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おしゃべりルーム
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ヴィルパン
フランス語のコーナーみたいになりますが、フランスの呼称って、住んでいたらもちろん分かってきますが、アングロサクソンとは全然違います。イギリスの映画とか観てたら、学校で生徒を姓で呼んでるみたいですが、フランスではほぼ名のほうです。スターはアメリカでは名で呼ぶことが多いようですが、こちらでは少しでも公共の人はドヌーヴとかドロンとか姓で呼ぶことが多いです。だからこそ今のアイドルは、アメリカ風にファーストネームを呼ぶ傾向があります。後、インタヴューなどで、姓名をフルネームで呼べば、ムッシューという敬称は必要ないのです。たとえば、「メルシー、ドミニック・ド・ヴィルパン」と言えます。「ムッシュー・ル・プルミエ・ミニストル」とも言います。雑誌や新聞では敬称抜きのヴィルパンあるいはフル・ネームです。一番多いのは「ヴィルパン」だけ。ドはつけても間違いじゃないですが、有名になればなるほど消えます。ヴィルパンも外務大臣の頃はド・ヴィルパンと書かれていたことがありました。ムッシューの後ではどちらかと言えばド・ヴィルパンかな。ではどうしてド・ゴールはド・ゴールかといいますと、ドがなくなるには、1「有名」、2「ドに続く名がある程度長い」、3「ドに続く名が知られた地名でないか地名以外のルーツを持つ」の条件があり、ド・ゴールは1しか満たしていないからです。日本でも、たとえばシモーヌ・ド・ボーヴォワールとか有名でしたが、ド・ボーヴォワールと呼ばれずに、フランス風にボーヴォワールでしたね。でもフルネームならドが復活します。画家のアンリ・ド・ツールーズ=ロートレックとなると、ツールーズは有名な土地ですが、フルネームでないと誰もド・ツールーズ=ロートレックと言ってくれません。日本同様、ロートレックで通用します。ただし、彼は厳密に言うと、ツールーズ伯爵家とロートレック伯爵家の姻戚で生れた分家で彼の代で途絶えました。本家筋のロートレック伯爵家はまだ存在しますが、姓からドをとっちゃってます。ええと、上に挙げた条件というのは、私の見た経験則であり、別にどこかで成文化されてるわけではないです。おもしろいですね。
共同体の話ですが、たとえばどこかの優勢な共同体に属しているから安泰というわけでなく、その中で老いたり病んだり落ちこぼれたりしたときに誰が救ってくれるかと言うことですね。アリストテレスは「愛があれば正義はもう必要ない」なんて言っていました。確かに、みなが自然に弱い人をかばってくれるなら、主義も法律もいらないかもしれません。今のユニヴァーサリズムは、起源的にはユマニスムということです。こういうと必ず、「西洋の人間中心主義が地球の環境を壊したから八百万神の多神教の方が地球に優しくベターだ」とか言う人が出てくるんですが、よく見てください。ユニヴァーサーリズムのヒューマニズムの名において、国籍や文化がどうこうを超えて、何の関係もないのに、ソマリアに水を運ぶ人とか、ルワンダに援助に行く人とか世界中の天災現場に駆けつけるグループが存在し、キューバの捕虜収容所で虐待されている人が世界に向けて連帯を求めたりしているんですよ。ユニヴァーサリズムが西洋キリスト教起源であろうとなかろうと、全体主義の国に生れたり貧困国に生れたりするのは、偶然の采配に過ぎず、失業、事故、老いや死など、誰にとっても明日はわが身、強い時に弱い者を思いやり、弱くなったら共同体の枠を超えて助けてもらえるという理想はすごく大事にしたいと私は思います。愛があればすべて解決するかもしれませんが、愛することはアリストテレスの時代からいかにも難しく、永遠の挑戦なのですよね。それと、人間の置かれる状況は一筋縄でいかず、正義のために愛を犠牲にしたり、愛のために正義を犠牲にしたりという局面を繰り返して、相対主義のニヒリズムや絶対主義の誘惑と戦いながら少しずつ連帯していくという希望を捨てたくないです。
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拍手
仏文学者、杉本秀太郎氏の「半日半夜」講談社文芸文庫 に音楽会の話がかいてありました。その中で、拍手について、かかれているところ。
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拍手
急にきえたので、つずけます。「音楽会には、じつに厄介な音楽の天敵がかならずあらわれる。つい今し方までの音楽をたちまちにして、食いつぶす天敵とは、拍手である。。何故拍手をしなくてはいけないのだろう。ドビュツシは拍手の習慣をいまいましくおもつて板。「最大の熱狂を表明するのに、戦争の雄たけびを発しつつ、両手をパンパンとうちあわせるというのは、あの石器時代以來の本能的な欲求のしからしめるところなのだが、かんがえてみると、まつたく奇妙なものだ。(ドビユツシー「音楽のために」15p)ラモーも拍手はきらいだつたようですね。「拍手の音はあなたのオペラ音楽以上に快くお耳にひびくのでしょうか」というドビュツシーの質問に「私は自分の音楽の方をまだあいしております。」とこたえたとか。宮廷人の評判を気にしながらの答えであつたとか。音楽家にとつて、拍手のもツ、意味とか、感じとか、おしえていただけるとうれしいです。政治論議のなか、お邪魔しました。
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間違い多くて、ごめんなさい。
サイトへの投稿はどうもうまくゆかず、アツというまにはいつてしまい、間違いだらけ。すみません。
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ギリシャ
竹下様、
私事ですが、今度GWにギリシャへ行きます。ギリシャでは、学生時代に演劇部で『オイディプス王』をやって以来憧れのデルフォイに行こうと思っているのですが、竹下さんはデルフォイに行かれたことはありますか?もし行かれたことがあるなら、どんなところか教えてください。また、こんなところがよかったよ、というところがあれば教えてください。それと、エーゲ海クルーズをされたということでしたが、船酔いはなかったですか?サントリーニ島に行こうと思ってるのですが、私は船に弱く(ダイバーなのに!いつも酔い止めのお世話になってます)ひどく揺れたりしないかと心配でちょっとブルーになってきてるんです。。。
なんだか、みなさん、次元の高いお話をされてるのに変な質問でスミマセン。
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拍手とギリシャと船酔い
なんていうか、音楽会で「音楽鑑賞」をしている人には拍手が天敵というのは分かります。自分のうちのリスニングルームで一人静かに音楽を聴いたあとで、雷鳴に驚かされると興ざめなように。でも、生の演奏会に行くのは、社会的な行為で、生の演奏家からメッセージを受けているわけですから、演奏の後にこちらの気持ちを拍手で伝えたいというのも自然で、たいていの聴衆は後から個人的に感動を伝えたりできないのですから、拍手に目くじら立てることはできないと思います。私は、拍手したい気分の時はします。あるいは知り合いが演奏したときは必ずします。それから知り合いが私のそばにいる時も。私が拍手をしないことに気づいて興をそがれる気になる人がいるときは特に。
弾く立場になって言いますと、これは、拍手の中身が微妙に分かります。演奏してるときは集中力とか研ぎ澄まされていますから、心から喜んでもらえたとか、感動してもらえたとか、感謝してもらえたとか、感心されたとか、義理の拍手とか、終わってほっとしたという解放感の拍手だとか伝わってくるんですよ。それは演奏中にも伝わってきて、すごく支えてもらってると思えた後で拍手をいただけると嬉しいです。逆にちょっと、だめだったかなと思ったときに意外に暖かい拍手だとほっとしたり。
サロンコンサートとかだと、最前列で居眠りされたりするのが見えるとすごくつらいです(私もコンサートで寝ることがあります。でも最前列なら我慢します)。私たちのようにオリジナルの組曲ばかり演奏してると、組曲の途中でまだ緊張状態が続いてたり、次の曲とのつなぎが重要な時に、拍手されると、緊張感の腰が折られる、緊張感が伝わっていなかったという反省、とかが頭の中をぐるぐるし、一番いやなのは、拍手がぱらぱらで、拍手した人たちが「あっ、これはまずかったな」と思ったり、拍手しない人が「こんなとこで拍手するなよ、この無教養なやつ」と無言で非難してる空気が伝わったりするときです。本当に、演奏会中ってすごい情報量をキャッチしちゃうんですよ。完全に無我の境地で、周りの反応は邪魔なだけという人もいるかもしれませんが。
2曲続けてというときで、どうしても1曲目の後で拍手が来る場合があるのですが、それは、その曲が拍手を促す曲らしく、私たちも割り切っています。逆に、拍手を期待している曲のつなぎでシーンとされたら、交感神経が高ぶりすぎて、すごい緊迫感のまま続行ということもあります。そんなケースが多いときは、知り合いをサクラにして、ここで拍手してね、ということもあるんですが、周りの緊張に気おされて拍手できなかったということもあります。集合としての「聴衆」のカラーの方が絶対勝つんですね。
