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「まじめな話」の板
8167
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:13:25
本も映画も観ていないけど、昔テレビで「ホームレス中学生」という
実話ものを少し観た。
どこかの団地みたいなところから、お父さんが家財道具を一生懸命に
外に出していて、学校から帰ってきた姉と弟画像それをみて「どうしたの?」と
尋ねる。
そうするとお父さんは、破産したから、今日で家族は解散だ、とだけいって
去っていくのである。観光ガイドじゃあるまいし、なにが「解散だ」なんだって
思ったが、その後中学生の男の子はホームレスになってあちこちを彷徨う、と
いった感じのドラマだった。
それはあるタレントさんの実体験で、「ホームレス中学生」はベストセラーになり
印税が2億円入ってきたという。
それを父親に6000万円の家をプレゼントし、お年玉に150万円づつ使い、
なんだかんだで税金を払って、あっというまに2億円は使い果たしたという。
もうあんたに聞いたって仕方がない理数系の掲示板では
年末になって「財産処分のお知らせ」
いろんな人がいます......
8168
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:15:02
姉と弟画像それをみて → 姉と弟が、それを見て
8169
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 16:24:47
ばあさんからやいやいいわれてなにもまとめられず寝込んでいた男が
「財産処分のお知らせ」なんてのんきに客観的に書いて、
井戸端会議のネタを放り投げているのは、
要するに、それが生長の家のもので、個人の生活と関係ないからである。
生長の家の今後を憂う抒情詩にも、いろんな種類があるようだ。
8170
:
シャンソン
:2018/12/30(日) 19:05:31
>>8164
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2018/12/post-a00c.html
なんか久しぶりに☝のブログを読んだら、
ちゃんと主義に乗ったオリジナルのクリスマスを
やっているじゃないですか。
なんでこんなことにプレゼントは誰が贈ったとか
建設会社の裏情報とかが出て世間話がはじまるのでしょう?
なんか醜悪ですね。
8171
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 19:09:00
〜磐余(いわれ)〜
磐余(読み)いわれ
.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
磐余
いわれ
奈良県桜井市阿部付近の古地名。履中,清寧,継体,用明天皇らの皇居のあった地域で,5〜6世紀頃の要地。
.
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル大辞泉の解説
いわれ〔いはれ〕【磐余】
奈良県桜井市南部の古地名。5、6世紀ごろの大和国家の政治の中心地。[歌枕]
「つのさはふ―も過ぎず泊瀬山(はつせやま)何時(いつ)かも越えむ夜はふけにつつ」〈万・二八二〉
.
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
百科事典マイペディアの解説
磐余【いわれ】
《日本書紀》《万葉集》に見える地名。石村とも。奈良県桜井市の南西部から橿原(かしはら)市の南東部にかけての地域。《日本書紀》のいわゆる神武東征神話の中に磐余邑の地名起源説話がある。神武天皇の和風諡号(しごう)はカムヤマトイワレビコ。同書には履中天皇磐余稚桜(わかさくら)宮,清寧(せいねい)天皇磐余甕栗(みかぐり)宮,継体天皇磐余玉穂宮,用明天皇磐余池辺双槻(いけべなみつき)宮などがみえる。《万葉集》の大津皇子の歌に磐余池が詠まれる。磐余野と共にのちに歌枕になる。
.
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
世界大百科事典 第2版の解説
いわれ【磐余】
奈良県桜井市南西部の池の内,橋本,阿倍から橿原市東池尻町を含む同市南東部にかけての地名。石村,石寸とも表す。《日本書紀》には,神武東征神話の中に磐余邑の起源説話がみえるほか,5〜6世紀の天皇の宮号として磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや),磐余甕栗宮(みかくりのみや),磐余玉穂宮(たまほのみや),磐余池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)がみられる。《万葉集》の大津皇子の歌などにも詠まれた磐余池は,いまもその痕跡をとどめるが,用明天皇の磐余池辺双槻宮や磐余池上陵(いけのえのみささぎ)はこの池の近くに営まれた。
.
出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について 情報
大辞林 第三版の解説
いわれ【磐余】
奈良県桜井市、天香久山の北東麓ろくの地域の古地名。神武天皇が八十梟帥やそたけるを討ったという地。・歌枕・ 〔多く「言われ」とかけて歌われた〕
.
出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
磐余
いわれ
奈良県中部、桜井市阿部地区付近の古地名。天香久山(あめのかぐやま)北東麓(ほくとうろく)にあたり、大和(やまと)朝廷の政治的要地であった。『日本書紀』によれば、履中(りちゅう)天皇の磐余稚桜宮(わかさくらのみや)のほか、清寧(せいねい)天皇、継体(けいたい)天皇などの皇居があったといわれる。大津皇子(おおつのみこ)の「百(もも)伝ふ磐余の池に鳴く鴨(かも)を今日(きょう)のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ」(『万葉集』巻3)や『日本書紀』に記された磐余池は、桜井市大字池之内から橿原(かしはら)市東池尻町付近にあったと推定される。[菊地一郎]
.
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
世界大百科事典内の磐余の言及
【大和国】より
…ヤマトの範囲は初瀬川の流域で,三輪山と香具山を結んでできるデルタ地帯(第一次ヤマト)である。シキ(磯城)やイハレ(磐余(いわれ))地域が第一次ヤマトに相当する。香久山は代々の大王の国見儀礼の舞台であるとともに,その土が呪力あるものとされ,神聖視されていた。…
.
※「磐余」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
8172
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:03:46
〜宇治天皇〜
菟道稚郎子
▼人気記事ランキング
▼目次
概要
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ、生年不詳 - 壬申年[1])は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。
第15代応神天皇皇子(『日本書紀』では皇太子)で、第16代仁徳天皇の異母弟。
1.概要
菟道稚郎子は、名前の「菟道」が山城国の宇治(現在の京都府宇治市)の古代表記とされるように、宇治地域と関連が深い人物である。郎子は宇治に「菟道宮(うじのみや)」を営んだといい、郎子の墓も宇治に伝えられている。
郎子については『古事記』『日本書紀』等の多くの史書に記載がある。中でも、父応神天皇の寵愛を受けて皇太子に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと:仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したという美談が知られる。ただし、これは『日本書紀』にのみ記載された説話で、『古事記』では単に夭折と記されている。
『古事記』『日本書紀』の郎子に関する記載には多くの特異性が指摘されるほか、『播磨国風土記』には郎子を指すとされる「宇治天皇」という表現が見られる。これらの解釈を巡って、「天皇即位説」や「仁徳天皇による郎子謀殺説」に代表される数々の説が提唱されている人物である。
2.名称
表記は次のように文書によって異なる。本項では「莵道稚郎子」に統一して解説する。
宇遅能和紀郎子 - 『古事記』[原 1]
菟道稚郎子皇子 - 『日本書紀』[3]
宇治若郎子 - 『山城国風土記』逸文[原 3]
宇治稚郎 - 『日本後紀』[原 4]
菟道稚郎子 - 『日本後紀』逸文[原 5]
宇治稚彦皇子 - 『続日本後紀』[原 6]
兎道稚郎皇子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
兎遅稚郎子 - 『先代旧事本紀』「天孫本紀」[原 7]
菟道稚郎皇子 - 『延喜式』諸陵寮[原 8]
これらのほか、『播磨国風土記』に見える「宇治天皇」[原 9]も菟道稚郎子を指した表記と指摘される[1]。
2.名称
2.1.「ウジ」について
名前の「ウジ・ウヂ(莵道/宇遅)」は、京都府南部の地名「宇治」と関係する。「宇治」の地名は古くは「宇遅」「莵道」「兎道」などとも表記されたが、平安時代に「宇治」に定着したとされている[12]。『古事記』では母・宮主矢河枝比売が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まっていた旨が記され、郎子と当地との関係の深さが示唆される。なお現在も「菟道」という地名が宇治市内に残っているが、読みは「とどう」である。
地名「宇治」について、『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子の宮が営まれたことが地名の由来としている。しかしながら、『日本書紀』垂仁天皇紀・仲哀天皇紀・神功皇后紀にはすでに「菟道河(宇治川)」の記載があることからこれは誤りと見られ[3]、むしろ菟道稚郎子の側が地名を冠したものと見られている[3]。現在では、北・東・南を山で囲まれて西には巨椋池が広がるという地理的な奥まりを示す「内(うち)」や、宇治を中心とした地方権力によるという政治的な意味での「内」が、「宇治」の由来と考えられている[14][5]。実際、宇治はヤマト王権の最北端という影響の受けにくい位置にあることに加え、菟道稚郎子の説話や「宇治天皇」という表現からも、宇治に1つの政治権力があったものと推測されている[3]。なお、文字通り「兎(ウサギ)の群れが通って道になった」ことを「莵道」の由来とする南方熊楠による説もある[16]。
8173
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:09:54
>>8172
〜宇治天皇〜
3.系譜
3.1.古事記・日本書紀
(名称は『日本書紀』初出を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
『古事記』『日本書紀』によれば、応神天皇と和珥氏(丸邇氏)祖の日触使主(ひふれのおみ、比布礼能意富美)の女 の宮主宅媛(みやぬしやかひめ、宮主矢河枝比売)との間に生まれた皇子である[20]。同母妹には矢田皇女(やたのひめみこ、八田皇女/八田若郎女:仁徳天皇皇后)、雌鳥皇女(めとりのひめみこ、女鳥王)がいる。
応神天皇と仲姫命(なかつひめのみこと、中日売命)との間に生まれた大鷦鷯尊(おおさざきのみこと、大雀命:仁徳天皇)は異母兄にあたる。また関連する名前の人物として、宮主宅媛の妹の小?媛(おなべひめ、袁那弁郎女)から生まれた菟道稚郎女皇女(うじのわきいらつひめのひめみこ、宇遅能若郎女)がいる。
なお、菟道稚郎子の妻子に関して史書に記載はない。
関係略系図
系図は左から右。実線は実子、点線は婚姻関係、数字は天皇即位順を表す。表記は『日本書紀』に基づく。
[4]前ページ
(2.2.「イラツコ」について) [6]次ページ
(3.2.先代旧事本紀)
20. 『古事記』応神天皇記、『日本書紀』応神天皇2年3月条。
3.系譜
3.2.先代旧事本紀
『先代旧事本紀』では、饒速日命(物部氏祖)九世孫の物部多遅麻連(もののべのたじまのむらじ)の女の山無媛連(やまなしひめのむらじ)を母とする[原 7]。また『古事記』『日本書紀』同様、山無媛連は矢田皇女と雌鳥皇女の母でもあるとしている[原 7]。
この記載と関連して、後述のように、菟道稚郎子の御名代の部との関係がうかがわれる宇治部氏や宇治氏は、物部氏一族とされている。これらが物部氏を称したのは『先代旧事本紀』の伝えるように菟道稚郎子の外戚が物部氏であったことに基づくと推察して、母を和珥氏とする『古事記』『日本書紀』の記述は誤りの可能性があるという指摘もある[21]。
4.記録
4.1.日本書紀
『日本書紀』によれば、百済から来朝した阿直岐と王仁を師に典籍を学び、父天皇から寵愛された[22]。応神天皇28年には、高句麗からの上表文に「高麗王、日本国に教ふ」とある非礼を指摘し、これを破り捨てている[23]。応神天皇40年1月に皇太子となった[24]。
翌年に天皇が崩じたが、郎子は即位せず、大鷦鷯尊と互いに皇位を譲り合った。そのような中、異母兄の大山守皇子は自らが太子に立てなかったことを恨み、郎子を殺そうと挙兵した。大鷦鷯尊はこれをいち早く察知して郎子に伝え、大山守皇子はかえって郎子の謀略に遭って殺された。その際、大山守皇子の遺骸に向けて次の歌を詠んだという[25]。
この後、郎子は菟道宮に住まい、大鷦鷯尊と皇位を譲り合うこと3年に及んだ。永らくの空位が天下の煩いになると思い悩んだ郎子は互譲に決着を期すべく、自ら果てた。尊は驚き悲しんで、難波から菟道宮に至り、遺体に招魂の術を施したところ、郎子は蘇生して妹の八田皇女を後宮に納れるよう遺言をし、再び薨じたという[26]。
4.記録
4.2.古事記
『古事記』では、叙述を宮主矢河枝比売(宮主宅媛)から始めており、応神天皇が木幡村(現在の京都府宇治市木幡)に住まう比売と出会い、郎子が生まれるまでが描写される[原 1]。
その後は『日本書紀』と概ね同様の所伝を記す。大山守皇子の遺骸に向けて詠まれた歌も、ほぼ同じものが収録されている[27]。一方皇位継承については、単に宇遅能和紀郎子(菟道稚郎子)が早世したため、大雀命(仁徳天皇)が即位したと記している[原 1]。
4.記録
4.3.風土記
『山城国風土記』逸文では、菟道稚郎子が住んだ宮は「桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや)」と記載される。また「宇治」の地名の由来はこの宮が営まれたためとし、それ以前の当地は「許乃国(このくに)」と言ったとする[原 3]。
『播磨国風土記』には「宇治天皇の世」という記載があり[原 9]、事績は見えないがこの「宇治天皇」は菟道稚郎子を指すと見られている[1]。
8174
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:18:22
>>8173
〜宇治天皇〜
4.記録
4.5.その他
菟道稚郎子について言及したその他の史書は、以下の通り。
『日本後紀』弘仁6年(815年)6月27条[原 4]
仁徳天皇と郎子の話に感動して埋葬を望んだ賀陽豊年という人物に関する記載(後述)。
『日本後紀』逸文天長3年(826年)3月1日条(『類聚国史』所収「渤海使」)[原 5]
嵯峨天皇から淳和天皇への譲位の言及にあたって、仁徳天皇と郎子の譲りあいを引き合いに出した記載。
『続日本後紀』承和7年(840年)5月6日条[原 6]
淳和天皇の散骨の議論に際して、郎子の散骨の伝承を引き合いに出した記載(後述)。
『先代旧事本紀』天孫本紀[原 7]
郎子の出自に関する記載(前述)。
『延喜式』諸陵寮[原 8]
宇治墓(郎子の墓)に関する記載(後述)。
5.宮
菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや:『日本書紀』)または桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや:『山城国風土記』逸文)に住んだといい、その地は京都府宇治市の宇治上神社(位置)または宇治神社(位置)に比定されている[30]。両社は合わせて『延喜式』神名帳に「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記されている式内社で、明治に分かれるまでは一社として「宇治離宮明神」と称していた[12]。
また『山城国風土記』逸文によると、この郎子の宮が営まれたことが「宇治」の地名の由来という。しかしながら前述のように、この記述には疑問が呈されている。
なお『万葉集』には「兎道乃宮子(宇治のみやこ)」という記載が見られるが[32]、これはこの歌を詠んだ額田王が近江に行幸する際に泊まった仮宮を指したものである[33]。
6.墓
墓は、宮内庁により京都府宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、位置)に治定されている[34][15][36]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「丸山古墳」。
6.墓
4.記録
菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている[15]。
また『続日本後紀』承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる[原 6]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する[原 8][15]。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。
6.墓
6.2.後世の治定
上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(位置)[17][38]。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた[15]。
また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている[15]。賀陽豊年は、『日本後紀』弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている[原 4]。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが[15]、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある[39](通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。
郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない[20][41]。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方[42]と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方[20]がある。
なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[23]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[23]。
8175
:
蒼天の實相
:2018/12/30(日) 23:21:05
>>8174
〜宇治天皇〜
7.考証
史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[44]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]。
これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[45]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][46]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[47]。
このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[48]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[28]。
記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある[29][51]
8.宇治部
菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄の部としては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[31]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、姓は連)が史書上に見える[31]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝えている[53]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[31]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国・常陸国[54]・下野国・近江国・越前国・備前国・讃岐国・筑前国といった全国に及んでいる[31]。なお『先代旧事本紀』では、饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]。
なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[55]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[33]。
8176
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 05:10:15
8175:蒼天の實相
18/12/30(日) 23:21:05
>>8174
〜宇治天皇〜
7.考証
史書の菟道稚郎子に関する人物描写では、大山守皇子に対して謀略を用いる場面もあるものの、『日本書紀』の自殺の美談に特に顕著であるように、全般に儒教的な色彩が極めて濃いという評価がなされている[44]。また、母が和珥氏出身であること、「郎子」という特殊な呼称、天皇即位をほのめかす多くの表現等から、描写の特異性が指摘される[7]。
これらについて、夭折(『古事記』)・自殺(『日本書紀』)という表現は潤色であるとし、仁徳天皇に攻め滅ぼされたとする説が古くより提唱されており、背景に和珥氏・葛城氏の争いがあったという意見がある[45]。この「仁徳天皇による謀殺説」には多くの説が従っているが[7][46]、中でもこの争いが記述された意味に対して、菟道稚郎子の物語は和珥氏の伝承が由来であって、郎子を顕彰するという和珥氏の要請を果たしつつも聖帝たる仁徳天皇の構築のために結び付けられた叙述であるという見方がなされてきている[47]。
このように菟道稚郎子を仁徳天皇の脇役とする見方に対して、再評価する動きもある。その中で、『古事記』では「郎子」が皇位継承者の「命」とは異なる用法(前述)である一方、天皇として即位していた扱いの表現もまた見られることから[48]、「皇統譜と並行してありえた天皇」であるとし、記紀に対して「別の古代」の存在が指摘される[7]。似た事例としては「飯豊天皇」と称される忍海郎女(おしぬみのいらつめ)が見られ、描写法の関わりが考えられる[7]。またこの菟道稚郎子の記事により、皇統の父子継続から兄弟継続への変化(右図参照)が合理的に実現されているとも指摘される[28]。
記紀以外では、『播磨国風土記』にある「宇治天皇」の記載からも皇位に就いていたとする指摘がある[29][51]
8.宇治部
菟道稚郎子の御名代の部、すなわち菟道稚郎子の名を冠した朝廷直轄の部としては、宇治部(うじべ、宇遅部)が指摘される[31]。この宇治部の伴造氏族としては、宇治部氏(宇遅部氏、姓は連)が史書上に見える[31]。『新撰姓氏録』には河内国神別と和泉国神別に記載があり、饒速日命の六世孫・伊香我色乎命(伊香我色雄命)の後裔と伝えている[53]。これら2氏一族の人名は他の史書上には見えないが[31]、直(あたい)姓・無姓の者は、武蔵国・常陸国[54]・下野国・近江国・越前国・備前国・讃岐国・筑前国といった全国に及んでいる[31]。なお『先代旧事本紀』では、饒速日尊七世孫の多弁宿禰命が宇治部氏の祖と伝えている[原 7]。
なお、宇治部自体は菟道稚郎子の御名代部としての確証には至っておらず、『国史大辞典』では「確かな御名代部名」には挙げられていない[55]。また、他の「宇治」を冠する氏族として宇治部氏と同じ物部氏系を称する宇治氏(姓は連のち宿禰)があり、宇治部の管掌氏族とする説がある[33]。
8177
:
トンチンカン信徒
:2018/12/31(月) 05:11:54
嫌ってる、シャンソンさんの、不思議
8178
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 10:42:15
