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創作メモ
90
:
管理人
:2012/03/26(月) 00:17:36
>>88-89
の続き。
カナムラとアラカヒは困ったはずだ。もう駒がないのである。こうなると、入り婿しかないわけだが……。
「石上陛下のご具合は?」「よろしくないな」「困ったな。世継ぎおらんで」
「二十年前の危機の際は、親父がうまいことやってくれたんだが、もうこれは駄目かもわからんね」
「誰か他に初瀬朝倉の大王にやられた世継ぎ候補っていたっけ? その人の遺子がいれば、また同じ作戦が使えるんだが」
「いるかもしれんが、さすがにもう昔すぎて分からんわ。もう入り婿しか無理やろ」「幸い陛下にはちょうどいい娘さんがいるが……」
「そそ。でも相手が難しい。一時は平群にその座を渡すことになりそうだったが……」
「やっこさん、黒かったからなあ。バカ息子が俺の娘に手を出しやがるし。潰して正解やったわ」
「お前が入り婿になるのはどう?」「勘弁してくれ、矢面に立ちたくないわ」「まあな。それは俺もや。ってか俺らは無理やし」
「蘇我は?」「駄目駄目。平群と同じ臭いがするわ。俺の叔父が死んだときの話知ってるか?」「なんか聞いたことあるわ。新羅やっけ?」
「そそ。叔父が戦死して、ただでさえやばかったのに、紀と蘇我が功を競るあまり殺し合いになったらしいから」
「確かにあいつらはあざとすぎるよな」「中央にいる奴は駄目だよ。地方にいいのがいたかなあ?」
「知らんわ」「……、あ、ええのおるわ。しかも高確率で王家の枝分かれやで」「お、ええやん。誰?」
以上が継体擁立の経緯である(大嘘)。つまり脱線してこの話をしたのは、継体擁立は緊急手段であるものの、
あながち変ではないような気がしたので、ちょっと妄想してみたのだ。
91
:
管理人
:2012/03/27(火) 00:35:46
〜前回までのあらすじ〜
>>88-90
それにしても男子王族が全然おらん。オホド以外に誰かいないかと探してみたが、全然おらん。
男はもともと病死しやすい上、安康・雄略代の世継ぎ抗争でほとんどいなくなってしまっておる。ひどいもんだ。
もっとも系譜に書かれていない男王がいるのかもしれないが、現状で調べうる限り、
王族と②の両方を兼ね備えているのはオホドぐらいのもんだ。案外あっさりオホドで決まったのかもしれない。
当然、血が薄いのは自明なので、書記における武烈の記述とかが出てくるんだろうけど。
前にも書いたが、あくまでも仁賢孫(=欽明)までのつなぎなのだ。
安閑・宣化の母方は尾張系である。管理人ははじめ、
>>78
で言えば旧①'=④の尾張なのだから、
尾張系は即位後の嫁だろうかと考えていた。しかし④では意味がないのだ。安閑・宣化は継体即位前からの子だろう。
したがって、安閑・宣化が即位していたのだとしたら、欽明が成長する前に継体が崩御した場合のみと考える。
実際、宣化にも別の仁賢娘があてがわれており、やはりつなぎとしての役割を期待しているように思うのだ。
考えが甘いだろうか? 学者がよく言うように、安閑・宣化と欽明との間に世継ぎ抗争があったと見る方が自然だろうか?
管理人はどっちでもいいと思っている。実際、重臣たちは①+②の欽明につくだろうし、どっちであっても結果は同じだ。
安閑・宣化の即位があったかどうかについても、どっちでもいいと思っている。
92
:
管理人
:2012/03/27(火) 01:10:15
>>91
に付け加えてだが、安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう?
ここで一つ妄想を提示したいのだが、例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。
欽明によって復活した
>>88
の仁徳システムは、いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。
……。ここにきて管理人の主張がやたらシステマチックになってきたのが、なんか萎えるなあ。
んなこたーない、って言われそうだし、自分でもそう思う。5C(おそらく4Cも)の葛城、及び6Cの蘇我が、当然のように
外戚として居座っているので、そう見えてしまうのである。古参であり、なおかつ6C半ばまで最有力氏族である大伴や物部が
全然王統に絡んでこないのもヘンだ。軍事氏族だからか? なんとなく暗黙の了解があるような気がしてしまうのである。許してくれ。
まあいいや。それにしても磐井である。
他者との繋がりを見る限り、北九州・新羅の磐井系も②であるし、息長・近江の継体系も②なのだ。それに加えて磐井の謎めいた台詞。
これは単なる仲間割れじゃないのか? 継体の甘受っぷりにブチきれた磐井が……、とか、
同系の不満分子に唆された安閑・宣化が欽明に……、とか、何とでも考えられそうだが、どう転んでも結果は一つしか見えそうにない。
さて、欽明の嫁は悉く蘇我である。つまり葛城の代わりに蘇我が立てられたわけだ。別に違和感はない。
宮は磯城。全く違和感なし。当然すぎて困るくらいだ。重臣は大連が大伴カナムラ・物部オコシ、大臣が蘇我イナメ。もはやテンプレである。
だいたいにおいて管理人が、播磨王朝的な顕宗・仁賢の乗っ取りやら、近江・越前王朝的な継体の乗っ取りやら、
継体系の安閑・宣化における欽明乗っ取り(或いはその逆)やら、それらにあまり食指が動かないのは、
どの新政権にも普通に大伴と物部がいて、加えて②の有力者(今回は蘇我)が当たり前のようにいるからである。
ふつう、内乱やクーデターっていったら、有力皇子を担いだ氏族間抗争になるんじゃなかろうか? 何も変わってないぞ。
93
:
管理人
:2012/03/27(火) 23:19:10
〜前回までのあらすじ〜
何も変わってないぞ。
ところがどっこい、今後、変わるのである。ついに大伴さんが失脚してしまうのである。
欽明代は三十年くらい続くのであるが、他にも仏教公伝や任那滅亡などという重大事件もこの頃である。
欽明の父は継体、母はタシラカ(仁賢娘)である。タシラカの母は雄略+春日系である。
では、例によって嫁リストの作成を。主だったところを挙げる。
・嫁1:石姫(宣化娘)……これは妥当なところである。宣化は②継体系であり、欽明は①王家正統系なので、
出自としては完璧であろう。石姫の母は仁賢娘(欽明母と同母の姉妹)である。ここの子には後の敏達がいる。
・嫁2:ワカヤ姫(宣化娘)……嫁1と同母の姉妹。
・嫁3:キタシ姫(蘇我稲目娘)……母不明。嫁4や蘇我馬子と兄妹である。欽明とキタシ姫の間には子が十三人もいる。
主な子には、後の用明、後の推古がいる。
・嫁4:オアネ(蘇我稲目娘?)……嫁3の叔母と書かれるのもあるが、たぶん嫁3とは姉妹。
主な子には、後の崇峻、穴穂部間人皇女、穴穂部皇子など。
他にもいるかもしれんが、だいたいこんなもん。蘇我の食い込みっぷりが半端ない。
このあたりからは教科書的な有名人も増えてくるので、ざっくり見ていくことにする。
94
:
管理人
:2012/03/28(水) 22:06:17
再度脱線タイム。
大伴氏について考えてみたい。この人たちはいったいどこからやって来たのか?
