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「まじめな話」の板

8236蒼天の實相:2019/01/27(日) 00:40:55
>>8235
〜両統迭立、③〜


両統迭立が鎌倉幕府(最高権力者は得宗北条貞時)の公式な方針として表明されたのは、この交替のときが最初である。以後滅亡まで幕府はこの方針を堅持した。王家の分裂を固定化する意図によるものとする説と、皇位継承を王家の自律に任せ直接的な関与を避ける意図によるものとする説とが対立している。両統迭立の定着にともない、一方の皇統に専属的に仕える貴族が出現しはじめ、また治天の側も貴族たちにそれを求めた。王家の分裂が公家社会全体の分裂へと発展してゆくことになった一方、貴族たちの治天への従属は深まった。また、政務の交替とともに朝廷の高官・要職が一斉に入れ換えられ、一方の皇統の治天が下した訴訟の判決が他方の皇統の治天によって安易に覆されるなどの混乱も生じ、朝廷そのものの権威はかえって地盤沈下してゆくことになった。更にこの混乱は幕府へも思わぬ影響を及ぼした。治天が下した判決を執行するための警察力・軍事力を欠いていた朝廷では、六波羅探題にその執行を命じる勅命(違勅綸旨・違勅院宣)を送ってその検断権に基づく執行を命じたからである。この結果、敗訴した側は朝廷に逆らう「悪党」として討伐の対象となり、一方的に「悪党」と認定された側も激しく抵抗した。ところが、治天の交替によって判決がひっくり返されると、今度は対立していた側が同様の目に遭わされた。このため、訴訟当事者たちの朝廷に対する怒りが六波羅探題とその後ろにいる幕府にも向けられた。しかも、訴訟当事者の中に御家人がいた場合でも六波羅探題や幕府は勅命や院宣に逆らってまで彼らを保護することが出来なかった。このため、悪党の活発化や御家人の幕府への不信を招く結果となり、幕府の権威もまた傷つく結果となったのである。
両統迭立の方針に基づき、次の皇太子は持明院統から出すこととされた。13歳の後伏見にはまだ皇子がなく、伏見の第4皇子富仁親王(5歳)が皇太子となった。2つに分裂した王家がさらに分裂する可能性が生じ、伏見は持明院統の分裂を防止するため富仁を後伏見の猶子とする措置をとっている。大覚寺統では、すでに後二条には正安2年(1300年)に第1皇子邦良親王が生まれて将来の皇位継承が予定されていたにもかかわらず、亀山が乾元2年(1303年)に生まれた自分の皇子恒明親王を偏愛するあまり、邦良に代えて恒明を皇位につけることを後宇多と伏見に約束させて、さらなる皇統分裂の種を蒔いた。
嘉元2年(1304年)に後深草が62歳で死去、翌嘉元3年(1305年)には亀山が57歳で死去し、両統迭立は第2世代の時代に入った。それに先立つ正安4年(1302年)、伏見は2年前に死去した室町院より相続した持明院を新たな御所とした。一方、後宇多は徳治3年(1308年)になって大覚寺を再興して自らの御所とした。近藤成一の研究によれば、後深草・亀山両院の存命中はそれぞれ冷泉富小路殿と冷泉万里小路殿を拠点としており、「持明院統」「大覚寺統」の名称の由来となった持明院と大覚寺は自己の系統を新たな皇統として位置づけることに成功した伏見と後宇多という第2世代を象徴する殿舎であったと指摘している。
両統迭立の影響は芸能面にも見られる


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