〜海人族〜
海人族
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▼目次
概要
海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族は縄文時代から弥生時代以降にかけて海上において活動し、のちには海上輸送で力をつけることとなった集団である。しかし、学術的な研究としてはまだ進んでいない分野である。
1.系統と分布
海人族には、1.インド・チャイニーズ系と2.インドネシア系の2系統がある[1]。
1は安曇系やその傍系の集団で、中国南部(江南地方)から東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸、玄界灘、九州北部に達した集団と推定され[2]、日本列島に水稲栽培がもたらされたルートと一致しており、中国大陸を起源として九州に渡った弥生人(倭人)とほぼ同義であろうと考えられる。
兵庫県の淡路島には海人族に関わる逸話が古くからあり、北部九州から瀬戸内海を小舟で渡り淡路島に至るルート、または紀伊水道より上がるルートがあったとする説があり、青銅や鉄などが大陸からもたらされた。海人族研究で知られる甲元真之氏や系譜学者、宝賀寿男氏は瀬戸内海は岩礁や島々が多く外洋の船では航行できないとし、九州東岸から小舟に乗り換えたとする。淡路島は海人族の営みの地として「日本遺産」に認定されている。
2は黒潮に乗って縄文時代に日本列島にやってきた南島系の種族(隼人)の可能性がある[3]。
日本列島では沖縄県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などの県に2の末裔が数多く住んでいるとされる。
2.氏族
海人族に属す氏族には安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが有名である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏も元は海人族であったとする説がある。
「ワタツミ」も参照
8179
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 10:45:13
>>8178
〜海人族〜
海人族
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▼目次
概要
海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族は縄文時代から弥生時代以降にかけて海上において活動し、のちには海上輸送で力をつけることとなった集団である。しかし、学術的な研究としてはまだ進んでいない分野である。
1.系統と分布
海人族には、1.インド・チャイニーズ系と2.インドネシア系の2系統がある[1]。
1は安曇系やその傍系の集団で、中国南部(江南地方)から東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸、玄界灘、九州北部に達した集団と推定され[2]、日本列島に水稲栽培がもたらされたルートと一致しており、中国大陸を起源として九州に渡った弥生人(倭人)とほぼ同義であろうと考えられる。
兵庫県の淡路島には海人族に関わる逸話が古くからあり、北部九州から瀬戸内海を小舟で渡り淡路島に至るルート、または紀伊水道より上がるルートがあったとする説があり、青銅や鉄などが大陸からもたらされた。海人族研究で知られる甲元真之氏や系譜学者、宝賀寿男氏は瀬戸内海は岩礁や島々が多く外洋の船では航行できないとし、九州東岸から小舟に乗り換えたとする。淡路島は海人族の営みの地として「日本遺産」に認定されている。
2は黒潮に乗って縄文時代に日本列島にやってきた南島系の種族(隼人)の可能性がある[3]。
日本列島では沖縄県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などの県に2の末裔が数多く住んでいるとされる。
2.氏族
海人族に属す氏族には安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが有名である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏も元は海人族であったとする説がある。
「ワタツミ」も参照
8180
:
蒼天の實相
:2018/12/31(月) 14:56:46
〜八色の姓〜
(新羅人には無い)
八色の姓
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3.氏姓制から令制官僚制へ
680年(天武10)飛鳥浄御原令の選定を開始したことに見られるように、また、八色の姓の詔にも見られるように、旧来の氏族制度を改革し、新しい国家体制に即応出来る官僚制創造の政策の一環であった。
奈良時代から平安時代に至って、源・平・藤・橘の四姓が隆盛になると、その末裔の姓はほとんどが朝臣になってしまい、姓そのものの意味がなくなっていった。ただし、実質的な意味がなくなった後にも「朝臣」の称は残り続け、八色の姓が制定されてから900年以上が過ぎて新設された豊臣氏についても「豊臣朝臣」とされている。
8181
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 08:59:06
〜新年の挨拶〜
「あけまして‐おめでとう〔‐おめでたう〕【明けましておめでとう】」の意味
[連語]正月のあいさつ語。年明けを無事に迎えられたことを祝う言葉。丁寧に言う場合には「ございます」を付けて「明けましておめでとうございます」と言う。
[補説]「おめでとう」は「御目出度う」「御芽出度う」と書くこともある。
8182
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 12:01:17
〜活目入彦命〜
2.名
活目天皇(いくめのすめらみこと) - 『日本書紀』
活目尊(いくめのみこと) - 『日本書紀』
8183
:
トンチンカン信徒
:2019/01/02(水) 12:06:05
正月から、ワザと嫌がる、シャンソンさん。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
325:シャンソン
19/01/02(水) 11:02:37
>>324
しかし、トキ管理人とともに、さんざん傍流や人を傷つけてきた人が
傍流掲示板をもふくめて閲覧者全員を祝福するようなことを書いています。
だから正月早々嫌な気分になりました。
今は講習会などに成果をあげている関係者の人が家族の人たちとともに
わが家に来ておせちなど食べていますが、掲示板では嫌な人の話題が出ています
だから当分新掲示板をみないようにしようと思いました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
自分の気持ちに、聞きしょ。晴れのち曇りの、シャンソンさん
8184
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 12:53:10
〜豊城入彦命〜
豊城入彦命
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1.系譜
第10代崇神天皇皇子。母は荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ)。垂仁天皇(第11代)の異母兄で、豊鍬入姫命の同母兄である。
2.記録
『日本書紀』[3]によると、崇神天皇48年に天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた。豊城命は「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣されたという。
3.墓
墓の所在は不明。
群馬県前橋市の総社二子山古墳では、1870年(明治3年)まで豊城入彦命の墓として墓丁が置かれたという。しかし調査により古墳は6世紀末の築造とされ誤りと判断された。また、同じく前橋市に所在する大室古墳群にあてる説もある。茨城県石岡市には市内の丸山古墳が命の墓であるとの伝承が残っている。
8185
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:19:56
>>8184
〜下毛野氏〜
下毛野氏
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▼目次
概要
下毛野氏(しもつけのうじ、しもつけぬうじ[1])は、「下毛野」を氏の名とする氏族。
第10代崇神天皇皇子の豊城入彦命の後裔を称する皇別氏族で、「下毛野君(公)」のち「下毛野朝臣」姓を称した。
下毛野氏
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1.概要
大化以後に中級貴族、10世紀以後は公家の下級武官として活躍した氏族である。国史には当初より朝廷に仕えた氏族として記載されており、大化以前の動向は明らかでない[1]。名称の「下毛野」に見えるように、元々は下毛野地域(現・栃木県南西部)における豪族であったと推測されているが、記載が少なく定かでない。
名称にある「毛野」とは古代の群馬県・栃木県南西部を指す地域名称で[2]、都に近い側を「上毛野」(のち上野国(現・群馬県))、遠い側を「下毛野」(のち那須を加えて下野国(現・栃木県))としたのが基となっている。
2.出自
2.1.文献上の記載
『日本書紀』には第10代崇神天皇が皇子の豊城命(豊城入彦命/豊木入日子命)に東国統治を命じたと記載するが、その豊城命について「上毛野君・下毛野君の祖」であると付記している[4]。なお豊城入彦命がそれらの祖である旨は、『古事記』にも記されている[5]。
平安時代初期の弘仁6年(815年)『新撰姓氏録』には下毛野朝臣について「崇神天皇皇子の豊城入彦命の後」と記載されており[6]、豊城入彦命の後裔であることが公称されていた。なお『新撰姓氏録』に見られるように豊城入彦命の後裔を称する氏族は他にも多くあるが、中でも下毛野朝臣のほか上毛野朝臣、大野朝臣、池田朝臣、佐味朝臣、車持朝臣の6氏族は「東国六腹朝臣」[8]と総称され、ともに毛野地域(群馬県・栃木県南西部)出身で出自を同じくするという。
『続日本紀』には慶雲4年(707年)に下毛野石代が姓を「下毛野朝臣」から「下毛野川内朝臣」に変えたという記載があり[9]、下野国河内郡との関係が指摘されている[4]。
また疑いも多いが、『先代旧事本紀』「国造本紀」では、仁徳天皇の御世に豊城命四世孫の奈良別が初めて下毛野国造に任じられたと記されている[11]。奈良別については「六世孫の下毛君奈良」と記載する文献もあり[12]、下毛野氏一族とも推定されている。
8186
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:25:30
>>8185
〜下毛野氏〜
2.出自
2.2.考古資料による考証
毛野地域(群馬県・栃木県南西部)には古墳時代に多くの古墳が築かれたが、下毛野地域においては5世紀末から6世紀に小山市北部において最大規模の摩利支天塚古墳(墳丘長121メートル)と琵琶塚古墳(123メートル)が築かれた[5]。
代わってやや北方の壬生町南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた[15][5]。これら下野型古墳が下毛野氏一族の墓と解されている[16]。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち、円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される[5]。
古墳群北東の下野薬師寺は下毛野古麻呂による氏寺としての建立と伝わることからも[17]、当地と下毛野氏の関係の深さがうかがわれる。また、古墳群付近には下野国庁や下野国分寺・国分尼寺も建立されており、一帯はのちの下野国においても中心地であった。
3.歴史
史実としての国史の初見は天武天皇13年(684年)11月で、八色の姓において他の52氏とともに「下毛野君」に朝臣の姓が授けられたという記事である[18]。
一族としては下毛野古麻呂が特に名高く、『大宝律令』撰定に従事したことが知られる。また、大学助教であった下毛野虫麻呂が『懐風藻』に漢詩を残しているように、学問的活躍が目立っている[1]。
しかしながら以後は中央の中・下級貴族にとどまり[9]、10世紀以降は近衛府の舎人や院・摂関家の随身としての活躍が見られる[10]。摂関家とは藤原道長の頃から結びつきを強め、家人として供奉・警固の任にあたった[10]。その関係で馬術・鷹飼・舞楽・調理に優れ、厩所・随身所・雑色所の長を務め、荘園の管理も行なっていた[10]。
その後も山城国乙訓郡の調子荘を本領として任にあたっていたが、室町時代中期以降衰退したという[10]。
4.主な下毛野氏
4.1.人物
下毛野石代 - 従五位下。下毛野川内朝臣に改姓。また征夷副将軍に任じられる。
下毛野虫麻呂 - 大学助教。『懐風藻』に漢詩が残る。
下毛野多具比 - 従五位上、遠江守。
下毛野稻麻呂 - 従四位下。
下毛野公時 - 近衛舎人、番長、藤原道長の随身。童話「金太郎」のモデルとなったとされる[11]。
他氏出身
8187
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:29:18
〜下毛野公時(金太郎のモデル)〜
概要
下毛野 公時(しもつけの の きんとき)は、平安時代の官人。童話「金太郎」のモデルとなったとされる[1]。
1.略歴
下毛野氏は、10世紀以降、代々下級武官を務めた氏族であった[2]。公時は近衛府の下級官人であった下毛野公友を父、尾張兼時の娘を母として長保2年(1000年)に出生した[1]。
寛弘6年(1009年)には、近衛舎人となっており、18歳で死去するまでには番長となり、その間三条天皇の行幸に際しての歌舞(東遊)や、騎射(真手結)、相撲使を務め、併行して藤原道長の随身ともなっていた。
寛仁元年(1017年)8月24日以前に相撲使としてスカウトに赴いた筑紫にて死去。享年18。
2.伝説化
詳細は「金太郎」を参照
存命中、近衛府官人「第一の者」と言われ、死後もその評判は衰えなかった[1]。『今昔物語集』では既に源頼光の郎党としての「公時」が見られており、伝説化の始まりと言える[1]。その後鎌倉時代から中世末期にかけ、「頼光四天王」伝説の定着により、次第に「金太郎」伝説となっていったと考えられている[1]。
8188
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:36:34
>>8186
〜下毛野氏〜
4.主な下毛野氏
4.2.氏族・家
左右近衛府地下官人の調子家・富家が下毛野姓を称し、江戸時代を通じて存続した。
また、宇都宮氏など下野地域の社家・武家に後裔と推測される氏族がある。
8189
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:47:54
>>8188
〜下野宇都宮氏〜
下野宇都宮氏
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▼目次
概要
下野宇都宮氏(しもつけうつのみやし)は藤原北家道兼流の名族・宇都宮氏の嫡流である。代々下野国司を務め、鬼怒川(当時は毛野川)流域一帯を治めた大身。奥州を見据える要衝の地・宇都宮及び日光の地を治める社務職(宇都宮検校等)を務め、京都との繋がりが強かった。
下野国は宇都宮氏の発祥地であり、当地の宇都宮氏が嫡流。庶流として豊前宇都宮氏(城井氏)があり、さらに伊予宇都宮氏、筑後宇都宮氏(蒲池氏)などがある。それらと区別するため本貫の下野の地名を付けて下野宇都宮氏と呼ばれる。
8190
:
蒼天の實相
:2019/01/02(水) 22:51:16
>>8189
荒川とは、毛野川とは、鬼怒川のことらしい。
荒御霊の川
8191
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:25:56
〜宇都宮氏〜
概要
宇都宮(うつのみや)氏は、日本の氏族。摂関家藤原北家道兼流を称する大族。下毛野氏、中原氏の流れを汲むともいわれる。
1.出自
藤原氏一族の藤原北家の藤原道兼の曾孫を称する[1]藤原宗円が、源頼義、義家の奥州安倍氏討伐(前九年の役)での功により宇都宮(現・栃木県宇都宮市二荒山神社の別称)別当職に任じられ、宗円の孫の宇都宮朝綱から苗字(名字)として宇都宮氏を名のる。しかし『宇都宮市史』や『姓氏家系大辞典』では、宗円を藤原道兼の子孫とするのは後世の仮冒で、宇都宮氏は中原氏の出、あるいは古代の毛野氏の後裔とされているなど、諸説ある。
2.宇都宮氏嫡流(下野)
宇都宮氏は下野国が本貫であったため、各地の庶流に対してしばしば下野宇都宮氏といわれることもある。下野国一之宮名神大社であった宇都宮二荒山神社座主および日光山別当職等を務め、紀清両党を率い22代・500年に亘って下野国、さらには日本国土の治安維持を司った名家。国司や守護も歴任し、現在では戦国大名とも評されている。
8192
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:39:11
>>8191
〜八田宗綱〜
八田宗綱
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概要
八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。
生涯
八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる。藤原兼房の子兼仲の子[2]で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県下館市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(大掾棟幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。
応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。
娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。
脚注
宇都宮系図別本
「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
関連項目
宇都宮氏
八田氏
小田氏
結城氏
2. 「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
8193
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 00:40:09
>>8192
〜八田知家〜
八田知家
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▼目次
概要
八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある[1]。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
1.生涯
保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝側について戦い、功績をあげる。治承4年(1180年)8月の源頼朝挙兵に早くから参加しており、同年には下野国茂木郡地頭職を安堵された。寿永2年(1183年)野木宮合戦に参加。元暦元年(1184年)8月の源範頼率いる平氏追討軍に従軍。文治元年(1185年)4月、前年に源義経が無断任官で頼朝の怒りを買った際、知家も右衛門尉に任官しており、頼朝から「鎮西に下向する途中に京で任官するなど、怠け馬が道草を食うようなものだ」と小山朝政と共に罵倒されている。文治5年(1189年)7月の奥州合戦では千葉常胤と共に東海道大将軍に任ぜられ、福島の浜通りから奥州藤原氏を追い詰めた。
建久4年(1193年)、曾我兄弟の仇討ちをきっかけに、従兄弟である常陸大掾氏の多気義幹を北条時政と共に罠にはめて領地を没収し、自分の本拠地を下野から常陸に移し守護に補任された。
建久7年(1196年)には降伏して捕らえられた平景清を自邸に預かっている。
建久10年(1199年)、頼朝が没し、後を継いだ2代将軍源頼家の専制を抑えるために結成された十三人の合議制の一人となる。建仁3年(1203年)には頼朝の弟で頼家の叔父にあたる阿野全成が北条氏とともに反頼家派を形成したことから、先手を打って北条氏に対抗した頼家の下知により、全成を誅殺した。
建保6年(1218年)に死去した。
[6]次ページ
8194
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 07:32:39
〜和氏〜
和氏
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1.概要
百済系の渡来氏族で、百済の第25代王・武寧王の子孫と称した[1][2][2]。和(やまと)の名称は、大和国城下郡大和郷(現在の奈良県天理市佐保庄町大和一帯)に由来する[4]。
もともと和史姓を名乗っていたが、和乙継(やまとのおとつぐ)の娘・新笠が入侍していた白壁王(光仁天皇)が即位したため、宝亀年間(770年代)に乙継・新笠親子には高野朝臣姓を賜与された[5]。また、乙継の子・国守らその他の一族も延暦2年(783年)に史姓から朝臣姓に改姓している[6]。
光仁天皇と新笠の皇子である桓武天皇は、延暦9年12月30日(791年2月11日)、生母の一周忌に際して、母系の祖父・和乙継と祖母・土師真妹(はじのまいも)に正一位を追贈した。朝臣姓和氏からは、桓武朝で天皇の外戚として中納言にまで昇進し、渡来系氏族として初めて公卿となった和家麻呂(乙継の孫)がいる[7]が、以降は振るわなかったとみられる。朝臣姓「高野」は乙継と新笠の父娘にのみ賜姓されたとみられ、こちらも文献に現れない。
8195
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 07:36:44
>>8194
〜武寧王〜
武寧王
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概要
武寧王(ムリョンワン、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記』百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀』雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、「諱は嶋王という。これは昆支王の子である。則ち末多王(東城王)の異母兄である」としながらも、「今考えるに、島王は蓋鹵王の子である。末多王は昆支王の子である。これを異母兄というのはまだ詳しく判らない[1]」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。
旧都漢城(ソウル特別市)を高句麗に奪われ混乱した百済の安定を回復した王とされる。
8196
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 08:52:03
〜八田知家公〜
八田知家
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概要
八田 知家(はった ともいえ)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。下野宇都宮氏の当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男。
系図などによる異説としては源義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある[1]。鎌倉幕府の十三人の合議制の一人。小田氏の始祖であり小田城の築城者。
8197
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 08:54:46
>>8196
※鎌倉幕府は、源義朝公の子孫により、立脚した、政権である。
8198
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 09:43:23
〜征東大将軍〜
征東大将軍
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1.日本の征東将軍
1.1.倭王武
日本最初の征東大将軍は倭の五王の一人、倭王武である。梁王朝が開かれた天監元年(502年)の4月に、前王朝(斉)で鎮東大将軍に任命されていた百済王余大と倭王武の号が征東大将軍に進められた。中国の制度にもとづくもので、現地日本においては中国から与えられた称号・格付け以上のものではない。
8199
:
トンチンカン信徒
:2019/01/04(金) 09:53:06
次期天皇陛下の御学友の小山さんの本を、読みました。
皇太子殿下、五歳のとき幼稚園のとき、同じクラスに、三島のオジサンが、皇后陛下の斜め後ろに、恥ずかしそうに、写し出されてました。
あの、市ヶ谷事件の五年前くらいですかね?