管理人は当初から大伴は古参だ古参だと言い続けているか、それが本当かどうかは分からなかったりする。
ただ、何となく、扱われ方が物部と似ているので、古参のような気がするだけである。その点について、ちょっと考えたい。
物部が古参なのは、まあ、分かる話である。彼らは王家が奈良盆地にやって来る前から、そこに居たわけであり(
>>23
)、
言い換えれば王家よりも古参なのである。記紀がそれを書いちゃってるんだから、おそらく間違いないのである。
じゃ、大伴は? 確かに古参っぽいが、物部ほど明確なものがあるわけでもない。謎である。
天孫降臨時にニニギと一緒にやって来た?アマノオシヒってやつが大伴の祖と書かれてある。しかしそれだけじゃ分からん。
もう少し分かりやすい登場は神武代であり、神武東征時に功のあったミチノオミ(大伴道臣)である。やはり分からん。
また、ヤマトタケル東国遠征時にタケヒ(大伴武日)ってのが書記に出てくる。これも怪しい。
その次はようやくまともな感じなのだが、仲哀代の九州遠征同行者タケモツ(大伴武以)である。
そしてその後が5Cの大伴室屋である。これはいくらなんでも離れすぎだ。
しかしあれだ。実態は分からんが、ニニギ、神武、ヤマトタケルあたりと一緒に出てくるくらいだから、
よほど古参だと思うんだが、どうだろうか。これが1個だけなら怪しいが、3回はかなりだと思われる。知らんけど。
大伴タケモツは仲哀代の偉いさんとして、仲哀崩御時に名前が出てくるので、おそらく景行の九州遠征時の武将なんだと思う。
そして、
>>19
のようになったと。もし大伴がこの時、九州サイドの勢力であれば、武内宿禰の子孫と書かれるはずだから、
きっと畿内の旧勢力であろう。天孫降臨、神武東征、ヤマトタケル東征に絡んでいるのだから、
三輪の旧王権を軍事的に支えた存在だと思われる。ちなみに「祭神 アメノオシヒ」「祭神 道臣」で検索してみたが、
大した情報は得られなかった。残念だが、「脱線タイム」などとほざいておきながら、結局何も分かりませんでした。諦める。
95
:
管理人
:2012/03/28(水) 22:42:31
諦めると言いつつ、1点だけ補足。
軍事氏族といえば物部・大伴なわけだが、立ち位置的に前者は国軍、後者は親衛隊なわけですよ。
物部は王家が奈良盆地入りした時点では先着者であったわけだが、その際に王家へと降っている。
で、国軍となっている。ってことは、大伴はこの時点ですでに王家に近い存在だったと思うわけですよ。
王家と一緒に奈良入りしたのではないかと思われる。ミチノオミの話から考えて、王家奈良入りの際に
大伴の助力があったと思うのである。決定的な記述はないが、大伴が古参である状況証拠は揃っているように思う。
まあいいや。そんな大伴は5-6Cの室屋・金村が絶頂期。室屋は允恭・雄略代の重臣であり、
おそらく顕宗・仁賢擁立にも絡んでいるはず。また、その子(孫?)の金村は平群氏討伐や継体擁立に絡んでいる。
ところが欽明政権が誕生してすぐ、大伴金村は失脚してしまうのであった。外交上の失敗を物部尾輿に糾弾されてしまうのだ。
512年頃に百済から任那四県割譲要求があり、それに金村が応じて五経博士を渡来させている。
ところが527年頃に新羅と結んだ磐井の乱があり、その後、540年頃に新羅が任那を併合する事件が起きるのである。
おそらく半島情勢は相変わらずグダグダで、百済VS新羅が任那の取り合いという形になっていたんだろうと思われる。
倭国としては百済に肩入れしてたんだろうが、内乱等で結果失敗となった。しかも金村は百済に賄賂を貰っていた(尾輿談)。
だから金村は駄目なんだ、というのが尾輿の言い分である。言いがかりのようにも聞こえるが、結局金村は失脚、隠居した。
ここからは妄想だが、蘇我の台頭により、物部に危機感があったんじゃないかと思われる。
同クラスの大伴を蹴落としたかったんじゃなかろうか? また、尾輿は金村と共に動いていたアラカヒとは同じ物部でも
やや別系統であり、あまり抵抗もなかったのかもしれない。蘇我にとっても願ったりかなったりで、物部に同調したんだろう。
結果論だが、これでパワーバランスが大きく崩れたと思われる。そして欽明代のさらなる事件、仏教公伝は552年頃。
96
:
管理人
:2012/03/29(木) 21:28:32
有名な書記の翻訳サイトがあるんだけど、武烈代までしか載ってないから
残念ながら継体以降はwiki情報多めであるとお伝えしておきます。
よく言われることだけど、仏教公伝ってのは、まさに公伝であって、私的な伝来は以前からあったわけだし、
また、それはいわゆる廃仏派と言われる集団に属する個人においても、私的な信仰はあったのである。
そりゃホトケも数多いる神様の一つとしか思われていなわけである。
崇仏派と廃仏派の対立というのは、国家を挙げて祭祀するか否かの争いである。
そうなってくると、やはり廃仏派に分があるわけだ。当時、国家レベルの信仰対象の中でも最高位にあるのは三輪山である。
これはもう崇神代から、つまり三百年以上続いているのだ。かつて神功陣営がアマテラス祭祀を持ち込んだこともあったが、
オオモノヌシ様がお怒りになられて、マイナー落ちしてしまった。別にアマテラス信仰が潰えたわけでもなく、
伊勢へ引越して生き続けてはいるものの、やはり最高の神様はオオモノヌシ様なのだ。
神功陣営ですら妥協のオオモノヌシ祭祀によって民心を掌握したわけである。三輪山信仰は王家と切り離せないのである。
欽明は当初、仏像の見事さに関心を持ち、臣下に問うたそうである。以下、臣下の感想を管理人が代弁。
・蘇我イナメ:近来の渡来人と関係を持つのがええやろ。それにホトケをアレにアレしたらアレやで。
・物部オコシ:こっちは古くから王家=三輪の権威に仕えとるんじゃい。ホトケはマイナーでええやろ。
・中臣カマコ:ウチらは伝統的祭祀でメシを食ってますんで。ホトケとかないわー。
ちなみにこのカマコはカマタリとは違う方のカマコである。根拠はないが、管理人はこのカマコの存在を若干怪しんでいる。
97
:
管理人
:2012/03/29(木) 22:03:34
古代において神権と王権は切っても切れない関係にある。信仰を集めることは大事だ。
つまりホトケをアレにアレしたらアレになるわけである。仏教を国教として国家的祭祀をし、成功すれば王権と結びつくわけだ。
蘇我稲目がそう考えたかどうかは知らないが、王家の次に王権の近くにいるのは、間違いなく蘇我稲目である。(
>>93
)
欽明「じゃ、試しにやってみっか!」 → 大失敗。
疫病が流行してしまうのである。仏像の廃棄、仏寺の焼却が黙認されることとなってしまうのであった。
そんなこんなで蘇我はしょんぼりである。といっても、別に蘇我が悪いわけではないので(本心は知らんけど)、
失脚したわけではない。蘇我イナメは財政手腕に長けていたらしく、この争いは後々に再燃するわけである。
一方、ぐちゃぐちゃの半島であるが、百済が大ピンチ。百済弱体化に乗じ、新羅が勢力を伸ばす。
560〜62年頃に、残った任那も新羅に全て滅ぼされてしまう。大和の新羅討伐軍も失敗。任那復興策も遅きに失した感がある。
大陸もこの時期は隋建国前のぐちゃぐちゃ期なんだろうなあ、きっと。ちなみに任那滅亡の際、半島から戻ってきた勢力もいたと思われるが、
そいつらの出自はどういう陣営が多いんだろうね? 少なからず国政に影響力を持ったとは思うんだが。
やがて、イナメも死に、オコシも死に、欽明も崩御となる。次の敏達は①王家正統+②継体系であり、やはり廃仏派だったそうだ。
敏達代の大連は物部モリヤ(オコシの子)、大臣はウマコ(イナメの子)である。二頭体制だな。相変わらず争ってます。
98
:
管理人
:2012/03/29(木) 22:32:18
4C以前は
>>66-67
<5C前半>
【11】履中(17)即位。対外政策に伴う新着渡来の流入により、文字記録の開始。
【12】反正(18)即位。百年以上続いた安定期もこの頃までか。
<5C中頃〜5C後半>
【13】允恭(19)即位。この頃から中臣氏登場?
【14】安康(20)即位。血みどろの時代へ突入。安康も含め、
王位後継者の有力どころが次々に死亡(半分くらいは雄略のせい)。葛城氏没落。
【15】雄略(21)即位。王政復古的?な専制(やりすぎ)。吉備と不和。
大伴室屋・物部目や渡来系を重用。百済第一の滅亡とその復興に尽力。
【16】清寧(22)即位? 雄略的国家経営の終焉。
【17】飯豊、執政。謎のつなぎ役。
【18-1】顕宗(23)即位。履中系。
【18-2】仁賢(24)即位。顕宗の兄。6C初頭の王統存続にかかわるキーマン。春日系と結びついている感あり。
【?】武烈(25)即位? 汚れ役? つなぎ役? この頃、平群氏滅亡。武内系の次代は蘇我へ。
99
:
管理人
:2012/03/29(木) 22:58:24
<6C前半>
【19】継体(26)即位。男手不足による傍系王族の採用。出自は武内→羽田→息長系。
仁賢娘への入り婿により、仁徳型の王統継承を実現。大伴金村を重用。つなぎ役?
半島情勢悪化も、磐井の乱(壮大な仲間割れ?)により手つかず。継体系弱体化にも作用か?
【20-1】安閑(27)即位?
【20-2】宣化(28)即位? 系譜を見る限り仁徳型の王統継承。継体と同じにつき、つなぎ役か。
<6C中頃>
【21】欽明(29)即位。正統型王位継承の復活。大伴金村失脚。蘇我稲目・物部尾輿重用。
外戚として蘇我氏台頭も、仏教公伝から廃仏気味の流れへ。任那滅亡。
<6C後半>
【22】敏達(30)即位。王家正統(欽明)と継体系(宣化娘)による継承(正統型)。
この先になって来ると、系譜がまるで蜘蛛の巣のようになっていて、力関係が逆に分かりづらい。
まあ、元をたどれば、殆どが欽明と蘇我に行きつくんですけどね。
〜次回予告〜
己が存続を賭けた氏族間抗争! そして血で血を洗う継承闘争!
陰謀渦巻く王宮に降り立った傑物は所詮踊らされているだけに過ぎないのか!?
次回「ウマウマの王宮」、乞うご期待!
100
:
管理人
:2012/03/30(金) 00:42:55
次回、乞うご期待! などと言っておきながら、一つだけ脱線話を。
>>92
で以下のように書いた。
>安閑・宣化が即位していなかったと仮定した場合、系譜に組み込む意味は何だろう? ここで一つ妄想を提示したいのだが、
>例外という名の前例づくりをしたかったのではないだろうか、と思うのである。欽明によって復活した
>>88
の仁徳システムは、
>いずれ途絶えるのである。その際、安閑・宣化をいたことにしておけば、前例として使えるのだ。
仮にそうだったとしてみようよ。仮にね。そんな前例を作りたいのは一体誰なんだ?
そりゃ、もう、あの人しかいないわけですよ。もう一度
>>78
の妄想分類を整理する。
①正規の王統。馬韓経由の渡来グループ? 具体的には、纏向王家、物部、大伴、国家としての百済。他、三輪や賀茂もこのグループか?
