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短詩人/Hyperion
1
:
:2003/08/16(土) 12:50:20
(無題)
むらくもの屋根にみえたる菖蒲かな
こうこうと滝壷さむし蛍交う
宵闇の白い乳房よささめきぬ
編集済
573
:
秋魚
:2015/07/29(水) 01:30:19
(無題)
・・家の近辺の地理はようやくわかってきた。あちこちポタリングしたおかげで迷路の網目が幾分はっきり見えてきた。迷路が無くなるというの自分は実はおもしろくない。西も東もわからぬ土地にはいりこむのは、恐怖。というか緊張しますね。わざわざそういう異域に入り込むのは・・あまり分析したくない心理です。
・・群馬高崎あたりから谷川岳の急峻の山を越えて裏日本の新潟に入る道。昔はそんな道など無いと思っていたが、あるらしい。三国峠という峠を越える道がある。今は関越道という道路が走ってる。ママチャリで三国峠を越えた。という記事があった。思い立ってチャレンジしたらしいその若者の心、よくわかる。昔の人は徒歩とか馬で旅をした。自転車でどこでもいけないことはない。・・しかし三国峠なんて知りませんがトンネルがあるそうです。これは先日正丸トンネルというのくぐって大変でした。無謀な人もいるものだ。・・事実こわい思いをしたそうです。
・・青梅街道を奥多摩から大菩薩嶺を迂回して柳沢峠くだって甲州市塩山にはいる道は険路という。ロードレーサーならチャレンジする人も多い。マンションの管理人さんは昔からの自転車乗り。全国の輪行もよくやってる。その人が自転車でチャレンジしたがあまりに険しい道でリタイアしたという。アップダウンが何回かあって最後に強烈なアップの坂がある。柳沢峠には茶店もあるらしいが。日向和田にすむイギリス人は、こういう難関のコースものともしない。外人のサイクリストは平常心でコースを選ぶ。ヒルクライム上級の奥多摩周遊道路とかの難関もいともたやすくチャレンジしている。自転車もいいもの乗ってるけど。秩父の方から雁坂峠を越えて甲州市にはいるなんてのもあるらしい。・・自分は、このうち柳沢峠コースは魅惑で時々シミュレーションしてみる。
・・青梅から南下八王子に入って高尾からの甲州街道。たしか20号といった。ここはあまり自転車で走りたくない。勝沼にゆくまで笹子トンネルもある。トンネルの落盤事故があったところ。甲府にはいる手前酒折まで輪行というのはどうだろう。ヤマトタケルが火焼の翁と連歌をした社がある。ここから甲府市内まで自転車でゆく。
・・翌日、甲府から中央線小淵沢あたりまでどんな道か見当もつかない。甲府の外れの駅から鈍行というのあるのだろうか。この中央線昔使ったことがある。何度か乗り継ぎ乗り継ぎを繰り返したと思う。富士山がよく見えた記憶もある。道がよければ自転車で走りたいがまったくわからない。・・右手に八ヶ岳、左手に富士というおもしろい列車の道だったと思う。山登りの好きな人は八ヶ岳をターゲットに楽しみをもつ人多い。諏訪あたりまでの道もまったくわからない。
・・先達はいる。
甲府〜諏訪を自転車で走ってきた。
七里岩ラインという中央本線沿いの県道。60km弱のずっと登りという苦行。高低差は800m。・・出走し韮崎から七里岩ラインに入ります。
・・他に20号の甲州街道ラインがある。こちらはダンプがびゅんびゅん。
・・交通量は国道ほどではないものの、コンビニも3カ所ほどありました。日野春駅前、長坂駅手前、小淵沢の大滝湧水の手前です。
・・八ヶ岳を眺めながら走行
このライン、いける!
・・ふたりは真っ暗な火山峠を越えて高遠に出ると、そこから藤沢街道を急ぎ、杖突峠から諏訪の茅野にくだる。
甲州街道や和田峠越えは追手がかかると考え、茅野から大門峠に道をとり、峠のふもとで一泊、その夜はじめて財布を調べて、合計八十六銭しかないことがわかる。・・しかし、中仙道の途中で、越後の高田から上京途中の妙な小僧に助けられたりして、とにかく上州安中の宿につく。・・こんどは安中から乗り合い馬車に乗って熊谷までゆき、そのころ終点駅であった熊谷から上野まで、はじめて汽車に乗る。・・空谷少年は結局桂庵の手で、駒形の裏町の足袋屋に住込みで勤めることになる。
日さかりや瞽女にものきく仁王門
574
:
秋魚
:2015/08/20(木) 01:40:03
(無題)
・・たしかに暑い!住んでる土地のインフラで起きてること、地震が来るかとか地下水脈の変化とかすこし気にしてます。
・・「芥川龍之介の死」という萩原朔太郎のエッセイを読みました。文学者のインフラがすこし気になります。文学する精神のインフラですが。龍之介は井月を渇仰していましたが、朔太郎との対話では俳人は芭蕉蕪村のみで語られたようです。
芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。
詩と小説というモチーフで、龍之介と朔太郎はよい話し相手であったというか宿命的な転機を経験する。
このエッセイの末尾の章を読んでみます。
「・・見よ! この崇高な山頂に、一つの新しい石碑が建つてる。いくつかの坂を越えて、遠い「時代の旅人」はそこを登るであらう。そして秋の落ちかかる日の光で、人々は石碑の文字を讀むであらう。そこには何が書いてあるか?
見る者は默し、うなづき、そして皆行き去るだらう。時は移り、風雪は空を飛んでる。ああ! だれが文字の腐食を防ぎ得るか、山頂の空氣は希薄であり、鳥は樹木にかなしく鳴いてる。だが新しき季節は來り、氷は解けそめ、再び人々はその麓を通るだらう。その時、ああだれが山頂の墓碑を見るか。多數の認識の眼を超えて、白く、雲の如く、日に輝いてゐる一つ義(ただ)しき存在を。」
・・芥川の文学も古くなってゆくのかなど時々考えます。石碑の文字はたしかに腐食して読みがたくなります。芭蕉の句碑を見て廻ることもしますが、もともとが読みがたい文字であったり風化して苔で隠れたり、それでも誰かが正確に読んでいます。
・・龍之介の死の理由をもっとも正確にいいあてているのは朔太郎ではないか、そんな気がします。
575
:
秋魚
:2015/08/07(金) 13:23:03
(無題)
・・沼津の高尾山古墳が脚光を浴びてる。前方後方墳という古代史を新しく展く鍵となる古墳形だ。道路整備計画と遺跡の保存保護の問題で今でも行政上の処理が揺れている。前方後方墳とは聞きなれない名前だが、古代史研究家の間ではすでに分布と方位線とか一部詳細に調べがすすんでいる。
・・源氏物語、古今集、伊勢物語の古今伝授の枢要な鍵と目される雲林院の調べから、沼津の高尾山古墳も同緯度の方位線が重なるのは、おどろきだった。
??・・雲林院
京都市北区 紫野 雲林院町35-4. 緯度:35.040876 経度:135.748690
・・三河八橋(知立市八橋) ほぼ北緯35度
・・熱田神宮 北緯35度07分38.59秒 東経136度54分31.22秒
・・沼津 北緯35度5分44.1秒 東経138度51分48.4秒
・・三崎漁港 北緯35度8分16秒 東経139度37分7秒
・・粗雑な調べで、沼津の位置などどこを基準にしたのか忘失してて有用性はあまりない。
専門の研究家の詳細な調べが別にあります。
http://8220.teacup.com/toraijin/bbs/2884
http://userimg.teacup.com/userimg/8220.teacup.com/toraijin/img/bbs/0002884.png
・・このうち長野松本の弘法山古墳は信濃路への展開のメモリアル。 長野県松本市並柳2-1000
北緯36度12分46.9秒
東経137度58分58.3秒
形状 前方後方墳
碓氷峠を越えて高崎にも前方後方墳は存在します。
元島名将軍塚古墳(もとしまなしょうぐんづかこふん)
群馬県高崎市元島名町
北緯36度19分23.43秒 東経139度4分8.28秒
形状 前方後方墳
規模 墳丘長75m
高さ8.5m
近くの前橋にも東日本最大級の前方後方墳があります。
前橋八幡山古墳(まえばしはちまんやまこふん)は、群馬県前橋市朝倉町にある前方後方墳。
所在地 群馬県前橋市朝倉町四丁目9-3
位置 北緯36度22分01.6秒
東経139度06分03.0秒
形状 前方後方墳
規模 墳丘長130m
高さ12m
築造年代 4世紀中頃
埋葬施設 (推定)竪穴式石室
史跡指定 国の史跡「八幡山古墳」
八つ橋ですが、
・・みちしれる人もなくて、まどひいきけり。みかはのくに、やつはしといふ所にいたりぬ。そこをやつはしといひけるは、水ゆく河のくもでなれば、はしをやつわたせるによりてなむ、やつはしとはい
ひける。そのさはのほとりの木のかげにおりゐて、かれいひくひけり。そのさはにかきつばたいとおもしろくさきたり。それを見て、ある人のいはく、かきつばたといふいつもじをくのかみにすへて、たびのこゝろをよめ、といひければよめる。
から衣きつゝなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思
・・むかし男は、複数いて、ここで分散していったのではないか?
東海道の東下りはひとつのラインです。海に出るものや、木曽川、天竜川を遡って諏訪、長野に入ったものもいたでしょう。
576
:
秋魚
:2015/08/08(土) 22:36:16
(無題)
・・「白い町ヒロシマ」という原爆被災の映画をみた。戦争体験をもとにした原作の映画化と思われる。学童疎開で被災を逃れたヤスコという少女の視点が基軸で、原作の木村靖子さんというのはこの少女であろう。脚本化したのは新藤兼人。原爆投下のドキュメンタリ映像をまじえながら昭和二十年の二月から八月六日の被爆の日までのある家族の生の流れがホームドラマのタッチで進行する。家族の絆がこれほどノスタルジックに想い起こされるのは、やはり時代の流れか。絆のあり様は今も昔もあまり変わりは無いと思いたいが。
・・それにしても原爆は苛酷です。一瞬にして美しい家族の絆を断ち切る。絆自体は傷ついたままより強く心に残る。生き残ったものの絆を再確認してまた生きてゆくしかないのだろう。
・・白い町というのは、二月頃広島に雪が降ったらしい。雪化粧の広島はめずらしいという。これは虚構かなとも思ったが、たぶん現実だったのだろう。・・白い町ヒロシマというのは、その夏のヒロシマのことで、ピカドンと黒い雨、一面の焼け野原。真っ白な夏だった。
・・茜色の空を歌う小椋圭の音楽がたいへんに叙情的で涙がでます。
・・広島の外れ島根の際に学童疎開する子どもたち。このおかげで被爆には会わなかった。この広島の中心と疎開した田舎の距離がなんともいえず悩ましいのは、かの子どもたちだけではあるまい。お寺でしたが。緑もいっそう濃いところです。
・・映画の最後でわかったのですが、埼玉の都幾川がロケ地だったようです。この都幾川は、先日、自転車で通りがかりました。よいお寺と温泉があります。ほんとに田舎です。
577
:
秋魚
:2015/08/12(水) 21:54:12
(無題)
・・古今伝授について、西田正宏氏の要約がある。
>・・「古今伝授」を一言で定義することは極めて困難である。特に、ここ三十年程の間に、古今集の享受史の研究が飛躍的に進展し、その結果、「古今伝授」そのものの持つイメージがずいぶん変わった。従来は、「古今伝授」と認識されてこなかったことも含めて、広く「古今伝授」として捉えられるようになった。
広義には、『古今和歌集』の講義の全般を指し、院政期頃(古今集撰集から約200 年)から『古今和歌集』の難語解釈を中心に注釈(講義)が行われるようになった。御子左家(基俊⇒俊成⇒定家)と六条家(顕輔⇒清輔⇒顕昭)の対立および定家の息子・為家さらに孫の為氏の死後、大きくは、冷泉・二条・京極と三流の対立を中心に、細かくは、為世・為相・為顕などの諸流派が加わり、流派対立の混迷を極める。結果として、多くの偽書を生み出すことになった。
狭義には、東常縁(とうのつねなり)より宗祇が受けた講義(特に秘伝の伝授)をはじまりとし、以降、その説を宗祇が門弟に伝授したことを指す。宗祇から三条西実隆・宗二(奈良伝授)・肖柏(堺伝授)らに伝授されたとされるが、実隆から細川幽斎を経て、天皇家へと伝授されたいわゆる「御所伝授」と呼ばれるもの以外の実態は明らかでない部分が多い。
・・905年に奏上された古今和歌集の頭初の意図、意味の網目が、200年も経つと、一筋縄のもので収まらない。古今伝授というのはおそらく某かの権威つくりであろう。あるいは権威の秘密と解釈のこととする。
古今集自体が類稀なひとつの権威。・・御子左家の端末たとえば定家の解釈が正当な古今伝授を伝えるというのは、錯誤だろう。はじめに注釈なしで古今集を読むことが肝心。いなおほせ鳥。
・・古今伝授以前を解釈する。定家を古今集解釈のひとつのメルクマールとする。百人一首とは、一人一首で百人百首の歌合せではなく、一人一首、百人でも一首のこと。
題しらず
秋の田のかりほの庵(いほ)の苫をあらみ我が衣手は露にぬれつつ(後撰302)
>・・かりほの庵 仮庵の庵。同語を重ねて言ったもの。「刈り穂」と掛詞か。「一説に、刈り穂の庵。一説には、かりいほのいほ。(中略)かりいほのいほ、よろしかるべきにや。いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」(宗祇抄)。
・・古今伝授の宗匠宗祇においてもこの程度の解釈にとどまる。「いにしへの哥は同事をかさねよむ事みちの義也」という同事とはなにか。
>・・【乙巳の変】いつしのへん
干支が乙巳にあたる645年(大化1),中大兄皇子(後の天智天皇),中臣鎌子(後の藤原鎌足)らが蘇我大臣家を滅ぼして新政権を樹立した政変。皇極女帝のもとで,皇位継承や政治方針に関し大臣の蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子と対立していた女帝の長子中大兄らは,唐の興隆により国際関係が緊張して高句麗や百済には政変が起き,643年冬には皇位継承の有力候補だった山背(やましろ)大兄皇子(王)一家が入鹿に滅ぼされると,蘇我一族の倉山田石川麻呂(くらのやまだのいしかわのまろ)らを同志として大臣家打倒を決意し,645年6月12日,皇居の正殿で石川麻呂が〈三韓の表文(ひようぶん)〉と称する外交文書を読みあげている最中に,中大兄が率先して入鹿を斬り,雇っていた暗殺者たちがこれを殺し,翌日には蝦夷も護衛兵らに逃亡されて自殺した。
決行日当日の役割分担は、
●倉山田麻呂臣が上表文を読み上げる。
●中臣鎌子は俳優を手配して油断させて入鹿の剣を取り上げる。
●中大兄は門衛に指示して一二か所の門をすべて閉鎖させる。
●中大兄は槍を持って大極殿の側に隠れる。
●中臣鎌子は弓矢を持って背後に隠れる。
●佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田は上表文を読み上げている時に入鹿に斬りかかる。
倉山田麻呂が上表文を読み上げている間、子麻呂と網田は入鹿の威を恐れて怖気づき身動き取れなくなっていた。背後にいた中大兄が「ヤアー!」と気合を入れて、中大兄、子麻呂、網田の三人で入鹿を斬り倒した。
・・このように、自ら手を下した中大兄はあっぱれとみるべきかどうか。中臣鎌子は背後から惨状を見ていただけではないか。
578
:
秋魚
:2015/08/16(日) 00:41:26
(無題)
題しらず
をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくも呼子鳥かな(古今29)
・・ママチャリ後輪のブレーキワイヤを交換した。ワイヤ留めのネジが固くて放っておいたが、CRCの潤滑油を充分かけてえいっと気合をいれてなんなく動いた。細かな調整がけっこうむずかしくともかく使えるところまでもっていった。・・翌日急に後輪のタイヤが空気抜けしていた。パンクか?バルブの虫ゴムが擦り切れていた。これも取り付け位置などなかなかすんなりいかない。簡単な作業らしいが、未経験なものは失敗も多い。
・・高尾−甲府−諏訪−伊那−火山峠のツーリング輪行をシミュレートしている。
・・高尾−塩山を輪行して、甲府盆地には自転車ではいる。駅前のホテルを予約したがたぶん時間が余る。武田神社と信玄の隠し湯要崖に訪ねたい。問題は二日目。甲府から諏訪までこの道は天候が急変しそう。いざとなったら最寄の駅から輪行。たしか60キロほどあり、アップの道が続く。20号はわかりやすいが余り楽しい道ではないらしい。時間を充分とってあるあるので安全運転でいく。諏訪は温泉のメッカ。ここで一泊。上諏訪から伊那に入る道はまだ調べがすすんでいない。杖突峠から高遠にはいるサイクリストの記事があった。こなせないほどではないらしい。天竜川沿いに飯田線に沿っていく道があればよいが。三日目は直接火山峠までめざす。三峰川を散策して井月のお墓を探す。今回の予定はここまで。ここもホテルを予約した。帰路はまったく空白。
・・クロスバイクのブレーキ他すこしの微調整。自転車はこのすこしの調整が後々ひびく。先日雨に降られたのでチェーンに注油をする。遠距離のツーリングをシミュレートして大き目のバックパックを背負って自転車を走らせた。例によって青梅坂から小曽木街道をまっすぐ龍崖山の峠をこえて飯能にはいる。先日通った天覧山横の道をのぼれば秩父街道(?)の入口にでる。観光案内所があって巾着田にゆく時はこの道が一番近い。このあたりまでなら一時間そこそこで着く。・・きょうは正丸まではいかない。吾野宿にゆく。−飯能の紙−という展示がある。吾野はさほど近くは無い。二時間かかる。
・・いま帰宅してお茶を飲んでる。実に美味い。白昼野外の大労働で水に渇える。冷たいビール、ジュースより温かいお茶が美味い。
・・ヒルクライムなどは大きいバックパックは厳禁というのを聞いた。軽くすることだと。しかし今回は昔使ったバックパックを出来るだけ小さくして使う。ミレーのバックパックは背当たりがよい。このパックも今使わないともう永久に使うこともないだろう。
579
:
秋魚
:2015/08/20(木) 23:29:24
(無題)
・・自転車の解体−組立ていまひとつ合点がいかない。もう一度試行してみる。ブレーキ解除、前輪を外す。フレームごと車体をさかさまにする。チェーンの位置をアウタートップにする。後輪を外す。スタンドを外す。エンド金具を付ける。・・さてこのあと車輪を二つフレームにくくりつける。これがよくわからない。ネット検索では、バンド固定位置はとくに決まりがないそうだ。自分が試したものよりすこし後方がいいようだ。・・袋入れは次回に。・・組立ては簡単に思えた。しかし後輪の取り付けチェーンの位置が定まらず。てこずる。アウターにもってくるのはチェーンの張りを強くするためか。組み立てた後にブレーキがうまくかからない。これはハンドル部分のワイヤーが外れていたためだった。不具合があるのは必ず原因がある。原因を無視して強引に補正しようとすると破損したりですね。今回はセーフでした。
・・先日小曽木街道の無人野菜売り場で買ったピーマン。とても甘い。小さいピーマンがたくさん袋に入って百円だった。特に無農薬とか有機野菜とかうたってないが美味い。カン酎ハイはカインズのゆずがとてもいい。鰹のタタキは当たり外れはあまりない。モロヘイヤもいい。トマトばかりは当たり外れが多い。形は野菜だがいま出回るものは問題多し。・・しかしたかがピーマンといえ、美味い。
・・青梅俳諧に精通する大先生にお手紙を書いた。江戸後期から維新にかけて青梅の文化は華々しい。といっても、あまり説得しませんね。小林天渕は谷文晁につき青梅文晁と呼ばれたなどいっても、なんだ谷文晁の弟子のぐっと下かとみられる程度。・・青梅に住んだ吉川英司、川合玉堂ではなく、青梅にはもっと早く堂上文化があった。中原章、浄月律師、根岸典則、小峰峯真、小林天渕・・このうち浄月律師は歌集、句集のまとめたものを一冊つくるべきだと思う。よき理解をしめす人がもう高齢になって若い新しい人は興味をもたなくなってきてる。このままいくとこの土地を潤い光らせた古い文化が滅んでゆくのかも。
580
:
秋魚
:2015/08/22(土) 19:07:30
(無題)
・・自転車組立て後ブレーキ調整した。ツーリング前に試し乗り。御嶽山に登りレンゲショウマ鑑賞とダウンヒルを試みた。レンゲショウマは夕方とか雨もよいに光る花という。御嶽神社の薪能とかもある。しかし日帰りの参拝は無理っぽい。ともかくもレンゲショウマとダウンヒルで昼から自転車を走らせた。ダウンヒルで自転車を酷使して本番のツーリングでつぶれないかとも気がかりだった。近頃はすべてにおいて限界状況が見えている。体力的にも限界を感じることも多い。夏バテでつぶれるようなら情けない。御岳山自転車登山はこれまで二回試みている。吉野街道から参道のケーブル駅までもちょっとしたヒルクライム。後半はどうしても足つきになる。ケーブル滝本駅からが山の中の参道。ヒルクライムなんてものじゃない。自転車をひいて徒歩で登る。自転車はころがすだけだから重い荷物ではない。しかしかなりの登り坂です。体調が狂って気持ち悪くなる。悪い汗がでる。足も重い。やめたくなる。半分ほど登るとほんとに小さな少女が母親といっしょに歩いてる。おおかたはみなケーブルに乗るから、こんな小さな子が大丈夫?もう死にそうだよー。子どもの体力というのよくわからない。わたしらが思ってるより強いものらしいが。自転車で御岳山に登るのも今回も自分ひとりだった。やってる人もいるはずだが多くは無い。登りでバテたらいくらでも休みをいれればよい。下りのダウンヒルははじめは想像しただけ。可能と判断してはじめてトライした時は必死だった。目の前今現在の運転だけがすべての緊張。今回も一二度谷底へ転落かというひやりがあった。・・そうこうして茶店のあるところまで来た。自転車の駐輪場所は心得ている。今回はレンゲショウマの前にすぐに紅葉屋という蕎麦やに入った。ビールと蕎麦で休憩。
・・八月のお盆明けの土曜日で人の出が多い。さすが青梅の御嶽山。登山客、神社参り、それに山頂に群生するレンゲショウマの開花が人を呼ぶ。ハイキング客はみないい装備だ。吉野街道ではいい格好のサイクリストが何人もいた。青梅ばかりは外に出ないと生きた気がしない。体力が落ちているのは分かったが、峠を越えたあとは不思議と強靭な体力がもどる。家にこもってシミュレーションばかりというのはよくない。
・・神社へあがる女坂の傍らにすこしレンゲショウマがみえた。写真を撮ってる人がいて、群生地は別のところという。何も知らないで来たが、ケーブル駅の裏にレンゲショウマがたくさん見えるという。まったくケーブル駅なんていったこともなかった。
*
小野小町
いそのかみといふ寺に詣でゝ日の暮れにければ夜あけてまかり歸らむとてとゞまりて此寺に遍昭侍ると人の告げ侍りければ物いひ心みむとていひ侍りける
岩の上に旅寢をすればいと寒し苔の衣を我れにかさなむ
遍昭かへし
世を背く苔のころもは唯一重貸さねば疎しいざ二人ねむ
581
:
秋魚
:2015/08/25(火) 19:59:58
(無題)
・・天候はもう秋ですね。台風なくても降水確率30%くらいで甲府盆地あたりは雨がくる。諏訪湖周辺や天竜川沿いでも雨は来そう。大雨でなければなんとかいける。自転車のフェンダーを外してあるので大雨だと悲惨です。・・急に空気抜けも困るから後輪のバルブをチェックした。劣化というのではないがもうしばらくは持ちそう。虫ゴムのいらないスーパーバルブを予備で持っていこう。予想しうる大方のトラブルは対処したい。自転車の調整はもう微調整でいいのではないか。ブレーキ鳴きが気になるが警笛がわりでそのままいく。
・・出発まで一週切った。ロードラインをもっと調べねば。塩山から甲府まで20号は避けたい。初日は完全に動きたい。塩山から周辺のサイクリング魅するもの多い。青梅街道柳沢峠越えというのいつかやってみたい。塩山から中央線に沿って甲府まではむずかしくはなさそう。石和には終日営業の健康ランドがある。ここは帰路に。
・・天気だけが心配になった。降水確率40〜50%。雲が広がって夕立のようなのは無いだろう。甲府から韮崎まで、その後の20号でない街道を調べねば。雨ならすべて輪行になる。昔の人はずっと歩いたのだから、これくらいでびびっていては何もできない。
・・甲府−諏訪のロードラインをシミュレートしてみた。韮崎からの県道17号というのが快適そう。晴れればの話だが。国道20号の右側ですね。中央線に近いとある。地図でみると茅野あたりで幹線と離れそう。もうすこし調べたい。
・・青梅の郷土館を訪ねた。以前訪ねた時にお願いした古い文献のコピーをもとめた。浄月律師の評伝です。ここ以外では国会図書館にしかないという。貴重な文献。学芸員の方で詳しい方がいらして助かりました。・・中原章についてすこし読んでみましたが、なんかおもしろい。充実した記事のよう。・・もうすぐツーリングに出るので、帰ってからしっかり読むことにしよう。なぜって、帰っての楽しみがあれば絶対事故に会わない。郷土館に感謝!