バパ三島先生て、どんな感じなんだろ?
三島先生の娘さんNさんと書いてありましたから、同じクラスのお友達だたようですね。
学習院とはいえ、幼稚園ですから、お子さま言葉満載です。
8200
:
蒼天の實相
:2019/01/04(金) 16:58:59
〜新皇〜
新皇
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▼目次
概要
新皇(しんのう)は、天慶2年(939年)12月に平将門が「新しい天皇」の意で自称した称号。以後、将門は平氏出身であることから「平新皇」と呼ばれたとされる。後世の書物等では訛って「平親王」とも呼ばれるが、これは誤称である。
1.経緯
平将門は、源護や伯父の平国香・平良兼ら一族との私闘を繰り返し、その延長とも言える闘いで常陸国府を蹂躙し公権を犯したため、図らずも朝廷に対する叛乱者となってしまう。将門は、側近の興世王の進言等もあって東国制覇に動き出し、下野国府や上野国府を占領し、上野国府にて四方の門の警備を固めて諸国の除目を発令した。その時、「八幡大菩薩の使い」を名乗る一人の巫女が現れ、「朕[1]の位を蔭子[2]平将門にお授けいたす。その位記[3]は、左大臣正二位菅原朝臣の霊魂が捧げるところである。右の八幡大菩薩は、八万[4]の軍を催して朕の位をお授けするであろう。今ただちに、三十二相楽を奏でて、早くこれをお迎え申し上げよ。」と告げる。将門は位記を頭上にうやうやしく捧持って拝礼し、ここにおいて興世王と藤原玄茂らは贈り名を奏上、将門を名付けて「新皇」と称した。この将門の新皇僭称に際して、舎弟の平将平や小姓伊和員経らは諫言するも聞き入れられなかった。
この将門の新皇僭称は、朱雀天皇を「本皇・本天皇」と呼んでおり、藤原忠平宛ての書状でも「伏して家系を思いめぐらせてみまするに、この将門はまぎれもなく桓武天皇の五代の孫に当たり、この為たとえ永久に日本の半分を領有したとしても、あながちその天運が自分に無いとは言えますまい。」とあり、また除目も坂東諸国の国司の任命に止まっている事からも、その叛乱を合理化し東国支配の権威付けを意図としたもので、朝廷を討って全国支配を考えたものではなく「分国の王」程度のつもりであったと思われる。
2.新皇将門による諸国の除目と素性
上野守 - 多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介 - 藤原玄茂(常陸掾)
上総介 - 興世王 (武蔵権守)
安房守 - 文屋好立(上兵)
相模守 - 平将文 (将門舎弟)
伊豆守 - 平将武 (将門舎弟)
下総守 - 平将為 (将門舎弟)
なお、天長3年(826年)9月、上総・常陸・上野の3か国は親王が太守(正四位下相当の勅任の官)として治める親王任国となったが、当時は既に太守は都にいて赴任せず、代理に介が長官として派遣されていた。当然ながら「坂東王国」であるなら朝廷の慣習を踏襲する必要は全く無く、常陸守や上総守を任命すべきであるが、何故か介を任命している。ここでの常陸介および上総介は慣習上の長官という意味か、新皇直轄という意味か、将門記の記載のとおり朝廷には二心がなかったという意味なのかは不明である。その一方で上野については介ではなく守を任命しており、統一されていない[5]。
8201
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 19:16:12
〜紀の氏〜
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.2.紀清両党の誕生〜鎌倉時代
文治5年(1189年)の時点で芳賀・益子氏は宇都宮氏の郎従として合戦に従っていることが確認されているが、紀清両党がいつ組織されたかは明らかになっていない。
文治5年7月から9月にかけて起こった奥州合戦では、益子正重、芳賀高親が宇都宮朝綱に従い戦功をあげており、源頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られた。このことが後世まで芳賀・益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。
以後も紀清両党は宇都宮氏の筆頭武士団として武を支えた。
1.概要
1.3.鎌倉時代後期〜室町時代
宇都宮氏は鎌倉時代に鎌倉幕府から強大な軍事力を持つ存在とみなされ、度々重用されるほどにまでになっていた。
元弘の乱でも当主宇都宮公綱に従い戦う。益子貞正や芳賀高名(禅可)などが活躍しており、楠木正成は「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評し、宇都宮氏及び紀清両党の武勇を恐れ、兵を退いた話は有名である。その他にも天王寺の戦い・千早城の戦いなどで奮戦し、活躍している。
公綱の嫡男宇都宮氏綱が北朝に従った際には、芳賀禅可、益子貞正ら紀清両党も氏綱に従い活躍。前当主の宇都宮公綱とは敵対関係となった。
観応の擾乱で春日顕時に隙を突かれ紀党益子氏の居城である西明寺城や清党の八木岡城を落とされたりしたが、薩?峠の戦いなどで活躍し、足利尊氏の勝利に貢献した。清党の芳賀氏は薩?山体制下で上野国、越後国の事実上の守護代を任されるほどにまでなった。
『太平記』によれば芳賀禅可は清党のことを「東国に名ある武士は多しといえども、弓矢の道において指をさされぬは、ただ我が一党なり」と言い放っている。
しかし体制崩壊後、越後・上野守護代職を奪われたことで激怒した芳賀禅可が上杉憲顕に対してクーデターを起こすが敗北。家臣を多く失い弱体化してしまった。さらに宇都宮氏も徐々に没落し、不遇の時代を迎えることとなる。
8202
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 19:18:56
>>8201
板東一流 天下一統
8203
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 22:39:01
〜新羅語〜
概要
新羅語(しらぎご)は、朝鮮半島の新羅(紀元前57年‐紀元後935年)で話されていた言語である。朝鮮語の直系の祖先であると推測される。
高句麗語や百済語に似ていたという見方もあるが、[1]数詞などが明らかに異なるため、別系統の言語と考えられる。高句麗語や百済語に比べ、記録がよく残っている。古代朝鮮語と同一とみなされる場合もあるが、古代朝鮮語は百済語、高句麗語を含む呼称とされることが多い。
詳細[編集]
「古代朝鮮語」を参照
8204
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 02:32:50
〜禁閥の変〜
(南朝日野氏の三種神器事件)
1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
[6]次ページ
(2.脚注)
1. 後花園天皇の実父である後崇光院が著した『看聞日記』をはじめとする同時代の日記類による。
2. 禁闕の変
3. 『十津河之記』
4. 渡邊大門『赤松氏五代』P264
8205
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 03:49:42
〜邪馬台国・徳島説〜
8.邪馬台国四国説
1970年代後半より注目され始めた新しい説。邪馬台国までの行き方(道順)を表しているとされる古代中国魏志倭人伝の(「南至投馬国水行二十日」を経て「南至邪馬台国水行十日」してたどり着く)の解釈として、まず大陸から渡り着いたとされる九州北部から水路で豊後水道を南下、高知県西部より四国へ上陸、その後は陸路で徳島県に辿り着くとの見解が示される事も多い。
近年では数多くの書籍・メディアなどで紹介されているが当初は郷土史家の郡昇が四国説を唱え著書を自費出版で行った[44]。その後、古代阿波研究会なども四国説を主張し、[45]『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』には多田至、板東一男、椎野英二、上田順啓らが編集委員として名を連ねている。日本テレビの番組[46]で、番組プロデューサーの山中康男はその後『高天原は阿波だった』(講談社)を出版した。1980年代にはNHK高知放送局が制作した「古神・巨石群の謎」の中で邪馬台国=土佐(四国山頂)説を主張する土佐文雄が著書『古神・巨石群の謎』(リヨン社)を出版。他にも浜田秀雄や大杉博、林博章などが四国説を主張する著書を出版[47]、2009年にはテレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』で四国徳島説が放送された。(尚、朝廷は四国地方から始まり近畿地方へ移行されたと四国説・近畿説を共に主張する説もある。)
8206
:
蒼天の實相
:2019/01/08(火) 09:52:11
〜征西大将軍〜
(征西将軍宮=日本国王)
概要
懐良親王(かねよししんのう、かねながしんのう[1]、元徳元年(1329年)? - 弘和3年/永徳3年3月27日(1383年4月30日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての皇族。後醍醐天皇の皇子。官位は一品・式部卿。征西将軍宮(せいせいしょうぐんのみや)と呼ばれる。
南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いた。
2.日本国王良懐
1369年、東シナ海沿岸で略奪行為を行う倭寇の鎮圧を「日本国王」に命じる、明の太祖からの国書が使者楊載らにより懐良親王のもとにもたらされた。国書の内容は高圧的であり、海賊を放置するなら明軍を遣わして海賊を滅ぼし「国王」を捕えるという書面であった。これに対して懐良は、国書を届けた使節団17名のうち5名を殺害し、楊載ら2名を3か月勾留する挙におよんだ。しかし翌年、明が再度同様の高圧的な国書を使者趙秩らの手で懐良に遣わしたところ、今度は「国王」が趙秩の威にひるみ、称臣して特産品を貢ぎ、倭寇による捕虜70余名を送還したと『太祖実録』にある。しかしその記述は趙秩の報告に基づくものと思われるため、趙秩とのやりとりや称臣した件の事実性は疑問視されている[3]。ともあれ明は懐良を「良懐」の名で「日本国王」に冊封した。しかしその後に懐良の勢力は後退し、1372年に冊封のため博多に到着した明の使者は、博多を制圧していた今川了俊に捕えられてしまい、懐良に伝達することは出来なかった。
しかし、明側では「良懐」を冊封したことは既成事実となった。そのため、足利義満が日明貿易(勘合貿易)を開始する際に新たに建文帝から冊封をうけ「日本国王」の位を受けるまでは、北朝や薩摩の島津氏なども明に使節を送る場合は「良懐」の名義を詐称する偽使を送らねばならなかった。その足利義満も、当初は明国から「良懐と日本の国王位を争っている持明の臣下」と看做されて、外交関係を結ぶ相手と認識されず、苦労している[3]。
8207
:
トンチンカン信徒
:2019/01/08(火) 11:53:19
いちいち、嫌がてんじゃないのじね〜よ(単なる、ギャク)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
300:新掲示板
19/01/08(火) 09:54:20
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
宗教を名乗る者が、人に苦痛を与えて良いのでしょうか
笑
8208
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 06:47:59
〜鎌倉公方〜
概要
鎌倉公方(かまくらくぼう)とは、室町時代に京都に住む室町幕府の将軍が関東十か国を統治するために設置した鎌倉府の長官。足利尊氏の四男・足利基氏の子孫が世襲。鎌倉公方の補佐役として関東管領が設置された。関東公方とも称するが、この場合鎌倉公方の後身である古河公方も含まれた呼称となる。関東十か国とは、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐。
鎌倉公方は、将軍から任命される正式な幕府の役職ではなく、鎌倉を留守にしている将軍の代理に過ぎない。「鎌倉殿(公方)」の当初の正式な役職名は「関東管領」であり、上杉氏は「執事」であったが、やがて執事家が関東管領となり、本来の「関東管領家」が「鎌倉(関東)公方」となった。
なお「鎌倉公方」は鎌倉公方の自称、あるいは歴史学用語であり、当時の一般呼称ではなかった。当時は“鎌倉御所”ないし“鎌倉殿”と呼ばれていた。
8209
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 15:42:08
>>8208
〜足利将軍家〜
概要
足利将軍家(あしかがしょうぐんけ)は、足利氏の惣領家(宗家)のうち、とくに足利尊氏以来の、代々室町幕府の将軍職を世襲した一家(軍事貴族)。初代尊氏の後は2代として嫡男義詮が継ぎ、3代足利義満を経て、15代義昭まで続く。2代義詮以降、歴代将軍は諱において義の字を通字とした。
8210
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:40:27
>>8209
〜関東管領〜
関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐するために設置された役職名である。鎌倉公方の下部組織でありながら、任免権等は将軍にあった。当初は関東執事(かんとうしつじ)と言っていた。上杉氏が世襲した。
1.概要
鎌倉府は観応の擾乱の直前の正平4年/貞和5年(1349年)室町幕府の初代将軍・足利尊氏が嫡男の義詮を鎌倉から京都へ呼び戻し、代わりに次男の亀若丸(基氏)を関東統治のために派遣したのがはじまりで、幼い基氏を補佐するために執事という補佐を置いた。京都にも将軍を補佐する執事(後の管領)がいたため、これと区別するために「関東執事」と言った。当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清らが任じられる。関東執事は初期においては斯波氏、畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき、最終的には上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野、伊豆の守護も担っていた。
直義方であった憲顕は失脚して越後で引退するが、正平17年/貞治元年(1362年)に基氏が願って復職した後、もしくは正平22年/貞治6年(1367年)に足利基氏が急死して、幼少の足利氏満が鎌倉公方を継いで憲顕が後見についた後、関東管領と呼ばれるようになる[1]。
憲顕は当初北関東を管理していたが、基氏の急死後の正平23年/応安元年(1368年)に武蔵平一揆の乱を鎮圧し、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めた。応永6年(1399年)に3代将軍足利義満に挑発されて大内義弘が挙兵した応永の乱では、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした3代鎌倉公方足利満兼を諫言した。以後は山内上杉家、犬懸上杉家が独占し、応永23年(1416年)に元関東管領上杉禅秀が反乱を起こし(上杉禅秀の乱)、敗れて犬懸上杉家が滅亡すると山内上杉家の世襲となる。
関東管領は主に支配地域の守護及び地頭の管理に当たっていた。武蔵守護も兼任し、関東一円の武士を掌握し次第に鎌倉府以上の力を持つようになり、鎌倉公方と対立していくことになる。
永享10年(1438年)に第4代鎌倉公方足利持氏が6代将軍足利義教と対立すると、関東管領上杉憲実は持氏を諌めるが、自身が暗殺される風説が流れると、管領職を辞して上野に逃れ、憲実追討のために持氏が兵を起すと武蔵府中に陣を構え、幕府と連合して持氏を自害させ鎌倉府を滅亡させるまでに至る(永享の乱)。永享12年(1440年)に下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて結城合戦と呼ばれる反乱を起こすと、鎮定に協力するために復職する。その後憲実は遁世、文安4年(1447年)の鎌倉府再興まで東国支配を上杉氏が受け持つことになる。
再興後も鎌倉府と関東管領の対立は続き、持氏の遺児成氏が鎌倉公方となると、享徳3年(1454年)に成氏は関東管領上杉憲忠を暗殺する。上杉氏と戦っている最中に幕府から派遣された駿河守護今川範忠に鎌倉府を追われると、成氏は古河を座所とする(享徳の乱)。古河公方と名乗った成氏と関東管領上杉顕定の間で和解が成立するのは28年後のことであった。
なお、この乱の最中に足利政知が新たに堀越公方として関東に下るが、この際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡が任命され、関東管領と区別するためにその旧称である「関東執事」が一時的に復活している。
だが、この間に庶流の扇谷上杉家が山内上杉家に迫る勢力を得たことから、長享元年(1487年)に顕定が扇谷上杉家討伐を開始する(長享の乱)。18年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わったが、通算して50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した上に、扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)を関東に招き入れたことによって後北条氏の台頭のきっかけを作ってしまう。
16世紀に入って後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくが、山内上杉家は2度にわたる家督争いによって自ら勢力を後退させていき、天文15年(1546年)の河越夜戦において古河公方足利晴氏、関東管領上杉憲政、扇谷上杉家当主上杉朝定の連合軍が北条氏康に敗北すると、古河公方、山内上杉家は大打撃を受け、扇谷上杉家は朝定が討死して滅亡してしまう。
その後、憲政は上野で北条氏へ抵抗するがうまくいかず、天文21年(1552年)に居城の平井城を失うと越後へ向かい、元は家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。永禄4年(1561年)に憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲った。景虎はこの時名を政虎(後に輝虎・法名は謙信)と改める。
しかし、既に関東管領は実質的には機能しておらず、謙信の死をもって終焉を迎える。
8211
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:42:44
>>8210
〜関東管領〜
2.職掌
関東管領の任免権は京都の室町幕府(将軍)が有していたが、実際には鎌倉公方が人事権を行使して幕府はそれを承認する形を取っていた。むろん、幕府も権限を放棄したわけではなく、康暦の政変直後に独断で上杉憲方を任じたり、永享の乱後に上杉憲実の辞職を認めなかったりしており、特に上杉憲忠が関東管領に任命された時には特殊な事情(憲忠の山内上杉家家督・関東管領職継承に反対する父の憲実と憲忠を擁立した長尾景仲ら重臣達の対立及び鎌倉公方足利成氏が信濃国にいて鎌倉に不在)のために、室町幕府の任命及び後花園天皇の綸旨による関東管領任命が行われた(『建内記』文安4年3月24日・7月10日両条)。その後、成氏の憲忠殺害をきっかけに始まった享徳の乱によって、鎌倉公方(古河公方)と関東管領は敵対して完全に分裂すると、名実ともに室町幕府が任命するようになったものの、上杉顕定の没後には山内上杉家当主の家督が継承する家職となり、室町幕府・古河公方の任命手続を経ることがなくなった[2]。また、上杉憲春以降、京都で成長した上杉房顕を例外として任官の口宣案は残されておらず、朝廷からの任官ではなく、鎌倉公方が与えた官途名を用いていたとみられている[3]。
関東管領の職務については、鎌倉公方を補佐して管内における政務の統轄を行ったとみられるが、その具体的な内容については、
室町幕府からの命令を鎌倉府・管内諸国への取次
鎌倉府における所務沙汰の受理と奉行人選定
などが挙げられる(ただし、研究者によって多少の違いはある)。また、永和年間以降は鎌倉府の料国とみなされた武蔵国の守護職も兼ねた。だが、鎌倉公方と関東管領の関係が悪化していくにつれて、鎌倉府における関東管領の職務は麻痺するようになっていった[2]。
室町将軍と鎌倉公方という対立した2者が任免権を共有していた時期の関東管領の立場は非常に複雑で、上杉憲春のように両者の板挟みにあって自らの命を絶つ関東管領[4]もいた。更に上杉禅秀の乱後に越後国にも広大な所領を持つ山内上杉家による関東管領世襲が確立すると、事態はさらに複雑化する。越後の所領を安堵するのは室町幕府であり、室町将軍はその権限を利用して関東管領(山内上杉家)に従属を迫り、反対に鎌倉公方は鎌倉府の管外であっても関東管領の所領は鎌倉府が安堵するとして越後の情勢への関与を図ったからである。結果的に越後の山内上杉家領の扱いをはじめとする鎌倉府の管外への関与政策は永享の乱の一因となった[5]。なお、15世紀後期以降、上杉憲忠の綸旨による関東管領任命(先述)を先例として「関東管領」は実質上の官職と同様の社会的地位とみなされるようになり、上杉顕定・憲房・憲政については、生涯任官及び官途名を用いた事実はなかったと考えられている(系図上の官職・受領名は江戸時代の創作とみられる。また、上杉房顕・政虎(謙信)なども関東管領就任後は任官を受けず、関東管領就任前の官途名を用い続けている)[6]。