演奏家も「音楽鑑賞」状態で弾いてることももちろんあり、そういうときは終わったあと、静かに眼を閉じて余韻を味わいたい気分ですが、聴衆が一人でもいれば、その人に向けてのコミュニケーション・モードですから、「分かち合い」というのがメインです。つたなくとも、贈り物をしているつもりなので、よかったと言ってもらえたらうれしいですよ。だって、後に何も残らないんですよ。 録音してもそれは別物だし。今弾けないともう意味がないんです。あああのときはこれが弾けたなあと思っても。
絵描きは一人で描いて、鑑賞者とは場を共有しないし、物書きも、本は、考えの容れ物であって、読者の好意的な声をいただけるとすごく嬉しいですが、同時進行の分かち合いにはなれず、それでも、あの時描けた、あの時考えたものは、そのまま残ります。演奏は基本的に一回きりで、でもそのナマの感じが麻薬みたいに強烈でやめられないです。演奏家としても聴衆としても。拍手はその表現かな。
日本でコンサートをした時、一度由緒ある舞台でさせていただいたんですが、最初に主催の方が着物で出ていらして、正座で深々とお辞儀されたので、周りに座っていた参加者もみなお辞儀しました。引っ込まれる時も同様でした。ええっ、ここでは拍手してもらえないんだろうかと一瞬あせりましたが、その後の演奏や舞では自然に拍手が出たのでホットしました。以上私や私の周りの人の感じ方です。全然違う人もいるんでしょうね。サロンコンサートや講演などでは、主催者のお人柄というのがすごく聴衆にも演奏家や講演者に影響を与えると思います。すごーく商業的なものやメディアティックなものは別ですけど。他の方の意見も聞きたいです。
後、書き込みですけど、私も誤変換だらけで冷や汗ですが、疲れてるときは、直接書き込みを避けて、ワードに行くのも面倒なので、メールを書く画面にして、字のポイントを14位に拡大して、大きくゆっくり書いてからそれをコピーして、書き込みのところに貼り付けることもあります。これ便利なので、お試しを。今のこの文もそうして書いてますが、画面の前に猫が陣取っているので、ほとんど画面が見えないから意味ないかも。
拍手の話が長くなりました。ギリシャのこと、あまり役に立てません。昨年9月のギリシャは頭がビザンチン・モードだったので、デルフォイにも行ってないし。2度目に訪れた遺跡は、昔と違って、とにかく人が多い、柵が多くなってるというのが印象的だったので、デルフォイも今は結構人が多いのでは。しかし、「自然の景観」「景勝地」の旅行と違って、人間の残した文化を訪ねる旅行は、もう、その文化的歴史的知識を識ってはじめて面白くなります。識ることによってはじめてつながることができるので、遺跡を「景勝地」みたいに訪れたら、すごくもったいないと思います。事前にできるだけいろんなものを読んで、もう「マイ・デルフォイ」というのを作っといて、それから対峙するくらいにしておいたらいいかも。
クルーズですが、基本的に内海ですから、あまり揺れません。でもナイル河のクルーズなどよりは揺れることもあります。寝るとき船が傾いている日があって、足と頭を反対に寝ました。アテネのホテルに帰ったら、浴室が揺れているような気がしました。私は船酔いしない方ですが、ノルマンディのヴァカンスでジャージー島に渡ったときは時化の後ですごく揺れ、薬を飲んでももう遅く、その苦しみから解放されるなら死んでもいいと本気で思いました。一緒にいた父だけは酔わず、揺れに抵抗せず体を動かしていました、そして、戦争で中国に渡った時はこの上に魚雷と敵機に狙われていた、それに比べたら揺れるだけなんてたいしたことないと言っておりました。戦争に行った人はすごいと思いながらも、そんなこと言われても・・・と恨めしく思い吐き続けました。母も苦しみ、帰りは海はもういや、飛行機チャーターすると決心してたそうですが、結局帰りは波が静かで、薬も早めに飲み、それでも私と母は往路の父に倣って馬鹿みたいに体を揺らしていました。父は寝てました。日航機事故があった夏で、両親は帰りの飛行機に不安を抱いていましたが、船でこれほど苦しいなら、飛行機できりもみ状態になったら恐怖よりも苦しみが大きく、解放されることだけを望むかもしれないと気休めになりました。ちなみに私は飛行機が嫌いです。
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拍手
Nao様、竹下様、
拍手のお話、大変興味深く読みました。今まで私が行ったコンサートでした拍手も、気持ちが伝わっていたのかもと思うとちょっと焦ったりするコンサートもありました。
そういえば、ずっと前に、世界的に有名な演奏者たちとものすごく有名な(らしい)指揮者のコンサートに行ったことがあります。クラシックに疎いので名前など忘れてしまいましたが。そのときに組曲の途中で拍手をした人がいて、ひとつかふたつパチパチと音を立てたのですが、普通ならそれに大勢が続くところが、その指揮者は手のひらをこちらに向けて『拍手をするな』と合図したのです。そういう合図をする人を初めて見たし、とっさにそんなことができるのがすごいと思って、ただただ感心してしまいました。
ギリシャと船酔いのお話もありがとうございます。そうですね、『マイデルフォイ』作ります。船酔いってホントに死んだほうがマシだと思うぐらいつらいですよね。北海道へ船で行ったとき行程30時間中20時間ぐらい酔った状態でホントに地獄でした。船酔いよりもつらい目にあわせる戦争はやっぱりやっちゃダメですよね。(って変な比較ですが)
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拍手の話
わたしは音楽ならけっこう何でも聴くのですが、CDで聴くとき、好きなのはライブ版。で、ヌヴーかリパッティのライブ版だったかしら、それとも田中希代子さんだったかな、昔のライブ録音は、演奏終了で切ってしまって、拍手を入れませんでしたね。ですので、演奏の終盤、聴衆の反応や盛り上がりがわかるのに、いきなりばしっと切られる終わり方に、なんとも気持ちのやり場がない気分がしたことがあります。今は長く拍手を入れますので、「ああ、楽しかった」と思えます。すばらしいコンサートで、演奏も終わらないうちに怒涛の拍手、なんていうのもありますし。スペインの聴衆が「オレ、オレー」と叫んでいて思わず笑ってしまうものもありました。
拍手、というか、聴衆との距離のとり方って、「聴衆はいらない」人から、「聴衆込み」の人までそれはもうほんとにいろいろではないでしょうか。ウィーンのニューイヤーコンサートのラデツキーの拍手はいわゆる「お約束」ですし、それから、クラシックではなくて、ロックコンサートになると、これはもう最初から最後までオールスタンディングで拍手どころでなくて、一緒に歌ってますしね(東京ドームでストーンズに行ってきたばかりなので・・・)。
中世の演奏だとどうだったのかしら、なんて思います。なんだか、拡散した話になってしまったかしら。
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手拍子
フランスのコンサート(特にポップス)では、開演が遅いと痺れを切らした聴衆が催促の拍手というか手拍子を始め、それでも始まらないと足をならしてます。日本ではたいてい時間通りに始まるせいか、そういう経験はありません。アンコールの催促で手拍子になるのはどこも同じですけど。スペインで、パエリャを食べながらフラメンコを見る場所で、女性のダンサーが、この踊りは途中でミュージシャンが手拍子を打つけれど、あなた方は絶対に一緒に打たないようにと客に注意したことがありました。フラメンコの手拍子はすごくデリケートなので、少しでもずれたら踊れないと言われました。前に酔った客にでもひどい手拍子をされたのかもしれません。そう言われると、見るだけで何か緊張したのを覚えています。フランスのロックグループで「インドシナ」というのがいるんですが、そのキイボード奏者の息子が私の生徒で、パパのコンサートに行くには耳栓をするのが条件だと言っていました。特に拍手の音が一番難聴の原因だそうです。演奏者たちはイヤホンとかつけているので、会場がどんなにやかましくても全く気にならずに演奏できると言ってました。こうなるとコミュニケーションどころではないような気がします。
中世だと誰かのため何かのために演奏したのでしょうから、やはりいわゆる民主的な「コンサート」が成立してから、演劇の例に倣って拍手が定着したのでしょうか。カストラートとかのスターシステムの登場やヴィルチュオーゾ趣味の流行とも関係がありますよね。バレエでも、早くから、ヴァリエーションなどで難易度の高い踊りに成功するとその後すぐに拍手するようになってたようです。古代のギリシャ演劇ではどうだったのか知りません。どなたか教えてください。神に捧げるタイプの芸能では観客のためではないから拍手はないですよね、日本で門付け芸などどうだったでしょう。ご祝儀を渡すだけだったでしょうか。私の子供の頃はまだ獅子舞とかありましたが拍手した記憶ないです。紙芝居もありましたが、拍手したかしら・・・
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インドシナ
さっき、日本風にインドシナと書きましたが、日本ではフランス風にアンドシーヌと呼ばれているようです。
検索したら
「アンドシーヌ」、フランスのエレクトロ・フォーク・ロックのグループ ...
