論するスレッドがあればよいと考えます。

以上、三学無縁さんと連名で提案させていただくものです。

409犀角独歩:2005/01/03(月) 20:03

愚鈍凡夫さん、これは面白い疑問の立て方ですね。

漫荼羅図示の用途って、詳細についてちゃんと答えられる人は、誰一人としていないだろうとわたしは思っています。ただ、挙げられた一紙もの8割方は四大天玉がなく・韻文が見られるなど、その用途は御護と見受けられますね。しかし、そうでないものもあります。何によって大きさが決まっていったか、やはり願いによるのでしょうか。そうなると絹本も願える…、まあ、そうも言えましょうか。腕の達つ人と詰め将棋を遣っている気分になってきました。うーん、むずかしい。

他の方のご賢察をお伺いしたいものです。
れんさん、どうでしょうか。

410れん:2005/01/03(月) 20:53
愚鈍凡夫さん・犀角独歩さん。確かに曼陀羅図示と用途については、確かに難しい疑問ですね。何ぶん蓮祖が一紙曼陀羅と十界円具の‘大曼陀羅’についてその図示と用途について明言した御真筆がありませんから私も何とも答えられない疑問です。ただ愚鈍凡夫さんのご指摘にありますように、当時紙は必需品ながら貴重品でもあり、なかなか入手出来ない時もあったと考えられますから、たまたま檀越から供養されて蓮祖の手元にあった?絹布が紙の代用品として用いられたということも可能性は1%位はあるような感じはします。天目師授与?の文永の絹本曼陀羅や要法寺の絹本曼陀羅が蓮祖の御真筆か否かについては、科学技術を用いた鑑定・すなわち放射性炭素の測定による年代測定法で分かるかもしれません。

411犀角独歩:2005/01/04(火) 02:13

れんさん、有り難うございます。
供養の品で、なるほど、その可能性はあるかもしれませんね。
結局、しかし、決め手は科学的分析、賛同します。
ここのところ、蓮師御筆が次々と‘見つかる’?ニュースが相次ぎますが、まあ、この手で仰るような検査がまったくといってよいほど、行われない蓮師門下一般の在り方には疑問が残ります。

…絹本漫荼羅が、要山、もしくは同じ京都に集中している点は、一つの鍵になろうかと思います。

412彰往考来:2005/01/04(火) 13:54
犀角独歩さん

>400

>「絹本」で真筆ですか。紺紙金泥(金襴)以上に、真筆とは信じ難いところです。

そうなんです。山中氏の『御本尊集』には入集しているものの疑問があるところです。
日蓮聖人画像を見ても絹本は室町時代以後ではないでしょうか。
茨城県高萩市にある願成寺蔵の日蓮聖人画像も絹本でしたが、明らかに室町時代の画風でした。

413犀角独歩:2005/01/04(火) 14:25

彰往考来さんも、そのようにお考えになりますか。
そうですよね、やはり。

414彰往考来:2005/01/07(金) 07:42

京都要法寺蔵の日蓮大聖人筆御本尊について〔2〕

399の続きです。

京都要法寺の紫宸殿本尊を『御本尊集目録』の58番目としますと、それ以外の3幅の御本尊は公開されていないので確認はさらに困難ですが、一部の御本尊については疑義を提示した資料があります。それらについて紹介します。

【1】称徳本尊についての資料
山川智應著『本門本尊論』(昭和48年、淨妙全集刊行會、213頁)
京都の要法寺に在る御本尊は、十界がスツカリ羅列してある。さうしてその脇のところに、『文永九年太歳壬申正月元日』とあり、左の方に『問答第一行戒智徳筆跡苻法沙門日興ニ之ヲ授興ス』とある。これは實物を拜すると、なかなか聖人の御眞蹟によく似た字で書いてある。私は二十五歳の頃に拜見して眞蹟であらうとおもつた。ニ、三年前に石版刷になつたものをみたが、なかなかよく大聖人の御筆に似てはゐる。けれども斯様なものは容易に信ずることはできない、第一に文永九年正月元日というといふのは、「開目抄」より已前である、「本尊抄」より已前である。第二に『行戒智徳筆跡苻法』といふ賛辭を入れられてゐるところにも、すこし疑わしいところがあると申さねばならぬ。
(中略)
また興師授興のもの(引用者注:称徳本尊)は、京都の要法寺にあるのだが、要法寺は興師の弟子日尊師の開基であるし、由緒においては問題はないが、この興師頌徳の本尊なるものが、要法寺にあるといふことの、古い正確なる記録といふものが缺けてゐる。若しも日尊師が、興師から付属せられたものであるならば、付属状なりその記録なり傳説なりが、「尊師實録」なりそれに近い上古のものになくてはならぬが、それがどうしても見えぬようであるのから推考すると、容易に無條件に肯定することが出来ないのは當然のことであろう。況して頌徳苻法などといふことを、大曼荼羅にお書きになるなどといふことをば、直ちに信ずることはどうも出来にくい。況して「開目抄」以前に、本尊の圖顯などといふことは、法義上あり得べきことではない。どうしても朗門との對抗的の造作でないかと疑はれる、研究を要する。

この資料は開目抄以前の本尊の図顕がないとするなど現状と異なる点があると考えますが全体としては、まあ的を得た考えと思うのですが皆さんはどうでしょうか?

by 彰往考来

415名無し@富士門流:2005/01/08(土) 11:47

>414

今日は、彰往考来さん。

山川師の指摘は、「開目抄」前に十界勧請の大漫荼羅は図顕されていないという意味でしょうね。
所謂「佐渡始顕本尊」より前に、十界勧請本尊があるとするのは疑問なのでしょう。

私もこの正月中に、不鮮明ながらも「称徳本尊」の相貌を目にする機会があったのですが、一見すると建治元年十二月期から建治二年一月期ごろの相貌のような感じがします。

四天王が小さく書かれていることや、首題の下左右に「日蓮 花押」と書かれているところなど、身延曾存といわれ日亨模写本として残る、「御本尊鑑」第15番掲載の建治元年十二月本尊が一番近いように感じられます。
首題の筆法などは、もう一つの模写本である、日等臨写本の建治元年十二月期本尊と、日亨師のそれとは違いがありますので、あくまでも全体のレイアウトによる予測に過ぎませんが。

いずれにしましても、「文永九年」の本尊とは考えられないことは濃厚だと思います。

416彰往考来:2005/01/08(土) 12:20

>415

名無し@富士門流さん、

そうですか。建治元年12月頃の筆跡ですか。文永9年ごろでは
ないわけですね。

今後ともよろしくお願いいたします。

417れん:2005/01/08(土) 17:55
名無し@富士門流さん・彰徃考来さんお二方のご投稿のお陰で、京都要法寺蔵の称徳符法本尊の内実が随分と見えてきましたね。文永九年一月の時点で蓮師が十界円具の曼陀羅を図顕というのは現存蓮師真蹟から考えても考えられないですね。蓮師の文永のバン字花押形態は文永十年四月の観心本尊抄送状を境として空点が点或いは棒状のものからカギ型に変化しており、山中師の御本尊集入集のもので言えば一番・二番・八番は花押の空点の形態から文永十年四月以前の図顕、三番〜七番ならびに九番・十番・十二番の無記年の曼陀羅は花押の空点がカギ型であることから、文永十年四月以降の図顕に係るものと推定されます。要山の文永九年の称徳符法本尊は名無し@富士門流さんのご教示によると建治元年十二月の蓮師図顕の大曼陀羅に相似するということなので、まず偽作と見て間違い無いようです。偽作の背景は彰徃考来さんが引用された山川師の論考にある通り、京都日蓮門で主流であった朗師門対策といったところでしょうね。なお、山川師が真蹟として扱っている身延曽存の佐渡始顕の曼陀羅も、身延亨師の写本の注記には絹本と記されており、絹本では皆さんのご指摘の如く、蓮師真蹟とするのは厳しいですね。確実な蓮師図顕の大曼陀羅で十界を図顕されたものは山中師の御本尊集の十三番の文永十一年七月の大曼陀羅を初見とすべきで、この点からも、文永九年の年記にかかわらず十界円具の相貌を有する要山の称徳符法の曼陀羅は偽作の可能性が非常に高いと判断されますね。

418名無し@富士門流:2005/01/08(土) 23:27

>417

れんさん今晩は。

しかし相伝書は作る、本尊も作るでは・・・いまさらながらですが。

今となっては、朗門で「日朗御譲状」を作ってくれたのが、せめてもの救いです。

419彰往考来:2005/01/10(月) 08:06

名無し@富士門流さん、

貴スレッド418のご意見に同意するものです。

なお、朗門と尊門の偽筆御本尊を年代順に並べると交互に登場するという奇妙な面があります。

文永5年10月13日(仙台仏眼寺蔵)(日興上人の筆に大聖人が華押を為されたるもの)
文永6年6月4日(野尻亥十郎蔵)「大法師日朗ニ之ヲ興フ、末法第一ノ行者也」
文永9年正月元日(京都要法寺蔵)「問答第一行戒智徳筆蹟符法沙門日興受興之」
文永10年4月8日(塚原根本寺蔵)「末法第一ノ行者法印大阿闍梨日朗、符法ノ見タルニ依テ本尊之ヲ授興ス」
建治2年正月元日(京都要法寺蔵)「筆蹟符法沙門日興受興之」

どうも京都で朗門と尊門が対立した結果、どんどん古い年代のものが偽作されていったのではないかと思えるほどです。

<参考資料>
日目上人奉賛会『御本尊集 奉蔵於奥法寶』(平成12年覆刻版、日目上人奉賛会)
堀日亨編『富士宗学要集 史料類聚〔1〕』(昭和53年、創価学会)
山川智応『本門本尊論』(昭和48年、浄妙全集刊行會)
渡辺宝陽・中尾尭編『日本仏教基礎講座 第7巻 日蓮宗』(昭和53年、雄山閣出版)
村上有信編『妙宗先哲本尊鑑全二冊』(明治17年、村上勘兵衛)

by 彰往考来

420名無し@富士門流:2005/01/14(金) 16:36

彰往考来さん、いつも貴重な資料の紹介ありがとう御座います。

しかしがっかりしますね。

421彰往考来:2005/01/16(日) 17:11
北林芳典著『日蓮と最蓮房』の13章に日蝕について事実誤認があります。それは「天文学的に計算すれば、遡って日蝕の起きた日を算出できるんだ。それによると、「愛染感見記」が「拝見」の日付としている建長六年正月一日には日蝕など起こっていない。またその前後を調べてみても、日蝕があったのは建長五年二月一日、正嘉元年五月一日だ。しかも建長のものは記録になく、正嘉のものは『吾妻鏡』に「卯の刻に日蝕正見せず」と記されている。両方とも、天候の関係でまったく観測できない日蝕だったようだ。」という箇所です。