②北九州勢。辰韓経由の渡来グループ? 具体的には、神功・応神系、武内系(葛城・平群・蘇我・紀など)、国家としての新羅。
③近来の渡来グループ。時代によって主力は違うと思う。具体的には、5Cの東漢や西文など。その後もいろいろと出てくる。
④もともと①のグループだが、①+②に負けた? 具体的には、吉備系、尾張系など。かつては大伴・物部らとともに①'であった。賀茂はこっちかも?
⑤いちおう①+②に協力した別陣営と想定。宇治王権時代の主力? 具体的には、ワニ系。後に春日や小野となる。春日は中臣との関係も怪しい。
つまり前例を作りたいあの人は、①でもなけりゃ②でもないのよ。④もかなり薄いでしょう。
となると、③か⑤なのよ。全くの別陣営、という考えもあるかもしれないが、だとすると③なのよ。
少なくとも縄文系や隼人でもない限りは、別陣営なら③だろう。つまりあの人の一族の起源は、③か⑤か③+⑤だと思われる。
いや、春日が⑤なので、⑤か③+⑤でしょうな。「+⑤」以前は東国にいたっぽいので、やはり③+⑤か。大穴で④+⑤や③+④+⑤もあるが。
きっと8C前半くらいには、まだ、①+②が正統というかつての暗黙の了解が、まだ人々の記憶に残っていたんだと思う。
だからこんな小細工を仕込んでいるのだ。仮にそうだったとすればの話だが。他にも、あの人が自身の一族の起源を
あたかも①'であるかのように見せかけている箇所が、記紀には結構見受けられたりするのだ。
101
:
管理人
:2012/03/31(土) 01:12:23
〜前回までのあらすじ〜
>>98-99
敏達は
>>100
の分類でいくと①+②である。これは前にも述べた。では恒例の嫁リスト。子については主だったものを。
・嫁1(皇后):ヒロヒメ。息長マテ王の娘とある。詳しくは分からんが、息長って名前からして②の出自であろう。
子に押坂彦人大兄などがいる。敏達の出自からも、②の正統はやはり継体系・息長系で進める予定だったんだろうか?
・嫁2(嫁1没後に皇后):額田部皇女。欽明とキタシヒメの娘である。後の推古。別腹の妹である。
継体系・息長系で進めるかと思いきや、こっちは蘇我系である。子にはいろいろいて、菟道貝蛸皇女(すげえ名前、厩戸嫁)、
竹田皇子、小墾田皇女(上記押坂彦人大兄の嫁)、タメ皇女(舒明嫁)、桜井弓張皇女(来目嫁)、などがいる。
・嫁3:オミナゴ。出自は春日系。
・嫁4:ウナコ。伊勢大鹿首小熊の娘とあるが、誰だ?
子に糠手姫皇女(上記押坂彦人大兄の嫁、舒明母、長生きしたらしい)など。
いろいろバランスとろうとしている感じがしますなあ。在位は572-585年とされている。
欽明は任那復興を夢見て没したらしいが、その遺言を引き継ぐ形で百済と協議したり(進展なし)、
新羅との通交から任那分の税?を受け取っていたなどとある。また、廃仏派であり、物部モリヤの働きで禁止令を出したりしてたらしい。
まあ、そんなところである。特にこれといって他に取り上げることはないですわ。
次は用明。在位585-587年。父は欽明、母はキタシヒメ。①王家正統+②蘇我系である。いよいよ蘇我が動き出すか。
・嫁1(皇后):穴穂部間人皇女。父は欽明、母はオアネ。蘇我系ですな。
子に厩戸皇子、来目皇子(第二次新羅征討計画時に筑紫で病没)、茨田皇子など。
・嫁2:イシキナ。蘇我イナメの娘。子に田目皇子(用明没後に穴穂部間人皇女と結婚したらしいが、古代はすげえわ)など。
・嫁3:ヒロコ。出自は葛城直または当麻倉首とあるが、よく分かりません。
子に当麻皇子(第三次新羅征討計画時に出陣するが、嫁没のため途中で帰還とある)、スカテ姫(伊勢斎宮)など。
102
:
管理人
:2012/03/31(土) 02:08:57
敏達崩御後・用明即位前に、よく分からん事件が起きている。
葬儀の際、穴穂部皇子(欽明とオアネの子)が天下を欲する→ウマコは用明推しなので、モリヤと結託
→穴穂部皇子が額田部皇女(敏達嫁、欽明とキタシ姫の子)を犯そうとして乱入→敏達寵臣の三輪サカウがこれを阻止
→皇子はウマコ&モリヤに「サカウは不遜!」と相談し、二人が同意(!?)→逃げるサカウ
→皇子にサカウを殺すよう命じられ、追うモリヤ→皇子はモリヤについて行こうとするが、ウマコに諌められ、待つことに
→モリヤがサカウを斬ったと報告→世の乱れを嘆くウマコ→「お前に何がわかるんじゃい?」と言うモリヤ
恐ろしく意味不明である。この事件の意味や真偽を考えようとしてはみたが、どうにも分からん。
三輪サカウは敏達にかなりの信を置かれていたらしく、それはウマコにとって邪魔な存在であるともいえる。
ただ、穴穂部皇子はモリヤに信を置いており、それはそれでウマコにとってかなり邪魔な存在である。だからこんな態度なんだろう。
結局二年後に穴穂部皇子も物部モリヤもウマコに討たれるわけであるから、さすがに一枚上を行っているわけだ。まあその話はまた後で。
さて、
>>101
を見る限り、用明はかなり蘇我色が強い。実際、病に伏せたとき、ホトケ信仰を欲したらしい。当然、物部・中臣は反対だ。
でもウマコは穴穂部皇子に(!?)法師を連れて来させた。モリヤは激怒したが、臣下の多くがウマコ支持になっていることに気づき
(そりゃ上記のような事件が本当にあったのなら致し方なかろう)、河内へ退いたらしい。ほどなく用明崩御となる。
103
:
管理人
:2012/03/31(土) 14:50:48
どこまで本当の話なのかは分からないが、表面を見る限りでは、ウマコは権謀術数に長けたおっさんであり、
モリヤは空気の読めない馬鹿であり、穴穂部は頭のネジが緩んでいる強欲な男、という風に感じる。
負け組にはもうちょっと他にやりようがあったように思われるのだが、モリヤは懲りずに穴穂部擁立を図るのである。
一方、ウマコは穴穂部と同母兄弟のハツセベを立てんとする。王不在のまま、戦争になるわけだ。
よく見るとウマコの嫁はモリヤの妹なんだよね。ドロドロしとんなあ。
先手を取ったのはウマコ。穴穂部抹殺に成功し、モリヤ追討を決定する。こっから先は有名ですな。
ウマコは厩戸・竹田・ハツセベらの皇族軍やその他諸豪族の軍を率い、河内へ進軍。
味方のいないモリヤは健闘し、何度かウマコ軍を退けるものの、厩戸の仏法祈願作戦が奏功したのかどうかは知らないが、
大将モリヤの射殺に成功。残ったモリヤ軍は殺されるなり、逃げるなり、とにもかくにもいなくなった。
モリヤの領地や奴隷は半分がウマコのもの、残り半分は厩戸が建立した四天王寺のものになったらしい。
これは上述のとおり、ウマコの嫁がモリヤの妹なので、相続権があるとのことである。
この後、ハツセベが即位して崇峻となる。父は欽明、母はオアネ(蘇我)である。敏達・用明・推古の異母弟でもある。
また、今後はホトケ信仰が当たり前のことになっていく。
104
:
管理人
:2012/03/31(土) 15:30:38
崇峻が王として立つのであるが、実権は完全にウマコにあったようである。とりあえず恒例の嫁リスト。
・嫁1:コテコ。大伴ヌカテの娘とある。久々に大伴が登場するのは別に構わんが、
もはやヌカテがどういう出自なのか全く分からない。子にハチノコなどがいる。
ハチノコは厩戸の計らいで都を逃れ(?)、出羽三山の開祖となったらしい。どういうことだ?