582
:
秋魚
:2015/08/29(土) 23:41:01
(無題)
・・秋雨前線が発生。天気が不順なので、ツーリングを一週延期した。八ヶ岳や富士の見える街道を、ほんとは赤トンボの舞う秋晴れのサイクリングをしてみたい。天気図ばかり見てすごすのも疲れるものだ。
・・浄月律師の評伝をすこし読む。中原章(〜1790)という希代の文人が当時青梅に漂泊していた。加賀出身だがどのような身分かはわからない。京都にでて諸々の学問と歌道を修練した風で、どんなこともよく知っていた。多摩川周辺に放浪していたが、ついには青梅の上町常保寺に庵をむすんだ。浄月はこの中原章に師事したという。
・・青梅漂泊は十四年にわたるというから、1776年(米国独立の年)にこの地に訪れたことになる。まず根岸典則、浄月律師が入門。学問もそうだがとりわけ魅するものはその歌学だった。若い頃京都に出て隅谷正雅という人に和歌を学んだとあるが、この隅谷という者は今のネットでもヒットしない。この歌が堂上風という。
鈴虫の声ふり捨て有明のねやへはいらし月になりゆく 章
この堂上風というのいまひとつわからぬも、当時の青梅では新鮮な京みやびであったらしい。て近な江戸でもてはやされたものとあきらかに一線を画する文化だった。
青梅谷野の真浄寺にある「しぐれ桜碑」には、日野資枝の歌が刻まれている。
さくら花梢のしづくおつるより幾世しぐれの名にやふりけむ
日野資枝こそはまさに京の堂上歌人。子の資矩とともに後桜町天皇に歌をもって仕えたという。浄月典則とも京の日野家に交流し、日野資枝も青梅に訪れた。
・・このあたりも中原章の導きという。
・・
浄月律師の作った章の祭文がある。
「夙に武門に出て帝都に留学すること十有余年にして、神儒仏の学窮すと云ふことなし、尤も歌道に精しく春の鶯秋の蝉の吟綿々としてたへず、浮詞雲の如く起り艶流泉の如くに涌く雲上に賞せられけるに、栄利を慕わずして、遠く四方に斗籔して旧地名跡普く至らずと云ふ処なし、其徳里々に伝はり家々に称せらる」
・・先の「しぐれ桜碑」と並んでおなじ形の芭蕉翁霊塚もあり、これは1793年芭蕉百回忌に浄月律師の建てたものという。
・・毛呂山の俳人川村硯布がここを訪れ句を残している。
「武州多摩の郡真浄寺の
門前に時雨のさくらあり
枝に哥よめとあれハ
さくらはな梢の雫落るより
いくよ時雨のなにやふりけん
此歌いと尊く覚て杖を止る事二日
朧夜はしくれ桜の荷擔(カタン)かな」
・・思うに、密かに井月もここを訪れている。
青梅や筒井づゝなるその昔
これは「しぐれ桜碑」と「翁塚」の並べて建てる様をみて詠んだ句とみるが、どうか。
『布鬼圃』
583
:
秋魚
:2015/09/02(水) 22:49:41
(無題)
・・女心と秋の空というのがあった。まったく今日はよく晴れた。すこし前の予報では70%の雨だった。三日連続して晴れ待ちというのは待ちぼうけになるかも。来週からまた雨の日が続きそう。しかし秋雨前線は急に消えることもある。今日は秋のうろこ雲がすこし見えていた。
・・近場の温泉でまだ未訪問の石神温泉というのにいってみた。奥多摩線の駅でいうと石神前というたいへんマイナーな駅から徒歩でゆける。多摩川べりにたいへん景色の良いおくたま路という温泉旅館がある。宿泊するのはやや値が張るが、日帰り温泉をはじめたという。
・・自宅からママチャリでとても快適なサイクリング。20分で到着できる。青梅街道吉野街道ともに使わず幻のサイクリングを楽しめる。スーパー銭湯が流行してこういう片田舎の肩肘張った温泉にはあまり人も出向かない。秩父の和銅温泉みたいに貸切で使えるだろう。そう想像した通り、客は自分ひとりだった。旅館の方でもお昼前後のチェックインまでの空き時間を日帰りで開放したようだ。
・・一級ホテルの温泉ほど快適なものはない。ロケーションの素晴らしさ。貸切で使えるならまさに瞑想がやれそう。露天はないがすぐ前は多摩川のせせらぎがみえる。川を取り入れた借景の庭があってここも歩いてみたい。・・泉質は、アルカリ性単純泉で、奥多摩湖畔にある鶴の湯をひいている。小河内温泉は昔からある。ダムを造って一度埋没したが、その後湯をくみあげて復活させたという。しかし、奥多摩湖からこの二俣尾までちょっとした距離です。どうやって引いているのか。
・・帰り道、栗の実がたくさん落ちて弾けてる。たいていは人が拾ってイガばかり。それでも拾われずにあるのもあって、よいのを拾った。
*
たねとなるひとの心のいつもあらば
むかしにおよべやまとことのは 京極為兼
俊成−定家−為家
この為家のもと、為氏(二条)為教(京極)為相(冷泉)の三派あり。京極為兼はこの為教の庶子。
・・すこし引いてみますが、絢爛たる歌ぶりです。
鳥の音ものどけき山の朝あけに霞の色は春めきにけり(玉葉)
沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰(風雅)
思ひそめき四(よつ)の時には花の春はるのうちにも明けぼのの空(玉葉)
梅が香は枕にみちてうぐひすの声より明くる窓のしののめ(風雅)
梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(玉葉)
霞みくるる夕日の空にふりそめて静かになれる宵の春雨(金玉歌合)
さびしさは花よいつかのながめして霞に暮るる春雨のそら(風雅)
春の夜の明くる光のうすにほひ霞の底ぞ花になりゆく(弘安八年四月歌合)
思ひやるなべての花の春の風このひともとの恨みのみかは(玉葉)
・・
584
:
秋魚
:2015/09/04(金) 03:09:52
遠く四方に斗藪して
・・先日、中原章について書かれた浄月律師の文を写していて妙な言葉にぶつかった。
「・・遠く四方に斗藪して」というこの「斗藪」という言葉である。「とそう」と読むが梵語で「頭陀」のことという。「ふりはらう」の意。「斗」は「北斗」などで馴染みだが「容量の単位」「ます」「ひしゃく」「少しの量」「けわしい」「かどだっている」「たちまち」「急に」などある。「闘う」という意味は無い。
「藪」は込み入った画数で判別難し、現代表記なら「薮」で「やぶ」のこと。草冠に数。
「斗藪」は仏法用語で行脚のこと。
・・いったいこういう漢字の当てはどういう思念で誰が行ったものか。根気が失せて調べたくも無いが、最近ポタリングとかツーリングとか見知らぬ土地の地図を調べること多く、実際完璧な調査は無く頭に入れた地図も思い込みほどのものであったり、現実に歩いて迷いばかりのあの格闘は何であろうと思っていた矢先、突然「籔」ヤブという言葉に思い当たった。「斗」はもろに闘争の闘の略字かと思ったが「タタカウ」という意味はないらしい。・・「籔」ヤブというのは、普通にタケヤブなどの茫々の草木のことだろうけど、自分には「迷宮」ラビリンスという言葉がよい感触です。「斗」というのはある一定の量をもった空間ですね、おそらくは。籔を切り開く剣=太刀があって、タタカウは太刀交ウとか先走りの想像もやはり籔の中のこと。・・そういえば仏法用語の好きな芥川龍之介はこの「斗藪」から思いついて『籔の中』を書いたのかもしれない。・・「迷宮」ラビリンスというのはクレタ島にあるクノッソス宮殿のこと。興味深い神話がある。・・ミノタウロス、テーセウス、アリアドーネとか、迷宮は迷路ではありません。ラビリンスは両刃斧の意です。
*
・・先日、やはり興趣を感じた京極為兼の歌について、玉葉集という一人選者ですが、京極派の歌風を代表しているとするなら、「絢爛たる歌ぶり」と評しましたがたぶんこの言葉は外れている。表現で違和を感じている時必ずどこか的を射ていないでしょう。・・江戸後期青梅の歌人をさぐっていて、浄月は二条派の堂上歌人日野資枝についたから二条風と思いきやそうではなく冷泉風という方がいて、実はこの区別自分は認識不能です。玉葉集はずっと昔さっと斜め読みしたことがあり、この斜め読みというのも違っているでしょうけど、この斜め読みから外れる歌の情を強く感じていました。ど真ん中でまっすぐです。
・・たぶん、もうすこし繊細な差異の言葉があるでしょう。
585
:
秋魚
:2015/09/05(土) 23:49:23
(無題)
・・天候不順。ツーリングさらに一週延期。出発日を決めるとかならず雨予報になる。もともとそんな急ぐツーリングでもない。行程とスポットで調べも遅れているから丁度よいかも。
・・甲府から諏訪をシミュレートする。甲府−韮崎まではなんとかいけそう。韮崎からR17で七里岩ラインにはいる。このライン桃の花咲く春先が抜群のようだ。サイクリストにはけっこうな人気ライン。韮崎ー小渕沢までが七里岩ライン。ここから清里、八ヶ岳に向う道がある。諏訪にゆくにはR17をまっすぐ茅野あたりまでゆく。富士見峠というところまではアップが続く。甲州街道を使わずほんとにいい道らしい。富士見から茅野までは下りになる。が、この道よくわからない。・・ともかくも晴れてくれなければお話にならない。
・・越境台風というのが遠い南の海上に来ている。あたかも台風17号?これの進行しだいで秋雨前線もぶっ飛んでくれるかも。大陸の秋の高気圧がずっと甲州伊那路を蔽ってくれるといいが。
・・諏訪湖周遊はまったく楽なサイクリングだという。天竜川沿いに下り伊那谷も容易という記事もある。甲府−諏訪が難関か。ここをこなせば八ヶ岳方面にもラインが開けてくる。
「花」と「しぐれ」
・・西行と芭蕉。
今日ばかり花も時雨よ西行忌 井月
井月は、やはり、青梅に来ているな。
*
絶品の栗ご飯ができた。
・・先日、たまたま出くわした落ち栗の実を拾った。たいていは虫食いばかりのものが多いが、この日は、艶のあるよいものばかり。人の通わぬ道で拾う人もいなかったようだ。・・さてどうするか。以前筍のあく抜きで奮闘したことがある。栗もアクがありそうだ。・・こんなときインターネットは大変ありがたい。検索すると、かゆいところに手が届いた栗ご飯の造り方レシピーがいっぱいある。そのうち一つの方法で栗ご飯をつくることにした。
栗ご飯つくりは二度チャレンジした。栗をふたつに分けた。はじめのは余りうまくいかなかったので、結果だけ。栗は皮むきがたいへん。鬼殻という固い外皮は慣れないとめんどうだ。これはコツがある。二度目にはうまくいった。食用とする実の上にさらに薄い皮がある。名称は思い出せないが、ここに強いアクがあるという。これはしっかり取り捨てなければならない。むき実の栗であとは害になるようなアクはないらしい。炊飯器の米に乗せて炊き上げればよい。で、塩と酒がいる。この量加減が最初はうまくいかなかった。塩の量は少なすぎたかもしれない。塩も酒も残るアク消しになったはず。白米の研ぎ方もぬるかったようだ。・・結果、栗ご飯はできたが、ややうす味。栗自体はあまい良いものだった。
二度目は、今日。白米を丹念によく研いだ。研げば研ぐほど甘みがでるという。玄米と黒米を少々。塩は前回よりやや多めに。多すぎてはいけない。栗は水につけて剥きやすくした。米についてもいろいろある。「ひとめぼれ」などいっても、同じ名で雲泥の差ある。「こしひかり」もそう。たまたま今あるのは、青森産「まっしぐら」。普段の二倍よく研いだ。・・栗を乗せて今回は醤油を数滴。酒は炊き上がってから蒸らしつつ使った。水加減とか栗の数とかいろいろレシピーは無視して勘を頼りで作った。
・・果たして、絶品の美味さだ。この栗ご飯だけでも食がすすむほど。
酒がよかったかな。千代鶴の四段仕込み。
586
:
秋魚
:2015/09/07(月) 21:11:15
(無題)
・・ハリケーンの越境台風とインスタント台風の発生。進路はまだわからぬも来週はじめには台風一過の晴れの日がつづきそう。三度目の正直でありたい。
中原章について、放浪が青梅に定着したのは安永五年(1776)。この土地に堂上文化をもちきたらしたという。青梅の花の時代はここにはじまる。
・・この年花咲く京の都はどうであったか。安永五年二月、夜半亭蕪村のもとに名古屋から俳友暁台が訪ねてきた。この頃は桃、桜が同時に咲く花の季節という。暁台と夜半亭の面々が一昼夜のうちに桃と桜の名所を二箇所経めぐるという快事があった。京では桜の名所は数多いけれど桃の花咲く名所は当時もかぎられていた。まず行きたいのは伏見の桃山でしょう。伏見の桃は江戸のはじめ伏見城倒壊ののち城跡にたくさんの桃の木を植えたのがそのはじまりという。安永九年刊『伏見鑑』桃山を孫引きすると、
「伏見の町の東に有。南北十町余り、東西三四町、或は五六町の間、数億万株の桃花、山野に満ちて爛漫たり。」
桃つらつら花尽きる処水長し 暁台
桃おちこち花のうらうへ入日さす 几董
・・この伏見のあと一行は京の西北嵐山へむかう。花見遊山の酔狂で、
星影の花にしみ入る夜明けかな 几董
夜桃林を出てあかつき嵯峨の桜人 蕪村
京の粋はさすがです。
・・この安永五年からさらに五年ほどして、1781年、天明期にはいる。この期は蕪村暁台もさることながら、天明の俳人たちがおおいに遊歴雄飛した時代だった。時代は混沌としていましたが。
天明2年-8年(1782年-1788年): 天明の大飢饉
天明3年(1783年)7月6日 : 浅間山で大噴火。死者約2万人。大飢饉が更に深刻化。
天明4年(1784年)2月23日 : 筑前国志賀島で金印発見。
天明4年(1784年)3月 : 田沼意知が江戸城内で佐野政言に殺される。
天明4年(1784年): 蝦夷地の開拓が始まる。
天明6年(1786年)8月 : 田沼意次が失脚。
天明6年(1786年): 最上徳内、千島を探検し、得撫島に至る。
天明7年(1787年)4月 : 徳川家斉が将軍に就任。
天明7年(1787年)5月 : 天明の打ちこわし(江戸・大坂で米屋が打ち壊された事件)。
天明7年(1787年)6月 : 松平定信が老中に就任、寛政の改革を行う。
天明7年(1787年)6月7日 : 御所千度参りが起こる。
天明8年(1788年)1月30日 : 天明の京都大火により、皇居炎上、京都の大半が焼失。
天明8年(1788年): 尊号一件始まる。
・・青梅で、中原章、浄月律師、根岸典則らが生きたのもこの時代。
587
:
秋魚
:2015/09/09(水) 00:01:09
(無題)
・・まさに恵みの台風か。雨より風の台風は昔から好きだった。風でちぎれた松ぼっくりの匂いとか遠い海の香りとともに風に乗って飛びたくなるのは幼少の気質だった。空の奥でごうごうと鳴る風の音には武者ぶるいがしたものだ。
・・日曜あたりから今度は晴れてきそう。諏訪から伊那谷へを検索してみた。諏訪湖西南の端岡谷から天竜川が開いて流れる。これに沿った県道は伊那街道か。これがよさそう。・・茅野のあたりから守屋山の脇道で杖突峠にあがるのもたいへん興趣をそそる。桜の頃高遠に入るならここをチャレンジしてみたい。高遠の桜半端でなさそう。・・今回は安全ルートで行く。・・それより甲府から諏訪までがどきどきわくわく心配だ。韮崎から小渕沢まで七里岩ラインは必ず、その先富士見峠までは17号で行く。地図ではここから20号に入ったほうが道はわかりやすくはないか。17号そのまま高原の道を茅野の外れまで行くラインもあるが。・・伊那、駒ヶ根には訪ねたい料理屋がある。うまく行けるだろうか。
桃桜の春の景ばかり思い描いている。京伏見の桃の花見はいいものらしいが、青梅の里も昔は梅というより桃の花里であったらしい。昔というのは江戸後期、明治の頃です。
明治の小説家田山花袋が奥多摩紀行を残している。
・・
玉茗も同じ心配をしたらしく、
「君、多摩川の山水は本当にいいんだろうね。昨日からのあれほどの苦労、あれほどの難儀をしていよいよ出会ってみれば、なんだこんな程度の山水か、ということにはならないだろうね」
と念を押してくる。
「決してそんなことはないさ」
??と強張って答えたが、花袋の胸にも一抹の不安があった。
旅篭を出て街道を山懐に向かい、日向和田(ひなたわだ)の小村落を過ぎると、山水の景は少しずつ引き締まってきた。
二俣尾(ふたまたお)の村に至って、ついにその場に立ち尽くすほどの好景に出会った。
「全村皆桃花(とうか)なり。全村紅(くれない)なり」
というわけで、桃の花に埋もれそうな村落が目の前に開けた。
??桃源郷かと思えるような村里を抜けて、再び流れに添って進めば、御嶽山が視界に入ってくる。渓流に点在する岩塊も、奇巌・怪石の状をなしてきた。
川井の村を過ぎると、山愈(いよいよ)深く水愈(いよいよ)清麗となって心を打たれ、つい時折立ちどまる。
先を歩んでいた玉茗が「これはすばらしい風景だ」と叫んだ。
彼らは現在の奥多摩渓谷にあって、一、二を争う景勝の地、鳩ノ巣渓谷を眼下にした。
(これは大藪宏さんの文です)
「全村皆桃花(とうか)なり。全村紅(くれない)なり」
・・先日の栗を拾った石神温泉のあたりが二俣尾。全村皆桃花というほどではありませんが、春には桃の花が咲いてます。
・・田山花袋が青梅奥多摩を散策しようと思いついたのには、実は、江戸末期の儒者林鶴梁という先人の奥多摩紀行『豈止快録(きしかいろく)』に触発されていました。
「・・御嶽から小丹波(こたば)、棚沢、白丸と歩みを進め、数馬の石門(切り通し)に着くと、
「山は険に、樹木は老に。群巌怒るがごとくして人を脅かし、石渓は激怒して轟音を発し、鬼界を往くがごとし」
という風景に接し、鶴梁は感嘆の声をあげた。
ここから奥の峡谷は、渓山が種々に変化して奇絶なことは限りがない。同行者三人はただ顔を見合わせて「美景なり」を繰り返すばかりであった。」
(これも大藪宏さんの文です)
おもしろいですね。川合玉堂も白丸、数馬の切通しは絶景の讃あり。
588
:
秋魚
:2015/09/10(木) 18:43:16
(無題)
・・雨台風。各地に水の被害がある。多摩川の下流でも河川敷はほぼ水でいっぱいとか。わたしのところは丁度上流の方から平地の街中へ流れ込むあたり。水流の勢いは強いが溢れるというのはなさそうだ。釜の渕公園というところに郷土館があり、河川敷より一段あがった土地にあり、すこし心配になった。午後になってまた雨がぱらつく空だが、自転車で川の様子を見に出た。・・こちらの河川敷も木々の茂るあたりまで水でいっぱい。夏の間はキャンプと水遊び、釣り客でにぎわっていた。上流の方でたくさん降って山から水を集めたようだ。この辺で溢れるようだと中流あたりでも堤防をこえるだろう。
・・御岳、鳩ノ巣あたりから、多摩川は、峡谷になる。奥多摩駅のあるあたりからさらに奥多摩湖へ向う川に沿った昔道がある。けっこうな距離です。昔の甲州街道で観光の季節以外はあまり人も歩かない。このへんも深い峡谷。道の上から奇岩、鬼岩の多いのは江戸の頃にあった大洪水の爪跡という。これは山の斜面を水がどどっと流れ落ち土砂を押し流したものだろう。堅い岩だけが残った。この昔道もけっこうな奇景です。
・・あの瞑想、すてきですね。
火山峠 N35度46分50秒 E137度59分18秒
自宅 N35度46分58秒 E139度14分43秒
青梅御岳山(神社) N35度46分58秒 E139度8分59秒
御岳神社奥の院 N35度46分46秒 EE139度8分30秒
・・御岳神社と自宅緯度線が完全同一。
この御岳神社から奥の院に向けた参道、西南に三分の二ほどあがると火山峠の緯度位置です。
・・この緯度線、多摩川に沿って奥多摩をどんどん遡ると湖の中央を通ります。青梅街道とぶつかるのは柳沢峠あたりで、富士がよく見える。
589
:
秋魚
:2015/09/11(金) 19:34:24
(無題)
・・台風の過ぎた後に前線の切れ端がすこし残る。日曜はこれがすこし気になる。が、待ったなし。まったくツーリングモードになる。
・・自転車の再調整をした。meridaは基礎構造がしっかりしていてブレがほとんどない。一度ブレーキワイヤが外れて立往生したことあったが、こちらの調整ミス。下手に調整してチェーンが外れたこともあった。解体組立て後の調整はあまり時間をかけられない。ヒルクライムが多そうなのでブレーキ調整を念入りにした。ブレーキ鳴きも止まったはず。
・・諏訪から岡谷辰野と行けばよいらしい。帰路塩尻に寄りたいと思ってこのあたりを調べてみた。昔電車で通ったことあります。中央線、飯田線とか篠ノ井線とか入り組んでいて乗り継ぎむずかしかった。地図でみると簡単そうだけどよくよく調べてやはりむずかしい。自転車で岡谷からなら塩尻峠をこえねばならない。辰野からの道もあるようだ。ヒルクライムになるらしい。電車の本数も半端でなく少ない。飯田線で伊那−駒ヶ根に行くことも考えたが、下手するともどれなくなる。一時間に一本あればよいくらい。けっきょくこのあたりすべて自転車に乗るのが最良か。・・帰り、高遠から杖突峠の道にまわるというのはどうだろう。ヒルクライムが大変そうだが、登りきれば諏訪湖の端茅野に入る。ここから富士見峠あたりまで輪行して下りは17号で甲府まで。石和で一泊。あとは楽に帰れる。
・・トリップアートというのを昔やってたけど(笑)
魂の叫びというのには負ける。
590
:
秋魚
:2015/09/12(土) 23:33:26
(無題)
・・朝は東京ど真ん中の地震で目が覚めた。また大きな地震かなとも思ったが、横揺れでほどなく止んだ。震度5弱から4。このあたりまでなら人はあまり気にしない。震度5を越えるとエレベータも自動停止する。震源は東京湾らしくマグニチュードは5.2。規模はこんなものであまり気にも留まらないようだ。でも都下ど真ん中というのは気になる。規模はたまたまこの程度だったと思えばいつ都心で大地震が来るやもしれぬ。
・・天が落ちてくるやもしれぬ。と気遣うのを杞憂という。しかし地震はよく来る。
・・直前でよく晴れたので御岳までポタリングに出た。雨降りで体が鈍っていたし自転車のペダリングの具合も見たかった。一年ほど前までは御岳までポタリングするのも勇気がいるものだった。今は気楽な足馴らしになる。ブレーキ、ギアの具合も問題なし。・・駅近の食堂でランチをとる予定がたまたま休業。それでいつかの名物蕎麦や玉川屋にはいった。ほどよい混雑で案内嬢が席をとってくれた。この案内嬢かわいい娘でどうも言葉使いなど日本人でない風だ。フィリピンとかタイとか。帰りにちょっと訊いてみたら、日本人です。といった。ごめんなさい。でもかわいい子でした。
・・他の客はみなグループでにぎやか。ハイキング姿の若い女性もいた。若い人を見るとなんか感動する。自分はこのところ古典古代の調べ事ばかりで急に年寄りになった気がする。若い子に声をかけると変なおじさんといわれるかも。でも若い子はいい。・・ざる蕎麦とビールで休んでいると、一人客が失礼しますと前の席に座った。男子で若者ではない。一人同士ですこし話をしてみたくなった。・・あたりさわりのない話から相手も素直に応じてくれた。なんでも栃木から車で来たという。吉川英治記念館に来たそうだ。栃木茨木方面水が溢れているのでこちらにまわったとか。足利の人で歴史が好きでついつい混み入った話になった。四方山話の中で、栃木の佐野に江戸のはじめオランダ船リーフデ号の漂着した遺物があるという。船は1600年大分の臼杵に着いたが船尾にあったエラスムスの木像がどういうわけか佐野にあるという。今は国宝と認定され国立博物館に所蔵という。リーフデ号ってウイリイアムアダムスの乗ってた船ですね。いろいろ話がはずんだけど明日はツーリングに出る予定。のんびりもしてられず話し相手のお礼をいってひとまずお店をでた。
彼岸花があちこちぽつぽつ咲いてます。
さて、帰宅してこれから最後の準備です。
591
:
秋魚
:2015/09/16(水) 19:04:41
(無題)
・・さきほどツーリングから帰宅。伊那市駅から自転車をたたんで特急あずさで八王子まで。あとは高尾から自転車を組立て青梅まで。朝は創造館で井月の書を眺めてました。・・高遠にでて杖突峠からダウンヒルして茅野から輪行帰路というのを思案してましたが、杖突峠のこわさを強調する人多くそれでもやれると信じてました。結局これは断念。木曜日は東京も全面的雨予報というのに従いました。自転車で雨というのはまったく動けませんから。・・特急列車に輪行袋の自転車で乗り込むというのが初体験。袋の自転車の置き場所というのでさんざん悩みましたが、座席の隙間に押し込むことができなんとか他人の迷惑にならず乗り込めました。この方法を覚えれば大方の輪行はうまくいくようです。
・・自転車行路は、塩山−甲府、甲府−諏訪、諏訪−伊那−火山峠−駒ヶ根。駒ヶ根の割烹料理屋「水車」のご主人さんが車でいろいろ案内してくださり伊那のホテルは自転車に乗らず助かりました。初日もけっこうでしたが、二日目の甲府−諏訪というのは驚天動地。三日目もさらに。
・・最初から三日目までは到着地とホテルを予約した。その日まかせの行きあたりばったりというのは昔よくやったものだけれど、宿泊予約は確実に動ける。
・・青梅から高尾までというのは以前都留に行った時のやり方で高尾の駅前での自転車解体は手馴れた風でできた。ちょうどプラットフォームに出ると快速小渕沢行きが出発真近。つながりよく電車に乗れた。エンド金具の止めが緩く動いたほかは自転車もうまくおけた。塩山の駅で組立て観光案内所のお姉さんに地図と甲府までの行き方をアドバイスしてもらう。ここで自分が予定していた青梅街道をあきらめ雁坂からの道を選んだ。笛吹川に沿った道がある。道がわからなくなると美容院があってスミマセンと顔をだしてお仕事中なのにいろいろ訊いてそれでもみなうれしそうに教えてくれます。洗髪中のお客さんまでが目を開いて怒られるのかと一瞬そうでなく正確な情報を伝えてくれました。塩山から甲府は17kmばかり。たいした距離ではありません。それでも何度も人に聞きました。
・・酒折という社があります。ヤマトタケルが筑波嶺をまわって火焼の翁と連歌をとりかわした処です。
ここも訪ねたい処のひとつでした。裏山に柑橘の実が色づいています。
・・すぐ隣に甲斐善光寺とかあり人込みでにぎやかでしたが、こちらはひっそり。でも本居宣長が寿詞を残しています。
・・甲府は、予定より早く着きました。ここもほとんど未知の街です。駅横に舞鶴城という城が立ち公園になってるようですが、今回は立ち寄りません。近くの宿を予約してあります。駅周辺北側から東にかけていろいろ史跡が並んでいるようです。酒折の宮の隣の甲斐善光寺はきらびやかな建物で長野善光寺の威光をそのまま遷しているかのよう。芭蕉の句碑がひとつありました。・・もっと真北の参道をずっとあがると武田神社にぶつかります。こちらもたいへんな人気のようでいつも観光客に溢れています。塩山あたりもそうですが甲府は戦国の武田信玄の威光が今でも根強く輝いている土地であの風林火山の旗があちこち見られます。街のつくりも武田一色というか当時のこの国の統率力の強さがうかがわれます。甲府は街中にしても温泉がみられ、湯村温泉とかすこし郊外のところにも名湯があり、いろいろ物色していて、武田神社のさらに北の方の山へとあがって積翠寺温泉という要害がパワースポットでここの日帰りを試みました。・・駅前の交番で案内をもらい、要害は信玄の隠れ湯とか、夜は露天からの眺めは絶景といい、ただし到り着くまでの坂道はなみたいていではありませんという。ヒルクライムは覚悟していました。自分のヒルクライムは歩いてでも登るスタイルで下りの軽快さをよく知っています。ここは是が非でもあがっていきます。・・まだ先かよとぼやきながらペットボトルの水の美味いこと。初日から汗がどっとでました。・・着いてみると自動車なら簡単なのか人も多い。自転車で来たのは自分くらい。でも、見立てどおりのよい湯です。泉質もなかなか。この日の疲れをさっと洗い流しました。
・・自転車にトラブルがなかった一日に感謝。明日の行程はずっと長距離のサイクリングです。
592
:
秋魚
:2015/09/17(木) 19:17:28
(無題)
・・なぜ自転車か?ゆく先々で不思議におもわれる節がある。火山峠に行くのになぜ困難なサイクリングの道を選ぶのか。・・甲府−諏訪は概ね60kmはある。想像では、左手に富士山、右手に八ヶ岳、さらにゆくと左手に南アルプスの山並みが見えるはず。国道20号、中央線がひたすらこの山間の土地を伸びてゆく。自分が走ろうと思うのは韮崎からの県道17号。七里岩ライン。小淵沢まで東西にせりあがった岩壁の丘の道です。
・・街道をサイクリングするにもっと目立つ服装がよいとアドバイスされています。競輪の選手のスポーツウェアがどういうわけか手元にありました。レース用でno9の番号があり派手ハデですからずっと着用することありませんでした。今回意を決してこのシャツを着てこの区画走ります。派手な服装というのは何故かよくわかります。
・・二日目。まずは韮崎まではいかねばならない。地図で選んだルートと違い、昨日交番でアドバイスでは、駅の北側から山の手通りに入る。この道をどこまでも真直ぐいけばよい。とのこと。・・これを採りましたが、それが大変でした。
実際、韮崎まで簡単にいけると踏んでいました。交番で聞いたのは、この道まっすぐ行けば七里岩ラインに直接合流できる道のようでした。・・どんどん行くと分かれ道があって右手に行くのが正しかったようです。自分は左折しずっと下って20号に出てしまいました。この20号でも韮崎に入ればさらに17号にも入れるはずです。そう頼んで20号を進みましたが、なんとも殺伐とした道です。甲府からまっすぐ諏訪をめざすのであればこの20号一本で大丈夫です。ただし快適ではないという。だだ広くて道を訊く人にも会いません。やっと土地の人に会って17号の入り口を教えてもらいました。韮崎の町に入りその七里岩ラインへの登り坂のところで麓の工場の人に尋ねました。奥さんがうれしそうにこのラインを語って、交通は詳しそう。すぐ旦那さんもでてきてああでもないこうでもない細々というけれど情報過多でもう出たほうがよいでしょう。帰りにまた寄ってくださいなどいう。ハイ運がよければ。ありがとうをいっていよいよ七里岩ラインへ。・・しかしこれが自動車の数の多いこと。おまけに最初は急なスロープが続きます。アップダウンが多いのも聞いていました。
・・甲府から七里岩ラインへ入るのに一時間もあればいくと踏んでたのは大間違い。3時間はかかってる。最初のスロープだけで30分。・・朝7時30分にでて諏訪には昼過ぎには到着できるくらいな思惑でした。が、これも大外れ。・・実際夕方の5時に上諏訪のホテルでしたから。・・丸一日の余裕でサイクリングだけの日です。自転車のトラブル無ければ。・・何度も繰りかえし来るアップダウン。一方的なアップでないのが救いです。・・車の数は減ってゆきサイクリングはどんどん快適になります。
山梨の外れ小淵沢が最初の目標。
・・韮崎あたりから晴れていれば富士がきれいに見えるはずでした。自転車乗りに集中して遠くの景色よく見てません。時折たしかめて見ましたが、うっすら雲がかかり富士は見えません。七里岩ラインで見えたのは南アルプスの山々と八ヶ岳連峰だったと思います。ともかくアップダウンをこなすのに夢中で、周囲の景色は稲穂が金色に色づいてあと蕎麦の白い花(?)が盛りだったようです。・・小淵沢の駅前に入るまで、かなり曲がりくねったスロープを走り、道がわからなくなりました。まれに出会う人に尋ねてなんとか小淵沢の駅前へ到着。ここは清里方面からの接続もあって食事のとれるお店も数軒あります。観光案内所で地図と諏訪へ行く道を教えてもらい、古民家の蕎麦屋で休憩。
派手ハデのスポーツウエアで、でもすっかり自分の風体忘れています。サイクリストは普通みんなきらびやかですね。ヘルメットなども本格的で。特に自分がおかしく見られはしません。お昼をまわってほんとうなら諏訪に着いていてもよい時間でした。もうあきらめです。セイロ天蕎麦とビールで休憩。静かなお店でしたが、そのうちグループ客がどっとやってきました。早々にしていよいよ隣の富士見に向います。
・・ここはもう長野です。七里岩ラインはここで終わり続きは17号でまっすぐ。しかし諏訪までの道ほとんど未知でした。富士見の駅の方から20号に入ると茅野諏訪は入りやすいようでしたが、原村というのを越えて尖石遺跡の近くまで行きそこからビーナスラインというので茅野へ南下。すこし大回りのコースを採りました。・・これが実はたいへんな道でした。八ヶ岳、南アルプスの景色はよく見えました。
富士見は峠になってるとばかり思っていました。このラインここがmaxの標高であとは下りです。アップダウンが繰り返されるので富士見以降は楽ということはない。だいたい富士見峠がどこかも不明。やたらと富士見、富士見が多いのではやく抜けたい感じでした。富士山なども見えません。・・原村へ向う道。もう道を尋ねる人にはそうそう出会いません。農協に入って尋ねました。どこに寄っても場違いな風です。三人くらいでああでもないこうでもない。で文殊の知恵が最後に来ます。やはり17号を真直ぐ。だだ広い高原の道をとんでもない地平に向けて走ってるようでしたが、もう後には退けない。急なヒルクライムはもう無いし、車も少ないし、サイクリングは快適です。
・・原村に入ってスマートフォンを持ってる人に道を尋ねました。どこへ行きたいの?諏訪です。え、自転車で?甲府から来ました。驚いた風で、親子で甲府から諏訪へサイクリングした記事が長野日報に載ってたけど、ひょっとしてアナタ?・・いえいえそれほどの冒険では無いです。実際これまでにサイクリストはひとりも出会いませんでしたが、ネットではいくつか走った記事が見られますよ。クロスバイクで走っているのは、異常だったかもしれません。来る前にドロップハンドルのロードバイクを購入してと思案しましたが、馴れる時間がありません。このHayabusaならお手の物。ちょっと風変わりなツーリングには違いない。
さて、県道17号の終点は尖石縄文遺跡のある交差点。ここは茅野市です。ここを左折して南下。茅野市街に入り国道20号に合流。そのままいけば上諏訪に着きます。尖石縄文遺跡は何年か前に訪れたことがある。ビーナス像の発掘があっておどろきの遺跡ですが、今回はパス。富士見の方で井戸尻遺跡館などもありましたが、ここもパス。・・はやく諏訪にたどりつきたい一心。
・・茅野の街中で道に迷い、通りがかりの女子高生に声をかけました。道に迷っちゃった。駅はどういくの?と、かわいい子です。はきはきと、頭の良さそうな生徒会の役員でもやれそうな。・・同級生にこんな子がいたらきっとホの字になっていたでしょう。質問の答える声にうっとりしてしまい思わず、場違いな話をしそうになりました。自分のチンケな風体も忘れていて。・・ありがとう。といって去りましたが、なぜか記憶に残る子でした。誰かに似ているか?