8212
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 16:43:34
>>8211
〜関東管領〜
3.分裂する関東管領
近年の関東地方の戦国時代史研究の進展の中で、享徳の乱以後の鎌倉府組織の分裂状況の中で関東管領またはそれと同義の職名を自称する動きがあったことが知られるようになった。
越相同盟の交渉が本格化した永禄12年(1569年)頃に北条氏康によって書かれたとされる「北条氏康条書」(伊佐早文書所収)には亡父(北条氏綱)が古河公方足利晴氏の命を受けて国府台で小弓公方足利義明を討ったことにより「依勲功官領職仰付」と記されている。これは、国府台合戦の戦功によって後北条氏は古河公方より「関東管領に任命された」と主張しているもので、ここからその後の北条氏による足利義氏の古河公方擁立の正統性と関東管領上杉憲政及びその後継者である上杉輝虎の関東管領としての正統性を否認する立場を取っていたことが窺える。当然、上杉氏側から見れば足利義氏の古河公方就任は後北条氏が関東管領であることを前提にするものであって容認できず、代わりに関東管領上杉氏が擁立する古河公方が必要とされ、それが足利藤氏であったとされている(なお、後北条氏関東管領論は越相同盟によって古河公方足利義氏と関東管領上杉輝虎を相互承認したことで消滅したと考えられている)。
更に享徳の乱では上杉氏と争い、その後の戦国期には後北条氏と争った安房里見氏も関東管領を自称した形跡がある。これは里見氏が大檀那であった鶴谷八幡宮及びその別当寺であった那古寺の奉納された棟札に古河公方を「鎮守府将軍源朝臣」、里見氏当主を「副帥源○○(当主名)」と記されていることである。現在知られている同様の棟札は7通であるが、注目されるのは那古寺に納められた享禄2年(1529年)に「副帥」源(里見)義豊によって納められている事実である。里見義豊が禅僧玉隠英與と親交が深かったことが、玉隠の『玉隠和尚語録』(東京大学史料編纂所所蔵)によって知られているが、同書には同じく交流を持っていた関東管領上杉氏を「関東副元師(帥)」と記している。里見氏が名乗っていた「(関東)副帥」とは関東管領の異名である「関東副元帥」と同一のものであったと考えられ、里見氏もまた関東副帥=関東管領を自称していた可能性が強いとされている[7]。
8213
:
蒼天の實相
:2019/01/09(水) 18:04:59
>>8212
〜足利藤氏〜
概要
足利 藤氏(あしかが ふじうじ、生没年不明)は、戦国時代の武将。足利氏の一門。足利晴氏の子。古河公方(在職:1561年 - 1562年)として擁立され、関白近衛前久にもその地位を承認されているが、現代においては歴代公方には数えない。
生涯[編集]
第4代古河公方である足利晴氏の長男として生まれる。母は簗田高助の娘。室町幕府13代将軍の足利義藤(後の義輝)から偏諱を与えられており、将来は京都の室町幕府からも認められた次代の古河公方となるはずであった。
ところが、父晴氏は後添えの正室として北条氏綱の娘・芳春院を迎えていたが、氏綱の跡を継いだ北条氏康との関係が次第に悪化。晴氏は関東管領の上杉憲政や上杉朝興らと同盟して北条氏と対抗するも、天文15年(1546年)の河越夜戦で大敗した。氏康は晴氏を隠退させ、異母妹である芳春院の息子で、北条の血を受けた足利義氏(藤氏の異母弟)を古河公方とした。
古河公方への道を絶たれた藤氏はこれに反発し、弘治3年(1557年)に挙兵して古河御所奪還を試みるが失敗。晴氏は栗橋城に幽閉され、藤氏も追放された。それでも安房の里見義堯を頼って再起の機会を窺い、これに従う簗田晴助らが越後に滞在中の上杉憲政と憲政を庇護していた長尾景虎(後の上杉謙信)に救援を依頼した。永禄4年(1561年)、景虎はついに関東へ出兵。藤氏救援という名目だけでなく関東管領の上杉憲政、関白の近衛前久を擁し、大義名分を十分に得た軍勢は関東の諸豪族の応援で10万余にまで膨れ上がった。小田原城ら諸城に籠城する北条方を攻め切れなかったものの、藤氏は義氏を放逐して古河御所の奪還に成功した。
上杉憲政に代わって関東管領の本来の職務である古河公方擁立に成功した長尾景虎は、上杉憲政から上杉の家督と関東管領の地位を譲られた。上杉謙信(便宜上、以後は謙信とする)は、上杉憲政、近衛前久らと諮り、義氏の古河公方就任を完全に否定し、関白、関東管領の名において藤氏を足利晴氏(前年死去)の後継として正式に古河公方として任命することを決定した[1]。これを佐竹氏・里見氏ら反北条氏の関東諸大名も受け入れたため、数年の間、足利藤氏は正統な古河公方となったのである。
だが、謙信が藤氏を残し越後に帰国すると直ちに北条氏は反撃を開始し、その年の10月には古河を攻撃したので、藤氏は里見氏家臣の多賀信家(蔵人・高明)が治める上総池和田城(千葉県市原市)へ逃れた。以後、古河を巡って上杉と北条は争奪戦を繰り広げ、藤氏も上杉方の代表として古河に入ったり上総に脱出したりを繰り返した。だが、永禄5年(1562年)に北条軍が古河御所を攻略した際に藤氏は捕虜となって小田原に送られた。
その後藤氏の身柄は相模・伊豆といった北条領内を転々としたとされるが、永禄9年(1566年)以降はその消息が不明。北条氏康によって暗殺されたともいわれている。
足利藤氏を失ったことにより、上杉謙信の関東経営は大打撃を受け、後に北条氏との同盟締結をもって古河公方である足利義氏を謙信は正式に認めざるを得なくなる。一方で、藤氏の弟の藤政、輝氏、家国が古河公方の再興を目指し活動した形跡も確認されているが、その影響力は微々たるものであり、天正年間を境にその活動はみられなくなる。
脚注[編集]
越相同盟締結時に北条氏は国府台合戦の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。
関連項目[編集]
足利氏
1. 越相同盟締結時に北条氏は国府台合戦の戦功によって古河公方から関東管領に任ぜられ、その職権で義氏を古河公方にしたと主張(伊佐早文書所収「北条氏康条書」)しているように、北条氏は上杉氏の関東管領としての権威そのものを否認する立場を取っており、上杉氏は関東管領として義氏に代わる古河公方を必要としていた。
8214
:
トンチンカン信徒
:2019/01/11(金) 18:27:47
いま、日の丸掲示板を、良く、見ると。
裏状況として、新羅人と関係者と西日本人(関西系)とわかる。
①、大熊先生は、確かに、素晴らしい先生だが、裏状況を、話すと、『新羅人空手の分派講師』なのだ。
②、日野ボンくんは、関西系の、新羅人とツルンで、何故か?大日本帝国憲法復活と?不思議なコメントを言ってる?新羅人は大日本帝国が表向き嫌いなはずだ?
③、こうした、コメントは、宇治周辺が、新羅人地区だったこと関係があるのかは?興味深いところである。関東系のシオン観測隊には、良く理解しがたい。
8215
:
トンチンカン信徒
:2019/01/11(金) 18:32:48
新羅人空手は、関東地域では、たくさん、分裂したと、記憶してる。
本家新羅人空手は、東京池袋にあったかな?
色々と分派が、ある。
オリンピックで採用された空手とは、違う。
8216
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 05:47:40
〜志恩さんの先祖〜
※新羅の善徳女王
概要
善徳女王(ぜんとくじょおう、? - 647年2月17日(旧暦1月8日))は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。新羅初の女王。
姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は水月葛文王朴欽飯。
3人姉妹(善徳女王は『三国史記』では長女として記録され、『三国遺事』と『花郎世記』では次女とされている。天明公主は『三国史記』で次女、『三国遺事』では娘、『花郎世記』では長女。三女の善花公主は『三国史記』と『花郎世記』では存在が伝わっていない)であり、男兄弟はいない。
先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。
1.生涯
百済と高句麗との同盟(麗済同盟)によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた〈柱国・楽浪郡公・新羅王〉の爵号を継承することができた。
633年8月には西部国境地帯に百済の侵入を受け、636年5月には百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでいたところを、角干(1等官)の閼川を派遣して殲滅させることに成功した(#3つの予知の第2を参照)。この後に閼川を大将軍に任命し、638年に高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川が高句麗兵を撃退した。しかし642年7月には百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取し、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまった。同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられている。その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(後の武烈王)が高句麗に赴いたが、一時、人質にされた上、高句麗からの援軍は得られなかった。
643年9月には唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた[2]。こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の?曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こした。上大等に代表される中央貴族に対抗して金?信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫[3])ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月8日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られた。在位16年。その後直ちに金?信らは真徳女王を立て、正月17日になって乱を鎮圧し、?曇ら20余名を誅殺した。死後、唐からは光禄大夫の号を追贈された。
善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。霊廟寺の建立と同時に、瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられている。また640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。
8217
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 18:25:49
>>8216
〜ソシモリ〜
概要
蘇志摩利(そしまり)とは、雅楽の一曲。別名長久楽(ちょうきゅうらく)・蘇尸茂利(そしもり)。
右方(高麗楽)に属する6人舞。なお新楽では4人舞。高麗双調(こまそうじょう)。
『教訓抄』高麗部に記載がある。近衛天皇の久安年間(1145年-1150年)に此樂今者絶とされる。『日本紀通證』(谷川士清)において、高麗曲に樂名蘇志摩利 又樂具蘇志麻理ありとされるという。『日韓古史斷』参照。
明治に再興されたが1905年(明治38年)に第二次日韓協約・韓国統監府設置記念で林広継に再興が命じられたとも、1911年(明治44年)に芝葛鎮による再興との説があるという。[1] 近年では2001年(平成13年)に明治神宮で舞われた。[2]
由来[編集]
『和名類聚抄』二十巻本第10卷にある蘇志摩利の記述[3]を引用した『先代旧事本紀』(日本紀講筵の際提出された偽書とされる)巻第四 地祇本紀[4]の素戔烏尊によるヤマタノオロチ退治の前段の分注記事による。
素戔烏尊率其子 五十猛神 降到於新羅曾尸茂梨之處矣 曾尸茂梨之處 纂疏新羅之地名也 按倭名鈔高麗樂曲有蘇志摩利 疑其地風俗之歌曲乎 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作船 乘之東渡 到于出雲國簸之河上與安藝國可愛之河上所在鳥上峰矣
スサノオは子のイソタケルを率い新羅の曾尸茂梨に降りた(曾尸茂梨は新羅の地名である。倭名鈔(和名類聚抄)の高麗樂曲にある蘇志摩利はその地の風俗を歌う曲である。)スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸之河上と安芸国可愛之河上にある鳥上峰に至った。
そしもり[編集]
曾尸茂梨については『日本書紀』 卷第一[5] 第八段 一書第四のヤマタノオロチ退治の前段に記述がある。
一書曰 素戔嗚尊所行無状 故諸神 科以千座置戸 而遂逐之 是時 素戔嗚尊 帥其子五十猛神 降到於新羅國 居曾尸茂梨之處 乃興言曰 此地吾不欲居 遂以埴土作舟 乘之東渡 到出雲國簸川上所在 鳥上之峯 時彼處有呑人大蛇
スサノオは子のイソタケルと新羅に降り曾尸茂梨に居た。スサノオ言うにはこの地に私は居たくない。埴土で船を作りこれに乗って東に渡り出雲国の簸川上にある鳥上之峯に至った。
また素尸毛犁については偽書とされる『桓檀古記』所収の「檀君世紀上編」[6]の三世檀君 嘉勒の条に次の記述がある。
( 戊)申十年豆只州?邑叛命余守己 斬其酋素尸毛犁自是稱其地曰素尸毛犁今轉音爲牛首國也 其後孫有陜野奴者逃於海上據三島僭稱天王
戊申十年(161年)豆只(ずし)州の?邑(わいゆう)で謀反あり、その酋長の素尸毛犁(そしもり)を斬った。これよりその地を素尸毛犁と称す。今転音し牛首國という。その孫に陝野奴がおり、海上へ逃げ三島で、天王を潜称す
曾志茂利という名が関連する神社は、熱田神宮の末社(孫若御子神社の北に南面)に祭神は居茂利大神(スサノオ)とされる曽志茂利社がある。
諸説[編集]
『釈日本紀』(述義)にある陽成天皇による878年(元慶2年)の日本紀講筵の元慶度講書(878年(元慶2年)-881年(元慶5年))で、惟良宿禰高尚(惟良高尚)がソシモリを今の蘇之保留と解説し、その分注に「此説甚可驚云々」とされた。その後、江戸時代の国学勃興者までながらく議論らしきものはなかったが、江戸時代から戦前にかけて『日本書紀』の曽尸茂梨が現在のどこにあたるのか盛んに議論され、候補地をあげる説が次々あらわれ、その数は戦前の段階で北は咸鏡北道から南は済州島まで、朝鮮半島の各地に8ヶ所にも及んだが決着はついていない(最近の学界では、普通名詞または神話上の概念として、特定の実在の場所に当てはめない傾向がある)。
それらの中で比較的有名な説は、吉田東伍の「古代半島諸国興廃概考」(1891年(明治24年)8月号『史学会雑誌』21号p.21〜22。)で、曽尸茂梨を春川の牛頭山とし、漢の春秋戦国時代の西暦紀元前4世紀と推定した。同論文は後に、『日韓古史斷』(1911年(明治44年))[7]の34-35ページの記述[8]となり [9]、この説に準拠して朝鮮の江原道春川郡の牛頭山に江原神社がつくられた。(1918年(大正7年)に社が建てられる[10]1941年(昭和16年)10月1日、国幣小社になった。)
またソシモリの語源や語義についてはこの他にも戦前から現在まで多くの説があるが、正確なところは不明である。
二三の例をあげると、金沢庄三郎は『日鮮同祖論』(復刻版 成甲書房、1978年(昭和53年))で「曽尸茂梨の(助辞)尸を除いたソモリは、徐伐すなわちソホリと音韻上一致するもので、モとホすなわちmp音の相通である」とした。また韓国の宗教文化研究院長の崔俊植(梨花大学教授)は、ソシモリは、「ソシ」は「高い柱」、「モリ」は「頂上・てっぺん」、「ソシモリ」は「高い柱の頂上」という意とした。
8218
:
蒼天の實相
:2019/01/12(土) 18:26:48
>>8217
〜ソシモリ〜
注[編集]
楽曲解説(高麗楽の部・高麗平調/高麗双調)
明治神宮 平成13年春の大祭 奉祝舞楽
早稲田大学図書館蔵音楽部第十 曲調類第四十九
先代舊事本紀卷第四 地祇本紀
日本書紀 卷第一 神代一
檀君世紀
日韓古史斷国会図書館近代デジタルライブラリ
日韓古史斷34-35
近現代韓日関係研究史 -日本人の韓国史研究を中心に―
。鶴見三千代の祖父によるという:[1]
外部リンク[編集]
装束
1. 楽曲解説(高麗楽の部・高麗平調/高麗双調)
2. 明治神宮 平成13年春の大祭 奉祝舞楽
3. 早稲田大学図書館蔵音楽部第十 曲調類第四十九
4. 先代舊事本紀卷第四 地祇本紀
5. 日本書紀 卷第一 神代一
6. 檀君世紀
7. 日韓古史斷国会図書館近代デジタルライブラリ
8. 日韓古史斷34-35
9. 近現代韓日関係研究史 -日本人の韓国史研究を中心に―
10. 。鶴見三千代の祖父によるという:[1]
8219
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 03:23:50
〜蘇民将来〜
概要
蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 ? 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない[1]。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話[編集]
古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される[2])の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、蘇民の娘を除いて、(一般的・通俗的な説では弟の将来の一族を、)皆殺しにして滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。[3]
蘇民将来の起源[編集]
武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない[1]。
武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられる[4]が、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている[5]。
蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた[1]。
祭祀[編集]
蘇民将来の逸話を基に岩手県内を始め各地には蘇民祭が伝わっており、とくに奥州市水沢区の天台宗妙見山黒石寺の黒石寺蘇民祭をはじめとする岩手県内の蘇民祭は選択無形民俗文化財に選択されている。また、京都の八坂神社や伊勢・志摩地方の年中行事では、厄除け祈願として、茅の輪くぐりや「蘇民将来」と記された護符の頒布、注連飾りなどの祭祀が盛んに行われている。
京都祇園社の祇園祭は、元来は御霊を鎮めるためにおこなわれたのが最初であったが、平安時代末期には疫神を鎮め、退散させるために花笠や山車を出して市中を練り歩く「やすらい(夜須礼)」の祭祀となった。山車につけられた山鉾は空中の疫鬼を追いこむための呪具、花笠は追い立てられた厄鬼を集めてマツの呪力で封じ込めるための呪具であり、また、祭りの際の踊りは、本来、地に這う悪霊を踏み鎮める呪法であった[1]。悪霊や疫鬼は、これらによって追い立てられて八坂神社に集められるが、そこには蘇民将来がおり、また、疫鬼の総元締めであるスサノオが鎮座して、その強い霊威によって悪霊や疫鬼の鎮圧・退散が祈願されたのである[1]。
8220
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 03:24:53
>>8219
〜蘇民将来(つづき)〜
護符[編集]
蘇民将来の護符は、避疫の利益があるとされ、スサノオ(牛頭天王)と縁の深い寺社で頒布されている[6]。護符は、紙札、木札、茅の輪、ちまき、角柱など、さまざまな形状・材質のものがある。また、単に「蘇民将来」といえば護符そのものを指すこともある。護符には「蘇民将来子孫也」「蘇民将来子孫之門」といった文言や晴明紋が記されていることが多く、家内安全や無病息災のお守りとして門口に吊されたり、鴨居に飾られるなどする。八坂神社や信濃国分寺八日堂で頒布されるものが特に有名である。また、金神や歳徳神同様、蘇民将来も方位神として陰陽道に取り込まれ天徳神という名で呼ばれている。
八坂神社(京都市)
祇園祭の行われる7月には社頭や各山鉾にて「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が授与される。7月31日には摂社「疫神社」において「夏越祭」が行われ「茅之輪守」が授与される。他につり下げ型の八角木守もある。
信濃国分寺八日堂(長野県上田市)
六角柱のこけし型をなす。上田市指定有形民俗文化財に指定されているほか、毎年1月7日から8日にかけての八日堂縁日での頒布習俗が「上田市八日堂の蘇民将来符頒布習俗」として国の選択無形民俗文化財に選択されている。
陸奥国分寺薬師堂(仙台市若林区)
八角柱で房のついたつり下げ型をなす。
岩木山神社(青森県弘前市)
紙製のお札で呪文と晴明紋が記されている。
黒石寺(岩手県奥州市水沢区〈旧水沢市〉)