確かに『吾妻鏡』には建長六年正月一日と建長五年二月一日及び正嘉元年五月一日に日蝕があった記事はありませんが、建長四年二月一日に日蝕のあったことが『吾妻鏡』に記載されています。貴志正造訳注『全譯 吾妻鏡 第五巻』(1977年、新人物往来社)によれば、建長四年二月一日の項に「一日 乙卯 天晴る。巳の一點、日三分正現す。」(139頁)とあり、訳者による頭注に「日蝕」と書いてあります。北林氏が『日蓮と最蓮房』で日蝕記事の根拠としてあげている渡邊敏夫著『日本・朝鮮・中国 日食月食宝典』(1994年復刻版、雄山閣)にも309頁に建長四年二月一日の日蝕はちゃんと記載されているのです。正嘉元(1257)年は建長六(1254)年の3年後ですから北林氏が“(建長六年の)前後を調べて”としているのは建長六年に対して前後の数年を意味しているのは明らかです。
このことから、『日蓮と最蓮房』では建長四年二月の日蝕を見落としていると考えます。『日蓮と最蓮房』で「建長のものは記録になく」とされるのは『吾妻鏡』の建長五年二月の項だけをみればそうですがこれでは少々お粗末です。北林氏とそのスタッフは先行研究や関連資料の精査が杜撰ではないでしょうか。
では『吾妻鏡』での日蝕記事はどうなっているのでしょうか? 天文学者の斉藤国治氏は『吾妻鏡』に載った日蝕記事をまとめています(斉藤国治著『古天文学の道』1990年、原書房、53頁)。それによりますと『吾妻鏡』には20例の日食記事(渡邊氏や斉藤氏は“日蝕”ではなく“日食”と表現されています)がみられ、建長四年二月一日と正嘉元年五月一日はその20例中のものです。斉藤氏の同書には「鎌倉での食の概食(食分)」を記載していますので以下にこの2例のみを引用します。

旧暦       鎌倉での食の概食(食分)
建長四年二月朔  深食正見(0.91)
正嘉元年五月朔  曇天不正見、実は夜日食(北米で皆既)

となっていて、建長四年のものは、斉藤氏が同書で「記事に日食正見とあり、計算からもそれが証明される日食は  五例」 とされたもののひとつで正嘉元年のものは、「計算上からは「夜日食」となり、鎌倉では見られない日食は  六例」 とされたもののひとつです。
『全譯 吾妻鏡 第五巻』の正嘉元年五月一日の項には、「一日 乙卯 陰る。卯の尅、日蝕、正見せず。」(294頁)とあります。たしかに当日鎌倉地方は曇りで観測できなかったようですが実際は斉藤氏が計算されているように夜日食で日本では見えず日蝕予報がはずれたというのが真相です。従って『日蓮と最蓮房』で「天候のためまったく観測できない日蝕だった」というのは厳密には誤りです。正嘉元年五月一日は晴れていても日本では日蝕はなかったのです。当時すでに日蝕予報がされていたことは『吾妻鏡』の記事に「貞永元年四月一日辛亥、今日日蝕あるべき旨、宿曜備中法橋これを申す」(『古天文学の道』54頁)とあることから明らかで、『吾妻鏡』の記載内容の分析から斉藤氏は当時の的中率を50%(同書53頁)とされています。的中率が低い理由も同書に記載されていますがここでは割愛します。

『吾妻鏡』の記載は鎌倉での日蝕記事であり、建長四年頃日蓮大聖人は比叡山などに遊学の最中でした。あくまで「愛染感見記」が御真筆である前提での話ですが「愛染感見記」を拝見していますと、私には日蓮大聖人が日本のどこかで建長四年の皆既日蝕をごらんになられたのではないかと思えてなりません。
日本の首都で近年中に皆既日蝕が見られるのは2035年9月2日です。このとき食本影は茨城県のへんを通り、東京は食分0.99ほどの部分食(斉藤国治『星の古記録』1997年第3刷、岩波新書、41頁による)とのことです。この斉藤氏の『星の古記録』には「竜ノ口の法難」の際の光物や「依智の星下り」に対する天文学者としての解釈なども書かれています。少なくとも北林氏の“学説”よりはずっと科学的です。一読をお勧めいたします。

by 彰往考来

422愚鈍凡夫:2005/01/16(日) 19:09

以下の日蝕の資料は「不動・愛染感見記」に関連して以前に調べたものです。ここの掲示板にも投稿した内容です。もし、訂正があれば宜しくお願いします。

蓮祖と日蝕

 ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿

 1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
◎1223(貞応2)年09月26日----10月03日--------09月01日----02
 1227(嘉禄3)年07月15日----07月22日--------06月01日----06
 1233(天福1)年10月05日----10月12日--------09月01日----12
 1237(嘉禎3)年12月19日----12月26日--------12月01日----16
◎1243(寛元1)年03月22日----03月29日--------03月01日----22
 1245(寛元3)年07月25日----08月01日--------07月01日----24
◎1249(建長1)年05月14日----05月21日--------04月01日----28
 1252(建長4)年03月11日----03月18日--------01月30日----31
 1260(正元2)年04月12日----04月19日--------03月01日----39
 1265(文永2)年01月19日----01月26日--------01月01日----44
 1268(文永5)年11月06日----11月13日--------10月01日----47
 1271(文永8)年09月06日----09月13日--------08月01日----50
 1272(文永9)年08月25日----09月01日--------08月01日----51
◎1275(建治1)年06月25日----07月02日--------06月01日----54
◎1277(建治3)年10月28日----11月04日--------10月01日----56
 1282(弘安5)年08月05日----08月12日--------07月01日----61
 1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)

423愚鈍凡夫:2005/01/16(日) 19:13

申し遅れました。◎は皆既日食です。悪しからず。 m(_ _)m

424愚鈍凡夫:2005/01/16(日) 19:22

再度、済みません。説明不足です。

ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)

この日付けは日蝕とは関係ありません。単に蓮祖の生誕日と入滅日を記しただけです。 m(_ _)m

425彰往考来:2005/01/17(月) 13:08
>422
愚鈍凡夫さん、

同じ視点でご覧になっておられる人がいるのですね。感心いたしました。
調査してご報告したいと考えます。

ところで、
>掲示板にも投稿した内容
とありますが、場所を教えていただけませんか?過去ログの量が多く、
とても全部拝見できません。

426愚鈍凡夫:2005/01/17(月) 14:45

竜口の光り物の話から発展して、「素朴な疑問」の>>1573>>1609あたりに鎌倉時代の天変地異、日蝕問題が話題になっています。
>>422の表は、「素朴な疑問」の>>1704に投稿しています(「不動・愛染感見記」とは違う話題でした。ごめんなさい)。

427顕正居士:2005/01/17(月) 14:50
『不動愛染感見記』についてはWebに高森大乗さんの論考があります。

http://www.asahi-net.or.jp/~ia8d-tkmr/subcontents11.html

『感見記』への言及の初出は『祖師伝』のようです。重要文化財に指定されています。
建長6年の元旦に日蝕があったという記事が当時の文献には見当たらない件ですが、
「感見」という場合、その状況は次の3つのどれかです。

1 覚醒時の幻覚
2 明晰夢
3 夢想

虚空蔵菩薩より宝珠を賜ったのは夢想です。愛染明王感見は明晰夢の可能性がある
と考えます。明晰夢では五感の印象がほぼ覚醒時と変わりません。したがってリアルな
日蝕を見ることはあり得ます。以前に日蝕を見たことがあればですが。

妙法曼荼羅には釈迦多宝がなくても不動愛染は必ずあり、最初は首題と不動愛染だけ
だったのだから、『感見記』のような祖書があって然るべきです。『感見記』に違和感を
いだく理由は基礎的な単語の理解に混乱があるためかとおもいます。「真言」という語は
東密をさし、「天台」には台密を含みます。日蓮が円仁、円珍を批判したのは「理同事勝」
という評価で、東密の「顕劣密勝」の教判を暗黙に認めることになると考えたからです。

*原文は「蝕」でなく、虫扁に虫の字だという。この字は『異体字辞典』
 http://140.111.1.40/main.htm には見つからない。

http://www.geocities.jp/xianzhengjp/

428名無し@富士門流:2005/01/17(月) 16:59

私も高森師の論考には関心があります。

最大の関心事は、最下部の「※ 本稿の執筆にあたり、立正大学日蓮教学研究所副所長の小松邦彰氏、同研究員の都守基一氏、興風談所の菅原関道氏・坂井法曄氏より教示を得た。記して謝意を表する次第である。」だったりして。

脱線しますが、「竜の口のひかりもの」伝説は日蓮信仰を絶対的確信に導くお話しですね。
これが本当の話しなら、たとえ偶然の出来事といえども、法華経が釈迦の実説でなくとも、日蓮が本仏でなくとも、日蓮信仰は続くのでしょうね。

429名無し@富士門流:2005/01/18(火) 00:30

自己レスですが、「竜の口のひかりもの」といえば、北林氏は「日蓮大聖人と最蓮房」の中で、「ひかりもの」の正体を究明?していましたね。

http://www.houonsha.co.jp/nichisai/020.html

思ったより面白いですね〜

430顕正居士:2005/01/18(火) 04:09
寿永3年(1184年)の一の谷の合戦で捕虜になった平盛久は鎌倉に送られ、文治2年(1186年)に
由比ガ浜で斬首されることになった。しかし盛久の所持する経巻(観音経)が光りを放ち、土屋宗遠
は目が眩み、剣は真っ二つに折れてしまった。奇瑞に感じた源頼朝は平盛久を赦免したという。
この話は『平家物語』にあり、謡曲『盛久』で知られている。鎌倉に「盛久頚座」という史跡がある。

竜ノ口法難とその際の奇瑞については日蓮宗以外の文献には記録がない。奇瑞について記した
祖書は『種種御振舞御書』であるが、この書には古来真偽の論がある。したがって日蓮宗外では
竜ノ口法難そのものの存在が疑われて来た。しかし『開目抄』などの記述から頚の座と赦免という
史実はあったのだとおもう。奇瑞は平盛久の話から作られた可能性が高いとおもいます。

431彰往考来:2005/01/18(火) 07:19
愚鈍凡夫さん、

>426
過去に日食について色々議論されていたのですね。読んでいませんでした。(汗) そスレッドでの議論ではステラナビゲータも出てきて、この掲示板のレベルの高さを伺わせます。(再度、汗々)

>422
『古天文学の道』によれば、422の資料のうち『吾妻鏡』に日食記事の記載があるのは下記6点です。旧暦(( )内は西暦)で示します。422の資料の出典は不明ですが不正見と夜日食は除かれていますね。日本では日食がなかったのだから当然でしょう。内田正男編著『日本暦日原典〔第四版〕』(550頁)には、記録にある日食のOppolzer食表での計算結果のうち京都と鎌倉での食分が記載されていましたので併せて引用します。

 旧  暦         鎌倉での食の概食      食分(京都/鎌倉)
貞応2(1223)年9月朔  深食正見(0.81)         8/8
嘉禄3(1227)年6月朔  浅食正見(0.12)         1/1
嘉禎3(1237)年12月朔  雨天不確認、実は深食(0.82)   8/8
寛元3(1245)年7月朔  深食正見(0.85)         9/9
建長4(1252)年2月朔  深食正見(0.91)         9/9
文永2(1265)年正月朔  雨天不確認、実は半食(0.68)   7/7

