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「まじめな話」の板

8174蒼天の實相:2018/12/30(日) 23:18:22
>>8173
〜宇治天皇〜

4.記録
4.5.その他
菟道稚郎子について言及したその他の史書は、以下の通り。
『日本後紀』弘仁6年(815年)6月27条[原 4]
仁徳天皇と郎子の話に感動して埋葬を望んだ賀陽豊年という人物に関する記載(後述)。
『日本後紀』逸文天長3年(826年)3月1日条(『類聚国史』所収「渤海使」)[原 5]
嵯峨天皇から淳和天皇への譲位の言及にあたって、仁徳天皇と郎子の譲りあいを引き合いに出した記載。
『続日本後紀』承和7年(840年)5月6日条[原 6]
淳和天皇の散骨の議論に際して、郎子の散骨の伝承を引き合いに出した記載(後述)。
『先代旧事本紀』天孫本紀[原 7]
郎子の出自に関する記載(前述)。
『延喜式』諸陵寮[原 8]
宇治墓(郎子の墓)に関する記載(後述)。


5.宮
菟道稚郎子は菟道宮(うじのみや:『日本書紀』)または桐原日桁宮(きりはらのひげたのみや:『山城国風土記』逸文)に住んだといい、その地は京都府宇治市の宇治上神社(位置)または宇治神社(位置)に比定されている[30]。両社は合わせて『延喜式』神名帳に「山城国宇治郡 宇治神社二座」と記されている式内社で、明治に分かれるまでは一社として「宇治離宮明神」と称していた[12]。
また『山城国風土記』逸文によると、この郎子の宮が営まれたことが「宇治」の地名の由来という。しかしながら前述のように、この記述には疑問が呈されている。
なお『万葉集』には「兎道乃宮子(宇治のみやこ)」という記載が見られるが[32]、これはこの歌を詠んだ額田王が近江に行幸する際に泊まった仮宮を指したものである[33]。


6.墓
墓は、宮内庁により京都府宇治市莵道丸山にある宇治墓(うじのはか、位置)に治定されている[34][15][36]。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「丸山古墳」。



6.墓
4.記録
菟道稚郎子の葬送に関する記載として、まず『日本書紀』では「菟道山上」に葬られたと記載されている[15]。
また『続日本後紀』承和7年(840年)の記事には、郎子は遺命して散骨させたという伝承が見られる[原 6]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』諸陵寮(諸陵式)では「宇治墓」の名称で記載され、山城国宇治郡の所在で、兆域は東西12町・南北12町で守戸3烟を付すとしたうえで、遠墓に分類する[原 8][15]。この12町(約1.3キロメートル)四方という記載は、仁徳天皇の百舌鳥耳原中陵(大仙陵古墳に治定)の8町(約870メートル)四方を大きく上回るものになる。


6.墓
6.2.後世の治定
上記の記録があるものの、江戸時代の時点では墓の所在は不明となっていた。享保18年(1733年)には、『日本書紀』の記述に基づき、古墳が存在していないものの朝日山(宇治上神社後背)の山頂が墓所と見なされて墓碑の建立が行なわれた(位置)[17][38]。上記の丸山古墳に治定されたのは明治22年(1889年)で、以後現在まで宮内庁の管理下となっている。この地は宇治川東岸にあり、明治以前は「浮舟の杜」と呼ばれる円丘であった。これは「山上」とする『日本書紀』の伝承とは異なるという指摘もあったが、前方後円墳状に成形されて「宇治墓」とされた[15]。
また上記の治定の際には、付近の小墳が賀陽豊年という人物を埋葬した陪塚と定められている[15]。賀陽豊年は、『日本後紀』弘仁6年(815年)の記事にその死に関する記載がある人物である。その中で、豊年は宇治に居た時に仁徳天皇と菟道稚郎子の話を聞いて感動して「地下之臣」になることを望んだといい、勅により「陵下」への埋葬が許可されたと記されている[原 4]。陪塚の治定はこの記事の「陵」を郎子の墓にあてたことによるが[15]、一方で仁徳天皇の陵とする解釈もある[39](通常「陵」は天皇陵、「墓」は皇族墓を指す)。
郎子が散骨されたという伝承に関しては、前記した『続日本後紀』で中納言クラスの藤原吉野が把握していることが見えるものの、それ以外の史書には記載がなく真偽は明らかではない[20][41]。記事中では、郎子が自身の散骨を命じて「後世之に倣う」と記されているが、これを「後で命じられた通りにした」と解する見方[42]と「郎子を流例として散骨が広まった」と解する見方[20]がある。
なお、持統天皇5年(691年)には有功の王の墓には3戸の守衛戸を設けるとする詔が見えることから、この頃に『日本書紀』・『古事記』の編纂と並行して、『帝紀』や『旧辞』に基づいた墓の指定の動きがあったと推測する説がある[23]。またその際には、日本武尊墓(伊勢)・彦五瀬命墓(紀伊)・五十瓊敷入彦命墓(和泉)・菟道稚郎子墓(山城)をして大和国の四至を形成する意図があったとする説もある[23]。


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