・嫁2:カワカミ。ウマコの娘とされる。
何だかよく分からない。ハチノコは厩戸に追い出されたのだろうか? しかし厩戸はハチノコより
だいぶ若いようであり、ハチノコが出て行ったのは用明代の頃である。厩戸はまだガキだ。よく分からん。
さて、この崇峻であるが、何と暗殺されてしまうのである。王殺しが明記されているのは安康以来か。
592年、崇峻が献上された猪を斬った際、「いつかこのように憎たらしい奴をやっちまいたいZE☆」と言ったらしいが、
それを聞いたウマコが警戒し、東漢コマに暗殺させたのだそうだ。しかしコマは上記カワカミとの密通が発覚し、
ウマコに処刑されたのだそうだ。口封じだろうか? ただ、政権に大した動揺も起きていないことから、
事件の真相は誰もが了承済のことであり、ウマコの専横を印象付けるためだとの説もあるとかないとか。
ちなみに崇峻は臣下に殺された唯一の王であり、書記に生年の記載もない。うっかり王になったのかもしれない。
105
:
管理人
:2012/03/31(土) 16:00:19
額田部皇女、推古である。父は欽明、母はキタシ姫。敏達嫁でもある。
頭脳明晰・容姿端麗であったらしい。皇統系譜上では初の女帝である。
本人は竹田皇子(実子)擁立を願ったそうだが、押坂彦人大兄(敏達+息長系)擁立を推す声も多く(反・蘇我勢力であろう)、
結局中継ぎとしてウマコに請われ即位した、との説がある。いずれにせよ竹田はこの後すぐ没してしまい、推古代が続くこととなる。
まずは恒例の嫁リスト。と思ったが、作れないだと? では旦那リスト、といっても当然一人しかいませんが。
>>101
を引用。
>・嫁2(嫁1没後に皇后):額田部皇女。欽明とキタシヒメの娘である。後の推古。別腹の妹である。
> 継体系・息長系で進めるかと思いきや、こっちは蘇我系である。子にはいろいろいて、菟道貝蛸皇女(すげえ名前、厩戸嫁)、
> 竹田皇子、小墾田皇女(上記押坂彦人大兄の嫁)、タメ皇女(舒明嫁)、桜井弓張皇女(来目嫁)、などがいる。
推古自体は王家正統+蘇我系なのだが、バランスをとろうとしているフシが感じられなくもない。
推古と言えば、忘れちゃいけないのが厩戸である。父は用明、母は穴穂部間人皇女(欽明+オアネ)である。
それにしても欽明と稲目の子孫ばっかりである。次に厩戸の嫁リストを。
・嫁1:トジコ。父はウマコ、母はモリヤの妹。蘇我エミシや崇峻嫁のカワカミと兄妹。子に山背大兄王などがいる。
・嫁2:タチバナ。父は尾張皇子(敏達+推古の息子)、母は分からんかった。
・嫁3:膳氏の女。子に山背大兄王の嫁などがいる。厩戸に信頼されたらしく、合葬されている。
106
:
管理人
:2012/03/31(土) 16:28:42
一人書き忘れてたわ。
・嫁4:菟道貝蛸皇女。父は敏達、母は推古。結婚後、すぐに亡くなられたと思われる。
推古代は593-628年とかなりの長期である。とりあえず安定したのであろう。即位時39歳である。
政権運営はウマコ-厩戸のウマウマラインによるものである。政策内容については教科書でも読んでくれ。
ちなみに厩戸没は622年、ウマコ没は626年、推古崩御は628年である。ウマコと厩戸は協調したが、
一方でウマコは厩戸の進める王権強化を警戒していたとも言われている。本当だろうか?
そこまでウマコがアレだとも思わんのだが。いずれにせよ、ウマウマラインが長期安定したのは間違いなさそうなのである。
この時期来訪した隋の裴世清も「蛮族と言われるのが理解できない。筑紫より東は全て倭国領」と言っている。
だから別に「陰謀渦巻く王宮に降り立った傑物は所詮踊らされているだけに過ぎない」とは思っていないのである。
>>99
で「乞うご期待!」などと言っておきながら、普通の感想で申し訳ない。
もっともウマコもじじい化してしまっただけかもしれん。また、推古はバランス感覚に優れていたようで、
他豪族の反感を買ったり国益を損ねたりしてまでウマコに譲歩しなかったとも言われている。
ちなみに古事記の記載は推古で終わる。
107
:
管理人
:2012/04/02(月) 00:26:48
〜前回までのあらすじ〜
ウマウマで安定。(少なくともその以前・以後よりは。)
半島情勢について。まあ、細かいことは省略するが、7C初頭頃には下記の通りになった。
・百済:弱体化(主に新羅にやられる)→大和と協力(6Cの仏教公伝など)→高句麗とも協力へ
・新羅:6Cに勢力拡大(任那滅亡)→孤立化を危惧し、大陸に協力を求める(南北朝・隋・唐に朝貢)
・高句麗:かつては百済・新羅の脅威、また、もともと大陸とは仲が悪い→百済とは協力路線へ
こんな感じである。つまり唐-新羅ラインと、高句麗-百済-大和ラインが徐々にできつつあったわけだ。
ちなみに7C後半、百済も高句麗も唐・新羅連合軍に敗れて相次いで滅亡することになる。
さて、任那復興を目指し、推古代には新羅征討が三回計画されている。
>>101
の来目皇子・当麻皇子がそれである。
ちなみに一回目(600年)は実際に派兵して新羅を降伏させているが、大和軍帰還→新羅が任那侵攻、という
誰でも予測できそうな展開になっている。2回目・3回目は
>>101
のとおり、計画だけで終わってしまったようだ。
6C後半もさんざん百済から救援要請があったようだが、国内がごちゃごちゃしていたので無理だったようだ。
推古代は派兵が可能だったということは、やはりそれなりに安定していたのだろう。
外交上のもう一つ大きなトピックといえば遣隋使・遣唐使であるが、有名なの省略。
108
:
管理人
:2012/04/02(月) 01:00:28
すっかり「創作メモ」ではなくなってしまっているが、いつまで古代史ネタをやるのか、その区切りだけは示しておくこととする。
7Cが終わるまで。つまり、文武代でやめます。なぜ文武代かというと、今ここでやっているのは記紀を酒の肴にして
あれこれ好き勝手喋る、ということなのであるが、文武即位というのは記紀的にも一つの完成形だからである。
そもそも記紀、特に書記とは何か、という話になると、つまりそれは天武王権の正統性を証する目的を持って作られたものであり、
それが製作中であった持統代に様々な趣向が加えられ、8C前半になってようやく完成したものである。
要は、せっかく記紀を肴にしているんだから、その完成形である文武でやったらええやろ、という心持なのである。
推古は後継を指名しないまま崩御されたらしい。そこで、候補に挙がったのは田村皇子と山背大兄である。
前者の父は押坂彦人大兄(敏達+息長マテ王の娘)であり、母はヌカデ姫(敏達+伊勢なんとかの娘)である。つまり、完全なる非・蘇我である。
後者の父は厩戸(用明+穴穂部間人皇女)であり、母はトジコ(ウマコ+モリヤ妹)である。もろ蘇我系である。
厩戸・ウマコ・推古が没した後、政権の中枢にいたのはウマコ息子の蘇我エミシである。
ここでエミシは山背大兄に自重を求め、田村を擁立したと言われる。これが舒明である。
まあ、いろいろと説はあるが、管理人は単に山背大兄を推した境部マリセ(ウマコの弟)とエミシが喧嘩してただけだと思っている。
(他によくあるのが、①山背大兄まだ若い説、②山背大兄の人望が腹立つ説、③反蘇我勢力との対立が起こるのを嫌った説。
①はそんなに若いとも思えないし、②はいかにもありそうで胡散臭い。③については、まあ、それもあると思う。)
結局、舒明擁立の展開にブチぎれた境部マリセはウマコの墓を造る業務を放棄し、
エミシに反旗を翻したものの(もともと仲が悪かったような気もするが)、逆に討たれてしまった。まあ単なる最有力氏族のお家騒動である。
109
:
管理人
:2012/04/03(火) 01:19:28
舒明在位は629-641年。この頃は嵐の前の静けさと言ったところだろうか。
>>108
のような
経緯があったものの、政治の実権は蘇我エミシにあったと思われる。では恒例の嫁リスト。
・嫁1(皇后):タカラ(後の皇極・斉明)。父はチヌ王(押坂彦人大兄の子)、母は吉備姫王、とあり、欽明孫らしい。
子にはカズラキ(中大兄、後の天智)、間人皇女(後の孝徳嫁)、オオアマ(後の天武)がいる。これ重要。
・嫁2:ホテイノイラツメ。父はウマコ、母は多分モリヤ妹。子には古人大兄。
・嫁3:カヤノウネメ。このへんの出自はよく分からん。子にカヤノミコ。
・嫁4:タメ皇女。父は敏達、母は推古。子はいないか。
舒明代は特に大きな事件はなさそうである。遣唐使の派遣とか、
蝦夷の小反乱制定とか、遣隋使の僧旻・南淵請安・高向玄理帰国とかくらいか。
舒明崩御の後、嫁のタカラ女王が即位、皇極となる。即位時49歳。
在位中は引き続き蘇我エミシが重用され、後に子のイルカへと代わった。
当然嫁リストはない、と言いたいところであるが、なんと驚くべきことに旦那リストが存在する。
・旦那1:高向王。用明の孫と言われているが不詳。子に漢皇子。これも不詳。
・旦那2:田村皇子。舒明である。上記参照。
おかしなことになっておる。重婚である。つまり、良い言い方ではないが、舒明にはお古を充てられたということになる。
110
:
管理人
:2012/04/03(火) 23:10:10
このスレにだらだら書き込んでいることをいちいち読んでいるやつなんているとは思えないが、
もしいたとしたら、管理人が記紀の記述をわりかし信用している派であるということが分かるのではないだろうか。
実際その通りである。もっとも、書かれてある通りのことが真実に近い、ということを証するために、
その背景を探って構築しているという態度には傾かないようにはしている。
何だかややこしいことを言っているが、まあ偉いやつにはいちいち噛み砕かなくても分かるだろうから別に構わない。
ただ、それは履中代以後の話であり、仁徳代以前となると、やはり、わりかし信用している、という具合にはいかない。
別に独特で珍妙な説を垂れているわけではなく、誰かが必ず口にしていそうなありがちな仮説を
立てているだけであるが、まあ、通説とは異なる部分も多かろう。
では履中代以降は全て信用しているのかというと、せいぜい概ね信用している、という程度であり、
そうじゃない部分も当然ある。どういう箇所がそうじゃない部分なのかというと、
それは書記の目的を考えれば簡単な話である。つまり、天武・持統・藤原氏、
および、それらと対立した人の記述については、ちょいちょい怪しんでいきたいところではある。
>>109
においてようやく名前の出てきた中大兄と大海人であるが、時代が近いからといって鵜呑みにはできない。
111
:
管理人
:2012/04/03(火) 23:28:05
>>110
に関連して、もう1点。古事記における欠史十代のことである。
欠史十代とは、仁賢〜推古の十代のことなのであるが、古事記には系譜のみの記載で事績が記されず、
このように呼ばれている。なぜ事績が記されないのか? 一番納得できるのは、
「わざわざ言わなくても知ってるでしょ」という答えである。
そう考えると、管理人は当初、これら十代の実在率(即位含む)を、
仁賢80%・武烈20%・継体90%・安閑15%・宣化25%・欽明99%・敏達95%・用明95%・崇峻90%・推古99%
というくらいに考えていたのだが、案外みんな普通に即位していたのかもしれない。
当然、彼らの書記における記述が全て正しいとは思わないが(特に武烈)、存在自体を怪しむほどではないと思えてきたのだ。
ちなみに全部書くと、神武10%・綏靖5%・安寧1%・懿徳1%・孝昭1%・孝安1%・孝霊1%・孝元1%・開化30%・崇神90%・垂仁95%・景行99%・
成務10%・仲哀30%・応神90%・仁徳95%・履中90%・反正95%・允恭99%・安康95%・雄略99%・清寧60%・顕宗65%、である。
他、過去に書いた王も含めると、倭武5%・神功99%・宇治80%・仁徳二〜四世50%・飯豊60%、といったところか。
つまり武烈・安閑・宣化に関しては、管理人の想像の産物である仁徳二世〜四世よりも低かったわけだ。
ところが、考えを改めた、という次第である。
またしても脱線しているが、まあいいや。
つまり、
>>110
の続きであるが、今後は怪しい方々が登場するので、穿った見方をするかもしれない、と、ただそれだけのことですよ。
112
:
管理人
:2012/06/02(土) 19:25:54
〜前回までのあらすじ〜
もう忘れてもたわ。
>>109
でタカラ女王が重婚じゃねえか、というところまで話を進めたんだっけ?