422では皆既日食を5点示されていますが、『日本暦日原典〔第四版〕』で食分(京都/鎌倉)が10/10(すなわち皆既日食)とされたのは5点のうち建長元年と建治元年の2回で、貞応2年は8/8、寛元元年は9/8、建治3年は9/9となっています。
『吾妻鏡』は文永3年までなので建治の2点は記録がありません。また建長元年も『吾妻鏡』は欠けているので当然記録がないなど完璧ではありません。
日食は太陽と月の交点の近くで朔になる時に起こります。従って旧暦では必ず朔(ついたち)の日が日食のある可能性のある日となります。飛鳥時代の記録などで三月二日など朔ではない日に日食が起こっている記録がありますが、これは当時使用されていた元嘉暦が平均朔望月をつかういわゆる「平朔法」であったためで、日蓮大聖人の時代は宣明暦でした。この暦は日月の運行に遅速のあることを考慮に入れた「定朔法」と考えられ、この場合には日食は必ず朔に起こります。事実『吾妻鏡』の記録でも建長4年は2月朔に日食の記載があります。故に422で建長4年1月30日とあるのは2月朔の誤り(ユリウス暦は3月12日になります)と考えます。

<参考資料>
内田正男編著『日本暦日原典〔第四版〕』(平成4年、雄山閣出版)
岡田芳朗『暦のからくり』(1999年、はまの出版)
斉藤国治『星の古記録』(1997年第3刷、岩波新書)
斉藤国治『古天文学の道』(1990年、原書房)

432彰往考来:2005/01/18(火) 07:21

自己レスです。

日蓮大聖人の御本尊は虚空会の儀式を表しているとよく説明されます。(例えば『日蓮大聖人御書辞典』(昭和51年、聖教新聞社、264頁))
たしかに首題を宝塔ととらえれば、釈迦牟尼仏と多宝如来を始め諸尊の観請はそうなのでしょう。(詳しいことはわかりません。あしからず) しかし不動明王と愛染明王は違うでしょう。しかも梵字でしたためてあるのです。この理由は?と考えたときに日蓮大聖人の強烈な宗教体験ではないかと思うわけです。(あくまで個人の意見です) そう考えると、不動愛染感見記は実に興味深いものなのです。但し、私の考えたようなことを説明するために後世に偽作された可能性もあります。私は不動愛染感見記の真偽判断はむずかしいと考えます。『日蓮と最蓮房』のように単純に偽筆と決めつけるには、もう少し説明が必要と思います。少なくともなぜ御本尊に不動・愛染が梵字でしたためてあるかを明確にしてから始めて偽筆だといいきれる環境になると考えます。『日蓮と最蓮房』ではそのようなアプローチもなく、間違った日食記事を基に議論しているのは滑稽でしかありません。
『御本尊集』に対する考えも間違っています。偽筆が入っていると指摘するなら、その理由を明確にするべきです。それをしないで、ただ、9番、18番、67番、114番、115番、その他十体前後がおかしいといっても犬の遠吠えにすぎません。まじめに研究している人への冒涜だと思います。

433彰往考来:2005/01/18(火) 07:30

顕正居士さん、

>427

ご紹介の高森大乗さんの小論は平成13年10月27日に実施された第54回日蓮宗教学研究発表大会で「日蓮聖人遺文『不動愛染感見記』小考」と題して発表された内容をまとめ直されたものと思います。
私は当日のご発表を拝聴いたしましたが、静岡県管引本成寺蔵の木版画『不動愛染感見記』では、『愛染感見記』の上部が切れていないのは、木版画が作成された当時切れていなかったのか、加筆されたのかは解らないとおっしゃっていました。ご発表では図絵の分析などもあり非常に興味深いものでした。

434犀角独歩:2005/01/18(火) 08:45

彰往考来さんは創価学会で教学を学んだのですか。

> 日蓮大聖人の御本尊は虚空会の儀式

この件に関しては過去に議論したことがありますが、『本尊三度相伝』、一度・本尊口伝に

「此の本尊大漫荼羅とは霊山一会の儀式を書き顕はす処なり」

と明確に示されます。また要山義でも

「日蓮霊山会上多宝塔中に於て、親り釈尊より直授し奉る秘法」
「霊山浄土多宝塔中久遠実成無上覚王の直授相承」
「久遠下種・霊山得脱・妙法値遇の衆生を利せんが為」
「脱益の説所と戒壇の本迹 霊山は本」
「久遠は下種、霊山は得脱」

等と言います。
これを漫荼羅本尊が虚空会を顕したなどと言うのは『人間革命』です。
古来よりの本尊書写相伝とは違っている独自教学?ですね。

余談ながら、「本門寺の戒壇は西面に立つ可き」と相伝されますから、南面に建てた正本堂は、彼山の言葉を持って言えば「不相伝」の建立であったわけです。

しかし、上述はともかく、『日蓮と最蓮房』への指摘は、たいへんに参考になり、その酷評は賛同するところ大でした。

435犀角独歩:2005/01/18(火) 09:08

久方の顕正居士さんの御投稿を拝読でき、年が明けた実感がようやくと沸きました。
有り難うございます。
また、たいへんに興味深い論考のご紹介、重ねて感謝申し上げます。

感見記の「日蓮授新佛」、この読みに関しても正鵠を得ているという感想を懐きました。「日蓮、新仏(子)に授ける」、もしくは「日蓮、新佛を授ける」でしょうか。

以前、この書が議論に及んだ際、わたしはこれは師資相伝の免許のようなものではないのかということを書いたわけです。高森師は、この点を述べて、昭師に係る辰師伝を紹介しながらも、蓮・興・目・郷の相伝譜に重きを置いている点が注目されました。となれば、この書を蹴る道師以後の相承は、亜流であるとなり、郷門こそ正嫡と読める点は興味深いものがあったわけです。

蓮師漫荼羅、秘された密儀、この点の興味を沸き立たせて已まない名論稿であると思った次第です。

436顕正居士:2005/01/18(火) 10:44
妙法曼荼羅はまずは虚空会の表現といえます。これは天台智邈の大蘇開悟の体験に由来するでしょう。
ゆえに首題は二仏並坐の宝塔をあらわす。しかしこの宝塔は又よそにあるものではなく衆生の仏性です。
宝塔の内容である釈迦多宝の境地冥合の智とは虚空蔵菩薩より賜った如意宝珠で、一念三千の教理
自体です。

「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠をつつみ、末代幼稚の頚に
懸けさしめたまふ」(『本尊抄』)

題目は袋であり一念三千の教理をつつんでいる。この意味では妙法曼荼羅は袋であり、首題は一念三千
をあらわす。宝珠自体である。だから「密観宝珠」であり、これを如意輪、不動、愛染の三尊であらわす。
妙法曼荼羅の意趣は顕教(教相)と密教(観心)との二重構造になっているのではないでしょうか。

「密観宝珠」
http://www.narahaku.go.jp/resources/kiyo/01/kiyo-01-02.htm

437犀角独歩:2005/01/18(火) 11:07

顕正居士さん、ご教示有り難うございます。

> 妙法曼荼羅はまずは虚空会の表現

の「まずは」という点を注視しました。
これが「天台智邈の大蘇開悟に由来」という点を拝受いたしました。
上行等に託された使命は滅後弘教ですから、虚空会付属に留まらず、後霊鷲山以降に重点が置かれるわけですね。ですから、二仏並座から、四菩薩脇士と言った有様はたしかに虚空会の儀式に相違ないので、たしかに「まずは」、そうであるというご教示と拝しました。

しかし、蓮師の漫荼羅を旗印にした化導は、まさしく滅後弘教であるので、これを霊山を標としないとただの空論に畢ることになります。
蓮師の直説であるというわけではありませんが、この点の教学系譜は『就・註法華経・口伝』が見事に表現しています。これはまた、先に挙げた本尊口伝とその趣を同じくしていると思えます。

 第十四 時我及衆僧 倶出霊鷲山の事
 御義口伝に云はく、霊山一会儼然未散の文なり。時とは感応末法の時なり、我とは釈尊、及とは菩薩、聖衆を衆僧と説かれたり。倶とは十界なり、霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出づるなり。秘すべし秘すべし。仍って事の一念三千の明文なり。御本尊は此の文を顕はし出だし玉ふなり。されば倶とは不変真如の理なり、出とは随縁真如の智なり。倶とは一念なり、出とは三千なり云云。
又云はく、時とは本時娑婆世界の時なり。下は十界宛然の曼陀羅を顕はす文なり。其の故は時とは末法第五時の時なり。我とは釈尊、及は菩薩、衆僧は二乗、倶とは六道なり。出とは霊山浄土に列出するなり。霊山とは御本尊並びに日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者の住処を説くなり云云。

438愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 11:24

>>431:に彰往考来さんが紹介下さった日蝕について、参考までに「吾妻鑑」と照合してみます。

ユリウス暦-------------------グレゴリオ暦-----旧 暦
1223(貞応2)年9月26日--------10月3日--------9月1日
1227(嘉禄3)年7月15日--7月22日--------6月1日
1237(嘉禎3)年12月19日--------12月26日--------12月1日
1245(寛元3)年7月25日---------8月1日--------7月1日
1252(建長4)年3月11日---------3月18日--------2月1日
1265(文永2)年1月19日---------1月26日--------1月1日

吾妻鑑の記述

貞応2年9月1日 庚子 今暁甚雨、日中に及び晴天
未の二刻日蝕、正現す。三分蝕と。

嘉禄3年6月1日 戊申 霽
日蝕正現す(四分)。

嘉禎3年12月1日 戊寅 雨降る
日蝕正現せず。昨日天晴、夜半以後陰雲、丑寅の刻より雨降る。蝕時分に愛染金剛如法佛(五指量)を造立せらる。主計の頭これを奉行す。

寛元3年7月1日 癸巳 天霽
日蝕現ず。

建長4年2月1日 乙卯 天晴
巳の一点日三分正現す。

文永2年1月1日 辛未
日蝕なり。然れども去る夜より雨降り、蝕見えず。仍って御所を裹むに及ばず。椀飯(左典厩御沙汰)を行わる。但し御簾を垂れ出御無し(土御門大納言催すに依って、構え参らるると雖も、用意ばかりなり)。御劔役人は越後の守實時、御調度は越前の前司時廣、御行騰沓は秋田城の介泰盛。
一の御馬 陸奥の十郎忠時 工藤次郎左衛門の尉
二の御馬 越後の四郎顕時 武藤三郎兵衛の尉
三の御馬 城六郎兵衛の尉顕盛 同九郎長景
四の御馬 筑前四郎左衛門の尉行佐 同五郎左衛門の尉行重
五の御馬 相模の七郎宗頼 工藤三郎左衛門の尉

「吾妻鏡目次」
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma.html

439彰往考来:2005/01/18(火) 12:19
>438

愚鈍凡夫さん、

ありがとうございました。『吾妻鏡』は」ネットで見られるのですね。
参考になりました。

440彰往考来:2005/01/18(火) 12:32
>434,436,437

顕正居士さん、犀角独歩さん、

ご教示ありがとうございます。前々から疑問に思っていた点でした。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

>434
犀角独歩さん

ご賛同いただきありがとうございます。

442犀角独歩:2005/01/18(火) 18:02

再度、顕正居士さん:

先のわたしのレス(437)は、特に二処三会と曼荼羅図示相伝の関係にのみに拘泥し、肝心要のご教示につき触れませんでした。この点をまずお詫び申し上げます。さて、

> 如意輪、不動、愛染の三尊
> 妙法曼荼羅の意趣は顕教(教相)と密教(観心)との二重構造

とは、途方もない慧眼であると拝しました。
容易く莠言を吐くわけには参りません。
熟考し、改めて、ご返信申し上げる所存でございますが、いまのところ、いつのことになるか、年末になるか、若しくは10年先になるか、申し上げることはできません。
実に深いご教示を賜りましたことを謹んで、深く御礼申し上げるばかりでございます。
一つの謎を解くご指南を賜ったことと衷心より嬉しく感じております。
有り難うございました。

443愚鈍凡夫:2005/01/18(火) 19:38

彰往考来さん、どうもです。
「吾妻鏡」で、こんなサイトもありますので紹介しておきます。

「吾妻鏡本文データ」
http://www.nijl.ac.jp/databases/db-room/genpon/azumatop.htm

444彰往考来:2005/01/19(水) 08:18
>443

愚鈍凡夫さん、

ご紹介ありがとうございました。こちらの
データベースは充実していますね。原文
の雰囲気がよくでていて、よくぞここまで
と思いました。人物画像もおもしろかった
です。

445ケン:2005/01/21(金) 19:06
>421 彰往考来さん

いきなりで失礼します。

斉藤氏の『星の古記録』には「竜ノ口の法難」の際の光物や
「依智の星下り」に対する天文学者としての解釈なども書かれていますとのこと
ですが、どのように書かれているのか、簡単に教えていただくことは
できませんか。

なお、斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、絶版とのことです。
また、本日、神保町の山陽堂(岩波ビル2F)に寄って、探して
もらいましたが、今は見あたらないということでした。
山陽堂のご主人は、「気をつけて探しておくので、しばらくしたら
寄ってみてください。」と言ってくれましたが、ないとなると、
内容が気になるものですから。宜しくお願いします。

446ケン:2005/01/22(土) 14:48
>445
彰往考来さん
斉藤国治『星の古記録』(岩波新書)は、区立図書館から借りました。
お騒がせしました。

447祝8郎:2005/01/23(日) 14:33
彫刻本尊は大石寺では日蓮直筆と主張しているのですよね。
しかもそれは「本門戒壇の本尊」である、と。
もしそうであるならば、真筆の立正安国論や観心本尊抄などの国宝よりも価値があることになりますね。
この掲示板は大石寺の僧や信徒、顕正会の人も見ているとのことなので、彼らは国宝認定の請願運動をすぐにでも起こしていいのではないでしょうか。
なぜそういったことをしないのでしょうか。不思議です。
これは犀角独歩さんの御説の反対するということではなく、大石寺僧俗が彫刻本尊を本物だと言うのであれば考えて当然のことではないか、という疑問です。

448祝8郎:2005/01/23(日) 14:52
すみません、447はスレッドをまちがえました。

449彰往考来:2005/01/23(日) 15:44
>446
ケンさん、始めまして。
図書館で借りられたとのこと。了解です。なお、
『星の古記録』は追記があるので2刷以後がよい
です。

450ケン:2005/01/23(日) 16:20
>449 
彰往考来さん
恐縮です。

区立図書館で借りた本は、「第1刷」でした。
「日蓮上人と星」の部分(109〜113頁)
にも、追記があるのでしょうか。

451犀角独歩:2005/01/23(日) 16:38

なんだか、どうでもいいですが、竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよね、まさか。

452彰往考来:2005/01/23(日) 16:59
>
ケンさんへ、

2刷以後の追記は「第一章 星月に入る−星食」の最後の頁(3刷では28頁)にあります。
その箇所を以下に引用します。「日蓮上人と星」の部分には追記はありません。

〔第二刷に際しての追記〕一版の時には前述の問題の回答が出せなかったが、その後キメこまかい検証をおこなったところ、確かな回答が得られた。それは永仁六年十二月十二日(ユリウス暦で一二九九年一月一五日)の夜半すぎに、火星が月の南縁の外○・三八度の距離に迫って「犯」がおきているとわかったことである。
 この月火の犯は中国の『元史』「天文志」にも
  成宗の大徳二年十二月乙丑(十二日、一二九九年一月一五日)、大陰●惑(●字は螢の虫のところが火)を犯す
とある。中国の官廷天文官は日本のお寺の童子のいう「月と星の相撲」を同夜に観察し、記録していたのである。このことの詳細は筆者の別著『古天文学の道』(一九九○)の一三七頁を見られたい。

以上です。なお、この計算結果により得られた「坊主御返事」の永仁六年という年次は『日興上人全集』(平成8年、興風談所)の156頁の頭注に記載されています。
今回の問題とは直接関係ありませんが、日興門流と関係する記事なので追記を指摘させていただいた次第です。

453犀角独歩[TRACKBACK]:2005/01/23(日) 18:36

竜口法難については、以下の顕正居士さんのご賢察がありました。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1084417030/r430

まあ、この件も、ずいぶんと議論しあってきた話の一つとなりました。

やや余談ですが、それでも、斬首が行われそうになったことは事実で、このとき、蓮師はそれまでの自分は死んだのだという宗教的な自覚をもたれのであろうと拝察いたします。また、蓮師は頸を斬られたと思った人々もあった。そこに佐渡から手紙が届いて、幽霊から来たのかと恐ろしがった人もあった…、などという当時の模様が『開目抄』から窺えます。

「日蓮といいし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば、おそろしくておそろしからず。みん人いかにおじずらむ」

と記されるところは、そのような意味だと、わたしは読んだのですが、これは違っていますか。

また、学会を含む石山教学では、この宗教的な体験を本仏日蓮が凡夫身を発て本仏身を開顕したとして発迹顕本に充てます。しかし、『三沢鈔』には

「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候し已前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ」

とあります。発迹顕本、ならば、五重義でいえば本迹相待。しかし「爾前」とくれば、権実相待ということになり、さらに凡夫・仏身ではなく、「法門の事」の範疇です。

(『三沢鈔』、新訂などでは「日興写本」。『平成新修日蓮聖人遺文集』不掲載。
三沢鈔(三沢第二書)建治四年二月。五十七歳作。真蹟在京都妙覚寺。内一九ノ二〇。遺二四ノ三四。縮一七〇二。類五七八。としながら、写本扱)

454彰往考来:2005/01/23(日) 20:07
>451
犀角独歩さん、

そうです、そのまさかです。(ワハハ、冗談!)

『星の古記録』には「龍の口の法難」の際の光物について天文学者の広瀬秀雄氏の研究を紹介し、氏の研究ではこのときおひつじ・おうし座流星群の一流星が出現したとしています。

また『星の古記録』では「依智の星下り」の際の「明星のごとき大星」について宵の明星、すなわち金星とし、このとき計算では日没後の西天に光度マイナス三・五等の金星が輝いていたはずであると記しています。

かかる故事が事実を伝えているかは別にして天文学者のアプローチは興味深いものがあります。「いずれにせよ日蓮にかかわる星の記事はそれぞれ事実の裏付けがあるようにみえる(113頁)」と指摘されています。

参考までに「龍の口の法難」の際の光物についての広瀬秀雄氏の研究は、「日蓮上人〝龍の口〟法難の時の天変について」と題して昭和29年の『天文と気象6月号』(地人書館、13頁)に掲載されています。

>453

難しいことはよくわかりませんが、犀角独歩さんがおっしゃているようなことが現実であったろうと思います。

455彰往考来:2005/01/23(日) 20:10

自己レスです。

北林氏は『日蓮と最蓮房』第17章で「十一通御書」を取り上げ、「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」と述べています。一読して内容のないのに驚きました。開いた口が塞がらないとはこのことです。論破しておくといいながら偽書説の内容に触れるわけでもなく当然ながら論破のロの字も出てきません。自分の都合のよい字句を並べ立てただけの全く情けない文章だと思います。『日蓮と最蓮房』がインターネットで公開されているので、僭越ながら私の考えをインターネットの掲示板で述べたいと思います。
 北林氏は『貞観政要』の引用が「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることや、「北条時宗の御状」の中に、「暗中の錦衣」とあり、「強仁状御返事」に「暗中に錦」とあることから「十一通御書」が偽書ではないとしています。しかしこれは全く可笑しな論法です。『貞観政要』の引用が同じグループである「十一通御書」の「北条時宗への御状」や「平左衛門尉頼綱への御状」に出てくることは著者が同一人物である傍証にすぎませんし、類似の言葉が他の御書に出てくるから偽書ではないとはよく言えたものです。私が「暗中の錦衣」という言葉を使って偽書を作成したら北林氏は真蹟と思うのでしょうか? 偽作者は当然日蓮大聖人の御書に通じているはずで類似表現があったからといって真蹟である証明にはならないのです。『三大秘法抄なぜ真作か』のようにコンピュータを使って計量文献学として研究したのであれば話は別ですが今回のケースはたった一つの言葉を取り上げた単なる思いつきにすぎないものです。
私が目を疑ったのは、「大仏殿別当への御状」にある蒙古牒状の捉え方です。北林氏は「至元三年丙寅正月日と「大仏殿別当への御状」にあるが、東大寺の記録では八月であるから「八月」を「正月」と記載して間違っていることにより、東大寺に残されているような牒状そのものを引用して作出したものでないことがわかる(要旨)」としています。また北林氏は「中国の至元三年は文永三年にあたり、間違いなく丙寅だ」としてあたかもこれらが真蹟で有る証拠であるかの書きぶりです。彼がなぜ“間違いなく丙寅”と騒いでいるのか理解できませんが、恐らくは偽文書に干支の誤りが多いことによるのでしょう。しかしながらただ干支が合っているからといって真蹟である証明にはなりません。そんな単純なものではないのです。何より北林氏のいう“東大寺に残されている牒状”とは、宗性(しゅうしょう)という学僧が書いた『調伏異朝怨敵抄』という書物に収まっている写しであって実物ではないのです。まして川添昭二氏の『日蓮と蒙古襲来』50頁に掲載されている写真で明かなように牒状には至元三年八月日とあって干支の記載がないのです。北林氏には「しっかり目を開いて資料の写真を見なさい!」と言いたいですね。「大仏殿別当への御状」に干支の記載があるのは北林氏の主張とは逆に「十一通御書」が後世のものである疑いが発生します。もちろん『調伏異朝怨敵抄』とは別の異本があった可能性も否定できませんが。

456彰往考来:2005/01/23(日) 20:11

455の続きです。

浅井要麟氏は「十一通御書の研究」(『日蓮聖人教學の研究』354頁に集録)で種々の観点から疑問を投げかけておられます。これは「十一通御書」の真偽を議論する上で避けて通れない論文です。浅井氏は上記の正月についても、他の資料には後の正月(閏月)とあり「十一通御書」が閏正月でないのを疑問視しています。また「十一通御書」が最初に出てくる文献は『註畫讃』ですが脚色が多いので信用できないことや、『本満寺御書』に集録された経緯などを考察されています。北林氏は『本満寺御書』を『本満寺録外御書』と表現していますが、現行の録外二十五巻二百五十九通では「十一通御書」が除かれている(各種の録外御書を綜合統一する際に重複を避け偽筆の疑いのあるものを除いた)ことを彼はご存知ないようです。北林氏は『日蓮と最蓮房』第20章で「種種御振舞御書」に関して小川泰堂氏を批判されていますが、録外で除外されていた「十一通御書」を再び高祖遺文録に載録したのはほかならぬ小川泰堂氏なのですよ。そのためその後の縮刷遺文や類纂遺文録等に載録されているのです。(『日蓮聖人教學の研究』359頁参照)縮刷遺文にあるためでしょうか創価学会版御書全集や昭和定本にも載録されています。創価学会版御書全集の係年は縮刷遺文とほとんど同じですから関連しているといっても過言ではないでしょう。
北林氏が「偽書だと言っている学者がいる(中略)偽書であると言う者が、後世に出ないために、しっかりと論破しておく必要がある」というのであれば、少なくとも「十一通御書の研究」で指摘された事項をきちんと論破してから自論を展開しなさいと最後に申し上げておきます。それとも尻尾を巻いて逃げ去りますか?