当寺は黒石寺蘇民祭で有名。六角柱のつり下げ型をなす。
笹野観音(山形県米沢市)
八角柱の形状。紙製で梵字や五芒星を記したものもある。
円福寺(千葉県銚子市)
木製板状で梵字と呪文が記されている。
竹寺(埼玉県飯能市)
六角柱のこけし型。
妙楽寺(長野県佐久市)
木製板状で梵字と呪文・晴明紋が記されている。
津島神社(愛知県津島市)
六角柱のこけし型。
松下社(三重県伊勢市二見町)
注連飾り形状をしており、木札に「蘇民将来子孫家門」などと記す。伊勢志摩地方でよく見られる形式。[7]
祇園神社(神戸市兵庫区)
六角柱のこけし型。紙の一端をこより状にしたものもある。
脚注[編集]
注釈[編集]
素盞嗚神社境内に末社として疫隈国社も鎮座する。
蘇民将来符は、旧暦・新暦の正月といった特定時期に、氏子・檀家といった特定の者のみに頒布されるものも多く、下記寺社に行けばいつでも誰もが入手できるとは限らない。
8221
:
蒼天の實相
:2019/01/13(日) 05:41:07
〜現代韓国で、行われた、風俗=人尿洗顔を、していると、報告はあります。
こちら、古代の勿吉族(もきつぞく)=女真族の仲間だと、思われます。
===========
3.習俗
3.2.人尿洗顔
?婁人と同様、最大の特徴である「人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。
8222
:
トンチンカン信徒
:2019/01/14(月) 19:22:32
〜クレスタマキについて〜
半値=クレスタマキは、漢字表記すると
半値=暮巣太魔樹
→(意味)暮た巣の有る太い魔樹。→別名・閑古鳥の巣の太い魔樹→閑古鳥→魔樹鳥→フクロウ魔鳥魔女の使い→魔女リリスの鈴の音→死の音→死音→志恩ですね。
8223
:
シャンソン
:2019/01/17(木) 22:43:09
トンチンカン信徒さんへ。
▲7▼ 「活動」板 (Res:277)
All First100 Last50 SubjectList ReLoad ▲7▼
1 :トキ ◆UMw6UoGELo :2016/08/05(金) 10:10:41 ID:sZyWOnNM
谷口雅春先生の教えを伝えたい、そのための活動をしたい、という点だけに
論点を絞り、そのトピックだけを書く板です。<
読解力がなく、横やりを入れたり、誤読曲解したり
人を深く傷つけるのが使命みたいなトキ管理人の
活動版や輪読会版などにもなにか書いてあげてください。
新掲示板を作成しても、
口先だけの人間の雑談広場みたいになっていて
気の毒です。
8224
:
転載
:2019/01/17(木) 22:56:33
今やネットというものは、知識がなくても使うことが可能となりました。
その結果まったく勉強をしないまま使ってしまったりとする人も多くなりました。
それによる弊害はかなりのものになります。
まず第一に『話が自分中心』という点が挙げられます。
ただ自分中心だったら良いのですが、何を話してもすべて自分中心に物事を考えるような人はすぐに嫌われます。
ネットという世界はリアルとは違い、相手の顔や性格が文字でしか判断することができません。
よく言われるリアルは『コミュニケーション障害=コミュ障』の人たちはネットに来ると嫌われる存在になることが多いです。
リアルではあまり話さないことが多い!でもネットだと話せる!といった人達です。
相手の顔を見れないわけですから、心情を読み取ることは大変厳しいものですからね。
8225
:
蒼天の實相
:2019/01/25(金) 09:24:32
概要
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。
1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
8226
:
蒼天の實相
:2019/01/25(金) 09:26:41
南朝系日野氏
概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。しかし、応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、討ち死にした。子・資親は斬罪にされた。
8227
:
トンチンカン信徒
:2019/01/25(金) 10:18:25
後南朝の唱えた?『吉野朝廷復活論』?
あれ?最近、西日本で聞く、『天皇国・日本』プラカードして、『明治憲法復活』?雅春先生に過去着けてね(笑)?これて?後南朝のしてる事と良く似てません?
8228
:
トンチンカン信徒
:2019/01/25(金) 10:27:50
日野ボンさん、北朝日野氏なのは、失礼いたしました。
こちらが、南朝系日野有光公の三種神器盗んだ事件です
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
南朝系日野氏
概要
日野 有光(ひの ありみつ)は、室町時代前期の公卿。藤原北家真夏流日野家、権大納言・日野資教の子。官位は従一位・権大納言。
経歴[編集]
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。応永24年(1417年)に院執権となり、応永28年(1421年)権大納言となるが、応永32年(1425年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。しかし、応永34年(1427年)に足利義持と日野家の確執が原因で室町殿より追放[1]され、続いて称光天皇が男子を残さずに没して皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
嘉吉3年(1443年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と宝剣の神器を奪い比叡山に籠った。しかし畠山持国らに攻められ、討ち死にした。子・資親は斬罪にされた。
概要
禁闕の変(きんけつのへん)は、室町時代の嘉吉3年9月23日(1443年10月16日)夜に京都で起こった後花園天皇内裏の襲撃事件。吉野朝廷(南朝)の復興を唱える後南朝とされる勢力が御所に乱入し、三種の神器の一部を奪い比叡山へ逃れたものである。
「禁闕」とは、皇居(京都御所)の内裏の意味。嘉吉の変とも呼ばれるが、嘉吉元年(1441年)に起こった6代将軍足利義教の暗殺事件(嘉吉の乱)と混同されることから、「禁闕の変」の名称が用いられる。
1.経過
建武3年/延元元年(1336年)に後醍醐天皇により開かれた南朝(大覚寺統)は、3代将軍足利義満時代の明徳3年/元中9年(1392年)に明徳の和約が行われて名目上は解消された。しかし、その後も南朝の後胤を擁する後南朝勢力は室町時代を通じて登場し、反幕府勢力とも関係して活動を続ける。一方で、かつての北朝(持明院統)側では後小松天皇の直系が断絶して、伏見宮家から後花園天皇が迎えられるという事態が起こっていた。
幕府では嘉吉の乱による混乱もあり、嘉吉3年(1443年)7月に7代将軍足利義勝が死去し、弟の足利義政が8代将軍となった。しかし、その就任までは間があり、事件はその最中の9月23日夜に起きた[1][2]。首謀者は南朝の後亀山天皇あるいはその弟惟成親王の孫とされる通蔵主 ・金蔵主の兄弟、鎌倉時代の後鳥羽上皇の後胤を称する源尊秀(鳥羽尊秀とも、尊秀王か?)、日野家嫡流の日野有光とその息子日野資親ら、実行部隊は楠木正秀に率いられた楠木氏・和田氏らであった[3]。
一味は数百人で内裏を襲撃して火をかけ、後花園天皇は左大臣の近衛房嗣の邸に避難した。幕兵との戦闘も行われている。一味は三種の神器の剣と神璽を奪い、後醍醐天皇の先例を模して比叡山に逃れ、根本中堂に立て篭もった[2]。同24日に朝廷から凶徒追討の綸旨(追討令)が出ると、管領畠山持国が派遣した幕府軍や協力を拒んだ山徒によって、25日の夕刻から26日の明け方にかけて鎮圧された[2]。一味のうち金蔵主と日野有光はこの戦闘で討たれた。
幕府は変に関与したものを捕らえて、処刑あるいは流罪にした。28日には六条河原で日野資親以下、捕えていた五十余人を処刑した[2]。通蔵主は四国へ流罪の途中、道中の摂津太田で殺害された。そして、10月2日には勧修門跡の門主である教尊(小倉宮聖承の息子)もこの変に関与したとして逮捕され、隠岐島へと追放された[2]。
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
現実の天皇陛下は、北朝(関東)天皇陛下と最近のご著書にありますよ。日野ボンさん、そのような、主張されてると、後南朝日野氏と思われますよ。
8229
:
シオン観測隊
:2019/01/25(金) 15:26:32
後南朝復活を夢見る、吉野朝廷復活こそが、『明治憲法復活』の唱える、言動の、『言霊』の根源であります。
この、霊的根源が、理解できないと、真に神義を、誤認しますね。(笑)
8230
:
トンチンカン信徒
:2019/01/25(金) 15:27:12
後南朝復活を夢見る、吉野朝廷復活こそが、『明治憲法復活』の唱える、言動の、『言霊』の根源であります。
この、霊的根源が、理解できないと、真に神義を、誤認しますね。(笑)
8231
:
トンチンカン信徒
:2019/01/25(金) 15:49:21
>>8225
北朝正統天皇家だけ、征夷大将軍と幕府政治(関東政治)を室町時代から、承認されていたわけである。
1.歴史
1.4.建武政権・室町時代の将軍
建武新政で天皇公家の親政と国衙復活を目指して朝廷の独裁政治となり、恩賞や領地を巡り武家との対立が勃発した。足利尊氏の叛旗で建武政権は瓦解し、尊氏は北朝を奉じて征夷大将軍に就任し京都に室町幕府を開くが、有力守護の細川氏・斯波氏・畠山氏などとの連立政権となり、公武政権の特色が増した。だが、室町幕府3代将軍足利義満は公武両権力の頂点に立った。それ以降、征夷大将軍は武家の最高権威となった(ただし、実質的権力については、前将軍である室町殿や大御所が握っている場合もあり、必ずしも征夷大将軍が握っていた訳ではない)。足利義満の王権簒奪で朝廷は統治権を失い、政治権力は史上最も低下した。将軍職は嫡男の義持へ譲ったが権力は治天の位置を占めた義満に集中したままだった。応永15年(1408年)5月、義満の急死後に将軍の権限が急速に回復し細川管領と斯波義将ら宿老との連携の中、将軍権力と幕府機能が復活し義満の政庁北山第も現・金閣を残し取り壊した[20]。以降に天皇と朝廷は揺り戻しや戦国大名の貴族化と猟官への接近による権威再建はあったが、統治権のない権威としての政府となり、幕府こそが日本全土を実質統治する政府となった[21]。足利義教の代には頻繁に守護大名家の相続に介入して独裁的な権力を行使したが、その暗殺と守護大名主導の叛乱鎮圧により再び将軍権力は低下した。足利義政の代には、守護大名間の武力抗争に対し、朝廷のように半ば超然と振舞う存在となった。その子の足利義尚は実権回復を図り六角氏討伐軍を自ら率いたが、中途で病死し果たせなかった。
南北朝時代には、南朝の北畠顕家が鎮守府将軍を鎮守府大将軍と名乗ることを認められているが、これは清華家の家格を有する北畠家にとっては、鎮守府将軍は明らかに卑職であることを顕家が嫌ったためである。
8232
:
トンチンカン信徒
:2019/01/25(金) 21:36:16
>>8228
SUB
歴史の因果が、現代に甦る
MES
歴史の因果が、現代に、甦ったのが、極端な菜食主義だと思われますね。
無意識相のなせる業でしょ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天皇家や将軍家と姻戚関係にあった日野父子が後南朝に与していたこともあって、事件は幕府内に憶測を招き、山名氏や細川氏の関与が疑われた記録も残っている[2]。
奪われた神器のうち、のちに剣は清水寺で発見され朝廷に返却されたが、神璽は持ち去られたままであった[2]。神爾は約15年の間後南朝のもとにあったが、長禄元年(1457年)に嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣が再興を目指して後南朝より奪い返し、翌年には北朝の手に戻っている(長禄の変)。赤松氏は赤松政則の家督相続を認められ、加賀半国を与えられて再興を果たした[4]。
投稿日時
2019年01月25日 (金) 21時35分
8233
:
蒼天の實相
:2019/01/26(土) 04:24:16
〜南朝正統説の②〜
>太平洋戦争後には西陣南帝の子孫を称する「熊沢天皇」こと熊沢寛道など、自らを正統な天皇の継承者と称する自称天皇たちが現れたとき、その多くは1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって南朝が正統とされたことを受けて、後南朝の子孫と主張していた。<
※こうした、観点より、現在、公開てきに、『天皇国日本』と騒いでる、人々の、『内面的主張は、正統血統南朝天皇復活』なのであって、現在の東京の皇居にお住まいの、北朝正統先生(関東)天皇陛下のことでは、ありません。
8234
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 00:36:14
〜両統迭立、①〜
両統迭立(りょうとうてつりつ)は、一国の世襲君主の家系が2つに分裂し、それぞれの家系から交互に君主を即位させている状態である。「迭」は「たがいに」「かわるがわる」の意。
日本では、鎌倉時代に皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあったことが最も著名である。
8235
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 00:37:59
>>8234
〜両統迭立、②〜
1.日本
1.1.鎌倉時代
鎌倉時代の両統迭立は、後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統とのあいだで行われた。
端緒[編集]
仁治3年(1242年)に即位した後嵯峨は、寛元4年(1246年)に皇太子久仁親王(後深草天皇、4歳)に譲位して院政を開始したあと、後深草に皇子が生まれるのを待たず、正嘉2年(1258年)に後深草(16歳)の同母弟恒仁親王(亀山天皇、10歳)を皇太子とし、さらに翌正元元年(1259年)には後深草から恒仁に譲位させた。後深草にはその後皇子が生まれたが、文永5年(1268年)、後嵯峨は、後深草の嫡男(第2皇子)煕仁親王(4歳)をさしおいて亀山の嫡男(第2皇子)世仁親王(2歳)を皇太子とした。
この一連の措置から、後嵯峨が亀山を自らの後継者としその子孫に皇統を伝える意図を持っていたことは容易に推測できるが、後嵯峨はその意図を明確にせずに文永9年(1272年)に死去した(53歳)。遺言状も財産の分与をこまごまと定めるのみで後継者を指名する文言はなく、ただ次代の治天の指名は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけが示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨がこのような曖昧な態度をとったのは、自身が幕府の介入によって傍系から予想外の即位をした経験を踏まえ、後継者を指名しても幕府の意にかなわなければ簡単に覆されてしまうことをよく知っていたためであろう。亀山はしばらく在位のまま政務を執り、文永11年(1274年)には皇太子世仁(8歳、後宇多天皇)に譲位した。
一方、治天の地位を逃した後深草は不満を募らせ、後宇多が即位すると抗議のため上皇の待遇を辞退して出家しようとした。後嵯峨は、膨大な王家領荘園群のうち、全国100ヶ所以上の荘園から構成される大荘園群長講堂領を後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の坂上田村麻呂の御佩刀(坂上宝剣[1])が後嵯峨の意向により亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は収まらなかったのである[1]。のちに長講堂領は持明院統の重要な財政基盤となる。亀山も対抗措置としてやはり200ヶ所にのぼる大荘園群八条院領をのちに手に入れ、こちらは大覚寺統の主要な財政基盤となった。2つの皇統は、こののち、治天・天皇・皇太子の地位だけでなく、女院などの皇族たちが分散して管理する王家領荘園群の熾烈な争奪戦も演じることになり、王家は政治的にだけではなく経済的にも分裂状況に陥ることになる。後深草の不満を受けて、承久の乱以来の慣行に従って幕府が皇位継承に介入し、建治元年(1275年)に煕仁(11歳)を皇太子に指名、将来、後深草が治天となることを保証した。この介入は、執権北条時宗が後深草の立場に同情したためという説明が当時からなされている(「増鏡」)ほか、得宗と治天の交渉を仲介する立場にある関東申次西園寺実兼が亀山父子よりも後深草父子と親しかったため、後深草にとって有利な解決をはかったことも指摘されている。この時点ですでに幕府は摂関家が分裂したのと同様に王家をも分裂させる意図を持っていたとも言われる(本郷和人)が、史料がなく真相は不明である。鎌倉時代には、公家社会一般で分家を次々に創出させる傾向が見られたことにも留意する必要がある。いずれにしても、建治元年の幕府の介入によって、後深草と亀山の両者が等しく皇位を子孫に伝え自らは治天となる資格を有することが確定し、これが以後200年に及ぶ王家分裂の端緒となった。
定着[編集]
8236
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 00:40:55
>>8235
〜両統迭立、③〜
両統迭立が鎌倉幕府(最高権力者は得宗北条貞時)の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。以後滅亡まで幕府はこの方針を堅持した。王家の分裂を固定化する意図によるものとする説と、皇位継承を王家の自律に任せ直接的な関与を避ける意図によるものとする説とが対立している。両統迭立の定着にともない、一方の皇統に専属的に仕える貴族が出現しはじめ、また治天の側も貴族たちにそれを求めた。王家の分裂が公家社会全体の分裂へと発展してゆくことになった一方、貴族たちの治天への従属は深まった。また、政務の交替とともに朝廷の高官・要職が一斉に入れ換えられ、一方の皇統の治天が下した訴訟の判決が他方の皇統の治天によって安易に覆されるなどの混乱も生じ、朝廷そのものの権威はかえって地盤沈下してゆくことになった。更にこの混乱は幕府へも思わぬ影響を及ぼした。治天が下した判決を執行するための警察力・軍事力を欠いていた朝廷では、六波羅探題にその執行を命じる勅命(違勅綸旨・違勅院宣)を送ってその検断権に基づく執行を命じたからである。この結果、敗訴した側は朝廷に逆らう「悪党」として討伐の対象となり、一方的に「悪党」と認定された側も激しく抵抗した。ところが、治天の交替によって判決がひっくり返されると、今度は対立していた側が同様の目に遭わされた。このため、訴訟当事者たちの朝廷に対する怒りが六波羅探題とその後ろにいる幕府にも向けられた。しかも、訴訟当事者の中に御家人がいた場合でも六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することが出来なかった。このため、悪党の活発化や御家人の幕府への不信を招く結果となり、幕府の権威もまた傷つく結果となったのである。
両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は持明院統から出すこととされた。13歳の後伏見にはまだ皇子がなく、伏見の第4皇子富仁親王(5歳)が皇太子となった。2つに分裂した王家がさらに分裂する可能性が生じ、伏見は持明院統の分裂を防止するため富仁を後伏見の猶子とする措置をとっている。大覚寺統では、すでに後二条には正安2年(1300年)に第1皇子邦良親王が生まれて将来の皇位継承が予定されていたにもかかわらず、亀山が乾元2年(1303年)に生まれた自分の皇子恒明親王を偏愛するあまり、邦良に代えて恒明を皇位につけることを後宇多と伏見に約束させて、さらなる皇統分裂の種を蒔いた。
嘉元2年(1304年)に後深草が62歳で死去、翌嘉元3年(1305年)には亀山が57歳で死去し、両統迭立は第2世代の時代に入った。それに先立つ正安4年(1302年)、伏見は2年前に死去した室町院より相続した持明院を新たな御所とした。一方、後宇多は徳治3年(1308年)になって大覚寺を再興して自らの御所とした。近藤成一の研究によれば、後深草・亀山両院の存命中はそれぞれ冷泉富小路殿と冷泉万里小路殿を拠点としており、「持明院統」「大覚寺統」の名称の由来となった持明院と大覚寺は自己の系統を新たな皇統として位置づけることに成功した伏見と後宇多という第2世代を象徴する殿舎であったと指摘している。
両統迭立の影響は芸能面にも見られる
8237
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 01:05:50
※後醍醐天皇陛下が、史実的には、『治天』を乗った経緯も、史実には、解釈できる。
南朝方、北朝方の歴史は関西近畿地方の歴史でもある。
良く、検分する事が、必要である。
尚、天皇国日本、唱える連中の大半は、関西人である事注目すべきである。もっと現代日本人は客的に、検分する目なくては、ならない。
8238
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 02:14:39
〜シャクシャイン〜
(アイヌ民族)
1.経歴