さて、上諏訪のホテルに到着です。
593
:
秋魚
:2015/09/18(金) 21:56:40
(無題)
・・諏訪のホテルはたいてい温泉です。一晩中好きに入れるというので、でも二度使っただけです。自転車でアップダウンを何度もやって筋肉痛が来るはずですが、なんともないのは興奮が続いているからでしょうが、湯の癒しもあるでしょう。
いよいよ本命の伊那に入ります。諏訪湖沿いに岡谷まで行きます。天竜川の開き口でここからずっと伊那谷へ流れだんだんと脇の水流を集め天竜渓谷はそれは見事なものです。(昔の記憶)・・あとは天竜川に沿ってまず辰野まで出ます。それからやはり天竜川沿いに伊那街道をひたすら進めばよいようです。・・岡谷−辰野という道、実はあまり良い道ではないです。特に自転車には。細い上に午前のこの時間、通勤ラッシュの車が続きます。距離も意外と長いです。奥多摩の悪路は経験済みでなんとかこなせるものの勝手のわからぬ初物はいやなものです。
本命にたどりつくにやや困難な道はどうやっても存在する。岡谷−辰野という道、嫌な道でしたが、なんとかクリアしました。辰野−伊那はだんだん快適になります。辰野から箕輪に入ってこの土地の広いこと。なかなか抜けられなかったのは、早く伊那にたどりつきたかったからでしょう。・・この天竜川に沿って、これはうっかりしていたけれど、糸魚川−静岡構造線をなし、フォッサマグナ「大きい割れ目」の西の端に沿った道のことだった。・・あの八ヶ岳と南アルプスの狭間の平原も釜無し川が流れていましたが、フォッサマグナの構造をつくっています。地質学上の大きな発見があり、今回のツーリングもそこがステージなのに今気づきました。
・・自転車を走らせます。伊那にもう入っているようです。田園風景は、稲穂が金色に実りつつあるようです。記憶が定かではありません。・・この伊那街道、このまままっすぐいけば火山峠に行くはず。はじめに伊那市駅に寄ろうとしました。ガソリンスタンドで右折する道を教えてもらい、ちょうどその交差点に来た時、考えが変わりました。右にいけば伊那市駅、まっすぐなら火山峠。この近辺にミスズの郵便局があるはず。・・井月のお墓に寄ろう。
近くの郵便局にずかずか入り、順番を無視して事務の人に声をかけました。ミスズに行きたい。郵便局はどこでしょう?若い事務員さんが仕事途中でしたが、ミスズはこの交差点を左折して高遠の方へ行ってください。すこし遠いです。おおまかな位置を教えてもらい、ありがとうをいって、すぐその道に走りました。火山峠のあとに井月のお墓をさがす予定でしたが、急に、お墓に寄りたくなりました。・・伊那から高遠に向う道があります。その途中ミスズの郵便局のあるところで左折しまっすぐいって突き当たりを左折とかざっと地図は頭に入っていました。・・実際ミスズ地区までかなりあり人に何度も尋ねました。坂を登り一段高い平地にでます。もう近いはずですが、耕運機を動かしている人に尋ねるとよく知っていました。にこにこ笑って今度は確実です。
見晴らしの利く平地の中に一本の木があって、その下に井月のお墓があると頭にあります。この一帯白い花が満面に咲いていて蕎麦の花でしょうか。赤とんぼもちらほら。天竜川の向こうの山並みまで見晴らかせ光の広がりは空と一体でした。・・あの木だろうか?この見える光の風景の全体がステージのようでまさにそのど真ん中に一本の木があります。空気、光、地熱とか一体になって体に染みこんで来るようです。・・近づくと、囲い塀の横に案内板があってまちがいありません、ここに井月は眠っています。
はるばる来ました。案内板の前に自転車を留めて、やっと来たか。自転車にぽつっと声をかけました。囲いを廻って簡素な墓地に入れます。塩原家の代々のお墓がいくつかあって、一本の木の下に丸い愛想のある墓石がありました。・・井月の墓です。
なんというか万感の想いがこみあげてきて、墓に手を合わせたり、周囲をうろうろ、しばらくは何もできません。・・火山峠までは自分で歩いていました。そこで倒れてこのミスズの地に眠りにつくまで地元の人のお世話です。墓石も。・・降るとまで人には見せて花曇り。この句が刻まれていて今は磨耗で読めません。・・ペットボトルの水を墓石にかけました。
594
:
秋魚
:2015/09/19(土) 13:44:50
(無題)
・・伊那に入ってもう何人か土地の人と言葉を交わしています。土地の方ですか?と尋ねてみなうなずきます。感じのよいこと限りなし。
さて、ミスズを離れて今度こそ伊那街道を火山峠に向います。途中コンビニで水とパンを補給し、電話をかけられないか尋ねたら、電話ボックスは無いという。お店のケイタイ使ってください。そんな悪いですよ。いいつつお言葉に甘え、駒ヶ根の知人に電話をかけさせて貰った。井月顕彰会の方で、お会いしてすこしでも話がしたい旨話が通っていました。伊那と駒ヶ根の境が火山峠です。これを自転車で越えてお会いしましょう。
・・火山峠、ひやまとうげと読みます。そう簡単ではないらしい。街道のガソリンスタンドで火山峠に行く道たずねたら、峠があってたいへんですよ。諦めをうながすよう。もともと火山峠に行くのが目標だから、道を確認してお礼をいい、黙々と走った。だらだらと坂が続きます。急なのは足つきでこなすのは馴れたもの。途中郵便配達の人にきくと、大変ですよ。国道にまわれば楽な道です。でも、火山峠に行きたいのです。なら行かれてください。登りきれば楽です。
駒ヶ根に行くなら天竜川沿いの国道がよいらしい。火山峠は車なら楽でしょう。自転車をみて、それもロードレーサーではない。やめた方がいい、とみな思うらしい。井月は歩いて峠を越えていた。体が動かなくなって倒れた場所にいってみたかった。井月を芥川に紹介した下島空谷もこの峠を越えている。人の手で葬られた墓ではなく、独力の力尽きた場所を見たかった。
・・途中やはり栗の実が弾けて落ちている。二つ三つ拾ってみた。・・まだかよ。と、ぼやきそうになるが、ここは意地でも登る。ヒルクライムの挑戦ではなく、井月の限界の届かなかった先からのアプローチ。手を伸ばしてみたい。・・そうこうしているうち池のある場所に来た。ここではない。もうすこし上がると、頂上らしいが火山峠の標識はない。そこを下ってゆくと田んぼのあるところに来た。田んぼの畦に倒れたというから、このあたりか。芭蕉の松という木があり、芭蕉の句碑がある。隣にも、井月終焉の地とあり、句碑もある。
火山峠 N35度46分50秒 E137度59分18秒
自宅 N35度46分58秒 E139度14分43秒
青梅御嶽山(神社) N35度46分58秒 E139度8分59秒
御嶽神社奥の院 N35度46分46秒 EE139度8分30秒
・・火山峠の標高の分岐点で、井月は倒れたわけではない。駒ヶ根よりから峠を越えようとして力尽きた。力はあったが、体のコントロールが利かなくなった。よろよろと田んぼの畦に倒れこんだ。
峠の分岐点をはさんで北側250メートルと南側250メートルのゾーンで井月と自分は生死を分けている。
595
:
秋魚
:2015/09/21(月) 17:54:11
(無題)
・・岡谷から特急あずさにいっしょに乗り合わせた人がいる。自転車の置き場所などアドバイスしてもらったりすこし話したりしました。八王子までの帰りというので降車駅もいっしょでした。出張のお仕事の帰りのようで八王子からさらに八高線で飯能にまで行くそうです。田舎ですよと言ってましたがそんなことないです。もっと聞くと美杉台にお住まいとか。・・思わず笑ってしまったのですが、美杉台は飯能随一の高級住宅地。田舎という言葉はあたらない。笑ったのはまずかったかもしれない。・・以前交番の巡査にたしなめられたこと思い出したもので。一期一会というので、巡査との間でどんなおもしろい話があったかついぺらぺらやってしまいました。成木川と入間川という実に美しい川があります。この川の起伏に沿って変化に富んだ自然のウォーキングができます。今の季節なら道端に栗の実が落ちてます。どんぐりの実なども落ちてますけど。栗の方はそのままおいしくいただけます。・・これは田舎というのとはちがいます。
・・足腰の筋肉がひきしまる心地よい筋肉痛が二三日ありました。そうしてパソコンなどで思い出に耽っていると身体の緊張は解かれてまたどこかに出たくなります。
きょうは飯能の先の日高にある巾着田というところまでサイクリング。昔は一日がかりで出かけたものですが、たぶん一時間とすこしで行けるでしょう。
巾着田 N35度52分53秒 E139度18分37秒
・・天覧山の脇の道を通ってすぐ秩父へ向う街道に出ます。そこの観光案内所ではまっすぐ3kmほどいけば着くとのこと。歩道の無いせまい場所がありますが、車の渋滞でかえって自転車は安全に走れます。休日なので人はたいへん多い。西武線高麗駅に自転車を留めぶらぶら行列なして出店をみながら歩きます。もう二三日前の平日がよかったかもしれません。盛りをすぎた彼岸花は年増の舞姫のよう。ほんとに人出が多い。きょうはこういう雑踏に入りたい気でした。これだけ人が多いと花の勢いも負けますね。というかたくさんの彼岸花と人の多さのせめぎあいのようでした。
・・巾着の形に高麗川が流れています。近くに高麗神社もありここら一帯は高句麗の若光王が流れ住んだ土地。渡来人の土地です。そういう訳でもないでしょう。見物客の言葉が時折耳に入りますが日本語でないこと多いです。外国人観光客がずっと増えているようですが。
autoの露光だと、この花まともに写りません。写真マニアもたくさん来ていました。
・・このあたり台村というそうです。巾着田の入口に「水天の碑」というのがあります。これは、天保年代(1830−1844)に繰り返された旱魃、大洪水などの天災を鎮めるために、台村の人々が建立したものという。・・天保期の空気は若年の井月も充分触れている。ここらは毛呂山の川村硯布が近いか。硯布の姨捨紀行というのがあった。
・・お花見を楽しむというのでもないサイクリング。自転車の調子と自分の体の調子を確認してみたかった。青梅坂にはじまりスロープがいくつかあります。・・これにはまったく強くなりました。足つきをせずそのままの姿勢でアップをこなせます。秩父街道を日高へ向かう道。悪路です。一部歩道が無く白線もあるかなきか、ダンプが来るとこわいです。ロードレーサーがこなすようには出来ませんがこれも自己流でこなせます。・・この道は何度か走ってる道でほぼ楽ですね。
帰り道は、入間川、成木川、小曽木街道へ出るまでに、道端に、栗の実が弾けて落ちてます。土地の人が拾っているようですが、その後にもぽつぽつ。これを拾って帰りました。小曽木の無人野菜売り場では、キュウリを買って、たぶんとても甘いです。
596
:
秋魚
:2015/09/25(金) 23:38:30
(無題)
・・今の自分を知るために父を知るべきだろう。父を知るために父の時代、父の父の時代を知る必要がある。父の父は祖父だが、わたしの場合祖父は明治二年生まれ。明治からの日本近代が枢要な課題であろう。・・祖父を知るために祖父の父を知るべきだろう。祖父の父は曾祖父だが、曾祖父を知るために、曾祖父の時代、曾祖父の父、曾祖父の父の時代を知る必要がある。・・曾祖父の父の時代を知るために曾祖父の父の父の時代を知る必要がある。
仮に、曾祖父の時代、曾祖父の父の時代のメルクマールを天保期とすると、曾祖父の父の父の時代は天明期のメルクマールとなる。
597
:
秋魚
:2015/09/27(日) 00:13:11
(無題)
・・石清水八幡宮。 北緯34度52分46.8秒 東経135度42分0.2秒
京都府八幡市八幡高坊30
>・・平安時代前期に八幡宮総本社の宇佐神宮(大分県宇佐市)から勧請された神社で、京都盆地南西の男山(鳩ヶ峰、標高143メートル)山上に鎮座する。
・・「石」「清水」「八幡」 これだけエレメントの揃ったものは裏がありそうですね。
桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になる地点です。長岡京の外れに位置するか。この淀川は、蕪村が 澱河歌三首で詠んでいる。
○春水浮梅花 南流菟合澱
錦纜君勿解 急瀬舟如電
(春水(しゆんすい)梅花ヲ浮カベ 南流シテ菟(と)ハ澱(でん)ニ合ス
錦纜(きんらん)君解クコト勿レ 急瀬(きふらい)舟電(でん)ノ如シ)
○菟水合澱水 交流如一身
船中願同寝 長為浪花人
(菟水澱水ニ合シ 交流一身(いつしん)ノ如シ
船中願ハクハ寝(しん)ヲ同(とも)ニシ 長ク浪花(なには)ノ人ト為(な)ラン)
○君は水上の梅のごとし花(はな)水に
浮(うかび)て去(さる)こと急(すみや)カ也
妾(せふ)は江頭(かうとう)の柳のごとし影(かげ)水に
沈(しづみ)てしたがふことあたはず
・・宇治川が淀川(桂川)に合流してゆくモチーフを見てますが、木津川も合流しています。木津川の上流は伊賀でありここは芭蕉も最晩年に舟で降っていったはずです。
この二人の俳人、長岡京と平安京のブレにまでは思い至らずでしょう。平安京の裏鬼門に石清水八幡宮はつくられました。
芭蕉は、奥の細道の旅で、石清水を詠んでいます。
「湯泉大明神の相殿に八幡宮を移し奉りて、両神一方に拝まれさせ給ふを
湯をむすぶ誓ひも同じ石清水
(曾良旅日記)
>・・那須湯本の温泉大明神。京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくうと、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。
近江の幻住庵の国分山上には、石清水八幡宮から遷座された聖徳太子堂がある。しかしこれは、明治二年の神仏分離令以来のことだ。
>・・貞観元年(859年)に南都大安寺の僧行教(空海の弟子)が宇佐神宮にて受けた「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託により、翌貞観2年(860年)清和天皇が社殿を造営したのが創建とされる。
・・貞観のはじめ清和天皇の創建というのが、悩ましい。
598
:
秋魚
:2015/09/27(日) 10:13:14
(無題)
・・あきるの市菅生にある正勝神社へポタリング。秋川へ向う滝山街道で青梅から満地トンネルを越えるともう近い。・・秋川歌舞伎という明治以来の農村歌舞伎を継承している。以前たまたまこの正勝神社での公演に出くわしたことがある。正勝神社のもっと手前の広場でその神社にはいってみなかった。祭神が正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)という触れ込みで興味をもったが、今回実際訪ねてみると大山祇命が祭神ということでした。「・・創建年不明。 元暦年間(1184〜85)武蔵七党のうち横山党に属する菅生氏の祈願所であったという。」本殿は元禄四年に造営、上屋拝殿これは天保十三年に造営。・・元禄四年といえば芭蕉が前年に幻住庵を出庵したあと京都奈良滋賀を徘徊してまわった年。十月美濃垂井の規外の本龍寺に滞在。「作りなす庭をいさむる時雨かな」このあと江戸にもどる。
・・天保十三年(1842)
6.22 七代目市川団十郎、奢侈で江戸から追放される
7.1 水戸藩、偕楽園を構築
7.23 異国船打ち払いの方針を、薪水を与えて立ち去らせるように指示
8.3 川越、忍、今治三藩に江戸湾岸の警備を指示
10.2 高島秋帆、外国人との交友の罪で入牢する(冤罪)
11.24 佐久間象山、老中・真田幸貫に海防八策を上書
12.24 羽田、下田に奉行所を設置
12月 水戸藩、大砲鋳造により梵鐘を徴発
・・天保十四年(1843)なら、芭蕉百五十回忌。
宝物として、神社なのに十一面観音像がある。また水盥一個、天保十四年七月吉日信陽高遠保科保正と銘あり。この石工銘は青梅の住吉神社の碑にも記されてあり。信陽は長野県のこと。伊那谷の石工が1843年頃あきる野青梅で活躍していたことがわかります。(大発見!)
正勝神社 N35度45分26秒 E139度16分39秒
・・この滝山街道を右折すると菅生の正勝神社。左折すると草花通りというのがありずっと多摩川に向う。青梅とあきる野を分かつ草花丘陵というのがあり、このあたりの散策はやってなかった。よい機会で左折した。この丘陵の裏手、多摩川に接するあたり、羽村の郷土館があるはず。玉川上水引き込み口の南側になる。交通の便はよくないがのどかな自然にめぐまれてよい里山になっている。はじめての道というのはいつも新鮮でうれしいもの。人にたずねながら羽村の上水郷土館に着いた。・・玉川上水建立が目玉のようだが、もうひとつ「大菩薩峠」の作家中里介山の生地という。この向こうの水車小屋で生まれたとか。
中里介山 1885年(明治18年) - 1944年(昭和19年)
・・いまの青梅街道。江戸の頃はダムもなかったから多摩川に沿った道があって、深山橋のあたりから大きく北西に迂回して柳沢峠に至る道ではなく、そのまま大菩薩峠に至る山道が本道であったかと。ともかく鳩ノ巣の先数馬の切り通しあたりでも馬は通れない。映画のなかでも女子の旅人が足場をくずすシーンが記憶にある。はじめに奥多摩をこえて甲州市までゆく大菩薩峠の小説は、魅惑。吉川英治、川合玉堂などほんの入口のところで風光を愛でていた感がある。かくいう自分も大菩薩峠は未踏であり、柳沢峠にもいっていない。ともかく普通の甲州路への旅として昔はあったとは思うものの、今でも大変な険路。・・先日20号の甲州街道、高尾から塩山は輪行だったけれど、やはり山が入り組んでいて昔の街道は険しかったにちがいない。大垂水峠なんてまったく嫌な道だった。・・この青梅街道、志あるものは必ず甲州まで歩いていったにちがいあるまい。中里介山は59歳で没するまで実に多くの仕事をした。未完の長編小説「大菩薩峠」を書き続けただけでも頭が下がる。・・高尾山麓や御岳山中にも庵をむすんで夢を果たそうとした。御岳山は自分もよく訪れるようになったが、ここもそう簡単ではない。とりわけ居住というのは、勇気がいる。介山がそういう仕事を易々とやったのではないのはわかる。しかし結果として仕事を残したというのはやはり頭が下がる。
見習いたいものが多い。
599
:
秋魚
:2015/09/29(火) 01:50:03
(無題)
航海の女神はイシスでしょう。
船の舳先に立つのはあやういものです。
>・・イシスは永遠の処女であり、オシリス(夫であり兄)の死後
処女のまま息子ホルスを身ごもったとされ
「天上の聖母」「星の母」「海の母」などと言われ
「ホルスに乳を与えるイシス女神」像などが
イエスの母・マリアへの信仰の元になったと言われています。
・・サント=マリー=ド=ラ=メール(Saintes-Maries-de-la-Mer)は、ブーシュ=デュ=ローヌ県アルル郡の都市。
ナザレのイエスが磔刑に処せられた後、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベ、従者のサラ、マルタ、ラザロたちが、エルサレムから小舟で逃れてこの地へと流れ着いた。彼女たちのうち、マリア・ヤコベとマリア・サロメの2人とこれに従うサラがこの地に残った。
・・伝説では、マグダラのマリアはサント=ボーム山塊へ、マルタはタラスコンへ赴いたとされており、
このマグダラのマリアが、イエスの妻であり子を身籠っていたという真面目な話があります。
600
:
秋魚
:2015/10/03(土) 20:23:38
(無題)
・・自転車の遠乗りもステップアップすると大変なエネルギーを使う。今回のツーリングでよくわかった。自転車本体の解体−組立てとかハードの作業は勇気のいるものだ。最低限のレベルは身に付いたとは思う。
・・ハードといえば、パソコンのハードいじりも長らくやってない。IT関連はハードもソフトも短期無関心でいるとどんどん遅れをとってわからなくなる。以前職場に詳しい人がいていろいろ教わったが、パソコン創作をすすめてくれた。これはよほどお金とヒマに恵まれないと実践できそうにない。・・ノートパソコンの寿命は使い方にもよるが5〜6年だそうで短いものだ。ハードディスクのデータファイル容量も巨大なものがどんどんでてる。容量いっぱいになるまえにパソコンが壊れることが多い。マシーンのハードが壊れるのでなくディスクがウイルスとかファイル誤作動で壊れるケースは何度かあった。これの修復は何度かやって今のパソコンは十年近く使っている。・・基本ソフトのアプリケーションも使いこなせてないものが多い。インターネットのページをwordやpdfファイルに変換するのにチャレンジしてみた。いともたやすくやってる人にはつまらない話でしょう。
・・王様writerというチャイナ系の文書作成ソフトがある。ずっと以前中古のパソコンを購入したとき付属していたものだ。王様officeといってまるで何か某ブランドソフトのパクリのようだが、よく出来ている。ほとんど使ってなかったので、そう思うのはつい最近のこと。・・pdfファイルというのは気に入ってる。wordファイルをpdfファイルに変換するのに、この王様writerはいとも容易だ。wordは昔は画像も組み込めなかった。いまは組み込めるがバランスがよくない。これをpdfファイルに変換するとまったくきれいな文書ファイルになる。インターネットのページをpdfまでもってゆくには、コピーでwordに写す必要がある。いろいろやってみたが、完璧なpdfになる。
・・王様officeはよいとしても、王様securityは要注意!詳細はいえないがこれのおかげでハードディスクが破損したことがある。王様ソフトにだけ問題があるのではない。よくわからないことは、黙するしかないわけだが。
601
:
秋魚
:2015/10/05(月) 00:22:21
(無題)
方舟 長水に戯る
湛澹 自ら浮沈す
絃歌 中流に發す
悲響 餘音あり
音聲 君が懐に入る
悽愴 人心を傷ましむ
心傷 安に念ふ所ぞ
但願ふ 恩情の深からんことを
願はくは 晨風鳥となりて
雙飛 北林に翔けむ
602
:
秋魚
:2015/10/14(水) 20:02:57
(無題)
・・今日は疲れた。伊那のツーリング以後自転車の整備もしてなかった。チェーンとギアの清掃と注油をするなど思い出して整備。どこかにポタリングしようと、そうだ!都幾川の慈光寺がいい。以前高崎に行った時は天気もわるくゆとりもなかった。慈光寺はちょっと寄るなんて気安い訪ね方はできない。ときがわに入ってから左折して9キロほど山の中に入る。都幾山という山の上にある。ネットの記事では春先が断然よさそうだ。秋は秋でいいらしい。今は季節外れの気もするが、思い立ったら吉日。朝遅めに家を出た。
・・距離は高崎の半分くらいか。一度は経験済みの道はいたって自信がある。まわりの景色もよくみれるようになった。宮沢湖の温泉キラリまでは一時間ちょっとでいける。高麗神社ももうすこし先だ。この辺は日高という。毛呂山は武者小路実篤が新しき村とかをはじめた土地で記念館があるようだ。看板をみかけたが訪れてはいない。春秋庵を継いだ川村硯布の生地でしぶい俳句をつくる。芭蕉句碑のある川角八幡には前回訪れたがこわい神主さんがいた。このあたりまた別件で散策したい。毛呂山の埼玉医大のあるところまでは車も多くあまりよい道ではない。ここからは道幅も広く快適な走りができる。飯能小川線の道路は毛呂山越生がたいへん長く感じられる。越生は梅林で名高いが、途中梅林へ向う道がいくつもある。街道を逸れて山の方に向うらしい。ダンプがたくさん来るのは吉野街道で慣れてはいたが、この街道もけっこうなものだった。越生を過ぎるとときがわで今は都幾川とはいわないらしい。アップダウンの坂はいくつかある。田中交差点のところで左折。すこしアップの道を9キロだという。途中中学生のランニングの指導をしてる先生に道を尋ねた。山に入るに右折しなければならずそこからが急な坂道になる。これが3キロ。
・・田中交差点から慈光寺に向う道では、正装したサイクリストがちらほら。品川ナンバーのライダーも来ていた。車もすくなくスロープがきつくなる道にしてもヒルクライムではかっこうの道。名の通った道なのかもしれない。まあ自分は足つきで自転車を引いて歩いたけれど。
・・最初に青石板の碑が並ぶところに来た。ここは変わったものがいっぱいあってちょっと寄っただけでは消化できない感じだ。参道には桜の木があってこれが春にはいいらしい。あとシャガの草も群生している。これの花も四月末とか。季節はずれでほとんど人もいないと思いきや上ではやはり訪ね人がいましたね。
・・そうそう参道にのぼる前に女人堂という古風なお堂がありました。これの由来がおもしろい。この慈光寺には「慈光寺経」という国宝があります。この由来もおもしろいのですが、さておき、その慈光寺経のうち「装飾法華経提婆達多品」というのがあります。この本文には、サーガラ竜王の娘が、解悟(さとり)に達したことに、釈迦の高弟サーリプトラ(舎利弗)が、疑義をはさむが、彼女は、これを論破して、衆生に法を説き、解悟(さとり)をえさせて信受させてゆく物語がある。この故に女人成仏の経巻として、古来よりあまた女人の信仰篤いものという。・・慈光寺の平安初期は女人禁制のため慈光坂の途中に建立。
本経の結縁者は、文永七年(1270)の一品経書写次第に吉祥御前とある。
見返し絵は、金箔、砂子を霞濃淡に横断させた上に、墨絵による松、柳、もみじを描き、下方に芦、おみなえしと岩を配している。この絵の中に、「法華経序品」の「或有諸比丘、精進持浄戒、猶如護明珠」の文字が芦手絵風に見え隠れする。・・
・・青石塔婆という石碑の裏あたりに芭蕉の句碑があったらしい。これは探したのだが遂にわからなかった。木の幹に埋もれるように画像を記憶していた。「あかあかと日はつれなくも秋の風」、上にあがって管理の坊さんにも尋ねたが、実際わからなかった。なんでも一緒にあった木が枯れたので移したような旨。広い境内でくまぐま見て廻ることもできず、次回の楽しみに句碑はあきらめた。
・・開山堂がある。天武天皇の白鳳二年(673年) 釈道忠慈光寺を開山。開山堂は国指定重要文化財慈光寺開山塔の覆堂である。
・・平成二年、鐘楼再建。銅鐘寛文三年(1245年)5月18日、鋳造。この鐘、椎鐘とある。この表記あちこちで見られるのだが、正式な意味不明。椎はツチのことで叩いて鳴らす鐘の意のようだが。
・・芭蕉「幻住庵ノ記」に、「まずたのむ椎の木もあり夏木立」とあり、これは実の椎の木ばかりと思っていたが、ひょっとしてこの椎鐘とつながるのかと、思わぬ思索が広がった。
・・良寛や空海の書を参道に展示してあるのは、何故だろう。そう思ったが悪くはない。般若心経とかで、書体を見るものだろう。気がせいてじっくり鑑賞できないのが、残念。時の鐘があって、ちょうど正午の鐘が鳴っていた。
・・本堂とかいろいろ見るべきものが多そうだ。ぎたぎたしたお寺ではないが、山の中をあちこち廻らねばならぬので、疲れてもきた。本堂はあまり覚えが無い。観音堂というのは、魅するものがある。千手観音像が本尊か。・・もうひとつ国宝となってる慈光寺経を見たかった。で、どういうわけか模造かと思われるその経を展示してあるところにきた。これももうじっくり鑑賞なんて気もおこらない。この慈光寺経の一部は山麓の女人堂のもの。歌詠みの九条義経の供養に後鳥羽上皇の発願で奉納された由。装飾経の全体はどんなものかなんとなく鑑賞するので手一杯。写真をぽつぽつ。
・・この慈光寺。七井、七石、七木がある。それぞれ云われがあるが、月の井だけ見る。
「・・役行者として有名な役小角が慈光寺に登り、仏法を広めるための守護を神明に祈りました。するとこの井戸の水面に映る月輪の内に蔵王権現が現れ、役小角にその誓約をしたとのことです。以来、この井戸を「月の井」と呼ぶようになったそうです。
ひょっとして井月はここにも訪れているのではないか?
・・毛呂山の俳人川村硯布がここを訪れてる気がした。青梅の真浄寺には時雨桜の碑もあって句を残している。都幾川の慈光寺は天台の名刹ゆえか田舎でも歌人俳人はきっと訪れる。善光寺詣を残した硯布もきっと訪れるはずと思うものだが。ただし句を詠んだかどうかはわからない。・・慈光寺は謎も多いか。
春先にでも再訪しようと思い、この日は、下山にかかった。参道のスロープは下りなのでまったく楽だ。ハイキング、登山などで体調がくずれるのは大方アップにかかる登り道だろう。気圧の変化で急に耳鳴りがしたりする。火山峠で井月が倒れたのも峠越えをする手前のことだろう。下り帰路というのは心身ともに安らぎが多い。・・田中交差点から小川の方へ向い、噂の玉川温泉に寄ることにした。ここらの温泉いくつかあるが、湯量豊富で良質のアルカリ性単純泉がでるという。日本最高ペーハーとかの都幾川温泉は位が高く今日は見送り、庶民的な日帰り玉川温泉をめざした。ときがわといっても山の方でなくゴルフ場などある里山の外れの方だった。周囲はゴルフ場もあるらしいが森と田園ばかりでこんなところに人が集まるのかすこし不安。
すこし離れていてまったくの田舎道。着いてみると車の客が多い。というか下町の銀座並にがやがやざわついている。丁度お昼時だからだろうか。・・ここはいわゆる静かな温泉ではない。まったく元気いっぱい。わたしのように落ち込んだ者には面食らうものがある。それはそれでかえって嬉しい。・・評判のように湯質はとてもよい。ペーハー10.1という最高純度。秋川の瀬音の湯とほぼ同じ水準。湯量が多い分こちらの方がよく見える。
・・レストランで「おふろ甲子園」の記事を載せるフリーペーパーを手にした。先日伊那にいったとき塩尻の信州健康ランドにも寄ろうとしたが、ここは「おふろ甲子園」という大会で優勝したとか聞いていた。おふろのコンテストがあるのもよく知らなかった。この玉川温泉もこれに参加しているらしい。道理で番台さん(?)も元気なはずだ。静かにしている自分が恥ずかしくなるくらい。温泉というのは元来こういうものかもしれない。・・しかしこの温泉の流行は何であろうか?です。
603
:
秋魚
:2015/10/23(金) 00:29:58
(無題)
・・健康検診。たいへんな良化。あれだけ自転車に乗って温泉に湯浴みして悪くなるはずがない。空気が一番大切です。呼吸器系の運動は肉体を動かしてはじめて調節される。肉体は眺めていて有るものではないです。動かさねば。舞踏家の公演ほど退屈なものはない。空気は場所を選ばないと肉体を動かしてもエネルギーの消耗でしょう。職場の空気はまず変えられません。生命の危険を感じたら即座に離職するべきです。自転車操業に切り替えるべきです。
・・ハートの重要性。ハートとは心臓のことです。するとすぐそうではないという人がいます。肉体の血液循環の原動力は心臓にあります。ハートとは心臓のことです。見えないのをよいことにハートは心臓ではないといいます。ハートは物質ではないようです。ハートは心臓でしょう。自転車に乗るとよくわかります。
・・喫煙者の近くで心臓が痛くなるのは、何故か、しばらく不思議でした。煙草の煙は一酸化炭素を排出します。肺に入るとヘモグロビンと結合してドロっとした血になるそうです。この血がもう一度心臓に送り返されて弁とか近くの脈血管で障害を起こします。心筋梗塞というのはたぶんこのあたりの病でしょう。素人なので不案内ですが。
・・不完全右脚ブロックを指摘されたことがあります。一種の不整脈ですが、喫煙者がよくなるとか。わたしは喫煙はしません。これは二種類あるようです。ひとつは先天的病で手術も必要とするもの。もうひとつは気まぐれ病で心臓に負担をかけなければ表に出ないもの。たぶんわたしは後者のもの。この二年ほどは何もありません。理由もわかっています。いずれまた。
・・健康検診。ともかく良好でした。血の病はありません。
・・告白という言葉も古いでしょう。古い言葉告解に含意されることばでしょう。カトリックの教会に告解をする小部屋があります。簡易的なものは告白をする人、聴聞する司祭が幕で仕切られ顔をみないで声だけでなされます。聴聞する司祭も人間ですから告白すべきものを多くもっています。宗教上のシステムですから神を背にして人は透明になれるでしょう。それを信じて人は告白します。・・聴聞司祭はただ相手の告白を聴くだけ。いっさい自分を語らない。それが賢明な仕事です。
・・ところが、透明な司祭が自分を語り始める。というか教会ではありませんから自由に人は自己愛も他己愛も語れます。無神論があたりまえになった近代以降の告白劇はいくらでもバリュエーションがあるでしょう。なんといいますか、ああいえばこういう、ああいったりこういったり。心ある人からするとただのおしゃべりでしょう。うんざりだ、がまんならない!