by 彰往考来

<参考資料>
浅井要麟『日蓮聖人教學の研究』(昭和44年(第2刷、初版は昭和20年)、平楽寺書店)
川添昭二『日蓮と蒙古襲来』(昭和59年、清水書院)
『續群書類従 第九輯上 傳部(日蓮聖人註畫讃)』(昭和56年訂正3版、続群書類従完成会)
伊藤瑞叡『なぜいま三大秘法抄か』(平成9年、降文館)
伊藤瑞叡『三大秘法抄なぜ真作か』(平成9年、降文館)
加藤文雅編『霊艮閣版 日蓮聖人御遺文 縮冊御遺文』(昭和42年重刻新版、山喜房佛書林)
堀日亨編『日蓮大聖人御書全集』(昭和46年67刷(初版昭和27年)、創価学会)
立正大學日蓮教學研究所編『昭和定本 日蓮聖人遺文 第一巻』(昭和63年改定増補版、身延山久遠寺)

457犀角独歩:2005/01/23(日) 22:52

454 彰往考来さん、そうでしたか(笑)
でも、まあ、たしかに名無し@富士門流さんも仰っていましたが、日蓮信仰を支えている物語の一つですね。わたしも感動したくちです。

455、456のご論功、たいへんに参考になりました。
ただし、本論からずれますが、伊藤瑞叡師の研究、わたしは山上師のほうに軍配を揚げます。

458犀角独歩:2005/01/23(日) 23:02

自己レスです。
以前のわたしのHPに転載していた文章です。

*** 以下、転載 ***


2001年8月、横浜で開催された、正信会による日蓮聖人の世界展において入手した同会の『これからの御書』というパンフレットに興味深い記述があったので、資料として、ここに転載した。
 このコンピュータシステムのことはさておくが、このなかに記された『「三大秘法抄」の真偽』という山上師なる方の文章は石山系においては画期的なものであると感じる。


『三大秘法抄の真偽』正信会・山上師

「三大秘法抄」の真偽問題は、古来ずいぶん甲論乙駁されてきたが、山川智応氏が、文章表現に若干の違和感を示しつつも真撰御書と断定して以来、あまり議論がなされなくなった。しかし近時、伊藤瑞叡氏等がコンピューターによる使用語句等の分析を試み、その結果真撰説を支持し、新聞でも何度か報道され話題となった。御書の真偽判定は、いろいろな角度からなされるべきであり、コンピューターによる分析が試みられたこと自体評価されてしかるべきであろう。だがその分析方法が妥当であるか否かは慎重に検討されなければならない。伊藤氏等がおこなった方法は、諸御書の文体や言語の特徴を抽出分析し、「三大秘法抄」にその特徴が出ているか否かを判定するというものである。しかし、もとより偽書はそれらしく作られるのであるから、あまり妥当な方法とはいえないであろう。

 そこでここでは、御書システムを使った「三大秘法抄」に関する一つの分析成果を提示して、真偽論の進展に供したいと思う。御書システムにはすべての御書を対象に10段階に種別されている。R0=真蹟完存からR5=上代諸師写本現存までが、一往信頼度の高い基準となるべき御書。R6は上記の御書と下記R7〜R9を除くすべての御書。ここには真偽未決御書が多く含まれている。R7〜R9は相伝書や偽書など聖人の筆とは認められないものである。

 さてそこで、「三大秘法抄」に使われる言葉で、若干特徴的な仏教用語「無作三身」と「一身即三身」を使用している御書を検索すると、興味深い分析結果が得られた。すなわちこれらの仏教用語は、意外にも信頼度の高いR5までの御書には一度も使われず、R6の、中でも真偽未決御書である「当体義抄」「一念三千法門」「授職潅頂口伝抄」「十八円満抄」、さらにR9の「成仏法華肝心口伝身造鈔」「万法一如抄」「無作三身口伝抄」と、いずれも疑義濃厚な御書に使われているのである。この分析結果からは、「三大秘法抄」を真撰とするには少なからず疑問があるといわざるをえない。

 この他にも、これほど決定的でなくとも、いくつかの特徴的な文言を抽出し、細かな分析をすればぱより確かな結果を得ることができるであろう。勿論この結果がすべてを決するというわけではない。思想的な面から来歴の問題等、いろいろな角度から再度研究される必要があろう。しかし御書システムによる分析結果は、今後「三大秘法抄」の真偽を論ずる上で、少なからず問題提起となることだけは確かであろう。(山上)

(『これからの御書』データベース型御書システム 11頁より転載)

459彰往考来:2005/01/24(月) 07:34
>457,458
犀角独歩さん、

ご教示ありがとうございました。山上氏の研究は説得力がありますね。
長年の疑問がひとつ氷解した思いでした。

重ねて御礼申し上げます。

460犀角独歩:2005/01/25(火) 13:17

日蓮聖人の三光天子物語、彰往考来さんのご紹介を拝読しながら考えたのですが、この成立、案外、顛末が逆かもしれませんね。

天文学者が指摘したり、また、古記録にでてくる天文気象上の事実がまずあり、それにあやかって物語が成立したという順番です。そうなれば、古記録、天文学的計算や、事実から導き出されることと一致するのは当然のこととなります。

関連しますが、たぶん、日蝕、月蝕を予言した支配者階級は、あたかも自分の祈りによって天変が生じたように、その時期に合わせて巧みに物語を紡ぎ、自分自身に関連させ、人々を恐怖と畏敬の念でひれ伏させ、支配を可能にしたのでしょう。

461彰往考来:2005/01/25(火) 18:06
>460
犀角独歩さん、

 う〜ん、どうでしょうか。日蝕、月蝕あたりはそのようなことはあるかもしれません。
ただ、日蝕に関して卑弥呼は日蝕発生のため威厳がなくなり殺されたという説もあります。
金星(明星)の最大光輝では、あとからとってつけたような話を作るのはむずかしいでしょうね。
でもまあ、視点としては面白いですね。とても私に発想できる内容ではありません。

462犀角独歩:2005/01/25(火) 21:40:28

先だって、日蓮宗大本山の「御前様」と話していたのですが、「龍口法難の光り物…、事実じゃないでしょう。ああいった語り物語を、いまで言う講壇調に語られて、それが幾重にも伝説になって、物語になって、人々を感動させ、いつしか、聖人の御遺文のように編纂されたのでしょうねぇ。しかし、そうした聖人への恭敬の念は、信仰の糧となってきたのは事実でしょう」と語っておりましたね。

なかなか、冷静な遺文への姿勢、けれど、その伝承が紡いだ信仰心と、見事に整合性が取られた聞くに穏やかな感動を懐いた一幕でした。

たしかに卑弥呼が日蝕で殺されたとしても、それは日蝕が、そのような扱われてきた経緯があったればこそでしょうね。

わたしの棲む近くに「洗足池」という池があります。蓮師入滅の池上は、その池の上という意味であろうと思います。蓮師が、池上邸に向かう途中、この池で足を洗われたことに名が由来するといいます。辺の袈裟掛けの松が名所にもなっています。
この伝承、しかし、弘法大師信仰でも同じことが言われているのを知り、いささか驚いたことがあります。

まあ、伝承、伝説、物語、ここで常に意識しなければならないのは「肖り」ということでしょうね。いつも彰往考来さんのご論攷を拝見していると、「真面目一本にお考えだな」と(笑)

感見記の「日[虫*虫]」が日蝕か否か。龍口光物なんかから離れますが、蓮師が生身の虚空蔵菩薩から智慧の珠を授かった求聞持法という秘法は、秘薬として、水銀を使うわけですね。丹と関連の深い空海も然り、水俣病、あるいは奈良大仏造立鍍金でも知られますが、水銀は中毒症状を引き起こしますね。後付物語と言うより、蓮師は薬物中毒、若しくはその後遺症のなかで、種々の奇瑞を「見ていた」のかも知れませんね。そうなると、これまた、まったく天文気象とはかけ離れた話になるかも知れません。この辺は、雖念さんが、ご賢察をお持ちのところでしょう。

463ケン:2005/01/26(水) 06:34:41
>452 
彰往考来さん
御丁寧なご回答をいただきありがとうございます。
また、お礼が遅れて申し訳ありません。
(区立図書館で本を借りた後、
仕事場にこもっていましたので、
拝見するのが遅れました。ところで、
「版」ではなく、「刷」にも追記のある
場合があることを始めて知りました。)

ボクは、難しいことは良く分かりませんし、
特に勉強をしているわけではありませんが、
以前、この掲示板で、竜口の光り物
について質問をさせていただき、
諸兄から色々教えていただいたことがあります。

その際に感じたことは、現在伝えられている
種種御振舞御書の少なくとも1部分は
真跡が存在した可能性があるという点に
一応、説得力を感じています。

一方で、処刑を防止させる程の光り物が
現実に起きたとする点には、従来から
疑問を感じていましたし、依智の星下りに
至っては論外と思っていました。

しかし、処刑を防止させる程の光り物が、
自然現象として、現実に発生可能であるとする説明が
自然科学の立場から可能であるなら、そのような
説明は、今でも聞いてみたいと思っています。

自然科学の立場から、説得力のある説明ができない
のなら、種種御振舞御書におけるこれらの記述部分が
真跡に由来しているという立場には説得力を
感じないと言わざるを得ません。

464彰往考来:2005/01/26(水) 07:55:31
>463
ケンさん、

>「版」ではなく、「刷」にも追記のある

そうなんです。ちょっと困ったものです。
浅井要燐氏の『日蓮聖人教学の研究』も同じです。

自然科学の立場からの話はひとつの考え方であって
伝説の存在を証明できるものではないと思っていま
す。それはともかく、色々は人のお考えを拝聴する
ことはとてもよいことです。小生の紹介が貴殿のお
役にたてたようでうれしく思っています。

彰往考来

465彰往考来:2005/01/26(水) 07:56:48
>464

訂正です。

誤:色々は
正:色々な

お詫びするとともに訂正いたします。

466顕正居士:2005/01/26(水) 12:14:14
>462

法華経信仰には教理の方面と霊験の方面があります。日蓮の滅後に霊験を中心とする祖師信仰が形成
された。これら伝説を排除した「純正日蓮主義」は智学居士田中巴之助によって近代に提唱された。智学
は「竜ノ口法難」は史実に非ずとする史学界に対し史実であると主張した。「竜ノ口法難」は日蓮宗の文献
以外には記録がないが日蓮の真蹟遺文から史実であったと想像される。しかし、『高祖遺文録』の本集に
ついてはすべて真撰と(仮に)扱う智学の教学が普及し、竜ノ口の奇跡も史実になった。次は明治時代に
著述された日蓮伝の説であります。

足立栗園著『赤裸にしたる日蓮大士』第18章「竜ノ口法難」
http://kindai.ndl.go.jp/cgi-bin/img/BIImgFrame.cgi?JP_NUM=40049105&VOL_NUM=00000&KOMA=47&ITYPE=0

*『高祖遺文録』
小川泰道(1814-78)編。本集は真書と真偽未決書。続集は偽書。今日の凡ゆる遺文集はこの本集を根源
とする。というか、ほとんど変わらない。真偽未決書の解明は昭和時代の浅井要鱗の研究からはじまった。

467犀角独歩:2005/01/27(木) 00:10:33

顕正居士さん、ご教示、有り難うございます。

蓮師に係る一代記が、近代に出来上がったものであることは、案外知られていないことである反省は、わたしにもあります。

わたしが吃驚したのは、蓮師の随身仏が海中出現、船守弥三郎の寄進という類の話も、比較的新しい語りであることでした。

教理と霊験、しかし、光り物は…という、論の展開は簡潔ながら、重みがございました。
今後ともご教示のほど、よろしくお願い申し上げます。

468名無し@富士門流:2005/01/27(木) 02:29:35

「光もの」一つにも、皆様の博識にはただただ敬服するばかりです。

日興師筆「宗祖御遷化記録」によりますと、宗祖入滅時に大地震動があったと出てきますが、これもなにかの方便なんでしょうか?

