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「まじめな話」の板

8239蒼天の實相:2019/01/27(日) 03:26:39
〜坂上宝剣〜
概要
坂上宝剣(さかのうえのたからのつるぎ)は、日本の天皇に相伝される朝廷守護の宝剣(現在は所在不明)。坂上宝剣の呼び名で知られるが、正しい銘文は「坂家宝剣」である[1]。文献によっては田村将軍の剣[2]、敦実親王の剣[3][4]などとも記されている。
醍醐天皇が外に持ち出したとき、石突が抜け落ちて紛失したが、それを犬がくわえて持ってきたという故事がある。また雷鳴により自然に鞘から抜けると伝わる。


1.概要
坂上宝剣は天皇に相伝される護り刀で、朝廷の守護刀として坂上田村麻呂より伝わった御佩剣という[2]。
西園寺公衡が『公衡公記(昭訓門院御産愚記)』に乾元二年五月九日付(西暦1303年)で記述したこの刀剣の説明およびその裏書によれば、田村将軍剣は刀身の一方に「上上上 不得他家是以為誓謹思」、もう一方に「坂家宝剣守君是以為名」と金象嵌の銘が刻まれていたという[5]。刀身は「鯰尾の剣で、鮫柄・銀の鐔・平鞘・白銀の責・石付、黒地に胡人狩猟図を金に蒔く」とあり「頗古物宝物歟」とされる[6]。


2.関連する出来事
2.1.平安時代
征夷大将軍坂上田村麻呂の死後、その死を惜しんだ嵯峨天皇により田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を御府に納めたとされる[7]。
『富家語』では、関白藤原忠実の談話として連続する二条に見られる。前条で忠実は「藤原師実の御車に乗ったとき、乗り方が悪く御剣を敷いて折ってしまったため、もっての外に貧窮がたなと仰せられた。この貧窮刀は今も手元にある」[8]と語っている。続いて「式部卿敦実親王の剣を持っていたが、白河上皇からお召しがあって献上した。今は鳥羽の宝蔵に伝来しているだろう。この剣は醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突がなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突をくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、自分が知る限りは未だ無かった。師実は抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた」と続く[9][8]。忠実の談話は貧窮刀と坂上宝剣という2つの剣に関わる話題として対照的だが、どちらも失錯にまつわる説話である。また、いずれも師実が伝来に関わっており、忠実のもとに剣が至ることが共通している。
『古事談』では、『富家語』の記述を受けながらも微調整や再構成を行って、異なるテーマとして説話を描き出している。「醍醐天皇が野行幸のときに腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので殊に興じて歓喜した。敦実親王は自ら肌身離さず持っていた。雷が鳴るときは自然に脱ぐという霊威を示したという。霊剣の評判を聞きつけた白河上皇は藤原師実から召し上げたが、その後に自ら脱ぐことはなかった。藤原忠実が若いころに不審に思ってある者に抜かせてみたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣という銘があった」[3][11]。『古事談』では時系列が整えられて敦実親王を中心人物とし、『富家語』にはない文言を追加することで談話をひとつの物語へと改編している[10]。
『古今著聞集』になると「この剣は醍醐天皇が野行幸の時に腰輿の御剣として持ち出され、石突きがなくなったが、岡の上にて「皇室伝来の剣であるのに」と嘆いていると、犬が石突きをくわえてきて元に戻ったので喜んだという高名な剣である。雷が鳴るときは自然に抜けるという霊威を示したが、今の世には知らず。師実は畏れて抜くべからずと仰せたが、不審に思ってある者に抜かせたところ、峰には金象嵌で坂上宝剣と書かれていた。藤原忠実に伝えられたが、白河上皇により召されたという。式部卿敦実親王の剣という」[4]。と『古事談』で追加された文言は削られて『富家語』に近い説話となっている[11]。


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