・・ある種、神を背に持つ人は幸せですね。自分はもう告白する必要がありませんから。神と一心同体。神との婚姻を誓っているようです。
604
:
秋魚
:2015/10/29(木) 21:08:23
(無題)
「梅子熟せりや」
「桃の青きが如し」
・・芭蕉が深川で訪ねた仏頂和尚との問答。
「梅子熟せりや」は、大梅法常の師のことば。師は馬祖道一。709年(景龍3年) - 788年(貞元4年)
公案の語録では、「梅子熟也」。
也 ・・訓読み なり や また かな 音読み ヤ
成り立ち 象形#2#3#4 漢字構成 也 発音 yě 表示 U+4E5F也 部首 乙+2画
字源
ヤ#5
なり、決定の辭、句の終に置く。*1
上を結ぶ辭。*2
下を起す辭。*3
か・や、疑問の辭。*4
や、呼びかけに用ふ。*5
語勢を?める爲めに用ふる助字。*6
かな(哉)詠歎の辭。*7
また、發語の辭、多く詩又は俗語に用ふ、亦よりは輕し。*8
音韻
広韻目次:上35馬
IPAj?a
ローマ字jax/jaa
反切羊者
声母以
声調上声
小韻野
平水韻馬
等呼開口三等韻
韻摂假
韻部麻
・・や、かな 発句の切れ字。
馬祖道一は、箕をつくる家だった。
http://
605
:
秋魚
:2015/10/31(土) 14:22:48
(無題)
・・ひさしぶりに多摩川サイクリングロードを走ってみた。中流域のCRはほんとによく整備されている。サイクリングのはじめがこの中流域だったからめぐまれていた。自転車を自分のペースでただ走らせばよい。ではなく、自転車と相談しながら走る。機械と自分の体調を確かめあう。肉体のトレーニングのほか精神のリフレッシュニングもある。バランスと緊張で無心で走る、というのは正確でない。二度三度と走りなれた道ならひとつふたつの想念とも遊べる。
・・この日もひとつふたつ気づきがあった。このサイクリングロードしばらく走ってなかった。パンクがこわいので道のどんな凹凸も記憶しているつもりだった。はじめての道がまったく緊張するのは、ハメられることが多いからだ。標識の読み違えで道をまちがえたり、パンクが仕掛けられたり、もっともっとささいな事でもいろいろある。・・多摩川CRはまったく気楽には違いなかったが、微妙に道筋も風景も変化しているのに気がついた。サイクリングロードにあがるまでの迷路のような道筋もすべてマスターしているつもりだったが、今回も道を失った。ひと月ほどを空けての再走ならまだいい。三四か月ならそれなりの変化がある。ほかの体験だが数年ぶりとかではウラシマさんほどのこともある。
・・川べりの途中に一本の目立つ木がある。木の形状とかはあまり変化しないので、あああの木がある。木の下で何かのグループが集会を開いている。グランドで何かしているようだ。その木はなんの木かわからない。このCR沿いには幾つか魅する木がある。どれも名前を知らないものばかり。きょうはこの一本だけ追究してみることにした。そう思ったのはサイクリングからの帰路。もう日の落ちかかる頃だった。
柳というのが第一感。しかし幹が太すぎはしまいか。枝垂れ柳のしなやかさに見慣れていたので、たぶん柳ではないと思った。木の種別についてはど素人もいいとこ。青春時代は抽象観念の追求に明け暮れていたから、事物の具体について驚くほど無知なままできた。この木はなにか?
・・この木の下。実は人が大勢いました。写真を一枚とるべきでしたね。人を無視して木ばかり追求したのはまずかった。・・というのも最近「木の下」「花の下」というのが気になっていました。雨が降ると小雨なら大きな葉の茂った木の下で雨宿りができます。夏盛りの木の下では涼しさに浸れます。椎の木、樫の木など、清潔な木がよいです。秋から冬にかけて、この木はたぶん落葉樹でしょう。
柳の一種と思い、ギョリュウというのを見てみた。御柳、聖柳、タマリスクという。喬木で大木はないらしい。葉の形状も縮れている。花も満面に開花。楊貴妃が好んでいたという。
柳は種類多く、水辺を好むものらしい。枝垂れ柳は大木ではないが、大きくなる柳もあるという。
ハコヤナギ、白楊というのも見てみた。大きくなるが、葉の形状がどうも。あの木は葉だけは、枝垂れ柳と似ている。
606
:
秋魚
:2015/11/07(土) 20:41:50
(無題)
・・寒くなってきた。「孤独な散歩者の夢想」ならぬ寒い温泉サイクリストも夢想に工夫がいる季節になる。先人の旅の記録、たとえば芭蕉の「笈の小文」など読むと、自転車のポタリングにも思考に刺激を受けることもある。
奈良の吉野山は歌枕、吉野山といえば花。この吉野山に花見詣でをするに、いくつか花見スタイルの歌がある。
昔たれかゝる桜のたねをうゑて吉野を春の山となしけむ(良経)
吉野山こぞの枝折の道かへてまだ見ぬ方の花を尋ねむ(西行)
これはこれはとばかり花の吉野山(貞室)
「笈の小文」では、文中にはないこの三つの歌が芭蕉の脳裏にあった。(失礼!ひとつは句です)
・・弥生半過る程、そぞろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのの花におもひ立たんとするに、かの・・
思い立つはじめが「花の枝折」であるから、芭蕉のポタリングは西行のそれにもっとも近い。
九条良経は新古今の正統派の歌人。桜の種を植えるなど誰が夢想するかとも思うが、歌枕は大昔からあったわけでないフィクションだからそういう虚実をみすえる目は血統よろしくないとできないかも。
新古今の総帥にいた後鳥羽院の歌に吉野を詠んだものがある。
最勝四天王院の障子に、吉野山かきたる所
太上天皇(後鳥羽院)
み吉野の高嶺の桜散りにけりあらしも白き春のあけぼの
・・花にあらしの喩え。・・俗人にははやくも思考が停止するが。
いづれも、正統派中の正統派、高嶺の桜とはよくいったものです。
・・これはこれはとばかり花の吉野山(貞室)
安原貞室は貞徳門下の俊秀。似非古今伝授の流れです。が、いかにも俳諧らしい。
われわれ俗人の花見はおおかたこんなものではないでしょうか?
七部集「曠野」の巻頭というので紐解いてみました。なるほどこれなら連俳で遊べるでしょうか。
自分のポタリングは芭蕉西行と同じ嗜好の枝折の道だというのが、発見!
607
:
秋魚
:2015/11/09(月) 00:42:32
(無題)
「きえたものなり あれのかな 山すでに水おもしろし遅ざくら」
建部綾足(1719〜1774)
・・青梅の梅岩寺にある石碑に刻まれている。「七・五 五・七・五」片歌を提唱していた。
なんとも雅致ある歌ではないか?
608
:
秋魚
:2015/11/14(土) 21:42:44
(無題)
・・江戸中期青梅にあらわれた二人の俳諧師。建部綾足と中原章。このうち綾足は絵画もよくして俳諧は片歌に闖入してゆき小説も書いた。中原章はむしろ複合文化人。学問をよくし和歌に秀でたといわれる。
綾足は俳諧結社の才があり自らは吸露庵を営む。多摩武蔵千葉に多くの門弟がいたという。蕉門十哲のうち野坡に入門、当時のやはり十哲のひとり支考の美濃派に対抗していた。
綾足は江戸では国学の賀茂真淵に師事し万葉の世界に傾き、ヤマトタケルのはじめの連歌から片歌を自己の様式とした。芭蕉に敬意をもっていたが、後年は蕉翁の相対化をはかった。
青梅の梅岩寺に綾足の石碑がある。弟子の根岸涼宇が建てたもの。
「きえたものなり あれのかな 山すでに水おもしろし遅ざくら」
建部綾足(1719〜1774)
「俳仙窟」という紀行俳論は長崎への画家修業の帰り道になったものらしく、青梅とは直接関わりがない。にもかかわらず、俳仙窟という庵は青梅に生まれた。
その名は、唐の時代、遣唐使がもちかえったといわれる「遊仙窟」という小説のもじりであろう。黄河の上流を尋ねる貴公子が途中幽仙に迷い込み思わぬ乙姫の歓待をうけるという内容らしい。
・・深川芭蕉庵の近くにある臨川寺は、仏頂和尚との問答「梅子熟せりや」「桃の青きが如し」で思考をそそる。ほかに美濃派支考の弟子神谷玄武の建てた「墨直しの碑」がある。京の双林寺にあるものをコピーしたものだ。
<表面>
我が師伊賀の国に生まれて承応の頃より藤堂の家につかふ。その先は桃地の党とかや。今の氏は松尾なりけり。年また四十の老をまたず、武陵の深川に世を遁れて、世に芭蕉の翁とは人のもてはやしたる名なるべし。道はつとめて今日の変化をしり、俳諧は遊びて行脚の便りを求むというべし。されば松嶋は明けぼのの花に笑ひ、象潟(きさがた)はゆふべの雨に泣くとこそ。富士よし野の名に対して「われに一字の作なし」とは、古をつたへいまをしふるの辞(ことば)にぞ。漂泊すでに二十(はた)とせの秋暮れて難波の浦に世をみはてけん。其頃は神無月の中の二日なりけり。さるを湖水のほとりにその魂をとめて、かの木曽寺の苔の下に千歳の名は朽ちざらまし。東華坊ここに此碑を造る事は頓阿西行に法筵を結びて、道に七字の心を伝ふべきとなり。
あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ
人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の
みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに
流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ
その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ
春をかがみの 人も見ぬ 身を難波津の 花とさく はなの鏡に
夢ぞ覚(さめ)ぬる
<裏面>
維石不言(このいしいわず) 謎文以伝(なぞぶんもってつたふ
「・・その玉川の
みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに」
この玉川の水上を、芭蕉も支考も直接には尋ねていまい。末の方で探ることをいう。
「・・春をかがみの 人も見ぬ 身を難波津の 花とさく はなの鏡に
夢ぞ覚(さめ)ぬる 」
・・「難波津の 花」には歌詠みはよく知る典拠があります。
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
この歌の作者は、王仁。
・・古事記には和邇吉師(わにきし)とある。応神天皇の時代に百済より来朝。『論語』『千字文』を伝来し、皇太子宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)に典籍を講読したと伝わる。
おそらく支考の観念では、俳諧の源流はこの王仁の「難波津の 花」に求めたのではないか。古今集の仮名序で紀貫之が採りあげています。
609
:
秋魚
:2015/11/16(月) 20:59:13
(無題)
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花」
この歌の作者は、王仁。・・この歌と対をなすのが、宇治稚郎子の歌であろう。
>・・天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだ
・・ちはや人 宇治の渡りに 渡り瀬に 立てる 梓弓檀 い伐らむと 心は思へど い取らむと 心は思へど 本方は 君を思ひ出 末方は 妹を思ひ出 苛けく 其処に思ひ出 愛しけく 此処に思ひ出 い伐らずそ来る 梓弓檀
>・・宇治稚郎子
菟道稚郎子とも書く。応神天皇の末子。母は和珥臣の祖、日触使主(ひふれのおみ)の娘、宮主宅媛(みやぬしやかひめ)(古事記では宮主矢河比売)。応神十六年、百済より来朝した王仁に典籍を学ぶ。父応神に寵愛され、同四十年、天の日継と定められる。翌年父帝が崩御すると、大雀命と王位を譲り合ったが、先に亡くなったので、大雀命が即位することとなった(仁徳天皇)。
・・好むと好まざるにかかわらず、権力闘争に巻き込まれると「殺すか殺されるか」の選択になった宇治稚郎子は異母兄の大山守皇子を殺すことになる。この歌は出家遁走を匂わす。
・・名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている
・・地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。
・・北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[4][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている
・・文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある。
・・遁世の歌人、西行などが花ばかりを追ったのはたしかに理由があろう。
花見ればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
花に染(そ)む心のいかでのこりけむ捨て果ててきと思ふわが身に
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
610
:
秋魚
:2015/11/18(水) 00:02:02
(無題)
・・秋が深まり、今年最後のポタリングを、奥多摩にゆきたい。一昨年の満を持した紅葉の川のぼりが思い出される。旬の盛りの季節に紅葉の道を歩くというのはむずかしいものだ。本、中、末の道行きですべてが同じ旬を描いているわけではない。紅葉というのもすでに誤謬がある。黄葉、紅葉と二色ある。黄、紅の中間は無限にある。・・いつか旬をねらって失敗したのが五色沼。情報につられて早歩きした。が、そうでもなく奥に入ると綾錦。あれはあれでよかった。・・真っ赤に染まるのは漆と思っていたが、否、漆は黄である。桜の落葉は早い。銀杏の黄はみごとだが雪がふったりすると見映えもいい。雪は胸をきゅんとする。シェルブールの雨傘という映画は胸がきゅんとする。雪のガソリンスタンドだけど。
・・号泣、慟哭というのも、やってみた。よく晴れていて蕎麦の畑の真ん中だった。一本檜のようなのもあった。ひれふして大地をどんどんと叩きながら、ウォーと声をあげる。どこまでも鳴り響くかのように、どんどん。ウォー、ー。(こういう描写下手です)
・・号泣、慟哭は、カタルシスですね。
宮澤賢治の詩に「無声慟哭」というのがあるのを思い出した。気恥ずかしいので引きませんが、「わたくし」と「おまえ」の分裂が慟哭を呼ぶのですね。無声というのはいかにも詩人だが、声ある慟哭は一度でよいから経験したい。
611
:
秋魚
:2015/11/24(火) 00:28:28
(無題)
・・どうも空中楼閣のようなところにいる気がしてならない。インフラの逆襲みたいな感じがつづく。自転車にも乗れない。
・・「横しぐれ」という小説は山頭火のことをいうようだ。山頭火は「しぐれ」の句が多いというが、芭蕉の嗜好をそのまま引き継いだかのよう。しぐれというのは冬の季語で、かりそめにも雨であるから、自分にはしんどい。しぐれへの愛というのは、やはりしんどい。芭蕉は愛などという言葉はいっさい使うまい。横しぐれというのは愛でもなんでもない。強烈な雨あたりのことでしょう。自分にはしんどい。
・・花を愛で慕った西行はよくわかる。草が化けるのが花でしょう。化生の人ですね、西行は。芭蕉を慕った井月は、どちらかというと花の嗜好ですね。芭蕉を通して西行を見ていたでしょう。西行も井月も出自は武士というのがあるかもしれない。自己の忘却を誘うものこそ花という。捨てるべきものは弓と刀なり。・・化生というのもエロスがあるが、実はしんどい。天竜川で舟に乗ろうとした西行は、船頭に「数が多いのでおまえは降りろ」とこつつかれる。武士のプライドはもうなかったから、そこはじっと耐えたそうだ。化生はある意味では場違いの連続になるかもしれない。
・・双子の赤ちゃんが胎内で話し合う。ひとりは、この胎内の生活を極上と思い一生ここに留まることをいう。もうひとりは、この胎内から外に出て新しい空気の世界で生きることをいう。これは何かのたとえ話で語られたようだが、どうも無理があるように思えてならない。赤ちゃんが胎内から出ないというのは、既に異常である。赤ちゃんは死産として排出されるか、あるいは、母体も生存があぶない。赤ちゃんは生きて外に出るのが正常な在り方だ。
故郷有母秋風涙
旅館無人暮雨魂 (源為憲)
思ひ出でよたが兼言のすゑならむきのふの雲のあとの山風 (家隆)
612
:
秋魚
:2015/11/27(金) 16:51:42
(無題)
・・「るろうに剣心」という映画。「京都大火編」というのおもしろそうだ。テレビ放映があったようだが、あいにく観ていない。作者が新潟の長岡市出身という。登場人物に長岡の地名など織り込まれているらしい。江戸の頃から長岡もとても火事の多い土地だ。先の戦争では空襲で多く焼かれた。文化的資料も多く失われている。互尊文庫という古文書館が今でもあってそれでも貴重なものが集められている。
・・映画は京都大火というから天明の大火が舞台ではないか。天明期というのは、多くの俳人の活発な動きがあって興味深い。
・・きょうは奥多摩まで紅葉狩り。といえば聞こえはいいが、足馴らし気分転換のポタリング。寒くなってきたので体を動かしたい。呼吸器系の運動は、血液循環をよくし体細胞を活性化する。精神の更新につながる。・・きのうの雨はやはり時雨というのだろうか。旅先でこんな雨に出会ったらたまらない。時雨というのは、翌日晴れたらなんと嬉しいことか外に出たくなった。芭蕉の嗜好、すこしわかってきた。
・・今年の紅葉はまったく不作。どれもこれも完全な色づきの前に枯れ散るふうだ。これからかという感じもあるが、なにか寒いばかりだ。・・柚子の実りはとてもいい。これは救い。青梅街道も殺伐としてるのは平日だからだろうか。御岳から先は歩道も無く一部道幅も細くあぶない区間がある。この道もだいぶ馴れてはきた。・・鳩ノ巣荘という国民宿舎は、以前工事中だったが、どうやら完成したらしい。白丸ダムのところに大きなクレーンがあって大きな工事があるらしい。あちこちトンネルの中も工事があっていろいろインフラも老朽化がすすんでいるようだ。数馬峡の景色はすばらしいものだったが、知らないうちに通り過ぎてしまっていた。もうもえぎの湯のあるあたりに来て奥多摩駅が近い。予定はぜんぜん立ててなかったけど、奥多摩湖に向うむかし道コースをいけるとこまでいくことにした。ここは二三度走っている。
・・むかし道は旧青梅街道という。ここをずっといって奥多摩湖は人造湖だが、さらにいって大菩薩峠にあがる道がひらけていたようだ。標高は1897mあり御岳山や大岳山より高い。図書館でDVDを借りて、映画「大菩薩峠」を観た。片岡千恵蔵が机竜之介を演じている。すごい役者です。音無しの構えというのが、決まってる。・・おもしろいのは人情、非人情の境がよく見えているからだ。御岳神社の奉納試合で竜之介にうち殺された武士の妻おはまが後竜之介を追うことになる。敵討ちではない。二人して逃亡です。・・こういうしんどいの流行りませんね。
・・むかし道にはいるに白髭トンネルを越えてすぐ道がある。このトンネルもやや長くはじめは嫌なトンネルだった。いくつかひどいトンネルを越えたので、これくらいならどうということはない。平日だったからまだよかったかもしれない。車の数もすくない。ハイキングの観光客がもっといるはずだが、午前中というのはまだはやいか。惣岳峡の吊橋のあるところまでともかく行ってみたい。以前来たことあるが、こわい橋でとても渡れなかった。三人以上で渡るなとある。このあたり深い峡谷になっている。
・・しだくら橋という吊橋があって、ここからの奇岩の眺めはいいらしい。ここの三分の一ほど歩いたら揺れて足元おぼつかない。渡りきるのはあきらめた。写真を一枚。・・もう引き返すことにした。このあたり谷底まではどうやって降りるのだろう。降りる用事もないか。帰り道、ハイキングの人がけっこう歩いてくる。平日であまり若い人はいない。景色ばかりはぞくぞくする。・・白髭神社の白板岩とか、猿田彦がこんなところまで足を運んでいるのかと思う。・・昔の裏甲州街道と呼ばれた道という。
映画では、大菩薩峠は富士もみえて眺めは良い。・・しかし、たいへんな道だ。
・・帰り道の民家で、柚子とキウイを売っていた。袋詰めで百円。柚子はこんなに買っても調理しきれない。柚子湯にでも使えばいいが。キウイを買った。・・たくさん入ってるけど、このままでは食べられない。とても固い。袋にリンゴをひとつ入れて十日くらい寝かすらしい。すると軟らかくなるとか。川の傾斜する土手に柿が鈴なりになっている。これは遠くから眺めると紅葉のよう。あれはあのまま収穫できず朽ちていくのだろうか。しかし、鈴なりだ。
・・もえぎの湯に寄った。日本最古の古生層から湧出する温泉。ここは救われる。
613
:
秋魚
:2015/12/07(月) 21:33:57
(無題)
打しめりあやめぞかをる郭公なくや五月の雨の夕ぐれ
後京極摂政良経
・・寒い時は良質の歌を詠みたい。しんしんと染入るような歌を。
三十八歳で逝いた良経の供養する慈光寺経はやはり燦然としてる。あやめほととぎす五月の雨がかくも優美に歌われるのはほかに知らない。供養されるものと蘇りのものがある。
俳句なら五月雨は夏の季語だろう。歌なら季語以前のもの。
しぐれ
雲はなほさだめある世の時雨かな 心敬
世にふるもさらにしぐれの宿りかな 宗祇
世にふるもさらに宗祇のしぐれ哉 芭蕉
横しぐれ
旅の庵は嵐にたぐふ横しぐれ柴の囲ひにとまらざりけり
源頼政朝臣
風わたるみねの木の間のよこ時雨もる山よりも下葉そむらむ
藤原信実
*後鳥羽院が隠岐に流される時、信実が院の肖像画を描きのこした。
しぐれ桜
さくら花木梢のしつくおつるより幾世しくれの名にやふりけむ
従一位資枝
・・たしかに俊成のいうように「横しぐれ」の詞ばかりは、雅でありませんね。
614
:
秋魚
:2015/12/09(水) 20:20:05
(無題)
後鳥羽院四百年忌御会
霞 院 御製
こひつゝもなくや四かへりもゝちどり霞へだてて遠きむかしを
若菜 信尋 近衛
出て見る野守もつむやとぶ火野の雪まの若菜けふもすくなき
柳 雅陳 白川三位
風のまのみだれぬ糸にぬきとめて青柳おもき露のしら玉
・・
・・寛永十五年(1638)は、後鳥羽院四百回忌。追善和歌三十首。
・・「霞 院御製」のこの院は後水尾院の作。院の名のもとでまぎらわしい表記は意図あるか。
「もゝちどり」は三鳥のひとつ。古今伝授による。
・・何処やらに鶴の声聞く霞かな 井月
この「霞」と響いているとみるが、如何。
「とぶ火野」 ・・とぶひ‐の【飛火野】 奈良市、春日山のふもと、春日野の一部。また、春日野の別名。元明天皇のころに烽火(のろし)台が置かれた。
【元明天皇】
[661〜721]第43代天皇。在位707〜715。天智天皇の第4皇女。名は阿閇(あべ)。草壁皇子の妃。文武・元正両天皇の母。文武天皇の夭折(ようせつ)後に即位。平城京遷都、古事記・風土記の編纂(へんさん)、和同開珎(わどうかいちん)の鋳造などを行った。
・・
古今和歌集 よみ人しらず
春日野のとぶひの野守いでてみよ今いくかありて若菜つみてん
新古今和歌集 前参議教長
若菜摘む袖とぞ見ゆるかすが野の飛火の野邊の雪のむらぎえ
定家
春のいろを飛火野のもりたづぬれどふたばの若菜ゆきもきえあへず
定家
いつしかと飛火の若菜うちむれて摘めども未だ雪もけなくに
定家
若菜つむ飛火野のもり春日野にけふ降る雨のあすやまつらん
定家
立ちなるるとぶ火の野守おのれさへ霞にたどる春のあけぼの
定家
夕涼とぶ火の野守このごろやいまいくかありてあきの初かぜ
定家
とぶひ野はまだ古年の雪間よりめぐむ若菜ぞはるいそぎける
良経
ゆく年をとぶひのゝもりいでて見よ今いくかまて冬の夜の月
実朝
春日野の飛火野のもりけふとてやむかしかたみに若菜つむらむ
宗良親王
鶯の飛火の野べのはつこゑにたれさそはれて若なつむらむ
・・
615
:
秋魚
:2015/12/12(土) 21:25:03
(無題)
・・ここいら辺には柑橘がよく実っている。おおかたは柚子だが、かぼすもある。近所の人に黄色く実ったかぼすを分けてもらった。かぼすはまだ青々としたものを汁を絞ってポン酢をつくるとか。黄熟したものは、そのまま蜜柑のように果肉を食すこともできる。よい味だ。
・・芥川竜之介「地獄変」を再読した。堀川のお殿様にかかえられた良秀という絵師。この絵師が世にも奇体な絵を描いてみせるという。輿の車にうら若き娘が閉じ込められて火をかけられている。その車が燃えながら落下してゆく恐ろしい絵だ。殿様のお力でその実景をつくってみせるというのだ。
・・堀川の殿様というのは、最初の関白となった藤原基経がモデルとのこと。あの古作の雲林院で二条の后藤原高子を武蔵野まで追ってゆき鬼となって捕らえた。高子は基経の妹です。業平と高子の恋の逃避行があって、武蔵野に隠れた業平を盗人として焼き殺そうと野に火をかけようとしたのだ。高子は観念して基経のもとに降るという筋書き。・・後清和天皇の后となり陽成天皇の母となるから、貴族社会の帰りゆきを基経に強制されたわけだ。
地獄絵図の舞台は、雪解の御所という洛外の山荘。お殿様の亡くなった妹君が住まわれた御所という。つまり藤原高子の山荘。紫野の雲林院みたいなところでしょう。
燃え盛る車の中の女は、なんと良秀のひとり娘というから、これが地獄でなくて何であろう。
*
・・プレアデス星団(M45)は、おうし座の「雄牛の首」のあたりに位置する散開星団です。地球からの距離は約400光年、実直径は約12光年、視直径は約110分(満月の約3.7倍)とされます。
漢名では「昴(ぼう)」、和名では「すばる」と呼ばれます。比較的近距離にある散開星団であるため、肉眼でも輝く五個から七個の星の集まりを見ることができます。狭い範囲に小さな星が密集した特異な景観を呈して、
・・ギリシア神話においてプレアデス(プレイアデス)は、ティタン族のアトラスと、海のニュムペであるプレイオネとの間に生まれた七人姉妹です。
マイア:七姉妹の長女。ゼウスの子ヘルメスの母
エレクトラ:ゼウスの子ダルダノスとイアシオンの母
タイゲタ:ゼウスの子ラケダイモンの母
アルキオネ:ポセイドンの子ヒュリエウスの母
ケラエノ:ポセイドンの子リュコスとエウリュピュロスの母
アステローペ:アレスの子オイノマオスの母
メローペ:七姉妹の末妹。人間であるシシュポスと結婚して不死性を喪失
プレアデス星団で特に明るく輝いているのは、六つの星だけだとされます。七つ目の輝きの鈍い星は、人間と交わったことを恥じるメローペであるとも、ダルダノスの死を悼むエレクトラであるとも、また、アステローペであるともいわれます。
・・姉妹の父であるアトラスが天を背負う役目を負わされた後、オリオンがプレアデス全員を追いかけ回すようになります。ゼウスは彼女らを、初めはハトに、ついでその父を慰められるよう星に変えます。オリオン座はいまだプレアデス星団を追って夜空を回っているとされます。
プレアデスは主に冬の星であり、古代の農業暦において非常に大きな役割を果たしていました。古代ギリシアの詩人ヘシオドスは叙事詩『仕事と日』の中で「そして、もし嵐の海を渡ろうという望みがおまえを捕らえたとしても、プレアデスが強大なオリオンを避けて深い霧の奥に潜り、激しい風が荒れ狂うなら、おまえの船を暗紅色の海に出してはならない。そうではなく、私の言葉のとおり、忘れずに地を耕すのだ」と語っています。
616
:
秋魚
:2015/12/17(木) 21:56:32
(無題)
・・東京の新宿から西へ向う街道は大きく二つある。一つは甲州街道、もう一つは青梅街道。青梅街道は高円寺あたりから五日市街道に分かれこれは拝島福生の多摩川を越え秋川沿いに武蔵五日市に向う。青梅街道は三鷹立川瑞穂と内陸を走り青梅で多摩川に沿った道になる。その先は奥多摩に向かい大菩薩嶺を迂回して柳沢峠から甲州市塩山に入る。甲州街道はずっと西に進み調布府中国立(江戸の頃は無かった)の石田橋で多摩川を越える。日野八王子高尾から相模湖大月から塩山に出て青梅街道と出会う。これらの大方は自転車で走っている。
・・今回スポットを当てるのは、甲州街道府中国立からの石田橋多摩川あたり。江戸の頃の街道もあまり大差はないものと見える。国立の谷保天満宮は道真由来古いものらしい。すぐ近くに長年住んでいたが、深く調査することもなかった。この裏に折れて多摩川にぶつかるあたりにある石田橋もつい最近にできた。ただ石田の渡しというのが江戸の頃にはあったという。甲州路をゆくものは必ずここの渡し舟に乗った。
・・芭蕉が深川の芭蕉庵を焼け出され甲州の都留に避難仮寓したのは、天和二年(1682)のこと。甲州街道をすすみこの石田の渡しで多摩川を越えたはず。幕末の頃この石田で名高いのは新撰組の土方歳三の生地である。多摩川を渡った日野の石田郷という。・・この国立の甲州街道沿いの谷保天神のすぐ近くに本田家の古い民家がいまでもある。実はこのまったく近いところに何年も居住していながらその民家の由緒を知らなかった。・・幕末の頃本田覚庵という漢方医で書家である人が住んでいた。なんとこの覚庵の書を習いに川向こうの石田から若き日の土方歳三がよく訪ねてきていたという。近藤勇も生家は調布のあたりやはりこの覚庵の家に書を習いに来ていた。天然理心流の剣術も歳三勇で磨きあった。・・本田覚庵の書は、当時江戸の三大書家の一人市河米庵の流れで、ほかに蘭学とかもろもろの学問にも秀でていた。「覚庵は、歳三の父の妹キンの養子だから歳三とは義理の従兄弟の間柄になる。」という。
・・芭蕉は、おそらく、この石田の渡しを三度は渡っている。深川−都留の往還で二度。もう一度は、野ざらし紀行の帰り道で、木曾諏訪甲府から塩山大月から高尾にぬけて江戸に入った。途中むかし仮寓した都留あたりに寄った記事がある。
「士峯(ふじ)の讃」
崑崙は遠く聞、蓬莱・方丈は仙の地也。まのあたり士峯地を抜て蒼天をさゝえ、日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変。詩人も句をつくさず、才士、文人も言をたち、画工も筆捨てわしる。若藐姑射の山の神人有て、其詩を能せんや、其繪をよくせん歟。
雲霧の暫時百景をつくしけり
・・石田の渡しあたりでも富士を眺められるが、この文「まのあたり士峯地を抜て蒼天をさゝえ」からして富士にかなり近接した土地での詠みであろう。『芭蕉句選拾遺』に「甲州よし田の山家に所持人ありしを、今東武下谷匊志秘蔵なるよし・・」とあり、富士吉田あたりに出向いた時のものか。野ざらしの旅の帰路に立ち寄ったとみる。
・・関こゆる日は、雨降て、山皆雲にかくれたり。
雰しぐれ富士をみぬ日ぞ面白き
何某ちり*と云けるは、此たびみちのたすけとなりて、萬いたはり心を盡し侍る。常に莫逆の交ふかく*、朋友信有哉此人。
深川や芭蕉を富士に預行 ちり
・・野ざらし紀行では、深川の芭蕉庵からはよく富士も見えた。万年橋からの富士見は広重の絵にもある。ただし富士を詠んだものは上記の二句のみ。実景は不在の富士のこと。
これに比して、「雲霧の暫時百景をつくしけり」とは、実景の富士を見すえての静観。
「・・日月の為に雲門をひらくかと、むかふところ皆表にして美景千変」 この見える富士の描写を「野ざらし紀行」に載せなかったのは、それなり理由があろう。
・・井月にも、富士を詠んだ句がいくつかある。
方角を富士に見て行く花野かな
初虹は麓に消えて富士の山
富士に日の匂ふ頃なり時鳥
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
初日影富士に位階の沙汰なきや
とくよりも出向ふ士峯や初日影
空色を花とながめて不盡の山
はつ空を花とながめて不盡の山
試る筆の力や不盡の山
上もなき老のしら髪や不盡の山
頂を花とながめて富士の山
雪ながら富士は今年の物らしき
夕士峰も朝不盡も見てさらし搗
617
:
秋魚
:2015/12/26(土) 21:52:54
(無題)
きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかも寝む
摂政太政大臣良経
・・良経のきりぎりすというのは、みごと。
青梅に漂泊した中原章は、
鈴虫の声ふり捨て有明のねやへはいらし月になりゆく
京極派、持明院派とも?