とありました。
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大統領ネタ
フランスには「アメリカ人とフランス人とイギリス人が集まって、何かが起こったら、それぞれこうした」というジョークがすごく多く、もちろんアメリカを揶揄したのもありますが、一番多いのは自虐ネタです。
昨日ネットで拾ったネタにこういうのがありました。飛行機にアメリカとフランスとロシアとポルトガルの大統領が乗っていた。事故が起こり、パラシュートで脱出しなくてはならないがパラシュートが3つしかない。まずアメリカ大統領がひとつ取り、「私は世界で最強の国の大統領だからこれをもらうといって脱出。次にフランス大統領が「私は世界で一番文化的で頭のいい国の大統領だからと言って脱出。残ったポルトガルの大統領はロシアの大統領に、「いいですよ、お宅の国はうちと違って大国だから、どうぞ」と言って譲ろうとした。すると、ロシアの大統領が言った。「大丈夫です。まだ二つ残ってます。だって、さっき、世界で一番頭のいい国の大統領が、寝袋を背負って降りたから」
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自虐、かな
自分のことを笑える、というのはけっこう高等な技術ですよね。日本にも笑いの伝統はありますけど、最近ないなー、と思えるのはゆとりのあるユーモア。日本にこういうジョークがあったかしら。と、日本自虐ネタ、でしたー。
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ヴァリエーション
前のジョーク、小学校3年の生徒に話したら、小学生なら知っているそれに似たネタがあるといって次のようなヴァリエーションを教えてくれました。
ブッシュ大統領とトニー・ブレアとヨハネ=パウロ2世と小学生が飛行機に乗っていて事故が起こり、パラシュートが三つです。ブッシュとブレアはわれ先に飛び降りました。残ったのはJP2と小学生。JP2に小学生に言いました。「私はもう年をとっている、君がパラシュートで逃げなさい。」小学生が答えて、「大丈夫です。さっきブッシュ大統領が僕のランドセルをかついで降りたから。」
小学生のジョークらしさがおもしろく、ローマ法王が普通にジョークに出てくるところもヨーロッパっぽいなあと思いました。
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ヴァリエーションへの感想
たしかに、「天皇陛下」が出てくるジョークなんてないですね。
でも、それよりも、小学生、それも低学年の子が政治ジョークを知ってるんですねー。
わが国の政治はジョークになるようなネタには事欠かないのですけどもね。こちこちの官僚の世界も、スキャンダルでドタバタしている議会の有様も。
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聖骸布の仔
中央公論新社から4月10日『聖骸布の仔』が発売されます。私の初めての翻訳本です。イエス・キリストのクローンの話です。『ダ・ヴィンチ・コード』の成功を見るにつけ、同じようなちょっと怪しいテーマでこれほどの文学が書けるのかと感心して、ぜひ紹介したいと思っていました。舞台はアメリカが主で、フランス人のスピリチュアル感がよく出ています。ぜひ一読してご感想ください。
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それは・・買わねば
今日発売ですか。
ところで、各国の人々ネタ。イギリス人にその手の各国ジョークをしたら、うちの国ではそういうジョークはない。と言っておりました。ほんとかなぁ?
イギリスのジョークも毒が効いてて好きですが、各国人を比較するみたいなジョークは流行ってないのでしょうか?
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イギリス
ってけっこうそういうジョークの本場って感じがしますけれど。で、サッカーでもそうですが、大陸諸国よりも、イギリスの中での「各国」もの、いろいろありますよね。特に「アイルランド、スコットランド、イングランド」ものって多いです。たしか、カラス麦を、イングランドでは馬が食べるがアイルランドでは人が食べる、と言ったのは(ジョークと言うよりは差別的発言、ですが)サミュエル・ジョンソンじゃなかったでしょうか。
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各国ジョーク
う〜ん?各国ジョークよりも、内部で忙しいのか?
確かにスコットランドネタとかウエールズネタとかアイルランドネタは出たような。
もっとも、話を聞いたイギリス人T氏がその手の外国ジョークを好まないという気もします。
しかしフランスとは伝統的に仲が悪いのでフランスネタの意地悪ジョークは多いみたいですね。
かなりブラックなのでは、「先だってのロンドンテロはオリンピックを逃したフランスの仕業だ。」
というジョークが流行ったらしい。まぁ明らかに違うのが判って、言っているわけですが。
でもまぁ、自国民の階級ジョークは多いみたいですね。
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若者の話
最近『中央公論』の5月号をいただいたので読みましたが、考えさせられる記事ばかりでした。フランスのCPEの騒ぎのこともあって(5月発売の新潮45でこのことについてまとめる予定です)、日本の若年失業者やフリーターのことも考えていたのですが、この雑誌にはいくつかの全く違う見方が紹介されていました。そのひとつは、今の若者は「毎月確実にもらえる給料」につながる雇用が保証されていないから、底辺を這いずる者にとっては「金」が人間の尊厳だというのです。給料という土台を前提とした日本の社会で、給料がない人は、人権がないのと一緒で、若者が「金が欲しい」というのは、「人間として認めて欲しい」という魂の叫びだというのです。これを読んで、それはフランスの移民の若者たちの不全感と同じだなあと思いました。ところが、もうひとつ、別の記事では、若者たちは格差が広がってもかまわないとだんだん思っているというのです。富の再分配なんてしなくてもよいから自由に生きたいらしいです。「金は要らないから好きに生きさせてくれよ」「再分配よりも自由や多様性を認めてほしい、その結果自己責任で死んでもかまわないから」と考える人が増えているというのです。この言葉を読んで、なんだか胸がつまりました。フランスの若者ならなんだか絶対に言いそうにないことだから。
後、原田豊さんという方が、楽しい人口減少社会について書いていて、びっくりしましたが、後味はよかったです。ペシミスティックな見方が多い中で、こうはっきり楽観的にものを見られるのはうらやましいです。日本は孝を強調する儒教文化と違って、親の子に対する情愛が強調されたという津田左右吉の指摘も面白いと思いました。親の恩が尊いから子は孝を実践しなくてはならないので、互恵的だというのです。まあそれで、日本の高齢者は若者のために我慢できるという論になっていくんですけど。でも、動物でもそうですけど、子供がちっちゃくて子供の形をしてるうちは確かにそうですけど、高齢化社会になると、子育てが終わってから延々と生きるので、自分も保身のために自己中心になることの方が多いような気がします。いくつになっても子はかわいいという人もまあいますけど。
でもその点ではフランス人も子を保護しますね。アングロサクソンの自助努力風の育て方は少ないです。フランスの子をアメリカのホームステイにやる説明会では、「アメリカの家庭では、洗濯物は子供が自分で乾燥機から出します、フランスのように、お母さんがアイロンをかけてたたんで片付けるということはありませんから」という注意がありました。それを聞いたうちの子は「ママ、うちはアメリカ風だったんだね」と言っておりました。
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中央公論5月号
1.原田さんの論文について
日本の人口減少については、悲観論と楽観論がありますね。楽観論では、人口減少恐るるに足らず、かえって活気ある団塊高齢者を中心にゆったりして過ごせるでしょう、的なものが多いですかね。原田さん(団塊の世代に近い方)もそんな感じの論調で、そして、少ない若い世代に温かく、「自分の孫を愛するように他人の孫も愛して」豊かな文化を維持しよう、とおっしゃっています。
でも、そもそも、なぜ人口が減るか、若い人が家庭を形成せず、子どもを持たないか、ということを、原田さんは特に深く追究せず、「人口減少、少子・高齢化」という所与の条件での暮らし方について述べておられるように見えました。わたしから見れば、日本の問題は、若い世代が家庭を形成できない、子どもを持ちたくない、ということ、そのものにあると思えます。
それと、すでに子どもや孫を持っている大人。バスや電車に乗るだけでわかります。わたしは、子どもは座るものじゃない、と言われて育ちました、というか、そういうしつけを受けましたが、シルバーシートに子どもを座らせて平気な親(混雑する通勤時間に乗る子どもは私立の小学校に遠距離通学しているわけです)とか、電車で「OOちゃん、ここにお座り。」と孫に席をとる祖父母!!、多いですよー。一方で、貧困家庭のDVや児童虐待、・・・ 日本てこんなだったかしら、と最近、けっこううんざりしています。
つまり、日本が少子化・高齢化してゆく原因、少子化・高齢化しているなかで社会規範が崩壊している、そういう社会について問うことなしに、人口が減ることそのことだけについて議論することに疑問があります。
2.日本の若者について
堀江氏が「金で買えないものはない」と言った続きは、「金で買えないものは差別につながる。血筋、家柄、毛並み」という文章がありましたね。日本のムラ的つながりの中では、家柄、ムラ的組織では肩書き、そういったものが日本社会での「価値」だった、それを突破しようとしたのはわかりますが、結局置き換えられるのが、せいぜいのところ、お金、というわかりやすい数字でしかないのが、日本の精神的貧困ですね。お金に換算できない価値で大切なものは、「人権」とか「生活の質(Qualite de lvie)」とか、だと思うのですが、なぜ、日本では、人と比較して出る数字や地位が生活の基準になるんでしょうね。他人がどうであっても、世間一般がどうであっても、自分には自分の「権利」が、「基準」が、「考え方」が、とならなかった、なっていないことが日本の問題だと思います。そこから出たいと思うと、「ほっておいてくれ」「自由にさせてくれ」ということにしかならない。