シャクシャインは、シベチャリ(現在の新ひだか町)以南の日高地方及びそれ以東の集団であるメナシクルの首長であった。メナシクルは、現在の新冠町から白老町方面にかけての集団であるシュムクルとシベチャリ川(静内川)流域の領分を巡って遅くとも1648年から対立していた。メナシクルの先代の首長であるカモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの1653年の抗争により殺害され、副首長であったシャクシャインが首長となった。
シャクシャインはシベチャリ川下流東岸、シベチャリのチャシ(砦)を拠点としていた(現・新ひだか町静内地区)。オニビシはシベチャリ川上流西岸のハエのチャシを拠点としていた(現日高町門別地区)。両者は松前藩の仲介によって講和するが寛文年間(1661〜1673年)に対立が再燃し1668年4月、シャクシャインがオニビシを殺害。報復のため、ハエは松前藩に武器の援助を申し出るが拒否される。さらに使者が帰路に急病死すると、使者は松前に毒殺されたという風説が広り、皮肉にも対立していたシベチャリとハエを一つにまとめるものであった。
シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌへ松前藩への戦いを呼びかけた。1669年6月、シャクシャインの指導するアイヌ軍は松前藩へ蜂起を起こした。これがシャクシャインの戦いである。蜂起は各地で発生し砂金掘りや交易に訪れた船舶や鷹待を攻撃、和人を殺傷した。シャクシャインは松前を目指し進軍、7月末には現在の山越郡長万部町のクンヌイまで攻め進んだ。松前藩から急報を受けた徳川幕府は東北諸藩へ松前藩に対する援軍や鉄砲・兵糧の供与を命じ実行された。
クンヌイでの戦闘は8月上旬頃まで続くが、シャクシャイン勢が和人側の妨害により渡島半島のアイヌと連携できなかったのに対し、松前軍は幕府や東北諸藩の支援を受け、鉄砲を多数装備していた。これにより戦いはシャクシャイン側の劣勢となり、シャクシャイン軍はクンヌイからの敗退を余儀なくされた。シャクシャインは10月23日(11月16日)に現在の新冠町にあたるピポクの松前藩陣営で謀殺され、指導者を失った蜂起者たちは松前軍に降伏した。
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2.記念物
2.1.シャクシャイン像
1970年9月15日、シャクシャインのチャシが遺跡として残る新ひだか町・真歌公園に、任意団体「シャクシャイン顕彰会」によって強化プラスチック製の立像が有志の寄付により建立され、1976年に静内町に寄贈された[2][3]。このシャクシャイン像は和人の彫刻家竹中敏洋がデザインしたもので[4]、像は高さ3.5m、杖の先までの長さは4.2m[2]。「風をはらんだカッコロ(マント)を背に、エクンネクワ(山杖)を右手にかざし、神の祈りを聞くシャクシャインの姿」を表現したもので、一部に言われている松前藩の方向へ怒りを表した姿ではないことが、1972年9月30日に発行された児童書「明日に向かって アイヌの人びとは訴える」によって記されている[5]。毎年9月には、新ひだかアイヌ協会が像の前で全道からアイヌを集めた法要祭を行っている[3]。
1972年9月20日、結城庄司ら5人がシャクシャイン像の台座に刻まれていた町村金五知事(当時)の名を削り取る事件があった。犯行に新左翼の太田竜が加わっていたことから、警察は札幌オリンピックを控えた時期を狙った過激派による事件とし、全国指名手配の末1974年に結城らを逮捕した。しかしこの事件で有罪となったのは太田のみで、結城や足立正生・新谷行など他の4人は起訴猶予となった。
2015年、新ひだかアイヌ協会が老朽化を理由に協会をNPO法人化し寄付を募る形で像の建て替えを決定した[2]。しかし、政府のアイヌ新法検討を踏まえた穏やかな表情のデザインによる新像の発注を行ったアイヌ協会と、すでに定着している従来の像の存置を主張するシャクシャイン顕彰会との間で意見が二分し、新ひだか町は新像完成後に旧像撤去を行う方針だったものの顕彰会の申し出を受けて保留し、町・アイヌ協会・顕彰会による3者会談を行った[3]。しかし話し合いは平行線をたどり、いったんは旧像を残したまま新像も立てることになったが[6]、結局9月20日に新ひだか町は「老朽化が進み、倒壊の恐れがあり危険」として旧像を撤去した[7]。新像は手のひらを上にしてオンカミ(拝礼)をする姿をかたどった高さ約4mのブロンズ製で、9月23日の法要祭で披露された[8][9][10]。その後10月にはシャクシャイン顕彰会が町による旧像の撤去を「対応が乱暴で納得いかない」として、旧像の型枠を用いた独自の再建計画が判明している[11]。
2.記念物
2.2.シャクシャイン古戦場跡碑
2016年10月28日、長万部町は国縫川ほとりの旧国縫小敷地に「シャクシャイン古戦場跡碑」を設置して除幕式が行われた[1]。この碑は台座からの高さ2m、幅3m、奥行き1mの大きさで御影石製である[1]。
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蒼天の實相
:2019/01/27(日) 03:26:39
〜坂上宝剣〜
概要
坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。坂上宝剣の呼び名で知られるが、正しい銘文は「坂家宝剣」である[1]。文献によっては田村将軍の剣[2]、敦実親王の剣[3][4]などとも記されている。
醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。
1.概要
坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[2]。
西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の一方に「上上上 不得他家是以為誓謹思」、もう一方に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[5]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[6]。
2.関連する出来事
2.1.平安時代
征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[7]。
『富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実の御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[8]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[9][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。
『古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[3][11]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]。
『古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[4]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]。
8240
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蒼天の實相
:2019/01/27(日) 03:32:11
〜坂上宝剣、②〜
2.関連する出来事
2.2.鎌倉時代
鎌倉時代に後嵯峨天皇の第3皇子後深草天皇の子孫である持明院統と、第4皇子亀山天皇の子孫である大覚寺統との間で皇統が2つの家系に分裂し、治天と天皇の継承が両統迭立の状態にあった。
『増鏡』「みなれ川」では、1272年(文永9年)に死去した後嵯峨は、次代の治天は鎌倉幕府の意向に従うようにという遺志だけを示された。後深草と亀山はそれぞれ次代の治天となることを望んで争い、裁定は幕府に持ち込まれた。幕府は、後嵯峨の正妻であり後深草と亀山の生母でもある大宮院に故人の真意がどちらにあったかを照会し、大宮院が亀山の名を挙げたことから亀山を治天に指名した。後嵯峨は長講堂領と呼ばれる荘園や播磨国、熱田神宮などを後深草が相続できるようとりはからっていたが、皇室伝来の将軍坂上田村麻呂の御佩刀[14]が後嵯峨の意向により崩御の後、直ちに内裏へと奉られたことで亀山に伝えられ、大宮院も関与していたことに後深草の不満は「女院のうらめしき御事」と収まらなかった。この一件は幕府にも不満を伝え、後に幕府の介入を招くことになる[12]。
坂上宝剣はその後、両統迭立の正式な始まりとされる後二条天皇の時に、亀山から恒明親王へと与えられた[12]。
3.関連する刀剣
国文学者の荒木浩は関連する刀剣として壺切御剣を挙げている。壺切御剣は坂上宝剣と同じく、後深草を超えて亀山へと伝授されたことで、どちらもレガリア的役割を深く担った。両刀剣が決定的に異なっているのは、後三条天皇の頃に消失した壺切御剣は実検と復元、新造と発見という真偽を超えた対応で処遇され、象徴としてのモノとしてすでに儀礼化の中に位置していた。それに対して坂上宝剣は『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』乾元二年五月九日と裏書に、刀身に彫られた文字まで克明に記録されたように、実物として存在する歴史的実在性が権威化の象徴であった[13]。
4.俗説
4.1.牧秀彦説
時代小説作家の牧秀彦は、坂上田村麻呂が征夷副使となった第二次征伐の際に佩用した太刀が坂上宝剣であるとしている。最初は標剣(そはやのつるぎ)とも呼ばれ、811年(弘仁2年)に没した田村麻呂の遺愛刀の標剣が皇室の御剣に加えられたのち、歴代天皇や親王の側に置かれて、現在は鞍馬寺に所蔵されていると著書で述べている[14]。しかし牧秀彦説は引用された史料が挙げられておらず疑問点も多い。
標剣とは蝦夷征討において天皇から征夷大将軍に賜与される節刀の事を指し[18]、『日本紀略』によると第二次征伐では794年(延暦13年)1月1日に大伴弟麻呂が節刀を賜与されているものの、征夷副使である田村麻呂が賜与された事実は無いことから、田村麻呂が第二次征伐で標剣を佩用していたとは考えられない。田村麻呂は第三次征伐で征夷大将軍となった801年(延暦20年)2月14日に節刀を賜与されているが、同年10月28日に帰京して天皇に節刀を返還しており、また征夷大将軍に還任した804年(延暦23年)では翌年に徳政相論が起こって桓武天皇が蝦夷征討を中止しているため出征はなく、節刀を賜与されることもなかった事から、生涯に渡って標剣を持ち続けていた事実は確認できない。標剣をそはやのつるぎともしているが、標剣とそはやのつるぎを結びつける一次史料が挙げられていないため、標剣をそはやのつるぎとしている点にも疑問が残る。
同様に、鞍馬寺が所蔵する黒漆剣についても田村麻呂が戦勝祈願に訪れ無事に凱旋した時に奉納した大刀とのみ口伝で寺に伝わるため[15]、鞍馬寺の大刀が坂上宝剣であるとする牧秀彦説は信憑性に欠ける。坂上宝剣には刀身の両面にそれぞれ「上上上 不得他家是以為誓謹思」「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていた事が記録に残るが、黒漆剣には坂上宝剣を示す金象嵌はない。
このように牧秀彦説には多数の疑問点がみられることから俗説と考えられ、近年では坂上宝剣と標剣、そはやのつるぎ(騒速)、黒漆剣の4振りの刀剣はそれぞれ同一ではない、または同一であるか定かではないと説明されるのが一般的となっている[16][17]。
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蒼天の實相
:2019/01/27(日) 03:36:20
〜壷切御剣〜
壺切御剣
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▼目次
概要
壺切御剣(つぼきりのみつるぎ/つぼきりのぎょけん)は、日本の皇太子(東宮)に相伝される太刀。皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)であり、三種の神器や宮中三殿とともにいわゆる御由緒物の中でも別格の扱いを受けている[1]。「壺切の御剣」「壺切太刀(つぼきりのたち)」とも。
現在は、皇太子徳仁親王に継承されている。
1.概要
壺切御剣は皇太子に相伝される護り刀で、代々の立太子の際に天皇から授けられてきたものである[2]。その始原は、寛平5年(893年)の敦仁親王(醍醐天皇)の立太子に際し、親王が宇多天皇から剣を賜ったことまで遡る(『西宮記』)[3]。それは元々藤原氏の剣であったと見られ[4]、藤原氏出身の皇太子の地位安定化のために、皇位を象徴する草薙剣を模倣し創設されたと推測される[3]。
御剣は、天皇から皇太子に代々授けられたが、敦明親王(小一条院)の継承に際しては藤原道長が妨げたことが知られる[3]。その後、初代の御剣は平安時代後半の内裏の火災で焼失し、別の剣が充てられた(2代目)[5]。これも承久の乱(1221年)に際し所在を失ったため、寛元元年(1243年)の久仁親王(後深草天皇)立太子に際して3代目が新鋳された[3]。しかし、正嘉2年(1258年)の恒仁親王(亀山天皇)立太子に際して勝光明院の宝蔵から2代目が見つかったため、3代目は廃され2代目が壺切御剣とされた[3]。
以後現在まで継承され、近年においても平成3年(1991年)2月23日の皇太子徳仁親王の立太子に際して御剣の親授がなされている[6]。
日本国憲法施行後における法体制では、皇室経済法第7条に規定する皇位とともに伝わるべき由緒ある物(いわゆる御由緒物)とされており、これにより相続税法第12条第1項第1号の非課税財産とされている[1]。また、御剣は、昭和天皇崩御の際に昭和天皇から明仁へ皇位とともに相続されていることから、民法上の所有者は皇位を持つ今上天皇であり、使用貸借契約に基づき皇太子が占有している状態である[1]。立太子の礼の際の授受は、民法上現物の授受であり、このときに契約の成立要件が満たされる形である。
8242
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 04:54:35
〜壷切御剣、例外〜
2.関連する出来事
2.1.敦明親王の皇位辞退
長和3年(1014年)頃から三条天皇は眼病を患い政務に携わることが不可能となったため、当時内覧であった左大臣藤原道長は、天皇に敦成親王への譲位を求めるようになった。天皇はかたくなに拒んだが、この間に内裏の火災が相次いだため[7]、道長はこれを天皇の不徳であるとした。一ヶ月ほどの交渉の間に道長が折れ、次の東宮には三条天皇の第一皇子の敦明親王が立てられることとなった。
長和5年(1016年)1月29日、三条天皇は譲位し敦成親王が践祚(2月7日に即位:後一条天皇)。三条上皇は翌寛仁元年(1017年)5月9日崩御した。その直後の8月4日に、敦明親王は道長に対し会談を求めた。8月6日に道長が東宮御所に赴くと、親王は東宮の地位を辞退する旨を打ち明けた。
道長は翻意するよう(形式的に)説得するが敦明親王の意思は固く、結果として後一条天皇の弟である敦良親王(のちの後朱雀天皇)が新たに東宮として立てられることとなった。道長が敦明親王を東宮として認めなかった、あるいは認めたくなかったという実証として、壺切の存在が挙げられる。8月23日の敦良親王立太子式から2週間後、内裏から壺切が授けられたが、敦明親王立太子の際にはこれを授けることを拒み、ついに敦明親王は立太子から辞退までの1年半、壺切を受けることがなかったのである。敦明親王は皇位継承権を失い「小一条院」の尊号を受け、太上天皇に次ぐ扱いを受ける[8]。
2.関連する出来事
2.2.後三条天皇の即位
後朱雀天皇の御世、当時の関白である藤原頼通は、父道長に続いて外戚の地位を得るべく苦心したが徒労に終わり、そうこうしているうちに天皇は病を得て第一皇子で東宮であった親仁親王に譲位する(後冷泉天皇)。その際、新帝の東宮には親仁親王の皇太弟である尊仁親王をあてるよう頼通に告げる。尊仁親王の母は三条天皇の皇女禎子内親王であり、藤原氏を外祖父としない。
藤原氏を外祖父とせず、かつ新帝に皇子が生まれる可能性を考慮すれば、頼通にしてみれば賛成できるはずもなく、あからさまに不服の態度をしめしたという[9]。また、尊仁親王を東宮としたいという天皇の考えを察した頼通が先手を打ち、東宮のことはゆっくりと考えるべきであるとして時間稼ぎに走ろうとしたところ、藤原能信[10]が東宮のことは今すぐ決めるべきだと薦めて実現した[11]。
結局のところ頼通、教通の努力も実を結ぶことがなく、後冷泉天皇は皇子はおろか皇女すら得ることなく病により崩御し、尊仁親王が後三条天皇として即位する。藤原氏を外戚としない天皇は、宇多天皇以来実に170年ぶりになる。尊仁親王が東宮であった期間は23年間であったが、この間壺切は頼通が内裏に留め置いたため、東宮としてのシンボルを持たずに即位した天皇となる。
頼通の言い分では、この剣は藤原氏腹(つまり、藤原氏を外戚とする)の東宮のものであるから、尊仁親王に持たせるつもりはないということである。天皇はならば壺切は不要であると述べ、即位の後にようやく献上された。
この話は大江匡房の『江談抄』に掲載された話で、匡房が後三条天皇のあつい信任を受け重用されたため、この話は信憑性が高いとされてきた。だが、明治24年(1891年)に松浦辰男が『江談抄』は匡房が語った話を聞いた藤原実兼がメモしたものを後日文章として起こしたもの(つまり、大江匡房本人の執筆ではない)で、匡房が語ったとされる元の話は「後三条院」ではなく[12]「故三条院」(すなわち三条天皇あるいはその譲位の詔で立てられた敦明親王[13])の故事であった可能性(「壷切御剣之事」(『史学会雑誌』19号、1891年6月))を指摘しており、実際のところは後三条天皇の話であったのかどうかは不明である[14]。
8243
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蒼天の實相
:2019/01/27(日) 19:16:02
〜坂上宝剣と征夷大将軍〜
概要
坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。
坂上宝剣では坂家。
1.生涯
1.2.征夷大将軍
延暦15年(796年)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守に任命され、10月27日に鎮守将軍も兼任すると、翌延暦16年(797年)11月5日には桓武天皇により征夷大将軍に任じられ、東北全般の行政を指揮する官職を全て合わせた[7]。延暦17年(798年)閏5月24日に従四位上、延暦18年(799年)5月に近衛権中将となると、延暦19年(800年)11月6日に諸国に配した夷俘を検校のために派遣されている[8]。
延暦20年(801年)2月14日に節刀を賜って、4万の軍勢、5人の軍監、32人の軍曹を率いて平安京より出征。記録に乏しいが『日本略記』には、9月27日に「征夷大将軍坂上宿禰田村麿等言ふ。臣聞く、云々、夷賊を討伏す」とのみあり、討伏という表現を用いて蝦夷征討の成功を報じている[9]。10月28日に凱旋帰京して節刀を返上すると、11月7日に「詔して曰はく。云々。陸奥の国の蝦夷等、代を歴時を渉りて辺境を侵実だし、百姓を殺略す。是を以て従四位坂上田村麿大宿禰等を使はして、伐ち平げ掃き治めしむるに云々」と従三位を授けられる。12月には近衛中将に任じられた[9]。
8244
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 19:19:45
>>8243
〜坂上宝剣と征夷大将軍②〜
概要
征夷大将軍(せいいたいしょうぐん、旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。
飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。
大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。
8245
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 19:22:33
>>8244
〜坂上宝剣と征夷大将軍③〜
1.歴史
1.2.源頼朝
東国の独立政権[編集]
源頼朝の一族(河内源氏)は軍事を家業として朝廷に仕える軍事貴族であった。しかし、伊豆の流人生活から東国武士団を率いて反平氏の旗を揚げた。頼朝の当初の立場は朝廷に公認されたものではなかった。頼朝は、まず朝廷から相対的に独立した「東国王権」を築き上げ、京都の朝廷では元号を養和と改元したが、頼朝は、そのまま治承の年号を使用した[1] 。その後、朝廷との関係も含め、先行する平氏政権・源義仲・奥州藤原氏地方政権の3パターンの比較検討から次第に政権構想が練られたのではないかといわれている。
平氏政権は、既存の貴族の家格秩序に従って官位昇進をし、天皇の外戚として朝廷の権力を掌握する道を選んだが、平氏の繁栄を誇示するだけになり、地方の実効支配者としての武士の代表としてうまく機能しなかった。これに対し、東国の一定の独立性は保ちつつ朝廷に武家権力としての自主的統治権を認めさせるために交渉を重ねていくことになる。