「古きまくら、古きふすまは、貴妃がかたみより伝へて、恋といひ哀傷とす」(紙衾ノ記)
「翡翠衾寒誰與共」(長恨歌)
・・この「古き枕」が妙。「うた枕」のことか?
618
:
秋魚
:2015/12/31(木) 17:20:50
(無題)
・・この一年もいろいろ温泉めぐりをした。ホームページなどで宣伝も多いが、さほどの中身のないものもある。結局は口コミの話になって善し悪しは淘汰されていくようだ。物が無くてまず宣伝から入るのがネットショップ。これもそうそう詐欺めいたものばかりやってると続くわけがない。評判を得ようとするのは宣伝以上のものがあればよい。そこまで気づかってはいられないか。
・・忘年会に手ぶらで招待されたところでは、温泉の話になってすでに山形の田舎の温泉が抜群であるとか、車を使って遠いところの穴場の秘湯をたずねる人もいた。持ってる人はよく訪ねるものだ。近場でいろいろまわる自分からすると、遠隔の温泉はすでにあきらめている。・・きょうは自動車に乗っていい温泉に訪ねたい友がいて、自分の知る限り一押しの温泉に案内した。
・・自愛が流行してなかなか自分の趣味につきあう人もまれになった。都心の方から車で来るが85歳のおばあさんとお孫さんのいる妹さんが便乗するのだという。逝く人が多いのでこれは大歓迎。せいぜい友一家のよい癒しになればよい。近場の温泉については自信がある。秋川渓谷の瀬音の湯まで案内した。・・なんでも九州の佐賀まで温泉につかりにいったばかりだとか。そりゃいい温泉は山ほどある。まあ近場でどういう感想をもつか、あとは湯あたりしないよう注意した。・・ここの湯質はみな褒める。アルカリ性単純泉の純度の高いもの。露天でもはじめての客は驚きの声をあげる。運転手の友は、アルコールはやれないが、かなり満足そう。宴会の幹事でも思案したか。あとで女性たちもほめちぎる。おばあさんが妙にしゃんとした声でいい湯だーと。新宿とか浅草とかからの訪問で水と緑があるだけでも感動らしい。偶に来ればそう感じるさ。みやげもの店で地元の野菜とかこれもうれしそうに買い漁っていた。
・・レストランも一杯。てんぷら御膳を注文。ここのてんぷらは並大抵ではない。美味しいよと宣伝したが、みなも美味いとはいったが、辛口の批評をいわさせてもらうと、以前とはちょっと味が落ちていた。年末で客が多いので、量こなすために材料の質がやや低下、あと全体のつくりもやや雑な気がした。でも、それはいわなかった。・・帰りに払沢の滝の見物をとも思ったが、おばあさんは山道歩くの大変でしょう。それはキャンセルよい気分のまま青梅の釜の淵公園散歩して無事帰るのが一番。公園は寒いだけであまりおもしろくなかったようだけど、すこし頭を冷やして帰路につくのも一考。・・たぶん私の見立ては完璧だと思う。
・・近場の温泉は自信あり。
619
:
秋魚
:2016/01/30(土) 09:12:00
(無題)
00534 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
人しれぬ思ひをつねにするかなるふしの山こそわか身なりけれ
ひとしれぬ−おもひをつねに−するかなる−ふしのやまこそ−わかみなりけれ
・・古今集における「富士」。
富士の表記だが、濁点のとれたカナ文字で「ふし」とある。
00680 [詞書] 題しらす
番号外作者ふちはらのたたゆき(999)
君てへは見まれ見すまれふしのねのめつらしけなくもゆるわかこひ
きみてへは−みまれみすまれ−ふしのねの−めつらしけなく−もゆるわかこひ
01028 [詞書] 誹諧歌:題しらす
番号外作者きのめのと(999)
ふしのねのならぬおもひにもえはもえ神たにけたぬむなしけふりを
ふしのねの−ならぬおもひに−もえはもえ−かみたにけたぬ−むなしけふりを
01001 [詞書] 短歌:題しらす
読人不知よみ人しらす(000)
あふことのまれなるいろにおもひそめわか身はつねにあまくものはるる時なく
ふしのねのもえつつとはにおもへともあふことかたしなにしかも人をうらみむ
わたつみのおきをふかめておもひてしおもひはいまはいたつらになりぬへらな
りゆく水のたゆる時なくかくなわにおもひみたれてふるゆきのけなはけぬへ
くおもへともえふの身なれはなほやますおもひはふかしあしひきの山した水
のこかくれてたきつ心をたれにかもあひかたらはむいろにいては人しりぬへ
みすみそめのゆふへになれはひとりゐてあはれあはれとなけきあまりせむす
へなみににはにいててたちやすらへはしろたへの衣のそてにおくつゆのけな
はけぬへくおもへともなほなけかれぬはるかすみよそにも人にあはむとおもへ
は
あふことの−まれなるいろに−おもひそめ−わかみはつねに−あまくもの−はるるときな
く−ふしのねの−もえつつとはに−おもへとも−あふことかたし−なにしかも−ひとをう
らみむ−わたつみの−おきをふかめて−おもひてし−おもひをいまは−いたつらに−なり
ぬへらなり−ゆくみつの−たゆるときなく−かくなわに−おもひみたれて−ふるゆきの−
けなはけぬへく−おもへとも−えふのみなれは−なほやます−おもひはふかし−あしひき
の−やましたみつの−こかくれて−たきつこころを−たれにかも−あひかたらはむ−いろ
にいては−ひとしりぬへみ−すみそめの−ゆふへになれは−ひとりゐて−あはれあはれと
−なけきあまり−せむすへなみに−にはにいてて−たちやすらへは−しろたへの−ころも
のそてに−おくつゆの−けなはけぬへく−おもへとも−なほなけかれぬ−はるかすみ−よ
そにもひとに−あはむとおもへは
00489 [詞書] 題しらす
読人不知読人しらす(000)
するかなるたこの浦浪たたぬひはあれとも君をこひぬ日はなし
するかなる−たこのうらなみ−たたぬひは−あれともきみを−こひぬひはなし
620
:
秋魚
:2016/01/06(水) 11:02:44
(無題)
(小鳥の画に)
不尽山月雪花やほとゝぎす
・・この画紙をみてみたい。不尽の表記はそのままか、不盡か。
音数で俳句に合わせると、「ふじやま●つきゆきはなやほととぎす」と読むか。
「不尽」「山」「月」「雪」「花」や「ほとゝぎす」。
この漢字の並びが俳句の妙。月・秋 雪・冬 花・春 ほとゝぎす・夏という四季のめぐりがある。
「山」と「月」が切れてますな。
・・九条良経「花月百首」以降の井月風「花月」の俳諧といったところか。
621
:
秋魚
:2016/01/07(木) 00:38:04
(無題)
・・芭蕉最晩年の峠越えというのがある。伊賀から大坂に向う暗峠というところだ。元禄7年9月9日。
菊の香にくらがり登る節句かな
・・暗峠は奈良県生駒市から大阪府東大阪市に通ずる道にある。いったことはないが暗いけわしい道のようだ。大坂に抜けておよそ一ヶ月半後に逝いてしまう。
菊の香や奈良には古き仏たち
・・これも同じ日の句という。
・・青梅の歌人浄月律師(1758〜1832)60歳の時に河内髪切山高貴寺に入律したという、その髪切山は暗峠のあるところ。ほかに役行者で名高い慈光寺もある。
>高貴寺(こうきじ)は、大阪府南河内郡河南町平石にある高野山真言宗の仏教寺院。
北緯34度29分57.8秒 東経135度39分52.2秒
・・開山は役行者で、文武天皇の勅願によるといわれている。河内高貴寺縁起によると、役行者が草創した二十八箇所の修験霊場のひとつで、古くは底筒男命が降臨した地として、神下山香花寺と称した。
弘仁年間に、空海が来住した際、高貴徳王菩薩の示現を見たため、高貴寺と改称した。
・・安永5年(1776年)に慈雲尊者飲光が入寺し、大和郡山藩主柳沢保光の帰依・支援を受け、堂舎を整備し、当寺を真言律と梵学修行道場とし、戒壇を設けて正法律の本山とした。
この慈雲というのが、ただものでない。
>・・慈雲(じうん、享保3年7月28日(1718年8月24日) - 文化元年12月22日(1805年1月22日))は江戸時代後期の真言宗の僧侶。戒律を重視し「正法律」(真言律)を提唱した。雲伝神道の開祖。
・・1758年(宝暦8年)から生駒山中の雙龍庵という草庵に隠居して研究に専念し、千巻にも及ぶ梵語研究の大著『梵学津梁』を著す。その内容は、密教で行われてきた梵字の呪術的解釈を排し、梵語の文法を研究して、梵文で書かれた仏教教典の原典の内容を正しく読解しようとするものであった。・・1775年(安永4年)、『十善法語』を著す。1776年(安永5年)に河内の高貴寺(南河内郡河南町)に入寺した。大和郡山藩主・柳沢保光の支援を受け、高貴寺の堂舎を整備し、この寺を正法律の本山と定めた。
浄月律師の高貴寺行きは、芭蕉の暗峠越えを踏もうとしたのではないか?
622
:
秋魚
:2016/01/08(金) 21:15:26
(無題)
・・峠越えというので柳沢峠越えのサイクリング日記を読んだ。やはり気になる。熊谷から飯能青梅そして青梅街道を直進。柳沢峠で富士見のあと塩山甲府、ここから富士川を南下して身延山まで。やー、チャレンジする人はいるものだ。奥多摩湖までのトンネルも恐怖といっていたが二度目はさほどでないと。しかし丹波山から先の渓谷はぞっとするほどという。長いアップの坂道と百mもあろうかという断崖の渓谷。写真をみたが足がすくみそう。柳沢峠の景色はたしかにいいらしい。春先にいったがここらは真冬という。路面凍結に注意。峠から塩山までが急勾配。ダウンヒルで千mほど豪快だがあぶないものだ。・・クロスバイクでは無理かなと思うが乗れないところは歩けばよい。やってやれないことはない気もする。
・・塩山から甲府は以前も走った。平坦な道で車だけを気にすればいい。ここらで一泊。石和健康ランドがいいかもしれない。ここから先身延山までが未知。県道があるがあまりいい道ではないという。
・・ひきこもりをやっているとすべて恐怖に思われる。自転車も肉体も使わずに劣化するのは耐えられないことだ。冬晴れなので多摩川サイクリングロードを走ってモノレールの終点駅多摩センターまでめざした。
・・例によって何度か走ってるコースだが景色がすこしづつ変化している。時折まったく違う道かと感じることがある。ひどい時には進んでいるつもりが左右に大きくずれたり後戻りなんてのもある。吹雪の中で同じところをぐるぐる歩き回り最後は力尽きて眠ってしまうのは、なんといったか。・・しかしこのコースに迷いはない。
・・多摩川のモノレールのある橋は立日橋といったか、もうすこし川沿いに進むと白鷺だか鶴だかが数羽群れて羽根をやすめている。
・・まったくこの種の白い鳥の区別もわからない。おおかたサギの仲間でしょう。頭の形が目立ってる違う種類のもよくみかける。冬だからここにいるのか。静かなるロックンローラーと呼んだりもした。
・・ところで今日のメインは帰りの夕日にみかけた。
夕士峰も朝不尽も見てさらし搗
この夕富士のこと。まったく偶然の景色。・・富士がよく見えるのは立日橋をわたり立川から昭島までの間。五日市線のあるあたりまではよく見える。土提にあがってカメラを構える人もちらほら。空気が澄んで夕焼け富士がきわだつ。
・・甲州街道多摩川にうつかる石田の渡りをわたらず、井月はそのまま堤沿いに上流をめざしたのではないだろうか。福生あたりまで一時富士は姿を消すが、羽村玉川上水口までにもう一度姿をあらわす。奥のほうに見える山は大岳山。青梅にはいると富士はみえにくい。・・しかし必ず井月は青梅に来た。
623
:
秋魚
:2016/01/18(月) 01:35:15
(無題)
初虹は麓に消えて富士の山
初虹や裏見が滝に照る朝日
旭の匂ふ裏見が滝や鷹の声
鷹鳴くや富士に曇りのなき夕
・・むずかしくなりましたな。井月も。
[題詞]山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌]
[原文]天地之 分時従 神左備手 高貴寸 駿河有 布士能高嶺乎 天原 振放見者 度日之 陰毛隠比 照月乃 光毛不見 白雲母 伊去波伐加利 時自久曽 雪者落家留 語告 言継将徃 不盡能高嶺者
[訓読]天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は
318
[題詞](山部宿祢赤人望不盡山歌一首[并短歌])反歌
[原文]田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
[訓読]田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
・・おそらく東海道のフジこそ富士であろう。この田子の浦は、
由比 北緯35度06分23秒 東経138度33分42秒
「東海道の親不知」と呼ばれる断崖に位置し、歴史地理学的には関東政権(江戸・鎌倉・小田原)と東海政権(駿府)の境界となってきた。
江戸時代には東海道由比宿の宿場町であった。江戸時代の絵師・歌川広重による由比の浮世絵には、難所を越える旅人や、帆掛け船の浮かぶ駿河湾、駿河湾越しの富士山などが描かれている。
あるいは、蒲原 北緯35度7分6.8秒 東経138度35分58.8秒
・・江戸時代は蒲原宿が置かれ、宿場町として機能していた。
あるいは、富士市 田子の浦港沖 北緯35度9分40.8秒東経138度40分34.6秒
たこの浦の藤花を見侍て 柿本 人麿
たこの浦の 底さへにほふ 藤波を かざして行かん 見ぬ人のため
(拾遺和歌集)
624
:
秋魚
:2016/01/19(火) 02:10:24
(無題)
初鶏や常に似合ぬ太き声 有隣
若水汲の歩行井の端 井月
・・
斯花の曇にまことよい日和 隣
浅香の沼に田にし鳴くころ 月
・・須賀川の多代女が「越後獅子」に寄せたのは、
盃の裏にまことやうめのはな
うめは梅、生めとかけたか。多代女と井月がたしかに会ったことがわかる。・・須賀川から郡山には芭蕉も入った道だ。
栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや、
世の人の見付ぬ花や軒の栗
・・
山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど 西行
・・この後が、あさか沼
阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
あさかやま かげさへみゆる やまのゐの あさきこころを わがおもはなくに
・・
「古今集」仮名序で、貫之が、歌の父母のうち母にあたる歌という。巻16/3807
この山ノ井に安積山が写っているそのような浅い心でないと、采女の歌です。ここを井月が訪れないわけがありません。(たいした痕跡があるわけでもありませんが)
芭蕉と曾良はけっこう淡白でしたね。カツミという植物を探したほどで。
安積山?? 北緯37度27分 東経140度23分
長岡城あたり 北緯37度27分 東経138度51分
625
:
秋魚
:2016/01/20(水) 01:06:06
(無題)
・・武蔵、多摩の芭蕉百回忌。1793年ですが。
? 武州毛呂の川村硯布亭。橿寮硯布庵で1790年。(前倒し)春秋庵系の俳人多く集まる。加舎白雄、長翠(春秋庵二世)、榎本星布、等。
?武州多磨青梅真浄寺。1793年。浄月律師。「芭蕉翁霊塚」建立。しぐれ桜碑と並ぶ。
?武蔵五日市開光院。翁塚。山市亭梅志建てる。百回忌頃。梅志は深川臨川寺に「墨直しの碑」を建てた玄武坊の門弟。支考派ですね。
なにはづのうたは、みかどのおほむはじめなり。[おほさざきのみかどの、なにはづにてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、くらゐにつきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし。]あさか山のことばは、うねめのたはぶれよりよみて[かづらきのおほきみをみちのおくへつかはしたりけるに、くにのつかさ、事おろそかなりとて、まうけなどしたりけれど、すさまじかりければ、うねめなりける女の、かはらけとりてよめるなり、これにぞおほきみの心とけにける、あさか山かげさへ見ゆる山の井のあさくは人をおもふのもかは。]、このふたうたは、うたのちちははのやうにてぞ、手ならふ人のはじめにもしける。
そもそも、うたのさま、むつなり。からのうたにも、かくぞあるべき。
そのむくさのひとつには、そへうた。おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた、
なにはづにさくやこの花ふゆごもりいまははるべとさくやこのはな
といへるなるべし。
626
:
秋魚
:2016/01/20(水) 23:29:34
(無題)
>・・平林寺(へいりんじ)は、埼玉県新座市野火止にある臨済宗妙心寺派の寺院である。
埼玉県新座市野火止3-1-1 位置 北緯35度47分23.44秒 東経139度33分36.74秒
野火止(のびどめ)・・「かつて焼畑農業が盛んに行われ、関東ローム層の乾燥した土壌が草木の燃え広がりを早めたことから、延焼を食い止めるために用水が多数造られた」ことが由来とされている[1]。
・・業平塚(在原業平が京より東国へ東くだりの折、武蔵野が原に駒を止めて休んだという伝えがある。)
江戸名所図会によると、野火止塚(九十九塚)と同じく、古へ野火を遮り止むるために築きたりしものなるべきを後世好事の人、伊勢物語によりて名付けしなるべし。塚上石碑を建てて和歌の一首をちりばめたり。その詠にいはく「むさし野にかたり伝へし在原のその名を忍ぶ露の小塚」とあるが、この歌碑は今はない。
むかし、男ありけり。人のむすめを盗みて、武蔵野へ率てゆくほどに、盗人なりければ、国の守にからめられにけり。女をば草むらの中に置きて、逃げにけり。道来る人、この野は盗人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
武蔵野は今日はな焼きそ若草の
つまもこもれりわれもこもれり
とよみけるを聞きて、女をばとりて、ともに率ていにけり。
『伊勢物語』(第十二段)
加舎白雄は野火止で句を詠んでいる。
野火留にて
妻も子も榾火に籠る野守かな
行暮れし越路や榾の遠明り
灰に書く西洋文字や榾明り 井月
627
:
秋魚
:2016/01/24(日) 01:41:50
(無題)
・・アユ(鮎、香魚、年魚、Plecoglossus altivelis)は、キュウリウオ目に分類される、川や海などを回遊する魚である
多摩川はかつてアユが途絶えた。いまは存在する。青梅美術館の下龍が淵あたりでコアユを放流した記念碑がある。
・・アユの語源は、秋の産卵期に川を下ることから「アユル」(落ちるの意)に由来するとの説や神前に供える食物であるというところから「饗(あえ)」に由来するとの説など諸説ある[4]。
現在の「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説[4]、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説ある。
・・コアユ。小鮎は小さい鮎のこと。成長過程で小さいがやがて若鮎と呼ばれる。目一杯成長して小ぶりのままの鮎もコアユと呼ばれる。海にでず湖などで一生を終えるアユのことだ。陸封魚だが、ヤマメ、イワナ、ハヤなども本来は海にいたものらしい。淡水魚でも陸封魚と呼ばれる。
・・アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていたが、当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含め殆どがアユを年魚と表記している。
中国で漢字の「鮎」は古代日本と同様ナマズを指しており[4]、中国語でアユは、「香魚(シャンユー、xiāngyú)」が標準名とされている。地方名では、山東省で「秋生魚」、「海胎魚」、福建省南部では「溪鰛」、台湾では「[魚桀]魚」(漢字2文字)、「國姓魚」とも呼ばれる。
・・俳句の季語として「鮎」「鵜飼」はともに夏をあらわすが、春には「若鮎」、秋は「落ち鮎」、冬の季語は「氷魚(ひお、ひうお)」と、四季折々の季語
・・
瀬を渡る飛び石もあり小鮎汲み
楽しみは浅瀬にあるや小鮎汲み
若鮎や花と汲まゝ網の露
武の玉川に遊て
徐に柳のかぜや小鮎くみ
井月に、鮎汲みの句がいくつかある。これって、多摩川で小鮎くみして遊んだ時の句作でしょう。
小鮎と若鮎はたぶん別物ですね。
コアユについて、おもしろい解説があります。
>・・琵琶湖に生息するアユは、オオアユと遺伝的に異なる[7]。ただし、正式な亜種としては分類されていない。アイソザイム(アロザイム)分析の結果、日本本土産の海産アユからの別離は10 万年前と推定されている[6]。
生態的にも特殊で、仔稚魚期に海には下らず、琵琶湖を海の代わりとして利用している。琵琶湖の流入河川へ遡上し、他地域のアユのように大きく成長するもの(オオアユ)と、湖内にとどまり大きく成長しないもの(コアユ)が存在する。従来、オオアユとコアユの「両者間での遺伝的な差は無い」とされていたが、「亜種として隔離の兆候が出ている」とする研究結果もある
アユは神秘だ。スイカの香りがする。
・・アユの成魚は川で生活し、川で産卵するが、生活史の3分の1程度を占める仔稚魚期には海で生活する。このような回遊は「両側回遊」(りょうそくかいゆう)と呼ばれる。
親のアユは遡上した河川を流下し河川の下流域に降り産卵を行う。最高水温が20℃を下回る頃に始まり、最高水温が16℃を下回る頃に終了する。粒径 1mm程度の沈性粘着卵を夜間に産卵する
体長59-63mmになると鱗が全身に形成され稚魚は翌年4月-5月頃に5-10cm程度になり、川を遡上するが、この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上の藻類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化する。
アユが岩石表面の藻類をこそげ取ると岩の上に紡錘形の独特の食べ痕が残り、これを特に「はみあと(食み跡)」という。
・・多くの若魚は群れをつくるが、特に体が大きくなった何割かの若魚はえさの藻類が多い場所を独占して縄張りを作るようになる。一般には、縄張りを持つようになったアユは黄色みを帯びることで知られている[18]。特にヒレの縁や胸にできる黄色斑は縄張りをもつアユのシンボルとされている[18]。アユの視覚は黄色を強く認識し、それによって各個体の争いを回避している
・・アユについて、興味は尽きない。
628
:
秋魚
:2016/01/25(月) 01:53:07
(無題)
唐土にて月を見て、よみける 安倍仲麿
あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも (古今 9-4
06)
この歌は、昔、仲麿を、唐土に物習はしに遣はしたりけるに、
数多の年を経て、え帰りまうで来ざりけるを、この国より又
使まかり至りけるにたぐひて、まうで来なむとて出で立ちけるに、
明州と言ふ所の海辺にて、かの国の人、餞別しけり。
夜に成りて、月のいと面白くさしいでたりけるを見て、よめるとなむ語り伝ふる
・・
山部宿祢赤人、富士の山を望る歌一首并せて短歌
天地の 別れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光(ひかり)も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は(03/0317)
反歌
田子の浦ゆうち出でて見れば真白(ましろ)にぞ富士の高嶺に雪は降りける(03/0318)
・・
→ 「天の原振りさけ見れば駿河なる富士の高嶺にいでし月かも」
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-0hakken3.htm
・・安倍仲麿と山部赤人の月のコレスポンデンスが見てとれるのですが、
三笠山は、御蓋山。・・「蓋」
>・・咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。
629
:
秋魚
:2016/01/25(月) 23:47:40
(無題)
・・武蔵野は広い。在原業平がここにやってきたというのはほんとうだろうか。根雪の残る武蔵野を新座平林寺をめざした。西国分寺から武蔵野線で三つ目くらいの駅だったと記憶している。通ったことはあるがほぼ不案内。所沢川越あたりはよく走ったのでむずかしくはないと多寡をくくった。が、これは大間違い。地図でさっと見ただけで出発した。寒いのでしばらく自転車はお休みしていた。筋肉の萎縮より呼吸運動の停止ほうが神経を狂わせる。細胞が活発になり呼吸がそれにあわせる。脳は反射神経が全開して生き生きと働く。家にこもると想念ばかりが勝手に太る。山頭火がそうだったように時雨の旅にでるべきだ。時雨というのは、ちょっと嫌な天候かと思いつつ。
・・新座はたしか新羅人の部落だったとか。そんな昔のことは今は関係ないかもしれぬ。道路の南側の歩道は日が当らないためかところどころ雪が残っている。すべってころぶとあぶない。そういう微妙な日の出発だった。最近は自分の扮装を気にしなくなってたぶんすごい格好してる。浮浪者まがいにみえるかも。気にしないことだ。昭島に野暮用があってそのあと立川国立まででた。ここらは昔の地元。ここから西国分寺の武蔵野線にぶつかるあたりまでいった。そこからは調べがなくて人に聞き聞き進む。府中街道をいきなさい。所沢にむかってそこからカーブして志木街道を浦和方面へすすむ。ずっといくと清瀬、新座ですよ。
・・まったく楽勝のライドかと思っていた。途中レストランでお昼をとって野火止の平林寺は3時半頃になった。電車でも新秋津から新座までは時間がかかったようだった。関越道を越えて川越街道の近く、一画が広い雑木林になっている。その武蔵野の林と野火止の用水路が売りらしい。平林寺は紅葉の名所、季節にはよく人の訪れもあるようだ。寺構内に入るには入園料がかかる。森閑として臨済宗妙心寺派の禅道場という。帰りの時間が少ない。入園はあきらめた。
・・十二
むかし、おとこ有けり。人のむすめをぬすみて武蔵野へゐてゆくほどに、ぬす人なりければ、くにのかみにからめられにけり。女をばくさむらの中にをきて、にげにけり。みちくる人、このゝはぬす人あなりとて、火つけむとす。女、わびて、
むさしのはけふはなやきそわかくさのつまもこもれり我もこもれり
とよみけるをきゝて、女をばとりて、ともにゐていにけり
・・伊勢物語十二段の舞台という、それらしい業平塚があるはずだ。
630
:
秋魚
:2016/01/27(水) 00:21:42
(無題)
堀河太政大臣、身まかりにける時、深草の山にをさめてける後に、よみける
深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け(古今832)
・・上野岑雄(かむつけのみねお)が詠んだというが、堀河太政大臣藤原基経の死に哀傷をこめたかどうか疑わしい。生没年未詳で、一説に承和年間(834-848)頃の人とあり、藤原基経薨時(寛平三年=西暦891年)とは年代が合わない。
古今集巻十六832の歌だが、直前にある831の歌は、
空蝉はからをみつつもなぐさめつ深草の山けぶりだにたて
僧都勝延の歌の前に「堀川の云々」付け書きがくる。
藤原基経は能「雲林院」では、妹の藤原高子を武蔵野に追いかけ鬼一口で飲んだといういわくつきの妖人。
おそらく古今集編集のfakeであろう。
千葉県東金市山田の貴船明神にも「墨染桜」がありますが、これは東大寺再建の為の砂金勧進のために陸奥の国に向かった西行法師が、京都・深草の墨染桜の枝を杖にして歩き、当地を訪れたとき貴船大明神を勧請し、その傍にその杖を突き刺し、「深草の野辺の桜木心あらば 亦この里にすみぞめに咲け」と詠じて去りましたが、この杖が芽をふき墨染桜となったと言われています。
・・このあたりの話もどうですか。基経の魂魄を杖にこめるなど奇怪ですね。
631
:
秋魚
:2016/02/01(月) 02:11:50
(無題)
・・昨年都留に寄った帰り大月の隣猿橋をみたのを想い起こす。甲州街道の幹線で古来多くのものがここを通る。猿橋は名ばかりで本物の橋があるとは知らなかった。大月からすぐ隣一駅だが20号はまったく嫌な道だ。道幅がせまく自動車専用道路といった感がある。飯能秩父の正丸トンネルも地獄だったがここも相当なものだった。・・しかし猿橋、日本三奇橋のひとつという。実際の景観もなるほどといったものだったが後で調べてみると多くの文人墨客がここを訪れている。
・・山頭火は、「五月の甲州街道はまことによろしい。桂川峡では河鹿が鳴いてゐた。
山にも野にもいろいろの花が咲いてゐる。猿橋。
若葉かゞやく今日は猿橋を渡る
こんな句が出来るのも旅の一興だ。
など云ってるが、桂川沿いは歩くにはいいかもしれない。
水の月猶手にうときさるはしやたには千尋のかげの川瀬に
と詠んだのは、宗祇。
『廻国雑記』を著した聖護院の道興もこの絶景をみた。
「・・猿橋とて川の底千尋に及び侍る上に、三十余丈の橋を渡して侍りけり。此の橋に種々の説あり。昔、猿の渡しけるなど里人の申し侍りき。さる事ありけるにや、信用し難し。此の橋朽損の時は、いづれに国中の猿飼ども集りて、勧進などして渡し侍るとなむ。然あらば其の由緒も侍ることあり。所がら奇妙なる境地なり。
名のみしてさけふもきかぬ猿橋の下にこたふる山川の声
同じ心を、あまた詠じ侍りけるに、
谷深きそはの岩ほのさる橋は人も梢をわたるとそみる
水の月猶手にうとき猿橋や谷は千ひろのかけの川せに
・・
この道興という人は気になる。「聖護院(しょうごいん)は京都府京都市左京区聖護院中町にある本山修験宗総本山(本庁)の寺院。」「日本の修験道における本山派の中心寺院であると共に全国の霞を統括する総本山である。」とwikiにあるが、この「霞」とは何であろう。さらに「・・静恵法親王(後白河天皇の子)が宮門跡として入寺して以降、 代々法親王[2]が入寺する門跡寺院として高い格式を誇った[3]。明治まで37代を数える門主のうち、25代は皇室より、12代は摂家より門跡となった[3]。江戸時代後期には2度仮皇居となるなど、皇室と深い関わりを持ち、現在も「聖護院旧仮皇居」として国の史跡に指定されている。・・祇園祭の役行者山(えんのぎょうじゃやま)では聖護院が護摩焚きを始め(採燈護摩供)導師の山伏が護摩木を護摩壇に投げ入れる儀式を行う。」
「享保19年(1734年)11月16日、 聖護院の森にて、呉服商の井筒屋伝兵衛と、先斗町近江屋の遊女お俊との心中事件が起きた[3]。」
「天明8(1788年)と安政元年(1854年)の内裏炎上に際し、光格天皇と孝明天皇が一時期仮宮として使用した。当時の聖護院門跡は光格天皇と同母弟の盈仁法親王であり、当院と皇室は深い関係であった。」
・・いろいろ興味深いが、役の行者の関わりが大きいようだ。
この道興。おもしろいのは国分寺の恋ヶ窪、新座の平林寺野火止にも訪れがある。
・・此の関をこえ過ぎて、恋が窪といへる所にて、
朽ちはてぬ名のみ残れる恋が窪今はたとふも契りならすや
・・此のあたりに野火どめのつかといふ塚あり。けふはなやきそと詠ぜしによりて、烽火忽にやとまりけるとなむ。それより此の塚をのびどめと名づけ侍るよし、国の人申し侍りければ、
わか草の妻も籠らぬ冬されにやかてもかるゝのひとめの塚
632
:
秋魚
:2016/02/01(月) 22:11:49
(無題)
・・猿橋といえば、見外。
岨の雨山吹しほるたはみかな (越後)
ちる雪や曳た小松のひと風情 (家づと)
小林見外は江戸菊守園の主。猿橋産で当地に句碑もある。
宗祇の号に、自然斎・種玉庵・見外斎。この見外斎から倣ったものであろう。
633
:
秋魚
:2016/02/08(月) 20:30:28
(無題)
・・寒中、ひさびさの都心サイクリング。うっすら雪化粧の山並みから湿り雪といって道路にはつもらない。満を持しての浅草、隅田川千住木母寺、そこから南に川を下って深川芭蕉庵跡、万年橋、清澄庭園近くの禅師仏頂ゆかりの臨川寺、他はわき目も振らず朝8時すぎに出発した。青梅から多摩川サイクリングロードにでて古巣の国立までゆき中央線沿いに国分寺三鷹このあたりから青梅街道を走るという構想だったが、川沿いの道は雪がありそうであきらめ。ひたすら青梅線と中央線に沿った道を選んだ。先日新座平林寺をめざした道とほぼ一緒。自転車のチェーン周りの掃除をしてブレーキ調整もした。そのおかげで踏み足は軽い。立川国立あたりまでゴミゴミした道もここらはお手の物。ただし風が異様に冷たい。三鷹あたりから五日市街道か青梅街道にでるのを交番で尋ねた。環八か環七にぶつかるまでひたすら直進せよということだったが、早めに青梅街道を選んだ気がする。青梅街道をまっすぐ行けば新宿にでるのは知っていた。しかし今回は上野のむこうの浅草隅田川にゆきたい。どこかしらで飯田橋へゆく道に切り替えた。そうこうして大久保通りから後楽園にでた。ここの春日通りをゆけば上野、浅草は簡単だ。ここもよく知っている。はじめての道だが土地感がはたらいて最短距離で隅田川の厩橋まで来た。・・中野から新宿に近づく道は車道は危険。バスなどの大型車がスッと後ろから来ることがある。実は帰り一度だけこわい思いをした。こう書いている今は自転車も自分も無事故であったのを喜びたい。
・・浅草寺の後ろにあった新吉原の町跡をみたかったが今回はパスして隅田川の上流へもう千住といって合流する荒川に近いところ。梅若橋の木母寺をめざした。言問い橋は業平橋のことだろう。白鬚橋からもうひとつが梅若橋。ここだ。しかしまるで人気がない。寺ばかりは近代的にぴかぴかしていた。
隅田川沿いにある桜堤公園をずっと上流へ走る。桜の花の季節はほんとによい花見ができそうだ。川船に乗って遊覧するのもおもしろそう。しかし今は風が冷たい。人通りも多くはない。言問い橋を越えたあたりでキャッキャッ白い鳥が群れ騒いでいる。これが都鳥かともいぶかったが、それにしても群舞して風情がない。・・梅若橋の袂近く木母寺がある。石碑がやたらたくさんあって由緒が多いらしいがつきあってられない。・・梅若丸の歌がある。
尋ね来て 問はは応へよ都鳥 墨田川原の露と消へぬと
哀しいお話があるという。
京都五山の僧万里の「梅花無尽蔵」にも訪れがしるされている。木母寺の木母は、梅の字を解体して木母としたという。梅にたいへん縁がある。また「廻国雑記」を書いた道興もここを訪れた。・・梅若塚は謡曲「隅田川」によってよく知られている。
・・さてここは訪れるだけで充分。すぐに踵を返して下流の両国、深川芭蕉庵跡の方へ向った。ほぼ川に沿った道で気は楽だった。
・・芭蕉翁史跡展望庭園に寄ってみた。隅田川と小名木川を望む河岸の一角。中央にある翁像はゆかしいものだ。芭蕉の像はたいてい小川破笠の絵をもとにつくられている。説明書きを読み忘れたがこれも破笠の絵から面相をつくっていると思われる。「・・小川破笠(1663-1747)は芭蕉門の俳人で絵をよくした。寛保元年(1741年)、師匠であった芭蕉の肖像画を描いている。実際に芭蕉と親しく接していた者による肖像画だけに、芭蕉のおもかげを最もよく伝えるものであろう。」
・・ほかに小名木川に舟を浮かべ五本松を眺めながら詠んだ句がある。
川上と この川下や 月の友 はせを
・・この深川にいて、川上と川下の雅趣を思いやるというのは、発見。
「・・今宵月の夜に私は五本松のあたりに舟を浮かべて月を眺めているが、この川上にも風雅の心を同じゅうする私の友がいて、今頃は私と同様にこの月を眺めていることであろう」
これで、支考の墨直しの碑の文の意味もすこし解けてくる。
・・小名木川と隅田川にあたるところ万年橋がある。ここは以前訪れたこともあり、ここから清澄庭園の方へ向う途中に仏頂禅師のいた臨川寺があるはず。果たしてせまい一画だが寺はあった。臨済宗妙心寺派の寺だ。中に入るとおもしろいように石碑が並んでいる。芭蕉由緒の碑、墨直しの碑、玄武仏碑、梅花仏碑、の四つ。ほとんどこれらの碑が売りですね。とくに注目すべきは、墨直しの碑。これは京都東山双林寺にある墨直しの碑を、神谷玄武坊が碑文等そのまま写したものだ。銘文の一部を引く。
「・・あづさ弓 武さしの国の 名にしあふ 世に墨染の 先にたつ
人にあらずに ありし世の 言の葉はみな 声ありて その玉川の
みなかみの 水のこころぞ 汲てしる 六すじ五すじ たてよこに
流れてすえば ふか川や この世を露の おきてねて その陰たのむ
その葉だに いつ秋風の やぶりけむ その名ばかりに とささをきぬ」
・・支考の文で、武蔵の国の流れる川を「玉川」ひとつに代表させている。
・・おそらく芭蕉も支考も隅田川、玉川の上流を訪ねてはいまい。隅田川なら先刻木母寺のもちょっと先で荒川、そこを遡って川越で入間川に分かれる。昔は入間川の方がよく知られていた。浅草はそれなり賑わっていた。「花の雲鐘は上野か浅草か」芭蕉のこの句は花の雲の行方が暗示されている。入間川を飯能の方にたどると成木川に分かれる。これはもう青梅の川だ。・・限りなく多摩川の上流に近づくようだが水源を同じくすることはない。この水源を求むる旅を半分でも試みるものがいたとしたら、それは井月であろう。
・・碑を見学していたら、お若い住職さんに顔が会った。墨直しの碑は戦災で破損し後再建されたもの。それでも碑文は読めない。翻刻したものはありませんか?と尋ねたらパンフがあるという。家の中に入ってしばらくとてもよくできたパンフをみせてくれた。どうぞというので涙が出るほどお礼をいってこれで今日は大収穫。ホテルであきない思考ができる。
・・さてこの後深川稲荷を御参り。清澄庭園をぐるり廻って長岡藩下屋敷の跡地を探した。いろんなお寺が密集した区域がありどうもこのあたりではないか?ずかずか寺の受付で案内を乞うた。がどこも昔のことはわからないということでした。これはあきらめ。
・・永代橋のすばらしい夕景を拝んで兜町のホテルに向った。
634
:
秋魚
:2016/02/10(水) 19:58:26
(無題)
・・さて皇居周りからの帰路だ。新宿通りをゆけば南口で甲州街道にでやすい。靖国通りならそのまま青梅街道につながる。これもよく知らなかった。今回は迷わず靖国通りでゆく。毎度だが新宿周辺はいたってあぶない。なんか気が荒いというか。・・青梅街道から外れて五日市街道もしくは井の頭通り、連雀通りなどで国分寺に出れば恋ヶ窪の熊野神社もみつかるはず。一度訪れがあるが地理がまだよくわからない。もう一度再学習。ほんとは昔の道をなつかしみ辿るのは末期症状なのかも。熊野神社の横にあるお寺で敬慕した女流詩人が眠っている。・・借りを返さねば。
ひよろひよろとなほ露けしやをみなへし はせを
明治7年(1874年)8月、寶雪庵可尊建立。
月花の遊びのゆかむいざさらば
寶雪庵可尊(坂本八郎兵衛)は、明治19年(1886年)に88歳で亡くなったが、その辞世の句を門人たちが明治30年(1897年)に建てたもの。
明治12年(1879年)、『故郷碑』(宝雪庵可尊輯)。
・・この宝雪庵可尊という俳人を実は追っている。
何鳥か寝た影丸し月のうめ 可尊(井月編「家づと集」1864年)
「芭蕉の正統蕉門がここに」・・国分寺恋ケ窪出身の坂本八郎兵衛は、ひょんなことから芭蕉の正統蕉門である江戸牛込の宝雪庵に弟子入りした。後に才能を見込まれ47歳で跡取りになると、宝雪庵六世可尊として江戸末期の俳壇で活躍している。1869年に恋ケ窪に戻ると、地元の青年たちに俳句を広めた。
・・井月が可尊に知己を得て句を交換したとしたら、恋ヶ窪でなく新宿の牛込ですね。井月が新宿に出ていたというのは、めずらしい。新宿は甲州街道、青梅街道の出発点ですから、井月も歩いたはずだ。おそらく宝雪庵という俳諧の縁で知り合ったと思われる。・・このとき句を交換するばかりでなく、可尊の故郷の恋ヶ窪の話も聞いたでしょう。聖護院門跡の道興の訪れがあると。恋ヶ窪、武蔵野平林寺などは道興の訪れに倣ったとも思える。確証はないが。
・・熊野神社まわりから国立へ向う道がある。迂闊なことだった。遺跡の発掘で昔よく通った道だ。坂道を下ると駅でそこから大学通りをまっすぐ谷保へと向う。この辺は庭だった。南武線谷保駅のすぐ裏の甲州街道沿いに谷保天満宮、それに土方歳三がよく通ったという学問と書の先生本田覚庵の家がある。古民家として今でも残っているという。歳三は石田の渡しを舟に乗らず飛び石を伝って日野の方から来たそうだ。本田覚庵というのは獣医だが、米庵流という幕末三筆のひとつを汲んでいる。この米庵流、井月もすこし知っている。すぐ近くが谷保天満。・・本田覚庵の家。これはびっくり。なんと以前何年も住んだわたしの下宿の目の前にある。春は桜、ほかに槻の木とか、梅、木立の異様な景状がいつも気になっていた。・・ここに歳三がよく訪れていたとは。
635
:
秋魚
:2016/02/11(木) 23:18:42
(無題)
・・宮ノ平から多摩川を渡り吉野街道にぶつかる辺り、街道を離れて梅ヶ谷峠へ向う坂道がある。暗い陰鬱な道だがここを行けば日の出町に入れる。中曽根総理とレーガン大統領が会談した日の出山荘というのがある。この山荘には興味もなかったが今日はこの道から日の出に入ってつるつる温泉にゆくことにした。秋川街道から入ってつるつる温泉には何度か訪ねた。二回ほどか。車がよく来る梅ヶ谷峠はアップの坂が長く青梅と日の出の境の峠で特に標識もない。この坂を登りきってしまえば急にのどかな風景で自転車も楽だ。梅の花もちらほら咲いている。・・日の出山荘にゆく道はまた別に分かれる。気が重いが行けるところまで行くことにした。山懐という風で着いてみるとかなりの敷地にいろいろ屋敷があるようだ。大統領や各国の要人を招くほどだから接待は万全なのだろう。単純な山小屋を想像していたのでなるほどと思った。今は入館料をとる名跡になっている。
・・ここから坂道を下って一路つるつる温泉に向った。一度秋川街道にでて萱窪というところまでゆく。そこからまた西へ平井川という川沿いの道をどんどん行くと急な坂道になる辺りでつるつる温泉がみえる。昔はこの道と坂がたいへんなものに思えたが今はどうということもない。ほどなく着いてしまった。・・ひさしぶりに来てみると建物は変わってないのだろうけどよく整備されてきてるようだ。源泉ばかりでアルカリ純度の高い単純泉。これも売りで変わらない。瀬音の湯とほぼ同じ。向こうのほうが新しい分湯は上質に感じた。温泉も時がたつと消耗劣化というのがあるようだ。しかしここはそれはない、いい温泉だ。長湯をして湯あたりをしないようにと注意もある。湯あたりは自分も一回したことがある。潜水病高山病みたいなもので回復がなかなか来ない。たいていは救急車を呼ぶようだ。自分の時はなんとか自力で回復させたけれど。・・さてここのレストランも充実してきてる。食でいい想いがないと、口コミもさんざんになるからどこも力を入れてるようだ。つるつるも前回よりたいへんな向上をみせた。釜飯ご飯を注文。
・・さて帰り多摩川の永田橋までつづく道がある。陰気な秋川街道を避けてこの道から滝山街道にでて迂回して帰ることにした。どんどん行くと途中裏道にもまわりお寺がけっこう多い。・・東光寺という禅寺がありその上の山には妙見宮というのがあって山頂まで参道が長くみえる。麓で若い娘さんが登ってきたので妙見宮のこと聞いてみた。娘さんもはじめてでよく知らないという。見に行くのですか。それでは一緒に行きましょう。そういって急な参道を登っていった。
636
:
秋魚
:2016/02/21(日) 22:41:47
(無題)
・・加舎白雄「武蔵野行脚」に、霞川という川原に遊びてとある。「思ひしほど霞まぬもよき川瀬哉」と句を詠む。かすみ川というのはどこにもありそうな名でもしやと思い青梅の田園を流れて狭山入間から入間川に合流する霞川のことと思いついた。・・以前東青梅の上流から入ってカワセミやコサギなどいるサイクリングロードを川沿いにどこまでも追っていこうとした。結局この日は武蔵村山に用事かあって途中断念したけれど、今日こそとことん追って入間川へ合流する河口を見るつもりだ。白雄が訪ねたのは青梅の霞川にちがいないなど変な確信をもった。
・・青梅マラソンがあって街道にのぞんだが、丁度スタートの号砲が鳴ったばかりらしい。続々とランナーが走ってくる。エントリーは何千人か何万人か。ともかく人が多い。参加するランナーを見て思ったが、けっこうな年輩の人が多い。大丈夫かなと見える人もいるが、たぶん大丈夫なのでしょう。自転車なら年いってもいける。走るのはどうですかねという気もする。走るのが好きな人も多いか。
・・霞川はやはり生活水が流れるのかすこし濁りが目立った。魚も水鳥もみえる川だから昔は清らかな川だったのだろう。今でもカワセミが見られるというが。サギとツルの区別もつかない。きょうはツルに似た鳥がいた。写真を撮ろうとかまえると羽根を広げて飛び去ってゆくのはいつものこと。カモは遊んでいるから人見知りはないようだ。ツルはむずかしい。
・・青梅の端に入間の金子という土地に入る。この向こうに丘陵がつづき土地の人に聞くと加冶丘陵というらしい。そのむこうに入間川も流れているはずだ。井月三部集に載る野井という俳人はこの金子の出身。後江戸にでて本町二丁目に住む。新吉原の妓楼の主人海老原新甫とは仲のよい俳人仲間。・・井月は野井の故郷を訪ねたかもしれない。入間川を遡って霞川に沿って来たか、青梅街道を西へ進みすこし北西に外れればもうこの霞川あたりまで来れる。・・塩船観音寺、真浄寺はその先、霞丘陵の麓にある。
何処やらに鶴の声聞く霞かな
・・霞川に沿った道というのは一本道でない。あれこれ迂回しながら行くしかない。合流点に近づくにつれ川幅も広くなってはきている。水鳥はあちこちよくいる。江戸の頃はのどかなよい川だったのだろう。・・入間川にだいぶ近づいたあたりで地形が入り組みついに川に沿って河口にでるのをあきらめた。先に入間川の岸辺にでてみることにした。ガソリンスタンドで道を尋ね、なんとか広瀬橋という大きな橋のあるところに出た。はー入間川はやはり広く大きいか。すこし上がったところに霞川の河口がみえる。・・青梅丘陵からでた霞川がこんなところまで延びて入間川にそそぐのは確認して安心できた。飯能狭山入間と青梅瑞穂の境目にいくつか緑の多い丘陵がある。その丘陵の南がわの手前に流れるのが霞川。たいした川ではないがこれに沿って霞丘陵まで上がるのが、よいサイクリング。
・・入間川というのは昔からある。よく洪水で氾濫する川だ。実際川越あたりは堤防脇はひどく低地になっている。広瀬橋を渡ると広瀬神社があり埼玉でも有数の古い神社という。ケヤキの神木の古いものがありたしかに古そうだが、文人墨客はあまり訪ねてもいなさそうだ。江戸の頃地元の俳句連が寄せた句碑があったが、芭蕉などの句碑はない。(あとで調べたら「ものいへば唇寒し秋の風」の句碑があるとのこと)・・梅の木は古木になると竜のようによじれてくるという。そういう古い梅ノ木があった。
・・この広瀬神社よりすこし入間川上流にあがると笹井白鬚神社があるはず。実はここを訪れたかった。聖護院門跡道興が『廻国雑記』でやはりここに寄っている。当時(室町時代)は佐西といって観音寺というお寺であったらしい。ほかに芭蕉の句碑がある。
武蔵野や一寸ほどの鹿の聲
芭蕉32歳の時の作。芭蕉も広い武蔵野の鹿のいるようなところまで歩いたか。江戸にでて二三年のこと。
637
:
秋魚
:2016/03/01(火) 00:26:04
(無題)
湯原王の七夕(しちせき)の歌二首
牽牛(ひこほし)の思ひますらむ心より見る我苦し夜の更けゆけば(万8-1544)
織女(たなばた)の袖つぐ宵の暁(あかとき)は川瀬の鶴(たづ)は鳴かずともよし(万8-1545)
湯原王の鳴く鹿の歌一首
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ(万8-1550)
湯原王の蟋蟀(こほろぎ)の歌一首
夕月夜(ゆふづくよ)心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも(万8-1552)
湯原王の吉野にて作る歌一首
吉野なる夏実(なつみ)の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして(万3-375)
なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる(伏見院[新後撰])
春もなほなつみのかはのあさ氷まだ消えやらず山かげにして(西音[玉葉])
わきて猶こほりやすらん大井河さむる嵐の山陰にして(基嗣[風雅])
なつみ川こほりかねたる早きせをうきねの床と鴨ぞ鳴くなる(宗良親王)
なつみ川山陰にして見し雪ののこるがさくか岸の卯花(正徹)
湯原王の娘子に贈る歌
目には見て手には取らえぬ月の内の楓(かつら)のごとき妹をいかにせむ(万4-632)
*湯原王
志貴皇子の子。兄弟に光仁天皇・春日王・海上女王らがいる。
・・
秋萩の散りの乱(まが)ひに呼び立てて鳴くなる鹿の声の遥けさ
なつみ川かはおとたえて氷る夜に山かげさむく鴨ぞ鳴くなる (伏見院)
・・
638
:
秋魚
:2016/03/12(土) 01:11:15
(無題)
おく山のおどろがしたもふみわけてみちある代ぞと人に知らせむ 後鳥羽院
・・も・ふみわけて・みち
これは紅葉を踏み分けるか。紅葉を切っています。
見わたせば山もとかすむ水無瀬川夕べは秋となにおもひけん 後鳥羽院
1.雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
2.行く水とほく梅にほふさと 肖柏
3.川風に一むら柳春見えて 宗長
4.舟さす音もしるきあけがた 祇
5.月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・
徐に柳のかぜや小鮎くみ 井月
これは水無瀬三吟にならえば、第三の宗長ですな。
・・
「梅にほふさと」は、
639
:
秋魚
:2016/03/16(水) 00:48:03
(無題)
・・ のーまく さんまんだー ばーざらだん せん だー まー か ろ しゃーだー
そわ た や うん たら たー かん まん
・・成田山新勝寺(以下「成田山」)の歴史は古く、御本尊の不動明王像は平安時代の初め、嵯峨天皇の勅願により弘法大師自らが敬刻し開眼したものと伝わります。その後は長らく京都の高雄山神護寺に奉安されていました。この御尊像が、はるか東国の下総国成田に遷座されることになったのは、朱雀天皇の天慶2年(939)に起こった「将門の乱」のときです。朝廷は真言宗の高僧寛朝大僧正に神仏の力による将門の調伏を命じました。そこで寛朝大僧正は、神護寺の不動明王像を奉持し、現在の成田の地に不動明王像を祀り調伏の護摩を修したのであります。
よみ倦ぬ青梅どきや三国志
三国志ノ内
一踊りして来て酒の未だぬくし
張飛
蟷螂やものものしげに道へ出る
よみ懸し戦国策や稲光り
・・江戸は芭蕉と将門ですな。
神田明神には、将門塚がある。
640
:
秋魚
:2016/03/18(金) 01:48:42
(無題)
・・都幾山慈光寺が気になってたが、予定変更。もうすこし手前の越生梅林にサイクリング。飯能−寄居線という県道、ほぼ八高線に沿っている。飯能まではほんとうに楽になった。ただし小曽木街道はそれほど広くないし、ダンプも時々来る。だいぶ勝手がわかったから飯能市街には一時間とすこし、そこから宮沢湖までももう馴れた。日高高麗川あたりやはり大型のダンプなど来るさほど広くない県道をなんとか抜ければ毛呂山あたりでよい道になる。・・実はこの道でかける前の印象ですこし気が重くなる。アップダウンが多いというわけではない。前回の走りの記憶を消してからでないとでかける気もしない。
・・毛呂山まで来たら、新しい村の記念館があるという看板。いまどき白樺派ですかね。たぶんこの時代でもっとも流行らない思潮でしょう。生ける化石か。トルストイの影響があるとか。武者小路実篤とかも、正直気が重い。・・街道をそれて700mとか、きょうはここへ立ち寄ることにした。・・ほんとうに新しい村なんど有るのかよ。単線の線路を渡って、どうやらその村の敷地の中に入った。や、や、や、意外とおもしろい。詩碑などがあちこちあるのは想像した通り。茶畑やソーラーパネルなどもあって、今でも新しい村の住民活動は続いているようだ。きれいごとの文句ばかり散りばめられていて、これは一種の宗教の様。古い井戸とか建物も時代がかったものだ。・・一応美術館らしきがあって入館料二百円払って訪ねてみた。ほとんど武者小路さんの絵とか書とか詩とか飾ってあって、タイムスリップみたいなのは、でもしきりにそれを拒む自分も居て、やはりついていけない気にもなる。
・・新しい村は宮崎の日向ではじめられた。七年あってダムの建設でやむなくこの毛呂山へ移動。日向では実篤さんも生活してたが、この毛呂山には住まなかったという。晩年の二十年は都内の調布が住まいだった。この新しい村は主旨に賛同する仲間が続けているという。なんか活気もないけど大丈夫なのか。気づかっても仕様もないのでここを去って越生に向うことにした。
・・毛呂山から越生に向うにしばらくいくと、山の方へ道がわかれる。越生の梅林にゆくにはここで折れた方が良いのかあたりに尋ねる人もいない。角にある何か野菜の仕分け場みたいなのがあって、引き戸をあけて、なんとか尋ねる人をみつけた。仕事中で悪いとは思ったがもはや手は無い。土地の人はやはり詳しい。道を曲がって道なり真直ぐ行けばよいとのこと。街道は細くなるが、あとは人に聞き聞き進んだ。ひとつ由緒ありげな寺に寄った。参道に無人の野菜売り場があって夏みかんがよさそうだった。帰りに寄ることにした。・・梅林まで山懐の里のようでけっこう距離がある。近づくと梅ノ木が多くなる。なんか整然とした梅林ですこし期待はずれ。せっかく来たからにはと入園料三百円払って中にはいる。青梅の梅の公園の方がおもしろいか。いろいろ変化に富んでいる。しかし今は無い。今年は暖冬でもう梅の花も盛りをまわったか。それでも中には人も多い。お昼時でうどんと梅酒を注文。枝垂れ梅のいいものもある。古さを誇る梅もあったが花は終わっていた。猿回しの大道芸とか、みせものも多い。・・さて梅林をぬけて、このまま帰るのもどうか。太田道真の隠棲した館があるはず。宗祇が訪ねて来ているはず。龍・・寺とか名前が思い出されず。それでも人に聞いたらリュウオンジ、龍穏寺という。太田道潅の墓があるらしい。ここに向った。
・・越辺川はオッペガワという川沿いに山懐へおよそ6キロの道のりだ。途中いって人はまったくいない。やめたくなった。とくに上り坂が続くと、リタイヤしたくなる。・・ここからがいつもの性分、ここまできて引き返す手は無い。龍穏寺まではなんとしてもゆく気になる。もしここであきらめると一生の後悔になるやも。とまあいい加減な理由でがんばる。坂がどんどん山猫軒というカフェが近い。最後に登りきった坂をもう一度大きく降ってゆくと、急に明るく開けて村もお寺も見えてきた。まさに隠れ里です。
・・「縦有千声尚合稀況今一度隔枝飛誰知残夏似初夏細雨山中聴未帰」
たとえ千声あるともなお合うこと稀なりいわんや今一度枝を隔てて飛ぶおや誰か知らん残夏の初夏に似たるを細雨山中に聴きていまだ帰らず
万里集久【梅花無尽蔵(二)
・・1486年、太田道潅と万里集久が道真の居館「自得軒」を訪れた。その時の集久の詩という。
・・その46日後の七月二十六日、道灌は主君・扇谷上杉定正によって相州糟屋館で謀殺される。
641
:
秋魚
:2016/03/22(火) 00:46:20
(無題)
地「潮満潮干二つの玉を。/\。釣針に取
り添へ捧げ申し。舞楽を奏し。豊姫玉依。
袖をかへして。舞ひ給ふ。天女舞「。
地「いつれも妙なる舞の袖。/\。玉のか
んざし桂の黛。月も照り添ふ花の姿。雪
を廻らす。袂かな。
シテ「わたづみの宮主。舞働。地「姿は老龍
の。雲に蟠り。かせ杖にすがり。左右に返
す。袂も花やかに。足踏はとう/\と。
・・「玉井」vs「紅葉狩」
雲に嵐の声すなり。
散るか正木の葛城の。神の契の夜かけて。
月の盃さす袖も。雪をめぐらす袂かな。
堪へず紅葉。中ノ舞「。
シテワカ「堪へず紅葉青苔の地。地「堪へず紅葉
青苔の地。又これ涼風暮れゆく空に。雨
うちそゝぐ夜嵐の。もの凄ましき。山陰
に。月待つほどのうたゝ寐に。かたしく
袖も露深し。夢ばし覚まし。給ふなよ夢
ばし覚まし給ふなよ。来序中入間「。
ワキ「あらあさましや我ながら。無明の酒
の酔心。まどろむ隙もなき内に。あらた
なりける夢の告と。地「驚く枕に雷火乱
れ。天地も響き風遠近の。たづきも知ら
ぬ山中に。おぼつかなしや。恐ろしや。
歌「不思議や今までありつる女。/\。と
り%\化生の姿をあらはし。あるひは巌
に火焔を放ち。または虚空に焔を降らし。
642
:
秋魚
:2016/03/25(金) 01:23:26
(無題)
姨捨山
俤や姥ひとりなく月の友
姨捨山
俤や姥ひとりなく月の友
? いざよひもまだ更科の郡かな いざよひもまださらしなの郡哉
? 更科や三よさの月見雲もなし 越人
? ひよろひよろと尚露けしやをみなへし 尚
ひよろひよろとこけて露けしやをミなへし
? 身にしみて大根からし秋の風
? 木曾のとち浮世の人の土産かな (よにおりし人にとらせん木曾のとち)
木曾のとちうきよの人のミやげ哉
? 送られつ別ツ果ては木曾の秋
?? 身にしミて大根からし秋の風
? 善光寺
月影や四門四宗も只ひとつ
善光寺
月影や四門四宗も只一
? 吹とばす石ハ浅間の野分哉?? (秋風や石吹颪すあさま山)
落
(吹颪あさまは石の野分哉)
とばす ハ
吹(落す)石をあさまの野分哉
・・「更科紀行」 本文と真蹟草稿こきまぜると迫力があります
・・将門の太刀のごとく三日月のごとく。両刃の剣ではありません。
643
:
秋魚
:2016/03/25(金) 03:13:31
(無題)
芭蕉庵「三ヶ月日記」素堂序
我友芭蕉の翁、月にふけりて、いつはとはわかぬ物から、ことに秋を待わたりて、他の求めなし。・・・
・・・初秋はくれぬ。中の秋に至りて、はつ月のはつかなる比より、夜毎に名月の思ひをなしくもりみはれみ扉をおほふことまれ也。我庵ちかきわたりなれば、月にふたり隠者の市をなさむと、みづから申つることぐさも古めきて、入りくる人々にも句をすゝむる叓になりぬ。昔より隠の実ありて、名の世にあらはるゝ叓、月のこゝろなるべし。
隠にしてすゞむも哀三かの月 素堂
三か月や地は朧なる蕎麦畠 芭蕉
影ちるや葛の葉裏の三かの月 杉風
・・・
三日月はこの杉風の第三までに尽きると思うが、如何。
羽黒山の呂丸に託して、後支考が死の前年(1730)に一巻の書として開板した「三日月日記」。
翁の遺状によれば真正な「三日月日記」は伊賀にあるという。が、これはfakeであろう。
・・
鶴岡にある草稿と支考の板本とはいくつか異同あり。
・・「三日月日記」は図書館から借りたものだが、予想期待に反して大部は読めないものだった。「隠にしてすゞむも哀三かの月」素堂の句は、板本では「隠にして進むも哀三かの月」とあり支考の歪曲がめにつく。・・支考はこういう細工をするものと理解する格好の書物か。
・・芭蕉は「更科紀行」などと同じく草稿のまま未完成に残して他の心ある弟子に作品の成立を委ねたのではないか。推敲の過程をそのまま残すそれが本来の作品のすがたともとれる。三日月日記という未完の部分を残して秘すことを意図した。
・・お調子者の支考はそのあたり曲解とみる。
644
:
秋魚
:2016/03/27(日) 01:42:08
(無題)
・・
Non ce n'est rien qu'une chanson qui revient quelquefois
Rien qu'un sourire, en souvenir d'un garçon d'autrefois
Quand mes jours sont gris
Qu'il neige sur ma vie, il revient dans ma mémoire
Au lycée Français un soir il m'attendait
Il souriait Nicolas
いえ 時々思い出されるのはひとつの歌にすぎない
昔会った男の子を思い出して浮かべる、ひとつの笑みにすぎない
私の日々が灰色のとき、
私の人生に雪が降るとき、彼が私の記憶によみがえる
フランス系のリセで ある夜彼は私を待っていた
彼は微笑んでいた ニコラは
{Refrain:}
Nicolas, Nicolas, ma première larme ne fût que pour toi
On était, des enfants, notre peine valait bien celle des grands
Nicolas, Nicolas, c'était de l'amour, on ne le savait pas
C'est la vie, qui nous prend
Qui nous emmène où elle veut et où elle va
ニコラ、ニコラ、私の初めての涙はあなたのためだけではなかった
私たちは子供でも、私たちの苦しみは大人たちの苦しみと同等だった
ニコラ、ニコラ、それは恋だったのか、私たちには分からなかった
人生は、私たちをとらえ、
私たちを思うがままに運んでいく
Un homme enfant, aux yeux trop grands, sur un quai, qui pleurait
Il a neigé, beaucoup depuis, sur là bas, sur Paris
Et il ne sait rien, de moi et de ma vie
Ce que je fais, qui je suis
Il ne connaît pas, l'autre Maritza, il garde la vraie là-bas
子どもっぽい男が、駅で、とっても大きな目に涙を浮かべていた
その後、雪がたくさん降った、あちらでも、パリでも
そして彼はいま私について、私の人生について何も知らない
私が何をしたか、何であるのか
彼は別のマリヅァを知らず、彼はあちらで本物を守り続けている
Nicolas, Nicolas mon premier chagrin s'appelle comme toi
Je savais, que jamais, je ne reviendrai ici auprès de toi
Nicolas, Nicolas c'était de l'amour, on ne le savait pas
C'est le temps, qui s'en va
Qui invente toutes nos peines et nos joies.