それとも弘安五年十月十三日に池上近郊で、地震があったという記録はあるのでしょうか?

諸兄の御教示を賜れればと存じます。

469犀角独歩:2005/01/27(木) 11:39:08

名無し@富士門流さん:

蓮師逝去の際の地震、そのタイムラグはどれくらいかわかりませんが、御遷化記録は信頼できる記述であるとわたしは思います。他の諸賢はどのようにお考えでしょうか。
また、時ならぬ桜が咲いたといことですが、蓮師が亡くなったという場所に建つ本行寺には季節はずれに咲く桜があります。藁科さんが、このお花見のご報告を投稿されたと記憶します。

470犀角独歩:2005/01/27(木) 11:45:42

【469の訂正】

誤)藁科さん
正)ワラシナさん

失礼しました。

471働き者:2005/01/27(木) 11:50:03
みなさん、はじめまして。教学的な発言ができないのでこんなことで書き込みさせていただきました。
そういえば先日NHKで放送していたのですが、鯛の浦なんかも何かあるんでしょうか。
地元の漁業に携る人たちは、鯛は決してとらないそうで、万が一網にかかったりしたら、誕生寺で供養してもらっているそうです。
私は日蓮宗の信仰者ではありませんがここを拝見させて頂いて、そうゆうのも日蓮さんの御威光なのかな、ともおもいまして。
失礼しました。

472犀角独歩:2005/01/27(木) 12:14:06

働き者さん、はじめまして。

鯛ノ浦の遊覧船は、わたしも乗ったことがあります。
不思議な場所であると思います。
まあ、このような因果関係を460でその顛末が逆ではないのかとわたしは考えるわけです。
しかし、鯛が群生していれば、直ちに漁に出るところ、それを妨げたのは、あの場所が蓮師誕生の聖地であることと関連しているだろうとは想像できますね。
あと、蓮華淵でしたか、蓮師誕生の折、真水にしか咲かないはずの蓮が海中から咲いたという伝説が残る場所がありました。

473名無し@富士門流:2005/01/27(木) 21:56:54

犀角独歩さん、今晩は。

>本行寺には季節はずれに咲く桜があります

これは品種的にそのような桜なのでしょうか。
それとも全国的に稀にみる桜なのでしょうか。
十月に咲く桜ということは、秋桜(コスモス)でしょうか。
御教示くださいませ。

宗祖入滅時の大地震動や、季節外れの桜が咲く等は、かなりオカルトチックな伝承ですが、たまたま偶然宗祖入滅時におこった現象(現証ではありません)として、弘安五年十月十三日の池上近郊での地震が観測されていたりするのかな〜などと、これまでの議論を拝見してふと思いました。
貴重な御議論の邪魔をしてしまったならばすみません。

474れん:2005/01/27(木) 22:00:00
名無し@富士門流さん、蓮師御遷化の際の地震についてですが、日興師の宗祖御遷化記録の他に、大石寺四世日道師の御傳土代に「弘安五年みつのへむま十月十三日たつのとき聖人御遷化、此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん(萬人)一同ニ日蓮の御はう(房)他界ト云々。ふしきふしき」の記述をみます。道師は蓮師滅後の弘安六年の出生で勿論、蓮師御遷化に立ち合ってないのですから、これは、興・目両師からの伝聞に属することですが、「此時に大地しんとうす、此時かまくらのはんみん一同ニ日蓮の御はう他界云々」が事実ならば、神奈川から東京にかけて揺れが観測?された関東南部の地震ということになりましょうか。しかし、この地震は他の当時代の記録に残っているのでしょうか?この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方ともに筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。

475愚鈍凡夫:2005/01/27(木) 22:16:01

名無し@富士門流さん今晩は。
いろいろと資料をあさってみたのですが、1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。

小生が去年の12月中頃、大阪の十三あたりをチャリンコで走ってましたら、公園の小さな桜の木が花を咲かせてましたよ。春先と同じような陽気が続いたせいでしょうか。内心、「こいつ変わったやっちゃなぁ、春になったらどないすんねんやろ」といらぬ心配をしてしまいました。 (^▽^;)
異常気象が原因で、植物の体内時計に狂いが生じているのかも知れませんね。

曖昧な記憶ですが、九州あたりに秋に咲く桜の木があったように思います。

476名無し@富士門流:2005/01/27(木) 23:21:03

れんさん、愚鈍凡夫さん、今晩は。
種々の御教示ありがとう御座います。

>逆にこの二件の記録だけでは、蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。

>1282(弘安5)年に東海・関東方面で地震があったという記録は見つかりませんでした。

やはりそうですか。

愚鈍凡夫さんの十二月の桜で思い出したのですが、銀座の柳の葉も季節をまちがえてまだ葉を音さずにいるとのことでした。

「大地震動」や「季節はずれの花が咲く」等は、いかにも聖者の入滅時らしいので、、、
できれば偶然でもいいので、事実として地震があってくれたなら嬉しかったのですが。

残念!!

477名無し@富士門流:2005/01/27(木) 23:22:46

訂正です。

>葉を音さずに



「葉を落とさずに」の誤りです。

失礼しました。

478彰往考来:2005/01/28(金) 07:31:33
愚鈍凡夫さんのスレッド424にありますように

ユリウス暦---------------グレゴリオ暦----旧暦--------聖寿
1222(承久4)年02月28日----03月07日--------02月16日----01(誕生)
1282(弘安5)年11月14日----11月21日--------10月13日(入滅)

ですから新暦では入滅日は11月14日です。このころは関東では少し
寒いころです。10月ではありません。
700年前と現在で気象に差があるかどうかわかりませんが、季節はず
れの桜を議論されるのであれば、このあたりも考慮される必要がありま
す。もっとも475で12月に咲く桜を指摘されていますので、関係な
いかぁ〜。

479犀角独歩[TRACKBACK]:2005/01/28(金) 11:54:31

名無し@富士門流さん

本行寺さんに電話をして、お尋ねしたところ、旧暦の10月、新暦の11月ぐらいから咲き出し、いまも咲いているそうです。「御会式桜」という名称で親しまれているとのことでした。造園業者に、手入れもさせて大切に守っているそうです。

寺院の言い伝えでは、蓮師入滅に、時ならぬ花を咲かせたその桜の木を幾世代も守ってきたということでしたね。

たしかこの件は、ワラシナさんがご投稿なさっていたと思い、探してみましたら、ありました。
つぶやきすれっど2
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/r726

ワラシナさんのリリカルさが伝わるご投稿でした。
品種であるとのことでした。
いまも咲いているとのことですので、わたしも花見に行って観て来ようと思います。

480彰往考来:2005/01/28(金) 17:30:02
>479

へ〜え・・。 「御会式桜」ですか。伝説と合致する自然現象があるのですね。

481犀角独歩:2005/01/28(金) 18:59:45

474 れんさんのご投稿を読み飛ばしていました。

そうですか、「厳しい」ですか。


480 彰往考来さん

御会式桜で検索したら、本行寺以外でも植樹しているところがありました。

http://kyoto.jr-central.co.jp/kyoto.nsf/pltr/pl13846200434
http://homepage1.nifty.com/morino/sakura/2004/kyoto/041126_1.html
http://myojyuji.or.jp/syoryubyo/parts.html#sakura

本門寺
http://www.asahi-net.or.jp/~uu2n-mnt/kyuseki/hon_saku.html

ほかにもたくさんあるようで、蓮師入滅の桜の開花にあやかり、植樹されていったのでしょうね。


で、ここで疑問ですが、池上には蓮師入滅の時、この品種が偶然植わっていたのでしょうか。それをふつうの桜しか知らないお弟子が観て驚いて出来た伝承なのでしょうか。

まあ、時ならぬ桜が沙羅双樹のごとく…といったほうが風情がありますね。

482名無し@富士門流:2005/01/28(金) 19:10:18

犀角独歩さん、御教示ありがとう御座います。

遠方から駆けつけた弟子達は、時ならぬ桜の開花に宗祖の威徳が天をも動かしたものかと思ったでしょうね。
単なる偶然だとしても、いい話しだと思います。

483犀角独歩:2005/01/28(金) 19:27:15

名無し@富士門流さん、そうですね。賛同します。

484れん:2005/01/28(金) 20:45:59
481 犀角独歩さん、私の「厳しい」はちょっと言い過ぎた表現かもしれませんが、蓮師門下のみの記述だけでは、客観的にみて史実として立証は難しいかな?という意味で‘厳しい’と書きました。しかし、考えてみますと、宗祖御遷化記録は蓮師御遷化(地震があった時)から三日後の弘安五年十月十六日に興師が執筆したものであり、かつ、本紙裏の継ぎ目には昭師・朗師・興師・持師が花押を記していて、公文書とでも言うべきものですから、御遷化記録の記述は信用できるものと思いますので、蓮師御遷化時の地震は全くの作り話というわけではなく、やはり地震はあったのかもしれませんね。古代中世の考えとして、聖者がなくなる時には地震等が起きるみたいな話がありましたから、偶然とはいえ、蓮師御遷化時に起きた‘地震’は門弟達にとってある意味感慨深く受けとめられたものと思います。

485犀角独歩:2005/01/28(金) 21:08:44

れんさん、どうも。

それにしてもご指摘の通り、道師の記述まで信用すれば、少なくとも、池上から鎌倉を含む範囲で体感される地震があったことになります。なんか他の記録に残っていてくれればという思いに駆られます。

486ケン:2005/01/30(日) 06:55:09
れんさん
犀角独歩さん
日ごろから、勉強させていただいています(もっとも、当方の基礎知識が不足しているため、
理解できるのは、残念ながら1~2割以下ですが)。
さて、大石寺日道の『御伝土代』について、れんさんや犀角独歩さんが考えていらっ
しゃる信憑性の程度を、初心者向けに教えてください。もし、信憑性をかなり低くお考え
であれば、その理由もご教示いただけると幸いです。
質問させていただく所以は、れんさんや犀角独歩さんの以下のご発言です。

