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「まじめな話」の板

8186蒼天の實相:2019/01/02(水) 22:25:30
>>8185
〜下毛野氏〜

2.出自
2.2.考古資料による考証
毛野地域(群馬県・栃木県南西部)には古墳時代に多くの古墳が築かれたが、下毛野地域においては5世紀末から6世紀に小山市北部において最大規模の摩利支天塚古墳(墳丘長121メートル)と琵琶塚古墳(123メートル)が築かれた[5]。
代わってやや北方の壬生町南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた[15][5]。これら下野型古墳が下毛野氏一族の墓と解されている[16]。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち、円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される[5]。
古墳群北東の下野薬師寺は下毛野古麻呂による氏寺としての建立と伝わることからも[17]、当地と下毛野氏の関係の深さがうかがわれる。また、古墳群付近には下野国庁や下野国分寺・国分尼寺も建立されており、一帯はのちの下野国においても中心地であった。


3.歴史
史実としての国史の初見は天武天皇13年(684年)11月で、八色の姓において他の52氏とともに「下毛野君」に朝臣の姓が授けられたという記事である[18]。
一族としては下毛野古麻呂が特に名高く、『大宝律令』撰定に従事したことが知られる。また、大学助教であった下毛野虫麻呂が『懐風藻』に漢詩を残しているように、学問的活躍が目立っている[1]。
しかしながら以後は中央の中・下級貴族にとどまり[9]、10世紀以降は近衛府の舎人や院・摂関家の随身としての活躍が見られる[10]。摂関家とは藤原道長の頃から結びつきを強め、家人として供奉・警固の任にあたった[10]。その関係で馬術・鷹飼・舞楽・調理に優れ、厩所・随身所・雑色所の長を務め、荘園の管理も行なっていた[10]。
その後も山城国乙訓郡の調子荘を本領として任にあたっていたが、室町時代中期以降衰退したという[10]。


4.主な下毛野氏
4.1.人物
下毛野石代 - 従五位下。下毛野川内朝臣に改姓。また征夷副将軍に任じられる。
下毛野虫麻呂 - 大学助教。『懐風藻』に漢詩が残る。
下毛野多具比 - 従五位上、遠江守。
下毛野稻麻呂 - 従四位下。
下毛野公時 - 近衛舎人、番長、藤原道長の随身。童話「金太郎」のモデルとなったとされる[11]。
他氏出身


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