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近現代史綜合スレ

414荷主研究者:2010/09/23(木) 14:08:53

http://www.oita-press.co.jp/localNews/2010_128356523638.html
2010年09月04日 10:50 大分合同新聞
「小倉陸軍造兵廠糸口山製造所」全容解明

豊の国宇佐市塾の例会で調査結果を報告した藤原さん(左)と、糸口山製造所で働いていた当時の様子を語る国東さん=2日、宇佐市森山の教覚寺

 戦時中、宇佐市糸口山に建てられていた「小倉陸軍造兵廠(しょう)糸口山製造所」について、豊の国宇佐市塾メンバーの会社員藤原耕さん(37)=中津市三光=の調査で建物の配置や規模、工員数などが明らかになった。これまで、残された資料もなく全容が分からなかったが、藤原さんが関係者の話や写真、地図などを収集して解明。同市塾はこれを機にさらに調査を進め、糸口山製造所のことを「記録として後世に残す」取り組みを始める。

 糸口山製造所は、北九州市にあった同造兵廠が爆撃を受けたため、移転先の一つとして1944年に建設。9月ごろから順次稼働を始めた。

 藤原さんによると、96万平方メートルの敷地内に機関砲を造る工場や倉庫、事務所などが分散配置され、床面積は44年時点で3万2千平方メートル、45年は6万4千平方メートル。軍人、工員、動員学徒など約1万人が働き、女子挺身(ていしん)隊員など女性も約3900人いた。

 藤原さんが調査に取り掛かったのは昨夏から。旧制宇佐中を卒業後、製図手として製造所に勤務していた国東利行さん(83)=宇佐市南宇佐=に話を聞き、造兵廠同窓会が出した史料を参考に配置図を作成。その後、米軍が戦後撮影した糸口山付近の航空写真や当時の製造所の地図も取り寄せ、調査内容を裏付けた。

 2日夜にあった同市塾の例会で報告。国東さんも参加し、「製造所のことは振り返られていなかったのでありがたい。一番不思議なのは、高い煙突や鉄道の引き込み線もあったのに一度も爆撃を受けなかったこと」などと語った。

 同市塾は工員ら製造所関係者の手記を募っている。平田崇英塾頭は「取っ掛かりができた。証言を寄せてもらい、これだけの規模の工場が稼働していたことを記録としてきちんと残したい」と話している。


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