誰もが、自分の考え、自分の暮らしを対等に持ち、それを保障するのが「再配分」であるとまで理解しての「再配分なんていらない」ではないと思います。
かつて、ムラの大きな集合体であった日本(江戸時代、あるいは戦前)、それが、中央集権、ムラの崩壊のみが進んで、かつて存在した価値の継承はなくなってしまいました。でも、不思議なことに、ムラの仲間うちのみ意識する、という行動様式だけが残っている感じがするんですね。安定した共同体で、秩序をわきまえ、分に合った暮らしをする、という生活様式はなくなりましたが、自分の所属する共同体のあり方にはとりあえず順応して生きる、というのが、老若問わず、日本人の「自分でものを考えない」生き方であるように思えます。
年功序列に従って「ものを考えずに生きる」だったのが、年功序列が崩壊したために、次は「金」を基準に、あるいは、基準なんて何もなしに「ものを考えずに生きる」状態が、日本人ではないでしょうか。で、自然に恵まれ、人は温和でそこそこ均質で(字の読めない人はいない)、今のところ家族も最低限の機能はしている、というところで、厳しい闘争にまで至らないでいる社会が、日本の社会なのでは、と思っています。でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。
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激しい闘争
「でも、そのように、厳しい闘争に至らないように、と抑圧されているものがかなりある社会、でもあるのだろうと。 」?? の文は考えさせられます。激しさが局地的に内的に爆発すると、家庭内暴力とか、下手すると無差別殺人になるのでしょうか。それならストやデモでガス抜きしてくれた方がいいかも。
最近、ピレネー地方の知事が38日のハンストをして、日本企業の誘致に成功、日本大使館も企業のトップも怒りに狂ってるというニュースがあります。日本ではどう報道されてるのでしょう。日本側の言い分は、喉にナイフを突きつけるようなこんなやり方は野蛮、と怒っているのです。首相や内相や大統領まで圧力をかけたということで。でも、知事そのものは、自分の喉にナイフを突きつけたわけですね。企業にとっては理不尽な脅迫でしょうが、別に企業側を人質にとったとか、爆破すると警告したわけではなく、ハンストなので、後は、「このままむざむざ飢え死にさせられない」という感情論やモラルです。当初には連帯もなく、たった一人の「闘争」です。とにかく、文句を言われようと、日本企業は合意したのですし、政治家が命をかけて、何かを成就させるというケースで、こういう発想があってそれを実行したということ自体がすごいです。戦争反対とかいう意思表示のハンストでなく、行政者が政経上の目的到達のためにハンスト。確かに彼が死んだりしたら、「自己責任」かもしれませんが、それはやはり社会の責任というか、ハンストのことをメディアによって知ってしまった人すべての責任になってしまいます。イラクやイスラエルで毎日テロや内戦で死ぬ人が出ていますが、それであわてて軍を撤退したり、平和交渉が始まるということもない、それで、ピレネーで、一人の知事がハンストをしたら、大統領や日本の大使館まで巻き込んで、その地域の未来が変わる・・・いろいろ考えさせられました。資本の論理で動いてる企業側が怒るのはもっともですが、どうせ屈するなら、何か一言もっとかっこいいことを言って欲しかった気もします。日本や日本の企業が注目されたいいチャンスだったのだから。
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中央公論5月号
私も読んでみましたが、さほどというか、私はほとんど共感するところはありませんでした(特にホリエモンを取り上げた武田徹の文章)。何かアタマの中で「今の若者はこうだ」と決め付けたい、爺さん連中のたわごとというと、言い過ぎですか(笑)。「金ですべてが買える、金こそが人間の尊厳」だなんて、アングロサクソンの営利至上主義そのものじゃないですか。別にホリエモンはそうしたイデオロギーに忠実だっただけで、それは別に彼だけじゃないのではないでしょうか。だからこそ、ユニヴァーサリズムの現実化ということの重要性に思いが至ります。ビンボー、質素はすがすがしいですけど、極貧は人間の尊厳を破壊します。最近の二極分解で、そういう状況に追い込まれていく若者たちが、「金こそ、人間の尊厳だ」と思うのは、至極、当然だと思うんですよ。そうならないように、政治が、思想(ジャーナリズム)に何ができるのか、ということを考えていかなくちゃ、だと思うのですよ。
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共謀罪と精神操作罪
今、日本の国会で、例の「共謀罪」が突然、審議入りして、相変わらず、マスコミの反応も鈍いんですけど、それと似たような話で、フランスのカルト対策において、マインドコントロールについて、「精神操作罪」の創設が議会でかなり大問題になっていましたよね。双方の通じるのは、「個人の思想、信条、良心を法で縛る」ということだと思うのですが、結局、この精神操作罪の議論はどうなったんですか? フランスでも相当、もめましたよね。まあ、「精神操作罪」はそれでも、「マインドコントロール」という「実行行為」があって、それを処罰しようとするのですから、まだ、わかるんですけど、「共謀罪」はそうした犯行がなくても、「共謀した」というだけで、実行に至らなくても罪に問えるんですから、無茶苦茶ですよ。で、この法案も原本は、アメリカの愛国者法で、要は、アングロ・サクソンマターなんですよ。相変わらず、米英はヘンですよね(笑)
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マインドコントロール罪法案のその後
2000年の6月に全員一致で国会を通過したマインドコントロール罪法案は、その後すったもんだして、2005年だかに、結局、やや尻つぼみの、L’abus de faiblesse という代替案に差し替えられました。CPEじゃないですけど、宗教側の、マインドコントロールの境界線を決める決定的な基準がない以上、司法の自由裁量は、信仰や精神活動の自由を侵すリスクがあるという主張が通った結果です。その議論の時に何度も出てきたのは、我々はピューリタニズムに陥ってはならない、という言葉でした。こういう法の適用は、いくらでも逸脱していく可能性があるから、その強権の危険を冒すくらいなら、法を先にガス抜きしといた方が賢明という感じです。ある意味、フランスらしい結論です。そしてここでも、アングロサクソン・ピューリタンを反面教師として意識してるのが面白いです。しかし、フランス人的には、カルトが弱者(未成年者、一人暮らしの老人、病者、障害者etc・・)を食い物にするのはどうしても許せないので、「弱みに付け込む」ことの違法性だけは成文化しときたかったということでしょうね。
まあ、そんな国ですから、「共謀罪」なんてとんでもないですよ。「愛国者法」なんて、ユニヴァーサリズムがピューリタニズムによって逸脱していく典型で、アメリカは建国以来、こういう傾向(インディアン抹殺、魔女狩り、マッカーシズム・・・)を繰り返してます。でも、まあ、それに対抗して本来のユニヴァーサリズムのために戦う人たちも必ずいて、それに期待したいです。
しかし、共謀罪が、適用の範囲の自由裁量の幅を大きくしといて、勝手に使えるようにするのを許すのは、何とかに刃物の状況もあり得ますよね。日本はピューリタンじゃないんだから、もうちょっとは良識を残して、アングロサクソンの魔女狩りの真似はしてもらいたくないです。
このことが分かりやすい面白い本があります。ハヤカワミステリ文庫のエラリー・クイーン『ガラスの村』です。読んだことがある人も、もう一度読み返してください。ヤンキーのピューリタニズムの理想と現実、絶え間ない逸脱とそれに抵抗して建国のユニヴァーサリズムの理想に何とか帰ろうとする人たちの努力が実によく書かれていて、志の高い名作です。そこにも、国会の煽動家が腕を振るうのは民衆の責任だと書いてあります。日本で悪法が通るとしたら、国民の側に、すでに思考や判断の放棄があるから、それを通してしまうのでしょう。共謀罪なんて、人の自由や尊厳の根を深いところで蝕む、絶対このまま通してはならないものです。限定や保留条項を付けまくって骨抜きにする可能性はあるんでしょうか。メディアもきっちり論議して欲しいです。でも日本では、路上の論議やストやデモの対象にはならないのでしょうね、きっと。
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法律や政策
について、フランスの人たちは、けっこう日常的に議論をするのでしょうか?
昔、「思い出のアンネ・フランク」という、アンネ達を支えたオランダ人の本を読んだときに、その著者は実は外国からの養子でオランダ人になったのですが、オランダでは子どものころから政治について論じることを教えられる、というくだりがあり、とても印象的だったのを覚えています。ヨーロッパの小国では、特に、政治と生活はとても近いのでしょうね。あと、分権が進んでいれば、国が大きくても、政治と暮らしは近くなる道理ですね。
でも、日本では、たぶん、国の大きさとそして国民性というか歴史的背景もあるだろうと思いますが、法律ってとても遠く、関係なく感じますね。
それと、法律用語も生活の言葉と関係なくて、「共同参画」「次世代育成」「均等」(わたしが少し関係ある分野なのですが)なんて、法律以外では使わない言葉ですしね。
で、法律案が、どういう必然性で作られて、どういう実際の効果があるのかもとてもわかりにくい。最近で、わたしには一番わかりにくかった(いまだによくわからない)のが、「人権擁護法案」でしたけれど。
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政治論議