後の舒明に再嫁しているということは、旦那その1である高向王とやらは死んだのか?
高向王は用明の孫というわけだから、それなりに記録が残っていてもいいはずなのだが、何者なのかさっぱり分からない。
クロマロの高向氏と関係があるのだろうか? 息子の漢皇子にしても、用明の曾孫であり、
後の皇極の子であるにもかかわらず、高向王と同様、何者なのかさっぱり分からない。
用明については
>>101
のとおり。ここにちょっとだけ登場しているタメ君が高向王の親父であるという説があるらしい。
タメ君つったら、のび太より駄目な奴とのイメージしか湧いてこないんだが。
いずれにせよ、それ以上のことは分かりません。
ちなみに名前が似ている高向玄理は生年不詳、608年にイモコらとともに隋へ渡り、640年に南淵請安らと帰国。
646-647年には新羅へ渡っており、さらに654年には再度唐へ。その年に長安で客死している。
高向氏は曹操の末裔を称する渡来の子孫なのだそうだ。
皇極代にはでかい事件が2つある。
①イルカの山背大兄攻め(山背大兄自害)②乙巳の変(イルカ暗殺&エミシ自害)
113
:
管理人
:2012/06/19(火) 00:27:11
〜前回までのあらすじ〜
やっぱり忘れてもたわ。
>>108
で文武までやるとか言ってるけど、無理だね。いずれ機会があればやるけど。
当初の予定通り、
>>2
の方向で進めようかと思う次第。4C末〜5C初頭ですな。
ただ、
>>2
でいう15代の人を「ホムダ四世」に、16代の人はそのまま「オオササギ」とする。
あと、ウジノワキが「ホムダ五世」で、神功やタケシウチは当然出てこない、と。
この構想には下記の利点がある。
・百済や新羅が既にできているので、それらとの絡みも書ける。
・履中代から国史の文字記録を始めたと言われているので、そこへ至るまでの道のりが書ける。
・ヤマモリ/ササギ/ウジノワキと、イザホワケ/スミノエノナカツ/ミズハワケの構造が書ける。
・反正と允恭の間にある断絶を独自の解釈で書けるかもしれない。
・他にもいろいろある。
114
:
管理人
:2012/08/26(日) 23:31:29
二年くらい前から書いてる長篇が漸く書き終わりそうな気配を見せてきた。
115
:
管理人
:2012/09/02(日) 18:42:07
>>114
が書き終わった。続いて推敲に入る。
116
:
管理人
:2013/01/21(月) 22:06:26
古代史的なアレのまとめ。(メモ用)
<纏向王朝:2C末〜3C中>
01崇神(10)→…→02垂仁(11)→03景行(12)
このへんはまあいいとしよう。
<創作メモ①・国つ神の苦悩篇、3C中>
vs04神功→05応神(15)
上記の天孫vs出雲の国つ神&仲哀(14)遺子との対決。
<空白王朝:3C末〜4C初>
06応神2世→07応神3世
帰納法。
<創作メモ②・まほろば茶番篇、4C中〜4C後>
08応神4世
西(出雲・三韓)、東(信州・毛野)の処理に絡んで。
<創作メモ③・新世紀ヤマト篇、4C末〜5C初>
09応神5世【宇治】→10応神6世【仁徳(16)】
三兄弟の後ろ盾が九州系/三輪系/新規渡来系
<創作メモ④・転生なみはや篇、4C中>
11履中(17)→12反正(18)
なんか続きみたいなやつ。
<創作メモ(仮)・?篇、4C後>
13允恭(19)→14安康(20)→15雄略(21)
なんかドロドロしたやつ。
117
:
管理人
:2013/01/28(月) 00:53:34
古代史的なアレのまとめ2。(メモ用)
上記
>>116
創作メモの②を題材にして、『マホロバ茶番篇』を書き始めた。
舞台は4C中頃なので、登場人物は完全に架空のものばかりである。
卑弥呼・景行・神功・応神あたりは近過去の人物(故人)として名前だけでてくるが、
当然、全く別の名前で呼ばれているし、作中の人物たちも彼らが何者なのかよく分かっていない設定。
さわりの部分を書いてみただけなのだが、早くも舞台が
諏訪 → 飾磨 → 武州・忍 → 筑前・朝倉 → 上毛 と、飛びまくりで、
果たしてこんなすっちゃかめっちゃかなものが完成するのかどうか、非常に怪しいところである。
118
:
管理人
:2013/02/02(土) 08:05:55
古代史的なアレのまとめ3(メモ用)
上記
>>116-117
のとおり、4C中頃について書く。方針は以下の通り。
1.文字記録が残されてないので、ほぼ自由。
2.重大事件が起きたような痕跡は今のところ見受けられず、大きな体制の変化は少ないと想定。
3.3Cと5Cを接続する努力が多少なりとも働かなければならない。
4.他にも色々ある。
原因の3Cと結果の5Cについて。
<3C>
・纏向王朝は3C初頭〜中頃である。(考古学)
・纏向王朝は崇神、垂仁、景行の代の可能性が高い。(記紀)
・邪馬台国は北九州濃厚。(倭人伝)
・卑弥呼の死後、国(邪馬台国)が乱れるが、台与擁立後に収束する。(倭人伝)
<5C>
・4C末、倭と高句麗は南韓の覇権を争っている。(広開土王碑)
・新羅と百済は4C半ばに成立。(三国史記)
・5C前半〜中頃は五王代。(宋書他)
・五王代は履中、反正、允恭、安康、雄略の代が濃厚。(記紀)
119
:
管理人
:2013/02/02(土) 08:36:43
古代史的なアレのまとめ4(メモ用)
>>118
の続き。創作において、過去の人物として名前が出てくる人々の設定集。
【マホロバの大王】
建国以前に畿内で幅を利かせた人物として登場。
=景行 纏向王朝の最後の王。数年間の九州遠征、のち勝利。
=仲哀 香椎で客死。神功の旦那。
【ヒメガミ様】
建国以前の北九州にて衆を束ねていたカリスマとして登場。
=卑弥呼 そのまんま。
=神夏磯媛 書記にて国のボスと明記。景行遠征時に投降、協力。三種の神器らしきものを持っている。
=天照大神 日の巫女。
【トヨヒメ様】
建国を成し遂げた張本人。
=台与 卑弥呼の縁族。国を平定。
=神功 筑紫から東征後、国を平定。仲哀の嫁。
【初代王】
創作内に登場する王家の人間はみんなこの人の子孫。
=応神 仲哀と神功の子。神功の腹の中にいた期間が長い。
【伝説的老臣タケシウチ】
創作内に登場する「王家に次ぐ第二勢力」の祖。建国に貢献。
=武内宿禰 仲哀変死時、神功とともに同席。葛城、紀、蘇我、平群、巨勢、羽田などの祖。長生き。
120
:
管理人
:2013/02/10(日) 16:05:10
古代史的なアレのまとめ5(メモ用)
さらに続き。創作において登場する神様の設定集。
【オオモノヌシ】
王家・王国における公式の神様。本拠地は大神神社。出雲とも関係があるらしい。
祭祀については、形式面を三輪氏、技術面を忌部氏が担当し、その力を利用している。
>>119
における【マホロバの大王】を祭祀対象として取り込んでいる。
【アマテラス】
西国にて信仰されている太陽神。葛城系氏族が復権を狙う。本拠地は宇佐神宮→伊勢神宮。
王家・王国に仇なすものとして利用されようとしているが、過去にオオモノヌシと契約済みであり、
その契約の恩恵を受けている地域においては共存が可能になるという秘密がある。
>>119
における【ヒメガミ様】を祭祀対象として取り込んでいる。
【ミシャグチ】
東国にて信仰されている土着神。ミジャグジとも。本拠地は諏訪大社。
既にオオモノヌシとは出雲系の勢力を介して契約済み。ただし、上記二神の妥協に伴い、
一部の勢力(エミシ)が契約から剥がされて駆逐される未来がある。エミシ≠続縄文人。
オオモノヌシは3Cの危機を乗り越え、7Cまで中心となる。天武・持統朝で没落。
8Cの国家仏教時代にはさらに影が薄くなり、平安遷都に伴い完全に権力との結びつきが消え、忘れられる。
アマテラスは3Cに複雑な盛り上がりを見せるも、乗り換えられてすぐに失脚。やがて流浪。
水面下で再度の乗り換えが進み、天武・持統朝にて復権。しかしこれも乗り換え。
ミシャグチは3〜4Cに危機を迎えるが、譲位により安泰を得る。6Cから再び苦難の時代が始まり、
長年抵抗を続けるも、徐々に忘れられ、12C平泉陥落に伴い完全に歴史の舞台からは消える。
121
:
管理人
:2013/11/10(日) 12:16:38
もう忘れてもたわ。
連載開始した中篇は、話が拡がりすぎて収拾つかんくなってきた。
連載中の長篇はとっくの昔に完結した。
122
:
管理人
:2013/11/10(日) 12:52:12
>>121
の続き
長篇は完成しているんだが、不満があって手直ししたいところもある。
以下メモ。
1.当初は何の構想もなく適当に書き始めたので、
序盤は伏線になっていない意味不明な場面が多い。
2.千紗都と浜野の行動について、動機の弱いものが多い気がする。
3.佳織はもっと高性能でもいいような気がする。
やたらと焦っている場面が目について萎える。
4.聡子、六原、優子あたりのキャラは概ね不満なし。特に聡子はお気に入り。