ニコラ、ニコラ 私の最初の悲しみにはあなたの名前がついている
私はわかっていた、けして、ここへあなたのそばには戻らないだろうと
ニコラ、ニコラ それは恋だったのか、私たちには分かっていなかった
時は、過ぎて行き
私たちの苦しみや歓びをすべて創り出す
645
:
秋魚
:2016/03/29(火) 02:35:00
(無題)
・・このところ自治会の仕事をふりむけられてきて、今日は近辺のパトロールコースを下見した。自転車で遠出をして身近なところはいつも通っているはずだが、意外と盲点になっていて知らない道と場所が多い。
・・吉野街道に沿った裏道は山の斜面にも沿ってアップダウンの坂が入り組んでいる。さながら迷路のようだ。柚子、夏みかん、カボスとか柑橘が取り入れもなされずそのまま熟して落下しているのもよくみかける。先日越生に行った時は、無人の里でひとつ柚子をみやげにもらった。家で料理につかったが、いいものだった。
この地域やはり外にでないと何も起こらない。
吉野街道から川にむかって降りてゆく道があった。まあほんとに細い道。突き当たりの家などたぶん廃家でしょう。いろいろ草木の茂った道を下りてゆくと、いつもは万年橋の上から眺める多摩川の河原にでた。夏ならばここで川遊びもできるでしょう。いまは無人です。
・・これから草木も芽吹いて繁茂すると歩きにくくもなるだろう。斜面の草木の道に、赤い実のなるのを見つけた。これって千両とか万両とかじゃなくて、アザカではないだろうか。
木天珠(プンテックビーズ・木化石)の由来
エッチドカーネリアン
インダス文明期に、発見された技法により生まれたビーズエッチドカーネリアン。
天然石のカーネリアン(紅玉髄)にアルカリ性の溶液で人為的に模様付けをしたビーズです。
ナトロン(天然ソーダ)でカーネリアンの表面に様々な文様を描き、300度〜400度の熱で低温焼付けしたものです。
アルカリによる腐食加工で模様付けすることををエッチングと呼ぶことから、エッチングされたカーネリアンという意味の「エッチド・カーネリアン」と呼ばれます。
塩生植物の灰には、酸化ナトリウム(Na2O)が多く含まれ、その灰汁(あく)を煮詰めれば、玉髄を腐食する強いアルカリ液が出来ます。
エッチド・カーネリアンの登場には、石英と強アルカリ液(ソーダ灰の原料)、すなわちガラスの原料が関わっていたのです。
ヒマラヤ圏で見られるエッチドカーネリアンはチョンジーと同様の単純な文様が多く、チベット圏ではチョンジーと呼ばれジービーズファミリーの1つとされております。
エッチング技法は、インドの近隣国にも伝わり、ビルマ(現ミャンマー)のPYU(ピュー朝4世紀〜832年)では、化石化した木(オパール)に対してエッチングが行われました。
このビーズはPumtek Beads(プンテックビーズ)と呼ばれています。
646
:
秋魚
:2016/05/01(日) 07:54:30
(無題)
・・そろそろロングライドがうずく。青梅街道を甲州にぬける柳沢峠越えが目標だ。奥多摩からならクロスバイクでぬけるのも可能か。ネットの記事ではたしかに壮絶そう。丹波山村までは一度経験した。トンネルがいくつもあるがなんとかクリアできそう。奥多摩湖から離れて丹波山方面に向う登りスロープが実は顎がでる。のめこいの湯が目標だったからここもクリアした。・・その先が苛酷だという。シミュレーションではここ道の駅で小休憩。到着がはやく体力に余力があればそのまま丹波渓谷に向う。だんだらで30キロほど走らねばならない。柳沢峠で一休み。富士がみえればよい。・・ここからが大変。千メートル以上の落差のダウンヒルが待ってる。
・・シミュレーションはやめて近場のまだ見ぬ花の道を訪ねた。青梅杣保の霞丘陵と真浄寺。しぐれ桜を見てみたい。
・・ところで、桜ではなく梅。
一華開五葉 結果自然成
これを水無瀬三吟何人でみると、
雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・梅花の五葉がみえますか?
647
:
秋魚
:2016/04/13(水) 01:41:31
(無題)
聖霊院の前では、鏡池が水をたたえています。明治の昔の頃はこの池のほとりに茶店があり、ここで一休憩した正岡子規が即興で詠んだのが、あの有名な俳句です。
「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
・・
648
:
秋魚
:2016/04/13(水) 22:40:30
(無題)
・・江戸武蔵野の怨霊はなんといっても平将門。いつの時代もこの霊が跋扈してると思って間違いない。深川芭蕉庵あたりにも必ず。日本史の大きな流れの中では聖徳太子が第一の怨霊の雄だ。甲斐の黒駒に乗って富士山を踏破したなど霊は神出鬼没。鬼霊だが悪霊か善霊かはわからない。平将門は鬼霊。太子は聖霊。ということにしておく。
・・法隆寺聖霊院。1284年(弘安7年)・・建て替えられたという神殿づくりの建物の中には、黒漆で仕上げた大きな厨子が3つ造り付けてあります。そのうち真ん中の厨子におさめられているのが、聖徳太子像。
・・45歳のときの姿を表したものと言われますが、重要な神事の際に用いる冠、巾子冠(こじかん)を頭にいただき、儀式用の笏(細長い板)を両手で抱く束帯姿
1284年。ドイツ・ハーメルンで約130人の子供が集団失踪(ハーメルンの笛吹き男のおこり)
・・4体の侍者像の他に、附(つけたり)として「木造蓬莱山及亀座付の銅造観音菩薩立像」がある。
これは聖徳太子像の、いわゆる「胎内仏」
・・後鳥羽院(1180-1239)
1284年は、院46回忌。
649
:
秋魚
:2016/04/15(金) 19:52:42
(無題)
・・義姉が逝去した。ぽつりぽつり故ある人が去る。
・・物理の労働がひさしいので、お天気もよく、自転車の解体−組立てを試みた。世の憂さ人の憂さを忘れるにはこれが一番。このハヤブサ号もう何年目になるのだろう。そろそろ本体の劣化疲労が来る頃だが。一応のブランド品でフレーム、ギア等はしっかりしている。・・Vブレーキの解除。レリーズも解除。前輪後輪の外しにかかる。ここまでは実はお手の物。後輪のギアチェーンの掛りはさほど恐くなくなった。フレーム本体を逆さまにしてあちこち調整清掃をした。フロントギアのところで乗車中変な音がするので何かと思っていた。ギアチェンジするパーツのネジが二本浮いて緩んでいたのを発見。+ドライバで締める。なるほど音が消えた。あぶないな。このまま放っていたらチェーンのネジが磨耗して急にぷっつん切れたりするだろう。手馴れた人はチェーンの長さも替えられるし、ギアの調節もたやすい。自分はあいかわらず素人です。
・・今年はもうひと踏張りハヤブサ号には頑張ってもらう。ブレーキが大切だ。輪行のためにエンド金具の取り付けも試みた。実は昨秋以来ですっかり忘れている。前回は固定の締め付けが甘く何度か車中でへたってしまった。袋にうまく収めるのでせいいっぱい。こんどはうまくやりたい。で、袋詰めは今回はやめてすぐ組立てにはいった。後輪のチェーン部分すんなりいかずもなんとか復旧する。前輪の据付はネジの回し方で車輪のセンターがずれるので細心の調節になる。これは失敗して試行錯誤の経験が生きる。リアブレーキの復旧も実はちょいむずかしい。ワイヤの長さが狂ったりするからだ。これも経験済。
・・祖父が法隆寺金堂古材から彫り起こした聖徳太子像が手元にある。太子千三百回忌の御会に下賜された真正の古材だ。博物館の科学班の方はそれは科学的な証明はできないという。
・・聖徳太子(しょうとくたいし、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日)。1921年(大正十年)が太子千三百回忌。・・この木像の開眼式は、法隆寺聖霊院で行われた。1923年一月十八日。この時のお墨付きの証書が実は先日兄の家から出てきた。聖霊院で開眼式が行われたなどやはり特別な彫像であろう。
・・法隆寺の創建者聖徳太子の住まう聖霊院は、実は、鎌倉時代1284年に造られたもの。が、ここは特殊な場所だ。平安末期から鎌倉期にかけて太子信仰が盛んになったという。政治的には推古天皇の摂政という以上のものではない。・・摂政で思い当たるのは、この時期、摂政後京極良経。
・・太子信仰というのは、深追いはやめておく。
650
:
秋魚
:2016/04/17(日) 15:13:18
(無題)
・・自転車の整備。フロントディレーラのネジを締めたのは失敗。あれは調節ネジだった。おかげでフロントギアがかからなくなってしまった。取説をみて調整したがうまくいかない。駅前の自転車ショップに相談に行く。可動域となんとかで二箇所の調節が必要。18百yenかかるとのこと。・・自分でチャレンジすることにした。
・・ショップの人の話ではネジの調節だけでは駄目ということだった。で結局ネジの調節を再度試みた。すると試し乗りをしてギアチェンジがうまく行くようになった。がどうもしっくり来ない。夜再度の調節。・・翌朝再度の調節。可動ポイントというのがあってここに注油を試みた。するとディレーラの動きが良くなり異音もなくなった。完全ではないがこれが限界か。フロントのギアチェンジはあまりやらない。遠乗りをした時トラブルが無ければよい。
・・すごい地震が熊本大分に起こった。東日本の震災から5年目で九州に来た。津波と原発の事故は無いようだが、マグニチュード7前後のが三連で来た。外人の観光客がぐーんと増えていたもののこれで急減か。東京オリンピックなど関東に来たら最悪だ。
・・阿蘇山は巨大な外輪山をもつクレータ形の火山だ。こんな火山めずらしいのではないか。ここも巨大な隕石衝突があったやもしれぬ。
・・アデン湾にもクレータ形の火山がある。
651
:
秋魚
:2016/04/19(火) 22:27:15
(無題)
・・熊本の地震。断層のずれ30キロにおよび2mほど地面が切れている。阿蘇山のカルデラに達しているというからまだまだ恐い。かつてない大地震がこれからやってくるかも。これも朕の不徳にいたすところという元首がいたら涙がでるが。
・・涙といえば、後鳥羽院の歌に
露は袖に物思ふころはさぞな置くかならず秋の習ひならねど
・・この露は涙のことそうです。
乾く間もなく秋くれぬ露の袖 井月
・・いかにも俳句の切れ味するどし。
秋の露や袂にいたく結ぶらむ長き夜飽かず宿る月かな 後鳥羽院
・・院も負けてはいない。露に宿る月なら、いたいか?
・・
652
:
秋魚
:2016/04/22(金) 21:17:05
(無題)
・・思考が腐食される風で自転車に乗ることにした。五月には柳沢峠にチャレンジしてみたい。先日調整したフロントギアの様子見だった。コースは玉川上水取水口から多摩川CRをくだり立川日野の橋をわたり土方歳三記念館からモノレールに沿って多摩動物公園、多磨センターまで行きなれた温泉がある。コースはほどよいアップダウンスロープでまったく快適。ここに馴れてしまうと青梅街道など恐くて走れない。・・フロントギアチェンジは完璧。気持ち悪くなるほどよくかかる。購入店の最初の調整なんだったかと思う。リアギアは逆に今ひとつ。ここも自前で調節できそう。復旧不能になりそうでやめておく。・・もう春が進んで新緑の季節。厚着をして出て失敗。出発前の想念と体調はまったくあてにならない。この頑固な想念の切り崩しと体調は新陳代謝の更新です。昔はよかった。
竹芝伝説(「更級日記」より)
・・いかなる所ぞと問へば、「これはいにしへたけしばといふさかなり。国の人のありけるを、火たき屋の火たく衛士(えじ)にさしたてまつりたりけるに、御前の庭を掃くとて、『などや苦しきめを見るらむ、わが国に七つ三つつくり据えたる酒壺に、さし渡したるひたえの瓢(ひさご)の、南風ふ吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくを見で、かくてあるよ』と、ひとりごちつぶやきけるを、その時、みかどの御むすめ、いみじうかしづかれたまふ、ただひとり御簾のきはに立ち出でたまひて、柱によりかかりて御覧ずるに、このをのこの、かくひとりごつを、いとあはれに、いかなる瓢の、いかになびくならむと、いみじうゆかしくおぼされければ、御簾をおし上げて、『あのをのこ、こち寄れ』と仰せられければ、酒壺のことをいま一かへり申しければ、『われ率て行きて見せよ。さいふやうあり』と仰せられければ、かしこくおそろしと思ひけれど、さるべきにやありけむ、負ひたてまつりて下るに、ろんなく人追ひて来らむと思ひて、その夜、勢多の橋のもとに、この宮を据ゑたてまつりて、勢多の橋を一間ばかりこほちて、それを飛び越えて、この宮をかき負ひたてまつりて、七日七夜(なぬかななよ)といふに、武蔵の国に行き着きにけり。・・
・・ここは三田済海寺のあたりか。月の岬もこのあたり。
河陽宮【かやのみや】
嵯峨天皇の離宮。現在の京都府大山崎町にあった。河陽すなわち河の北,淀川畔の風光明媚な山麓一帯の地に営まれ,水瀬(みなせ)などでの遊猟の足場に使われた。のち荒廃し,行幸(ぎょうこう)があれば使用して宮名も存続することを条件に861年山城国府の建物となる。
帰朝の後、筑紫にて、送りに詣(ま)で来たる唐人の帰るにつけて、河陽県の妃の女王の君に 中納言
何にかはたとへて言はむ海のはて雲のよそにて思ふ思ひは
*
済海寺
済海寺(さいかいじ)は、東京都港区三田四丁目に存在する浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。江戸三十三箇所観音霊場の第26番札所である。札所本尊は亀塚正観世音菩薩。
東京都港区三田四丁目16番23号 位置 北緯35度38分37.4秒 東経139度44分29.3秒
・・更級日記に登場する皇女と武蔵国の武士との恋愛物語である竹芝伝説の「竹芝寺」の跡地に位置する。
・・1621年(元和7年)牧野忠成と念無聖上人によって創設。越後長岡藩藩主家牧野氏や伊予松山藩主家松平氏及びその定府家中が江戸での菩提寺として使用。
・・1859年(安政6年)にフランス総領事館となり、2年後には公使館となって1874年(明治7年)まで続いた。
・・1982年に済海寺にある旧越後長岡藩主家牧野家墓所の悠久山への改葬が行われるが、鈴木公雄を団長とする済海寺遺跡調査団による緊急遺骨調査が行われた。
653
:
秋魚
:2016/04/24(日) 17:50:08
(無題)
・・自転車の解体−組立て袋詰めを試みた。フレームに車輪を括りつけて固定するのがひさしぶりでちんぷんかんぷん。なんとか袋詰めまでもっていったがうまくはない。ネットでゴミ袋で代用したという記事があったが、恐れ入る。電車に乗せるには車輪をしっかり固定したい。チェーンの位置は一番軽い位置。インナーロウがベスト。リアディレーラだが逆の位置にして失敗。フレームが汚れてしまった。・・組立てた時後輪のブレーキが偏ってしまった。何故か?クイックレバーの固定位置でも調節できず。調節ネジを動かした。なんとか復旧。・・リアディレーラの調節ネジをすこし動かせて急に不安になった。ディレーラの調節はむずかしい。道路にでて試し乗り。やはりかかり具合がおかしい。すこしすこしネジを回して調節。一度はチェーンが外れたりした。復旧のさせ方もコツがある。あれこれやって深追いはしないことにした。・・ディレーラ調整はむずかしい。
昨日発艸庵
超然欲図南
用之而不勤
我聞之老耽
不急亦不緩
我聞之瞿曇
・・役の行者は母を鉢に載せて唐に逃れたという。隋の敬脱は天秤棒の一方に母を、一方に書物と筆を担って歩き、食事時になると母を樹下に坐らせ、村落に入り乞食をして食料を調え、母に供したという。
654
:
秋魚
:2016/04/26(火) 22:36:32
(無題)
・・日本書記の記述によると、木の種類によって、用途が定められているとのことです。
スギとクスノキは、浮宝(船)に、ヒノキは瑞宮(宮殿)、マキは死体を入れる棺として使えということです。法隆寺も薬師寺もすべてヒノキでできているそうです。
>・・法隆寺の伽藍は、1000年から1300年で伐採され、材料になっており、このような長い耐用年数のものはヒノキ以外にない。飛鳥の時代には、樹齢1000年、2000年のヒノキがあった。現在の日本では、木曽の樹齢450年が最高とのことで、これではとても堂塔ができない。ヒノキは、日本と台湾だけのもので、台湾では樹齢2400年から2600年のヒノキがある。」
・・樹齢1000年のヒノキを伐採、材料にすれば、1000年、2000年のものなら2000年もつ
・・大正十年(1921)太子千三百回忌。法隆寺金堂の古材一部取替えがあった。1300年という数に深い意味があるか。
>・・法隆寺の解体修理の時、屋根瓦を取り外すと今まで重荷がかかっていた垂木(たるぎ)が反り返ってきたそうです。昭和17年に五重塔、昭和20年に金堂の解体修理をするまで、創建以来この時まで部分修理はあったものの解体修理はされていません。鉋(カンナ)をかければ1000年以上経った今でも品のいいヒノキの香りがするそうです。
・・夏四月の癸卯の朔壬申に、夜半之後に、法隆寺に災けり。一屋も餘ること無し。大雨ふり雷震る。(670)
「法隆寺は焼けてはいない」
655
:
秋魚
:2016/04/30(土) 20:56:26
(無題)
・・自転車の微調整。ブレーキをすこし。ブレーキ鳴きを止めたい。方法は分かっているが、数度使用すると元の木阿弥。角度をつけて強く固定締めすればよいかも。
・・試し乗りというので、霞川サイクリングコースで今井の薬王寺までゆく。つつじはもう外れだろう。東青梅駅の横から成木街道にはいった。途中霞川にぶつかるはず。ここにでると左に折れて水源を遡ることにした。青梅丘陵の下を鉄道公園の方へ。もう細い小川というか水路。しかし水はきれい。さらにつづくが途中でバック。下流をめざした。・・この川やたらと鯉が多い。鴨などの水鳥も多い。天明の俳人加舎白雄がたずねたのはこの霞川であろう。井月もここに入ったか。谷野の真浄寺には必ず来ている。
・・自転車のギアチェンジは完璧。ブレーキももう鳴かない。この状態で奥多摩から懸案の柳沢峠へ。近いうちに。・・伊那にいった時は、予行とか直前まで準備はよくした。今度も最低限体力をつけてのぞみたい。何が起こるかわからない。
・・薬王寺は道に迷って何度か人に尋ねた。おかしなことに谷野の真浄寺と間違えていたり。自分もぼけましたか。・・参道の麓で野菜を売っていたはず。あった、あった。帰りに買おう。薬王寺は開基が鎌倉期末でそれでも本尊の薬師仏は聖徳太子作というが、ほんとかしら。人が多いけど花は盛りを過ぎています。さっと歩いて帰ることにした。・・野菜はエシャレットとラディッシュ。
・・青梅新町の牡丹園に寄った。ここも盛りを廻ったか。
*
露とくとく心みに浮世すゝがばや
若しこれ、扶桑(ふさう)に伯夷(はくい)あらば、必ず口をすゝがん。もし是、許由(きょいう)に告げば、耳をあらはむ。
山を昇り坂を下るに、秋の日既(すでに)斜になれば、名ある所々み残して、先ず、後醍醐帝の御廟を拝む。
御廟(ごべう)年経て忍ぶは何をしのぶ草
やまとより山城を経て、近江路に入て美濃に至る。います・山中を過て、いにしへ常盤の塚有。伊勢の守武(もりたけ)が云ひける「よし朝殿に似たる秋風」とは、いづれのところか似たりけん。我もまた、
義朝の心に似たり秋の風
・・それにしても気になるのは、常盤の墓。
>・・義経は一連の戦いで活躍をするものの、異母兄である頼朝と対立、没落し追われる身の上となる。都を落ちたのちの文治2年(1186年)6月6日、常盤は京都の一条河崎観音堂(京の東北、鴨川西岸の感応寺)の辺りで義経の妹と共に鎌倉方に捕らわれている。
・・常盤について、その後の詳細は不明である。侍女と共に義経を追いかけたという伝承もあり、常盤の墓とされるものは岐阜県関ケ原町、群馬県前橋市、鹿児島県郡山町(現鹿児島市)、埼玉県飯能市と各所にある。さらに、飯能市に隣接する東京都青梅市成木の最奥部、常盤の地には常盤が人目を避けて一時隠れ住まわされたという伝承があり、地名は常盤御前に因む
・・飯能あたりがそれらしい。関が原は無い。
656
:
秋魚
:2016/05/02(月) 01:06:02
(無題)
・・江戸の頃、高尾というのは吉原の名妓のことだ。高尾太夫。大坂新町が夕霧太夫。京の島原が吉野太夫。高尾は襲名されて何代か浮名を流した。おもしろいのは、二代目万治高尾。いろいろエピソードが多い。陸奥仙台藩主・伊達綱宗の意に従わなかったために、三叉の船中で惨殺されたというのはその一つ。伊達騒動の種にもなる。信憑性はないが、高潔な元政上人との色恋沙汰もある。
>・・江戸時代の日蓮宗の僧・元政(げんせい、1623-1668)。俗名を石井吉兵衛。京都の武
士の家に生まれた。13歳で彦根藩井伊直孝に仕える。19歳で病により帰郷する。泉涌寺の周律師に出家を断られ、江戸に赴く。江戸詰めの頃、吉原二代目三浦屋・高尾太夫と恋仲となる。だが、仙台藩主・伊達綱宗の太夫への横恋慕により、太夫は操を立て抗し惨殺(自死とも)されたともいう。
・・まことの話なら、おもしろいのは元政上人。井月は京の深草瑞光寺を訪ねて元政を慕ったそうだが、この高尾との恋話を聞いていたと思われる。武士がどういうものか、妓楼の遊女がどういうものかもよくみていた。
出て見る野守もつむやとぶ火野の雪まの若なけふもすくなき 信尋
「後鳥羽院四百年忌御会」寛永十五年(1638) 巻頭は後水尾院の霞で、
こひつゝもなくや四かへりもゝちどり霞へだてて遠きむかしを 院
この若菜の題の第二を詠んだのが、近衛信尋。
>・・慶長4年(1599年)5月2日、後陽成天皇の第四皇子。八條宮智仁親王の甥。幼称は二宮(にのみや)。母は近衛前久の娘・前子。母方の伯父・近衛信尹の養子となる。
和歌に極めて優れ、叔父であり桂離宮を造営した八條宮智仁親王と非常に親しく、桂離宮における交流は有名である。
・・逸話だが、六条三筋町(後に嶋原に移転)一の名妓・吉野太夫を灰屋紹益と競った逸話でも知られる。太夫が紹益に身請けされ、結婚した際には大変落胆したという話が伝わっている。
こちらは吉野太夫。一代限りだそうだ。
信尋も古今伝授を受けたが、三条西・幽斎流ではなく宗祇から近衛尚通へという近衛流伝授であったという。
657
:
秋魚
:2016/05/03(火) 02:05:54
(無題)
・・山頭火ふうにえいっ!といって旅に出る。ネットで甲州ツーリングの記事をみたら眼を瞠るものがあった。熊谷、飯能、青梅、奥多摩、丹波山、柳沢峠、塩山、甲府、身延、昇仙峡、笹子峠、上野原、檜原、秋川・・・熊谷 ざっと三泊四日で廻ってる。青梅街道は411でこの柳沢峠越えだけでもハードであろう。この方、最初から輪行は外しているみたい。帰りの20号甲州街道で笹子越えから大月あたりまでよほど嫌な思いで走ってる。よくわかる。この20号を避けて上野原から甲武峠へ廻ったというのもすごい。・・富士川沿いに身延の久遠寺までしっかり廻った。頭が下がる。
・・自称「古今伝授ライン」「火山峠ライン」を振り出しに、連句なら発句・脇の確度で柳沢峠越えが集中するメインであるだろう。
・・思考はこれ以上すすまない。横しぐれでも出てゆくべきか。体調はまあまあだが以前より体力は落ちている。頼るは気力のみ。丹波山までのトンネルも恐くはない。それからのアップダウンスロープ。これはきつそう。初日は柳沢峠を越えて塩山の大菩薩の湯に入れれば一安心。午後2時くらいには着きたいが。甘いか。東山梨の八日市場跡で芭蕉句碑をみる。笛吹川をこえて石和健康ランドは夕方までにゆけるか。勝沼等々力の万福寺には聖徳太子の黒駒の足跡がある。これは帰路に。
658
:
秋魚
:2016/05/04(水) 18:19:48
(無題)
・・よく晴れた。出発を期する前に、足馴らしに出た。青梅坂を越えて小曽木から成木のポタリング。安楽寺という成木ゆかりの寺がある。行基がざわざわ鳴る楠を調伏したという因縁だ。途中岩蔵温泉街のコンブリオという喫茶店を下見した。庭園がいい。帰りに寄ろう。・・安楽寺は地図では成木一丁目。岩井堂をこえて西にゆけどなかなか見つからない。いくつか寺社はあるが、安楽寺ではない。・・たまらず通りがかりの人に尋ねる。もう近いですよ。土地の人ですか。もとは山梨塩山です。え、明日行きますそこへ。ほー、奥多摩から大菩薩ラインですか。自転車はたいへんですよ。(おおかたの人は大変な道という)塩山は金山がありました。・・そうこういううちに安楽寺の参道が見えてきた。どうもありがとう。安楽寺はここらで一番大きな寺という。季節には桃の花畑がいい。杉の巨木もある。・・寺だが、宗派がわからない。元禄六年(1693)の書院造りの建物で江戸期のものは最古という。なかなか立派です。・・俳人歌人が立ち寄って句を残したというのもない。しかし行基が訪ねたというのはありそうだ。
・・足馴らし。ギアは着実にかかる。ブレーキも問題なし。タイヤは空気の圧が思案のしどころ。いつぞやはパンパンに入れて失敗した。なんとしてもパンクは避けたい。安楽寺は桃の花の頃にまた来てみたい。
・・思いついてポタリングした。小曽木、成木はほんとに近場。岩倉温泉には洒落たカフェがあった。また来ますといいながら訪ねていない。名前は・・もうひとつコンブリオというカフェレストランがある。外からみたが庭がきれい。このへんはほんとに田舎。知ってる人が車で訪ねてくるようだ。ちょっと躊躇ったがコーヒーでもいただこう。庭のテラス席があって先客がお二人。白い芳香をはなつ花があって、何の花ですか?先客のご婦人に声をかける。ナニワイバラ。聞きなれない名でもう一度。ナ、ニ、ワ、イバラ。・・はーバラの種ですね。よい香りです。
・・つれづれに話をする。わたしは近場ですけど、相方はけっこう遠く車できてる。庭の花をみによく来るそうだ。店の中の入り方もわからず。行って来ましょうか?いえ自分で行きますといおうとしたが、思わず、ええお願いします。お年寄りに仕事させるなんて無粋でしたね。・・食事もできるらしい。帰ってからネット検索したら、洒落たよい店とのこと。ナニワイバラも調べたら中国原産、1700年頃渡来したらしい。
・・この日はふたつ。芭蕉忌年ゆかりの事物があった。安楽寺本堂1693年、ナニワイバラ1700年。
659
:
秋魚
:2016/05/07(土) 16:55:49
(無題)
・・このままでは一生のトラウマ。柳沢峠。朝6時には出発するつもりが7時近くなってしまった。天候だけの相談で5月の連休真っ盛りになった。これも一興か。イタリアのブリンデシから8月の真っ盛りにフェリーでギリシャに渡った。あの殺人的な混雑と比べればどうということもあるまい。軽い気持ちでいたが、実際出て見るとマイカーを飛ばしてバイクライダーたちも群舞してまあ青梅街道は騒がしいのなんの。みな天気の良い休日の考えることは同じか。奥多摩までもはらはらどきどき進んだ。こんな出鼻でくじかれてはたまらない。・・奥多摩の駅から奥多摩湖まで411はトンネル多く恐い道だが、昔道という側道がある。ここも経験済みで最初からここに入ることにした。ところがこれが失敗。昔道へ入るところを間違えてしまい途中で土地の人に聞くと先にある階段を自転車を持ち上げてあがれば昔道です。とかなんとか。やむなく進むとその階段のあたりに熊蜂がぶんぶんしてる。自分の縄張りとでもいいたそうで他の虫が飛んでくると追撃して追い出す。細い道でその階段をあがるにはどうしても熊蜂に直撃するふうだ。そのうちいなくなるだろうと思って退避したが十分ほどしてもまだ滞空して去らない。引き返すことも出来ず困ったものだ。・・別の虫を追っかけて一時姿を消した間隙に思い切って突っ走った。なんとかここをクリア。しかし余計な時を使った。さらに悪いことにこの昔道まともに奥多摩湖の方には進まない。進んでるつもりが駅の方だったり。結局ぐるぐる遠回りしてやっと本道にはいったと思ったらまたおかしくなって回避しようとした白鬚トンネル入口にでた。あきらめてトンネルを走る。この日はバイクが爆音をあげてトンネル内は大音響。こわいのなんの。
・・トンネルをいくつか抜けて奥多摩湖畔に着いた。ライダーが大挙して集まってる。ここから奥多摩周遊道路かそのまま411を柳沢峠の方へか、ここまでのライダーもいるだろう。チャリダーは大挙してというのはない。それでもよく出会う。・・競輪選手のレース用のシャツがあって、今日は、これを着用。これは目立つのかチャリダーはみなこんにちわという。・・しかし奥多摩湖に着くまでに余計なエネルギーを使った。柳沢峠なんてとても覚束なくなった。このあと湖の外れの深山橋。ここから丹波山村まではいつかチャレンジした。かなりの急坂もある。ここにくるチャリダーは本格的ないい自転車に乗ってくる。ナルシマのシャツのサイクリストもいて。クロスバイクのママチャリ風なのは自分くらい。着ているシャツだけは立派なものだが。丹波山村の食堂で軽食をと思ったが、あまりに人多くごちゃごちゃなので、自前の稲荷寿司で休憩。水分を補給して、これから未知の柳沢峠までたいへんな道だという。勇気をだして出発。
・・実はここから柳沢峠まであまり憶えていない。アップダウンスロープはさほどでないが基調はアップ。トンネルがいくつかある。一番奥の峡谷の道は進行方向左手がすぐ断崖絶壁でとても覗く気もしない。右手は絶壁。こんなところによく道をつくった。道路の左半分はいつ崩落してもおかしくない。写真を一枚もとらなかったのは、一刻もはやくここを走りぬけたい一心。道路も亀裂がはいっていたり、ともかくこわい。
・・予期していた通りなかなか足が廻らなくなった。足着きで何度か休みを入れるようになった。後ろから来たチャリダーに何度も追い越される。かまわないことだ。歩いても完走が目標だから。しかしクロスバイクでチャレンジとは。誰もが何かいいたそう。一之瀬という集落に出てそこで休んでいるサイクリストに声かけた。柳沢峠はまだまだ?あと6キロくらい。ここまできたら引き返さない方がいい。峠からの下りは快適そのものですから。ダウンヒルはなんともないようだった。・・なんでも杉並から来たそうで経験者のようだ。このあたりのサイクリストはほぼプロみたい。でも女性のサイクリストにもよく会った。なんかしぶとく乗りこなす。自転車はやはりよいもの乗ってる。一日だけ足馴らしをしてにわかサイクリストの自分など及びもつかない。・・でもここは相当のプロでもきついはず。