すごくします。週刊誌に、あなたがこの1週間で職場や家庭で話題にしたテーマ(複数回答OK)はという統計をとってるのがありますが、CPE騒ぎの時は、今手元に無いので確かじゃないですが、7,8割以上がCPEについて話し、サッカーとかは1割台でした。私も家庭、友人、生徒、生徒の親らと毎日話してました。今も、ヴィルパンの今後だとか、セゴレーヌ・ロワイヤルの品評だとか、延々と話します。たとえば、5月の個展の打ち合わせでTELしてきた友人(60代フランス人女性)とかと話しこむと、個展の話より政治の話につい熱が入ります。「政治」とは「生活」であり、それを語るのは人間観察なので。
日本は確かに漢字や漢語のせいで、法律と日常の遊離がありますよね。それに、大本の法律があっても、適用に自由裁量の幅が広ければ、ほんとはそれは危険なのに、まあまあ、なあなあで何とかなるだろうから法律を通しといてもいいんじゃないかという、鷹揚さというとポジティヴですが、馴れ合いやごまかしや思考停止がまかり通るような・・心配です。
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歴史の身体性
竹下さんのお答えを読んでいると、改めて「アングロサクソン・カルチャー」の根底にある、「ピューリタニズム」ということに思いが至ります。アンリ4世(でしたっけ?)がナントの勅令で信教の自由を認めたことなども含めて、「歴史」というのは大きいですね。その「政治談義」について、私がふと思うのは、フランスはあの大革命で国王の首を民衆の手でギロチンにかけて、チョン切っているわけですよね。これは大きいと思います。その点、イギリスの清教徒革命も名誉革命も、「革命」とはいいながらも、別に王政自体は無傷だったわけですよね。そういうところも含めて、「歴史の身体性」というのは、すごく大きな影響を与えているような気がします。
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ギロチンのトラウマ
私も、国王を処刑したことは、今もフランス共和主義のトラウマになっていると思います。地縁血縁による特権を廃するという点では、ルイ16世がシトワイアン・ルイ・カペーになりそれを認めた時点で、革命は成就したわけですよ。王の首を切って、殉教者にしてしまったことが、その後の帝政やら王政復古を招く混乱になったんです。それを思うと、イギリス軍が、ナポレオンの首を切らなかったのは殉教者を作らないという戦略ですね。ジャンヌ・ダルクの火刑で学習したのでしょう。
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王殺し、皇帝殺し
ロシアのニコライ二世一家も同様な運命でしたが、これはあくまでもボリシェヴィキが殺したということで、ロシア人一般のトラウマにはなっていないのかもしれません。また、殺されたからこそ、生き延びたアナスタシア伝説などが生まれることになったわけですね。
ソ連時代、ソ連政権を認めない正教会(在外ロシア教会)では、たしか70年代に皇帝一家は列聖されて、私はパリのカテドラルで殉教聖人としての皇帝一家のイコンを見た記憶があります。
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共謀罪について
ここでの皆さんの対話や古川さんのブログは勉強になります。
私は知識がないので傍観しておりましたが、なんとなく嫌な法案のにほひを感じています。
・・・というわけで、ブログにご紹介させていただきました。ご報告まで。
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政治を語りたがらなくする
今度の「共謀罪」も含めて思うのは、日本人は(まあ、あんまりこんなふうに「日本人は」という物言いで括るのはよくないのかもしれませんが、他に適当な表現も見つからないので)、「政治」を語りたがらないですよね。確かに日常語と、政治を語る語が遊離しているという面はあるにしても、政治をあまり語るカルチャーはないですよね。まあ、社会にいろんなタブーを抱え込む(もしくはそれがタブーだと思い込んでしまいたがる)国民性もあるかもしれませんが、それだけでもないような気がします。かつて「中」にいた人間の一人として、メディアの責任は大きいというか、「それがすべてではないか」という気さえします。新聞、テレビはいわずもがなですが、雑誌媒体なんかも、おねえちゃん雑誌とかでも、何とかの一つ覚えのように、ファッションとグルメだけじゃないですか。敢えて名前は伏せますけど、そういう系の雑誌にコラムを連載している元女子アナの人もいたりしますが、読んでいて、「本当にフランスで生活してんだろうか?」と思うことがあります。ただ、私の経験では、例えば、そういう読者層のおねえちゃんたちが「じゃあ、政治に無関心か」というと、実は、全然、そうじゃないんですよ(笑)。スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。そういうふうに「政治を語りたがらなくしているメディアの責任」も大きいと思います。ファシズムは常に「知識人の転向」から始まるんですよ。
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政治の話
うーむ、古川さんにちょっと物申させて下さい。「おねえちゃん雑誌」「元女子アナ」「スキャンダルとか、ゴシップとか大好きですもんね、女の人は。」 ・・・ これはメディアの中にいて、一家言をお持ちの方によくある、女性への偏見のような気がするのですけれど。
わたしは、たまたま「政治」にやや近いところで仕事をしておりまして、えらそうに政治を論じる男性にもけっこう疑問があります。
自分の暮らしの問題、として、当たり前に政治を論じることは、男女を問わず、必要ですよね。そして、そういう議論が「面白い」と思える成熟も必要ですね。
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政治、ゴシップ、偏見など
フランスで普通のおじさんやおばさんが政治の話を延々とする背景には、別に彼らの意識が高いということじゃなくて、「一家言」もっているように見えることが評価されているからだと思うんですよ。よくパリの日本人が気づくことですが、フランスのデパートの店員とか、全然働かなくて、商品知識もゼロみたいな人が、何かクレームをつけられたり注意されたりすると、猛然と、しかし理路整然と反論を述べ立てたりするんですよ。あのエネルギーと頭を仕事に使えばいいのに、と日本人なんかはびっくりして思うわけです。なんにつけても「自説を披露する」と言うこと自体にステイタスがあるわけですね。ところが、日本では、「普通の人」が突然「しかし、共謀罪は・・」とかファミレスで話し始めたら、「何、この人」って思われるじゃないですか。日本ではよくよく立派なことを言っていると認められる人か、あるいは専門家と認められる人の「高説」でなきゃ、市民権がないんです。これって外国語習得もそうです。たとえばパリのフランス語学校で、日本人は、相当知ってるのに、なかなかしゃべらない、絶対確かで自信がないと口を開かない人がすごく多いんです。そこへ行くと、ブラジル人とかスペイン人とかは、ブロークンでも実によくしゃべります。しかし彼らは、文法問題とかは全滅で、日本人は高得点をとったりするんですよね。日本人は、「言霊」のせいか、口に出していう言葉のハードルが高いのかしら。前にも書きましたが、私だって、フランスでは今回のCPEについて、リセの生徒とも延々と対等に話せて盛り上がりましたが、日本についたとたん、駅前で核廃絶の署名を求めている人を見るだけでうっとおしいとか、ほかにやることないのか、プロ市民、とか感じてしまうんです。すみません。風土とか言葉の持つメンタリティなのでしょう。でも、今いいと思うのは、各種ブログなどで、いろんな人がいろんなことについて自由に意見を交わす場穂が生れたことで、そこには敬語などの言語の縛りも、風土の縛り(自説をぶつ人よりも、口数少ない人の方が尊敬される)もないので、多くの人の考えを知ることが出来ることです。そうすると、日本人のレベルの高さが分かってほっとします。やっぱ、言わないと聞けないですからね。
それで、日本で人前で「一家言を語る人」ってのは、偉い人、自分の正しさに自信を持っている人、になってきて、それが権威とか権力にも関係してくるので、いかがわしかったりするのでは?
「おねえちゃん雑誌」がファッション、コスメ、ブランドを多く語るのは、広告収入のせいでしょう。広告収入の取りにくい雑誌はなかなか存続できないし。おばさん雑誌だとサプリメンとか健康グッズも? 女性のスキャンダル、ゴシップ好きも、マーケット的にはある程度あたってると思います。皇室ゴシップがあると絶対女性誌の売り上げが伸びるということは、買う人が多いからでしょうし。男の方がゴシップに無関心の率が多いかどうかはよく分かりません。ただ、それを、「女性=ゴシップ好き=政治には無関心」というのは日本的くくりかたで、フランスなら「女性=ゴシップ好き=政治を論じるのも好き」なので、両立するし、別にゴシップ好きに価値判断はないのでは?
悪意のゴシップもありますが、これもネットの2チャンネルとか見てると、これもネットでは男女の縛りがないので、男も堂々とゴシップ好きと悪意のゴシップを展開してるし。私は悪意のゴシップはもちろん反対です。でも、他人に関する悪意のゴシップは蜜の味みたいな卑しい根性もふつふつと沸いてくるので、自分の卑しさを確認するだけでもゴシップは反面教師です。
さすがに「おねえちゃん雑誌」は見るとこがほとんどないのでパスですが、おばさん系の他人の愚痴とかゴシップは楽しく読めます。コミックも好きだし。それで馬鹿にされても別に気になりません。でもそれらのほとんどは確かにただその場で消費して終わりのものなので、自分の卑しいところは痩せさせて、人の役にたちそうなところに栄養を与えていかなくちゃと思ってます。
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言葉に出すことの大事さ
