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「まじめな話」の板
8201
:
蒼天の實相
:2019/01/07(月) 19:16:12
〜紀の氏〜
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.1.名前の由来
紀清両党の「紀」は益子氏の本姓である紀氏から、「清」は芳賀氏の本姓である清原氏からであり、それらの一族で構成されている。
1.概要
1.2.紀清両党の誕生〜鎌倉時代
文治5年(1189年)の時点で芳賀・益子氏は宇都宮氏の郎従として合戦に従っていることが確認されているが、紀清両党がいつ組織されたかは明らかになっていない。
文治5年7月から9月にかけて起こった奥州合戦では、益子正重、芳賀高親が宇都宮朝綱に従い戦功をあげており、源頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られた。このことが後世まで芳賀・益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。
以後も紀清両党は宇都宮氏の筆頭武士団として武を支えた。
1.概要
1.3.鎌倉時代後期〜室町時代
宇都宮氏は鎌倉時代に鎌倉幕府から強大な軍事力を持つ存在とみなされ、度々重用されるほどにまでになっていた。
元弘の乱でも当主宇都宮公綱に従い戦う。益子貞正や芳賀高名(禅可)などが活躍しており、楠木正成は「宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わない」と評し、宇都宮氏及び紀清両党の武勇を恐れ、兵を退いた話は有名である。その他にも天王寺の戦い・千早城の戦いなどで奮戦し、活躍している。
公綱の嫡男宇都宮氏綱が北朝に従った際には、芳賀禅可、益子貞正ら紀清両党も氏綱に従い活躍。前当主の宇都宮公綱とは敵対関係となった。
観応の擾乱で春日顕時に隙を突かれ紀党益子氏の居城である西明寺城や清党の八木岡城を落とされたりしたが、薩?峠の戦いなどで活躍し、足利尊氏の勝利に貢献した。清党の芳賀氏は薩?山体制下で上野国、越後国の事実上の守護代を任されるほどにまでなった。
『太平記』によれば芳賀禅可は清党のことを「東国に名ある武士は多しといえども、弓矢の道において指をさされぬは、ただ我が一党なり」と言い放っている。
しかし体制崩壊後、越後・上野守護代職を奪われたことで激怒した芳賀禅可が上杉憲顕に対してクーデターを起こすが敗北。家臣を多く失い弱体化してしまった。さらに宇都宮氏も徐々に没落し、不遇の時代を迎えることとなる。
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