平氏を追い落として京都を制圧した源義仲は、200年以上前に存在した征東大将軍に任官された。征東大将軍の官名は東方を征伐する職務を示すもので、東国の頼朝に対抗する義仲の意図が推定される。義仲を滅ぼした頼朝もまたこれに匹敵する称号を望むことになる。
当時の東北地方は、朝廷の支配が及ばない奥州藤原氏の独立した地方政権だった[2]。奥州藤原氏は鎮守府将軍の地位を得て、陸奥国・出羽国における軍政という形での地方統治権を認められ100年支配した[3]。辺境常備軍(征夷大将軍の場合は臨時遠征軍)の現地司令官という性格を持つが故に在京の必要がなく、地方政権の首領には都合が良かった。頼朝自身も鎌倉に留まり続け、京都の朝廷から公認を受けつつ一定の独立性を保持しようとした。
近衛大将から征夷大将軍へ[編集]
建久元年(1190年)、頼朝は右近衛大将(右大将)に任官したが、近衛大将は中央近衛軍司令官という性格上在京しなければならず、半月も経ぬうちに辞任した。右大将は官位相当こそ高いものの、源義仲の征夷大将軍のように武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位ではなく、奥州藤原氏の鎮守府将軍のように東国に独立の勢力圏を擁するに相応しい地位でもない。
そこで注目したのが、征夷大将軍という官職であった。坂東の武士を率いて行う蝦夷(奥州藤原氏)征服に大義名分を得るという目的からしても、また鎮守府将軍と同様に軍政(地方統治権)を敷く名分としても相応しく、故実からも鎮守府将軍より格上である格好の官職だった。
つまり、
東国武士の棟梁たる鎌倉殿という私的地位
守護(追捕使)・地頭を全国に置き、軍事・警察権を掌握する日本国惣追捕使・日本国惣地頭という公的地位
右大将として認知された、家政機関を政所などの公的な政治機関に準ずる扱いを受ける権限
を、全て纏め上げて公的に裏付けられた一体的地位とするのが征夷大将軍職であった。
征夷大将軍の意義[編集]
しかし、頼朝にとって征夷大将軍職は、奥州藤原氏征討のためにこそ必要とされた官職であって、奥州合戦を経て実際に任官した建久3年(1192年)にはすでに必要なくなっていたという見方もある。実際に頼朝は征夷大将軍職にあまり固執せず、2年後には辞官の意向を示している[10][12]。
また、嫡男の頼家は家督継承にあたり、まず左近衛中将、次いで左衛門督に任官しており、征夷大将軍に任官したのはその3年後である。頼家が失脚する比企能員の変の際、惣追撫使・惣地頭の地位の継承が問題となった一方、征夷大将軍職は対象とされていない。従って、この段階の征夷大将軍は、武家の棟梁たる鎌倉殿や日本の軍事的支配者たる惣追撫使・惣地頭の地位と不可分なものではなく、さほど重視されていなかったことが伺える。ただ、頼家の弟実朝の家督継承の際にはまず征夷大将軍に任官している。
頼朝は朝廷の常設最高職である左大臣に相当する正二位でこの職に就き、同時に一部で朝廷との二重政権状態を残しつつ全国に武家支配政権を形作ったため、以降その神格化とともに「天下人」としての征夷大将軍の称号が徐々に浸透していく。また、後年に至るまで執権、管領、大老などの幕府次席職の官位は従四位どまりであり、将軍のみが隔絶して高い権威として全ての武士に君臨する(たとえ実権がともなわなかったとしても)慣習もこの時期に確立されている。
8246
:
蒼天の實相
:2019/01/27(日) 19:25:59
>>8244
〜坂上宝剣と征夷大将軍④〜
概要
坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。坂上宝剣の呼び名で知られるが、正しい銘文は「坂家宝剣」である[1]。文献によっては田村将軍の剣[2]、敦実親王の剣[3][4]などとも記されている。
醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。
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1.概要
坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[2]。
西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の一方に「上上上 不得他家是以為誓謹思」、もう一方に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[5]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[6]。
2.関連する出来事
2.1.平安時代
征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[7]。
『富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実の御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[8]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[9][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。
『古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[3][11]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]。
『古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[4]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]。
8247
:
蒼天の實相
:2019/01/28(月) 03:37:58
〜草薙剣盗難事件〜
(新羅民族=志恩さんの先祖の悪さ)
1.記録
1.1.日本書紀
事件は、『日本書紀』(養老4年(720年)成立)において簡潔に記載されている。同書天智天皇7年(668年)是歳条によると、沙門(僧の意)の道行が草薙剣を盗み、新羅に向かって逃げた。しかしその途中で風雨に遭ったため、道行は迷って帰ってきたという。同書では道行の素性に関する記載はなく、その後の道行の経緯も記されていない[1]。
草薙剣のその後については、事件18年後の朱鳥元年(686年)6月10日条に記述がある。同条によると、天武天皇が病を得た際に占いで草薙剣による祟りだと見なされたため、剣を尾張国の熱田社(現・愛知県名古屋市の熱田神宮)に送り置いたという[1]。
是の歳に、沙門道行、草薙剣を盗み、新羅に逃げ向く。而して中路に風雨にあひて、芒迷(まと)ひて帰る。
?・『日本書紀』天智天皇7年是歳条[2]
戊寅に、天皇の病を占ふに、草薙剣に祟れり。即日(そのひ)に、尾張国の熱田社に送り置く。
?・『日本書紀』朱鳥元年6月戊寅条[3]
1.記録
1.2.熱田太神宮縁記
熱田神宮側の文献として、鎌倉時代初期頃の成立[4]になる『尾張国熱田太神宮縁記』では、道行を新羅僧として説話を記載する[4][1](素性を新羅僧とするのは、一説に『日本書紀』の記述の拡大解釈[2])。
それによると、道行は熱田社から神剣(草薙剣)を盗み出し本国に渡ろうとしたが、伊勢国において神剣は独りでに抜け出して熱田社に還った。道行は再び盗んで摂津国より出港したが、海難のため難波に漂着した。道行は神剣を投げ捨て逃げようとしたが、神剣がどうにも身から離れず、ついに自首して死罪に処せられたという[4]。
そして朱鳥元年(686年)6月10日、天武天皇の病が神剣の祟りと見なされ、神剣は熱田社に移されたとしている[4]。
1.記録
1.3.その他
大同2年(807年)の成立になる『古語拾遺』では、簡潔ながら、外賊が草薙剣を盗み逃げたが境を出ることが出来なかったと事件について触れている[5]。
草薙神剣者。尤是天璽。自二日本武尊催旋之年一。留任二尾張熱田社一。外賊偸逃。不レ能レ出レ境。
?・『古語拾遺』[7]
8248
:
蒼天の實相
:2019/01/28(月) 03:41:17
>>8247
〜草薙剣盗難事件〜
(新羅民族=志恩さんの先祖の悪さ)
2.考証
事件に関わる草薙剣(天叢雲剣)は、三種の神器の1つであり、古来熱田神宮の神体とされている。熱田神宮側では、日本武尊東征時の神宮創建から現在まで草薙剣は神宮に祀られているとし、この事件も一時的に剣が神宮を離れたものとしている。しかしながら、『日本書紀』の内容には疑問点が指摘されており、その経緯を巡って他にも諸説が出されている。
一説として、盗難後18年間も宮中に留めおかれたのは不自然であることから、道行が盗み出した場所は熱田神宮でなく朝廷であるとして、朱鳥元年が初めての熱田神宮への草薙剣下賜とする説がある。この説では、『日本書紀』に盗み出した場所が明記されていないこと、朱鳥元年記事が熱田社に「還し置く」でなく「送り置く」と記すことが指摘される。熱田神宮では草薙剣が正殿(本殿)とは別の社殿に祀られていたことが知られ[8]、この様も草薙剣が創建後に入ってきたことを表すとされる。下賜の背景には、壬申の乱における尾張氏の協力が考えられている[1]。
別説として、盗難記事と朱鳥元年記事につながりを見ない説もある。この説では、草薙剣は盗難後すぐに熱田社に還されたが、天武天皇即位儀式のために一時的に宮中に移されていたと見て、それが熱田社に還されたと推測する[1]。
そのほか、元々熱田社に伝わる草薙剣を天武天皇が尾張氏に貢上させ、漢の斬蛇剣になぞらえて皇位継承の神器としたとする説もある。その中で、その後に天武天皇に対して剣の祟りがあったため、熱田社から朝廷への移動を貢上ではなく盗難説話にすり替えたと推測する[7]。
なお現在では、草薙剣の本体は熱田神宮に、分身は宮中にあることとなっている。これに関して、『古語拾遺』では分身の作製を上古の崇神天皇(第10代)の時のこととするが、上記の一連の事件の存在により、分身による皇位継承を持統天皇(天武天皇次代)即位時からとする説がある[7]。
3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。
8249
:
蒼天の實相
:2019/01/28(月) 23:39:15
〜漢皇帝=正統継承剣→斬蛇の剣〜
※ 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。
8250
:
蒼天の實相
:2019/01/28(月) 23:49:28
>>8249
〜草薙剣と斬蛇の剣〜
※漢皇帝継承剣→斬蛇の剣について。
> 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。<
※日本天皇陛下継承剣 →草薙剣について。
3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。
※結論、漢皇帝継承の剣
『斬蛇の剣』を模して、
日本の天皇陛下継承の剣『草薙の剣』が、造らたのは、間違いなさそうである。
8251
:
蒼天の實相
:2019/01/29(火) 01:14:16
>>8249
〜天村雲剣と斬蛇の剣〜
※天叢雲剣
あめのむらくものつるぎ
三種の神器の一つ。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。中国の『史記』の高祖本紀に、斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつと語る。その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名。
8252
:
蒼天の實相
:2019/01/29(火) 11:02:24
>>8251
8251:蒼天の實相
19/01/29(火) 01:14:16
>>8249
〜天村雲剣と斬蛇の剣〜
※天叢雲剣
あめのむらくものつるぎ
三種の神器の一つ。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾より出現した剣である草薙剣(くさなぎのつるぎ)の元の名を、『日本書紀』本文の注および一書では天叢雲剣とし、大蛇の上につねに雲気があったゆえの命名とする。中国の『史記』の高祖本紀に、斬蛇剣(ざんだけん)をもつ高祖のいる上にはつねに雲気がたつと語る。その漢の宝剣である斬蛇剣に、わが国の三種の神器の一つである神剣を擬するための命名
8250:蒼天の實相
19/01/28(月) 23:49:28
>>8249
〜草薙剣と斬蛇の剣〜
※漢皇帝継承剣→斬蛇の剣について。
> 「斬蛇の剣」は、漢の高祖劉邦が得たとされる宝器で、革命を起こした漢王朝の始祖にちなみます。劉邦は、一介の庶民から身を起こして皇帝にまでなった下克上の体現者です。<
※日本天皇陛下継承剣 →草薙剣について。
3.伝承
熱田神宮の伝承では、道行は神剣を盗み出して、かつての神宮北門の清雪門(せいせつもん)を通ったという。古来、清雪門は不開門(あかずのもん)として閉ざされたままとなっているが、これは不吉の門とされたためとも、門を閉じて神剣を再び外に出さないためともいわれる[8][1]。
また神宮では、毎年5月4日に朱鳥元年(686年)の神剣遷座の際に歓喜した様を伝える酔笑人神事(えようどしんじ)を行う。さらに翌5月5日には、「都を離れ熱田に幸(みゆき)すれど、永く皇居を鎮め守らん」という神剣の神託に由来して、神輿が楼門に渡御し皇居を遥拝する神輿渡御神事(しんよとぎょしんじ)も行なっている[9][1]。
そのほか、大阪府大阪市の地名「放出(はなてん)」について、道行が神罰を怖れ、草薙剣を「放り出した」ことが由来(はなつて→はなて→はなてん)とする説があり、同地の阿遅速雄神社ではその伝承を伝えている。
鳥栖八剱社(名古屋市南区鳥栖)の社伝では、和銅元年(708年)ママに道行が熱田神宮の草薙剣を盗み去った際、元明天皇に知られるのを恐れて新しく同地で神剣が作られ、熱田神宮別宮の八剣宮に奉納されたとする[12]。
8253
:
蒼天の實相
:2019/01/30(水) 10:19:46
>>8252
〜征夷大将軍と漢皇帝〜(劉邦末裔〜東漢氏〜坂上田村麿呂将軍〜
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1.中国
1.3.その他の劉氏
漢王朝の滅亡後は、南朝宋(劉宋)の劉裕が劉邦の弟である楚元王劉交の子孫を称したほか、後述のようにいくつかの非漢族の王朝が漢姓として劉氏を称している。後の前趙となる漢を建てた劉淵を始めとして前漢・後漢時代に漢の皇族と通婚関係を持った匈奴の単于一族(攣?氏)の末裔が漢室の正統な後継者を自負して劉氏を名乗った。さらに下って五代の後漢を建てた突厥沙陀部の劉知遠は明帝の子孫を名乗り、遼(契丹)の耶律氏も漢姓として劉氏を称した。アラブ系という説もある十国南漢の劉?も漢王室の支族である彭城劉氏の子孫を自称している。
また、4世紀から6世紀にかけて日本列島に多く渡来した中国系の渡来人の多くが、劉邦または漢室の子孫を称している。特に東漢氏と西漢氏が有名である。東漢氏の子孫に坂上田村麻呂がいる。
[4]前ページ
3.出自
東漢氏の「漢」は後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している[5]。『続日本紀』延暦四年(785年)6月条は東漢氏の由来に関して、「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優れていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたことを記している。系譜などから判断すれば、東漢氏は漢王朝との関係を創作したものと思われる。
東漢氏と直接の関係は無いが百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段楊爾」と替えたいと百済は申し出ている[6]。
4.氏族の特徴
東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀などの記録から土木建築技術や織物の技術者が居たことをうかがい知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を出している。
また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。『肥前国風土記』によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した[7]。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂(たもと)を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。
※坂上宝剣を天皇陛下より承った、征夷大将軍はら皇帝と同じである。
8254
:
シオン観測隊
:2019/01/31(木) 06:30:39
〜宇治とウトロ地区〜
概要
ウトロ地区(ウトロちく)は、京都府宇治市伊勢田町[1]51番地に所在する地区(伊勢田町小字ウトロ)。在日韓国・朝鮮人の集住地域のひとつで、自衛隊大久保駐屯地の北隣に展開している。
戦時中に計画された飛行場の建設労働者とその家族が暮らした飯場を源流とする。住民側が数十年にわたって日本政府と日産グループに対して居住権の保証を要求する闘争を展開し、在日朝鮮人問題の象徴的事例とされてきた。2016年には家屋の解体が始まり不法占拠状態が解消、再開発が始まった。
「ウトロ地区」とはあくまで通称であり、正式な地名(町丁)ではない。本来の正しい地名は宇土口(うとぐち)であるが、誤記や誤読によって「ウトロ」へと変化したと考えられている。故に北海道のウトロとは全く関係ない。
1.ウトロ地区の起源
第二次世界大戦中の1942年2月に京都飛行場[2]と、併設の飛行機工場の建設工事が正式決定した。日本国際航空工業が建設工事を請け負い、工事には約2000名が従事した。従事者の約1300名が朝鮮人であり、彼等とその家族が生活していた1943年建造の飯場(宿泊設備)が現在のウトロ地区の前身である。
かつて当地区住民側は居住権を主張する根拠として「ウトロ住民は1944年9月から1945年3月までの間、出稼ぎに来た朝鮮半島出身労務者とその子孫であり、ウトロ住民の居住権は日本政府、もしくは原因企業の日産車体、ひいては母体の日産グループが保証すべきである」とし、地主企業の西日本殖産との法廷闘争と並行して、日本政府、および日産グループを相手方として闘争を展開してきた[3]。
しかし現在、ウトロ地区住民の作る「ウトロ国際対策会議」などによると日本国際航空工業の1300人の朝鮮人労働者達は、ほとんどが国民徴用令や国家総動員法による徴用で来日した訳ではなく、経済的理由や兵役免れなどで移住してきた者であるとしている[4]。また、韓国の国務総理傘下の「日帝強占下での強制動員被害者の真相究明委員会」も、2006年末の報告書で、ウトロ地区住民について、「強制徴用者ではなく、元から日本に居住していた朝鮮人がほとんど」と明らかにしている[5]。また、水野直樹は講演で、戦時中に鉱山での過酷な労働を嫌って逃げ出した朝鮮人労働者が多く、軍指定の労働のためここで働けばまた徴用に会わないと、ウトロ地区に来た者もいたと述べている[6]。つまりウトロ地区は、徴用以前から日本に居住していた朝鮮人を基盤とし、これに1930年代末に日本の併合時代の貧困層の朝鮮人や被徴用者が加わって形成されたものである。
2005年時ウトロ地区に暮らす65世帯のうち、(1)大戦中に飛行場建設工事に関わった1世と子孫、(2)その親類縁者 (3)戦後(1945年以降)にウトロに移住してきた家族とその子孫が、それぞれ3分の1ずつを占める。65歳以上の高齢者を含む世帯が30世帯、その中で高齢者だけの世帯が16世帯20人。生活保護世帯が全体の約20%(宇治市平均約1%)と、若い世代はウトロから転出し日本から生活保護を受けている高齢者が残っている傾向にある[7]。
2.ウトロ地区問題の推移
1945年7月、飛行場が米軍に爆撃されたことを受けて航空機工場は生産活動を停止し、従事者の全てが失職した。終戦と同時に飛行場の建設が中止されると彼らが居座る理由も法的な根拠も無くなり、更に同基地と付帯設備はGHQが接収することとなった。朝鮮人労働者の大半は帰国したが、GHQからの退去勧告および朝鮮への帰国要求を拒否した朝鮮人労働者は不法に残留し続け、GHQが接収できなかった元・飯場が朝鮮人集落の原型となった。これは朝鮮までの船賃が労働賃金の数ヶ月分にも相当するほど高額で工面できなかったり、GHQによる無償の送還事業から漏れる等して帰国できなかったためである。朝鮮人の集落は日本各地に存在するが、私有地の不法占拠という点でウトロ地区は他の地域と事情を異にする。
日本国際航空工業の合併等により1962年の7月に、ウトロ地区の土地所有権は日産車体工機(現・日産車体)へと移る。1980年代、不法占拠であることを理由として水道管の敷設を認めない日産車体側と、人権問題であるとして水道管の敷設を認めるよう要求するウトロ地区住民側が対立。1987年3月、日産車体が水道管の敷設を認める結果となった。
8255
:
神の子様
:2019/01/31(木) 06:38:31
※新羅民族→志恩さんは、横浜日吉ですね。宇治地区には、ウトロ地区=新羅人部落が、たくさんあるんですね。
日産の本社などは、横浜湊未などにありますね。
フリー信徒式=趣味生長の家方式の新羅人の、偽日本人が、たくさんいる事が、この事から、わかりました。以上!