いや、まさに、そうなんですよ。日本人というのは、どうしても「沈黙は金」というのか、自己主張しないのが「徳」というカルチャーがあるんですよね。あと、似たような物言いに「墓場まで持っていく」とか。そういう意味では、一連のCPE問題で、サルコジにしろ、ドビルパンしろ、セゴレーヌにしろ、自分の「立場」なり、「主張」を明確にするため、いろんな言葉を駆使して説明しまくったというのは、すごく、大事なことだと思います。日本だと、そういう人はどうしても「うるさい人」というレッテルを貼られてしまうんですよ。その「おねえちゃん雑誌」という表現は、ちょっとお下劣でしたので(これも「品がない」ですね)、ここは竹下さんの掲示板なので(やはり女性読者が多いようなので)、「女性誌」という表現に言い換えますが(笑)、その女性誌でも、そうしたファッションやグルメの記事の中に、あまり目たない真ん中や最後の方のモノクロのページですけど、かなり硬派な記事やコラムを掲載してるのもありますよ(私の見る限り「Oggi」と「Grazia」)。でも、例の「負け犬本」が賞賛していた光文社系はダメですね。ただ、私の認識では、女性でも、一定レベル以上の知的教養を持っている層は、だいたい政治的スキャンダルの話は好きですよ。永田町や政局のウラとか、身を乗り出して来ますね。ただ、普段はネコをかぶってます(笑)
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スキャンダル
私は不確定な都市伝説のたぐいは常に眉唾つけてしまいますが、ゴシップ系にいたっては興味ないというか、そもそも他人様の私生活など読んでも面白くない。なもんでおばちゃん系雑誌は買わないのですが、最近文春までどんどんゴシップ系になっていて。。ただ、うちの祖母が、「そういうゴシップは人の道が書かれていてひとつの道徳なのだ」といっていたのには「なるほど」と思いました。例えば作家などにとって、人間心理をしるための素材として格好の素材なのかもしれませんね。
言葉に出す場合、日本い於いては往々にして相手とは違う考えだということに抵抗を示す層がいますね。私などは議論した相手(それが対立する意見だとしても)はかなり友達になった気がするんですが、批判意見を述べると全人格否定されたと思う人もいるみたいです。相手を選ぶ必要もありますね。
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で、共謀罪
古川さんもご指摘の通り、共謀罪に関しては、沈黙してる人が多いのは何故だろうか?と思います。
いつも政治についてよく語るブロガー仲間でも、その辺りに関しては敢て沈黙というより興味すらないという印象ですね。わたくしは表現者なんで、他のこと以上にすごく気になります。語らないというより、政治に関心のある層ですらその無関心が何故なのか?疑問はあります。
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だれも見たくない共謀罪
共謀罪がどうもうさんくさいのに、日本人にもうひとつピンとこない理由は、これが古川さんの言うように、アングロサクソンマターだからです。ピューリタンマターといってもいいです。共謀罪の内容については、NETで調べてもらうとして、このピューリタンのメンタリティについてだけ書きます。
アメリカは17世紀以来ピューリタンが「開拓」「建国」した国です。イギリスを逃れたピューリタンといっても、初めは実は土地のない貴族の次男坊とか3男坊が多く、「神の国」を創ることを甘く見ていたのが、先住民の抵抗にあって、すごく苦労し、彼らを奴隷化することも出来ずにほぼ殲滅し、奴隷はアフリカから調達しました。私たちから見たらひどいやつらだと思いますが、彼ら的には、苦労して、禁欲的で、勇気と勤勉で、国を創った英雄なのですね。ヨーロッパのような生まれながらの特権階級でなくて、額に汗して国を創り、独立を勝ち取った実力者たちがエスタブリッシュメントなわけです。だからこそ、コミュニティ意識も強いわけです。かれらのメンタリティは、競争を勝ち抜く不屈の自助努力、なわけです。これが、資本主義の発展をもたらせました。
でも、マイケル・ムーアが「BOLING FOR COLUMBINE」で揶揄したように、アメリカは、自助努力のあまり、武装した自警団を作るという感じで極端に武装する社会になったわけです。あの映画では、同じ湖のアメリカ側では、どの家も高い塀に警報装置があり、誰かが敷地内に入ったら即射殺のような雰囲気に対して、カナダ側では、どの家も鍵すらかかっていなくて、ムーアが勝手にドアを開けても「はーい、なあに」という感じで家人が出てくるという具合でした。ムーアは、これを、アメリカの白人はインディアンや黒人を人として扱っていなかったから、彼らからの反逆を潜在的に恐れて被害妄想のパニックのうちに暮らしている、と分析していました。
アメリカはもともとそういう国ですが、これに比べて、近代以降のヨーロッパは、まあいろいろ理由はいろいろありますが、国が国民を保護し、富を循環させて福祉という形で再分配する傾向にあったわけです。社会民主主義というやつで、アメリカ風の自助努力の弱肉強食、完全自由競争というのは嫌っていたわけです。Noblesse oblige というのもコンセンサスでした。だから、資本主義の企業も、内では従業員の生活を守り、社会に向けては税金や社会保障費負担などで利益を国に戻して、国に再分配を任せたわけです。 これがいわゆる「冷戦」の間は、普通でした。自由主義陣営の先進国はみな、ロシアや中国の革命を目にし、自国内にも革命を口にする共産主義者を抱えていたわけですから、労働力の搾取とか言われないように、それなりに社会福祉に励んでいたわけです。ところが、共産主義陣営が自壊して冷戦が終わったので、もう革命の心配はなくなった、歯止めがなくなったので、アメリカの本性というべき苛酷な競争社会が出現しました。これがネオ・リベラルというものです。
ネオ・リベラルの大企業は、もう利益を従業員や社会へ還元する理由を持たず、ただ金の論理にのみよって、短期利益を計上すること、株主と経営者のみを優先することになりました。しかもグローバリゼーションで、途上国の安い労働力が無限に手に入るようになったので、自国では従業員のリストラや給料引き下げが平気で行われるようになりました。社会への還元もしたくないので、税などの軽減をしてもらえるように、国にロビーイングをするようになりました。要するに政治献金をしたり票集めをするから代りに企業の便宜を図ってくれというわけです。
それで、何が起こったかといいますと、先進国内での失業者や低所得者や保障のない契約社員やパートが増えた、というのは、まだいいんですが、富の90%を10%の金持ちが握っているというようなアンバランスと連動して、地球規模で格差が広がり、地球上の人間のマジョリティは貧困と病と内戦の中で暮らしているわけです。インディアンを抹殺しなくても、かってにどんどん死んでいくわけです。奴隷制を復活しなくても最低賃金で働く人もいくらでも調達できるわけです。しかも途上国の多くは金の論理で動く独裁者によって治められています。
そこで、尊厳を傷つけられた人々は、絶望して原理主義やテロリズムにはしるわけです。アメリカはそんなこと見ないふりをして自分ちに鍵をかけて、銃や核で武装してたんですが、9・11に自国をテロリストに攻撃され震え上がり、あわてて愛国法を作り、徹底防衛体制に入ったわけです。自衛だけでは足りなくて、塀に囲まれ24時間セキュリティ大勢の大規模な Gated community に住みたがり、本当は、国中を Gated community にしたいわけです。その表れが、盗聴や監視カメラの正当化と蔓延です。銃所持の許可と同じくピューリタンの神経症的自助精神の法的表現なのですね。
そして、長くなりましたが、今回の「共謀罪」というのは、どういう理屈をつけているにしろ、基本的には、そういう、今のアメリカのパニックと連動しているのだと思います。既成の法律を適用することで違法行為の共謀に対処することを考えず、出来るだけ広く新しい危険の幅をとっておきます。でも、日本にはピューリタン的なメンタリティがなく、伝統的に、外的の侵入を想定しない、引き戸の長屋とか縁側からこんにちはの社会でしたよね。今でこそ「外人が増えてぶっそうだ」と言われたり、アメリカ風セキュリティのマンションが流行ったり、監視カメラもたくさんつけるとか、駅や道路のくずかごを取り払うとか、どんどん変わってきていますが、そしてネオリベの格差社会が来ると言われていますが、そんな警戒心や闘争心むき出しの競争社会はもともと日本人に向いてないんですよ。
「ぶっこわされる」前の自民党の護送船団方式とか、中央から地方に金を還元するとか、談合体質の年功序列でそれなりののどかな繁栄があったわけです。しかし金には国境がなく、株式は誰にでも買え、世界は一部のトランスナショナル大企業の私物になりそうです。だから日本も生き残るための「改革」は迫られているのですが、だからといって、それがアメリカ式のネオリべで格差社会を助長し、びくびくして鍵をかけて武装してテロリストにおびえるような方向でいいものでしょうか。中東など、せっかく、非白人で非キリスト教の先進国日本に好感情を持ってくれているのに、イラクには自衛隊を送るし。つまり、「共謀罪」は、「すごい悪に対する対症療法なんだよ]と言っても、その「悪」の構造を、日本人のメンタリティにも立場にも反する形で、地球規模でさらに深めていく流れにあるから、よくないんです。その居心地の悪さを意識化したり言語化したりできないから、論議があいまいなのだと私は思います。
実は、5月18日発売の新潮45にフランスのCPEについての記事を書きまして、その中で、この「尊厳を奪われたテロリストが跋扈するネオリベ世界」を何とかできないかということを解説しました。ここに書いたようなことです。私はこの世界で、強いものの「強さ」、「大きいもの」の「大きさ」は、「より弱いものやより小さいもの」に捧げ仕えるるためにあるべきだと思っています。それは相対的なことで、誰でも、たとえ、アメリカ東部のWASPのエスタブリッシュメントの健康な男だって、いつかは老いや病や死によって弱くなります。誰かが今強くて大きいのは、成果主義やメリットとは関係がないし、弱くて小さいのも、その人のせいではない。家族レベルでも、地球レベルでも、力や富を循環させて、相対的弱者の尊厳が守られる世界に生きたいです。そのためには、「信頼」が存在できる社会が必要で、「共謀罪」は、日本人が島国の平和で培ってきたそんな漠とした「信頼」の夢を破るもので、多くの人はそこから目をそらしていたいのかもしれません。