やはり千紗都の魅力不足を解消したいところ。
5.西大寺のプラットホームにて、目の前でドアが閉まり
途方に暮れるシーン(Part60・61)で、BGMとしてスペイン村のテーマを流すべきである。
6.他にも色々ある。
123
:
管理人
:2013/11/16(土) 15:56:12
>>121-122
の続き
7.細かい地名をHIK,TO,TnHなどと伏字にしてあるんだが、
ややこしくて区別しにくくなっている。これらを普通に表記するか、
あるいは東射駒、富尾、鷹の原などと架空の地名にするか、
どっちかにした方がいいかもしれない。祭大寺、とか。
124
:
管理人
:2013/11/16(土) 23:51:48
>>123
で例示した東射駒とか鷹の原って、なにげにカッチョええな。
富尾は元の方がええかな。他には岳苑前なども頻出。
125
:
管理人
:2013/11/23(土) 14:32:12
>>122
とりあえず未upのPart61にて5を採用。
126
:
管理人
:2013/11/29(金) 21:35:57
>>122-123
の続き
8.Part1とPart2の内容が何となく唐突すぎる。おまけにどっちも読みにくい。
しかしこの箇所には後々に関係してくる要素を凝縮してあるので、
削るわけにも加えるわけにもいかん。難しいところである。
9.Part3はかなりマシな方だが、席を間違えて指摘されるくだりはやや分かりにくいかも。
ちなみにこれは筆者の体験を反映させている。筆者も席が決められていることを
はじめは知らずに、何故かセ氏の席に座っていたのである。途中で気づいたけど。
127
:
管理人
:2013/12/05(木) 22:22:18
>>126
の続き
10.Part4は1や2以上に唐突。描写が甘いわ。MLS的なアレの話とか、
喪失感の話とか、ノリで書いたのでいまいち後半との繋がりも薄い。
11.Part5はこんなもん。Part6は問題あり。
後半全く使われない設定の話をもっと簡素化すべき。
12.基本的に優子パートと浜野パートはそこそこなのだが、
佳織パートと少女パートの出来がひどい。
夏の章から秋のはじめ頃までは全体的にひどいが。
128
:
管理人
:2013/12/22(日) 17:09:57
>>127
の続き
13.Part7はもう少しエピソードを盛り込んでもいいかもしれない。
あと、聡子のキャラが何か後半と違うのが気になる。
14.Part8は
>>126-127
で問題視している唐突感が発露しまくっているが、
このパートは嫌いじゃないんですよ。かなり好きなんですよ。
出来不出来と好き嫌いは全然違うってことの好例ですな。
モスラと笑点を併用する機会なんて一生のうちにそうそうないからね。
15.Part9は平凡やな。悪くはないが、面白くもない。
Part10も
>>126
の11で書いたように、簡素化が必要か。
こうやって要所要所をチェックしていけば、おのずと改善できそうな予感。
129
:
管理人
:2013/12/30(月) 20:40:13
>>128
の続き
16.Part11もやっぱり聡子のキャラがよく分からんな。この時点ではまだ迷走中だったのか。
それにしても優子主観のパートは小学生の感想文みたいな調子である。
17.基本的にこの話は、①優子主観(一人称わたし、小学生感想文風)→②少女客観(三人称)
→③浜野主観(一人称僕、日記)→④佳織主観(一人称私、中二風)、の繰り返しなのだが、
書いている本人は分かるが、果たして何も知らん人が読んで判別できるだろうか?
各パートにサブタイを付して、誰主観か明記した方がいいかもしれない。
18.Part12は同時進行で当時制作していたMLSの影響がモロに出とる。
この辺から少女パートと佳織パートの時制が前後しまくるのでややこしい。
もう少し分かりやすくした方がいいのかもしれない。その点、Part13は
そういう表現上の衒いがないが、何故か好感も持てないという。
130
:
管理人
:2014/01/04(土) 02:10:59
物語の類型の一つとして「セカイ系」と呼ばれるものがあるのだそうだ。
九十年代末からゼロ年代初頭にサブカルの創作物で流行ったものらしく、
登場人物周辺の日常における行為と世界の危機が繋がっている物語を指すそうだ。
主に下記の特色がみられるらしい。
①基本的に主人公(男)はヘタレで自意識過剰である。
②卑近な日常と世界が直接繋がっており、間に存在するはずの社会や制度がまるで存在していないかのようである。
③世界の命運は大抵ヒロインに託されている。
④主人公とヒロインが恋仲になったりもして、その経緯が世界の存亡にも関わったりしちゃう。
⑤他にも色々ある。
管理人はそのテの創作物を読んだことも観たこともないので断言はできないが、
今ここで推敲メモを垂れ流している長篇は、上記の定義からすると「セカイ系」にカテゴライズされるのではなかろうか。
そもそもタイトルが「〜ワールズエンド」であるし、コミックス的な軽さを追求して書いた話なので、
そういう考え方もありそうではある。でもなんか嫌だなあ。
ただ、上記の定義とは異なる部分もある。
①については、ヘタレで自意識過剰な主人公(男)に該当する人物は登場するものの、本人は世界の危機など全く意識していない。
②については、そもそも大部分の登場人物は、人外を除いて、そんなことは意識しておらす、日常や社会のことしか語っていない。
③については、人外によってそのことが語られるものの、事実関係については不明であり、当の人外もそのことで悩んでいる。
④については、③の前提を正しいとすると、まあ、そのとおりかもしれんね。逆に作用しているけど。
まあ、でも、あれだ。自己存在について考えたら、世界というものが対象化されることが多いわけで、
別に一時的な流行に固有のモチーフでもなかろうに。何かつまらないことを書いてしまったな。
131
:
管理人
:2014/01/08(水) 00:29:51
>>129
の続き
19.Part14では時制が乱れまくっとる。Part8とPart12を別視点から観ている感じ。
しかし、被る個所は少なく、補完的な意味合いが強いので、突っ突き合わせながら
読まないと分からん仕掛けになってある。誰がそんな面倒臭いことをするというのか。
20.Part15は各章に一つずつ散らせてある六原パート。基本的に六原パートの直前直後は
同一主観によるパートである。(春と冬は佳織、夏と秋は浜野。)
で、Part16では14からの時制の乱れを引き継いでいて、時間の流れとしては、
Part8全体&Part14前半→Part14後半&Part12中盤→Part16前半→Part12後半→Part16後半
となっておる。分かるかいな。その点、Part17は平和でええわ。
132
:
管理人
:2014/01/11(土) 23:27:22
>>131
の続き
21.Part18に至って漸く、支離滅裂だった少女パートにおいて話が動き出す。
この物語においては結構重要というか転機というか、とにかくターニングポイントなわけだが、
表題を冠した歌が出てきたり、世界について語られたり、何気に悪くないような。
あとは分かりやささえあればいいんだが。
22.Part19に至って漸く、日常的だった浜野パートにおいて、非日常部分で話に絡みだす。
なんか無理矢理っぽいな。Part20もまとめって感じだ。ルラフェンの男の台詞は名言だよね。
23.春の章における問題は、①分かりにくいからもっと肉付けすべき、②後半不要な設定は削るべき、
③キャラの迷走を修正すべき、④他にも色々ある、といったところだろうか。
133
:
管理人
:2014/06/08(日) 18:57:29
>>2-5
で考えていた物語について、再度書く気になってみたのでもう一度整理する。
以下は前にも書いた管理人の採用する設定。
1.崇神(10)垂仁(11)景行(12)の三代は纏向王朝の王である。
3世紀初頭から中頃まで。記紀と考古学から。
2.景行(12)の九州遠征、仲哀(14)の客死、神功・武内の東征は地理的に繋がっており、
一連の流れにある。卑弥呼の死後に男王(=仲哀)が立つも国が治まらず、
女王(=神功)が立って国が治まる。3世紀中頃。記紀と魏志から。
3.神武(1)は崇神(10)・神功・応神(15)の伝説をもとに
作られているという推測。建国と東征の類似性から。
4.ヤマトタケルは景行(12)の遠征や神功の東征、或いは建国後の東国・西国への
派兵をもとに作られているという推測。
5.成務(13)は弘文(39)が投影されているという推測。
天智(38)=景行(12)・仲哀(14)、成務(13)=弘文(39)、天武(40)=神功・応神(15)。
6.応神(15)と仁徳(16)の間のオオヤマモリ謀殺やウジノワキ自殺は
3世紀末か4世紀末かどちらかわからないけど、多分4世紀末という推測。