れんさんのご発言と、質問は以下の通りです。
>474 「この地震を記録した興師の宗祖御遷化記録・道師の御伝土代は双方とも
に筆者の正本が現存しますから、信憑性がありますが、逆にこの二件の記録だけでは、
蓮師御遷化時の地震を史実とみなすことは少しばかり厳しいですね。」
ここで、「筆者の正本が現存」の意味は、『御伝土代』の正本全篇が写真などで公開
されているということでしょうか。あるいは、どなたかが「正本(日道筆)である」と言明して
いるということでしょうか。
ところで、『御伝土代』の正本は、その全篇が大石寺に存在するのでしょうか。

>484 「御遷化記録の記述は信用できるものと思います」と仰っているものの、
「御伝土代」について特に言及されていないのは、100%の信憑性をおけない何らか
の理由があるからでしょうか。例えば、正本(日道筆)であることに100%の信頼をおけな
いということでしょうか、あるいは正本現存(日道筆)は100%確実だが、筆者(日道)に
100%の信頼をおけないということでしょうか。

487ケン:2005/01/30(日) 06:57:25
続きです。
犀角独歩さんのご発言と、『御伝土代』についての質問は以下の通りです。
>485  「道師の記述まで信用すれば」のご発言も、正本(日道筆)であること
に対してか、筆者に対してかのいずれか又は両方に何らかの疑問をお持ちの
ように感じられます。どのようにお考えでしょうか。
>451  「竜口法難の光り物をまさか事実であると思っての議論じゃないですよ
ね」とのご発言から、「光り物」が事実であるはずはないとのお考えをお示しい
ただいたものと思います。
一方で、以前、「光り物」に関する『御伝土代』の記述と『種種御振舞御書』の記述と
を対比されて、「比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らか
と思えます。・・・『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。」とご教示を
頂いたことがあります(素朴な疑問: 867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09)。
独歩さんのお考えは、『種種御振舞御書』における「光り物」の記述部分については、
『御伝土代』の記述を看過することはできないが、『御伝土代』自体は、そもそもほとんど
信用に足るものではないということでしょうか。

なお、「素朴な疑問」における独歩さんのご見解(全文)を念のため、以下に
引用しておきます。
****** 引用開始 ******
>867名前: 犀角独歩 投稿日: 2003/11/04(火) 06:09
ケンさん:
横レス失礼いたします。
なるほど、『御伝土代』ですか。この存在を忘れていました。
「江島の方より月の如く光りたる物鞠の様にて辰巳の方より戌亥の方へ光り渡る、十二日夜の明闇人の面も見えざりしが、物の光月夜の様にて人の面皆見え、兵士ども興醒て一丁許り馳せ除きて、或ひは馬より下りて畏こまり、或は馬の上にて蹲まる物もあり」
『種種御振舞御書』では
「江のしまのかたより月のごとくひかり物、まり(鞠)のやうにて辰巳のかたより戌亥のかたへひかりわたる。十二日の夜のあけぐれ(味爽)人の面もみへざりしが、物のひかり月よ(夜)のやうにて人人の面もみなみゆ。太刀取目くらみたふれ臥し、兵共おぢ怖れけうさめ(興醒)て一町計りはせのき、或は馬よりをりてかしこまり、或は馬の上にてうずくま(蹲踞)れるもあり」
でした。比較してみれば、同じ所伝に従って、記述されたことは明らかと思えます。
今成師は、この記述を「これはどうみても日蓮聖人ご自身の文体ではない」としています。
けれど、『御伝土代』は元弘3(1333)年の書と目され、となれば、竜口法難の文永8(1271)年から62年後、かなり信憑性は高いと思えます。『種々御振舞御書』の記述が蓮師の書でないとしても、たしかに『御伝土代』の記述は看過できないものがありますね。
****** 引用終わり ******

488犀角独歩:2005/01/30(日) 08:13:21

ケンさん、ほんじつ、わたしはこれから、東京より長岡に行かなければなりません。
帰りは明日です。ネット、モバイル環境はなく、掲示板の閲覧、メールのチェックもできません。恐縮ですが、明日以降、改めて管見を記させていただくことにします。ご了解ください。

489犀角独歩:2005/01/30(日) 08:25:03

わたしの大事な友人が、今回の地震議論をロムし、メールを送ってくださいました。
ご本人の了解を得て、転載させていただきました。

*** 以下転載 ***

…なにやら日蓮さんの没時にあったとされる地震の話が・・・。
…結論から申し上げますと、日蓮入滅(1282年=弘安5年10月13日)
に際して関東で大きな地震があったという信頼に足る客観的記録・資料は、
私の調べた限り、日蓮関係の伝承以外に確認できませんでした。

ただ当時の日本列島は、いわゆる(地殻変動の)大活動期の
まっただ中にあったと思われます(ちなみに、最近の日本も
またまた活動期に突入したといわれているようですが・・・汗)。

ご承知のことと思いますが、1257年=康元2年には
日蓮の伝記などにしばしば登場する『鎌倉大地震』が
起こったのをはじめとして、その前後の南関東では
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/tenpen/ihen02.htm
http://contest.thinkquest.gr.jp/tqj2000/30295/history/japan.html
にまとめられているように、やはり同じく『鎌倉大地震』と称せられる
大地震(1222、1223、1293年etc)や、おそらくそれら一連の
地殻・地震活動の一環と思われる大小様々な地震が頻発していますし、
さらに日本列島全体を見れば、大きなところでは京都大地震(1224年)や
阿蘇山噴火(1265年=文永2年、以降たびたび噴火を繰り返し、
日蓮没の前年1281年=弘安4年閏7月にも大噴火)、
さらに1281年=弘安4年6月には浅間山の歴史的大噴火
(一説には、現在の浅間山の姿はこの時の噴火でできあがったと
言われているhttp://www.takamine-kougen.co.jp/page6.html
http://www3.ocn.ne.jp/~nippou/topics.htm
と、立て続けに天変地異が起こったといわれています。
――ただし1281年の浅間山大噴火に関しては、その事実そのもの、
あるいは少なくともその規模には近年大きな疑問が投げかけられており、
http://www.edu.gunma-u.ac.jp/~hayakawa/volcanoes/asama/asamasiryo/honbun.html
そんなことで上記リンク先の『天変地異年表』には記されていないのかもしれませ
ん)

そういうさなかの弘安5年10月に仮に関東で地震があったとしても
何ら不思議ではなく、いやむしろ当時の日本、とりわけ南関東では
地震など、日蓮入滅との関係を云々する以前に、
日常茶飯事の出来事だったとさえ言ってよいのではないかと思われます。

が、いずれにせよその地震は、仮に事実あったとしても、上記資料などを
眺める限り、当時として種々の記録にわざわざ特筆されるほどの規模では
なかったようですし、まあ(わざわざ独歩さんに言うまでもないことですが)
世界の歴史をひもとけば、この手の話は宗教家のみならず、
政治家などの偉人の伝説には付き物の話であり、
意地悪な言い方をすれば、もしも日蓮さんが前年に亡くなっていたら、
浅間山や阿蘇山の大噴火と関連づけられた伝説ができていたかもしれず、
またもしもこの年に運良く(笑)彗星でも現れていれば、
ここでも新たな『光り物伝説』が生まれていたかもしれず・・・
といったわけですな。(^^)…

*** 転載おわり ***

以上、ご参考までに

490ケン:2005/01/30(日) 18:09:08
>488
犀角独歩さん

お忙しい中を、余計なことをお願いして
申し訳ありません。
当方は、全く急いでいません。
1箇月や2箇月以上先でも構いませんので、
お時間ができてからということで、
宜しくお願いします。

491れん:2005/01/30(日) 22:40:21
ケンさん、はじめまして。486におけるご質問ですが、より適切なご解答は犀角独歩さんがご教示くださることと存じますが、私へのご質問につきまして、お答えします。先ず「筆者の正本が存在」の意味ですが、残念ながら「御伝土代」の正本全体の写真は公開されてませんが、正本の一部分の写真が石山や石山系の団体の出版物に掲載されています(継命新聞社刊「日興上人」など)。また、石山正本を活字翻刻したものは、日蓮宗宗学全書第二巻興門集道師の部に収録掲載されたものと、富士宗学要集宗史部・日蓮正宗歴代法主全書第一巻に収録掲載されたものがあり、興風談所の大黒喜道師編「日興門流上代事典でも正本富士大石寺としておりますから、信用してよいと思います。なお日興門流上代事典の記述によると正本の影写本が東大史料編纂所に所蔵とのことです。次に484において特に御伝土代に言及しなかったのは、御伝土代は興師目師よりの伝承をその直弟子である道師が記したという点では貴重ですが、著者日道師自身は蓮師滅後の出生で蓮師御遷化時の地震に居合わせなかったのですから、御伝土代における道師の地震の記述はあくまで伝聞に基づくものであり、地震のあったその場に居合わせた興師が地震のあったわすか三日後に記述した宗祖御遷化記録に比べると蓮師御遷化時の地震を証する史料としては価値が少しさがると見まして、特に言及しなかった次第です。以上適切な回答とはいきませんが、ご参考になれば幸いです。

492ケン:2005/01/31(月) 00:25:05
れんさん
分かりやすくご説明していただき有難うございます。
資料としては、信用のおけるものと考えてよろしいと
いうことですね。
有難うございました。

493顕正居士:2005/01/31(月) 05:44:44
>>487 三師御伝土代と種々御振舞御書

三師御伝土代には種々御振舞御書とほぼ同じ文があります。しかし「祖書に云く」とはありませんし
文章も全同でないから、種々御振舞御書からの引用ではなくて伝承の記載であろうかとおもいます。
三師御伝土代と種々御振舞御書に共通のなんらかの複数の伝承群があったのではないでしょうか。

文献学は新約聖書の成立についての研究から発達しました。共観福音書のイエス伝の記述には
異同が多い。もとの書式化された伝承が複数あったと考えます。

新約聖書のイエス伝はさまざまな過去の神々、英雄の神話と伝説を摂取し、イエスの没後約100年
に共観福音書として成立したと考えられています。
したがって三師御伝土代の真偽を疑う必要はなく日蓮伝説はこの頃にもとが形成されたのでしょう。

494愚鈍凡夫:2005/01/31(月) 06:35:22

顕正居士さん、おはようございます。

今に伝わる日蓮伝は、口伝・口授で伝えられていたものが、「御伝土代」「種種御振舞御書」などによって文書化され、現在のような日蓮像として伝承されてきたと考えられるのでしょうか。

495犀角独歩:2005/02/01(火) 01:02:45

ケンさん、本日は疲労困憊です。
明日、記させていただきます。
ここら辺は、実におもしろいところですね。

496犀角独歩:2005/02/01(火) 12:28:22

ケンさん、既にれんさん、また顕正居士さんが、ご賢察をご披露くださり、ここに愚見を陳べる用もございませんね。

やや論点を代えて申し上げます。
わたしは生まれながら、日蓮本仏論が身に滲みた一人でした。
物心ついたときに、語られる日蓮本仏、戒壇本尊、数々の奇跡物語は、至極当然の「現実」そのものでした。もっといえば、創価学会絶対、池田「先生」絶対、さらに石山絶対、法主絶対も至極当然のことでした。