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知識人の役割
このアメリカ(アングロサクソン)のピューリタニズムに切り込んだ竹下さんの共謀罪に対する根源的な批判は、実に鋭く、非常に冴えていますよね。最近はあまり流行らなくなりましたけど、ふと、「知識人の役割とは」ということに思いが至ります。この「知識人」という語は英語や仏語でどう表現するのかわかりませんが、かつてレイモン・アロンでしたか、邦題で「知識人の阿片」という本を書いていましたし、「9・11」以降、いちばんシャープな言説を吐いてきたチョムスキ、ーが繰り返し、「知識人であることの役割と責任」ということも言及しているんですよね。私の周りでも、普通の人は会社に勤めていて、夜遅くまで残業で働かされていて、こうした共謀罪のような危険な法案までなかなか思いをめぐらすことは難しいですよ。でも、鋭敏なセンスビリティを持っている人であれば、「何か変だぞ」というカンは働くと思いますが、じゃあ、「どこがどういうふうに具体的におかしいのか」という部分まで、言葉として表現はなかなかできないですよ。そこの壁を埋めるために、「知識人(という名の有閑人)」が存在し、警告を発する役割を担っていると思います。私は100歩譲って、日本の政府与党が、アメリカの愛国者法猿真似のこんなトンデモ法案を成立させようとするのは、まだ、理解できるし、全然、許せるのですよ。だからこそ、こうした権力の横暴にきちんとした批判を加え、まっとうな方向に持っていかせるのが、まさに「知識人の役割」でしょう。劣化がひどいんですよ。こういうときに文明的な視点から、きちんとした批判行為ができなかったら、何のために学問を身につけているのか、と言いたいですよ。同じ慶応仏文出身ということで、敢えて、今回は名指しさせていただきますが(少なくとも私には批判する資格がある)、福田和也に荻野アンナが「沈黙」してますよね。こういう動きが起こっているのをもし、知らないのであれば、「無知」ということですし、もし、知っててどう言っていいのかわからないのであれば、「無能」ということですし、知っていても敢えて見て見ぬフリをしているのであれば、「野蛮」、「臆病」ということでしょう。いったい、何のためにフランス文学を、そして、フランスを研究してきたのでしょうかね。新潮45は福田和也が連載を持っているので、竹下さんの論文が掲載される来月号でどんなことを言ってるか、注目ですね。
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共謀罪・感謝
詳しいご説明有り難うございます。
拙ブログの方でも後ほどご紹介したいかと。
やはり嫌なにほひぷんぷんですよね。
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そういえば
右さん達のマドンナ、桜井よしこさんも反対意見を出しましたね。
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新刊お知らせなど
共謀罪、その後どうなりましたか?それなりに盛り上がりましたね。障害者自立支援法案の時にも、もっと何とかならなかったかというのが心残りです。
今日5月10日、中央公論新社から『レオナルド・ダ・ヴィンチ−伝説の虚実』という単行本を出します。哲学、エゾテリズムから、欧米比較まで、マニアックなところから最近興味をもっている分野まで、ちゃんとつながってるお気に入りの1冊なので、ぜひ、お読みください。今日発売の『文藝春秋』にもダヴィンチ・コードについて記事を書いているのですが、その奥座敷がこの本です。
18日発売の新潮45にCPEの話を書いたのですが、編集者と話していると、結局フランス人の反応は日本人には全然分からないのだ、と言われてしまいました。それで、説明ばかりしてるうちにあまり本質に切り込めなかったかも。記事からカットした部分をそのうちこのサイトに載せましょう。
このところ、書下ろしをひとつと、聖ヨセフに見られる父親像、18世紀啓蒙時代のフェミニズム、無神論の系譜、の3テーマの資料読みのほか、奴隷制と植民地主義についてあれこれ調べています。日本人は黒人と直接の接触がなかったので、また幸いだれからも組織的な奴隷にもされなかったので、わりと良心の呵責が少ない分野かと思っていたのですが、調べれば調べるほど、「痛い」話です。そのうち一部を考えるタネにUPしておきます。西アフリカの黒人奴隷制に対して、啓蒙主義者はおかしいといって、ヨーロッパではフランス人が最初に廃止したのですが、それが、もろ植民地政策につながったのです。フランス革命がテロルに逸脱したり、フランス人は志は高くてそれを実現させるエネルギーもあるのに、すぐ低きに流れて、理念を消化してないことを露呈してくれます。でも20世紀の終わりに奴隷取引に関わった国で唯一、奴隷制を人類に対する罪にわざわざ認定するなど、ちゃんとつじつまを合わせて責任を取っているのは偉いかも。昨年春の法案の中で植民地に関するポジティヴな見解を入れて批判された条項もあっさり削除したし、それなりにけじめをつけるのは好感があります。
とにかく、植民地とは奴隷制の発展的解消なんですよ。それが理解できるとショックです。そして、「相手に選択の余地のない安い労力を調達して自分の生活のグレードを上げると」いうことの快楽って、原罪のようにどこかにあるような気がします。親からすべてを享受していた赤ん坊の万能感の名残なのでしょうか。全ての悪は何と人間的なのでしょう。怖いです。
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お疲れ様です
新刊、愉しみにしています。(なんせレオナルド先生だし)
共謀罪はあちこち読んでますが、ネット上は議論が出ていますがマスコミはあまり興味がないように感じられます。で、国会でやり合っている最中のようですね。不備等が指摘されているようです。
先日、ルワンダの虐殺についての曾野さんの本を読み終えましたが、アフリカにおける欧州のやり方は褒められたものではないですね。フランスが武器を流し続け、あのフツによる虐殺が起きた等。その辺りも興味深いところです。
奴隷制に関してはローマ時代の奴隷のあり方ってのも面白いですね。ギリシャ人の教師奴隷とか。威張っていた。
寧ろ近代の奴隷制や植民地主義の方が酷いのではないか?などとも思います。この辺りは進化論やプロテスタンティズムも関わってくるのでしょうか。
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シラクの日本口座など
レオナルド、島に送ってもらうように頼んでます。そろそろ・・・?
なんせ私自身、離島にいるようなもんで、状況がよく分からなくてすみません。
古代の奴隷は皆、被征服民でした。 敗者が勝者の奴隷になるわけで、人種的じゃないので、歴史の中でまた陽の目を見る可能性もあったわけです。でも、黒人は黒人であることをやめるわけにはいかないので、人種として否定されたことになります。しかし道具(特に武器)の優越というのは、人間にとって本質的に見えるのでしょうか。ヨーロッパが「未開」と出合った時に、自分たちの優位が自明に映ったのは事実なのでしょう。ブラック・アフリカの資料を見てて、服がミニマムな文化というのが「野蛮」に見えてしまうのは、私も温帯モンスーンの人だから? 服をいっぱい着て、サヴァイヴァルの工夫を日常的にしているエスキモーに対しては、「未開人」だから奴隷にしたりその後植民地にしたりって、ありませんでしたよね。やはり寒いか暑いかっていうのが、人間の欲望のシステムに大いに関係するのでしょう。
フランスではクリアストリーム・スキャンダルで、与党の大臣たちの多くが裏金問題を追及されてます。昨日からはついにシラク大統領が1992年に日本に60億円の口座を開いたというのが出てきました。調書にはSOWAバンク
とあります。そんなのありましたっけ? SANWA がSAUWA になってSOWA とか? 日本の銀行の名ってしょっちゅう変わるし、とてもついてけません。シラクのLe souci(心配事) をSOUSHI=Sushi(寿司)にかけて、今日のカナル・アンシェネに大きく出てました。
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ええ〜〜〜!!!
恐縮です。どうしよう。今から愉しみです。有り難うございます。
奴隷システムはそうでしたね。互いが交換されたり、文明同士というのは分断があれどそれなりに対等ではあるものの、「アフリカ」という異文化がヨーロッパ人にとって動物的に見えたのが「衣類」っていうのは面白いですね。
うちの島も暑いのでお洒落なものは持っていてもしょうがない。自然だらけた風になりますが、戦前に体験した本土からの差別の一つの要因にそのような見下しがあったのでしょうか?
そういえば今、三和ってないですね。
東京相和銀行というのはあります。色々怪しからん過去があるようです↓
http://tostar.s70.xrea.com/wiki/wiki.cgi?%C5%EC%B5%FE%C1%EA%CF%C2%B6%E4%B9%D4
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レジオンドヌール
ふーん、この相和ってのはそれっぽいですね。会長だった長田という人がフランスの勲章レジオンドヌールを受けていたというのがめちゃ怪しいですね。シラクが子供の母親に銀座の画廊を開かせたという例のゴシップとも関連してそうだし。
服装と文明の程度の誤解というのはおもしろいでしょ。確かに蒸し暑いとことか虫の多い気候のとこではレースとか刺繍とか発展しないでしょ。夜が長い、虫が少ない、重ね着が必要なくらいに寒い、とかないと。そして人間って服込みのイメージですから。変な話、黒人だって、露出部が少なければ肌の色の差も目立たなかったし。しつこいですが、エスキモーの肌の色なんて、ほとんどわかんないし、彼らの軽装なんて想像しにくいじゃないですか。逆に、ドイツの優生思想と連動していたヌーディスト・クラブなんて、はっきり言って見た目は醜いんですが、思い切り倒錯的な優越感があるんでしょう。
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コウモリ男、暗躍か?