134
:
管理人
:2014/06/08(日) 19:13:25
>>133
の続き
7.倭の五王については、讃=仁徳(16)、讃の最後の1回(讃?)=履中(17)、
珍=反正(18)、済=允恭(19)、興=安康(20)、武=雄略(21)が妥当か。
「讃死して弟珍立つ」に関しては、「珍って誰?」→「前の王の弟だよ」
→「前の王は讃だっけ?」という流れによって生まれたものと推測。(履中の在位期間が短い)
8.3世紀中頃の事件は国の成り立ちに関わる重要なものだったので、人々の記憶に残り、
神武紀も含めて詳細に語られている。4世紀の出来事は不明だが、順調に発展したと推測される。
ヤマトタケル伝説や神功の三韓征伐、或いは古墳の広がりが4世紀の順調さを反映している。
9.おそらく5世紀前半から文字を活用して歴史を綴りはじめたとされており、
まずは遠い過去の3世紀と4世紀がごっちゃに記され、続いて適当に外国の歴史書から
外交記事などを引用し(応神代・仁徳代のこととされている)、近過去である仁徳即位までの
経緯が描かれ、以降履中代から順に書かれていると思われる。
以上に基づいて4世紀末の仁徳即位までの経緯を面白おかしく書きたいと思った次第。
135
:
管理人
:2014/06/08(日) 19:24:56
>>133-134
について、即位順に書くと下記の通り。
<3世紀前半>
【1】崇神(10)→【2】垂仁(11)→【3】景行(12)
<3世紀後半>
東【3】景行(12)=仲哀(14)→【東4】成務(13)→消滅
西【3】景行(12)=仲哀(14)→【西4】神功→【西5】応神(15)
東西合体【5】応神(15)→【6】応神2世
※応神は東の王である仲哀と西の王である神功の間に生まれたとされる子供である。
<4世紀>
【7】応神3世→【8】応神4世→【9】応神5世=応神(15)→【10】宇治→【11】仁徳(16)
<5世紀前半>
【11】仁徳(16)→【12】履中(17)→【13】反正(18)→【14】允恭(19)
【6】〜【9】の期間について何人の王が立ったのかは不明だが、
在位四半世紀くらいと仮定してこんな感じかと推測。
136
:
管理人
:2014/08/17(日) 16:38:01
>>135
の続き
さらに王朝別に分けるとこんな感じ。
<①纏向王朝>
【1】崇神→【2】垂仁→【3】景行≒仲哀→【東4】成務
<②ホムダ王朝>
(【3】景行→)【西4】神功→【西5】応神
→【6】応神2世→【7】応神3世→【8】応神4世
→【9】応神5世≒応神→【10】宇治
<③ササギ王朝>
【11】仁徳→【12】履中→【13】反正
<④ササギ王朝・2期>
【14】允恭→【15】安康→【16】雄略→【17】清寧→【18】飯豊
<⑤ササギ王朝・3期>
【19】顕宗→【20】仁賢→【21】武烈
<⑥新・ホムダ王朝?>
【22】継体(→【23】安閑→【24】宣化)
<⑦欽明系王朝・1期>
【25】欽明→【26】敏達→【27】用明→【28】崇峻
→【29】推古→【30】舒明→【31】皇極
<⑧欽明系王朝・2期>
【32】孝徳→【33】斉明→【34】天智→【35】弘文
<⑨天武系王朝>
【36】天武→【37】持統→【38】文武→【39】元明→【40】元正
→【41】聖武→【42】孝謙→【43】淳仁→【44】称徳
137
:
管理人
:2014/08/17(日) 17:03:04
>>135
における王朝の変わり目には、大なり小なり政変が起きているわけだ。
①→②:3世紀中頃。景行の九州遠征と神功東征。
②→③:4世紀末。ヤマモリ謀殺と宇治自殺?
③→④:5世紀前半〜中頃。何も起きていないかもしれないが、
反正と允恭の間に妙な断絶を感じる。
④→⑤:5世紀後半。雄略朝の破綻など。
⑤→⑥:6世紀初頭。仁徳系の断絶など。
⑥→⑦:6世紀前半。磐井の乱など。
⑦→⑧:6世紀中頃。乙巳の変など。
⑧→⑨:6世紀後半。壬申の乱。
各王朝の有力者
①大伴や物部の他、瀬戸内・山陰・東海あたりの有力者。
②武内系諸族(葛城がトップ、他に蘇我、紀、平群、羽田、巨勢など)、大伴や物部もそれなり。
③葛城がトップであるが、前王朝末期から和邇が台頭。
④和邇が総合的にトップ。葛城滅亡。
⑤平群滅亡により、相対的に大伴・物部・蘇我が上がってくる感じ。
⑥変わらず物部と蘇我。大伴失脚。
⑦物部と蘇我の2頭体制も、守屋死亡により蘇我の独壇場。
⑧蘇我から中臣へ。
⑨天武・聖武・孝謙あたりは親政志向。それ以外は藤原が強い。
138
:
管理人
:2016/04/17(日) 19:22:27
>>137
⑦→⑧と⑧→⑨は6世紀じゃなくて7世紀だわな。
そんな間違いをしてしまうほど、欽明系・蘇我系の時代は長かったわけだ。
天武・持統朝ってのは一種の完成形なわけだけど、
⑨で書いた親政の時代はいずれも短い。
不比等にとっては短かろうが完成形なんだろうけどさ。
大抵親政ってのは上手くいかない。雄略や孝謙・称徳もそうだが、
後鳥羽や後醍醐も失敗しておる。
139
:
管理人
:2016/04/24(日) 15:33:37
SFCの名作TOで久しぶりに遊んでいて思ったんだが、
>>135
の①→②の政変って、ハイムの戦役に似てるよね。
その場合、さしずめ卑弥呼がドルガルアで、台与がカチュアになるのか。
140
:
管理人
:2016/06/19(日) 21:14:36
纏向古墳群→大和・柳本古墳群の流れは、
やはり
>>136
におけるホムダ王朝のものなんだろうと思う。
その後、4世紀末頃から佐紀とか馬見とか百舌鳥とか古市とか
色々出てきて、このあたりに当時の混迷具合がうかがえるような気がする。
佐紀はやはり宇治を擁立する和邇一派のものだろうか。
馬見は葛城一派だろう。百舌鳥・古市は仁徳一派か。
仁徳を擁立しているのは葛城一派のような気がするが、
そのへん、仁徳はうまいことバランス取ってたっぽい(適当)。
>>135-136
における応神5世=応神が宇治に肩入れしたのも
葛城一強を嫌うバランス感覚のような気もするが、
晩年に摂津大隅にも宮を構えていたあたり、老後の面倒は
一番優秀な子である仁徳に看てもらおうとしていたからなのか。
141
:
管理人
:2016/06/19(日) 21:37:03
ただ、
>>140
のバランス感覚は葛城vs和邇の火種を撒いただけであり、
それが応神の死後に噴出することになるわけだ。
大山守と宇治はその犠牲者だろう。磐之媛もそうかもしれない。
仁徳の好色には争いの芽を摘もうとする苦心が垣間見えるではないか。本当か?
3世紀後半から4世紀後半までは、やはり葛城一強だったのだろうか?
ホムダ王朝の祖ともいえる神功は、武内の助力あってこその躍進だったわけだから、
やっぱり一強と考えるのが自然な気がする。ただ、それは和邇の祖である
タケフルクマにも同様のことが言える訳だが、さすがに貢献度に差があったか。
宇治の親和邇・反葛城が強すぎたから、仁徳が再度バランスを取り直したのかもしれない。
仁徳死後の履中・反正・允恭の三代にしたって、みんな襲津彦の孫だから、
まだ葛城はそこそこ強い。ところが安康の代になって、いきなり事態が動き出すわけだ。
そう考えると、眉輪も雄略の兄弟達も葛城vs和邇の犠牲者か。
142
:
管理人
:2016/06/19(日) 21:57:42
・物部
崇神(神武≒崇神と考える)よりも古くから奈良盆地にいた人々。
石上が本拠地。軍事氏族。景行の筑紫遠征に従った流れで、
神功東征→ホムダ王朝の流れにも組み込まれたと思われる。
その後も長らく国軍として重用され続けたが、守屋代に滅亡。
・大伴
纏向王朝時代に王族の親衛隊的立ち位置で参画したと思われる。
その後の動向は物部とほぼ同じ。金村代で没落。パッとしないまま応天門の変で滅亡。
・忌部
何となくだが、北方系が多い弥生人の中では、珍しく南方系のような気がする。
温暖な地方に足跡が多く残されているし。倭人伝に描かれる
邪馬台の描写が南方系なので、卑弥呼陣営の主力なのではなかろうか。
143
:
管理人
:2016/06/19(日) 22:08:21
・葛城
神功東征あたりから登場。古参の賀茂を吸収し、葛城の地に根付いたと思われる。
武内系氏族で長らくセンターを務めたが、眉輪王の変で滅亡。
・平群
葛城の庶流。二代目センター。雄略死後にいろいろやりすぎて没落。
・蘇我
葛城の庶流。?代目センター。入鹿代で本流が滅亡した話は有名っすね。
・紀/羽田/巨勢
目立たない葛城の庶流たち。
144
:
管理人
:2016/06/19(日) 22:21:40
・和邇
ホムダ王朝成立期より曽布から南山背一帯に根付いたと思われる。
場所柄、渡来人を取り込んでいたのではないかと推測する。
宇治擁立に絡んだこともあって、王仁博士と大いに関係ありそう。
5世紀が全盛期であるが、6世紀には庶流を残して本流は消える?