=
8256
:
シオン観測隊
:2019/01/31(木) 07:31:29
>>8255
〜新羅人と日産〜
2.ウトロ地区問題の推移
2.3.日産への要求
1988年、西ドイツ(当時)の自動車メーカーであるダイムラー・ベンツ(当時)は、第二次大戦中に同社で強制労働に服されたユダヤ人からの補償請求に対し2000万マルクを支払い、同社の自動車博物館の正面に彫刻物を設けた[9]。この事実を知ったウトロ住民は、上京し日産車体と日産自動車に対し補償を要求しようとしたが、面会は拒否された。1993年9月、住民代表は渡米し、ロサンゼルスで北米日産や日本領事館前でデモを行った[10]。
ダイムラー・ベンツは学者に依頼して1994年5月、「ダイムラー・ベンツにおける強制労働者」と称する調査報告書を出版した。その内容は下記の通りである。
ダイムラー・ベンツのルツェツォフ(ジェシュフ Rzeszow、旧称: ライヒスホーフ Reichshof)工場(ポーランド)には、ユダヤ人強制収容所からの労働者が運び込まれ、工場付属の強制収用所に700人が宿営させられた。30人用のバラックに100人のユダヤ人が宿営され、「労働を通じての殲滅(Vernichtung)」への移行の一つの代表例であった。賃金は会社より国防軍当局に支払われ、労働者に直接渡らなかった[11]。
このように、ダイムラー・ベンツが行った強制労働と、ウトロ地区での労働実態には格差があることが判明し、住民たちは1994年以後、日産に対してダイムラー・ベンツを引き合いにして要求することはしていない。
8257
:
神の子様
:2019/01/31(木) 07:39:21
>>8256
シオン観測隊の調べでは、横浜、川崎地区に、フリー信徒→新羅人=半値志恩さんが、住むの、宇治に、フリー信徒が存在するのも、理解できてきました。
日産の今回の話を、盛んしてたわけも、うなずけますね。偽日本人として成り済ましをする、新羅人ならです!
===========
8258
:
神の子様
:2019/01/31(木) 14:04:39
>>8257
志恩さんが、新羅民族だと言う事が、段々わかってきました!
8259
:
蒼天の實相
:2019/02/01(金) 09:45:31
〜ミリンダ王の問い〜
※異端主義、極端主義の間違い。(間違いたヴーガン)
2.内容
2.1.名前と存在
ミリンダ王はナーガセーナ長老とあいさつをかわし腰を下ろしてから、ナーガセーナ長老に名を尋ねる。ナーガセーナ長老は、自分は「ナーガセーナ」と世間に呼ばれているけれども、それはあくまでも呼称・記号・通念・名称であって、それに対応する実体・人格は存在しないと言い出す。
ミリンダ王は驚き、実体・人格を認めないのだとしたら、「出家者達に衣食住・物品を寄進しているその当事者達は一体何者なのか、それを提供されて修行している当事者達は一体何者なのか、破戒・罪を行う当事者達は一体何者なのか」「善も、不善も、果も、無くなってしまう」「ナーガセーナ師を殺した者にも殺人罪は無く、また、ナーガセーナ師に師も教師も無く、聖職叙任も成り立たなくなってしまう」と批判する。更に、では一体何が「ナーガセーナ」なのか尋ね、「髪」「爪」「歯」「皮膚」「肉」「筋」「骨」「骨髄」「腎臓」「心臓」「肝臓」「肋膜」「脾臓」「肺臓」「大腸」「小腸」「糞便」「胆汁」「粘液」「膿汁」「血液」「汗」「脂肪」「涙」「漿液」「唾液」「鼻汁」「小便」「脳髄」、「様態」「感受」「知覚」「表象」「認識」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「ナーガセーナ」なのか問うも、ことごとく「ナーガセーナ」ではないと否定されてしまう。
嘘言を吐いていると批判するミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は、ミリンダ王がここに来るのに、「徒歩」で来たか、「車」(牛車)で来たか尋ねる。「車」で来たと答えるミリンダ王に対し、ナーガセーナ長老は「車」が一体何なのか尋ねる。「轅(ながえ)」「車軸」「車輪」「車室」「車台」「軛」「軛綱」「鞭打ち棒」、それらの「総体」、それら「以外」、一体どれが「車」なのか問われるも、ミリンダ王は、それらはすべて「車」ではないと否定する。
先程の意趣返しのように、ミリンダ王は嘘言を吐いているとからかうナーガセーナ長老に対し、ミリンダ王は、「車」はそれぞれの部分が依存し合った関係性の下に成立する呼称・記号・通念・名称であると弁明する。それを受けて、ナーガセーナ長老は、先程の「ナーガセーナ」も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。
8260
:
蒼天の實相
:2019/02/01(金) 09:48:55
>>8259
〜ミリンダ王の問い〜
※異端派、間違いた菜食ヴーガン主義の思考。
2.内容
2.2.変化と同一性
ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「変化する事物は、変化する前と変化した後で、同一のものなのか別ものなのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「同一でも別ものでもない」と答える。
ナーガセーナ長老は例えとして、ミリンダ王は心身未発達な幼児期の頃と、成人した現在とで、全く同じか問うと、ミリンダ王は「別もの」だと言う。ナーガセーナ長老は、そうして変化によって同一性を否定するのであれば、「母」「父」「師」「技能者」「人格者」「知者」「悪人」「善人」といった通念も全て成立しなくなってしまうと指摘する。混乱したミリンダ王は、一体何が言いたいのか問うと、ナーガセーナ長老は、変化するものであっても、同一の基体に依拠するものとして1つに統合されていることを指摘する。
ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が一晩中燈火を燃やしているとする、その炎は浅夜と深夜と未明とでは同一だろうか。ミリンダ王は違うと答える。では別ものかと問われ、ミリンダ王はそうでもないと答える。「燈火は一晩中、同一の基体に依拠して発光していたので、各段階の炎は即自に同一とは言えないまでも、別ものだとも言えない」と。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ナーガセーナ長老は、「形象の連続継起」としての変化は、「集結・重置」する作用を伴うものであり、同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという「形象の連続継起」は、2つの形象を一定点に「集結・重置」するものであり、それによって、もはや両者は時間とは関係なく同一存在の相を帯びることになる、したがって、「連続継起」した各形象は同一ではないが、「集結・重置」したものとしては別ものではない (と我々の感覚的認識は捉える)と述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。しぼられた牛乳は、時が経つにつれて「凝乳」、「生牛酪(バター)」、「牛酪油」と転化していくが、その事を以て、ある男が、「牛乳は、すなわち凝乳、すなわち生牛酪、すなわち牛酪油に他ならない」と述べたとしたら、正しいだろうか。ミリンダ王は、「牛乳は同一基体に依拠して生成を遂げたのであり、各段階のそれは別ものでなく、また即自に同一でもない」と述べる。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。
8261
:
蒼天の實相
:2019/02/01(金) 09:52:03
>>8260
〜ミリンダ王の問い〜
※異端派、間違いた、菜食ヴーガン菜食主義思考。
2.内容
2.3.輪廻と業
ミリンダ王は、ナーガセーナ長老に、「輪廻転生によって、改組・回帰していくものは、何なのか」と問う。ナーガセーナ長老は、「現象的個体」であると答える。
ミリンダ王は、「それでは今、現にあるこの現象的個体がそのまま改組・回帰していくのか」と問うと、ナーガセーナ長老は、「そうではなく、今、現にある現象的個体の善なり悪なりの行為(業)に応じて、それが介入・影響した別の現象的個体として改組・回帰される」と述べる。
ミリンダ王は、両者が別の個体であるのなら、現世の自分の悪行に、来世の自分が冒されないのではないかと指摘すると、ナーガセーナ長老は、ある個体から別の個体へと改組・回帰が行われる以上、悪行の応報に冒されずに済むことはないと答える。
ミリンダ王に例えを求められて、ナーガセーナ長老はマンゴーの例えを出す。ある男が、あるマンゴーの樹から実を盗む、樹の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「この男が植えたマンゴー樹と、自分がマンゴーを獲ったマンゴー樹は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、苗木段階のマンゴー樹と結実段階のマンゴー樹は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は焚き火の例えを出す。ある男が、冬に暖を取ろうと焚き火をし、消し忘れて立ち去り、他の男の畑を焼いてしまう、畑の持ち主が男を捕まえて王に上訴する、そこで犯人の男が「自分が焚いた焚き火と、この男の畑を焼いた火は、別ものなのだから、裁かれる筋合いはない」と弁明する、この男は裁かれるべきだろうか。ミリンダ王は、焚き火段階の火と野火段階の火は切り離して考えることができないのだから、男は有罪で裁かれなければならないと答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は燈火の例えを出す。ある男が、燈火を持って露台に上り、食事をとっている内に、その燈火がひさしの茅(かや)を焼き、家を焼き、村全体に延焼してしまった、村人達が男を糾弾する、そこで男は「自分が食事のために用いた燈火の火と、村を焼いた火は、別ものなのだから、糾弾される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、村を焼いた火はその男の燈火から出た火なのだから、村人達の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は女の例えを出す。ある男が、ある童女をゆくゆくは妻に迎えようと結納金を納めて去る、後日その女が成人した頃に別の男が結納金を納めて婚儀に及んでしまった、先の男がやってきて、相手の男を非難する、その男は「おまえが結納金を納めた童女と、自分が結納金を納めた成女は、別ものなのだから、非難される筋合いはない」と弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、童女が成長してその成女になったのだから、先の男の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。
ミリンダ王に更なる例えを求められて、ナーガセーナ長老は牛乳の例えを出す。ある男が、牛の飼い主に牛乳を瓶一杯買い求め、明日受け取ると言って預けたまま立ち去る、翌日、牛乳が凝乳に変質した頃にやってきて、牛乳の受け渡しを求め、飼い主がその凝乳を渡すと、男は「自分が買ったのは凝乳ではなく牛乳だ、さあ瓶一杯の牛乳をよこせ」と主張する、飼い主は男が買った牛乳が凝乳になったのだと弁明する、どちらを支持するか。ミリンダ王は、男が前日買った牛乳が凝乳になったのだから、飼い主の言い分を支持すると答える。ナーガセーナ長老は、先程の話も同様であると述べる。ミリンダ王は感嘆する。
8262
:
蒼天の實相
:2019/02/01(金) 11:01:37
蒼天とは雲の上の青い空の事。
それこそが、真佛の国、観世音国。世界の人が示す、天国、實相世界。
全て包み込み、全て有り、全てが無い。只青い清い空。それが、蒼天。
8263
:
蒼天の實相
:2019/02/01(金) 16:38:01
〜六師外道〜
※ヴーガンに、繋がる、仏教とは違う教え。
1.パーリ経典に登場する六師とその思想
アジタ・ケーサカンバリン(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅) - 順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論:幸福に生きよ、死すればすべて無くなるのだから[1]。人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。
パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延) - 不変論(永遠論):物質、喜び、痛み、魂は永遠であり、それらに相互作用はない[1]。七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。
プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那(不蘭)迦葉)) - 道徳否定論者:善行や悪行をおこなうことで、報酬を得ることも罰が与えられることも否定する[1]。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。
マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利) - 裸形托鉢教団アージーヴィカ教(邪命外道)の祖。決定論者(宿命論):私たちは無力であり、苦しみは前もって定められていたものである[1]。
サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子) - 不可知論:私はそうは考えない。そうとも、その他の方法も考えない。間違っているのか、間違ってはいないのかも考えない。判断の放棄[1]。
マハーヴィーラ(ニガンタ・ナータプッタ Nigantha Nataputta 尼乾陀若提子、本名ヴァルダマーナ) - ジャイナ教の開祖。戒律主義:全ての邪悪を避け、浄化し、祝福せよ[1][2]。相対論者。
2.仏教外の視点
なお、「六師外道」というのはあくまで仏教側からの表現であり他宗では、異なった視点で区別しており、結果として同一の思想家が全く異なった位置づけになっている場合がある。例えばヒンドゥー教においては、仏教も含めたこれらヴェーダの権威を否定する諸派閥を、そのなかでもとりわけ仏教とジャイナ教のほうを「ナースティカ」(非正統派, 異端)と呼び、それに対し六派哲学(シャド・ダルシャナ)を「アースティカ」(正統派)と呼び区別している。
また、例えばジャイナ教の信者から見ればマハーヴィーラ(尊称。本名ヴァルダマーナ)は外道ではなく、あくまで開祖である。
8264
:
シャンソン
:2019/02/01(金) 16:54:42
ミリンダ王がやってきた!
8265
:
ミリンダ
:2019/02/01(金) 16:59:26
ずいぶん昔の話ですが、学生時代に全然もてなかった私が誰からもチョコレートをもらえなかったらかわいそうだと、私に同情した後輩の女の子からバレンタインデーに「同情チョコ」をもらったことがありました。実際に他の女の子からはチョコレートをもらうことがなく、うれしかったことを思い出します。
8266
:
トンチンカン信徒
:2019/02/01(金) 19:22:51
>>8265
後南朝天皇国日本の亡霊霊に取り付かれた、日野ボン先生は、バレンタイチョコレートをFacebookで、可笑しいこと、書いてます(笑)
ベルギーチョコの志恩さんに、良く似てきましたね(笑)
若いのに、妄想壁が、凄いです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
8265:ミリンダ
19/02/01(金) 16:59:26
ずいぶん昔の話ですが、学生時代に全然もてなかった私が誰からもチョコレートをもらえなかったらかわいそうだと、私に同情した後輩の女の子からバレンタインデーに「同情チョコ」をもらったことがありました。実際に他の女の子からはチョコレートをもらうことがなく、うれしかったことを思い出します。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
チョコレートは、そもそも、風邪薬等万病の飲み物です。固形のチョコは、近代の話。
日野ボン先生も、勉強不足だね(笑)
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