フランス政局も「裏金スキャンダル暴露合戦」の様相を呈してきて、なかなかオモロクなってきましたね。ただ、そのドビルパンのサルコジに対する裏金の調査指示、そして、シラクの旧東京相和銀行(現・東京スター銀行)の秘密口座の話も、どこまで信憑性があるかは別として、ネタの「出所」が、どうもコウモリ男臭いですね(笑)。だって、フランスの内務大臣っていうのは、日本でいうところの総務大臣兼警察庁長官でしょう。正規の官僚機構から上がってくる情報に加えて、個人的な人脈も絶対に持っているあるはずですから、そこらあたりから、ワン・クッションなり、ツー・クッション置いて、足がつかないように、情報の「ロンダリング」を図って、マスコミにリークしているような気がしますね。私に言わせれば、内務大臣のポストにいて、政敵(=ドビルパン、シラク)のスキャンダルを徹底的に洗わなかったら、ただのおバカさんですよ。そのシラクの口座預金について、思うのはちょっと「額」が大きすぎますね。もし、仮にあったにしても、桁が一つ多いような気がします。日本とフランスでそうした「政治とカネ」に関する相場がどれくらい違うかは、よくわかりませんが、日本円で60億円っていったら、相当な金額ですよ。あの金丸信ですら、ワリシンなどの隠し資産で、せいぜい5億程度でしたから、そのあたりが私としては非常に眉唾ですね。私はむしろヘソ曲がりなので、こういう状況であるがこそ、断固、今こそ「シラク支持」を打ち出しますね。3選出馬してもいいです。
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共謀罪、その後
共謀罪の方はその後、例えば、桜井よしこが反対の意思表示をするなど(といっても、ちょっと微妙なスタンスではありますけどね)、私がブログで最初に書き始めたころに比べたら、かなり盛り上がってきました。日和見を決め込んでいた売文業者たちも、ここにきて(まあ、アリバイ作りもあるんでしょうけど)、反対の声を上げ始めました。あと、一息ですね。結局、今の国会の会期が6月18日までなんで、戦術としては会期延長を封じ込め、「時間切れゲーム・オーバー」ということです(笑)。だから、小泉とも手を組むんですよ。
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レオナルド
ご本はもう発売になったのですよね。読んでみよう。楽しみです。
わたしの好きなアメリカの作家で、カニグズバーグという人がいるのですが、この人が、レオナルドについての小説、それから、エレアノール・ダキテーヌについての小説を書いていまして、秀逸。レオナルド小説は、彼のもとで働いたサライという青年の視点から書かれています。(ナントカ・コードは読んでいないです。)
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ナントカコード
ナントカ・コードの映画は、昨夜カンヌでプレス関係者2000人に向けての試写会があったのですが、終わったあと拍手なしで、口笛を吹く人も、というさんざんな様子だったらしいです。パリの一般公開は今日からです。今日は昼間は生徒たちが来て夜はお芝居に行くので見にいけませんが、明日観にいこうかな。
サライって不思議な人物です。あんまりひどいので、レオナルドの隠し子かと一瞬思ったのですが、そうでないようだし、では何であんな男を? 美貌だけで我慢できたのか? 精神の気高さなんて関係がなかったのか・・・レオナルドはひょっとしてマゾ? 晩年にメルツィがやってきて救われた感じです。私の中ではサライの居場所が見つけられません。ミケランジェロのところにいたら、1日で追い出されてたろうなと思います。
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サライ
わたしは、サライ、って、このカニグズバーグの本、「ジョコンダ夫人の肖像」The Second Mrs. Gioconda 、でしか知らないんです。ここでは、そうですね、生のままの人間、子どものような無垢な欲望を体現した者、として描かれていてとても説得性がありました。
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ダ・ヴィンチ・コードの映画
ダ・ヴィンチ・コードの映画、パリでは昨日から上映なので、今日(18日)、観にいってきました。
最近映画に行ってないのですが、ダ・ヴィンチ・コードは私のダヴィンチ本のきっかけをくれた本だし、最近『文藝春秋』にも記事を書いたので、一応見ておこうと思って。
いろんな視点によって変わると思うのですが、まず、キリスト教のことを特に知らず、原作も読んでない普通の日本人の視点で見ると、多分、何言ってるのかよく分かんない、です。原作には、さすがに長編だけあって、あることないことたくさん書かれているので、「そうか、分かった」と感じた人は多いと思いますが、映画では、当然細かいことが抜けてるので、「???」です。スリラーとしても中途半端だし。
次にキリスト教やカトリックのことを普通に知っている普通のフランス人の視点で見ますと、いくらフィクションと思って見ても、メインのテーマがあまりにも違和感があって、全く楽しめません。だってマグダラのマリアの棺が実はルーヴルの地下に眠ってるというのがラスト・シーンなんですが、文春にも書きましたが、普通のフランス人にとって、マグダラのマリアの墓所は秘密も何も、真偽は別として中世以来の大巡礼地だし、その信仰は聖母マリアに匹敵するくらいポピュラーなのですから、今さらヴァチカンがそれを必死に隠してきたと言われても・・・映画でもっとなんとか脚色できればよかったのに、原作に忠実にと言うのが絶対条件だったらしく・・・原作はとにかく長いので、変な中心テーマもそれなりに希釈されてしまうのですが、映画ではごまかしがきかなくて、宗教や教義や信仰がどうのというより、「ポピュラー常識」とあまりにもかけ離れた部分がここまで強調されると引いてしまいます。
キリスト教にそれなりの知識があってかつ原作を読んだ人の視点からこの映画を観ると、「原作の方が面白い」に尽きます。原作の方が、映画のシーンが脳裏に浮かんで、テンポもいいし、わくわくエンタテインメント感もあり、映画で観てみたいというのがありました。実際映画になると、まあ大画面で夜のルーヴルやパリやロンドンなどを楽しめるというだけで、俳優たちもやることが大してないので不全感があり、もったいないという感じです。(個人的にはシラスというアルビノスの修道士が、灰色の目のもっと怪物っぽい大男を想像していたのに、ナルシスティックな青い目のお兄さんで、ロシアのダンサーみたいだと思いました。)全体的にはがっかりという感じでしょう。
最後に、キリスト教の知識とかがなくて、映画の原作によってはじめてキリスト教のタブーに触れたとか陰謀史観の薀蓄に感動したとかいう人たちの視点です。これが私には想像不可能です。タブーや秘密をヴィジュアルに堪能できて満足なのか、本の方が信頼感をそそられて、映画は物足りなかったと思うのか・・・
今はスリラーでもレべルの高い映画がたくさんあるので、この映画はプロはもちろん一般観客を感動させるのは無理だと思います。ハリーポッターやナルニア国のほうがずっとまし。 私の訳した『聖骸布の仔』という小説にも映画化の引きがいくつかあるようなのですが、そっちの方が断然期待できそうです。しかし、カンヌ映画祭は一昔前はハリウッドから見向きもされなかったのに、今は、すごい経済効果をあげているそうです。ネオリベラリズムの行き着く先がカンヌ映画祭のダ・ヴィンチ・コードかと思うとショックです。宣伝って何?金って何?ベストセラーって何?という感じです。
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本が届きました
竹下先生の本が届きました。
もう世間はダ・ヴィンチコードネタがあちこちで交わされていて、丁度タイムリー。
ちゃんとした本を読んで溜飲でも下げないと。
と本ネタばかりが飛び交ってる状況じゃぁ脳味噌が腐りそうで(^^;
・・・・・・・・というわけで私の脳味噌の健康のためにも嬉しく思います。
有り難うございます。
サライですが、、、たしかにいいトコなしですね。この小悪魔を手元に置くレオナルドの屈折した心理ってのはなんでしょうね。彼の行動を観察しながらなんらかのカタルシスを得るものがあったのかもしれません。
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ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカン
ダ・ヴィンチ・コードとヴァチカンについてのコメントを宗教のコーナーに入れました。
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自分探し
竹下様。最近ちょっとした事件が私の周りであり、ご意見を伺いたく思いました。
事件というのか、私の友人(43歳の女性)のダンナさんの浮気問題なのです。
この夫婦は本当に仲がよくて、ダンナの浮気なんて露とも想像していませんでした。
このダンナさん、すっごくまじめなそして優秀な人で、自営で仕事をしているほか大学で経営学を教えたりもしてるんです。
が、まじめすぎて「人生とは?生きるとは?本当の幸せとは?人間とは?」とかそういうのを追求しすぎて、
とある心理系ワークショップで会った10歳年下の女性にころっと参ってしまいました。
「あなたは、奥さんといる限り、人間的に成長できない」とか言われて、友人である奥さんと離婚するつもりになっています。
で、このダンナと浮気相手がはまっているのがとある大学の先生の論で、この人、本をいっぱい出していて、私も参考までに本屋で立ち読みしました。内容は、純粋な心を持った人は生きにくい、とか、自分のやりたいことをやれそのためには手段を選ぶな、とか、人の目を気にしてどうなる、とかそういう人生訓みたいのをいっぱい書いていて、とにかく薄っぺらいし、なんでこんなのにはまる人がいっぱいいるのか、それも立派な職業を持った40歳を過ぎた人(ダンナのこと)がはまるのか、不思議になるような本なんです。
ダンナさんはすごく頭も切れるし、これまでに哲学系の話とかで結構盛り上がったこともあって、
すごくものごとをよく考える人だなぁと思ってました。
今回の件は「なんで東大出てそんなしょーもない新興宗教にひっかかるの??」というのと似た感じがしました。
なんか、変な世の中ですよね。
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大変ですね
この手の罪作りなワークショップとか、セミナーはすごくたくさんあって、マインドコントロールだと思うんですが、
多くの場合は、コントロールされることをどこかで望んでいる人が引っかかるもので、健康で生活も安定していた大人が
自発的に引っかかる分には、もうどうしようもないです。
40にもなって、不惑じゃないですが、それ以上「成長する」ために、自力でできないでグループセミナーを頼ったり、
奥さんなど第三者のせいで成長できないなどというのは、実は大人になっていないんですね。
人生で、もうちょっとこうしたいとか、ひょっとしたらこうなれるかも、とかいくら思っても、
「だめなものはだめ」というのが私の実感です。自分を「高めたり」「成長したり」「幸せになったり」というのは、なろうとしてなれるわけではなく、とりあえず自分より弱い人や小さい人に手助けをしながら生きていけばいいんですよ。
ましてや自分を頼る人を踏みつけにしたり、不幸にしたりしながら「成長」も何もありません。自分というのは近くにいる
他者との関係性の文脈にしか現れてこないんですから、「自分」という素材があってそれを見つけろとか磨けとか実現せよという
言辞は全てまやかしだと思います。特に他人からそれを言われる場合は。
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胡散臭さの正体
はじめまして。
私は「自分を高める」「自分を磨く」という表現を見るたびに、いつもなんだかヤーな感じがしていたのですが、KAORUさんへのお返事で竹下先生が書かれたことを読んで、その理由がよくわかったように思います。「自分を高める」ことや「自分を磨く」ことは決して目的とすべきことではなく、まず自分のできることとして周囲の人たち(「人類」とかじゃなくて)に目を向け、何かできることがあれば手助けする。そうしているうちに自分が「高められたり」「磨かれたり」することはあるかもしれないし、ないかもしれないけれど、それはあくまでも結果であって、それ自体を目的とすべきではない。というか、それを目的としている限り、本当の「成長」はありえないでしょうね。
頭の中にもやもやと漂っていることを、竹下先生がご著書やこのサイトで明確な言葉にしてくださっているのを読むと、本当に晴れ晴れとした気分になります。
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