・・丹波村から出たのが11時過ぎ。柳沢峠に到着したのが2時半くらいだったか。ここは富士山がよく見える。写真をとったが光ってよく写らない。眼では大きく見えても写真では小さな富士だ。近くにいたご婦人に聞くと、ホワイトバランスを調節します。そんな調節があったのか。で、彼女はよく撮れたようだ。娘さんらしきが「さっきママチャリでここまで来た人いたよ」という。それって自分のことではないか。フラットハンドルのクロスバイクではママチャリに見えるだろう。タイヤも太い。(これって後々のお笑い種になった)ママチャリで柳沢峠を踏破した。なんて自慢かも。
・・さあもう自転車に乗るのが嫌になった。峠の茶店もあったがパス。さていよいよ下山。御岳山のダウンヒルで馴れているから、壮大なダウンヒルだが快適なばかり。今までの苦労が一気に報われる。立体橋の道もあってよくこんな道をつくったと感心する。塩山の街まで一気か。だいぶ下ったあたりで大菩薩の湯という温泉があるはず。ずんずんいくとあった、あった。温泉がいいのは、人がたくさんいることだ。人がいるだけでうれしい。・・よくマインドの発想を変える生き方をいう人がいるけれど、マインドというのはあてにならない。もの、人、環境の直接的なリラクゼーションが無ければ、マインドも育たない。・・この日の夜は石和の健康ランドにいた。お風呂甲子園というので2連覇とか。実際、あらゆる「もの」の方法でリフレッシュ、リラックス、ヘルシーを追求するのは、さすが。・・大菩薩の湯は天然温泉。アルカリ性単純泉。ペーハー10以上ある。
・・国道411は柳沢峠を下って塩山に入る。大菩薩ラインというが、昔の大菩薩峠を越える登山道は車は走れない。裂石温泉というのは昔武田信玄の秘湯であったそうでちょうど大菩薩峠への登り口にある。中里介山の記念館もここにあり、生家は羽村の玉川取水場あたりというから、すっかり「大菩薩峠」の人になったようだ。甲斐の国の鬼門にあたるのは此の塩山。金山もあり塩山もあり水晶もとれるとか、それはどこかわからない。大菩薩ラインこんなイメージの暗い道はない。
・・大菩薩の湯を下ってゆくと明治の女流樋口一葉の生家のある街を通る。この辺の生まれなんだ。塩山でもやや山の手になるか。作家にならずとも女流の情念の育ちは思い及びがたきものがある。「たけくらべ」はたしか隅田川河畔の下町の話ではなかったか。情念の育ちを古いといって切り捨てるのが今の世かもしれぬが、自身は古いものしか興趣がわかない。うっすらと一葉の情念を想起しながら411を下りきった。
・・塩山駅の隣は東山梨。この駅のすぐ近くに江戸の頃は八日市場がひらけていた。俳人産科医の早川漫々の住んだ町だ。父親が早川石牙、子が安田雷石。いづれも医師で俳句をものしている。この八日市場跡に芭蕉の句碑があるはず。雷石が建てた。・・東山梨の駅を尋ねてまわり近くまできて八日市場跡を尋ねた。で、思う通りに見つけられた。
?? 明ほのやまた朔日に子規
660
:
秋魚
:2016/05/08(日) 12:50:42
(無題)
・・もうくたくたに疲れた。休憩できるならどこでもよい。石和健康ランドは会員登録したら無料入館券が送られてきた。気前のいい健康ランド。石和なのに天然温泉でないのが不満だがその分健康とヒーリングをとことん追求してるとみる。お風呂甲子園二連覇とか。朝までいられるのが魅力。自転車ツーリングなら仮眠でけっこう。柳沢峠越えの殺伐としたツーリングの後では騒がしい健康ランドは救い。インターネットも可能。みなとみらいの万葉倶楽部に近いか。温泉の評判がよくなるかどうかは後はレストランによる。ここの和心という店はよくつくってある。同じ生ビールでも美味いこと限りなし。
・・天気予報では急に明日は雨模様になった。さあどうするか。身延の久遠寺まで行く予定もあった。甲斐上野のみたまの湯もおもしろそうだった。身延にむけて行けるとこまで行って考えることにした。朝はやくに健康ランドを出た。
・・身延線に沿った道。鰍沢というところで富士川の川沿い国道52号へでるか、すこし東へ迂回して山の中に入り峠をこえて線路沿いをめざすか。方法は二つ。ネットでこの国道はとてもきついというので、峠越えの道を選んだ。・・鰍沢に行くまで140という雁坂道を笛吹川に沿っていった。ところが途中でせまい車道一本になり車も多い。やむなく沿道を探した。田んぼなどある道を人に聞き聞き、うわっと赤い花畑にでた。芥子の花?でも観賞用の花でしょう。
・・午前中雨はもちそうだ。身延山めざしていけるとこまで行こう。雨になったら身延線で輪行すればよい。鰍沢から東へ山越えの道。けっこう大回り。トンネルもある。下部温泉というところまで行くはず。峠を二回越えたか、憶えていない。帰りはこの道走りたくない。火山峠に似ている。
・・下部温泉から身延の駅までまだある。富士川の両岸に道がある。右岸は国道で敬遠。あとでわかったが、身延山に近いあたりでは国道52も道幅がひろく快適な歩道もある。この国道甲府からは左手が富士川の川原で、車も多くやめた方がいい。帰路はいいかも。・・というわけで帰りはこの道を走った。ともかくダンプが多い。右も左もまったく嫌な道。
・・そうこうして身延山の入口まできた。
・・身延山詣での客が多いと想像したが、いたって閑静。久遠寺は日蓮宗の総本山。中山の法華経寺が総本山かと思っていたが、よくわからぬ。日蓮の墓があるのはこちらの方。千葉の生まれで、清澄山にも大きな寺があるらしい。法華経を一義におく宗派は多くあり、日蓮はその総元締めならこの久遠寺は大本山。もっと人が集まってもよいはず。時節が外れていたか。大門をくぐると長い石の階段があり菩提梯というが287段ある。南無妙法蓮華経になぞらえて7階梯のつくり。えっちらえっちら登るのが供養らしい。行くか行かぬか思案して、上から降りてきた老夫婦に様子を尋ねると、奥の院まですべてめぐってきたという。せっかく来たからすべて拝んで行こうということらしい。若い頃は夫婦手をとって鳳来寺の石段も登ったという。鳳来寺はすごいですよ。芭蕉は登りきらなかった。羽黒山も登ったとか、ともかくすごい参拝客だ。・・それでこの階段もぜひ登るようにすすめてくれたが、ハイといって一区画だけ進みました。五重塔や大伽藍には興味なし。身延山まで来たことにします。・・そして昼食をとっていると、ぽつりぽつりと雨が来た。・・身延の駅にいって輪行に切り替えるかさてと迷ったが、微雨でしょう。このまま国道52で石和までもどることにした。恐怖の52でしたが、歩道も完備されておりさすが国道という感じでしばらくはよいサイクリング。後ろから雨脚が追いかけられてくるふう。甲府までなら50キロ、鰍沢まででもけっこうある。みたまの湯に寄るなど予定をすべてキャンセル。石和の健康ランドまでもどることにした。しかし52号は車の数も多く二度と走りたくない道だ。特に対向車線は最悪。ネットの記事の人はよく走った。・・石和から身延線沿いに久遠寺まで来ただけでよい巡礼になった。
・・感動の二日間。柳沢峠越えは発句。身延久遠寺行きは脇、といったところ。芭蕉「更科紀行」で姨捨山の月見が発句。善光寺詣でが脇、といったところ。ここに深いものがある。わかっていたのは翁と井月のみ。・・さて三日目は帰路。楽しみは自転車をたたんでの輪行。石和駅の先から411に出て、勝沼インターチェンジこのあたりに等々力の万福寺がある。ここに寄ってまた芭蕉句碑がある。聖徳太子の馬蹄石もある。健康ランドのフロントでみっちり行く道を案内してもらう。ここの健康ランド、サービスは抜群。さすが甲子園連覇だけある。山梨駅から140の裏の「ほったらかしの湯」も思案したが、温泉は疲れて入るのが一番。ここもパス。万福寺によって帰路輪行に決めた。ともかく等々力の交差点に出なければ。ポイントで人に尋ねるのがうまくなった。無駄の無い情報がいつも得られる。で万福寺もすぐにわかった。
661
:
秋魚
:2016/05/12(木) 13:07:37
(無題)
・・自転車に乗りながらの情報はやはり粗雑なところある。塩山の大菩薩ラインをくだって一葉の里とかの文字が目に入ったから、てっきりここは明治の女流樋口一葉の生地と認識した。
「・・東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)・・樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現:山梨県甲州市塩山)の長百姓。・・父の則義も農業より学問を好んだ。多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
樋口奈津(戸籍名)
樋口夏子
1872年5月2日生誕 東京府内幸町
生誕は東京だが、塩山から両親が駈落ちででてきた。ほぼ塩山の情念を継いでいる。
・・少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
・・名家の令嬢であった田辺龍子(三宅花圃)は「思い出の人々」という自伝の中で、「萩の舎」の月例会で、友人と床の間の前で寿司の配膳を待ちながら「清風徐ろに吹来つて水波起らず」という赤壁の賦の一節を読み上げていたら、給仕をしていた猫背の女が「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ」と口ずさんだのに気付いて、「なんだ、生意気な女」と思っていたら、それが一葉で、
「清風徐ろに吹来つて水波起らず
「酒を挙げて客に属し、明日の詩を誦し窈窕の章を歌ふ
徐に柳のかぜや小鮎くみ 井月
また、発見!
よみ倦ぬ青梅どきや三国志
・・青梅の多摩川で「赤壁の賦」を思い浮かべていたのがわかる。
662
:
秋魚
:2016/05/16(月) 14:57:05
(無題)
・・自転車の解体袋詰めを塩山の駅でやってみた。勝沼の駅はスペースがなく輪行はしづらいと何かで読んだ。勝手知った塩山へ。411をそのまま行けばよい。・・塩山駅の駐輪場の脇は人通りも少なく格好の場所がある。だいぶ手馴れては来たが最終の詰めがまだ甘い。きれいに車体を収納できないのはクロスバイクの限界もあるが、もうすこしうまくなるはず。車内にもちこむにクレームが無いだろう程度でまとめる。
・・勝沼の戦いというのがあった。
>・・甲州勝沼の戦い(こうしゅうかつぬまのたたかい、慶応4年3月6日(1868年3月29日))は、戊辰戦争における戦闘の一つ。・・同年3月4日から新政府軍の土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、新政府軍3,000を率いて甲府城に入城した。・・新選組は甲陽鎮撫隊と名を改め、近藤勇は大久保剛(後に大和)、副長の土方歳三は内藤隼人と変名して、3月1日に江戸を出発し甲州街道を甲府へ向かった・・甲陽鎮撫隊は勝沼から前進し、甲州街道と青梅街道の分岐点近くで軍事上の要衝であるこの地に布陣した。300いた兵は恐れをなして次々脱走し、121まで減ってしまったという。・・3月6日、山梨郡一町田中村・歌田(山梨市一町田中・歌田)において甲陽鎮撫隊と新政府軍との間で戦闘が始まった。戦況は鎮撫隊側が不利で、新政府軍からの砲撃で大砲は破壊された。のち、近藤は勝沼の柏尾坂へ後退し、抗戦を続ける。
・・等々力の交差点から大月方面へすすむと柏尾坂ですね。このあたり一帯戊辰戦争の戦場だったようです。
・・甲州の葡萄つくりは早川漫々の知恵だとも聞いている。
663
:
秋魚
:2016/05/22(日) 03:43:48
(無題)
いなづまやとゞまるところ人のうへ?? 白雄
・・相模の大山不動堂の参道にこの句碑があるという。大山は自転車で廻ったところだが、この碑はまったく気がつかなかった。
寛政5年(1793年)9月13日、加舎白雄の三回忌に當所春秋庵社中建立。
・・芭蕉の百回忌年ではないか。偶然か。
世ははかな電光石火酒くまん
・・おなじく『葛の葉表』(中村伯先編)に載っている。
白雄の代表作
人こひしひともしごろをさくらちる
・・東京墨田区の白鬚神社に句碑がある。この冬木母寺を訪れた時すぐ近くにあったはず。これもまったく気がつかない。よし見つけたとしても文字は磨耗してほぼ読めないだろう。
「白を坊は国を威すに兵革をそなへて、かつて人を和するの玄徳なし」・・道彦による白雄評が有名だが、過激派か。
・・八王子で春秋庵でなく松原庵を継いだ榎本星布の存在が気になる。白雄に私淑した。
『葛の葉表』には
吹いるゝ梅を栞や宇治拾遺
・・
蝶老てたましひ菊にあそぶ哉
散花の下にめでたき髑髏かな
咲花もちれるも阿字の自在哉
『葛の葉表』
天明5年(1785年)、中村伯先は芭蕉の句碑を建立。加舎白雄書。
天明6年(1786年)、記念集『葛の葉表』(伯先編)刊。自序。白雄跋。
白雄、暁台、碩布、星布、闌更、蝶夢ら多士済々。・・世は天明の大飢饉真っ盛り。
天明の大飢饉(てんめいのだいききん)とは、江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉である。
>・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせた。火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、日射量低下による更なる冷害をももたらすこととなり、農作物には壊滅的な被害が生じた。・・天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。
・・被害は東北地方の農村を中心に、全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、死んだ人間の肉を食い
・・被害は特に陸奥で酷く、弘前藩(津軽藩)の例を取れば死者が十数万人に達したとも伝えられており[3]、逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況
・・異常気象の原因は諸説あり完全に解明されていない。有力な説は火山噴出物による日傘効果で、1783年6月3日 アイスランドのラキ火山(Lakagígar)の巨大噴火(ラカギガル割れ目噴火)と、同じくアイスランドのグリムスヴォトン火山(Grímsvötn)の1783年から1785年にかけての噴火である。これらの噴火は1回の噴出量が桁違いに大きく、膨大な量の火山ガスが放出された。成層圏まで上昇した塵は地球の北半分を覆い、地上に達する日射量を減少させ、北半球に低温化・冷害を生起し、天明の飢饉のほかフランス革命の遠因となったといわれている。
・・天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が噴火、浅間山の天明大噴火は8月5日から始まり、降灰は関東平野や東北地方で始まっていた飢饉に拍車をかけ悪化させた
等順(とうじゅん、1742年(寛保2年) - 1804年(文化元年)3月25日)は、江戸時代の大僧正。 東叡山寛永寺護国院第13世住職、信州善光寺別当大勧進第79世貫主、養源院第11世住職を歴任。
・・1782年(天明2年) 地元信濃国出身者で近世初めて、信州善光寺別当大勧進第79世貫主に就任。
1783年(天明3年) 浅間山大噴火被災地である上野国鎌原観音堂(現群馬県嬬恋村)へ赴き、念仏供養を30日間施行。食糧等を物資調達、被災者一人に白米5合と銭50文を3000人に施す。
善光寺に戻り、天明の大飢饉飢民救済のため、善光寺所蔵の米麦を全て蔵出しして民衆に施す。救済を受けた人々が等順の恩に感謝して、集まり掘ったのが大勧進表大門前にある放生池。[1][2][3]
1784年(天明4年)2月 融通念仏血脈譜(お血脈)を新たに簡略化して作成、参拝者へ配布を始める。等順は生涯でお血脈を約180万枚配布。落語の題材にもなり、善光寺信仰の全国的普及
・・善光寺を世に知らしめたのはこの等順。お血脈信仰の流布もこの等順。
・・1783年8月5日(天明3年7月8日) 大噴火。天明噴火 噴出物総量4.5×108m3、火山爆発指数:VEI4。
4月9日(旧暦。以下この項目では同じ)に活動を再開した浅間山は、5月26日、6月27日と、1か月ごとに噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。
6月27日からは噴火や爆発を毎日繰り返すようになっていた。日を追うごとに間隔が短くなると共に激しさも増した。
鬼押出し溶岩流の範囲
7月6日から3日間に渡る噴火で大災害を引き起こした。最初に北東および北西方向(浅間山から北方向に向かってV字型)に吾妻火砕流が発生(この火砕流は、いずれも群馬県側に流下した)。続いて、約3か月続いた活動によって山腹に堆積していた大量の噴出物が、爆発・噴火の震動に耐えきれずに崩壊。これらが大規模な土石雪崩となって北側へ高速で押し寄せた。高速化した巨大な流れは、山麓の大地をえぐり取りながら流下。鎌原村(現嬬恋村大字鎌原地域)と長野原町の一部を壊滅させ、さらに吾妻川に流れ込んで天然ダムを形成し河道閉塞を生じた。天然ダムは直ぐに決壊して泥流となり大洪水を引き起こして、吾妻川沿いの村々を飲み込みながら本流となる利根川へと入り込み
・・天明期の俳人は、浅間の噴火と大飢饉がトラウマとなった。
664
:
秋魚
:2016/05/25(水) 01:30:33
(無題)
太田道真禅門のかたへ七朝の祝言に遣し侍る 長歌
あら玉の 年はむかしに 立かへり 世ものとやかに 四方のうみ 八のあつまの 国つかせ 花を匂はす ことのはに 六くさ七くさ つむ人の よはひも遠き むさしのゝ うけくる花の うけかたき 身は敷島の あま人に むまれきつゝも うきしつむ うき世の旅に 年をへて 雲井はなるゝ 老鶴の 羽杖つかれて 音になくを 千代のともつる あはれとて やとりをかせる 松かえを おなしみとりの かけたかき 山田の杉の いろかへす 君と人との 身をあはせ ちとせをかはし つかえなん やとる此宿 万代はへん
かへし歌
七草やことのはくさにはるをつむ千とせそ遠き武蔵野のはら
心敬が太田道真に贈った歌
文明三年(1471)
一月四日 東常縁(とうのつねより)が宗祇(そうぎ)に古今和歌集に関する秘説を教授(古今伝授)
九月十二日 桜島大噴火
665
:
秋魚
:2016/05/25(水) 17:55:52
(無題)
安積山 N37度27分10秒 E140度23分28秒
長岡市今朝白 N37度27分01秒 E138度51分37秒
福島県双葉郡双葉町歴史民族資料館 N37度27分01秒 E141度00分26秒
・・E138度51分37秒に沿って南下すると、
青梅真浄寺−郡上大和妙見宮の古今伝授ラインと交差するのは、青梅街道411の柳沢峠ラインのもっとも北よりで接する地点。
青梅真浄寺 北緯35度48分18秒 東経139度17分18秒
妙見宮 岐阜県郡上市大和町牧814-1??北緯35度48分42.48秒 東経136度55分24.79秒
因みに、大菩薩峠は、北緯35度44分9秒 東経138度51分12秒
ここからやや奥多摩よりに入った地点で、交差。
沼津 高尾山古墳 北緯35度7分22.73秒 東経138度51分40.22秒
三島大社 北緯35度7分20.66秒 東経138度55分7.79秒
丹波山温泉 山梨県北都留郡丹波山村890 北緯35度47分23秒 東経138度55分19.9秒
666
:
秋魚
:2016/05/26(木) 21:30:58
(無題)
・・西行、芭蕉。この二人「古今伝授」とは無縁。西行は歌詠みだが師らしきはいない。ほぼ漂泊と独詠の歌人。芭蕉は北村季吟という師がいたが「古今伝授」はない。季吟は松永貞徳から「古今伝授」もどきがあったらしい。貞徳自身も細川幽斎からの伝授もどきといわれる。古今伝授が体をなすのは、歌人連歌師俳諧連歌師までで生粋の俳諧師には形が無い。
・・柳沢吉保は北村季吟から古今伝授を受けた。
>柳沢氏は清和源氏の流れを引く河内源氏の支流、甲斐源氏武田氏一門である甲斐一条氏の末裔を称し[注釈 1]、甲斐国北西部の在郷武士団である武川衆に属した。
・・元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[31]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている[32]。
・・翌宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家の綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城と駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる
・・同年2月19日の甲府城受け取りは家臣の柳沢保格・平岡資因らが務めている[36]。3月12日、駿河の所領を返上し、甲斐国国中3郡(巨摩郡・山梨郡・八代郡)を与えられる
・・同年4月10日から4月12日には甲斐恵林寺(甲州市塩山小屋敷)において武田信玄の百三十三回忌の法要を行なっている
・・宝永6年(1709年)2月19日(3月29日)、将軍綱吉が薨去したことで、幕府内の状況は一変した。代わって新将軍家宣(綱豊)とその家臣である新井白石が権勢を握るようになり、綱吉近臣派の勢いは失われていった。
・・1714同年11月2日に死去・・享保9年(1724年)3月11日に吉里は大和国郡山への転封を命じられ、永慶寺の大和郡山移転に伴い同4月12日に吉保夫妻の遺骸は恵林寺(甲州市塩山小屋敷)へ改葬され
柳沢 保光(やなぎさわ やすみつ)は、江戸時代中期の大名。大和郡山藩第3代藩主。1768年(明和5年):甲斐守
・・やなぎさわ やすみつ江戸後期の大和郡山藩主。初名は安信、号は尭山、甲斐守と称する。茶道を片岡宗幽に、和歌を日野資枝に学び、御家流の書を能くするなど諸芸に秀でた。
・・日野資枝から古今伝授を受けている。
青梅街道の柳沢峠は江戸の柳沢家のゆかりということか。
・・青梅の文人根岸典則、浄月律師は、日野資枝の門人として京に入ったというが、やはり甲州裏街道で大菩薩峠を越えたのではないだろうか。
667
:
秋魚
:2016/05/28(土) 10:37:20
(無題)
・・
第111代 後西(ござい)天皇 寛文四年五月(1664)、後西天皇が御水尾法皇より古今伝授を受けられた
第112代 霊元天皇 天和三年四月(1683)、霊元天皇が御西天皇より古今伝授を受けられた
第115代 桜町天皇 延享元年5月(1744)、桜町天皇が烏丸光栄より古今伝授を受けられた
第116代 桃園天皇 宝暦10年2月(1760)、桃園天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた
第117代 後桜町天皇 明和4年2月(1767)、後桜町天皇が有栖川官職仁親王より古今伝授を受けられた
第119代 光格天皇 寛政9年9月(1797)、光格天皇が後桜町天皇より古今伝授を受けられた
第120代 仁孝(にんこう)天皇 天保13年5月(1842)、仁孝天皇が光格天皇より古今伝授を受けられた
・・いわゆる御所伝授の系譜。
・・有栖川宮職仁親王(ありすがわのみやよりひとしんのう)
霊元天皇の皇子としては兄尊昭法親王に次ぎ歌道に優れ、桃園・後桜町・後桃園の3天皇をはじめとして300名に伝授した。父から受け継いだ書道にも造詣が深く、有栖川流書道の創始者
・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?
第121代 孝明天皇
第122代 明治天皇
・・このあたり古今伝授は詳らかでない。ただし明治天皇は御製歌は多くある。
・・有栖川宮職仁から、300人に古今伝授?
- 正仁親王 - 職仁親王 - 織仁親王 - 韶仁親王 - 幟仁親王 - 熾仁親王 - 威仁親王
* 戊辰戦争 ・・新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍した。
・・旧幕府軍は近藤勇らが率いる甲陽鎮撫隊(旧新撰組)をつくり、甲府城を防衛拠点としようとした。しかし東山道を進み信州にあった土佐藩士・板垣退助、薩摩藩士・伊地知正治が率いる新政府軍は、板垣が率いる迅衝隊が甲州へ向かい
* 有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期〜明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。
・・御所伝授の系は、立派な軍人ですな。
・・和宮親子内親王と婚約していたことで知られる。
668
:
秋魚
:2016/05/29(日) 14:20:28
(無題)
鶯の水田にうつる山の影
春の行宵のくらさや惹き蟇の声
行く春は木々の影さす水の床
花を待つ雨や木の間の底明り
葛水やすわりて細き膝頭
見わたして出水の跡の残暑哉
初しぐれ鯲をはかる枡のうへ
西日さす窓や小春の運び雨
雨晴れやかしら揃えし楢林
・・早川漫々にこんな佳句が多いのは知らなかった。
669
:
秋魚
:2016/05/31(火) 00:52:23
(無題)
蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
・・芭蕉が「野ざらし紀行」の旅の途中で詠んだ句とされる。榎本星布がこの句碑を八王子永福稲荷神社に建てた(1800)。今在るものは昭和24年松原庵門人による再建。
・・星布の墓は八王子元横山町の大義寺にあるという。青梅吉野街道の端から滝山街道をどこまでも南下し八王子の駅まで自転車を走らせた。あきるのインターから戸吹トンネルを越えていつもは高尾街道を走ったが、この日は直進。創価大の広い敷地を越えて道の駅の曲がり角をまっすぐ行けば浅川橋をわたり大義寺も近い。八王子郊外は起伏に富んだ丘陵があってアップダウンスロープやトンネルが多い。ひよどりトンネルというのはけっこう長い。道自体は幅も広く快適だ。浅川をこえると大義寺はすぐにわかった。
・・龍華山大義寺とあって宗派はわからない。調べたら真言宗智山派という。墓地をうろつくのはあまり気持ちのいいものではない。清掃人の人に尋ねたら入り口のところに星布の墓があるという。松原庵で名が通っている。都指定の保存碑でもあまり訪ねる人もないか。小さな墓碑で「咲花もちれるも阿字の自在哉」の句が刻まれている。
・・伊那の中村伯先もそうだが星布も天明の時代に派閥をこえて蕉風俳諧の結束を意欲した。白雄の望んだことであろうが。
蝶の飛ばかり野中の日かげ哉
・・この句碑は八王子ほかあちこちにいくつか見られる。
「霞みわたった春の野を折々蝶の飛び交う羽だけが、わずかに野中の日陰である。春の光に満ちた野の様をよくあらわしている。」
埼玉小川町の松郷峠にあるものは、ほとんど埋もれてみつけづらいが、いつか訪ねてみたい。
山崎北華という江戸の奇人は、「奥の細道」の足跡を辿ったが、那須野でこの句に触れている。
「聞きしに違はず。竪さま八十里。横或は廿里。或は十二三里の原なり。草もいまだ長からず。木といふものは。木瓜さへもなし。炎暑の折など如何にぞや。手して掬ふ水もなし。翁のほ句に有りし。
蝶の飛ぶばかり野中の日影かな
とはかゝる所にや有りけん。」
・・句の場所が特定されないのに、それらしき場所をもつのは、発句のよい力かもですね。
670
:
秋魚
:2016/05/31(火) 13:47:26
(無題)
猪牙で来し客驚かす一葉かな 井月
・・細長い小舟。吉原、深川の遊郭通いの客が使う。
・・深川近辺、隅田川沿いに散策していたのがわかる。
「一葉落ちて天下の秋」
A straw show which way the wind blows.(一本の麦わらを見れば風向きがわかる)
・・幕末の吉原は 空気も重かろう。
671
:
秋魚
:2016/06/01(水) 00:52:03
(無題)
月影をさこそ明石の浦なれど 雲井の秋ぞなほも恋しき
(列女百人一首??亀菊)
・・亀菊は、後鳥羽院に寵愛された白拍子。承久の乱後、院とともに隠岐に流れた。
江口の遊女といわれるが、
天王寺へ詣で侍りけるに、俄に雨降りければ、江口に宿を借りけるに、貸し侍らざりければ、よみ侍りける
西行法師
世の中をいとふまでこそかたからめ仮の宿をも惜しむ君かな
返し
遊女妙
世をいとふ人とし聞けば仮の宿に心とむなと思ふばかりぞ
江口は淀川の河口あたり、遊女の里。
・・雲井の井は当て字というも、月と井の乖離かな。
名月や院に召さるゝ白拍子 井月
672
:
秋魚
:2016/06/02(木) 14:54:02
(無題)
観音の甍みやりつ花の雲
花の雲鐘は上野か浅草か 翁
・・
囲碁に倦み弓にもあきて霞山
里の児の魚掴むなり鐘霞
乗合の込日を鐘の霞みけり
見せ馬に手を打つ頃や鐘かすむ
見るものゝ霞まぬはなし野の日和 井月
・・霞に焦点をあてた句作。といっても「霞」自体はフォーカスをとりにくいもの。
「鐘」と「霞」を同位したいくつかの句に注目。
雪ながら山本かすむ夕べかな 宗祇
行く水とほく梅にほふさと 肖柏
川風に一むら柳春見えて 宗長
舟さす音もしるきあけがた 祇
月や猶霧わたる夜に殘るらん 柏
・・水無瀬三吟何人百韻は「かすみ」にはじまる。「舟さす音」まで明け方。
まろび出る筆の軽みや朝霞
何処やらに鶴の声聞く霞かな
・・「朝霞」は「浅香」。霞は軽みを帯びた。
・・
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