・春日/小野/柿本
文化人要素が強そうな和邇の庶流たち。
・中臣
和邇とは逆に、5〜6世紀頃に突然現れる謎な連中。古い記録にも登場するが、
それは不比等による創作のような気がする。鹿島・香取→枚岡→春日の流れから、
東国の軍事氏族が和邇庶流の春日と結びついたと思われる。没落なんてしない。
145
:
管理人
:2017/12/31(日) 03:23:45
>>142-144
単純に、和邇→中臣、なんじゃないのか?
物部・賀茂・大伴は纏向陣営。忌部は邪馬台陣営。
葛城・蘇我・平群は神功応神陣営。
和邇・中臣はさらにその後。蝦夷征討の東国武士が中央に戻ったような感じか。
安倍とかはそもそも蝦夷なのか。蝦夷ってのは、反神功応神の旧纏向陣営なのか?
それにしても宇佐と伊勢はなんとなく似ている。
音もそうだが、地理的なアレが似ている。
都から東方の山を越えた先に、北に向かって広がる海沿いの平野があって、
さらにその東方には山がちな半島があって、その半島の付け根にあるあたりが似ている。
146
:
管理人
:2017/12/31(日) 03:29:35
伊勢は持統が宇佐を模して創ったものではなかろうか。
147
:
管理人
:2018/06/16(土) 13:34:54
一年くらい前から『祭祀氏族の百年祭』って題の中篇を構想していたわけですよ。
どんな話か、っつうと、
平安初期、没落貴族の忌部氏とバカ殿扱いされている平城帝がタッグを組み、
北家主導の平安ageと藤原史観に対抗するため、表向きは平城遷都百年祭準備を謳いつつも、
大和と山城の国境沿いの丘の上に白亜の学問所を設置し、反藤原的な歴史学講義を展開してゆく。
やがて朝廷内の対立が深まり、譲位や遷都を経て、百年祭期間中に戦乱が勃発。
しかし嵯峨帝サイドの冬嗣や田村麻呂の活躍により事態はあっという間に収束し、
アンチ藤原のシンボルでもあった学問所は冬嗣によって閉鎖される。
ってな話の予定だったんだが、最近の動向により、全く笑えなくなってきたんだが。
ちなみに物語の最後は、歴史学講義を主導した失意の忌部氏が「歴史」での反逆を諦め、
「物語」によって一矢報いる計画を慰めとして終わるつもりだったんだが、
筆者が物語中の忌部氏みたいになってないか?ってな気がして、萎えてきた。
148
:
管理人
:2018/06/17(日) 01:18:13
>>147
萎えてきた、とか言っておきながら、こうやって文字に起こしたものを
読んでみると、なぜか面白そうに思えてしまうから不思議だ。
ちなみに最後の「物語」云々は竹取物語のことを想定しているんだが、
別に忌部氏は作者候補には通常上がってこない。
でも確かかぐや姫の名付け親って忌部のどうのこうのって名前じゃなかったっけ?
だったら忌部氏でもいいと思うんだ。
149
:
管理人
:2018/06/17(日) 15:30:05
というわけでさわりの部分だけ載せてみた。
150
:
管理人
:2018/06/28(木) 20:15:56
どうってことないような気がしつつも、なぜか妙にセンチメンタリズムに捕らえられてしまうのは、
つまりこういうことなんだな。
『高校三年間を過ごしての感想を一言で表すと、こうなる。
平和だった。
中学生特有の不満や憤りを抱えたまま入学した時、正直拍子抜けした。小便臭い感情のトゲトゲが一気に抜け落ちた。
以来三年間、何かに反抗しているわけでもなかった。かといって、飼い慣らされているわけでもなかった。
ただ、平和だった。
ぼくは噎せ返るような甘ったるい空気の中をほわほわと漂っていた。
この先、きっと辛いぜ。
人生に疲れて立ち止まってみたとき、ああ、あの甘ったるい空気が敵だったんだな、と思うだろう。
優しい海でもあり、恐ろしい仇にもなる。そんなこの場所をぼくは愛しているし、永遠に愛し続けるのだ。』
(『兎追いし、かの海』「36.噎せ返るような甘ったるい空気の中をほわほわと漂っていた」より)
十五年以上前に書いたものだけど、そんな風に思っていたのか。分かる気がする。
151
:
管理人
:2018/06/28(木) 20:23:02
>>147-149
この構想中の話について、いろいろ調べてみるうちに、
式家のエース・藤原緒嗣ってやつが相当興味深いように思えた。
何だか味わい深いやつだ。
152
:
管理人
:2018/08/18(土) 22:31:15
>>147-149
書き進めている。順調である。随時うpしている。書いてておもろい。
登場人物の中では、やはり陛下が一番好きかな。
今のところ、苦心しているのは、藤原内麻呂と藤原仲成の二名。
序盤から中盤にかけては、前者は事なかれ主義の好人物、
後者は無能な変態、として認識されているんだけど、この先、
両者とも凄みのある策士としての一面を覗かせていきたいところ。
153
:
管理人
:2018/08/31(金) 20:01:40
いろいろ事情があって主人公の名前を変更した。
154
:
管理人
:2018/09/02(日) 02:08:22
>>153
なぜこういうことになるかというと、忌部氏の系図がよく分からんのが問題なわけですよ。
浜成-広成-(明成)-伴主-文山
ってな具合に想定されていることが多いけど、明成については後の創作と見る説もある。
管理人も同じように考えていたので、当初は伴主を主人公にしていたわけだ。
何より明成って名前が当時っぽくないしな。いかにも作り物臭い。
ただ、広成と伴主の歳の差も気になるわけで、807年時点で81歳広成の息子が、
850年代に伊勢へ行くのも、何かおかしいような気がするわけだ。
ただ、803年に遣新羅使を務めた浜成の息子が807年に81歳なのもおかしいんだが。
浜成と広成には同一人物説もあるけど。生年が分かっているのは文山(822〜)だけ。
で、結局管理人は下記のように設定した。
浜成(727-808)※807年に81歳なのは広成じゃなくて浜成ってことにした。遣新羅使は冥途の土産
広成(750-)
明成(774-)※結局採用。なぜなら、主人公は774年生まれにしたかったから。
伴主(798-)※当初はこいつを主人公と考えていたのだが、やはり無理があった。
どうせフィクションの登場人物なんだから、存在するのかしないのか分からない明成を主人公にした方が
自由度が高くてええやろという結論に落ち着いたのであった。
155
:
管理人
:2018/09/16(日) 12:38:16
>>152
三分の一ほど進んだところで、頓挫気味。
帝が病に臥して、譲位するとか言い出して、
著者の制御が利かないくらい拗ねてしまったのが原因。
周囲の登場人物も困っておる。
だいたい長いものを書いていると、風呂敷広げ過ぎて中盤あたりで
一回や二回ほど頓挫するのは恒例行事である。大抵数ヶ月〜数年後に復活する。
過去に書いたものにおいては、月面基地やら神々の裁判やら、
現実離れした展開が始まったあたりで頓挫したこともあった。
156
:
管理人
:2018/12/02(日) 22:43:26
>>155
どうにかダレ場を突破。
157
:
管理人
:2019/01/26(土) 21:22:17
半分ほど進んだけど、またしてもダレ場に突入。
158
:
管理人
:2019/05/05(日) 12:25:20
8割程度進んだ。概ね順調ではあるが、
ここから伏線回収して風呂敷たたんでいく作業が
いつもしんどいのである。また停滞しそう。
159
:
管理人
:2019/05/18(土) 16:02:02
妙な設定が多いが、下記の目的のためである。
・登場人物にとって都合の好い歴史を披瀝するため。ある程度の真実味を持たせて。
・故郷の名所を紹介するため。交通アクセスの説明について現代においても通じる形にしたい。
160
:
管理人
:2019/07/09(火) 23:05:52
ようやく終わりが見えてきた。どうにか完成しそう。
いろんな要素を盛り込み過ぎて、長くなってしまった。
161
:
管理人
:2019/12/11(水) 23:27:38
管理人の書くものって、基本的に幼稚なんだよね。
幼稚な笑いって、すげえ好き。
162
:
管理人
:2020/12/05(土) 22:36:16
なぜかおとぎ話を書いてみたいなあと思った。
163
:
管理人
:2020/12/12(土) 14:25:41
創作における大王言語の有用性には舌を巻くばかりである。
164
:
管理人
:2022/04/22(金) 22:42:24
別スレにも書いたが、「実在しないんだから別にええやろ」という理由で
『兎』及び『フェアウェル』内の「丙城」表記を「平城」に変えてやった。
結果、『兎』『フェアウェル』『百年祭』が平城三部作みたいになってしまった。
『百年祭』の最終章から以下に抜粋。
>ひょっとしたら、その名前のせいなのかもしれない。
>「平城」
>負けるもの、去るもの、滅ぶもの、消えるもの。
>それらの多くが、この固有名詞を冠していた。
165
:
管理人
:2022/06/13(月) 22:32:51
ショートショートじみたものを一気に15篇書いた。
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