それを再考し、実像に迫りだして、しばしの時間が経過しました。
わたしがいま感じる晩年の「日蓮」は、炯々とした密教的な要素は持つものの、老いさらばえ、やせ細った生身のその人です。夢破れ、それでも弟子の育成に晩年を過ごし、乏しい食に飢えを感じ、衰えた身体に供養の酒を含み、腹の熱くなることに涙を流す老僧です。本仏などという誇大表現からほど遠い、弱々しい死に行く病衰、老衰したその人です。けれど、数々の奇跡物語で彩られた本仏より、わたしはそんな「日蓮」にこそ、恭敬の念を抱きます。

いわば、いまのわたしにとって、蓮師の奇跡物語は、言葉は悪いのですが、「どうでもよいこと」に属します。

反面、これはたとえば、シャキャムニの超人化などでも同様ですが、自分の信念体系の中心者をどんどんと超人化させ、神格化(いや、仏格化というべきでしょうか)させていく人々の心理のからくり構造に滑稽さを感じるのも事実です。なぜ、そのような物語が紡がれていったのか…、むしろ、その奇跡物語を振り回し力説の裏にある、そのようなものでしか支えられない浮き草のような信仰の危うさばかりが目につきます。そこに見え隠れするのは、生老病死を恐れ、そのことを忘れ、「祈願成就」「不老不死」という願望という煩悩に現実から目を逸らす虚仮威しの威勢であり、それは裏を返せば、極端の戦(おのの)きと不安、弱さというコンプレックスがなせる態とすら覚えます。

『御伝土代』が道師真筆として、そこに記された「光り物伝説」はしかし、蓮師真跡に見られるところはありませんでした。興師もまた語りませんでした。となれば、このような物語を書き記す頃、既に蓮師にかかる超人化、潤色が既にその兆しを見せていたと歴史的経緯でとらえるほうが自然ではないのかと思えます。

光り物という奇跡で、斬首を免れた日蓮より、いざ、首の座に据えられた「ただいまなり」と覚悟したやさき、刑の執行が中止された日蓮の心中の変遷のほうが、よほど、人間味があるものです。

蓮師に係る奇跡物語に、なぜ自分は固執したのか?、そんな自己分析は、実は新たな目を見開かせてくれるものだった…、とその経験を語り、答えに代えさせていただきます。

497ケン:2005/02/01(火) 12:59:47
顕正居士さん、有難うございます。
ボクは、「光り物」が創作であるとすれば、その創作が行われたのは、日道の
時代から時間がかなり経過してからだと、なんとなく思っていました(もちろ
ん、根拠があるわけではありません)。したがって、『御伝土代』も偽作された
ものと思っていました。
しかし、「三師御伝土代の真偽を疑う必要」がなく、しかも「光り物」が創作
であるとなると、日興や日目、あるいは他の五老僧が活動していた時期に、
既に、伝説が創作されつつあったことになるのでしょうか。なんとなく、
早すぎるような気がするのですが、そんなものでしょうか。

498ケン:2005/02/01(火) 13:05:21
犀角独歩さん
お忙しい中を有難うございます。
497は、独歩さんからのご回答を見ていない状態で発信してしまい、
大変失礼しました。後で、もう一度良く、読ませていただきます。
取り急ぎ御礼まで。

499れん:2005/02/01(火) 19:42:37
ケンさん、先日、興風談所さんからお送り戴いた「興風」第十六号を拝見させていただいたところ、興風談所の池田令道師の「大石寺蔵『御伝土代』の作者について」という論文が掲載されておりました。師は御伝土代の筆者について、御伝土代と日時師筆との文字対照をおこない、その他御伝土代の内容の検討をされた上で、御伝土代を全文日時師筆と結論されておられます。私はこれまで、御伝土代を日道師の著作としてきましたが、池田令道師の興風第十六号に掲載された論考における結論が妥当であると考えますので、これまでの御伝土代=日道師著という認識・自説を改め、今後は私も御伝土代=日時師作と比定いたします。

500犀角独歩:2005/02/01(火) 23:09:52

れんさん、499の説を証憑する場合、では、なぜ時師は道師のなぜ仮託したのでしょうか。
また、そうなると、光り物伝説の成立は、だいたいいつ頃となりましょうか。

501れん:2005/02/02(水) 15:15:49
犀角独歩さん、御伝土代を時師は道師に仮託して制作したわけではないです。御伝土代には筆者による署名・花押は無く、江戸期前半までの石山歴代の認識は何れも日時師制作というものでした(興師伝に日興上人御遺告〇日道記之とありますが、これは引用にすぎず御伝土代を道師筆とする根拠にはならないと言えます)。すなわち、了玄日精師の家中抄の「日興伝」「日時伝」に三師の伝(御伝土代)を日時作と記録し、三玄日典師は御伝土代の奥書に「三師之傳 日時上人御制作御真筆 日典(花押)」とある通りです。江戸後期の経道日因師にいたりはじめて日道師制作説が唱えられ(因師の三四会合抄・新田南条両家之事)、堀日亨師により道師著述説が定着したものの如くです。今回、池田令道師が御伝土代正本の影写本をもとに時師筆との文字対照を行い御伝土代を時師筆と比定したことで、御伝土代にの作者執筆者について精師・典師の認識が正しかったことが証されたことになります。なお、竜口法難のひかりものについては、御伝土代が時師撰とした場合、御伝土代をもってその最古記録とすることは出来なくなります。とすると、偽書ながら西山日代師の置文により正平十五年(一三六0)以前の成立が確定している「法華本門宗要抄」に‘竜口のひかりもの’の記述が見えますから、‘竜口のひかりもの’の伝説の成立は一三六0年以前ということになろうかと思います。

502犀角独歩:2005/02/02(水) 15:47:11

れんさん、明確なご教示、深く感謝申し上げます。
また、池田師の研究に敬意を表します。

それにしても、光り物伝説は道師(蓮滅52年)に遡れず、1360年、すなわち蓮滅80年前後の成立ですか。わたしどもが明治天皇の逸話をあれこれと紡ぐ話…、いや、現在のわたしが熊田著『日蓮上人』を語り、彰往考来さんが応師の事跡を探る時間差に比せます。しかし、現代と蓮師門下上代、同じ時間差と見てはいけませんでしょうね。

勉強になりました。今更ながら、自分の浅識、不勉強を恥じ入るものです。
有り難うございました。

503吉祥仙人:2005/02/02(水) 22:59:59
 素朴な疑問なのですが、
 竜の口の法難に際し何等かの異常事態がなかったとすれば、なぜ日蓮大聖人は
首をはねられなかったのでしょうか?
 そのへんをどう考察されているのか御教授ください。

504ケン:2005/02/03(木) 01:57:42
れんさん
地道にこつこつと研究されている方がいらっしゃり、それを
きっちりとフォローしている方もいらっしゃることがよく分かりました。
有り難うございました。

505彰往考来:2005/02/03(木) 07:32:57
>501

横レス失礼します。

昨夜、自宅へ帰ると『興風』16号が届いていました。私も池田令道師の御伝土代=日時
師作が妥当であると思いました。

なお、同号には菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」が記載されてい
て、『龍泉寺申状案』の異筆三紙の筆跡はこれまでいわれていた下野公日秀あるいは白蓮
阿閣梨日興ではなく富木常忍筆と推定してよいと思われるとされています。
池田師の御伝土代のご指摘と併せ非常に思うところがあり、ゆっくり考えてみたいと思い
ます。

506名無し@富士門流:2005/02/03(木) 11:42:46

>505

彰往考来さん、今日は。

>菅原関道師の「中山法華経寺聖教に見える異筆文書の考察」

これは、御書システムのコラムにも出ていました。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~goshosys/colum_ft.html

写真入で説得力のある論考ですね。

507犀角独歩:2005/02/03(木) 12:22:49

> 503

竜口刎頸中止については、古くから疑問視されていました。わたしは、学生時代に『創価学会のまちがいをただす』(−キリスト教折伏に答えて−森山諭著)で、この点に触れていたのを読んだのが初見でした。(30年前の話です)

「文永8年9月12日、竜の口の法難となった。このとき、江ノ島の方より不思議な光り物が現れて、死刑執行者が倒れ、日蓮は奇跡的に救われたとの伝説は、彼を不世出の傑僧に祭り上げさせているが、それは後生の偽作らしく…、鎌倉建長寺方丈道隆(大道禅師)の除名運動が功を奏して、死一等を減じられ、佐渡流罪になったという説が本当らしい」(26頁)
「平田篤胤の著『出定笑語附録の部』に、「竜の口の法難は後世の偽作である」と記し、「日蓮自身の筆には、その時の奇跡的な救いについては何も書いておられない。ただ、旅館まで行ったがそのうちに赦されたということのみを記しており、更に近江国(おうみのくに・滋賀県)の住人徳水如茂彦という人が来て、日蓮が鎌倉建長寺方丈に対して、『貴僧の助命運動によって死一等を減じられ、遠流で済んだことは、生々世々忘れない」という感謝状を、同寺に送っているものの写しを持って来て見せた」と記している」(162頁)

この感謝状の文面は尤もらしいのですが、しかし、文永10年佐渡にあって、『小乗大乗分別鈔』に

「道隆…法師等(ども)は鳩鴿(いえはと)が糞を食するが如し」(平成新修333頁)

と記されるわけで、竜口から2年ばかりしか経たず、感謝状を送った相手に、こんな裏腹なことを言うような真似を蓮師はしないであろうと思われます。

故高木豊師は、以下のように類推しています。

「断罪に処そうとする意図があったにもかかわらず、結局は死刑が免ぜられ、流罪に処せられたのは、北条時宗の妻の懐妊によると考えられる。事実、この歳、貞時が誕生している(辻善之助『日本仏教史』中世篇之二)。これに関連して、日蓮が「大がく(学)と申す人は普通の人にはにず、日蓮が御かんきの時身をすてヽかたうど(方人)して候し人」(『大学三郎御書』平遺784頁)と、大学三郎の行為について述べていることに注目したい。大学三郎については、伝承を除けば、ほとんど未詳だが、ただわずかに、大学允(だいがくじょう)という日蓮の檀越の子息であったろうこと、書に秀で、書を好んだ安達泰盛(あだちやすもり)と書を通じての交りをもっていたことがわかる程度である。ところで、大学三郎と親交のあった泰盛はほかならぬ時宗の舅(しゅうと)、つまり時宗の妻の父であり、解任した子(のちの貞時)の祖父に当たる人である。この関係と日蓮の大学三郎についての叙述とを重ね合わせれば、大学三郎が泰盛に働きかけ、泰盛は婿(むこ)時宗に孫の懐妊中における日蓮の刎頸中止を進言したのではなかろうか。「身をすててかたうど」した意味を、右の関係のなかに置いてみることは十分可能である」(増補改訂『日蓮』太田出版92頁)

わたしは、高木師の説が頷けます。

508彰往考来:2005/02/03(木) 12:45:41

>506
名無し@富士門流さん、

 コラムのほうが菅原師の心情がよく現れていますね。
ご紹介ありがとうございました。


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